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リスニング成立の可否




 最近、映画のビデオを使って英語を鍛えることを始めました。「映画でリスニング」という講座名でホームページ上に案内を掲載してあり、福岡、奈良、滋賀、東京に生徒さんがいます。生徒さんの練習の相手をするだけでなく、自分でも練習していますが、それをやっていてすぐにはっきりわかったことがあります。

 知らないものは聞き取れない。あまりにも単純な原理が成立してしまうので、びっくりするほどです。

 単語でも、熟語でも、語法でもなんでもいいのですが、とにかく知らないものは聞き取れません。そういうものはいくら長く聞いていても聞き取れません。これがリスニングの否定的原理です。

 日本在住のままヒアリング能力を成立させるのは難しいことなので、まずは否定的に原理を定立させることは絶対に必要なことだと私は考えています。

 知らないものは聞き取れません。

 リスニングに上達するために、英語を聞く時間の長さを問題にしている講座があります。アルクがやっている「ヒアリングマラソン」のようなものが代表的なもので、これは千時間英語を聞けば英語が聞き取れるようなことを言っています。他にも教材のテープやCDを聞き流しているだけで「自然に」英語が聞き取れるようになるといううたい文句で、新聞に全面広告を打つような講座がいくつもあります。

 これらの広告が原理とするものは実は嘘です。いくら長く聴いていても、いくら英語の音用に耳を作っても、知らないものはいつまでたっても聞き取れません。知らない単語が含まれていたり、知らない語法が含まれているものは、いくら時間をかけても駄目なのです。
 「聞き取れる」ということは、理解をともなっているものです。「知らない」ということは、理解以前の問題です。理解以前の問題をはらんだ文が聞き取れないのは当然と言えばあまりに当然です。

 知らなければ知ればいい。理解がともなわないなら理解すればいい。小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」で書いたのは、そのための方法です。眼目はイメージ化、イデア化ですが、詳しくは小学館文庫を参照して下さい。

 その場合の「理解」ですが、理路をたどっているレベルの理解はまるで使い物になりません。入試の試験問題を正解するとか、文法的に解析するとかは、理路をたどっているレベルの「理解」です。このレベルの「理解」はあまりにも遅くて、リスニング時にはまったく使いものになりません。人と話をしている時に、文法など考えている暇はないのです。

 ですから、「理解」を二つに区分けしなければなりません。

1.理路をたどっている「理解」。あるいは理路をたどって得たばかりの「理解」。

2.なじんで(慣れて)しまっているために、無意識化されている「理解」。

 この二つは質がまるで違います。別物といっていいほどに、現実の中で働きが違います。
 ネイティヴな言語の獲得では、幼児は、「1」から「2」に至る過程をたどります。その過程そのものは意識的なものではありませんが、「1」だけにとどまるということがなく、必ず、しかも自然に「2」にまで至ります。
 あるいは、ネイティヴな言語の獲得過程では、「1」を通るということさえないのかもしれません。最初から「2」の「なじむ」行為、「慣れる」行為、「無意識化」される行為だけが継続するのかもしれません。
 ネイティヴな言語の獲得過程は、かなりな部分を無意識に負っています。あるいは(人間という生き物の)自然に負っていると言っても同じです。

 語学は、この「1」から「2」への過程をあくまで意識的に行うことです。ですから、もっとも簡単な言い方をしてしまえば、語学とは意識的に無意識を作ることです。

 いずれにせよ、はっきりしていることは、「1」の理路をたどる「理解」までにとどまった場合は、英語のリスニングもスピーキングも絶対にできないということです。しかも、語学では、絶対に「1」を通る必要があります。「1」がくせものなのです。

 映画のシナリオの字を見せられると、こんな簡単な文が聴きとれなかったのかとびっくりすることもあります。これは、「2」の「なじみ(慣れ)」の欠如の問題です。

 「映画を楽しむ」という行為と、「シナリオを素材として語学をやる」という行為とが分離可能であり、分離させる必要があるのは、「語学」という全体の中に、「映画を楽しむ」という行為を繰り込んだ場合です。その逆ではありません。

 「映画を楽しむ」という行為に「語学」を繰り込もうとしても、一部の耳慣れた言い回しが聴きとれるだけで、語学的にはほとんど前進はないでしょう。
 もし、「映画を楽しむ」ことがそのまま「語学」を成立させるなら、私がわざわざ「映画でリスニング」というレッスンをしなくても、世の中の映画好きな人たちはどんどん語学的に上達し、多言語のネイティヴがぞくぞくと誕生するはずです。
 そんなことは起こりません。
 映画はあくまで擬似的な磁場しか形成することができず、ネイティヴな磁場を作ることは決してできないことがその理由です。映画は中級者以上の人にとって、最上の語学教材となることは確かですが、磁場としては擬似的なものですから、いくら映画が好きでも英語をしゃべるようにも聞き取れるようにもなりません。映画が作り出す擬似的な磁場はあくまで語学教材に転用可能なだけです。

 語学を全体とし、その一部として「映画を楽しむ」ということを繰り込んだ場合に、映画というものはリスニングの教材としては抜群の教材になります。他に類を見ないほどリスニングの教材として適しています。

 再度、理解の二種類を掲げます。

1.理路をたどっている「理解」。あるいは理路をたどって得たばかりの「理解」。

2.なじんで(慣れて)しまっているために、無意識化されている「理解」。

 「1」の「理路をたどる理解」は語学では絶対に必要です。
 文法不要論者というものは、妄説を垂れ流しているだけだということは、言語の磁場の有無という観点を提示することではっきりします。

 英語の磁場が欠如している場所で、文法なり「理路をたどる理解」を媒介にせずに英語がものになると思っているような人がいたら、喧嘩の相手になりますので、メールを下さい。

 「理路をたどる」ことは絶対に必要ですが、理路をたどるだけの「1」のレベルにとどまっては駄目です。
 たどるべきものは理路だけではありません。「理路」から「なじみ(無意識化)」へとたどる道が不可欠です。

 「1」の理解は「遅い理解」、「2」の理解は「速い理解」とも言えます。この速度の違いだけを見ると、まるで別種の二つのものと見えるほどに違いますが、実はへその緒はつながります。あるいは、へその緒はつながらなければ駄目です。「1」から「2」へへその緒をつなげることに失敗してきたのが日本人の大多数の英語です。

 日本の受験英語が使える英語にならないというのは、ほとんどの受験生が「1」のレベルの理解にとどまるためです。「1」のレベルの理解でも試験で得点することはできます。そして、受験生にとっては試験で得点することだけが切実なので、「知識」や「理解」を「なじみ(無意識化)」のレベルに持ち込むことをやりません。つまり、「2」のレベルに至らない英語ばかりが日本中にごろごろしているのです。
 日本全土に英語の死屍累々と私は言ってきました。

 この状況に突破口を開くには、必ず「音づくり」を伴って、「理解」や「知識」を「2」のレベルに持ち込むことが欠かせません。あるいは、「音づくり」を伴ってどころではなく、「音づくり」そのものの過程において、「理解」や「知識」が受肉されなければなりません。つまり、「音が理解として受肉される」ことと、「理解が音として受肉される」ということが起こらなければなりません。その両方を「音づくり」という過程の中で行わなければ、日本在住のままに使える英語を作ることも、それを維持することもできません。

(「音づくり」に関しては、「音づくり再説」をお読み下さい。<リンク>)

 「理解」が一瞬のセンスとなって動かなければ、ヒアリングは成立しません。いくら耳を英語の音に慣らしても、「煮詰められた理解」=「センス」が動かなければヒアリングは成り立ちません。逆に、いくら理路をたどって理解ができていても、それが「なじみ」となり無意識化されていなければ、やはりヒアリングは成立しません。

 受験英語は役に立たないという定説があります。確かに、「英語でしゃべる」とか「リスニング」とかいう場面では受験英語は使い物にならないことが多いのですが、受験英語が英語の基礎を作るのに無効かといえば、決してそんなことはありません。もう一度、二つの別種の(別種に見える)「理解」をここに置いて考えてみましょう。

1.理路をたどっている「理解」。あるいは理路をたどって得たばかりの「理解」。

2.なじんで(慣れて)しまっているために、無意識化されている「理解」。

 受験英語の長文読解の場合を例にとると、英文を英文の構造のままに読んでいない場合が多いのです。しょっちゅう目を右から左に動かして英文を読んでいるレベルで大学に入り、その後英語を放置する人は非常に多いのですが、これでは、構文的知識や文法的知識が「2」のレベルに至ることはありません。
 もしも、受験英語のレベル「1」を磨き、「2」に持ち込むことができるなら、受験英語は非常に役に立ちます。しかし、そのためには大学の英語の入試のやり方を変えなければ駄目です。また学生は大学生になってからも英語をやり続けなければ駄目です。

(受験英語に関しては「受験英語はすごく役に立つ」をお読み下さい。<リンク>
(大学入試に「音読」を導入すべきだということについては、「音づくり再説」というタイトルのページに書きましたのでお読み下さい。<リンク>

 日本の学校英語の犠牲者を食い物にする商売は今日立派に繁盛しています。
 教材のテープやCDを聞き流しているだけで「自然に」英語が聞き取れるようになるといううたい文句で、新聞に全面広告を打つような講座の広告が原理とするものは、「時間の長さ」であり、「自然に(慣れて聞き取れる)」です。「時間の長さ」も、「自然に」も嘘です。
 「時間の長さ」や「自然に」が有効なのは、英語が作る英語の磁場の中においてだけです。日本にはこの磁場がないのです。そこでは、「時間の長さ」や「自然に」は決してヒアリングやスピーキングの能力を作るための決定因にはなりません。

 決定的なのは、磁場の有無です。磁場の有無がどこにどのように作用しているかを明らかにしないかぎり、日本人が最初にやるヨーロッパ系の言語である英語のまわりには惨めな意識が絶えることはないでしょう。
 磁場の有無が何にどう作用するのかは、語学をやる意識においてしか明らかになりません。(また、私もそれに言葉を与えようともがき始めたところです。)

 磁場の有無が何にどのように作用するかを明らかにすること。それも語学の一分野として育つべきです。現在の日本の英語をとりまく言説から払底しているものの一つです。

 生活言語と語学の言語とはまったく異なるものであり、生活言語は生きた言語だが、語学の言語は死んだ言語だということを私が主張したために、ある人と言い合いになりました。私にとって自明のことが、なかなか人に通じません。話せばわかるというものではありません。いくら言ってもわからない人にはわからない。

 語学の言語が死んだ言語だということがどうしても納得できないということは、その人の語学に対する認識が閉じているためです。「生き生きとした表現」だのなんだのを信仰する人は、一見開明的に見えますが、実は認識を閉ざしてしまっています。

 生活言語において、同一の文を繰り返し言い続けるような行為がどんなに異様なことかを考えてみていただきたい。語学において当たり前のことが、ただちに異様なものになる場所が生活の言語です。語学をやろうとする人はこのことを一度はきちんと踏まえるべきです。

 語学というのは死体をもてあそぶような不届きな行為であり、死体をもてあそんでいるうちに、死体が生き返って息をしたりするのを目撃するような異様な行為です。この異様な行為を異様であるとも思わずにやっているのが人間という異様な生き物です。

 逆に言えば、語学の言語は死んだ言語だから、たんともてあそばなければ駄目なのです。たんともてあそぶとは、初見の語がはっきりとイメージとして立ち上がるまでつきあうとか、同一の文を繰り返し繰り返し言い続けるとか、語学特有の行為を意識的に激化することです。そのように激化することで、死んでいるものが息を吹き返すのです。その中心にある方法は、「反復」です。

 語学の成果は、ミイラが踊り出すようなことです。

 この異様といえば異様な行為を語学が要請するのは、私の定義では、語学が「当該の言語的磁場を欠いた」場所で行われる行為であるからに他なりません。

 英語で外人と話すこと。そのこと一つを語学の成果のイメージとしている人には、磁場の有無が何にどのように作用していくかを明らかにすることなどはどうでもいいことと思われるかもしれません。
 磁場の有無に無自覚であっても、一度獲得した「音」だけは維持できますが、英語のシンタックスは確実に錆びていきます。そして、さらにそのことに無自覚でいれば、単に「発音のきれいな人」に終わります。
 磁場の有無の作用に関しては語学だけが明らかにできます。このことばかりは、語学的に知る他はありません。語学が語学を超え出ることがあるとするなら、この種の知見によってです。

 語学は語学を超え出るべきです。どこへどのように超え出るのかはともかく、出るべきです。それは必ず何らかの文化の果実となるはずだ。そういう予想を私は、語学をやる人たちに向けて置いておきたい。とことん語学をやれば、語学は語学を超え出てしまう。
 それが批評になるのか、詩になるのか、絵になるのか、エッセイになるのかは人によりますが、いずれにせよ、日本語の磁場に新たな富をもたらすことになります。

 語学がぺらぺらしゃべるためのものだけであってたまるかと思い続けてきました。語学の沃野にあるものはそんな貧しいものだけではない。

 ここでもまた、私は「語学」の定義をしなければなりません。私にとっての「語学」とは、「当該の言語が形成する言語的磁場を欠いた場所で、当該の言語能力を作ること」です。
 面倒な言い方ですが、平たく言えば「日本人が日本で英語をやること」こそ典型的な語学です。あるいは、「アメリカ人がアメリカで日本語をやること」でも同じです。
 日本の例で考えてみましょう。日本には英語の磁場がありません。その磁場のないところで英語をやること。これこそがもっとも語学らしい語学です。
 アメリカに渡って英語の磁場の中で英語をやることは、語学としては二流の語学です。語学のきつさは緩和され、口は非常になめらかに回るようになりますが、口がなめらかに回るようになればなるほど、日本語が衰えていきます。あるいは日本語の感覚が変質していきます。
 アメリカに渡って、英語の磁場に囲まれて英語の力を獲得することは、スポークン・ランゲッジに応酬する能力を得るには非常に有利です。しかし、これで非常に多くの人が、日本語の能力を衰えさせ、次第にアメリカ人が考えるように考えるようになっていきます。アメリカ人がしゃべるようにぺらぺらに英語をしゃべるようになる日本人は、日本語によって培われたなにものかを失うことによってその能力を手に入れます。その「なにものか」をはっきり言うことは難しいことですが、英語をぺらぺらしゃべることで日本人から失われるものは確実にあると私は思っています。その結果として手に入れるぺらぺら能力は、「語学として二流」だと思っているのです。
 言語駆使能力が一流であることと、語学としての行為が一流であることとはまるで一致しません。むしろこれらは裏腹の関係にあります。語学としての行為とは、「渡る」行為そのものであり、絶えず「渡る」行為の持続として存立します。言語駆使能力が一流である(英語をぺらぺらしゃべる)ということは、「渡る」行為ではなく、「渡ってしまった」行為です。「渡る」という過程ではなく、「渡ってしまった」という結果を得てしまっているのです。

 「渡ってしまった」人が日本に帰ってくると結構惨めです。英語ネイティヴを伴侶として連れてくるならともかく、一人で「渡ってしまった」人が、一人で日本に帰ってくれば、帰ってきたその日から英語の骨(シンタックス)が溶け始めます。

 日本語は英語に対する強力な酸です。ですから、日本語の磁場で生活しはじめたとたんに、英語はどんどん錆び付き始めます。

 言語駆使能力が一流である人はアメリカに住む方がはるかに楽です。しかし、アメリカに住んでいても、英語をしゃべることを誰も珍重してくれません。
 翻って、日本にいて英語をやっている人のことを考えてみると、語学としての行為は一流であるにもかかわらず、言語駆使能力が二流・三流である人が多いのです。
 語学としての行為自体が二流・三流の人は、当然のこととして言語駆使能力は四流・五流になります。あるいは、四流・五流もおぼつかないことになります。

 これらはひとえに磁場の有無の問題です。個人の能力に還元しても、還元しきれないものが必ず残ります。

 さて、リスニングをどう成立させるかに戻りましょう。
 問題は練習に費やす時間の長さではありません。練習の質こそは先立たなければいけないものであって、その質をどう確保するかを具体的に言えなければ語学論とは言えないでしょう。

(私は私なりのものを提示してあります。小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」をお読み下さい。)

 アルクに限らず、詐欺めいた新聞の全面広告がよくあります。大金のかかる広告を打ち続けられるのは、世の中にはこの種のものにだまされる人がたくさんいるということの証拠です。そうでなければ、全面広告を打ち続けるお金はどこからも入ってこないはずですから。
 「時間の長さ」や「自然に」ということは嘘ですが、それでもこの種の嘘が絶えることがないのは、日本人のリスニング能力への渇望が絶えることがなく、英語をなんとかしようと思う人の数が増えこそすれ減っていかないことにあります。

 実は、日本在住のまま英語をものにするのは、細く険しい道です。

 よく周りを見回していただきたい。日本在住のまま英語が聞き取れるようになり、英語がしゃべれるようになる人は、実は百人に一人もいません。何百人に一人なのか、何千人に一人なのか、正確な数字はわかりませんが、少なくとも百人に一人いないことは確かです。

 再説します。
 リスニングの成立条件は、否定的に定立させる必要があります。

 自分の中にないものは聞き取れない。

 このように否定的に言うことによって、初めてリスニングの成立条件が定まります。自分の中にないものは聞き取れないのであれば、自分の中になかったものを入れればいい。知らなかったことを知ればいい。つまり、インプットすればいいのです。それがまず最初にすべきことです。このことは、スピーキングについてもまったく同様に言えます。

 「理解」も「インプット」も、それらを錆び付かせないでおくためのメンテナンスも、すべては「音づくり」の過程において行うべきです。必ず「通じる音」として「音づくり」すべきです。

 自分の中にないものをしゃべることはできない。これはリスニングでも同じで、自分の中にないものを聞き取ることはできません。

 入れてないものは出てこないと言い換えてもいいでしょう。知らない単語や語法をしゃべることができないことは、まるで自明のことです。単語もイディオムも語法も、自分の中にないものは、リスニングもできなければスピーキングもできません。リーディングもライティングも、とにかく自分の中にないものを使うわけにはいかないのです。

 リスニング、スピーキング、リーディング、ライティング、それらすべてを結びつけるへその緒はないのでしょうか。あります。それこそが「音づくり」のさなかに「理解」し、理解を音に受肉させ、音を理解に受肉させる行為です。基底だけ取り出せば、「音づくり」です。

 日本在住のままで英語をものにするのに欠かせない3つの条件は他の記事にも書いてありますが、ここでも睨んでいただきましょう。よく睨んで下さい。

1.(通じる音の)「音づくり」を通じてインプットせよ。
2.「理解」せよ。
3.(インプットしたものを)錆びつかせるな。

(「1」の「通じる音」に関しては、「音づくり再説」に書きました。<リンク>

 いずれにせよ、最初にやるべきことは、文法理解でもなければ、単語の暗記でもありません。「音づくり」による文のインプットです。あるいは、文法理解であっても、単語の暗記であってもいいのですが、「音づくり」による文のインプットだけは絶対に欠かしてはならないものです。
 日本では、これらの前後関係にあまりこだわらない方がいいのかもしれません。最初に単語の暗記や文法理解をやってしまっている人がたくさんいる国ですから。
 しかし、なにはともあれ、「音づくり」による文のインプットだけは欠かしてはならない。それだけは強調する必要があります。

 まったく独学でやる場合は、模範の読みというものはCDなどから得る以外にはありません。CDを使えば、なるほどネイティヴの発音ですから発音はいい。しかし、それを真似した場合に、自分の音の直すべき点をただちにその場で指摘してもらうことができないという難点があります。

 「音」については、CDを吹き込んだネイティブの人に成立していても、自分の口の動きとして成立させなければ意味はありません。通じる音の口の動きが「自分の口」に成立しないと駄目なのです。

 文字だけのテキストを使って、自分の口の動きとしてリズムやイントネーションを成立させるためには、同時に「理解」が成立しなければならない。これらが独学でやる場合の難しさです。

 しかし、これを成立させさえすれば、それを成立させる過程で理解を受肉させさえすれば、それこそが万能の練習方法です。

 リスニング・ヒアリングのコツのコツは、意外に思う人がいるかもしれませんが、「自分の口を動かすこと」です。ネイティヴが早口にしゃべるのと同じスピードでしゃべることは、日本語にとりまかれている限り無理です。どうしてもそれをやりたければ、日本で基礎を作っておいてから、数年は英語圏で暮らす必要があります。
 日本在住のままで英語をやり続ける場合は、ネイティヴの口のスピードと同じでなくてかまわないが、そのスピードに肉薄しようとして、自分の口の動きを加速する必要が出てきます。中級以上の人はやるべきです。

 初級の人は「加速」はやらない方がいい。通じない音で「加速」しても変な癖ができるだけで、通じない音のままになってしまうおそれがあります。

 模範の読みというものが手に入り、問題のある口の動きをただちに直してもらえれば、まず最初にすらすらと読めるようにしてしまって、「通じる音」を作るという問題を解決してしまうことができます。次にそれを調べたり考えたりして理解するという順序が成り立ちます。この方がはるかに理解しやすくなります。

(これをやっているのが、私の「電話でレッスン」です。<リンク>

 まったく独学でやられる場合は、MDを使って同じ文を何度も何度も聞くということから始め、次にそれを調べて理解し、それから「音づくり」(回転読み)に入るという順序になります。

(「回転読み」に関しては、小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」をお読み下さい。<小学館へのリンク>)(書名検索欄に「エイゴドンデン」とカタカナで入力すれば注文できます)

 3つの原則を自分でながめていて、書き直す必要のある場所をみつけました。

1.(通じる音の)「音づくり」を通じてインプットせよ。
2.「理解」せよ。
3.(インプットしたものを)錆びつかせるな。

 「1」を以下のように直します。

1.(通じる音の)「音づくり」を通じて、文をインプットせよ。

 「文を」という語句が書き加えられています。大事なポイントをのがしていました。インプットせよ、インプットせよ、インプットせよと言い続け、私は生徒から嫌われ続けてきましたが、「インプットせよ」とは「文まるごとをインプットせよ」ということです。単語や熟語ではありません。

 同じことを繰り返しますが、独学でやられる場合は、この三つの項目の順序は練習の順序とは一致しません。「電話でレッスン」等を媒介にされる場合は、まったくこの順序の通りに練習ができます。

 独学でやるのであれ、「電話でレッスン」等を媒介にするのであれ、この三つの項目のどれを欠いても、日本在住のままに英語をものにすることはできないということは確かです。練習の順序がどうであれ、とにかくどれ一つとして欠いていいものはありません。三つの条件がすべて揃う必要があります。

 以上の3つの条件を、私は「発酵の三位一体」と名付けています。これに対して、「腐敗の三位一体」というものがあります。「音づくり」の方法を知らず、それをおろそかにし続けている「学校・進学塾・英会話学校」です。

 激しく自分の中にインプットすることをやりもせず、ガイジンのいる英会話学校に通っていれば、風邪がウツルように英語がウツルと、なんとなく思っている人がたくさんいます。だから、世の中では英会話学校というものが繁盛しています。世の中にお馬鹿さんがたくさんいるのでなければ、英会話学校はばたばたとつぶれるはずですが、それが繁盛しているのは、お馬鹿さんがたくさんいることの馬鹿らしい証拠です。小田嶋隆なら、次のように言うでしょう。

 馬鹿みたいだ。

 とにかく、入れてないものは出て来ない。自分の中にあるものでなければ、聞き取ることもしゃべることもできません。

 インプットというと、「暗記」のことを言っているようによく誤解されるのですが、私の方法は「暗記」ではありません。根本の原理になっているのは、日本の素読という方法です。

そどく【素読】 [名][他サ]文章の内容にはふれず、文字だけを音読すること。すよみ。 
            ・・・清水国語辞典

 辞書にはそのように出ています。私は、方法の根本に素読を据えてあるだけで、文章の内容に触れることを排除はしません。しかし、素読を根本原理にする場合は、絶対的な前後関係があります。

 文の内容にふれる前に、文全体をすらすら読めるようにする。これが、素読を根本の方法とする場合の前後関係です。これは絶対です。(独学でやる場合は、この絶対性はありません。)

 文の内容にふれる前に、文全体をすらすら読めるようにするという原則通りの順序で練習を成立させるためには、模範の読みができる先生役が必要です。素読という強力な方法が滅びてしまっている現在の日本では、それを再び息づかせる可能性を持つ場所は塾しかありません。しかし、それに気づいている塾はほとんどありません。多くの塾が学校のように黒板を使って説明などしています。生徒がろくに読めもしない英文を説明したりしています。そんなことに何の意味があるのでしょう。

 現代の日本では、素読的方法は、まず黒板の否定から始まります。英語と黒板というものほど相性の悪いものはありません。

 私は「先生」という呼称は好きではないのですが、英語の「読み」の問題を本当に解決するためには、「先生役」が必要だということは、どうしても認めざるをえません。生徒の「音」を聞き、具体的に舌や唇や歯をどのように動かし、どんな口の形を作るべきかを簡潔に指示できること、模範となるリズム、強弱、イントネーションが作れること。これが「先生役」の資格です。文法が教えられるかどうかはその次の話です。

 私が英語塾をやり続けてきた果てに、電話を使って「電話でレッスン」をやることを考えたとき、果たして自分に英語の音声面での「先生役」は果たせるのかどうかという不安がありました。
 自分の音がアメリカやイギリスで鍛えたものではないことを知りながら、「電話でレッスン」を始めてみて、やはりやってよかったと思いました。生徒さんに注意して役立てていただいているポイントがいくつもあります。

(それらのポイントは、私のホームページの「メールでアドバイス」に掲載されています。<リンク>)

 長野の「ゆいまある」という喫茶店でも、「電話でレッスン」と同じ方法で練習が行われていますが、ここに高校の英語の先生が生徒さんとして来られていたことがあります。もちろん、英語のよくわかっている方ですが、「ア」系列の母音の音の出し方を注意して直していただいたことがあります。単語の最後のt音と、次の単語の最初のt音を二度はっきりと発音されるところも、前のt音を黙音化させるコツを言いましたら、その場ですぐに直りました。本当は、日本全国に直すべき音を持ったまま英語の先生をやっている人がたくさんいるのではないかと思っています。

 素読舎が開発してきた方法は、今の学校体制の中でそのまま使うことはできないにしても、学校の英語の先生たちが、その方法の根本を自分の中に持っているかいないかで、生徒に反映されるものは大きく違ってくるでしょう。なによりも自分の英語を鍛えていく場面での練習方法が違ってくるでしょう。学校の先生たちにこそ、私の「電話でレッスン」を受けていただきたいものだと思っています。これは教員免許などとは何の関係もないことです。それぞれの先生の英語の質そのものにかかわることです。

 私の現在の生徒さんに滋賀県の古川さんという方がおられます。この方は、非常によく練習される方で、一つの文を百回繰り返し音読するというメールをいただいたことがあります。普段の練習の質の良さが、それで深く納得できました。この方は歌が好きで、意味がわからなくても、聞こえるままに真似てよく英語の歌を歌ってきたとおっしゃていました。古川さんが、「電話でレッスン」で、イントネーションをつかまえるのが抜群にうまいことの原因はそれだと思っています。最初からイントネーションをつかまえるのが上手であることに加えて、一つの文を百回音読するということを自分で工夫されたのです。めきめきと力がついてきています。こういう生徒さんを持つことができたことは、最近の私の最大の幸福です。

 普段のレッスンの時に、私のやっている「電話でレッスン」は役に立っていますかと古川さんにお聞きしたところ、すごく役に立ちますよとおっしゃっていただきました。「これまでは意味がわからずに歌っていた歌が、今は意味がわかって歌っていますから」。
 古川さんから学ぶことが私には多くあります。

 古川さんが参考にしたのは、小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」に書かれている「回転読み」という方法です。古川さんは京都新聞の書評でこの文庫本を知り、それから一か月半もかけてじっくりと読んでくださったそうです。その間、いろいろな応用方法を試し、一つの文を百回繰り返して読むという自分なりの方法を見つけられたそうです。眼目をみごとにつかまえられました。頭が下がります。

 古川さんは、「繰り返し読み」→「技法グラウンド」(電話でレッスン)→「回転読み」という順序で、読みの質を鍛え上げているのではないかと推測しています。

 古川さんがみつけられた「繰り返し読み」の百回という回数は、私は今後、他の生徒さんにも勧めていこうと思っています。古川さんの練習の進み方のめざましさの元にそれがあるとわかっているからです。

 私の文章は酔っぱらう癖があり、リスニングのことを書いていても、なかなかリスニングそのものに迫っていきません。

 しかし、もうわかっていただいたのではないでしょうか。酔っぱらいだけがシラフの人にわからせることができるものがあるのです。

 リスニングの最大のコツは「音読」です。


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