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KAOKIさんとの英語談義



 お偉い方々の誤訳を指摘し続けるKAOKIさんとメールで交わした英語談義の抜粋です。kaokiさんのホームページへは、次のリンクをたどって下さい。

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(KAOKIさんから)

わたしのホーム・ページの巻頭言に載せているのですが、読者からの反応がまだ無いのでここでその要点を述べてご批判を仰ごうかと思います:

今年7月に岩波書店から鈴木孝夫著「日本人はなぜ英語ができないか」(岩波新書622)が出版されました。最近の英語ブームに釘を刺し水を差す内容---日本人は全員英語を習う必要は無い、ほんとに必要な人だけが学べば良い、だから、中学・高校の必修科目に入れなくていい---という(煎じ詰めれば、そんな)内容。つまりエリート教育に徹せよと言っているのですが、この方は、昔からこういう議論を展開しています。勉強する気のない生徒に英語を教えても時間の無駄だとまあ、そいうようなことを言ってます。「ほんとに必要」と何時の時点で本人が気づくのか?というのが大いに疑問なところです。
万有引力の式などは、日常生活には無関係だから、教科から外すべきだという論議に似たり寄ったりというわけですが、少なくとも英語に関しては日常生活に無関係ではあり得ないので、鈴木氏にやすやすと同意するわけには行きません。

さて、見方を変えて、この鈴木という方はこんなタイトルの本をお出しになるのだから、よっぽど英語達者なのだろうと、新書で唯一英文を引用しその御自分の訳を載せている部分を点検してみました。(151頁)

"She wouldn't stand any nonsense. She'd got a way of fixing a person with her eye -- and the person wilted -- just wilted."
鈴木訳:「リディアはどんな馬鹿なことも許しません。彼女特有のしかたで、相手を視線で釘づけにするんです。...........」

ここで、問題は、'had got a way of fixing = had a way of fixing' の訳し方です。
これは' had a habit of fixing.....' , 'had a typical behavior of fixing...',or ' often fixed.....' , の意味であり、何処を探しても、”彼女特有の”などという表現はありません。わたしは最初、wayに不定冠詞が付いていたので、あれ?と気づいたのです。彼女がよくやったのは相手をじっと睨むこと で---机を叩いたり、呼び寄せてしかったり、あるいは大声で怒鳴ったりはしなかった。ということだと思います。如何でしょう?

お分かりの様に、鈴木氏は英語に対して真摯に取り組んでいるとは思えません。唯一の引用で、こんな訳を載せているのですから。つまりわたしの言いたいのは、新書のタイトルで世を混乱させる前に、鈴木氏がやるべきことは、御自分の英語力を再点検されては、つまり日本人一般ではなくて、御自分はなぜ英語ができないか?と問うて見ることではないかということです。

如何でしょう?わたし間違ってますか?

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(根石から)

ko-kaoki> 今年7月に岩波書店から鈴木孝夫著「日本人はなぜ英語ができないか」(岩波新書622)が出版されました。最近の英語ブームに釘を刺し水を差す内容----日本人は全員英語を習う必要は無い、ほんとに必要な人だけが学べば良い、だから、中学・高校の必修科目に入れなくていい---という煎じ詰めれば、そんな)内容。つまりエリート教育に徹せよと言っているのですが、この方は、昔からこういう議論を展開しています。

 英語を使って仕事をするのと、人に英語がわかるようにするのとではまるで違う仕事で、私は後者をやってきました。鈴木さんも同様です。その仕事では、大きな落胆というものを繰り返し味合わされました。絶望とは言いませんが、落胆はとても大きいものがあります。その落胆の場所からの発言として聞けば、鈴木さんの本には、私にはうなづけるものが多くあります。

ko-kaoki> 「ほんとに必要」と何時の時点で本人が気づくのか?というのが大いに疑問なところです。

 これはほんとにそうだと思います。私のまわりで英語を習っている大人の人にも、学生時代には、自分には英語は必要ないと思っていたが、仕事上、あるいは生活の上で、急遽英語が必要になった、だから英語を習っているという人が何人もいます。

 しかし、鈴木さんの言い分が通ってしまっても、大丈夫だと私は思っています。学校という制度の中にある英語は、これまでも十分に無力なものでしたから、学校から英語がなくなってもどうってことはない。英語をものにした人たちは、学校を何らかのきっかけにしたかもしれないけれど、煎じ詰めれば、自分で英語力を作った人たちのはずです。一人で繰り返し言い続けるような努力、英語の単語ひとつをイメージの磁場に変える努力によって英語をものにしたはずなんであって、語学というのは、あくまで一人の人間が一人になってやることだと考えています。本当は学校は関係ないんだという意見です。だから学校なんかで英語を扱っても扱わなくてもどっちでもいいというのが私の考えです。

 しかし、それにしても膨大なエネルギーの損失があります。長いこと英語をやって、英語が使える「はず」なのに、実は使えないという人が「普通」なのですから。日本全体で考えれば、恐ろしいほどの人的エネルギーの損失があります。

 「使える」とか「必要」とかの実用性から離れて、語学は、イメージを駆使したり、イメージを変容させたりすることを遊ぶだけでもいいんだと考えれば、一挙に損失を損失でなくしてしまえると思います。いくら使えない日本人の英語でも、個々のイメージ形成力を強めていると考えるなら、これは沃野です。
 戦後の日本が実用性をばかり見ているから、日本人の日本英語を馬鹿にしてきました。
 洗濯の必要があると考えています。
 ジャパニーズ・イングリッシュという言葉そのものに、そこに卑下の響きがなくなるまで洗濯する必要がある。私も洗濯しています。

 学校の制度をどういじるかというようなことより、一人の人間が一人になって行う練習のそのやり方自体についてものを言うことの方がはるかに大事だと考えます。

学校で英語を扱おうが扱うまいが、英語を必要とする日本人は増えていくでしょう。このことは、すでに学校の中の英語というものを超えてしまった何かです。

ko-kaoki> さて、見方を変えて、この鈴木という方はこんなタイトルの本をお出しになるのだから、

 このタイトルは私は気に入っています。
 こういう本はもっと出るべきです。
 本当に、なぜ日本人はこんなにも英語で苦労するのかと、私も考え続けてきました。
 鈴木氏は文化一般の中にその答えをみつけようとされており、異言語を内部にもたなくて済んだ昔からの日本の政治的な状況などをあげておられます。これは、一度は指摘されるべきものだと思いますから、鈴木氏に一応の敬意は払ったうえで、それでも、鈴木氏がかなり浅いところから水を汲んでいるというのが私の批判です。

 日本人が英語で苦労する理由は、日本語で日常生活を送っていること、つまり日本語自体の中にあるのではないかと私はにらんできました。

 英文法でいう主語と目的語の位置がもっとも目につきやすいもので、英語をやるには、日本人より中国人の方が向いていると言われるのも、この主語と目的語の位置の違いや同致に目をつけたものです。この目のつけかたでは、まだ語順という観点にすぎません。

 否定語はどうでしょう。
 日本語では、長い長い文の最後に、「ない」とひとつ加えれば、それまでの論述なり、主張なりが全部、肯定から否定にひっくりかえります。話を最後の最後まで聞かないと、本当のところはわからないという言語構造を、日本語がもっています。そうなると、日本人は、相手の言い分を、肯定的な論述なのか、否定的な論述なのかを留保したまま、相手が肯定・否定を文の最後に決定してくれるまで待ち続けるという心の姿勢を自然に身につけます。日本人の reserved な心の姿勢というものは、こういう言語構造そのものから来ているのではないか。もしも、そこに道筋があるなら、言語構造そのものが、その言語を使う人々の心性を形成するということが言えるでしょうし、そうして形成された日本語による日本人の心性が英語に対しては非常に異質なものになっているとも言えるのではないか。
 言語構造は、心の構造でもあるんだというのが私が目をつけてきたことです。しかし、どうにもうまい言葉がみつからないので、私は「シンタックスの違い」と言ってきました。単なる文の要素の語順という平面的な違いではなく、心性を決める要素までも含めた文全体の構造の違いというような意味です。

 肯定や否定は、英語でなら、動詞が現れるとき、ほぼ同時に決定されます。論理というものを先だてて、言語を評価するなら、英語の方がよほどすっきりした論理向きの言語です。

ko-kaoki> 鈴木訳:「リディアはどんな馬鹿なことも許しません。彼女特有のしかたで、相手を視線で釘づけにするんです。...........」
ここで、問題は、'had got a way of fixing = had a way of fixing' の訳し方です。

 私も、大して英語ができるわけではなく、語法のそれぞれのイメージについては、結構自分なりに勝手に決めたイメージを持って、それを、英語をやり続ける過程で徐々に修正しているというのが実態です。もうなにもかも修正する必要がないほど英語に習熟したという段階は、私の生きている間には私を訪れることはないでしょう。なぜなら、私は日本で、日本語と英語をつきまぜて今も暮らしているからです。

 英語の語法のイメージの変容過程そのものを、日常言語の日本語がとりまいているという私の言語事情は確実にあります。その場所から動く気が私にはありません。

ko-kaoki> お分かりの様に、鈴木氏は英語に対して真摯に取り組んでいるとは思えません。唯一の引用で、こんな訳を載せているのですから。つまりわたしの言いたいのは、新書のタイトルで世を混乱させる前に、鈴木氏がやるべきことは、御自分の英語力を再点検されては、つまり日本人一般ではなくて、御自分はなぜ英語ができないか?と問うて見ることではないかということです。

 私は、鈴木さんは真摯にとりくんできたのだと思います。誤訳は単に誤訳の問題であって、日本人一般ががなぜ英語がこんなにできないのかということの指摘は、英語なんぞまるでできない人が行ってもかまわないのです。英語ができなければ、英語についてモノを言ってはならんということはなくて、誰が何を言ってもかまわない。ただ英語がわからない人が英語についてものを言おうとすると、一挙にとてつもない困難におちいることが目に見えているだけのことだと思います。
 すでに書きましたが、この新書のタイトルは秀逸だと私は思います。誰かが一度ははっきりとものをいうべきことがらです。

 ただし、鈴木さんが、本当になぜ日本人はこれほどに英語ができないのかの原因をはっきりさせてくれたとは思っていません。
 政治事情や文化事情は、例記すべきことですが、それだけを羅列した書物であり、本の出来としては粗雑な出来だという印象は否めません。
 それでも、提起された問題は非常に重要な問題です。

 私たちの論議を深めるためには、非常にいい叩き台になる。少なくともそれだけの機能は確実に提示してくれたという功績はあります。

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(KAOKIさんから)


とくに根石さんのご意見に異論はありませんので、話を一歩進めたいと思います。

新書を読み通された由。
わたしは少し歳をとり最近では丁寧に本を読むのが億劫になってきました。ですからどちらかというと、自分のロジックに合わせて都合の良い部分だけを抜き出して論評したりします。ですから根石さんが隅々まで新書に目を通されたことに尊敬の念を覚えます。マジで。

ただ、鈴木氏の結論は水で洗い流して細かい補足を取り除きますと、ざるの上に残るのは結局、基本的な姿勢として、

(1) 英語を本当に必要とする人を選んでエリート教育するべき。
(2) それ以外の英語教育は時間の無駄。
(3) 日本をテーマとした英語の題材を選ぶべき、英語圏の 題材は不要。
(4) 自分の思いを発する英語を学べ。

そして、英語の上達には、

(4)自己表現を主体とせよ。
(5)英語を声を出して読め。
(6)自分が英語が出来るようになりたい理由と目的意識を はっきりせよ。
(7)テキストは日本のことを題材としたものを選べ。
例えば、日本の小説の英訳本など。あるいはTheJapan Times。

以上、こんなことかなと横着に纏めてみました。

"have a way of" について一言添えますと、鈴木さんという人は言葉に対して細やかではないなという感じをわたしは持ったのです。つまらないように思えるところに、ひょいと、そういうものが表れるのです。
これは、英語専門家の英語本にずーっと目を通してきたことで感じることです。鈴木さんは英語に対してなにか、ル・サンチマン的なものを抱いており、対決の姿勢をとっているように思います。それだけに、自己流に陥って自分の中にある日本語の意識に流されて英語に対する目が濁るのだとそう感じました。大袈裟ですが。英語専門家は多かれ少なかれそうみたいです。英語を征服したんだ、という自負が逆に表れていて、素直さが消えているのです。”彼女独特の”という原文にないものを勝手に生み出しているわけです。

さて、ネガティブな新書のタイトルに対して、英語上達には?としてあげられた(4)-(7)がいかほどのインパクトがあるのかなという気がします。わたしはむしろ鈴木さんよりも国粋主義的です。The Japan Times の社説に、広くて大きい広場の比喩として、「米国のHoustonにある”アストロ・ドーム”ほどの広さがあり」と書かれていたのを話題にしたことがあります。日本で発行しているのに、どうして「皇居前広場みたいに」としないのかと。そして、日曜版にJapan Liteを書いていらっしゃるShavezさんにお伺いをたてたことがありました。彼女は、(米国出身)「わたしも知らない。多分、社説はNYで書かれたのではないか?」ということでした。The Japan Timesは、英語圏文化に汚染されているのです。まあ、鈴木さんが言ってるのは、単に、日本の出来事を英語にしたものなら理解が早いということを言ってるだけですが。

さてさて、また、別の本を引用して申し訳ないですが、学校で英語を学ぶ生徒がどうして英語に対する興味を失って行くか?ということも含めて纏めた本があります。天満美智子さんという方が表した本ですが(いま探したけど出てきません)、要は教師に責任があると書いてあったような気がします。中学校時代で初めて触れる語学(英語)の先生の良し悪しで、その後の生徒の勉強意欲が決まってしまうというのです。

中学校、高校の教師で、英語に対して熱意を持ち、しかも優秀な先生が必ずしも全ての学校に居るわけではないということが問題だと思うのです。ウェブで知り合った高校の先生は課外活動や雑務で忙しく、家に帰ればビールを飲んで寝るだけで、大学以降の勉強がストップしてしまっているということでした。また、毎日熱心に英文の記事を和訳してHPに掲示している関西の英語の高校教師がいましたが、その和訳のおかしな点を掲示板で指摘したところ、即、掲示板を抹消してしまいました、そして、メールで、迷惑だと言ってきたのです。ウェブでそういう活動をしている(熱心な?)先生ですらそんな風でした。自信がないのです。要するにレベルの高い先生が揃っていないのでは?だから、学ぶ方も意欲が湧かない、そういうことではないかと。

鈴木先生が新書を出すずっとずっと昔、吉田健一は(講談社文芸文庫、英語と英国と英国人:昭和30年頃の随想集)、英語上達法の項で、「英語というのは絶対に覚えられないものであるから、そういうことは初めから諦めた方がいい」と書いてます。(途中省略) でも、上達するには、「チャタレイ夫人の恋人」とか「ファニイ・ヒル」とか、「四畳半襖下張り」とかそういうのを読めばいい、と書いてます。そういう意味では、教師が語学に興味を抱かせること何よりも先にあると思うのです。学校の英語は不要だというのではなくて、学校で立派な英語を教えられる先生が必要なのだとそう思ってます。例えば、根石さんが先生になればきっと、中学、高校の生徒は目を輝かすと思いますから。

もう一冊の本---ケリー伊藤の一連の本---こういうのが地道に日本の人の英語力を向上させようと頑張っている、ポジティブなスタンスを取っている本ではないかと、思っています。またあとで触れたいと思います。あちこち、ふらふらして脈絡がないなとは思いつつ、時間を見つけて書いています。言いたいことは、教える側がしっかりすれば、学ぶ側もしっかりする、そういう単純なことかということです。もっとも鼻に鼻輪をし茶髪の男女は、どうかなとは思いますが、案外そんな連中でも面白ければなんでも興味を持つものです。そして基本を学べば、通じる英語を操れるようになるのだと思います。わたしは付属中学でした。ですから、時折英語の時間に地方の先生方が参観に来ていました。われわれの先生はその後大学に移りましたが、当時学んだ文法は今の独学のベースになっています。大いに役立っていると考えています。高校や中学の先生を育てる立派な先生もひょっとして少ないのではなーんて思ったりもします。良く分かりません、その辺りは。
とりあえずご返事まで。

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(根石から)

 ご返事が遅れがちで申し訳ありません。

 「日本人はなぜ英語ができないか」はそれほどていねいに読んだわけではありません。単に読み通しただけです。

ko-kaoki> "have a way of" について一言添えますと、鈴木さんという人は言葉に対して細やかではないなという感じをわたしは持ったのです。

 私は、谷崎潤一郎にならともかく、英語専門家に言葉の細やかさを求めようとは思いませんし、自分が英語をやりつづけることで、日本語の細やかさをやすりをかけて削ってきてしまったのではないかという思いもあります。
 しかし、自分が英語をやり続けてきたことは、静かに肯定しています。英語を日本語の方から見たり、日本語を英語の方から見たりするダイナミズムは、英語をやること以外では手に入らなかったと考えていますから。

ko-kaoki> 鈴木さんは英語に対してなにか、ル・サンチマン的なものを抱いており、対決の姿勢をとっているように思います。

 ル・サンチマン!
 そうです。鈴木さん個人はともかく、日本には英語に対するル・サンチマンは、目に見えず、しかし多く隠されているのではないでしょうか。
 西洋野蛮に触れて傷ついた心が持ち続けるル・サンチマンというものはあるだろうと考えます。論理や明確さや意志を絶えず求める性質を私は時に西洋野蛮と呼びますが、夏目漱石や森鴎外に代表される明治時代の西洋への留学生たちの中には、精神がおかしくなったり、自殺したりした人が非常に多かったということを聞いたことがあります。死屍累々と言っていいほどの傷や死が日本の近代の初期には横たわっているということです。漱石や鴎外は、サバイバルしたので、かろうじて漱石であり鴎外なのです。
 鈴木さんの本に、一般読者にわかる形でル・サンチマンが噴き出している箇所があるのは、大いによろしいことであると思います。鈴木さんは、多分お年寄りで、考えに弾力というものがなくなっているのだろうとは思いますが、それが、日本に隠されているル・サンチマンを噴き出させてくれている。
 はやりの言葉で言えば、「老人力」です。

ko-kaoki> わたしはむしろ鈴木さんよりも国粋主義的です。The Japan Timesの社説に、広くて大きい広場の比喩として、「米国のHoustonにある”アストロ・ドーム”ほどの広さがあり」と書かれていたのを話題にしたことがあります。日本で発行しているのに、どうして「皇居前広場みたいに」としないのかと。

 ふうむ。恥ずかしい話ですが、「皇居前広場みたいに」と言われても、私にはその広さがぴんとこないのです。行ったことはありますが、その広さに関してはまるで覚えていません。もちろん、「アストロ・ドームみたいに」と言われてもぴんとこない。というか、アストロ・ドーム自体を私は知りません。「粟佐橋と篠ノ井橋の間の千曲川の河原みたいに」と言われるとぴんときます。難しいもんです。
 でも、日本の読者を対象にしている新聞なら、いくらなんでも「アストロ・ドーム」はないですね。あほか、って感じです。
 The Japan Times ってのは、日本をアメリカの文化的植民地として扱っているのでしょう。その新聞が日本の資本で発行されているのなら、奴隷根性新聞以外のものではありません。

ko-kaoki> そして、日曜版にJapan Liteを書いていらっしゃるShavezさんにお伺いをたてたことがありました。彼女は、(米国出身)「わたしも知らない。多分、社説はNYで書かれたのではないか?」ということでした。The Japan Times は、英語圏文化に汚染されているのです。

 まあ、英語で書かれている新聞なのだから、英語圏文化に汚染されているのは、最初からの宿命ですね。でも、書き手がニューヨーク在住なのか、トウキョウ在住なのかは大事だと思います。
 社説を書く書き手がニューヨーク在住だなんてことになると、この新聞は日本滞在中のアメリカ人向けの新聞で、そのアメリカ人たちも本当には日本のことを知ろうという気がない人たちでしょう。

ko-kaoki> まあ、鈴木さんが言ってるのは、単に、日本の出来事を英語にしたものなら理解が早いということを言ってるだけですが。

 日本の英語の教科書は、題材として日本のことだけを扱えという鈴木さんの主張ですね。理解が早いということの他に、「発信型の英語」を作るのに必要だということも鈴木さんは言っています。

 これに関しては、実験としては面白いとは思っています。慶応なら慶応でいい、一部でちゃんと実験してみてほしい。中国みたいな洗脳体制はまっぴらごめんです。鈴木さんは、中国の洗脳体制が採用した教科書の作り方を礼賛しています。この辺に関しては、ちょいとお馬鹿な人だなあと感じています。
 この人が日本の英語の現状を批判している分には大いに結構です。この人が文部省を左右できる力をもって、国単位での英語教育の形を決めるようなことになれば、これは非常に危険なお人とお見受けします。洗脳なり、ファシズムに対する抵抗感がほとんどない人みたいですから。

 慶応で成果をあげて、いずれは日本の文部省を動かしてみたいみたいな魂胆がこの人にはあるかもしれません。でも、なかなか正直な人で、現状の指摘においては功ありと思います。ル・サンチマンを噴き出させるところも正直でいいと思います。

ko-kaoki>天満美智子さんという方が表した本ですが(いま探したけど出てきません)、要は教師に責任があると書いてあったような気がします。中学校時代で初めて触れる語学(英語)の先生の良し悪しで、その後の生徒の勉強意欲が決まってしまうというのです。

 そういうことも多々あるだろうと思います。
 しかし、先生によって生徒の勉強意欲が決まるというのは、私にはまったくあてはまりませんでした。私の英語は学校育ちではありません。学校のおかげというものは、ほとんどまったくこうむっていないと思っています。
 英語がわかってきたのは、大学を受験するために自宅浪人をしていたときでした。つまり、「学校以後」あるいは「学校外」で英語がわかってきて、わかってきたら急に面白くなってきたということがありました。
 まったくの野育ちです。

ko-kaoki> ウェブで知り合った高校の先生は課外活動や雑務で忙しく、家に帰ればビールを飲んで寝るだけで、大学以降の勉強がストップしてしまっているということでした。

 これが問題です。これは、別に英語の教師に限った話ではなく、どの学校の先生にもあてはまることだと思います。文部省の方針なのか、県などの教育委員会の方針なのか、教師を課外活動や雑務やくだならい会議の連続に漬け込んで多忙にさせておけば、教師はろくに考える時間も持たなくなるから反抗もしなくなる、というような魂胆が存在するんだと思います。
 私は、学校から英語の授業をなくすとかなくさないとかの問題以前に、学校自体がなくなってかまわないというくらい乱暴に考えています。
 英語ひとつを考えても、勝手に自分でやったものであって、学校のおかげなどこれっぽっちもこうむっていない。あんなものはなくたって一向にかまわなかった。
 それが決算です。

 これよりもずっと長いものを書いて、送信しようとして、ファイルを紛失しました。何がどうなったのかわかりません。

 紛失したものが長くなったのは、鈴木孝夫の本の中から、この現状指摘はいいじゃないかという部分を引用したからでした。

 途中でアホな結論などを読まされるということはあっても、現状指摘に関してはいいところを突いているという感想は、今回も同じです。

 引用を羅列することで、私の関心のありかもおのずから浮かび上がるだろうと思い、かなり引用しました。そして、紛失しました。

 またそのうちにやります。
 今回は以上の分だけお送りします。

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(KAOKIさんから)

K-LL ko-kaoki> "have a way of" について一言添えますと、鈴木さんという人は言葉に対して細やかではないなという感じをわたしは持ったのです。

N-L Neishi>私は、谷崎潤一郎にならともかく、英語専門家に言葉の細やかさを求めようとは思いませんし、自分が英語をやりつづけることで、日本語の細やかさをやすりをかけて削ってきてしまったのではないかという思いもあります。

K-N ko-kaoki>「言葉の細やかさ」と書いたので誤解を招きました。要するに、鈴木氏は誤訳している。それは英語を確実に読みこなしていない、一人よがりの訳=誤訳なのです。そもそも、わたしがわたしのHPで誤訳のテーマを掲げるようになったきっかけは、大津栄一郎著「英語の感覚(上)」(岩波新書278)(1993年4月20日第一刷)の55頁にある文章
"Anger had never been easy for him; even as a child he had seen there was nobody to be angry at, only tired people anxious to please, good hearts asleep and awake...."
大津訳「腹を立てることは彼には昔から容易なことではなかった。子どもだったときでさえ、怒らねばならぬ相手はいなかった。.........省略(ここにもおかしな訳はある)」

(kaokiの指摘後:95年6月15日、第15刷)

"Anger had never been easy for him: even as a child
he had seen........"
大津訳「.......子どものときでさえ、怒らねばならぬ相手はいないのを知っていた。......」

 この英語の感覚が無い先生が書いた文をを引用し、「大津氏は東大教養学部を卒業後約30年間、英語・英米文学を教えてきた。英米文学の翻訳も数多く出版されてきた。その大津氏が1983年ハーバード大学に留学、一年経っても英語がうまくならなかったという。こういう人においてもそうなのだ。何故か?」と荒木博之というこれも大学の先生が中央公論新書1212「日本語が見えると英語も見える」に述べているのです。これを読んで、「英語の感覚」に目を通したというわけです。東大を出ようが、何年英語を教えようが、何冊翻訳を出そうが、感覚のない人は無いのです。それを一般化して、日本人はと書かれるとかっかとくるのです。

この荒木氏は、日本語にオノマトペがあるから英語圏とのコミュニケートに障壁がある。そう言ってるのですが、例えば、「きょとんとして立っていた」は、"He kept standing blankly with no response." or "...blankly and stupidly."であろう。和英は皆違っていると書いてるのですが、「事の意外さに事態がとっさに理解できず、驚きと当惑でただ目を見開いているさま。「急にどなられて―とする」(広辞苑)が真意ですから、He stood there seemingly without realizing what really had happened." ではないでしょうか?
 'blankly and stupidly' なら、藤原紀香が目の前に現れてもそういう感じではないかな?

K-LL ko-kaoki>天満美智子さんという方が表した本ですが(いま探したけど出てきません)、要は教師に責任があると書いてあったような気がします。中学校時代で初めて触れる語学(英語)の先生の良し悪しで、その後の生徒の勉強意欲が決まってしまうというのです。

K-L Neishi> そういうことも多々あるだろうと思います。
  しかし、先生によって生徒の勉強意欲が決まるというのは、私にはまったくあてはまりませんでした。私の英語は学校育ちではありません。学校のおかげというものは、ほとんどまったくこうむっていないと思っています。
  英語がわかってきたのは、大学を受験するために自宅浪人をしていたときでした。つまり、「学校以後」あるいは「学校外」で英語がわかってきて、わかってきたら急に面白くなってきたということがありました。
 まったくの野育ちです。

K-N ko-kaoki>
多分、現状の学校という枠の中に入りきれない多感で才能を持った人は例外でしょうし、大半は学校で学び始めるわけです。ですから根石さんの話をそのままそうですねとは言えないなと思います。 わかったときのきっかけはなんでしたか?
それでprovokeできる先生がいればいいわけです。

K-LL ko-kaoki> ウェブで知り合った高校の先生は課外活動や雑務で忙しく、家に帰ればビールを飲んで寝るだけで、大学以降の勉強がストップしてしまっているということでした。

N-L Neishi> これが問題です。これは、別に英語の教師に限った話ではなく、どの学校の先生にもあてはまることだと思います。文部省の方針なのか、県などの教育委員会の方針なのか、教師を課外活動や雑務やくだらない会議の連続に漬け込んで多忙にさせておけば、教師はろくに考える時間も持たなくなるから反抗もしなくなる、というような魂胆が存在するんだと思います。
 私は、学校から英語の授業をなくすとかなくさないとかの問題以前に、学校自体がなくなってかまわないというくらい乱暴に考えています。
 英語ひとつを考えても、勝手に自分でやったものであって、学校のおかげなどこれっぽっちもこうむっていない。あんなものはなくたって一向にかまわなかった。
 それが決算です。

K-N ko-kaoki>上の方で書いたように、根石さん特有のケースを一般化した議論の展開と思います。根石さんの学校へのル・サンチマンみたいですが、大半の学生はそれほど独立心はないと思います。わたしは先生の言うことは絶対だと信じて反抗すらことすら頭になかった極楽学生でしたから、なにも言えませんけど。

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(根石から)

ko-kaoki>東大を出ようが、何年英語を教えようが、何冊翻訳を出そうが、感覚のない人は無いのです。それを一般化して、日本人はと書かれるとかっかとくるのです。

 東大を出たような人は、非常に知識的に英語をつかまえてしまう傾向があるような気がします。アメリカへ渡ろうがイギリスへ渡ろうが、知識的に英語を扱った人たちには、現地の英語はつらいだろうなと思います。英語が頭の中にあって、体の方へなかなか降りてこないのだと推測します。東大のセンセーなどよりはマシだとは思うものの、この傾向は私にもあります。
 私の場合は、イギリスに1ヶ月半という短い滞在でしたが、なかなか頭から腹の方へ英語が降りてきてくれないという感じがありました。これは語学で扱う言語が、生活言語とは別ものなのだということによると考えています。
 どしゃぶりの日に、 It's a beautiful day, isn't it? と勉強している部屋で、繰り返し言い続けても、語学の英語としては何もおかしいところはありませんが、道で傘をさしながら人に話しかけたら、とたんにとんちんかんな英語になります。
 語学の英語というのは、一から十までシュミレーションですが、生活言語は、生ものです。東大の先生は、シュミレーションによって作った干物を生ものにもどすことが下手なんじゃないかと考えます。

 東大の先生は、と一般化することもまずいですが、傾向性としてはそう指摘していいと思います。

 アメリカに一年いても、英語が上達しなかったのは、語学の英語を生活の英語に渡らせることが下手なのです。まあ、それが学者というものでしょうし、ある年齢以上の日本の学者にはこのタイプの人が多いだろうと推測しています。鈴木孝夫さんの分類によれば、「虚学」にたけた人ということです。

 「虚学」にたけた人はそれはそれでいいのです。学者は「虚学」にたけていてもらわなければ、私ら税金を払うかいがない。やたらに鈴木さんのように「実学」に転んでほしくない。英語学者は英語を学問の対象としてきちんと把握できていれば、悪達者に英語などしゃべれなくたって一向にかまわないのです。

 アメリカの会社を相手に営業をやる営業マンは、悪達者であろうと、単なる達者であろうと、英語が達者である必要があります。生きる場所の違いです。

 学者は自分の英語が「虚学」であることに謙虚であってくれさえすればいい。「虚学」は人間には必要なものですから。

 翻訳・誤訳の問題になれば、個人の翻訳者の問題です。その場合には、「感覚がない」とか「感覚が鈍い」とか、長年えらそうな顔して学者なんかやってきて、知性が怠惰になっているとか、そういう批判はどんどん行うべきだと思います。その意味で、kaoki さんの批判は面白い。的に当たれば、痛快でもあります。

 「英語が苦手」問題は、十分に日本人一般の問題として成立すると私は考えます。その例として、東大教授もしゃべる場面になるとまるで不器用だということを持ち出すのもけっこうだろうと思います。
 ただ、私は、日本人一般が英語が苦手なことの原因を、日本語のシンタックス自体にさぐっているということが、他のいろいろな方の言説と違っているとは考えています。

 kaoki さん個人が英語が苦手でないことはわかります。しかし、日本人一般は大いに英語が苦手なのです。

ko-kaoki>「きょとんとして立っていた」は、"He kept standing blankly with no response." or "...blankly and stupidly."であろう。和英は皆違っていると書いてるのですが、「事の意外さに事態がとっさに理解できず、驚きと当惑でただ目を見開いてい るさま。「急にどなられて―とする」」(広辞苑)が真意ですから、He stood there seemingly without realizing what really had happened." ではないでしょうか?

 翻訳は正確になされるべきだということは、あくまで理念として正解なのであって、実際の翻訳の場面では、個々の癖が出ます。「驚き」の中には blankly にものを見ているということも含まれるかもしれませんし、「当惑」にはとっさに対応できないでいる stupidity もあるかもしれません。日本語の「きょとん」は、どこまでいっても「きょとん」であり、「きょとん」としか言いようがない。だから、英語に直したら、「真意」は必ず変わるというのが私の意見です。広辞苑でさえ、決して真意ではありません。それは説明的言辞であり、真意は「きょとん」を「きょとん」のままに理解するしかなく、それを日本語に直そうが英語に直そうが真意にはなりません。kaoki さんの英訳の方が正確ではあると思います。でも、それだからといって、「きょとん」が伝わるかどうかは別です。

 誤読に基づく誤訳は、あきらかに訂正すべき誤訳です。しかし、日本語で行う読書においてさえ、誤読に基づく誤解をやらかすような私ですので、翻訳という労苦にはありがたいという思いは持つものの、翻訳で「真意」をつかもうという気があまりありません。狂いは生じるものの、まあ近似値はつかまえられるかもしれないという期待を抱く程度です。
 真意に近づきたければ、自分で語学をやれという意見です。

 工業英語の翻訳では、近似値は真の値に非常に近いところまで行くことができます。文学関係は、これはもう、近似値は非常におおざっぱなもんだと思います。
 原文で読む場合でさえ、真の値がどこでどう成立するのかという問題があるのですから、そこに翻訳がからめば、「近似値の近似値」が成立してきます。それは文学の翻訳という行為がどうしてもかかえこんでしまうものだと考えます。

 誤読に基づく誤訳に関しては、今後も「アホか」と言いつつ、指摘し続けていただきたい。kaoki さんのホームページが、日本誤訳大全のようなデータベースに育っていってほしいと願っています。

ko-kaoki> 多分、現状の学校という枠の中に入りきれない多感で才能を持った人は例外でしょうし、大半は学校で学び始めるわけです。ですから根石さんの話をそのままそうですねとは言えないなと思います。 わかったときのきっかけはなんでしたか?それでprovokeできる先生がいればいいわけです。

 英語がわかってきたことのきっかけは、自分なりの乱暴な方法を考えついて実行したことでした。「スッポン読み」とでも申しましょうか。
 スッポンは、一度食いついたら雷が鳴るまで離れないということを子供の頃に聞いたことがあります。本当か嘘か知りません。
 しかしまあ、大学受験で英語を勉強する場面で、食いついたら離れないスッポンになってみたわけです。
 具体的には、いくつかのわずかな発音のポイントに留意しながら、同じ一つの文を何十回も繰り返し言い続けることでした。最終的に、日本語(訳)を媒介にしなくても、その文が言っていることがつかめている状態を意識に作り出すことをやりました。
 途中で、言いにくかったものが言いやすくなってきますので、徐々にスピードをあげ、アーティキュレーションがくずれないままにかなりのスピードで繰り返し言い続けることをやりました。
 自分の最高のスピードで口の筋肉が動いて、しかもアーティキュレーションがくずれていなければ、「雷が鳴った」として、その英文から離れ、別の英文をくわえるということをやり続けたところ、急激に英語がわかってきました。このころ、英語の文法の本は一冊も読んでいません。自分で、これはこうなってるんだろうと勝手に決めつけていきました。大学に入ってから、文法の本を見たら、たいがいが当たっていました。
 中学程度の基礎的な文法は別です。これはちゃんとやっておく必要があります。しかし、途中からは自分で決めていく必要があると考えています。自分で決めていかなければ、読めはしないし、理解にも達しない。
 私の英語が野育ちであるゆえんです。

ko-kaoki> 根石さん特有のケースを一般化した議論の展開と思います。根石さんの学校へのル・サンチマンみたいですが、大半の学生はそれほど独立心はないと思います。

 いい先生にめぐり会えて、うまく provoke してもらったという人は幸運な人です。「大半は」学校で学び始めるわけですが、「大半は」英語がものにならないのです。学校というものが「大半」の者にとって、こと英語に関しては役立たずなわけです。
 再度言いますが、上質な先生にめぐりあえば、英語にとりくむ「きっかけ」を与えてもらえるかもしれません。しかし、私にそんな幸運はなかった。これに関しては、特殊な事例だなどとくくられて済ます気はありません。日本人の「大半」の者が味わっていることです。私に特有のケースだなどとは決して思いません。
 いい先生にめぐり会えて、英語を学ぶきっかけを与えてもらったというような経験の方が、よほど恵まれた「特有のケース」だと考えます。

 大半の学生はそれほどの独立心はないとおっしゃいますが、それがなければ、英語などものにはなりません。kaoki さんも、今の実力の大半をご自分で作られたはずです。独立心があったのです。
 鈴木孝夫さんの慶応大学を始めた福沢諭吉は、「学問の私立」と言っています。学問とは「私」という場で成り立つものだというほどの意味で、学校制度上での公立・私立のことではないと思いますが、この「私立」を別の語で言えば「独立心」です。
 学校をきっかけにするのはいい。いい先生にめぐりあって、それをきっかけにするものいい。しかし、肝心なものは「私立」や「独立心」です。語学に必要なものも同じものです。

 私の学校に対するル・サンチマンに関しては、非常にどす黒いものがあります。これを吐き出してしまうまで、死んでも死んだ気がしないだろうと思うくらいです。

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(KAOKIさんから)


まだまだ蒸し暑い日が続きます。
昨日はだらだらと締まりの無い文を書きました。

今朝は早くから起きて本の整理をしておりましたがやっと天満美智子氏の本が出てきました。大修館書店「英文読解のストラテジー」(1989年初版、97年6版、ISBN4-469-24262-4, \1,600) この方は津田塾を出て最後は出身校の学長をした人で、この本で1990年度の大学英語教育学会賞を受賞しています。
最近、本屋で目についた本は見境も無く買い込むので部屋は高く積み上げられた本の山で埋まり(多少誇張)、しかも本にはカバーがしてあるので探すのに苦労するようになりました。大体、分野別に積み上げているのですが、時が経つとエントロピーが増大し、ある筈の山になかったりして苦労します。天満先生の本もそんな一冊でした。この本は「英語を理解する」とはどういうことかという観点から話をスタートし、多少理論も加え、終わりの方は学校の先生方のツール的なものを添えて終わっています。そして、61頁から5頁にわたって、生徒の声が掲載されています。天満氏が、中学・高校の生徒を対象に全国規模のアンケートをとったものと大学生の声です。一例を紹介すると、

「今、リーダーで、生活に関する随筆をやっていますが、その訳し方がどうもふに落ちない。たとえば、その文の本意を説明しようとしないで、熟語とか訳のみにとらわれて、とても良い文だと思うのに、まったく感情のない This is a pen.のような感じでしか見ていないような気がする。ほんとうにそんな見方でよいのだろうかと思う。.....(途中省略).....**先生の訳は文章を殺してしまいます。文の途中が少しわからないとバカ扱いをするし、極度に神経質でせっかちに進みます。だから文に対してなんの感動もなく、全ての科目で一番つらい時間です。.....残り省略」
恐らく、例えば、東洋大学名誉教授奥井 潔氏のような能力を持った方なら、この生徒は大喜びをするのだと思います。(研究社、英文読解のナビゲーター、ナビゲータシリーズ3:この方の講義をNHKの夏の講座で見たことがあります。非常に感動的でした)

言葉をとおして通じあうということを教えること、それが今では、入試技術を教えることに成り下がり、書いてある内容を深く味わう余裕を持たせない、持たせる能力の無い、先生が増えているのではないでしょうか? 学校英語が悪いのではなく、教える人が悪いのです。受験が学ぶことをいびつにしているのも否めないでしょうが、それを言っても仕方ありません。昔だってそうでしたし。今後もそうでしょうし。

啓発される本は知恵が詰まっていて同時に面白いものです。鈴木先生の本は面白さがないように感じています。英語習得に対して知的に啓発されるものが無い、一言で言えばそんな気がするのです。わたしはいつも思うのですが、植物学者も時を経れば図鑑が出せる、積み重ねた知識を整理して並べればいい。だけど、そこにはなんの斬新な知恵も無い。吉田健一が既に述べていることに付け加えるものは無い。そういう方が、一般人に広く読まれる新書を出しているのです。言いすぎかな、鈴木先生の細かい業績を知らないので。慶応の発信型英語は成功しているのかも知れませんが?

「英語の感覚」という新書にも、感覚の無さが伺われる誤りがありました。それは岩波の担当者に手紙を書き、指摘を納得してもらい、現在の版では訂正されています。国民に影響の大きい本に平気で間違いを書く神経にエモーショナルながらかっかときます。話が変な方向に来ましたが、書店同志、教授同志お互いに批判をせず、ひたすら商業的に物事が進んでいく最近の風潮(多分)にも大きな問題があると思うのです。最近はコストが安くヒットして数が出れば儲けになる、そういうことで出版が決まっているようです。でも、不良品は不良品と伝えて直させる。

英語からどんどん話が外れて行きますししかも裏付けに乏しい話でスミマセン。思うに任せて書いています。
先ずは天満先生の本のタイトルのお知らせが目的でした。

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(KAOKIさんから)

さて、鈴木孝夫の本から始まり、日本人は英語をどう習えばいいのかとかそいういう論議をしてきました。根石さんは、学校で英語など教えなくてもいい、とおっしゃいました。わたしは良い先生がいないのが、良くないと書きました。

とどのつまり人は何故、学問というか、知恵を学ぶというか、そういうことに気を引かれるか?という観点に視点を移して行きませんか?

わたしがなぜ英語に引かれていったか?

(1)大学に居たとき、自分の論文を海外に発表する。苦労して訳した。審査結果が戻って来て、内容以外に、英文も立派、と書いてあった。助教授も同じように論文を出して、結果の英語表現の項目に"awkward"だから、直せとあった。それを見た。つまり、案外自分は英語のセンスがあるのだと優越感を持った。

(2)初めて米国に出かけたとき(学会で)、税関を通るとき、わたしの前の女性(学生?)が係員に質問され、英語が聞き取れないらしく、戸惑っていた。そこで、後ろから近づき、「こう聞いているのですよ、わたしが答えてあげますから、訪問の目的は何ですか?.........」とサポートした。無事女性が通過。そしてわたしの番。黒人の太っちょの係員は、にこにこして即、通してくれた。あ!俺の英語役だった。これも優越感。

などなど、自分の英語のセンスが多少なりと人より優れているなという錯覚。そういうものが原動力になった気がします。

人が頑張るのはやはり、他人より秀でたい、優位に立ちたい、そんなものでしょうか? 根石さんも、英語に目覚めたときは、他人が発見していないものを発見した、発見したいという要求があった、ということではないでしょうか?如何でしょう? 民主主義で、皆一緒に、というのは実は嘘で、皆、一緒でなく秀でたい、先頭に立ちたいというのが、心の奥にあるのでは無いでしょうか?それが原動力。なにかつたない表現ですが。

小学生から英語を学ぶ、それはそれで文句も言いませんが、小学生分際で、人より秀でたいと必死になるかは疑問です。目覚めないことには。

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(根石から)

ko-kaoki>さて、鈴木孝夫の本から始まり、日本人は英語をどう習えばいいのかとかそいういう論議をしてきました。根石さんは、学校で英語など教えなくてもいい、とおっしゃいました。わたしは良い先生がいないのが、良くないと書きました。

 少し違和があります。私が受けたような授業(今でも、日本の多くの学校の授業というものは似たようなものだと考えています)だったら、そんなものは要らないと考えているのです。そんな授業がほとんどだとしても、勝手に自分でやれば突破口はある。自分でやることが語学の本源であるから、税金の無駄遣いにすぎないような学校の授業だったら、そんなもの要らない、と、そういう考えです。kaoki さんは、受けた授業をいいものだったとおっしゃるのだから、それはいい授業だったのですし、先生もいい先生だったのです。しかし、そんな幸運には多くの日本の生徒たちはめったに出会うことができない。だから、別に kaoki さんの言うことと、私の言うことは対立しないのです。学校なんぞなければないで構わないが、学校はほとんどが人々が払う税金で成り立っているのだから、学校がまともになるのが一番お金がかからない。しかし、現状を見ていると、私はもう匙を投げています。お金の問題を別にすれば、学校の外という場所を充実させる方が早い。そういう考えです。

ko-kaoki>
(1)大学に居たとき、自分の論文を海外に発表する。苦労して訳した。審査結果が戻って来て、内容以外に、英文も立派、と書いてあった。助教授も同じように論文を出して、結果の英語表現の項目に"awkward"だから、直せとあった。それを見た。つまり、案外自分は英語のセンスがあるのだと優越感を持った。

 この部分で、kaoki さんの英語が高度なレベルにあることがわかります。そのレベルに比べれば、私の英語なんぞ、非常に awkward なものだと感じます。本当のことです。
 私は自分の英語のレベルを大したことはないと考えていますが、初心者に英語をわからせる技術のレベルには、自負があります。それに関してなら、学校の教室の英語なんか話にならないとさえ思っています。
 最近、アメリカから来たやつと日常的に英語をしゃべる必要があり、また大学受験のときのようにインプットを再開しています。これまで、塾の教材の自作に時間をとられ、自分の英語を磨くことになかなか時間がとれないできたのですが、ようやく教材も充実してきたので、インプットを再開しています。

 私はインプット主義者です。インプット万能主義者と言ってもいいくらいです。インプットされていないものが、アウトプット(しゃべること)できるわけがないし、ヒアリングの場面でも、インプットされていないもの(知らない言い回し)が聞き取れるわけもない。だったら、どんどんインプットすればいい。突破口はインプットだと考えている者です。

 インプットというとすぐに暗記と思われてしまうかもしれないのですが、私の方法は素読というものです。字を見て文を読むのでかまわないのです。本当にすらすらと読めるようになった素読のレベルに達すると、音が字を離れて成立するようになります。つまり、結果的には、暗記したのと同じものが自分の中にできますが、プロセスが暗記よりもずっとおだやかです。

ko-kaoki>
人が頑張るのはやはり、他人より秀でたい、優位に立ちたい、そんなものでしょうか? 根石さんも、英語に目覚めたときは、他人が発見していないものを発見した、発見したいという要求があった、ということではないでしょうか?如何でしょう?

 私にも人より秀でたいという気持ちがないわけではありませんが、英語に関してはそういう感じがしません。それよりも、大学受験のとき、英語が面白くなってしまったことが大きいと思っています。語学の面白さに目覚めてしまったのです。面白くなったから、どんどんやったというだけのことです。

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(KAOKIさんから)

 根石さん久しぶりです。

何時でも気の向いたときにと思っているとそれはやらないのと同じことだと、思いまして、意を決して書きます。書き始めればいろいろ湧いてきます。
「英語青年」という月刊雑誌があるのですが、タイトルとは異なり、えらく難しいことばかり載っている雑誌。ですが、この雑誌の99年10月号、11頁に松本 寛という大学の先生(多分)が「英文学を日本人の目で読む」という分かりやすい文を寄せています。
簡単に纏めると、助教授昇進の論文審査で、Hamletを日本人の目で考察した論文が、ある審査教授の目にとまり、けしからん、英文学を日本人の目で読もうなどとは、学問として邪道だ、といわれ、昇進を棒に振るのもいやなので、その論文は審査の対象から外したんだそうです。大学の教員は「英文学」を既成の学問として疑わずに絶対視しているのだそうです。

---随分と昔に夏目漱石が「文学評論」のなかで、同じようなことをいっているが、いまだもって、大学は変わっていない---というのです。工学部などは、研究対象を変えていかないことには、自分達のやっていることがだんだん意味が無くなるのですが、英文学だけは、対象が対象だけに浮世から離れて中世紀のなんとかかんとか等を研究対象にできるのでいつまで経っても変わらないのかもしれません。良く知りません。英文学を出たわけではないので。

そういう点では、却って、言語学的な分野に身を置いた、鈴木先生などは、英語に対して、日本人として自由に発言できたのかもしれません。

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(根石から)

ko-kaoki>「英語青年」という月刊雑誌があるのですが、タイトルとは異なり、えらく難しいことばかり載っている雑誌。ですが、この雑誌の99年10月号、11頁に松本寛という大学の先生(多分)が「英文学を日本人の目で読む」という分かりやすい文を寄せています。簡単に纏めると、助教授昇進の論文審査で、Hamletを日本人の目で考察した論文が、ある審査教授の目にとまり、けしからん、英文学を日本人の目で読もうなどとは、学問として邪道だ、といわれ、昇進を棒に振るのもいやなので、その論文は審査の対象から外したんだそうです。大学の教員は「英文学」を既成の学問として疑わずに絶対視しているのだそうです。

 私には、日本人が日本人の目で英文学を読むことのどこがいけないのかまるで不可解です。審査教授とやらは、自分がイギリス人の目でハムレットを読めているつもりなのでしょうが、馬鹿の一種です。日本人の目でハムレットに肉薄するということが、ベストな読み方であって、イギリス人に化けたつもりの日本人というのは実に醜いと思いました。アホちゃうか、という感じでもあります。

 これで思い出してしまったことがあります。私は、発音もきれいじゃないし、思考も日本人の思考ですが、ヘーキのヘーザで、英会話用インプット専用教室というのを開いています。
 私の基本的なスタンスは、発音に関しては、きれいであればそれはそれで結構だが、きれいな発音である必要が絶対的にあるわけではないというものです。発音に関しては、通じればいいというスタンダードが一つあるだけです。

 この教室の生徒さんで、50過ぎのおばさんがいたのですが、自分の発音になんだか自信があるらしく、私が直すと不平を言いました。自分の発音は、中学の時に、とても発音の上手な先生からほめられたきれいな発音なのだと言うのでした。私は、その音は通じないから直せと言ったので、「通じればいい」というスタンスだけからものを言ったのでしたが、おばさんは全然直してくれません。そして、現に、私の教室を手伝ってくれているウドの前に座って練習している時も、まるで聞き取れないし、まるでしゃべれない。発音がきれいだと言いたければ言うがいいが、そのきれいな発音がまるで通じないなら、いったいきれいな発音というのは何のためなのか。ウドは、この人の言うことを聞いていると頭が痛くなると言うし、まあ、一言で言えば、「きれいな発音」が通じていかない。

 このおばさんを思い出してしまうのは、要するに本家本元意識という保守性のせいです。おばさんは、自分の発音は、本式のイギリス式発音であると思っていたらしいのですが、全然使いものにならない本家本元の音とは何のことなのか。
 審査教授の本家本元の「日本人の目」ではない「目」は、いったいどこの目なのか。にせものだと思います。

ko-kaoki> そういう点では、却って、言語学的な分野に身を置いた、鈴木先生などは、英語に対して、日本人として自由に発言できたのかもしれません。

 鈴木さんの本は、何度も言うようですが、現状把握としてはいい本だと思います。

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(KAOKIさんから)


こんばんは。
今日はひとつ、お話しておくことがあります。
別にびっくりするようなことではありませんが。
だらだらと述べます。

西森マリーさん(89年ごろNHK英会話に出演、キャスターとして活躍、その後、欧州に渡り日本人向けの英語の本を多数出版、現在はドイツ在住)とメール友達になりました。キッカケは歯に衣を着せずにHPで発言しているわたしに、マリーさんが興味と共感を覚えてメールをされたこと。もっとも、動物愛護運動への協力依頼が目的のひとつではありましたが。

そのマリーさんに、根石さんのHPをお教えしました。
ご迷惑だったかもしれませんが、爾後承認のほどを。
それで、マリーさんには、「骨のあるHPだから一度ご覧になったら」と申し上げたのです。日本では、はっきりと自分の考えを述べる人は少ない。なんとなく、お茶を濁して、問題を論じずに避けて通る。
根石さんもマリーさんもそこは、ちょっと違う。違う3人で、3度楽しめる本を書かないかと、持ち掛けたら、マリーさんは、その気になったようです。楽しめて日本人の役に立つ本。
マリーさんのURL:
http://www.marienishimori.com/index.htm

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(根石から)

 私のホームページを紹介していただいてありがとうございます。

 最近、全然更新しないので、恥ずかしいような気もしますが、なるべく多くの人に読んで欲しいとは思っています。
 この冬にはホームページの衣替えをやる予定ですが、明日も自宅自作の現場のコンクリートのことを考えなければなりません。

 いつか本を書けたらいいですね。
 ところで、私の「根石吉久の暮らしの手帳」という本があるのですが、お送りしましょうか。midnight press から出してもらった本です。

 最近、「電話でレッスン」というのを始めました。「英会話用インプット」「NEW CROWNべらべら読み」「NEW HORIZONべらべら読み」「大学受験」のコースを開設しています。今のところ、「英会話用インプット」と「NEW CROWNべらべら読み」に生徒がひとりずついます。名古屋在住の親子です。かつて、私の塾を見に来てくれて、「私のまわりにもこんな塾があったらどんなにいいだろうと思います」と言ってくれた人です。「電話でレッスン」をやりますが、やってみますかと言ったら、すぐに話がまとまりました。

 英語の基礎というものが、文法的理解にあるという誤解があまりにも多すぎます。基礎というものは、理解より先に「べらべら読み」という場合の「べらべら」の質にあると私は考えています。
 この「電話でレッスン」は文法的な説明のようなものは一切行わず、中学生なら中学の自分の教科書をべらべらに読めるようにするというたった一つのことしか行いません。以前のメールで書いたように、私は日本の学校英語に非常に批判的です。しかし、「べらべら」読みの質がよくなれば、駄目な黒板式学校の授業も活かすことはできます。駄目な黒板式授業が活かせるなら、それをそのように活かす力こそが基礎力だと思っているわけです。

 この「電話でレッスン」のことをこの冬はホームページで書こうと思っています。これまでに二人の人を相手にやってみた感触では、電話で十分にいけるぞという感じです。

 最近、英語がどうもわからなくなってきたんだが、どうやって勉強したらいいんだろうと思っているような、中学生をご存じでしたらご紹介下さい。

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(KAOKIさんから)

>  最近、英語がどうもわからなくなってきたんだが、どうやって勉強したらいいんだろうと思っているような、中学生をご存じでしたらご紹介下さい。

探します。うちのマンション(コンドー)の掲示板に貼ってみましょうか?PRを。駄目ですか? 英人が住んでいて、ときどき、英語を教えるという張り紙がありますので。

根石さんのHPへのリンケージをわたしのHPの英知ある人々欄に載せました。ご紹介の文章でお気に召さない部分がありましたら即、修整します。
言ってください。

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(根石から)

ko-kaoki> 根石さんのHPへのリンケージをわたしのHPの英知ある人々欄に載せました

ありがとうございました。まだ見ていません。本当に申し訳ありません。
また、こちらからのリンクもまだやっていません。必ず見ますし、必ず張らせていただきたく思います。ただいま、小学館の文庫の話が動き始めており、連日最終的な手直しをしており、胃が痛いです。この中で鈴木孝夫批判をやりました。今度こそ滞りなく、出版されることを願っています。ずいぶん長いことお蔵入りでしたので。

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(KAOKIさんから)


お送りいただいたご本、読みました。大抵、自身のことや家族のことや、そういう私的なテーマを文章にするのは非常に難しい。一方でそういうことを書きたくなる。そういう私的な題材でありながら、誰が読んでもいつの間にか自分の昔や最近のことなどを重ねながら読む。もうそこには根石さんの存在は隠れている。隠れて読む人をくすぐる。でも、文章そのものは、根石さんのそのものである。不思議である。.........という印象を持ちました。

結局、人間が共通に持つ何かを、根石さんを通して根石さんは描いているのだろうな、だから面白いのだろうな、とそう思います。一方で、恐らく、書いてあるいろいろなことは、ほんとは嘘だらけで、長野まで見学に行けば、なるほど書いてある通りだけど、何の変哲もない風景があり人間がいるだけ、それをうんと脚色したのではないかなどと思ったりするのです。土台、ものを書くということは、そういうものかもしれないですが。髭もじゃだという根石さんを訪ねていったら、はい、と玄関から現れるのは、髭など存在の跡もない、表情豊かなダンディーな方だったりする。

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(根石から)

 そりゃありません。私はぐじゃぐじゃの髭もじゃです。
 ダンディだということは、誰からも言われたことがありません。
 誤読いただきうれしいです。

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(KAOKIさんから)

ところで管理人に願い出て、例の教科書べらべら読みをわたしの住むコンドーの一階掲示板に貼りました。コピーを4枚管理人に預けました。もしかするとコンドーの住人に中学生は少ないかもしれません。となりのコーポマンションの方が多いかもしれません。となりのコーポにも行ってみます。

現在、「ゴースト」というビデオムービーを買って来て英会話の勉強などを始めています。要するにスーパーが無くて、別途、シナリオと訳がついているのです。その最後の場面。最愛の彼女を世に残したまま、あの世に行く踏ん切りがつけられなかった主人公が、天から下りてくる光の中で、彼女に向かって、"I love you, Molly. I've always loved you."と囁くと、彼女は なんだか短い言葉を発するのです。何度聞いても??というわけで、解説書を覗いたら、"Ditto" でした。書類などでは使うのを覚えていたのですが、まさか会話で出てくるとは夢にも思わなかったので、dittoと言っているとは認識できませんでした。
それにしても、me too とか、I love you too.とかそういう風に言わずに何故、ditto なのか分かりません。それは日本語には無い言葉だからでしょうか? わたしの知識不足だからでしょうか?

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(根石から)

ko-kaoki> ところで管理人に願い出て、例の教科書べらべら読み

ありがとうございます。よろしくお願いいたします。

ko-kaoki> 何故、ditto なのか分かりません

わたしはもっと知識不足で、ditto がわかりませんでした。
あの世の人だからえらいのか。わかりません。

 ようやく先ほどKAOKIさんのホームページにリンクを張らせていただきました。

 私のホームページの「素読舎」の中に、英文を語数のみで分類した教材ページを作りました。やたらに自分で用事をつくりだす私の悪い癖がまた出ました。徐々に追加していきます。

 KAOKIさんのホームページの私の紹介記事の「英語達人」でしたっけ、忸怩たるものがあります。英語職人というのはその通りですが、達人は私にはあてはまりません。

 私がやってきた仕事は本当に初心者の導入部から始め、せいぜいが大学入試のレベルまでを扱うというのがこれまでのほとんどの仕事です。申し訳ありませんが、英語達人という語句を削っていただけたらうれしいのですが。

 このところ、語数による英文の分類ばかりやっています。ひとつずつ語数を数えて、自分でキーボードから入力していますので、やたらに時間がかかります。古本屋で安い英語本を買ってきて、入力していますので、おかしな文が混じっている場合があるかもしれません。これは変だぞというのがありましたら、ご教示下さい。

 ほとんどの英語の勉強の本は、初心者が何に苦労するのかがわかっていないのが多いと思っています。基礎ができている人を対象とした本では良いものを目にしますが、基礎自体を作るのによいものはなかなか見当たりません。

 私が語数による分類に意味をみつけたのは、日本に住んで英語を勉強する場合、インプットしたものを引き出す(アウトプットさせる)力がまるで働かないという決定的な条件を考えたためです。この条件下では、一見むなしいように思われるインプットの継続しかありません。私自身も、それを継続しているだけです。

 語学で作る電池は、性能のいいものを作ってもからっぽの電池であるというのが私の考えです。生活言語は生活の中でチャージするしかなく、そういう場面を迎えたときに急激にチャージできるように性能のいい電池を「からっぽのままに」多数持ち、メンテナンスして錆び付かないようにしておくしかないのではないか。そう考えているのです。

 英会話本では、場面別などで用例を分類しているのが多いのですが、子供が英文を体にインプットしていくには、場面別というよりは、語数別の方が都合がよかろう。そういう、馬鹿みたいに単純な理由から作り始めたわけです。

 今のところ、語数による分類というものを目にしたことがないのですが、もし私が知らないだけであれば、多くの無駄なエネルギーを使っているような気がしないでもありません。まあしかし、語数が増えてきたり、いろいろな語彙に触れたりして、私の英語力も徐々に変化するかもしれないし、じいさんがやる語学にはちょうどいいようなところもある。私ももうじき50歳です。語学には体力が必要だということをひしひしと感じています。子供用に教材はいっぱい作ってきたものの、自分の勉強をあんまりやってこなかったので、これを作るのは、私の勉強も兼ねています。自分で勉強しながら誰かの役にたてば、インターネットをうまく使ったことになるのではないかというわけです。

 ご感想をお聞かせ下さい。

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(KAOKIさんから)

> KAOKIさんのホームページの私の紹介記事の「英語達人」でしたっけ、忸怩たるものがあります。英語職人というのはその通りですが、達人は私にはあてはまりません。

→今日購入したマイクロソフト・ブック・シェルフの小学館国語大辞典を引きますと 「広く道理に通達した人。学問・技芸に熟達した人」とあります。一方、職人は「自分の身につけた技術で物を造ることを職業としている人達の総称」とあります。また、同じソフトに組み入れてある、和英で職人を引くと、'a workman'、達人は、' a master'。 同じく組み込んである英英で a workman を引くと、(2)に'a craftsman or an artisan' 、artisanは、a skilled manual worker; a craftsperson.----(The American Heritageョ Dictionary of the English Language,Third Edition (アメリカン・ヘリテイジ英英辞典 第3版) copyright 1992 by Houghton Mifflin Company. Electronic version licensed from INSO Corporation. All rights reserved.)----
a masterは、an expert: a master of three languages.(同上、引用)

文部省が指導してきた英語教育とは異なる方法であり、日本人が真に英語を活用し世界と対等な情報交換ができることを可能とする方法を開発した人間。この人間のことはやはり、「マニュアルを見習う熟練工」ではないのではと空を見上げてます。達人=専門家との解釈では駄目でしょうか?

> 申し訳ありませんが、英語達人という語句を削っていただけたらうれしいのですが。

→では削ります。

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(根石から)

ko-kaoki> (2)に'a craftsman or an artisan' 、artisanは、a skilled manual worker; a craftsperson.

 この manual は「手仕事」のことだと思いますが、私のやってきたことも、職人の手仕事にかなり近いです。辞書の示す概念や分析的説明は、ものごとをはっきりさせてくれますが、概念の説明からは、イメージでまるごとひとつかみにしているものからこぼれ落ちてしまうものがあります。私は日常はあくまで日本語で考えており、日本語での「達人」というものと、私のあり方とはとてつもない距離がある、と、そういうことです。
 私は英語の達人にはなりたくありません。おそらく、日本語を日常語としていることを基本としている私は、達人にはなれないし、なろうとも思わないのです。

 本屋に行って驚きました。なんでこんなに英語関係の本があるんだと。英語関係の本とコンピュータ関係の本が同じくらいあったとして、コンピュータを使うことができるようになる人の数の方が圧倒的に多いんじゃないだろうか。これだけ英語関係の本があふれているのに、英語が使えるようになる人というのは、非常に少ないんじゃないか、と。奈落っていうような言葉を思うんです。あるいは、孤島っていうような言葉を。

 日本人の英語に欠けているのは、実際にどんどん自分の口の筋肉を動かして「音づくり」する過程だと考えています。

ko-kaoki> 文部省が指導してきた英語教育とは異なる方法であり、日本人が真に英語を活用し世界と対等な情報交換ができることを可能とする方法を開発した人間。

 こう言っていただけるのは、とてもうれしいです。英語に関しては、文部省糞くらえと考えてきました。
 それでも、私は英語の達人ではありません。英語と日本語の間の奈落、そこに横たわって考えてきた人間ではありますが。
 私は日本語の側にあるのでもなく、英語の側にあるのでもありません。日本語と英語の間にいると思っています。
 だけど、多くの英語本というのは、英語の側に立ってしまっているんです。英語の側に「行きっぱなし」になっちゃった人が書いたものが多いように思います。
 俺はそれはいやだ。必ず「間に」いたい。そう考えています。

ko-kaoki> →では削ります。

ありがとうございます。ようやく安眠できます。

ko-kaoki> →この辺り、私自身理解できてないと感じます。こういうことでしょうか?:いくら学んでも、実際の場面では、Thank you.と言われて、You are welcome. と反射的に出てくるまで時間と意識の溝があった記憶があります。

 「時間と意識の溝」と言われていることに関連しますが、私の場合、それと同時に感情が齟齬をきたすのです。これは日本語を日常語としているせいで、去年アメリカに行ったときは、一週間ほどで感情的な齟齬はなくなっていました。それがなくなったとたんに、日本に戻らなければならなかったのは、残念でした。
 私は、自宅を自作しているので、ときどき本職の職人に手伝ってもらうことがあります。一方で、ウドというアメリカ英語を話すオーストリア人ともつきあっています。職人と話をした後で、ウドと会うと、自分の体が英語をしゃべるのをいやがっているのがわかります。日本の職人の言語感覚が私にうつった後では、英語の感覚に激しい拒絶反応のようなものが起こります。日本語が感覚的に脱色されるのを嫌うような感じを覚えます。

 「読み」の英語を例外として、とりわけ「話し」の英語では、語学の対象としての英語と、生活言語としての英語ははっきり区別すべきだという考えが私にはあります。そこをはっきり区別しないと、語学というものは方法的に確立できないとさえ考えています。これをあいまいなままにしておくと、これまでのように少数の英語好きが英語をやるけれど、一般的には日本の英語ができてこないということが続くだけではないでしょうか。「行きっぱなし」になっちゃった人は、極端な話が、アメリカ人が日本を見るように日本を見ていたりしますが、これは話にならない。「間」にいつづけられる人がもっと増えなければ駄目だと思うのです。
 私の「からっぽ理論」は、語学という領域に根拠を与えようとしているのだと自分では考えています。語学の対象としての言語が、「からっぽ」でなければ、語学というものの激化は不可能です。自分の生活から切れているからこそ、(生活的に「からっぽ」だからこそ)、語学は成り立つ。つまり、語学というものの成立根拠を言いたいわけです。
 だから、英語を話すというのは、単に英語という生活言語を学ぶことではなく、自分に語学を成立させることであり、その後、語学から生活言語に渡ることだと、わざわざ面倒な言い方をしないと正確にものを言ったことにならないと思います。

ko-kaoki> →人間が言葉を習得して行くプロセスに合わせたということでしょうか、郵便番号なども桁が増えると覚えられなくなる。

 ネイティブな言語の習得と語学の習得は、これまたまったく別のものだ考えています。1歳、2歳の子供の持つ能力は大人は失ってしまっています。語学は意識的な作業で、自然過程ではない。
 郵便番号の喩えがどんぴしゃです。基本的な文法の説明なんかも、なるべく短い文を使ってやりたい。つまり、当座は、私の資料を整えていき、いずれWEB上で文法講座なんかもやってみたいのです。その時に語数別で分類しておけば、自分で使うのにも具合がよかろうということです。
 最近は大人も相手にしていますが、子供でも大人でも、ある程度の語数になると、とたんに途中で読みが途切れるということを経験的に知りました。その人の英語のレベルにもよるので、一概に何語で途切れると決められないのですが・・・。
 こうして書いてきて気がついたのですが、語数による分類というのは、「べらべら読み」と名付けた私の方法に基づいているわけですね。各自に適当する語数の読みに習熟したら、1語多い文に練習を移せば、自然に「読み」のグレードアップができる、と、そう考えているのです。読みの習熟で、英語のシンタックスを身につけるのが、日本語を日常語とする日本人には、もっとも安全で確実な方法だと私は考えています。まだ考えだけで、このWEB上のテキストを使ってくれている生徒はいませんが、データが大きくなってくれば、実際に生徒を募集してみようと思っています。

ko-kaoki> →まだ、根石さんの手法の中身が良く分かりませんけれども、日本の大学に滞在した米国女性が、来日時小学校1年生だった息子の言葉の発達になぞらえて、日本人向きの英語の本を書いているのを見た記憶があります。最近です。新書か何かだった記憶があります。思い出したらお知らせします。

 英語の学習法などの本については、KAOKIさんにはお世話になりっぱなしですが、これからもよろしくお願いしたいと思います。

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(KAOKIさんから)

>これだけ英語関係の本があふれているのに、英語が使えるようになる人というのは、非常に少ないんじゃないか、と。

→そうです。手に取ってみるとくだけた言い回しやネーティブはこういうなどと、くだくだ書いてあります。だけど、それ以前に基本的なことすら身につけていない日本人が、それらの本を読んで暗記したくだけたフレーズをぽつりと口に出したら最後、相手はとうとうと喋りかけてくるのではと想像します。えてしてこういう本は英米人との共著だったりするのです。

>  日本人の英語に欠けているのは、実際にどんどん自分の口の筋肉を動かして「音づくり」する過程だと考えています。

→米国の大学で働いていたときのこと。住んでいたアパートの裏庭がスクールバス(大学の)の発着場で、いつもこのバス乗りました。無料だったんです。帰りは同じバスに、今度は大学のバス乗り場から乗りました。バス乗り場から乗り込んだ学生らは、終点までの間にぽつりぽつりと降りて、最後はわたしを含めて数人になる。このバスで覚えた英語が、" Next stop, please!" 押しベルが付いているわけではないので、次のバス・ストップで降りる人はそういう言葉を大声で上げるのです。わたしは終点だったのでついぞ、"Next stop, please."と言わずに済みましたが、一度は言ってみたかった。でも、いまでもジーパンの女子学生らが、"Next stop, please." と叫ぶ有り様が耳に残ってます。 耳に残るということでしょうか?

>  俺はそれはいやだ。必ず「間に」いたい。そう考えています。

→熊倉千之という人が中公新書「日本人の表現力と個性」(997)という本を書いているのを最近知って本屋に行きましたが、絶版? それで、古本屋を覗いたら、ありましたありました。540円が250円。この方は、昭和11年生まれ。米国の大学でPh.D.を取得、そのまま25年間米国で日本文学を教え、日本に帰国。「はじめに」でメンションしてますが、二つの文化に宙ぶらりん、つまり両方の文化が分かるうちにこの本を書く、と述べています。この本に、"He is sad."は、日本語には訳せないという風なことを書いてます。これは「彼の状態」を至極「客観的」に述べている文だけど、これを日本語では、「客観的に記述できない」というのです。常に述べる人の気分を通じてしか表現できないというのです。わたしは気づきませんでした。

もうひとつ。英語の間接話法は日本語では直接話法的にしか訳せないと書いてます---これだけ書いてもなんのことか分からないかもしれませんが、そちらにも古本屋があったら、この本に目を通して見てください。なにかしら英米と日本とで意識の動かし方に基本的に大きな違いがありそうです。

> 語学の対象としての言語が、「からっぽ」でなければ、語学というものの激化は不可能です。自分の生活から切れているからこそ、(生活的に「からっぽ」だからこそ)、語学は成り立つ。

→「語学の対象としての英語」と「生活言語としての英語」とを根石さんがdistinctionする意味を、まだわたしは理解し得ていないと思います。
「式としての万有引力の法則」と「月が落下することを認識するものとしての万有引力の法則」とをdistinctionする、とのアナロジーがOKなら、分かります。両方とも同じ物。「お湯をかけない」ラーメンと「お湯をかけたラーメン」との違い、つまり中身は同じなのだけど、心=頭=腹に沁みるか沁みないか、そういう違いでしょうか?

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(根石から)

ko-kaoki> 英米と日本とで意識の動かし方に基本的に大きな違いがありそうです。

 いやあ、英米と日本とでの意識の動かし方は決定的に違うと思います。根本的に違うと思います。熊倉という名字は覚えました。それと英語関係の本とを結びつければ、古本屋で探すことはできます。いつみつかるのかわかりませんが、そういう本を探すのは楽しみです。本質的なことを言えば、通じにくいことになる。これはこの時代の宿命ですが、すでにその宿命をかぶって生きた人がいたのかというような感じを、熊倉さんの本を読む前から感じています。

ko-kaoki> →英会話クラブ−映画で学ぶ英会話シリーズ−「ゴースト:ニューヨークの幻」、発売元:スクリーンプレイ出版株式会社、ISBN4-89407-203-3 C1082 (\5,600) がビデオ・ムービーです。大きな本屋さんなら置いてあります。

 ありがとうございました。
 KAOKIさんのおすすめのものは、買ってみようと思っています。
 今は、古本屋で100円、200円の英会話本を買ってきて、ホームページ上での英語塾のベースとなる教材を、例の語数別分類でやっています。まだ、ノートパソコンのハードディスクに入れて太らせているだけで、少量UPしただけですが、いずれ、大量にUPします。

ko-kaoki> →前の場面に戻って見直したら、何回かこのditto が出てくるのです。me tooのような意味合いですが、 西森マリーさんによると、このdittoという言葉はゴーストがヒットした当時、恋人の間でおおはやりになったのだそうです。西森マリーさんが「映画スクリーンの奥を読む?」(こんな風なタイトルの本だったかなー)の一等最初のペイジで書いてました。これは偶然見つけたので、マリーさんにその旨、メールを出しました。日本語で言えば、A女「あなたのこと、大好き」 、 B同感」

 なるほど。これで、映画のビデオが手に入ったら、dittoに出会う楽しみができました。

 中村保男の「英和翻訳表現辞典」を、教材作成のために買って来ましたが、読んでいると、ぎりぎり考えたが、どうしてもわからないということが書いてあるところがいくつもあり、好感を持ちました。それでも、職業として翻訳をやるなら、清水の舞台から飛び降りるということはやらなければならず、確信のないままに決定しなければならない場面は、翻訳ではしばしば遭遇することだと思われます。それは翻訳の宿命だと思います。翻訳者に全知全能を求めることはできないのですから。ただ、偉い人が馬鹿な翻訳をやっていることをKAOKIさんのように指摘し続けることは必要です。ただ、やたらに体力をとられると思うので、迷訳・誤訳の大ヒット作にターゲットを絞られる方がいいかと、これは余計なおせっかいでしょうか。

 理解力を強めることと、日本語の語感に鈍くならないこと。これの両立はなかなか難しいことのようにも思えます。英語の学習書なんか見ていると、いやあ、日本語の語感が死んでるなあというものをよく目にします。そう思っても、自分でやってみるとこれが難しい。

 KAOKIさんの好きなケリー伊藤さんの本を見ていたら、 

Shrimps don't agree with me. エビは私の身体に合わない。

 というのがありました。「身体に合わない」のが服のサイズなら日本語としていいだろうと思うんですが、エビの場合は、体質に合わないということだろうと思うんです。「身体」とするか「体」とするか「体質」とするか。こういう問題は、ごろごろしていて指摘しきれたもんではない。

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(KAOKIさんから)

(3) distinctions:
これを単純に、”区別”と訳してしまっている。”区別”と言われてもピンと来ません。Quirk氏はこの本の至る所でdistinctionを使っています。英和で、「区別」と引く。別に悪くはないでしょう。でも...。意味は通じるません。最初わたしは悩んだ上で、distinctionって、grammarのことだろうと考えました。で、distinctionの類語をロングマン類語辞典で調べたら、differentiationが出てきた。これを調べたら、conjugation, declension, grammarと出てきた。「ラテン語文法の文法」では、言葉が重なるので、「ラテン語文法の語法」としました。”区別”より分かりやすいでしょう。ここでdistinctionが指しているのは、言葉に見られる語尾変化や格のことを意味しているのです。文法を構成する要素のことを意味しているのです。英語にはドイツ語などのように、目的語の格変化はないわけです。つまり、目的語がdistinctされてない。

こんなこと一人でこつこつやる意味はなんだろうと考えるのですが、意味はなくてもいい。ただ、耐えられないからです。

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(根石から)

ko-kaoki> こんなこと一人でこつこつやる意味はなんだろうと考えるのですが、意味はなくてもいい。ただ、耐えられないからです。

 意味がないなんてことはないと思います。

ko-kaoki> 学生らが、"Next stop, please." と叫ぶ有り様が耳に残ってます。 耳に残るということでしょうか?

>これは、つまりエロスだと思うのです。語学自体は無味乾燥なことが避けられませんが、エロスがあるかないかで、上達が決まるような気がします。Next stop, please. が今でも耳に残っていること、そのことがエロスです。

 「エロス」.........、何かわかりそうで、わからない気がしました。言葉で表現しようとすると、すり抜けていくような。最近仕入れたBookshelfの国語大辞典などをクリックすると、「 プラトンによる哲学用語。絶対的な美と善とを永遠に追い求めてゆく衝動的な生命力」なんて書いてありますが、ピンと来ない。エロスと聞けば、女の裸しか浮かばないわたしの貧弱な想像力では、表現できない。おっしゃっている「エロス」とは、生身の肉体から、肉体の活動を通じて、生身の口の動きから−濡れた唇から−発せられる、そういう”プロセスを経る”ということでしょうか? あるいは、「エロス」とは、肉体に突き刺さるということ。発せられた言葉が、濡れ濡れの隠微な光を発しながら、身に纏わりつく。一旦、濡れてしまえば、忘れない。隠微な音と発せられた雰囲気がへばりつく。

なんかこの頃変です。

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(根石から)


ko-kaoki> エロスと聞けば、女の裸しか浮かばないわたしの貧弱な想像力では、表現できない。おっしゃっている「エロス」とは、生身の肉体から、肉体の活動を通じて、生身の口の動きから−濡れた唇から−発せられる、そういう”プロセスを経る”ということでしょうか?

 ええと、音の響きですね。意味や用途でなくて、その英語の音の響きを直接感じているもののことをエロスと言ってみたんです。もちろん、そこには生身の口の動きというものがありますが、口の動きを見ていようといまいと、響きそのものを感じてしまっているエロスがあるだろう、と。

 余談ですが、私の友達の奥村真さんは、外国語の意味のわからない音が好きで、決して語学には深入りしないのですが、種々雑多な種類の外国語を浅く浅くやるという変な癖があります。ロシア語、朝鮮語あたりから始め、アイヌ語までやっています。意味がわかっちゃうと音がつまんなくなるので、ちょっとだけやるのだそうです。語学の快楽主義者ですね。面白い人です。

ko-kaoki> なんかこの頃変です。

 ditto

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(KAOKIさんから)

下の部分に来て、久しぶりに腹から笑いが出てきました。
涙を出して笑いました。根石さんの素晴らしさがはじけた。

> ko-kaoki> なんかこの頃変です。
>
>  ditto


>  意味がないなんてことはないと思います。

→意味がありました。週刊ST? に、わたしのHPの引用があったと山岸勝榮先生からメールがありました。やばい感じ

> それでも、職業として翻訳をやるなら、清水の舞台から飛び降りるということはやらなければならず、確信のないままに決定しなければならない場面は、翻訳ではしばしば遭遇することだと思われます。それは翻訳の宿命だと思います。翻訳者に全知全能を求めることはできないのですから。

→いやあ、おっしゃる通り。

> 中村保男の「英和翻訳表現辞典」を、教材作成のために買って来ましたが、読んでいると、ぎりぎり考えたが、どうしてもわからないということが書いてあるところがいくつもあり、好感を持ちました。

中村氏は大好きなので、いろいろ著書を持ってます。
「翻訳の秘訣(新潮選書)」とか。この本、古本屋の棚に安値で並んでいると何冊あってもいいと思って買います。

> ただ、偉い人が馬鹿な翻訳をやっていることをKAOKIさんのように指摘し続けることは必要です。ただ、やたらに体力をとられると思うので、迷訳・誤訳の大ヒット作にターゲットを絞られる方がいいかと、これは余計なおせっかいでしょうか。

→わたしは基本的に、生活のために翻訳をやっている方々の誤訳などには目を向けず、英語や翻訳などを教育する立場の方々に興味を持ちました。そういう立場の方々はお互いに不可侵条約でもあるのでしょう、批判の範囲から外れて、英語に対する過ちを撒き散らしていると考えました。出版社の編集員も先生らに対しては、これはおかしいのでは?ととても聞けない雰囲気だそうですし、英語のさして分からない編集員が英語の出版を手がけていることに疑問を呈したかったのです。

> 理解力を強めることと、日本語の語感に鈍くならないこと。これの両立はなかなか難しいことのようにも思えます。英語の学習書なんか見ていると、いやあ、日本語の語感が死んでるなあというものをよく目にします。そう思っても、自分でやってみるとこれが難しい。

→「日本語の語感」というのは多分わたしも知らないのだと思います。知らないけど、いや、これは日本語ではない、とはわかります。英語に関するむしろ昔の本に目を通しますと、随分立派な日本語になっているなと感じます。例えば昭和8年に出版された中川芳太郎著、「英文学風物詩」(研究社)など:

"I don't know whetehr you are familiar with that part of the Midlands which is drained by the Avon. It is the most English part of England. It is a land of rolling pastures rising in higher folds to the westward, until they swell into the malvern Hills."

「君はご存じないかも知れぬが、中部諸州でもアブァン川に沿うたあの辺りは、実に英国の風景を代表する地方で、西に向かうにつれて牧地は漸く高まってマルブァン山脈に極まる」(中川訳)

そう思いませんか? 代名詞のない日本語に展開して行くやりかた見事だと思うのですが。

> 労に謝することが翻訳者に対する基本的な姿勢です。

→賛成です。わたしは基本的に、生活のために限られた時間内で必死に生活のため翻訳する翻訳者の、翻訳には触れないことにしています。翻訳者も時間があれば、もっと精度を上げられたと思うからです。

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(根石から)

ko-kaoki> →意味がありました。週刊ST? に、わたしのHPの引用があったと山岸勝榮先生からメールがありました。やばい感じ。

「週間ST?」とはいかなるものでしょうか。世間知らずの私ゆえ、お教えいただけますでしょうか。山岸勝榮先生とはいかなる先生でしょうか。こちらもお教えいただけたら幸い。

ko-kaoki> marieさんから次の文の一番最後の引用文二文を日本語らしく訳すにはどうしたら良いだろうと問われました。そして回答はしたのですが......。

ko-kaoki> Cruelty is one fashion statement we can all do without. Rue McClanahan (actress)

 こうい言葉は、Rue McClanahan という人の、人となりというものがはっきりしていないと、訳語を確定するのは難しいですね。

 こういう脈絡は成り立たないでしょうか。

 動物を殺さなくてもファッション(業界)は成立しうるはずだ → そうすれば cruelty などという語がファッションを語るときに人の口から出てくるなどということもなくなる

 (動物を殺さないことで)ファッションを語るときに、cruelty などという一語はなくすことができる。

ko-kaoki> oneが良く分からない。

 私は単純に、one statement で「一語」と意訳したのですが、まるで確信はありません。

ko-kaoki>(2) The recklessness with which we sacrifice our sense of decency to maximize profit in the factory farming process sets a pattern for cruelty to our own kind.
Jonathan Kozol (author)

 これは難しいですね。これは発言した人の人となりの問題ではない。言ってることはわかる。しかし、うまく日本語にならないというやつです。
 うまく日本語にならないのは、文中での decency ではないでしょうか。今、たまたま「礼節」というような語を思いましたが、ピンとこない。「生き物たちに対する礼節」という心は、例えばアイヌなどには強くあると思うのですが、この文にはうまくはまらない。

 工場で物を生産するのと同じ方式で動物を飼い、最
大限の利益を得ようとすることで、人間は知らず知ら
ずに自分のおだやかな心の働きを殺してしまう。その
ことで、人間は人間に対する残虐行為のひな型を生み
出してしまう。(根石訳)

 「おだやかな心の働き」とでもしておくのが、私の力ではせいいっぱいというところでしょうか。

ko-kaoki> →わたしは基本的に、生活のために翻訳をやっている方々の誤訳などには目を向けず、英語や翻訳などを教育する立場の方々に興味を持ちました。そういう立場の方々はお互いに不可侵条約でもあるのでしょう、批判の範囲から外れて、英語に対する過ちを撒き散らしていると考えました。

 ここで言われている「不可侵条約」ですが、これは「可侵条約」にすべきだと思います。つまり、ここに言われているのは、大学で英語にかかずらっている方々なのでしょうが、彼らは、英語がわかっているという顔をしつづけなければならないので、ごくろうさんだとは思うし、かわいそうな人たちだとも思うが、こいつらがまた実に無能なやつらで、日本人の英語が外にさらされないための庇護膜を自分で作って自分でかぶってしまうのです。
 アホか、の一言が必要です。
 この種の大学の教員どもの下に、全国の高校・中学の先生たちがへいこらしているのではないでしょうか。庇護膜どもが、と唾を吐きたくなります。
 間違ったら間違ったでいいのです。間違ってしまいました、ごめんなさいと言えばいい。日本に住んで英語をやっていれば間違うことは大いにあり得る。それをまず前提にすべきです。担当の編集者が腐れセンセーどもに何も言えないような雰囲気というのがあるのなら、あっしら、インターネットの英語関係者らで包囲して、優しく見破ってあげましょう。あなたがたの、その象牙の塔は基礎からきちんと崩してあげましょうという心意気は、たかが一私塾をやってきた私にも、塾の心意気としてあるのです。

ko-kaoki> →「日本語の語感」というのは多分わたしも知らないのだと思います。知らないけど、いや、これは日本語ではない、とはわかります。

 日本語を使っているかぎり、知っている・知らないの意識性はともあれ、みんな日本語の語感を使っていると思います。意識的であるかどうかが問題なので、書き言葉で本を作るような人は意識的であるべきだと思うのです。

ko-kaoki> 例えば昭和8年に出版された中川芳太郎著、
「英文学風物詩」(研究社)など:

ko-kaoki> 「君はご存じないかも知れぬが、中部諸州でもアブァン川に沿うたあの辺りは、実に英国の風景を代表する地方で、西に向かうにつれて牧地は漸く高まってマルブァン山脈に極まる」 (中川訳)

 いいですねえ。
 格調があります。
 こういう日本語が使える人が、大学の英語の先生をしているんなら何も文句はない。

>  Shrimps don't agree with me.
>  エビは私の身体に合わない。
>
>  というのがありました。「身体に合わない」のが
服のサイズなら日本語としていいだろうと思うんです
が、・・・

ko-kaoki> ケリーさんのどの本でしょうか?

「たった101語で通じるホワイトハウスの英語」(講談社)の201ページです。英語が達者な人ほど、日本語の語感をおろそかにしやすいという傾向があるような気がします。最近見たのでは、松本道弘という人の本の中に、ああ、これはひどいなあというのがありましたが、具体的には忘れてしまいました。

ko-kaoki> 今度企画室という新しいセクション、といっても全部で5人の小さなセクションで仕事を始めました。その中に英検1級、TOEIC950点というお嬢さんが含まれているのです。彼女、プライドが高いので例えば、そこは不定冠詞だよ、などと口には出せず、うつうつとしています。

 ひやぁ、大変ですね。私が一番会いたくないタイプの人です。アメリカ帰りのアメリカ英語と私が呼ぶところの英語でしょうか。そのタイプの英語にはあまりでかいつらをしてほしくないなあと希望しています。

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(KAOKIさんから)

ところで、そのうちご相談などしたいと勝手に考えてますが、我が社の社員の英語教育はわたしの仕事の一部になりそうです。例の女性と一緒に。ただ、どう教育するかは、難題です。だって、根石さんがお書きになってますように、大学を出た社員のビジネス/技術英語の能力は非常に低いレベルなので、鈴木孝夫がいうように、限られた社員のみが、実力を持てばいいのかなどと考えたりして.....。現実に出会うと、難しくて。海外契約マターでかなりうちは損をしたりしているのです。それは英語が出来る出来ないというよりも、日本の文化しかしらない社員がとても正直者で海外の生き馬の目を抜くきったはったに軽くひねられたりしているというのも大きな要因なのです。日本の外交を見ていても、同じだなと思う時があります。北朝鮮のいいなりになってはいまいかとか、IT革命で米国にひねられているのではないかとか。

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(根石から)

ko-kaoki> 海外契約マターでかなりうちは損をしたりしているのです。それは英語が出来る出来ないというよりも、日本の文化しかしらない社員がとても正直者で海外の生き馬の目を抜くきったはったに軽くひねられたりしているというのも大きな要因なのです。

 非常に興味深い話です。これ、語学力もさることながら、場数を踏まないとどうにもならないかもしれません。ここに、どう語学力の不足がからんでいるのか、計量不可能ですが、必ずからんでいるだろうとは思います。

ko-kaoki> それから、例の「身体」の話、根石さんの名前は出さずに、ケリーさんにメールしたら。ご指摘の通り、といってきました。

 お手数をわずらわせて申し訳ありません。
 名前は出していただいても構わないです。

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(KAOKIさんから)

ところで、marieさんの専攻をご存知ですか?
カイロ大学で比較言語心理学(どういう学問か知りませんが)アラビア語を学んだそうです(本に書いてある)。
「単に英語で話す環境に長い間生きてきた」とありますがそれが何を意味するかは知りません。恐らく母親か父親が米国人か英国人だったのではと想像してます。
マリーさんは、「めいっぱいネイティブ気分」(小学館、ISBN4-09-504409-9)の前書きで、「英語を専門に学ばれた大学教授たちがお書きになった本とは違って、ネイティブの日常感覚で話が進んでいくので、超分かりやすい筈!」と書いています。つまり、実際に使われる場での「英語」の普及を図っているという訳です。このマリーさん、お蕎麦やうどんをお箸で食べるのが超苦手で、だからNHKの食堂などで、フォークでくるくるスパゲティーみたいに巻いて食べてたんだそうです。また、ざるそばは時々手掴みで食べていたそうです。それで,NHKのディレクターから、「マリーさんは日本人離れしているのを越えて、人間離れしてますね!」と言われたそうです。(これも本より)

ケリー伊藤は、CBSのオーディションに合格、ブロードキャスターとして米国の24時間専門局に勤めた。その後、The Asahi Evening News英文ライター、FM横浜、日本波放送の英語制作・キャスター、......いまPlain Englishを指導とか。

日本人が日本に居て、英和・和英・英英辞典をいくら捲り回しても、わからない意味の部分。そういう部分をたちどころに、説明してくれるので、ありがたい人達と思ってます。

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(根石から)

ko-kaoki> 日本人が日本に居て、英和・和英・英英辞典をいくら捲り回しても、わからない意味の部分。そういう部分をたちどころに、説明してくれるので、ありがたい人達と思ってます。

 そうです。私としては、例文を並べていただくのが一番有り難い。説明してもらうより、例文をつき合わせて自分で理解していくことが面白いです。

ko-kaoki> それぞれに学校英語ではどうにもならないという点で一致していて、なんとか、それを改造したいとの意思で活動している点は同じです。

 最近、言語的な磁場というような言葉で考えています。
 言語的な磁場が日本語でできている場所は、英語にとっては、きわめて生きにくい場所だろうと・・・。
この生きにくさが、学校英語ではまるで意識化できない。だから、対処できないのだと、・・・。

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(KAOKIさんから)

> 「週間ST?」とはいかなるものでしょうか。世間知らずの私ゆえ、お教えいただけますでしょうか。山岸勝榮先生と はいかなる先生でしょうか。こちらもお教えいただけたら幸い。

→わたしのHPで先生方の著書のおかしな点を紹介していたのですが、その中に、明海大学教授山岸勝榮氏のものが含まれていました。週間ST(The Japan TIMES の学生版みたいなもので、毎週金曜日発売のウィークリー新聞)に山岸教授が英語に関する連載をしていたのですがその読者から、某HPに先生のことが書いてあると、ブラックメールがあったのだそうです。その後の顛末は省略しますが、ご覧頂ければ分かる通り、わたしの指摘に対する山岸氏の回答を掲載しました。回答に対する疑問もあるのですが、更に談論するのは止めにしました。

後で知ったのですが、例の副島隆彦(ちくま新書、英文法の謎を解くの著者)は、彼が一著者になった「別冊宝島102−欠陥英和辞典の研究」(89年11月24日発行、JICC出版局)で、研究社の英和辞典を欠陥辞書だと、こき下ろしているんですが。それに反論した大学教授らの一人が山岸勝榮教授だったのです。(同教授はスーパーアンカー英和(学研)の編集主幹)

JICC出版局は90年6月に別冊宝島113号で再び辞典の話題を取上げ、最初の論文に反論した大学教授への反・反論を、「タダの予備校講師・副島隆彦が「天下の研究社」をノックアウト−英語辞書大論争!」として公にしたのです。両方読んでみると、副島氏のあらも見えてきます。

こういう論争が良い方向へ実を結ばずに、何か見た目には無毛な形で終わっているのではないか?と懸念します。互いに違いを認めて歩み寄り、学生にとって何がいいのか?という論争に発展しないのはお国柄なのかどうか知りません。山岸勝榮教授は紳士的に対応したのだとは思います。

いまふと思い出したのですが、先日古本屋で、平泉渉・渡部昇一、「英語教育大論争」(昭和50年11月15日第1刷、文芸春秋)を見つけて買いました。文芸春秋誌上の論争、二人の対談(司会役は、例の鈴木孝夫氏)、それに、それぞれの英語勉強法を、一纏めにした本です。話の核は、渡部氏が擁護する「高貴な古典教育」と、平泉氏が不満に思う「日本の英語教育では、国際社会の現場で英語が使えるようにならない」こと。

この論争は、いろいろな反響を呼んだらしいのですが、その後発展的に進んだようにも思えません。お互いに、互いの立場を尊重しつつ元のさやに収まった。だから、今も、繰り返し同じような議論が続いている。いみじくも、鈴木氏が当該本の140頁で、「日本では同業者同士の批判はタブーだ、つまり、内部規制の論理が日本では非常に強い.......」と述べています。論争はしても、それだけで満足して、その先が無い。誰も動かない。無案に流れに掉させば抵抗を感じるだけ。

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(根石から)


 副島隆彦の「英文法の謎を解く」は、今日、書店に注文しました。絶版になっていなければいいが・・・。
 この本は、人が言及するので、以前から、いつか読んでみようと思っていたのですが、今回、これを機会に注文してみました。

ko-kaoki> こういう論争が良い方向へ実を結ばずに、何か見た目には無毛な形で終わっているのではないか?と懸念します。互いに違いを認めて歩み寄り、学生にとって何がいいのか?という論争に発展しないのはお国柄なのかどうか知りません。山岸勝榮教授は紳士的に対応したのだとは思います。

 kaoki さんのホームページの文章を読んで、山岸さんは、なかなか紳士だと思いました。kaoki さんがぶつけた疑問にきちんと答えているのがいい。

ko-kaoki> いまふと思い出したのですが、先日古本屋で、平泉渉/渡部昇一、「英語教育大論争」(昭和50年11月15日第1刷、文芸春秋)を見つけて買いました。文芸春秋誌上の論争、二人の対談(司会役は、例の鈴木孝夫氏)、それに、それぞれの英語勉強法を、一纏めにした本です。話の核は、渡部氏が擁護する「高貴な古典教育」と、平泉氏が不満に思う「日本の英語教育では、国際社会の現場で英語が使えるようにならない」こと。

 渡部氏の主張する「高貴な古典教育」という言い回しに、虫酸が走ります。昭和50年という時代のせいでしょうか。なあにが「高貴な」かと思います。古典は、絶えず現代という時代に呼ばれて蘇生を続けるから古典なのであって、誰がどのようにどの古典を「高貴な」などとあらかじめ決めるのか。大学教授なんぞが決められるものではない。馬鹿たれが、と思いました。
 「高貴」はともかく、日本の古典にもきちんとつきあったような人とか、民俗学の理解が深い人などが、「国際社会の現場で英語が使える」ことがいいと思うのですが、そういう人は、私の狭い視野のせいなのか、見当たりません。

ko-kaoki> →HPに掲載をおはじめになったのを拝見してます。悪書と決め付けるのがいいのかなと、最近考え込んでいます。白黒を付けてしまっていいのかなと。いいところもあり、悪いところもある、そういう本はどうすれば良いのかなと。

 私も、良書・愚書の二分法でやろうとして、少しだけやりましたが、同意したいところで同意し、文句をつけたいところで文句をつけるということになりました。人様の本の部分だけ引用することは、大変失礼なことをするのですが、それに触発されて書いていけば、自分の考えをはっきりさせていくのにいいのではないかと考えているわけです。

ko-kaoki> →例のパンフレット、マンション一階の掲示板に張ってありますが、管理人が、張るなら、五百円出せ(一年張りつづける場合)と言うので、お安いものと、出して、張りつづけています。ついでに小学館のビラもそれに貼り付けました。一肌脱ぎます。

 ありがとうございます。

 「教科書べらべら読み」は今後も続けますが、HP上の語数別分類は途中までで放置してしまいました。それよりなにより、HPを更新する暇がまるでとれません。

 「SENSEI自動発生装置」は、きわものと受け取られるのか、どなたからも問い合わせが来ません。senseiに生徒獲得義務のようなものもないし、ウワマエをハネるようなこともないので、ねずみ講とは違うのですが、私のアクの強さのため、ねずみ講然としていると、ある人から指摘されました。なるほど。作り直そうかと考えていて、「語数別分類」を映画のシナオリに対して行ったらどうかと思いつきました。擬似的なものであれ、映画では言語的な磁場が英語で確保されています。また、練習のあとに、リスニングによる直接理解という楽しみ(ごほうび)が待っているのがいい。日本で一人で英語をやっていても、何のごほうびもないのがつまらないので、人々はなかなか練習を継続できません。映画は多少、そこのところを解消してくれるように思います。

 「語数別分類」の有効性にはいまだ執着しています。必然性はないのですが、蓋然的には確かに語数によって、生じてくる困難というものがあります。塾をやってきた経験で、確かにあるとにらんでいるものがあるのですが、いまだうまく言葉にできません。

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(KAOKIさんから)


英語は色々な意味で必須です。ところが、その英語の社員教育が難しい。企画室では、市場調査などのみでなく、社員の英語教育も面倒を見ることになるのです。

> 最近、言語的な磁場というような言葉で考えています。言語的な磁場が日本語でできている場所は、英語にとっては、きわめて生きにくい場所だろうと・・・。この生きにくさが、学校英語ではまるで意識化できない。だから、対処できないのだと、・・・。

→人に何かを分からせるということは、想像以上に困難だという感じがします。肯いていても分かってはいない、お互いに無案に議論はせず、互いに分かった風をする。「人の意見に耳を傾ける」ということは何処で学ぶのでしょうか? 「耳を傾けて理解できないなら、理由を聞く」ということは何処で学ぶのでしょうか? なるべく自分の考えは表に出さない、という文化はそれはそれで良いのでしょうが、表に出さないというのは、裏にも無いということと同じことになってしまいます。国際社会に出て行くとそれは大きなマイナスになります。はっきり聞かずに誤魔化しているので、後になって、Liquidized Damage を受ける(契約違反で違約金を取られるはめになる)

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(根石から)

ko-kaoki> 石原慎太郎の例の話題が出たので、南京虐殺のサイトを再度アップしたら、また、意地悪メールが次々とマリーさんのアドレスを襲い、メールの機能を失ったとのことです。だから、多分いま、メールが開けられない状態ではないでしょうか?

 困ったことです。これを解決する方法が生まれないと、インターネットが多数者の暴力の場になります。

ko-kaoki> →人に何かを分からせるということは、想像以上に困難だという感じがします。肯いていても分かってはいない、お互いに無案に議論はせず、互いに分かった風をする。

 私は塾で、「わからせる」ということ(教えること)をやりません。わかるのに必要な条件をそろえるということはやります。わかるのは本人がわかるしかないので、教えないのです。例外は、疑問を抱いている人に対してだけです。疑問を抱いている人になら、教えても、わずかな言葉でわかってもらえるので、やることがあります。

ko-kaoki>表に出さないというのは、裏にも無いということと同じことになってしまいます。国際社会に出て行くとそれは大きなマイナスになります。

 ここのところを教えるのも、本当は語学だと思います。こころえのような形で言葉にしても、頭が理解するだけで、「国際社会」という場でのふるまいとして生きることにはならないだろうと思います。
 ある一つの英単語のイメージの核をつかんでいるかいないかで、話がすっと通ったり通らなかったりすることがありますが、そういう核をつかんでいくことが、日本人が外に出てふるまう場合の必須の条件だと思うのですが。

 そういう核をつかまえていくタイプの若い人が数として多く出てくれば、日本人も変わっていくでしょう。

 しかし、そのとき、ついこの間まで私の身をびっしりとり囲んでいた日本のアジア性はスポイルされてしまうのでしょうか。私の心性は、日本がまるでアジアであった時代に形成されました。つまり、農村がまだ村としてきちんと機能していた時代に形成されました。村はすっかり変わりましたが、私の心性はなかなか変わりません。
 英語をしゃべる日本人がもしも増えたとして、そのとき、英語も世界も国際社会もわからない年寄りたち、日本の古いしきたりと日本語だけで育った感覚の年寄りたちが、馬鹿にされ、スポイルされるようなら、人間の心性の融通のきかなさに対して、こまやかさが足りないと考えます。
 我が身を振り返るなら、一度形成された人間の心の性質というものは実に融通がきかないものだと思います。

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