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「馬鹿論」を読む(浜田順二)


馬鹿論


 土・日の午後から、毎週英語の塾をやっていて、塾を手伝ってくれている村田君は、午後1時半にはわが家に到着する。先日、村田君は玄関を入ってきて、「読みましたよ!」と大きな声で言った。
 英会話用インプット専用教室のチラシを作り、「やじろべえ」に置いてもらった。村田君はその喫茶店のカウンターでチラシを読んだという。「馬鹿は早めにやめますってのが、すんげえ面白かったです」と言った。
 村田君はにこにこして言うのだが、私の顔は曇ったと思う。そうか、と思った。やはり、あの部分が印象に残るのだ。チラシから、その部分を引用する。

 「練習は決して甘やかしません。だから馬鹿は早めにやめます。」

 この一行がチラシにある。少し舌足らずだから、「馬鹿論」を書くことにする。

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 私には本当にわからない。
 人々は結果しか見たがらないのだ。
 成績という結果、高校・大学への合格・不合格という結果、英語がペラペラしゃべれるという結果。
 結果しか見たがらないというのは、見ようとしなければ、過程などというものは見えないからだ。だけど、英語をものにする途上において、過程とは意識の変容過程以外のものではない。意識の変容過程が語学のすべてなのだ。

 意識の変容過程そのものには、ちょっくら到達地点というものがない。意識の変容過程は、無意識を意識的に育てることだから、多くの人々の死角になっている。多くの人がわかってくれない。

 あるレベルに達するということがある。英検の級のようなものを考えればわかりやすい。それに合格するレベルというものが外在する。合格すれば、そのレベルに達したと外から保証される。

 しかし、語学の本質からすれば、英検3級に合格することは、英検3級の練習のレベルが獲得されたことであり、英検2級に合格することは英検2級の練習のレベルが獲得されたことなのだ。

 あくまで、獲得されたものは、「練習のレベル」であって、安心できる結果だと考えないのがいい。

 合格をひとつの結果と見るならば、確かにそれは一つの結果と見えるが、内在的な語学の視点からは、「練習レベル」の獲得であり、「練習レベル」の獲得であるかぎり、それは過程にある。

 どこまでいっても、過程だけがある。それが語学だと言えば、おじけづく人がいるのかもしれない。しかし、私が生きてみた限りでは、語学とはそういうものだ。

 過程だけがあるという意味では、語学は生きるということに非常によく似ている。あるいは、語学を生きるということがある。ひりひりする傷を持つこと。幼児が転んで膝に持つ赤い面積。

 練習が厳しければ、多くの人がその練習をやめる。
 やむをえない事情をかかえてやめてしまう人もいる。それは仕方がないと思う。しかし、多くの人達は、やむを得ない事情のためにやめてしまうのではない。単に練習が厳しいからやめてしまうのだ。単に大変だからやめてしまうのだ。ここに馬鹿の一種類がある。

 その場合の結果ははっきり出る。英語が使えないというはっきりとした結果が出る。

 あるいは、英語を勉強することを、ピアノを習うだとか、習字を習うとかいう習い事の一つだと考えている人もいる。技芸のひとつと考えれば、そう考えられないことはないが、語学が他の技芸とはっきり違うのは、濃密なイメージそのものを意識にはっきりと浮かべることが要求されることだ。絶えず、無数にイメージを産出する過程こそが語学の過程だ。意識的に無意識を作る作業が、語学ほどに激しく凝縮される場は他にあまりない。これに匹敵するのは詩作くらいのものではないか。

 詩作と違うのは、語学は「からっぽの電池」を無数に作るということだ。語学では、「からっぽの電池」はあとから急激に充電される。「からっぽ」を恐れる人は、語学をやらないがいい。さっさとアメリカやイギリスに行くがいい。

 決して他人の目に見えない。どれほど濃密にイメージを産出しても、それは自分の意識に触知できるだけだ。語学の本当の過程が決して他人の目に見えないという意味では、語学は実に実に地味な作業なのだ。

 「英語が話せればいいわね」というアコガレが、簡単に挫折するのは、この語学の地味な性格のせいかもしれない。あれま、こんなに地味なことだとは知らなかったわ、というわけだ。派手なものに目が行きやすい時代には、語学こそは地味なものの価値を明らかにする試金石かもしれないのだ。夜の価値。

 ペラペラ英語を映すテレビの映像が、つまり結果だけを見せる映像が、人々を語学からどれほど遠ざけているか。

 楽しくちょっとやるだけで英語がしゃべれますというような、人だましの言いぐさが商売人たちから繰り出される。嘘をつけと、そのたびに思う。聞き流しているだけで、英語のヒアリングができるようになる教材やら、3週間でペラペラしゃべれるようになる本やらが世の中にはあふれていて、楽しくちょっとやって英語をドウニカシタイと思う人たちからお金をまきあげる。

 英会話用のインプット専用教室というのをやってきて、十年一日の如き練習を続ける人が多くいるのにも気づいた。市民社会の住人たちだ。語学をやるんなら、ひとたびはあらゆる社会から切れて、自分一人にならなければならない。語学で行われることは絶対にネイティヴな言語の獲得ではなく、たった一人の人間の意識の変容、「架空のオペラ」なのだ。そして、「架空のオペラ」を演じる練習レベルそのものをあげていかないとどうにもなりはしないのだが、多くの人が同じレベルの練習を続ける。それだと、英語が使えるようになるのに、300年から400年くらいかかりますよ、500年生きるつもりなら、それを続けていてもらってもいいけれども、と私が言うと生徒さんたちは笑う。笑っていないのは、私一人なのだ。本当にこれは冗談じゃないのだ。いくら語学が過程そのものだからといって、300年も400年もやっていられるわけではない。

 だから、生徒がのんきに300年計画や400年計画をやっているのを見ると、こちらがアセル。時に、きつく言う。あるいは怒る。すると生徒は教室に来なくなる。こちらからお断りすることもある。それでも、通い続けたやつの英語は、モノになる。そいつらが、何年も後になって、素読舎は厳しい塾だからよかったと言ってくれる。その一言だけが、なぐさめだった。

 信学会や英会話教室は、300年計画だろうが、400年計画だろうが、怒りはしないのだろう。やつらは金が一番大事だから、おだてて放っておく。

 私は親切なのだろうか。300年かかることが目に見えていることをごまかすことができない。300年かかる。つまり、その人が生きている間に実りというほどのものは何も生じないとはっきりしているのに、口をぬぐっていることができない。口をぬぐってお金をもらい続けることの苦痛に耐えることがいつもいつもできなかった。多分、親切だったのだ。生徒に無駄な金を極力使わせないようにした。

 おそらく、それが俺がこの土地で嫌われてきたことの根元なのだ。本当に親切にすると嫌われる。簡単に楽しくちょっとやれば英語がものになると思うような馬鹿は来るな。それを言い、どなりつけてきた素読舎の塾長の馬鹿は、とびきりのものだ。筋金入りかもしれない。

 山登りに縦走というのがある。麓から登り始めて、林の中を歩く。うすぐらい道がどこまでも続くように感じられる。しかし、いつのまにか高い木がなくなり、見晴らしがきくようになってくる。

 やがて頂上に着くが、そこからが縦走の始まりなのだ。

 山脈の峰から峰を伝って歩くこと。これが「使える英語」と言われているレベルのものだ。その英語だって、なおも峰から峰へ歩き続ける。語学は過程そのものだが、別に言い直せば、歩くことをやめれば、語学は死んでしまうのだ。日本人の英語はとりわけそうだ。

 語学の本当につらい過程は、麓から最初の峰まで出る過程だ。この過程で非常に多くの人が降りていく。一度、最初の峰まで出てしまえば、後はそれほどつらいことではないのだが、なにしろ見晴らしはきかないし、うすぐらい林の中の道ばかり続くように感じられるから、多くの人がこの過程で語学をやめる。

 めくら千人めあき千人という言い方があるが、実際のところはめくら千人にめあき十人くらいのものではないだろうか。信学会はめくら千人を相手にしているかもしれないが、素読舎は、めあき十人を相手にしてきたのだ。だから素読舎の塾長は、およそ商売人の風上にもおけない。馬鹿もここに極まるか。

 めくら千人の方々は、成績や合格や、つまりは結果だけを追いかけさせる進学塾や、風邪みたいに英語がウツルという幻想を売る英会話学校やらにお通いになる。だまされるやつらにもまやかしはある。

 日本の学校育ちの英語が使いものにならないことは、今や世界的に有名なことだ。進学塾の英語もご同様だ。これらは英語をあくまで知識的に扱う。そんなことでどうにもなりはしない。徹底した音づくりの過程を踏まえなければ、使えない英語ばかりが往生できずにさまようのだ。

 一人の受験生が英語一科目にどれほどのエネルギーを注ぐかを考えてみれば、そしてその結果、使えない英語をつかまされていることを考えてみれば、それが全国規模のことであることを思うならば、日本人はばかでかい損をし続けているのだ。日本人の馬鹿!馬鹿!馬鹿!馬鹿!

 「音づくり」ひとつがどれほど大変なことか、人々はなかなかわかってくれない。「音づくり」ひとつのなかに、どれほどのことがあるのか、わかってもらえない。「音づくり」ひとつで、へとへとになりながら塾をやってきたのだ。それは一つの天地なのだ。それなのに、「音づくり」に関しては、学校も信学会もまるでめくらだ。驚くべきことに、ほとんどの英会話学校もこれに関してめくらだ。

 昔の塾生が社会人になり、英語の練習を継続するために素読舎に戻って来はじめた。30代と20代の人たちが、また素読舎を使ってくれる。こいつらをこそ塾生と呼びたいと思う。彼らは、会社の仕事で疲れた体を、また素読舎に運んできてくれる。「この練習は面白い」と言ってくれるやつがいると、この仕事をやってきてよかったのだとやっと思うことができる。

 昔、素読舎を使ったやつは、他の社会人の人たちと比べると、進み具合がまるで違う。英語の中にまだ酵母が生きている。しゃべらせれば、下手くそながらすぐにしゃべるやつもいる。受験英語の中に酵母を混ぜておいてよかったと、その時にやっと思うことができる。

 世の中には、受験英語が終われば死んでしまう英語ばかりだが、それはいったい何のためなのだ。信学会さんよ、中学校さんよ、高等学校さんよ、一度くらいははっきりとそれに答えてほしい。


発行・素読舎  長野県更埴市小島3137
文責・根石吉久 電話・090−3316−4180

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