英語論に深入りしすぎたので、ちと反省して本職??の新入力法の
打鍵評価をラジオの声を聞きつつ打っていた爽やかな秋の午後。
番組は、途中からつけたお気に入りの「テリー(伊藤)と上ちゃん乗ってけラジオ」だ。
今週で終わるのは残念と思いつつ打つ。
プロレスラーが登場して格闘家特有のかすれた太い声でテリーと話している。
TVもない私はプロレスはとんと関心がない。打鍵感だけ感じつつ適当に打っていると。。
何??このレスラー、日本人じゃないって?!
「来日一年半」と言っているが、全く日本人と区別が付かない。。。
しかし、よく聞くとテリーの「向こうは温度はどうなの?」の「温度」が通じていない。
「気温、気候」と言い直しても通じない。
確かに、日本人ではない。。どこの誰かと少し内容に気を払いつつ打つ。
驚いたことに、来日前には日本語の勉強は全くしていないという。
新日本プロレスのブルーウルフとかいうらしい。何と、あの大関朝清龍の兄らしい。では、モンゴル人か。。
日本に長くいる欧米の有名人で、私が一番発音が良くて文章も自然だと思うのはやはり
ピーター・バラカン氏(だれかがこの人だけは呼び捨て厳禁と言っていたので)なのだが、
彼にしたってあそこまで日本人と区別が付かないということはない。
口語の日本語(とジョーク!)を何十年も命がけでやっているデーブ・スペクターでも
このモンゴルの青年にはとても及ばない。
英米人の二人とも、読み書きはバリバリで半端でない日本語の猛勉強をしたはずである。
つくづく、日本在住で姻戚関係のない英語を「ネイティブ並みに話す」のがドンキホーテの努力なのが
この二人の日本語を聞いていると分かる。日本の磁場に何十年もいて、友だち仕事仲間も日本人、
奥さんも日本人で日本の背景知識も日本人並みに持っていて、あそこが限界らしい。
それなのに、ブルーウルフはプロレスラーになるために来たので、読み書きも出来ない。
つまり、独習は一切しない「生活言語環境」だけであそこまで行く。それもたった一年半でである。
そういえば、インタビューくらいしか聞いたことがないが、モンゴルの相撲取りの日本語は上手い。
起きてから寝るまで周りが日本人のプロレスや相撲という環境は大きいが、
小錦の日本語と比べれば、出身地の言語の違いであることは明らかである。
結局、シンタックスが近くて発音体系も酷似している言語同士の外国語習得とはこういうものなのか。
ここで、ドイツ語と英語のようなシンタックスが近い言語の学習は容易であることは何回も触れられているし
私も書いたような気がする。Eliotさんは韓国語をやられたので、この実感はもっているようである。
モンゴル語のような日本語の酷似の言語のことは、ここで何回か触れられているが、
現実にモンゴル人の話しているのをじっくり聞いたのは私は初めてだった。
百聞は一見にしかずならぬ、百読・百考は一聞にしかずだ。実感できる例に触れることは大きい。
これを考えると私達日本人の祖先は明らかにモンゴル人だ。
それなのに、この祖先のモンゴル語で私が知っているのは「ゲル」だけだ。
英語なら単語やシンタックスどころか「ディベートの概念」のような細かい部分までまで習得したのにだ。
昔、國弘さんが使っていたので覚えた「忸怩たるものがある」とはこういうところで使うのだろう。
ふと夢想するパラレル・ワールド。
コロンブスの1492年の新大陸発見前、そう蒙古襲来が1293年だから、その間の1392年とかに
蒙古帝国が再興した世界を考える。
その後、蒙古はアメリカ(アメリカは当然違う名前なのだが)まで版図を広げる。
当然アメリカは蒙古の植民地から独立する。人種関係の近いネイティブは
これなら大量虐殺は免れて、今より幸せであろう。アメリカは蒙古とアジアからの入植者を
中心とした人種のるつぼになり、資源の豊かさと人口で本国モンゴルを凌駕するようになる。
そして現在、世界は英語でなくアメリカ訛モンゴル語が世界標準の言語である。
言語関係の近い日本人は皆んな容易にこのアメリカ訛のモンゴル語を習得している。
世界の片隅の小さな島でしか話されていない(当然、オーストラリアなんかはモンゴル語圏)
英語を話すイギリス人は、世界標準のモンゴル語の習得に四苦八苦している。。
モンゴル世界の産業革命の知識を急速に習得するために二百年前から続いている、モンゴル文物を導入
するための、翻訳中心の学習の伝統の弊害も大きい。学校ではモンゴル語を訳す授業しか行われていない
両言語間のシンタックスの大きな差異のため、モンゴル語教師でさえモンゴル語を話せるものは少数なのである。
※「パラレル・ワールド2」は【5800】です。
英語教育改革に関する懇談会 より
○携帯電話やインターネット等を活用し,楽しい授業づくりのために創意工夫をこらすこと。
○ 英語を楽しく覚えることができるシステムが必要である。
○ 英語で何かを伝えたいときに困った経験をしなければ,表現力は向上しない。また,通じて楽しい,嬉しいという経験が必要である。
その他HPより
>英語を聞き、話すことを中心に、ゲームなどを通して楽しい授業を展開
>どんな風な英語の授業を望むかアンケート結果。
コミュニケーションの重要性、かつ文法よりもゲームやタスクを通した楽しい授業を目指すようにJTEへの要望があった
小学校においての英語授業。
>英語嫌いの子が出ないように楽しい授業づくりをめざしている。誰とでもコミュニケーションを図ろうとする態度を養うことが大事。「聞く」「話す」という音声を中心とした授業で遊びや歌の中で楽しく英語にふれさせる。
>ALTや友だちと楽しく活動に参加している。生徒が英語を何の抵抗もなく受け入れているのは驚き。子供たちの話す英語はリズミカルで ALTの発音そのもの。早い時期から英語に親しませることは有効だと感じる。
>あくまでも耳と口を訓練し、聞いて理解できる力、理解して話せる力を伸ばし、英語嫌いをつくらないために、徹底的に楽しい英語活動の展開に努力をしていく。
>ALTとのふれあいをとおして世界に目を向け、さまざまな物の見方や考え方も学んでいく。子供たちが,外国の人と恥ずかしがらずに,自然に接することができるようになったと思う。Eye-contactもできている。
以上 いくつかのHPから 引用。(してよいのでしょうか? 勝手にまずいですかね。)
そういえば 中学校の教師向けに
「楽しい英語授業」という 本もでていますね。
>せっかく小学校で聞く,話すを重視して楽しい英語教育が実践されているのですから,それを中学・高校でうまくつなげていくことを,考えていく必要があるというわけですね。
>誰が何を教えるかというモデルがないのが現状。英語を楽しませることができる“小学校の英語の教師”の育成が必要だと思う。
文部省や 英語教育に ぼやいても 叫んでも しゃーないんですが。
すんまへん。ほかに いうところが あらしませんねん。
親も 教師も楽しい英語に夢中みたいですから。
まあ ぼちぼち実践あるのみ。
>お暇がとれましたら、Naima さんとべいべさんの「回転読み」を
めぐっての話に加わってください。
ありがとうございます。
思うように時間の取れないときもありますが
そんなときでも復習だけは欠かさずに続けようと思っています。
時間の取れるときはとにかく激しくやるつもりです。
Naimaさん、べいべさん宜しくお願いいたします。
いずれNaimaさん、べいべさんのように回転読みの経過報告の
ページを作ろうと思っています。
mailto:shigeru@fishing.interq.or.jp
>つくづく、日本在住で姻戚関係のない英語を「ネイティブ並みに話す」のがドンキホーテの努力なのがこの二人の日本語を聞いていると分かる。日本の磁場に何十年もいて、友だち仕事仲間も日本人、奥さんも日本人で日本の背景知識も日本人並みに持っていて、あそこが限界らしい。
アインシュタインが相対性理論を思いついた時のようなとんでもない仮説に聞こえるかもしれませんが、逆に言うと、そのようなネイティブ並の発音のコツを短期間に教えてくれる名コーチがいたとしたら、日本人学習者の英語は、このテリーさんの日本語のように短期間で急激に上達する。。。。という事も言えるのではないですか?(シンタックスもそうですけど、こっちは発音ほど深刻な問題ではないように私には思えます。使う機会がないだけで、ESSなどの使う場があれば、シンタックスの方は比較的簡単に身につくというのが私の印象です。)
>このテリーさんの日本語のように
→ このブルーウルフさんの日本語のように
私は発音は教えることができるが、シンタックスは教えることができない
という考えです。
シンタックスを解析するとか、解析結果を説明するとか、理解するとか、
ある程度つうじる程度にシンタックスを起動状態に保つことなどはできるが、
シンタックスの内在化(無意識化)を深く行うためには、英語の磁場が必要
だとも考えています。
ネイティヴ話者においては、意識における意味の流れがのシンタックスを
自然に備えてしまうのであって、その逆ではありません。このことは、練習
によって擬似的な状態に持ち込めても、磁場に支えられて育つネイティヴの
シンタックスとは別物だと思っています。
シンタックスの修得の方が発音の修得よりも楽だという考えは、私にはど
うにも理解できない考えです。
シンタックスという語で考えているものが、私と違うものなのかもしれま
せん。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
意識における意味の流れがのシンタックスを
→
意識における意味の流れがシンタックスを
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
皆様、2回目の投稿になります。1回目がROMの立場で、斉藤さんの件で投稿しました。私としては、何か後味の悪いものになりましたが、仕方のないことだったのではないかと思っています。
英語論超初心者(ついついROMになってしまう)ですが、
最近シンタックスという言葉が出てきますが、(ずいぶん前から?)辞書で調べたところ「統語論」という意味がでてきました。なんか難しい言葉ですね。
辞書(ジーニアス英和辞典)で調べたところ、
syntax:
1 (文法)統語論、シンタックス;統語法
2 統計的配列
3 (コンピュータ)構文、文法
広辞苑でも調べてみました。
統語論:
1 [論]記号論で、記号間の関係を研究する部門。特にカルナップのいう論 理的統語論は、意味を無視して記号の間の形式的な関係を研究する。統 辞論。
2 [言]句・節・文の構成に内在する規則性を研究する言語学の一領域。統 辞論。構文論。
議論の中で出てくるシンタックスは、広辞苑の2で定義されている文ですか?2だとすると通常私たちが中学、高校、大学で勉強している英文法と言うことでしょうか。
>私は発音は教えることができるが、シンタックスは教えることができないという考えです。シンタックスを解析するとか、解析結果を説明するとか、理解するとか、ある程度つうじる程度にシンタックスを起動状態に保つことなどはできるが、シンタックスの内在化(無意識化)を深く行うためには、英語の磁場が必要だとも考えています。ネイティヴ話者においては、意識における意味の流れがのシンタックスを自然に備えてしまうのであって、その逆ではありません。このことは、練習によって擬似的な状態に持ち込めても、磁場に支えられて育つネイティヴのシンタックスとは別物だと思っています。
シンタックスの内在化を教える事は確かにできないでしょうね。シンタックスの内在化は、英語を使う事によってのみ身につくと考えています。でも、英語を話せる人はみなシンタックスは内在化しているはずです。英語をリスニングする場合でも、シンタックスの内在化が働いていると考えられます。英語のテキストを左から右への頭からリーディングできる人もシンタックスを内在化していると考えられます。
注)ここで言うシンタックスというのは、平たく言うと文法の事です。シンタックスの内在化とは、文法を頭で考えるのではなく、反射的に(無意識的に)理解することができるまでに持っていく事を指します。
当然、英語国の磁場のような英語で溢れかえっている環境に身をおく場合と、殆ど日本語しかない環境で英語を学習する場合では、シンタックスの内在化の程度、レベルは違うでしょうね。しかし、それはレベル、程度の差だけの話で、本質的には同じ事であると考えられます。
シンタックスの内在化ももちろん、簡単ではありません。でもSit down.
Come here. Give me something. 程度の簡単なものからまずシンタックスの習得(つまり会話の習得)が始まるとしたら、この程度のものはすぐに内在化できます。後は場数の問題で、工夫次第という事ではないでしょうか?
>シンタックスの内在化は、英語を使う事によってのみ身につくと考えています。
シンタックスの習得が楽か、発音の習得が楽かどちらかは分かりませんが、
シンタックスの内在化という言葉を考えた場合、私のような初心者がよく英語を学ぶ際に質問として、「英語は英語のまま理解しろ」とか「英語は左から右へ読め」と言うようなことを英語を学ぶ場合大切と言うことが英語学習書に書いてありますが、シンタックスの
内在化とはこのように考えても良いでしょうか。
日本語とまったく違う構造をしている英語なので明治以来の右から左への訳す日本語としてはぴったり訳がはまってすっきりするのですが、この方法だと読むのにすごく時間がかかります。なぜなら一度、分解したものを日本語に訳すからです。それで左から右へと言うことになると思うのですが、当然naiveが話すときは左から右へと意味の固まりを言っている訳である程度の複雑な構文が来てもを読むときには無意識に構造を分解して意味を取りながら理解することだと思いますが、、、と言うことは左から右に読むために文構造や品詞とかを一度みっちり理解するとがシンタックスの内在化(日本人にとって)には必要なのでしょうか。
恋人ファンさん
>口語の日本語(とジョーク!)を何十年も命がけでやっているデーブ・スペクターでも
このモンゴルの青年にはとても及ばない。
英米人の二人とも、読み書きはバリバリで半端でない日本語の猛勉強をしたはずである。
知り合いのインド人も 訛りがない日本語を話します。
インド人の英語は あれほど訛りが強いのに きれいな音の日本語にびっくりしました。
彼は宝石商。 日本語学校にも少し通ったそうですが
仕事で毎日 日本語に触れること 話さなければ商売にならないことが
上達した理由の一つ。
また 毎日 日本のテレビを3時間ぐらいみつづけて
気に入ったものは 何度も見て それを すぐ会話に使ったそうです。
であったときは 来日一年半でしたが かなり流暢な日本語でした。
磁場の力と 金を得るための必然性が 上達した理由と考えられます。
後一つ発音が良いことも上達の理由と考えられます。
発音が良い理由は
インドには さまざまな言葉がある。ヒンズー語を 筆頭にしてたくさんの言語。だから 耳が鍛えられてるからでは?
(本人弁)だそうです。
ご夫婦で来日しているのですが
彼と奥さんの言葉は違う言葉で 英語が共通語。
奥さんは彼の行っている言葉をきいてわかるが 話せない。
インドのネイティブランゲージの中には SVO SOV(OV)いろいろあるのでしょうかねえ。
ご登場ありがとうございます。
>辞書(ジーニアス英和辞典)で調べたところ、
syntax:
1 (文法)統語論、シンタックス;統語法
2 統計的配列
3 (コンピュータ)構文、文法
広辞苑でも調べてみました。
統語論:
1 [論]記号論で、記号間の関係を研究する部門。特にカルナップのいう論 理的統語論は、意味を無視して記号の間の形式的な関係を研究する。統 辞論。
2 [言]句・節・文の構成に内在する規則性を研究する言語学の一領域。統 辞論。構文論。
この掲示板によく出てくる「シンタックス」という語は、ジーニアスでは、1、広辞苑では、2、の定義に近いと思います。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
シンタックスという言葉があまりよく理解できていなかったので、何かを考える場合「議論の焦点」が良く分からなかったのですが少しは理解できた感じがします。皆さんのいつも脳を刺激するような話題に、毎回寄らずにはいられないような気まします。ありがとうございました。
また参加できる話題が来ましたら参加したいと思います。
今後また、参加出来る機会がありましたらこちらのサイトにお邪魔しようと思います。
文法学者や言語学者は、学問の対象としてシンタックスを扱います。この扱い方は、シンタックスを客体とすることを避けられない。「対象として客体化する」。
こうして取り出されるのは、意識に対して「外在物」としてのシンタックスです。
ネイティヴの話者は、決してそういうことをしているわけではなく、言うなれば、「シンタックスを生きる」のだと考えています。ある特定言語の磁場で育って大人になった話者は、思い、考え、イメージなどを、想起するままに言葉にしていきます。これは、それができるほどに、その特定言語に「なじみ」ができているということです。そのようにして一連の発語が起こります。その発語を(学者などが)一歩離れて、「対象として客体化」してみると、その一連の発語の中に「構造」がみつかる。そのようにしてみつけられたものをシンタックスと言ってきたのだと思います。
「思い、考え、イメージなどを、想起するままに言葉に」と書きましたが、この「想起するままに」というところで、立ち止まって考えてみると、「想起するままに」を成立させているものがあるはずです。「想起するままに」発語したものに構造を与えているものがあるはずです。
これは、意識にとって、決して「外在物」ではない。
「内在物」ですらないかもしれない。
むしろ、意識のありようを決定づけている「因子」かもしれない。
シンタックスというものの発見は、「対象として客体化」する学問的な視線によって可能になるものです。いったんそのようにとらえられるなら、それは客体です。しかし、意識のありようを決定づける「因子」は、この学問的視線によってとりこぼされると考えています。
私がシンタックスという語に込めてきたものは、通常の辞書の定義におけるシンタックスからは、ずれてしまいます。私は、「因子」に目をこらしてきたのであり、学問的視線によって客体としてとりだせるシンタックスそのものを言ってきたのではない。それは学問が収穫する果実ですが、果実だけを見ていたのではない。
果実には、それが実るための枝があり、幹があり、根があり、根が伸びている地中の世界があります。「因子」は、「地中の世界」にこそあるのだというのが、私がにらんでいるところですが、私は、「シンタックス」という一語に、この「地中の世界」の働きまでも含めてしまっています。
客体としての「シンタックス」ではなく、人々によって現に「生きられているシンタックス」は、文化構造としての幹や根に連続している。あるいは、その先の目に見えない「地中の世界」にも連続している。
私の「シンタックス」は「闇」に連続していると言ってもいいかもしれません。
果実だけが目の前にあるとしても、それは人間(学者)が果実だけをもいできたからそうなのであって、一本の果樹にとっては、そんな見方は人間の勝手な「もぎとり」や「切り取り」に過ぎず、根や地中に連続している果樹の全体(これを私はシンタックスだと考えています)からすれば、断片にすぎない。
シンタックスを一本の樹木のように考えるなら、それは通常の視線からは、目に見えない根を持っている。また、その根は「地中の世界」に「連続」している。「地中の世界」は、樹木というシンタックスと連続しているとは言え、「文化構造・文化シンタックス」とでも言うべき別物かと思いますが、大事なのはそれが、「根」によって「連続」させられているということです。
言語のシンタックスは、文化総体の構造に「連続」しているということです。
机上の「語学」がこの連続性を獲得することはないだろうというのが、私の見極めです。
根を切らなければ、そもそも語学という領域は成立しない。
ひとまず、このあたりまで考えました。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
おつむが混線しています。訂正させて下さい。
----------------------------------------------------
客体としての「シンタックス」ではなく、人々によって現に「生きられて
いるシンタックス」は、文化構造としての幹や根に連続している。あるいは、
その先の目に見えない「地中の世界」にも連続している。
→
客体としての「シンタックス」ではなく、人々によって現に「生きられて
いるシンタックス」は、文化構造としての、目に見えない「地中の世界」
にも連続している。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
果実一つでも、二つに絶ち割ってみれば、種があり、果肉があり、果皮があ
りというように、「構造」を備えています。しかし、果実ひとつは、単語や
イディオムに対応させ、文構造を樹木の成り立ちに対応させた方が、比喩と
してわかりやすいだろうと考えました。
しかし、文法を考えて、ミイラ取りがミイラになるのは、客体としてとりだ
せる構造だけをシンタックスだと考えるからだというのが私の批判です。
この見方では、樹木の地上部分しか見ていないのだと思います。
根の部分、根が文化総体のシンタックス(地中の世界)から養分を受け取る
ところまで見なければ、「意識に作用するシンタックス」「意識とともにあ
るシンタックス」「意識を意識たらしめるシンタックス」は決して見えてこ
ないだろうと思います。
私においては、シンタックスは紙の上に図式的に固定可能なものではなく、
生きて動く何かです。生きている人間とともにあるものです。
このあたりが、通常の辞書の定義とは違っており、話が混乱する元になって
いるのかとも思いますが、「シンタックス」一語で、言語構造から文化構造
までをさして言っています。
いわゆる5文型など、単なる文型分類による構造をさして言っていることも
ありますし、例えば、キリスト教社会の一神教を持つ文化シンタックスなど
という使い方のように、文化総体に働いている社会構造までもさして言って
いる場合もあります。
シンタックス一語は、それだけのものを串刺しにできるだろうとも考えてい
るわけです。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
文化総体に働いている社会構造
→
文化総体における社会構造
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
「英語の話し方」届きました。
新しいテープと「暮らしの手帳」を送っていただきありがとうございました。
エッセイ集はとてもおもしろかったです。
きのう、友人が「ハーブ園に行かない?お天気もいいことだし」と電話を
かけてきたのですが、こっちの方がおもしろかったので、「また今度ね」と
言って読み続けました。
おかしい話にしんみりしたり、しんみりした話に笑ったり・・・
根石さんの文章はどうしてこんなにおもしろいのでしょう。
「回転読み」は少しスピードを上げてきましたので、「t」とか「d」の音が
自然に消えて、だいぶ読みやすくなりました。リズムも速く読むことによって、できあがってくるように思います。文の中で次の語を忘れていても
口が覚えていて動くことがあり、そういう時、「回転読み」はおもしろいな
と思います。
最後になりましたが、奥様にもよろしくお伝え下さい。
國弘さんの古い方の「英語の話し方」をお貸しいただきありがとうございました。
國弘さんは、語学論における私の唯一の先達だと思っています。
英語のスキルの先達という意味ではありません。私は國弘さんのスキルに追いつくことはありえないことを見極めて生きています。日本語の磁場を離れないでこの一生を終えようと思っています。それが、日本の英語の語学論にとって、必要な条件なのだと考えているからです。
しかし、この条件ひとつで、語学論において國弘正雄を越えようという心は捨てていません。
私はスキルで仕事をする人間ではあるのですが、國弘さんのように通訳のスキルで生きているのではなく、日本の迷いの多い英語学習者の中に学習法を伝えるスキルで生きています。まるで生きている場所が違うのですが、語学論ひとつだけを考えるなら、私には國弘正雄以外の先達はいません。もっと歴史をさかのぼるならいるのかもしれませんが、今は國弘正雄一人でせいいっぱいです。
エッセイ集、お読みいただきありがとうございます。
ああいう馬鹿丸出しの文章を書く時間をもっと持ちたいのですが、語学論にかかずらって、ミイラ取りがミイラになっている状態はしばらく続くだろうと思っています。英語回りの迷信の深さに対する怒りが、私に語学論をやらせているのだと思います。
戦後の日本の迷妄の深さは底知れないものがあります。私も迷い、妄言を発しつつ、しかし、この戦後日本の迷走に声をかけることをためらうことはしたくないと思っています。
>「回転読み」は少しスピードを上げてきましたので、「t」とか「d」の音が
自然に消えて、だいぶ読みやすくなりました。リズムも速く読むことによって、
できあがってくるように思います。文の中で次の語を忘れていても口が覚えてい
て動くことがあり、そういう時、「回転読み」はおもしろいなと思います。
tiny sand さんの個々の単語の発音が私より上手だというのは、レッスンの初日にわかりました。
リズムが盆踊りだというような失礼なことを言いましたが、松香フォニックスの盲点を見たようにも思いました。
松香さんの仕事も、しょせん断片を扱っただけではないかと思います。
しゃべるだけなら、いくらでも英語をしゃべることのできる者(英語磁場に育った子供)のために作られたフォニックスの知識が、リズムの観点を持っていないのは当然です。そんなものは、英語ネイティヴは当然備えているので、そこに光をあてる必要はないからです。
それをそのまま直輸入しても駄目なんだというのは、松香さんだけではなく、日本の大学の英語関係の教授どものおさぼりに対しても言わなければならないことです。
いや、話が固くなりました。ごめんなさい。酔っ払っているのです。
>最後になりましたが、奥様にもよろしくお伝え下さい。
長野と九州は遠いですが、近くに来られましたら是非お寄りください。
これは社交辞令ではなくて、本当に遠慮せず寄っていただきたいと思っています。
是非お会いしたいと願っています。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
モンゴル帝国の話、面白かったです。
これ、小説にしたらどうでしょうかねえ。
誰か、小説のうまいやつがこの掲示板からネタを拾って書いたら、面白いや
つが穫れるんじゃないかと思いました。
筒井康隆みたいな人が向いているが、なにぶん年寄りである。
若い野心的なやつがやったら、面白いんだが。
アイディア自体は実に斬新だと思います。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
また後日。
皆さんで少し展開していただけるとうれしく思います。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
昔のルームメイトから久々に電話があった。
ちょっと 通じなかった発音があった。
正直 ショック。
おまけに いいたいことも うまく言えなかった。
私の英語は
日本にいる外人なら 通じるので 安心してこのごろ 怠けていたと思う。
やべー これで 英語を教えているなんて 恥ずかしすぎる。
今日から やりなおし。
先日、新しい電子辞書を買った。なかなかスムーズに単語が引けるので大満足していたのに操作しているときに壊れてしまった。
販売店に行って新品と交換してもらった。なんと販売店のデモ機も同じ操作をしたら壊れてしまった。
メーカに問い合わせたら、今日、メーカの事業部から今後2,3日中に対策を連絡するとのこと。
たぶん、メーカは混乱しているだろーな。
久しぶりに登場で大変失礼ですが、職場からこの大風呂にアクセスできません。斉藤さんが再登場した時ぐらいからです。お手数ですが、元通りにして頂きたいと思います。
大変ご迷惑をお掛けしました。
プロキシサーバーからのアクセス拒否を解除し忘れていました。
只今、対応しましたので明日にでもご確認ください。
『9.11 アメリカに報復する資格はない!』(文春文庫)¥562+税
というインタヴュ−は、私を驚きと興奮の中に放り込んだ。めずらし
いことです。アメリカ合衆国の数々の「犯罪」を具体的な事実を提示
して(おそらく日本のマスコミもほとんど報道していない)静かに断罪
している。チョムスキーの、その語りの視線は「イデオロギー等の呪縛」
政治的姿勢(反米、反戦など)とは無縁で、率直な事実を次々と示すと
ころに置かれている。一読した人は事実の前に説得されるしかない。
事実を見たくない人は拒絶してしまうかもしれない。
チョムスキーの特徴は、子供のような曇りのない目が見たことをそのま
ま語るところにある。作為がないのである。
英語を学ぶ皆さんにも、ぜひ一読をお薦めします。
他の著書でも、インディアンの虐殺数が二百万人であることも言っている。
根石さんは、もう読まれましたか。
読みました。
文春からハードカバーで出てすぐに読みました。
この掲示板で、人々に読むことを奨めました。
あさって、チョムスキーと辺見庸の対談を素材に地元の「鰐る」という雑誌
のための座談会をやります。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
昔のルームメイトから久々に電話があった。
> ちょっと 通じなかった発音があった。
正直 ショック。
おまけに いいたいことも うまく言えなかった。
やはり、日本語磁場の磁力が徐々に英語を食っているのではないかと思い
ました。私の「電話でレッスン」は、本場仕込みの英語に錆を寄せないため
にも有効だということを、頭の片隅に入れておいていただければ幸いです。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
進展しないですね。
私が煮詰めたいのは、シンタックスの問題なのですが。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
この掲示板でも以前書いたことがあったかと思うのですが、私はよくたとえ話でシンタックスのことを言うことがあります。しかし、このたとえ話は、例が極端だとか言われて、人から真面目に聞いてもらえないことがほとんどです。極端な例をとるから、シンタックスというものが何なのかわかりやすくなる。だからこそ、極端な例をとって話すのに、ほとんどの人が耳を貸してくれないのです。
またやってみます。
一人のイギリス人の婆ちゃんがいたとします。この婆ちゃんは、歯が全部抜けてしまったのですが、入れ歯を入れるお金がないので、歯抜けのまま暮らしています。歯がないので、口の回りがしわしわになっています。
この婆ちゃんの言うことは、実に聞き取りにくい。家族でも、何度も聞き返して、やっと言いたいことを聞き取ることがよくあります。
この婆ちゃんは、筋の通らないことが大嫌いで、よく怒ることがあります。
さて、この婆ちゃんを日本の九州というところにある優秀な生徒を集めた学校に招待したとします。この学校には
Eliot さんと Eric さんという英語の発音の実に上手な先生がいます。Eliot さんがしゃべることと、Eric
さんのしゃべることは、婆ちゃんは全部聞き取れるのですが、婆ちゃんがしゃべることは、Eliot
さんも Eric さんも聞き取りに苦労しています。
また、Eliot さんの生徒さんたちの発音も日本人離れした上手な発音です。生徒たちにとっても、この婆ちゃんの言っていることを聞き取るのは至難の業ですが、婆ちゃんの方は、生徒の言うことは全部わかります。
さて、生徒の一人のしていることを見て、婆ちゃんが腹をたてました。馬鹿な、そんなことが許されると思うのかと、婆ちゃんはまくしたてています。もちろん、生徒の一人として、婆ちゃんが言っていることをヒアリングできません。
この例で、私は何を言いたいのか。
この婆ちゃんの英語の発音は、下手か上手かという基準で測れるのかどうか。
婆ちゃんは英語の発音が下手なのではないのです。歯が抜ける前は、とてもはっきりと見事な英語の音でしゃべっていたので、下手なわけではない。ただ歯が抜けちゃっただけのことです。だから、上手とか下手という基準は、この婆ちゃんの英語にとっては無意味です。どれほど聞いていてわけがわからなくても、婆ちゃんが発音が下手なわけではないのです。入れ歯さえ入れれば、見事な英語の発音が復活するのです。
さらに問題なのは、この婆ちゃんが怒ったときに体の中に次から次へと沸き起こってくるののりり言葉が、まぎれもない英語のシンタックスを備えていることはまるで疑えないということです。歯が抜けたからといって、このシンタックスがまるで損なわれていないことは間違いのないことです。
一方、見事な英語の発音をする Eliot さんの生徒さんは、婆ちゃんが興奮しちゃったので、一生懸命なだめようとしますが、ごつごつした英語で、考え考え、一生懸命に英語を使ってやっています。
身体としてのシンタックスというのは、この婆ちゃんの中に働いているもののことです。
そして、この身体と一体となったシンタックスは、語学として英語をやるのでは獲得されることはないということです。
発音のうまい下手はまるで関係のないことです。
日本人が日本語で暮らしながらでも、シンタックスの内在化はできます。しかし、そのようにして内在化された英語のシンタックスは、この婆ちゃんの中にまったく無意識のままに言葉の駆動力として働いているシンタックスとは、まるで違うものだというのが私の考えです。
およそ程度の差なんてものではない。
生きて泳いでいる魚と干物になった魚くらいに違うものだと思っています。
単なる程度の差だなどと、たちの悪い迷信です。
磁場だけが育てるスキルが絶対にあると私は長いこと言い続けてきました。
それなのに、私は決して英語の磁場に渡る気がありません。
スキルだけが目的なら、英語の磁場に渡るのがいいに決まっているのです。
でも、渡る気はない。
偽物が本物と話して話になる。話になるなら、すでに偽物ではない。この語学だけがかいまみせる、ダイナミクスが私の最大の関心事であり、ぺらぺら英語のスキルのために英語をやっているのではないからです。
渡る気はない。語学から生活言語には、これからも何度も何度も渡るだろう。
しかし、磁場に渡る気はない。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
架空の婆ちゃんですが、このイギリス人のばあちゃんのこと、どう思います
か。
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干物としての魚が、生きて泳いでいる魚と話ができるのです。
生と死が話ができるのです。
語学がすごいのはここです。
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復活です。
私は、キリスト教は信じておりませんが、「復活」という観念は、語学によ
って信じるに至っております。
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ここまで。
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ごつごつ英語ごっこのやり方
・毎回、この要項を一人が読み上げてから始める。
・ごつごつ英語ごっこは、「架空のこと」「お芝居」「仮の言説」「あくまでも練習用」
「どろんこ遊び」「ままごと」などを原理とする。原理的に「にせもの」である。「にせもの」を宣言してからやるものである。
・使用シンタックスと単語は、英語とする。
・英語がどれほど下手でもかまわない。英語のシンタックスに慣れることが目的である。
・参加者は、日本語の磁場で育った日本人のみとする。帰国子女、留学経験者、英語ネイティヴは参加できない。いつまでたっても「インプット」を始めない日本人も参加できない。
・「えー」「あー」「うー」「ほー」「はー」など、母音引き延ばしの感嘆符、「1子音+引き延ばし」の感嘆符は使用可能。「でー」などは、感嘆符でないため使用禁止。「えーと」は「あのお」「それでえ」なども禁止。
・引用の必要があって日本語を使うのはかまわないが、引用であることをその度に言うか、英語の文構造に載せて言う。
・字を書いて説明する、その場で辞書をひくなどはかまわない。
・「赤ちゃん英語」は全面的に肯定される。難しいことを易しい英語で言えるなら、それがベスト。
・自分が知っている単語、語法、言い回しなどを積極的に困っている人に教えることを善とする。知ったかぶりと思われることを恐れて、知っていることを教えないことを悪とする。
・掟破りは1回50円を支払う。(溜まった金は飲み会で使い果たす)500円を支払った者は、その日はその部屋から追放される。(退場の義務)
・主宰者は、根石の英語教室の地元の生徒とする。
・不都合な規約は、随時改めることとする。
2002年10月1日根石吉久制定
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ごつごつ英会話サークル(?)に参加してみました。
ごつごつ英会話では、英語の磁場を排して、英語で会話します。
これまで input してきた英語の output する先がありませんでしたから、今後が楽しみです。
新しいテキストで仕入れたフレーズがぽんぽんでてくるといいなあ。
ま、ずるずると芋づるのように錆びたエセ英語も掴み出しつつ、かましていきたいと思っております。がんばるぜぃ。
ひとりだと稚拙な一通りの言葉しか出てきませんが、場をかりてみて、
「ああ、こんな言葉があるんだ」「こんなときに使えばいいんだ」という発見がありました。
ごつごつ英会話は、今のところ根石宅にて月曜日PM10:00〜でやっていくようです。
火曜日の空きができて、ほっと一息したのですが、今日(月曜)のレッスンを
受けておられる方が、火曜日に移りたいとのことでしたので、空きができて一
時間もたたないうちに埋まってしまいました。悪しからずご了承ください。
現在の空きは、月曜、金曜だけとなりました。
私のレッスンの空きは流動が激しいので、1月まで休まれた後でもご利用いた
だけると思いますが、コーチは根石せいになることが考えられます。
以上、お含みおきください。
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日本語を正確に使うこと。
ごつごつ英会話、ではない。
ごつごつ英語ごっこ。
「ごっこ」という点が大切である。
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からの「電話でレッスン」に空きができましたが、これは埋めないでおこう
と思っています。
「ごつごつ英語ごっこ」がよちよち歩きをし始めるまで、こちらにつきあっ
てみる予定です。
根石吉久からのレッスンを受けることをお考えの方は、金曜日にお願いす
ることにします。
また、ひとまず根石せいのレッスンを受けて、根石吉久のレッスンの空き
を予約しておいていただくことは可能です。アドバイスは、根石せいより根
石吉久の方が断然上手だと思います。
予約される方は、レッスンを始められる時に、その旨をこちらにお伝えく
ださるようお願いいたします。
なお、来年4月以降に申し込まれる方は、月額12000円でレッスンさ
せていただくことになります。(現在は月額10000円です)
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メールありがとうございました。
私は現在、信学会には興味を失っております。
受験生を相手に英語を仕込むこともやめております。
私の現在の生徒は社会人の方々です。
外資系の会社に勤めておられる方、高校の英語の先生などが現在の生徒さんです。
塾の先生も3人おられます。塾の先生は1年ほどで、発音が上達しますが、私がね
らっているのは、発音ではありません。シンタックスの内在化です。
で、私の記事を売名行為だとお読みになったのは、さすがに理系の貧しい感性だと
思いました。
反論する気はまるでありません。
もう、そんなことばかりやってきて疲れきっておりますので・・・。
どうとでもお好きなようにご解釈下さい。
信学会について書いた私の記事は、当時本当に腹をたてて書いたものでしたので、
今後もホームページに掲載を続けます。おそらく、私が死んでも、自分のホームペ
ージに掲載を続けてくれる人は現れるだろうと思っています。
では。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
復旧しました。ありがとうございました。
つまり、私は「かけごえ」ばっかりで...
とりあえずドイツ語のテキスト1課を終了。 *(^o^)*
10月になりましたので、今日から心新たに回転します。
ところで、私の旧友でお勉強仲間の二人が私の回転読みに刺激されて、数日前から英語単語の例文を100回回転読み、高校の教科書の只管朗読を始めてます。 二人とも英語圏での生活体験者ですが、基本の大切さが身に染みてわかってる様です。 大風呂敷のEliotさんと根石さんのやり取りの中で発音の大切さを再認識した人達です。 新たなブレークスルーを求めて今度は音読やってます。
今、「語学留学」で友人の娘が我が家に居るのですが、最近日帰り一人旅出来る様になりました。 私が回転読みしているのを後目に、チョコチョコッと旅行会話文を暗唱して外出します。 しかし通じたとしても相手の言う事が解らなければ用が足せない事を痛感し始めた様です。
inputがあって始めてoutputがあるんだ、くらいの事は、並みの英語学習者でも言えるんだけど、どのくらいの壮絶なinputが必要かについて認識をしている人は少ないですね。 私もご多分に漏れず、その類いの学習者でしたが。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/language/deutch_sodoku.html
>このあたりが、通常の辞書の定義とは違っており、話が混乱する元になっているのかとも思いますが、「シンタックス」一語で、言語構造から文化構造までをさして言っています。
根石さんのシンタックスに対する思い入れがそういうものであるという事は理解できました。
しかし、私はここではもっと単純な定義の“シンタックスの内在化”にフォーカスしてみたいと思います。つまり、語学の習得を目的とする外国語学習者が目標として使用できるものとしてです。私の定義は以前も申しましたが、“文法を無意識の内に理解できる、英語を左から右へと即座に理解できる言語脳を構築する”という事をシンタックスの内在化と呼ぶというものです。
これは我々日本人に達成可能な目標でしょうか?Yesというのが私の答えです。繰り返しになりますが、英語を話せる人はこれができています。英語をスラスラ読める人もこれができています。日本という英語の磁場の希薄なところでは、英語ネイティブ国の強力な磁場でシンタックスの内在化を行うよりは不利である事は間違いありません。でも、この定義なら不可能という程ではないでしょう。そして外国人として語学を習得するという観点からならば、(殆どの人がスラスラ読んだり、話せたりしないという意味において)これでも十分おつりが来るのではないでしょうか?
埼玉・S さん、<クラス十十十(ヒマラヤ)> へ進級。
長野・B さん、<クラス十十五(岩登り)> へ復活。
更埴・いくこさん、<クラス十十(アルプス冬山)> へ後退。
山梨・shima さん、<クラス十十十(ヒマラヤ)> へ進級。
進級の方、おめでとうございます。
後退の方、頑張って、復活してください。
復活の方、おめでとうございます。
なお、進展表は旧板に発表します。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
ネイティヴが身体化しているシンタックスは、子供時代に「内在化」された
ものであり、この質は磁場だけが作りうるものです。
磁場を欠いた場所で、シンタックスの「内在化」を行っても、ネイティヴほ
どの身体化には至らないという一点だけが私が言いたかったことです。
大人になってからでも、英語の磁場の強い磁力をあび、机上の語学と磁場で
の生活過程とを日々往復するなら、いわゆる「ネイティヴ並」の英語駆使の
能力は身に付くと思います。
スキルが目的であるなら、磁場に渡って暮らすのがいいに決まっています。
これには議論の余地はないと思っています。
boysome228 さんがおっしゃる意味でのシンタックスの「内在化」はもちろ
ん、日本在住のままで可能です。それを行う過程を語学と呼ぶのだと思って
います。
変な「ネイティヴ並」幻想や、「ネイティヴと同じ」幻想を払えるなら、語
学をやり、やれるかぎりの「内在化」をすることは大いに奨められることで
す。私がやっているのも、やれるかぎりの「内在化」に過ぎません。
語学という領域をきちんと確定できるなら、「内在化」はどんどん行うべき
です。ネイティヴと同じになることがありうるなどという幻想にとりつかれ
さえしなければ、何の異存もありません。
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疲れてしまいました。
明日以降、参ります。
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今日、考えていました。
本物とにせものの間に価値の上下を設けずに考えていけるなら、語学の結果
としての英語力はことごとく「にせもの」ではないかと考えて、非常に考え
が混乱しました。
もう少し頭がはっきりしている時に、再度考えてみたいと思っています。
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どうやら私の正体は完全にばれているようですね。
さて、イギリスのばあさんの話、返事遅れまして申し訳ありませんでした。
磁場でつくられたシンタックスと、外で内在化しようとしているそれには
差があるのはもちろんのことです。帰国子女でもない限り100%ネイティブ同様になることもないでしょう。ただ私が思うことは、今の時代クリック一つで外国のラジオが聞けたり、CATV、衛星放送で外国のテレビが見られたりと、磁場外でも磁場に近い環境にすることは個人の力でも十分可能なわけです。
根石さんのいう磁場でしか拾得し得ないスキルがあることは私も認めます。ただ私は教員として、生徒に音声を教えることによって授業をその環境に近づけたいと考えています。
根石さんの質問に適切に答えた返事ではないと思いますが、私の日本語力で言えることを書きました。
>ひとまず根石せいのレッスンを受けて、根石吉久のレッスンの空き
を予約しておいていただくことは可能です。アドバイスは、根石せい
より根石吉久の方が断然上手だと思います。
先日酔っ払って以上のように書きましたが、どうも根石せいの方が
発音がいいという評判があります。Naima さんが見えられたときも、
「奥さん、発音がきれいですね」とおっしゃっておられました。私は
「そうですかねえ」と言ったと思います。そんなにいい発音だとも思
っていないので、そう言ったのですが、ウドの店に女房を連れていっ
た時にも、「根石さんより、奥さんの方が発音がいい」と言う人がい
ました。
女房が小学校低学年の頃、上の兄さんが英語塾へ行くのの後をついて
いって、塾生にはなっていないのに、教室に入れてもらって、先生が
発音するのを真似ていたという話を聞いたことがあります。そのせい
なのかもしれません。そうすると、発音のいい先生が土佐で塾をやっ
ていたということになります。
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庭の物置づくりの続きをやります。
夜は、地元の人と集まりがあります。
夜中に戻れると思います。
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日本の英語を巡って「にせもの」という観点から、まとまったものを書いてみ
たくなりました。しばらくこちらに注力しますので、掲示板上での語学論はし
ばらく控えることにいたします。
「回転読み」等のアドバイスは継続します。
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>どうやら私の正体は完全にばれているようですね。
Eric さんが初めてこの掲示板に登場して下さったとき、もしや、と思ったのを覚えております。Eliot
さんの学校以外にも、「音作り」をやっている学校があったのかと思ったからでした。
しかし、書かれているものを読んでいて、これは Eliot さんのお弟子さんだなとわかっってしまいました。
池ノ平ホテルというところで Eliot さんにお会いしたとき、Eliot さんは、私立の学校の英語の先生たちが集まる会に出たりされるのでご存じだと思うが、他にも「音作り」をやっている学校があるんでしょうか、と私がお聞きしたことがあります。Eliot
さんは、言下に、「ありません。少なくとも、私が知っている限りでは、私の学校と根石さんの素読舎だけです」とおっしゃいました。
私は非常にびっくりしました。数としては少数だろうが、他にもやっているところはあるんじゃないかと思っていたのですが、英語教育界を広くご存じの
Eliot さんが、ない、とおっしゃるのでした。
Eric さんが登場なされた時、もしや、と思ったのは、もしや、「あったのか」、という思いでしたが、そうではなかったのでした。
Eliot さんの授業は、日本の学校の英語の授業としては、他の全部の学校がモデルにすべき高い質をもったものだと私は信じています。日本の英語にとっては、断片を扱ったにすぎないフォニックスを完全に消化したうえで、見事に授業の中に活かされているのは、生徒の音を聞くだけでよくわかります。
音読とフォニックスの組み合わせが実に見事だと思っています。
さまざまな方法を検討し、それを学校の授業という場に活かす Eliot さんの腕は確かなものです。こういう人のお弟子さんになるのは、幸せなことだと思います。
他の論点に関して、今、ちょっとまとまったものを書きかけておりますので、詳述いたしませんが、複製音声や放送音声をいくら自分のまわりに敷き詰めて「英語漬け」にしても、そこには磁場はないという考えを持っております。
いずれ、議論を戦わせてみたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
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教会の先生は、間違いを指摘してこちらに言い直させるようなことをしなかったのが良かったんですね。
(多分、こちらの言った単語並べ英語を先生は Oh, you mean〜〜 と言い直して
こちらがyesと言ったら答えるようなことをしていたと思います。)
で、教会の英会話のときの私の英語レベルの話なんですが、朗読などは終わってしまえばすぐ忘れる
「試験対策の文章を丸暗記」以外した覚えがありません。
口をついて出る文章なんか、I am a boy. This is a pen.くらいしかありませんでした。
前に中学程度のシンタックスが身に付いていたと書いたと思います。しかし、あれはむしろ
「使うのでためではなくて、高校入試問題で8割程度正解できるくらいの力はあった」でしょう。
また、瞬時に I you go together! と言えるアジア人と、一分考えて Let's
go there together.
と言える日本人では、どっちが「初期の人」かという問題もあります。
試験の点数は断然日本人ですが、商売させたらタイミングずれずれの日本人は勝負にならないでしょう。
家族の話とか普通の会話でもアジア人はコミュニケートできて、日本人は相手が我慢しきれずに消えると思います。
(確かに、沢山朗読すると色々な表現が正しく使えることは経験で私も納得していますが、東南アジアなんかで
旅行者相手に怪しげな英語を使って通じさせてしまっている商売人なんて、朗読なんかやったはずないですしね)
自分の話す番でないときに、和英辞典で言いたいことの単語を調べていたような記憶もあります。
教会は6〜7回通ったのですが、その時の会話を全部ここに書いても10行にも満たないかもしれません。
それでも、自分のでっちあげた英文が「通じた」という喜びと、英語を理解するというのが
「相手の言うことを、順番にイメージを作って」いく、日本語と同じ過程だと「実感」できたのが
一番の収穫だったということです。
英語が勉強の科目ではないのを「理屈ではなくて感覚で」理解したということです。
(もちろん、私は全くしていなかったのですが、回転読みとはいかないまでも中1中2で
かなり朗読をさせれば私の場合より大分まともなことが話せると思います。
その後に、中3くらいでネイティブとの会話をさせるのが理想的だと思います)
>私の考えを押しつける気はありませんが、まがりなりにも話ができて、気持ちが通じるというのは、
>初期ではないと思います。中期の初期でしょう。
つまり、私はまがりなりにも話が「できていなかった」のです。それでも気持ちが通じたのを
実感したのは、私の「どうしても伝えたい」という姿勢と、相手をしてくれた金髪先生の
「分かってあげようというその姿勢」が「コミュニケーションの磁場」を作ったからだと思います。
「授業なんか面倒だけど生活のために時間つぶしをしに来る」ような教師が教壇に立つとき、
生徒に対する本気の「関心」は彼の中に存在しません。
職員室に質問に行っても「ああ、劣等生が何言ってんだか」と生徒の私をまともに見ることもせず、目を
空中に泳がせ、私に当てはまらない「遊んでばかりいるから出来ないんだ」という、条件反射の説教を
するだけで、こちらの質問にまともに答えなかったのは、教師の私に対する「関心」の欠如の現れです。
同じ言語を共有していても、「関心」を拒否したときコミュニケーションの磁場は発生しません。
言葉の通じない者同士でも、旅行者同士や、外人旅行者と世話好きの民宿のオバサンとの間のように、
相互に「関心」は持てます。そういう場合「コミュニケーションの磁場」は確実に発生しています。
ジェスチャーとそれぞれの言葉の抑揚だけで、簡単なことなら相互理解が可能です。
その言葉ではない会話と相手を思いやった行動で、心も通じるのだと思います。
言葉のない犬・ネコだって、「馬?の会うお友達」と「遠目に見ただけでうなり声をあげる」
相手がいます。お友達との間では、言葉はなくてもコミュニケーション磁場は発生しているのでしょう。
まして、人間をやなんですね。教師の第一の条件は、「生徒に関心を持つ」ことなので、こう考えると
「テメーら人間じゃねえ」どころか、「犬畜生にも劣る」教師が多いのが問題なのですが。。(^^;;
うううう、小中高と「怨師」しかいなかった私の、教師への悪口が止まらない。。
だれか、Eliotさん以外に「恩師」のいる人がいたらROMしてないで、カキコして下さいな!
http://www.izu.co.jp/~wizard/english/bbsres1.htm
教会からの1年で私は2から10に一挙に突き抜けた感覚はありますが、教会以前はひどいものでした。
突き抜けられたのは、多読や機会いじりなど「自分で考え自分で何とかする」習慣が小学生からできていた
せいだと思いますが、そういう私の英語の適性を見いだしてくれるどころか、英語嫌いにさせてくれたは
前に書いた高校のリーダーと文法の教師二人は、「その罪万死に値する」と言い切っておきます。
この二人に関する「真っ黒い思い出話」は沢山ありますが、言・わ・な・い・っと。。(^^;;
まあ、中学のときは丸暗記でも5段階の4や5がとれたのが、進学校に入って量も増え丸暗記や
訳読では対応できなくなったんですね。
それなのに、できない生徒をけなすだけで、誰もまともな英語の本質や勉強法を教えてくれなかったということです。
自分で買った本でも700選やシケ単のような丸暗記ものだったので、英語は「暗記物」だと誤解していました。
英語が「考えてやる」ものだと分かったのや、朗読の大切さはESSに入ってから初めて知ったくらいです。
学校って。。。
どう考えても、私が通った学校の場合は、教師が生徒イジメをして生活が保証される変なところです。
唯一役に立つことを教えてくれた金髪先生やESSの仲間は、逆に一円にもならないってのも変ですが。
> その後の英語歴の激しさは推測できます。(推測を禁じないでいただくと助かります。)量的にも質的にも
>その後の英語歴が自分の英語の実質部分だとお考えで、だから、お姉さんと話したのは初期だとお考えなのだ
>と、禁じられても推測します。
「激しさ」という面ではESS時代は口に出すという意味では激しかったのですが、インプットの量は
速読が出来ませんでしたから大したことないんですね。
それ以降は、黙読の速読が中心で朗読なんかは全然しませんでしたから「激しい」なんて恥ずかしく
て言えません。日本語の本好きと同様、ダラダラ時間だけ掛けてきただけですから。。。
で、英語教育の前提についてですが、私はやはり長く教えてきたこともあって、学習者の基準を、
「自分で何とかしてしまう」私のような人におくことは出来ないのは骨身にしみて分かっています。
私がここで英語論をやるときの英語初心者のイメージは、「連立方程式を教えようとしたら
九九が分からなかった途中から入った中2」や「ローマ字が全然読めないためにまるで英語が
分からない家教した高2」も含むものです。
そういう子でも、完全とはいかなくても連立方程式は解け(応用問題は無理でしたが)、英語が半年で
アホ高校では優等生になってしまいました。やり方次第では英語も話せるようになると思うのです。
アジアの運転手みたいな文法間違いだらけの英語だったら彼らでも身に付けることはできると思うのです。
でも、学校英語でこれをやるには「間違い探しの権化」みたいな試験中心教育をどうにかしないといけないのですが。
>ところが、初期の人には「話をすると」ということが成立しないのです。
>どうやって、初期の人が「話をすると」ということを成立させたらいいのでしょうか。
教会で私が英語が「話せた」というのは、不正確でした。一回の授業で3回くらい、簡単な英作文を頭の
中でやって、それが通じて、相手が易しい単語を使ってゆっくり話してくれた答が分かったという意味です。
当人は英作文をしていた積もりだったのでしょうが、今聞いたとしたら言いたいことの単語を並べた
ようなものでしょう。金髪先生はそのひどいブロークンから必死に意味を取ったのだと思います。
あの段階は、「ブーブ乗る、マンマ食べたい」と言っている段階ですから、間違いを指摘することなく、
一生懸命理解して、易しい言葉で返事を返してくれたあのボランティアの先生達は初期の生徒を教える
英会話教師の鏡だと思います。
(給料をもらっていた大学のネイティブ教師は全然鏡でなかったので、既に英会話に関しては
「離陸して」いた3〜4人以外には何にも役に立ってなかった。というより有害だった。)
考えると、「忌憚無く間違いを指摘し合う」関係は、前に書いた英語科朝練三人組で毎日やっていくうちに
自分以外の英語にも関心を払う余裕が出来て、強い信頼関係ができていた英語修行者同士だったのでできたものです。
初めて英語を「話す」段階で、上のレベルの人が同席していた場合、誤りを一々指摘されると初心者は話すのが
恐くなるので、「間違いチェック」は控えたほうがいいでしょう。
http://www.izu.co.jp/~wizard/english/bbsres1.htm
大家さんが「深い思考」に入っているようですので、ここは私めが長〜〜いのを二発倉庫から引っぱり出しました。
> 初期に(初心者の段階で)英語ネイティヴの人と話をすると大きい効果があるのであれば、
>全国に AET がたくさんいる時代ですから、とっくに日本人の英語は大きく変わっているはずですね。
この問題は、書くと長くなりますし前に↓をカキコしてあるので不要と思い省きました。しかし掲示板を
見ながらだと、本と違って私の文章だけを読み直せないので、思い出してと言っても無理かも知れませんね。
--------------------------------------------------------------------
>私は英語科ですから、周りを見回しましたが、ESSの三人以外、
卒業までに「一人も」まともに話せるようになっていないのです。
40人のクラスにネイティブ教師一人の週二回英会話の三年は、
一人につきESSの三日分の会話時間にも及びません。
ESSは言いたいことを言っているのに対し、「聞かれたことに返事をする」
という短い会話に多くを求めても無駄です。
--------------------------------------------------------------------
つまりAETを使うなら、4、5人の生徒にネイティブ一人。助け船を出したり
たまらずに通訳してしまう日本人教師は有害なだけなので必要ありません。
一人の生徒が頭で英作文しているのを、一分くらいは待てる状況で、コミュニケーションの
磁場の必要条件の「一対一の本気の関心」をネイティブが持ってくれるのが理想的。
一番無駄なのが、40人クラスとかで教師が通訳したり、ネイティブをテープレコーダ
替わりにrepeat after me で生徒全員に復唱させるようなことです。
(「良い発音は移るはず」という、ここではとっくに否定されていることすら
学校英語ではあまり本気で検証されていないような気がします。)
AETが教えているのを見たことはないのですが、どうもこんなことや引用文にある私の英語
科の会話授業のようなことくらいしか、40人クラスにネイティブ一人ではできないでしょう。
私が言っているのは、AETが参加する授業が中高三年間で50回あるとすると、
その回数を5回にしてもいいということです。
その代わり、40人のクラスではなく4人のクラスにすれば今の人員で可能です。
そして、その五回は一月以内に集中させるべきでしょう。
「月に一回の外人見物」ではなくて、中高通してたった一月の五回だけど、その
五回は「日本語の全く通じない、目の前にいるネイティブの言うことを何とか理解して、
自分の言いたいことも分かって貰わなくてはいけないという抜き差しならぬ状況」
を一対一で作るということです。
もちろん五回程度では、会話の訓練には殆どなりません。そうではなくて、英語が日本語と同じ、
人と人が「心の中のイメージ」を交換するものだと「実感」するきっかけとすることです。
少なくとも語学の適性のある人に「使える英語」を身に付ける大きなインセンティブになる筈です。
しかし、このあとに仲間同士で英語で話す雰囲気を作るという難題が待っています。
ここは格好にこだわる日本では難しいことは分かります。とはいえ、「一度覚悟を決める」
だけでESSはどこでもやっていることなので、本質的には難しい問題でない気もしますが。
>恋人ファンさんが英語ネイティヴのやさしいお姉さんと話をしたのは、
>初期ではなく、中期なのではないのでしょうか。
根石さんの高校時代でも、素読舎に入ってきた生徒でもいいのですが、前に書いたように英語の
成績が10段階の2の高校生をイメージして下さい。とても中期とは言えないのではないでしょうか?
http://www.izu.co.jp/~wizard/english/bbsres1.htm
段どり力
コメント力(要約力,質問力をふくむ)
上達の論理をつかまえていること
自分よりも技が未熟なものからも学ぶ力
読書の習慣が身についていること
自分自身が異常に学びつづけていること
研究が面白くってしようがないと感じていること
あこがれを伝え,かつ他者のあこがれに添うことができる力
先行者のあこがれにあこがれる学習関係の二つのベクトルの両方になる力
共に学ぶ力
他者の学ぶ力に驚き続ける新鮮さを持続させる力
クリエイティブな関係性を現出させる力
クリエイティブな関係性は,お互いの間に新しい意味が生まれる関係の在り方
出会いの後に学ぶ意欲が湧くような関係の在り方
やりたいことについて深く話せる関係の在り方
個人の才能よりも,関係の力を信じること
スタイル間コミュニケ−ションを引き起こす力
自身が民主主義の主体としての市民であること
弱者にやさしいこと,弱者に見えるものの中にある豊かさを見いだす力
制度を換骨奪胎する力
市民的公共性を身につけていること
半歩踏み出す身振りが技化できていること
反民主主義的なことに怒ることができること,抵抗(レジスタンス)の構え
文化遺産を継承する力
自分ならではのテキストを持っていること
偏愛するものがあること
異文化間コミュニケ−ション能力
<response-ability 応答=責任>(友人の社会学者井腰圭介さんの概念)能力
メタ意識を持ち,二つの時間性を同時に生きる力
からだが開かれていること
相手にまなざしと声が届くこと
他者に自己をさらす
一人でも充実できること,孤独を味わう力
力に敏感であること
言葉の力を信じていること
情報に関してケチでないこと
言葉をためる意味を知っていること(ツボにはまる言葉,腑に落ちる言葉)
相手の話を聴ききることができること
相手の文脈にのりつつ,ずらしていける力
空きをつくる力,未決定の時空
空白(沈黙・混乱)を恐れぬ勇気
弁証法的運動を技化できていること
カオスとコスモスを往復できる力
定年退職以外に教師をやめるべき理由をもち,その期がきたら退職できること
(受講者によって提出されたものですが,全くその通りだと感じています。
私は,自分のクリティカルなポイントを設定しています。)
腹をくくることの技化,腹が据わること
相手を種として見る力
相手の過去と未来を想像する力
お互いの死をどこかで意識しながらも,死を安易に持ち出さないこと
「袖ふれ合うも他生の縁」を実感していること
縁がないこともある,と考えられること
知性・認識においてはペシミストであり,意志においてはオプティミストであること
がけっぷちでのポジティブな構え
労働ではなく,祝祭として教育の仕事を感じる力
時給感覚で時間を計らず,祝祭感覚で時を満たす力
忙しそうにしない
ふれる力,ふれることにふれる力
響き合う感触を実感できること
生ものを扱う力,触覚的想像力
セクシャルであること,エロス的関係に敏感であること
自分のやっていることに誇りをもっていること
自分を表現できるものを育てていること
自分を愛していること
色々な分野に面白い友だちがいること
闇の共有体験があり,それを成熟への権利として認識できていること
自分のテンポは持ちながらも,他者のテンポに合わせることのできる力
ともに息をすること,息を感じる力,息を合わせる力
深く長い息の技化
他者との距離を詰めたり,はなしたりできる力
他者との位置関係をずらす力,ななめに立つことができること
場がクリエイティブになることに責任を感じる力
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ええと、どんどん言語シンタックスの話から枝葉が出て、教師の資質の話しになりましたが、一応これは、
前に書いた「英語教員の資質には『話せる能力』より大切なものがある」の続編なのでご勘弁をm(_
_)m
尚、この長い「インテリ様論」は、母語で育った人なら誰でも持てる語学シンタックスの他に、論議するためには
「読書やそれに基づいた思考に基づく」背景知識シンタックスとでも言えるものが必要なのではないかという意です。
このシンタックスは言語的シンタックスのように国内だけで通用するものではなく、世界共通なので複雑な
ことを扱う英文の理解や発言においても必要な前提ということで、英語とも通じているので書いてみました。
http://www.izu.co.jp/~wizard/english/bbsres1.htm
もう一方の、言葉を「表層的にしか理解できない」ということは詳しく書かなくても斉藤さんの他の人のやりとりで
斉藤さんが相手の日本語を「子供が大人の会話の表層しか分からず、何を言っているのか分からない」というのと
同じレベルで、相手の論議の日本語を理解できず、的外れな反論をしていた様子をご覧だった皆さんにはよく
お分かりと思うので、長々しく書きません。
彼の勘違いは「英語で書いてあったり、難解な哲学や量子力学ではない、一般人がここで日本語で書いて
いるものが、日本で生まれ育った自分に分からない『はずがない』。自分の理解は完璧なはずだ」と
無意識で考えていて、その前提で相手のカキコを完全に咀嚼するまで何回も読み返す手間を惜しんで
的外れの反論を書いたことです。
実は、斉藤さんのこの問題はここだけ、彼だけではありません。
多くの掲示板で一方の論理が相手に通じず、論議が堂々巡りしているのはよく見るところです。
最後は論理を使える方の側が、論理の基礎教育のような文章を書く羽目になって、しかし、大体
それは相手を納得させるにはいたらず、「日本語くらい分かってる、偉そうにするな」の罵倒で
終わるようです。
原因は、一方が議論をするのに必要なシンタックスを持っていないためです。
語り合ったりするための「話題の前提になるシンタックス」は、例えば若手のお笑い芸人についてする
場合なら、その種の芸人が出ているTV番組をほぼカバーしており可能なら実演も見に行っていること。
お笑いについて関心を共有し、それについて会話する相手のいるというようなことを前提としています。
また、アユのファンなら彼女のCDは全部もっており、コンサートにもよく通い、彼女が出る
TV番組や彼女について書いてある雑誌などもカバーしているみたいなことが前提になるでしょう。
こういう、特定の題材について語り合うのに必要な「扱う対象によって決まる」シンタックスは
分かりやすいので、私のようにそのシンタックスを殆ど持っていない人間は、若い人のそういう
会話に入ろうとは夢にも思いません。
ところが「様々な題材について議論するために共通して必要になる」シンタックスは題材毎に
決定するものでないだけに、なかなか意識されません。
もう成人していて、新聞雑誌も自由に読めるのだから、自分は議論できると思っている人が、
斉藤さんを筆頭に!ネットには多くいます。新聞の投書等なら勘違いの投書は編集者が捨て
ますから大衆の目に晒されて読者をイライラさせることもありません。
しかし、誰でも意見を言えるネットでは「じっくり考える人ほど安易には書かない」ため自分の立場
とは違うことを言われたことに対しての、何も考えないで条件反射的にカキコする人が目立ちます。
そういうカキコをする人は、「様々な題材について議論するために共通して必要になるシンタックス」
を習得し損なった人々です。
では、その種のシンタックスを取得している人はどんな人でしょう。
大まかに分けると、「読書が(特に子供のときから)習慣になっている人」と、本など読まなくても、
親が仕事をしている様子を身近に眺めたり、親戚や近所の大人の知り合いと濃い付き合いをしていて、
Naimaさんのいう「ものの道理が分かって」いたり「ものの本質が見える」という二種類の人がいるでしょう。
しかし、後者のようにして「ものの道理」が分かってしまうようになる環境は現在では希なもので
あり、そういう環境は自分では選べないので、やはり、誰でもやろうと思えばできる読書を考えます。
「様々な人の立場に自分を置き考えてみること」は小説や評論、随筆等の多読で養えるでしょう。
また、「相手の書いていることの理解に必要な雑学の知識を持っていること」は色々な分野の月刊の
雑誌や、特に新書版の様々な分野の入門書的なものの多読で養われます。また、NHKに多い
科学番組や経済・政治もの、歴史ものなどを選んで見ることも雑学を身に付けるには役立つでしょう。
多読の人は、何かの意見を聞いたり読んだりした場合、そのまま受け入れたり拒否したりしません。
読書の結果クセになっている、「なんでこんな意見をこの人は言うのだろう?」「そういえば、
こういう見方もあるかも知れない、少し自分の場合で考えてみよう」などと考えます。
その結果、受け売りではない自分の視点からの意見を持つようになります。それが一般の意見と一致しているとか
異端的な考えになるとかは余り気にしません。
http://www.izu.co.jp/~wizard/english/bbsres1.htm
この前、根石さんは「大学生はインテリ様なんだから、自分たちの英語が『にせもの』なのくらいわかれ」
と書いたと思いますが、読書がインテリの大きな前提だとしたら、多くの大学生はインテリではありません。
そうだったのは、戦前の大学生が全て旧制高校の「読書(特に哲学書)漬け」の洗礼を受けていた頃の話でしょう。
団塊の世代頃の大学生は、まだ昔の雰囲気が残っていて「漱石や吉本隆明、ドストエフスキー」なんかを
私のように「ワケが分からなくても」読まなくてはいけない義務感を感じた最後の世代なんですね。
私のESSはそんな読書をしていた人が主流だったので、「日本人が帝国主義のアメリカの言語を習得する意味」
なんてことを、随分時間をかけて(日本語で)全体会議でやっていました。
しかし、私の時代でも大学の入試にはそんなものは必要なかったので、インテリではない読書していない学生も
結構いたのですが、当時の雰囲気では大きな声で「本なんか読んでも役に立たないじゃん」とは言えず、隅で
小さくなっていたように思えます。そういう人たちは、数時間続く全体会議は拷問みたいに辛かったようです。
根石さんのESSの嫌味な先輩は、そんな非インテリが肩身が狭かったのが、英語という他の人が使えないものが
使えるようになったので、それまで鬱屈していた虚栄心が出ておかしな態度として出ていただけではないでしょうか。
そんな態度を、部外者の根石さんが不快に思うほどあからさまに表に現せたのは、
そちらのESSにこちらのそれのような「旧制高校的」雰囲気がなかったためと憶測しますが。。
私のESSのように、学生はインテリ様でなくてはいけない、吉本とか高橋和巳?程度は読んでいないと
相手にされないという、「旧制高校的雰囲気が」あるとそういう勘違いはできないんですけど。
現在の大学生になると、受験テクの要領の良さで大学生になれたので多くは「読書の洗礼」など受けていません。
これは、昔は「価値」であった「読書」というものが、現在では「本なんか読んでいて暗い、経験が
少ないから詰まらない」という「反価値」になってしまったためでしょう。
もう一つは、ゲームやネットや携帯みたいに、安易に楽しめるものが沢山あるので、敷居が高くておカネも
結構かかる地味な読書は人気がなくなってるんですね。
ああいうものの多くは、大人が金儲けの手段に作って大がかりに普及させたものですから、
若い人が読書をしないからといって、上の世代が文句言えた義理でないのも確かなのですが。。。
そういう風潮にもめげず受験にも現国の読解にしか役に立たない「読書」をする物好きの若者は多くはありません。
皮肉なのは、インテリ様が多かった昔は自分の意見を表明する場が殆どなく、インテリ様が少なくなった今に
なって誰でも意見の書けるネットが登場したことです。
根石さんの言う「インテリ様」の資質とは、下の、声に出して読みたい日本語/三色ボールペンで読む日本語」
なんかを書いて売れっ子になっている、斉藤伸夫じゃなくて。 (^^;;斉藤孝氏の言う
「教師に必要とされる資質」と共通するものが多いと思うのですがかがでしょう?
まあ下のような理想的なものが教師の資質として必要だとしたら、今の教員は99.9%クビですが。。
しかし、考えてみると彼の「日本語での朗読」は素読の一種ですから、回転読みの日本語版なんですよね。
(ちなみに斉藤氏は、この前ラジオで話していたのですが、高校までである程度内容のあるもので、最低
「文庫本100冊新書本50冊」を読まないとまずいと言ってました。150冊じゃあ全然足りないと
私は思いますが、確かに最近の学生は本読まないのでハードルを低くしているようです。)
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<教師の資質あるいは力とは何だと思うか> 齋藤孝
このページは http://www.kisc.meiji.ac.jp/~saito/2teacher/tikara.htm
斉藤氏のHPの入り口は http://www.kisc.meiji.ac.jp/~saito/
<教師の資質あるいは力とは何だと思うか> 齋藤孝
たとえば,私の考えるもの
http://www.izu.co.jp/~wizard/english/bbsres1.htm
根石さんのシンタックスの解説、歯の抜けたお婆さんの例、素晴らしかったです。
大まかなところで理解していた積もりですが、よく分かりました。
私の理解が正しいのか次のような例で考えてみました。
前に私がベランメエで書いた教科書批判を考えます。
私には英語教育や英語自体を論じたりする知り合いは、全然いなかったので
実はあの怒りはここ十年以上頭の中で思っていただけで、誰にも言ったことがなかったのです。
しかし、この怒りは大きくJackieさんのカキコに触発されて書き始めたら、
私のいつもの文体ではこの激しい感情を表現できないのを「感じました」。
「感じ」たというのは、私は別に理屈であの文体を選んだのではないということです。
ベランメエを使う気になったのは、私の別人格が他のことで(^^;;強い憤りを怒りを感じいて
短いベランメエのカキコを向こうで数日前にしていたからのようです。
怒りを表すためには、私は普通通常の文体で「理詰めの論破、皮肉、嫌味」を駆使するのですが
今から思うと、ベランメエを使ったのは私が無意識に
@ 中1の教科書の文章という日本人が初めて英語に接する教材がとんでもない「場面主義」に陥っていて
「狭い意味でのシンタックス」の基礎を分かりにくくし、英語嫌いの生徒を大量生産するという大罪を犯していること。
A 罵倒の対象になる文科省や英語教育審議会??の関係者がここにいるはずはないので、
思い切って罵倒したとしても傷つく人はいないし、その強い思いを読んでいる人に伝えたい。
と考えたからでしょう。
ここで、私の「ベランメエ文体」についてシンタックスの観点から考えます。
私は実生活で人をあれほど罵倒するほど気が強くないので、ベランメエなんかは使ったことがないんですね。
でも、使えるのはTVなどでベランメエで罵倒するシーンなどを目にしてきたことと、私が、特に小学生の頃
結構な落語ファンで「てやんでベラボウめ」のような江戸っ子の啖呵のニュアンスが実感できるようになって
いたからでしょう。
そして、私が無意識にベランメエは一般にも通じるという前提で書いたのは、あの文を読む普通の日本人が、
私のように落語ファンだったことはないにしろ、やはりTVなどでベランメエに多く触れていて、それが
表す感情を理解するはずだという確信があったからです。
つまり、お互い分析でもしないと意識されない「使ったことがないのに、生まれてから今まで日本語の
磁場にいていつの間にか理解できるようになってしまったベランメエ文体」という日本語シンタックスを
共有しているという前提があります。
またどの言語のシンタックスでも、 誰でもには通じなくても、題材を共有する組織の成員同士のもの、例えば
同じTV番組のファン同士、歌手などのファン同士でのみ共有しているシンタックスも存在していると思います。
根石さんの言う、語学を貫く広い意味でのシンタックスはそういうものではない、
その国に生まれ育てば「誰でも」が共有している語学的なシンタックスだと理解しています。
しかし、問題があります。誰でもが共有し理解する基礎的なシンタックスのみでは、
日常会話はできても、英語論のような面倒な「議論」はできません。
私達は最近斉藤さんという、日常会話的な文章と議論の表層しか理解できない人に手を焼きました。
日常会話の例を挙げると、斉藤さんが三十年前のTVドラマの話題という「ジジババ・シンタックス」
に基づいて、日常会話のレベルでNaimaさんと「嬉々として」語り合ったのに見られるようなものです。
あの場合は、二人の間には「共通の関心」に基づいた意志疎通が成立していました。
斉藤さんが嬉しそうだったのはそのためでしょう。
しかし、ここを読む多くの若い人が、三十年前のTVドラマというシンタックスを共有していないため、
あのやりとりに共感できるはずもないということは、もちろん斉藤さんの知ったことではなかったのですが。
私なら、書くとしたらそんな批判になってしまうのに、斉藤さんの話題に合わせてつき合ったNaimaさんの
優しさには、私はちょっとした感動を覚えて読んでいました。
それでも、他人の立場に立てない斉藤さんには、彼を孤立させないようにNaimaさんが自分に合わせてくれて
いたことなど思いもよらず、彼女に恩義など感じるはずもなかったのですね。最後があれですから。。
http://www.izu.co.jp/~wizard/english/bbsres1.htm
>うううう、小中高と「怨師」しかいなかった私の、教師への悪口が止まらない。。だれか、Eliotさん以外に「恩師」のいる人がいたらROMしてないで、カキコして下さいな!
恋人ファンさん、私は「恩師」と思われる方がいます。中1の時にその先生は習ったリーダーの音読を毎日するように言われました。それで最初の頃は同じところを毎日10回程音読していましたが、その中に習ったレッスン数が多くなると1回でも通して音読するのに1時間以上かかるようになったので、最初の方のレッスンは切り捨てて、とにかく毎日1時間は音読するようにしました。多分それが良かったのでしょう、英語は中・高を通して最高点でした。しかし、私は毎日1時間のリーダーの音読は多すぎたと感じています。というのは英語以外の科目(例えば数学とか)に関心を向けることが出来なかったからです。根石さんや恋人ファンさんのように中・高時代に英語の科目で辛酸をなめられて、後に必要性を感じられて英語を本格的にやられた方達をみると、おそらくお二人はバランスよく勉強されたではないかと思われますが、その方が良かったのでは、とも感じています。私の場合は全く偏った勉強の仕方だったと反省しています。問題はこのお二人のように「怨師」の弊害を自力で撥ね退けられる人はいいですが、「怨師」のために英語嫌いになり、そのままあきらめてしまう方達や、やり直そうと思っても「素読舎」のような良質のホームページに気の付かない人、気が付いていても本当かなと疑っている人達には、「怨師」の弊害は弊害のまま終わるということだろうと思います。
mailto:t-hamaya@nyc.odn.ne.jp
http://www1.odn.ne.jp/~cet09590/
恋人ファンさんと議論したおかげで、「ごつごつ英語ごっこ」の第一回をやることができました。
大学ESSと大きく違うのは、次の2点です。
1. 「ごっこ」であることを必ず毎回宣言してから始めること。
2. 英語ネイティヴ、帰国子女、留学経験者は参加できないこと。
この2点は、私にとっては非常に大事なものです。
1.は、万が一にも上祐みたいな「利口そうな馬鹿」を作りたくないから。
2.は、「英語がどんなに下手でもよい」という原則にとって、ネイティヴや帰国子
女は邪魔だからです。これらのネイティヴの感覚を体現した人々は、日本の英語
の初心者を萎縮させる作用があるためです。
いずれにせよ、この掲示板での議論が元になって、私の新しい試みが始まりました。
感謝しています。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
中学の頃は成績がよかったようですが、私が初心者あるいは英語習い始めの初期に属する人と考えているのは、この時期の人たちです。
中学の頃、80点とれていたなら、私よりずっと成績のいい生徒ですぜ。
あたしゃ、中学で、50点台あたりをうろうろし、高校では30点台、40点台をうろうろしたのですわ。
それで、大学受験自宅浪人をして、英語をやってみたのですが、もう、こんなものがんがん声出してやらにゃあどうにもならんだろうという勘がなぜかはたらいて、その勘に従ってやってみたら、いやあ、面白いじゃないか、英語!
私の初期あるいは初心者の時期がどこにあったのか、いまだよくわかりませんが、中学で50点とれていた頃にあったのだろうと思います。ボーダーさんでしたが、ボーダーさんは、英語の面白さというより、言葉の面白さに目覚めさえすれば、自分で勝手にどかどかやったのでした。
私が英語へ深入りする契機は、面白かったということがあるだけです。
金髪先生なども、私の契機ではありません。
中学・高校を通じて「怨師」にしか出会っておらず、金髪先生にも出会っておらず、それでも英語に深入りしてしまったのは、自分が生まれて育った過程にはなかった「考え方」が英語という言語にあると気付いて、それが面白かったからです。それだけです。
これと同じことを言っている文章を最近読みましたので、次の記事で引用します。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
西江雅之 「わたしは猫になりたかった」(新潮 OH! 文庫)から。
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その当時のわたしにとっての、さまざまな言語の学習の目的は、主に外国の詩に見られる表現が持つ本来の意味やニュアンスをしりたいためでもあった。
たとえば、フランス語では "野菜売りの商人" のことを "四つの季節の商人"
(marchand des quatre saisons) と言う。それを直訳して日本語にしてみれば「
"4つの季節を売る商人!" 、なんとフランス人は詩的で美しいことを言うのだろう」などと感心することになってしまう。しかし、それは正しいのだろうかと気になってしまったのである。この単語もフランス語では単なる”やおや”を意味するだけである。また、フランス人の側から見れば、「日本人の言うことはなんと詩的なのだろう。我々にとっては単に、”ヤオヤ”でしかないものを、日本人は”八百もの物を売る商人”などと美しい表現をする」ということになってしまう。日本では単なる”マンネンヒツ”も、アメリカ人は”泉の筆(fountain
pen)”などとしゃれて言う、アメリカでは単なる”ファウンテンペン”でしかないものを、日本人は”一万年ももつ筆”などとすごいことを言う、などと錯覚するようなことになってしまうのだ。
初め新鮮に思える言語の表現形式は、どんなものであっても二度、三度と使われれば驚きは少なくなり、それがごく普通に使われていれば、その形式が持っていたはずの背後の意味は消え去ってしまう。たとえば、”山下さん”などという姓名も、初めて接した時ならば、”山の下”で、確かに面白い。しかし日常生活の中で普通に使われていれば、それは単なる”ヤマシタ”という一名称に過ぎなくなる。いちいち聞くたびにその意味などは考えていないのだ。言語のこのようなところに興味を持ち、さらに別の言語での場合と比べてみると、なかなか興味深いことを発見する。
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私は西江のようにいろいろな言語をやった人間ではないのですが、日本語で育って英語の発想法に触れただけで、充分に面白かったのです。
イギリス人やアメリカ人がいちいち意識しなくなっている発想法が、日本語で育った者にははっきりと見えるということがあると思います。
そして、その発見が面白かったのだ、きっかけとしてはそれだけだと思い返すことができます。
「怨師」しか知らなかった人間にも、その面白さは直接的にわかりました。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
べらんめえに関しては、私もネイティヴではありませんが、時々書き言葉で
使用します。
べらんめえの書き言葉は好きですので、これからも読ませてください。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
>根石さんのシンタックスの解説、歯の抜けたお婆さんの例、素晴らしかったです。
大まかなところで理解していた積もりですが、よく分かりました。
ありがとうございます。
「イギリスの歯抜け婆さん」の話は、結構本気の話なんですが、誰もまともに反応してくれないのでした。初めての、評価をいただきました。感謝します。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
「にせもの論」をやろうと思って、少し書き始めましたが、私は原理主義者であるため、論理がやせ細る。論理は純化されるかもしれないが、やせ細る。それに対する嫌気があります。
で、今日、村田君に相談しました。
tiny sand さんからお借りして、コピーしておいた國弘正雄の古い方の「英語の話し方」という本があるが、まずこれを起点にして、この本にある記述を批評していったらどんなものか、読みながら、「ちょっと待て、この記述に関しては言いたいことがある」というものがみつかったら、それを村田君を相手にしゃべってテープレコーダーに録音する。村田君は、ときどき頓珍漢なことを言うが、それが私の頭がカッカするのを冷却する作用があるので、村田君に向かって話していると、なんか俺もまともなトーンで話せる人間になるという感覚がある。
来月から、水曜日に遠出していた教室を閉め、生徒さんに「電話でレッスン」を受けていただくことにしましたので、少しは時間に余裕ができるのではないかとにらんでいますので、来月になったら、村田君を相手にしゃべってみたいと思っています。
何回かやって、自分でテープ起こしをやり、女房に印刷させ、本にしたいと思っています。
さわりの部分は、この掲示板に時々掲載します。
面白そうだと思ったら、本が出来たときに買ってください。
村田君に印税を1割払い、郵送代を考えると、郵送代込みで1000円がせいいっぱいになるでしょう。紙代と女房の手間を考えて、何頁程度のものを作れば、赤字にならないのか。製本は外注になるし。
今度のやつは、出版社が食らいつくことはないだろう。
なにしろ、日本の英語学習における英語をまるごと「にせもの」呼ばわりするのだから。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
ときどき、ここへも書いてください。
皆さんに、ときどきリンクを提供していただくために。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
私の「電話でレッスン」のことを回りに広めてください。
私と妻で見切れなくなった時がきましたら、私の回りにいる英語ネイティヴ
の人(外人さんがほとんどです)に、「電話でレッスン」のやり方を教える
予定です。
そうなったら、<ヒマラヤ>クラスの方を、順に外人さんの生徒にしていこ
うと考えています。
私の空き枠はほとんど埋まっていますが、女房の空き枠はまだあります。こ
れが埋まれば、<ヒマラヤ>クラスの人から外人さんの生徒になっていただ
きたいと考えています。
まだまるで頭の中の考えに過ぎません。その時が来たら、外人さんに働きか
けようと思っています。
二冊目の「七年目の浮気」を私が手がける頃に、空き枠が埋まってくれたら
いいんだが・・・。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
>もう、こんなものがんがん声出してやらにゃあどうにもならんだろう
根石さんの英語論を沢山読ませて頂いてますが、私にはこの言葉が一番説得力ありました。 神経性下痢に悩まされる(?)くらい深く掘り下げた根石さんお英語論に対して、とても失礼ないい草だったかもしれませんが、詰まる所、そういう事ですよね。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/language/deutch_sodoku.html
英語をどのように学んだか
http://www.bestlife.ne.jp/business/eigo_manabu/eigo03.html
この方は とてもよい講師に出会えたと思います。
面倒くさく根気のいることを レッスンする力があるネイティブなら
金を払って習いにいく価値がありますね。
たんなるくっちゃべりに 一時間4,5千円払うのなら
その分 おいしいものを外食したほうがいい。
>Naimaさん 古川さんの掲示板での援護射撃有り難う御座いました。別人格に成り代わり御礼申し上げますm(_ _)m
>根石さん
私>
多くの非英語圏の人が基本的な英語を操れているのを見ると、それらの国
の学校英語は「様々な訛のESS英語」ではないのかと私は見るのです。
根石さん>
これは思い違いだと思います。アジアのいくつもの国は、政治的にまともに植民地にされたのです。
だから、英語が世代間で伝承されるのです。ESSなんかなくても伝承されるのです。
ぼろぼろにされた国というのはそういうものだと思います。
日本は根性だけが植民地です。まだ続いています。日本は、戦後、アメリカ文化を崇めたが、アジアの国が
蹂躙されたほどに蹂躙されていません。そのことの犠牲になったのが、沖縄です。
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その沖縄が、英語を話せる人が一番少ない(少なくとも基地関係者以外は)らしいんですよ。
沖縄は基地の町だから、英語を話せる人が多いと思われることが多いようなのですが逆だそうです。
私も横須賀でしたから、ジャガーズ(少し売れたグループサウンド、団塊ネタです!)のボーカルだった
同級生の岡本君をはじめハーフの子や親が基地で英語を使う仕事をしていた子が沢山いたのですが、
そういう子に限って英語が話せるどころか、学校英語もできませんでしたね。
ハーフの子は米兵の父親が帰国してるケースが殆どだったので、両親が家で英語で話すこともありませんから。
思うに、(元)植民地や基地のように、生きるために仕方なく使っている外国語は世代間の継承はされないようです。
むしろ反発が先に立って、親は使えるのに伝える気にならないので沖縄や横須賀の例があるのかも知れません。
私は、一年くらい二人のフィリピン妻に日本語を教えたことがあるのですが、彼女たちは大学に行ってないので、
英語は殆ど通じず苦労しました。向こうの大学だと授業は全部英語なんですけど、庶民レベルでは簡単なこと
しか言えないみたいです。
でも、彼らの夫が何万か実家に仕送りしているので、弟達が大学に行って英語で勉強しているんですね。
結局フィリピン人もお金持ちなんかは除いて、家庭はタガログ語で学校英語で英語を使えるようになるんです。
世代間の継承なんかではないようです。
で、Jackieさんのカキコでインドのことが気になったので、調べたらやっぱりインドも「習った英語」なんです。
ただ、向こうは15種類主な言語があって、方言を数えると千を越すので違う語族同士が結婚して、日本みたいな
外国暮らしをすると共通語は英語になるんですね。
その種の夫婦でもインドで結婚していたら、やはり地元の言葉を片方が覚えてそれが子供の母語になるのでしょう。
インド英語の問題は、根石さんの「学習した英語は偽物か?」を考えるヒントになると思って検索しました。
大まかですがインド英語の歴史、現状、教育、現地の言語の影響を受けている様々なインド英語の存在、参考文献
など興味深いことが書いてあります。参考になればと思います。
English Education in India→ http://www.mantoman.co.kr/issues/m035/m3509.htm
>いずれにせよ、この掲示板での議論が元になって、私の新しい試みが始まりました。
感謝しています。
あはは、挑発の甲斐がありましたね。これも「言葉が現実を動かせる」小さな例かもしれません。
大きくは言葉は戦争も起こし歴史も作るので、向こうの掲示板で相変わらずの「英語はコミュニケーションのツール」
なんて皮相的なことを言っている人には気がついて貰いたいです。
根石さんの昨日のカキコもレスしたいものがありますが、長くなるので今日はこの辺で。
http://www.izu.co.jp/~wizard/english/bbsres1.htm
10月になって、仕事に変化があるなど落ち着かない日々が続き
ごぶさたしております。
回転読みを始めて、まだ2ヶ月に満たないですし、本格的には
1ヶ月ちょっとですが、昔、使った英会話の教材をきいてみると
たいへんゆっくり読んでいるように聞こえたので、ああ、これは、
回転読みが効いていると実感しました。
そうなってくると、語いや文法をやらねばとせいてしまうの
ですが、まだじゃ、まだじゃ、音作りをし、それと意味を
結び付けねばと思っております。
発音を意識しているため、いろいろ気づいては、こんなことも
知らないとはと驚くこともあります。
例えば、singerとfingerのngerの発音は違うというような
黙字です。
http://www.memorize.ne.jp/diary/32/58212/
私の旧友が英語のブレークスルーを求めて、ただ今「回転読み」を密かに試しています。 私のホームページからべいべさんのサイトにお邪魔して、教材には何を使ってはるのかを聞いて欲しいと頼まれています。 お差し支えなければ教えてやって下さい。
恋人ファンさん
古川さんの掲示板へは滅多にお邪魔した事がないのですが、Eliotさん、浜谷さん、恋人ファン2号さんが投稿されていたので思わず、書いてしまいました...
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/language/deutch_sodoku.html
「英語の頭に変わる本」中田憲三著(中経出版)です。
英文を強弱のリズムのパターンで分類し、順に並べています。
順を追うにしたがって、パターンが複雑になっていきます。
こうなっていると語数順にやるのと同じような効用があります。
(とつい最近気づきました。これまではとびとびだったから)
amazonの書評や著者のホームページも参考になります。
こんな本を、こんなところがいいと思って取り組んでいるのだ
と参考にして下さい。
http://www.memorize.ne.jp/diary/32/58212/
早速のお返事ありがとうございます。 友人に大風呂敷を見る様にメールで伝えておきました。
早よ、英語で回転したいな...
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/language/deutch_sodoku.html
私の地元の友達の東京の友達が、地元の友達のところに遊びに来ていて、私と英語の話をしたことがきっかけになって、私の「電話でレッスン」の生徒さんになってくれた。昨日、初回のレッスンがあり、今日、メールで感想をいただいた。
東京の生徒さんが、私の地元の友達のところへ送ったメールの転写らしいが、うれしかったので、私がここに転写します。
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根石せんせい
昨日はありがとうございました。
いろいろと思ったことをお伝えしたいのですが、
今からでかけなくっちゃいけないし、
でも自分の気持ちは早くお伝えしたいので、
Nさんに送ったメールをそのまま送らせて
くださいませ。 K
N さん
ドキドキしたけど、何とか最初のレッスンを終了しました。
で、今日まで生きてきた中で、これまで全く使っていなかった
機能をフル回転させなくっちゃいけない事態の中に
自分を置かなくっちゃいけないことが判明した。
繰り返し作業は一番苦手なことかも知れない。
歌は、歌いたい時に口ずさむだけで、
繰り返しの作業の範ちゅうには入っていないもん。
自分は地道に生きていると広言してはばからなかったけど、
私の地道は世間の地道とは違うような気もしてきた。
でも、これまで使わなかった機能を使って動くことの
気持ち良さもほんのちょっとだけど感じた。
うまく言えないけど、きっと、これまでの英語の習得方法とは
全く異なる根石さんのやり方に、早くも初日から
手応えを感じたことと表裏一体だってことは分るよ。
K
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(メールでお返事すべきところですが、ここへ書いて、メールに転写させていただくことにします。根石)
「音のぶつかりあいの処理」は、文章のリズム、文強勢の問題と密接に関係しています。
Kさんが、「これまでまったく使っていなかった機能」というのは、日本の学校英語が「これまでまったく扱っていなかった機能」と言ってもいいので、「音のぶつかりあいの処理」を私の初回のレッスンで扱って、びっくりされたのは、Kさんもまぎれもなく日本の学校英語の犠牲者だということです。お話しした國弘さんの本とは違いますが、同じタイトルの本で古い版のものがあります。ここから少し引用します。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
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このように重要な要素でありながら、書物を通じてはなかなか身につけていただけないのが私の悩みです。(略)個々の発音ならまだ説明のしようもあるのに、全体の流れということになると、工夫のしようもありません。
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國弘さんは、これへの対処法として、バックグラウンド・ミュージックのように英語を流して「聞くともなしに聞く」ということを提唱しておられますが、この点は、上級者が初心者のことがわからなくなっている一点であるとにらんでいます。日本人の回りには、英語の音がいっぱい流れており、テレビを見ようがショッピングセンターに入ろうが、映画をみようが、英語の音は流れています。「聞くともなしに聞く」ということは、英語の音なんか聞きたくもないと思っている人でも避けられないくらいのものです。
國弘さんの「聞く能力」が、アメリカという磁場育ちのものであること。それが、日本で英語を始める人に、自然に「音のぶつかりあいの処理」を解決させるものではないことに対する國弘さんの盲点を作ってしまっていると思います。この記述の後で、國弘さんは英語で歌を歌うことも奨めておられ、それがリズムや文強勢の問題に有効だと書いておられます。確かに有効ですが、それは決め手にならない。Kさんも、英語で歌を歌うことが好きらしいですが、単語の最後のt音やd音の弱化などは、知識として持っておられたのではなく、歌のときには「ちゃんと」すっとばしていたt音やd音が、音読をすると復活してくるのです。
私は、「文章のリズム」や「文強勢」というとらえかたそのものが、語学に対して外在的であり、それを援用しているのが國弘さんの弱点だと考えています。すでにあらかじめ学者が提出したものを援用している。そして、「文章のリズム」や「文強勢」というふうにだけとらえた場合は、日本人にとってのそれらの問題は解決しないという理解をしています。
これに対して、私は、「イントネーションの自己決定力」というとらえかたです。同じことじゃないかと言われがちですが、「自己決定力」は語学において内在的です。とらえかたにおいて、違うと考えています。
國弘さんの上段の構えに対して、考えるための言葉すらも「自己決定」していこうと考えている私からの批判はあるのですが、しかし、初心者が読まれるべき本でもっともすぐれた本は國弘正雄の本であることは間違いないと思っており、私は機会あるごとにどなたにもお買い求めになるようお薦めしています。
また、理屈を言ってしまいました。
日本在住のままで英語力を育てていく場合は、英語力と同じだけ理屈も大事です。この点も日本の英語教育界は非常に軽視しています。日本の英語教育は今、「コミュニケーション」の大合唱をやっていますが、英語教育の犠牲者はこれまで以上に増えるでしょう。
民間に点在する優れた方法(決して英会話学校のことではありません)をうまく選んでいく力を持たなければ、これからの日本人の英語は、ますます学校によって駄目にされていくでしょう。
私の「電話でレッスン」は、濁流に立つ一本の杭のように孤独であります。
しかし、ご縁があり、この杭をお選びになったことを、不遜に聞こえてもかまわないので、お祝い申し上げたいと思います。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
> 國弘さんは、これへの対処法として、バックグラウンド・ミュージックのように英語を流して「聞くともなしに聞く」ということを提唱しておられますが、この点は、上級者が初心者のことがわからなくなっている一点であるとにらんでいます。
私はかつて主婦兼母親兼会社員兼通信大学生徒でしたので、ながら勉強に頼らざるを得ず、主にリスニングから英語の学習を始めました。 その頃、BGMの様に英語を流して"hearing"する方法が盛んに言われていたので、ずっとやって来ましたが、何時間もの聞き流しより、15〜20分程度のディクテーションの方が効果がある事を実感しました。 外国語はある意味で、「気合い」を入れないと修得出来ないものだと思います。「集中」しないと修得出来ないと思います。
この草稿の主旨に関係ないかもしれませんが、私はネイティブスピーカーと歩きながら話す、と言う事が出来ません。 「お天気いいわね」「どこを見物しようか」などと言う簡単な会話の事を言ってるのではありません。
頭の中でめぼしい店や観光地を探しながら、中身のある会話を英語でする事が難しいのです。 私は英語で話すのに集中力が必要なのです。 別に頭の中で日本語から英語に翻訳している訳ではありません。
私の英語の先生はネイティブスピーカーの講師の中でも相当な早口だと自分で言うくらい早口です。 彼が授業を離れて個人的に話す場合にはさらに早口になります。 彼の英語に慣れており共有する背景もあるからと言う事も手伝っていますが、彼との会話は成立する程度の英語力はついています。 ところが、登校時に駅付近で出会い、歩きながら喋っていると、自分が言いたい事が出来ると立ち止まってしまう事が良くあるのです。 慣れた道でもそうです。
日本語であれば複雑な会話を交わしながら、ちょっと自動販売機でコーラを買ったり、靴屋のウインドーの靴の値踏みをしたりする事も出来ますが、外国語はそうはいかないのです。 「ながらしゃべりが出来る」「ながら聞き」が出来るのは、英語資格試験などとっくに突き抜けてしまった雲上人の技の様な気がします。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/language/deutch_sodoku.html
>ところが、登校時に駅付近で出会い、歩きながら喋っていると、自分が言いたい事が出来ると立ち止まってしまう事が良くあるのです。 慣れた道でもそうです。
聴解力も当然落ちます。 聴く事にも集中しなければなりません。 そうやって聞く事に集中すると、前から来る人にぶつかったり、後ろから来る自転車に叱られたりします。
横からの口出し、すみませんでした。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/language/deutch_sodoku.html
下の2つの書込み、ポイントずれてますね... 最近、急速に斉藤化して来てます。
ぐちゃぐちゃ言うてんと回転しに行ってきます。
べいべさん、
友人のT子は、お勧めの本を買いに走ったと言う事です。 べいべさんの回転日記を読んで、一緒に回転するつもりらしいです。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/set_pages/main.8_sodoku.html
根石さん:
>しかし、初心者が読まれるべき本でもっともすぐれた本は國弘正雄の本
>であることは間違いないと思っており、私は機会あるごとにどなたにも
>お買い求めになるようお薦めしています。
うちの近くにある、しかし開店時間があわなくてめったにいかない本屋
にいったところ國弘さんの本が平積みに置いてありました。
珍しいことだと思ってよく見てみると横に根石さんの記事がありました。
Naimaさん:
>友人のT子は、お勧めの本を買いに走ったと言う事です。 べいべさん
>の回転日記を読んで、一緒に回転するつもりらしいです。
それは、とてもうれしいです!よろしくお伝えください。
http://www.memorize.ne.jp/diary/32/58212/
國弘正雄の方法は、「準備」に対する福音である。
國弘は、アメリカ滞在中の机上と磁場の往復に関してほとんど書いていない。
もっとも言葉にしにくいものを言葉にしていない。
「準備」としての練習が、そのまま自在な英語の活用に連続するという幻想を
まるで裁断することがない。この点では、凡百の英語使いと変わらない。
自分はアメリカで仕込み、日本に帰ってきて、君たちもまともに練習すれば、
こういう能力が身に付くよ、という幻想を与えてしまうことを避けていない。
あるいは、アメリカ帰りには、この幻想に対する抵抗感がなくなってしまうの
かもしれない。日本だけにいて、そんな自在な英語の活用力を本当に身につけた
場合、多くの人の精神が壊れることは見えないのか。在アメリカだからこそ、そ
れを身につけて精神が壊れなかったのだということが見えているのか。
國弘の大きな功績は、初心者に対して、「只管朗読」を提唱したことにある。
しかし、在アメリカでのもっとも言葉にしにくいことを言葉にしなければ、本
当は日本在住で英語をやる人に必要な言葉が届いていないことになる。
日本でやる英語とは、本質的に「準備」なのだ。
そして、多くの人が「準備」だけで、その英語の生命を終わりにするのだ。
あのつわものにそれが見えているだろうか。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
「回転読み」をやっていると、口の勢いで、自然に次の単語が口に乗るということを書いてくださいましたが、これは実は「回転読み」の大事な機能の一つだと思いました。
コロケーションの問題というのは、「口の勢い」で「自然に語群が口に乗る」というというようにする以外に解決の方法はないと思います。
「只管朗読」と「回転読み」以外に、これを解決する方法は日本にはまだないのではないかと思っております。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
>うちの近くにある、しかし開店時間があわなくてめったにいかない本屋
にいったところ國弘さんの本が平積みに置いてありました。
珍しいことだと思ってよく見てみると横に根石さんの記事がありました。
「根石さんの記事」というのは、私が「サピオ」に書いた書評のことでしょうか。
しかし、まあ、図柄としては逆だなと思いました。
私の本が平積みになっていて、その脇に國弘さんの推薦の書評があったらどんなにかうれしいことかと思います。
文庫本一冊書いただけのぺいぺいが、大御所の本の売り上げに果たして貢献できるのかどうか。その辺を書店員さんはわかっているのだろうかと不審に思いました。
まあ、でも、何がきっかけでもいいから國弘さんの本は売れて欲しいと願っています。
ついでに、「只管回転」を根本教義とする私の「電話でレッスン」に人々の目が向いてくれることを願っています。ひいひい言ってやってるのに、私は「電話でレッスン」で月収20万円に届かないのです。女房と二人でやってる分を合わせて、まあそこそこかなっていうレベルです。こりゃまた、つらい。
で、雑貨屋をやることを考えちゃったりしているわけです。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
>>國弘さんは、これへの対処法として、バックグラウンド・ミュージックのように英語を流して「聞くともなしに聞く」ということを提唱しておられますが、この点は、上級者が初心者のことがわからなくなっている一点であるとにらんでいます。
>私はかつて主婦兼母親兼会社員兼通信大学生徒でしたので、ながら勉強に頼らざるを得ず、主にリスニングから英語の学習を始めました。 その頃、BGMの様に英語を流して"hearing"する方法が盛んに言われていたので、ずっとやって来ましたが、何時間もの聞き流しより、15〜20分程度のディクテーションの方が効果がある事を実感しました。 外国語はある意味で、「気合い」を入れないと修得出来ないものだと思います。「集中」しないと修得出来ないと思います。
國弘さんは、リスニングの練習法として、「聞くともなしに聞く」ことを勧めているんではなくて、英語の「リズム」や「文の強勢」を半無意識に刷り込む方法として勧めています。
これに関して、俺はどうして英語のイントネーションを自己決定できるようになったのだろうと考えてみたことがあるのですが、どうしてもわかりませんでした。いつの間にか自分の半無意識にしみこんでいた漠然とした「リズム」や「文の強勢」が、「回転読み」という動態の中に出てきたのだとしか思えませんでした。特に「リズム」や「強勢」を練習したことがないのですから、「回転読み」がきっかけで自分に根付いたものと思われます。
國弘さんも、「流し聞き」なんか勧めないで、「只管朗読」と「只管回転」を組み合わせることを勧めるのがいいと思ったのでした。「流し聞き」なんて、日本人はすでにみんなやっている。いやでも英語は耳に入ってくるのだから、半無意識にはみんな「リズム」や「強勢」は知っている。それを自分の口を動かす動態に持ち込むかどうかが本当のポイントで、だったら、「流し聞き」と「只管朗読」を同じテキストでやるのがいいと勧めるのが筋だと思います。この本が出た当時に、「回転読み」の「回転」というモメントはまだ世の中になかったので、「只管朗読」と「只管回転」の組み合わせは無理だったとしても、「流し聞き」と「只管朗読」の組み合わせとすべきだったと思います。
「流し聞き」は、必要条件ではあるが、決して十分条件にならない。
「流し聞き」+「只管回転」+「只管朗読」
これなら、十分条件を形成すると思います。
「電話でレッスン」というものを受けてくださっている生徒さんは、自然にこの組み合わせに気付いてくれるのではないかと思います。特に、「イントネーションの自己決定力」を作るというところで、この組み合わせをやってくださる生徒さんは伸びると思っています。「電話でレッスン」に則せば、
「映画を観る」+「技法グラウンドによるテスト(に合格するための練習)」+「只管朗読」
となります。
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「電話でレッスン」の生徒さんに
「映画を観る」+「技法グラウンドによるテスト(に合格するための練習)」
はレッスンを受けておられるだけで、やることになりますが、「只管朗読」は、自覚的に取り入れていただく必要があります。2ページ見開き程度を単位にしてやられることをお奨めします。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
Naima さん
>だったら、「流し聞き」と「只管朗読」を同じテキストでやるのがいいと勧めるのが筋だと思います。
これを実は Eliot さんがやっておられます。
教師用CDの本文のみを、授業の度に教科書一冊分生徒に聞かせて、音読でどう口を動かすのかを指導されています。
イントネーションの獲得法に関しては、國弘よりも Eliot さんの方が先に出ているということです。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
私の文章における「只管朗読」とは、ある程度まとまった量のもの(教科書の一課分など)をひたすら朗読するという意味です。これは國弘正雄自身の定義と食い違わないと思っています。
「只管回転」とは、「回転読み」の技法によってなめらかに正確に読めるようになったものを、なおも「回転読み」するということです。
また、「回転読み」が「只管朗読」と違うのは、「一つの文にとどまる」という点です。このモメントは、実は國弘の古い版の「英語の話し方」にもあります。文法書に載っている文をひたすら読んだという記述がありますが、それは必然的に「回転読み」に近いものとなるのではないかと推測しています。そうであれば、國弘はそうと名付けないだけで、「回転読み」に近いものをやっていたことになります。
私が「回転読み」をみつけた時、國弘という人を知りませんでした。仕事で、「サピオ」という雑誌から書評を頼まれるまで、読んだことがなかったのです。だから、私の「回転読み」を國弘の「只管朗読」との関係で考え始めたのは、50歳を過ぎてからということになります。
私が19歳でみつけた方法と非常によく似たものを、50歳になって國弘正雄の本の中にみつけたということです。
小学館文庫「英語どんでん返しのやっつけ方」を書いた時点でも、私は國弘正雄を知りませんでした。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
>私の英語の先生はネイティブスピーカーの講師の中でも相当な早口だと自分で言うくらい早口です。 彼が授業を離れて個人的に話す場合にはさらに早口になります。 彼の英語に慣れており共有する背景もあるからと言う事も手伝っていますが、彼との会話は成立する程度の英語力はついています。 ところが、登校時に駅付近で出会い、歩きながら喋っていると、自分が言いたい事が出来ると立ち止まってしまう事が良くあるのです。 慣れた道でもそうです。
これは高度なことを言っているのだと思います。
「言いたいこと」っていうのは、本当に英語で言うのは難しい。私も、英語で言いやすいことを英語で言うっていうのではなく、自分の中に生まれたばかりの「言いたいこと」を英語で言おうとすると極度な困難を覚えます。それで、毎度思うことは、「日本語でしか言えないことがある」し、「英語でしか言えないことがある」です。
「言いたいこと」っていうのは、日本語でなら「なんとか言える」というくらいのものです。本当に言いたいことっていうのは、日本語でだって「なんとか言える」っていうものじゃないかと思うことがよくあります。日本語でだって、「なんとか言える」程度のことを英語にするのは、極端に難しいです。私が生きている間にそれができるようになるとは思いません。そんな程度の英語だけ使って私は死んでいくようになっているのです。
歩きながらそれをやろうとすると、足が止まってしまうというのは重要なポイントなんでしょうか。私は経験がありません。歩きながらする話は、「適当な、ぼやけた、まあどうでもいいような話」ばかりであるせいかもしれません。
私は、座って話しているのでも、「言いたいこと」を言おうとすると、金縛りになったような感覚はよく生じます。「くそ、言えない」「くそ、言えないぞ」「言いようがないぞ」と思う不自由な感覚は強烈にあります。その不自由な思いを表情から消す努力はしないので、ウドあたりはお前はこういうことを言いたいのかと助け船を出すことがあるのですが、うん、まあな、だいたいそんな感じかなでお茶を濁しているのが実状です。いや違う、似ているけれども違うと言うこともあります。
私には、主言語と副言語という考えがあるのですが、主言語を英語に置き換えて少なくとも数年は英語の磁場で言葉と自分の考えを摺り合わせる作業をしないと無理なことなのではないかと考えています。
私は、主言語を英語に置き換えたことが一度もない人間です。今後もその予定はありません。
その問題なのではないかと考えています。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
Naima さんの記事に古川さんの掲示板のことがあったので、久しぶりに読みに行きましたら、私のホームページのことを紹介していただいてあるのに出会いました。
ありがとうございます。
インドの英語のことですが、リンクを教えていただいて読んだら、英語を使うエリート層が3パーセントと書いてあったような覚えがあります。(昨夜、もうろうとしながら読みました)。この3パーセントはまともな英語をしゃべるのではないかと思いました。
この根元に、イギリス側からインド社会が見えるように、官庁、裁判所などの使用言語を英語にしたイギリス側の都合があったでしょう。イギリス本国に利益が吸い取る場合に、肝心なところの使用言語を英語にしたということがあったでしょう。インド人の都合ではなく、イギリスの支配権力の都合です。
アジアでもっとも英語が根付いたのは、インドなんじゃないかと思うのですが、エリートの3パーセント以外にも、町で拾うブロークンな英語をしゃべる人がたくさんいると思います。インドとネパールは事情が違うだろうと思うのですが、私がネパールで乗った人力車を牽いた少年は、年を聞いたら13だと言っていました。ブロークンな達者な英語をしゃべりました。調子のいいやつでした。
花の種を買いたいが、種を売っている店を知っているかと聞くと、「知ってる、知ってる、連れて行くから乗れ」というので乗ったのですが、実は知らなくて、途中で人力車をとめて、通りにいたおばちゃんに種を売ってる店を知らないかと聞いていました。このやろと思ったのですが、まあ店につけばそれでいいかと思い、そのまま乗っていたら、よく店の位置がわからないまま人力車を引っ張りすぎて、店の前を通り越し、数百メートル行き過ぎました。それでまた人に聞いて、店の前まで戻りました。その時の言葉は、英語ではありませんでした。店に着いて中に入ると、パンジーだのデイジーだの、日本のどこにでも売ってるような花の種しか売っていなかったので、店からはすぐに出ました。
それでまた人力車に乗ったのですが、人力車を拾った場所まで戻る途中で、坊主は店の場所を教えたおばちゃんにつかまり怒られていました。教えた店の前を通り越して、行き過ぎたのを見られていたらしい。私は、人力車の上から大笑いしていました。それで、元の場所に戻ったら、余計に引っ張ったから、余計に金をくれと言うので、あほうと日本語で言いました。でも、余計にくれ、くれ、くれ、と言うので、ノウ、ノウ、ノウと言いました。
途中で、お互いになぜだか笑い出して、私はこの坊主の頭を軽くげんこつで撫でてやりました。約束の金に少し色をつけて渡したら、しぶしぶと受け取って、明日もここにいるから明日も来て乗れと言いました。そういう話は英語でしたのです。
この坊主の英語は学校で習ったものではない。だいたいが、13歳で人力車をひいていて、学校になんか行っていないのです。小学校にだって行っている気配のない子供が町にたくさんいます。この子供たちが英語をしゃべるとすれば、町で拾って覚えるだけです。
インドの町にもこの種の英語はあるのだろうと推測するのです。ネパールよりももっと厚い英語の層があると思います。世代間で伝承されるということが、親子という世代間ではなく、町で人と話して覚えるみたいなことなら、伝承は生じるでしょう。
昨夜読んだ記事にも、人は町で英語にさらされる機会が多いとあったと思います。話すことの当事者として英語を使う機会が多いなら、伝承になると思います。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
イギリス本国に利益が吸い取る場合に
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イギリス本国が利益が吸い取る場合に
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
根石さん、
私はどうもまだ根石さんの英語論を充分に理解していないみたいですみません。 でもスカタンな質問に答えて頂く度に薄皮を剥がす様に「あ、そうか」「あ、そういう事やったんか」と分かって来てますので、気長におつきあい下さい。
歩きながら真剣な話をした事ないですか?
>「くそ、言えない」「くそ、言えないぞ」「言いようがないぞ」と思う不自由な感覚は強烈にあります。
私と根石さんの思考の深さには雲泥の差があると思いますが、そういう経験は多々あります。 私の先生は「う〜ん、う〜ん」とうなり声を上げるだけの私に "Just get it out."と良く言います。 「言い切れなければ、自分が納得の行くまで、手をかえ品を代えて言ってみな」と言うのです。 しかし、言っても言っても自分の思いとか考えとかとは微妙に違うので、相手が「わかる」と言うと「違うねん、そうやないねん、言いたい事はもっと他の所にあるねんっ!」と鬱憤を溜めてしまいます。 それでますます「英語やりたい」と泥沼に足をズブズブと突っ込んで行ってる様な気がします。
ドイツ語で胡瓜をGurkeと言うのですが、この胡瓜は唖然とするくらいデカくて、日本のとは全然違います。 "Gurke"を「胡瓜」と訳してはいけないんやないか、と思う事があります。
簡単な事でこうもイメージが違うのだから、英語と日本語がぴたりとくっつけられる訳がありません。 ネイティブスピーカーの方も英語で日本人と会話していると、「本当の所が通じているのやろか、と不安になる事がある」とも言ってました。
ペラペラ流暢にしゃべる人は、一見、英語の使い手の様に見えるけれど、自分の言いたい事と英語で言ってる事のギャップに目を瞑っておれる人かも知れません。 私のやっかみかもしれません。 よく英語をしゃべる人の中には「それ英字新聞やニュース記事の受け売りやんか、自分の考えはどうなんよ」と言いたい様な人もいます。 「手持ちの英語力で間に合わしてるだけやんか」と思える人もいます。
>私には、主言語と副言語という考えがあるのですが、主言語を英語に置き換えて少なくとも数年は英語の磁場で言葉と自分の考えを摺り 合わせる作業をしないと無理なことなのではないかと考えています。 もしおっしゃる様に、磁場で主言語と副言語を置き換え言葉と自分の考えを摺り合わせる作業をすれば可能なのであれば、今にもそうしたいくらいです。
私はチャラチャラと英米人と会話を楽しみたいわけではありません。 で、そういう会話を持った事もないです。 なるべくなら自分の気持ちとズレのある言葉を発したくはありません。 お茶を濁したままで済ましておきたくはない相手もいるわけです。
根石さんは、やはり、磁場のない所での英語と自分の考えの摺り合せ作業は不可能だとお考えですか?
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/language/deutch_sodoku.html
外国語って、そういう事なんでしょうね。 ほんま切ないです。
>そんな程度の英語だけ使って私は死んでいくようになっているのです。
私も、そんな程度の英語だけ身に付けて死んでいく様になってるんだと思います。 足腰が立たないので ジリジリッ、ジワジワッ、と匍匐前進しながら、いつかパタッと息絶えるのか...
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/language/deutch_sodoku.html
ちょっと語呂合せしてみただけで、深い意味はありません。
根石さんは、大学受験勉強の時、回転読みや電圧装置にどれくらいの時間配分をされましたか? 「どんでん返し...」に書かれていたのかもしれませんが、手許にそれがありませんので。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/language/deutch_sodoku.html
外回りの仕事の帰りに、ウドの店でちょっとひっかけてきました。
今日の昼間、びっくりしたことがありました。何か言いたいことがあって、女房に「あのさあ」と呼びかけたのですが、一秒ほどの間に何を言いたかったのか忘れてしまい、「何だっけ?」と女房に聞いても女房が知るわけもないのです。
ああ、びっくりした。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
>根石さんは、やはり、磁場のない所での英語と自分の考えの摺り合せ作業は不可能だとお考えですか?
英語、というか、何語でもいいですが、自分の考えと摺り合わせて、それがリアルな言葉になりうるのは、それを主言語としている言語においてだろうと思っています。
イギリスにいる日本人で、英語で小説を書いている人がいるそうですが、この人も日本に帰って日本語で生活を始めたら、英語で小説が書きにくくなるか、書けなくなるはずだと思うのです。日本語で育った人が、日本で英語で小説を書く必然は何もないし、やれるはずもないということは、日本語を主言語とする人には日本語の中では本当の意味で英語で考えるということは成立しないということだと思います。
これは文学に限らない。用を足すというレベルではなく、ぎりぎりの自分の考えを練るには、磁場における主言語という条件は絶対的なのだという考えです。
自分の考えなどと私も気楽に言いますが、人間がぎりぎりのところを考えるとき、考えというものは、「自分」とか「私」の所有物であるようなものとはまるで違うと思っているのです。むしろ、考えというものの方が主体であって、「私」や「自分」を使役するのだ、と。この主客の逆転が生じても、なおも考えを続けることができるのは、磁場というものが下支えしてくれるからなのだと思います。この下支えがなかったら、人間は簡単に壊れると思っています。
こういうところでは、自分に自然にしみ込んだ言語しか使い物にならず、学習した言語などは実に無力なのだとも思います。
イシグロというイギリスの小説家が、どんな過程でその体に英語がしみ込んだのかについては、知らないのですが・・・。たとえ、学習した言語であっても、その後にしみ込んだものの厚みがないと使い物にならないと思います。この人に、英語がしみ込んだ年齢というものも無視できないポイントだと思います。
イマジネーションのような個の意識を場として生じるものに根元を求めても、それは実に希薄な言語にしかならない。語学の机上で作れるものは、この希薄なものでしかありません。
「胡瓜」という単語ひとつでも、私たちはその語義を使用しているという気でいるかもしれませんが、実は使っているのは、語義に感じている歴史の厚みというものだとも思うのです。語義が辞書の定義としてのものだけでなく、人が使う場での生きた感覚をも含むのであれば、その背後にはその一語の歴史というものがあり、使う場での生きた感覚というものの中には、その歴史の厚みが生きているのだとも思います。
このことは、単に語についてだけでなくて、シンタックスというものにも言えると考えています。ネイティヴ話者になった人というのは、生まれてまもなくの言葉を覚えていく幼児の体に、そのシンタックスの歴史の厚みをも受肉するのだと思うのです。
そんな厚みは、語学の机上では逆立ちしても手に入れることはできないのだという認識を持つに至ったことが、語学をやったことの成果であるというような逆説めいた思いがあります。
しちめんどうな話で申し訳ありません。
http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
たいへん、ご無沙汰しています。
ところで、回転読みのなかに、時間という概念は
どこまで、明確に意識されていますでしょうか?
ネィティブが1秒で読む英文を
日本人が1秒を切って、ネィティブより速く読む練習と
日本人が、1秒以上で読む練習とでは
おのづから効果は違ってくるとおもいます。
パクパクさん、根石さん、
いつもの「お口あんぐり」もののバカな質問になると思うのですが...
ネイティブスピーカーより速く読む練習をしなければならないとしたら、私は100回転読みしたぐらいでは到底無理です。 ドイツ語のフォネティクスのワークブックとCDを探している所なのですが、今は発音を1つ1つ大事にしながら音読している状態です。 100回転するとCDのスピードと同じくらいには言える様になりますが、r音やl音は英語とはまた違った難しさがあって、これらの音を誤魔化さずに言うのはまだまだ困難を覚えています。
まだ音作りもきちんと出来ていない私の様にごく初歩の段階でネイティブスピーカーより速く読む事に何か意義があるのでしょうか?
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/set_pages/main.8_sodoku.html
中島義道『たまたま地上にぼくは生まれた』(講談社)から引用。
「ディベーティングは、科学的な態度に近くて、アメリカ人なんか好きなようですけれども、弁護士の教育ですね。ソフィストといって、ソクラテスが一番嫌ったものです。つまり、いつも議論に勝つように教育するわけです。・・・討論術の授業を受けて、勝たなければ優等生にはなれないわけです。・・・内容はなんだっていいんですね。・・・いつも勝てばいいわけですから。『ゴルギアス』でソクラテスはそういう話を非常に明確に言っていまして、勝つか負けるかということにかかわるんだったら、私は一切あなたとお話しません、というような言い方をします。だって、ソクラテスは真理を求めているんですから、負けたって場合によってはいいわけですよね。・・・それは真理なんですから・・・
対話とは・・・相手を打ち負かすことが目標ではなく、・・・自分の実感とか身体というものを、かけがいのない自分の言葉、ニーチェによると「血の言葉」・・・をもって、ぶつかっていくことです。・・・負かされても、・・・何かがわかるようになるからいいわけです。これがディアレクティケという弁論術、あるいは弁証法の基本です。」