1236 <素材>1 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 3日(土)05時44分37秒 
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まえがき(学校英語という問題)

 日本の学校英語が使い物にならないと言われて久しい。どこがどう使い物にならないかというと、話せるようにならないし、聞き取れるようにならないからだと言われてきた。また、一方で、日本人で英語をしっかりやった人は、話したり聞き取ったりはできないけれど、読んだり書いたりはできるとも言われてきた。
 どちらもその通りなのかもしれないし、どちらも事の現象面しか言っていないのかもしれない。学校英語をいくらやっても、話せるようにならないし、聞き取れるようにもならないということに関して、現象はまるでその通りである。おじいちゃんも学校で英語をやった。でも英語を使えない。お父さんも学校で英語をやった。でも、使えない。お母さんもやった。でも駄目。私も学校で英語をやってる。使えるようになるのかな。
 「私も学校で英語をやってる。使えるようになるのかな。」という中学生や高校生の疑問に対して、「普通」に学校でやってる英語や、「普通」に受験生がやってる英語の勉強をやっても、そのままでは使えるようにならないよと言うしかない。
 日本では、普通が普通ではないからだ。英語をやったんだから、英語が使えるようになるのが普通というものだが、そんな普通はめったにあるものではない。めったにあるものではないことが、「普通」になってしまっている。
 そのままでは使えるようにならないと思うよと言う時、私の顔は苦痛に歪んでいる。学校でこんなに英語をやってるんだから、ちゃんと学校の先生の言うことを聞いていれば、英語が使えるようになるだろうという子供たちの希望を目の前にすると、私の顔は苦痛に歪む。「使えるようになる」という一点に目をこらすなら、学校英語も受験英語も、子供たちの希望に対する裏切りでしかないだろう。以前からそうだったし、今もそうだ。
 また、非常に難しい大学入試の問題で得点できるのだから、日本人は読んだり書いたりできるのだというのも、現象面ではその通りに見える。しかし、これも違うと思う。ここには、「音」の問題がすっかり抜け落ちている。これは、非常に言葉数を費やさないと輪郭をはっきりさせることのできない問題なので、後に詳述したい。

 全部が全部、文部省(現文部科学省)のでくのぼうのせいではない。日本の受験制度がすべての元凶だとも言うつもりはない。
 日本には、英語という言語が作る「言語的磁場」がないのは、学校のせいでも文部科学省のせいでもない。そして、「磁場」だけが養いうる言語的能力が絶対にあるというのは、私の確信になりつつあるが、学校は英語の磁場ではないし、受験生も英語の磁場の中にいるのではないから、「磁場」だけが養いうる言語能力を持つことができないのは、学校のせいではないし、文部科学省のせいでもない。
 それでも、文部科学省とそのお抱え学者はやはりでくのぼうである。日本に英語という「磁場」がないことは文部科学省やお抱え学者のせいではないが、その前提を踏まえて、有効な学習法や教授法を編み出してこなかったのは、はっきりと文部科学省とお抱え学者のせいである。
 でくのぼうだ。
 これまでの学校英語をそのままでいいとは口が裂けても言えない。
 絶対に問題があるのだ。

 
 


1237 <素材>2 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 3日(土)05時45分49秒 
<素材>2

 学校英語が駄目だというのは、もう言い古されて、ほとんど常識的な知識になっている。それなのに、学校英語は、相変わらず駄目な学校英語を続けている。
 これまでに、問題が掘り下げられることがなかったこと、掘り下げる作業によって、語学の「原理」が見いだされることがなかったことが本当の原因である。英語をやる人の傾向として、現状追認型のタイプが多いとは思ってきたが、大学の教授なんぞやっていて、語学に特有の「原理」をきちんと掘り下げることをやらない者はただただ怠慢なだけである。放逐してよろしい種族だ。

 私は、自分のホームページからリンクしてある無料掲示板で、いくつか「語学論」を書いた。このねらいは、自分で語学という領野に特有の「原理」を見いだしたいということだったが、これに関して、私の掲示板に直接は書かず、他の掲示板で、「余計な理屈を言っているやつがいるが、そんなものを考えるより、単語を一つでも余計に覚えた方がましだ」と暗に私の記事に鞘当てしている記事を読んで暗い気持ちになったことを覚えている。
 まあ、自分の英語力をつけるには、「原理」などどうでもいいというのは、功利性だけで言えばその通りである。要するに自分に力がつけばそれでいいのだから・・・。しかし、本当に力がついた場合は、その人の練習は「原理」を踏まえている。自分ではっきりと意識しないだけで、「原理」が働いているのだ。本当に物事の成果を決めているのは、実は「原理」なのだ。
 単語を増やすには、一つでも余計に単語を覚えるのがいいに決まっている。その人の語学力は、その分だけ太るだろう。しかし、「原理」を軽視する人は、自分の英語力を太らせることはできても、決して自分以外の人の語学力を太らせることはできない。「原理」に踏み込むことができない人は、世にあふれかえるハウツウのレベルにとどまることしかできないだろう。学習指導要領などというものも、出来の悪いハウツウ本の一つにすぎないということに、学校の英語の先生たちは早く気づいてほしい。
 既存のハウツウを使用して英語力は持てても、ハウツウを自分で発見したり、練り込む力を持てない人が多いのだ。そういう人に英語を教わったりした場合は悲劇である。その人は、単に自分が英語ができるだけだからだ。自分で英語ができるだけで、生徒に英語力をつける方法は知らないからだ。だから、その人は、指導要領みたいなものに従って、既存の学校の授業と踏襲するだろう。そして、生徒の側に起こる悲劇は、実はとてもありふれたものである。日本全国、津々浦々、どこにでもある「普通の」学校の授業である。

 とにかくやみくもにやって、自分なりの方法を見つけだすことが一番いいのだという意見も聞くことがある。その通りだと思うが、自分なりの方法を見つけだすことができた時とは、実は「原理」にぶち当たったときなのだ。
 この本を書くことによって、私はあくまで「原理」を見つけたいと思っている。すでにみつけた原理を書くこともするだろうが、わずかであってもいいから、いくつか新たに発見してみたいと思っている。そして、それが「自分以外の人の英語力を太らせる」仕事をしている人たちに少しでも役立てばいいのだがと願っている。
 学校の英語の先生、塾の英語の先生など、「自分以外の人の英語を太らせる」ことを仕事としている方々におつきあいを願いたい。「原理」を踏まえると踏まえないとでは、生徒の英語力として実現するものは天と地ほどに違ってしまうのだと是非知って欲しい。

 今後、記事は自分の掲示板に断続的に、細切れのまま掲載していきます。
 すでにこの掲示板に書き込みをなされている方々の意見を聞きながら、書き進めていきます。
                     (2001年10月3日)


 
 


1245 <素材>3 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 4日(日)05時17分20秒 
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文全体としての「音」

 小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」という本を書いて一年半ほどたったが、その間に考えたことはほとんど自分のホームページに書いた。

http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis

 文庫以後に考えたことには、「磁場」の問題がある。英語という言語的磁場が「ない」場所で、英語をやることこそがもっとも語学らしい語学なのだと考える一方で、「磁場」だけが養うことのできる言語能力が絶対にあるという考えも出てきた。これらに関しては、後で詳述したい。
 「磁場」の問題の他に、考えたのは「音」の問題だった。
 いきなり、「音」の問題を書くことにする。
 自分の掲示板『大風呂敷』を開設してまもなく、Eliot というハンドルネームで書き込んでくださった方がおられ、この方は非常に英語の「音」に関して詳しい知識を持っておられた。そんなことは初めて聞くが、なるほど自分の口を動かして試してみると、Eliot さんが説かれる通りの舌の動きになったり、説かれる通りの音の連続になると納得することが何度もあった。
 Eliot さんは単に英語の音に関する知識が豊富であるというだけの方ではない。この方は佐賀県の中高一貫の私立高校の英語の先生であり、現在(2001年10月)、中学三年生を指導しておられる。自分の知識を授業の中で存分に活用しておられる方である。
 小学館文庫以後、「音づくり」という語を私は使用していたが、Eliot さんは、掲示板『大風呂敷』で、そのものずばり「音作りへの道」というタイトルの記事を連載してくださった。

http://www82.tcup.com/8246/nessy.html

 この記事は完結し、現在、私のホームページの「大風呂敷の記事の倉庫」に格納されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis/ooburosi/000.HTML

 この Eliot さんの学校での実践は非常に注目すべきものである。ここに、今後の学校英語が蘇生するためにたどるべき道があると私は確信している。この本でも、Eliot さんの「音作りへの道」から引用させていただく部分が多くあるだろうと思う。読者の皆さんも、インターネットに接続されておられたら、是非読んでいただきたい。とりわけ、学校の英語の先生には首根っこをつかまえてでも読ませたい記事である。
 掲示板上でこの方に出会って以後、私は「音」の問題を考えることが多くなった。


 
 


1246 <素材>4 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 4日(日)05時18分22秒 
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 英語の「音」あるいは「発音」というと、単語を単独に発音して、音がきれいだとか正確だとか評価するようなやり方がある。例えば、NHKの語学番組では、ラジオ・テレビという一方通行のメディアの性質上、視聴者の発音がきれいだとか正確だとかの評価はなされないが、単語単位で発音練習をさせている。中学の教科書の文を吹き込んだCD教材などを聞いてみても、単語単位で発音練習をやるようになっている。こういう構成をとっている教材や番組では、文全体に関しては、ただ「ネイティヴの音をそのまま真似ろ」という考えが前提になっている。
 口の筋肉や舌の位置のどこをどうすればネイティヴと同じ音が出てくるのかを説明することはまずない。
 これらの教材や番組の構成の前提になっている考えは、単語単位で発音をクリアすれば、獲得された単語の音を組み合わせることで文全体も発音できるとする考えだろう。これは、とてつもなく甘い考えだというしかない。
 日本語というどの単音にも母音がついている言語の音と、子音が立て続けに連続する英語の音とはその組成が元から違う。この巨大な距離を埋めるのは、音楽的な感覚が発達した人には難しくないかもしれない。しかし、多くの人には非常に難しい。一例を示せば、「舌を上の歯茎の裏につけたままにしている間だけ音を出して、舌を離したときは音を出さない。そうじゃないと、トとかトゥとかいう音になっちゃって余計な母音がくっついてしまうから」というような説明がないと、多くの人には英語の音の近似値すら出せないことが多々ある。こういう指導をやっているところは、星の数ほどもある英語教育機関の中でも非常に少ないはずだ。

英語の音作りを激しく、厳しくやっている所は極めてまれだと思いま
す。実際、英語の教員の多くにとって英語の発音は、できれば避けて
通りたい弱点です。自分自身が通じるレベルの音が出せない教員がた
くさんいますし、そこそこ通じる音を出せる教員もその多くが英語の
音作り必要な知識を体系的にルール化して生徒に教えることができま
せん。例えば、根石さんが示しておられるような、音と音がぶつかり
合ったときの音の消失とかいうことも生徒に説明できるような知識と
しては持っていないのが現状です。
                (Eliot 『音作りへの道』)

 例えば、ここにある「音と音がぶつかり合ったときの音の消失」という問題は、単語単位で発音練習をしていたのでは決して解決しない。ここにひとつの法則が導き出せるだろう。

<法則1> 英語の音を扱う場合は、いつも文全体で扱わなければならない。

 文全体として「音」の問題を扱う時、次に必ず出てくる問題は、リズムとかイントネーションというものである。つまり、英語学習上での「音」というのは、単語の発音のことではなくて、リズムやイントネーションを備えた文全体をどう扱うかという問題なのである。
 単語単位で扱うだけでなく、記号や番号で正解を答えさせるような学校のテストや入試の記述式「発音問題」(!)はまったく問題外である。音韻学者を育てているわけではあるまいに、中学生に向けたテストで発音を字で処理させているのだ。ただただ愚劣なだけである。

http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis


1257 <素材>5 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 5日(月)04時49分11秒 
<素材>5

.語学では、音と意味は分離する

 音と意味の間に、本来は何の必然的な関係はない。音と意味の間に普遍的な必然があれば、こんなにもいろいろな言語がこの世界にあるはずはなく、少なくとも単語を羅列するだけのレベルにおいては世界のどこででも話は通じるはずである。しかし、現実はそうではない。音と意味の間に、普遍的な必然性はないからだ。
 しかし、ある一定の時、ある一定の場所、そこに生じている状況においては、音と意味の間に緊密な必然性が生じる。英語という言語の磁場であろうと、日本語という言語の磁場であろうと、それぞれの言語の音が、具体的で限定された意味と緊密に結びつく。たとえ誤解が生じたとしても、誤解という形での関係性がリアルに形成される。
 この過程は、具体的な言語の磁場にいる時はほとんど意識されることがない。音を音として意識することもないし、意味を意味として意識することもない。意識はほとんど、「相手の意図」に向けられている。
 「馬鹿!」という単語一つでもそうだ。辞書通りの意味で、相手をけなす場合にももちろん使えるが、恥ずかしそうにうれしさをかくしながら、女の人がこれを発音するならば、事態はまったく別のことなのだ。具体的な事態については、読者各々の想像におまかせするとして。
 意味のもっとも痩せたものは辞書で確認できる。しかし、言葉の意味は生きた状況で絶えず生成する。それは存在するのではなく、生成するのだ。だから、そのたびごとに、精密な意味あいは違っている。その小さな違いが、広く人々の間に浸透するならば、辞書はその浸透した違いを収録するだろう。文字として、説明として固定され、意味は痩せるだろう。
 私の日常の言語は日本語だが、この言語を使いながら、日本語の音が意味と結びつく瞬間などを意識することはない。むしろ、日本語の音とその音と同時に成立する意味は一体のものだとさえ感じられる。
 英語をネイティヴな言語とする人にとっての英語も、事情は同じに違いない。生活言語における、音と意味の一体化は、生活言語における自然である。

 しかし、語学においては事情は一変する。

 語学においては、生活言語の自然はない。生活言語がオアシスであるならば、語学の言語は砂漠のようなものであり、また語学の言語をオアシスだとする人にとっては、生活言語は砂漠のようなものである。砂漠とオアシスは、接続してはいるが、質的な連続はない。質を言うならば、ウラハラのものだ。
 非常に多くのハウツウ本が、ここを無視する。
 私は、もっと簡便に、生活言語と語学の言語は別物だと言い切るのがいいのだと考えてきた。
 世にはびこる英会話学校の多くは、生活言語と語学の言語という本来まったく性質を異にするものが、質的に連続するかのように幻想する人々の幻想を金儲けのバネとして使う商売に過ぎない。英会話学校の隆盛は語学的な現象ではなく、あくまで商売的な現象である。もしも、あれが語学的な現象であったら、愚かな現象であると言うしかない。(少数の語学の原理を踏まえた英会話学校を例外としたいが、それはすでに「英会話」学校ではなく、英語学校だろう。)

 
 


1258 <素材>6 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 5日(月)04時54分20秒 
<素材>6

 音と意味に関しても、語学においては生活言語とは事情が一変する。
 本来、音と意味の間に必然はないということが、語学という場ほどにあからさまに現れる場所はない。
 語学をやり、apple はりんごであるという関係を信じている人は、すでに apple という単語に何度も出会い、いくつかの文脈の中で何度か apple に出会った経験を持つ人である。しかし、初めて apple に音として出会った人にとって、apple はりんごでもなんでもない。音として出会ったのであれば、見知らぬ変な音であり、字として出会ったのであれば、見知らぬ字の変な連続にすぎない。この経験は、いつでも誰にでも可能である。知らない単語に出会ったときに自分の中に生じている「見知らぬ変なもの」に対する感覚を思い出せばいい。
 語学における「見知らぬ変なもの」は、ネイティヴの中にいる幼児にとってはそのまま、「未知のおもしろいもの」である。「未知のおもしろいもの」であるから、それに出会った幼児は何度も自分の口で繰り返し言い続ける。それを自分の口で真似て言い続けることの快感に酔っている顔をしている幼児さえいるくらいだ。酔いをもたらすほどに身体的な言語との交わり。それがネイティヴ言語というものだ。
 しかし、青年や大人がやる語学においては言葉は幼児が面白がるほどに面白くはない。語学は生活過程ではないから、おもしろがることをやっているうちに自然に覚えてしまうというような過程ではない。語学において初めて出会った単語が「未知のおもしろいもの」であるということがあったとしても、語学では、あまりにやらなければならないことが多すぎるため、そのうちに初めて出会った単語は、「見知らぬ変なもの」あるいは、「覚えなければならないいやなもの」となってしまう。対象との間に距離が生じてしまうのだ。ネイティヴ言語の中にいる幼児が知らない距離が、語学においてはごく初期に生じる。
 語学において、音と意味は分離する。あるいは、分離している。あるいは、分離してしまう。あるいは、分離していてかまわない。あるいは、あえて分離させる。あるいは、分離を統合する。
 いずれにせよ、音と意味の分離こそが語学の言語に特有な顕著な性質である。
 このことは抽象的な言いぐさだと受け取られ、簡単に無視されやすいが、しかし、ここにこそ語学に特有のバネが生じる根拠がある。

<原理1> 語学では音と意味は分離する。

 
 


1286 <素材>7 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 8日(木)05時40分09秒 
<素材>7
 

.語学的な犯罪

 水と油は、同じ容器に入れて放置すれば自然に分離する。
 語学でも、音と意味は、放置された状態では自然に分離している。
 サラダのドレッシングを作るとき、水もの(醤油など)とサラダ油を混ぜるなら、容器に蓋をして激しく振るなり、棒でひっかきまわすなり、よく知らないが、何かしなければならないはずである。激しい動きを与えなければ、水と油は混じらない。混じっても、しばらく放置しておけばまた分離する。
 語学の音と意味も同じである。
 なんらかの激しい動きがなければ、音と意味は一緒にならない。この激しい動きの一種として、國弘正男さんという方が、「ひたすら朗読」を唱えられた。國弘さんの旧著が再版され、現在これを実践している人は多い。いいことである。國弘さんという方が、はるか以前に「ひたすら朗読」を唱えられていたことを京都の高校の英語の先生から教えていただいたとき、私は方法的な先達がいたのだということを知った。
 私は、素読を原理として、「回転読み」というものを唱えた。(小学館文庫『英語どんでんがえしのやっつけ方』)
 「回転読み」とは、一つの文にとどまり、同じ文を何回も、何十回も、場合によっては何百回も言い続ける方法である。
 國弘さんの「朗読」、私の「素読」あるいは「回転読み」、言い方は違うが、根本に持つイメージは同じなのである。あるいは、もっと一般的に流布しはじめている「音読」とも共通するものがある。どれも、「音」をおろそかにしないこと。自分の声で実際に文を繰り返し読むこと。それが共通点である。あえて区別をするなら、もっともおだやかな方法が素読であり、「ひたすら朗読」や「回転読み」は激しい方法だ。
 「ひたすら朗読」や「回転読み」は、水と油、音と意味を混ぜるのに有効な「激しい動き」なのだ。

 いや先走るまい。音の意味の統合(同致)は、まだまだ先の話としなければならない。

 まだ、音と意味の「分離」にとどまって考える必要がある。意味と混ぜるための「音」の質が問題になるからだ。
 音と意味を混ぜること(統合すること・同致させること)は、語学という作業の必然であるが、しかし、まずは、音と意味が分離している段階で、音と意味をそれぞれ別々に考える必要がある。

<法則2> 語学の初期段階では、音と意味は分離しやすいが、それをことさらにはっきりと「分離させる必要がある」。

 水と油のように分離している音と意味を混ぜて一体化するために、「激しい動き」を与えたとしても、「音」が「通じない音」のままであった場合にどんなことが起こるか。「通じない音」のまま意味と一体化してしまえば、「通じない英語」が成立する。そして、その「通じない英語」こそ、日本人の英語の圧倒的多数派なのである。
 これは学校英語が「音」を粗末に扱ってきたことにが原因である。日本人の英語の圧倒的多数派とは、まず例外なく学校英語の犠牲者でもあるのだ。
 ことは、語学である。語学において、学校や塾が「音」を粗末に扱い続けてきたことは、単なる怠慢にとどまらない。語学的に言うなら、これは犯罪である。

http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis


1287 <素材>8 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 8日(木)05時41分14秒 
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.お恨み申し上げますぜ

 音と意味は分離しうるのであるから、それをわざわざ分離させ、まずは音だけに焦点を合わせた「音づくり」という過程が必要になる。なぜ、音の練習が、意味との合体(統合・同致)に先立たなければならないかの理由は後述するが、ともかく、「音づくり」という過程を、文部省(現文部科学省)が管轄するほとんどの学校の英語の授業は「すっとばしてきた」。
 それを文部省は放置してきた。いや、放置してきたのではないかもしれない。中間・期末テストで生徒の点をはじき出すのに「間に合わせるための授業」しかできないように主導してきたのが文部省なのだ。「音づくり」の「すっとばし」を主導してきたのが、文部省だ。
 一人の英語科の教師が、「音作り」の重要性に気づき、中間・期末のテストの年間スケジュールを無視して生徒の「音作り」に専念したとき、市や県や文部省や、それに寄り添った管理職(校長・教頭)が何も言わないだろうか。必ず横槍を入れてくるはずだ。横槍に対処するのはエネルギーが要るので、多くの英語科教師は、肝心なところを避けて通る。そして、「音づくり」のすっとばしという犯罪に荷担する。

生徒たちが中1の頃、ある模試を受けさせられまして、フォニックス
の勉強の三ヶ月のせいで進度が遅れていたため、英語の平均偏差値が
30いくつかということがありました。その成績の検討会議で私は管
理職たちから相当非難されました。そうなるだろうと予想していまし
たから、私は生徒の音読の録音を用意して行っておりました。しかし、
それを聞かせても、管理職には何の効果もありませんでした。それど
ころか、英語のできない管理職の一人は「発音は上手になるかもしれ
ないが、それが何になる」と暴言を吐きました。まあ、多くの人のと
らえ方はこんなものなのでしょう。
               (Eliot 「音作りへの道」)

 何度でも言う必要がある。語学において、「音作り」をないがしろにすることは犯罪なのである。そして、有名大学に何人入ったかを優劣の基準にしているような学校のほとんどすべてが、この犯罪を行っている。いや、大学合格を基準とするかどうかなど関係はない。日本中の圧倒的多数の英語の授業が犯罪をおかしているのだ。
 このような犯罪が行われ続けてきたもう一つの原因に、大学の英語の教職課程というところが、「音づくり」の方法を持っていないということがある。アメリカやイギリスの音声学・音韻学の成果を輸入して、知識人づらをしている教授どもばかりだからである。日本語で育った日本人の口の筋肉が英語の音を獲得するための方法を確立するためには、日本語の音と英語の音の「比較学」は必ず必要なはずであり、この「比較学」によって、もう一度英語の音をとらえかえすことが必要である。そうでなければ、日本人の口の筋肉が英語の音をとらえるための学問にならない。それなのに、知識人や教授どもは欧米の「輸入」しかしてこなかった。輸入だけしていて、自分なりのものを編み出すことをしないのであれば、商社にでも勤めた方が人のためになる。大学教授などを気取っているのはやめてほしい。学問の世界での奴隷根性は英語という言語の回りには非常に多いのだ。
 大学の教授どもがそういうていたらくであるから、多くの学校の英語の先生たちは、「音づくり」をしたくてもできない。どうやるのかがわからないからだ。
 私も英語塾を続けてきて、曲がりなりにでも「音づくり」ができるようになったのは、塾を始めてから相当時間がたってからだった。それ以前の、長い学校とのつきあいの中で「音づくり」のための知識に出会うことはなかった。だから、自分で工夫して、「唇をせばめて喉から息を送り出す」などというようなオリジナルな言い方を発明して使ってきた。現在の「電話でレッスン」でも、このオリジナルな説明は常用している。
 お恨み申し上げますぜ、教授ども。

 
 


1288 <素材9> 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 8日(木)05時42分00秒 
<素材9>

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.Eliot さんの「音作り」

 さて、ここで Eliot さんの学校での「音作り」の実践の意味がはっきりする。Eliot さんは、初めて英語をやる中学一年生に、まず最初に「音作り」をさせたのだ。

この学校でも私は英語の音作りには腰が引けていました。英語不振者
に対する対処療法的な授業や取り組みは、ある程度やりましたが、し
ょせんその場限りのものにすぎないものでした。その後、現在の学校
に移ったのですが、そこで最初に受け持ったのは中学2年生でした。
彼らは中学1年生のときに音作りをしないまま、すでに中学2年の教
科書を終えており、私は先輩教員とコンビでその学年を教え始め、結
局、発音の徹底的な指導はできないまま、詰め込み+ハイスピードで
高校卒業までその学年の生徒たちを教えました。そして大きな悔いが残りました。
 最初にかけちがえたボタンを止め直す勇気も知恵もなかったダメ英
語教員だった私は、高校3年生を卒業させた後の4月から中学1年生
の担当になりました。教員生活二十年にして初めてまったくの初心者
を教える機会を得たのです。このとき私は決心しました。「今までの
やり方でやっても今まで以上の成果を得られるはずはない。これから
は人がどう言おうが自分が正しいと思う方法でやっていこう。正しい
音を教えて、たくさんの英語を聞かせ、大量の音読をさせる。自分が
持っているものを生徒に力一杯ぶつけていこう。6年間あるのだから、
あせらずに、すべきことから着実にやっていくことだ。英語は面白い、
声を出すのが楽しい、英語の発音がもっと上手になりたいと言う生徒
をたくさん作ろう」
             (Eliot 「音づくりへの道」)

 Eliot さんの教室の生徒は幸せ者である。先生が方法的な洞察力を備えていて、まず最初にやるべきことをまず最初に生徒にやらせているからだ。

 私が素読を語学に適用したのは、語学に特有な「分離」とその「必要」を根拠としている。二十五年ほど、小さな小さな英語の私塾を続けてきて、まったく孤立を感じていたが、インターネット上に掲示板を作ったとたんに、塾と学校と生きる場所は違っていても、眼目になるところで方法的に一致する人に出会えたことは幸運なことだった。

 いくら「音作り」をやっても、意識が「音」だけにとどまるならば、つまり、音と意味が一体化しないならば、やはり「使えない英語」ができるが、こちらはそれほど心配する必要はない。意味がともなわない音とは、音だけでできた「からっぽの文」であるが、これはからっぽの容器だと考えることもでき、後で一挙にそれを意味で満たすということは可能である。


1289 <素材>10 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 8日(木)05時43分57秒 
<素材>10

.素読

 素読について少し書いておきたい。
 素読は江戸時代に盛んに行われたらしい。私にとって、そのもっとも原型的なイメージは、孫がおじいさんの前に机をはさんで正座し、「論語」を声に出して読んでいる光景である。これは、実際に見たことがあるわけではないが、いつの間にか私の中に形成されている素読のイメージである。
 このイメージについていくつかのことが指摘できるだろう。まず、一対一で向き合って行う練習であること。コーチ(おじいさん)がいること。実際に声を出して音読することが練習の主体を成すこと。
 しかし、素読にもっとも特徴的なことは、孫がひとまず「論語」というテキストの意味を理解しなくても許容されることである。ただ正しく音読できさえすればそれでいいとされる。素読の効果を本当にわかっているおじいさんなら、テキストに関する自分の解釈を講釈することはしないだろう。
 音として完成したテキストは、やがて発酵し、意味は自然に備わる。その意味が自然に備わる過程こそが人が生きるという過程なのだ。
 少年の頃に、おじいさんの前で「論語」を素読させられた少年が、例えば二十歳の青年になり、「論語」の中の文を思い出し、これはこういう意味だったのかと何か納得したものがあったとする。少年時代には、意味のわからない文を「音読」させられ、音としてなめらかに正確に言えるようにしていただけであるから、その時点でのテキストは、文としては意味をともなわない「からっぽ」の文である。二十歳になってから思うことがあり、、その「からっぽ」に急に意味が充電されるということが生じたのだ。
 しかし、その充電はそれで終わりではない。音として完成しているテキストは、その後も、一度充電された意味を洗い続ける。あるいは、今度は意味を媒介にしながら、発酵を続けると言ってもいい。
 三十歳になって、また思うことがあり、二十歳の時に、自分はあの文についてこんなことを考えたが、まるで違っていたのかもしれないと思い返すことがあったとする。同一のテキストがまた違う顔を見せることになる。昔から知っているテキストが、まったく新しい表情で立ち上がるということを経験するかもしれない。
 たまたま二十歳と三十歳という年齢を設定してみただけであり、この意味の更新はいつでも起こりうる可能性がある。三十五歳の時には三十五歳の読みがあり、四十歳では四十歳の読みがある。老人になっても、読みは新しく更新されていく可能性がある。
 これとよく似た経験は、読書でもある。青年に頃に読んだドストエフスキーの小説を五十歳になってもう一度読んでみたら、同じ小説とは思えないような経験をするということはある。いったい、青年の頃は何を読んでいたのかとすら思うということがある。
 たまたまこれもドストエフスキーの小説に登場してもらったのだが、
こちらは普通は黙読だろう。
 この黙読(読書)と、素読の違いは、素読では音としてテキストが完成してしまうので、目の前にテキストがなくても読みが持続しうるし、テキストなしで、突然ひらめきのように、新しい読みが生じてくる可能性があることである。道を歩いていて、待てよ、あの文は、と思い、足を止めて深く思い、そうか、そういうことなのか、と思うというようなことは、音として完成したテキストが記憶に保持されている場合には起こりうるだろう。
 これが、素読に独特な点なのである。
 音として完成されたテキストは、テキスト(文字)を必要としないで読みを深めることを可能にする。

 
 


1290 <素材>11 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 8日(木)05時44分50秒 
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.文字を不要とする方法

 私が語学に素読を原理として据えたのは、この文字を必要としなくなるという点に着目したからだった。読みの深まりや意味の更新も意識しなかったわけではないが、語学では、読みの深度のようなものは、即応力のようなものとして育つ。
 素読舎で英語をやり、その後、アメリカに渡り、しゃべり言葉において非常に闊達な即応力を備えて帰って来た子供が何人もいる。これは、半分は英語の「磁場」の力によるものだが、文まるごとを音として完成させるという素読舎の訓練が下地になったのではないかとも思っている。この子供たちは、素読舎なんか使ったことはないというような顔をする場合が多い。アメリカという英語の「磁場」の力が与えたものを、まるで自分の手柄であるかのような顔をし、下地なんかなかったような顔をするのである。下地に対して恩知らずと言えば恩知らずであり、得意げと言えば得意げな顔だ。英語回りには、この種の人間が多いのが、これは日本で英語をやり続けて、私の気持ちが複雑骨折を起こすことの大きな理由だ。英語ぺらぺらは、ある意味で、人間をお馬鹿さんにしてしまうのではないかという疑いすら持つようになった。
 いや、話がそれた。
 素読舎の訓練をやった子供が、磁場にさえ身を置けば、比較的簡単に英語の話し言葉を獲得していくのは、素読が、音としてテキストを完成させ、最終的に文字を不要とすることができるからに違いないと思っている。そのレベルでは、瞬間的なシンタックスの鷲掴みが成立するからである。
 素読は、最初は文字を相手にする。解釈や意味を最初に置かず、まずは「音読」し、音として完成したテキストを作る。そして、それが完成すれば、文字は不要になる。
 だから、これはテキストから「文字を不要にする方法」だと言ってもいい。

 Eliot さんの言う意味での「音作り」でも、それが文全体を対象にして行われるならば、「音作り」ができた時点で、文字は不要になるだろう。文字がなくても、文全体がまるごと、英語のイントネーションやリズムを備えて口から飛び出してくる状態になるだろう。ここには、素読と同じ原理が働いているのである。

<法則3> 音と意味を分離させ、「音づくり」の訓練を行う。ただただ音としてテキストを完成させることによって、文字を不要にする。

 このことは、次のように言ってもいい。

<法則4>文字が不要になるまで文字につきあう。

 
 


1354 素材 投稿者:根石吉久 投稿日:11月17日(土)01時32分29秒 
<素材>12

.繰り返し

 文字が不要になるまで文字とつきあうということをやるのに、どうしても欠かせないことは、「繰り返し」である。語学から、この「繰り返し」ということを外してしまうと、語学自体が成立しないほど、「繰り返し」は語学にとって重要な柱なのだが、これが、語学と生活言語をはっきりとへだてる。
 Nice to meet you. という言い回しを、口になじませるために、何度も繰り返し言い続けることは、語学ではきわめて当たり前の行為だが、生活の中でこれを繰り返して相手に言ったら、絶対に変な奴だと思われるだろう。
 Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet you. ・・・・
 実際に使ってみるのは危険を伴うので、お勧めしないが、もしも実際に初めて会った人にそう言い続けたら、少なくとも頭のおかしなやつだと思われる。場合によっては、殴られる。生活言語では、話の相手との関係はいつも切実なものであり、同じことを繰り返し言い続けることは、相手へのおちょくりなどを意味する場合が多々あるからである。
 しかし、この「頭のおかしな」やつだと思われるようなことを、語学という机上の世界で繰り広げることは、まるで当然で普通のことである。何のおちょくりでもない。おちょくりどころか、語学では絶対に必要なことなのである。語学で「絶対に必要なこと」が生活過程ではタブーとなる。人生いろいろ、であるが、語学はうらはら、なのである。人生全体に対してうらはらなのである。
 生活言語から見れば、語学の言語は滑稽であり、語学の言語から見れば、生活言語は痩せた意味が支配する貧しい世界である。
 Nice to meet you. で言うならば、意味などすっとんだままで、ひたすら口の筋肉の運動をやり、筋肉を鍛えたり、筋肉の動きをなめらかにするだけのために、この Nice to meet you. を使用することだって、語学ではきわめて普通のことである。
 この一点をもってしても、語学の言語と生活言語とは、根底から別の性質の言語であるということが言える。語学の言語と生活言語ははっきり分けて考えた方がいいと、私は長いことずっと思ってきた。語学では、意味などすっとんだままで、口の筋肉の運動だけしていることは可能だが、生活言語では、まずそんなことは許されない。不動産の契約場面で、口の筋肉の運動のためだけに文を繰り返し言い続けていると殺されるかもしれない。生活過程で、そんな「遊び」が許されているのは、2歳程度の幼児にだけである。生活言語には「遊び」の要素がきわめて少ないのである。語学となれば、その全体を「遊び」にしてしまうことすら可能であるのに。

 
 


" 1355 素材 投稿者:根石吉久 投稿日:11月17日(土)01時33分09秒 
<素材>13
 

 語学の言語と生活言語の関係は、虚と実の関係である。どちらが虚でどちらが実であるかは、実はひっくり返ることもありうる。言葉を語学で扱うように、「言葉だけのもの」として扱う場所から、生活言語を眺めると、実に虚であるという感覚が成立することも充分にありうることなのだ。詩から見た生活が虚であるようなものである。
 生活に戻ろう、じゃなかった、「繰り返し」の問題を繰り返そう。
 私の「大風呂敷」という掲示板に書いてくださる ST さんという方に教わったことだが、國弘さんは「只管朗読」を唱えられ、しかも、千回の「繰り返し」を唱えられているそうである。千回?。千という数字にどんな根拠があるのだろうと思ったが、その後、考えてきて、これにはどうやら根拠があると信じるようになった。
 百回の朗読(私の言い方なら素読、あるいは「回転読み」)を十回繰り返せば千回になる。五十回の朗読を二十回繰り返しても千回になる。私の「技法グラウンド」なら、二百回繰り返せば千回になる。どんな数字と数字の組み合わせであろうと、千回程度繰り返した文が、本当に使い物になる文なのだという意味でなら、私はこれは実に根拠のある数字だと思うようになった。
 千回繰り返し言い続けた文というのは、「もうつくづくいやんなった」「飽き飽きした」「もういいよ」というように感覚される文である。そういう文だけが使い物になる。語学から生活言語に渡れる文というのはそういうものだのだ。國弘さんはすごい。
 アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリスなど、どこでもいいが、英語が生活言語である場所に渡り、そこで英語の能力を獲得することは、生活言語の場で生活言語を獲得することである。この点では、世界のどんな場所でも人がいるところでは必ず行われている言語の獲得過程(ネイティヴ言語の獲得)と同じである。
 ここが語学ではまったく違う。とことん違う。
 語学は絶対に生活言語の場で生活言語を獲得するような行為ではない。虚から実に渡ることだ。このダイナミクスは、語学だけが持つもので、生活言語の場で生活言語を獲得した人の知らないものである。