今年6月中旬、私はアメリカはボストンに行きました。
ほんの1週間あまりの旅でした。
友人から、アメリカに永住した従姉妹に30年ぶりに会いに行くと聞き、その道連れとして旅に誘われたのは、出発の1ヶ月前。彼女が我が家にふらりと遊びに来たときでした。
「ほんの気晴らしだと思えばいいわよ」
そんなきっかけで、遊びにいってみようとなった訳です。
ボストンは、アメリカ東海岸、ニューヨークより北にある都市です。いわゆるニューイングランドと呼ばれ、アメリカ建国の礎となった地域だそうです。ヨーロッパ風のたたずまいが残っているということでした。
それまで、私は、アメリカに恐いという印象を強く持っていました。銃社会だというし、人は南にいくほど、はしっこくて危ないと勝手に思っていましたから。
それでも行ってみようかと思ったのは、友人の従姉妹のお宅にステイさせていただけるのと、東海岸だし落ち着いた街だと見聞きしたからです。
だから、元気はつらつ英語なぐりこみ!みたいな風で訪れたわけではありませんでした。とりあえずゆっくり羽を伸ばしてみたかったのです。飛行機の時間が決まっているだけで、タイトなスケジュールはまったくなし。
そんな訳で、名古屋からデトロイト経由ボストンの旅は、はじまりました。
(つづく)
英語アメリカ舌たらず(2)
渡米一日目は、時差の関係でとっても長い一日となります。
機内では2回の食事。出発前に空港で、名古屋名物の味噌カツを食べちゃったりして、大あほです。
そして、機内でのお楽しみ。映画「ショコラ」は、なかなかの佳作でした。
「ショコラ」とはチョコレートのこと。映画での、チョコレートを食べるときの皆の顔が、もう最高です。わたしも、チョコレートの処方箋がほしい!!ってカンジ。
保守的な村とアウトサイダーとの確執がなかなか良く描けているとおもいました。
とにかく、チョコレートがそこかしこにワンポイントとなっているのが文句無しです。
ちなみに、日本語アフレコ版で見ました。気合入ってませんで、あいすいません(^^;)。
てなわけで、1本映画を見て、就寝。
「てらちゃん、てらちゃん!」
Uさん(友人)の声が遠くから聞こえてきます。揺り動かされました。
「デトロイトだよ」
すっかり爆睡。時差ぼけ、うまいこと越えたようです。
デトロイトでは入国審査を受けました。
「カンコウ(観光)?」と入国審査のおにいちゃん。
最初なんだろうと思って聞いてたのですが、日本語の単語でした。日本人旅行者ってのはほんとに多いんだなあ。
それにしても、イギリスでは向こうから日本語ですりよるような場面はありませんでした。
ふむ。
旅は続きます。国内便に乗り継ぎ、一路ボストンへ。
当初ボストンの空港までお迎えが来てくださることになっていたのですが、急遽キャンセルとなり、自力でお宅までたどり着くこととあいなっておりました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(3)
Uさんは、「地球の歩き方」をかなり読み込んでいました。というわけで、イメージトレーニングはバッチリできているようです。
それに、自力でYさんち(Uさんのアメリカに永住している従姉妹。今回のホストファミリーの奥様)にたどり着くことはアメリカでの死活問題(?)なので、これまでYさんと取り交わしたメールとメモをたよりに、Uさんはひたすら攻略法を練っています。
ところが、一方わたしときたら、とるものもとりあえず出発したもので、せっかく買ったガイドブックも目が泳いじゃっててよく目を通せず、もうしわけない、「Uさんに一生ついて行こう」モードに入っていました。
まあ、とりあえず、Yさんのお宅の最寄りの駅まで行ってみようということになりました。私は、Uさんに引きづられるようにして、地下鉄に向かいました。ボストンでは、地下鉄を「T」と呼ぶようです。1ドルでトークンという地下鉄に乗るためのコインを買い、いざ地下鉄に乗りました。この路線は、青で表示されているので、勝手に東西線と呼ぶことにします。
この東西線で、ひとまずGovermment Ctr.まで行きました。ここで、千代田線(緑)に乗り換えです。
ところが千代田線のホームに行ったものの、どれに乗ればいいのかわかりません。なんせ、途中で路線が四方に分岐しているのです。
「この本の地下鉄マップに、最寄り駅が乗ってないよ」
「え?」
「最寄り駅なんだっけ、Berconsfield?」
あたふたしながら、
「執着駅がRiversideというのに乗ればいいんじゃない?」
きょろきょろしながら、私。
ということでなんとか見つけ出して、私達は、飛び乗りました。
ほっとひといき。地下鉄はやがて地上にでます。
そして、BERCONSFIELDへ。
なんとか最寄り駅までたどり着きました。あとはお迎えに来てもらうだけです。公衆電話を探し、いざコールとUさん。
ところが。
「あれ、おかしいなあ」
Uさんがつぶやきました。
「電話がかからないの」
「へ!?」
アメリカで大きな迷子ふたり、さてさて。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(4)
ビーコンズフィールド(BERCONSFIELD)は、住宅地で穏やかなところでした。
人気もありません。
そのときでした。
老婦人が、カートを押して通りかかりました。日本でも最近では乳母車みたいなカートを押して買い物をする方が多いので、へえ、アメリカも日本もかわらないなあと思ったものです。カゴにはスーパーの袋が入っていました。
一方で、私達は相変わらず右往左往しています。
そこへ、
「電話がかからないの?」
と声をかけてくれたのです。
「35セント入れないとかからないのよ」
そういって受話器をあげ、
「電話番号を見せてくれる?」
そいうので、Uさんがメールをプリントアウトしたメモを見せます。
「ケタがたりないわね」
といいながら、何度か電話をしてくれました。我々の手持ちのコインがなくなると、今度は老婦人が自分のお財布からコインをだし、電話をかけてくれたのです。
しかし、かかりません。
おまけに、違う家にかかってしまい、35セントは電話に吸い取られてしまいました。
「それじゃ、家に来て電話してみましょうか。来なさいな」
え!?
我々は、ちょっと驚いていました。
しかし、ここにいてもらちがあきません。善良な老婦人は、「いらっしゃいな」と強く言ってくれているのです。
それで、彼女の家について行くことに決めたのです。
「すみせん」
我々は、ほかに言葉がなく、そういいながら彼女の後を追いました。
さて、踏み切りの先の細い通りを抜けていった時です。生け垣の向こうに一人のおじいさんがいました。
彼女はおじいさんとちょこっとした世間話の後に、私達が途方に暮れていることを話しました。
そして、思い付いたように、おじいさんのところから電話できないか、ともちかけました。
「いいよ」
とおじいさんがうなづきました。
おばあさんは、帰りしなに、
「私の家は、ここからちょっと遠いから、彼の家から電話させてもらうといいわよ。彼はちょっと変わっているけど、とってもいい人だから、安心して」
そういって帰っていきました。
「おいで、おいで」
おじいさんは、気さくに家の中に入ってと、言ってくれたのでした。
おじいさんが家に入ると、奥から奥様らしい声がし、それに答えるように、何か言っていました。
多分、「道に迷ったひとがいて、電話を使わせてあげようと思っているのだ」というようなことだったと思います。
おじいさんは改めて電話番号を見ました。
「3ケタたりないんだよ」
ああ、3ケタ足りないのかぁ。まだ日が明るいからいいけど、分からなかったらどうしたらいいのかなあ。
「住所はわかるかね」
おじいさんが言いました。
「ああ」とばかりに、Uさんがガイドブックになぐりがきした簡単な住所があることを思い出しました。そのページを開きます。
「これは、(おじいさんの)家の前の道を、左に歩いていったところだよ。道路の左側にあるから。近いよ」
そう言ってから、
「もしかして、奥さんが日本人で、旦那さんがユダヤ人の家かね? 小さい子供もいただろう?」
「そうです(ちいさな子供はいないけど^^;)!」
Uさんが飛び跳ねるように言いました。
すると、おじいさんが、町内会の住所録のような冊子を持ってきて、Yさんの住所をさがしてくれたのです。
「ああ、載ってるね。これだろ?」
これだ、と我々はうなずきました。
本当にどうもありがとう、ほかに言葉がうかばないほど、なんどもなんどもお礼を言い、我々はおじいさんの家を後にしました。
アメリカの人の、庶民的な気さくさを目の当たりにした思いでした。
アメリカという国にはとってもよいところもあるのだ、と強く感じました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(5)
おじいさんの説明どおり、我々は閑静な住宅街の道を歩いていきました。
道路を挟んで左右に家が立ち並んでいます。どちらのお宅も生け垣が低く、青々とした芝がきれいに刈り込まれていました。ところどころに大きな木もみえます。私は知らず知らずに、深呼吸をしていました。
さて、どの家も玄関のドアや柱のあたりに番号がふってあります。住所のようです。それを確認しながら、ふと思い出しました。
スコットランドのエジンバラのことです。紹介された安宿まで歩いているつもりが、どうも違うようで不安になり適当なオフィスに飛び込みで住所を確認してもらったことがありました。応対してくれた方が、
「もう近くまできてるわよ。番地は、この道路のこっち側に向かって左側が奇数、右側が偶数になってるの。あなたの目指している住所なら、むかって右側よ」
と教えてくれたのを思い出しました。
ああ、ここも同じなんだ。
途中、甘い香りが立ち込めた薔薇御殿の前を通り、しばらく歩くと、やっとYさんの家が見つかりました。もちろん、おじいさんが言った通り左側にです。
「ここだ」
「よかった、ついた」
Uさんと、一旦外玄関に入りました。しかし、内玄関の中に入る方法がわかりません。
そこで、外に出て、庭の芝に腰を下ろしてYさんを待つことにしました。
待つこと、10分、20分ぐらいたったころでしょうか。
一台の車がやってきて、我々の前で停止しました。
「ああ、ごめんごめん。家の中入っててもよかったのに」
明るい声が響きました。日本語です。
はつらつとして、親しみやすい人柄が一目でわかりました。
その人こそが、今回お世話になるUさんの従姉妹、Yさんだったのです。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(6)
我々は、立ち上がりました。
そしてYさんに、
「お世話になります」
と挨拶をしながら、ふと見ると、車から女の子達が、でてくれわでてくるわ。着飾って、すこし大人っぽく、お化粧もしているようです。
そうか。
今日はYさんの娘さんが、中学校の卒業式で記念パーティーだったのです。忘れてました。
車に乗っていた子達は、娘さんの同級生です。
みんな大人びていて、私としてはちょっぴりタジタジでした。そこへYさんが、
「この子とこの子とこの子は日本語がしゃべれて、この子とこの子はしゃべれないの」
と、とっても早口で紹介してくれました。
「とりあえず、荷物、部屋の方に置いてこようか」
とYさん。
「はい」
と私達。
女の子達も一緒に、どどどどどっとYさんのお宅に流れ込みました。そして、私とUさんは、3階の部屋に通されました。
「これが、Yさんの瞑想の部屋かぁ」
とUさん。
「そうよ」
「使っちゃっていいんですか」
と私。
「いいの、いいの」
とYさん。
布団も、ちゃんと運び込んであります。
「で、いいかな。もうレストランの予約の時間ギリギリだから、すぐ出られる?」
私達は、うなずきました。
そして、下に降り、靴を履いて外へ出ました。
女の子達もどどどどどどっと降りてきました。
「お母さん、全員乗れる?」
Yさんの娘さんの、Mちゃんです。アメリカと日本のハーフで、肌の色がとっても白くてピンクいろをしています。とってもきれいな肌と東洋人の顔立ちが大人びてみえます。Yさんと話す時は、日本語をつかっています。
「途中で、○○ちゃんを降ろすし、もうぎゅうぎゅうづめすれば、乗れる!」
車は途中で○○ちゃんを送り届け、一路レストランに向かったのであります。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(7)
レストランには、もうすでに、何人かがきていました。
長老のおじいさん、それから、中年の男性と、お年を召した女性がいました。
長老には握手せにゃなるまい。と私は長老とかたく握手をしたのでした。
そして、あとの二人には、席が遠かったこともあって、軽く会釈をしただけでした。
挨拶しちゃった後で、Yさんが説明してくれました。中年の男性Dさんは、Yさんの旦那様、つまり我々がお世話になる張本人です。お年を召した女性は、Dさんのお母さん、Mちゃん達にとっては、おばあちゃんに当たります。
じゃああのじいさんは?
「おばあちゃんのボーイフレンドなの。3年前におじいちゃんを亡くして、これ以上の人はいなかいのに、と涙に明け暮れていたのに、すぐボーイフレンドつくっちゃって」
あらまあ。
「好きなものをたのんで。アメリカの料理はものすごくでかいから、二人でシェアしたらいいわよ」
ということで、我々はサンドイッチにしました。
ところが出てきたのは、特盛のサラダ。お皿がたらいのようです。
ア、ア、アメリカの人はこれひとりでたべるんかい!
みると、Mちゃんはでっかいお皿にのったスパゲティを平気で食べています。すごい。
さて、Mちゃんをはじめ女の子達は、鳥が囀るように、おしゃべりをしています。
ちっとも聞き取れません。日本でもティーンネイジャーの話ことばは、よく聞き取れないときがあるります。そこへきてただでさえ外国語なので、彼女達のおしゃべりは、もう環境音楽です。
それにしても、発音がものすごくきれいなことに驚きました。これまでは各国行ったにせよ、しょせん観光客です。新鮮な驚きでした。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(8)
「イブニングevening」という単語は、たしか中学校の英語で覚えたように思います。夕飯より前の時間だったか、食べた後の時間だったか、日没から寝る前までだったか、忘れちゃいました。
でも、夜の8時ぐらいまで薄明るいと、放課後や会社からの退社時間から、小一時間か二時間ぐらいは、有意義に時間が使えそうです。こんな時は、イブニングということばが、緯度の高いヨーロッパで生まれたということを実感します。
「今日はお疲れだから、早いところシャワーを浴びるといいわよ」
そういわれて、一番風呂(シャワーだけど)をごちそうになりました。
こうして、ボストン初日は、シャワーを浴びさっぱりしてから、早々に眠りについたのでした。
《2日目》
今日はYさんが、洋服の返却をするというので、ショッピングモールやスーパーマーケット行脚をしました。
アメリカって国は、なんというか面白い国です。クーリングオフっていうんでしょうか、そういうのがしっかり(?)してます。たとえば、1着ドレスを買ったとします。結婚式だのパーティーだのでそれを着ます。それを、クーリングオフの期間内(1週間ぐらいだったかな)で返せば、お金も戻ってくるというのです。頭金がかかるものの、体のいい貸衣装屋です。
ちなみに、Yさんは、サイズが合わなかったから返品したようです。念のため。
YさんとUさんが、洋服を返しにいったり、見て歩いてたりする間に、私はトイレ(まあ恥ずし)に行きたくなりました。それで、トイレ探しに歩いていると、アンケートをとっている女の子がいました。彼女から、
「アンケートにご協力ください」
といわれたのを断ったのですが、それから、ああ、彼女に聞けばいいやと思い付きました。
「すみません、トイレはどこですか?」
彼女は快く説明してくれました。
「ここまっすぐ行って、エスカレーターがあるのですが、そのすぐ先にあります」
「あの、レストルームの看板のとこですか」
「そうです」
「ありがとう」
まあ、まるでNHKのワンポイント英会話のような会話です。
ところで、「トイレ」ってなんて言えばいいんでしょうか。
前に行っていた英会話学校の先生に、女性が使う言い回しはないか、と聞いたのですが、「トイレ」でいいというのです。
でも、前にオーストラリアの女の子は、「バスルームbathroom」という言い方をしていました。
というわけで、先に書いた第一声の「トイレ」を、「バスルーム」を使って尋ねてみたのです。結果は使えました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(9)
それから、でっかいスーパーマーケットにも行きました。
最近うちの近所でもカインズホームとか、倉庫がそのまま店舗になっていて、カートにがんがん商品を入れて、買うようなところができてきました。まあ、その原形といっていいかと思います。
ここは、主に家庭雑貨、大工道具をとりそろえています。色別にきれいな食器やクロスやらが並んでいます。部屋ごと全部コーディネートできそうな勢いです。
それにしても、いやあ、何でも、コップ一個をとっても、でかいのでした。
こうしているうちに時間はお昼です。
お昼は、ビュッフェ形式で食べ放題のタイ料理レストランに行きました。
べつに、食べ放題がいいだとか、安いからいいだとか、タイカレーが食べられるとか、そういうことで、YさんやUさんにプレッシャーをかけ、無理矢理そのレストランにしてもらったとか、そういう訳ではないんですよ。あくまでも。ええ、あくまでも。
いずれにせよ、一向はたらふく食べ、またまたマーケットめぐりの旅にでかけます
(世界の車窓から風)。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(10)
次に訪れたのは、スーパーマーケットでした。
会員制で食料品が安く買えます。Yさんは、あさってYさん宅でやる予定のバーベキューのための買い出しで大忙しです。
アメリカでは、人が集まるというとバーベキューのようです。
このパーティーの参加者は、日本語学校のPTAとその子供たちです。ボストンの辺りに住む日系の子供たちは、平日は通常の学校に通って、土日にこの日本語学校に通っているようです。遠い人では、片道4時間もかけて、この学校に通っている方もおられるようです。アメリカで暮らすうちに、子供たちの日本語は立ち止まってしまうらしい、あるいは失われてしまうらしい。これが暮らす土地の言語や習慣がもつ「磁場」の強さゆえなのでしょう。
さて私はといいますと、ここで、キャンディの詰め合わせを買いました。塾の皆にあげようかなと思ってです。
それから次に訪れたのは、衣料品のスーパーマーケットでした。
YさんとUさんが買い物をしている間に、私も帰国する日に生まれる姪っ子のドレスを物色しとりました。ここでピンク色のドレスと柔らかそうな産着を購入。弟夫婦へのお土産としました。
子供時代って、遊んで、笑って、怒られて、1日がとっても長かったように思いました。それが、今じゃ光陰矢のごとし、頭かくして尻隠さずです(意味不明)。
端から見れば、子供時代など一瞬です。
姪っ子が、このドレスを身に着けるのもほんの刹那のことに違いありません。
そういいながらも、なにかしてやりたいと思う今日この頃なのでした。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(11)
なんちって。
家に戻り、時間は7時頃でしょうか。辺りはまだ明るいでした。
「ご飯まで、あたり散歩してみたら?」
Yさんが言います。
「外歩いてても大丈夫ですか」
聞くと、Yさん。
「まだ明るいし。この辺りは、大丈夫よ。道路を下ったら、右へ、右へと廻ってくると家に辿り着くから、行ってらっしゃいな」
というわけで、私はUさんと一緒に散歩をしたのであります。
まさか、アメリカでこんな散歩ができるとは、思っていませんでした。
家の前に戻ってきたのが、8時ぐらいでしょうか。あたりは、やっと夕暮れになりました。
その晩、夕食を食べながら、Yさんの夫であるDさんと、仕事の話をしました。
Uさんは、環境評価アセスメントに関係した仕事をしていると説明しました。そして、ひととおり彼女が説明した後で、私の仕事の話となりました。まいったな、こりゃ(^^;)。
シティプランナーだったと簡単に言ってその場をすごしました。冷や汗モノです。
それが、英語という壁があったせいも多分にあるのですが、それ以前に日本語でもうまく説明できない、曖昧模糊とした職域だったと言っておきましょう。つまりは、会社でやり手のいないような絵空事を書く仕事で、言ってしまえば建設行政のためのマッチポンプです。
助かったのは、Dさんがそれ以上突っ込んでくれなかったことです。
こうして、2日目の夜は過ぎていきました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(12)
《3日目》です。
今日の目玉は、ボストン美術館に行くことです。
一応、世界3大美術館といわれているそうですが、、、。
とにかく、保存状態が非常にいいということと、東洋文化、日本文化の所蔵品目が多いということです。
最寄りの駅、ビーコンスフィールドから地下鉄に乗り込もうとしたら、黒人の女性運転手さんが、「コインじゃなきゃだめ」の一点張り。
最後には、どうしたらいいか分からない我々一行に、
「今度乗ったときに払って!」
と冷たくあしわられました。仕事時代に通ってたバスでも、大銭もっていてもコインなしのとき、「次回払ってください」と言われたもんだったなあ。
ここ数日ボストンではめずらしいほどの高温だそうです。ということで地下鉄の中は、快適です。ところがです。
冷房の冷たさと、ギシギシいう地下鉄の揺れとあいまって、Uさんの調子が悪くなってしまいました。いやな汗をかいています。
さて大変です。後ついてけば大丈夫とはいえない状況になってまいりました。ボストン美術館の最寄り駅もよくわかりません。
そこで、私は、後ろの席にいた男性にたずねしました。
「ボストン美術館に行きたいです。どこの駅でしょうか」
「次の駅だよ」
しかめっつらのまま、男性は言いました。
すると、たしかに駅は美術館の真ん前でとまりました。
依然体調がすぐれない、Uさんを先に降ろしてから、その男性に向かって大声で、
「どうもありがとうございました」
というと、さすがににっこりして笑ってくれたのでした。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(13)
さて、不思議なことに、英語でしゃべろうとして、「えいやさ!」と重い腰を上げるようなしんどさを感じないのです。
もちろん、多くは買い物時や飛行機の機内でのスチュワーデスさんとの会話だったり、決まり文句が多いのですが、おそらく塾の練習でほぼ毎日英語に触れているためだと思います、余裕があるのです。
たとえば、微々たる話ですけど、
「コーヒーと紅茶、どちらにします?」
と言われてものすごく緊張して、他のを頼みたいのに「コーヒーをお願いします」と頼んでしまったりしていたのが、
「なにがあるの?」
と聞く余裕ができたりです。
それが、英会話教室に通っていた時と素読舎に通っている時とで、あまり差がないか、あるいはそれ以上に会話するのに力が抜けました。それならば、英会話学校に行かなくても、英語の磁場のないところで身につけた英語で充分じゃないかと、思いました。
また、よく英会話学校には、「白人に英語を教えてもらおう」といううたい文句があります。そのためか、英語に対する立場が、そう思うと思わないとにかかわらず「英語を持つ人は偉いという主従関係」が発生してしまいます。でも、塾の場合、英語は会話の道具でしかないとまざまざと示されます。しょせん教える側も学ぶ側も日本人です。英語ができるかできないかは、練習の差ぐらいなことです。そうやって覚えた英語は、コミュニケーションの道具にすぎません。そして、それでいいのです。
それから、漠然とですが英語の意味のようなものが聞き取れる瞬間がありました。日本語に訳さず聞こえてきます。理由はわかりません。それが正しく捉えているものなのかは、まだまだ自信が持てませんが。
これは、電話でレッスンと中学の教科書のおかげのように思います。映画の音声を四六時中聞いていることや、中学英語に載っている使える英語のおかげのように思います。
(つづく)
【トピックス】
英語は道具か?(1) 投稿者:根石吉久 投稿日: 8月 6日(月)05時38分44秒
いくこへ
>塾の場合、英語は会話の道具でしかないとまざまざと示されます。しょせん教
える側も学ぶ側も日本人です。英語ができるかできないかは、練習の差ぐらいな
ことです。そうやって覚えた英語は、コミュニケーションの道具にすぎません。
そして、それでいいのです。
素読舎に対するとてつもないつかまえ方だと思いました。
私は、「英語=道具」観はとりません。また、世上に勢いのある「コミュニケーション第一論」もとりません。言葉は道具としての一面があるのは確かなので、道具として使うことはもちろん私もします。しかし、「言語=道具」ではない。言語は必ず道具をはみ出す何かです。
私にとっての日本語が単に「道具」でないのは自分には明らかです。日本語が私の基底を養って作ってくれたのだと思うので、「道具」としてとらえるのは、言葉に対する不遜な態度だと思っています。
英語は私の基底を養ってくれた言語ではありません。そして、日本語で養われた基底に何か非常に異質なものを置く言語であることも間違いありません。日本語で養われた基底が、この異質なものを受胎することで何がもたらされるのか。日本語にとっての単なるノイズになるのか、それとも日本語を鍛える作用になるのか、それは英語観あるいは言語観によって分かれるのだと思っています。
自分の意識を英語と日本語が相互に作用を及ぼす場とすることができるのも、その相互作用が生じることが可能になるのも、英語が単なる道具ではなく「言葉」だからです。
いずれにせよ、私は英語というものを、絶えず日本語との関係の中で考えています。日本語で育った人間としてはきわめて当然なことだと思っています。
お手本としての範型は語学の「机上」では絶対に必要ですが、ひとたび「机上」を離れて、生活過程に入ったなら、範型は絶えず破られ、忘れられるべきです。範型から得られたエッセンスだけが動いていればいい。私が考えているのは、あるいは日本語そのものでもなければ英語そのものでもなく、その双方から得られる別種のエッセンスがぶつかり合う時の相互作用です。あるいはその反発と融合の繰り返しが作る普遍性です。
異質なエッセンスの相互作用、その反発と融合が作る普遍性ということを考えたときに、いつも思い浮かぶ言葉は、「ニューヨーク」です。
英語は道具か?(2) 投稿者:根石吉久 投稿日: 8月 6日(月)05時39分37秒
誤解されることを恐れないで言うなら、日本在住のまま英語をやることは、自分の意識を「ニューヨーク化」することではないでしょうか。私は、このことを「アメリカ化」とはまるで異質なことと考えています。ほとんど正反対のベクトルだと思うことさえあります。ニューヨークはアメリカじゃない、と言ったら、ウドがその通りだと言ったので、こんなに簡単に話が通じていいのかとびっくりしたことがありましたが、その時、確かに話は通じていました。ウドはニューヨークに住んでいたことがあります。
お手本や範型に従うだけの範囲にとどまる人にはなかなかわかってもらえないことですが、エッセンスが動くことによる「変形」は英語という言語にとっての新しい富なのです。100人の人がいれば、おそらく100人に近い人がこれを富だとは思わず、「変なもの」だと見ます。とりわけ日本人の卑下根性がそう見ます。
しかし、英語という言語自体が口をきけたなら、英語はそれを富だと言うと思っています。また、日本語という言語自体が口をきけたなら、やはりそれを日本語にとっての新しい富だと言うと思います。
私が英語をやっているのは、(下世話方面では生活のためですが)もう一つには、自分を養ってくれた日本語に対する恩返しだとも思っています。日本語によって養われた基底に英語が媒介にされた時に得られるエッセンスは、英語そのものでもなく日本語そのものでもないが、あくまでその二つの言語に同時に触れています。あるいは、へその緒を二本持つひとつの生き物です。
単に道具として英語が使えればいいのであれば、日本に住み続けて英語をやるなどということは圧倒的に不利なことです。
「日本にいてやる英語」が単なる道具であってたまるかという気持ちが私にはあります。その程度のものを持つのにこんなに苦労する必要はない。本当に道具だけのことなら、こんな苦労は他でして、その苦労で金を作り、通訳でも雇っていた方がいい。本当に道具だけのことだったら、私はそうします。商社に勤めているとか、日々の実務で英語が必要なら、話は別ですが・・・。
圧倒的に不利な条件を逆手にとらないと、日本にいつづけて英語をやることの豊かな意味に気づかないままで終わると思います。英語をやって、こんなに苦労してこんなに実りの少ない土地であることが、普遍という小さな穀物をもたらさないのであれば、私は決して英語などやりません。
机の前に座り込み語学として英語をやることが、自分をとりかこむ時代の制約を越え出る契機となりうるのではないかと思えないなら、英語などやりません。
RE:英語は道具か 投稿者:いくこ 投稿日: 8月 6日(月)15時07分10秒
根石さんへ
おっしゃんの書き込みを読みました。うーむ、とうなるご指摘でした。
まだ完全に読み切れていないので、じっくり読んでまた、書き込みをしたいと思います。
また、私は、おっしゃんの文面に出てくる単語の定義がしっかりと読み取れていないです。
稚拙な質問をさせていただくかもしれません、その時は、よろしくお願いいたします。
すこし考えたことを書きます。いや、これは反芻です。
私にとっても、確かに日本語は単なる道具ではありませんでした。
やはり日本語が、私の基底を養ってくれたということは事実であると思いました。
「道具」としてとらえるのは、言葉に対する不遜な態度だと思いました。
親の恩を知らずに、好き勝手な物言いをしているような気持ちになりました。
英語アメリカ舌足らず(14)
さて、ボストン美術館です。
こちらは、世界で屈指の東洋美術品が収められた美術館だそうです。
といっても、アメリカの美術館です。
アメリカらしいなと思ったのは、アメリカの17世紀から現代にわたる美術品・民芸品などの展示です。洗練された欧米文化とは違った、実利的な品々が多くあります。
それから、中南米の文化財もあります。純金のアクセサリーなどきれいな細工を施したものがいくつもありました。
「こういうイヤリングとかペンダントとか、複製したアクセサリーあったらほしいよね」
なんて、いいながら展示を見て歩きました。
東洋美術の展示室もありました。なかなかの展示品の数々です。保存状態も大変いいそうです。ただ、難を言えば、東洋美術としてインドも含むアジア地域の品々を、ひとくくりで展示されていたのは、すこしむず痒い気がしました。まあ裏を返せば、日本の美術館の展示の仕方も、見る人が見れば、
「なんでこういう展示の仕方をするもんかね」
というところかもしれません。
さて、美術館の通路からは四方八方に展示室があります。また、その部屋にもいくつかの出入り口があります。そうしているうちに、壁づたいに歩いているつもりが、どんどん奥に進んでいってしまって、まるで入れ子状態です、ついには迷ってしまいました。ひどいときには同じ所を何度もまわっていました。
とはいえ、お昼過ぎには、なんとかUさんとも再会。
お昼は、ミュージアムショップの横にある、カフェでとりました。高い天井に明り採りがあり、白て統一された空間は、とても清潔さを感じます。サンドイッチが来るまでのあいだ、ガラス越しに見えるミュージアムショップを覗きます。なかなか面白いものがありそうで、お客さんも入っています。
食事のあと、ショップによってみました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(15)
ミュージアムショップは、いろいろなものを売っています。本から宝石から、スカーフからなにやら売っています。
でも、宝石には、美術館の展示品の複製みたいなものは売っていませんでした。
つまらん。なにか理由がありそうです。
ここで、自分へのおみやげとして、ノーマン・ロックウェルの画集を買いました。良い買い物をしました。
それから、Yさんご家族へのお土産を買おうということになりました。ネクタイ、スカーフなどなどです。
それに思いついて、もう一品スカーフを購入しました。そのとき、色違いのを店員さんが出してきたので、
「それは、縁の色が違う。それから、下地が黒い色の方が欲しい」
とかなんとか、やっとこすっとこ説明して、店員さんが、理解してくれたので、在庫を調べてもらいました。
その時です。とっても小さな声で店員さんは、独り言をいいました。
「あ、在庫あった」
これは、明らかに日本語です。東洋系だということは一目で分かりましたが、日本人だとは思いませんでした。
でももう、そのささやきは、聞こえなかったことにして、
「サンキュー、べりーまっち」
と、言って売り場を後にしました。
こんなとき、私はとっても悲しい疲れを感じます。
どこの国に行こうが、まずは日本語で話し掛けるぐらいな気持ちがない自分に、悲しさを感じるのです。
実は、前にも同じことをしました。ヘルシンキの空港でです。フィンランドの三越みたいなデパートの出店が空港内にありました。なんだったろう、絵葉書かなにかが何か欲しくて店員さんに英語で尋ねたら、
「うちには置いてないので、いったん外に出て、そこで買ってください」
と言われました。英語です。
そうですか、ありがとうございました、と会釈したときです。胸のバッジが見えました。
英語と日本語が「しゃべれますバッジ」をつけているじゃありませんか。よく見れば、名前も佐藤さんだかなんだか、とにかく日本の名字です。
は〜。
深いため息とともに、なにやってるんだろう、じぶん、と思いました。
というわけで、なんとなくもやもやしつつ、ボストン美術館を後にしたのでございます。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(16)
帰りの地下鉄で、Uさんは、気分が悪くなってしまいました。
例のごとく、クーラーがききすぎている上、ガタゴトと揺れるのです。
なんとか、ビーコンズフィールドについたのですが、もう大変です。それでもなんとか家にたどり着きました。
家にもどると、日本語学校のPTAの方々と子供たちが、バーベキューを終えてくつろいでいました。
Yさんに、気分が悪くなったことを話し、外の芝生の上に、タオルでも敷いて寝ていることにしました。
しばらくすると、子供たちが外で遊び始めました。9歳を筆頭に女の子達が、元気いっぱい走り回っています。ときには、虫を捕まえてきては、見せてくれます。
Uさんの専攻は、環境アセスメントで、植物をはじめ動物やら昆虫やらなにやら、大変物知りです。
気分の悪いなか、子供たちが採ってくる昆虫の名前を教えてあげていました。
私は、肉体派(?)ということで、子供たちと家の周りを追いかけっこをしました。子供たちの明るい笑い声が響きます。
日本でも、こんな声を聞くことは、ほんとうになくなりました。
それから、小さな彼女たちの英単語の発音には、いやはやとても驚きました。幼稚園の女の子に、何度か発音してもらって、私が真似して言うのをやってみましたが、口の筋肉が思うように動きません。
ああ、彼らがやがて帰国子女と呼ばれるのだな、と思いました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(17)
夕食のあとは、Mちゃんがピアノで上手く弾けないところがある、というので、Uさんがお手本を弾いてみせたりしていました。私もそれを聞きながら、ソファーでくつろいでいます。すると、一家がみなリビングに集まったので、お土産大会を開くことにしました。例の、美術館でのお土産です。D父さんには、ネクタイをプレゼントしました。
「毎日、ビジネススーツを着ていますか」
と私は尋ねました。
すると、Tシャツをひっぱって、すまなさそうに笑いながら、
「これが私の仕事着」
と言いました。
「ネクタイは、1年に1回か2回するかな。でも、ありがとう」
D父さんは、本当にものしずかで、温かい人です。
だからでしょう、KくんにもMちゃんにも、心根の底にどしんとしたものがある感じがします。リビングに一家の開放的で、柔らかい居心地の良さが広がっていました。
こうして、ボストン3日目の夜過ぎていったのでした。
《4日目》
今日は、Uさんの大学時代の先輩Kご夫婦のお宅に、くっついて行ってしまいました。
もともとはバーベキューの予定だったのが、雨で中止となり、Kさんのお宅で過ごすこととなったのです。そのまえに時間が余ってしまったので、小さな歴史博物館に行くことになりました。
中に入ってちょっと驚いたことといえば、博物館の一角を借り切ってパーティーをしていたことです。でも、こういうことは、アメリカではよくあるらしいのです。
博物館は、アメリカ独立戦争の古戦場にあるため、そのころの歴史についてのブース、開拓時代のアメリカの様子を展示しているブース、アメリカやボストン近郊での技術の発展を展示したブース、写真のブースなどがありました。
いわば、アメリカてんこもりといったかんじです。
もう一つ、驚いたのは、Kさんちの娘さんEちゃんです。博物館には体験学習みたいな部屋があって、パソコンやちょっとしたゲームなどが置いてあります。そこに、アメリカの形をしたジグソーパズルがあり、もう真剣、熱中してます。ちなみにEちゃんは、4つです。
その時です。雷の音です。
みごと1つめを完成させたEちゃんは、2つめのジグソーパズルに入ろうとしています。
「E、今日はこれぐらいにしておかない?」
奥様がEちゃんに話しかけます。でも、聞く耳もたずで、Eちゃんはパズルを続行です。彼女がまだ小さいので、ちょっとばかり私の方が早くピースを見つけられます。
「あ、発見した。これじゃない?」
なんて言っていると、
「あんまり、発見しないで!」
とお返事。りっぱなものです。
一方、屋根をたたく雨の音が本格的になってきました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(18)
激しい雨と雷の音が、いっそう激しくなっています。
雨が小ぶりになるまで、売店のあたりで、休んでいました。
ミュージアムショップの横に、ルート66のブースがあって、ほんとにアメリカの夢の道路だったんだなと思いました。
ところで、ミュージアムショップで、かねてから欲しかったTシャツを買いました。すると、ひどい雷が鳴っていて、近くに落ちたようでした。
カードで買おうと思って、カードを渡したら品のいい売店のおばちゃんがしかめつらしていたので、私に何かあったのかなと思って心配していたら、
「大丈夫。機械のせいだから、安心して」
とにっこり言ってくれました。ほっとしました。
さて、屋根にあたる音から、雨は多少小降りになったように思いました。
夫Kさんは、車を入り口に寄せてくると言って出て行きました。お父さんっていうのはこんな時大変ですね。なんとか車が玄関に横付けできたので、博物館から出てきたのですが、これがまた水がたまっちゃって、大変。やっとこ、皆が乗り込みました。
雨水管がすぐあふれちゃうようです。
そして、一同はKさんご夫妻宅におじゃますることとなりました。
ところで、Kさんご夫妻の宝物Eちゃんは自称お姫さまと言ってました。そのくったくのないこと!
ピンク色が好きで、お土産のこんぺいとうから、ピンク色のものばかり選んで食べてしまうという徹底ぶりです。それからパソコンをがんがん使っています。とくに教えたりしないで、動かせるようになったというからすごいものです。使っていらなくなったアイコンをちゃんとごみ箱(デスクトップにあるごみ箱です)に捨てたり。おどろきです。
「今の子はみんな結構つかえるのよ」
と夫人が言ってました。さて、どうなんでしょう。しかし、うむ、かしこい。
さて、Eちゃんは遊んでくれる人が来ると大喜びだそうです。というわけで、私はEちゃんとパソコンであそんだり、お人形で遊んだり、Eちゃんの部屋でたくさんのおもちゃを見せてもらいました。
というわけで、Kさんご夫妻とUさんはゆっくりお話ができたようです。
なごやかで、とっても穏やかなご夫婦でした。
お別れの時間になって、Eちゃんにメールするね、と約束しました。そして、どしゃ降りのなかを再び夫Kさんに車で最寄りの地下鉄駅まで送ってもらい、我々は一路、ビーコンズフィールドを目指したのでした。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(19)
雨の中地下鉄から降りて、Yさんに電話をするとすぐ駆けつけてくださって、車にとびのりました。とんだ雨です。
家に帰って、さっそくシャワーを浴びさせてもらって、部屋に早めにこもりました。
特に予定があるでもないので、Yさんに
「明日は、ボストンコモンに行ってくるといいよ。あのあたりなら、なんでもあるし」
ということで、とりあえず、ボストンコモン(公園)でゆっくりしながら、歩くことにしました。
《5日目》
ゆっくり起きると、もうD父さん、Mちゃん、Yさんはもうお出かけ。Kくんは、まだ眠っていました。Kくんに案内についていってもらったらということでしたが、声かけるの忘れちゃって出かけちゃいました。
千代田線(緑)に乗り、いざ都心へ。
階段を上ると、そこには大きな公園がありました。
ボストン・コモンです。
我々は、公園の中に通りていくと、身障者の方がコモンの池のごみを拾う仕事をしていました。なじみの大きな黒人の人が身障者の方と話しこんでいます。
そんなところへ、我々は通り掛かりました。Uさんがなにか見つけて、水中のごみに手を出そうとした時です。
「お嬢さん、手が汚れるから、やめてください。ごみひろいは私の仕事ですから」
といいます。
すると、ひとひらの蝶々が水面にひらひらと落ちてしまいました。
Uさんが、素手で拾おうとするので、私はノートを破って、彼女にわたしました。手を汚さないでも拾えるんじゃないかと思ったからです。案の定、手を汚さずに蝶々はなんとか掬い上げることができました。
しかし、蝶々は、羽が水に浸ってしまい、重そうです。身動きがとれないようでした。しばらくしゃがんで、様子を見ていました。すると、羽が微かにですが動いたようです。
「生きてる」
と黒人の人が言ってくれました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(20)
さて、今日はどうしましょう。昨日とはうって変わって、大変いい天気です。
特に、目的もなくぶらぶらっとしようと出かけたので、我々は、青い空と緑の芝生のきれいなボストンコモンを歩きながら「地球の歩き方」に目を通しています。
「科学博物館にでも行ってみるか」
Uさんが言いました。
そこは、「触ることのできる科学」というコンセプトで造られたそうです。仕事をしていたころ、博物館などの構想を立てるのに、「触る・体験型」ということはよくキーワードとしてつかっていました。そのルーツを辿れば、メッカはアメリカにありです。
「おもしろい!行ってみよう」
我々は、ボストンコモンを後に、一路博物館を目指すことにしました。
とその前に。
私は地下鉄に乗った後、あることに気づきました。なんと、お財布の中に1ドルとちょっとしか入っていないじゃありませんか。初日、ボストンの空港で1万円をドルに替えただけで、私ったら、この日まで来ちゃったのです。ああ、なんという1ドルの女。
「銀行だけ寄っていい?」
小さい商店なら小銭がいるかもしれないし、博物館の入場券も、友人に書いた絵葉書を送るにも、小銭が無くちゃ買えないでしょう。
「ついでに郵便局も」
「いいよ、いいよ」
全然「一路」じゃないでしたね。すまぬ。しかし、ままよいでしょう。朝ですし。
ということで、手持ちのマップから、チャールズストリートの角に銀行を発見、寄ってみました。
受付の女性が、にこやかでとても感じのいい人です。
「すいません、両替できますか」
ちょっと困った顔をして、すまなそうに、
「うちでは、やっていないのです」
でも、なんとか考えてくださって、いいアイディアが浮かんだのがわかりました。
「この道を右にしばらく歩いていくと、トーマスクックがあります。そこでなら両替できますよ。トーマスクックは分かります?」
「ええ」
私は懐かしい響きに、微笑んでました。
ストックホルムのユースホステルで盗まれたのもトーマスクックの時刻表だったし、エジンバラのトーマスクックで宿探ししたときも「トーマスクックを知ってれば特典があるけど、あなた外人だし知らないわよね〜」とか言われちゃうし、なんであの時「I
know!」のひとことが出なかったかな、くそ。でもネス湖に近い街のトーマスクックではいいB&Bを探してもらったな。
地図をつかって、道順をもう一度教えてもらって、我々は、銀行をでました。そして、彼女の説明した通りに、歩きました。歩きました。かなり歩きました。
「銀行のおねいさん、地図の見方間違ってたような気がするんだけど」
とふとUさんのつぶやき。どうも、そんな気もする。
なので、トーマスクックは諦めてしまいました。
そして、しかたない、1ドルの女はUさんともども、郵便局に向かい、だめもとで、
「日本へ葉書を出したいのだけれど、おいくらですか。カード使えますか?」
すると、なんとOK。それから、無愛想な郵便局の人は、
「そこのポストに入れて」
というので、指差した先を見てもポストが見えないのでおかしいなと思ったら、
「外、外」
といいます。そうです。ポストは、外の歩道のところにありました。
こうして、1ドルの女は、ボストンの街を闊歩していたのであります。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(21)
科学博物館まで、いやはや、てくてくと歩きました。どれぐらい歩いたでしょうか。街のはずれまで来ました。鉄道の高架の下をくぐり、歩道橋を上ったり下ったりしているうち、やがて博物館が見えてきました。そこから、10分ぐらいでしょうか、博物館の入り口にたどりつきました。
すると、小学生を乗せたバスが何台も停まっています。
切符売り場で、入場券と併設のムガーオムニシアターの券を買いました。
が、そのとき、はっとしたのでした。
ここでもカードが使えた、、、。ほっ。
とはいえ、まあ館内に入れたので楽しむこととしましょう。
「2時半までに出なきゃいけないの?」
館内に入って、私は、Uさんに尋ねました。受付の人が、なにやら2時半と言ったのだけ聞こえたからです。
「オムニシアターっていうのがあって、次の回が始まるのが2時半なんだって」
ということで、我々は、自由行動で館内を見て歩きました。ボールを上から落とすと、その落ち方が正規分布になる展示から始まって、メビウスの輪、、、とか、数学から天文学、人類学、コンピュータ、地球科学、自然環境学などなど。子供たちが校外学習に来るにはうってつけで、おもいっきり面白い施設です。大人も充分楽しめます、はい。
さて、2時半前になりました。我々はムガーオムニシアターに行くことにしました。
ムガーオムニシアターは、20〜30分ほどのビデオをみせてくれる劇場です。100人ぐらいは入っているのではないでしょうか。
劇場は、深く座るシートで、そこから天井をみると、白い天幕がはってあるような感じです。これがスクリーンなのでしょう。
やがて、館内の明りが落とされました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(22)
内容はアメリカの大自然を背景に、科学者が洞窟調査を行うというものでした。折々にCGが織り込まれています。それが、天井いっぱいに展開されさます。
赤い土色をした渓谷を、セスナに乗っていく気分は、スピード感抜群です。また、大変な思いをして地下洞窟の中を歩いたり。そのおりおりに、科学者が観察しながら説明をします。
見終わって、現実にもどると、ふ〜っとしながら座っている私がいました。おもしろかったな。
そして、となりは。
「、、、」
Uさんが、無言です。
「大丈夫?」
聞くのも申し訳ないぐらいです。
「う、気分悪い」
青い顔しています。
とりあえず、シアターの外に出ました。
「鳥肌たってるじゃん」
「最初の場面で、もう酔っちゃって」
しばらく常温に慣れたところで、みるとUさんも、なんとか復調したようです。
「寺ちゃん、お昼食べてないし、食べいこうか」
館内にはビュッフェがあり、そこにいくことにしました。
階段を降りていくと、ビュッフェがすぐに見えました。
その時、ふと「ドキッ」。
忘れてはいけません。私は、どうあがいても1ドルの女。
Uさんは、軽く飲み物を頼みました。窓辺の席を陣取ります。
その間、私は、きがきではありません。もうこうなったら、どこまでカードが使えるのか、限界に挑戦です。
まず、レジのところにいる女性に、
「カード使えますか?」
と聞いたのですが、相手にしてくれません。
そこで、一番端に戻りました。とりあえず、食べ物を取って、レジでだめだったらまあいいやというろこです。
すると、その端のところに、男の店員さんがいたので、もう一度聞いてみました。
「カードつかえます?」
「何?」
しょうがないなあ。
「ビザカードなんですけど」
「おお、ピッツアーね。どれもおいしいよ」
見ると、目の前には確かにピザがありました。
ピザに決まりました。
飲み物をコーヒーにして、レジに行きました。
ドキ。
「カードはつかえます?」
お客もいない時間なのに、レジの女性店員は忙しそうに、愛想ない様子でしたが、カードは使えました。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(23)
それにしても、どこまでもカードの使える国です。
我々は、昼食を終えました。窓辺の席だったため、日差しも温かく、なんとかひと段落しました。それで、もう一度博物館に戻り、残りの展示を見ることにしました。
見る展示は大体前半で終えていたので、体験型の展示を見て歩きました。たとえば、氷の結晶の作り方で、どんな環境下にあるとこういう結晶になるというのを、シミュレーションしてみるというようなものなどです。この手の展示は、結構はまると時間が矢のように過ぎ去っていきます。もう熱中しちゃうのです。
途中、館内放送が流れていました。それにあわせて子供たちが集合場所に戻っているようでした。子供たちは、チャーターしたバスできているようなので、その集合時間になったようです。後に残ったのは、大人達のようでした。
ガキんちょんもいなくなったし、ゆっくり見られる。そう思いながら、私は展示してあるパソコンの端末をいじくっていました。
ところがです。
誰かが肩をたたきました。見ると、赤いマントを羽織った男の子が立っています。私がびっくりしたので、その子もおどろいて目が丸くなっていました。
「閉館の時間です」
腕時計を見ると、5時になろうとしていました。
さっきの館内放送は、どうやら閉館のお知らせだったようです。気がつきませんでした。
「どうもありがとう」
私は、笑いました。少年も笑って、他に館内に残っている人々の方に去っていきました。
たしか、Uさんは、まだ奥の部屋にいたような気がする。
行ってみると、パソコンに向かって熱中しているUさんがいました。
Uさんに近寄って、
「閉館だって」と伝えました。
「ほんとだ、5時だね」
ふ〜とため息をついて、Uさんは立ち上がりました。
「それじゃ、帰るとしますか」
そうして、我々は科学博物館を後にしました。
さて、アメリカというところが乾燥している国なのどうかしりませんが、やたらと喉の渇く街です。よくフイルムで、LLサイズのでっかい紙コップを持って、コーラをちゅーちゅーしているアメリカの人を見ますが、それも分からないでもないな、と思います。といっても、なんの根拠もない話なのですが。
私は喉が渇いたので、水が欲しくなりました。それで、さっきみつけたセブンイレブンに立ち寄りました。ちなみに、ボストンの街中にある、かのコンビニは、その店構えにお約束のあの赤や緑の線の鉢巻きはつけていません。街の景観にあわせて、シックな色をしています。ややもすると、コンビニかどうか分からないほどです。
一ドルの女は、カードで水を買いました。どこまで行っても、カード社会なアメリカです。
(つづく)
英語アメリカ舌足らず(いきなり最終回)
《6日目》
朝起きると、もうYさん一家は、出発していました。どこへかと言うと、日本です。1年に一度の里帰りです。
D父さんは、おいてきぼり、いやいや仕事で、いつものようにもう出社しています。
Uさんと私は、昨日のうちにYさんに言われたものを、冷蔵庫からとりだし、朝食をとりました。我々も、今日がアメリカ最後の日です。外はうららか晴天です。
食事を終えて、お皿を洗い、そして3階のお泊りさせていただいた部屋に戻りました。鞄に荷物をつめます。こころなしか来たときより荷物が重く感じます。それほどたくさんお土産を買ったつもりはないのですが、それでも荷物をつめるのに一苦労しました。
布団をたたみ、はずしたシーツをきちんとたたみます。
そして、部屋をあとにしました。
我々も出発です。トークンひとつと三十五セントをもって。
アメリカというところは、はまると、とっても好きになるということをよく聞いていました。
行ってみて、ほんのひとかじりでしたが、確かにわかる気がしました。
これを自由というのか分かりませんが、好きなかっこをしていても、だれもとがめないということです。上品に着飾ることも、ラフすぎる身なりや、太っていたにしても、許されます。
身の安全が守られていれば、とても気持ちよいところだと思いました。
さて肝心の英語修行については、というと、う〜む、激しく英語が必要とされる状況はありませんでした。でも、英語を使うのに躊躇というのはあまりなかったように思います。それから、米国の発音になれてきたせいか、耳がいくぶん達者になった(あくまでいくぶんですが)ように思いました。
アメリカから帰って4ヶ月あまりになります。たった4ヶ月です。なのに、とても遠いことのように思えます。その間に、NYでのテロ事件にはじまって世情は一変しています。
これから世の中はどう変わっていくのでしょうか。身近になったアメリカ、身近になったテロ。アメリカの報復措置で、もしもアメリカ側が負けることがあれば、これがアメリカの弱体化につながるかもしれない。そうしたら、世界共通語が、英語から違う言葉になることも場合によってはあるかもしれません。EUにしても、基軸とする言葉が英語にならない可能性もあります。
そんな中でも、英語にかりたてられるこの気持ちはなんなんでしょう。断末魔のさけびがまだ聞こえてこないからでしょうか。
それでも、私は、つたない英語をもちながら、せっせと英語塾に通います。
(おわり)