【タイトル】大風呂敷過去ログより 正しい振る舞い
【 日時 】03/02/11 21:25
【 発言者 】Jackie

【6539】
【タイトル】「よい」コミュニケーションてなんだ?
【 日時 】02/11/29 15:08
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://8246.teacup.com/nessy/bbs
 

>せっかくいい発音を根石さんから学んだ生徒さんが海外で人目を気にせず
に失礼な発言をしたとすると、よいコミュニケーションが生まれるでしょう
か。正しい振る舞いを意識させる教育のほうが音作りよりも重要だと私は考
えています。

 ご立派な考えだと思いますが、私のレッスンを受けて、発音はよくなった
が行儀が悪くなったなどという人は一人だっておりませんから、ご心配はご
無用です。
 人の行儀をよくするのが、教育者であるならば、私は教育者をやるような
気は芥子粒ほども持っていません。
 私は語学における職人です。教育者などという気色の悪いものではありま
せん。
 よいコミュニケーションも糞もない。コミュニケーションというものがあ
るだけだ。教育者は「よい」コミュニケーションなどというものを信じてい
るがいい。必要なら、ちゃんと喧嘩ができることがコミュニケーションでは
ないのか。
 


【タイトル】大風呂敷過去ログより
【 日時 】03/02/07 22:35
【 発言者 】Jackie

2798 繰り返し(1) 投稿者:根石吉久  投稿日: 5月 2日(木)04時10分13秒

私は、「電話でレッスン」というものをやっていて、復習範囲のテストを常時行う。「復習範囲を手放さない」という原理を一つ置いてあり、レッスンによって「繰り返し」が生じるようにシステム化してある。生徒が「繰り返し」を繰り返すように、テストを繰り返す。いずれにせよ、原則は「繰り返し」なのである。
 「繰り返し」が必要な理由は、日本には英語の磁場がないという一事に尽きる。あるいは英語圏のように英語の磁場においてでも、語学では「繰り返し」が必要であるのかもしれないが、日本で英語をやる場合に比較すれば、はるかにその必要は少なくて済むのではないだろうか。これは、日本にだけ住んで英語をやってきた経歴を身上としている私には、正確なところはわからない。
 いずれにせよ、日本にいて英語をやる場合は、自分が日本語に取り囲まれ、日本語を日々使いながら英語をやるのだという絶対的な条件を自覚する必要がある。英語の側から見れば、日本語は英語を簡単に錆びさせる強力な酸なのだということを自覚する必要がある。この酸を日々浴びながら英語を作り英語を持ち続けるのであれば、酸に逆らう作用をもつ何かが必要である。それが「繰り返し」なのだ。
 「繰り返し」だ、「繰り返し」だと「繰り返し」書いているから、しつこいやつだと思う人が必ずいるだろうと思うが、「繰り返し」は繰り返し繰り返し必要なのだと、繰り返し言っておこう。しつこさは語学に必要なものなのである。
 「繰り返し」は馬鹿くさい。馬鹿くさいので、馬鹿にしやすい。そして、実体は死んでいるもの(複製技術によるコピー)を「生きた英語」であるなどを信じてしまう。あるいは、英会話学校の英語ネイティヴの英語が「生きた英語」であるなどと信じてしまう。教室というところは、シミレーションしかできない。教室を単なるおしゃべりの会の場所にしてしまう外人教師もいて、これならシミレーションではなくなるが、先生一人に日本人多数なら、まずはそこは英語の磁場ではない。ということになると、英語の磁場ではないところにある英語だから、「生きた英語」ではない。外人一人だけが1000A故郷の磁場の磁力を身から放出するだろうが、そこは英語の磁場という場ではない。
 教室をおしゃべりの場に変えてしまうようなふとどきな外人教師の教室に通っても、生徒の英語が上達しないのは、そこが磁場たりえないからである。
 


【タイトル】大風呂敷過去ログより 繰り返し2
【 日時 】03/02/07 22:37
【 発言者 】Jackie

2799 繰り返し(2) 投稿者:根石吉久  投稿日: 5月 2日(木)04時11分12秒

 「繰り返し」問題に戻ろう。
 「繰り返し」は退屈であり、馬鹿くさい。だから、それを馬鹿にする人はたくさんいる。
 私の生徒さんにもそういう人がときどきいる。五百回も千回も繰り返すなんて、宗教じゃあるまいに、と言うのである。英語はもっと生き生きとしたものだ、と言うのである。そういう人は、「生きた英語」とか「生き生きとした表現」とかを信じてしまっているので、語学は死物を扱う行為であるという私の考えとはまっこうから対立する。
 「生きた英語」とか「生き生きとした表現」というものがないというのではない。それはあるところにはある。それは英語の磁場にだったらあるのである。「生きた日本語」とか「生き生きした表現」が日本語の磁場にあるのと同じように、英語の磁場には英語のそれがある。それはいつも、その言語の磁場の中にあり、その磁場の中にしかない。だから、日本語で日常を暮らしている人の場所では、英語の「生き生きとした表現」というものは、たいていは複製技術による複製物の中にしかない。
 そして、「生きた英語」も「生き生きとした表現」も、複製技術によって、あらかじめすべては死物である。この、死物というものをちゃんと死物として見ないから間違うのである。

 「繰り返し」を馬鹿にした人の英語はまずとうていものにならない。「繰り返し」を馬鹿にしてしまうということは、日本には英語の磁場がないという厳然たる事実を馬鹿にしたことと同じなのである。
 「繰り返し」を馬鹿くさいように思う人は、「何かいい方法」を探す。そういう人は、何をどう言っても「何かいい方法」を探す。探してさまよう。やらせておくしかない。しかし、一応の親切を示すために、断言をもうひとつ、どんと置いておくくらいはすべきだろうか。
 「何かいい方法」を探して、それをちゃんと見つけられた人は何をみつけるのか。「繰り返し」をみつけるのだ。それが最上の「何かいい方法」なのである。とりわけ日本で英語をやる場合においては、これは絶対的なのである。

 さまよいたい人の前には、断言を置くことしか他にすることはない。

 日本で英語をやって、「繰り返し」を排除して、英語をものにした人がいたらお目にかかりたい。そんな人は一人だっていないはずである。だったら、これはもう法則と言っていい。「繰り返し」は、誰にも無視することのできない語学の法則と言っていい。