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素読による読書案内原データ・1

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2001年2月21日

1
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

 私にとって、江藤淳の自殺は、日本の戦後の<消去>を象徴するものだ。「日の丸」「君が代」の法制化、「盗聴」法、国民総背番号制、「危機管理」という名の強力な監視体制。そしていま、小・中・高生への奉仕活動の強要と、「プレ・徴兵制」というよりほかない満十八歳の青年に一年間の奉仕活動の義務づけまでが、制度化されようとしている。そういうふうに言うならば、外堀は埋められたのだ。最後の仕上げは、言うまでもなく日本国憲法第九条の改悪である。


2
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

 日本共産党から新左翼党派にいたる既成左翼は、ソビエト連邦や東欧の社会主義「国家」の崩壊を、真正面で受け止めることなく、その歴史的総括と思想的な自己批判をを放棄して、みんな<第二主題>に逃げ込みを図っている。言うまでもなく、「環境問題」や「社会福祉」や「フェミニズム」などへの退行だ。その挫折と主題の放棄は、権力の政治支配と歴史的反動の加担となり、社会ファシズムに道を開いている。社会的善意の横行は奈落への道なのだ。じぶんたちのオトシマエは、じぶんたちできっちりつけるがいい。わたしはそうするだろう。そこにしか、未来への隘路はないのだから。


3
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

 父はニワトリの一羽ずつに、コップで水を運んでいたのです。さんざんな厭味と文句が滝のように降り注いでいるうちに日は落ち、暗がりでバケツと黄色いメッキのアルミの杓を持たされて、彼は彼女の監視の中でトボトボとニワトリに水を与えるのでした。(島尾伸三『月の家族』)

 この「父」は、作家の島尾敏雄である。
 創作活動のような、自分の世界に完全に没頭しないとできない作業に従事していると、こんなボーとしたような、まぬけな事態は起こりうる。思考の行動の切り替えがうまくできないと、現実的な適応力が、極端に損なわれるからだ。昼行灯みたいに。だから、こんな滑稽で悲惨な、ちぐはぐな場面が現出することも、ちっとも、不思議ではない。


4
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

 <文学>という開かれた場所で、わたしはひょっとしたら、<わたし以上>のものになれるかもしれない。その解放感こそ、もとめてやまないものだといっていい。それでじゅうぶんだ。


5
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

 それはわたしだって、日本の政治から文化にわたる現状をみていて、いつから日本はアメリカの属国になってしまったんだ、というようなナショナルな憤りをおぼえないわけではない。しかし、その憤りのやり場を、回帰的なオールド・ファッションのうちにもとめることはできない。まして、日本的な伝統などアジア的停滞の現れでしかないのだ。わたしは、ヘーゲルが『歴史哲学』のなかで定義した、<歴史概念としてのアジア>の特質を思い浮かべないわけにはいかない。いわく、「皇帝は常に尊厳と父のような慈愛と温情とをもって人民に対するが、しかし人民は自分自身については極めて卑屈な感情しかもたず、ただ皇帝陛下の権力の車を引くために生まれて来たものと信じ切っている」。


6
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

 江藤淳の言い分だって、愚劣な国際社会の現状のなかでは、じゅうぶんに根拠のあるものだ。けれども、江藤淳の政治的発言のなかに、決定的な欠陥があるとすれば、そこに大衆的なリアリティがないことだ。つねに、じぶんは政策的なブレーンの位置に身を置いていて、知識人の特権でものを言っているからだ。彼らのいう「有事」なら「有事」で、戦場に動員される兵士や、その圧迫を被る一般大衆の姿は、その机上の空論から完全に脱落している。


7
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

 文学に限らず、芸術なんてものは、あやかしいものだと、一般的におもわれている。もっともな意見だと、わたしもおもう。文学なんてものは、空の空を撃つようなもので、実利に結びつかず、なんの益もない、徒労の産物にちがいないといえるだろう。もとより名誉や名利なぞ、社会的な虚飾にすぎないとおもっているから、そんな通俗性に迎合する気はまったくない。こうなってくると、どんどん客観的な意義はなくなってくる。それでも、なお、文学なんていう、あやかしいものに、執着するのは、ひとは、どこかで、いま生きている時代の水準と制約を越えたいと願っているからではないだろうか。


8
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

 「なんであこがれるんだろう/それはたぶんあいつが/おれのもっていないものを/もっているからだ/なんで/ひかれるのか/それはあいつが/おれのもってるものと/同じものをもっているからだ」(大島弓子「パスカルの群れ」)


9
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

たとえば、じぶんはどうして、こうも苛れなんだろう。どう探っても行き当たるものはない。しかし、授乳時、母が生活的に切迫していて、ゆとりがなく、つねに急かされていたとしたら、それが転写されたといえるだろう。そうだとすれば、自己責任はなかば免責されることになる。それは、人間性にとって、深い救いなのだ。


10
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

<家>は異性出入りでも壊れるだろうが、双方の意識の競り合いでも、壊れてゆくものだ。光太郎と智恵子の暮らしも、傷ましいものだったようにみえる。わたしなら、じぶんの方が、さっさと表現の場から降りるだろう。それにしても、「智恵子抄」は読めば読むほど恐ろしい詩集だ。


11
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

「プロレタリア文学史」などといって、軍部や特高警察の弾圧により、発行物が押収されたことや発禁処分になったことを、輝かしい闘いの歴史であるがごとく、言いふらす連中をみていると、民衆の誰もが、戦争という政治的な暴力と抑圧に苦しんだのは、<客観的な事実>であって、おまえらの身内だけが特別な仕打ちを受けたのではないといいたくなってくる。活動家の獄中死も、無名戦士の戦死も、爆撃による被災死も、状況的な死として<等価>なのだ。


12
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

みえない関係が
みえはじめたとき
かれらは深く訣別している    (吉本隆明「少年期」部分)


13
『哀愁のストーカー』松岡祥男(ボーダーインク)

きみはちひさな恢復とちひさな信頼をひつようとしていると
医師どもが告げるとしても
信じなくていい
君の喪失の感覚は
全世界的なものだ    (吉本隆明「分裂病者」部分)

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2001年2月21日


14
『精神病を知る本』別冊宝島編集部(宝島社文庫)

 たとえば、ひとりのアル中患者が通りすがりの主婦とその子供を殺害する。妄想に支配されての犯罪と認められれば、かれは刑罰を免責されるか減じられる。しかし、アル中という病いもまた、結局はかれが択びとっているみずからの場所(アイデンティティ)ではないのか。殺人がアル中による妄想に直接は起因するのだとしても、妄想を生きてある主体としてのかれは、依然として殺人行為の主体でもあるはずだ。心神喪失者として無罪を宣告されるとき、人はみずからのアイデンティティを根こそぎ剥奪される危機にさらされることになる。
 こうして、精神鑑定に媒介されることによって、犯罪という表現は犯罪という病理へと変換させられる。制度としての精神鑑定とは、いわば、わたしたち市民から合法的に主体(アイデンティティ)をはぎとるイデオロギー装置なのである。
   (赤坂憲雄・「精神分裂病とは何か?」)


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2001年2月23日

15
『精神病を知る本』別冊宝島編集部(宝島社文庫)p.22

 いまだ証明されることがないままに、内因性の仮説は精神医学の世界では支配的であるらしい。むろん、臨床の学とはつねにそうしたものであろう。しかし、内因という概念自体が、あいまいな仮説にすぎないことを知っておく必要がある。心理的な原因(心因)による神経症や、外部からの身体的な原因(外因)による進行麻痺・中毒症などと区別するために、内因の概念は生まれたが、それは漠然と、生まれつきの素因・体質や、内分泌・代謝の障害などをさしている。むしろ、内因とは身体的な原因がいまだ知られていないことを意味する、というシュナイダーの解釈がもっとも現実に即している。やがて、分裂病の生物学的研究がすすめば、脳内の代謝異常などの生物学的病変があきらかになるにちがいないというクレペリン以来の自然科学的オプティミズムが、<内因性の神話>を支えてきた。しかし、依然として、”精神医学百年のスキャンダル”はそそがれていない。
   (赤坂憲雄・「精神分裂病とは何か?」)


16
『精神病を知る本』別冊宝島編集部(宝島社文庫)p.22

 了解不能性こそ分裂病を診断する重要な根拠であり、精神科医が分裂病と診断したということは、その患者の心理や行為は根本的に了解不能であることを示している−−−と、ひとりの精神科医は述べる。謙虚さのひとかけらもない。なんという傲慢な思想であることか。(略)
 了解不能ならば分裂病であり、分裂病ならば了解不能である。精神医学という<知>の体系が分裂病について語るところを、極限まできりつめてゆくとき、わたしたちはそこに、この、かぎりなく貧しい同義反復(トートロジー)を見出すことになる。
   (赤坂憲雄・「精神分裂病とは何か?」)


17
『精神病を知る本』別冊宝島編集部(宝島社文庫)p.32

 収容所や刑務所などへの拘禁という状況下では、しばしば妄想・幻覚・意識障害などの異常があらわれる。拘禁反応とよばれるが、クレペリン以来、この拘禁反応と分裂病の異同鑑別はひとつの難問(アポリア)でありつづけてきた。それ自体拘禁のための施設である精神病院を舞台として抽出された、分裂病という疾病像のなかに、拘禁反応が分別しがたくまぎれこんでいることも当然といえる。
   (赤坂憲雄・「精神分裂病とは何か?」)


18
 松岡祥男さんがシリーズとして編集発行している『吉本隆明資料集』が送られてきたが、その11号と一緒に「連載 吉本隆明 戦後五〇年を語る」というタイトルの新聞のコピーが同封されていた。そこからの引用。新聞は「週刊読書人」か。発行日は1996年5月10日。赤坂憲雄を読んでいる途中だが、ここに挿入する。

 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』<36>(聞き手=山本哲士)

 新約聖書と同じで、「自分は父母兄弟のために念仏を唱えたことは一度もない。念仏を唱える人々は皆、自分の父母兄弟だ」「自分は弟子一人もいない。念仏を唱えるものは皆、同朋だ」とも言っています。聖書のなかにもありますね。キリストが説教をしていたら、自分の父母や兄弟が聞きにきていた。群衆が「あいつは大工の息子じゃないか。何で偉そうなことを言ってるんだ。あれはお前たちの父母兄弟だろう」と言います。それで白けてしまって、故郷では説教の威力がなくなってしまいます。キリストは、「我が母とは誰ぞ。我が兄弟とは誰ぞ」と言って、予言者は故郷では容れられないものだと述懐します。親鸞も「じぶんは父母兄弟のために念仏をしたことはない。念仏を唱えるものは皆、父母兄弟なのだ」と言っています。あまりにも類似しているので、親鸞は『マタイ伝』を読んでいたという伝説が、本願寺にあるんです。オリエントに行った中国の景教の僧侶が翻訳したものを親鸞は読んでいた、という伝説があるくらいですね。


19
 『吉本隆明 戦後五〇年を語る』<37>(聞き手=山本哲士)

 マルクス主義者になっちゃうと、たいていは信仰としてのマルクス主義という要素がどこかに入ってくるんですね。柄谷行人でも、浅田彰でもいいけれど、「バカなことを言うなあ」ということを言ったりやったりするんですよ。これは信仰だなと思うようなことを言う。僕らは理念が宗教になるのを認めませんから、彼らの言うことも認めませんが、相当の人でも、現在のところ、宗教は理念的になり、理念は宗教的になってしまう以外にない段階です。


20
『精神病を知る本』別冊宝島編集部(宝島社文庫・1999年11月第一刷)p.36

 分裂病の病態はたしかに多様化しており、それにともなって、分裂病の病像ないし輪郭がしだいに不鮮明になりつつある。興奮や昏迷などを示し、ひとめでそれとわかる典型的な「緊張型」や、情意鈍麻をおもな症状とする「破瓜型」の減少に反比例するかのように、「妄想型」や、不安・強迫・心気症・離人症といった神経症性の症状を前景にもつ、新しいタイプの分裂病が増えている。いわゆる「境界型分裂病」とよばれる症候群である。アメリカでは早くは一九三〇年代から、日本では一九五〇年代から問題とされはじめた。境界とはむろん、分裂病と神経症の境界線(ボーダー・ライン)を意味している。
 (略)一九世紀的な拘禁状況のなかに生まれ、呪縛力をおびながら流布されてきた分裂病という物語が、いま現実自身によって喰い破られ、解体をよぎなくされているのである。

   (赤坂憲雄・「精神分裂病とは何か?」)


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2001年3月2日

『精神病を知る本』別冊宝島編集部(宝島社文庫・1999年11月第一刷)p.42

 (略)非本来的な家族があるならば、その対極に本来的な、したがって理念化された正常な家族が想定されているはずである。そうした隠された二元論は、クーパーがどれほどラディカリズムを装おうとも、たいした思想の力も射程ももちあわせていないことを意味している。


『精神病を知る本』別冊宝島編集部(宝島社文庫・1999年11月第一刷)p.46

(略)分裂病はその定義や診断基準がきわめてあいまいで、単一の疾患単位であるのかどうかすら疑われている「精神病」である。中井久夫によれば、分裂病だけにみられる特有な症状は存在しないという。基盤となる身体生理学的な異常も、むろんなにひとつ発見されていない。


『精神病を知る本』別冊宝島編集部(宝島社文庫・1999年11月第一刷)p.48

パプア・ニューギニアの精神病者について、精神科医の野田正彰はこんなふうに報告している。

 石器時代がつい昨日のことであった、茅ぶきの土間の家に暮らす、はだしで草の腰当てをしたニューギニア高地人たち。その四十歳以上の(つまり西洋文化を知らない)者には、たった一人の分裂病者もなかった。そこには、狂気はあっても狂人はいない。かれらの精神錯乱はすべて一過性のもので、いかなる症状もあとに残さない。

 (略)狂気はすべて村人に了解され、村の生活の一部に組み込まれている。体面を傷つけられたり、当然の愛を失う者は、そのきまった型にあわせて狂気を表現する。村人たちはすぐに、かれの精神的危機の表現に注目してくれる。(略)ここには、急性の錯乱という狂気しか存在しないのである。(略)
 ところが、パプア・ニューギニアでも、西欧文化と接触する地点から、被害妄想を中心とする急性の分裂病反応や、誇大妄想を中心とする精神症状が出現してくる。急性分裂病反応は、みずからが依拠する伝統社会を出て、巨大な異文化にさらされたときに起こっているのにたいし、あとの誇大妄想は、村で西欧文化をむかえたときの反応である。病者は、二つの文化の接触する境界的な場所にある人びとに多い、という。

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2001年3月8日
(『精神病を知る本』を読んでいる途中だが、詩の雑誌・『midnight press』が届いた。二つほど書き留めておきたい文をみつけた。『精神病を知る本』を中断し、書き留める。)

『詩の雑誌・midnight press』11号 p.65 「読書日録11 大島弓子の新刊 松岡祥男」

 2月4日 吉本隆明の「詩学叙説 − 七五調の喪失と日本近代詩の百年 − 」は刺戟的な論考だ。富永太郎や吉田一穂や伊東静雄の詩が、詩的な転換の意味を異国語との交換にまで徹底しているという指摘には、びっくりした。詩に関心の深いものなら、うすうすと感じていたはずのことだが、とてもきわどくて、そう言い切ることができなかった問題だ。田舎者の無学なわたしは、鮎川信夫や田村隆一をはじめとする「荒地」派の詩を読んで、いつも英文調のような気がしていた。そういうことだったのかと納得した。

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2001年3月8日

『詩の雑誌・midnight press』11号 p.89 「翻訳、ことばの鏡 5 何語で書くか」 くぼたのぞみ

 これまでにも、あとから学んだ言語で書いてきた作家は大勢いる。英語ならコンラッド、ナボコフ、フランス語ならシオラン、クンデラ、アゴタ・クリストフ、等々。でも、こういう人たちは、大きなカテゴリーでいえば一つのヨーロッパ系言語からもう一つのヨーロッパ系言語へ移ったのであり、その言語が使われている国へ移動し、暮らして(亡命して)という場合が多い。しかし、詩を書くときは第一言語という人が多いのではないか。
 さて、アフリカはどうか、となるとちょっと、いや大いに事情が違ってくる。例えば南アの黒人の場合、学校では小学四年まではズールー語やコーサ語などで学び(家庭で使われるのは当然これ)その後は英語で学ぶ。だから第一言語はコーサ、ズールー、ソトといった諸言語で、細やかな感情表現や親しい人たちとのコミュニケーションは英語では行われない。表向きの言語、それが英語なのだ。

(略)南ア黒人の詩人や作家はマジョリティに属しながら、オリジナル言語からはるかに遠い英語で作品を発表することが圧倒的に多い。これは何を意味するか。さらに、アパルトヘイト撤廃後、クッツェーやゴーディマのような白人作家が旺盛に作品を発表しているのに対して、期待された、若くて新しい黒人作家が出てこないのはなぜか。
 アパルトヘイト時代のプロテスト文学の限界という大問題は別にしても、その理由の一つは言語間のギャップの問題に深く根差してしてのではないか、と私は想像している。細やかな感情の襞に触れる言葉遣いや人間関係、アフリカが培ってきたものの考え方、感じ方の底部に、英語表現が届いていないのではないか、と。

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(以下、継続途中)
2001年3月 日

『精神病を知る本』別冊宝島編集部(宝島社文庫・1999年11月第一刷)p.54

(略)南東ではカミダーリ(神憑り状態)をはじめとして、狂人(フリムン)たちの世界は、



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