以下は、広島大学の柳瀬陽介さんのホームページ(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/index.html)からの転載です。「現職英語教員の方のための講演」の中で、柳瀬さんが根石さんの批判に対して回答された部分です。
転載日:2002年11月22日



集中的入出力経験に関する追記(2002/11/18)

上の「文法獲得と集中的入出力経験」に関して、私は歌やシャドーイング・音読などを「集中的入出力経験」(=入力をそのまま出力することを繰り返すこと)としてまとめた上で、それをチョムスキーさんのいうような意味での文法獲得を行うための活動として考えるという視点を提示しました。その際、音声面に関してはほとんど述べませんでしたが、私の用語が曖昧であったこともありまして、素読舎の根石吉久さん(http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis/index.htm)から質問(反論)をいただきました。ここでは、上の記事に関する補足説明を加える形でその質問に答えます。構成は第一節がシャドーイングについて、第二節が音読についてとなっております。

1「シャドーイング」という言葉に関する整理

補足するべき第一の点は、現在「シャドーイング」という言葉が様々な意味で使われており、人によって別の活動をイメージしてしまい、議論が混乱しかねないので、「シャドーイング」ということばを整理しておかなければならないということです。

現在「シャドーイング」で典型的にイメージされている練習法は、「テープ等から流れてくる音を耳だけで拾って、それをテープと同時もしくは直後に、自分で口頭再生する練習法」でしょう。

ただこの典型的なイメージ以外にも「シャドウイング」という言葉で語られている活動には、私が今思い出せるかぎりでも以下のようなものがあります。なかには「そんなものはシャドウイングと呼ぶべきではない!」と思われる活動もあるかもしれませんが、整理のために列挙します(「本来の」シャドウイングとは数語遅れて再生をするものだ、というご意見もありますが、ここでは同時もしくは直後に再生するものに限らせていただきます。また、シャドウイング(shadowing)という言葉の由来は、あたかも人の動きに影がぴたりとよりそうように、英語の音声にぴたりとよりそってそれをそのまま再生することから来ている、という説を聞いたことがあります。

シャドーイング(=聞いた英語を同時もしくは直後に再生する活動)のバリエーション

(a)スピードに関してのバリエーション

>速いスピードと遅いスピードなど、複数のスピードを用意してテープ等を再生させるもの

>テープ等ではなく、教師が自ら学習者の程度に合わせてスピードを調節し英語を自ら発声し、学習者に再生させるもの

(b)再生単位に関してのバリエーション

>全文を一気に提示するのではなく、一文ごとにポーズをとって英語を提示し、学習者の再生の遅れに対応するもの

>一文全てを一気に提示するのではなく、チャンク(意味のかたまり。この区切り方には諸説ある)ごとにポーズをとって英語を提示し、学習者の再生の遅れに対応するもの。

(c)再生方法に関してのバリエーション

>学習者が英語を聞いて、心の中だけで音をできるだけ明確に再生(再認)すること(メンタル・シャドーイング)

>学習者が英語を聞いて、口の動きだけはできるだけきちんとしながらも無声で再生すること(サイレント・シャドーイング)

(d)ペア活動に関してのバリエーション

>ペアで活動して、一人が再生するのをもう一人が、その再生の音と唇の様子をチェックしてあげるもの

(e)テキスト(書かれた文書)を使うかどうかに関するバリエーション

>音声を聞き再生する際に、テキストを見ることも許されるもの(アイ・シャドーイング、もしくはpaced reading)(注1)

(f)英語に関するバリエーション

>歌あるいはゲームで、メロディーのついた英語を耳にすると同時に再生するもの(要は歌などを聞きながら一緒に歌うこと、あるいはゲームで皆同じ英語を唱和すること)

>映画の台詞を、映画を見ながら同時に再生するもの

(g)その他:思い出し次第、または皆さんからの情報提供があるにつれ、バリエーションを追加してゆきます。

いうまでもなく、これらの(a)-(g)のバリエーションは相互に組み合わせることに、さらに細かいバリエーションができてきます。またそれらのバリエーションをどういう順番で、どのくらい繰り返して行うかについても様々な判断がありえます。さらにそれらのバリエーションの前に、どのような学習や活動をすませておくのかに関する判断もあります。これらの判断は、学習者の力、英文の特徴、訓練の目的、学習環境、指導者の実力等などの様々な要因を考慮する中で、総合的かつ実践的になされてゆきます。したがいまして、「万人に対応できる唯一絶対のシャドーイングのやり方」などを決めようとするのは、私は意味がないと思います。少なくとも私はそのようなものを知っているとも主張しませんし、あたかも知っているかのような振りもしません(cf.拙稿「授業研究と英語教育学」『現代英語教育』1996年4月号)。実践状況の判断というものは微妙なもので、状況によりさまざまに異なります。ですから、私はせいぜいおこなえるものとして、こういった概念的な整理をおこなっています(これに限らず私は実践者より実践を知っているなどとも主張しませんし、主張したこともありません。私がやれることは様々な実践をできるだけ注意深く見聞きし、可能ならば、それを自分が学ぶ理論の枠組みをできるだけ有効に使って、問題点の整理を行うことです。詳しくは「方針」をご覧ください)。

さて根石さんの主張は、シャドーイングを行うためには前提が必要であり、その前提を踏まえていないうちでのシャドーイングは乱暴だというものです。このご指摘には基本的に賛成します。根石さんのいう前提を私なりにまとめますと、

(1)日本語発音しか知らない学習者が英語を正しく発音するには、きちんとした「調音コーチ」が必要である(「調音コーチ」抜きに英語の発音が正しくできるのは、一部の「耳のいい」学習者だけである。)。

(2)英語の音と意味(イメージ)が結びつける必要がある。

といったことになるでしょうか。

このうち(1)の「調音コーチ」に関しては、私は私なりに実践していましたが、無自覚なままに「耳のいい」学習者を前提にしていたと思います。これは認識を改めたいと思っています。

(2)に関しましては、上の「シャドーイング」の整理で明らかにしたつもりですが、シャドーイングには様々なバリエーションがあり、その選択と組み合わせによっては、初級者からでもシャドーイングによって音と意味を結び付けるのが可能ではないかと思っています。

実際、私が「集中的入出力経験」というまとめ方を思いついたのは、比較的短期間の間に、平均的な音声指導のあまりない高校の授業の次に、徹底的に音声指導をするある中学の先生の授業を見て、さらに次に小学校の2年生の英語活動を見てからのことです。私の見た小学2年生は、(調音コーチの存在なしに)ALTの音を驚くほどに忠実に再生していました。子供としては何度も楽しく歌って踊っていただけなのかもしれませんが、そこで聞かれた"Ten little pumpkins in all"という歌(昔よく歌われていた"One little, two little, three little Indians..."の歌です)の英語の発音は、通常の中学や高校の教室ではまず聞かれない見事なものでした。この歌や他の活動では、語の音と意味も繰り返しの使用の中で、小学生はまさに体得していました。(私は上の整理で歌もシャドーイングの広義の解釈に含んでいることを思い起こしてください。また、このことに関しましては、非常に短い文章ですが、大修館書店の『英語教育』2003年1月号(2002年12月中旬発刊)に文章を書かせていただきましたので、ご興味のある方はご参照ください)。

次は、私は上の記事でなぜ

シャドーイングと音読では、まずはシャドーイングを優先し、音声言語の獲得が安定し、かつ、書記言語の獲得の必要性が生じるにつれ、音読が徐々に導入されるべきだと私は考えます。英語の音声に慣れていない世代には、シャドーイングは音読よりもはるかに難しいように思われるかもしれませんが、シャドーイングの「音声入力→音声出力」という過程と、「音読の視覚入力→つづり字の音声変換→音声出力」という過程を比べても、私はシャドーイングの方が音読よりも、(処理スピードが同じなら)本来は簡単な集中的入出力経験かと思っています。
と述べたのかということになります(ここが根石さんが一番問題にしたところです)。いくつかの理由があります。一つは、上の「書記言語の獲得の必要性が生じるにつれ」という表現が示唆しているように、文字による文章が導入される前の小学生などに、歌やゲームで聞いた音声を、即そのまま再生させる活動を「シャドーイング」という言葉でここで自分で勝手にイメージしていたからです。ですがこういった活動は、上の「聞いた英語を同時もしくは直後に再生する活動」という規定から生じる広い意味でなら「シャドーイング」と称することもできますが、これは典型的な「シャドーイング」の用法からは離れた用法です。このあたりの私の不用意さが、いろいろ混乱を生じさせてしまったのではないかと思います。

しかし言いたかったことは、英語の音がきちんと口頭で再生できるようになってから、綴り字から音声への変換という作業を含む音読へ進むべきではないかというものです。日本の典型的な中学生でいうなら、最初のうちは音声の聞き取りと発音を徹底させ、その後にまとまった文章の音読を始めるべきではないかということです。

二つ目の理由は、私が「シャドーイング」に関しては上で述べたような広いバリエーションをもつ可能性豊かな活動として捉えていたものの、「音読」に関しては、よく見る教室実践からマイナスイメージを(私もよく自覚しないまま)持っていたからでしょう。これについても不注意でしたが、「音読」に関しては、なぜ私が現在多くの教室で行われている「音読」に対してマイナスイメージをもったのか、下に整理したいと思います。

2 音読に関する整理

私が思いますに、音読には以下のような条件が重要だと思います。

まともな音読をするために大切な条件(このうち(2)は根石さんの指摘により今回新たにした認識です)

(1)再生する以前に、まず英語の音(発音・リズム・イントネーション)に関するイメージができていること

(2)年齢や才能などの要因により新たな外国語の英語の発音を聞き分けそれを再生できるだけの能力をもっているか、そうでない大部分の場合は新たな調音の仕方が十分にコーチされていること。

(3)フォニックスの原則が直観的に把握されているか十分教えこまれており、フォニックスの原則が通用する多くの単語に関しては自力で発音できること。

(4)英語の綴りと音声の同時提示などが繰り返されて、音読しようとするテクストの単語の綴りと音声が、フォニックスの原則では解決しにくい単語も含めて、十分に結びいていること。

ところがこれらの条件は、私が見たり推定する限り多くの教室で充たされていないように思われます。

多くの英語授業での音読が行われる際の状況((b)も根石さんの指摘で再認識したものです)

(a)もともと教室で英語の音声が聞こえることが少なく、英語の発音・リズム・イントネーションに関して学習者が明確なイメージをもてないままでいる(学習者はいわゆる「英語らしさ」とでもいうべき音声的特徴がつかめていない)。

(b)耳のよい学習者は一部にすぎないのに、発音の仕方に関する細かな教示と修正がされていることがあまりない。

(c)フォニックスの原則はあまり体得されておらず、また教えられてもいない。学習者は英単語を、ローマ字で書かれた日本語を読むようにたどたどしくカタカナ音に換える。

(d)英語の音声が提示されると同時にテキストを目で追ってゆく経験が少なく、綴りと発音の(原則的・例外的な)結び付きが学習されていない。英語を耳だけで聞くことも、耳で聞きながら目で追うことも少ないまま、いきなり音読させるので、苦労して再生されるのは英語としては認識され難い音声となっている。リズム、イントネーションも英語のものとはかけはなれている。

さて、私が「シャドーイングの方が音読よりも、(処理スピードが同じなら)本来は簡単な集中的入出力経験かと思っています。」と書きましたのは、上の(3)と(4)が定義上、音声言語を入力にするシャドーイングには必要ないからです。そういった定義上の比較ですから(「(処理スピードが同じなら)」「本来は」といった限定句にご注意ください)そう書きましたが、もちろん実践の上ではシャドーイングの方が音読よりも難しくなる場合はたくさん存在します。また音読の学習者自身のペースで進めることができるという特徴は、シャドーイングでは得難い特徴でしょう。音声入力→音声出力で、学習者のペースを確保しようとしたら、シャドーイングではなく、リプロダクション、リピーティングなどを行う必要があるでしょう(注2)。

また上に述べましたように、「音読」という言葉で、私は無自覚に(a)-(d)といった実践をイメージしていたので、音読に関してあまり肯定的になれなかったのですが、(a)-(d)が「音読」のあるべき姿ではないことはいうまでもありません。

音読に関しては、Eliotさんとおっしゃるある私立中高一貫男子校教師の方の手記(http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis/ooburosi/series/otomichi.htm)が非常に勉強になります。私も読んで、自分の音読実践に関する理解は浅いものであったことがよくわかりました(このページは皆さんもぜひお読みくださることをお勧めします)。「音作り」と「フォニックス」の重要性がよくわかると同時に、いかに現在の英語教育でそれらがなされていないかが痛感されます。

結論的には、上に再掲した問題の文章を含むパラグラフは、誤解のないように次のように書き換えたいと思います。(上の記事もこのように書き換えました)

また、シャドーイングと音読は、前者が聴覚入力を、後者が視覚入力を、共に即、音声出力に換えるという点では共通しています。音読に関しては、音声の獲得が安定してから導入されるべきだと私は考えます。また、英語の音声に慣れていない世代には、シャドーイングは音読よりもはるかに難しい作業のように思われるかもしれませんが、シャドーイングの「音声入力→音声出力」という過程と、音読の「視覚入力→つづり字の音声変換→音声出力」という過程を比べるならば、シャドーイングの方が単純な作業です。
以上、追加の説明を行いました。「言葉は明確に使おう」とは私が日頃学生さんに言っていることでしたが、今回は私の言葉が十分明確ではありませんでした。反省したいと思います。

(注1)もしシャドウイングの基本的な定義を「入力に対して影のようについてゆくこと」と定義しましたら、「アイ・シャドウイング」は英語の音声入力に合わせて、テキストの英文に目を走らせること、となり、その際に口頭再生をすることは「ヴォーカル・アイ・シャドウイング」と呼ばれるべきものとなります。しかしこうしますと、なんの形容詞もつかない「シャドウイング」の意味することが、特に口頭再生をせずに聞こえてくる英語音声を心の中で再生(再認)すること(上の分類でいうなら「メンタル・シャドウイング」)となってしまいますので、ここではそのような用法は使わないことにします。

(注2)私はリプロダクションやリピーティングといった活動も「集中的入出力訓練」としてとらえています。入力を、時間差こそあれ、入力をそのまま出力し、それを集中的に繰り返すからです。


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