小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」を書いて以後、Sさんという方とメールで語学論議を続けてきて、映画のシナリオを私の「技法グラウンド」という方法で素読(回転読み)することを考えつきました。これを「電話でレッスン」の一環として行います。
映画のシナリオを使うことにどんな利点があるかを言う前に、「言語的磁場」について書いておかなければなりません。「言語的磁場」という語は、小学館文庫「英語どんでん返しのやっつけ方」を書いていた時点では使っておりませんが、その後はこの言葉を中心に置いて、英語と英語をやる方法について考えてきました。
端的に言えば、「日本には英語の言語的磁場がない」ということです。このことは、英語を勉強しても使う場所がないからなあ、という言い方で多くの人が言っています。日本語と英語のシンタックスの違い、学校英語の駄目さ加減なども、日本人が英語をなかなか使えるようにならないことの原因になっていますが、もう一つの大きな原因は、日本に英語の「言語的磁場」がないということです。
日本人の英語を日本人が自分で馬鹿にするときに、「アジアの国には、英語をしゃべる人がいっぱいいるのに、日本人はしゃべれない」というものがあります。これは事実なのですが、これを言う人が、その事実の背景になっていることに考えが及んでいない場合がほとんどです。
アジアの国で英語がクレオール化している(親から子供へ、世代から世代へ英語が伝わるようになっている)国は、スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスなどによって植民地化された国です。もとからあったその土地の言葉は、これらのヨーロッパの国々によってずたずたにされました。
これらの国では、英語が普及する前に、スペイン語・オランダ語などによって作られた「人工言語」が存在していました。単語はその土地の以前からの言葉なのですが、この「人工言語」の骨組み(シンタックス)は、ヨーロッパのSVO型のものでした。この人工SOVシンタックスがあり、それを使わないと生活に困るほどに強制されていたからこそ、これらの国で、その後英語が急速に普及したのです。英語が若い「人工言語」の骨組み(シンタックス)と大枠で一致したから、クレオール化したのです。一言で言えば、植民地化という酸鼻を伴った歴史の有無が現在のアジアにおける英語能力の地図を決めています。
日本語は外的な力によって、ずたにされることをまぬかれました。そして、日本語はヨーロッパ諸語のSVOシンタックスとはまったく異質のSOVシンタックスの言語です。
もともとの言葉をずたずたにされてしまった国の人々は、新しい「人工言語」によって生活することを強制され、その悲しい歴史の延長で英語を獲得した(クレオール化した)のですが、このことは、もともとの言語を「捨てさせられた」ことを意味します。西洋野蛮による暴力以外のものではありません。
日本人がこの現代において英語をやることは、日本語と英語という異質な言語を「二つとも持つ」ことです。「捨てさせられた」ことと、「二つとも持つ」ということが、どれほどかけ離れて違うことなのかをはっきり言う論潮は、最近になってようやく出てきたばかりです。
再度、現状を言います。日本では英語はクレオール化していません。つまり、親から子へ、世代から世代へ伝わる言語になっていません。これが、日本には英語による「言語的磁場」がないということです。
日本にある英語の「言語的磁場」は、米軍基地とか、その周辺の酒場のような特殊な場所だけです。他は、すべてが擬似的な「言語的磁場」にすぎません。
ですから、日本人が英語をやるということは、英語の「言語的磁場」を欠いたままで英語をやることにほかなりません。これは、単純にしゃべり言葉だけに焦点をあてた語学の上達にとってはまったく不利な条件です。しかし、翻って考えてみれば、もともと語学とは、当該の言語の磁場を欠いた場所で行われる意識の激化ではないでしょうか。日本人が日本にいてやる英語や、逆にアメリカ人がアメリカにいてやる日本語というものが、語学としてはもっとも普通のものだということです。アメリカ帰りのアメリカ英語は、語学としては特殊なものです。それは時に、言語としても、人間としても、擬似的なアメリカンネイティヴを作り出してしまいます。
しかし、実際問題、日本人の英語はなかなか使えるレベルになりません。アメリカへ渡り、生活ごと覚えた英語に比べれば、いつまでもぎこちないままです。英語の「言語的磁場」がないことがいつまでもつきまとう、それが日本にいて作る英語の特記すべき性質です。これを、私は英語の在日性と呼んでいます。
米軍基地のような特殊な場所を除けば、日本にある英語の磁場はすべて擬似的なものです。英会話学校などは、擬似的な磁場を本物の磁場であるかのようにみせかけることによって商売を成り立たせています。英語が風邪のようにウツルかもしれないという幻想ひとつをテコとして、しゃあしゃあと商売だけを成り立たせている英会話学校というものがあります。英会話学校の生徒さんには、はっきりと申し上げる必要があります。
「英語は風邪じゃないからウツリマセン」
日本には英語の擬似的な磁場しかないのなら、その中で、もっとも上等な磁場は何かと考えて、映画というものが思い浮かんだのでした。語学における意識の激化は、その根本からして、シュミレーションであり、フィクションであり、レプリカです。「激化」自体は、リアルなものですが、その言語が働く場は、実際の場を離れて、語学をやる人の意識以外にはありません。大げさに言えば、日本におけるSVO型の語学的意識とは、絶海の孤島のようなものです。
語学で使われる意識がフィクションであることに、映画のフィクションを持ち込んだらどんなものだろう。非常に相性がいいのではないだろうか。「絶海の孤島」を「孤島」でなくすることはできないにしても、「絶海の」ものでなくすることは、テキストに映画のシナリオを選ぶことで可能なのではないか。そう考えたのでした。
そこでインプットされ、獲得されたものを、映画のリスニングによって、「使ってみる」ことが成り立ちます。映画を直接に英語で楽しむという、ご褒美がすぐ後に待っているのがいい。学校の英語には、「楽しむ」というご褒美がないのです。練習しても、点がとれる程度のケチなものしかない。
「映画でヒアリング」を、これまでの「電話でレッスン」の一項目として追加します。
日本で英語がクレオール化するときがもしもあれば、それは、日本が今ある日本ではなくなる時です。この場合の「今ある日本」とは、「日本では日本語を話す」という基本を持った国のことですが、「今ある日本ではなくなる」とは、外的な(政治的な)強制力によって、日本語を滅ぼされる事態を言います。これは、ほとんど日本人全体にとって「とんでもない事態」です。
「日本では日本語を話す」という基本を持ち続けることができる限りは、英語は日本ではクレオール化しないでしょう。私はそう考えています。また、このことは、日本人が日本にいて英語をやることの孤独は続くということを意味します。つまり、英語は、親から子へ、世代から世代へ伝承される言語にはならない。孤独な個人の意識の激化からそう遠くまでは行けないということです。
日本在住のまま英語をやることに関して、多くの人々が何か根本的に誤解しています。そう思われてなりません。
「日本在住のまま」であるならば、英語は「一生もの」です。普通は、「一生もの」という日本語は、「買った品物の品質がいいから一生使える」というようなことを意味しますが、ここで言っている「一生もの」はまったく違う意味です。英語は「やるんなら一生やらなければ駄目」だという意味です。練習をやめてしまえば、ただちに錆びつきが始まります。そのまま放っておけば、四、五年で使いものにならなくなります。SOVシンタックスを基本とする日本人の宿命です。これは変えようがありません。
これが日本在住のまま、英語をやることの基本中の基本の性質です。
しかし、もしも、と考えます。
日本がアメリカの属国にでもなった日は、と。
そうなれば、英語はクレオール化するでしょう。そんな日が来るならば、そのように蹂躙されることに甘んじる国ならば、私は日本にいたくはありません。日本語の使えない日本、それにどんな意味を見いだせばいいのか私にはわかりません。
しかし、もしも、と、もうひとつの「もしも」を考えます。
日本人が、もしも、日本語を持ったまま英語を使えるようになることが一般化することがあったなら、と。英語をクレオール化せずに、一般化するとは具体的にどんなことなのか、これからも方法は探られなければならないでしょうが、もしも、日本語と英語を「ふたつとも持つ」ことが一般化することがあったなら、ということです。植民地化の暴力によってではなく、言語政策という暴力によってではなく、日本人が自主的に獲得した英語によって、「ふたつとも持つ」ということが一般化したなら、これは世界史上きわめて新しいこと、前人未踏の場に踏み入ることではないだろうか。これはヨーロッパの英語ブームで英語を身につける人などがうかがいしれない困難を秘めたことがらです。
日本人が日本語によって育った感覚と思考のままに、英語を使い、英語に変形を加えることができるなら・・・。
これは、妄想に類することなのでしょうか。現在は、「使えない英語」「英語でない英語」ばかりが、学校や英会話学校、進学塾などによって量産されています。この無惨な現実を見ていると、私の「ふたつとも持つ」は妄想に類するもののように感じられてきます。しかし、それでも日本人の英語が向かうべき方向は、この「ふたつとも持つ」という方向以外にはありません。他の道は無惨な道、そう考えています。
さて、もっと足下を見ることにしましょう。
映画です。
擬似的な言語の磁場ですが、おそらくこれが日本で手に入る最上のものです。
映画のビデオの中古品が千円以下で手に入るようになってきました。
電話会社の競争が始まり、例えば「シャベリッチ」というNTTのサービスは、相手の電話番号を登録すれば、40%も料金が割引されるようになりました。(2000年8月現在)
この二つの条件をにらみ合わせ、「映画でリスニング」というレッスンを、電話を使って開設します。すでに練習は始まっており、採用されているテキストは、「E.T.」「スピード」「ワーキング・ガール」「サウンド・オブ・ミュージック」「七年目の浮気」「シャイン」などです。
生徒さんひとりひとりに自分の好きな映画のシナリオを選んでいただいています。中に、上級者と言っていい人がいて、非常に進み方が速いので、こちらで準備をしておくのに四苦八苦しています。
眼目は、文字が必要でなくなるまで、映画のシナリオを徹底的に音読するということです。「通じる」音を作り、音を安定させたら、読みを加速します。「読み」を徹底することがリスニングの能力を作ることに直結していきます。また、自分の口の筋肉を鍛え込むことはそのまま、「しゃべる」能力にも直結していきます。途中で媒介にするものは、ビデオで映画を楽しんでいただくことです。これは各自、自分で行っていただきます。
レッスンで行うのは、「音づくり」です。
それのみを行います。
「理解」に必要な文法の質問などはメールでお受けします。
テキストは、今のところ、スクリーンプレイ出版のものを使用しています。およそ100に近いタイトルがあります。順次、別の出版社のものも採用していきます。別の出版社のもので、やりたい映画がある場合は、その旨申し出ていただけば対応します。
日本人の英語の孤島性をやわらげるために、つまり、日本の英語の「在日性」を確認しながら先へ歩くために、「映画でリスニング」をおすすめします。
------------- 要項 -------------
・英文の音声化を徹底することで、英語のシンタックスを身につけたいと考える人を対象とします。高校生以上を対象とします。「音づくりによるインプット専用」です。
・音声面の練習を電話で行います。メールでアドバイスをし、メールで質問をお受けします。
・電話代は生徒負担とします。電話会社の比較、サービスの検討等の工夫をなさっていただくようお願いいたします。
「電話でレッスン」用電話料金試算
・レッスン料金は月額一万円です。教材は各自、書店から入手して下さい。
・申し込み、予約は毎日可能です。正午から夜11時まで、携帯電話で受け付けます。メールで申し込んでいただくのがベストです。
・申し込みの時点で、双方に都合のよい曜日と時刻を決め、練習を開始します。なるべくメールでやりとりします。
・練習に使用する電話番号 026−272−4330
・一回の練習時間は30分です。
・練習開始の連絡は、生徒の電話のベルを二度鳴らすことで行います。予約した時刻にベルが二度鳴って止まりましたら、026−272−4330へお電話下さい。
・ベルを二度鳴らしても、5分以内にこちらに電話がない場合は、キャンセルとみなします。キャンセルすると練習が行われませんが、月額一万円は減額されません。
・電話で申し込まれる場合は、090−3316−4180でお願いします。メールで申し込まれる場合のアドレスは、ax9y-nis@asahi-net.or.jp です。
・入会金等はありません。
・郵便貯金口座番号は、11180−21641261(根石吉久)です。払い込み手数料は生徒側でご負担下さい。
・少しずつ、クラスを充実させていくことを希望していますので、お友達をご紹介下さった方に、30分の無料練習時間をさしあげます。
ホームページ: http://asahi-net.or.jp/~ax9y-nis
メールアドレス: ax9y-nis@asahi-net.or.jp