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「馬鹿論」を読む(浜田順二)


「英会話」について



「英会話」をどう考えるか


 2001年5月、英語の学習法についての掲示板を探していて、たまたま古川さんという方が開設しておられる掲示板を読んだところ、 Ray さんという方と浜谷さんという方が本質的なことを書かれているのを読みました。時間がとれず、過去のものをすべて読んだわけではありませんが、ひとまず、Ray さんと浜谷さんに向けて掲示板に書きました。
 浜谷さんからメールをいただきました。長大なメールでしたが、やはり英語学習法の根幹に触れるものでした。これを読んで、このようなものこそ掲示板という公開の場で読まれるに値するものだと思い、浜谷さんに、私個人宛に下さったメールの内容を、どうか掲示板に掲載していただきたいとお願いしました。その後、浜谷さんは、私宛のメールを掲示板向けに短くアレンジして、古川さんの掲示板に掲載して下さいました。
 それに対して、古川さんの掲示板で私もお返事しましたが、これはとても長大なものになってしまいました。これに対して、浜谷さんは再び、私個人宛にメールを下さいました。浜谷さんと私のやりとりは、公開の場で読まれる方がいいという思いはすでに浜谷さんに伝えてあるものの、私の書くものが長くなりがちで、古川さんの掲示板へ私と浜谷さんのやりとりが掲載されれば、他の記事を圧迫することになりかねないことは懸念していましたので、私から浜谷さんに向けて、長大なものはメールで、短いものは掲示板でやりとりするという方針で、今後も議論におつきあい下さることをお願いしました。同時に、これまでいただいたメールを、私のホームページに転載させていただくことをお願いしお許しを得ました。
 これで、長大なものでも安心してやりとりができます。

 以下に、私が古川さんの掲示板に書いたものと、浜谷さんからの掲示板上へのお返事とメールによるお返事を転記します。

 なお、掲示板の記事で、このページに転載することを許可していただいてないものも、ここに掲載します。「掲示板」というメディアの性質上、誰に読まれてもかまわないことを覚悟して書いてあるのだと考えますので。

 古川さんの掲示板のアドレスは以下の通りです。皆さんも是非一度訪れてください。

http://www.tk.airnet.ne.jp/furukawa/english/bbs/



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根石吉久 <ax9y-nis@asahi-net.or.jp>
Saturday, May 19, 2001 at 04:06:39 (JST)
(古川さんの掲示板への記事)
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 初めて書かせていただきます。
 25年にわたり、英語塾をやってきました。
 昨年、小学館文庫から「英語どんでんがえしのやっつけ方」というものを上梓しました。
 学校批判、学校英語批判をやりましたが、学校関係者からの反応はほとんどありませんでした。しかし、英語は英語教育界という狭い村の外側でどんどん動いていますので、売れ行き自体は悪くなかったようです。今でもときどき本屋さんで見かけることがありますので、よろしければ立ち読みをお願いします。小さい字で読みにくい本ですが、何かピンとくるものがありましたなら、お買い求め下さい。(これが本音・・・すみません)

 学校英語批判だけでなく、部活狂乱状態のせいで子供が英語をやる体力が残らない、中間・期末の点は幻などと言い続けたおかげで、地元では干されかけています。幸い、インターネットが広がり、長距離電話の割引サービスが始まったので、「電話でレッスン」というものを始め、生き延びています。

 私の方法は「素読」というものです。國弘さんという方の「朗読」とも、現在流行している「音読」とも根本においては同じだと思っています。

 私自身は、「音読(朗読)」と「素読」を使い分けてきました。音読は、読んでその場で意味がとれるものに対して行うものであり、素読は、読んでもその場では意味がとれないものを読む方法、あるいは、読んでその場で意味をつかむことを要求しない方法という区別です。ここから、独学の方法としては「音読」が適し、塾などの方法とする場合は「素読」が適するという考えに至っています。

 素読は、江戸時代に主に漢文になじむ方法として使われていたものですが、明治以後、学校制度の普及とともにどんどん廃れました。しかし、この方法一つを根本にして、25年、英語塾を続けてきて、素読は英語学習に実に有効であるという手応えをつかんでいます。日本の近代が忘れた江戸の宝の一つであると言えます。

 以下に、小学館文庫に書いたこと、普段塾生に言っていることなど、短文にします。
 ご批判をいただければうれしく思います。

・英語は風邪じゃないからウツラナイ。
・英会話学校へ通うことで英語をしゃべるようになった人に会ったことがない。
・英語ネイティヴの外人は、日本人の口の筋肉をどう動かして英語の音を作るのかを知らないので駄目である。
・語学の英語と生活言語としての英語を厳密に区別せよ。
・学校英語は役立たずだが、受験英語はやりようによってはすごく役に立つ。
・成績と実力は別物だ。
・日本在住のままでは、受験英語に「音づくり」を一体化することが最短距離。
・大学に受かって喜んで英語をやめてしまう者は馬鹿者である。
・日本語という環境は、英語にとって強力な酸である。
・英語が作る言語的磁場を欠き、強力な酸にとりまかれた日本は英語が生き延びるには最悪の環境である。
・英語は練習をやめればすぐに錆びつく。絶えざるメンテナンスが必要。
・英語ネイティヴの発音やイントネーションは日本人が<媒介>にすべきものだ。同化すべきものではない。
・英語ネイティヴを本家本元とする意識から抜けないと日本の英語は作れない。
・机の上(語学)の場面では、ネイティヴの音をとことん真似て媒介にせよ。
・実際に話す場面(生活言語)では、自分の気持ちにそぐわないようなものを使うな。
・自分の英語を作る人が増え、その人たちの間にネットワークが成立してようやく日本の英語ができる。
・アメリカ人と同じ生活感情で生活していないのに、アメリカ人と同じイントネーションでしゃべることはとことんおかしなことである。

 まだまだ言わせておけばきりがない男なので、自己規制をかけて、ここらでやめます。
 上に書いた主張は、私のホームページにたくさん書いてきました。お読みいただければ幸いです。反応もあまりないままに書き続けるのは結構孤独でした。

 この掲示板の常連の方は、硬派の方が多いとお見受けしました。
 ご意見をお聞きできればと思った次第です。
 今後ともよろしくお願いいたします。

 人様から英語でお金をいただいて生きてきましたので、本名で書くのが礼儀と思い、本名のままで失礼します。

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根石吉久 <ax9y-nis@asahi-net.or.jp>
Saturday, May 19, 2001 at 19:58:00 (JST)

(古川さんの掲示板への記事・Rayさんへ)
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>Ray 「英語は言葉で、言葉とは机にブッ座って『アタマ』で理解するものではなくて、優れて身体的なものだ」ということです。

 私は、語学は「机上」を否定することはできないと考えてきた者です。生活言語では、「机上」をうっちゃって構わないどころか、うっちゃるべきです。しかし、語学はとことん机の上で行うものではないかと思います。
 語学の対象としての英語と生活言語としての英語はとても裏腹な性質のものだと考えてきました。雨降りの日に、本人が憂鬱であっても、机の上で It's a beautiful day today. と言い続けることは語学では成立します。むしろ、現実とは裏腹の関係がいつでも成立するのが語学です。
 「机上」という世界を確立することもなく、「優れて身体的な」と思われる英会話学校なんぞに通ってほとんど何も語学的な成果を得ることがない人が大勢います。何十万円もの金をドブに捨てている人がいますが、語学と生活言語を区別する認識が成立していないところに根があると思っています。

 「机上」の世界では、アタマの「理解」も途中で必要になる媒介項です。
 語学は「机上」の世界ですが、受験の勉強もそうです。多くの受験生の英語が陥っている問題は、「理解」が目標にされており、「理解」が「理解」のままにとどまることです。「理解」は練習の途中にある一媒介項にすぎないのに、それを目標にしてしまうのが、語学としては根本的に間違いです。多くの受験生の英語は、いまだ語学たりえていません。
 確かに、受験で余計に点をとるためには、「理解」は必要であり、「音づくり」は無駄のように見えます。しかし、これは絶対に必要な無駄です。この「必要な無駄」を軽視する受験英語は使えない英語になってしまい、もっと大きな無駄となり果てます。受験制度がこの巨大な無駄を作り出しています。
 「理解」というものに関しては、「理解」は絶対に必要である、しかし、理解が理解にとどまり、「音づくり」の身体化がともなわないなら英語は駄目になる、と考えてきました。

 ネイティヴな言語の獲得では、ネイティヴな言語が形成している言語の磁場が「理解」をたえず支援してくれますが、語学の場面にはこの磁場がありません。あるのは、文脈が作る磁場だけであり、生活言語が作る磁場ではありません。
 Rayさんの言い方は、英語の磁場の中の「生活言語」について成り立つもので、日本に在住して語学として英語をやる人にはまるであてはまらないものではないでしょうか。

 語学の英語と生活言語としての英語をきちんと区別することが語学を鍛えるには不可欠だと考えてきました。日本の英語がちゃんと育たないのは、この区別がなされていないせいではないかと疑ってきました。

 具体的は方法として、『英語は徹底的に「口」で勉強する』ということにはまったく賛成です。私は「音づくり」と言っており、言い方は違っていますが、Rayさんが言われている方法が私の方法にも共通します。
 受験英語は、理解が理解のままにとどまってしまうから使える英語に育たないのであって、徹底的に口を動かして練習するという一項目が受験英語に加わるなら、受験は使える英語をつかむための絶好の機会だと考えています。受験の際に「どう英語をやるか」で、その英語の明暗が分かれてしまうと思います。教材に何を選ぶかよりも、「どうやるか」の方がはるかに重要です。
 「通じない音」が癖になり固定化されてしまうと困るので、私はあえて「音づくり」という語で考えています。新たに自分の口を激しく動かして「音」を作る必要があるのですが、この「音の作り方」を学校が扱っていません。多くの受験生も自己流でやっています。語学における音楽的センスみたいなものがある人は別として、非常に多くの人が、「通じない音」を作ってしまいます。(イントネーションが盆踊りを踊ります)。私が「電話でレッスン」をやっているのも、この問題に対処するためです。このレッスンは、裾野が広がったらネットワーク化したいと考えていますが、生きているうちに実現するかどうか・・・。

 いずれにせよ、「通じる音」の「音づくり」を受験英語と一体化し、理解と同時化させるのが一番いいのだと思います。

>Ray 最初は読んで、アタマに入った時点で意味のイメージからその文章を何回も言ってみます。〔一種のイメージ【=和文】英訳〕)その際、暗記しようと思わずに、意味のイメージから組み立てようとする習慣を付けることが大切です。

 非常に大切なことを言っておられると思います。

 ところどころわかないのでお教え下さい。

 「最初は読んで」というのは、「英文を読んで」なのでしょうか、「日本語訳を読んで」なのでしょうか。「最初は読んで」も「アタマに入った」ということも、その内実がよくわかりません。

〔一種のイメージ【=和文】英訳〕ともおっしゃっているので、「最初は読んで」は、「和文」を読んでということかと推察しました。日本語を読んで、「言っていること」をアタマに入れて、ということではないかと思います。
 私の理解でよろしければ、このやり方は初心者の人には絶対におすすめの方法です。私は全面的に賛成します。初期の段階ではこれをやってかまわないし、これをやらないととっかかりがつかめません。

 しかし、「一種のイメージ=和訳」という考え方が理解できません。イメージは生きて動くものであり、和訳は固定されているものです。
 「和訳」を使って、そこからその文が「言っていること」をつかみだせ、ということではないでしょうか。そのことが、(意味的な)イメージを成立させることになります。イメージを意識に立体化することです。〔一種のイメージ【=和文】英訳〕という言い方では、この立体化の過程がすっとんでしまいます。

 この「イメージの立体化」が成立したら、後はとことん口を動かせ、ですね。イメージを意識に保持しながらということがポイントだと思います。この過程で、文法的知識が文法的センスになると思います。中級者は、さらに英文そのもので理解している状態にまで持ち込めます。

 英文を英文そのもので理解している状態が成立すれば、イメージと英文との間の往復だけが成立し、日本語は不要になります。後日、同じ文を練習するときは、日本語は(たどって読むものでなく)ちらっと見るためだけの符号に化します。イメージと英文との間の往復を引き起こすための「きっかけ」の役を果たすだけです。
 日本語からイメージを独在させよ。独在しているイメージと英語との間の往復だけを成立させよ、と言っても同じです。

>Ray 同じ高校なのに英語が得意な子は、中学の教師/家族/塾/家教 等で、英語と「いい出会い」をして合理的な「練習法」を身に付けたのを、故意ではなくても、隠していることが良くあるのです。

 なるほど。
 私は塾をやってきました。自分の英語力は大したことねえなと思っていますし、だから五十歳になろうとしている今も英語の練習は続けていますが、「練習法」に関してはかなりうるさ型です。
 英語に関しては、的はずれなやり方でやっている人が本当に多すぎると思っています。

 Rayさんはご自分では見事な練習法をお持ちですが、細部がなかなか人に伝わりにくいのではないかと思い、あえて私の考えてきたことに突き合わせてみました。読んでいる人に余計にわけがわからなくなってしまっていないかおそれています。

 ご意見をいただければ幸いです。


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根石吉久 <ax9y-nis@asahi-net.or.jp>
Sunday, May 20, 2001 at 00:42:59 (JST)

(古川さんの掲示板へ書いた記事)
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>はまや みなさんは既にお気づきだと思いますが、この
掲示板には入れ替わり立ち代わり同じような質問が寄せら
れたり、同じような悩みの相談があったりします。という
ことはそれだけ多くの修得途上の方々のニーズがあると考
えられます。しかもここに寄せられる質問なり相談は氷山
の一角でその数はその何十倍、何百倍もあると思われます。

 私は何千倍、何万倍もあると思っています。
 日本という国は、英語産業で動く金が世界一だそうです。
 それなのに、英語をものにする人がきわめて少ないことでも屈指の国です。
 

>はまや そこでそれらニーズに応える為各地に英語(英
会話)学習相談を受ける機関の設置が必要と考えます。
 私は私のHPで「英会話学習相談室」の開設の呼びかけを
させていただいています。詳しくは下記私のHP「英会話学
習法フォーラム」をご覧下さい。
 私は私の住んでいる奈良県生駒近辺でこの4月からその
第1号を開設しました。
 今は試行錯誤の段階で、偉そうなことは言えないのです
が、みなさんのお力でこの運動を成功させたいと思います
ので、よろしくお願いします。

 賛同します。日本には英語の磁場が(米軍基地、およびその周辺を除いて)存在しません。従って、日本では英語はクレオール化することはないと思われます。政治の暴力で、日本がアメリカの属国になるとか、Japan State in the United States of America になるとかいう日が万が一来れば、日本で英語をやることがこれほどご苦労なことではなくなりますが、冗談じゃねえ、アメリカの属国になるような国だったら、ニューヨークへ行って、按摩でもやって生きていった方がましだとも考えています。

 私は英語以上に日本語を愛しておりますので。

 話がそれておりますが、英語という言語が作る磁場が存在しないということは決定的なことです。このような場所では、「学習者・練習者」のネットワークづくりは重要だと思います。
 これから、はまやさんのホームページに飛び、登録方法など調べ、登録させていただこうと思っています。
 よろしくお願いします。


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浜谷(はまや) <t-hamaya@nyc.odn.ne.jp>
Sunday, May 20, 2001 at 17:23:06 (JST)
(古川さんの掲示板への浜谷さんの記事)
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根石様、古川さん、ゲストの既修得者の方々、同じく修得途上の方々へ

根石さん(伝統ある英語塾の経営者に対してこう呼ばせて頂く不躾をお許し下さい。)今月始めの私の「英会話学習相談室」開設の呼びかけに大変身に余る反応をして頂き、ただただ感激です。ありがとうございます。早速私のHPの「英会話学習相談機関」(「・・・室」改め)の中部圏に掲示させて頂きました。中部圏の当該地区及び可能な限りそのお近くのビュウアーの方は既修得者の方も修得途上の方も是非一度見に行って下さい。そして長野県更埴市付近在住の方は是非参加して下さい。そして根石さんの魅力的且つ有益な学習方法を吸収し英語力の向上に役立てるとともにその方法をネット上で喧伝し広めていって欲しいと思います。

なお、他地区の方も出きるだけ沢山の方がそれぞれの英語力向上と正しい英語(英会話)学習方法の確立のために、この機関開設に能動的に加わって頂きたいと思いますのでよろしくお願いします。

>英語という言語が作る磁場が存在しないということは決定的なこ
>とです。このような場所では、「学習者・練習者」のネットワーク
>づくりは重要だと思います。

と根石さんからも賛同のお言葉を頂戴しています。機関の名称はどのようなものでも構いません。また呼びかけ人は特に既修得者に限りません。サークル活動ぐらいの気軽な姿勢でいいと考えています。やり方で不明なところは取りあえずは私にご相談頂きたいと思います。オフ会は既に各地に続々と立ち上がりつつあるようですがそのネットワークと考えて頂いても結構ですし既存の各地英語(英会話)サークルを含めたネットワークに出きればいいなと考えています。私のHPでは各種有益なサイトを紹介していますが、出きればそれらサイトの関係者の方が進んでこのネットワークづくりにご協力頂きたいのですが・・・。(この掲示板の管理人の古川さんを含め)

以上英語観光通訳免許保持者というだけでなんの学問的、社会的裏付けのないものがこのような大それた企画を提案させて頂けるのはネット社会の良さを充分に生かしたいという思いに乗せて、正しい英語(英会話)学習方法を皆さんで徹底的に検討していただき試行していただく絶好の機会到来と考えています。この際古い英語(英会話)学習方法を打破し、みんながしんどいけれども本当に英語(英会話)が身につく方法を打ち立てるチャンスだと思います。
是非この運動に皆様の力をお貸しください。
 
最後に私の近隣に在住の方にお願いです。近鉄・生駒線竜田川駅近くで「英会話学習相談室」を毎週月曜日PM6:30ー8:30に開いています。(詳しくは私の下記URLを見てください)一度見に来て下さい。相談室という名称ですがオフ会と考えてお気軽に・・・。既修得者の方は特に歓迎です。是非非力な私に力をお貸しください。


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根石吉久 <ax9y-nis@asahi-net.or.jp>
Wednesday, May 23, 2001 at 12:41:28 (JST)

(古川さんの掲示板で)
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浜谷様

 昨日、断熱材の施工をしている途中で、カッターで指を切り、ずいぶんと血が出ました。(家を自作しているのです。)そんなことは英語の論議と何の関係もないことですが、この掲示板に書かせてもらおうとしてキーボードを打つたびに左手の小指が痛み、いつもよりゆっくりと打ち込んでいます。

 貴ホームページへ、「英会話学習相談機関」の一つとして、私の活動を登録していただきありがとうございました。

 少しこだわらせていただきたいのですが、「既修得者」と「修得途上」という言い方に関してのものです。俺は「既修得者」なんだろうか。「修得途上」であることは間違いないが、果たして「既修得者」なんだろうか、と思ったのです。
 人様に英語を練習させ、人様からお金をいただいて生活してきたにもかかわらず、私は今も「修得途上」であり、決して「既修得者」ではない、と思いました。ここから、急に私は傲慢な顔になるのですが、自分を「既修得者」だと思う人は、何の「既修得者」なのかと訊きたくなるのです。「英語の?」 ありえないと思う。
 「コツをつかんだ人」と「コツがつかめていない人」という分け方ならわかるのです。しかし、コツをつかんでも、日本語だけを使い、英語をやらないでいればどんな上級者の英語もただちに錆びつき始めるというのが私の持論です。結婚した相手が英語ネイティヴの人であり、仲良しをするのも喧嘩をするのも英語であるという条件でもあれば、最小単位の英語の磁場が形成されているため、英語の勉強などしなくても英語から縁が切れません。英語を使うことが、日常であり、生活だからです。しかし、英語の磁場を欠いて生きている日本人は、英語を錆びつかせるのには何の努力もいらない。ただ、英語から離れていれば、すぐに英語は錆びつき始めます。
 英語圏で育ち、言語のベースが英語でできており、日本語は第二言語という人はともかく、日本語が第一言語である場合は、どんなに英語が達者な人でも、普段の生活が日本語であれば、そして英語の練習から離れれば、すぐに英語は錆びつき始めます。
 日本語と英語との間の絶対的な関係。相互に殺し合う関係があると考えています。この抗生物質とばい菌との間の関係のような関係に人々はかなり無意識だと私は考えてきました。アメリカでは日本語がばい菌になり、日本では英語がばい菌になる。「英語がしゃべれればいいわね」という日本人のアコガレが、簡単に挫折することが多いのは、英語は日本ではばい菌なのであり、それを日本語という抗生物質がとりまいているのだという自覚がないためだと思います。
 英語にばかり目が行っており、英語と日本語の関係、言語・思考の相互異種性に目が行かない。アタマでわかっているつもりになっているだけで、相互異種性を踏まえた練習方法を自覚するに至らない。
 「既修得者」という考えは、「一丁あがり」という感じがするのが、日本に住んで英語をやっている人たちの実情と違ってくるのではないかと思ったのでした。
 「既修得者」に関しては以上です。

 浜谷さんの「リーディングからスピーキングへ」という方法はまっとうなものだと思います。大枠では私もこの考えですが、いくつかの相違点を述べさせてください。

・ペーパーバックスなどの多読を継続することは、語彙力を維持し、涵養するのに最適だと思います。日本には英語が作る磁場が存在しないという事実を踏まえた上で、これが最適だと思います。

・しかし、この練習(というか読書というか)は、多分、口の動きがともなわないのではないでしょうか。つまり、黙読になってしまうのではないでしょうか。

・浜谷さんは、「英会話向き(英会話をめざす)読み方」とおっしゃっておられます。これはあくまで私の受け取りかたですが、これは「内部音声」が英語のイントネーションやリズムのバネを備えている読み方のことではないでしょうか。「内部音声」というのは、私の造語で、伝わりにくいかもしれませんが、読書するときに、口は動いていないにもかかわらず、意識に響いている抽象音です。これは、自覚のある方にはすぐに何のことかおわかりいただけるし、自覚のない方にはなかなかわかってもらえない現象です。浜谷さんには、すぐにわかっていただけると思います。

・黙読のときに意識に響く抽象音(内部音声)が、英語のイントネーションやリズムのバネを最初から備えているということは、英語の磁場に生きているのではない日本人には起こりません。バネを備えた読み方ができる人は、すでに中級者だと思います。

・この点については、英語のイントネーションやバネを備えるために、リスニングを並行して行うことを浜谷さんは勧めています。これは不可欠のものだと私も思いました。

・リスニングと黙読の二本立てと要約できると思います。これは、とても日本人の心性になじむ方法だろうと思います。リスニングは、受動することで能動が起こるし、黙読は能動することで受動が起こります。そして、リーディングは、いつも意味をとるという行為と結ばれているのがいい。

・全体としては、中級者以上の人に向いている練習だと思いました。

・私の方法は、乱暴です。最初から生徒さんに口を動かすことを要求します。口の筋肉の動きを自覚させ、どんどん動かせと言います。素読すると同時に理解できるのが最上だが、そんなことは初心者には起こりません。だから、ひとまず、英語のイントネーションとリズムの類似物を成立させます。イントネーションやリズムができてきたものに関しては、舌の位置や歯の位置をどうするのかを言います。
 私のイントネーションやリズムだって、英語の類似物が鍛えられたものですが、これは英語のイントネーション、リズムに向かおうとする練習にとって、「橋」の役割を果たします。

・「類似物」であることに、私は卑下の感情を持ちません。英語ネイティヴは英語ネイティヴであるし、英語ネイティヴでない者はどれだけ英語をやっても英語ネイティヴではありえません。これは、「生まれ・育ち」と同じで、単なる宿命です。宿命というものがあることは絶対ですが、そんなものにへいこらする必要はないと考えています。私が「類似物」しか持つことはないことは絶対的だ。日本語で育ち、今も日本語を主体としているのだから。やれることは「類似物」を鍛えるだけのことだと考えています。

・日本語で育ち、日本に住み、日本語を日常言語としている人が、「本物の英語」を持つことができるなどということは、とことん妄想だと考えています。これこそがESSなんかに巣くってきたたちの悪い妄想です。私の住んでいるところは、文化果つる地と呼んでいいほどの田舎町ですが、この田舎から、都会に生息するESSなんかに、傲然と静かに言うべき言葉は、「この、田舎もんが」です。「本物の英語」という考え方が、すでに植民地根性です。イギリスでかもされた英語という言語そのものが、それがかもされる過程では立派な「まざりもの」です。英語人口の多くに広く行き渡っている「本物の英語」幻想は、裏返せば、天皇制信仰じゃないかとすら私は疑っています。ESSと天皇制。面白い取り合わせです。

・現在の日本の英語に必要なものは「橋」です。「鍛えられた類似物」です。英語フリークは別として、初心者が英語のイントネーションやリズムに渡るためには、とりわけ「普通の日本人」には、「橋」が必要なのですが、これまでの英語教育界にはこの「橋」がありませんでした。日本の英語にとって、貴重なのは、決して英語ネイティブの外人教師ではなくて、「鍛えられた類似物」を持つ日本人です。

・で、その「鍛えられた類似物」を、私は一人の生徒さんの前にさらし、同じように言ってみろと言います。私の「鍛えられた類似物」は、英語によく似ているし、使ってみると、英語ネイティヴから英語として受け止められるのですが、私はあくまでも「鍛えられた類似物」だと思っています。これは「類似物」だから、初心者にしてみると、真似しやすいのです。音だけに話を限定してみても、こちら岸(日本語の音韻構造)から、むこう岸(英語の音韻構造)に渡るための、まさに「橋」以外のものではありません。

・私の方法は、「鍛えられた類似物」を持て、と言っていると考えてもいいし、類似物を鍛えろと言っているのだと考えてもいい。だから、本当に初めて英語に触れる小学生や中学生にもできます。意味をとるとか考えるということは抜かすわけにはいかないにもかかわらず、それは勝手に一人でやってもらう以外にないことです。塾生の代わりに私が考えてやっても意味がありません。塾がやれることは、意味を媒介するための「音」を作ることだと思っています。最後は、音と意味が同時化されることをめざしますが、ひとまず最初は、意味がとれないことはまったく肯定してしまうわけです。なにはともあれ、「口の動きとしての音」を作ります。だから、口を動かして読むこと(音読・素読)を要求します。

・「リーディング(読書)」から「スピーキング(会話・対話)」へ。(浜谷)
・「リピーティング(音読・素読)」から「リスニング」へ。さらに「リスニング」から「スピーキング」へ。(根石)

・私の方法は、あくまで塾をどうやるかを考えてきて生まれてきたものですから、浜谷さんの方法より一段階多くなっています。高学年の小学生から受けつけていますので。

・塾の練習では、リピーティングによって、「自分の口の動きとしての音」を生徒に作らせながら、テープ、CD、MDなどは適宜、媒介します。普段使うのは、中学の教科書のCD教材です。リスニング教材などは、英語ネイティヴの本物の英語の音とされていますが、しょせん複製音声であり、英語の磁場の中で生きて動く生の英語音声ではありません。これも実は「類似物」です。これら「類似物」の中で、(初心者向けではありませんが)語学にもっともいいのは「映画」だと思っています。

・「電話でレッスン」でも、「類似物」を活用します。これは映画のシナリオを使うレッスンですが、まず私の「鍛えられた類似物」としての音を使ってリピーティングをします。次に映画を観ることで、複製音声としての英語ネイティヴの音声を媒介します。これを一年ほどやると、耳が一発で英語をとらえることが成立しはじめます。

・「電話でレッスン」は一年限定のレッスンにしようかと考え始めています。練習のやり方やレッスンの成り立ちは、レッスンを始めてもらって1ヶ月か2ヶ月でわかりますが、この方法で実際に何が起こるのかは、一年はやってもらわないとわかりません。しかし、一年やってもらってわかったことは、その後の自分の練習で継続してくれれば、練習の中に生きてきます。また、私の方法を世に出すためにはなるべく多くの人にこのレッスンを使っていただくことが必要です。それで、一年限定のレッスンにしようかと考え始めました。

・具体的に一冊のシナリオを終了させた方で、そのシナリオに関しては音声面がよく「こなれている」と私が判断した場合は、同じシナリオをやる生徒さんが現れた場合に、すでに終了させた人に「センセイ」になってもらおうとも考えています。「いえいえ、私なんかとてもセンセイはできません」と多くの方がおっしゃるのですが、具体的に一冊かたずけた人は、その一冊に関してならセンセイができます。これは国家資格などとは何の関係もなく、「できる」のです。

 飲みながら書いているので、アタマがもうろうとしてきました。
 また書きます。

 書き始めると、長くなりがちです。ご迷惑をおかけしておりますが、皆様ご容赦のほどをお願いいたします。


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浜谷さんからのメール
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根石様

今晩は、古川さんの掲示板を拝見しました。
掲示板では真意を伝え難いと考えメールにしました。

> 昨日、断熱材の施工をしている途中で、カッターで指
を切り、ずいぶんと血が出ました。(家を自作しているの
です。)そんなことは英語の論議と何の関係もないことで
すが、この掲示板に書かせてもらおうとしてキーボードを
打つたびに左手の小指が痛み、いつもよりゆっくりと打ち
込んでいます。

小指大丈夫ですか? 家の自作とは驚きです。 そうなさる方が時々いらっしゃるのはよく耳にしますが、根石さんがそのお一人とは・・・。もうどの程度出来てるのですか?

> 貴ホームページへ、「英会話学習相談機関」の一つと
して、私の活動を登録していただきありがとうございまし
た。

こちらこそありがとうございました。もっと繁盛しているHPであれば、宣伝効果の点で良かったでしょうに・・・。

> 少しこだわらせていただきたいのですが、「既修得者」
と「修得途上」という言い方に関してのものです。俺は「
既修得者」なんだろうか。「修得途上」であることは間違
いないが、果たして「既修得者」なんだろうか、と思った
のです。
 人様に英語を練習させ、人様からお金をいただいて生活
してきたにもかかわらず、私は今も「修得途上」であり、
決して「既修得者」ではない、と思いました。ここから、
急に私は傲慢な顔になるのですが、自分を「既修得者」だ
と思う人は、何の「既修得者」なのかと訊きたくなるので
す。「英語の?」 ありえないと思う。
 「コツをつかんだ人」と「コツがつかめていない人」と
いう分け方ならわかるのです。

仰るとおりです。確かに不用意に、これらの言葉を使ったことを反省しております。
私の頭の中では「既修得者」の意味は「コツをつかんだ人」も含まれますが、そんなに深い意味はなく単にあの掲示板上で質問に答えている人や学習方法につい議論に加わっている人を意味したのでした。前者は一定の基準に達しているからこそ質問に答える余裕がある。後者もそれだからこそ各々の経験から各々の持論を持ち議論に加われるのだろうと推察したのでした。

>しかし、コツをつかんでも、日本語だけを使い、英語を
やらないでいればどんな上級者の英語もただちに錆びつき
始めるというのが私の持論です。
 結婚した相手が英語ネイティヴの人であり、仲良しをす
るのも喧嘩をするのも英語であるという条件でもあれば、
最小単位の英語の磁場が形成されているため、英語の勉強
などしなくても英語から縁が切れません。英語を使うこと
が、日常であり、生活だからです。しかし、英語の磁場を
欠いて生きている日本人は、英語を錆びつかせるのには何
の努力もいらない。ただ、英語から離れていれば、すぐに
英語は錆びつき始めます。
 英語圏で育ち、言語のベースが英語でできており、日本
語は第二言語という人はともかく、日本語が第一言語であ
る場合は、どんなに英語が達者な人でも、普段の生活が日
本語であれば、そして英語の練習から離れれば、すぐに英
語は錆びつき始めます。
 日本語と英語との間の絶対的な関係。相互に殺し合う関
係があると考えています。この抗生物質とばい菌との間の
関係のような関係に人々はかなり無意識だと私は考えてき
ました。アメリカでは日本語がばい菌になり、日本では英
語がばい菌になる。「英語がしゃべれればいいわね」とい
う日本人のアコガレが、簡単に挫折することが多いのは、
英語は日本ではばい菌なのであり、それを日本語という抗
生物質がとりまいているのだという自覚がないためだと思
います。

まったくそのとおりだと思います。現に私の英語もやらなくなって10年以上経っていますので、相当さび付いています。だから今「英会話学習相談室」で英語でお喋りのコーナーを設けているのですが、苦労の連続です。

> 英語にばかり目が行っており、英語と日本語の関係、
言語・思考の相互異種性に目が行かない。アタマでわかっ
ているつもりになっているだけで、相互異種性を踏まえた
練習方法を自覚するに至らない。
 「既修得者」という考えは、「一丁あがり」という感じ
がするのが、日本に住んで英語をやっている人たちの実情
と違ってくるのではないかと思ったのでした。
 「既修得者」に関しては以上です。

「言語・思考の相互異種性」ということの意味が分らないのでお手すきのとき教えていただきたいのですが・・・。
「既修得者」と「一丁あがり」の見方ですが、それはそれでいいように考えます。 
一度一定の基準に達したと思った英語もそのままほっておいたら錆びがつきます。しかし、一度磁場(思考回路という人もいます)ができればそれは錆びはつきますが、簡単に磨き直せると考えます。私はフランス語会話を5年間仕事の合間にやって一応喋れるようになりましたがそれこそ20年間ぐらいやってませんので錆びつきまくっていて、今すぐは使いものにならないと思いますが、磁場は出来ている自信はありますので、すぐ錆び落としが出来ると思っています。 

根石さんと私の間に少し考え方にずれがあるように思える一番の点は、根石さんが英語そのものを問題になされるのに対して、私がその会話を問題にしている点だと考えます。会話というものは少しぐらい錆び付いて喋る力は落ちるかも知れませんが、聞く力はそう簡単に落ちない、聞く力があれば、日常の会話にそう支障を来たすことはないと思うのですがどうでしょうか?

> 浜谷さんの「リーディングからスピーキングへ」とい
う方法はまっとうなものだと思います。大枠では私もこの
考えですが、いくつかの相違点を述べさせてください。
・ペーパーバックスなどの多読を継続することは、語彙力
を維持し、涵養するのに最適だと思います。日本には英語
が作る磁場が存在しないという事実を踏まえた上で、これ
が最適だと思います。
・しかし、この練習(というか読書というか)は、多分、
口の動きがともなわないのではないでしょうか。つまり、
黙読になってしまうのではないでしょうか。
・浜谷さんは、「英会話向き(英会話をめざす)読み方」
とおっしゃっておられます。これはあくまで私の受け取り
かたですが、これは「内部音声」が英語のイントネーショ
ンやリズムのバネを備えている読み方のことではないでし
ょうか。「内部音声」というのは、私の造語で、伝わりに
くいかもしれませんが、読書するときに、口は動いていな
いにもかかわらず、意識に響いている抽象音です。これは、
自覚のある方にはすぐに何のことかおわかりいただけるし、
自覚のない方にはなかなかわかってもらえない現象です。
浜谷さんには、すぐにわかっていただけると思います。

「英会話向き(英会話をめざす)読み方」というのは、ヒヤリングを念頭において言っています。 ヒヤリングでは@語彙が不足していてはいくら発音に慣れていても分らない領域が縮まりません。A構文の知識が不足していても同様です。B相手が言うことを素早く掴むことが求められます。これら3点をカバーしようという読み方を提唱しているのです。 確かに発音の練習も同時にやることが出来ます。根石さんの仰る「意識に響いている抽象音」です。時には音読も効果的です。(精神の集中には、読む速度は落ちますが、効果的です。)

>・黙読のときに意識に響く抽象音(内部音声)が、英語
のイントネーションやリズムのバネを最初から備えている
ということは、英語の磁場に生きているのではない日本人
には起こりません。バネを備えた読み方ができる人は、す
でに中級者だと思います。
・この点については、英語のイントネーションやバネを備
えるために、リスニングを並行して行うことを浜谷さんは
勧めています。これは不可欠のものだと私も思いました。
・リスニングと黙読の二本立てと要約できると思います。
これは、とても日本人の心性になじむ方法だろうと思いま
す。リスニングは、受動することで能動が起こるし、黙読
は能動することで受動が起こります。そして、リーディン
グは、いつも意味をとるという行為と結ばれているのがい
い。
・全体としては、中級者以上の人に向いている練習だと思
いました。

そうですね。中級者向きかも知れませんね。 しかし私自身英会話をやりだした時にこの方法を思いつき実行しました。 だから、最初の頃は20−30%位しか分らないこともありましたが、上記の3点の中@とBの練習だと割り切り、その頃は学校英語の完全主義が残っていた私の思考パターンでは苦痛の大変伴うやり方だったかも知れませんが、私が今、試行錯誤で初歩の方々にも、その方たちになるべくあった本を使って読むことを指導しようとしているのです。

>・私の方法は、乱暴です。最初から生徒さんに口を動か
すことを要求します。口の筋肉の動きを自覚させ、どんど
ん動かせと言います。素読すると同時に理解できるのが最
上だが、そんなことは初心者には起こりません。だから、
ひとまず、英語のイントネーションとリズムの類似物を成
立させます。イントネーションやリズムができてきたもの
に関しては、舌の位置や歯の位置をどうするのかを言いま
す。
 私のイントネーションやリズムだって、英語の類似物が
鍛えられたものですが、これは英語のイントネーション、
リズムに向かおうとする練習にとって、「橋」の役割を果
たします。
・「類似物」であることに、私は卑下の感情を持ちません。
英語ネイティヴは英語ネイティヴであるし、英語ネイティ
ヴでない者はどれだけ英語をやっても英語ネイティヴでは
ありえません。これは、「生まれ・育ち」と同じで、単な
る宿命です。宿命というものがあることは絶対ですが、そ
んなものにへいこらする必要はないと考えています。私が
「類似物」しか持つことはないことは絶対的だ。日本語で
育ち、今も日本語を主体としているのだから。やれること
は「類似物」を鍛えるだけのことだと考えています。

私のやりかたの方がより乱暴だと思います。 根石さんのやり方は理論的でより現実的だと思います。 ただ、人それぞれで、私は根がぐーたらですから、大学も試験ばかりの延長線上に見えたので、(親の経済的窮状が主因ですが)行かなかったのですが、なんとか勉強気分を避けたい一心もあり上記の方法を編み出した(大げさな言い方かもしれませんが)のですし、一般の人にはそのほうがとっつきやすいように思うのですが、根石さんのやりかたのような理論的なほうが本当はいいのかもしれないと最近考えています。

>・日本語で育ち、日本に住み、日本語を日常言語としてい
る人が、「本物の英語」を持つことができるなどということ
は、とことん妄想だと考えています。これこそがESSなん
かに巣くってきたたちの悪い妄想です。私の住んでいるとこ
ろは、文化果つる地と呼んでいいほどの田舎町ですが、この
田舎から、都会に生息するESSなんかに、傲然と静かに言
うべき言葉は、「この、田舎もんが」です。「本物の英語」
という考え方が、すでに植民地根性です。イギリスでかもさ
れた英語という言語そのものが、それがかもされる過程では
立派な「まざりもの」です。英語人口の多くに広く行き渡っ
ている「本物の英語」幻想は、裏返せば、天皇制信仰じゃな
いかとすら私は疑っています。ESSと天皇制。面白い取り
合わせです。

天皇制についてはなんかタブー視されていていやですね。私は反対です。英国のように民主主義化されてるのであればいいのですが、現在の天皇制は人間性に欠け、不自然で、象徴という解釈がなんか吹っ飛んでいて危険な状態になっているのではとすら考えています。 私は本物英語の信仰悪くないと思っていますが、もっと大胆にネイティブを雇用し、安価に英会話を教えられる本物の英会話学校を作るベンチャー企業を起こすことも必要だとさえ考えています。

>・現在の日本の英語に必要なものは「橋」です。「鍛えら
れた類似物」です。英語フリークは別として、初心者が英語
のイントネーションやリズムに渡るためには、とりわけ「普
通の日本人」には、「橋」が必要なのですが、これまでの英
語教育界にはこの「橋」がありませんでした。日本の英語に
とって、貴重なのは、決して英語ネイティブの外人教師では
なくて、「鍛えられた類似物」を持つ日本人です。

根石さんのそのお考えは上記の私の非現実的な考えに比し極めて現実的で結構だと思います。しかし、多くの日本人には通じ難いことは根石さんが一番知っておられることだと思います。


・「リーディング(読書)」から「スピーキング(会話・対話)」
へ。(浜谷)
・「リピーティング(音読・素読)」から「リスニング」へ。
さらに「リスニング」から「スピーキング」へ。(根石)
・私の方法は、あくまで塾をどうやるかを考えてきて生ま
れてきたものですから、浜谷さんの方法より一段階多くな
っています。高学年の小学生から受けつけていますので。
・塾の練習では、リピーティングによって、「自分の口の
動きとしての音」を生徒に作らせながら、テープ、CD、
MDなどは適宜、媒介します。普段使うのは、中学の教科
書のCD教材です。リスニング教材などは、英語ネイティ
ヴの本物の英語の音とされていますが、しょせん複製音声
であり、英語の磁場の中で生きて動く生の英語音声ではあ
りません。これも実は「類似物」です。初心者向けではあ
りませんが、これら「類似物」の中で、語学向けにもっと
もいいのは「映画」だと思っています。
・「電話でレッスン」でも、「類似物」を活用します。こ
れは映画のシナリオを使うレッスンですが、まず私の「鍛
えられた類似物」としての音を使ってリピーティングをし
ます。次に映画を観ることで、複製音声としての英語ネイ
ティヴの音声を媒介します。これを一年ほどやると、耳が
一発で英語をとらえることが成立しはじめます。

いいですね。是非その方法を広めて行ってください。 一度根石さんのレッスンの様子を拝見、いや拝聴したいと思うのですが、テープでその一部でもお聞かせ願えたらと思うのですがあつかましいでしょうか?

本当は掲示板の方にお返事として(一部でも)書いた方がいいのかもしれませんが、取りあえずメールで失礼します。お気に触る書き方をしているかも知れません、もしそのような個所がありましたらご容赦ください。他意はありませんので。
 先ずは掲示板へのご返信まで。
                       浜谷俊雄


----------------------------------------------------
根石吉久から
浜谷さんへ
----------------------------------------------------

 メールありがとうございました。

 しかし、ここにいただいたメールのような記事こそが、古川さんの掲示板に必要な記事だと思います。」

 長大な記事でも、真摯なものであれば、古川さんは掲載してくださると思うのですが。

 議論や、相互の方法の相違点を照らし合うことは、日の当たる場所でやるのが一番だと思います。それが、英語に取り組んでいる多くの人に一番役にたつやりかただと思います。「日の当たる場所=掲示板」です。

 言語・思考の異種性について、掲示板で質問していただくことを希望しています。私は私の考えを公開するために掲示板に書き始めましたので、お願いいたします。

 私一人に向けて書いていただいたメールを、古川さんの掲示板に是非掲載して下さるようにお願いしたいのです。非常に人々の役にたつ記事になると思います。

 浜谷さんの方法はまっとうなものです。私も私の方法をまっとうなものだと考えています。しかし、それぞれが別の場所で、別の時点で考えたものですから、相互に照らし合うことがいいことです。

 まっとうな方法を、日の当たる場所で照らし合うことに、何の遠慮が要るものですか。

 以上、お願いです。


----------------------------------------------------
はまや <t-hamaya@nyc.odn.ne.jp>
Thursday, May 24, 2001 at 21:23:07 (JST)
(古川さんの掲示板への浜谷さんの記事)

(多くが根石吉久宛メールと重複する)
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根石様そしてその他のビュウアーの皆様

根石様、メールでご回答させて頂きましたが、その他のビュウアーの皆様にも関係があると思われる箇所について以下書き込みさせて頂きたいと存じます。

> 少しこだわらせていただきたいのですが、「既修得者
」と「修得途上」という言い方に関してのものです。俺は
「既修得者」なんだろうか。「修得途上」であることは間
違いないが、果たして「既修得者」なんだろうか、と思っ
たのです。
 人様に英語を練習させ、人様からお金をいただいて生活
してきたにもかかわらず、私は今も「修得途上」であり、
決して「既修得者」ではない、と思いました。ここから、
急に私は傲慢な顔になるのですが、自分を「既修得者」だ
と思う人は、何の「既修得者」なのかと訊きたくなるので
す。「英語の?」 ありえないと思う。
 「コツをつかんだ人」と「コツがつかめていない人」と
いう分け方ならわかるのです。

仰るとおりです。確かに不用意に、これらの言葉を使ったことを反省しております。私の頭の中では「既修得者」の意味は「コツをつかんだ人」も含まれますが、そんなに深い意味はなく単にこの掲示板上で質問に答えている人や学習方法につい議論に加わっている人を意味したのでした。前者は一定の基準に達しているからこそ質問に答える余裕がある。後者もそれだからこそ各々の経験から各々の持論を持ち議論に加われるのだろうと推察したのでした。

>しかし、コツをつかんでも、日本語だけを使い、英語を
やらないでいればどんな上級者の英語もただちに錆びつき
始めるというのが私の持論です。結婚した相手が英語ネイ
ティヴの人であり、仲良しをするのも喧嘩をするのも英語
であるという条件でもあれば、最小単位の英語の磁場が形
成されているため、英語の勉強などしなくても英語から縁
が切れません。英語を使うことが、日常であり、生活だか
らです。しかし、英語の磁場を欠いて生きている日本人は、
英語を錆びつかせるのには何の努力もいらない。ただ、英
語から離れていれば、すぐに英語は錆びつき始めます。
 英語圏で育ち、言語のベースが英語でできており、日本
語は第二言語という人はともかく、日本語が第一言語であ
る場合は、どんなに英語が達者な人でも、普段の生活が日
本語であれば、そして英語の練習から離れれば、すぐに英
語は錆びつき始めます。
 日本語と英語との間の絶対的な関係。相互に殺し合う関
係があると考えています。この抗生物質とばい菌との間の
関係のような関係に人々はかなり無意識だと私は考えてき
ました。アメリカでは日本語がばい菌になり、日本では英
語がばい菌になる。「英語がしゃべれればいいわね」とい
う日本人のアコガレが、簡単に挫折することが多いのは、
英語は日本ではばい菌なのであり、それを日本語という抗
生物質がとりまいているのだという自覚がないためだと思
います。

まったくそのとおりだと思います。現に私の英語もやらなくなって10年以上経っていますので、相当さび付いています。だから今近くで主宰している「英会話学習相談室」で英語でお喋りのコーナーを設けているのですが、苦労の連続です。

> 英語にばかり目が行っており、英語と日本語の関係、
言語・思考の相互異種性に目が行かない。アタマでわかっ
ているつもりになっているだけで、相互異種性を踏まえた
練習方法を自覚するに至らない。
 「既修得者」という考えは、「一丁あがり」という感じ
がするのが、日本に住んで英語をやっている人たちの実情
と違ってくるのではないかと思ったのでした。
 「既修得者」に関しては以上です。

「既修得者」と「一丁あがり」の見方ですが、それはそれでいいように考えます。
一度一定の基準に達したと思った英語もそのままほっておいたら錆びがつきます。しかし、一度磁場(思考回路という人もいます)ができればそれは錆びはつきますが、簡単に磨き直せると考えます。私はフランス語会話を5年間仕事の合間にやって一応喋れるようになりましたがそれこそ20年間ぐらいやってませんので錆びつきまくっていて、今すぐは使いものにならないと思いますが、磁場は出来ている自信はありますので、すぐ錆び落としが出来ると思っています。 

根石さんと私の間に少し考え方にずれがあるように思える一番の点は、根石さんが英語そのものを問題になされるのに対して、私がその会話を問題にしている点だと考えます。会話というものは少しぐらい錆び付いて喋る力は落ちるかも知れませんが、聞く力はそう簡単に落ちない、聞く力があれば、日常の会話にそう支障を来たすことはないと思うのですがどうでしょうか?

以上根石様以外のビュウアーの方々にも関係があるとおもわれる個所について根石様へのメールのお返事を再録させて頂きました。それらの方々からのコメントももしございましたらレス頂きたいと存じます。なお根石様のコメントの他の部分がそれらの方々に全く関係がないということではありません。英語(英会話)の学習方法について重要な個所が多々あり、根石様にはコメントさせて頂きましたが、長くなるので、ここでは割愛させていただきたいと思います。


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根石吉久 <ax9y-nis@asahi-net.or.jp>
Sunday, May 27, 2001 at 04:59:03 (JST)
(古川さんの掲示板への記事に対して、同じ掲示板へ)
----------------------------------------------------

皆様。

 新参者のくせに長大なものをたびたび掲載して申し訳ありません。書く事柄が語学というシチメンドウクサイものに及んでいるため、どうしても短く書けないところが多々出てきます。お許し下さい。


浜谷様

 寝不足、体力不足、様々重なりまして、今日もまた断熱材の施工をしたりして、はちゃめちゃながら、書きます。お返事が遅れましたがお許し下さい。
 ちなみに申し上げますが、私は日本の職人と建築現場の話をし、げらげら笑ったりした直後に、自分が英語で話さなければならないことがあったりすると、異様な感覚を持ちます。その時にはっきり感じるのは、私の体が英語をしゃべりたがらないということです。職人達の日本語から受けた強い磁力が、英語的に考えることを拒絶させようとしているのを感じます。

浜谷> 一度一定の基準に達したと思った英語もそのまま
ほっておいたら錆びがつきます。しかし、一度磁場(思考
回路という人もいます)ができればそれは錆びはつきます
が、簡単に磨き直せると考えます。私はフランス語会話を
5年間仕事の合間にやって一応喋れるようになりましたが
それこそ20年間ぐらいやってませんので錆びつきまくっ
ていて、今すぐは使いものにならないと思いますが、磁場
は出来ている自信はありますので、すぐ錆び落としが出来
ると思っています。 

 私が「磁場」という語に与えた概念は、ここに書かれたものと違っています。私の考えでは、「磁場」は個人を取り囲んでいる言語環境そのものです。個人が口から発したことに、当該の言語(日本語なら日本語、英語なら英語、その他あらゆる言語)で応じてくれる人がいる場のことです。しかも、ESSなどが作ろうとする人工磁場ではない、ナチュラルな磁場のことです。言語環境が個に及ぼす磁力を考えて、「磁場」という言葉を使っています。「磁場」は外国語を使う場合の思考回路ではなく、それを刺激し、育て、支えている場です。この意味で、日本には英語が作る磁場は「ない」のです。

 「磁場」だけが作りうる言語スキルは絶対にあると考えています。日本には、英語が作る「磁場」がないのですから、日本で英語をやる日本人には、他力(磁場)に刺激され、育てられ、支えられるということが起こりません。日本人の英語がどこまで行っても、個人の英語という孤立したものであるのはこのためです。これが英語の在日性です。

 しかし、当該の言語が作る磁場を欠いた場所で立ち上がる言語能力こそ、本物の語学なのだと私は考えてきました。単に当該の磁場の中に身を移し、磁力を帯びて当該の言語を獲得した人たちの英語は、いくらぺらぺらしゃべろうと、「語学として」は二流だと考えています。そのぺらぺらはご本人の努力以上に、英語の磁場の功徳です。これが磁場だけが作りうる言語スキルです。再び、しかし、そんなものに、日本在住のままアコガレているのは馬鹿げたことです。
 これはアメリカ(やその他の英語の磁場)に行き、ぺらぺら英語をしゃべるようになった人たちに突きつけておきたいものの一つです。この人たちに対して本当に言いたいのは、日本に帰ってきたあんたの「日本語」はなんぼのもんなのかい?ということです。日本には日本語という本物の磁場があるが、その磁場の中でなんぼの日本語が使えるのかということです。
 日本語という磁場の中で英語を使うから、それが際だつ。日本に英語の磁場がないことが作る際だちなのであり、まるで他力のなせるわざです。大事なのは、日本語という磁場の中では、日本語がなんぼのものかということです。世間が私を意地悪だと見るなら、世間が語学を見る見方が浅い分だけは、私はきちんと意地悪であり続けるべきだと考えています。日本語から日本語の活力を奪うような英語能力がなんぼのものかと言っても同じです。

 「磁場」という一語に長くこだわってしまいましたが、これは日本で英語を考える人たちに欠けている概念のうちでもっとも重要なものではないかと思っています。

 英語の思考回路が一度できれば簡単に磨き直せるかどうかについて。

 私は実感などというものをあまり信用していない者ですが、それでも私の実感を述べさせていただけば、錆びついた英語の思考回路の錆を落とすのは、それほど容易なことではないと感じます。
 私は『電話でレッスン』で映画のシナリオを扱っています。私が一回言ったものを生徒さんに五回繰り返していただくレッスン(「技法グラウンド」と名付けています)をやるために、私も予習をします。二十語、三十語を越える長さの文を、一発で言えるようにしておくためには、予習は欠かせません。
 レッスンの電話代を生徒さんが負担していますので、私としては、なるべく一発で読むことが必要なのです。この予習が私にとってはいい練習になります。
 予習をやっているときに、二、三日英語に触らないでいただけで、自分の英語に対する勘がひどく鈍っているという感覚を持つことがよくあります。日本では英語はすぐに錆びつくという私の主張は、この感覚に根拠があります。

 反面、浜谷さんのおっしゃっていることもわかる気がします。一度達したレベルの錆び落としは、新しいレベルに達する労力に比べれば、はるかに少ない労力でできるということでしたら、まったくその通りだと思います。
 私は、大学にいた五年間(一年落第しました)、ほとんど英語に触りませんでした。大学の卒業式の日に娘が誕生しましたので、以後、生活費を獲得する必要から英語を主体にして家庭教師やら塾やらをやりました。結局、塾が生業になりましたが、塾をやっているうちに、一度自分が達したピーク時の英語力は比較的容易に取り戻したように覚えています。その後、新しいレベルに出るのは、やはり苦労なものでした。

 思考回路そのものが錆びつくと、なかなか錆落としが困難だと思います。
 大学受験を経た人たちを考えると、そもそも英語による思考回路を持ったことがない人が大多数です。知識だけ持っていて、思考回路を形成していない大学生を相手に思考回路を作ることも今後の仕事にしていこうと思っています。

 錆を落とすのが困難だと言うことが私の主眼ではなく、強調したかったのは、日本という場所でのヨーロッパ系言語に寄る錆の進行の速さでした。この言語群は、日本では思考回路自体が錆びつきます。

浜谷> 根石さんと私の間に少し考え方にずれがあるよう
に思える一番の点は、根石さんが英語そのものを問題にな
されるのに対して、私がその会話を問題にしている点だと
考えます。会話というものは少しぐらい錆び付いて喋る力
は落ちるかも知れませんが、聞く力はそう簡単に落ちない、
聞く力があれば、日常の会話にそう支障を来たすことはな
いと思うのですがどうでしょうか?

 「聞く力」に関しては、私はとてもとても晩生です。自分でもずいぶん進歩したなと感じてはいるものの、リスニングという場面での「音」に関して自分に訓練を始めたのは、五十歳に近くなってからです。塾は二十代半ばに始めており、大学受験の結果に関しては狭い地域内ながら、一定の評価を得ました。リスニングの「音」を本気で問題にし始めたのは、本当に最近です。そして、それまで方法化してきた「自分の口を動かす訓練」がリスニングにも有効であることの確信をつかみました。

 この掲示板で、多くの人が自分の英語を作ってきた歴史とでもいうべきものを語ってくれることを願っています。どの年齢のときに、どんなことをやってどんなことが起こったかを語ってくれるなら、これから本格的に英語をやってみようと思う方々に役にたつものになるでしょう。Ray さんの教会での話はとても面白いものでした。

 大学に受かれば多くの人が英語をやめてしまいます。私がいくら「音づくり」をやって知識だけではない英語力を生徒に持たせても、その後、ほとんどの生徒は英語を死なせてしまいます。彼らにとっては、大学に受かることがすべてであり、英語はそのためにやるにすぎないのだと本当にわかってから、受験制度が作る幻想の強さに対して、非常に虚しい思いを持ちました。

 映画に着目して、英語の「音」を扱い始めたのはその後です。
 「受験」というものの外側で仕事を始めたわけです。
 自分のホームページ上で、「電話でレッスン」をやることを告知しました。
 自分自身では、リスニングの「音」をターゲットにし始めて3年ほど経つと思います。これは大学受験につきあうことの虚しさの他に、ウドという英語を話すやつと友達になったことが大きかったと思います。以後に触れることになるオーストリア人です。
 実際に「電話でレッスン」を始めてからは、まだ一年経っていないと思います。現在、生徒さんが8人います。私もリスニングに関しては「一丁あがり」ではないので、いろいろな工夫を考えます。それが、生徒さんに対するアドバイスになり、私のホームページの「電話でアドバイス」というページを充実させてくれています。
 「電話でレッスン」で映画のシナリオを扱い、映画を観ながら、一年ほどで耳の働きが大きく違っていることに驚いています。「英語の音の繊維が感じられる」という感覚が生じています。若い人がやれば、もっと早く上達するだろうと思いますが、四十代後半で始めて、私がこの感覚を持つようになるのに一年かかっています。もちろん、それまでに二十年ほど英語塾をやってきたということが下地になっています。
 若い頃にリスニングの「音」そのものと格闘された方とは入り方がまるで違っています。

 「日常会話にそう支障をきたすことはない」について。

 日常会話ができるかできないかは大きな違いですが、私は日常会話なんかを日本という場所で英語でやる気はないのです。日本語でも、日常会話なんかをやる気はあまりないのです。相当気の合う人とでなければ、「会話」とか「おしゃべり」はやりたくありません。そんなものはどうでもいいと思っています。

 昨夜はドイツ語ネイティヴのオーストリア人と、日本語の学び方を巡って、私がやつの日本語の練習方法につべこべ言ったせいで、何度もしてきた喧嘩をまたやらかしました。日本人のお馬鹿さんが英会話学校に通うように、この男は日本語学校に通って、18万円の金を使って、10ばかりの漢字を覚えました。この男の店で、私が酒の勢いで、無料で学校の宿題を見てやっていたのですが、「てにをは」に関しては何ひとつわかっていないことが判明しました。つまり、日本語という言語のシンタックスは身体化されていないのです。いくら私がそんな学校はやめとけと言っても、強情なやつでやめません。
 シンタックスの相互異種性こそが眼目なのだということを私はやつにわからせることができませんでした。言ってもわからせることができません。この男は英語とドイツ語をしゃべり、私は英語でしゃべりますが、やつが持つゲルマン兄弟言語とはまるで異種の日本語というシンタックスが存在することがやつにはまだわかっていません。日本語のシンタックスがゲルマン兄弟言語にとって本当に「赤の他人」であることが、自己中心的なヨーロッパ人にはわからない。これがわかるためには、やつに日本語のシンタックスを使いこなす能力が備わる必要があります。
 この男も、日常会話くらいは日本語でしゃべっていることがあります。語学をやったのではなく、日本語の磁場で拾った短いものをまるごと自分で言うだけのレベルです。こんなものは、まったく日本語の磁場の功徳によるものです。シンタックスの異種性はまるでわかっていない。
 日本人は数年アメリカにいただけで、ぺらぺらしゃべるようになって帰ってくる。日本人の自己否定の力は、この点では大したもんです。私の喧嘩相手のオーストリア人は日本に三年いますが、いやはや、自己の文化を信ずることが強「すぎる」ため、上達はやたらに遅れています。どうしようもねえと思うことすらあります。
 The result will prove. と言い捨てて、私は店を出ました。
 やつの日本語がどの程度のものになっているか、学校が終わる頃にまた店に顔を出してやるつもりです。ほぼ予想はできているのですが・・・。

 「イデオロギーとしての英会話」というダグラス・ラミスの本(晶文社)を読まれたことがおありでしょうか。現在、絶版になってしまっている可能性もありますが、良書だと思います。翻訳は決して上等なものでないのですが、それでも、ダグラス・ラミスの考えは私にしっかりと伝わってきました。私の英語に関する考えは、この本に多くを負っています。この本の同名のエッセイで、彼は日本人の「英会話」という考え方について疑義を提出しています。
 「英会話」という考え方そのものが、日本の(敗)戦後という時空を抜かしては意味のないものであると思います。英会話ブームは何度も戦後の日本にありましたが、根本にあるものはあやふやなものです。英会話という概念に、火に夏の虫が飛び込むように、多くの根性なしの日本人が飛び込みます。やつら、あらかたが文化的に植民地根性の者どもです。馬鹿たれが、英会話なんかやってなんになるんだ、英語をやれ、と私は考えます。

 私は「英会話」なんかという幻につきあうつもりはありません。英語でしゃべるやつの考えを受け止め、「英語でしゃべる」ということならやります。これは「英会話」なんかとはまるで違うことだと思っています。そもそも、真剣に話をしなくてはならないときに、日本で私たちがやっているのは、「日本語会話」でしょうか。決してそんなものではありません。ところが、暇なおばちゃんたちがファミレスあたりでやっている「会話」、つまり日本語の「おしゃべり」というものがあります。「日本語会話」という語に相当するのはその程度のものです。

 日本語を習う外国人がいれば、日本語そのものを対象にすべきで、ファミレスのおばちゃんなんかの「くっちゃべり」を目指す必要はありません。日本人が英語をやるんでも、まるで同じだと思うのです。「英会話」を「目指す」ということには、何か根底的に転倒したものを感じます。あくまで英語そのものをやるべきだと思いますが・・・。
 リーディングで語彙や語法を保存しながら増やすとか、文まるごとをシンタックス込みで覚えるとかいうことをやってこられた浜谷さんは、英語そのものをやってこられた方だと私は考えます。聞き取り、しゃべるというスキルを自分の語学のフィールドから決して外さなかった方ですが、そのほとんどすべての実質部分は、「英会話」ではなく英語をやってこられたのだと思っています。でも、それらの練習のすべては「英会話」ができるようになるためだったのだと浜谷さんはおっしゃるのでしょうか。「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」ようになるためだったと言ったほうが正確ではないでしょうか。
 私は「英会話」という概念は便宜的に使うだけです。目標にしたり、目指すべきものとしての価値は認めていません。「英会話」という概念の虚妄性は、戦後の日本の虚妄性と連動しているものだと考えています。
 「英会話」をめざし、苦労はしたくないという馬鹿に「英語そのもの」をやらせるのはなまじなことではありません。この言い方を浜谷さんは理解して下さると信じているのですが・・・。
 英会話をめざすのでも、結局は日本在住という条件下では英語そのものをやることになると思います。あるいは、英会話をめざすのなら、「なおさら」英語そのものをやらなきゃ駄目だというのが、日本在住の人の英語ではないでしょうか。その時に、「音」の問題を絶対に外してはならないという点で、私と浜谷さん、あるいは Ray さんには共通点があります。

 日本の学校英語や受験英語が実を結ばないのは、「音」の問題を軽視するからだということには、浜谷さんも Ray さんも異論はないと思います。このあたりの共通点をめぐって、今後議論していったらどうかと提案したいと思います。

 浜谷さんは、とても根性のある人だと思います。多くの「英会話好き」とはまるで違う人だと思っています。
 日本在住のまま音を媒介に英語にブレイクスルーする人は、「音楽好き」を除いては、あまりいません。「音楽」から英語に入った人は、英語の方ばかり見ており、日本語と英語の相互異種性を見ることができません。語学の本当の成果は、この相互異種性をはっきり見ることにあると私は考えています。この相互異種性を踏まえて初めて、コミュニケーションが始まるのだと思います。日本の戦後の人々が信じている「コミュニケーション」というお題目はあぶくのようなもので、本当はコミュニケーションでも何でもないと思っています。

 お聞きしたいことがあります。
 英語の「音」を聞き込むことで、ブレイクスルーできる人には何らかの下地があるはずだと思ったのです。先に述べたように、音楽が好きで、耳がよく、英語で歌を歌うことをよくしていたとか、高校までの学校英語に従順な生徒でよく点がとれていたとか、そういうなんらかの下地があるはずです。浜谷さんがご自分でおっしゃっている、語彙力というものも下地のひとつです。浜谷さんが、ご自分の英語を作るのに働いていた要因としてどんな種類の下地をお持ちだったか、これが私の浜谷さんの英語に対する最大の興味です。

 その「下地」の正体を知りたい。「下地」はどんな繊維でできているのかを知りたいと願っています。

 本当の初心者を対象にして、英語の磁場を欠いたまま、最初から英語の複製音声を聞き込んで英語にブレイクスルーさせようとする方法は、非常に多くの脱落者を出すと考えています。浜谷さんの方法が、あくまで中級以上の人向けだと考えたゆえんです。浜谷さんご自身もなんらかの下地の上に、その方法を実践なさったのではないでしょうか。どんな下地があったのか、それがどのように形成されたのかを語っていただけるとうれしく思います。

 私は下地のない人に、下地を持たせる方法を考えてきました。あくまで初心者のための方法を大事に思ってきました。

 初心の人向けのいい方法が確立されないと、英語は今後も英語フリークたちの専有物から抜け出すことはないと考えています。

 また長くなってしまいました。ご容赦下さい。


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浜谷さんからのメール
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浜谷>

根石様

掲示板へのレスありがとうございます。
ご指摘の点を足りない頭で今日半日考えておりました。そしてやっと分りました。というのは根石さんと私の違いは根幹の部分に関わっているらしいということです。前回の私のコメントの中で、根石さんの「英語そのものを問題・・・」というくだりは「語学としての英語(日本語、その他の言語)を問題・・・」と読んでいただくとピッタリくるように思います。

根石さん> 書く事柄が語学というシチメンドウクサイものに及んでいるため、

浜谷>とされているところが先ず一点目。
 
根石さん> 私が「磁場」という語に与えた概念は、ここに書かれたものと違ってい
ます。私の考えでは、「磁場」は個人を取り囲んでいる言語環境そのものです。個人
が口から発したことに、当該の言語(日本語なら日本語、英語なら英語、その他あら
ゆる言語)で応じてくれる人がいる場のことです。しかも、ESSなどが作ろうとす
る人工磁場ではない、ナチュラルな磁場のことです。言語環境が個に及ぼす磁力を考
えて、「磁場」という言葉を使っています。

浜谷>とされているところが第二点目。

根石さん>「磁場」は外国語を使う場合の思考回路ではなく、それを刺激し、育て、
支えている場です。この意味で、日本には英語が作る磁場は「ない」のです。 「磁
場」だけが作りうる言語スキルは絶対にあると考えています。日本には、英語が作る
「磁場」がないのですから、日本で英語をやる日本人には、他力(磁場)に刺激さ
れ、育てられ、支えられるということが起こりません。日本人の英語がどこまで行っ
ても、個人の英語という孤立したものであるのはこのためです。これが英語の在日性
です。
 しかし、当該の言語が作る磁場を欠いた場所で立ち上がる言語能力こそ、本物の語
学なのだと私は考えてきました。単に当該の磁場の中に身を移し、磁力を帯びて当該
の言語を獲得した人たちの英語は、いくらぺらぺらしゃべろうと、「語学として」は
二流だと考えています。そのぺらぺらはご本人の努力以上に、英語の磁場の功徳で
す。これが磁場だけが作りうる言語スキルです。再び、しかし、そんなものに、日本
在住のままアコガレているのは馬鹿げたことです。
 これはアメリカ(やその他の英語の磁場)に行き、ぺらぺら英語をしゃべるように
なった人たちに突きつけておきたいものの一つです。この人たちに対して本当に言い
たいのは、日本に帰ってきたあんたの「日本語」はなんぼのもんなのかい?というこ
とです。日本には日本語という本物の磁場があるが、その磁場の中でなんぼの日本語
が使えるのかということです。
 日本語という磁場の中で英語を使うから、それが際だつ。日本に英語の磁場がない
ことが作る際だちなのであり、まるで他力のなせるわざです。大事なのは、日本語と
いう磁場の中では、日本語がなんぼのものかということです。世間が私を意地悪だと
見るなら、世間が語学を見る見方が浅い分だけは、私はきちんと意地悪であり続ける
べきだと考えています。日本語から日本語の活力を奪うような英語能力がなんぼのも
のかと言っても同じです。

浜谷>とされているのが第三点目です。

「 しかし、当該の言語が作る磁場を欠いた場所で立ち上がる言語能力こそ、本物の
語学なのだと私は考えてきました。」とのくだりが象徴的ではないでしょうか? 

浜谷>対比としての私の「英会話を問題としている」点に関し

根石さん> リーディングで語彙や語法を保存しながら増やすとか、文まるごとをシ
ンタックス込みで覚えるとかいうことをやってこられた浜谷さんは、英語そのものを
やってこられた方だと私は考えます。聞き取り、しゃべるというスキルを自分の語学
のフィールドから決して外さなかった方ですが、そのほとんどすべての実質部分は、
「英会話」ではなく英語をやってこられたのだと思っています。でも、それらの練習
のすべては「英会話」ができるようになるためだったのだと浜谷さんはおっしゃるの
でしょうか。「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」ようになるためだったと言っ
たほうが正確ではないでしょうか。

浜谷>根石さんは上記のように語学としての英語について熱っぽくかたられ、「英会話、エイカイワ」については、後述されている『「英会話」をめざすということには、何か根底的に転倒したものを感じます。あくまで英語そのものをやるべきだと思いますが・・』とされているように否定的なように感じます。私は仰るように『「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」』ようになるためだったのですがしかし、「くっちゃべり」を否定するものではありません。「英会話という概念に、火に夏の虫が飛び込むように、多くの根性なしの日本人が飛び込みます。やつら、あらかたが文化的に植民地根性の者どもです。」というのがあてはまるような人は沢山います。しかし、そういう人と『「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」』ことを目指している人の差を見分けるのは困難です。初心者に対して「後者のように聞き取ったり喋ったりしなさい」と言っても無理ではないでしょうか? 勿論相当進んだ段階で、依然として前者の学習姿勢でいるのがいけないのは当然ですが。 それでもそういう人たちの中には「趣味でやっています。」という人たちがいるのも事実で、根石さんがおっしゃる300年、400年掛かっても『「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」』ことにはなれない訳で、自業自得ということで、こころある英語教育者と言えども関知する問題でないように考えます。ただ、根石さんが常にやってらしゃるように注意喚起してあげているのは敬服するばかりです。以上根石さんと私の考え方のずれ(実際にはずれてないかも?)についてのコメントです。
 
根石さん> この掲示板で、多くの人が自分の英語を作ってきた歴史とでもいうべき
ものを語ってくれることを願っています。どの年齢のときに、どんなことをやってど
んなことが起こったかを語ってくれるなら、これから本格的に英語をやってみようと
思う方々に役にたつものになるでしょう。Ray さんの教会での話はとても面白いもの
でした。

浜谷>私のはすべてHPに載せています。載せすぎたきらいもあります。(?)

根石さん> 大学に受かれば多くの人が英語をやめてしまいます。私がいくら「音づ
くり」をやって知識だけではない英語力を生徒に持たせても、その後、ほとんどの生
徒は英語を死なせてしまいます。彼らにとっては、大学に受かることがすべてであ
り、英語はそのためにやるにすぎないのだと本当にわかってから、受験制度が作る幻
想の強さに対して、非常に虚しい思いを持ちました。

浜谷>容易に推察がつきます。悲しい現実ですね。

根石さん> 映画に着目して、英語の「音」を扱い始めたのはその後です。
 「受験」というものの外側で仕事を始めたわけです。 自分のホームページ上で、
「電話でレッスン」をやることを告知しました。 自分自身では、リスニングの
「音」をターゲットにし始めて3年ほど経つと思います。これは大学受験につきあう
ことの虚しさの他に、ウドという英語を話すやつと友達になったことが大きかったと
思います。以後に触れることになるオーストリア人です。
 実際に「電話でレッスン」を始めてからは、まだ一年経っていないと思います。現
在、生徒さんが8人います。私もリスニングに関しては「一丁あがり」ではないの
で、いろいろな工夫を考えます。それが、生徒さんに対するアドバイスになり、私の
ホームページの「電話でアドバイス」というページを充実させてくれています。
 「電話でレッスン」で映画のシナリオを扱い、映画を観ながら、一年ほどで耳の働
きが大きく違っていることに驚いています。「英語の音の繊維が感じられる」という
感覚が生じています。若い人がやれば、もっと早く上達するだろうと思いますが、四
十代後半で始めて、私がこの感覚を持つようになるのに一年かかっています。もちろ
ん、それまでに二十年ほど英語塾をやってきたということが下地になっています。 
若い頃にリスニングの「音」そのものと格闘された方とは入り方がまるで違っていま
す。

浜谷>大変良い方法に違いないと敬服しています。いつか「電話レッスン」のサンプルのカセットでも頂けたらありがたいなあとあつかましくも思っています。(前回のE-mailでお願いしてしまいましたが・・・)
 
根石さん> 昨夜はドイツ語ネイティヴのオーストリア人と、日本語の学び方を巡っ
て、私がやつの日本語の練習方法につべこべ言ったせいで、何度もしてきた喧嘩をま
たやらかしました。日本人のお馬鹿さんが英会話学校に通うように、この男は日本語
学校に通って、18万円の金を使って、10ばかりの漢字を覚えました。この男の店
で、私が酒の勢いで、無料で学校の宿題を見てやっていたのですが、「てにをは」に
関しては何ひとつわかっていないことが判明しました。つまり、日本語という言語の
シンタックスは身体化されていないのです。いくら私がそんな学校はやめとけと言っ
ても、強情なやつでやめません。
 シンタックスの相互異種性こそが眼目なのだということを私はやつにわからせるこ
とができませんでした。言ってもわからせることができません。この男は英語とドイ
ツ語をしゃべり、私は英語でしゃべりますが、やつが持つゲルマン兄弟言語とはまる
で異種の日本語というシンタックスが存在することがやつにはまだわかっていませ
ん。日本語のシンタックスがゲルマン兄弟言語にとって本当に「赤の他人」であるこ
とが、自己中心的なヨーロッパ人にはわからない。これがわかるためには、やつに日
本語のシンタックスを使いこなす能力が備わる必要があります。 この男も、日常会
話くらいは日本語でしゃべっていることがあります。語学をやったのではなく、日本
語の磁場で拾った短いものをまるごと自分で言うだけのレベルです。こんなものは、
まったく日本語の磁場の功徳によるものです。シンタックスの異種性はまるでわかっ
ていない。

浜谷>根石さんはドイツ語も分るのですね。脱帽です!それといいお友達を持たれていて羨ましい限りです。今後も大事にお付き合いを続けてください。

根石さん> 「イデオロギーとしての英会話」というダグラス・ラミスの本(晶文
社)を読まれたことがおありでしょうか。現在、絶版になってしまっている可能性も
ありますが、良書だと思います。翻訳は決して上等なものでないのですが、それで
も、ダグラス・ラミスの考えは私にしっかりと伝わってきました。私の英語に関する
考えは、この本に多くを負っています。この本の同名のエッセイで、彼は日本人の
「英会話」という考え方について疑義を提出しています。

浜谷>一度出版社から購入して読んでみたいと思います。

根石さん>「音」の問題を絶対に外してはならないという点で、私と浜谷さん、ある
いは Rayさんには共通点があります。
 日本の学校英語や受験英語が実を結ばないのは、「音」の問題を軽視するからだと
いうことには、浜谷さんも Ray さんも異論はないと思います。このあたりの共通点
をめぐって、今後議論していったらどうかと提案したいと思います。

浜谷> その通りだと思います。 しかしそれ以上に問題なのは「音」の問題も含めて、使える(実用)英語の軽視だと思います。

根石さん> お聞きしたいことがあります。
 英語の「音」を聞き込むことで、ブレイクスルーできる人には何らかの下地がある
はずだと思ったのです。先に述べたように、音楽が好きで、耳がよく、英語で歌を歌
うことをよくしていたとか、高校までの学校英語に従順な生徒でよく点がとれていた
とか、そういうなんらかの下地があるはずです。浜谷さんがご自分でおっしゃってい
る、語彙力というものも下地のひとつです。浜谷さんが、ご自分の英語を作るのに働
いていた要因としてどんな種類の下地をお持ちだったか、これが私の浜谷さんの英語
に対する最大の興味です。
 その「下地」の正体を知りたい。「下地」はどんな繊維でできているのかを知りた
いと願っています。

浜谷>私の下地は中学校の時に音読を徹底的にやったことです。毎日リーダーの教科書の最初から当日やったところまでを何回も音読したことです。他の教科をほっといてもそれをやったので、他の教科の予習や復習不足になったのが悔やまれますが。だから、私のHPでは高校以下の学習者にはそれを奨めています。

根石さん> 本当の初心者を対象にして、英語の磁場を欠いたまま、最初から英語の複製音声を聞き込んで英語にブレイクスルーさせようとする方法は、非常に多くの脱落者を出すと考えています。浜谷さんの方法が、あくまで中級以上の人向けだと考えたゆえんです。浜谷さんご自身もなんらかの下地の上に、その方法を実践なさったのではないでしょうか。どんな下地があったのか、それがどのように形成されたのかを語っていただけるとうれしく思います。
 私は下地のない人に、下地を持たせる方法を考えてきました。あくまで初心者のための方法を大事に思ってきました。
 初心の人向けのいい方法が確立されないと、英語は今後も英語フリークたちの専有物から抜け出すことはないと考えています。

浜谷>私が英会話(実用英語)を始めたとき、相手が言っていることを即座に理解できることを目指しました。そしてそのためには大量の語彙と同じく大量の英語構文のインプットが必要と考えたのです。その為に多読を選びました。下地は上記のとおりですが、根石さんがやられている、電話レッスンによる下地作りはやるにこしたことはないですが、初心者でも興味のある洋書(ペーパーバック)を使えば「英語の複製音声を聞き込んで英語にブレイクスルーさせようとする方法」でやっていけるのではと今取り組んでる最中です。いわば試行錯誤の状態でやっていますので確信をもって言える段階ではありません。無責任かもしれませんが・・・。

浜谷>以上私なりによく考えてレスさせて頂いたつもりですが、的外れのレスになっているかもしれません、その節はご容赦のうえその旨ご指摘くださればありがたいのですが・・・。本当は掲示板にダイレクトに書き込めばいいのですが、前回同様自信がありませんので、まずメールでのレスにさせて頂きます。見ていただいてなにかご指摘いただきましたらその点について更に推敲をさせていただいてから、皆さんに周知して貰った方がいいと思われる部分について書き込みしたいと考えています。

                    浜谷俊雄


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根石吉久から
浜谷さんへ
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 数日、メールを確認していませんでした。31日午前2時過ぎ、浜谷さんからメールをいただいていることがわかりました。お返事が遅れましたことお許しください。
 掲示板に長いものを書いて以後、掲示板の方はときどきのぞいておりましたが、どなたもコメントしてくださらないので、干されているのかなと思っていたのでした。記事が長すぎるのが顰蹙をかっているのかとも思っていました。

"浜谷俊雄"> 前回の私のコメントの中で、根石さん
の「英語そのものを問題・・・」というくだりは
「語学としての英語(日本語、その他の言語)を問題
・・・」と読んでいただくとピッタリくるように思
います。

 日本在住のまま英語をやる場合の英語とは、「語学としての英語」以外のものではありえないと考えています。これが、もっとも包括的な英語の捉え方で、実用英語だろうが教養としての英語だろうが、趣味としての英語だろうがエーカイワだろうが、すべて「語学としての英語」の中におさまると思います。それは、「当該の磁場を欠く場所での英語の練習」と言っても同じです。語学ではない、実用英語だと言ったところで、「磁場の欠如」がどうなるものでもないのですから、すべては語学になると思います。
 これは、「英語という磁場を欠く日本という場所」という客観的な状況そのものから直接に生じている語学というものの考え方です。私の「語学としての英語」あるいは、「英語は語学でしかありえない」という考えは、日本という場所の客観的な状況に根拠がある限り、「実用英語」や「英会話」よりも包括的な規定であると思うのですが・・・。

"浜谷俊雄"> 「英会話、エイカイワ」については。後述されて
いる『「英会話」をめざすということには、何か根底的に転倒
したものを感じます。あくまで英語そのものをやるべきだと思
いますが・・』とされているように否定的なように感じます。
私は仰るように『「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」』
ようになるためだったのですがしかし、「くっちゃべり」を否
定するものではありません。「英会話という概念に、火に夏の
虫が飛び込むように、多くの根性なしの日本人が飛び込みます。
やつら、あらかたが文化的に植民地根性の者どもです。」とい
うのがあてはまるような人は沢山います。しかし、そういう人
と『「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」』ことを目指し
ている人の差を見分けるのは困難です。初心者に対して「後者
のように聞き取ったり喋ったりしなさい」と言っても無理では
ないでしょうか? 勿論相当進んだ段階で、依然として前者の
学習姿勢でいるのがいけないのは当然ですが。 それでもそう
いう人たちの中には「趣味でやっています。」という人たちが
いるのも事実で、根石さんがおっしゃる300年、400年掛
かっても『「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」』ことに
はなれない訳で、自業自得ということで、こころある英語教育
者と言えども関知する問題でないように考えます。

 私は「英語でしゃべる」「英語を聞き取る」ことに関しては、それを目指してどんどん練習するのがいいと思うのですが、「英会話」というものごとの捉え方には異和を感じ、そして、そんなものが目標であるはずがないと思う者です。ですから、もちろん、「英会話」という考え方は否定します。自分でこの言葉を使う場合は、あくまで意識的に便宜的にしか使いません。
 「くっちゃべり」は、そんなものはやりたければやればいいのであって、そんなものはとにかく語学がめざすべきものだとは思えないと言いたいだけです。個人がそれをめざしたければめざすがよろしいのですが、それでも、外国語に対して転倒した態度であるという考えは変わりません。なぜ転倒しているかと言えば、語学を語学としてちゃんとやらないで、「くっちゃべり」をめざすような人は、くっちゃべるようになれないからです。
 植民地根性の者どもと、「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」ことの実質をめざしている人たちとを見分けることは簡単です。前者は、ご苦労な語学という過程をすっとばし、英語ネイティブの外人の存在に頼り、「風邪がウツルように英語がウツル」ことを期待しています。つまり、お馬鹿さんたちです。後者は、英語を聞き取るための、あるいは英語をしゃべるための実質を作る練習をちゃんとやる人たちです。前者が後者になる可能性はあっても、後者が前者になることはありません。前者を後者にすることがどれほど疲れてむなしい仕事であっても、これも私の仕事だとは思っています。この仕事をやってみても、「死ななきゃなおらない」場合がほとんどです。しかし、たまに少数ながらいるのです。前者が後者になってくれる人が。
 初心者は、「英会話」なんかやるべきではないと思います。磁場がないんですから、この「会話」は架空のオペラのようなものになります。そんなものを初心者がやる必要はない。自分の口をどんどん動かして、「音読(素読)」するときに、NHKの各種英語講座のネイティブの音を媒介にすることなどはやるべきです。その講座の名前が「英語会話」だろうが、そんなことはどうでもいい。自分の「音読」の「音づくり」に媒介できるものなら、どんどん利用すればいい。ポイントは、「初心者」がやるべきものは、「英会話」なんかではなく、「音読」だということです。ダイアログをまるごと、どんどん「音読」するべきです。字が不要になるほどに、字につきあえばいいと思います。この場合に、英語の音声に対して音楽的とでもいうべきセンスがある人は手助けは必要ありませんが、自己流の「音づくり」に陥り、イントネーションやリズムが盆踊り状態になる人もたくさんいます。簡単に言えば、私の「電話でレッスン」は、放っておけば盆踊り状態を作ってしまう人たちの読みに、最低一年ほどかけて、英語のイントネーションやリズムを備えてもらうためのものです。
 趣味で英語をやる人たちには、私の関心はありません。どうぞご勝手に、と言えばそれで終わりです。もちろん、ものになるのに300年も400年もかかりますが、それを知ることもなく死ぬ人たちであり、死ぬと同時に趣味も死にますからどうぞご勝手にでいい。しかし、趣味でやっている人たちも心のどこかで、いつかはものになるかもしれないと思っているのです。アホ、という一言で用が足ります。
 一方、まともに語学をやって、ものにした人の英語も、その人が死ねばその人の英語も死にます。そして、それが継承されることもない。日本では、どの人も一から英語を始めなければならない。磁場がないからです。だから、英語は親から子へ、子から孫へ伝わるような言語ではない。それが日本です。
 この国では、もし、まともに語学をやった一人の人が死んでも後に残りうる可能性のあるものは、唯一、語学に関する思想(語学論)だけだと思います。

"浜谷俊雄"> 以上根石さんと私の考え方のず
れ(実際にはずれてないかも?)についての
コメントです。

 浜谷さんは、日本語の言葉の使い方が甘い方ではありますが、日本で英語を個人に成立させることの困難の自覚や、音が重要であるという観点など、私と共通するものを多くお持ちで、方法の基本はそんなにずれていないと思います。ずれがあるとすれば、私は英会話などをめざしたことはないことに対して、浜谷さんは英会話をめざしたという言い方にあまり違和を感じない方だという点だと思います。
 英語という語学に入る角度が違っていたのだと思います。すでに書きましたが、私がリスニングのために「音」をまともに扱い出したのは最近なのです。

"浜谷俊雄">根石さんはドイツ語も分るのですね。
脱帽です!それといいお友達を持たれていて羨まし
い限りです。今後も大事にお付き合いを続けてくだ
さい。

 ドイツ語はわかりません。私とウドは英語で話しています。ゲルマン兄弟言語というのは、英語とドイツ語の血縁を言っています。「いいお友達」どころか、時に非常に憎しみあうほど、相互に合譲らないものを持っています。喧嘩をこいて、しばらく顔を見ないでいて、久しぶりに店に寄ってやろうかと思っていたりすると、ちょうどその日に、向こうがこちらに遊びに来たりする珍妙な仲です。

"浜谷俊雄"> 一度出版社から購入して読んでみた
いと思います。

 「イデオロギーとしての英会話」は、もし絶版になっていたとしても、図書館にはあると思います。

"浜谷俊雄"> その通りだと思います。 しかしそ
れ以上に問題なのは「音」の問題も含めて、使え
る(実用)英語の軽視だと思います。

 細かいことを言うようですが、私は「使える英語」と「実用英語」を区別しています。使える英語はめざすべきだが、実用英語などという貧しいものはめざすことはないと考えます。英語そのものをまともに語学としてやり、その結果、それが「実用」にも使えたらそれはそれで構わないという程度に「実用」というものを考えています。英語をやる日本人が、国際的な商社マンみたいな気持ちで英語をやる必要などない。英語で本を読んで楽しむとか、英語で喧嘩こいて腹をたてるとか、そういうことでいいと思います。要は自分の英語を作り、それを使えばいいのです。
 これは自分の動機から発する行為です。「実用英語」という言い方は、社会の要請というような臭いがするのがいやです。
 私が学校英語や音づくりを排除した受験英語を否定するのは、これらの英語が「使える英語」にはならないからです。それが「使える英語」にならないのは、音の問題を軽視しているからだと考えてきました。

"浜谷俊雄"> 私の下地は中学校の時に音読
を徹底的にやったことです。毎日リーダー
の教科書の最初から当日やったところまで
を何回も音読したことです。

 これを読んで、深く深くうなずきました。
 翻って考えていただけませんでしょうか。
 この方法がベストなのだということです。
 これは Ray さんの実践と同じものです。
 英語が作る言語磁場を欠く日本では、これがベストなのです。
 自分でこれを始める人は語学のセンスがある人だと思います。
 この下地があって、ネイティブのしゃべりの複製音声を聞き込むことでブレイクスルーされたのであるならば、この下地を持たない人に、ネイティブな音声を聞き込むことを勧めても効果は薄いと思います。
 下地を持たない人にやられるなら、音読の指導が一番だと思います。
 これは、とても疲れる肉体労働です。ですから、お金はいただくべきだと思います。「もしも初心者を相手にされるのなら」ということです。

"浜谷俊雄"> 私が英会話(実用英語)を始めたとき、相手が言っていること
を即座に理解できることを目指しました。そしてそのためには大量の語彙と
同じく大量の英語構文のインプットが必要と考えたのです。その為に多読を
選びました。

 ここでは「英会話」とか「実用英語」という言い方にこだわらないで書きます。
「大量の語彙」「大量の構文」「インプット」。ここまでが、私とまるで同じ考えです。「多読」を選んだというところが、浜谷さんの真骨頂だと思いました。
 すごいとも思いました。
 多くの無理解にとりまかれるでしょうが、これこそ「まともな語学」というものだと思います。

"浜谷俊雄"> 下地は上記のとおりですが、根石さんがやられている、電話レ
ッスンによる下地作りはやるにこしたことはないですが、初心者でも興味の
ある洋書(ペーパーバック)を使えば「英語の複製音声を聞き込んで英語に
ブレイクスルーさせようとする方法」でやっていけるのではと今取り組んで
る最中です。いわば試行錯誤の状態でやっていますので確信をもって言える
段階ではありません。

 英語にすごく上達してしまった人は、えてして、本当の初心者がどういうレベルの練習に耐えられ、どういうレベルの練習に耐えられないかがわからなくなります。これは上級者という種族の欠点です。浜谷さんは、ご自分が中学の頃にやられた「音読」がどれほど大きな作用を及ぼしたのかをお考えになられるのがいいと思いました。
 何度も申し上げますが、ペーパーバックスと複製音声を聞き込むことの組み合わせによるブレイクスルーは、「音読」という下地の上に咲いたものです。この点に関しては、私は確信しています。

"浜谷俊雄"> ・・・。本当は掲示板にダイレクトに書き込めばいいのですが、
前回同様自信がありませんので、まずメールでのレスにさせて頂きます。見て
いただいてなにかご指摘いただきましたらその点について更に推敲をさせてい
ただいてから、皆さんに周知して貰った方がいいと思われる部分について書き
込みしたいと考えています。

 残念です。前回のメールで、「陽の当たる場所」でやりましょうと書きましたが、またメールをいただいてしまいました。そんなに用心する必要はないのではないでしょうか。考えというものは、「完成品」でなければ表に出してはいけないということはなくて、真摯に考えているものは、その過程もすべて表に出していいものだと思います。それが「書く」ということです。
 掲示板に載せるに関して、心配なのは、量です。浜谷さんのメールも私のお返事も、あの掲示板に載せるには長大すぎる。私は、すでに掲載してしまったものを読み直すたびに、「長すぎるなあ」と反省しています。
 それで、お願いがあるのです。
 いただいたメールと、それに対する私のお返事を私のホームページの1ページに仕立てることをご許可いただきたいのです。
 その上で、こういう記事がありますが、ここへ行けば読めますという具合に私のホームページへのご招待記事を短めに書けば、古川さんの掲示板にご迷惑をかけることを避けることができます。

 浜谷さんの英語歴を、貴ページを訪れ読ませていただく予定です。
 それに関して、書きたくなった場合は、短いものでしたら、掲示板に書きます。

 長いものはメールで、短いものは掲示板で、という基本方針で今後もおつきあい
いただきたくお願いいたします。


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浜谷さんから
根石吉久へ
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根石様

ご丁寧なレスありがとうございます。
仰っていただいた内容はよく分るところもあるし、正直言ってよく理解できていないところもあるように思います。これから熟読させていただいて、よく考えてみたいと思います。 そのうえでレスさせて頂きます。 

>  それで、お願いがあるのです。
>  いただいたメールと、それに対する私のお返事を私のホームページの1ページに
> 仕立てることをご許可いただきたいのです。
>  その上で、こういう記事がありますが、ここへ行けば読めますという具合に私の
> ホームページへのご招待記事を短めに書けば、古川さんの掲示板にご迷惑をかける
> ことを避けることができます。

そうしてくださるとありがたいです。やはり長さはさしおいても自信をもって議論に耐えうる理論や実践が不足していると感じていますので。 取りあえずは古川さんの掲示板を見ている人にたいし尻切れトンボの議論におわっているようにみえるのはよくないと考えますので。 招待記事につきましては私から古川さんの掲示板へ書き込みした方が良いのかご一報下さい。よろしくお願いします。

>  浜谷さんの英語歴を、貴ページを訪れ読ませていただく予定です。
>  それに関して、書きたくなった場合は、短いものでしたら、掲示板に書きます。
>  長いものはメールで、短いものは掲示板で、という基本方針で今後もおつきあい
> いただきたくお願いいたします。

そういうことで結構です。 こちらこそよろしくお付き合いの程お願いいたします。

                               浜谷俊雄


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浜谷さんから
根石吉久へ
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根石様

掲示板への書き込みに替えて先日メールでレスさせて頂きましたが、本当の気持ちをお伝えしたくパソコンに向かっています。

浜谷>根石さんと私の違いは根幹の部分に関わっているらしいということです。前回
の私のコメントの中で、根石さんの「英語そのものを問題・・・」というくだりは
「語学としての英語(日本語、その他の言語)を問題・・・」と読んでいただくと
ピッタリくるように思います。

と前回のメールで述べ、その根拠として根石さんの掲示板のご意見のうち3箇所挙げ
させて頂きました。 そして、「当該の言語が作る磁場を欠いた場所で立ち上がる言
語能力こそ、本物の語学なのだと私は考えてきました。」とのくだりが象徴的だと申
し上げました。 

そして、対比として私が「英会話を問題にしている」点に関して、

根石さん> リーディングで語彙や語法を保存しながら
増やすとか、文まるごとをシンタックス込みで覚えると
かいうことをやってこられた浜谷さんは、英語そのもの
をやってこられた方だと私は考えます。聞き取り、しゃ
べるというスキルを自分の語学のフィールドから決して
外さなかった方ですが、そのほとんどすべての実質部分
は、「英会話」ではなく英語をやってこられたのだと思
っています。でも、それらの練習のすべては「英会話」
ができるようになるためだったのだと浜谷さんはおっし
ゃるのでしょうか。「英語が聞き取れる」「英語でしゃ
べる」ようになるためだったと言ったほうが正確ではな
いでしょうか。

のご意見に対し、

浜谷>根石さんは上記のように語学としての英語について熱っぽく
かたられ、「英会話、エイカイワ」については。後述されている
『「英会話」をめざすということには、何か根底的に転倒したもの
を感じます。あくまで英語そのものをやるべきだと思いますが・・』
とされているように否定的なように感じます。私は仰るように
『「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」』ようになるためだっ
たのですがしかし、「くっちゃべり」を否定するものではありませ
ん。「英会話という概念に、火に夏の虫が飛び込むように、多くの
根性なしの日本人が飛び込みます。やつら、あらかたが文化的に植
民地根性の者どもです。」というのがあてはまるような人は沢山い
ます。しかし、そういう人と『「英語が聞き取れる」「英語でしゃ
べる」』ことを目指している人の差を見分けるのは困難です。初心
者に対して「後者のように聞き取ったり喋ったりしなさい」と言っ
ても無理ではないでしょうか? 勿論相当進んだ段階で、依然とし
て前者の学習姿勢でいるのがいけないのは当然ですが。 それでも
そういう人たちの中には「趣味でやっています。」という人たちが
いるのも事実で、根石さんがおっしゃる300年、400年掛かっ
ても『「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」』ことにはなれな
い訳で、自業自得ということで、こころある英語教育者と言えども
関知する問題でないように考えます。ただ、根石さんが常にやって
らしゃるように注意喚起してあげているのは敬服するばかりです。
以上根石さんと私の考え方のずれ(実際にはずれてないかも?)に
ついてのコメントです。
 
ここまでは主要な部分における前回までの私のレスでした。このレスをメールした後何か釈然としないものが、私の胸の中に残ったので、メールでそれをお伝えすべきだと考えたのです。
私は根石さんのHPを拝見し殆どの個所で根石さんの識見の的確さに敬服しているものですが、この掲示板への書き込みで、考えさせられた点があります。はっきり申し上げたいと
思います。

学校英語、受験英語の拙劣さは根石さんのご指摘の通りですが、私は英語が学問として捉えられる限りその拙劣さに対抗しにくいと考えます。 英語はコミュニケーションの道具と、捉えられてはじめてその拙劣さが浮かび上がり対抗しやすくなる、多くの同胞に受け入れてもらいやすくなると考えます。「当該の言語が作る磁場を欠いた場所で立ち上がる言語能力こそ、本物の語学なのだと私は考えてきました。」とのご意見ですが、学校英語、受験英語が固執しているのが、この「本物の語学」論争だろうと考えます。そして、この観点から英語を捉える限り、そしてこの論争を続けている限り彼らの論拠を崩すことは並大抵ではないと考えますがどうでしょうか?
私は英語を語学と見たくはありません。あくまでも道具としてみたいと思います。道具として見れば、どのような方法で修得しようと構わないのではないでしょうか? 
「文化的に植民地根性の者」は英語学習者以外にも大勢います。 これからの時代は何事も国単位で考えるべきではないように考えます。そうだとすれば植民地云々と怖れ考えることは不要になると思いますがどうでしょうか? 根石さんのHPによりますと、最近日本語文献の素読へと重心を移動させておられるようにもお見受けします。
言語学者としてのご発展を心より願うものですが、英語を道具として捉える私の意見に対し根石さんはどのようにお考えになりますでしょうか? 是非お考えをお聞かせください。
                       浜谷俊雄


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根石吉久から
浜谷さんへ
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 お返事をさしあげてないメールが一通ありました。遅れまして申し訳ありません。まず、先にいただいたメールへのお返事です。

"浜谷俊雄"> 学校英語、受験英語の拙劣さは根石さんのご
指摘の通りですが、私は英語が学問として捉えられる限り
その拙劣さに対抗しにくいと考えます。
 英語はコミュニケーションの道具と、捉えられてはじめ
てその拙劣さが浮かび上がり対抗しやすくなる、多くの同
胞に受け入れてもらいやすくなると考えます。

 私も英語を学問としてとらえているわけではなくて、あくまで語学としてとらえています。日本在住のままに英語をやるときに形成される、あるいは拡張される意識の運動領野を考えると、語学という語が一番いいと考えています。「語学」にも「学」の字があるので、語「学」というと、「学」問の一種のように感じられるということでしょうか。
 これは、単に「学ぶ」という字ですから、英単語のイメージの核をしだいにはっきりとしたものにしていくこと一つでも「学ぶ」ということから外れないと思います。うろ覚えの知識で、まったく見当違いのことを書いてしまうかもしれませんが、本居宣長によれば、「まなぶ」とは「まねぶ」であり、「まねぶ」は「真似る」なのだというようなことをどこかで読んだ覚えがあります。不確かなことを申し上げて、本居宣長さんには申し訳ネエのですが、これは小林秀雄が言っていたことかもしれないと、今急にそんな気がしました。昔、小林秀雄を読んでいた時期がありましたから・・・。ともかく不確かなことで申し訳ありません。しかし、この考えは現在の私の考えともなっています。学ぶとは真似ることであるということは、子供がネイティヴな言語(母語)を獲得していく過程にも、語学にも共通しているものだと思います。
 いずれにせよ、語学というものに「学問」のようなごたいそうな語感を感じているわけではなくて、言語(言葉)を学ぶ(真似る)ことだという程度に思っています。それなら、英語をやることを語学と呼ぶことがもっとも適当だろうと思っているわけです。そして、この捉え方がもっとも包括的だとも思っています。
 「音づくり」を軽視する、あるいは排除する学校英語、受験英語は糞くらえだと考えています。これは、あくまで学校的、黒板的、点数的、知識的なしろものであり、糞溜に叩き込みたいと考えます。学校英語、受験英語に対しては、気持ちはそのように激しいのですが、現実の中学生・高校生を相手にしていると、学校英語、受験英語に対する絶望を踏まえたうえで、こいつら(とは私の塾生でもありますが)がやっている知識的な英語にまともな音を固く結合させるなら、それがもっとも早道だとも思うのです。あるいは、それがもっとも現実的だとも思うわけです。

 「英語=道具」観は私はとりません。
 言葉というものは、意思の疎通に役立つ面がありますから、道具としての一面があります。ですが、あくまでそれは言葉の一面であり、言葉そのものは道具を絶えずはみ出すものだとも思っています。幼児が言葉を獲得していく場面で(実際は私の娘の幼児の頃に見たものですが)、覚えた言葉の音の面白さだけで、同じ言い回しを誰に言うのでもなく、独り言のように何度も何度も言っているのを目撃したことがあります。これは、とても語学に似ていると思っています。「音」の面白さ、それを口の筋肉を動かして発語することの快楽のようなものがそこにあるように思いました。
 面白さや快楽のためだけに発語する。これは、意思の疎通や道具としての言葉をどうにもはみだすものです。文学や詩につながる何かだと思っています。
 「英語=道具」観は、根はアメリカのプラグマティズムなんかにあるのではないでしょうか。これは、当該のテキストを読んだこともなく、あてずっぽうを言っているのですが、どうもそんな気がします。言葉に対する見方としては貧弱なものだと思っています。産業界や実業界にはよくなじむ言葉の扱いかただとは思いますが・・・。

 馬鹿みたいな言い方ですが、あえて言えば、「英語=道具」ではなく、「英語=言葉」だと考えます。そして、言葉は道具をはみ出す、しかも、大きくはみ出すと考えています。

 再説しますが、まともな「音」をともなわない学校英語、受験英語に対抗しようなどとは思っていません。根底的に批判して、その「駄目な構造」を明らかにしようとは思っています。本当に、学校英語というものや、受験制度の枝としての英語は、糞溜行きの運命にあるものです。私ら、インターネット上の語学論者が引導を渡すべきしろものです。文部省が牛耳ってきた学校英語というものは、英語にたかっている寄生虫みたいなもので、英語そのものではありません。あんなものを英語と呼んだら、英語に対して申し訳ないと思います。
 私は塾をやっていますが、学校英語に対する補完物になりさがる気がまるでありません。どっこい、実質は俺の塾が作っているんだ、あんたらの学校の英語は、俺の塾の方法を媒介にすれば、なんとか使い物になる程度のしろものなんだ。どれほどこの言い方が傲慢な、傲然とした、非難ごうごうにまみれなければならないものであっても、私は平然とそう思っています。

 語学。日本在住のままにそう呼ぶのが、英語という言語に対する礼儀だと思っております。

"浜谷俊雄"> 「当該の言語が作る磁場を欠いた場所で立ち上がる
言語能力こそ、本物の語学なのだと私は考えてきました。」との
ご意見ですが、学校英語、受験英語が固執しているのが、この
「本物の語学」論争だろうと考えます。そして、この観点から英
語を捉える限り、そしてこの論争を続けている限り彼らの論拠を
崩すことは並大抵ではないと考えますがどうでしょうか?

 「本物の語学論争」というものが、どこで戦われたのか私はよく知らないのですが、渡辺昇一なんかがやった論争のことでしょうか。
 「本物の語学」という言い方を私はしていますが、「音」を粗末にするを学校英語、受験英語は「にせものの語学」だと考えてそう言っています。また、アメリカ(その他の英語圏)の英語の磁場の功徳をこうむって「ぺらぺら」をやる薄っぺらな「くっちゃべり」英語を考えても、同じ言い方をします。
 どっちも語学として「にせもの」だと思っているのです。

 「彼らの論拠を崩すことは並大抵ではない」ことは、本当に並大抵ではありません。だって、やつらのアタマは凝り固まっておりますから・・・。そのくせ、文部省改め文部科学省なんぞは、言うことだけは、「実用英語」や「エーカイワ」にへつらうのですから・・・。この国の教育なんぞをいじくっているやつらは、本当にずるがしこいやつらです。

"浜谷俊雄"> 私は英語を語学と見たくはありません。あく
までも道具としてみたいと思います。道具として見れば、
どのような方法で修得しようと構わないのではないでしょ
うか? 

 英語を見る見方として貧弱であるとは思いますが、道具として見たいのであればそれはそれで成立します。先述した通り、言葉には道具としての一面もあるからです。私はその見方をとらないだけです。
 「道具としてみれば、どのような方法で修得しようと構わない」のは、まったくその通りです。しかし、本当に道具として使うなら、日本にいてしこしこやっているより、英語圏に渡ってしまうことが得策だと思います。英語圏に渡って、本気で英語をやれば、道具としてはいいものが手に入ると思います。
 私個人のことを言わせていただけば、それがどれほど道具を手に入れるのに得策であろうと、英語圏に渡ることはするつもりがありません。私の興味は、「当該の磁場を欠く場所で立ち上がる言語能力」にあり、言語・思考の相互異種性にあるからです。
 もしも、やむを得ず英語圏で暮らさなければならない事情が生じたならば、私は日本語でものを書き続けることを併行してやると思います。日本語のシンタックスを自分の体から追い出してしまうような馬鹿なことをやるつもりがありません。日本語こそが私を育ててくれた言語だからです。

 しかし、再び、あくまで道具として英語をとらえるならば、「日本語のシンタックスを自分の体から追い出してしまう」ことが得策です。
 私は得策にはたいした興味がないということかもしれません。
 私がHPなどで述べる得策は、「日本在住のまま」で英語をやる場合の得策です。私は発言の領域をここに限定しています。

"浜谷俊雄"> 「文化的に植民地根性の者」は英語学習者以
外にも大勢います。 これからの時代は何事も国単位で考
えるべきではないように考えます。そうだとすれば植民地
云々と怖れ考えることは不要になると思いますがどうでし
ょうか? 根石さんのHPによりますと、最近日本語文献の
素読へと重心を移動させておられるようにもお見受けしま
す。

 「英語学習者」以外にもたくさんいる。その通りです。しかし、植民地根性がもっとも多く生息しているのが、「英会話好き」というお馬鹿さんたちの集まりだとも思っています。
 「国単位で考えるべきではない」ことは、まったくそう思うのですが、現在の英語の隆盛の根には、かつての大英帝国(が作った植民地((からの富の泥棒)))や、アメリカのWASPどものピューリタニズムを根にもつ世界の警察(アメリカ国家)の隆盛があると思います。切り離せないものだと思います。
 それを無視することはできないと思うだけであり、私自身が「国」というものを単位にものを考えているとは思いません。コンニャクをいじるような軟弱な語学をやる人や、幻想・妄想まみれの英会話好きの人たちに対して、植民地「根性」呼ばわりをしたのであり、あくまでその「根性」の質を問題にしています。「国」単位の植民地のことを言ってはおりません。言うべき機会があれば言いますが。

 私のHPでの日本語の素読へのお誘いは、日本の皆様から見事に無視されています。しかし、本当に日本の学校では日本語が粗末にされています。日本人がなかなか英語をしゃべるようにならないということよりも、重大な問題ではないかと考えています。
 ですから、日本語の素読へのお誘いは、今のところ私のヴィジョンでしかありません。このお誘いをまっとうに受け止めてくれるようになるなら、日本にも正気が残っていると考えたいと思いますが、現在は英語、英語のきちがい沙汰、大合唱です。英語塾でおまんまを食ってきた者ではありますが、アホか、と思っています。切ないです。

 ちなみに、私の自覚として、私は言語学者ではありません。
 語学論者だと思っています。しかし、語学論そのものが日本でまともに認知されていない現状では、語学論者などはどこの馬の骨かわからないものとして扱われることが続くでしょう。
 英語と日本語をまったくイーヴンなものとして見る語学論が成立していません。
 欧米系の言語群から見たとき、日本語がどの程度に遠いものに見えるのかが、英語英語の馬鹿騒ぎをしている日本人には見えないと思います。この人たちは、結局、日本語から英語への距離も正確に測ることはできないと思います。

 以上です。
 これらの問題は、やはりシチメンドウクサイものであり、意見を交わせば長くなるものと思われますので、古川さんの掲示板より、私のHPに掲載するのが適当だと存じます。

 お考えをお聞かせ下さい。

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浜谷さんへ
根石吉久から
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 お返事が遅れがちで申し訳ありません。

 今日、これまでの相互のやりとりを一つのファイルにコピーする作業をしました。明日以降、暇をみつけて、ホームページの記事にする予定です。

 やはり、古川さんの掲示板では、私のアクの強い物言いにレスポンスがありません。応じて下さったのは浜谷さんお一人です。

"浜谷俊雄"> やはり長さはさしおいても自信をもって議論に耐えうる理
論や実践が不足していると感じていますので。取りあえずは古川さんの
掲示板を見ている人にたいし尻切れトンボの議論におわっているように
みえるのはよくないと考えますので。 招待記事につきましては私から古
川さんの掲示板へ書き込みした方が良いのかご一報下さい。よろしくお
願いします。

 長さは、私は気になっていました。
 しかし、長くなるのを避けられない場合もあります。
 語学に対する「理論」に関しては、日本にはそれがないと感じてきました。ヤフーで「語学論」というキーワードで検索してみた結果が、『言「語学論」文の書き方』とかいうもの一つしかヒットしませんでした。語学論が日本には払底しています。

 語学がなめられているのです。

 古川さんの掲示板へ書き込みしていただけるなら、ありがたく存じます。私は、議論はなるべく生なもののまま、採録するのがいいと考えていますので、「長さ」の問題を考慮し、私のホームページに掲載しますが、まだ未掲載ですので、私のホームページに記事が出た時点で、書き込みをお願いしたいと思います。
 「生なもの」を損なわない程度の字句の変更は掲載後でもかまいませんので、ありましたらおっしゃって下さい。変更します。

 今日も考えましたが、「そうか、やはりそうなんだな」と思いました。
浜谷さんが中学の頃、音読をやっていたということに関してです。

 英語力に関しては、浜谷さんは私より一枚上手なんだとも思っています。浜谷さんは中学の頃にすでに「音読」をしていた。私は、「音読」に目覚めたのは大学受験浪人の時、十九歳の頃です。
 十二、十三、十四歳の頃に「音読」するのと、十九歳になってから「音読」するのとでは、日本人の体にシンタックスが食い込む深度が違います。
 まともな方法に目覚めるのが遅かった分だけ、私は語学論に深入りすることになったのかもしれません。そして、その分だけ、日本という特殊性に自覚的になったような気もします。私の考えの根幹にかかわるものですが、「英語という磁場の欠如する場所」に対する自覚です。ここから、人々の「シンタックスの相互異種性への無自覚」を批判する観点が生まれています。
 
 古川さんの掲示板で他の方からレスポンスがいただけないようなら、また他の掲示板へ行ってみようかと考えています。旅に出てみようかという気持ちです。

 浜谷さんに出会えたことが唯一の収穫でした。

 今後ともよろしくお願いいたします。


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浜谷さんから
根石吉久へ
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根石様

根石さん>  やはり、古川さんの掲示板では、
私のアクの強い物言いにレスポンス がありませ
ん。応じて下さったのは浜谷さんお一人です。
 古川さんの掲示板へ書き込みしていただける
なら、ありがたく存じます。私は、議論はなる
べく生なもののまま、採録するのがいいと考え
ていますので、「長さ」の問題を考慮し、私の
ホームページに掲載しますが、まだ未掲載です
ので、私のホームページに記事が出た時点で、
書き込みをお願いしたいと思います。

私>根石さんのこのレスを読み、私はこれではいけないこのページは是非根石さんにも引き続き出て欲しい、全国の英語学習者のために・・・と思い僭越ながら、前回の根石さんの書き込みに答える形で今日レスしました。沢山の学習者の方々や有識者の方々がご覧になったと思います。そしてきっとどなたかのコメントがあるものと思います。差し出がましいことをしたり、言ったりし、もしお気に触ったらお許しください。他意は全くありませんので。

根石さん >  長さは、私は気になっていました。
 しかし、長くなるのを避けられない場合もあります。
 語学に対する「理論」に関しては、日本にはそれがな
いと感じてきました。ヤフーで「語学論」というキーワ
ードで検索してみた結果が、『言「語学論」文の書き方』
とかいうもの一つしかヒットしませんでした。語学論が
日本には払底しています。
 語学がなめられているのです。

私>根石さんの書き込みの長さは関係ないと思います。私の最初のレスの長さこそ問題だったと思います。 根石さんの仰っていることを本当に理解しないままだったものですから必要以上に引用部分が長くなってしまったと思います。それと最初から感じていたのですが私も相当長い間理解出来ない部分があったように他のビュウアーの方も理解出来ていない虞があります。私は私が宛名になっていた関係でレスしなければという思いがありましたが、他の方はそういうimpetusがないわけで、そう気にすることもないと思います。

根石さん>  「生なもの」を損なわない程度の字句
の変更は掲載後でもかまいませんので、ありました
らおっしゃって下さい。変更します。

私>ご親切にありがとうございます。 根石さんのHPに私の意見が載るなんて光栄です。

根石さん>  今日も考えましたが、「そうか、やは
りそうなんだな」と思いました。浜谷さんが中学の
頃、音読をやっていたということに関してです。
 英語力に関しては、浜谷さんは私より一枚上手な
んだとも思っています。浜谷さんは中学の頃にすで
に「音読」をしていた。私は、「音読」に目覚めた
のは大学受験浪人の時、十九歳の頃です。
 十二、十三、十四歳の頃に「音読」するのと、十
九歳になってから「音読」するのとでは、日本人の
体にシンタックスが食い込む深度が違います。
 まともな方法に目覚めるのが遅かった分だけ、私
は語学論に深入りすることになったのかもしれませ
ん。そして、その分だけ、日本という特殊性に自覚
的になったような気もします。
 私の考えの根幹にかかわるものですが、「英語と
いう磁場の欠如する場所」に対する自覚です。ここ
から、人々の「シンタックスの相互異種性への無自
覚」を批判する観点が生まれています。

私> 若年齢での「音」の取るうえの有利さはその通りかも知れません。感覚的に分るような気がします。現在の英語力に関してどちらがどうということはないと思います。まあそのうちにお互いに分るかも知れませんがその時はお手柔らかにお願いします。 

根石さん>  古川さんの掲示板で他の方からレスポン
スがいただけないようなら、また他の掲示板へ行って
みようかと考えています。旅に出てみようかという気
持ちです。

私>前述した通りです。この掲示板は多くの学習者や私など足元にも及ばないような有識者が顔を揃えています。根石さんもその一人だと思います。是非書き込みを続けてください。

根石さん>  浜谷さんに出会えたことが唯一の収穫でした。
 今後ともよろしくお願いいたします。

私>そう思って頂けて大変光栄です。 でも上記の通りですよ!
こちらこそよろしくお願いいたします。
                          浜谷俊雄


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古川さんの掲示板への浜谷さんの記事
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皆様、そして根石様

大変遅くなりましたが、根石さんの前回のコメントにレスさせて頂きたいと思います。根石さんの語学論は大変難しく掲示板でのレスの前にメールで質問等させて頂いていた関係で皆様には私が何故レスしないのかとお思いの方もおられることと(要らぬ?)心配をしています。

根石さん>日本で英語をやる日本人には、他力(磁場)に刺激
され、育てられ、支えられるということが起こりません。日本
人の英語がどこまで行っても、個人の英語という孤立したもの
であるのはこのためです。これが英語の在日性です。

 しかし、当該の言語が作る磁場を欠いた場所で立ち上がる言
語能力こそ、本物の語学なのだと私は考えてきました。単に当
該の磁場の中に身を移し、磁力を帯びて当該の言語を獲得した
人たちの英語は、いくらぺらぺらしゃべろうと、「語学として」
は二流だと考えています。そのぺらぺらはご本人の努力以上に、
英語の磁場の功徳です。これが磁場だけが作りうる言語スキル
です。再び、しかし、そんなものに、日本在住のままアコガレ
ているのは馬鹿げたことです。
 これはアメリカ(やその他の英語の磁場)に行き、ぺらぺら
英語をしゃべるようになった人たちに突きつけておきたいもの
の一つです。この人たちに対して本当に言いたいのは、日本に
帰ってきたあんたの「日本語」はなんぼのもんなのかい?とい
うことです。日本には日本語という本物の磁場があるが、その
磁場の中でなんぼの日本語が使えるのかということです

私>語学についての根石さんの持論ですね。私は英語がべらべら喋れる人のうちどの人が英語の磁場で英語を身につけた人で、どの人が日本在住のまま英語がべらべら喋れるようになった人か見分けることは出来ません。周りにそういう人々がいませんので。テレビなどでニュース解説者でそういう人達は知っていますが彼らがどうやってその英語を身につけたかは知りません。ですけれど、根石さんの仰っているその対象になるような人の人物像は容易に想像はつきます。

根石さん>「磁場」という一語に長くこだわってしまいました
が、これは日本で英語を考える人たちに欠けている概念のうち
でもっとも重要なものではないかと思っています。

私>日本で語学としての英語を考えている人たちに欠けている概念のことだと思いますが、私のように「使える英語=英会話」ばかり考えてきた者には始めて聞く概念で、「磁場」に抗って英会話を勉強してきたんだなあ、それで苦労が大きかったんだなあと初めて気がついたというか、「磁場」のあるところ=ネイティブの住んでいる国(米国)等に行って勉強していればその苦労が少なくて済んだかもしれない、と思ったのでした。

根石さん>この掲示板で、多くの人が自分の英語を作ってきた歴
史とでもいうべきものを語ってくれることを願っています。どの
年齢のときに、どんなことをやってどんなことが起こったかを語
ってくれるなら、これから本格的に英語をやってみようと思う方
々に役にたつものになるでしょう 

私>その通りだと思います。私の場合は私のHPで詳しく述べてありますので、お役に立てるかどうか(そう願っての記述を多くしたつもりですが)分りませんが多くの人に見てもらえれば嬉しいです。

根石さん>大学受験を経た人たちを考えると、そもそも英語によ
る思考回路を持ったことがない人が大多数です。知識だけ持って
いて、思考回路を形成していない大学生を相手に思考回路を作る
ことも今後の仕事にしていこうと思っています。

私>次にあげる項目と重複するかもしれませんが、「思考回路づくり」と「音づくり」どちらも大切だと思います。

根石さん> 大学に受かれば多くの人が英語をやめてしまいます。
私がいくら「音づくり」をやって知識だけではない英語力を生徒
に持たせても、その後、ほとんどの生徒は英語を死なせてしまい
ます。彼らにとっては、大学に受かることがすべてであり、英語
はそのためにやるにすぎないのだと本当にわかってから、受験制
度が作る幻想の強さに対して、非常に虚しい思いを持ちました。

私>根石さんのHPのどこかで読みましたがそういう人の内、幾人かがまた根石さんのところに帰って来て使える英語を学び直していらっしゃるということですよね。私はそういう人達というのは
全部では無いにしても、沢山いると考えます。 その為にもこうゆう場で本当の英語学習方法について言っておくことは為になるのではと考えています。

根石さん>「聞く力」に関しては、私はとてもとても晩生です。
自分でもずいぶん進歩したなと感じてはいるものの、リスニング
という場面での「音」に関して自分に訓練を始めたのは、五十歳
に近くなってからです。塾は二十代半ばに始めており、大学受験
の結果に関しては狭い地域内ながら、一定の評価を得ました。リ
スニングの「音」を本気で問題にし始めたのは、本当に最近です。
そして、それまで方法化してきた「自分の口を動かす訓練」がリ
スニングにも有効であることの確信をつかみました。

私>私の「会話というものは少しぐらい錆び付いて喋る力は落ちるかも知れませんが、聞く力はそう簡単に落ちない、聞く力があれば、日常の会話にそう支障を来たすことはないと思うのですがどうでしょうか?」との問いかけに応じられたのですが、私が言ったのは音だけの問題ではなく聴解力のことです。聴解力は多読により容易に解決すると考えています。もっとも日本で生活し英語の磁場のない生活を続けていますので、たまに英語で喋る機会があると相手が言っていることをこれが「音の問題」「これが聴解力の問題」と分けて考えたことはなく上に述べたのはあくまでも「感覚的」なことです。

根石さん>日常会話ができるかできないかは大きな違いですが、
私は日常会話なんかを日本という場所で英語でやる気はないので
す。日本語でも、日常会話なんかをやる気はあまりないのです。
相当気の合う人とでなければ、「会話」とか「おしゃべり」はや
りたくありません。そんなものはどうでもいいと思っています。

私>私は根石さんが別のところで仰っている「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」ことを念頭において「日常会話」と言いました。それだと話が合うでしょうか?

根石さん>私は「英会話」なんかという幻につきあうつもりはあ
りません。英語でしゃべるやつの考えを受け止め、「英語でしゃ
べる」ということならやります。これは「英会話」なんかとはま
るで違うことだと思っています。そもそも、真剣に話をしなくて
はならないときに、日本で私たちがやっているのは、「日本語会
話」でしょうか。決してそんなものではありません。ところが、
暇なおばちゃんたちがファミレスあたりでやっている「会話」、
つまり日本語の「おしゃべり」というものがあります。「日本語
会話」という語に相当するのはその程度のものです。

私>仰ってる趣旨はよく分ります。しかし私は通常「英会話」という場合根石さんが仰る『英語でしゃべるやつの考えを受け止め、「英語でしゃべる」ということならやります。』のことを言うことだと考えています。他のビュウアーの方はどうお考えでしょうか?  

根石さん>日本の学校英語や受験英語が実を結ばないのは、「音」
の問題を軽視するからだということには、浜谷さんも Ray さんも
異論はないと思います。このあたりの共通点をめぐって、今後議
論していったらどうかと提案したいと思います。

私>賛成です。ただ、日本の学校英語や受験英語が実を結ばないのは「使える英語」を軽視することがより重要だと思います。「音」については異論はありません。しかし、私が50年前に習った中学、高校の先生方は好運にも(というべきでしょうか、偶然にもというべきでしょうか)発音のきれいな方達ばかりでした。だから今の中学、高校の先生方の「音」の正確性がどの程度か分りませんので確かなことは言えません。

根石さん>英語の「音」を聞き込むことで、ブレイクスルーでき
る人には何らかの下地があるはずだと思ったのです。先に述べた
ように、音楽が好きで、耳がよく、英語で歌を歌うことをよくし
ていたとか、高校までの学校英語に従順な生徒でよく点がとれて
いたとか、そういうなんらかの下地があるはずです。浜谷さんが
ご自分でおっしゃっている、語彙力というものも下地のひとつで
す。浜谷さんが、ご自分の英語を作るのに働いていた要因として
どんな種類の下地をお持ちだったか、これが私の浜谷さんの英語
に対する最大の興味です。
 その「下地」の正体を知りたい。「下地」はどんな繊維ででき
ているのかを知りたいと願っています。

私>塾の先生らしい着眼点です。私は小学校6年の2学期から中学2年生の兄に連れられてその頃では珍しく兄の先生が(アルバイト?で)なさっていた塾らしきものに行っていました。そして次の年から習う予定の英語の教科書を習いました。だから翌年実際に習い始めた時は当然他の生徒との比較上断然優位にたち、面白くて勉強が進んだものです。そして、その先生だったか1年生の時の英語の先生だったか忘れましたがリーダーの最初のレッスンから当日までに習ったページを全部何回も音読するように言われてそれを中学3年間続けたように記憶しています。勿論リーダーの最初からというのは、時宜に応じて繰り下げていったと思います。そのせいで(その勉強に多くの時間を費やしすぎて)他の科目が疎かになり結果的に現在のように英語に偏った人生となっています。
語彙力については、これは下地と関係はありません。しいて関係付けるなら、中学、高校を通じてオール5で通した英語の力を過信し、社会に出て(家庭的な都合ですぐ)始めて通った英会話学校(当時は今の英会話サークルのようなもの)でいかに語彙がない(「音」も含めた聴き取り能力がない)かを思い知らされ愕然としたことかも知れません。それで一念発起し始めたのが語彙ビルディングでした。
 根石さん、ビュウアーの皆さん、なにかお役にたてたでしょうか?


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古川さんの掲示板の浜谷さんの記事に対して
根石吉久
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浜谷さんへ

浜谷>私は英語がべらべら喋れる人のうちどの人が英語の磁
場で英語を身につけた人で、どの人が日本在住のまま英語が
べらべら喋れるようになった人か見分けることは出来ません。

 外から見たのではもちろんわかりませんし、ちょっと英語を聞いてみただけでも、「磁場持ち」の人か「ひとりもん」かはわかりません。この場合、「ひとりもん」というのは、日本在住のまま英語を使えるようになった人のことです。浜谷さんは、女房持ちかどうか知りませんが、語学的には典型的な「ひとりもん」だと思います。私は女房持ちですが、語学的には、私も「ひとりもん」です。
 浜谷さんが若い頃に通っていた英語道場(正確な名前は忘失)を主宰していた松本道弘さんですが、この人は今、ハワイ大学だかの教授だか助教授をやっているとどこかで読みました。「ひとりもん」が「磁場持ち」になっちまったわけで、「ひとりもん」としては身を持ち崩したな、と思っています。だいたい、この男の日本語は時に非常に雑ぱくで、本をどれだけ書き、どれだけなめらかに英語をしゃべったところで、それがなんなんだと思ったことがあります。
 「磁場持ち」と「ひとりもん」は見分けられなくてもいいのです。一人の人が持つ英語の質に関する本質規定を言いたいだけです。
 また多くの「磁場持ち」の人に、磁場の功徳で身につけた分まで、自分の手柄みたいな顔してんじゃねえよとは言いたいのです。「磁場持ち」の英語の力は、どう少なく見積もっても、半分以上が磁場が育てたものだと思います。
 これは、日本語の世界だけで考えれば、短歌・俳句の世界の住人と、現代詩を書く人との違いみたいなものです。短歌・俳句の世界に住む人たちは、「定型」と「歴史の厚み(伝統)」という磁場を持っているのですが、現代詩を書く人たちはそれに頼ることができません。磁場を欠いた場所で、言葉そのものと格闘しているのが現代詩人たちです。

浜谷>日本で語学としての英語を考えている人たちに欠け
ている概念のことだと思いますが、私のように「使える英
語=英会話」ばかり考えてきた者には始めて聞く概念で、
「磁場」に抗って英会話を勉強してきたんだなあ、それで
苦労が大きかったんだなあと初めて気がついたというか、
「磁場」のあるところ=ネイティブの住んでいる国(米国)
等に行って勉強していればその苦労が少なくて済んだかも
しれない、と思ったのでした。

 「磁場」という考えは、私が勝手に言いだしたものですから、一般的にはまるで普及していません。小学館文庫を書いた時点でも、まだ「磁場」という語は使っていなかったと思います。文庫発行以後、ホームページ上の記事を書きながら考えてきました。
 「磁場の有無」という観点は、日本で語学としての英語を考えている人たちに欠けているだけでなく、世界的に欠けています。
 アメリカ在住のまま日本語を習い、日本語が使えるようになったアメリカ人がいて、この人が語学に自覚的であれば、「磁場の有無」について話は通じると思います。しかし、不思議なことに日本の英語ファンにはなかなか通じにくい考えです。日本の英語ファンには馬鹿が多いせいじゃないでしょうか。
 「磁場の有無」という観点は、これを抜かして日本の英語を論じてもしょうがないほどに重要なものであると思っています。
 浜谷さんが、「磁場」という考えを理解してくださったことはとてもうれしく思います。さすがに日本在住のままに英語を鍛えてきた方だと思いました。単にぺらぺらしゃべるだけの人には本当に通じない考えなのです。

 英語の磁場で英語を身につけた方が苦労が少なくて済むというのは、苦労の多少だけで考えれば間違いなくそうだと思います。私の回りに、アメリカという英語の磁場で英語を身につけて、まるでぺらぺらとしゃべる人がいますが、その英語を聞いていると、なんだか馬鹿くさいと感じて仕方がありません。そいつに会うたびに、おめえは「言葉」ってものがどういうものなのかまるでわかっちゃいねえよというようなことを、私は言いきかせています。私は浜谷さんの英語を聞いたことがないのですが、日本在住のままに作った英語が通じる(使いものになる)場合は、この馬鹿くさい臭いがしないのではないかと考えています。日本でしゃべって馬鹿くさい臭いがしない英語。それが日本の英語だと思っています。アメリカでない場所でアメリカ人以外の者がアメリカの英語をしゃべる。これがどれほど馬鹿くさいことであることかが、英語をとりまく日本の亡霊どもにはわからないのです。亡霊どもは、ひたすらそれが上等なもののように思ってアコガレるのです。この連中の中には、アコガレだけがやたらに強く、そのくせ、語学に必要な労力は出し惜しみするやつさえいます。死ななきゃなおらない、あるいは、死んでもなおらない悪質な怠け心だと思っています。
 怠け心自体は私は決して嫌いではないのですが、それが語学という土俵の上でも通用するとでも思っているらしい馬鹿づらを見ると、本当に辟易します。
 アメリカという英語の磁場で英語をぺらぺらにした人の英語に敬意を払う気にならないのに対して、日本在住のままに使える英語に至った英語には、私の頭は下がります。それが並大抵でないこと、そのことをわかっていると思っています。厳密なことを言えば、一方は語学ではないし、一方は真性の語学です。この意味で言うなら、浜谷さんの英語は語学の成果以外のなにものでもないと思うのです。ご自分のたどってこられた経緯が「語学」以外のなにものでもないのですから、「語学」という言い方に変な敵意をいだかれる必要はないとも思っています。どう見たって語学そのものじゃないかと思います。
 日本在住のまま「使える英語」を作った人は、決して多くいるとは思っていませんが、それを作って保持している方には頭が下がります。
 この方々の労苦を思えば、英語の磁場に身を置き、「ぺらぺら」という質を得たに過ぎない英語には、「下がりおろう」と言いたいのです。語学という目に見えぬ印籠をつきつけてみても、どうせやつらには蛙のつらにしょんべんなのですが・・・。

浜谷>「思考回路づくり」と「音づくり」どちらも大切だと思います。

 浜谷さんの「読書+ヒアリング」という方法が決め手として働くために、それ以前にどんな下地をお持ちだったのか、どんな練習をなさったのかをメールでお聞きし、それが「音読」だったと知り、深く納得するものがありました。
 「音づくり(音読」)は「思考回路づくり」そのものではありません。しかし、「音づくり(音読)」は「思考回路づくり」を準備するものとして、日本で英語をやる人には不可欠のものではないかと考えています。「音づくり(音読)」を欠いたまま、「思考回路」は形成されないのではないでしょうか。「音づくり」を欠いたままの英語の練習に現象するものは、知識が知識のままにとどまるということです。これが、学校英語・受験英語に現象している「使えない」という性質の正体です。
 「準備するもの」「下地を作るもの」が長い間、軽視されてきたと思っています。そして、「音づくり(音読)」こそが、下地に不可欠のものだと思っています。これは私の確信になりつつあります。
 このたびの、國弘さんの方法の再評価や、「音読」のブームは決して寿命の短いあぶくではなかろうと考えています。これがあぶくであった場合は、日本人は英語修得に対して、早く絶望するのがよろしかろうと思います。語学の基底を見定めることができず、個人の能力としての語学能力にしか視野が及ばないような語学能力でしたら、滅びても惜しくはありません。というより、個人の語学能力は個の死とともに死にます。それが日本です。個の死を越えて生き延びるものがあるとすれば、語学の基底を見定める視線、すなわち語学論だけです。これも英語の在日性が必然的に呼び寄せるものだと考えます。
 英語の「思考回路」は学校英語では決して形成されません。日本のほとんどの学校の英語の授業は、ネイティヴが聞いてわかる(通じる)ものとして生徒が英文が読めるようにするという訓練を欠いています。だから、いつまでたっても下地ができません。
 「音づくり」そのものを生徒の一人一人についてやると、一つの教室で一人の先生が面倒を見ることのできる人数は5人か6人です。これは長いこと塾をやってきて、はっきりしている数字です。これが現在の学校にできるわけがないのです。
 英語ネイティヴが、中学や高校に来ていますが、「下地」づくりには何の役にも立っていません。彼らには日本人の口の筋肉のどこをどう動かせば英語の音が出せるのかについての知識を備えた者はほとんど皆無です。税金の無駄遣いです。
 私は「上手な発音」だの、「きれいな英語」だのという考えが、英語を練習する人に少しでも抑圧として作用するならば、そんなものは糞くらえだと思ってきました。下手な発音より上手な発音の方がよろしかろう、汚い英語よりきれいな英語の方が(社会生活上)よろしかろうとは思うものの、そんなことより、「通じる音」というのが、最低限確保されなければならない質だと考えてきました。そして、この「最低限」がいつまでたっても確保されないのが、日本の学校なのです。くたばれ、糞溜職員室、くたばれ、糞溜文部省、そう思って生きてきました。糞のくせに上品ぶってきたのが日本の学校であり、その回りに群がる利権屋どもです。
 「上手な発音」や「きれいな発音」や「本物の英語の発音」というものは、私は根底的に信じていません。うるせえ馬鹿野郎と思っています。そんなものが価値であるなら、「フルメタル・ジャケット」という映画の英語の「汚なさの極みの美しさ」はどう考えればいいのでしょうか。映画そのものの出来は、相変わらずのアメリカ映画だと思うものの、その英語の汚さそのものには、シナリオを読むたびに感動します。詩だよこれは、と思うのです。
 さて、再び学校の話です。現在でも、多くの生徒たちが、ネイティヴが聞いてもわからないような音で英語を読んでいます。つまり、「音づくり」(音読)を欠いています。悲しい現実です。私の「電話でレッスン」は、この現実に対して立ち上がった小さな小さな実践です。これが波紋を広げることができないうちに多分私は死ぬのだろうと思いますが、少しでも日本の英語を動かすことに、微力ながら力を惜しむつもりはありませんので、ご助力をいただきたく存じます。
 「音づくり」は「基礎」を作る前に行うべき「地固め」のようなものです。学校英語は、地固めができていないところへ基礎(テストの点になる知識)を作り、その上に膨大な知識を強制的に貼り付け、最終的に倒壊させます。いずれ倒壊してしまう英語ばかりを日本の学校はやらせてきました。これは、純粋に語学的な観点からは、犯罪行為であると思います。
 地盤がぐずぐずなのに、点だけとらせようとするから、知識は知識のままにとどまり、まるで「使える英語」の栄養にはなりません。
 学校英語のとことん駄目なところは、「音読」の軽視だと考えますが、いかがでしょうか。

浜谷>私が言ったのは音だけの問題ではなく聴解力のことです。聴解力は多読により容易に解決すると考えています。もっとも日本で生活し英語の磁場のない生活を続けていますので、たまに英語で喋る機会があると相手が言っていることをこれが「音の問題」「これが聴解力の問題」と分けて考えたことはなく上に述べたのはあくまでも「感覚的」なことです。

 そうです。リスニング力とはまさに、「聴解力」のことに他なりません。しかし、私がこだわっているのは、やはり、「聴解力」を成立させる「下地」です。
 「磁場」を欠く場(語学の場)では、聴解力の下地は、音の問題の解決だと考えているわけです。「通じる音」としての「音」の確保が、「最低線」の確保だと考えています。語学力を身につけた多くの人は、この最低線を「いつの間にか」「無意識に」「やっているうちに自然に」身につけるのだと思いますが、ひとたび語学について人にアドバイスしたりする立場に立った場合は、「聴解力」を成立させる「下地」に対して無意識であることはできないと思います。
 聴解力は多読により容易に解決すると、浜谷さんはおっしゃっていますが、ここが私には納得しがたいところです。これはぶ厚い下地を持っている人にのみあてはまることだと思います。
 「聴解力」は、「音づくり(音読)」と「多読(黙読)」によって下地が作れるというのなら納得できます。この二つに労力を惜しまず練習して、ヒアリングをやるならば、英語は聞こえてくる、聴解できるようになってくると思います。
 いずれにせよ、「音づくり(音読)」は決して外せないと考えますがいかがでしょうか。やるにこしたことはないどころのものではないと思います。

 「多読」だけで「聴解力」に至るというお考えは、浜谷さんのご自分の英語の歴史の「途中から以後」しか見ていないと思うのです。

浜谷>私は根石さんが別のところで仰っている「英語が聞き取れる」「英語でしゃべる」ことを念頭において「日常会話」と言いました。それだと話が合うでしょうか?

 それで話は合うと思います。しかし、日本語をベースに生きている私としては、「英語が聞き取れる」のも「英語でしゃべる」のも、「非日常会話」です。私の日常はあくまでも日本語とともにあります。本当に英語を「日常会話」にしたいと思えば、私は日本になどいないと思います。私が日本にいつづけているのは、本当には英語を「日常会話」にするつもりがないからです。私が日本にいるのは、日本語が私を育ててくれた言語であり、その言語とともに生きたいと思うことの他に、私の興味があくまでも英語と日本語の相互異種性にあるからです。また、それ以外に日本に執着する理由はあまりありません。国家としての日本などには何の執着もありません。

浜谷>「音」については異論はありません。しかし、私が50年前に習った中学、高校の先生方は好運にも(というべきでしょうか、偶然にもというべきでしょうか)発音のきれいな方達ばかりでした。だから今の中学、高校の先生方の「音」の正確性がどの程度か分りませんので確かなことは言えません。

 発音が「きれい」であるか、「正確性」がどうであるかについては、まるで個々の先生によると思います。私は「きれいで正確」な音を持つ上等な先生に習った覚えがありません。ちなみに、中学は長野県更埴市立埴生中学校、高校は長野県立屋代高校、大学は私立早稲田大学です。語学的に大きくおかげをこうむった先生は、このいずれの学校にもいませんでした。
 しかし、問題は、先生の発音が「きれい」であるかとか「正確」であるかとかにはないと考えます。先生が、生徒の一人一人の口の動きを「通じる音」として実現できるかどうかが本当の問題です。この点で、日本の学校のシステム全体が絶望的だと思います。

浜谷>塾の先生らしい着眼点です。私は小学校6年の2学期から中学2年生の兄に連れられてその頃では珍しく兄の先生が(アルバイト?で)なさっていた塾らしきものに行っていました。そして次の年から習う予定の英語の教科書を習いました。だから翌年実際に習い始めた時は当然他の生徒との比較上断然優位にたち、面白くて勉強が進んだものです。そして、その先生だったか1年生の時の英語の先生だったか忘れましたがリーダーの最初のレッスンから当日までに習ったページを全部何回も音読するように言われてそれを中学3年間続けたように記憶しています。勿論リーダーの最初からというのは、時宜に応じて繰り下げていったと思います。

 浜谷さんは、いい先生と出会った方です。
 生徒(浜谷さん)が素直であったことも幸いでした。
 「最初のレッスンから当日までに習ったページを何回も音読するように」というアドバイスは中学生にはドンピシャリのアドバイスです。こんな的をついたアドバイスをしても、多くの中学生が、「中学3年間続けた」りはしません。もっと、はしこいやり方を探したりするものです。浜谷さんの愚直さ(賛辞です)が幸いしたのだと思います。
 「その先生だったか1年生の時の英語の先生だったか」は思い出していただきたいと思いました。このどちらかの先生に学恩があるはずです。英語をやっても、アメリカにまみれても、それがどちらであったかは記憶に保持すべきだと思います。絶対的に具体的な一人であったはずで、「そのどちらか」ではなかったはずです。

 しゃあしゃあとエラそうなことをメールやこの掲示板で書いている途中で、浜谷さんが私よりずっと年輩の方だということを知りました。私はようやく今年50になる若造です。しかし、議論の場では、若造が年輩の方に噛みつくことはできるし、それが場を開かれたものにすることを信じて、遠慮なくものを言わせてもらっています。この点は、どうぞお許し下さい。


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Ray さんから
根石吉久へ

古川さんの掲示板で
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>根石吉久 さん
私以上の長文書きの方がいたので、いささかホッとしています。
HPを拝見しました。学習者に対する「英語の音づくり」の重要性は全く同感です。他にも共感するところが多々あります。
しかし、激しいですね!気の弱い私にはとても。。(^^;;

さて、私の意見についての感想と質問を頂きました。また「主婦のクッチャベリの英語」についての否定的なご意見(ちなみに私が自分事として最も興味があり、未だ道遠しの感を否めないのはこの種のお喋りやバカ話の輪に入れる高速、多人数&多省略ヒアリング能力と、高度の文化的素養《日本語で言えば「ダメダメ〜〜」を聞いてサンマのニュアンスだと理解し、サンマや吉本興業の基本的な知識を無意識に援用するするような。。》それと聞き取れたとしてもそれに対して間髪入れず気の利いたor面白いことを言う能力を持てないことです。)や「磁場」の問題など、コメントしたい興味ある話題なのですが、いかんせん、引っ越し&職探し中で時間がありません。

>根石吉久 さん,浜谷さん,だいねこさん....etc
落ち着きましたら、私のHPの一部にでも皆さんのご意見と私の考えを載せた方が、流れることがありませんし、見やすいと思いますので、許可が頂けましたらそちらのご意見もコピーして載せたいと思いますが如何でしょう?


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根石吉久から
Ray さんへ

古川さんの掲示板で
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Ray 様

Ray>根石吉久 さん
 私以上の長文書きの方がいたので、いささかホッとして
います。
HPを拝見しました。学習者に対する「英語の音づくり」
の重要性は全く同感です。他にも共感するところが多々あ
ります。
しかし、激しいですね!気の弱い私にはとても。。(^^;;

 HPを読みに来ていただきうれしく思います。

 「音づくり」に関しての議論におつきあいいただけたらと思います。

 私のホームページに激しい記事が掲載されるのは、私が英語で飯を食ってくる過程で、この日本の娑婆からさんざんにいじめられたせいかとも思います。ちょっと英語をやれば、すぐに英語がしゃべれるようになりますよというような嘘八百を言うところが金をかせぎ、ちゃんとやれ、毎日やれ、音を作れ、というようなしんどいことを言い、実際にやらせるところ(私の塾のようなところ)は、生徒が散り、生活費も出なくなることにおびえさせられるという厳然たる現状があります。
 厳しい塾だからいい塾だと言ってくれる人はほんとうに少数であって、多くの人は厳しくすればやめてしまうのです。それで、10年後にその人がどうなっているかといえば、使い物にならない英語をつかまされ、英語がすっかり死んでいます。やってらんねえや、という気持ちを何度噛み殺したことか。何度口に出さずに我慢したことかしれません。

 私の塾の歴史が、私の言葉の質を決定していると思っています。

 学校も駄目、受験塾も駄目、予備校も駄目、大学も駄目、英会話学校も駄目。駄目駄目駄目の屑ばかりが多いと思っています。英語に関しては、まともなことをやっているところは、砂浜でごま粒を探すくらいのものだと思っていた方がいい。これは誇張ではないと思っています。
 そう思ってこの掲示板に来て、「音読」を提唱している Ray さんの記事を読み、心強く思いました。やっとまともな論議が行われている場所に来たと感じました。

 「駄目」と「まとも」が分かれるのは、「音づくり」を兼ねた音読をちゃんとやるかどうかにあると考えています。「音読」そのものをやらせるところは、本当に少ないのではないでしょうか。学校も塾も予備校も、多くはこれを個人の家庭学習なんかに任せて、まともに扱うことをしていないと思います。これは本来、学校とか塾とかという場でまともに扱われてしかるべきものです。

Ray>さて、私の意見についての感想と質問を頂きまし
た。また「主婦のクッチャベリの英語」についての否定的
なご意見(ちなみに私が自分事として最も興味があり、未
だ道遠しの感を否めないのはこの種のお喋りやバカ話の輪
に入れる高速、多人数&多省略ヒアリング能力と、高度の
文化的素養《日本語で言えば「ダメダメ〜〜」を聞いてサ
ンマのニュアンスだと理解し、サンマや吉本興業の基本的
な知識を無意識に援用するするような。。》それと聞き取
れたとしてもそれに対して間髪入れず気の利いたor面白い
ことを言う能力を持てないことです。)や「磁場」の問題
など、コメントしたい興味ある話題なのですが、いかんせ
ん、引っ越し&職探し中で時間がありません。

 Rayさんに噛みついたのは、英語という言語が作る磁場の中に身をおいて英語を獲得する人にだけあてはまることを、日本語というまるで別種の磁場にいる人に対してもあてはめてしまうようなもの言いに関してでした。その他にもいくつか書かせていただきましたが、お時間に余裕ができましたら、お考えをお聞かせください。
 「主婦のくっちゃべり英語」については私は言及しておりません。ファミレスあたりで耳にする暇なおばちゃんの「くっちゃべり日本語」についてなら言及しました。「英会話」の「会話」に相当するのは、日本ではそういう現象になると思ったからです。そんな「会話」というようなものが、語学のめざすべきものだとはとても思えないという文脈において発言しました。
 語学という行為から見れば、「くっちゃべり」は、非常に高度な言語駆使能力であることは間違いありません。
 「サンマのニュアンス」がわかるとか、さんまのくっちゃべりにつっこみを入れられるというのは、日本語が形成する磁場に住んでいるということに根ざしています。さんまのくっちゃべりの面白さは、語学として相当激しく日本語をやった外人でも、日本に来てすぐに耳にした場合はまるでわからないと思います。この意味では、例えば、ニューヨークにはニューヨークでしかわからない「くっちゃべり」があり、例えば、青森には青森に暮らすのでなければわからない「くっちゃべり」があるということではないでしょうか。私の住んでいるところは長野ですが、ここにはここの「くっちゃべり」があります。そういう地名で分けなくても、日本全国、いや、地球全体、どこへ言っても、夫婦の会話という「くっちゃべり」は当事者以外にはわけのわからないような言語だと思いますが・・・。
 それらの「くっちゃべり」を外側から見て、「道遠し」と考えることは認識として違ってしまうと思います。これは、語学という道をたどりつづけてもついにたどりつくことのないものだと思います。「個」と「くっちゃべり」が切断されたり連続したりすることの起因は、個の側にはなく、言語の磁場(の有無、共有・不共有)の側にあるからです。

 さんまの話を本当に面白がれるのは、日本語で日常を生きる人「だけ」ですし、ニューヨークだけで通じる話をツーカーでわかるのはニューヨーカー「だけ」です。これは「道遠し」と思い、語学的に努力することでは埋まることのない距離です。それはそもそも距離ですらなく、「語学」と「くっちゃべり」は、その質が相互に交わることがないところにあるからです。語学的な努力がたどる道と「くっちゃべり」は、「ねじれの位置」にあり、語学という行為では決して「くっちゃべり」にたどりつくことはないと考えています。もしも、たどりつくことがあったとすれば、語学によってではなく、途中からの生活過程によってです。
 これは、個人の能力や努力の量なんかには絶対に還元できないのです。主体的な行為の問題ではなく、客観的な条件の問題です。
 Ray さんが「道遠し」と感じられるのは、率直な方だからそう言われるのであり、日本語を基本の言語にしている人には普遍的にあてはまることです。多くの人は、口をぬぐって言わないでいるだけのことです。英語のプロなんかと言っている人でも、日本語で育った人は、みんなそうです。日本語で育って、今も日本に住んでいる人はみんなそうなのであり、「くっちゃべり」がアメリカ在住のアメリカ人のようにできないのは、あたりまえのことです。それに口をぬぐう必要はないし、それを自分の語学力や努力がが足りないせいだなどと思ったりするのは、考えが転倒していると思います。
 語学の対象としての言語は、ネイティヴな言語と共通するところがないわけではありませんが、その本性がまったく別のものだということの認識が、日本で語学をやる人たちに大いに欠けていると思っております。
 翻って考えるなら、英語の言語的磁場を欠如することの絶対性からくる「切断」がもたらす英語の質については、個人が責任を担う必要のないものです。これを担おうとすることは、ドン・キホーテの行為に似てくると考えています。

 ですから、磁場を持つことの絶対性から直接に生じているもの(くっちゃべりなど)は、無理に語学の対象にすることをすればできても、そうすべきであるとは思っていません。磁場の絶対性を離脱して、成立するもう一つの絶対性が語学だと思っているのです。言語の磁場から直接に生えている文化現象を語学の対象とし、それを獲得することを語学の「道」と考えたとたんに、私は絶望します。
 「くっちゃべり」はどこまでいっても「くっちゃべり」であり、それを語学の対象とした日には、極度に高度な対象となることは間違いないことですが、それを理解できる人が持つ能力を「高度な文化的素養」などと言うのは違うと思います。磁場さえあれば、「くっちゃべり」はファミレスのそんじょそこらのおばちゃんが生き生きと理解します。一方、磁場を欠いたら、「高度な文化的素養」なんぞがどうしたって追いつくことのできないものが、「くっちゃべり」なのだと思っています。「くっちゃべり」の本当の理解は、それを生で共有する人だけが持つものです。「くっちゃべり」を本当に理解するためには、磁場を共有する必要があるのです。ですから、英語の磁場を欠いた場所で、英語の「くっちゃべり」をめざすことは、根底的に転倒した行為だとしか思われません。逃げ水を追っているようなものだと言ってもいいと思います。
 この点で、言語的磁場を共有していない人にも、「くっちゃべり」を共有しているかのようなリアルな幻を与えるものが映画だと思います。
 私の「電話でレッスン」が映画のシナリオを扱うのは、そのレッスンを経てから何度も映画を見ることで、いくらでも間近に、あるいは直接に言葉を通して「くっちゃべり」の場の内側にもぐることを擬似的に体験できるためです。いくら覗き趣味を満足させても変態に至らないのは、映画というものがもともとフィクションだからです。

 ちなみに私の日常に生じるディープな話は、建築現場の職人の間だけで通じるような話です。もちろん、言語は日本語です。「そこんとこのミズが狂ってけつかるから、テンバがそろわねえ、ちょっと、そっちのカネを見てみろ(そこの水平が狂っているから、この上部の水平が狂う。ちょっとそっちがちゃんと直角にできているかどうか調べてくれ)」などと、多くの日本人にも理解できない話を聞きながら、さて、こういう話は日本語を習う外国人の語学の対象になるべきだろうかと思い、そんなことをめざす必要はないと思うのです。日本語という磁場の中の一段と特殊な磁場から直接に生えている言語現象ですが、話をわかりやすくするために、特殊な磁場における言語現象を述べています。大なり小なり、この特殊性は親密な「くっちゃべり」にともなうものです。大工同士の「くっちゃべり」は、こんな用語・用例に満ちています。用語・用例だけに話を限定しても、日本の職域に働く磁場から直接に生えているものですから、例えばアメリカ人がいくら一般的な日本語のヒアリング能力を鍛えても、それだけではどうにもならないものがあります。

 磁場の絶対性というものはそういうものだと思います。

 そして、ひとたび言葉の側に立てば、それがもっとも普通に言葉が棲息する場所です。
 語学は言葉が普通に棲息する場所から上澄みをすくう行為です。こう言っても、私は語学というものをおとしめているつもりはまるでありません。むしろ、上澄みを使うのでなければ決して言えないことがあると考えています。上澄みではなく、言葉の生成過程そのものを生きたければ、その言葉で生活する必要があります。
 私の興味は、語学の言語の生活言語からの離脱にありますので、英語で生活する予定はありません。

 「この種のお喋りやバカ話の輪に入れる高速、多人数&多省略ヒアリング能力」について言えば、「多人数&多省略」でバカ話が盛り上がり、わっはっはの大笑いになるのは、それは、多分、言語的磁場を共通にするという意味で「仲間」であるからです。この多人数の「仲間」たちが、Rayさんを仲間の一人として迎えてくれて、「普段のつきあい」が始まれば、「気の利いた」しゃべりも迎えてくれます。しかし、厳密には言語的磁場を共通項として持っているかどうかの嗅ぎ分けはいつも働いており、たとえ一度迎えてもらっても、本当に話の輪に入れかどうかは少しずつだんだんはっきりしてくることです。輪に入ったつもりが、いつの間にか輪の外側にいたというような感覚は私がよく味わうものです。
 英語ネイティヴのこの種の仲間づきあいに、一人の仲間として混ざることに私は積極的であったことはありません。人それぞれ勝手にすればいいとは思うものの、私は日本語の人間ですから、いつでも異物として残ることをためらいません。異物として残り、必要であれば、異物のままに英語を発することを引き受けることが基本だとすら思ってきました。
 ここのところで、多くの日本人がとてもへなちょこだと思ってきました。

 引っ越しと職探しが重なってしまえば、なかなか「書く」などという悠長なことをやっていられないとは思うものの、いずれお考えをお聞かせいただきたくお願いいたします。

>根石吉久 さん,浜谷さん,だいねこさん....etc
落ち着きましたら、私のHPの一部にでも皆さんのご意
見と私の考えを載せた方が、流れることがありませんし、
見やすいと思いますので、許可が頂けましたらそちらの
ご意見もコピーして載せたいと思いますが如何でしょう?

 私が書くものに関しては、お好きなようにお使い下さい。
 私の方でも、私なりに編集し、私のHPに掲載させていただくことを考えておりますので、その際はご許可いただきたくお願いいたします。

 どうぞよろしくおつきあいのほどお願いいたします。


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Speed Flex さんの書き込み

古川さんの掲示板に
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Speed Flex
Sunday, June 10, 2001 at 16:53:40 (JST)

大部、語学学習論がさかんなようです。そこで1つ提案させて下さい。

実は私は根石さんをかなり以前から存じてました。HPを何度か訪ねもして
ます。kaoki氏とのメールのやりとりなども読ませてもらい、あぁ英語学
習については随分まともな人だなぁ、と今でも思っています。ただ、表現
があまりに下衆なのが玉に瑕ですが。
いつかここに必ず来るはずだと思っていたのですが、案外遅かったという
感じです。塾経営は大変ですから、ネットサーフィンどころじゃないとい
うところでしょうか。

根石さんが入って、学習論が盛上っていますが、その議論に参加している
方々にお願いなのですが、この際、どなたかのHPでの特別のフォーラムを
設けてそこで展開するようにしてはいかがでしょうか?それを古川さんか
らリンクして頂いてはどうでしょう?あるいは古川さんにお願いして特別
にフォーラムを作ってもらうのも一案です。

私が何を危惧しているかというと、おそらく、この古川さんのHPの評判を
聞きつけて来られる方は少なくないと思います。しかし、この議論の濃さ
に辟易する人も少なくないと思うのです。端的に言えば、そんな議論はど
うでもいいという人達の方が圧倒的に多いと思うのです。彼らは議論をし
たいわけではなく、誰でもいいから指針を示してもらいたがっているわけ
です。彼らにいきなりこれらの議論をしてみてもピンと来ないでしょう。
なぜなら、英語学習の茨の道を本当には踏み出していないですから。
学習論談義をしたい人は直接皆さんのHPを訪ねると思います。

私のこの掲示板での基本方針は単純です。困っている人に応えられる場合
は応える、できるだけ事実に基づき具体的に。それだけです。
私はまず、彼らが少しでもいいから進歩を得て、言語習得の展望が受け入
れられるようにする方が、結果的に皆さんの仰ってる学習論の意義を感じ
とってくれるのではないかと思うのです。
 以前は私も経験を多少述べたときもありましたが、大して反応が返って
くるわけでもありませんし、基本的に日本人同士での議論については議論
から中身の伴わない口論になることが多く、また議論をしても結局は何も
変らない、変えないということも少なくないので、原則議論はやめにして
ます(少なくとも根石さんと意見が違ったときに、納得して貰える気はし
ません)。
当事者にとっては重要な議論でも周囲にとってはどうでもいいことに過ぎ
ないことが少なくありませんから。ただし、情報交換としてのお喋りには
大賛成です。

1つだけある議論について私の意見を述べたいと思います。それは「磁場」
です。この磁場の有無が学習者の相違に繋がるかどうかについては浜谷さ
んと根石さんの中間です。明かにこの人はネイティブの世界での折衝経験
があるという人もいれば、どっちか全然わからんという人もいます。一見、
そのように見えなくても実は百戦練磨という人もいます。ビジネスでは当
然、経験者が強者です。

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Speed Flex さんへ
根石吉久から

古川さんの掲示板で
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Speed Flex 様

 あなたがご自分で原則論をやられないことはあなたの勝手ですが、原則論はこの掲示板からは出ていくべきであるとおっしゃることの根拠をお聞かせください。
 私は日本に語学論が払底していると思い、それは必要なものだと考えております。語学論が払底しているから、学校英語や受験英語のこれまでのていたらくがあるのです。
 語学論はこれからうち立てる必要のあるものです。そのために議論は不可欠のものです。

古川>英語学習に関する質問や、英語学習に役立つお勧めサイ
ト、使って良かった(悪かった)英語学習教材、「迷いを断ち切
れ!最適英語学習法がわかるページ」に対する感想、要望、そ
の他なんでも結構です。気軽に書き込んでください。
なお書き込みは都合で削除することがあります。

 と、古川さんのこの掲示板の冒頭にあります。これは、この掲示板の憲法のようなものです。「なんでも結構です」というのであれば、原則論をやらせてもらうこともできると考えました。
 浜谷さんやRayさんが本質的なことを書いておられるのを読んだので、私はこの掲示板に書かせてもらおうと決めたわけですが、私の書く物が長大であることに不快な思いを持つ方がいるだろうということは危惧しておりました。

 長いことが問題だということであれば、そうおっしゃるのがいいと思いました。

 それは私も本当に危惧したことです。しかし、古川さんが「都合で削除する」ことをなさらないのであれば、長大であることは許していただけているのかと考えました。私の短い書き込みの重複の削除をこの掲示板上で古川さんにお願いして、そのことは聞き届けていただきましたので、これまでに直接に古川さんと言葉の往来はありませんが、古川さんには私の書いているものに目を通していただいていると思っています。
 実は、「長さ」に関しては、浜谷さんとメールでやりとりして、長いものはメールで、短いものはこの掲示板で、ということを私から提案したのですが、原則論をやろうとするとどうしても長くなってしまうことが避けられません。あなたのように、「ただし、情報交換としてのお喋りには大賛成です」程度のものを書いているのではないのですから・・・。

 私が書いたものに対して、最初、浜谷さん以外の方のどなたからもレスポンスがいただけなかったので、浜谷さんにさしあげたメールで、「どうも私はアクが強すぎるせいで、干されるようですので、他の掲示板へ行こうかと思います。旅に出てみようかという気持ちです」ということを書きました。それに対して、

浜谷>根石さんのこのレスを読み、私はこれではいけないこの
ページは是非根石さんにも引き続き出て欲しい、全国の英語学
習者のために・・・と思い僭越ながら、前回の根石さんの書き
込みに答える形で今日レスしました。

 というメールをいただき、思いとどまって、今もこの掲示板に書かせていただいています。

Speed Flex>根石さんが入って、学習論が盛上っていますが、
その議論に参加している方々にお願いなのですが、この際、ど
なたかのHPでの特別のフォーラムを設けてそこで展開するよう
にしてはいかがでしょうか?それを古川さんからリンクして頂
いてはどうでしょう?あるいは古川さんにお願いして特別にフ
ォーラムを作ってもらうのも一案です。

 学習論が盛り上がっていることは悪いことなのですか?
 古川さんが、私の発言を削除なさらないことは、古川さんが掲載したままでいいと判断なさっているということです。古川さんが削除なさるのであれば、この掲示板でこの長さは許されないのだなと判断し、私は立ち去ります。
 古川さんからリンクして頂くとか、古川さんにお願いして特別にフォーラムを作ってもらうとか、よくも平気で言えるものだと思います。人の労力をなんだと思っているのでしょう。人様が設けて下さっている掲示板を使わせてもらっているくせに、あつかましい人だと思いました。(長さに関しては、私も十分あつかましいのですが・・・)
 私だって、ただ酔狂で書いているのではないのです。空論をやりたいわけではありません。日本の英語のていたらくはどうにかならんかと思うから書いているのです。そういう労力がわからないこういう人間をあほんだらというのだと思いました。

Speed Flex>この議論の濃さに辟易する人も少なくないと思うので
す。端的に言えば、そんな議論はどうでもいいという人達の方が圧
倒的に多いと思うのです。

 自分の安手の感想を他人に仮託しないでいただきたい。
 「圧倒的に多い」かどうかなど、あんたに決められることじゃない。
 あんたができることは、「思うのです」ということだけです。

Speed Flex>なぜなら、英語学習の茨の道を本当には踏み出して
いないですから。
学習論談義をしたい人は直接皆さんのHPを訪ねると思います。

 この言いぐさは、初心の英語学習者を本当にバカにしています。
 私は「学習論談義」などというものをやっているつもりはなく、ただ普通に英語をものにする方法を議論しているのだと思っています。あつかましいお人は、その議論が初心者にはわからないと決めつけているのです。
 すぐにわからなくたってまったくかまわないのです。なんか、喉仏に骨がひっかかったような感じのことが書いてあったなあという程度の記憶の破片が残るだけでもいいのです。いつかわかってくれることがあれば、その時に、ようやく日本に語学論を備えた語学が生まれるというヴィジョンを信じて、私は下衆を続けているのです。あなたの下衆とは性質が違っているのです。

Speed Flex>私のこの掲示板での基本方針は単純です。困っている
人に応えられる場合は応える、できるだけ事実に基づき具体的に。
それだけです。

 おちょぼ口で立派なことを言うものです。
 あなたがどれだけ「事実に基づき具体的」にものを言ってきたのかは、まだ確認しておりませんので、時間ができたらこの掲示板の過去の記事を読んでみることにします。

Speed Flex>以前は私も経験を多少述べたときもありましたが、
大して反応が返ってくるわけでもありませんし、基本的に日本人
同士での議論については議論から中身の伴わない口論になること
が多く、また議論をしても結局は何も変らない、変えないという
ことも少なくないので、原則議論はやめにしてます(少なくとも
根石さんと意見が違ったときに、納得して貰える気はしません)。

 「大して反応が返ってくるわけでもありません」のは、あなたの議論が本質的でないためだと思います。
 私と浜谷さん、私とRay さんの議論は始まったばかりです。それが「中身の伴わない口論」になるかどうかはまだわからないのに、「なることが多く」などと利口そうな糞をたれないでいただきたい。
 「なることが多い」ことがどうしたというのですか。
 私も浜谷さんもRay さんも「中身の伴わない口論」をやろうとは思っていません。どうでしょう、浜谷さん、Ray さん。
 この Speed なんとかというお人は糞をたれているだけだと思います。
 このおちょぼくちに潜んでいるのは「専制」であり、crock of shit とでも呼ぶしかない根性です。

Speed Flex>当事者にとっては重要な議論でも周囲にと
ってはどうでもいいことに過ぎないことが少なくありま
せんから。ただし、情報交換としてのお喋りには大賛成
です。

 あほか。
 掲示板というところは、種々雑多に議論や情報が交差すればいい広場のようなところだと考えているのだが、この認識は間違っておるかね?「当事者にとって重要な議論」がまともな議論であれば、他の人の役にたつことはあるんだよ。
 あんたにとって「どうでもいいこと」だからといって、他の人にとってもどうでもいいと決めるのは、あんた、何様だからそんなことができるんだね? えっ?
 代議士でもあるまいに、「代表」なんぞやってんじゃねえよ。
 「少なくありません」からどうだってんだね。この言いぐさが、少数の人が、きちんと読みとってくれることの可能性を抹殺することになることはわからんのかね?
 だから、根性が「専制」だと言っているのだ。
 ファシズムの芽だよ。

Speed Flex>1つだけある議論について私の意見を述べたいと思いま
す。それは「磁場」です。この磁場の有無が学習者の相違に繋がるか
どうかについては浜谷さんと根石さんの中間です。明かにこの人はネ
イティブの世界での折衝経験があるという人もいれば、どっちか全然
わからんという人もいます。一見、そのように見えなくても実は百戦
練磨という人もいます。ビジネスでは当然、経験者が強者です。

 しょうがねえ日本語だと思います。
 「1つだけある議論について私の意見を・・・」
 「1つだけ」は、「ひとつだけ」言ってみたいことがあるというようなことなんでしょうね。さんざあつかましいことを言っておきながら、という事実はともかく。
 「1つだけ」。わっはっは。「1つだけ」。笑えます。
 しかし、それにしても、わからねえ日本語なんだ、これ。
 「1つだけある議論」という言い回しの「ある議論」というのは何のことを言っているのかね。「在る議論」なのかね。「或る議論」なのかね。「ある議論」というのは、「現在この掲示板に『ある』議論」ということかね。
 「1つだけある議論」なんて言い回しをしていると、議論がひとつだけある、というふうに普通は読まれてしまうんだがね、Speed ちゃん。

 日本語をどうにかしろよ、あんた。

 「それは『磁場』です」は、多分、「それは『磁場』についてです」って言いたいんだろう。「それは『磁場』です」。わっはっは。

「この磁場の有無が学習者の相違に繋がるかどうか」っていうのは、どういうことを言いたいの?「学習者の相違」って何?
 学習者っていうのは、みんな一人の人間なんだから、相違しているのは当然なんだけども。多分、「この磁場の有無が、英語をやっている人の英語の質の違いに繋がるかどうか」って言いたいんじゃないだろうか。

 「浜谷さんと根石さんの中間」ていうのはどういうこと?
 浜谷さんは、当初「磁場」について誤解しておられ、私が「磁場」について説明し、現在は「磁場」について理解しておられます。
 それで、「中間」というのは、どこでどういうふうな姿で立っているのか、ちょっと説明してくんねえか?おちょぼぐちでも我慢するからさ。
 「意見を述べたい」と言いながら、意見というほどのものは何も言ってねえじゃねえか。英語好きの日本人によくいるタイプだよ、こいつは。

 まあ、とにかく、ちゃんとした日本語を書けよ。
 「下衆」以前の問題だぜ。

 古川さんのご意見がお聞きできたらと思っています。
 特に「長さ」に関して、お聞きできれば幸いです。

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文責・根石吉久 電話・090−3316−4180

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