>読み物の宿題が山のように出る 浜谷さんのおっしゃっている多読ですが
社会人だと かなりキツイでしょうね。
読み方を変えればキツク感じないで読めると思います。分からないところは跳ばすということです。最初は20〜30%の理解でも良しとするのです。その読み方は多読が勿論主目的ですが、ヒヤリング能力の養成でもあります。ヒヤリング時に分からない個所があっても飛ばして(その場の様子から相手の言っていることを類推しながら)聴くことが必要ですが、その練習を読書でやるということなのです。それは慣れない段階では苦痛です。そのために私のホームページではそういう読み方をe-mailを使ってコーチしましょうと言っています。
跳ばして読むのは跳ばして読んだ個所について言えば、類推訓練を除いては無駄のように感じられると思いますが、分かる個所での過去に出会った文章との反復遭遇による「復習範囲を手放さない」という根石さんの回転読みと同じ文脈の効果を期待できるだろうところにあります。
私の「電話でレッスン」その他による「復習範囲を手放さない」は、國弘正雄の「只管朗読」の「只管」ということを、忙しい社会人の方や子育てしながら英語をやる方でも実現できるようにするためのものです。
これは、見掛けは単純ですが、これまでの私の英語との関わりの中でとれたもののエッセンスから出来ており、一つのシステムを成します。「技法グラウンド」と名付けてありますが、これの眼目が何であるかは、外からちょっと見てわかるようにはなっておりません。
レッスンの生徒さんも、実際に数ヶ月レッスンを受けられた後に、「これはよく効きます」と言ってくださるのです。言ってくださるのは、普段から英語を使う必要がある方々だけですが・・・。
「復習範囲を手放さない」場合に、生徒さんには、毎回復習テストのたびに各文を50回音読しておいてくれと言います。國弘さんの500回という回数を時間をかけて実現するようなシステムです。
忙しいから、レッスンを受けられないとおっしゃる方がいらしゃいますが、「電話でレッスン」は忙しい方のためにシステムを考案したものです。仕事を持ちながら、自分一人で500回という回数、数千という文の数をこなされる方がいらっしゃれば、本当に頭が下がります。とびぬけて堅固な意志を持った方です。しかし、そういう方でなくても、時間さえかければ英語は変えられるということをわかっていただくのが、「復習範囲を手放さない」です。
多読で既知の知識に何度もぶつかることに「復習範囲を手放さない」と同じ作用があるかのように書かれておりますが、私の「復習範囲を手放さない」はもっとはっきりと意図的な、意識的なものです。読書というものは、理解の流れをたどる作業であり、圧倒的に知識や理解に負っている世界です。そこで既知の知識に何度も出会うことで、記憶がリフレッシュされたりすることはもちろんあります。しかし、私の「復習範囲を手放さない」はそんなレベルにあるものではありません。知識や理解したものをも媒介物として煮込み続け、その場でセンスに変えていくものですから、記憶のリフレッシュや記憶の保存などではありません。「回転読み」や「只管朗読」の激しさがねらっているものは、多読などとはまるで違うものだと思っています。私の「復習範囲を手放さない」は、音も理解も知識も意味もイメージもすべて同じ釜で煮込んでもらうような方法であり、黙読による主に頭を使う読書とは、根底が違っています。
浜谷さんのように優等生だった方以外は、浜谷さんの多読のやり方で英語が上達するには、300年から500年かかると思います。一生懸命にやってもそのくらいかかると思います。私は冗談を言っているのではありません。浜谷さんにはよかった方法でしょうが、普遍性はない。この性質を決めているのは、浜谷さんが、多読に至るまでの「前提」を軽んじているという一事です。SSSも同じことです。
多読がいいことに何の異論もありませんが、浜谷さんの多読の扱い方にははっきりと異論があります。すでにそれはこの掲示板で述べてありますが、お返事はいただけておりません。ですから、年がら年中同じような浜谷節だなと思ってしまいました。
多読の前提となる知識、理解というものを軽く扱って、多読万能みたいなことを言うのは優等生タイプの方の欠点です。ある意味で、はっきりした初心者に対する犯罪です。磁場を欠くということがどれほどのことを意味するのかを、いまだ理解されていないのだなと思いました。
何度も同じことを書くのはいやなのですが、新しくこの掲示板を読まれている方もおられることを思い、書いておきました。
また、私自身の好みを言えば、読書の楽しみは、自分が英語をやったことの最高のごほうびだと考えており、読みたいものを少しずつ味わいながら読むことをやっていくつもりしかありません。いかなる意味でも、読書を語学の手段とすることはしたくありません。読書しながら、知らない単語に印をつけておき、後で「電圧装置」で処理するようなことはやりますが、これはすでに読書の土俵を降りて、別の語学という土俵に上がったということなのです。
語学と生活言語を峻別するのとまったく同じ意味で、私は語学と読書とを峻別しています。またどなたもそこは峻別すべきだと考えています。ここを峻別しないことは、生活言語や読書というものに対する冒涜だと考えています。
わからないところを、聞き流すこと、読み流すことを習って修得すべき技術のように書かれているところがどうしようもないと思いました。できるのかと言われるなら、できないとはっきり申し上げますが、それでも聞くときは100パーセント聞き取ろうと思って聞くのですし、読むときも100パーセント理解したいと思って読んでおります。読み流さないのかと言われるなら、読み流すこともします。しかし、それは力及ばず読み流さざるをえないから読み流すのであり、聞き流さざるをえないから聞き流すのです。
およそ、修得すべき技術などではありません。読み流す技術や聞き流す技術をわざわざ修得すべき技術のようにおっしゃるところには、なにかとてつもなく転倒したものがあります。