1728黒板を使わない 投稿者:根石吉久 投稿日: 2月 9日(土)13時10分46秒
白樺湖畔のホテルで深夜お聞きした Eliot さんのお話の中に、授業で黒板は使わないというものがあり、深く共鳴するところがあった。
「音づくり」をまともに考えたら、黒板で説明しているような暇はないはずだ。
絶対に黒板を使ってはならないということではないが、絶対に崩してはならないものごとの順序というものはある。
「音づくり」と「文法理解」の順序で言えば、「音づくり」が絶対に先立つべきであり、生徒の体に「音づくり」が成立していない文に関して文法の説明をするのは、根底的に錯誤である。
あるいは、「音づくり」が徹底されれば、文法の項目でも自然にわかってしまうようなものすらある。そのレベルの「音づくり」をやれば、生徒の体は疑問だらけになり、質問も飛び出す。
そういう時に、手短に文法の要点を言ってやればいい。ただちにその場で理解してくれることが多い。ST
さんの言い方を借りれば、生徒の顔が「ほっこり」する。
英語の授業において、黒板は敵なのだということを、日本の英語教師たちは知る必要がある。 黒板がどれほど、「音づくり」を崩してしまっていることか。これが認識になっても、次に現れる敵がある。中間・期末のテストという敵だ。本当はこれを倒さなければ、日本の英語は救われることはないだろう。
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1823日本での英語攻略の順序 投稿者:根石吉久 投稿日: 2月19日(火)12時52分49秒
わざわざ「日本での」とするのは、日本という場所が、英語をやるのに、特別な困難をもたらす場所であるという認識が私にあるためです。
また、「英語攻略法」ではなく、「英語攻略の順序」であるのは、日本で英語をやっている人達は、攻略の順序を間違えている場合が多々あるためです。とりわけ馬鹿な大間違いをやっているのが学校です。
「すらすら読めるようにする」 → 「語法・文法の説明をする」
この順序は絶対的なものです。これを学校という馬鹿な大間違いの巣窟では平気でひっくり返してしまう。ひっくりかえしてしまうというより、いつまでたっても、「すらすら読めるようにする」ということに手をつけない。
この標準的学校英語というものは、くたばる以外にないものです。
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部分引用
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1907SAIさん(2)浜谷さんちから 投稿者:根石吉久 投稿日: 2月27日(水)15時17分29秒
ネイティヴ言語習得過程では、音も意味も、水と油をかき混ぜたような状態で混じり合います。激しく交互に入り組み合う。この時、音と意味を媒介にしているのはイメージというものだと思います。どういうわけか、人間という奇妙奇天烈な生物には、イメージの誕生は自然に起こるみたいです。しかし、これは、語学においては、絶対に「自然には」起こらない。ここを観るなら、ネイティヴ言語習得過程と、語学の言語習得過程は峻別されます。多々似ているところがあるにせよ、原理的にまるで違う過程だと思います。
先日もめました「磁場」ですが、これが日本在住の英語学習(習得)では手に入らないという事実を軽く見ておられるように思いました。映画でもCD教材でも何でもいいですが、これらはあくまでも音声複製技術による複製物であり、磁場を形成することはありません。(文脈とか映画の中のフィクションとしての磁場は形成しますが、これは生の磁場に対して高次磁場だと思っています)。
しょっぱな音声複製物を使って、リピーティングやシャドウイングをやることに私はとても違和感を持ちます。とても奴隷的なものを感じるのです。私は語学の原理的な部分では、國弘正雄さんと同じで、「音読が最高」主義者ですので、まず日本人がやるべきことは、「わかっているもの・覚えたもの」を声を出してなおも読み込むことだと思っています。今では教材がいくらでもあるのだから、最初からリピーティングでいいという意見を少し前にこの掲示板で読ませていただきましたが、語学をやることは英語ペラペラをやることではなく、語学的主体を作ることだと考えています。その観点を外さないで考えると、初期の「音づくり」(外科手術)を除外すれば、中心を成すべき方法はやはり「音読」だと思います。
ネイティヴの複製音声は、それに「従い」自分の音を調整するものではなく、それを「媒介にして」自分の音に繰り込むべきものだという考えです。日本語しかしゃべってこなかった口の筋肉の慣性という実体があるのですから、オウム主義(宗教の方ではなく鳥の方です)によって、一挙に英語音に置き換えるよりも、日本語音から英語音に向かってグラデーションを濃くしていく過程で媒介にすべき参考物です。
音というのは複製でも、音声は感情です。私はこれをコピーすることが嫌いなのです。芸人になりたいわけではないのですから。
私は「音派」ではなく、「音読派」ですので、またしても音読方面から光を当てた記事になってしまいました。
ヒアリングやリスニングについては今後考えますが、ひとまず発声練習(音作り・音読)に関してだけ考えました。繰り込むのならいいが、コピーはやりたくないという意見です。
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しみじみ納得...
根石さんの記事(いつのだったのか忘れました。すみません)
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これ以後の記事は、「音づくり」ができる人に対してだけ意味を成します。
語学では、音と意味が分離している。
では、音と意味を別々に扱っていいのか。私は別々に扱っていいと考えています。というより、一人の人が他の人の中に語学力を作ろうとする場面では、当初、この二つは別々のままに扱うべきだと考えています。
音づくりでは、ひたすら音にだけ生徒の注意がいくようにして、ただただ音づくりだけをやればいい。ここに、コーチ付きの練習の最大の利点があります。
音づくりが終わった時点では、生徒は、いちいち音を意識しないでも、その文をいくらでも言い続けることができるようになっています。その時から、生徒がやるべきことは、文法や語法の理解を媒介にして、音と意味を合体させる作業です。これは、生徒が自分でやらなければなりません。これは誰を頼るわけにもいかない。自分で合体させないと音と意味はいつまでたっても一体化することはありません。とりわけ、英語の磁場が払底している日本という場所では、これは念じるように、強く呪性を効かせて、意識的にやる必要があります。
このことをお上品な英語関係者たちはまるで言いませんが、音と意味の意識的な合体に関してほど重要なことは他にあるのかと言いたいくらいに大事なことです。
初心者を相手のコーチでは、当初はひたすら音の訓練でいい。それだけでいい。そして、音ができたら、自分で理解を媒介にして、音と意味を合体させる必要があることを、コーチはきちんと言葉で生徒に説明できなければならない。語学論が要らないどころの話ではない。語学論を持たないような教師やコーチは、いつまでたっても、音と意味の関係を生徒に説明することができないのだから、いつまでたっても、二流・三流のままなのです。
日本では、語学論を持たないような教師は駄目なのだということです。
基礎研究としての語学論をやらないような教師は駄目なのだということです。
たまに、論としては大したことを言えないが、実践は実に見事だという人がいます。実に日本人的な現象だと思います。発明はしないが、すでにあるものの利用や再生産は見事であるという事例です。この種の人の生徒は幸運です。しかし、この種の人は、理論が言えないので、自分の見事な実践を他の場へ広げることができない。ここをこうしたとは言えても、それがなぜ必要なのか(原理論)を言えないなら、広がりを持つことはないでしょう。
つまり、理論化することができないという点において、実践はその人のいる場所だけで有効であるという形で閉じてしまうのです。これは、英語状況に対しては大きな損失です。
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boysome228さんが、回転読みについておたずねになっていたので、根石さんの過去ログからひっぱり出して来ました。
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1289 <素材>10 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 8日(木)05時43分57秒
<素材>10
.素読
素読について少し書いておきたい。
素読は江戸時代に盛んに行われたらしい。私にとって、そのもっとも原型的なイメージは、孫がおじいさんの前に机をはさんで正座し、「論語」を声に出して読んでいる光景である。これは、実際に見たことがあるわけではないが、いつの間にか私の中に形成されている素読のイメージである。
このイメージについていくつかのことが指摘できるだろう。まず、一対一で向き合って行う練習であること。コーチ(おじいさん)がいること。実際に声を出して音読することが練習の主体を成すこと。
しかし、素読にもっとも特徴的なことは、孫がひとまず「論語」というテキストの意味を理解しなくても許容されることである。ただ正しく音読できさえすればそれでいいとされる。素読の効果を本当にわかっているおじいさんなら、テキストに関する自分の解釈を講釈することはしないだろう。
音として完成したテキストは、やがて発酵し、意味は自然に備わる。その意味が自然に備わる過程こそが人が生きるという過程なのだ。
少年の頃に、おじいさんの前で「論語」を素読させられた少年が、例えば二十歳の青年になり、「論語」の中の文を思い出し、これはこういう意味だったのかと何か納得したものがあったとする。少年時代には、意味のわからない文を「音読」させられ、音としてなめらかに正確に言えるようにしていただけであるから、その時点でのテキストは、文としては意味をともなわない「からっぽ」の文である。二十歳になってから思うことがあり、、その「からっぽ」に急に意味が充電されるということが生じたのだ。
しかし、その充電はそれで終わりではない。音として完成しているテキストは、その後も、一度充電された意味を洗い続ける。あるいは、今度は意味を媒介にしながら、発酵を続けると言ってもいい。
三十歳になって、また思うことがあり、二十歳の時に、自分はあの文についてこんなことを考えたが、まるで違っていたのかもしれないと思い返すことがあったとする。同一のテキストがまた違う顔を見せることになる。昔から知っているテキストが、まったく新しい表情で立ち上がるということを経験するかもしれない。
たまたま二十歳と三十歳という年齢を設定してみただけであり、この意味の更新はいつでも起こりうる可能性がある。三十五歳の時には三十五歳の読みがあり、四十歳では四十歳の読みがある。老人になっても、読みは新しく更新されていく可能性がある。
これとよく似た経験は、読書でもある。青年に頃に読んだドストエフスキーの小説を五十歳になってもう一度読んでみたら、同じ小説とは思えないような経験をするということはある。いったい、青年の頃は何を読んでいたのかとすら思うということがある。
たまたまこれもドストエフスキーの小説に登場してもらったのだが、
こちらは普通は黙読だろう。
この黙読(読書)と、素読の違いは、素読では音としてテキストが完成してしまうので、目の前にテキストがなくても読みが持続しうるし、テキストなしで、突然ひらめきのように、新しい読みが生じてくる可能性があることである。道を歩いていて、待てよ、あの文は、と思い、足を止めて深く思い、そうか、そういうことなのか、と思うというようなことは、音として完成したテキストが記憶に保持されている場合には起こりうるだろう。
これが、素読に独特な点なのである。
音として完成されたテキストは、テキスト(文字)を必要としないで読みを深めることを可能にする。
1290 <素材>11 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 8日(木)05時44分50秒
<素材>11
.文字を不要とする方法
私が語学に素読を原理として据えたのは、この文字を必要としなくなるという点に着目したからだった。読みの深まりや意味の更新も意識しなかったわけではないが、語学では、読みの深度のようなものは、即応力のようなものとして育つ。
素読舎で英語をやり、その後、アメリカに渡り、しゃべり言葉において非常に闊達な即応力を備えて帰って来た子供が何人もいる。これは、半分は英語の「磁場」の力によるものだが、文まるごとを音として完成させるという素読舎の訓練が下地になったのではないかとも思っている。この子供たちは、素読舎なんか使ったことはないというような顔をする場合が多い。アメリカという英語の「磁場」の力が与えたものを、まるで自分の手柄であるかのような顔をし、下地なんかなかったような顔をするのである。下地に対して恩知らずと言えば恩知らずであり、得意げと言えば得意げな顔だ。英語回りには、この種の人間が多いのが、これは日本で英語をやり続けて、私の気持ちが複雑骨折を起こすことの大きな理由だ。英語ぺらぺらは、ある意味で、人間をお馬鹿さんにしてしまうのではないかという疑いすら持つようになった。
いや、話がそれた。
素読舎の訓練をやった子供が、磁場にさえ身を置けば、比較的簡単に英語の話し言葉を獲得していくのは、素読が、音としてテキストを完成させ、最終的に文字を不要とすることができるからに違いないと思っている。そのレベルでは、瞬間的なシンタックスの鷲掴みが成立するからである。
素読は、最初は文字を相手にする。解釈や意味を最初に置かず、まずは「音読」し、音として完成したテキストを作る。そして、それが完成すれば、文字は不要になる。
だから、これはテキストから「文字を不要にする方法」だと言ってもいい。
Eliot さんの言う意味での「音作り」でも、それが文全体を対象にして行われるならば、「音作り」ができた時点で、文字は不要になるだろう。文字がなくても、文全体がまるごと、英語のイントネーションやリズムを備えて口から飛び出してくる状態になるだろう。ここには、素読と同じ原理が働いているのである。
<法則3> 音と意味を分離させ、「音づくり」の訓練を行う。ただただ音としてテキストを完成させることによって、文字を不要にする。
このことは、次のように言ってもいい。
<法則4>文字が不要になるまで文字につきあう。
1354 素材 投稿者:根石吉久 投稿日:11月17日(土)01時32分29秒
<素材>12
.繰り返し
文字が不要になるまで文字とつきあうということをやるのに、どうしても欠かせないことは、「繰り返し」である。語学から、この「繰り返し」ということを外してしまうと、語学自体が成立しないほど、「繰り返し」は語学にとって重要な柱なのだが、これが、語学と生活言語をはっきりとへだてる。
Nice to meet you. という言い回しを、口になじませるために、何度も繰り返し言い続けることは、語学ではきわめて当たり前の行為だが、生活の中でこれを繰り返して相手に言ったら、絶対に変な奴だと思われるだろう。
Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet
you. Nice to meet you. Nice to meet you. ・・・・
実際に使ってみるのは危険を伴うので、お勧めしないが、もしも実際に初めて会った人にそう言い続けたら、少なくとも頭のおかしなやつだと思われる。場合によっては、殴られる。生活言語では、話の相手との関係はいつも切実なものであり、同じことを繰り返し言い続けることは、相手へのおちょくりなどを意味する場合が多々あるからである。
しかし、この「頭のおかしな」やつだと思われるようなことを、語学という机上の世界で繰り広げることは、まるで当然で普通のことである。何のおちょくりでもない。おちょくりどころか、語学では絶対に必要なことなのである。語学で「絶対に必要なこと」が生活過程ではタブーとなる。人生いろいろ、であるが、語学はうらはら、なのである。人生全体に対してうらはらなのである。
生活言語から見れば、語学の言語は滑稽であり、語学の言語から見れば、生活言語は痩せた意味が支配する貧しい世界である。
Nice to meet you. で言うならば、意味などすっとんだままで、ひたすら口の筋肉の運動をやり、筋肉を鍛えたり、筋肉の動きをなめらかにするだけのために、この
Nice to meet you. を使用することだって、語学ではきわめて普通のことである。
この一点をもってしても、語学の言語と生活言語とは、根底から別の性質の言語であるということが言える。語学の言語と生活言語ははっきり分けて考えた方がいいと、私は長いことずっと思ってきた。語学では、意味などすっとんだままで、口の筋肉の運動だけしていることは可能だが、生活言語では、まずそんなことは許されない。不動産の契約場面で、口の筋肉の運動のためだけに文を繰り返し言い続けていると殺されるかもしれない。生活過程で、そんな「遊び」が許されているのは、2歳程度の幼児にだけである。生活言語には「遊び」の要素がきわめて少ないのである。語学となれば、その全体を「遊び」にしてしまうことすら可能であるのに。
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" 1355 素材 投稿者:根石吉久 投稿日:11月17日(土)01時33分09秒
<素材>13
語学の言語と生活言語の関係は、虚と実の関係である。どちらが虚でどちらが実であるかは、実はひっくり返ることもありうる。言葉を語学で扱うように、「言葉だけのもの」として扱う場所から、生活言語を眺めると、実に虚であるという感覚が成立することも充分にありうることなのだ。詩から見た生活が虚であるようなものである。
生活に戻ろう、じゃなかった、「繰り返し」の問題を繰り返そう。
私の「大風呂敷」という掲示板に書いてくださる ST さんという方に教わったことだが、國弘さんは「只管朗読」を唱えられ、しかも、千回の「繰り返し」を唱えられているそうである。千回?。千という数字にどんな根拠があるのだろうと思ったが、その後、考えてきて、これにはどうやら根拠があると信じるようになった。
百回の朗読(私の言い方なら素読、あるいは「回転読み」)を十回繰り返せば千回になる。五十回の朗読を二十回繰り返しても千回になる。私の「技法グラウンド」なら、二百回繰り返せば千回になる。どんな数字と数字の組み合わせであろうと、千回程度繰り返した文が、本当に使い物になる文なのだという意味でなら、私はこれは実に根拠のある数字だと思うようになった。
千回繰り返し言い続けた文というのは、「もうつくづくいやんなった」「飽き飽きした」「もういいよ」というように感覚される文である。そういう文だけが使い物になる。語学から生活言語に渡れる文というのはそういうものだのだ。國弘さんはすごい。
アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリスなど、どこでもいいが、英語が生活言語である場所に渡り、そこで英語の能力を獲得することは、生活言語の場で生活言語を獲得することである。この点では、世界のどんな場所でも人がいるところでは必ず行われている言語の獲得過程(ネイティヴ言語の獲得)と同じである。
ここが語学ではまったく違う。とことん違う。
語学は絶対に生活言語の場で生活言語を獲得するような行為ではない。虚から実に渡ることだ。このダイナミクスは、語学だけが持つもので、生活言語の場で生活言語を獲得した人の知らないものである。
1286 <素材>7 投稿者:根石吉久 投稿日:11月 8日(木)05時40分09秒
<素材>7
.語学的な犯罪
水と油は、同じ容器に入れて放置すれば自然に分離する。
語学でも、音と意味は、放置された状態では自然に分離している。
サラダのドレッシングを作るとき、水もの(醤油など)とサラダ油を混ぜるなら、容器に蓋をして激しく振るなり、棒でひっかきまわすなり、よく知らないが、何かしなければならないはずである。激しい動きを与えなければ、水と油は混じらない。混じっても、しばらく放置しておけばまた分離する。
語学の音と意味も同じである。
なんらかの激しい動きがなければ、音と意味は一緒にならない。この激しい動きの一種として、國弘正男さんという方が、「ひたすら朗読」を唱えられた。國弘さんの旧著が再版され、現在これを実践している人は多い。いいことである。國弘さんという方が、はるか以前に「ひたすら朗読」を唱えられていたことを京都の高校の英語の先生から教えていただいたとき、私は方法的な先達がいたのだということを知った。
私は、素読を原理として、「回転読み」というものを唱えた。(小学館文庫『英語どんでんがえしのやっつけ方』)
「回転読み」とは、一つの文にとどまり、同じ文を何回も、何十回も、場合によっては何百回も言い続ける方法である。
國弘さんの「朗読」、私の「素読」あるいは「回転読み」、言い方は違うが、根本に持つイメージは同じなのである。あるいは、もっと一般的に流布しはじめている「音読」とも共通するものがある。どれも、「音」をおろそかにしないこと。自分の声で実際に文を繰り返し読むこと。それが共通点である。あえて区別をするなら、もっともおだやかな方法が素読であり、「ひたすら朗読」や「回転読み」は激しい方法だ。
「ひたすら朗読」や「回転読み」は、水と油、音と意味を混ぜるのに有効な「激しい動き」なのだ。
いや先走るまい。音の意味の統合(同致)は、まだまだ先の話としなければならない。
まだ、音と意味の「分離」にとどまって考える必要がある。意味と混ぜるための「音」の質が問題になるからだ。
音と意味を混ぜること(統合すること・同致させること)は、語学という作業の必然であるが、しかし、まずは、音と意味が分離している段階で、音と意味をそれぞれ別々に考える必要がある。
<法則2> 語学の初期段階では、音と意味は分離しやすいが、それをことさらにはっきりと「分離させる必要がある」。
水と油のように分離している音と意味を混ぜて一体化するために、「激しい動き」を与えたとしても、「音」が「通じない音」のままであった場合にどんなことが起こるか。「通じない音」のまま意味と一体化してしまえば、「通じない英語」が成立する。そして、その「通じない英語」こそ、日本人の英語の圧倒的多数派なのである。
これは学校英語が「音」を粗末に扱ってきたことにが原因である。日本人の英語の圧倒的多数派とは、まず例外なく学校英語の犠牲者でもあるのだ。
ことは、語学である。語学において、学校や塾が「音」を粗末に扱い続けてきたことは、単なる怠慢にとどまらない。語学的に言うなら、これは犯罪である。
【6002】
【タイトル】音と意味の分離について。原理論の必要性について。(1)
【 日時 】02/10/19 1:39
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://8246.teacup.com/nessy/bbs
原理論をやります。
外国語においては、単語レベルにおいても、語群レベルにおいても、文レベルにおいても、当初、音と意味は分離しています。このことは、ことさらに言葉にして認識しないだけで、本当は誰もが経験している分離です。
初心の頃を思い出すなら、「書くは write, write は書く、書くは write,
write は書く」というように、日本語と英語を自分の中で付き合わせて、念じるようなことをした覚えは誰にでもあるだろうと思います。この念じるようなことをなぜするのか。音と意味が分離しているからです。念じるように思うということは、語学の根元に呪性があることをも意味します。呪性の根元にあるものは、分離あるいは乖離ではないかと考えています。日本の英語教育があるべき姿から「ほど遠い」から私の呪いも生じているわけです。分離、あるいは乖離がそこにあります。
しかし、語学のフィールドにいったん入れば、分離というものは当初から当然のごとくに経験せざるをえない。これは誰のせいでもない。日本の英語教育の姿があるべきものからほど遠いものであるのは、文部官僚どもがぼんくらでわけのわからないやつらだからという理由がありますが、語学において、音と意味が「ほど遠い」、つまり分離しているのは、これは誰のせいでもない。あえていえば、それが外国語であるせいです。
音と意味の分離が、語学の対象となった言語ほどに明瞭に姿を現す領域は他にないでしょう。ネイティヴ言語でも、子供の意識にとって、当初、音と意味は分離している場合がありますが、それを真似て使っているうちに、言語的・文化的磁場の磁力のよって、音と意味は自然に混ざり、自然に一体化していきます。子供が知恵熱を出す現象に見られるように、「自然に」とは言うものの、子供の意識は大きなエネルギーを使っているのですが、しかし、どのような意味においても、音と意味を意識的に合体させようというような努力はありません。あくまでも人間的自然という意味でですが、それは「自然に」合体していきます。
語学では、意識的にあるいは呪的にあるいは念じるように、音と意味を合体させる必要があります。それをやらない限り、英語の磁場にいる場合を除いて、音と意味が合体することはありません。磁場の磁力とは、音と意味が合体する時に、それを後押しする力のことだとも言えるはずです。
語学で、音と意味が、当初分離しているという事実を踏まえて、語学の方法は編まれなければ駄目だと考えています。ところが、この事実はこれまでのところしっかりと踏まえられているとは思われません。
まず、音ですが、これの扱いがこれまでの日本の英語教育ではでたらめがまかり通ってきています。教師たちの音ができていないケースが非常に多い。だから、当然のことながら、子供の音を作ることができない。これに関しては、Eliot
さんも私も、強く批判を繰り返してきましたが、ここに焦点を当てた方策はいまだ何ひとつ出現していないと言っていいでしょう。
語学には、音と意味の分離があるのは当然のことですが、日本の英語教育においては、音というものひとつに関してさえ、あるべき音と現場に流通する音(カタカナ発音)との間に分離があるのです。本来、音と意味という二つの項目の間の分離であるべきものが、日本では、意味と真音と偽音との三つに分裂してしまっています。これを非常に長い間、日本の文部官僚どもと大学の英語教育関係の教授どもが放置してきました。
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2064 Jackie 様(1) 投稿者:根石吉久 投稿日: 3月 9日(土)14時36分17秒
お返事が遅くなりました。
>根石さん これは 二通りを意味しています。
まず 日本人講師の方が細かい間違いを訂正する、 外人は いちいち直すのが面倒なのか Good!の一言で かたづけてしまう人が割と多い。まずは コミュニケーション 話そうとする姿勢が第一だと。
間違うことを嫌う日本人には 恐れずに話すことも確かに必用ですが これで いつまでたっても片言英語 ということを助長してしまうこともいなめません
いわゆる英会話学校での講師たちのことをおっしゃっているのだと読みました。英会話学校にせよ、一般の公教育の学校にせよ、英語の扱いはほとんどの場合で間違っています。「身体化」の過程をすっとばしているものがほとんどだからです。
この間違いの巨大さに比するなら、生徒の英語の語法の間違いなどは小さなものに思われてなりません。
日本人がやろうが、外人講師がやろうが、日本人の生徒の間違いを正すことで、日本人の生徒の間違いが直るとは思えないのです。ひとつ直っても、またすぐに似たような間違いを再生産するのが、日本人の
thinking way だからです。
これらの間違い訂正は頭脳的な過程ですが、その前段階として「身体化」の過程があるかどうかが眼目ではないでしょうか。「身体化」の過程で自然に直ってしまう間違いの数は非常に多いと思いますし、「身体化」を経て、頭脳的に間違いを直すのであれば、その間違いへの「気づき」は新鮮なものになります。生徒の興味の知的レベルが違っているはずです。
間違い訂正が不要だと言っているのではありません。それは必要です。しかし、それよりもはるかに必要なのは、「身体化」を先立てること。つまり、順序です。
順序だてるどころか、「身体化」の過程そのものがまるごとすっとばされているのが日本の英語の授業の現状です。
欠如しているものは、「身体化」の一語で言えると思います。
コミュニケーションを信奉しても話せるようになるとはとうてい思えません。そんなものは信仰の問題であり、語学の問題ではない。
>第二の意味は 親御 生徒ともに 外人講師には甘く 日本人には成果をきびしく求めます。通って上達しないと 「やっぱり外国人講師じゃないから うまくならないのかしら」っていう あれです。まったくもう自分の努力をたなにあげて よくいってくれます
ほんとに、これに関しては絶望的です。馬鹿は死ななければなおらないと言いますから、しょうがありません。馬鹿は無駄な金をふんだくられて死んでいくようになっているのでしょうか。
英会話学校の繁盛とは、日本人に馬鹿が多いということを証明しているだけのものです。
私もつくづく、疲れはてました。今後はなるべく馬鹿は相手にしないでやっていきたいと思っています。
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2065 Jackie 様 投稿者:根石吉久 投稿日: 3月 9日(土)14時37分04秒
> 少なくとも音読や筆写の課題をきちんとしていれば 確実に上達するはずなのに。
まさに、「音読」と「筆写」が、「身体化」の具体的なメソッドだと思います。日本語の磁場の中で作る英語は、どこまで行っても「もどき」なのだということを踏まえた方法が、「音読」と「筆写」です。
「もどき」の過程を存分にやることです。その後に、「もどき」としての英語を英語の磁場に置くならば、それは英語として息をし始めます。日本にいて英語をやるということは、どれだけの質の「もどき」を作れるかに尽きていると思います。
基礎的な身体化の過程をすっとばして、「リピーティング」や「シャドウイング」を薦めるような方法には私は断固反対しようと思っています。これを薦めるような人がバイリンガルであったり、アメリカ帰りであったり、ESSの部長なんかであったりして、後光がさしているように人は思うのかもしれませんが、イメージの根付きを無視したやり方です。これは、基礎的な身体化がすでに実現している人がやるにはよろしいでしょうが、それを欠いてやったら、人間がコピーマシンのようなものになります。語学をよくやった人間には味のないような人が多いですが、基礎段階で「リピーティング」や「シャドウイング」などをやると、えてしてそういう味のしない人間ができるでしょう。
そのあたりのことを、私は「語学的主体」という語で考えようと思っています。そして、「語学的主体」を形成する基礎的な身体化の練習は、「音読」と「筆写」だと思っています。このたどたどしさが大事なのです。このたどたどしいスピードが、イメージが共に動くことを可能にします。イメージが共に動く状態のままに高速化することはいずれ必要になりますが、最初からネイティヴの高速をコピーせよというような方法は間違ったものだと思っています。
最初から、「リピーティング」や「シャドウイング」をやるのは1000A日本人には実に危険なものだと思っています。
音法を何ひとつ持たず、「リピーティング」などやらせた場合でも、小学生などは非常に上手に音をコピーすることがあります。この場合、磁場を欠いていることがほとんどですから、イメージが音とともに動くということがありません。また、シンタックスの内在化は、イメージが動かないと実現されませんから、音のコピーというあだ花が咲くだけに終わるだろうと思います。國弘式の「繰り返し」の回数というものが、シンタックスの内在化には不可欠ですが、このあたりのことが単純で利口な人たちにはわからないのです。
>SVOの内在化 国広さんの本に 誰が どうした 何を さえ わかれば英語はわかるとありましたね。
それを意識しつつ 中学の教科書のような 系統だてて文法がわかるものを 音読または 素読みする 無意識か 内在化するまで。 いろんな本に浮気せず。これが できてから はじめて 多読 多リスニングが役に立つ。
まったくこの通りだと思います。順序というものが非常に大切だと思います。
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