「売文・アイテム一覧」へ


英会話学校はハイエナだ 


 学校が作り出す疑似英語の腐肉




 日本の学校の英語は英語ではない。
 人々がどんな信仰を持っているのかは知らないが、私が見るところでは、学校で扱っているのは、英語みたいなもの・疑似英語だ。
 単語でも、熟語でも、語法でも、文まるごとでもいいが、それらがイメージ化し、イデア化し、音とイデアが同時化するのでなければまともな語学とは言えない。イメージ化しイデア化したものを音と同致させるまでの方法を学校は何一つ持っていない。
 だから学校は語学にとって監獄である。なによりもまず、学校では「音づくり」がまともに行われていない。「音づくり」こそが語学の最大の突破口なのだが、学校にはそれがない。だから、学校の英語は知識が知識のままにとどまるだけで、自分から動き出す英語にはならない。英語を知識のとして閉じこめてしまう場所、それが学校だ。
 ただいまのところ、日本の若者の大多数がこの監獄に入る。

 学校そのものへの批判は別のところで書くとして、話は英語に限ろうと思う。まあ、とにかく、学校の英語というものは英語ではない。いくら人々の信仰が篤くても、あれは英語ではないのだ。いつまでたっても、英語みたいなもの、疑似英語のままなのだ。
 英語のシンタックスを、英語の磁場を欠いたままの場所で身体化することを学校がやれたことはない。当該の言語の磁場を欠くところで意識を激化するのが語学の本質であるのだから、日本で英語をやることこそは語学らしい語学だが、語学という一つの独自な意識の領域を学校は確定したためしがない。

 アーティキュレイションを簡潔に日本語で指示し、イントネーションとリズムを備えて、同じ文が何度でも同じ調子で言い続けられるようにすること。この基礎の基礎になるべき「音づくり」はまるで学校では行われない。学校では、そのままにしておいたら使えない英語になってしまう音にOKを出す。一人一人の子供に「通じる音の音づくり」をやっていたら、中間テストも期末テストもできなくなるのは目に見えている。だから、通じるようにならない音にOKを出し続けるのだ。そもそもそれをやれる教員がほとんどいない。
 学校がやっていることは語学には毒でしかない。語学という独自の領域を他から分離させて確定することさえできれば、この領域では生活言語から見てどれほど倒錯的なことも倒錯ではない。逆に、語学という意識の場を本当に確定してからでないと、実は語学は非常に危ないものなのだ。そんな危険に対しても、学校は無知のままだ。
 同じことの繰り返しになるが、学校は英語をまともに語学として扱うことができていないのだ。だから往生できない英語ばかりが、さまようのだ。

 語学という領域で必要なことは、「からっぽ」を大きく肯定すること。小学生や中学生の段階では、意味と音が「ずれる」ことを肯定すること。最後に、意味と音を一致させようとしたときに、ごつごつした、不自由なしゃべり心地が生じることを全面的に肯定することだ。これらが、基本的な認識として多くの人に共有されるまでは、日本の英語は往生できずにさまよい続けるしかないだろう。
 机の上では、なめらかに速く、実際に使うときは、ごつごつと不自由に。これがきわめて自然な日本育ちの英語なのだが、それを自然な性質だと言う人がほとんどいない。

 作った英語が使えるか使えないか。
 作った音が通じるか通じないか。
 それが眼目であって、ごつごつした英語をおとしめ、ぺらぺら英語をあがめるのは、卑屈な植民地根性でしかない。

 日本の英語の病状がさらに広がろうとしているのが、小学校への英語の導入だ。
 中学や高校の英語の扱いがすでにでたらめなのに、小学校で小学生に英語をやらせてどうするというのか。
 小学生にやらせる英語なら、語学的意識について何の訓練もなされていない小学校の教員のでたらめ英語でこと済むと思っているのか。子供への侮辱以外のものではない。

 小学校に英語を導入するのであれば、「通じる音」の「音づくり」に限定すべきだ。その限定を設けたうえで、それをとことん練習させるべきだ。
 根本の方法として据えるべきものは、音読や素読であるべきだ。そして、同時に「からっぽ」を大きく肯定することが共通認識にならなければならない。そうでなければ、日本語の骨組みもまだ弱い子供に英語をやらせることは非常に危ない。

 素読や音読で、質のいい「からっぽの電池」をたくさん作って準備しておくこと。そして、将来、本人が望むなら、英語の磁場に入ればいいのだ。そうすれば、「からっぽの電池」に、つぎつぎに充電が始まるだろう。その時に備えて「からっぽの電池」を質のいいものにしておくことが、小学校や中学校で行うべきことだ。これは、日本語で育った意識というものを踏まえて考えるなら、何も特殊な方法ではない。日本には英語の磁場がないからだ。

 語学の言語と生活の言語を地続きだと思っているのは、途方もない迷信である。語学の言語と生活の言語はまるで別のものであり、語学の言語に熟達することで、生活の場面でも英語をしゃべるようになる人は、途中で語学から生活の地平に向けて大きくジャンプするのだ。語学の言語と生活の言語は決して地続きではなく、その間には大きな断層がある。ジャンプするのでなければ越えられない断層がある。
 小学校へ英語を導入しようとしている者たちに、この断層が見えているとは思えない。この結果はきわめて惨めなものになるだろう。日本語も英語も両方とも中途半端な日本人の量産という結果だ。あるいは、神経症の増加だ。

 どうせたいした成果はないだろうということが、せめてものなぐさめである。
 英語の磁場のないところで、英語の運用能力だけが育ったとしたらどんなことになるか。それが神経症の多発をもたらすことが見えないのか。見えないらしい。語学に本気でもぐりこんだことのない人たちにはわからないらしい。

 書き言葉や読み言葉での日本語の骨組みを身につけることが、日本の子供が最初にやるべきことなのだ。日本語の骨組みがしっかりしていない小学生は、現時点でも非常に多い。英語の塾をやっていれば、どうして学校は子供に日本語の読み書きがちゃんとできるようにしてやらないのかと思い、腹立たしくなることがよくある。日本の小学校がすぐに着手すべきことは、小学生の日本語のシンタックスの骨を太らせることである。これをいいかげんなままに放置して英語をやらせようというのだから、自分を指導者だと思っているタチの悪い知識人どもは馬鹿の集まりと言うしかない。

 アジア諸国に英語でしゃべっている国がいっぱいあるのに、日本人は英語でしゃべれないと世界から馬鹿にされて、何をへこたれているのであろう。アジア諸国で、英語が使われている現象は、ヨーロッパの貴族どもの都合(やくざどもの都合)によって、ハードな植民地化が行われた結果以外のものではない。それはまがいもなく悲惨な言語状況なのに、欧米寄りのものの見方しかできない日本人は、それをまるで「いいこと」であるかのように語る。無知が発する腐臭というものもあるのだ。

 日本は、ハードな植民地化はまぬがれた。

 英語をやるのであれば、日本人がやるべきことは、日本語と英語を両方とも持つことだろう。その場合、日本人がしゃべる英語はごつごつした、無骨な、なめらかでない、不自由な英語で「あるべき」なのだということが、馬鹿どもにはわからない。アメリカ人のようにぺらぺらとしゃべる英語が日本でも上等なのだと信仰している。馬鹿は死ななきゃなおらないということは本当のことなのだ。

 英語が作る磁場がない場所で作られる英語は、直に土から生えている植物ではない。日本で作られる英語力というものは、どこまでいっても鉢植えの植物なのだ。土から切り離された植物。根を張る範囲を鉢に限られた植物。絶えず水をやり世話をしていなければ枯れてしまう植物、それが日本の英語なのだ。

 それを根本的に規定しているのは、日本には英語が作る言語の磁場がないという簡単な事実だ。

 英語が作る磁場があるということは、親や友達が英語をしゃべっているから、語学などやらなくても、ネイティブな言語として英語が自然に身に付く場所であるということだ。日本はそういう場所ではない。日本は日本語の磁場でできた場所だ。

 磁場の有無ということの認識が、場当たり的にしか行われていない。知識人どもの言葉、とりわけ実用英語という言語のまわりに群がる大学の教授どもの言葉は、その言葉自体が植民地なのだ。たとえその言語が日本語であっても、根性が植民地根性であるから、日本語までをも質的な植民地にしてしまう。

 うろおぼえだが、脳の生理のことを鵜田さんという人のホームページで読んだことがある。夏の終わりごろから鳴く虫の鳴き声、つまり「虫の音」を、日本人の場合は、言語を担当する脳が聞いているのだそうだ。これは、虫の鳴き声を、「音」として聞いているのではなく、「声」として聞いているということである。虫の鳴き声を、ある種の言語として聞くというのは、アジアの人々の自然への親和性を語っている。
 これに対して、西洋の文化的シンタックス、言語的シンタックスで育った人たちは、虫の声を、あくまで客体化された「音」として聞いており、言語脳では聞いていないということだ。虫の声は単なる音や雑音として聞こえるらしい。だから、虫の声をうるさいものとして聞くということになる。

 言語のシンタックスは文化的シンタックスを規定し、文化的シンタックスは人間の生理にまで食い込むのだ。人々は言葉の構造の違いが、文化全体を規定するほどの要因になり、人間の生理の働きまでも別のものにするものだとは思っていない。たかが言葉の違いだと思っている。

 まるで異質なシンタックスから成る英語と日本語が、相互に鉄に対する酸として働くのは当然だ。

 政治的な暴力(言語政策)によって、英語を強制されるような事態になるなら、日本人は英語をしゃべるようになるだろう。それは、日本語を引き裂いた後、あるいは日本語を引き裂きつつ、それをやることになるだろう。あるいは、日本語を引き「裂かれ」つつ・・・。

 日本はヨーロッパのハードな植民地になることはまぬがれたが、アメリカのソフトな植民地だ。文化的な植民地という泥に沈んでいくことに無自覚な国だ。

 しかし、安保条約などを棚にあげれば、これは日本だけでなく全世界的な構造かもしれない。

 元はイギリス語であり、それがアメリカ方言としてのアメリカ語になった英語を、世界語としてさらにもう一度対象化することが日本の英語に課せられているのだと考えている人は少なくて、アメリカ人が英語を話すようにぺらぺらとしゃべることが上等だと考えている人が多い。日本のごつごつした英語を劣ったもののように感じる植民地根性がある。

 英語を世界語とするとは、日本人が日本で作った英語によって、標準化された英語のアメリカ方言に変形を加えることを意味する。どの国も、どの人も、自分のネイティヴな言語によって英語に変形を加えていいのだ。それが英語が世界語になるということなのだ。卑屈な根性によって、ごつごつした英語の価値をかえりみないこと、そして「本物のアメリカ英語」のぺらぺらをあがめていることが、これまでの日本の英語のもっとも駄目なところなのだ。

 私は机の上の練習では(語学という場所では)、徹底的にアメリカ語やイギリス語を媒介にし、真似しようとする。とことん媒介にしようと思って練習するし、なめらかさも作る。しかし、実際に使う場面では、その机の上のなめらかさでしゃべることを内心がはっきり拒絶するのを感じている。だから、ぶっきらぼうで、不器用でごつごつしたしゃべり方になる。異質な二つの文化的シンタックスの「間にある」言語が、私にとっての英語なので、それがごつごつしたものになるのは当たり前だと思っている。それがなめらかな英語になるときは、私の英語がアメリカ語に食われた時だ。それはごめんこうむると思っている。

 日本人が全員習う教科である英語が、言語としていつまでたっても植民地語になれないでいることは面白い現象だ。アメリカにしてみれば、とても不本意な言語現象であるはずだが、日本語は英語の骨を溶かしてしまい、世界ででかいつらができるはずの英語は、日本ではなかなか育つことがない。

 これはとても面白い現象なのだ。これは単に学校の無能力のせいだけではない。これは日本語の酸の強さの証なのだ。

 日本語は英語という鉄にとって強力な酸であり、英語は日本語という鉄にとって強力な酸だ。この関係には絶対的なものがある。アメリカに渡って日本語を使わないで四、五年たって帰ってきた昔の塾生がいたが、半年ほどの間、日本語がしゃべれなかった。日本語の骨が英語によって溶かされていたのだ。英語に囲まれれば、日本語で育った人の日本語の骨も溶かされる。逆に、日本語に囲まれた英語は、中途半端な練習では骨ができてこない。

 日本語が鉄であるならば、英語は酸であり、英語が鉄であるならば、日本語が酸である。お互いにお互いのシンタックスを溶かす。

 英語の骨を溶かす言語は、SOV型シンタックスの言語として、日本語以外にも朝鮮語やモンゴル語があるのだが、世界における英語のでかいつらに抵抗できる異質シンタックス言語の代表は、現時点では日本語だろう。日本語が英語に対する抵抗勢力であるとの認識は日本人にないが、それは言語同士のぶつかりあいから言えばそうなのだ。言語勢力から言えば、ヨーロッパのほとんどの言語は英語に対する抵抗勢力にも対抗勢力にもなれない。根本的にそれは成立しない。なぜなら、あれらは英語とは一族郎党の言語だからだ。日本語や朝鮮語から見たら、欧文脈という一族郎党である。

 言語そのものの構造が違うということが日本語と英語という二つの言語の相互作用の根本原因だが、別の地平の背後には日本の経済力がある。それまでを視野に入れれば、SOVシンタックスの言語では、日本語が英語に対する最強の抵抗勢力である。

 日本語そのものが英語に対して against の位置を譲らないことにきちんと注目すべきなのに、その観点はいまだ弱いままだ。これは、ナショナリズムのようなものとは何の関係もない。言語の構造を虚心に見れば、英語と日本語の間には、はっきりと against の関係を形成する根本的な違いがある。これはあくまで言語的な観点から成立する関係であり、しかもその関係は絶対的なのだ。

 日本の学校英語が駄目なのは、この根本的な、しかも絶対的な日本語と英語の関係を語学の方法の中に繰り込めないでいることに原因がある。

 日本の学校の英語が役立たずだということは、いまや世界的に有名であり、それだから、言語に対する認識を欠いていても、日本に行けば英語を教えるだけでいい金になるというふざけた言いぐさがアメリカやカナダあたりで囁かれる。私は、アメリカでそれが囁かれる現場にいたことがある。あんなもの(英会話学校の教師)はだれだってできると囁かれていた。日本の英会話学校に通うお馬鹿さんたちのことを思い浮かべ、なんで私が屈辱を噛みしめなくてはならないかがわからないままに、屈辱を噛みしめていたことがある。

 英会話学校で英語を教えている連中は、アメリカやカナダに帰れば、ただのあんちゃんやねえちゃんにすぎない。アメリカやカナダに育ったのだから、英語は根っからの言語だが、彼らのほとんどが言語に対する認識などは持ち合わせていない。単に語学的な技法の点においても、日本人の口をどう動かせば英語の音が作れのか、あるいは英語という言語に備わっている構造が日本人はどうすれば身体化できるのか、そんな認識は何も持っていない連中がほとんどだ。日本では英語をしゃべる人間だというだけで金がかせげる。そんな囁きによって、日本に来る英語ネイティブのあんちゃんやねえちゃんたち。彼らを正確に呼ぶならば、ハイエナである。

 日本の学校の英語が「死体」であるから、ハイエナが群がるのだ。
 因果関係ははっきりしている。
 この事態の根本の責任は、英語に対する日本語の抵抗素を勘定に入れて語学の方法論を作れなかった文部省とその御用学者たちにある。英語と日本語が、相互に against な関係をはらむ言語同士だという認識を踏まえない語学の方法は、植民地根性やむやみな英語に対する反発みたいなものしか生み出さない。

 日本の英語教育産業に動く金は世界一の規模だということだが、この根本には、文部省やその御用学者の語学に対する認識力の貧困がある。

 学校英語のあらかたが死ぬので、学校英語の犠牲者を食い物にして、今日もハイエナ(外人)が群がる。

 英会話学校に通えば、死んだ英語が生き返るというのなら文句はない。ところが実際は、英会話学校に通っても、ガイジンの個人指導を受けても、死んだ英語は死んだままだ。ただ金をふんだくられて終わるのが、日本の英会話学校に通うオヒトヨシ達だ。

 日本では英語はやるべきことをやらなければ絶対に身に付かない。そして、その「やるべきこと」が学校で点がとれるとか、高校入試や大学入試に合格することとはまるで別の場所にあることに多くの人が気づかない。その眼目が「音づくり」であり、語や語法の「イメージ化」であり、それを煮詰める「イデア化」であることを、学校はまるで提示できていない。現時点では、生徒が自分で気がつく以外にない。(小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」を参照のこと)

 腐肉に群がるハイエナがでかいつらをしている場所が、日本の英会話学校である。
 何度でも言うしかないだろう。
 「英語は風邪じゃないからウツラナイ」

 英語学校なら世界中にある。
 英会話学校なんていう馬鹿なものは日本にしかない。

 文化的シンタックスを支える言語のシンタックスが、生理の動きの違いまでを決めていること。それをふまえるなら、日本の英語はごつごつした、不自由な、苦しいものとしてとどまるのが正常なのだ。ごつごつした不自由な英語は、決して否定されてはならない。それが日本における英語の自然な性質だ。日本人が日本に暮らしてアメリカ人のようにふるまうこと、ぺらぺら英語をあやつる猿芝居は馬鹿にやらせておけばいい。この認識はもっと一般的な常識になるべきだ。

 私は日本人は英語をやらなくていいと言っているのではない。
 それどころか、こんな甘っちょろいことをやっていてどうなるものかと思っている者だ。
 どんどんやって、ごつごつした、不自由な英語をおかまいなしにしゃべるのがいいと思っている。日本の英語に、雑であること、無骨であることの価値が回復されなければならない。

 日本に育った英語というものは、その本来の性質からして、不自然で不自由なものなのだから、それを恥じることは要らない。それを恥じることは自分で自分をおとしめること以外のものではない。それを恥じることが植民地根性への第一歩なのだ。

 むしろ、不自由で不自然だということこそが、日本の英語のアイデンティティなのだ。

 本場アメリカの英語の正しい語法はこうだと教えを垂れる類のおためごかし本ばかりが氾濫している。日本で使う英語なんだから、本場アメリカの英語をそのまま使うのはおかしなことだという認識がない。言語は言語の磁場を作り、それはその社会や文化とシームレスに連続している。本場アメリカの英語は、本場アメリカの英語として学ぶべきだが、それをそのままに日本でしゃべることはとてつもなくおかしなことなのだ。それなのにそれが上等なことであるかのような幻想が蔓延している。この幻想は毒にしかならない。

 本場アメリカの英語は、日本やその文化にシームレスに連続するようなものでは決してない。
 根本的に異質な文化の「間で」使われる英語が、ごつごつしていなかったり、無骨なものでなかったりしたら、それこそが、おかしな事態なのだ。

 ごつごつしていること、不自由であること、それでもなお自分を開くために英語をしゃべること。日本語でしか言えないことは日本語で言うが、英語でしか言えないことは英語で言うこと。日本の英語に、この位置を確定しなければ何も始まりはしない。そうでない間は、馬鹿が利口そうな顔をしているという英語状況は変わりはしない。

 例えば、アメリカで英語をしゃべる能力を獲得したというだけの日本人がなんで上等そうな利口そうな顔ができるのか。この人たちの英語が、「アメリカで」獲得した言語能力であるという一点において、本当には日本だけに住んで英語を獲得することの労苦を知らない。その労苦を知らない者が利口そうな顔ができる場所、それが日本の戦後という時空だ。
 この利口そうな顔の成立を支えているのが、実際は学校英語の死体が発する死臭なのだということに誰も気がつこうともしない。

 この国には英語をまともに語学として対象化する視線が欠けている。この視線が獲得されるまでは、植民地根性の英語フリークの跋扈はやまないだろう。

 この国では語学という独自のフィールドがまだ確定されていない。




(「音づくり」に関しては、「音づくり再説」をお読み下さい。<リンク>

(「知識(理解)の圧縮」については、「リスニング成立の可否」をお読み下さい。
  <リンク>



「売文・アイテム一覧」へ