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「馬鹿論」を読む   

                    浜田順二




 一読して、これが文章だと思った。「言葉」なのだと思った。ほとばしる何かを、読んだ気がした。再読して、あふれる思いが流れ込んできた。こみあげてくるものがあった。心の底の深みを想った。
 娑婆とか世間とか云われている所には、カシコイニンゲンばかりがゴロゴロいる。二十一世紀には、「馬鹿」は絶滅するばかりか、と心配していたけれど、どっこい、世間の隅にはいるものだと、嬉しくなった。
 片隅で生きているからといって、捨て置いて、いい訳がない。ショーウインドウでは見かけることのできない、貴重な光を放っているのだ。
 「馬鹿」は、闇のなかの希望のようだ。あかるい世間は、眼を失って、右往左往、してはいないか。

 根石さんは、合わせ鏡のように世間を照らす。その光で、記号化する一方の言葉を、粉々にする。世間に言葉は溢れていて、その実、「言葉」と呼べる程のものの無さに、絶望感すら抱いている人間の一人だろう。
 彼は、粉々にする向こうに、おぼろに立ち上がって来ては揺れる、姿の無い、そのものを、あぶりだそうとする。あぶりだされるそれを、何と呼べばいいのか。それこそが「言葉」だ。生命、なのだと思う。
 「馬鹿論」を馬鹿にすることは、できない。

 根石さんは英語のプロフェショナルだ。それで飯を食っている。同業の方は、世間にたくさんいるだろう。けれど、彼が、その他大勢のプロと、一味も二味もちがっているのは、否、決定的にちがっているのは、英語そのものとの、対峙の有り様なのだと思う。
 私はプロが、どこかで嫌いな人間だ。彼らは技術を追い求める。そしてそこに到達すると、それだけを売り物にする。「鶏舎小屋の鶏のように、無精卵ばかりを産み落とす」輩が多い。他に大切なものは、ないのか。と思う。
 根石さんは、そこがちがう。彼は、どこまでも、語学として向き合う。英語といえども、「言葉」なのだ。技術で終わっていい訳がない。
 彼は、絞る言葉で、言いたかったのだと思う。

 彼は書く。「語学は生きることと−似ている」と。「あるいは、語学を生きるということがある」と。また、こうも書く。「意識的に無意識を作る作業が、語学ほどに激しく凝縮される場は他にあまりない」と。
 生きる。−という事。そのものは、技術や趣味ではないだろう。そこにあるのは、激しく静かな懸命さだけだ。人様は、何と言おうと任せてあるが、私には、趣味で何かをした記憶はない。趣味も嫌いだ。技術に胡座の詩作を読めば、こざかしい、と思うだろう。
 彼の言葉は軌道を描いて、激しく、一つところに落ちてゆく。あるいは、向かってゆく。闇が見える。肉体が持つ闇だ。銀河が覗く、底知れない闇だ。そこに、光るものがある。星か。涙か。それとも、眼か。
 眼下にエベレストも見えるだろう。そこから。降る声がある。私の肩にも、降る声がある。−どいつも、こいつも、生命を、生きろ−。と聴こえたりする。


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