語学論の過激派
知識だけではどうにもならない
世の中には英語をどのように学習すべきかを説いた本が非常に多くあります。選択に困るほどあります。かく言う私も『英語どんでんがえしのやっつけ方』(小学館文庫)という本を書きました。
<小学館へのリンク>)(書名検索欄に「エイゴドンデン」とカタカナで入力すれば注文できます)
ハウツウもの以外にも、日本人はこんな場合にこんなふうに言いがちだが、ネイティブはそういう言い方はせず、実際はこう言うのだという例を羅列する本も非常に多くあります。これもあふれかえっているといっていいくらいです。
これを書いている現在は2000年後半、あとふた月で2001年という時点ですが、この現在において、書籍のジャンルで最大のものは、英語関連とコンピュータ関連ではないでしょうか。この二つの分野は非常に肥大しました。それは本屋さんの書棚を占める面積を見ていれば実感できます。
本屋さんの店頭で呆然としながら思うのは、これだけの数の本の中で、実際に使われて役にたっていく本はどのくらいあるのかということです。つまり、本を買って、実際にものにする人がどれほどいるのかということです。
本屋さんに行ってコンピュータの本を買ってきて、実際にコンピュータを操作できるようになる人と、英語を勉強しようと思って本を買ってきて、英語をものにする人を比べてみたらどんな結果が出るでしょうか。
これは実際には調査不可能です。ここでは推測を言うことしかできませんので、推測を言ってみます。
コンピュータの本を買ってきて、実際にコンピュータを操作できるようになる人の方が、英語の本を買ってきて、英語を使えるようになる人よりははるかに多い。圧倒的に多いだろう。それが私の推測です。
それどころではない。英語の本を買ってきて、実際に英語をものにする人は、「きわめてまれ」だと言っていいくらいだと推測しています。別の記事で、私は百人に一人もいないだろうとも書きました。
なぜなのでしょうか。
コンピュータは、知識を仕入れれば、それですぐに操作できます。知識が間違っていなければ、あるいは知識を適用する場所が間違っていなければコンピュータは使えます。あるいは、本を見ながら操作するのでもコンピュータは使えます。
英語は、知識を仕入れても使えるようにはなりません。知識には、英単語や熟語を覚えて獲得した知識も、理解するのに必要な文法的な知識も含まれますが、それらをどれだけかき集めても、英語は使えるようになりません。知識が知識のままである状態では、英語は使えるようにならないのです。
これがコンピュータの知識と英語の知識がまったく異なるところです。
英語の本のほとんどは、知識を羅列したものです。あるいは知識を解説したものです。その種の本ならあふれかえっています。しかし、英語というものをどうやるのか、つまり語学というものにもぐりこんで、内在的に語学をとらえようとする本があまりありません。これほど英語関連の本があふれかえっているにも関わらず、語学を内在的にとらえようとする本が少ないのです。ほとんどは知識の羅列か体験談レベルの本であり、語学を理論化しようとするものがありません。
私が小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」という本を書いたときに考えていたことも同じことでした。英語のやり方を書くのであれば、私は実際にこうして成果をあげたということを書くだけでなく、語学を内在的にとらえ、語学の本質とでもいうべきものに言葉を届かせることができなければ駄目なのだと考えていました。それがあの本で果たせたのか果たせなかったのか、今も結論は出していませんが、本を書いているときの意気込みとしては、日本に払底している語学論を立ち上がらせたいということでした。
日本に払底しているのはまともな語学論です。そのために日本人は英語で損をし続けているのです。あるいは、英語をやることの日本中の総エネルギーが無駄に下水に流れてしまい、日本語を強めるという反作用が生まれてこないのです。
小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」で書いたことを、もっとも簡単な言い方をしてしまうと次のようになります。
「知識ではない。イメージだ。」
知識が知識のままでいるかぎりは、英語はいつまでたっても使えるようにならない。イメージが生きて動くのでなければ駄目だ。それがあの本で言ったことです。
小学館文庫を出してすぐに、ある方から小池隆さんに文庫を送付して読んでいただくようにとの助言をいただきました。送付する際に、ご感想を聞かせていただけたらうれしいという旨を書いたものを同封したところ、しばらくして小池さんから感想をいただきました。(小池さんは、財団法人東京海上各務記念財団の第9回懸賞論文に「日本人と外国語 外国語を学ぶ目的と方策」を応募され受賞された方です。)
(小池さんが私の本に対して書いて下さった感想の全文は、私のホームページに掲載されています。<リンク>)
ここでは、部分的に引用させていただきます。
英語の持つ汎用性とその土地固有の
言語に対する認識も堂々たる見識です。
感服しました。またイギリス娘との文化
論争もよくわかります。最後の「語学の
言語は語学の言語、生活言語は生活言語」
の概念規定は重要です。もっと声を大に
して仰ってください。
「第1部」
「はじめに」・・・正直言って言葉の
過激さに驚きました。「やっつける」
「殺す」「みな殺し」等々、なるほど
「喧嘩」かねえ・・と。(略)「上達の
方法」を認識の対象とする筆者の意気込
みを感じさせます。
(略)
「みな殺し電圧」・・・またまた恐ろし
い(笑)。意識の強さ、言いかえれば目
的意識の強さ、あるいは「志」がないと
単語は記憶媒体としての我々の肉体に刻
印できません。
(略)
「理解」p38末尾。・・・理解の構造
とでも言ってよい。こういう認識能力の
ある筆者から「みな殺し」という言葉が
出るから時々面食らう。
小池さんは私の本を非常に好意的に読んで下さったのですが、ここでは小池さんが違和感を抱いたものが明らかになるように(略)を使って引用してみました。
確かに私の本には、「みな殺し」「みな殺し電圧」「やっつける」「殺す」「喧嘩」などの語が多用されています。これは私が、語学は意識の激化ではあるが、学問ではないと考えていることによるのかもしれません。(学問をもっとも広い意味で「学ぶこと」と同義にとれば、もちろん語学も学問だと思いますし、だからこそ語「学」というように「学」という字が使われているのだとも思います)
語学が学問であるかどうかはともかく、「殺す」「やっつける」「喧嘩」などの語の多用の理由は他にもあります。
「知識ではない。イメージだ。」
「殺す」「やっつける」「喧嘩」などの語で語学を語らなければならないのは、おとなしくお勉強なんかしていても、「イメージ」が生け捕りにできないからです。それが理由です。生きて動くイメージ、その動きこそが語学を内在的にとらえた場合の語学です。しかも、そのイメージを強く動かすことこそが、語学の初心者がどうしても避けて通れないことなのです。
私は、やたらにアクの強い言葉を使って人の注意をひこうとしたのだとは思っていません。実際に「殺す」のでなければ、実際に「喧嘩」し「やっつける」のでなければ語学はものにならないと考えているのです。
知識にとどめておいては駄目だ、生きて動くイメージを立ちあがらせるのでなければ・・・そう言いたいあまりに、あれらの「過激」な言葉になっているだけだと自分では思っています。
もう自認しております。語学論においては、私は「過激派」です。これを生み出したのは日本の英語教育界の閉鎖性以外のものでないことははっきり言っておかなければならないことです。
英語は知識を知識のままにとどめておいたのでは駄目なのです。その駄目な実例なら日本中にごろごろしています。穏健に英語をやった結果が、日本全土に英語の死屍累々です。それが現実です。
いわゆる受験英語、いわゆる学校英語。知識を知識のままにとどめてしまったために使えない英語をつかまされてしまった無数の日本人たち。
知識でいいのだと文部省に言われて、はいそうですかなどとおとなしくしている必要はない。いや、文部省も「知識を知識のままにとどめておけ」とは言っていません。「運用能力」だのなんだのと言っています。しかし、そこに具体的な方策が何かあるかと言えば、何もありません。文部省こそはでくのぼうです。文部省もそこから金の出る御用英語学者もぶちのめさなければ、日本の英語はできません。
これまでの日本の英語は、実は英語ではないのです。あれは「英語のようなもの」「英語もどき」「疑似英語」と呼ばれてしかるべきものです。
読む場面であれ、書く場面であれ、あるいは、話す場面であれ、聞き取る場面であれ、いずれの場面においても(あるいはいずれかの場面において)、「使える」のでなければ、それは英語ではありません。
日本人は英語を話せないが読むことはできると長いこと言われてきました。実は私はこれを疑っています。読む場合でも、英語のリズムで、英語のシンタックスのままに読める人は非常に少ないと考えています。いちいち日本語の単語を媒介にしたり、目を右から左に動かして読む必要がある人は、実は英語は読めていないのです。英語が読めるかどうかは、視線の動きを自分で自覚すればわかります。目を左から右にだけ動かして内容をつかんでいける人は英語が読める人です。それ以外は、英語が読めない人です。
一流大学の入試に合格できる人が必ずしも英語が読める人ではありません。
確かに、話せないが読める人はいます。しかし、非常に非常に少ない。ほとんどの人は、パズルをいじるように英語をいじるだけです。その証拠は視線の動きが右から左に戻ることです。
英語を知識にとどめて、英語でないものにしてしまった(されてしまった)人の群れ。それが、内在的な語学の視点からみた日本人であり、日本の英語の現状です。
知識では駄目なのです。知識は絶対に必要ですが、知識をいくらかき集めても英語にはなりません。
日本全土に英語の死屍累々。この状況をどう切り開くか。これに関しては、すでに実験は開始されています。「電話でレッスン」という電話を使った一対一の語学講座を開設し、福岡、山口、奈良、滋賀、名古屋、東京、千葉の各県におられる生徒さんを相手に実験をしています。その実験の途中経過は、私のホームページの「メールでアドバイス」というページでお読みいただくことができます。
(メールでアドバイス<リンク>)
再度言います。
知識は絶対に必要です。理解も必要です。
しかし、知識が知識のままでいたのでは、英語は英語でないものになってしまいます。
眼目は「知識(理解)」の圧縮と「音づくり」です。
理解は圧縮されて、一瞬のセンスとなって動かなければ駄目です。理路をたどっただけの理解は使いものになりません。
(「音づくり」に関しては、「音づくり再説」をお読み下さい。<リンク>)
(「知識(理解)の圧縮」については、「リスニング成立の可否」をお読み下さい。
<リンク>)
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