(1)できるだけ何度も英語(教科書の録音)を聞かせる
(2)和訳をして授業時間をむだにしたりせず、生徒に和訳を当てもしない
(3)文法の説明は最小限しかしない
(4)音読の時間を最大限にとる
(5)発音は細かいところまで説明し、練習させる
(6)教科書ガイドを全員に購入させる
(7)教科書の録音CDかカセットテープを全員に購入させる
(8)教科書の課文を暗記させる
(9)必ず読めるようにしてから書かせる
(10)教科書の各課の最後についているコミュニケーションごっこは無視する
(11) 身の回りの語彙を絵辞典で覚えさせる
(12) NHKのラジオ講座、基礎英語1を聞かせない
(1)英語をたくさん聞かせる
教科書の指導用録音教材に教科書の対話や読み物を自然な速さで録音したものがあり、中1の教科書の内
容を最初から最後まで通して聞いても15分にしかなりませんでしたので、毎時間全部聞かせました。つまり、生徒たちは、週に4回、中学1年生用の教科書の
全レッスンを耳にしていたわけです。(英語の授業はフォニックスを週6時間だったのが、フォニックスが終わってからのち、週に4時間私の授業を、あと2時
間を別の先生の授業を受けることになっていました。別の先生の授業は、文法テキスト・問題集をやっていくというもので、こちらの授業で、私の授業と違っ
て、目一杯文法の説明を受けて、問題をやるという内容でした。このテキストを使っての授業は、うちの学校の中学生は毎年受けているもの、いわば伝統であ
り、この授業まで蹴散らすということはできませんでした。相方の先生が「したい」と言っているのを止めることは無理と判断したからです。しかし、私は、後
日、この授業で習ったはずの文法知識はたいして生徒の力になっていないということを思い知らされました。)
生徒は静かによく聞いていました。テレビのコマーシャルと同じで、これでもか、これでもかというよう
に繰り返し聞かせましたところ、自然と相当脳に刺激が行ったようで、新しい課に入って音読練習を始めるときには、もうモデル録音の声の調子まで頭に浮かん
でくるようになっている者が多く、音読練習では、彼らは自分の音読を頭の中で聞こえるモデル音読に近づけるよう努力すればよかったのです。
(2)和訳をしない、させない
和訳に時間をとられることなく、音読の時間を確保したかった私は、文法訳読授業は金輪際やるまいと
思っていました。でもそれは、英文の意味を理解することが不要だとか、英語は英語で理解すべきだという主張ではありません。とにかく、授業中に生徒に当て
て和訳をさせ、教員がそれをあーだこーだといいながら繰り返して、生徒たちはその和訳をノートに書くという作業を省きたかったのです。
英語の学習作業としての英文和訳の無意味さについては、「『超』勉強法『超』批判」という本(アルベルト湯川 データハウス)の中に次のように書いてあります。
(以下引用)
英文和訳の作業はそれをやらされている生徒にとっては、一切英語の勉強になっていないことを、ここで強調したい。これは極論ではない。
英文和訳はそれをやらせる教師の側が生徒が理解しているか否かを知るためだけのものであって、生徒のためには金輪際何も役に立っていないのである。
その理由を正確に述べよう。日本人にとって英文和訳と和文英訳とは対称な関係にない。和文英訳なら日本人は和文の意味が分かっているのだから、その意味を英語の文章構造で表現するための和文英訳は、まさに英語学習の中心的訓練の一つとなる。
これに対し、英文和訳の作業は、例え生徒が英文中の全ての単語の意味を知っていても、その英文の意味
を理解できていないとき、日本語を訳せと言われても当然訳しようがないのである。そういった場合、日本人の生徒のほぼ全員が英単語に対応する日本語の単語
をつなぎ合わせて何やら意味の通りそうな文章を必死に書いてみようとするが、これでは日本語の訓練であって、まったく英語の訓練にはなっていない。では生
徒が英語を理解している場合にはどうであろうか。この場合には理解しているのだから、日本語に訳す必要は全くない。つまり生徒が理解していない場合、理解
している場合いずれも日本語に訳そうとすること自体が英語の学習にこれっぽっちも役立たないのである。
今日、学校の英語の授業で一時間中、英文和訳をしたとすると、教師にとっては、どの生徒が現在どのく
らいの英語のレベルであるかを知る作業は行なわれたが、授業に参加した生徒の英語力は一時間の間、ただの一歩も進歩しないまま足踏みをし、彼らは全く無駄
に時間を過ごしたことになる。これが今日の日本における英語教育の現状である。
日本語に訳した上でないと理解できないような癖がついてしまったら、その生徒は終生その外国語を喋れ
るようにならなくなってしまうことに、重大な警告を発したい。日本における語学教育はこのような現状だから、中学三年、高校三年、合計六年、そして人に
よっては大学二年、つまり合計八年の永きに渡り営々と英語の授業に参加した日本人の生徒は、遂に、「正確に」はおろか、全く喋ることができるようにならな
い、という、世界に稀に見る惨憺たる結果になるのである。(引用終了)
私は生徒に対して「英文の意味は自分で考えよ。わからなければ教科書ガイドと英文復活練習用の
和訳プリントを読め。それでもわからなければ質問に来い」という姿勢で中3の今に至るまでやってきました。(※英文復活練習用の和訳プリントについては
(8)教科書の課文を暗記させる、の項で説明します)
授業中に和訳をしないということは、テストにも和訳の問題は一切出さないということにつながります。定期考査では教科書の課文そのままの和文英訳や、課文によく似た英語が答えになるような和文英訳問題をたくさん出します。
自分で書ける英文と同じ程度の英文の意味がわからない人はまずいないけれど、英文の意味を言える人が
その英文程度のことを英語で書けるとは限らない、ということを考えれば、テスト問題として授業で扱った英文の和訳を求めるより、その英文の和訳を示して英
訳問題として出した方がいいと昔から思っています。
(3)文法の説明は最小限にしかしない。
人が考えた説明を聞くより自分の頭で考えた説明の方がずっと効果があります。それはわかっていても、
一般に教員はよく説明をします。私は何年か前に、教師の仕事は説明することではなく、生徒が自分の頭で考えるようにしむけることだと強く主張する塾経営者
が書いた本を読んだことがあります。それは「英語これならドンドンわかる」(鵜沢戸久子 明日香出版社)という本で、著者の鵜沢氏は独特の英語教育観を展
開しており、私はこの本から多くの示唆を得ました。
いかにコーチが泳ぎ方を黒板を使って長時間くどくどと説明しても泳げない生徒が泳げるようになること
はないでしょう。泳げるようになるには水の中で練習するしかないのです。同様に、英文法について教員が説明しても、その文法ポイントを自分の頭で納得する
ことができるような体験を生徒にさせないと、その説明はまったくのむだになる可能性があります。生徒一人一人の知識や理解力に差があるのですから、一斉に
全員に向けた説明では、ある者にはわかりきったことで、まったく無意味であり、ある者には的外れで、これまた無意味であるということが起こり得ます。よし
んば「ほうなるほどそうか」と思う生徒がいても、実は単にその瞬間にわかったつもりになっているだけということもしばしばです。
私が授業中に説明した主な文法項目は、名詞の可算と不可算と特定と不特定の考え方とそれに伴う冠詞の
用法と、be動詞と一般動詞の違いとそれぞれの否定文と疑問文の作り方、それに関係代名詞の用法、分詞の用法くらいで、他のことは、教科書の実例を通して
の生徒の「気付き」を促すよう努めています。
例えば現在完了のことを教えるのには、教科書の課文の実例を通して、まず意味を理解させ、その後、そ
の課文の音読と暗唱をさせ、それから、練習用の和文英訳をいくつもさせて、徐々に定着させるよう持っていきます。その間に生徒たちは教科書ガイドや教科書
ワークブックの説明を読み、自分の頭で現在完了時制とは何かを考えるわけです。私が黒板を使って現在完了時制の説明を一方的にすることはありません。
一方、動詞の活用のように機械的に覚えるべきものは、淡々と繰り返して定着をはかります。高校中級程
度までに出てくる不規則動詞の一覧表を作って、生徒に配り、年に数回「強化期間」を設定し、そのときに徹底的にテストを繰り返して覚えさせます。これを2
年間くらい継続すれば、たいていの動詞の活用は忘れにくくなると思います。この作業は現在継続指導中です。
(4)音読の時間を最大限にとる。
(5)発音は細かいところまで説明し、練習させる。
50分の授業時間の10分〜15分程度で単語テストなどの小テストをやって、その後15分〜20分を
使って教科書の録音を聞き、残りの時間を音読に当てるというのが、中1〜中2の基本的な授業のやり方でした。せいぜい、20分×4回=80分程度が一週間
の音読時間ということになります。自宅から通う生徒ならば、家で声を出して読めますが、全寮制の勤務校では生徒たちは寮の集団学習室で一斉学習をしますの
で、自習時間に大声で音読することができせん。そこで、授業中にできるだけ声を出して練習することを奨励したのです。
音読練習はほとんど私の後について読む、というものです。回転読みや技法グラウンドは使っていませ
ん。教員の後について読む一斉読みですから、各人がどのような音を出しているかは分かりにくいのですが、一クラス40名では個別にというわけにもいきませ
ん。しかし、フォニックスで個々の英語の音は相当練習した生徒たちですから、私が出している英語の音をカタカナに置き換えて処理するのではなく、そのまま
英語の音として自分の口から出せることができていることが多く、中1の頃からかなり英語らしく読めていました。それでも、単語レベルから文章の音読への進
化は一朝一夕で上達するものではありません。絶え間ない音読だけがそれを可能にしてくれます。
録音を何度も聞いたことがある課文の音読ですから、生徒たちはイントネーションとリズムは自然とモデ
ル録音のように言おうとする傾向があり、この面の指導は最小限で済みました。しかし、勢力を注いだのは、個々の音の正確さと単語と単語のつながり方でし
た。単語と単語のつながり方は別の言い方をすれば、音と音のぶつかり合いのルールということになります。例えば
He stops Betty.
I stop Betty.
I stopped Betty.
の stops / stop / stopped の読み方について、細かく説明し、練習をさせます。この三語にそれぞれ含まれる/p/の発音はすべて違います。これは英語ではまったく普通のことなのですが、それを知っている日本人英語学習者はあまりいないでしょう。
まず、stops は/ps/のところは息を強く、鋭く吐き出して、p
と s の音をそれぞれはっきりと発音します。しかし、I stop
Betty.では、破裂音/p/の直後に破裂音/b/が来て、「破裂音+破裂音」のぶつかり合いが生じますから、ルールに従って、前の方の破裂音は「破裂
の構えをして、黙っているだけ」で処理されます。すなわち、sto
まで発音した直後に唇を合わせ、声と息を遮断し、一瞬無音状態を作り、その直後に/b/の音を破裂させて
Betty と言います。
さらに、stopped Betty では/ptb/という「破裂音+破裂音+破裂音」というぶつかり合いが生じます。この場合は「破裂音の構えで音と息を遮断する⇒そのままの状態で無音を継続する⇒三番めの破裂音を発音する」という流れで処理されます。
I sto まで言った後に、唇を閉じて、音と息を絶ち、さらに/ed/のところの[t]の音は完全に消滅し、「唇を閉じた無音状態」に置き換えられてしまい、その無音状態が作る一瞬の沈黙の後に
Betty という発音が続きます。
書くとなにやらむずかしげですが、実際に手本をやって見せれば、だれでも真似できることです。
/ptb/のすべてを破裂を伴う発音でやっても、通じることは間違いありませんが、そういう発音しかできない人は、聞き取りに苦労することになります。
このような音の変化のルールはそれほどたくさんあるわけではないので、音読するたびに、生徒の注意を
喚起して練習させていると、自然にできるようになってきます。私は、文法の説明はあまりしませんが、発音の細かいところにはこだわりと言えるほどの指示を
出しながら練習させます。それにはわけがあります。
発音の上達には極めて大きな個人差が生じます。小さなことまで何度も何度も教え、録音を何度も聞かせ
て音読練習をさせていると、二年間ぐらいで生徒の中にほとんど直す必要がないレベルまで達する者が現れる一方、いまだに
r
の音も不確かな者もおります。教えてやればやるほど上達し、高い水準の音を獲得する者がいるのであれば、どんな瑣細なことであっても私が教えられることは
教えてやりたいと思うのです。そして、あまり上手でない生徒たちも、英語の音に関して私が教えてきたことを、不十分な形であっても彼らなりに身に付けた結
果として、この程度の水準を獲得することができたのであり、もしも私が大雑把なことしか教えていなかったら、彼らの音はもっと低いところで停滞していただ
ろうと思います。
(6)教科書ガイドを全員に購入させる。
公立中学校の生徒の英語の勉強の相談に乗ったことがあります。その男子生徒は中学二年生を終了したと
ころでしたので、二年生の教科書の最後の課を音読させてみたのですが、ほとんどまともに読むことができませんでした。英語の音がまったくできていない上、
読めない単語の続出で、何度も立ち往生するというありさまでした。そこで、彼の教科書を取り上げ、その課のあちこちの文や語句を私が日本語で言って、それ
を英語で言ってみろと命じたところ、これも何一つまともに言えません。彼の英語の成績は4だというし、予習もちゃんとしている、塾にも通っているとのこと
でしたが、さっぱり英語の力がないのです。
予習は何をするのかと聞くと、「教科書の課文をノートに書き写し、教科書の最後にある単語欄を見なが
ら和訳をノートに書く」との答えでした。そして、授業では先生に当てられた生徒が和訳を言い、先生が説明を加えながら和訳を言い直すので、それを聞いて自
分の和訳を訂正する、これが授業の時間の大半を費やす作業だと言うのです。録音を聞いて読むことも少しするが、みんなあまり声を出していない、塾では文法
問題をやっていて、発音練習はまったくない。そして自宅での復習は全然しないとのことでした。
和訳を作らせるだけに時間の大半を費やす授業を英語の授業と言えるはずがありません。教員は、二千円
で買える教科書ガイドに載っていることを授業と称して生徒のノートに移しかえることの愚かさに気付かないのでしょうか。いや、和訳だけではないのだ、生徒
がよくわかるように説明もしてやっているのだという反論もあるかもしれませんが、いかに授業中に教員が色々な説明を加えながら和訳をしても、生徒がそのあ
りがたい説明を全部理解したり、即座に記憶できるはずがないのだから、そんな授業は結局は教員の自己満足に終わります。
私は自分の生徒たち全員に教科書ガイドを購入させ、課文の和訳と説明は原則として各自が教科書ガイド
を読んで理解するよう努めよ、と指示しています。教科書ガイドの説明や和訳が素晴らしいとはとても言えませんが、他の文法参考書や一般的な教室での教員に
よる説明と大差はないと思います。自分の頭で考えることには大きな価値があるはずです。
授業中の文法説明を省くのは、授業中にできるだけ英語の録音を聞き、音読をする時間を確保するためでもあります。
(8)教科書の課文を覚えさせる。
(9)必ず読めるようにしてから書かせる。
各課の授業はまず「読み方プリント」の練習から入ります。単語の一覧と教科書の課文のプリントです
が、単語の一部には発音をフォニックスのルールを利用したつづりで示しており、課文には音と音がぶつかって変化が生じる箇所に+サインと下線が付けてあり
ます。脱落することが多い音は( )に入っています。例えば、I
told+(h)im that+Mary had+a dog.というような感じです。
生徒たちはこれを見ながら私の後を付けて一斉読みで練習をします。ほとんどの生徒たちが大きな声で読みます。
授業中に聞かせる録音は今やっている課のものだけではなく、その課を含む前後いくつかを一緒に聞かせ
ていますから、生徒は新しい課の読み練習に入るときにはすでにその課の録音は何度も聞いたことがあります。おぼろげながらも頭の中にその新課の音読の残像
がある状態から読み練習に入るわけです。
何回も授業中に読み練習をしていると、生徒たちは新出単語の発音も覚え、英文をある程度スムーズに音
読できるようになります。その段階で授業中に行なう小テストの予告をします。まず一回目は新出単語のテスト。私が読み上げる単語を書き取りなさいというテ
ストです。次の時間は文の書き取りテストで、私が読む文を書き取れというテストをします。その頃までに「英文復活練習用プリント」を配布しておきます。こ
れは課文をフレーズごとに英語の語順に日本語にしたものを印刷したプリントです。例えば、The
boy who came to see you asked where you were.という英文なら
「少年は/彼は来た/君に会いに/尋ねた/どこに君がいるのかを」という日本語が印刷されているものです。英語は書いてありません。生徒はこのプリントを
読んで、英文の各部分がどんな意味で、相互にどうつながっているのかを確認します。
英文の音読を繰り返してスラスラ読めるようになったら、今度は各自がこのプリントを見ながら、英文を
言う練習をして、さらにそれを書く練習をします。これが英文復活練習です。この練習は原則として各自が自分の時間を使ってやらねばなりません。課の仕上げ
の小テストには、このプリントから日本語の文を出題し、元の英文を書かせます。10文程度を出題し、8割できれば合格で、不合格者は放課後や昼休みに呼び
出されて、音読練習をした上、一人ずつ私の前で英文復活プリントを見ながら、まるで英文を見ながら言っているようにつまらずにその課を英語で言えればオー
ケー、言えなければ、再度呼び出しされて同じことをさせられます。
高校の教科書に入ってから、プリントの種類を一つ増やして、次の三つにしました。
@読み方プリント
A同時通訳プリント
B英文復活練習用プリント
Aの同時通訳プリントは音読練習用でもあり、英文の意味の確認用でもあります。
When I was in London,・・ I lived・・ in
an apartment・・
ぼくがロンドンにいたとき ぼくは住んでいた アパートに
with a Spanish student.
スペイン人の学生と。
というようなものです。このプリントを使えば、英語を音読するのと同時に英文の意味の確認をする
ことができます。英文が中学の教科書よりも複雑になってきているので、文の構造と意味に今まで以上に注意を払わせたいと思って作りました。生徒にはこのプ
リントを使って音読の練習を最低20回はするようにと指示しているのですが、成績不振者に限ってサボろうとします。しかし、音読を十分にせずに英文復活小
テストの成績が悪いと、結局は呼び出されて無理やりに読まされる羽目になります。なお、このプリントの最後には1から40までの数字が書かれた音読回数記
録欄があって、生徒にはきちんと記録をするようにと指示しています。
(10)教科書の各課の最後についているコミュニケーションごっこは無視する
私は時々英語教育研究大会という催しに参加する機会があります。全国規模のものにも地方レベルのもの
にもしばしば公開授業と呼ばれる時間があり、会場の○○ホールまで中学や高校の1クラスを連れてきて、舞台の上に机を並べ、授業をするのです。私が見た範
囲では、公開授業の最近の傾向は次の四つです。
(1)ALT(assistant English teacher)とのteam teachingで、日本人教師とALTが英語を多用する。
(2)日本人の英語教師だけの授業でも教師は極力英語を多用する。
(3)コミュニケーション活動と言われる作業を多く取り入れ、生徒が英語を口から発するよう仕向ける。
(4)担当日本人教師は英語が上手に話せる。
私はこれら四つには何も文句はありません。すべて結構なことだと思っています。しかし、そういう授業で生徒の口から発せられる音はほとんどすべてカタカナ英語なのです。英語の音作りがまったくできていない生徒たちばかりなのです。これは大問題です。
授業の後に引き続き合評会があり、授業をした中学校の先生が「この中2の生徒たちは中1のときから私
がずっと教えてきました」などと言うのを聞くと、私は「先生、あなた一人だけそんなに発音が上手でどうするんですか。生徒にちゃんと教えてくださいよ」と
叫びたくなります。確かに生徒たちは舞台の上で元気に発表したり、寸劇を演じたりと、一生懸命なのはわかります。にこやかな笑顔で大きな声を出し、カタカ
ナ発音をしています。見ていると胸が痛みます。
度胸、あるいは愛嬌を付ける訓練をしたり、「アメリカ人のように相手の目をしっかり見て英語を話しましょう」と、植民地精神を植えつけたりするのが、コミュニケーション能力を養成する英語教育だなどと言われても、私はそんなのはまっぴらごめんです。
私は、コミュニケーションごっこにうつつをぬかし、音作りを放棄した授業より、音作りに精を出し、そ
のための時間を確保するため、どうでもいいようなコミュニケーション遊びは捨てるという道を選んでやってきました。勤務校は私学のため、中学生は週6時間
の授業以外に1時間英会話という時間があります。生徒たちはこの時間にALTと一緒に歌を歌ったり、ゲームをしたり、ペアワークをしたりと、楽しく英語を
使って遊んでいます。遊びならコミュニケーションごっこも害はありません。
(12)NHKのラジオ講座「基礎英語1」を聞かせない。
理由ははっきりしています。音作りに役立たないからです。この講座は音作りに関する内容はほぼゼロで
す。中学生に説明、指導なしで英語を少々聞かせてていてもごく少数の例外的に音感のいい生徒以外は、まず絶対に英語の音を出すようにはなりません。ラジオ
の講座を中学の時から何年間も熱心に聞いても、それだけで英語の音があふれるようになることはないのです。
暗唱発表
教科書の中の適当な課(対話ではない読み物の課)を指定し、暗唱発表をいくつもさせてきました。最初
は中1の教科書の最後にあった180語程度の読み物を課題文にして始めました。普通の課と同様に、読みのプリントの練習をへて英文復活練習用プリントへ進
み、日本語を見ながら英文を書くことができるよう練習させます。課の仕上げのテストでは普通の課のテストの倍以上の20文以上の英文を、その和訳文を見な
がら書かせます。それからそのテストの点を使ってクラスごとに発表順を決めます。点数の一番低い者が最初の発表者、一番いい者が最後に来ることにしていま
す。
暗唱発表は授業の最初に原則として二人ずつさせますが、もし失敗者が出れば、その次の人まで順番が
回ってきます。発表者は教壇に立ち、覚えた英文を教室の後ろまで聞こえる声で暗唱せねばなりません。私は発表を聞きながら、発音のおかしいところをメモし
ます。生徒が忘れて立ち往生しても、一切助け舟は出しません。10秒くらい沈黙が続くと、私が
"Time's
up."と声をかけます。これは「暗唱失敗」の宣告です。失敗者は発表順の一番最後に回され、再度挑戦せねばなりません。また、失敗した日の放課後は教室
に残って練習するよう命ぜられます。放課後はまず私の前で課題を音読し、発音の指導を受けます。その後は指示された回数だけ音読をするまで帰れません。
成功裏に暗唱発表が終わると、私が発音の悪かった個所を指摘して、発表者とクラス全体に確認させます。私は同じことを何度も言います。何人もの生徒が同じ間違いをするので、その都度指摘するからです。
これは相当効果があり、徐々に生徒たちの発音が正確になっていくのがわかります。数週間かけてクラス
全員に発表させますから、生徒たちは同じパッセージを何十回も聞かされます。そして自らも練習して正しい発音でクラスメートに暗唱を披露せねばなりませ
ん。上手な発表をすると大きな拍手をもらえますが、失敗すると恥ずかしい思いをすることになりますから、生徒たちは真剣に取り組みます。「英語を上手に発
音できることはいいことだ」ということが生徒たちの間の常識になっていますので、教壇に立ってでたらめな音を出す者はいません。皆それぞれに一生懸命で
す。
中学一年生の教科書の約180語の課題から始まった暗唱ですが、現在継続中なのは中学3年生の最後の
方の読み物で、語数は500を越えるまでになりました。これが八番目の暗唱課題です。クラスメートの前で500語を6分の制限時間内に暗唱するのはなかな
か大変で、失敗する者も多いですが、感情込めて上手に発表できる者、練習した成果を発表するのを楽しんでいる者もおります。
英語音読マラソン(English Read-Aloud Marathons)
「國弘流英語の話し方」(國弘正雄著 たちばな出版)という本があります。英語学習者にとって非常に
ためになる本です。この本の中で國弘氏は自らの経験として、中学校の英語の教科書を何百回も音読したと書いています。私は授業で生徒たちに教科書の音読を
させますが、授業時間中には頑張っても十回程度しか読ませる時間が取れません。
一つの課文をすらすら読めるようにして暗記にまで持っていくためには、それに加えて、生徒が教室外で
自分の時間を使って、最低20回は音読をする必要がある、と言い聞かせても、素直に実行する生徒は少数派です。そこを何とかしたい、國弘氏のように何百回
とまではいかなくとも、100回くらいは教室の外で教科書を音読させたいと思って始めたのが「音読マラソン」です。通信教育講座の「○○マラソン」にヒン
トを得て付けた名前ですが、英語ではEnglish
Read-Aloud Marathonsと呼ぶことにしました。
さて、第一回の英語音読マラソンは中2の1学期に実施しました。すでに学習し終わっていた中1の教科書を100回音読させることが目的でした。
まず、音読回数記録用紙を生徒に配布して、教科書の裏表紙の裏に糊付けさせます。この用紙には罫線に
囲まれた数字が印刷されていて、1〜10までが横一列に、その下に11〜20というようになっていて、100まで印刷されています。10回ごとに日付を記
入する欄も設けてあります。生徒は、各自のペースで音読して、1回読むごとに記録用紙に付けていき、10回ごとに日付を書いて、私の検印をもらうというや
り方で、夏休み前に100回の音読を達成しようというわけです。
教科書の中のいわゆる本文の部分だけではなく、文法のまとめのページの例文も音読すること、教科書に
必ずしおりをはさんで読みかけの場所がわかるようにしておくようにも指示しました。加えて、この音読の作業は英語力向上のために絶対必要な作業であるとい
うことを理解し、誠実に着実に取り組んで、音読回数のごまかしなど絶対することがないようにとも言い聞かせました。
マラソン開始後は、一週間に一度くらい授業中に全員の記録用紙を点検し、音読が停滞していないかと目
を光らせ、夏休みが近づいて来ると、回数が足りない者には放課後残って読めと命じました。中1の教科書を一回音読すると15分〜20分かかりますから、
100回音読するには少なくとも25時間以上かかる計算になります。しかし、あくまで彼らの自己申告ではありますが、最後には生徒の全員が100回読みを
達成したのです。
音作りへの道に終わりはあるのでしょうか。Better English Pronunciation (J.D.O'Connor著 Cambridge University Press)という本の中に次の一節があります。
And make no mistake, your aim must be to acquire a perfect English pronunciation. You will almost certainly not succeed in this aim because it requires, as I have said, a very rare gift; but unless this is your aim you will not make all the progress of which you are capable; keep working towards perfection until you are quite sure that it is neither necessary nor profitable for you to continue. Then you will have done yourself justice.
「これ以上続けるのは不要だ、または得るものがないと確信するまでは完璧な発音を目指して練習
せよ」と説いています。いつまで、どの水準までの音作りを続けるかは、学習者各人の判断しだいだというわけです。しかしそのときまではあくまで完璧を目指
して練習しないと、自分の到達可能な水準にも届かないよ、とも言っています。試験で100点を取るつもりで勉強しても、70点しか取れないかもしれませ
ん。だからといって、最初から70点でいいやという姿勢で勉強したら、50点以下に終わる可能性があるということですね。
私はO'Connor氏が言っていることはしごくもっともなことだと思います。教員としての私の立場
からこれをまとめると、「完璧な発音など普通の学習者には無理。しかし練習では完璧を目指して努力させよ。生徒各人が自分なりに納得できる水準に達するま
では」となります。これは、私が生徒たちを相手に2年あまり取り組んできた英語の音作りの根本にある考え方です。同じ指導者の下で同じ期間練習してきたの
に、生徒間の個人差はすさまじく、指導している私も驚くほど上達した生徒たちがいる一方、少数ながら、絶望的に下手な連中が存在します。しかし、いずれも
「完璧な発音」、別の言い方をすれば「外国語訛りがない発音」、を目指して私が重箱の隅をつつくようなことまで指摘しながら指導してきた成果なのです。細
かな点まで教えたからこそ、完璧に近づいた生徒がいるのですが、あまり上手でない生徒たちも、やはりそういう指導の成果だと考えています。「頑張ったか
ら、やっとこの程度にはなった」という生徒たちに、もし最初から「この程度でよかろう」という低い水準しか要求しなかったとしたら、はたしてどのくらいの
「音」を身につけることができていたことでしょう。
結果として各人が獲得した音が「通じるレベル」であればよいという考え方には賛成しますが、そこに至
る過程ではあくまで外国語訛りのない発音を目標にさせるべきだと私は思います。日本の中学生には最低でも2年、もしかしたら3年、そのような発音を目指し
て練習させることが必要です。英語の音作りはそれくらい時間と労力がいる作業です。
「音作りへの道」は、根石吉久さんの掲示板「大風呂敷」へ、柴田武史さんが Eliot
さんとして書かれた授業の実践記録です。根石さんが柴田さんの許可を得てホームページに掲載されていたものです。以下、根石さんのホームページからの引用です。
(→ 「Eliot
さんの実践 音作りへの道」)
『掲示板「大風呂敷」に、Eliot
さんが書かれた授業の実践記録です。Eliot さんは中高一貫の私立校の英語の先生です。英語の「音」については、非常に詳しい知識をお持ちで、私は脱帽しています。
今後、「完璧な発音」に関して掲示板上で意見を交わす予定がありますが、「学校英語での音作り」と「音作りへの道」シリーズが完結しましたので、Eliot
さんに許可をいただき、このホームページへ掲載いたします。』
このほど、柴田さんから根石さんへ、「音作りへの道」を Eliot さん名義からご本人名義とされた上で、若干の手直しをされた原稿と差し替えたいとのご要望があり、このサイトへ掲載させていただく運びとなりました。
また、根石さんは「事情が許すかぎりは、ある作品 が成立する経緯、過程が残る方が、完成品だけを残すやり方よりは編集として優れている方法なのだ(掲示板「大風呂敷」の根石さんの投稿より)」というお考 えから、柴田さんの許可を得て、旧版をホームページで今後も掲載されます。柴田さんが Eliot さんとして「大風呂敷」に颯爽と登場された頃、「大風呂敷」はまだ立ち上がったばかりでした。こちらの方もご覧ください。
→ 根石吉久さんのホームページ上の「Eliot さんの実践 音作りへの道」