「音づくり」再説
−−−−−−−−問題は教材ではない。その扱い方だ。
以前、私がやっている英語教室の生徒さんに向けて、印刷物を作り、「音づくり」ということ一つの中にどれほどの難題がひそんでいるかを書いたことがあります。ここで、再度その問題について考えてみます。
実に実に様々な英語用の教材が売られています。この中には粗雑な作りのものもあれば、英語をやろうとする人に力がつくように真摯に考えられたものもあります。教材の質も様々です。
これらの中から自分に向いた教材を選ぶための指針はどんなものでしょうか。
「難し過ぎず、易しすぎず」
これが指針です。本屋さんで立ち読みして下さい。その本に書かれている英文を読んで下さい。そこに含まれている語彙や語法の半分、あるいは5割から6割程度をすでに自分が知っているものであるような本を選んで下さい。
これがコツです。そういう本をうまく選び出せば、それが一番力をつけてくれる本です。しかし本を買ってお金を払っても、お金を払うことで英語の力がつくわけではありません。教材をうまく選ぶのも大事なことですが、それよりもはるかに大事なことはそれを「どう扱うか」です。
最重要な問題は、教材の質ではありません。いい教材が手に入れば、その教材が力をつけてくれると考えることがすでに落とし穴にはまった考え方です。人々が簡単にこの落とし穴にはまってくれるので、教材ビジネスというビジネスが成立するほどです。
粗雑な教材よりは、質のいい教材の方がいい。それはまったくその通りですが、それでも、それよりもはるかに大事なことは、教材を「どう扱うか」なのです。
「何をどう扱うか」という場合の、「何を」ばかりを探している人がいます。おそらく、それを一生探しても結局、絶対的な教材は手に入らないでしょう。そんなものはありえません。しょせんどの教材も氷山の一角に触っているだけだからです。
「どう扱うか」を真剣に考えるべきです。「何を」よりも「どう扱うか」の方が百倍も千倍も大切なことです。
徹底的に音をつくること。
コツのコツはこれに尽きると私は考えています。
最初にこれがあり、最後にこれがあります。釣りの格言に、「鮒に始まり、鮒に終わる」というのがありますが、日本在住のままに英語をやるという条件下においては、「音づくりに始まり、音づくりに終わる」というのを格言にすべきでしょう。
その場合に気をつけることは、あくまでも「通じる音」をめざすということです。受験生の多くの人が、通じない音のまま英文を読んで、それで済ませてしまっています。「通じる音」の「音づくり」をしても、これまでの受験では点数に反映されなかったので、受験生は「音」の問題を非常におろそかにしてしまいます。せめて学校がまともに「音」を扱うならまだしも、まともに「音」の指導のできる先生が非常に不足しています。
学校があてにならないなら、どうすればいいのでしょうか。
私は、この問題の解決法は非常に簡単だと考えています。
高校入試や大学入試で、英語のテスト方法に「音読」を導入することです。
英文を生徒に実際に声を出して読ませる。それだけでその生徒の英語のレベルはすぐにわかります。これは私が長年、英語塾をやってきて確信していることです。「音読」の音の質だけで、聞く人が聞けば受験生の実力はすぐにわかります。
「音読」によって、受験生が読む音が「通じる音」であるかどうかがわかります。どこからどこまでが意味の固まりであるかを把握できなければ、正しいイントネーションが決定できませんから、声に出して実際に読ませてみれば、生徒の英文に対する内容把握力もわかります。音のメリハリが作れるかどうかで、実際はヒアリング能力もテストできます。「音読」の質一つで、総合的な英語力がわかります。
ペーパー・テストで定員の2倍程度の「準合格者」を絞り、さらに「準合格者」に対して「音読」のテストを行い、「音読」の質のいい方から合格させて、定員を満たせばいいのです。これをやるだけで、これまでのテストよりははるかに質のいい生徒が集められるのは確実です。
こういうテストは、これまでの筆記テストだけの方法に比べれば、はるかに時間がかかります。しかし、一人あたり10分も読ませてみれば、テストはできます。その間に、易しい文、難しい文、その中間の文を与えて読ませるだけで、英語の力はテストできます。
長い文を途中でつかえずに一度で読むことはネイティヴの人にも難しいことですから、受験生には二度読み、三度読みを許すべきです。途中で、読みが中断した場所より左に目を移して読む場合は二度読みとする。二度読みまでは減点なし。三度読みで減点するが、意味の固まりを正しくつかまえなおしたなら、減点は帳消しにするなどのテスト実施上のルールは大学がそれぞれ作ればいい。
このテストの欠点は、採点する人の主観が混じること、つまり客観的な点数というものの根拠が示せないことです。ですから、これまでのペーパー・テストと併用するのが実際的です。
「音」の質が「通じるもの」であるかどうかと同時に内容把握力がテストできる。これが、「音読」によるテストの利点です。文法力は内容把握力をテストすることに当然含まれています。
本当に受験生の英語の力を知りたいのであれば、高校や大学は受験生にテキストを「音読」させてみればいい。それだけで受験生の実力がわかるのでなければ、本当は大学に英語のテストをする資格がないのです。
高校や大学はこの形式のテストを行うべきです。
こういう形式のテストさえ実現させれば、現在の学校がいくら英語の「音づくり」に関して無能力でも、民間の塾や予備校はこの形式のテストに必ず即応します。学校という重たいずうたいもそのうちに動くでしょう。
文部省が口を出す範囲の大きい高校入試より先に、大学がこの形式のテストをすべきです。
これだけで、日本の英語は大きく変わります。
「音読」の質が配点の半分を占めるようにすれば、日本にも使える英語はどんどん生まれるはずです。
「音づくり」は一年や二年で終わるものだと思わないほうがいいでしょう。長く英語教室をやってきた経験から言えば、重要な音作りのポイントを指示し続けていれば、最初の一年で生徒の音は大きく変わります。しかし、その後も、微妙に含まれている日本語の母音の音を削る作業が続きます。
日本語という言語のイントネーションは非常に平坦です。これは、日本語という言語のひとつひとつの音に必ず母音がくっついているせいではないかと考えています。「か」なら「か」という音を発音しつづけていると、「あ」になってしまいます。「かーーーーー」と言い続けていると、「あ」の音だけが続きます。「か」という音が実は「あ」という母音含みの音であるということです。
英語は子音だけが連続することがよくあります。これは日本語にはない音の現象です。ですから、多くの日本人は、子音だけを連続させるべきところで、子音と子音の間に母音を混ぜ込んでしまいます。この余計な母音を削っていく作業はけっこう時間がかかります。しかも、日本語だけしゃべってきた口の筋肉はとても弱いので、口の筋肉自体を鍛えていかないと子音だけの連続音を出すことがうまくできません。腕立て伏せをやって筋肉を作るのに時間がかかるのと同じように、英語の音を出すための口の筋肉を作るのも時間がかかります。
英語のリズムとイントネーションは、英語という言語に備わっているバネのようなものですが、なかなかこのバネが日本人の口の筋肉には備わりません。
今から思えば、私自身が大学受験の時に英文を読んでいた「音」も相当多くの、日本語の母音を含んでいました。「ア」系列の英語の母音の区別もできていませんでした。私自身が、自分の音を大きく変えたのは、近所に住む外国人と日常的に話をする必要が生じてからです。もう30年ほども英語をやり続けていますが、最後の10年ほどで音が変わりました。前半の20年はまだまだ大量の日本語の音をまじえた音で済ませていたのです。本当にはっきりと音が変わったのは、ここ2年ほどの間です。近所の外国人に母音の区別をしろと言われ区別をしました。その区別ができてすぐに、「電話でレッスン」という映画のシナリオを使ったレッスンを開始しました。自分でつかんだコツは、言葉にして言うことができるので、これを他の人にも伝えようと考えたからです。
自分の音を大きく変えた時に、何をどうしたのかははっきり覚えています。だから、現在の私の英語教室では、なるべく簡潔な言葉で、口のどこをどう動かすのかをいつも生徒さんに言っています。
「音づくり」をするときに、日本人が気をつけなければならない発音上のポイントは十くらいでしょう。この十のポイントをクリアしてもネイティヴの音とはまだまだ相当の距離があります。しかし、少なくともそれだけはクリアしなければならないし、それだけをきちんとクリアすれば「通じる音」にはなります。この十程度のポイントを学校がきちんと教えるべきなのに、現在の学校でこれの指導のできるところはほとんどありません。
これらの音の問題に関しては、「電話でレッスン」の生徒さんに向けて書いた「メールでアドバイス」というページがこのホームページにあります。音の問題以外にも多岐にわたってアドバイスが行われています。
「メールでアドバイス」へのリンク
ここには、ひとまず「音」の問題に関してだけ、これまでにアドバイスしたものを引用しておきます。
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英語の音については、地域差、個人差があって当然で、日本人が日本語の音に影響された英語の音をしゃべるのもきわめて自然だと思っています。通じないと困るが、ひとまずは通じさえすればいい。大友さんの音は十分に通じる音ですが、私の生徒さんの中には、通じる音にするために絶えず注意をする必要のある人もいます。他の方が参考にした場合に役にたつこともあると思いますので、私が普段、音に関して方針としているものを少し書いておきます。きれいな音よりも、通じる音を優先した簡略な方針です。
まずは「ア」系列。
今日、注意申し上げた ae 音ですが、これは「子音+a+子音」の形でよく現れます。発音の本では、口の両端を横に、顎をさげるなどと解説しています。私は、「口の両端を斜め上に吊り上げる」と生徒さんたちに言っています。
「両端を横に、顎をさげる」という言い方だと二段階に意識されてしまいがちですが、「口の両端を斜め上に吊り上げる」という言い方だと一つだけのことをやればよく、これで十分にae音が出ます。多少金属音ぎみの音。map,
scratch など。
ear, ir, ur の形で単語の中に含まれる「ア」系列の音は、「口を狭くし、喉から声を出す」。発音記号では逆eにr音の組み合わせ。口を狭くしてあるので、「こもった」感じの音になる。
early, first, thursday など。
arの形で、単語の中に含まれる「ア」系列の音は、上の歯と下の歯を離す(3〜4センチ)。(赤ん坊が上手に出す音)car,
start など。
以上は、アクセントがこれらの音にある場合です。
逆eと逆vの発音記号は区別しない。これは鵜田さんという方の発音の教え方に大きく影響を受けた方針です。
単語の前半にアクセントがある場合では、末尾近くにある母音はおざなりでよい。
子音はなるべく省略せず発音する。ただし、前置詞などに含まれる子音などは、舌や歯の位置だけ確保して、実際には発音されない「気配の音」にする。(弱いところは弱くする)(ただし、なるべく本来の舌、歯の位置を確保しようとする)
lの次にrが来る場合、舌の位置が極端に遠いので、l本来の位置(上の歯の裏側に舌の先をつける)を確保しがたい。もちろん、その位置を確保できるなら確保するのがいいが、lを発音しようとして、舌の先が歯の裏側の方に向かう途中で、r音に移ることはかまわない。 already
, all right など。
同じ音が連続する場合、後ろの音が優先される。
同じ音が連続する場合、前の音は、後ろの音を発音するために歯や舌の位置を確保するためだけの黙音となる。
want to での黙音を■で表すと、wan■to となる。■の時、舌は歯の裏側にあるが音は出ない。(これも気配の音)
違う音だが、舌や歯の位置が同じ音の場合も、前の音は後ろの音を発音するための準備に使われ、黙音化する。(fとv。あるいはt、d、l、n)
don't let → don'■let
違う音だが、舌の位置がきわめて近い場合、前の音を黙音化するのに、後ろの音の位置で黙音化してよい。
eat the → t のときに歯と歯の間に舌を入れ、音を出さず、続けて
the を発音 → ea■the
ひとまず思いつくことは以上のようなものです。
かなり、自分なりに工夫して作ってきた注意の仕方なのですが、ご批判があれば耳を傾けてみたいと考えています。
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私が、発音上の十程度のポイントと言っているものは、以上のようなものです。これで十分に「通じる音」は作れます。
これらの文章を読んだだけで、何をどうするのかがわかる人はどんどん独学で「音づくり」をして下さい。何だか要領を得ないと想われた方は「電話でレッスン」を受けて下さるようにお願いします。「電話でレッスン」では、実際の英文を相手にこれらのポイントを絶えず指示します。「音」が違っている場合に、これらをただちにアドバイスし、どこをどう動かしてくれと指示します。
「電話でレッスン」へのリンク
ネイティヴが吹き込んだテープやCDの音を聞かせて、マネして言えということをやっているようでは、生徒はいつまでたっても英語の音を自分の口の筋肉で作れるようにはなりません。これは実際に学校がやっていることですが、そんなことで生徒の口が英語の音を出すようにはならないのです。
学校の教室で英語の複製音を響かせなくても、町の中やテレビの放送からでも英語の複製音が絶えず聞こえているのが現代の日本です。それでも、日本人の生徒はその音を自分の口の筋肉をどう動かして出すのかをほとんど知らないままでいます。複製音を聞いていれば、日本人の口が英語用に動くようになるということは起こりません。
「口の両端を斜め上にひっぱりあげて」、「舌を小さくして奥の方にひっぱってどこにも触らないように」、「上の歯の裏に舌の先をつけたまま音を出さないでいる」など、実際の舌の動きや唇の動きを簡潔な言葉で生徒に言える先生が増えなければ駄目です。生徒に実際に文を読ませながら、ポイントを指摘し、短い言葉でコツを伝えるという練習方法が必要です。それができる人が増えない限り、これからも学校は「通じない音」を生徒に持たせ続けるでしょう。
しばらくは素読舎の孤独な闘いが続くでしょう。
なんと言えばいいのか。ほとんどの人の英語の勉強の仕方はおとなしすぎます。
辞書をひいて語義を調べ、本の隅に書き込んだり、目で文を読んで考えたりしているだけの人が多いのですが、このやり方だと、ごくわずか基礎力が作れるだけです。「使える英語」が立ち上がることはありません。
何よりも、「音の連続」を連続のままに独立させること。
そのために、いったんは馬鹿になって、同じ文を何十回も繰り返し繰り返し言い続けることです。
英会話学校に通って、外人の顔を見ていれば、なんとなく風邪がウツルように英語がウツルとでも思っている人がいます。ドブに金を捨てているのと同じです。
英語は一人になって激しくやらなければ、どこにも突破口はありません。かなり実力を備えている人以外は、外人の存在が役にたつということはありません。中学や高校に外人の先生が来ていますが、あの人たちが日本の中学生や高校生に英語の力をつけることはないでしょう。外人慣れを作ることができるだけです。
一人になってやること。これが英語の上達の鍵の一つです。語学なんですから、これをやらなければどうしようもありません。一人になって激しくやるのが語学というものの正体です。日本在住のままである限りは、これは絶対的です。
一人になって激しくやる。これが語学のもっとも普通の形です。ところが、この普通の形を信じないで、英会話学校の外人の先生の存在、つまりネイティヴ・スピーカーの存在に頼ろうとする人がいます。ほとんどの場合、金をドブに捨てた結果に終わります。そうでなかった人がいたらお目にかかりたいくらいに思っています。英会話学校に通って英語を話すようになった人にお目にかかったことがまだ一度もないのです。
(私はここで「外人」または「ガイジン」という語を使用しています。「外人」という語は準差別語だと言う人がいます。その人たちは、「外国人」なら差別にならないなどと、わけのわからないことを言っています。私は日本人は「外人」という語を使用すべきだと考えています。
「外語大」と略称される大学があります。「外国語」ではなく「外語」という語は、日本語から見ての「外語」です。一方、「外国語」は「国語」から見ての「外国語」です。
同様に、「日本国人」に対してなら「外国人」でいいでしょうが、私たちは、よそから来た人に常に「日本国人」として対しているのではないのです。ただの「日本人」として対しているのですから、相手は「外人」です。「外人」はいけないなどと言っている人は、差別語でもなんでもないものを差別語扱いしているだけです。単に区別するだけの言葉を差別語だと言うのであれば、「日本人」でも「アメリカ人」でも「中国人」でもすべて差別語です。「会社員」も「自営業者」も「医者」も「看護婦」もみんな差別語になってしまいます。「外人」が差別語だなどと馬鹿も休み休み言って欲しい。)
時が至れば、おとなしい勉強ではなく、激しい練習をやらなければどうにもなりません。そのことを、私は「音のあふれ」という言い方で言い続けてきました。ホームページの「英語の突破口」というタイトルのページをお読み下さい。「音のあふれ」がなければ、日本人の英語がものになることはないということが強い調子で主張されています。
「英語の突破口」へのリンク
私のホームページやその他の印刷物に何度も何度も書いたことですが、ここでも繰り返し書きます。私がこれが練習の原則だと考えているものです。
1.(通じる音の)「音づくり」を通じてインプットせよ。
2.「理解」せよ。
3.(インプットしたものを)錆びつかせるな。
この3つの原則のどれを外しても、日本在住のままに「使える英語」を作ることはできませんし、持ち続けることもできません。
この3つの中で、問題は「1」の「音づくり」です。ここで、通じない音で「音づくり」をしてしまうと、「通じない英語」ができてしまいます。その後、音を自分で変える方法をみつければ救われますが、「通じない音」が固定化されると悲惨です。
(2000年12月現在、この「1」はさらに次のように書き換えます。
1.(通じる音の)「音づくり」を通じて(文まるごとを)インプットせよ。
(文まるごとを)という句が加えられました)
「2」や「3」は自分の努力次第でどうにでもなります。辞書を調べたり、文法的な説明を読んだりして、考えることで「2」の「理解」は可能です。
「3」については、一度自分の中に入れたものを錆びつかせないように、復習のプログラムを作り、絶えず復習を繰り返すことで独学が可能です。
ただし、「理解」は圧縮されなければなりません。理解というものは理路をたどって行われるものですが、理路をたどっただけで終わりにしてしまっている「理解」というものがほとんどです。この「理解」の段階だと、使える英語には結びつきません。多くの受験英語育ちの英語が使えないのは、理路をたどって理解しただけで終わりにしているからです。
「理解」を圧縮する。これはなかなか理解してもらえない言い方なのですが、しかし、私としてもそうとしか言いようがないものなのです。
どうやって「理解」を圧縮するのか。
ここでも、「音づくり」が大いに関係します。
「よりはっきりとより強くより正確に、そしてより速く」読むことによって、「音づくり」をしながら、強くはっきりと単語や熟語のひとつひとつをイメージします。そのイメージが瞬時に成り立つように意識を使役します。このあたりのことは、小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」に書いたことと重なります。
理路をたどっている間の理解は、文法用語が必要です。
圧縮されて瞬間に成立するイメージとしての理解では、文法用語はまったく必要なくなっています。
この理解が成立している時は、英文を読む速度もかなり速くなっているはずです。読みの「速度」を速めることが、「理解」の圧縮に大いに関係があります。これに関しては、実際にやってみてもらう以外に、わかってもらう方法はないのかもしれません。
もがいてくれ。どんどんやってくれとしか言いようがありません。強くイメージしてくれ、音をより強くはっきりさせてくれ、強く強く思うということをしてくれ。そして、強くはっきりした音のままに、どんどん読みをスピードアップしてくれ。読みながら、同時に考えてくれ。そんな程度のことしか言うことができません。
理解するという作業と「音づくり」を同時に、あるいは、(初心者の場合は)かわるがわる行うことが大事なコツです。理解だけして、「音づくり」をやらないでいると、使えない英語を作ってしまいます。そうして死んでしまった英語力は、日本中にごろごろしています。この事態を私は「日本全土に英語の死屍累々」と言ってきました。
あくまでも「1」が問題です。これが一切の練習の「入り口」にあたる練習なのですが、自己流の「音」で「音づくり」をしてしまうことが多々あります。今は、英語の本にもCDがついてきて、それを再生すれば、ネイティブが発音した音を聞くことは簡単にできるようになりました。しかし、どのように自分の口の筋肉を動かして、CDから聞こえてくる「音」をつくるのか、それがなかなかわからないのです。
これを教える場所があまりにも少なすぎます。いや、ほとんどありません。
確かにCDからはネイティブの音が聞こえてきます。しかし、それをどのように作るかがわからなければ、多くの人が自己流に「音」をつくります。そして、通じない英語の音にしてしまう場合が多いのです。
英語の音は日本語の音と根本の成り立ちからして違うのですが、幼児はこれを真似するのが得意です。幼児の口の筋肉が日本語の音を出すようにまだ固定化されていないからです。二、三歳の子供の口の筋肉は、まだ非常に不定のものであり、柔らかく、受容性を備えています。ですから、子供は耳から感覚でつかまえたものを、容易に口の動きに変換します。何度も試みて、「自然に」英語の音を自分の口に乗せます。
これは幼児だけが持っている能力です。言語の「自然性」は、厳密なことを言えば、幼児だけが獲得することのできる性質です。
大人はこの能力を失ってしまっています。日本人なら日本語によって、アメリカ人なら英語によって、つまりある特定の言語の音の体系によって、口の動きが定型化されている人、それが大人なのです。幼児の口の筋肉の受容性をすでに欠いている筋肉。これを自覚している人はあまりいません。
インプットとアウトプットをめまぐるしく交互に繰り返し、幼児は言葉を覚えていきますが、こうして獲得される言語が、本来の意味で「ネイティヴ」な言語です。これが同時に一つの言語によって、口の筋肉が定型化される自然過程です。バイリンガルの成立では、二つの言語によって口の筋肉が定型化されます。
語学はこれとはまったく違うことです。日本人が英語をやる場合を考えるなら、そして、幼児が英語の磁場に置かれる場合以外なら、いったん日本語によって筋肉の動きが定型化された口を、激しくゆさぶって揺り動かすような机上の作業が必ず必要です。幼児のように柔らかく、受容性を備えた口の動きは大人からは失われてしまっているのですから、激しい口の動きの運動によって、舌、唇、歯の動き、ほっぺたの筋肉の動きをほぐし、新しい音を新しく別に獲得しなければならないのです。
もちろん本当に初めての時は、日本語の音を流用します。しかし、次第に、英語の音として通じる音に変えていく必要があります。その時に、口のどの部分をどう動かすのか、息をどう通すのかを、簡潔に的をついた言い方で教えてくれる人がいればいいのですが、現実には得難い条件です。
しかし、本当はこれは「得難い条件」にしてしまってはいけないことです。これはどこででも習えることでなければいけない基本で、英語を教えている場所は、学校であろうが進学塾であろうが、英会話学校であろうが、どこでも「口のどの部分をどう動かすのか」を説明して教えられるのでなければいけないのです。いくら現状がそうではなくても、このことはそうでなければいけないことです。
この練習をまともにやっているところは、さまざまな英語に関する機関の数の多さを考えるとまるで砂浜で胡麻粒を探すようなことです。だから、世界中から日本の英語教育はなってないと指さされるようなことになっています。私は日本の中にいて、同じように同じものを指さしてきました。
例えば、NHKのラジオやテレビの語学講座を聞けば、ただちにネイティブの発音を聞くことができます。しかし、その音をどのように作るのかの訓練は、ラジオやテレビはほとんどやりません。ラジオやテレビでは、講師が個々の生徒の発音を聞くことができないので、一方的にラジオやテレビの方から生徒の方へ音が流されるだけです。
どこをどう動かすのかの訓練は、生徒の音を一人ずつ聞いて、その場で簡潔に的をついた言い方で口の動かし方を言う方法でなければできません。一対一でレッスンするのでなければできないことです。実に手間のかかる仕事ですが、必要なことです。私が電話に着目したことの元にそれがあります。電話では、住居の遠い近いに関わりなく双方向性が得られます。
幸いなことに、アメリカの圧力のせいで、NTTがしぶしぶながら長距離電話の電話料金を大幅に値下げしました。以前の料金と比べると十分の一ほどになっています。私がやっている「電話でレッスン」の電話料金は生徒さんに負担していただいていますが、月額で1200円〜2000円程度です。
「電話料金試算」へのリンク
私は、日本人が通じる英語をしゃべるために気をつけなければならないポイントはそれほど多くはないと思っています。ネイティブと本当に「同じ」音を出すためには、気をつけなければならないポイントは無数にあるだろうと思うものの、「通じる音」にするだけなら、十くらいのポイントをマスターするだけで通じるようになるでしょう。そして、大事なことは、ネイティヴとまったく同じ音を出す必要などはないということです。
日本人は日本人が出す英語の音を出せればいい。「通じさえすればいい」。それがともかく先決問題です。日本の英語の現状を見れば、緊急問題だと言ってもいいでしょう。
発音だけに限れば、私の英語もその10のポイントをおさえた程度の音です。私が考える最低10のポイントは、それだけで「ひとまずは」必要にして十分な条件です。少なくとも、「通じる音」としては必要にして十分な条件でしょう。そして、ひとまずどうしても獲得する必要のある質は「通じる」という質でしょう。
発音は、単語で練習しないで下さい。必ず文まるごとで練習します。そうしないと、文の強弱、リズム、総じてイントネーションが身につきません。単語を単位にして発音を練習したのでは、単語の最後と次の単語の初めにくる音が同じ音であったり、きわめて舌の位置が近い場合、前にある単語の末尾の音が、次に来る単語の最初の音を出すための「準備の音」となり「黙音化」する等の英語の音の癖をつかまえることもできません。単語の最後が子音であり、次の単語の最初が母音である場合に音が連続することも、単語を単位として練習したのでは決して身につきません。
必ず文全体を相手に発音の練習をすること。これは大事なポイントです。
私の「発音」という概念は、その中に、強弱、リズム、イントネーションもすべて含まれています。「黙音化」やリエゾンのようなものも含まれています。それらすべての「動き」をさして「発音」であると考えています。
「発音」といえば、多くの英語学習書が、単語をどう発音するかという問題としてしか扱わないのと、私の「発音」の概念が大きく異なるところです。
この「発音」の捉え方は、私が英語塾という仕事を続けてきて自然に身につけたものです。現在は、「電話でレッスン」によって、遠方の方を相手のレッスンも行っていますが、このように実際にレッスンをすることのなかで「発音」を考えた場合に生まれてきた捉え方です。
1.(通じる音の)「音づくり」を通じて(文まるごとを)インプットせよ。
2.「理解」せよ。
3.(インプットしたものを)錆びつかせるな。
日本在住のままに「使える英語」を作り、それをメンテナンスし続ける時に、決して外してはならない条件として考えた条件ですが、この3つの条件のうち、
1.(通じる音の)「音づくり」を通じて(文まるごとを)インプットせよ。
という場合の、「通じる音」というたったそれだけのことの中に、以上に書いたような面倒な事情がひそんでいます。学校も、進学塾も、ほとんどの英語を扱う機関が、この「通じる音」ということ一つがクリアできていません。
文を全体のままに扱って「発音」の指導ができる人が、本当は学校に必要なのです。これは、舌や筋肉をどう動かすのかを簡潔に的をついた言い方で言える人でなければなりませんから、アメリカ人やカナダ人では駄目です。単にアメリカ帰りのアメリカ英語をしゃべるだけの日本人でも駄目です。どこをどう動かすのかを「日本語」できちんと言える人でなければ駄目です。英語の教員免許の資格を与える場合に、この能力があるかどうかを判定するということが絶対に必要ですが、現在の英語の教員免許はこの点で実にずさんなものです。
日本語の音の「盆踊り」状態の癖を知り、英語の音の「ダンス」状態に対して自覚的で、しかも、動かし方を的確に日本語で言えなければなりませんから、日本人を相手の英語の音の指導は本当は日本人でなければできません。日本人が不要な母音を英語の子音のひとつひとつにくっつけて発音してしまう癖も熟知している必要があります。これらは現在の日本の英語の教員免許に欠如している観点ですが、この観点を無視し続けてきたことが日本の英語を「通じない」ものとして標準化してしまったことの原因の一つです。
本当の意味の「発音」指導を実現するためには、一人の先生に対して生徒数は五人から六人が限度です。五人から六人という人数は、長年にわたって塾をやってきて、「発音」をどう扱うかと試行錯誤をしてたどりついた結論です。
もちろん、一対一が最良です。
学校はこの絶対に必要な訓練をしません。また、それができる先生も非常にわずかです。一つの教室の生徒の数も五人、六人どころではありません。では、民間の英会話学校がこの絶対に必要な訓練をやっているかと言えば、やってはいません。生徒はただネイティブのしゃべりを聞かされている場合がほとんどです。どこをどうすればその音が出るのかに対しては、外人たちはまったく無自覚です。それはほとんどの日本人がどこをどうして日本語の音を出しているのかに無自覚であるのと同じことです。ただ無意識にその音が出せるだけのことです。これが外人が日本人に向けて発音指導する場合の最大の難点です。
教室に座ってガイジンのネイティブの音を聞いているだけだったら、NHKの放送でいいはずです。生身のガイジンが目の前にいても、英語は「風邪じゃないからウツラナイ」のです。これはくどくくどく言う必要があります。本当に本当に「ウツラナイ」のです。
1.(通じる音の)「音づくり」を通じて(文まるごとを)インプットせよ。
2.「理解」せよ。
3.(インプットしたものを)錆びつかせるな。
もう一度、この3つの条件をよくにらんでおいてください。どの一つが欠けても駄目です。
私が行っている「電話でレッスン」は、この3つの条件のうち、特に「1」の条件を満たすために特化したレッスンです。練習が進むと絶えずテストが行われますが、このテストによって「3」の条件も満たすことができます。
進み方がゆっくりでいいという人、基礎がまだできていない人には「2」を組み込んだ練習もしていますが、メールが使えることが必要な条件になります。
「音づくり」一つがこれからも日本の英語にとって、ひとつの難関として存続するでしょう。学校・英会話学校・受験塾のやっていることがあまりにもひどいからです。
「音づくり」がきちんと行われれば、日本の英語の問題が解決するのかと言えば、そうではありません。もう一つの難題があります。「シンタックス」です。
「音」は英文の顔や体や衣装です。つまり、外から感じられるものです。それに対して、内側にあって外から見えないものがシンタックスです。体で言えば骨です。
この骨の骨組みが、英語と日本語では根本的に違っています。ですから、「音」ばかりを大事にして英語の練習をしている人は、骨の脆弱な英語を作ってしまう傾向があります。
私の生徒さんの中にもかつてこういう人が何人もいました。
「音」の質は私なんかよりはるかに本場アメリカの音に近いにもかかわらず、シンタックスの骨が細く脆弱なので、英文をまるごと言おうとすると、途中でとぎれてしどろもどろになる。これは、「音」の方面ばかりを重視して英語をやってきた人に特徴的なものです。
半分は本人のせいではありません。日本という場所には英語という言語の骨を溶かす作用があります。日本語そのものが英語を錆びつかせる強い酸として作用します。だから、半分は本人のせいではありません。しかし、残り半分は本人のせいです。日本語という強い酸に対して、自覚が不足していること、その強い酸に抗するためにどんな練習が必要なのかを真剣に考えなかったこと、これらは本人のせいです。
「音」が大事なのはその通りなのですが、やたらに「音」ばかり気にして、自分の英語のシンタックスという骨を育てることをおろそかにしてきたのは本人のせいです。
「音」はどこまでも大事なのですが、同様に、あるいはそれ以上に大事なのが、英語のシンタックスの骨を太く育てることです。英語の構造を身体化すると言っても同じことです。
これに関しては、私は小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」で「回転読み」という方法を提示しました。「回転読み」というのですから、音読の読み方の一種です。
シンタックスの強化に関しても、「音づくり」を通じて、絶えず「音」とともに強化すべきだと考えています。英語という言語の磁場を欠いた日本という場所では、「回転」というモメントが必要です。
「音」派の人は、たいていこの「回転」というモメントを馬鹿にします。そして、日本に在住するかぎり、自分の英語のシンタックスという骨はどんどんやせていってしまうことに無自覚です。「回転」というモメント、もっと一般的には「繰り返し」というモメントを外して、どこでどうして在日英語のシンタックスが育つというのでしょうか。どこでどうしてそれが維持できるというのでしょうか。「回転」や「繰り返し」というモメントを外して、在日のままに英語のシンタックスを作れた人などいないのです。
「音」は言語の表面です。「シンタックス」は言語に内在するものです。シンタックスを細くしてしまう人は、見えるものばかりを見てきた人です。
よく回りを見回してみて下さい。英語をぺらぺらとしゃべっている人は、日本で英語を身につけたのではない人がほとんどです。ぺらぺらしゃべる人のほとんど100パーセントまでが、「日本以外に住んでいた」ことのある人です。この人たちは、日本語という言語が英語に対してどれほど強力な酸として作用するかを実は知りません。
日本でぺらぺらやっているのは、英語圏で育った人か、日本で基礎力を作っておいて、英語圏に渡って、英語の磁場から養分をもらった人のどちらかです。いずれにせよ、そのぺらぺら能力は英語の磁場が育てたものです。厳密に言うなら、ぺらぺら能力は、本物の英語の磁場のあるところでしか育ちません。
映画だろうが、英会話用の番組だろうが、英会話学校だろうが、すべては擬似的な磁場にすぎません。つまり本物の磁場ではありません。ですから、これらの磁場では「ぺらぺら」能力は育ちません。日本には米軍基地とその周りにだけ英語の磁場があるだけです。それ以外はほとんどが擬似的な磁場にすぎません。
英語フリークはおつむの弱い人たちが多く、日本に英語の本物の磁場が成立するのを希望しているのかもしれません。しかし、日本に本物の英語の磁場ができるということは、日本中が米軍基地のようなものになることです。必ず政治がらみの暴力がともなうことがらです。英語フリークと話していると、冗談も休み休み言ってほしいと思うことがしばしばあります。
総合的な英語の力で見れば、ぺらぺらしゃべるだけの英語を持つ人よりもはるかに力のある人でも、その人の英語が日本で作られた場合は、はっきりと在日性が刻印されます。この人たちはとつとつとしゃべります。これこそ真性の日本の英語です。ですから、日本にいて英語をやる場合、つまり語学本来の語学をやる場合ですが、ぺらぺらしゃべることは最初からあきらめた方が得策です。「ぺらぺら」に価値を見たければ、日本にいてきちんと基礎を作り、英語圏に渡ってそこで暮らすことです。それ以外では、まず「ぺらぺら」は実現しません。私自身は、「ぺらぺら」英語に価値を見る気がないので、これからも日本在住のまま、とつとつとしゃべることを続けていくつもりでいます。
しかし、日本で英語をやるということは、英語圏に渡り、英語の磁場の中に身を置けばぺらぺらになる条件を準備していることだとも言えます。ぺらぺら能力に関しては、日本にいては、「準備すること」しかできません。日本には英語の磁場がないからです。磁場がないかぎり、その能力は育たないのです。磁場の有無こそは「ぺらぺら」能力に関しては、決定的な条件です。
このことはこれまではあまりはっきり言われてきていません。日本在住のままでも「ぺらぺら」は実現しうるとなんとなく思っている人が圧倒的に多いのですが、「ぺらぺら」しゃべっているように見える人でも、実は内心ではかなりな不自由を感じながらしゃべっているというのが実際のところでしょう。誰かがはっきりと言わなければいけないことですが、誰も言わないので私が言っておきます。磁場がない場所では、ぺらぺら能力が育つことはありません。幼児英会話などというけったいなものが登場していますが、しばらく見ていればわかります。いくらガイジンのいる教室に幼児を通わせても、おそらく英語をしゃべるようにはならないでしょう。幼児の間だけ少し英語みたいなものをしゃべって、じきにしゃべれなくなります。日本に英語という磁場がないのであれば、当然の結果です。
日本にいて、英語ぺらぺらになる条件はごくわずかだけあります。英語ネイティヴの人を恋人か女房か亭主にして、日常をともに過ごす生活をするとか、しょっちゅう会っているとかする場合です。小さいながらも、そこに英語が作る本物の磁場が成立するからです。とても小さな磁場ですが、本物の磁場が成立するので、日本にいるだけでもぺらぺら能力が育ちます。
それ以外はまず無理です。
とここまで書いて、いつも思っていることが心に浮かんできました。
なんでぺらぺらなんてものにそんなに価値があるんだろう?
そういう疑問です。私はどこまでいっても、自分にとって英語は「副言語」だと考えています。まずは用が足せればいい。次に、勝手にぺらぺらとガイジンに主張されて、そのまま黙っているのではなく、言い返せればいい。
相手にどんどんものを言わせて、こちらからは英単語ひとつ放り出しただけで、相手を笑わせ、相手のしつこい主張を空無化したことなら何度かあります。私は全然ぺらぺらなんてしゃべっていない。英語という磁場のない場所で、なおかつ英語でしゃべっている。それだけの力業でたくさんだと考えています。
私が英語をしゃべっているのを聞いていた生徒さんが、「センセイは英語がぺらぺらだ」と言ったことがあります。外から見ればそう見えるらしいのですが、本人の自覚はそれとはおよそかけはなれたものです。私の自覚を言うなら、胆汁がにじみ出るような不自然な思いをかみしめながら英語をしゃべっているというのが実状です。英語という磁場を欠いた場所で英語をしゃべっているのである限り、それで当たり前なのです。
この胆汁がにじむような思いというのを、英語をしゃべる人はあまりはっきり言いません。ぺらぺらだと思われていた方がいいとでも思っているのでしょうか。馬鹿な人たちです。はっきりと言えばいいのです。実に不自由に英語をしゃべっているんだという事実をはっきり言った方が、日本で英語をやろうとする人に日本の英語というものがどういうものかを伝えることができるのですから。
ぺらぺら英語は幻想です。たいていは大したことを言っているわけではない。くだらないおしゃべりも英語で言っていれば上等に見えてしまうらしいところが、日本人のコンプレックスを明らかにしているだけです。ぺらぺら日本語というものに、日本にいる日本人が価値を見るでしょうか。誰もそんなものを特別なものだと思いません。ぺらぺら英語も英語の磁場に置けば当たり前のものです。英語の磁場が払底している日本に置かれるからこそ、ぺらぺら英語というものが特別なものになるだけのことです。この特別なものに人々は早く背を向けることができるようにならなければなりません。とつとつとしゃべる日本育ちの日本の英語、それこそがもっとも普通のものであるという認識が育たないかぎり、日本人のくだらないコンプレックスの根を絶つことは不可能でしょう。
ここで書いた「音づくり」は、このぺらぺら英語というものとは似て非なるものです。「音づくり」は、英文を読むにも書くのにも本当は必要なものです。「音づくり」をちゃんとやらなければ、英文を普通の速度で読むことも成立しません。
「音づくり」はぺらぺら能力用のものではありません。ぺらぺら能力を「準備する」ことはできますが、それでもぺらぺら能力のためだけにあるのではありません。「音づくり」を行い、きちんと音がつくれれば、もっとはるかに広く使えるものです。「音読」の能力は、「ぺらぺら」能力よりももっとはるかに普遍的な価値につながっています。
ぺらぺら能力だけが欲しければ、アメリカでもカナダでもイギリスでもいいから、さっさと渡ってしまうに限ります。ぺらぺら能力という狭い能力だけが欲しいのであれば・・・。向こうに渡ってじたばたすれば、ぺらぺら能力だけなら手に入ります。
私自身のことを言えば、ぺらぺら能力には興味がありません。語学が扱う「死んだ言語」が生きて動き出すことに興味があるだけです。それが語学のもっとも面白いところだと思っています。
日本にある教材や放送や学校の英語というのは、本当は全部「死んだ言語」です。それでいいんです。語学は本当は「死んだ言語」から始まります。それが生き返ること、それこそが語学の醍醐味です。「ぺらぺら」能力というのは、この「死から生へ」という醍醐味に生える枝の一本に過ぎません。
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