【17001】
ちらし 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月 6日(火)16時32分18秒

小川さんが感動するほどの”キリピーさんとちよさんの「つなげる」練習の激しさ”って!!?どんななのでしょうか(>_<) 私ももっと精進 しなくては!と思います。

昨晩のピッコロさんの感想の3つの点は、本当にいいところ、素読舎の本質をついてるなぁ〜と改めて感動してしまいます。ちらし作成のためにHPを見ていた ので「レッスンは生徒の自立練習をサポートするもの」と書いてあったのを思いだして、おお〜と声をあげてしまいましたもの。

それで、ちらしですが、村田さんも既に作られてますか?
私は地元で置きビラとして配れたらいいなと思ってまして、HPから拾った言葉をはりつけて作ったものを根石さんに送らせてもらいました。(あれから修正を 重ねてるのですが)
だらだらした説明よりも、インパクトのあるフレーズがいいですよね。是非とも”コピーライターピッコロ”の力を借りたいなとも思ってます(^o^)

根石さんから、『文では伝わらないものが多いから、ちらし作成は難しい。ちらしの文言を掲示板にさらして、生徒皆さんで会議室とかで案を出してもらって、 作り上げていって「これをコピーして配布してもいい」というものができたらコピーしたらどうか。(配布してもいいよ!?)』というようなことを言われまし た。ちよさんのお店、子子子に置いてある手描きのちよさん作成のちらし、これはすごくインパクトがあって、イラスト入りだし、いいなと思ってるんです。こ れをベースにさせてもらいたいなと思ってるんですが・・・
皆さん、どうでしょうか〜〜?

【17002】
チョコさん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月 6日(火)16時43分27秒

チョコさんのおこさんの 書き込みを読んで、
思わず、息子のこと、そして最近の自分のことも思い出して
書きたくなってしまいました。

できないと、悔しいよね。なんでできないんだろ〜〜って。
最近、私は息子の声が出なくなる気持ちがわかる気がしてきました。
でも、きっと乗り越えられるよ〜と、信じて、待ちましょ〜〜

【17003】
江戸の母さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月 6日(火)17時39分58秒

こないだ書いたビラ案はボツになりました。
「巨大な教材」紹介はもっとわかりやすくないと意味がないので、書きなおしております。

>『文では伝わらないものが多いから、ちらし作成は難しい。ちらしの文言を掲示板にさらして、生徒皆さんで会議室とかで案を出してもらって、作り上 げていって「これをコピーして配布してもいい」というものができたらコピーしたらどうか。(配布してもいいよ!?)』

掲示板上にアップしていって、いいもの作りましょう。この掲示板は画像も載せることができるので。

【17004】
続「つなげる、もっとつなげる」 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月 6日(火)19時13分32秒

ゆうべのキリピーさんとちよさんのレッスンに刺激を受けたので、今日の自立練習では、村田さんも私もいつもより気合いを入れて「つなげる、もっとつなげ る」ことに集中しました。一文を読む回数がいつもよりずっと多くなったので行数はあまり稼げませんでした。

今日練習した部分の中に、"The words are on the tip of my tongue, but I don't quite know how to put what I want to say." という22語文があります。この文を回転させている最中に「ベタ読み」から「切断読み」へ移行する過程が必要なわけが腑に落ちた瞬間がありました。

この文の単語はどれも簡単だし、on the tip of my tongue, I don't know, how to put, what I want to say は口慣れたフレーズばかりですからスムーズに回転出来そうでした。

語をつなげることだけに集中して読んでいると回転速度が増し、普段しゃべるスピードの倍速くらいにはなっていたと思います。そしてその最中に、頭が回転に ついて行ってないことに気がつきました。音の空回りです。文字が亡骸のように横たわっていて、音だけが空回りし、イメージやら意味やらが置いてけぼりに なってしまうのです。置いてけぼりになってしまったイメージやら意味を取り戻して、あるいは獲得して、豪速で回転する音に乗せてやらねばなりません。

ああそうか、「つなげる、もっとつなげる」ことが出来た状態になれば、切断読みで意味やイメージを獲得する作業が必要になるのだなと初めて実感しました。

意味の塊毎に滑らかにつながった英文が、意味やらイメージを乗せて豪速で回転するとどうなるか。回転スピード以下の英語は問題なく聞き取れるようになるは ずです。英語は英語のままで理解するということも出来るようになるはずです。

私が今Yoshieさんと二人で勉強しているNHKラジオ「入門ビジネス英語」のモデルダイアローグのスピードは1分間に約170語(170wpm)で す。ネイティブの話す速度よりかなり遅い感じを受けます。けれど学習者がこれくらいのスピードで話せれば上等だと思います。個人差はあれ、ネイティブ・ス ピーカーはおそらく200〜300wpmくらいのスピードでしゃべるんではないでしょうか。「つなげる、もっとつなげる」で極限までスピードを上げた場 合、おそらく私達でも200wpmくらいにはなると思います。簡単な文なら300wpmくらいで回転させていると思います。

つまり「つなげる、もっとつなげる」を極限まで練習した後に切断読みをすると、理屈の上ではネイテイブのしゃべることは全部聞き取れるということなりま す。背景知識や語彙力も聴解度を大きく左右しますからもちろん一概には言えません。しかしイメージ核受肉教材は語彙を増やし語感を養うということも狙って 作られています。

聞き取れなければ会話が出来ません。リスニングとスピーキングは一体なので、この点においても素読舎の学習法が有効だということになります。

ただし、たらたらとお茶を濁す程度にやっていては、どもなりませんね。(これは私自身にも言い聞かせておきます)

【17005】
小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)22時20分47秒

>ああそうか、「つなげる、もっとつなげる」ことが出来た状態になれば、切断読みで意味やイメージを獲得する作業が必要になるのだなと初めて実感しまし た。

 その作業が必要になるだけでなく、それをやるのが楽になるはずです。

>意味の塊毎に滑らかにつながった英文が、意味やらイメージを乗せて豪速で回転するとどうなるか。回転スピード以下の英語は問題なく聞き取れるようになる はずです。英語は英語のままで理解するということも出来るようになるはずです。

 そうです。それがなければ、私も生徒をとまどわせるようなことをやる必要がないのです。

>ただし、たらたらとお茶を濁す程度にやっていては、どもなりませんね。(これは私自身にも言い聞かせておきます)

 実は私も耳が痛い。

【17006】
チョコさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)22時25分41秒

>レッスンで聞くだけになると「自分はできないから見放されたのでは?」と思うかもしれないので決められないでいます。
もしかしたら根石さんと一対一の方が比べる相手が見えなくていいのかもしれません。
本人に話してみます。すみませんが暫く時間をください。

 大事な問題ですから、急がないでゆっくりでいいです。

【17007】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)22時27分59秒

>是非とも”コピーライターピッコロ”の力を借りたいなとも思ってます(^o^)

 もしかしたらこないだのやり方はいいかもしれません。
 ピッコロさんが熱が入ったときの言葉を江戸の母さんが文字にする!

【17009】
小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 6日(火)22時40分57秒

>文字が亡骸のように横たわっていて

これは詩です。
文字もうれしがるかもしれない。
文字として死ねた、と。

【17010】
ガラパゴスも住めば都 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 7月 7日(水)22時32分20秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/07/07_1244.php

【17011】
楽天も英語“公用語化”三木谷社長「できなければクビ」 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 7月 8日(木)07時05分58秒

2010年7月2日(金)17時0分配信 夕刊フジ

 ネット通販大手「楽天」の三木谷浩史社長(45)が社内公用語を英語にすると宣言したのに続き、カジュアル衣料チェーン「ユニクロ」を展開するファース トリテイリングも2年後の英語“公用語化”を決めた。「ここは日本だ!」と叫びたい人も多いだろうが、専門家は「経済状況からも、日本企業にとって英語は 不可欠」と断言。「明日はわが身」と、いまから勉強を始めるほうがよさそうだ。
 三木谷氏は先月30日、東京都内で会見し、社内の公用語を2012年中に英語に完全に切り替えると発表した。三木谷氏は「世界企業に脱皮するには英語が 必要と判断した」と理由を説明。同時に発表した今後の国際事業戦略についても、英語で説明を行った。三木谷氏は経済誌「週刊東洋経済」の取材にも「2年後 に英語ができない執行役員はみんなクビです」とまで発言している。
 楽天の若手社員は「食堂メニューやエレベーター内の表記、大きな会議の資料はみんな英語。日本語の併記はほとんどない。日常会話も『いきなりは無理だ が、なるべく英語でやってね』という感じ」と、三木谷氏の本気度を語る。そのうえで「社内では『大変だなぁ』と思いつつもポジティブに受け取っている人が 多い。やると決めたらまっしぐらに走る社風なので…」と苦笑いする。
 先月24日には、積極的な海外出店を進めているファーストリテイリングが英語の公用語化を宣言。2012年3月から、海外オフィスはもちろん日本のオ フィスでも、外国人社員が参加する会議などでは原則として英語を使うと発表した。
 実は、日本企業の英語公用語化は今に始まった話ではない。日産自動車は仏ルノーとの提携を発表した1999年3月に「社内の公用語を英語とする」と表 明。同社広報部は「現在も役員の会議では英語を使う。英語学習は社として推進しているが、従業員の割合は日本人が多いので、日本人同士は日本語」という。 厳密な「公用語」とまではいえないようだ。
 このほか、釣り具で有名なシマノや自動車部品の日本精工といった海外拠点が多い会社も英語を公用語としているが、日産と同様、日本人同士は日本語だとい う。
 NHK教育テレビ「実践ビジネス英会話」講師の経験があり、ビジネス英語に関する著書も多い本間正人氏は、「グローバルで勝負する会社にとって、英語は これまで以上に不可欠となる」と語る。
 「少子高齢化で日本の国内消費がますます小さくなります。一方でインドや中国の市場は拡大し、どこの国でもビジネスで使う言語は結局、英語。さらに、少 しでも円安に振れると日本企業も外資の傘下になる可能性がある。そうなると、やはり英語を習わざるを得ません」
 強制的な英語公用語化については「当初は摩擦が生じるだろうが、サラリーマンはボキャブラリーをたくさん持っている。意識して学べば、3、4年で身に付 くはずです」と“荒療治”を勧めている。

【17012】
楽天家 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 8日(木)12時24分40秒

三木谷という社長は、「磁場帰り」だろう。
この路線で経営をやれば、社員は「磁場帰り」だけになっていくだろう。
これまでの社員は、神経症になるか自殺するか。
日本語だけで暮らしてきた社員と英語との間に横たわる巨大な溝が、三木谷に見えているとは思えない。
楽天の株を売るなら今のうちだろう。

しかし、企業が社内を英語にするというのはよくわかる。
言語と金というものはよく似たものなのだ。
各国通貨というものがある。他で通じない金というものがある。
その国を出る時に、全部使ってしまわないと、持っていても意味がないという種類の金がある。というより、世界ではそういう金がほとんどだ。例外が、ドルな のだ。あるいは、一部の国での円なのだ。

いくら言語が金と似ていても、「言語」の習得は「言葉」を通す他はないというのは皮肉なことだ。マネー・チェンジングのような安直な変換はできないという ことが、三木谷には見えていない。この社長も、金を元にしかものを考えることはできない。
いくら言語が金と似ていても、言語は金のように両替はできないのだということが見えていないような頭でも、企業の社長なんてものなら務まるのだ。
楽天は「売り」だ。

こんな時代になっても、素読舎には光が当たらないというのはどうしたことなのか。
日本そのものが「売り」なのか。
「日本」とは何か?

【17014】
馬の骨さん 根石さん 投稿者:ミキ 投稿日:2010年 7月 9日(金)01時07分4秒

とても生意気ですが,馬の骨さんと根石さんの書き込みを読んで思ったことを書いてみます。

英語公用化を行なった企業は「売り」か?

私は、<世界企業に脱皮するには>、一流の企業なら「通訳翻訳課」という部署でも作って,一流の通訳、抜群の翻訳者を雇えばいい事ではないかと思うのです が,,,。各部門で一流担当者が最善を尽くすから一流の企業になり得るのであり,いろいろ兼任させる事で(経理と通訳とか,商品開発と翻訳とか),一流が 二流になってしまうのではないかなぁと思います。(各個人のエネルギーが,集中すべき所から分散されてしまうから)

レストランだって,「接客サービスの出来ないコックはクビ」と言ったら,雇えるコックの選択肢が狭まり,ゆえに料理の質は落ちる可能性がとても大きいは ず。

「兼任出来る人間を雇用して,ちょっと仕事の質は落ちるけど,通訳を雇わなくて良いから経費も削減出来るし!!」って事なんでしょうか。なんだか「素読舎 の素読やってみたいけど,レッスン料は節約して,テキストと練習方法だけ手に入れて独学独学!!」って感じ。ヤダなぁ,,,。少なくともこういう企業に 「よし,投資してみよう!」とは思えない,,,。

目先の損得しか見えていない企業は,私もとりあえず「売り」だと思います。


日本が「売り」か?について

私にとって日本は、まだ今の所,リスクヘッジのポジションで「保有」でいいのではないかと思います。日本という国はとても特殊な環境ですよね。SONY, Panasonic, NINTENDOなど、世界単位の電化製品産業 があるにもかかわらず,電圧は100Vのまま。世界のトヨタ,日産,ホンダ,スバル,,,でも,右ハンドル。VHSのチップも海外とは異種のままだった し,,,。

日本中をアナログ放送からデジタル放送に移行出来るのだから,100Vを220Vの世界スタンダードにかえる事も不可能ではないはず。しかし日本という国 は、様々なものを世界スタンダードに合わせないままでいる。世界に向けて見えない壁を作ったままでいる。ここにまだ何かしら,「売ら」ずにいても良い理由 がある様に思うのです。もちろん「日本における公用語(つまり日本語)」も,世界スタンダードから外れるものの一つだと思いますが、残念ながらこれは徐々 に世界スタンダード化(英語化)の気配ですね。

公用語の世界スタンダード化が進み、言語の他にもこれに追随するものが出てきたら,その時は、さすがに日本は「売り」かもしれません。そうならないと良い のですが。

【17015】
日本語素読見学の副作用? 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月 9日(金)01時47分21秒

明日の日本語素読見学もよろしくお願いします。

娘ですが、レッスンで何度か読んでいる
「かみはしろ かみはゆき かみはふゆ」という詩を
よく覚えているようで、突然暗誦しだしてびっくりします。

夕食でそうめんを食べているとき、「夏はそうめんだよね〜」といったら
「なつはかみ」と言い出しておかしかったです。すかさず息子が
「意味わからない」っと、ツッコミをしていましたが、娘は言葉の
音とリズムを楽しんでいるんだなと思いました(^^)

見学が終わったあとも、私が適当に読み上げると
子どもたちはそろって、まねしたり(しなかったり)
てなことをやってます。

でも、うちは5歳違いの兄弟なんですが、
同じ年齢の頃を思い出しても、言葉に対する集中度と吸収度が
下の娘のほうが驚くほど強いな〜と思います。お手紙ごっこも
今ブームですが、そもそも兄には、なかった文化ですね(><)

【17016】
日本の壁 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月 9日(金)02時29分21秒

根石さんの投稿「楽天家」
お座布団三枚!なんて私が言う立場ではありませんが。ツボにはまりました。
同時に、これからのここで働く社員たちはどうなっていくのだろうと、やきもきしてしまいます。

ミキさん
>世界に向けて見えない壁を作ったままでいる。

ご指摘にあったように、いろいろと頑固に根強くあるのですね!(ハードな音が聞きたい私としては録音スタジオが220Vになってくれないかな〜と切に願い ます!)

今日読んだ新聞で看護士国家資格試験の外国人合格率の低さが取り上げられていました。アジアのインドネシア、フィリピン等からの方ですが、試験問題が日本 語で、しかも日本人でも難しい単語を読まなくてはいけないという話だったと思います。こういうところで国は、ミキさんいうよう「見えない壁」をつくって、 外国人労働力の流入を阻止してるのかなと思いますね。

日本の看護士試験は難しいし、英語が使えないので、中東の国(う〜ん、どこか忘れてしまいました)が大人気で、出稼ぎにいっているという記事も読みまし た。これから介護は需要が増えてくるのに、供給が少ない。日本独自の路線〜ガラパゴスの選択をして、いい面もあるでしょうけれども、この先どうなってくの かなと、不安になりますね。

【17017】
根石さん、 投稿者:巴里子 投稿日:2010年 7月 9日(金)11時05分27秒

 大変申し訳ありません。今日もレッスン休ませていただきます。

 レッスンをあきらめるどころか、やる気満々でボイストレックなど買い込んだばかりです。そんな矢先に、イライラするの発言、落ち込みました。本当の事を 指摘されると応えますね。できそこないのガラス細工のハートが欠け落ちて行く心境です。

【17018】
巴里子さん 投稿者:そよ 投稿日:2010年 7月 9日(金)12時25分16秒

巴里子さんが落ちこんだと仰る根石さんのコメントは、私には巴里子さんへの励まし、叱咤激励に聞こえました。
「自分からつかみに行」ってほしい。練習の「質」を自分から意識して変えて欲しい。あきらめないでレッスンして欲しい。私も巴里子さんことを絶対あきらめ ないから、と。

ですので、今晩のレッスンは是非参加いただきたいです。
心よりお待ちしております。

※ボイストレックって何でしょう?

【17023】
巴里子さん、そよさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月 9日(金)22時06分0秒

>巴里子さんが落ちこんだと仰る根石さんのコメントは、私には巴里子さんへの励まし、叱咤激励に聞こえました。

 それ以外の何でもありません。
 巴里子さんには、「つなげる」「もっとつなげる」「もう一段とつなげる」の矢印を自分で持ってもらいたい。私がそれぞれを言う生徒さんのレベルは違いま すが、同じ一つの矢印です。

 ボイストレックというのが何なのか私も知りませんが、そういうものにお金を使うより、今は、矢印を「自分で」持つようになるかどうかが肝心なことです。

 早くレッスンに復帰されることを願っております。
 私が要求しているものの実質を備えてから、ボイストレックでも何でも好きなように使ってもらうといいと思います。
 逃げたら終わりだとお考えいただいていいと思います。

【17027】
日本語素読見学感想 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月10日(土)04時39分10秒

参観させていただいて、ありがとうございました。雑音だしてすみません。
ももこさん
お子さんお大事に〜〜お耳が痛い中、よくがんばってましたね。そして自分で「調子が悪い」と根石さんにつたえられたのは、すごいなと思います。当たり前の ことでしょうが、どうもそういうのがうちの場合、難しい。学ばせていただいております。

今日はテレビが見たいといって娘は帰ってこなかったのですが、最後のほうちょっと聞けて、終わったあと次のレッスン開始場所をこちらも開けまして、私が読 み、子どもたちが読み、をいうのをちょっとやって、そのあと息子が「俺が読む」というので、リード役を息子、復唱を私と娘を2つ、3つやっていました。日 本語素読を聞いた後にもたらされた効果というか、日本語素読が我が家を通り抜けた後の「余韻」がなせる技なのだろうなと思います。

詩を声に出して読むというのは、文字が読めるようになったら、急に忘れてしまったような気がします。(20歳頃、私は偶然にも詩を作る人たちと知り合えて へんてこな体験をしましたが。あとちょっと前に『詩のボクシング』もはやり(?)ましたよね)

詩は黙読するものというアタマが出来上がっていたのを、パリンと割られたような心地よさを感じます。子どもがいなかったらこういう経験できなかっただろう な〜

S君も、さすがお兄ちゃんで、すらすら読めているなと思いました。地下鉄千代田線〜のあたりも一生懸命読もうとしてましたよね!読んでいるとき、彼の中で イメージはどれくらい動いているのでしょうね。

騒がしくしてすみませんが、またよろしくお願いします。

【17032】
「開かれた国」であることのコスト 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 7月10日(土)23時24分22秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/07/08_1155.php

【17034】
ミキさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月11日(日)01時17分55秒

>私は、<世界企業に脱皮するには>、一流の企業なら「通訳翻訳課」という部署でも作って,一流の通訳、抜群の翻訳者を雇えばいい事ではないかと思うので すが,,,。

 私が考えていることも同じことです。
 社内全部という考えがダメなものだと思っています。

【17035】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月11日(日)01時36分28秒

>そのあと息子が「俺が読む」というので、リード役を息子、復唱を私と娘を2つ、3つやっていました。

 この組み合わせはいいですね。
 続けてみて下さい。
 そうすれば、私の小学生用英語教材とご家庭内日本語素読がリンクします。

【17036】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月11日(日)01時50分45秒

>あらためて、親がやってないことを、子どもにやらすのは酷だなと感じた。
私だって、全ての発音記号、満足に出ないもの。

 私は酷なことをやらせているとは思っていません。
 「冷凍もの」=「種のまま持たせる」という一線がしっかり引かれています。
 子供にとっては「音楽の一種」だと思ってもらえば、正解だと考えています。
 素読で扱うのは、「言葉」ではありません。
 「言葉」をいったん「言語」にするのが素読です。
 「言葉」ではなく、「言語」(冷凍もの=種のまま)だから、害もありませんし、酷でもありません。
 そして、英語の「磁場」に交わる時が来れば、交わっていける素地は少しずつできていきます。
 江戸の母さんは、「言語」を「言葉」と区別していないと思います。
 幼児英会話のように、英語という言語を、日本語の磁場で、「言葉」にしたら、害があります。「言葉」の受け皿がないということほど残酷なことはないと思 います。

【17037】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月11日(日)02時00分35秒

江戸の母さんのホームページはすごくいいものになっていました。
始められた頃の印象とはまるで違うのでびっくりしました。
ありがとうございます。
惜しむらくは、最近の記事があまりないことです。
英語の練習に疲れたら、また書いて下さい。
「大風呂敷」に書かれるものを、蓄積されていくだけでも後になって面白いものになるのではないかと思っています。

【17038】
コーチ用アドバイス 6 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月11日(日)02時11分25秒

※今回はSさんのレッスンではなく、「コーチ自立練習」の時に根石さんからアドバイスされたことです。
 コーチだけでなく、生徒さんにも知っていてほしいことです。

===============================

◎「音作り」の全体像

 始めたばかりの生徒には、「つなげろ」とも言わない。コーチが1回読んだ後に5回読むように言うだけ。教材の性質として同じ文が何度も出てくることとあ いまって、これだけで、ある程度つながってくる。

 1万行くらいまでは、「もっとつなげる」よう指示する。

 1万行を越えた生徒には「もう一段とつなげる」よう指示する。

 1万5千行から2万行くらいまでをやっていて、自立練習がうまく進んでいるペアは、5万行(「ゴースト」の終わり・「頻出英文法・語法問題1000」の 開始行)へジャンプする。5万行へジャンプしたペアは、2万行から5万行までは「自立練習」で進める。
 5万行へジャンプした生徒にも「もっとつなげる」「もう一段とつなげる」は言い続けるが、さらに「口の動く範囲をもっと大きく使う」よう指示し始める。 「口の動く範囲を大きく使う」ようになってきた生徒には「口の動きに力を入れる」ように指示する。

 このように、「音作り」では(1)「つなげる」(2)「口の動く範囲を大きく使う」(3)「口の動きに力を入れる」の三拍子をそろえる。
 生徒がレッスンでいつもこの3つのことを言われているのに気付いた頃、生徒に、いつも自分の中にこの三拍子がそろっているように、そういうつもりで練習 するように言う。

=================

 「音作り」では三拍子そろえる
 (1)つなげる
 (2)口の動く範囲を大きく使う
 (3)口の動きに力を入れる

=================

【17039】
コーチ用アドバイス 7 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月11日(日)02時16分22秒

口が麻痺してきて、何度もつっかかり、言いにくくなっている時には「もっと口を引きしめる」よう指示する。

=======================

これは自分が例文を読んでいる時に根石さんから指示されました。
「コーチ自立練習」で「つなげる」のを限界まで持って行こうとして最初から
飛ばしていたら、

All your anger, all your love, all your hate, and push it way down here
into the pit of your stomach and then let it explode like a reactor. Pow!

という文の then let it explode like a reactor のあたりでどうしてもつっかかっ
てしまい、何度も言いなおしをしている時、
「今、村田君がおちいっている状態の時には、『もっと口を引きしめる』ように
指示するんだ」と言われました。

それまでの速度は確保したまま、音もはっきり出す。
決して速度はゆるめてはならない。後戻りはしない。常に前へ進む。
「音の連続性」と「個々の音」の「二律背反」を打ち破るためのコツ。

【17043】
根石さん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月11日(日)04時44分31秒

ホームページのことありがとうございます(汗)

最近、ほうっぽりぱなしで、トップページからどうつながってるのか自分でもわからなくて
全部作り直そうと思いつつ、とりあえずやった日だけ記録コーナーとなってますが・・・

巴里子さんじゃないですけど、私も注意されてできなくてあ〜だめだ〜と思って
意気消沈していたので、最近は言葉も少ないです。ハイ。そのせいです(ノε`)
ちらし作成もこころがけて、リニューアルしていきます。

あと、子どもたちレッスンの時間を、3時間後の自分のレッスン準備体操時間として別室にいるためあまり聞けないのも、HPが進まない理由ですが、子どもた ちも「つなげて」「力をいれて」「はっきりと」といわれてるのをきいて安心したりしてます。
どこでもやることは一緒なんですね!

日本語レッスン見学の後に起こることは、偶発的でこちらから誘導してなにかしかけてるのではないのですが、毎回面白いですね。終了5分前くらいに「ただい ま〜日本語やってる?」といいながら帰ってくる子たちです。このまま続けられるといいのですが、ゆっくりいきます。

【17044】
言語 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月11日(日)05時04分53秒

私の書いた
>あらためて、親がやってないことを、子どもにやらすのは酷だなと感じた。
私だって、全ての発音記号、満足に出ないもの。
これは、そのとき思ったことで、正直な気持ちですが、だからといって
子どもたちがやめるということもなく、淡々とこなしているのは

>子供にとっては「音楽の一種」だと思ってもらえば、正解だと考えています。

根石さんの書かれた上のことを、わかっているからかもしれませんね。

>素読で扱うのは、「言葉」ではありません。
 「言葉」をいったん「言語」にするのが素読です。

簡単なようでいて、理解するのは難しいかもです。
「言語」というと、C言語、コンピュータを動かすためのプログラム言語を思い出してしまいました。コンピュータを動かすという目的のためだけの言葉。C言 語はずっとC言語のままで言葉にならない。「言葉」になるのは、「人」を介した時、発話された時になるのかなっと。まったく検討はずれかもしれませんが。

あと思い出したのは、根石さんの「死を扱う技術」という言葉も思い出したのですが、これはつながりますか?

私も上記のことを心して、考え続けます。

【17045】
江戸の母さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月12日(月)00時08分38秒

「発話」したら、それは「言葉」か?そうではないと思います。

「言語」は個人を越えてあるもの。私は根石さんの定義をそう受けとりました。私が10分後に死んでも、私がいなくなったこととは関係なく「言語」はありま す。
英語のテキストが本屋へ行けばたくさん置いてあります。あるいは英語で書かれた本がたくさんあります。スペイン語やドイツ語、韓国語の本も、本屋にはたく さん置いてあります。ただ眺めていれば、自分には関係ありません。自分とは無関係に、それはあります。
一度、英語を自分のものにしようと思い、語学として英語を自分の中に取り込み始めたらもう自分とは無関係ではありません。けれども、どれだけ激しく声に出 して読もうとも、それはまだ「言語」なんだと思います。
では、「会話」になっていればそれは「言葉」なのか。おあいそとか、おためごかしとか、社交辞令とかいうことばがあります。じゃあそれは「言語」と「言 葉」に腑わけした時、「言葉」なのかと言ったらそれは違うと思います。「言葉」は、生きて行く中で、切実な気持ちがこめられているものだと思います。「言 葉」は、すでに語学の領域ではないのだと思います。

「言葉」は生きていることそのもの。「言語」は死んでいる。「死を扱う技術」とは根石さんが言う意味での「語学」のことだと思います。死んでいるものを一 度受け入れ、生きている自分のものにする。
「語学」は、自分の「言葉」を獲得するまでの、長い長い道のりではないか。私はそう考えました。

【17046】
最近のご報告 投稿者:そよ 投稿日:2010年 7月12日(月)06時51分7秒

2010/5/21の初回レッスンからの近況、変化をご報告します。

(1)先日会社で、英語の電話を取り次ぎました。(年に4回くらいあります)
ぱっと頭が切り替わらずあたふたしてしまい、ぜんぜん頭に入ってきませんでしたが、
取り次ぐべき相手の名前だけは聞き取れたので、Waite for a minute, please. といって取り次ぎました。
Hold on a second, please.とも言えませんし、以前は言えた I'm afraid I couldn't hear you. Can I have your name again? すら言えませんでした。
咄嗟に出てくるのは身についた言葉だけですね。電話の会話文を時々回転読みに入れています。

(2)口の筋肉について
2010/7/6の朝から突然、回転読みの口の周りがとてもスムーズにいくようになりました。(通勤時間中の練習でのことです。)
前日の自立練習のおかげかなと思っておりましたが、翌日以降も同様に口が(舌か?)軽くスムーズに動くので、
1ヵ月半ほど続けてきて若干筋肉が鍛えられたのだと思います。

(3)自習について
自立練習以外の自習として、片道30分の朝晩の電車通勤中に声を出さずに口を動かすだけの回転読みをしています。
(最近レッスンで口を大きく使ってとアドバイスをいただきましたが、電車の中ですると本当に変な人で恥ずかしさと格闘しております。)

ただ同じ30分でも声を出すのと声を出さないのでは、声を出すほうが筋肉をより使っているように思いますので、この自習方法には不安があります。
また、読んでいて口が疲れると感じるのは、1時間の自立練習の後半部分と巴里子さんがお休みの単独レッスンの時だけなのですが、7月からは私の都合で自立 練習の時間が1時間⇒30分となったため、口の疲れる練習が週に1回もなくなったことが練習不足ではないかとこれまた不安があります。

(4)つなげるについて
前々回のレッスンで何度ももっとつなげてといわれた文に、Tell her I love her.があります。
私はつなげてといわれた場合、これ以上どこをどうつなげるんだ!と思いつつ、とにかく単語と単語の間の隙間を埋めるよう注意して読んでみるのですが、
Tell herの部分にまだつなげる余地がありました。
何度も読んでいるうちにつなげて読めたとき、とても達成感があり嬉しかったですし、
指摘されない限り意識できない部分ですのでとても有難かったです。
一人では到底続けられない練習に付き合うだけでなく、一歩ずつ上に引き上げていただいている気がします。
根石さん、いつもありがとうございます。

【17053】
村田さん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月12日(月)23時41分19秒

言語と言葉について、わかりやすく書いていただいてありがとうございます。なるほどと思いました。

>「言葉」は、生きて行く中で、切実な気持ちがこめられているものだと思います。「言葉」は、すでに語学の領域ではないのだと思います。

ここのところが、もっとつきつめていけるかなと思いました。前者は”それがないとここをきりぬけていけない”という緊迫状況においてある(存在する)のか なと思いましたが、後者は、まだちょっとぴんとこないのですが、これから、片隅において、考えていきますね。

【17054】
ローラー作戦あるいはウイルスチェック 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月12日(月)23時58分53秒

今日は寝過ごしてしまって、途中参加となりました。失礼しました。

正直、ピッコロさんの発音を聞いて、びびってしまって、「うわ、これ、入れないなぁ〜」と止まってしまいました。もともと発音がすばらしいピッコロさんで すが(レッスン中は自分も無我夢中でつかなかったのかもです)ぐんとかっこよくなってきています。

それでまた、レッスン後にピッコロさんの練習について聞いたので伝言しちゃいます。
言いづらいフレーズがあったら、それが言いやすくなるまでローラー作戦のように、ならしていく。ならして言いやすくなった時、口がうまくうごくようになっ てると。そんな感じでした。なにが言いづらいか?パソコンのウイルスチェックのように、随時チェックしていくのだそうです。たとえが面白いですよね (^^)

私も最初につなげてと言われた文や弱いといわれた文をすごく覚えていて、たまにどうだったかなと口にしてるのですが、そのひとつで You can't stay in here all day. があって後半、all day が出ていないと。自分では言ってるつもりだったのですが、何度か言ってると、「あ、出ていなかったんだ」と気がつきました。最初は全然わかりませんでし た。
今は時たま、最初につなげてと言われた文も、「出てるかな?できるかな?」とチェックしてます。

【17055】
コーチ用アドバイス 8 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月13日(火)00時38分46秒

「口の動く範囲を大きく使え」「口の動きに力を入れろ」はセットで指示。
といっても、同時に言うのではなく、同じひとつの文で「大きく使え」と指示して少し経ってから「力を入れろ」と指示する。
(力がついている生徒については同時に言うこともある)

【17056】
コーチ用アドバイス 9 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月13日(火)00時42分0秒

2万行くらいまでの指示は、9割方が「もっとつなげる」「もう一段とつなげる」でいい。

========================
2万行あたりまでは、とにかく「つなげる」ことに集中する。
「つなげる」ことに集中していると、口の開きが小さくなってくる。
けれども、この段階で口の動きを大きく使うことも同時に指示すると、「つなげる」と「口の動く範囲を大きく使う」が衝突して、せっかく「つなげる」感覚が できていても、それが壊れてしまう。(「音の一連の型」と「個々の音」の二律背反)
2万行くらいまでは、たとえ口をもっと大きく動かした方がいいと思うところがあっても、「つなげる」ことを優先し、「つなげる」感覚をわかってもらう。
時々、「口の動く範囲を大きく使う」「口の動きに力を入れる」を指示する。2万行以降はこの二つの指示が大部分を占めるので、それまでに慣れてもらう。

========================
今日、Sさんが根石さんから「ここ数回のレッスンでえらくよくなりました」とほめられました。
「つなげる」感覚がわかってきているとも言われました。うれしいので書いておきます。

【17059】
レッスン参観の感想 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月13日(火)00時58分48秒

今日は7時30分からずっとレッスンの参観をさせていただきました。
参観させていただいた皆様、ありがとうございました。

通して参観させていただいて、あらためて「つなげる」ことが第一
なんだと感じました。つなげることに関しては、思っていた以上に
時間を使っていいのだということがわかりました。

それから、レッスンの指示は、彫刻刀でちまちま削るのではなく、
大ナタでざっくりと切るようなもんなんだ、とあらためて思いまし
た。

キリピーとちよさんペアのレッスンは、音のひとつの極だと思いま
した。録音してホームページに載せたいと思うのですが、い
かがでしょう。

【17060】
口をもっと引き締めて 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月13日(火)01時34分58秒

13万行台 "Mary didn't want to walk at night on her own for fear that something terrible would happen to her." を「つなげて、もっとつなげて」読んでいた時のことです。"w"やら "f"やら"般若a"やらが代わる代わる出て来て、口の動きが忙しいのなんの。淀みなく繋げようとするとだんだん口の開閉が小さくなって行きます。

村田さんが「そこ根石さんだったら『もっと口を引き締めてやってください』って言いますよ」と言いました。村田さんは謙虚な方で、自立練習相手の私には 「もっと口を引き締めてやってください」とコーチ口調で言われたことがありません。いつも「根石さんならこう言われますよ」という言い方で指摘して下さい ます。

えっと、いきなり脱線してしまいました。それはそれとして。

「口をひきしめるって、実際はどうすればいいんすかぁ」と間抜けに聞き返す私。

口の筋肉に力を入れてしっかり発音しながら読むということだということでした。なるほど、豪速でグズ〜ッとした音で読むと、ま、慣れた風な発音に聞こえは します。初級者には「ネイティブッぽい♡」と聞こえるかも知れません。しかし、適当な口の動きで発音しながら速度を早めても、実践で使えないんだと思いま した。

実は私も先日、Tommyさんに「ちゃんと口の筋肉を動かして発音してね。九官鳥やオウムと違うんやから、真似すりゃええってもんでもないし」と言ったと ころでした。するとTommyさんが、「はぁ、なるほど。向うはクチバシやからね」と言いました。

彼女には、口を引き締めて読むのは何故か、本質的なことがわかっているんだと思いました。わかってなかったりして....。

真似して似たような音を出せたとしても、それが英語口になったからではないと言うことを理解しているのだと思います。

音読の時はきちんと律儀に発音出来ても、いざネイティブと会話する時になると、出来ていたはずの発音が崩れてしまうということはないでしょうか。私は何度 も経験しています。口の筋肉の浅いところで真似ることが出来たとしても、それはオウムが「おはよ〜」と言っているようなもの。

明日から「口を引き締めて、つなげて、もっとつなげて」やってみることにしました。

今日は吉さんによるキリピーさんとちよさんのレッスンの見学をさせて頂きました。キリピーさんとちよさんのすごさは、「つなげてもっとつなげて」いなが ら、音をしっかり捉えて口の筋肉をフルに動かしながら豪速で回転させるところです。私の練習目標にしたいと思っています。

何と言うか... 気合いが違います。今日は吉さんがソフトに優しくコーチされていたので、先週の根石さんの鬼のように荒々しく容赦のない突っ込みがなかったのですが、それ でもなお迫力がありました。

ちなみに、根石さんが「キリピー、ずいぶん良くなったね」とおっしゃり、吉さんも異口同音に褒めておられました。私も傍聴2回目ですが、先週より数段なめ らかにつながっているように感じられました。お1人で激しく練習されているのではないかと思います。

レッスンの後、村田さんの感想を聞く機会があったのですが、昔のキリピーさんとはまったく別人のようだとおっしゃっていました。

がんばれっ、わたし!

【17061】
ABCDのレッスン 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月13日(火)02時26分6秒

今日は小学生中心のABCDレッスンを2コマ見学させて頂きました。

村田さんが「レッスンの指示は、彫刻刀でちまちま削るのではなく、大ナタでざっくりと切るようなもんなんだ、とあらためて思いました。」とコメントを投稿 されていますが、同じことを私も感じていました。

今日見学させて頂いた4名の子供達の発音は荒削りながら、非常にいい発音、いいイントネーションでした。私はかつて十数年間、関西では大手の英会話学校に 勤めていたことがあります。ネイティブ講師とペアを組み、月曜日から土曜日まで毎日、3〜5コマの英語の授業を受け持っていました。そのほとんどは小学生 と中学生です。1コマ 4~8名。

ネイティブ講師が発音を「耳から学ばせ」、日本人講師の私がフォニックスで発音指導をしていました。しかし、今日参観させて頂いた子供達ほどの発音が出来 る生徒は1人もおりませんでした。おそらくほとんどの中学や高校の生徒、それどころか大方の中級者の大人達でも、彼らには適わないだろうと思います。さら に驚くのは、彼らが週1回たった30分しか受講していないこと、それもおそらくレッスンを始めてそれほどの月数が経っていないだろうことです。

根石さんの指導法は、流れにちょっと棹さして方向を変える船頭のようなやり方です。子供達はその指示に従って、自分で試行錯誤しながら音をつかみ取って行 くようです。傍から見るともどかしく、やきもきするご父兄がおられるのではないかと思ったりもします。

1人の女の子が "I'm from Australia." に手こずっていました。もがいているその子に、根石さんはなかなか助け舟を出されない。"from" が 「フォウ」になったり、「フォウム」になったりします。"Australia"の発音もうまく行きません。どうも"r"の音を出そうと四苦八苦している様 子でした。一心不乱に"I'm from Australia." を繰り返す姿に感動してしまいました。

やっと「"r"の音はね、口の中で舌がどこにもくっつかないようにして出す」と指示される。きっと一般の日本人英語講師だと業を煮やして「フ・ロ・ム」と カタカナ英語で説明してしまったり、ストローを生徒の口に入れて舌の位置を示したり、あるいは例によって「リピート アフタ ミー、r, r, r, r..」とやるところでしょう。

女の子は舌の位置をさぐりながらなおも "I'm from Australia." と繰り返し繰り返し言っています。この様子を傍聴されたら、きっとほとんどの人が「何故 "from" の発音だけピンポイントで繰り返し指導してやらないんだろう」と不思議に思われることでしょう。しかしセンテンスの中で再現できるということが大切なので す。

一見、"from" と"Australia" を、「個別に、集中的に」練習させた方が手っ取り早い様にも思えます。しかし、やはりセンテンスの中で音を作る方が断然いい。 流れの中で泳げるように指導しなければ、「つなげる」ということが出来ない。「つなげる」ことが出来なければ、実践の場で通用する英語にはならない。文法 しかり、意味しかり、音も流れの中でもがきながら掴み取って行くのが素読舎流ですね。

「口が動かなくなって来たね。疲れちゃったでしょ。」

根石さんがそう言って、ペアの男の子に「代わって言ってみて」と指示されます。その子の"I'm from Australia."を聞きながら、女の子は口の中で "I'm from Australia." を繰り返しているのに違いないと思いました。

女の子は何十回と繰り返す中で、少しづつ、しかし確実に"from"と"Australia"の発音を掴みつつあるようでした。"Australia"の 発音は私達でも難しいですよ。

今日はこの子達の成長振りをずっと追跡して行きたいと思いました。将来がほんとに楽しみです。

【17062】
村田さん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月13日(火)02時33分34秒

>キリピーとちよさんペアのレッスンは、音のひとつの極だと思いました。

激しく同意! ホームページで皆が聞けたらいいですね。

【17063】
シンタックス 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月13日(火)11時20分26秒

syntax は統語論とか構文論と訳されるようですが、これでは何のこっちゃら良くわかりません。語順と言ってしまえば簡単なんですが、中身はそう簡単なものではない ようです。意識の流れとかロジックの方向とかの現れが語順だと思います。うまく言えないですが。

日本語と真逆のシンタックスをもつ英語をものにしようとする場合、単語のひとつひとつ、フレーズのひとつひとつを個々に扱っているだけでは、なかなかうま くいかないです。手持ちのフレーズや単語を、手持ちの構文というテンプレートにはめ込みながら喋っているのでは,実践の場ではとても間に合いません。

喋る方はまだいい、自分のペースでやればいいし、スピーチなどなら準備もしておけます。ところが聴き取りはそうはいかない、相手のペースに合わせて理解し ていかなければ、取り残されてしまいます。質問されても、聞き取れていないことには答えることが出来ません。いくら語彙やフレーズを豊富に持っていても、 いくら「ネイティブ並み」の発音が出来ても。根石さんがおっしゃっている通りです。シンタックスを丸呑みして受肉しておかねばなりません。

「つなげる、もっとつなげる」は、英語口を作るというだけに留まらず、英語のシンタックスまでを含めて身体に叩き込んでしまおうという方法でもあるのだと 思いました。この英語のシンタックスも、英語口と同様、メインテナンスを怠れば、すぐに日本語のシンタックスに巻き戻ってしまいます。たゆまず激しく回転 させておかなければなりません。

この掲示板の冒頭の7月の言葉に根石さんが書いておられるのは、そういうことも含んでのことではないかと思っています。

「勢力図を念頭に置いてものを言うなら、SOV磁場においてSVO言語を聴き取りしゃべるという行為は、「組み立てる」ことを脱ぎ捨てる行為のことです。 なかなかうまくいかないにせよ、めざす方向に向いている矢印はそういう矢印です。」

レッスンを傍聴させて頂いていると、自分で練習する時には気がつかなかったことがいろいろ見えて来て、たいへん勉強になります。

【17064】
(参考)発音訓練 投稿者:そよ 投稿日:2010年 7月15日(木)04時27分4秒

根石さんに音の立体性に関する指摘をいただいたとき、以前から自分で気になっていたことだったのでとても嬉しかったです。
音声ファイルの「音の立体性」「最初の無料課程の生徒」を聞くと本当に参考になりました。
特に音がはっきりした様子、息の強さが違うように感じておりました。

気になってネットで検索したところ「中津燎子」さんという女性を見つけ、以下の発音訓練サイトを見つけました。
一文の中での音作りが大切なのは理解しておりますが、息の使い方についてとても有益だと感じました。
とくに「アルファベットの練習」「コンビネーションの練習」は動画説明もついており、どれくらい息を強く出しているのかが分かり大変面白かったので、皆さ んにご紹介したくこちらに載せてみます。
私もまだabc部分ぐらいしか見ていませんが、ご参考にしていただけたらと思います。
http://www2.e-kokoro.ne.jp/digital/abc/alpha/frame_Aindex.html

【17065】
ちらし文言 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月15日(木)05時28分3秒

1週間以上ほっぽっていましたが、書き換えてみました。
ここ最近のNaimaさんの投稿が、レッスンの様子と本質を、丁寧に的確にとらえておられてて(う〜ん、感動しちゃいます)このままちらしに掲載したい なぁ〜〜と思うくらいなのですが、これはちょっと踏み込んでこられた方用になるのかなとも思いました。(第2弾にしちゃおうかな)

初回のちらし案は、HPからの言葉をぺたぺたと引用部分が多かったので、だいぶ変わりました。”え、これはちょっと〜(><)”とか、”こういうふうにし たらええんじゃない(^^)”がありましたら、是非ご協力おねがいしま!

ちらしは、三つ折を考えてます。下記は文字だけです。
実際は、余白、イラストも考えてます。
文字フォントも、丸ゴシ、強調などであとでお化粧しますね。

感想のところ、こないだのピッコロさんのを採用させてもらったのですが
仕事柄英語を使っていないので、使っている方がどのように変化されたかというのが
伝えれれればいいな〜と思ってます。いかがでしょう〜〜
以下ちらし案

英語 素読舎のご案内
 まったく新しい英語の学習方法です。
日本に古くからある素読(そどく)方式で、英語を習ってみませんか?
*素読とは・・・古来より漢文習得方法として広く行われていました。
自宅にいながら、レッスン♪  小さなお子さんがいても、大丈夫♪
深夜でも、受講OK♪   音声のみ♪  スカイプだから通話料無料♪
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一般の英会話学校とは、まったく違った学習方法です。
パソコンから聞こえてくるコーチのお手本を聞き、ただひたすら素読します。

どうして日本人は英語が上達しないのか?
−「音づくり」をしないからいつまでたってもまともに読めないし
−「音づくり」をしないからいつまでたっても聞き取れないのです。
素読舎は徹底した音作りを重視します。
コーチは日本人ですので、どのようにしたら通じる音が出るかを丁寧に指導しています。

英語発音に絶対必要な口の筋肉を日本人はゼロから鍛え上げていく必要があります。
スポーツ選手、マラソンランナーになったつもりで30分間 レッスンを体験してください♪
このハードなトレーニング・緊張感・そして達成感・やみつきになりますよ♪
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テキストは塾長作成のオリジナルテキストです
始めたばかりの人も熟練者も
同じひとつのテキストを使います。

始めたばかりの人も熟練者も
テキストに何度も出てくる文を素読します。

始めたばかりの人も熟練者も
何万回と同じ文章を読むこととなります。

始めたばかりの人と熟練者では
同じ文なのに、音が全然違います。

はじめて出会った時と
10回目に出会った時と
100回目に出会った時では
読み方が変わっていることを体験してみてください!
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英語を身につけたいけれど、あきらめた
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仕事柄、英語が必要になったという方
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これから英語を学ぶ方、受験生も、是非♪
学校ではおしえてもらえない英語力が身につきますよ♪

母語形成期を尊重するため受講対象者は小学校3年生以上です。
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テキストは塾長が選びます。塾長の判断で『英語素読』を指導します。
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◆生徒さんの感想
・文を、つなげて言えた時の達成感!自分のものにした!血肉になった!ただ、これをほっておくとさびつく(落ちる)!
・ダイエットみたいなもの。日々、体を鍛え絞っているところ。気を緩めると、リバウンドのようにすぐ口が動かなくなってしまう。
・その場で理解しなくてよいので、ストレスなく続けられる。
・(1万行台の生徒)以前は、レッスンは先生の指導を仰ぐ時間だったけど、今は一週間の自立練習の成果を見せる場所なのではないか?
◆学生さんの報告  長野県更埴市(当時)埴生中学校の全学年の学年トップが素読舎の塾生(1996年)
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塾長とマンツーマンもしくは1対2のレッスンです。レッスン枠に限りがありますので調整します。
30分1枠で1ヶ月12,000円です。 2人で1枠の場合1人6,000円です。
お試しレッスン体験(無料)も可能です。お問い合わせください。
*パソコンが無い方は、電話で対応可能です。ご相談ください。
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素読舎  http://www.sodokusha.com/index.html
検索画面で「素読舎」と入力してください。
(レッスンの方法・語学論が展開されています。
レッスンの様子もYou Tubeでご覧頂けます。
ただし、音のみ、映像はありません。)
*以下連絡先
以上

【17066】
江戸の母さん 投稿者:ももこ 投稿日:2010年 7月15日(木)09時35分24秒

「読み方が変わっていることを体験してみてください! 」までの部分で私ならこうするかなぁ〜という感じで編集してみました。部分的でスミマセン

ではどうぞ〜


今このチラシをご覧になっているあなたは英語に自信がありますか?


どうして日本人は英語が上達しないのでしょうか?
−「音づくり」をしないからいつまでたってもまともに読めないし
−「音づくり」をしないからいつまでたっても聞き取れないのです。
素読舎は徹底した音作りを重視します。


他のスクールでは音作りはできないのでしょうか?
素読舎のレベルで英語の音作りを出来るところはまずないかもしれません。
youtubeにて音声をアップしています。お聞きいただければおわかりいただけると思います。
またレッスンの聴講は随時受け付けております。


ではなぜ素読舎なら英語の音作りができるのでしょうか。
英語発音に絶対必要な口の筋肉を日本人はゼロから鍛え上げていく必要があります。そのための指導ノウハウが素読舎にはあります。
音作りは指導が必要な部分です。コーチは日本人ですので、どのようにしたら日本人が通じる音が出せるかを丁寧に指導しています。


音作りだけでは英語は話せないと思います。どのようにして英語を習得するのですか?
まずは素読というメソッドにあります。
日本人は文法の異なる漢文を素読という方法で習得してきました。素読は音読とも暗記とも違います。

また素読舎のメソッドは素読そのものでもありません。素読をベースに塾長の根石が長年かけて作り上げてきた語学論を元に作り上げているものです。詳しくは HPでご紹介しています。


塾長作成のオリジナルテキストにも習得に必要なメソッドが潜んでいます。
始めたばかりの人も熟練者も
同じひとつのテキストを使います。

始めたばかりの人も熟練者も
テキストに何度も出てくる文を素読します。

始めたばかりの人も熟練者も
何万回と同じ文章を読むこととなります。

始めたばかりの人と熟練者では
同じ文なのに、
音が
読んだときのイメージが
意味を捉えるスピードが
全然違います。

はじめて出会った時と
10回目に出会った時と
100回目に出会った時では
これら全てが変わっていることをおためしレッスンで体験してみてください。


(ここまで書いてみて、私が編集したものだとHP用の原稿になってしまったかしら?っておもっちゃいました^^;)

【17067】
ももこさん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月15日(木)13時21分14秒

早速にありがとうございます!
どの世代をターゲットにするかで、言葉選びも変わってきそうですよね。
お母さんが多い地元、会社員・学生が多い都心とか。

>音作りだけでは英語は話せないと思います。
そこは、そう言われちゃうとそうなんですよね(>_<)私のには抜けてますね。

ちょうど、Naimaさんの記事"I'm from Australia."を体得するまでのところ、入れたいなとも思うのですよね。

>文法しかり、意味しかり、音も流れの中でもがきながら掴み取って行くのが素読舎流ですね。

ああ、まだ全然まとまりませんが・・・また後ほど!

【17069】
生徒のみなさんへのお願い 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月16日(金)03時46分0秒

素読舎会議室で根石さんが、素読舎のやり方は文章にしてもなかなか伝わらないけれども、レッスンの様子を見てもらえば何をやっているかわかりやすいし、わ かる人には一発でわかるんじゃあないか、と話していました。
私も月曜日に通してレッスンを見学させてもらって、あらためて他の学校や英会話教室との違いがわかりました。
そこで、生徒のみなさんにお願いします。「スカイプでレッスン」に興味を持った人がレッスンの見学をすることを許可していただきたいのです。みなさんのご 協力をよろしくお願いいたします。

【17072】
江戸の母さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月16日(金)03時56分49秒

原稿アップどうもありがとうございます。
月曜日から、『「流れ・動き」の中で動くこと』対『要素に分解してしまうこと』でビラ原稿書こうとしてるんですがまとまりません。自分としてはぐっとくる んですが、人に伝わるかどうかがむずかしい。ビラのことは昼以降に書きますね。

【17074】
素読舎の紹介文 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月16日(金)06時16分54秒

「日本古来の学習法素読による古くて新しい英語塾」とか「いろいろやってみたけれど効果が上がらなかった方の為のとっておきの学習法」とか「1人では挫折 しまいがち、復習システムで手厚いケア」とか「初めて英語に触れる子供たちから上級者まで」「英語講師の方達の指導法の突破口」とかシンプルなフレーズだ けにして、受講の感想と成果を付け足すぐらいに止めておいた方がいいのではないでしょうか。

説明的になって小難しくなるとハードルの高い塾のように感じられ、気軽に問合せ出来ないと思う人たちもおられるかもしれません。いろいろ試して来て思うよ うな効果が得られなかった学習者は、藁をも掴むような心境でしょうから、藁のように短く軽いキャッチでもいいのではないでしょうか。難しい語学論を聞く耳 を持たない人たちには、方便も必要かと。最初は語学論などわからないままに受講しはじめても、効果が上がるにつれて理解するようになればそれでいいように 思います。

従来の学習法に問題意識を持っている学習者には、巷の英会話学校の逆を行く宣伝文句がいいかもしれません。「日本人講師でないと出来ないことがある」と か。

私もいろいろ考えてみます。

【17075】
昨晩の雑談より 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月16日(金)10時26分19秒

小川さん
藁のたとえ、ありがとうございます。魅力的なちらしが作り上げられれば!(*^_^*)
文章で伝えるのは、難しいですね(>_<)がんばらねばあ

昨晩自立練習のあと、とめどもなく話していて
「意味がわからなくてただ読んでいてもいいのだろうか?」という話などになりました。

思い起こせば、私も育児休業中に村田さんに素読舎に誘っていただいた時「英会話でもない、文法でもない」ただ読んでいるだけの”素読方法”というのに不信 感(?)があって
距離をおいてました〜。”素読方法”〜これをちょっと覗いてみようかなと扉を押せた人には、身体も脳もフル回転の日々が待っている気がするんですよね。

・母語である日本語、どうやって身につけたかというと文法を教えてもらったわけではない。意味がわからなくても、まず音をまねして、できるようにする。聞 いているうちにわかってくる。素読は子どもになったつもりになって、大人が話しているのを聞いてまねしてみるという方法なのではないか。byピッコロさん

・個々の音の指導(どうやったらその音がでるか)ではなく、”全体の中での動き”を自分がどうつかみ取るかの指導。英会話学校が外科的手術だとしたら素読 舎はマッサージ施術のようなかんじ。by村田さん (ちょっと違います?)

こういう話はおもしろくてつきないのですが、私は寝起き状態からのレッスンで自立練習の量と質はお粗末かもしれません。やはり目が覚めてきた深夜枠で、1 人30分やろうかなと宣言したりして!

【17076】
江戸の母さん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月16日(金)17時13分52秒

>>英会話学校が外科的手術だとしたら素読舎はマッサージ施術のようなかんじ。

はあ、なるほど。あるいは漢方医学みたいなものかもしれませんねぇ。医者が患者の体質によって処方し養生法を教える。即効性はないけれど、副作用もないし 体質から改善する。という感じ?

【17080】
根石さん 投稿者:巴里子 投稿日:2010年 7月16日(金)20時28分26秒

 今月いっぱい、レッスン休ませていただきます。

 よろしくお願いいたします。

【17081】
巴里子さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月16日(金)21時29分51秒

承知しました。
「もっとつなげる」「もう一段とつなげる」という方向への矢印を、自分で自分の中に置くことを考えて下さい。
もう自分でどんどんその方向へ歩いてもらっていい段階に来ています。

基礎の型枠を作る仕事(個々の音の扱い)、鉄筋配筋(自然につながるのを待つ)、コンクリートを流し込む作業(もっとつなげる)、などはすべてやってあり ます。
コンクリート(基礎)の養生をやってください。
「もう一段とつなげる」「口を大きく使う」「口の筋肉に力を入れる」などの作業は、こちらでも指示を出しますが、この3つを同時に成立させようとする生徒 自身の意思が最大のポイントです。そのことをよく考えて下さい。
こちらの指示にいちいち従っているのではなく、自分でどんどん歩いてもらっていい段階です。

【17083】
小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月16日(金)21時39分11秒

>「日本古来の学習法素読による古くて新しい英語塾」とか「いろいろやってみたけれど効果が上がらなかった方の為のとっておきの学習法」とか「1人では挫 折しまいがち、復習システムで手厚いケア」とか「初めて英語に触れる子供たちから上級者まで」「英語講師の方達の指導法の突破口」とかシンプルなフレーズ だけにして、受講の感想と成果を付け足すぐらいに止めておいた方がいいのではないでしょうか。

>説明的になって小難しくなるとハードルの高い塾のように感じられ、気軽に問合せ出来ないと思う人たちもおられるかもしれません。いろいろ試して来て思う ような効果が得られなかった学習者は、藁をも掴むような心境でしょうから、藁のように短く軽いキャッチでもいいのではないでしょうか。難しい語学論を聞く 耳を持たない人たちには、方便も必要かと。最初は語学論などわからないままに受講しはじめても、効果が上がるにつれて理解するようになればそれでいいよう に思います。

賛成です。
今までで一番効果があったのは、吉さんのホームページでした。
吉さんの肝をつかもうとする熱意が、人々に訴えかけたのだと考えています。
それは、まったく説明的ではありませんでした。
説明的なものは、これまでに何度広告として作ったか数知れません。
しかし、ほとんど効果はありませんでした。

語学論は語学論として、今後もしちめんどうくさくやります。
しかし、その言葉の調子は、まったく広告にはならないと思っています。

【17084】
つけたし 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月16日(金)21時41分6秒

私は否定的にものを言いたいとも思っています。
例えば、英会話学校は駄目とか、英語ネイティヴの先生は役立たずとか、はっきりと否定してしまいたいと思っています。

【17085】
それにしても 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月16日(金)21時43分15秒

生徒さんたちが、本気で広告を作ろうとしてくれている塾はほんとうに珍しいものだろうなと思っています。
感謝しています。

【17086】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月16日(金)22時05分8秒

>ただ読んでいるだけの”素読方法”というのに不信感(?)があって

 「ただ読んでいるだけ」というのは、素読舎の方法を外側から眺めただけのものです。
 基礎づくりの過程における鉄筋の配筋のような具体的な作業を私はしているわけですが、生徒さんは英語の基礎(の強度)がそういう練習によってできるもの だとわかっていない場合が多いので、外在的な見方しかできない場合が多いのです。

>「意味がわからなくてただ読んでいてもいいのだろうか?」という話などになりました。

 今はそれで も いいです。
 やりたければ、意味を伴って読む読み方を始めてもらって も 構いません。

 意味を呼び込むためには、「切って」読んでも構わない。
 「切る」のは、「つながっている」ものを「切る」わけです。
 つながってもいないものを「切る」ことに意味はありません。それは「切る」ではなく、「切れてしか読めない」という低レベルを指し示すだけのことですか ら。
 「切る」ことをやった場合に、すこしずつ「つながっている」状態に「戻っていく」ことで、スピードを備えて意味が流れることが可能になります。
 本当によく「つながっている」状態を一度作っておけば、「切れた読み」を「つながった読み」の方へ引っ張って「戻してくれる」力が働きます。いくら 「切って」読んでも、「つながった音」は意識に伏流するからです。

 単語に次々と意味を呼び込んで、スピードを備えて意味が流れることを可能にしなければ、文全体としての意味が瞬時に成立するなどということが起こりよう がありません。

 今はそれで「も」いい、というのは、まだ構築物を作るほどの口の動きができているわけではないからです。

 意味を呼び込むことをやって「も」いい(「切断読み」をやってもいい)というのは、それをやったからといって、「もっとつなげる」「もう一段とつなげ る」という「音だけを扱う作業」に支障が生じないところにまで来ているからです。

【17088】
巴里子さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月16日(金)23時45分24秒

3つを「自分で」成立させるというのは、音に関しては最終段階です。
その先にあるのが、「切って」読み、意味を呼び込む作業です。

今の時点で意味を呼び込むことはやってもいいのですが、音を作ることの最終段階をきちんとやりとげてもらわないと、話すことも聴き取ることにも至ることは ありません。

【17089】
根石さん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月17日(土)06時08分10秒

昨日は夏のバンガロー泊の心の準備で、シュラフとやらを見に寄り道、日本語素読見学までに落ち着かず、見学できませんでした。
でも、また終わった時間から我が家も「どこやったんだろね〜」といって、ページを開いて少しばかり皆で読みました。なぜか、息子もはりきっています (^^)

寝袋など用意していただけるとのことですが、ちょうど子供用のが2,000円くらいであったので、この際買っちゃおうかなとも考えています。Cちゃんちと も相談してみます。バンガロー泊、お世話になります。なにか入用なものがあったら連絡ください。車だったらいろいろお土産を積んでいけるのですが・・・

ちらし作成は・・・難しいですね。肝をつかむ!をキーワードに、練ります。
じつは娘の日本語素読お相手をゲットするのが一番のたくらみなんですけどね(^^)

【17090】
もうひとつ 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月17日(土)06時23分29秒

自立練習方法について、書いていただいてありがとうございます。気をつけてみます。

もうひとつちらしに書きたいなと思ってるのが、テキストの面白さなんですが、これを説明するのは、並大抵のことではできないな〜と思います。
レッスンのとき感じてメモし忘れていたのですが、どうしても出しづらい音(つながり)があって、やっとこさクリアしたと思ったら、また自分の順番になった ら、その部分がはいった一文が出ていて、またかぁ〜〜(涙)と思ったことがありました。このときの気分といったら(><)まさに作成者の顔が ぼっと浮かんできました。

冒頭の単語だけでも、かなり連なってることがありますよね。これ、すごい面白いと思うのですよね。また、英文の間にある日本語を自然に読んでしまっている し・・・これがもたらしている効果はじつは計り知れない。

ちらし案では、まだテキストの内容にまで触れるまでには至らないと思いますが、ちょっと書きたかったので・・・

【17091】
桐田真輔さんの書評から 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 7月17日(土)13時48分18秒

山口謠司『ん 日本語最後の謎に挑む』(2010年2月20日発行・新潮新書 680)は、日本語の「ん」という言葉の使われ方を、その歴史的な変遷をふ くめて探求した本。「古事記」にも「万葉集」にも、「ん」と読む仮名が一度もでてこない、という印象的なエピソードの紹介(第二章)から本書ははじまる。 これはもちろん「ん」という発音がなかったのではなく、仮名文字がなかったということで、文字としての「ん(ン)」は、「民衆の文化が言語として写される ようになる平安時代末期、音を表すための文字として姿を現したのである。」とある。この普及に関して仏教(天台密教)の果たした役割についてや、江戸期や 明治期に至るまでの「ん」についての研究の紹介も新鮮。また本書には、まだ「ン」を表すための文字がなかった時代に、空海は「吽」という字に託して、「後 に「ん」や「ン」で書かれる文字を発明しようとしていたのではないか。」という興味深い指摘もある。
(キキハウスより)

【17092】
「日本語素読」の副作用 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月17日(土)14時16分21秒

昨日、塾生からうれしい報告がありました。
高校2年生の塾生が、今まで国語は学年で200番くらいだったのが、2か月で急に4番になった、と。


この塾生は、一時期ブランクはあったものの、小学5年くらいから素読舎で英語をやっていました。
素読舎で英語を練習したので英語が得意になったのに加えて、もともと数学が得意な子だったので、屋代高校の理数科(地元の進学校)に進学しました。
中学の頃から国語が苦手だと言っていたので、私は受験勉強が終わったら本をたくさん読もうや、と言っていました。私としては、国語の点数がどうのこうのと いうより、ほんとうに本を読んでなさそうだったのですすめたのでした。それと、数学が今のところ得意だといっても、日本語をちゃんと読めないと、早いうち に頭打ちになるだろうなと感じたからです。

そこで、塾に来てやるべきことを全部やった後、なおやる気があったら日本語をやらないか?と話してみたところ、やる、と言うので日本語素読を始めました。
テキストは、「術語集 II」(中村雄二郎 著・岩波新書) http://www.amazon.co.jp/%E8%A1%93%E8%AA%9E%E9%9B%86%E3%80%882%E3%80%89-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E9%9B%84%E4%BA%8C%E9%83%8E/dp/4004305047 です。一つのテーマが5ページほどで書かれているので、とっつきやすいかと思い、これにしました。
これを段落ごとに「技法グラウンド」をしました。

調べたところ、練習をやり始めたのが5月4日でした。約2カ月のうちに、現国の点数が急激に伸びてしまったということです。これにはちょっと驚きました。
これも英語の練習をずっとやってきた下地があってのことだと思います。

「日本語素読」レッスンについて「大風呂敷」で語られてきたこととはちょっと違いますが、「日本語素読」の副作用の実例として報告します。

【17093】
村田君 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月17日(土)20時47分2秒

国語の点数の急激な伸びについての文、印刷に回すのがいいと思います。
印刷機のいじり方は一応伝えたと思いますので、自分で回して下さい。
「巨大な教材」を配るときに一緒に配ればいい。

【17094】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月18日(日)01時08分2秒

>思い起こせば、私も育児休業中に村田さんに素読舎に誘っていただいた時「英会話でもない、文法でもない」ただ読んでいるだけの”素読方法”というのに不 信感(?)があって距離をおいてました〜。”素読方法”〜これをちょっと覗いてみようかなと扉を押せた人には、身体も脳もフル回転の日々が待っている気が するんですよね。

 最後の方の「気がする」ってのは要らないと思いました。
 「気がする」んじゃなくて、実際そうなるわけですから。

【17096】
ももこさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月18日(日)01時26分26秒

 広告文案ありがとうございます。

>どうして日本人は英語が上達しないのでしょうか?
−「音づくり」をしないからいつまでたってもまともに読めないし
−「音づくり」をしないからいつまでたっても聞き取れないのです。
素読舎は徹底した音作りを重視します。

 ここにある「音づくり」という語が、すでに日本で通じないという事情があります。すでにレッスンを受けている生徒さんにはすぐに通じるのに、娑婆一般に はほとんど通じません。発音の教科書に従った単語単位の発音指導と何が違うのかが通じません。

>音作りは指導が必要な部分です。コーチは日本人ですので、どのようにしたら日本人が通じる音が出せるかを丁寧に指導しています。

 「音づくり」は指導が必要だというのはまったくその通りです。
 ここには、お金を払う価値があると思います。
 「コーチは日本人ですので」ですが、一般の人々はガイジンの方がちゃんとした音づくりがやれると思っています。
 英語の「音づくり」は、日本人のコーチじゃなければできないんだということひとつで、娑婆の流通観念(思いこみ)と鋭く対立してしまいます。
 その流通観念を破ろうとすると、こちらがへとへとになります。

>はじめて出会った時と
10回目に出会った時と
100回目に出会った時では
これら全てが変わっていることをおためしレッスンで体験してみてください。

 100回目に出会った時の変化は、一ヶ月程度の「お試しレッスン」では体験してもらうことはできません。また、10回目でも100回目でも、その変化に 自覚的な人はあまりいません。そのことで、素読舎の方法はなかなか普及しません。

 結局、I 村さんが報告してくれたような TOEIC の点数の伸びや、村田君が報告してくれたような国語の点の急激な伸びみたいなことでしか、娑婆は素読の効用を認めてくれないのです。

【17097】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月18日(日)01時49分23秒

>・母語である日本語、どうやって身につけたかというと文法を教えてもらったわけではない。意味がわからなくても、まず音をまねして、できるようにする。 聞いているうちにわかってくる。素読は子どもになったつもりになって、大人が話しているのを聞いてまねしてみるという方法なのではないか。byピッコロさ ん

 日本に生まれた子供が日本語を使うようになるまでの過程で、「磁場」(自分が言葉の当事者になる場)の作用によって、「意味」を勘づくことが成立しま す。このことは、日本にいて英語をやる場合(英語磁場を欠いて英語を語学とする場合)生じることがありません。
 日本に生まれた子供にとって、日本語の音はすでに音ではなく「声」です。母親が子供に話しかけるとき、それはもう最初から「声」であり、「音」ではあり ません。子供は何度も同じことを言ったりして、「言葉」を「言語」化したりもしますが、それはそれが「言葉」であることの安心の上に成り立っている遊びで す。

 「磁場」では「意味」は直接、無意識でかもされます。
 そして、いつの間にか「意味」が備わります。

 そのことは、日本にいて英語をやる場合は起こりません。
 「いつの間にか」も生じませんし、「自然に」も生じません。

 素読舎が徹底した「音づくり」をやるのは、「意味」を受肉する基を作っているのです。受肉できる基を作らず、「意味」だけ生じさせて、それを雲散霧消さ せるのが、受験英語です。

 ネイティヴ言語習得になぞらえるのは、まったく見当外れです。

【17098】
そよさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月18日(日)03時32分3秒

 中津燎子さんのお名前は以前から存じておりましたが、(動画で)お顔を拝見したのは初めてでした。この方の教室で習った生徒さんが私の生徒さんになった ことがありましたが、英語の音が備わっているとは思えませんでした。生徒に強引に英語の音を出させようとして、口にタオルを突っ込んだりもしたらしいです が、それでも中津さんが出させたいと思った(はずの)音は出ていませんでした。

 問題は音の説明法にあると思います。
 この方は、「個々の音」しか扱っていません。そして、口の開き加減を元に音を説明しようとしています。

 舌の動きも説明に加わりますが、それらの説明が「個々の音」の本質を言い当てているとは思えませんでした。
 口の開き加減や舌の動かし方を元にしても、音の本質をとらえることはできません。

 「口の両端に力が入る音」、「息の通り道が狭い音」、「喉に力が入る音」などの言い方の方が本質をとらえることができると考えています。

 素読舎のレッスンで「文全体」を扱い、2万行から3万行を越えた頃に見ると非常に有益なページだと思います。素読舎のレッスンでは扱わないものも扱われ ていますので、媒介項として使うにはいいページです。参考になるところは多々あります。

 (→ 村田君へ。「大風呂敷」からリンクして下さい。)

【17099】
村田君、江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月18日(日)05時01分12秒

 「言葉」と「言語」について。

 「発話」したら「言葉」なのかという江戸の母さんの疑問に対して、そんな簡単なことじゃねえだろというところまでは同意します。書き言葉はどうなるんだ という問題があるからです。

 だけど、「言葉」は「切実な気持ちが込められているもの」というのも、そんな簡単なことじゃねえだろと思います。

 村田君は、とても「文学的」だと思います。

 人間(だけが)持つ何かが「言語」を媒介にして「言葉」を生み出すのだと考えています。「人間が持つ何か」をまだ正確に言った人はいないと思います。 チョムスキーは「普遍文法」と言いました。それを言おうとした人は、今のところ、私が知っている限りではチョムスキーだけです。しかし、「普遍文法」とい う言い方をそのままでは受け取りかねています。
 確かに「普遍」であるものがあります。どんな言語の中に生まれてきても、子供はその言語に反応し、媒介にし、「言葉」を生み出します。だけど、その元に あるのは文法なのか。「文法」という日本語単語と、grammar という英単語で言っていることが違うのか。チョムスキーの言う「文法」は実体ではなく、比喩なのか。
(比喩だとしたら、私の「磁場」みたいなもんで、「論」には使えるが「学術論文」には使えない。)

 吉本隆明は「指示表出」「自己表出」と言いました。この言い方では、「人間が持つ何か」は、「自己表出」の方が担っているのかもしれません。赤ん坊は何 も「指示」しない場合でも、(おしめが濡れて)気持ち悪いとか、腹減ってるんだぞとか、「自己表出」はします。「おしめ」とか「腹減った」という具体的な 語による指示は一切欠いて、「表出」はしています。だけど、そのレベルのことだけならうちの猫でもやります。
 声の調子や声の張り上げでなく、語によって、あるいは語の組み合わせによって指示するということは人間の内なる何かが言語を媒介にした場合にだけ生じま す。その「何か」とは何かです。

 私は吉本の「言語にとって美とはなにか」を読めたという気がしたことはありません。
 「ハリマオ」で、松岡さんが、「指示表出」と「自己表出」が交わって作るグラデーションと言っていたことを考えます。

 吉本において二項だったものに、「グラデーション」が加わって、松岡祥男においては三項になっていると読んだら誤読なのか。

 (私の場合日本に生まれたので日本語という)言語は、私が生まれる前から存在した。私はやがて死ぬが、私が死んでも「言語」は存在し続ける。「言語」 は、個としての人間の生死を超えている。

 言葉を覚えるというのは、人間の内なる何かが「言語」を媒介にしたということです。そこに「言葉」が生まれます。

 卵子と精子のどちらがどちらを「媒介」にするのだか知りませんが、いずれにせよ、赤ん坊はすでに卵子でもなければ精子でもない。三項目になる。
 「言語」と「人間の内なる何か」のどちらがどちらを媒介にするのだか知りませんが、いずれにせよ、「言葉」は「言語」でもなければ「人間の内なる何か」 でもない。三項目になる。
 赤ん坊も「言葉」も「外化されている」。
 赤ん坊の場合は、母の腹から「出ている」=外化されている。
 「言葉」も、「人間の内なる何か」ではなく、他人が聞いたり読んだりできる=外化されている。

 「言葉」が生まれることと赤ん坊が生まれることはとてもよく似ている。

 「言語」は(あるひとつの)命の生死には関係しない。個々の命の生き死にを越えて存在する。
 「言葉」はそれを発する命がある時間を越えない。個々の命が発する。

 今のところ、この程度に大雑把なことが言えるだけですが、私にとって、「言語」と「言葉」はまったく別のものです。

 語学をやる人のほとんどが陥っている迷妄は、「言葉」でないものを「言葉」だと思っていることです。どれほどありふれた挨拶みたいな文でも、それが「練 習の対象」としてのものであり、「机上」の音であったりする場合は、「言葉」ではありません。「言葉」の形をしているが、本質は言語(を内蔵するもの)で しかありません。

 「切実な気持ち」があろうがなかろうが、「おためごかし」であろうがなかろうが、「話し言葉」であろうが「書き言葉」であろうが、生きた人間が発し、そ れに心を動かされる人がいて、そのことによって「関係」が変わったり、「ものごとのありよう」が変わったりするなら、そこにあるのは「言葉」だろうと考え ています。語学でどんな文を何百回、何千回言おうと、それによって、現実の「関係」が変わることも、「ものごとのありよう」が変わることも1ミリだってあ りません。

 「言語」は現実を規定したりしますが、現実を動かすことはできません。
 「現実」を動かすのは、「言葉」です。

 じゃあ、法律の条文はどうなのか。あんなもんが「言葉」と言えるのか。

 逆に、憲法9条に「切実な気持ち」はないのか。

 「言葉」に、「言葉の言葉」という極北(詩)がある。
 「言葉」にはまた、きわめて「言語」寄りの言葉の堕落形態(?)がある。

 で、私の関心に引き寄せて言えば、語学で扱っているのは、「言葉のような言語」なのである。「生きているかに見える死体」と言ってもいい。

 語学の成果とは、「ミイラが踊り出すようなこと」とは至言である。
 自分で言っちゃなんだが。

【17100】
馬の骨さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月18日(日)05時32分45秒

英語をやった者から見ると、日本語の「ん」は、結構あいまいな表記です。

「さんま」の「ん」は唇が合わさります。つまり、英語で言えば「m」の音です。
「かんけい」の「ん」は唇が開きます。英語で言えば、「n」の音です。

音自体より、それを表記するための文字が後でできてきたのは順序としてよく納得できますが、「さんま」の「ん」と、「かんけい」の「ん」は、それぞれ別の 字であるべきだとも思えます。

多分、体感が同じなのだろうと思います。
どっちも、「鼻の穴」を使っている音だからです。

【17101】
イメージと意味 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月18日(日)12時56分38秒

 この掲示板で私は、「イメージ」という語を使い、「意味」という語を使っていますが、この両者はどういう関係にあるのだろうかとときどき考えます。
 私は「イメージ」とは「単語寄り」のものだとしているところがあります。これに対して、「意味」は「文寄り」のものだと考えています。

 あらゆる単語ひとつづつに、それぞれ固有の「イメージ」というものがある、とする。すると、辞書というものが成立しうる。
 言霊信仰というのを、一つの具体的な語にたましいがあると考えることだとすると、辞書は言霊信仰によって成立するとも言えるのではないか。語のたましい を記述で言い当てることができるという信(仰)がなければ、辞書は成立できないのではないか。
 語という体の中に、心のようなもの、あるいはたましいのようなものを想定するのが言霊信仰であるとすれば、辞書を作ることもこの信仰によっているのでは ないか。記述は「在る」ものについての記述であり、「無い」ものについての記述ではないのだから。
 しかし、言霊の正体は「イメージ」ではないか。それはいつでも「抽象されたもの」ではないか。なにかが新しく抽象されるから、一つの語が他のあらゆる語 の中に新しく生まれてくるのではないか。抽象された結果を固定するのが、具体的な一つの語ではないか。抽象されたものが結果となるその瞬間をとらえれば、 それは「イメージ」そのものではないか。

 語にあらかじめたましいがあるのではない。何かが抽象され、他のあらゆる語との間に差異を作るから、語が誕生する。語の誕生とは、いつでも人間の抽象行 為(の結果)なのではないか。

 あるいは、言霊の正体は「イメージを喚起するもの」ではないか。「イメージ」というものは、生きている人間の中に生きているものであり、辞書の記述がそ のまま「イメージ」であるわけではない。記述されたものによって、生きている人間の側に(内に)「イメージ」が喚起されることがあるのは、富士山に登るの に、東の山裾から登っても西の山裾から登っても「同じ」頂上に着くというようなことではないか。たどっている方角が正反対だとしても・・・。

 「イメージ」が「単語寄り」のものだというのは、「イメージ」は語(単語)単位で扱うことができるからだというのがその理由になる。

 「この単語の意味は・・・」というように、単語を単位として「意味」という語を使うことがある。その「意味」は辞書に記述されている(記述されうる)と 考えられている場合が多く、だから「この単語の意味は・・・」という言い方も成り立つし、「辞書で意味を調べなさい」という言い方も成り立つ。

 だけど、それは「意味」なんだろうかというのが私の疑問である。
 このあたりで、いつも通り、わけがわからなくなってくる。

 「イメージ」は変幻しない。一つの語について、人間が「イメージ」することが的はずれであることもあれば、的に当たっていることもある。それはあくまで も人間の側の問題であって、語そのもの、イメージそのものの問題ではない。「イメージ」は変幻しない。どちらの方角から指さしても、富士山の頂上は富士山 の頂上としてあり、定位置にある。方角によって形が違って見えることは、この場合、「変幻」ではない。

 「変幻」はむしろ「文」だ。たえず変幻するものとして、「文」がある。文法は変幻しないが、「文」は変幻する。変幻しなければ「文」ではないというくら いの本質ではないか。

 挨拶文や決まり文句はどうなのか。いつも同じ形で使われるのだから、こういう文は「変幻」しないのではないのか。そうではない。ある具体的な人と人との 関係において、ある具体的な朝において、ある具体的な状況において、例えば「おはよう」という挨拶文が言われた場合、やはりそこに「変幻」がある。関係も 朝も状況も、絶えず新しく生成されるものだからだ。「文」は新しく生成されるものとの関係において、「文」になるからだ。
 こころというものは「変幻」するのだから、「関係」が「同一」であることはありえない。一つの「朝」が他のあらゆる「朝」と「同一」であることはありえ ない。状況は絶えず「変幻」する。

 この「変幻」に対応するのが「文」ではないか。

 では、語学における「文」とは何か。
 現実の変幻に応ずる「文」の変幻を凍りつかせたもの。
 一枚の写真のようなもの。

 「変幻」が文の本質だとすれば、語学における「文」は、文のように見えるだけで、実はすでに文ではないのではないか。

 本来、「意味」というものは変幻きわまりないものなのではないか。

 変なところへ出た。
 頭が熱くなってきたので、中断する。

体感 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月19日(月)13時24分39秒

>音自体より、それを表記するための文字が後でできてきたのは順序としてよく納得できますが、「さんま」の「ん」と、「かんけい」の「ん」は、それぞれ別 の字であるべきだとも思えます。
>多分、体感が同じなのだろうと思います。
どっちも、「鼻の穴」を使っている音だからです。

 馬の骨さんにそう書いた。
 「さんま」の「ん」と、「かんけい」の「ん」は、唇に注目すれば、違う表記になるはずなのに、日本語では同じ「ん」のままである。
 だけど、「鼻の穴」に息が響く感覚において「同じ」なのである、と。
 このことが何を意味するかと言えば、「ん」は口の形で説明しても駄目だということである。口の形には音の本質はない。この音を教えるとしたら、生徒に 「鼻の穴に気を置く感覚」をつかませないと、音の本質を言えないということである。

 口の形というものは、外在的につかまえられる。一見科学的である。
 内在的に感覚でつかまえることは、非科学的に見える。

 以前、村田君が、yesterday の最初にある [j] を出すのに、「のどちんこを・・・」と言うのを聞いて、のどちんことか細かいことを言うなと言ったことがある。「喉に力を入れる」の指示でいいと言った。 ポイントが喉にあることの指示とその音を実際に出してみせることのセットがあれば生徒は音が出せる。

 喉や鼻の穴が関与している音を言うのに、口の形を言ってもポイントがずれてしまうので駄目なのである。
 内在的に感覚をつかみ、それを手短な言葉で言い表す(説明を定型化する)という作業が必要なのである。
 説明の「定型化」が必要なのは、定型化されていれば、コーチ間で共有できるからである。

【17108】
続 ちらし案  投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月19日(月)22時55分57秒

みなさま ちらし案を改定してみました。シンプルでわかりやすく〜と思ってるのですが、
多くを入れたい欲求が抑えられず、またしても入れ込んでいますが・・・
全部を入れるのはあきらめるとしても、Naimaさんのシンタックスの説明とかも
きっと引っかかる人には、ピンとくるかな〜〜と、(媚薬ですか?)使わせていただきました。

ご意見などございましたら、ガシガシお願いします♪
以下

素読舎 日本古来の学習法“素読”による古くて新しい英語塾
英語 素読舎のご案内 一般の英会話学校とはまったく新しい英語の学習方法です。

日本に古くからある素読(そどく)方式で、英語を習ってみませんか?
*素読とは・・・古来より漢文習得方法として広く行われていました。

自宅にいながら、レッスン♪  小さなお子さんがいても、大丈夫♪
深夜でも、受講OK♪   音声のみ♪  スカイプだから通話料無償♪
♪パソコンから聞こえてくるコーチのお手本を聞き、ただひたすら素読します♪

〜日本人の英語コンプレックス解消の秘策〜どうして日本人は英語が上達しないのか?
−「音づくり」をしないからいつまでたってもまともに読めないし
−「音づくり」をしないからいつまでたっても聞き取れないのです。
素読舎は徹底した音作りを重視します。日本人コーチによる通じる音のための指導があります。

英語発音に必要な口の筋肉は日本人にはゼロから鍛え上げていく必要があります。
必要なのはスポーツ選手並の“筋トレ”
マラソンランナーになったつもりで30分間 レッスンを体験してみてください。

テキストは塾長作成のオリジナルテキストです
始めたばかりの人も熟練者も 同じひとつのテキストを使います。
始めたばかりの人も熟練者も テキストに何度も出てくる文を素読します。
始めたばかりの人も熟練者も 何万回と同じ文章を読むこととなります。

なぜ、何万回も読むのか?
一見徒労にも見えるこの地道な作業
ここに、素読舎のおそるべし効果が隠されています。(答えは裏面)

同じ文にはじめて出会った時と
10回目に出会った時と
100回目に出会った時では
読みの質が変わっています。

始めたばかりの人と熟練者では 同じ文なのに、音が全然違います!!

読みの質、100回読むうちに 体に起こっているさまざまのこと
これらは無意識の変化なので、自覚は難しいのです。
でも、確実に“変化”は訪れています。

(注意:以下は”ふきだし”にしています)
英会話学校に通っていたけど、話せるようにならなかった・・・
いろいろやってみたけど、効果がわからない・・・
一人では挫折しまいがち・・・
自分の英語レベルがわからない。
・・・という方の為のとっておきの“学習法”です。

初初めて英語に触れる子どもたちから、受験英語経験者、上級者まで♪受験生も是非♪
学校では教えてもらえない英語が身につきます♪
現役英語講師の方、英語講師をめざす方に、英語指導法の突破口をお教えします♪
2人一組だから士気も継続♪
日本人コーチだから、どの部分が弱いのか適宜教えてもらえます♪相談も随時OK♪
是非一度お試しください。

素読舎生徒さんたち
・文を、つなげて言えた時の達成感!自分のものにした!血肉になった!ただ、これをほっておくとさびつく(落ちる)!
・ダイエットみたいなもの。日々、体を鍛え絞っています。気を緩めると、リバウンドのようにすぐ口が動かなくなってしまう。
・その場で理解しなくてよいので、ストレスなく続けられる。

♪各種英語検定では・・・レッスンだけでリスニングはほぼ満点 (英検5級)
・英語検定〜聞き取りやすくなってびっくり (英検準1級)・420点から750点へ(TOEIC) 他

(前ページより 素読舎の効果)
「何万回も読みさらに「つなげる、もっとつなげる」は、英語口(筋肉)を作るというだけに留まらず、英語のシンタックスまでを含めて身体に叩き込んでしま おうという方法でもあります。この英語のシンタックスも、英語口と同様、メインテナンスを怠ればすぐに日本語のシンタックスに巻き戻ってしまいます。
それゆえ、たゆまず激しく回転させておかなければなりません。

以下、素読舎 URLなど

【17109】
註 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月20日(火)00時11分11秒

>記述されたものによって、生きている人間の側に(内に)「イメージ」が喚起されることがあるのは、富士山に登るのに、東の山裾から登っても西の山裾から 登っても「同じ」頂上に着くというようなことではないか。たどっている方角が正反対だとしても・

 このへんがわかりにくいと思うので、註を置きます。

 「東の山裾から」登るというのが、人間の抽象行為によってイメージが誕生し、語が固定されるまでの方角だとすれば、その語がいったん成立し、辞書に記述 された後、辞書を読む人がイメージを獲得する方角が「西の山裾から」ということになります。

【17110】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月20日(火)00時18分40秒

熱を感じます。
これ、刷ってみましょうか。
2000や3000部くらいなら、(素読舎には奴隷がいますので)すぐに刷れます。
江戸の母さんは何部くらい必要でしょうか。

校正は村田君とやって下さると助かります。

【17111】
ちらし 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月20日(火)01時07分6秒

根石さん

ありがとうございます♪
これ、ワードで編集した状態で見ていただきたいので、今日スカイプで送りたかったのですが、のちほど村田さんと根石さんのメールアドレスに送りますね。ち らしには、空間を生かす&イラストがはいると理想的なのですが、その腕はあるか?!

お米屋さんには100置いてもらうとして、(審査が通ればですが)他にも、置いてもらえそうな場所を探して見ます。そういうのって、楽しいですね〜。駅前 手撒きもやってみたかったりして。部数はまた後ほど検討をつけます。

さて、吉本隆明氏の言葉を目にすると俄然読む速度が遅くなってしまいます。(悪いトラウマがあるのかもしれません)根石さん、村田さんを介して、聞くと理 解できる日がくるかもと思っています。長〜い気持ちで考えていますので、よろしくお願いします。若いときは、読めた気になっていたのが、全然わかっていな かったり。青い自分を見つめ返しながらの作業ですね。村田さんが書かずに捨てた原稿も、気になります〜

【17122】
根石さん、村田さん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月23日(金)01時07分34秒

「スカイプレッスンを受講し始めた当初、語学論にはまったく関心がなく、ただ発音とイントネーションの指導と矯正だけだけを期待していた」とYoshie さんは言います。けれどDVDを見たりゴーストのシナリオを音読するようになって、最近レッスンが面白くて仕方なくなって来たそうです。

「素読舎のレッスンが自分の英語学習のコアになるだろうという確信が漠然とあるので、今後自立練習の回数を出来る限り増やしたいし」とのこと。それで現在 村田さんのコーチでTommyさんとYoshieさんが練習している箇所を、私がYoshieさんの自立練習のお相手をしたいのですが、よろしいでしょう か。私のコーチ練習にもなりますので。

二人で自立練習をするにあたって「質的にももっと激しく練習したほうがいいように思うので、どの程度するのがいいのか教えて欲しいということでした。それ で百聞は一見にしかずと思い、ちよさんとキリピーさんのレッスンの見学を勧めたところ、是非自分の練習の参考にさせて頂きたいとのことでした。

Yoshieさんのスカイプ名は根石さんのスカイプにチャットで入れておきました。時間になりましたら、私からチャットでメッセージを入れますのでよろし くお願い致します。

【17124】
英語嫌いを作る方法 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 7月23日(金)02時47分33秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/07/21_1832.php

【17126】
小川さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月23日(金)05時01分23秒

「自立練習」はまだやっていないところをやることになってます。
提案されていることだと復習になってしまいます。
Yoshieさんは月曜日に小川さんと私の8万行台「自立練習」に合流していますので、13万行台にも合流するというのはいかがでしょうか。

【17127】
村田さん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月23日(金)07時15分9秒

そうでした!「自立練習」はまだやっていないところをやるんでしたね。

今日の8万行のスカイプレッスンの後、すこしお時間を割いて頂けますか。Yoshieさんの相談に乗ってやって下さい。
【17128】
江戸の母さま 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月23日(金)07時55分56秒

チラシを読ませて頂きました。「音作り」という用語を簡単にわかりやすく説明した文も添えてあっていいですね。

【17129】
小川さん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月23日(金)09時44分3秒

ありがとうございます。プリントアウトして見直してみると、細かいところの修正がしたくなってきちゃいます。

音作りが作り出す肝心かなめのシンタックスについては、さあ、説明してくださいといわれても、私はよくわからない。いいところに小川さんの文章があったの で、これは!と思っていただいたわけですが、あの最後のシンタックス説明文の最後に(素読舎奈良分室コーチ 小川)とかいちゃぁだめでしょうか?

【17131】
江戸の母さん、小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月23日(金)11時01分28秒

>あの最後のシンタックス説明文の最後に(素読舎奈良分室コーチ 小川)とかいちゃぁだめでしょうか?

 「奈良分室コーチ」というのも書いておいて欲しいですが、英検1級、通訳案内士(正式名称?)であることも併記して下さい。そっちの方が通りはいいはず です。

 ですが、まずは小川さんから許可をいただかなくてはなりません。
 よろしくお願い致します。

【17132】
根石さん 小川さん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月23日(金)11時30分49秒

根石さん 了解です。後ほど、PDFを送ります。小川さんの許可が取れれば、変更させていただきます。

新しく追加した主なところをはり付けさせていただきます。
1.Piggyさんの感想
・掲示板を読んで、根石さんが経験に裏打ちされた理論を持っていらっしゃること、生徒さんが手応えを感じていらっしゃる様子を読んで心を動かされました。 レッスンを録音したものをきいて、これなら挫折しないでできそうだと思いました。すべてを理解して納得してはじめたわけではありません。でも根っこのとこ ろはわかった気がして、まずは飛び込みました。遠方からレッスンが受けられること、電話代がかからないことも魅力でした。

2.掲示板のお知らせ
素読舎掲示板『大風呂敷』において、レッスンの様子、生徒さんの感想等がご覧いただけます。また、塾長の語学論が展開されています。
(塾長の語学論タイトルの一部)
・受験英語はすごく役に立つ・英会話について・シンタックスこそが眼目
・馬鹿論・「音づくり」再説・リスニング成立の可否
・語学論の過激派・英会話学校はハイエナだ

以上
いかがでしょう。なんといってもインパクトのあるフレーズ
「風邪じゃないからうつらない」も入れ込みたかったんですが、webでは見つけられなかったこともあって(絶版の文庫本はピッコロさんに貸し出し中〜)次 回にしたいとも思っています。

【17133】
小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月23日(金)11時50分23秒

>それで現在村田さんのコーチでTommyさんとYoshieさんが練習している箇所を、私がYoshieさんの自立練習のお相手をしたいのですが、よろ しいでしょうか。私のコーチ練習にもなりますので。

 「TommyさんとYoshieさんが『レッスンで』練習している箇所」を村田君に代わって、コーチをしてもらうことはできないでしょうか。
 2、3ヶ月、見学していただいて、その後、小川さんがコーチをやるという手順になります。
 現在、千代・キリピーの枠で、私の監督のもとに吉さんがコーチをやっていますが、それと同様の枠にすればいいのではないかと考えています。小川さんが村 田君の監督の下にコーチをすることになります。
 千代・キリピーの枠で吉さんにコーチ見習いをやってもらう場合、一枠1万2千円は、千代、キリピー、吉さんで分担していただいています。
 これと同じ条件でやっていただくつもりです。TommyさんとYoshie さんのコーチをすることで、小川さんにお金の負担が生じますが、ご承知いただけたら幸いです。一人4千円の分担になります。1万2千円が村田君の口座に払 い込まれることはこれまでと変わりありません。

 来月から巴里子さんがどうされるのか、今のところ流動的です。
 場合によっては、以上の案はふりだしに戻ることもありうることをお含みおき下さい。

【17134】
小川さん、Yoshie さん、村田君 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月23日(金)11時53分50秒

村田君の提案の「13万行台への合流」は賛成です。

【17136】
根石さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月23日(金)12時12分26秒

13万行台の自立練習を週3ペースでやっているので、Yoshieさんにそこに合流するように提案します。

【17139】
馬の骨さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月23日(金)13時10分56秒

 内田樹の言ってる通りだと思います。


>電話取材で英語社内公用語論についてコメントを求められる。
必ず失敗するだろうと予言する。

>現在の日本の大学生の英語運用能力の劣化は著しい。
大学新入生の過半は中学三年生程度の英語力に届かない。

>これは個別の英語教師の教育力の問題ではなく、現在の英語教育が構造的に「英語嫌い」を作り出していると考える方が合理的である。

>英語は、それが「できる子ども」と「できない子ども」の間で、将来の学歴や年収に有意な差がつくことが予測される唯一の教科である。
ちゃんとやれば「いいこと」があり、やらなければ「よくないこと」が起こる。

>これだけ努力すると、これだけ「いいこと」があるよというふうに事前に努力と報酬の相関を開示してしまうと、子どもたちの学びへの動機づけは歴然と損な われる。
学びというのは、「謎」によって喚起されるものだからだ。
自分の手持ちの度量衡では、その意味も有用性も考量しがたい「知」への欲望が学びを起動させる。

>ほとんどの子どもたちは中学生二三年の段階で、英語学習への意欲を、取り返しのつかないほどに深く損なわれている。
なぜ、その理由を誰も問わないままにすませてきたのか。

>それを学ぶことによって、幼児的なものの見方から抜け出して、風通しのよい、ひろびろとした場所に出られるという期待が人をして学びへと誘うのである。 「それを勉強することで、あなたは努力と報酬が相関し、能力と年収が精密に対応する雇用関係にはめ込まれることになるでしょう」と予告されて、嬉々として 勉強する子どもがどこにいるだろう。


 素読舎は英語塾なのに、英語社内公用語化にさっさと反対してしまいましたが、そんなことより、小学生でも面白がって英語の冷凍化をやること(種としてだ け所持すること)を世間が注目してくれないものかと思っています。
 「学びというのは、『謎』によって喚起されるものだからだ」というときの『謎』も素読舎の教材は備えています。
 大言壮語に聞こえても構わないから言ってしまいますが、子供に害がなく、確実に効果があるのは、素読舎が打ち出した「冷凍化」(種として保持)しかない のです。それ「しかない」のだということについて、世間はほぼ全盲状態です。

 素読舎の方法は、同時に日本語を強化することにつながっています。
 現在小学生、中学生の素読舎の生徒が、英語の芽を出させ、花を咲かせるのは二十代でいい。できたら英語磁場で芽を出させて欲しいと私は願っています。
 単なる英語ペラペラ人間より、大輪の花が咲くだろうと考えています。

 日本語の弱い人が英語のスキルなんか持っても使い物になりません。
 若年で向こうに渡りきり、向こうに骨を埋めると決めた人以外は、その人の日本語の力以上の英語の力が備わるなんてことはありえないことです。

【17142】
小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月23日(金)13時41分2秒

>それで百聞は一見にしかずと思い、ちよさんとキリピーさんのレッスンの見学を勧めたところ、是非自分の練習の参考にさせて頂きたいとのことでした。

 承知しました。
 そちらからこちらのスカイプへの連絡をお待ちします。

 先週の金曜日でしたか、「村田君が食えるようにしたい」と言ったような覚えがありますが、スカイプでの参観は素読舎を紹介するための有力な方法だろうと 思います。回りに声をかけていただけたらと思います。
 江戸の母さん作成のチラシができてからでも結構です。
 また、Yoshie さん、Tommy さんにもその旨、よろしくお伝え下さい。

【17143】
根石さん、村田さん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月23日(金)14時29分3秒

村田さん監督下でのコーチの件、受講料の件も了解です。ありがとうございます。

それと今日の自立練習の際の話し合いで、Yoshieさんが13万行台に合流することになりました。


村田さん、ご負担をおかけしますが、月・金1:00〜2:00に13万行自立練習、2:00〜2:30に8万行台自立練習、火曜日の13万行台自立練習は 無し、ということでお願いできますでしょうか。うなへん。

【17144】
小川さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月23日(金)15時01分4秒

>月・金1:00〜2:00に13万行自立練習、2:00〜2:30に8万行台自立練習、火曜日の13万行台自立練習は無し、

8月上旬までは今まで通りでお願いできますか。学校が夏休みの間は通塾の方を昼間にしてしまったので。
月曜8万台、金曜日13万台でお願いしたいのです。


ところで「うなへん」ってなんですか?

【17145】
村田さん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月23日(金)17時12分21秒

了解しました。月曜日8万台、金曜日13万台ですね。8月上旬までではなく、その後もずっとこのスケジュールでお願いします。お世話かけます。

なおTommyさんとYoshieちゃんによるゴーストの自立練習は日程があわずポシャってしまいました。Yoshieちゃんは1人でコツコツ予習するよ うです。

「うなへん」って電報用語だったように思うんですが... すぐ返事下さいという意味だと記憶しています。もうとっくに死語ですねぇ。

【17147】
江戸の母さん(「ウナ」についても少し) 投稿者:Piggy 投稿日:2010年 7月23日(金)17時39分52秒

江戸の母さん、こんにちは。

>なんといってもインパクトのあるフレーズ
「風邪じゃないからうつらない」も入れ込みたかったんですが、webでは見つけられなかったこともあって(絶版の文庫本はピッコロさんに貸し出し中〜)次 回にしたいとも思っています。

ここにありますので、お知らせしますね。
http://sodokusha.kinugoshi.net/shoseki/honbun_title/donden_title.html

>1. Piggyさんの感想

私の感想も候補に入れてくださって、ありがとうございます。でもあまり盛りだくさんだと、読んでもらえないのではないかと少し心配です。もしも入れること になるようでしたら、修正をお願いいたします。
(修正前)掲示板を読んで、根石さんが経験に裏打ちされた理論を持っていらっしゃること、生徒さんが手応えを感じていらっしゃる様子を読んで心を動かされ ました。
(修正後)根石さんが経験に裏打ちされた理論を持っていらっしゃること、生徒さんが手応えを感じていらっしゃる様子を掲示板で読んで、心を動かされまし た。

小川さん、村田さん、「ウナへん」は「ウナ電」という言葉できいたことがあります。「へん」は「返事」でしょうか。辞書をひいてみたらこんな説明でした。 小川さんはご存知かもしれませんが、書き写します。
「うなでん【ウナ電】至急電報。英語で至急の意を表すurgentの初めの2文字のモールス符号が、仮名の「ウ」「ナ」に相当することからいう。1976 年廃止。」(へー、と思ったので書きました。返事を書いてくださるにはおよびません。)

【17153】
教材をまるごとホームページで公開することについて 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月24日(土)01時16分31秒
今日の会議室で、根石さんから「イメージ核受肉」教材をまるごとホームページに載せたい、というお話がありました。
根石さんは常々、なんでもオープンにしていきたいと言っています。
教材を公開すれば、実際にどんな教材を使っているかがホームページを見た人にわかります。レッスンの見学をする人も、ホームページで教材を見ながら見学す ることができます。また、生徒さんは最新版の教材をホームページから手に入れることができます。

ホームページに教材を載せた場合、何か問題があるでしょうか。みなさまのご意見をお聞かせください。

【17155】
ちらし 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月24日(土)03時42分2秒

Piggyさん ありがとうございました。おかげさまで、満足のいくものが引用できました!
Piggyさんの言葉も修正させていただきました。また何かあったらお願いします。

小川さんにも見ていただきまして、ありがとうございました!
提案で、シンタックスのところを(語順・構文)と追記したほうが良いのではというご意見をいただきました。

ちらしづくりで、いろんな意見が聞けて面白いです。一人でやっていると見えなかったものが見えてきて、ためになります。

確かにシンタックスは、私も小学校英語に関する本を読んで最近知ったばかりで、お恥ずかしい。普及率も高くないことと思いますんで、(語順・構文)とふっ たほうがいいのかな〜〜と思う気持ちも多いにありなのですが、逆にここは、あえて(syntax)と英語で追記しちゃったほうがいいかな〜とも、ちょびっ と、思ったりしています。さらに英英辞書よりカキカキ(*the way words are arranged in order to form sentences or phrases)も書いちゃってもいいかな・・・行きすぎですか〜(゚∀゚) その理由は・・・読者へのくすぐりというか、ひっかけというか、挑発(?) ではないんですけど、”いたずら心”と申しますか・・・
今回ちらしを作ってて思いついたのが、自分の英語のレベルを知りたいなという、英語学習経験者って結構いるかなと思ったのですよね。そういう方への、お試 し問題というか、英語脳をくすぐるきっかけになるカナなんて思った次第でありまして〜〜単なる思い付きですが。
まだ印刷まで推敲したいと思いますんで、ご意見お願いします〜〜

(これからしばらく旅行のため、書き込みできなくなると思います。すみません〜)

【17156】
江戸の母さま 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月24日(土)10時12分31秒

なるほど、おっしゃるとおり、シンタックスはそのままでもいいですね。あえて英語で書いて「くすぐり」「ひっかけ」にするというのも「手」ですな(笑)  かえって語順・構文などと的を得ない訳をつけない方がいいです。

素読舎は英語の先生達や通訳士が受講しても値打ちのある塾ですから、「入門者からプロまで幅広く対応できるぞ」という所を見せた方がいいかもしれません ね。

【17157】
Yoshieさんより 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月24日(土)10時14分25秒

メールで寄せられた感想です。

sumieさん

いろいろ お手数をおかけしました。ありがとうございました!!
13万行台も8万行台もゴーストもtoeicも入門ビジネスも がんばる!!!

.... 素読舎のレッスンを始めて 少しずつ進むうちに 「あっ!!これだったんだ!!」っと確信しました。音作りって、タダ単に 英語らしく発音できるようにす るだけじゃなくて、英語独特の音・リズム・スピードの世界と、語順・文法と、イメージ の立方体みたいなものを自分の身体のなかに作るってことなんじゃな いかと思い、素読舎の方法でするのが一番効率的で論理的だといまさらながら 気づき、徹底してやってみたくなった次第です。

あー正しい方法にめぐり合えてよかったっというきもちでいっぱいで、楽しくこの方法にはまってみるつもりです。今後とも よろしくお願いします。

【17158】
Yoshie さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月24日(土)12時42分31秒

>素読舎のレッスンを始めて 少しずつ進むうちに 「あっ!!これだったんだ!!」っと確信しました。音作りって、タダ単に 英語らしく発音できるように するだけじゃなくて、英語独特の音・リズム・スピードの世界と、語順・文法と、イメージ の立方体みたいなものを自分の身体のなかに作るってことなんじゃ ないかと思い、素読舎の方法でするのが一番効率的で論理的だといまさらながら気づき、徹底してやってみたくなった次第です。

 私の方法を評価していただきありがとうございます。自分なりの「日本の英語」のイメージを形成してくれたことがうれしいです。

 短期間のうちに眼目となるところをつかまれたのは、Yoshie さんが英検1級をお持ちだからだろうとにらんでいます。世の中にあるさまざまなハウツウを数多く試された方だろうと思います。そうしているうちに、素読舎 の方法に近いところまで進むはずです。近くまで来ていてくれたので、短期間のうちに素読舎に「はまる」ことが成り立ったのです。私がときどき言う言い方で すが、「自分の英語力だけのことなら、やみくもにやったって勘のいい人なら力をつけることはできます」なのです。

 素読舎の方法は独学の方法です。しかし、世間では、英語回りの独学は非常に多くの場合に「的外れ」です。ほとんどすべてが、と言いたくなる時がありま す。ほとんどすべてが、「上級者」には至りません。日本では、「上級者」だけが、「そこそこ使える英語」を持つのです。
 初心者はまったく使えない。中級者も同様だが、中級の終盤で少し話し始める。「そこそこ使える」のは「上級者」だけ。これが、これまでの「日本の英語」 の簡単な見取り図だと思います。
 世間は「上級者」は、「達成者」だと思っています。上級者が虚心に自分の英語を見たなら、およそ「達成者」だとは思えないはずだというのは、私が自分の 英語をながめた時に見るものから判断しています。そのことにまっさきに賛意を示してくださったのが、小川さんでした。そこが小川さんのすごいところだと 思っています。多くの「上級者」は、まるで「達成者」であるかのような顔をしているのです。学校の英語の先生なんかをはじめとして、「皆さん、タヌキです なあ」と思います。
 「磁場帰り」には、狭く限定した意味でなら「達成者」がいます。「磁場帰り」の人たちというのは、「磁場」によって、文のシンタックスのみならず、文化 的・社会的に異質なシンタックスを「無意識に刻まれた人」だからです。
 喩えはよろしくないのかもしれませんが、私はそれを(無意識領域を含む)意識に対する「入れ墨」だと考えてきました。
 「無意識に刻まれた」というのは、刻まれたのですから、彫られているのです。「彫り物」です。「磁場」がその人の「無意識」に彫りつけたのです。「達成 者」の「達成」とは、この場合、「磁場」が「達成」したものです。ご本人の手柄ではない。ご本人の手柄があるとすれば、ご本人が「磁場」でも、「語学」を 継続した場合、「彫り」の深さが深くなるというところに現れます。それはあります。
 日本でやる語学では、彫る場所は、「意識」と「無意識」の中間になります。「磁場」をいっさい頼りにできませんから、彫りは薄くなるか、(彫りではな く)スタンプを押しただけみたいな状態になります。薄くなって消えやすいのが特徴です。

 簡単に言って、「彫り」の場所が基本的に違うのです。

 これを、スキルを基準にして、単純に比較すること(TOEIC などのテスト方法)は間違っています。

 彫るべき場所をはっきりさせること一つのためにも、レッスンが必要になる余地があります。それは、独学の方法をはっきりさせることと同じです。
 レッスンを通じてやるべきことをはっきりさせ、一人で歩けるようになったら生徒に一人で歩いてもらう(初心から中級初期の人は、歩く道が長くなります が・・・)。
 一人で歩くコースも準備されています。「自立練習のみ」の過程は、コーチ付のレッスンが終了した人のためのもので、無料の過程です。この無料の過程の人 数が増え、人々が活発に練習するようになるのを見るのが、ひとまずの夢です。まともな独学をやるようになってもらうために、素読舎のレッスンがあるのだと 位置づけています。

 ねらったものを的に当てるためには、あらゆる夾雑物を洗い流して、語学の繊維だけをはっきりさせる作業が必要です。こんなめんどうなもの、と敬して(敬 することなく?)遠ざけられる「理論」がどうしても必要になります。逆にこれがあると、レッスンを受けていた人が、コーチをすることができるようになりま す。(そして、それが「種」を死なせないための最良の方法かもしれません。)
 「自分の英語力だけのこと」なら、やみくもにやったっていいわけですが、コーチをする場合はやみくもじゃ困ります。自分が英語をやる場合にも、生徒に英 語をやらせる場合にも使えるもの(理論)がなければ困るわけです。生徒と先生の別とか、生徒とコーチの別とかの幻想を越えて、語学の地平というものが確立 されなければならない。語学はこれまでも個人という場にはあったのですが、それが「地平」を形成するような理論や動きはまるでなかったと言っていいと思い ます。
 この「地平」が形成されることがあるなら、そこにようやく「日本の英語」というものが種として姿を現します。ばらばらで勝手な凸凹の散在でなく、一定の 質を備えた「日本の英語」が姿を現します。一定の質とは、「生きている種」と言えばいいと思います。英語磁場に触れれば、すぐに動き出して芽を出す種がで きるのだと言えばいいと思います。

 例えば、日本の学校の英語が作ったためしがないものが、この「動き出して芽を出す種」です。
 これまでは、英検1級をお持ちであるくらいの方たちが、「個人として」「やみくもに」この種を持つところ(に近いところ)まで歩いた人たちだったので す。

 私が巨大な教材を作り続けているのは、英語フリークでない普通の日本人でも、この教材を歩き通せば「動き出して芽を出す種」を持つことはできるようにな ると考えているからです。英語を英語フリークのためのものではなく、ごく普通の日本人のためのものにしたい。誰だって本気でやれば歩き通せる道を作りたい と考えて教材を作り続けています。
 これまでは、日本では英語というものは英語フリークのためのものだったのです。そういう変態形を擬態としなければ、「歩き通す」ことが不可能なほどのも のだったのです。欠けていたのは、「理論」です。冗談じゃないぞ、と私は今でも考えています。

【17159】
吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月24日(土)16時21分12秒

 前回の千代・キリピーの枠で、指示を「動きの中に置く」という場面を作り、キリピーの音を変えました。それについて何か書いて下さるのを期待しておりま した。「つなげる」問題に対する重要なヒントになるだろうと思い、私は吉さんのコーチに割り込み、「動きの中に置く」を実際にやってみたのでした。次の枠 の時間帯に食い込み、次の枠の生徒さんには迷惑をかけてしまいました。

 吉さんのコーチは、おとなしすぎるし、行儀がよすぎると感じてきました。
 指示を「動きの中に置く」ためには、「動き」がなければなりません。
 「動き」がなければ、それを作り出さなければなりません。

 正しく、行儀のいいモデルを与えるだけでは、「動き」を作り出すことができません。
 どんなにいい指示も、どんなにいいモデルも、生徒の「動きの中に置く」のでなければ、生徒の側に何も結果が生じない場合が多々あります。生徒の「動き」 が前提なのです。

 その観点から見れば、少しくらい乱れていようが行儀が悪かろうが、もっと言えば間違っていようが、「つなげる」「もっとつなげる」「もう一段とつなげ る」という指示が絶対に必要だということです。
 たとえ変な「動き」が生じてきても、とにかく「動き」を作り、その「動きの中」に指示を置く、あるいはモデルとしての読みを置くのです。

 「強く」だとか、「はっきり」だとか、「口を大きく使う」だとかが意味を持つのは、「動きの中」に置かれた場合だけだということが多々あるのです。
 「動きの中に置く」のでなければ、指示は単なる正しいお題目になってしまうことが多々あるのです。

 個々の音の扱いと同時進行で、「つなげる」が先行すべきだというところが、私の方法の眼目です。それによって、「正確に」や「力を入れる」のための基体 を作るのです。基体がないところで、お題目を言うのだけは避けたいと思っています。

 「つなげる」に先行しているものが実はあり、「つながる」です。
 「技法グラウンド」で練習すれば、ある程度は自然に「つながる」のです。教材の行数で言えば、3千行〜5千行くらいでしょうか。その時点では、「つなが る」が「つなげる」に先行しています。

 「つながる」を「つなげる」に持ち込む。「つながる」ものを壊さずに「もっとつなげる」、「もう一段とつなげる」という動的な練習に移行させなければな りません。1万行くらいをめどに、「もう一段とつなげる」への移行があります。

 なぜそうしなければならないかというと、ここが肝心なところですので、よく耳を傾けていただきたいのですが、日本語を主言語として英語を練習する人には 英語の「磁場がない」からです。もう聞き飽きたとお思いでしょうか。
 英語の磁場を欠く場所で、「つながる」だけをあてにしていたら、あるいは「正確に」や「正しく」だけをあてにしていたら、初心者や中級者が英語をしゃべ り出すまでに、数百年は必要になります。これは冗談を言っているのではありません。実際に数百年必要になります。

 「正しく」とか「はっきりと」を、「つなげる」ということより上位に置いていいのは、初心者が「技法グラウンド」を開始した当初だけです。その期間は、 自然に「つながる」のを待っている期間でもあります。

 「つながる」文が増えたら、準備運動が終わったのですから、「つなげる」を上位におかなければ、「動き」が作り出せません。その「動き」が作り出せない と、本当は「はっきりと」とか「力を入れる」とか「口を広く使う」というようなことが意味を成さないのです。
 日本では英語の「磁場」は作用しないということが、吉さんは本当には納得できていないのではないでしょうか。そこが盲点になっていると思います。

 音の方では、最近ホームページをのぞいた中津遼子という人もそうです。この人は「一足飛び」が可能だと思っている人です。この「一足」が、数百年という 時間になることがよくわかっていない人です。この人の中には、「つなげる」問題は存在しません。私が、素読舎の教材で、2、3万行やった人なら使うのもい いだろうという位置づけをするのも、中津がすっとばしているものを指さしたいからです。

 俺の磁場帰りはいまさらどうにもならないことなのに、「磁場帰りは駄目」と繰り返し言われるとめげるというような意味のことを言われておりましたが、私 はそんなことを言った覚えがないので、濡れ衣を着せられたと思っております。
 「磁場帰り」だろうが「日本在住」だろうが、日本では英語の「磁場」は作用しないということを本当に腹におさめなければ「駄目」だとは言った覚えがあり ます。それを腹におさめるときに、「磁場帰り」は不利だとは思います。なぜなら、「磁場帰り」は磁場が「作用した後の人」だからです。作用してしまった後 なので、「終始一貫して作用しない場」にいる人のことがわからなくなるのです。ここでは、一切のハウツウのレベルのもの言いは無効になると思います。新し い地平を切り開くことができるのは、語学論のレベルのもの言いだけです。

 「つなげる」を軽々しく扱ってもらいたくないと思います。

 「つなげる」と「はっきりと」が崩れる。「はっきりと」言うと「つなげる」が崩れる。「つなげる」と「はっきりと」の間には戦闘状態があります。「つな げてはっきりと」が成立したときが、戦闘状態が終結したときです。
 どちらか一方を上位に置いたら、語学的戦闘状態を避けることになります。つまり、いつまでたっても「できない」だけが残ります。

 「正しく」や「はっきりと」の方が、「つなげる」よりも「いい」と言われたとき、私ははっきりと違うと思ったのでした。千代やキリピーが今必要としてい るのは、そんなことではないのです。

 「つなげる」という一語に込められた私の方法は、切れば血が出るものです。それだけは言っておきたいと思います。

【17161】
根石さん 投稿者:yoshie 投稿日:2010年 7月24日(土)22時35分8秒

根石さん 私のごく素直な感想に あんなに丁寧なお返事を頂き、とても恐縮しつつも うれしく 大切に一語一語理解したいので コピーしました。私に他の みなさんの様にきっちりとした語学論のようなものがあれば、もう少しちゃんとした御礼とお返事がかけるのですが、何分にも、今まで、本能と感覚と興味と集 中力と勘のおもむくまま学習してきたもので、何と書けばよいか迷ってます。
仰ってくださった事、よく読み返して考えます。

【17166】
「つなげる」ことこそ原動力 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月25日(日)01時39分46秒

根石さんのレッスンに触発されて最近感じたことです。

「つなげる」のはろくろを回して陶器を作るのに似ているんじゃないか。
これは下手な比喩ですが、そんな気がしました。
ろくろを回さなければ、陶器は作れませんから。

「つなげる」ことが、原動力なんだと思います。
「つなげ」て「もっとつなげ」て、筋肉が麻痺して動かなくなってから勝負が始まる。
口がもう動かなくても、それでも口を動かそうという気持ちを持った時に、「個々の音」と「音全体の一連の型」のぶつかりあいをリアルに感じることができる んじゃないか。自分を振り返ってみるとそう思います。それが前へ進むための突破口。余裕があるうちは、それを感じることができない。それこそ、自分と戦う こと。
ピッコロさんが、「戦う言語」と言っていたんですが、こういう意味で言っていたんじゃないかと思いました。

【17168】
根石さん 投稿者:吉 投稿日:2010年 7月25日(日)08時30分19秒

根石さん 村田さん

おはようございます。
書き込みの投稿もできず、会議室にも不参加の状態がつづいてすみません。
どうも調子があがらずに薬も飲んでいるのですが、この薬がやたらと眠気を誘うのです。
実は先週の手合わせやレッスンもヘタレだったのです。
レッスンに影響があるので、今は夕食後に薬をとらずに就寝直前に薬を取っています。
もうしばらくこの状態がつづきそうです。 すみません。

もっと早くこのことをお伝えすれば良かったのですが、調子の悪さに加え、
本業での問題を抱え、何かを書くというエネルギーが心の奥から湧き起こってこないのです。
すみません。

根石さんありがとうございました。
今日こそは何か書かねばとこちらに参りましたら、根石さんからドカンと大きな記事がきておりました。
また先に書かれてしまったと思いましたが、そんな分けですのでごめんなさい。
根石さんが私に向けて書いてくださった文章は、きちんと糧にいたします。
根石さんが書かれた事は、僕が今獲得中のことで、僕の中でドカンとデッカイ理解が落ちるまでは、
しばらくお待ちいただきたい。 今はとにかく書けない状態なのです。

> 私は吉さんのコーチに割り込み、「動きの中に置く」を実際にやってみたのでした。
> 次の枠の時間帯に食い込み、次の枠の生徒さんには迷惑をかけてしまいました。

この件については大変申し訳ございませんでした。 お許しください。

> 「つなげる」を軽々しく扱ってもらいたくないと思います。

すみません。 やはり、ここの理解が深く掘り起こされなければ駄目なのだと強く思っております。
しかし、これは根石さんをはじめとする「他人から教えてもらった理解」では、
全然使いものにならないのです。 ここはやはり自分で悩まないとダメだと思うのです。
自分でここの理解をつかまないと全然ダメなのです。

最近は、指導の難しい大人の初心者さんを相手に一緒に1万行以上を超えていかないと、
こりゃ駄目かな〜と自分で考えることもあります。

根石さんの中の「つなげる」のイメージが非常に色濃く鮮明で具体的であるのです。
その具体的なイメージを見ろと言われても中々難しいのです。

私は音楽をやっていたので、指揮者のイメージの話をいたします。
指揮者は自分の頭の中に鮮明で強烈な曲のイメージを持っています。
そのイメージをタクトに(指揮棒に)乗せて
オーケストラから自分のイメージに近づけた音を(演奏を)引き出します。
それが指揮者の技というものです。

本振りの指揮者がいる一方で、(演奏会でステージに立つ指揮者の他に)
下振り(したぶり)をする指揮者が(稽古用指揮者が)います。
これは常任指揮者がお休みの間、
下ぶりでオーケストラの音をそろえておく指揮者のことです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お前はわしの作った音楽を壊した!」

松本の振った演奏が、中澤はまったく気に入らなかった。

「謝れ! 土下座して謝れ!」


リトルドッグプレス 「ブラバン・キッズ」 石川高子著 160ページ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この下振りの指揮者は、常任指揮者の作ってきた音楽を壊してはいけないのです。
しかしこれが難しい、指揮者本人が指揮を振ってもなかなか団員に伝わらないものが(イメージが)、
下振り指揮者を通して伝わる方が奇跡と言えましょう。

素読舎のコーチをやるということは、根石さんのもつ強烈なイメージと同化させるということです。
僕の頭の中で根石さんが見て感じているイメージと同じものが見えていないかぎり、
僕は根石さんを苛立たせ続けることはわかっているのです。

しかし、これはなかなか難しい。
これはある意味、自分のイメージを、根石さんの生き様に共感させ同化させるようなものなのです。
大げさなと感じるかもしれませんが、根石さんの語学論を理解するということはそういうことだと思っています。

今の僕の中の考えですが、(1万行までを育てたことがないクセにと言われればそれまでですが)
1万行までをあつかう間に下のような音は、文章や書き言葉で説明しても良いのではないかというものです。
そして、これらの音は高速のスピードの中でつかんでもらうよりも、ゆっくりした音の流れの中で整え、
それから徐々に「つなげろ、もう一段つなげろ」に持っていくのが良いのではないかとぼんやりと考えているのです。
一度身体にしみ込んでしまった音やアクセントやリズム感を整えるのはなかなか大変なことなのではないかと、
そのような考えも持ち合わせております。 自分の中にあるこのあたりの考えの違いを壊さないかぎり、
根石さんのもつ「つながる」というイメージに近づけないと思うのです。

○ リエイゾン (音のつながり):
stand up (スタンド アップ) → standup (スタンダっプ)
an apple (アン アップル) → anapple (アナップル)
get off (ゲット オフ) → getoff 又は geloff (ゲトぉフ・ゲロぉフ)
come in (カム イン) → comin (カミン)

○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
次の単語の始めがtdln・thで始まる音の時、一番目の最後の音が後ろの音に飲みこまれる)

hard time → har(d)time ハー・タイム(d) は 舌先を上の歯の裏につけるだけ、、
good day → goo(d)day  グッ・デー (d)は 舌先を上の歯の裏につけるだけ、
これらは素読舎の生徒さんであれば知って体得できる知識ですね。

このパターンにはまらない音もありますので、
それはその時その時にアドバイスして矯正してしまう形で良いと思います。

take care → ta(k)care テイ・ケア
big dog → bi(g)dog  ビ・ドッグ
big は、ビッグというカタカナが日本語の中にあふれているので、
bigu・dog と、gの後ろに「ぅ」という母音を入れてやる人が多いのだと思います。

next chance → nex(t) chance ネクス・チャンス
この場合のnext の「t」も黙音なのですが、ここを nexto chance と読む人もいます。
やはりカタカナのネクストの影響だと思っています。

今までは「この二つの単語を一語のように扱って、nexchanceと読みます」と指導していましたが、
根石さんのおかげで、「next の (t)は 舌先を上の歯の裏につけるだけです」という指示に変えることができました。
そこに音の本質があるのだということです。  これはすごい有効です。

○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)になるなど、、。
「ウッジュー」「ディッジュー」など、これらの音を「おまんジュー」のジューだと思っている人が多いと思います。
実は僕も長い間そうでした。
これは 「舌先を上の歯の裏につけておいてから youと発音すれば、
舌が離れる時にdやtの音が混ざってしまう」という、そういう質の音です。
これらの音を扱うのは、中級レベル以上で良いと思っています。
初心者には難しい音と考えておりますので、最初は「おまんジュー」のジューで良いと考えております。

want you (ウォント・ユー)が、wan tyou (ウォン・チュー)
found you  → foun dyou (ファウン・デュー)
meet you → mee tyou (ミー・チュー)

これらの「チュー」もネズミの鳴く「チュー」の音で読む人がおりますが、
本来は、舌先が上の歯の裏にぴったりくっついていて準備されていて読むtyouの音。
くりかえしになりますが、これらもしばらく放っておいて問題のない音だと考えております。
他にやるべきことがなくなってから最後の方で扱っていい音だと思っているからです。

○ リエイゾン (音のつながり):
○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)

これらの音の指導は、
ゆっくりなテンポの中で行われるのが良いのではないかという考えがありました。
このことは根石さんにも伝えました。

根石さんは、口の感覚をマヒさせてからポンと伝えた方が、
生徒さんがつかめちゃうとおっしゃいます。
キリピーさんの指導で確かにその変化を見せていただきました。
そうなのだろうと思います。

しかし、僕にはまだ「ああ、そうなのだ」と心の底から言うことができないのです。
実際の指導の中でそれらの理解を落としていってないと理由もありますが、
ゆっくりなリズム感の中でバランスを整える指導法も有効だと思っているところが
あるからだと思います。

【17170】
吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月25日(日)15時16分27秒

 体の調子がよくないときは、休んで下さい。私も掲示板にずっとごぶさたすることがよくあります。(百姓仕事が忙しくてごぶさたになることもあります が・・・)

 前回の千代・キリピーの枠でやってみたことは、素読舎の方法のうち肝にあたるものだという思いがあったので、それについては何か書いてくれるだろうと期 待してしまったのでした。急がせてしまったようで申し訳ありません。

○ リエイゾン (音のつながり):
○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)

 これらをゆっくりした動きの中で扱うのは構わないと思います。特に集中してそれをやるのが、教材の最初から3千行くらいまでの間です。今は、そういう場 所をやっている生徒さん(小学生を除く)がいませんが、新しい生徒さんがレッスンを始めた場合は、いきなりそれをやります。私はとりわけゆっくりとした動 きでやるわけではありませんが、3千行くらいまでの間は「つなげる」という指示はほとんど出しませんので、自然に比較的ゆっくりした動きの中で扱うことに なります。この時期は、「つなげる」でなく「つながる」でいい時期です。その時期に「音のぶつかりあいの処理」はほとんど扱ってしまいます。
 私が時々言う言い方で言いますと、「初めの数ヶ月は劇的に音が変わりますので、生徒さんに感動してもらうことができます」です。レッスン開始後数ヶ月と いうのが「3千行くらいまでの間」に相当するとお考え下さい。その後に、「だけど、その後はしばらく同じことの繰り返しが続きますので、飽きるかもしれま せん」と続くのですが、その後に続く問題はひとまず脇に置いておきます。

 レッスンでいきなりやるのは、「技法グラウンド」です。「コーチが一度読んだものを生徒が5回以上繰り返す」です。これを始めるとすぐに、

○ リエイゾン (音のつながり):
○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)

 を扱わないわけにはいきません。これらがすぐに問題になるのは、こちらが「つなげる」と指示を出さなくても、こちらの読みが「つながる」読みだからで す。生徒が「つながる」読みをしようとするとすぐに出てくる問題がこれらの問題です。
 これらに問題があった場合に、これらを扱わなかったという生徒は素読舎のレッスンには一人もいません。どの生徒でも必ず扱っています。
 want to に出てくる二つの t をどちらもはっきり発音してしまうので、前の単語の最後にある t は「黙った音に変わる」「舌の先は上の歯の歯茎の裏に一度つけるだけ」のような指示を出し、モデル音をこちらが出しますと、ほとんどの場合その場で直りま す。
 ですが、次に cut two が出てくると、また t を二度別々に発音したりします。そのたびに直しますが、生徒はまだ個別場面から離れる余裕がないから、それでひとまずはいいのです。

 would like も eat noodle も「似たようなもんだ」という感覚が抽象されるまでに、あくまでも平均値ですが、1年以上かかります。

 「舌の位置が(ほぼ)同じ音はぶつかりあうので、言いにくい。だから、舌を一度つけただけで二つとも言ってしまう。そうすると、前の音(後の音)が黙っ た音に変わる」というふうに解析すると長ったらしくなりますが、個々の場面で何度も「黙った音」を扱っているうちに、同じ法則が適応できる場面に適応して いく生徒もいるし、いつまでも個々の場面だけにとどまってしまう生徒もいます。ですから、感覚が抽象されるまでの平均値は、あくまでも平均値です。

 ていねいにゆっくりやるのは、最初の3千行くらいまで。その後も、減りはするものの問題は出てきますのでそのたびに扱います。しかし、指示は手短になり ます。

 この初期の扱いを「ゆっくり」やるのは構わないのですが、ここでも生徒は「動き」の中で感覚を抽象するのだということは見落としてはならないことです。 「動き」の絶対量を確保し「慣れ」を作ることでしか、感覚を抽象することはできません。合宿でもやれば別でしょうが、週1回30分という枠では、「だいぶ よくなったな」というところに出るのに、平均値で1年以上かかるということです。これが素読舎が、実質部分において「生徒の繰り返しにつきあう」というこ との実質部分です。

 で、ここで鳥瞰図を作りたいのですが、

○ リエイゾン (音のつながり):
○ 黙音 エリジョン (前の単語が上の歯で終わる音 tdln・th、
○ 音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)

 は、私の「音づくり」の全体においては、ごく一部分でしかないということです。

 「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」→「口の動きに力を入れる」→「口を大きめに使う」

 という一連の流れの中のどこにも、リエイゾンやエリジョンが出てこないのですが、実はレッスンではしょっちゅう扱っています。つまり、「音づくり」全体 の中では、リエイゾンやエリジョンの処理は、「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」の中に含まれてしまっているので す。

 ほとんどの学校はこういう練習をやりません。学校のカリキュラムにリエイゾンやエリジョンの解決が出てこないのと、素読舎の「つなげるの強化」にリエイ ゾンやエリジョンの解決が出てこないのは、根本的に違う理由によります。
 学校はやっていないから出てこないのです。方法的にすっからかんだから出てこないのです。素読舎は「そんなのやるのは当然だろ」であり、「音づくり」全 体におけるごく一部分だから出てこないのです。

 キリピーが合算で何万行やったのか、正確なところは知りませんが、多分2万数千行くらいじゃないかと思っています。小川さんが見事に言い当てたように、 キリピーの問題は「下駄ばき走法」です。また、吉さんが見えていないのは仕方ありませんが、この「下駄ばき」がキリピーの初期には、とてつもないものだっ たのです。(らくださんが、長野南高校が何であるか見えていなかったようなものです。)
 今は、女の人が女の下駄を履いて小走りに走っているみたいな感じですが、キリピーの初期は、3歳くらいの幼児が大人用の下駄をはいているみたいで、ガッ タガタだったのです。もし、吉さんが初期のキリピーの「下駄履き」を聞かれ、その後に今のキリピーの「下駄履き」を聞けば、「おお、こんなに変わるもんな のか」と驚かれるに違いないのですが、「下駄履き」はいまだになおりません。そろそろスニーカーに履き替えてもいいなとは思うのですが、キリピーは今のと ころ下駄じゃないと駄目なのです。その場合、私は「下駄履き」を大きく肯定します。先日は、「下駄の歯もそのうちに減ってくるわ」という言い方をしまし た。

 リエイゾンやエリジョンの処理法を指示してその場で直る場合は、そうするのがいい。それをやるときはゆっくりめにやるのもいい。吉さんはそのことを言っ ているのだと思います。しかし、それをやっても、キリピーはすぐにまた別の文で「下駄履き」で走ります。

 ここのところに、本質的な問題が露呈しているのだと思います。

 つまり、意味と文法の問題です。
 私は以前からずっと、キリピーが文法を媒介にし、構文を把握し、意味をとるようになるのを待ち続けています。テキストの「レッスンで扱わない部分」を自 分で扱うことを待ち続けています。キリピーは「言いながら書きながら思う」をやるべきなのです。
 そこが解決しないと、「固まりを固まりとして読む」ということは本当には成立しません。つまり、「下駄履き走法」は、「もうどうにも止まらない」から抜 け出すことができません。「固まりを固まりとして」ということは、「意味の固まりとして」ということですから。

 これは待つしかないのです。それを待つ方法が、「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」です。
 リエイゾンやエリジョンをいくらやっても、文法を媒介するのには役に立ちませんが、たとえ「下駄履き」であっても、「もっとつなげる」や「もう一段とつ なげる」は、文法の媒介に役に立ちます。
 読みがつながっていない文の理解は、「パズルを解くような」と言われているものです。それは「部品」の「組み立て」です。そうじゃない。それをやり、そ れを捨て、「イメージ」の「統合」にならないと駄目なんだ。「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」をやりながら、私が ずっと待っているのは、「イメージの統合」を待っているのです。その準備として「下駄履き走法」だって役にたつのです。

 イメージが「統合され意味になる」ということが起これば、「下駄履き走法」は直ると思っています。キリピーはそういう段階なのです。初期3千行の問題と は腑分けしなければなりません。

 「イメージ」という(意識における)具体物が、「イデア」という抽象物に変わるのを待っていると言っても同じです。つまりは、キリピーは「切断読み前 夜」なのです。

 この時期においても、リエイゾンやエリジョンを処理するのは大切なことですが、それはやはり外科手術に過ぎない。本質には触れない。問題は本当は(語学 の)心身のバランスであり、文法を媒介にするための「血の元気さ」です。「つながる」→「つなげる」→「もっとつなげる」→「もう一段とつなげる」は、血 管のつまりを除いて、元気な血が流れるのを待っているのです。いくら血が元気になっても、血管がなければ、これまたしょうがないですから。

 長くなりすぎるので、ちょっと中断します。


追伸。
 息子さんに、「写真ありがとう」とお伝え下さい。
 暑い日が続いていますので、お体に気をつけてください。
 私も、この日射しでは昼間は百姓がやれないので、ここ数日は屋根の下で掲示板に書くことをやっています。

【17171】
吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月25日(日)15時29分28秒

 非常に煮詰めた言い方をしてしまいますが、吉さんは「教える」ということをやっているのだと思います。私が「行儀がよすぎる」と感じるのはそのことだろ うと思います。
 私の自覚では、私は「教える」ということはやりません。
 私がやっているのは、生徒の体の動きを「作り出す」ということです。
 その動きの中に、指示を「置く」ということです。
 「教える」ということによく似ているように見えますが、別のことだと考えています。

 本当の先生は、生徒の「体の動き」だと思います。

【17173】
英語ができんが、何がいかんとや 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 7月25日(日)23時36分27秒

内田樹
http://blog.tatsuru.com/2010/07/25_1133.php

【17174】
江戸の母さん みなさん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月26日(月)01時23分15秒

素読舎広報係村田です。

江戸の母さんがまとめてくださっているチラシ版下を、プリントアウトしてみました。

pdfファイルを送ってもらって、ありがたいことだな、と思いました。根石さんじゃないけれど、生徒さん達が本気で広告を考えてくれるなんて、普通の塾で は考えられません。私も今2つビラを作っている最中なんですが、とても刺激になっています。
ただ、印刷機で扱える最大サイズが、B4なのです。現状だと、A4版が4枚(A3版の裏表)なので、物理的にB4にはおさまりません。おさめるとしたら、 現在のレイアウトを大幅に変えて、B5サイズ8ページくらいの冊子にする以外に手はありません。
そこで提案なのですが、現時点の版下ファイルは、協力して作った広告1号として、いったんホームページにおさめ、それをもとに2号へつなげていくのはどう でしょうか?そして有志が協力して「これは!」というのができたら印刷機にかける。ホームページを見ればそれまでの広告(案も含めて)がならんでいる。広 告案も、各自が使いたければプリントアウトは可能。いかがでしょう?
わたしはまず、江戸の母さんの版下を冊子用に組み換えてみます。

【17175】
教材の公開について 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月26日(月)02時07分9秒

掲示板で「イメージ核受肉」教材の公開について意見を聞いたところ、「著作物の二次的使用にあたらないのでしょうか?」というメールをいただきました。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8804/lec3.htmlを読んで、考えたのですが、「イ メージ核受肉」教材は単なる脚本のコピーではない。
脚本のセリフに対して文法的解析を与え、引用においても独自の構造を与えているので、「著作物の二次使用」というよりも、むしろ「二次著作物」にあたるの ではないかと思うのです。ですから、私は公開しても問題ないと思いますが、みなさま、この点についてもご意見よろしく願います。

【17176】
教材の公開について 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月26日(月)15時58分35秒

村田さん

教材をまるごとネット上に公開するという前代未聞の計画があるとのこと。塾長の太っ腹さにはほんとに頭がさがりますが、これは慎重を期した方がいいのでは ないでしょうか。

教材を丸ごと公開、レッスン見学も自由となると、素読舎亜流、素読舎もどきなどを排出する結果になり、本来の素読舎の方法が崩れてしまうということはない でしょうか。

この教材の成り立ちを深く理解出来る方達がいる一方、「あ、この教材を使ってコーチつきの徹底的音読をすればいいのか」程度に捉えられる方達も多いのでは ないでしょうか。語学論を持たない人たちが、この教材を手軽に便利に使って生徒を指導し、授業料を取るという事態も起こり得ませんか?

イメージ核受肉教材を使って勝手に金儲けされることくらいには目をつぶっておられても、本家素読舎のレッスンへの信頼が失墜するようなことがあっては、 コーチ見習いだって悲しいし悔しいです。

この教材を是非とも使いたい人達にだけ、コーチ養成コースを受講することを条件に無料で配布し、きちんと素読舎◯◯分室として「暖簾分け」なさるというの はどうでしょうか。公認コーチを養成することとセットで教材を無料配布するわけです。

暖簾分けといっても看板料がいるわけでもなし、上納金もなく教材費も無料、チラシは印刷代のみで使い放題、これほどいい条件の塾はありません。お墨付きを もらうために、有料レッスンを受講するくらいのことは当たり前ではないでしょうか。

素読舎の生徒さん達は授業料を支払ってスカイプレッスンを受講されるわけです。きちんとした方法を知ってからだからこそコーチを離れて自立練習も出来るの です。

巷の英語教室の先生達が無料で公開されているのをいいことに、素読舎の語学論はそっちのけで、これを勝手に便利に利用するようなことがあっていいはずはあ りません。あるいはレッスン見学でちょっと齧ったくらいのことで、学習者同士が素読舎の目の行き届かない所で、てんでばらばらな自己流で自立練習を始めた りするのも良くないのではないでしょうか。

見学希望者には見学対象クラスが使っている所を100行なり200行なり事前にメールに添付するという方法で良いのではありませんか。

皆さんはどうお考えでしょう。

【17177】
根石さん 今日のレッスンについて 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月26日(月)17時51分15秒

今日のレッスンお願いします。
今、出先から帰ってきたところで、息子は、「やりたくない」といってます・・・嫌な雰囲気です。もしかしたら、だらだらして、今日はほうりなげてしまうか もしれません。こういうときはやめたほうがいいのでしょうか。と相談する間もなく、すみません。確かに私も体がふらふら・・・ですが私はこれから、PTA のパトロールに行ってきますので、レッスン時間には同席できません。息子の態度が悪い様子が目に見えており、あらかじめ謝っておきます。

もし途中で声が出なくなってしまったら、Cちゃんだけでも、お願いします。

【17178】
教材のまるごと公開について 投稿者:たけ 投稿日:2010年 7月26日(月)17時58分13秒

お世話になっております。

小川さんが「皆さんはどうお考えでしょう」という問いかけをして下さっていたので,
私が思った事を書かせて頂きたいと思います。

私もおおむね小川さんと同じ意見です。
が、教材を丸ごとネット上に公開するという事には反対です。

この教材をネット上で全て公開すれば、素読舎に対しての理解を得るより先に、
この教材は素読舎を離れて一人歩きし、
最後は根石さんの語学論とは全く関係のない所にまで行ってしまうと思います。
根石さんが「不本意だ。」と感じられる使い方をされる可能性が充分にあると言う事です。

根石さんがそれでもかまわない。と思っていらっしゃるのであれば
私がどうのこうのと言う類いの事ではないですが、
でも私にはそうは思えないので、あえて反対します。

小川さんが
「見学希望者には見学対象クラスが使っている所を100行なり200行なり事前にメールに添付するという方法で良いのではありませんか。」
とおっしゃっていらっしゃいますが、私もそれで充分だと思います。

この教材は、根石さんの語学論あっての教材であり、
決して根石さんの語学論の届かない所には行くべきではないと思います。

…と、勢いついて一気に打ち込んでしまいましたが、
そう思う次第であります。ってことをお伝えしておきます。

【17180】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月26日(月)18時44分27秒

 息子さんは疲れているようでしたが、特に態度が悪いこともなくレッスンを終えました。
 初め、やらないと言っていたので、Cちゃんだけでやろうとしたら、やっぱりやるとのことで、ほぼいつも通りのレッスンでした。
 声が疲れている様子だったので、新しいところはやらず、復習範囲だけをやりました。

【17181】
教材のまるごと公開について 投稿者:吉 投稿日:2010年 7月26日(月)21時22分11秒

教材のまるごと公開について・・・
僕はこれについて小川さんやたけさんと同じ考えです。
以前根石さんにもお伝えしましたが、いろんなところで悪く使われる可能性があります。
被害をこうむる生徒さんが他所(よそ)の、我々の知らない所にでてくる可能性があります。

【17182】
娘の感想(英語レッスン) 投稿者:ももこ 投稿日:2010年 7月26日(月)21時23分26秒

dosen'tが言いにくかったです。
I have a small bag.もいいにくかったです。
私は今前歯がありません。haveがいいずらいです。(母:笑)

だんだん難しくなってきたけどたのしかったです。
英語ができるようになったら海外旅行して英語をつかいたいです。

先生に質問です。
英語の本が読んでみたいです。どんな本がいいですか。

【17184】
根石さんへ 投稿者:吉 投稿日:2010年 7月26日(月)23時10分15秒

根石さん ありがとうございます。

> 体の調子がよくないときは、休んで下さい。私も掲示板にずっとごぶさたすることがよくあります。

はい、ありがとうございます。 私もこちらの事情を簡単にでもお伝えするべきでした。

> 前回の千代・キリピーの枠でやってみたことは、素読舎の方法のうち肝にあたるものだという思いが
> あったので、それについては何か書いてくれるだろうと期待してしまったのでした。
> 急がせてしまったようで申し訳ありません。

先週、ここで何か書くのが良いのだろうと思ってはいたのです。
根石さんも期待しているだろうとは、気付いておりました。
キリピーさんの音、本当によくなりましたし、、。
しかし、調子が下がってしまって、週末には書こうと思っていたのですが、すみませんでした。

精力的に投稿をしていた数年前は、
睡眠時間が3−4時間でもまったく問題がなく、平日の夜でもアイデアがあふれてくると
布団から起きだして書けるほどでしたんですけどね。
今は、気持が疲れてしまって、平日の夜に文章を書くのがとても大変です。

会議室に参加できなかったり、以前ほど精力的に書けていないことがとても気になってもおりました。
私は、どちらかというと真面目な性格なので、実は会議室を「休む」ということも
気持の上ではめちゃくちゃ負担にはなってしまうのです。
今は気持ちの負担になるので、なるべく約束事を作らないようにしております。
週末も全面休養にあてている状態です。 ご理解ください。

> 吉さんが見えていないのは仕方ありませんが、この「下駄ばき」がキリピーの初期には、
> とてつもないものだったのです。(らくださんが、長野南高校が何であるか見えていなかったようなものです。)

そうなのですね。 今回もまた詳しく書いてくださってありがとうございました。
私は根石さんが育ててきた生徒さんの経緯と状態を知らないので、
途中から指導に入るととても難しいと感じることがあります。
これは注意して良いのか? そういう段階ではないのか?と、いちいち考えることで(躊躇することで)、
ワンテンポ、アドバイスが遅れることがあります。

しかしおかげ様で自分の「コーチの耳」が鍛えられていることが、自分でもよくわかります。
特に、キリピーさんと千代さんの組に混ぜてもらってから、
生徒さんの音を聞く耳がずいぶん変わったな〜とハッキリ感じます。

> 本当の先生は、生徒の「体の動き」だと思います。

はい、その通りだと思います。
生徒さんが自分で自分に教えるということだと思います。
自分ではそこにポイントを置いてやっているつもりです。
そうなのだと思っているのですが、、、しかし、

> 私がやっているのは、生徒の体の動きを「作り出す」ということです。
> その動きの中に、指示を「置く」ということです。

ありがとうございます。 この一文が「芯」であり「核」なのだと思います。
ここの理解が自分の中で無意識に、、自分の気持ちから自然とあふれでてくるようになることが、
僕には必要なのだと感じております。 頭で理解しているようでは全然使えないのです。
そして、それは自分の中でドカンと落とすしかありません。
方向性は見せていただきました。 あとは実践の中で自分の中に理解を落としていくしかありません。
レッスン中に、また、書き込みで、根石さんの「糸の張った状態」という言葉を何度か読み聞きしましたが、
今日のレッスンでおっしゃていることがスッとつかめた気がいたします。



・・・・・・・・・・・・・・
from anybody は、根石さんがおっしゃていたように many・body とならないよう
意味的な理由でリエイゾンが起こらないのだと思いますが、
もうすこし例文を探して検証してみます。

最後に、来週月曜(8/2)はお休みさせていただきます。

【17185】
音の同化 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月26日(月)23時27分28秒

根石さん、吉さん

そしてちよさん、きりぴーさん、いつも見学させて頂きありがとうございます。私自身はコーチ見習いとしての見習い勉強をさせて頂くとともに、ちよさんとき りぴーさんのような集中力で練習せねばといつも思っています。

さて、先日根石さんと吉さんの音の同化についてのやりとりで少し気になったことがありますので、忘れないうちに書いておきます。

>>音の同化 would you (ウッド・ユー)が、woul dyou (ウッ・デュー)になるなど、、。
「ウッジュー」「ディッジュー」など、これらの音を「おまんジュー」のジューだと思っている人が多いと思います。

カタカナで表記すると紛らわしいのですが、「ウッジュー」「ディッジュー」という同化はあります。私はむしろ woul dyou (ウッ・デュー)より「ウッジュー」の方が一般的なのではないかと思っています。ただし「おまんじゅう=omanju」の"j"音ではなく、dと「了解」 の「了」のようなあの発音記号がくっついた音です。もしこの音を「デュー」と表記されているのであれば、お二人のお説に異論はありません。

下記のサイトの 2)をご参照下さい。

http://sugp.int-univ.com/Material/Arts/EnglishL/l_02-01.html

【17187】
村田君 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月26日(月)23時56分8秒

この掲示板からリンクするなら、小川さんが教えてくれた発音教室の方がいい。
中津遼子のすぐ上にリンクを置いて下さい。
杉野健太郎さんのやつなら、素読舎の教材1万行未満の生徒にも薦められます。

【17189】
小川さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月27日(火)00時06分38秒

>oul dyou (ウッ・デュー)より「ウッジュー」の方が一般的なのではないかと思っています。ただし「おまんじゅう=omanju」の"j"音ではなく、dと「了解」 の「了」のようなあの発音記号がくっついた音です。もしこの音を「デュー」と表記されているのであれば、お二人のお説に異論はありません。

要は喉の音が響くかどうかだと考えています。
多分、その点については吉さんもわかった上であのように表記したのだと思います。
で、コツはどういうことになるんだろうか。
上の歯の歯茎につけてある舌を、喉に力を入れて離す、っていうことになるのではないでしょうか。

【17190】
根石さん 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月27日(火)00時16分57秒

>多分、その点については吉さんもわかった上であのように表記したのだと思います。

根石さんや吉さんが、そんな区別をご存知ないわけがない。失礼なことでした。すみません。

>で、コツはどういうことになるんだろうか。
上の歯の歯茎につけてある舌を、喉に力を入れて離す、っていうことになるのではないでしょうか。

カタカナでどう表記するかが問題ではないでしたね。この音を出すコツはどうなのかが問題でした。おっしゃるとおりだと思います。

【17191】
吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月27日(火)00時17分57秒

>私は、どちらかというと真面目な性格なので、実は会議室を「休む」ということも気持の上ではめちゃくちゃ負担にはなってしまうのです。

 これはねえ、全然気にしないで下さい。
 今は、ほとんど飲み屋状態です。
 飲み屋での話を、村田君がテープ起こししたりすると、えらくまあ、ちゃんとしゃべっているかのように見えるのです。
 ときどき、ろれつが回らないのですが、テープ起こししたものは、村田君の創作だと思ってもらってもいいくらいなもんです。
 時々、俺、こんなことしゃべってたんだっけというようなものを読むことができ、楽しいです。
 酒飲んでくっちゃべろうかという気分の時にご参加下さい。
 馬鹿話も、大まじめに語学論をやるのもどちらも歓迎するお部屋です。

【17192】
吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月27日(火)00時25分4秒

>私は根石さんが育ててきた生徒さんの経緯と状態を知らないので、
途中から指導に入るととても難しいと感じることがあります。
これは注意して良いのか? そういう段階ではないのか?と、いちいち考えることで(躊躇することで)、
ワンテンポ、アドバイスが遅れることがあります。

 キリピーと千代の枠では、言いたいことをどしどし言ってもらっていいです。あやつらは耐性ができています。時々泣きますが・・・。

【17193】
小川さん、たけさん、吉さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 7月27日(火)00時51分11秒

吉さん>以前根石さんにもお伝えしましたが、いろんなところで悪く使われる可能性があります。
被害をこうむる生徒さんが他所(よそ)の、我々の知らない所にでてくる可能性があります。

たけさん>根石さんが「不本意だ。」と感じられる使い方をされる可能性が充分にあると言う事です。

小川さん>教材を丸ごと公開、レッスン見学も自由となると、素読舎亜流、素読舎もどきなどを排出する結果になり、本来の素読舎の方法が崩れてしまうという ことはないでしょうか。

 吉さんの「悪く使われる」、たけさんの『「不本意だ。」と感じられる使い方』っていうのは、具体的にどんな使い方でしょうか。私は、想像できないでいま す。
 子供を相手の教室のことを想定しておられるのでしょうか。そのことにおいては、私は子供を信じています。
 「種として持たせる」ということがわからないまま、子供相手にあの教材を使ったところで子供が拒絶します。うめえこと考えた、とでも思って、やってみる がいい。悪いことなんか何も起こりはしないと思っています。こばたま塾みたいなものがひとつつぶれるだけです。
 あんなもの、つぶれるがいいのです。

 小川さんの危惧について。
 「排出」という語は非常に正確だと思います。
 「輩出」するんなら、私は意気のある人を生徒にします。
 頭のいい馬鹿なら、「排出」でいい。
 もう十分に、日本の英語学習をめぐる状況は絶望的なのです。
 私は、どれほど「排出」しようが、素読舎の方法が崩れるとは思っていません。

 あの教材は、英文の配列にしかオリジナリティはありません。
 著作権を主張するようなものだとも思えません。
 出ている英文は、英語磁場で人々が普通に使っているような英文ばかりですので、著作権というものがあるとすれば、英語磁場の大昔から現在に至るまでの無 数の人々にあると思っています。
 しかし、法律はいつもとんちんかんですので、私の教材にいちゃもんをつける可能性があります。そのあたりを心配しているだけです。

 小川さんが言っておられたことですが、「私が英検一級を受けるときに、こういう教材があったらすごく助かったはず」というものがあります。
 そういうふうに世の中に役にたつなら、私もああいうものを作ったかいがあるというものです。
 多分、そういうふうに独学の方に役にたつと思います。

 商売人が使えるもんなら使ってみやがれ、と思っています。
 商売をつぶすことを覚悟して使うことになります。

 あらゆる手法の根本にあるのは思想です。

 あやつらに使えるはずはないのです。

【17194】
ももこさん(Mちゃんへ) 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月27日(火)02時20分56秒

>私は今前歯がありません。haveがいいずらいです。

これは知りませんでした。でもちゃんと音は出てましたよ。

>英語の本が読んでみたいです。どんな本がいいですか。

もっとたくさん練習した後のお楽しみにとっておきましょうか。
私も小学生の頃、英語の本を読んでみたいと思って、「不思議の国のアリス」のペーパーバックを買ってもらいました。表紙の絵や挿絵が気にいったからです。 でも、自分には全然読めなくて、絵だけながめていました。Mちゃんと違って、レッスンを受けていなかったから当然なんですがね。結局、大人になって英語の 練習をちゃんとはじめてから、読めるようになりました。
Mちゃんがレッスンをもっともっと進めると、自分で読める本が出てきます。Mちゃんは私よりずっと早くレッスンを始めているから、私より早く気にいった本 を読めるようになると思いますよ。

【17196】
村田さん 投稿者:ももこ 投稿日:2010年 7月27日(火)08時54分31秒

娘へのコメントありがとうございます。
娘が本のことを質問していたのですが、この件で

「ねぇママ〜。英語のレッスンで使う本(※preABCDをプリントアウトしています)みたいな本ないかなぁ。私あぁいう本なら読めそうな気がする」

↑のようなことを申していました。個人的にはものすごい自信だなぁって思っています。幼心に手ごたえを感じているんだなって改めて思いました。

今日は娘は私とpreABCDの自立練習をしてからレッスンをしました。
(場所は娘に指定してもらって、私が読んで、娘と一緒に読んだり、娘だけで繰り返したりしました。回数は娘が口が言いやすくなったというところまで繰り返 してから次の文を読むようにしました。)

その際娘が「英語がうまくなると練習って短くなるのかな?」と聞いてきたので、「私の知っている英語が上手な方は英語が上手でない方よりたくさん練習して いるよ。」と応えました。またちょうどいいので、「日本語の中で暮らしていると英語がさび付くんだって」という話もしました。時々寝坊する我が娘はお休み すると口が動きにくくなるので、それは分かるみたいです^^;

子供の自立練習に関しては子供の要望に応じてやってみようと思います。
「やめといたほうが・・・」ということであればコメントお願いします<(_ _)>

【17198】
根石さん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月27日(火)12時01分15秒

昨日は息子への対応ありがとうございました。
近くできいていた旦那から最初の部分のやりとりを聞きました(*^_^*)
ああいうちょっと甘えた息子への切り返し(?)は、「私で、できるだろうか?」また「親が言ったとしても、同じようになるか?」と考えて、改めていい経験 をさせてもらってるな〜と思いました。ありがとうございます。

【17199】
レッスン見学の感想です 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月27日(火)17時49分59秒

ちよさん きりぴーさん
レッスン見学させていただいてありがとうございました。
ギャラリーで大賑わいの中、やりづらかったと思いますが、とても刺激になりました。

ずっとやっていれば、このレベルになれるのだろうか!レッスン見学後、開口一番にピッコロさんと出た言葉でした。

レッスンがはじまって英語放送のラジオが流れたのかと思ってしまいました。

私に足りないものはなにか?すごく参考になりました。
一文の最初の一声から同じ音。よどみないこと。イントネーションってこれなのか!
流れるような気持ちよさと力強い安定感。しかも高速。

私には、コーチが注意される音の中にまじった母音や、小さな点については、聞き取れませんでした。だから、お二人ともすげ〜〜っと思って聞いていました。
コーチは、まるで発声された音を顕微鏡で見るような精密さでもって、音の違いを指摘してるように思えました。

ちよさん、きりぴーさん、コーチは、がっつり三つどもえの闘いのような、誰も譲らない、まるでスクラムを組んでいるような気合いを感じてしまいました。

それに比べると私の受講姿勢って、なんてゆるいのか!まるでシャボン玉をふくらますかのような甘さ。やわですね! 次回から私もがんばります〜〜(耐性は できていないので、泣かさないでください)

テキスト公開の件で、以前も話題になったとき、根石さんが「テキストを使う奴はいても、使いこなせる奴はいない」と言っていたような気がします。確かに、 同じテキストを使ってやっていても、独学でこのお二人のレベルにいくのは、無理なのではないか?と思いました。だからといって、無料大放出には、掲示板で 皆さん心配されていたように、私も心配していたのですが、昨日のレッスンを聞いて、ちょっと考えが変わりました。

【17200】
ちよさん、きりぴーさんのレッスンを見学して 投稿者:ピッコロ 投稿日:2010年 7月27日(火)18時15分57秒

月曜日の夜のレッスンを見学させて頂きました。
お二人の速さに合わせて、シャドウで口を動かしていましたが、
途中で遅れてついていけず、口の筋肉の鍛え方が足りないなーと感じました。
反対に収穫は、以前だとあのスピードで話されると全く聞き取れなかったのが、
聞き取れる箇所が出てきたことです。ちょい、嬉しい瞬間でした。

それと、最近思うことは、自分がつっかえる文章を淀みなく言えるようになると、
他の文章もいい易くなるってことです。これぞ、一石二鳥!。
つっかえる文章は、チャンスと思って取りくむのはいかがでしょう!。

【17201】
遅ればせながら 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月27日(火)21時18分40秒

さきほどTommyさんとYoshieさんが昨夜のレッスン見学の感想を寄せてくれました。

二人ともきりぴーさんとちよさんの豪速でつなげる回転読みにびっくりしていました。ほんとにすごかったですとのことでした。レッスンであれだけつなげられ るようにするには自主練習も相当な量でしょう、非常に刺激になりましたと異口同音に言っています。

「まるで格闘技のようだった」とYoshieさんは言っています。根石さんがきりぴーさんに「ちょっと可哀想だけどね、もっとつなげてみて」とおっしゃっ て、それに食らいついていくきりぴーさんもすごかったし、また吉さんや根石さんの一言で、キリピーさんの読みが劇的に変わっていくのもすごいと思ったそう です。

昨夜の見学までは、二人とも根石さんには「下手なことを書くと怒られそうで恐ろしい」というイメージを持っていたようですが、意外にも穏やかで優しいので これにもびっくりしたようです。少し慣れて来たら、直接に投稿するように伝えますね。

【17202】
ももこさん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 7月28日(水)05時03分27秒

>私あぁいう本なら読めそうな気がする

「あぁいう本」は、他にはないですよね。

「自立練習」について。娘さんがやりたがっているなら、復習をたくさんやってください。T(トップ)でやっていないところも何カ所かありますので。

【17203】
根石さんへ 投稿者:吉 投稿日:2010年 7月28日(水)06時54分24秒

すみません。 しばらくネットにつながれない環境に入ります。
お仕事もお休みして静養してまいります。 きっちり体調を整えます。

> あやつらは耐性ができています。時々泣きますが・・・

いやいや、、最初はビックリして僕の方が泣きそうになりました。 (笑)
「ピンと糸の張った状態」・・・ここを感じとれることがポイントなのだと、
強く思い始めています。 今なら変われる気がいたします。
9月になりましたら、金曜のクラスの生徒さんの枠に
まぜてもらえるようにしたいと考えておりますが、自分の仕事の(本職の)調整も
ありますので、その辺のお話は後日改めて相談させてください。

【17205】
「おかげのかげで寝て暮らせ」 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 7月29日(木)14時19分53秒

詩人廿楽順治さんの奥さんの実家の家訓だそうです。
気の休まる、いい言葉だなあ。

【17206】
馬の骨さま 投稿者:小川 投稿日:2010年 7月29日(木)21時07分51秒

おばあちゃんは、「お変わり有りませんか」と聞かれると「はい、おかげさまで」と言ってました。

おかげのかげで寝て暮らす、大きな懐に抱かれているような安心感のある言葉ですね。

【17208】
ちらし案 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 7月30日(金)03時01分36秒

>ただ、印刷機で扱える最大サイズが、B4なのです。現状だと、A4版が4枚(A3版の裏表)なので、物理的にB4にはおさまりません。おさめるとした ら、現在のレイアウトを大幅に変えて、B5サイズ8ページくらいの冊子にする以外に手はありません。

村田さん
ありがとうございます。夏ばてもありアタマもストップ、作業も中断してしまいました。
「現在のものでB4にすると文字が小さくて読みづらく、拒絶反応を受けやすい」ということですよね。了解です。

でも、最近投稿されたYoshieさんの感想も入れたい〜〜〜(「立方体」という表現にしびれました。ピッコロさんの「血肉」もおお〜〜っと思いました が、人それぞれ、その人にしか言えない言い回しがあるんだな〜と感動です。)こうやって、どんどん文字が多くなっていってしまいますよね(><)

>そこで提案なのですが、現時点の版下ファイルは、協力して作った広告1号として、いったんホームページにおさめ、それをもとに2号へつなげていくのはど うでしょうか?そして有志が協力して「これは!」というのができたら印刷機にかける。

この案に了解です。言葉の使い方もそうですが、どう文字を見せるかの手腕も問われる作業ですね。それに、確かに1ページ目が文字が横並びなので、印象をや わらかくしたいですね〜

【17226】
先日の会議室の様子 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 8月 1日(日)16時42分46秒

◎教材の公開について
 ・小川さんやたけさん、吉さんの危惧することが具体的にどういうことかわからない。
  亜流が出て来たとしてもかまわない。真似するならどうぞやってみてください。
  「無料過程」までのきめ細かなことまでやれるならやってみてください。
  語学論がすぐれている限り、亜流がいくら出てきても素読舎が困ることはない。
  もしも亜流の中に優れたものが生まれたとしたら、それは世の中のためになることで、
  望むところ。
  心配なのは、著作権関係のこと。調べているところ。(根石さん)

 ・教材を公開する時は、教材を置いたディレクトリにパスワードをかけておくのは
  どうか。(希望者には料金を支払ってもらい、パスワードを知らせるようにする)


◎復習「自立練習」(仮称)について
 ・復習部分の「自立練習」をやりたい。(ももこさん)
  復習部分の「自立練習」のための掲示板を作るのはどうか。
   ○○行から△△行まで復習をしたいと思った人が掲示板で呼びかけ、スカイプ名を
   教えあって、「自立練習」で復習部分をし、掲示板に報告していく。

 ・現在、復習部分の「自立練習」にあたる自立練習枠
   Tommyさん・たけさん(1行〜1万行の範囲)
   Uさん、ピッコロさん(ABCDの範囲)
   小川さん、Yoshieさん、村田(13万行台と8万行台のうち8万行の範囲)
   根石、村田(14万行台と13万行台のうち、13万行の範囲)
   以上はすでに復習「自立練習」と考えていいのではないか。

  また、2万行から5万行までジャンプした人たちも、ジャンプした部分を復習
  「自立練習」でやっていくといい。
  また、同じ場所を復習している枠が2つあったら、途中でメンバーを交替して
  みるのもいいのではないか。

【17230】
復習部分の「自立練習」 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 8月 1日(日)23時34分42秒

先日の応援団会議室で、ももこさんから、「復習部分の『自立練習』をやってみたい」「あの人と復習部分の『自立練習』をやってみたい」ができればよくない か?という提案がありました。
何曜日の何時からと、時間が決めて、同じ部分の復習ををやりたい人たちが集まって復習部分の「自立練習」ができたらとてもいいんではないか(根石さんは 「ジャムセッション」と名付けたらどうかと言ってました)。

そこで、早速報告用の掲示板を作りました。

たとえば、根石さん、せいさん、私は、14万行台と13万行台の「自立練習」をやっています。本来は両方とも復習ではないのですが、13万行台を復習部分 と考えます。13万行台の復習をやりたいと思った人は、問い合わせて、可能ならば参加できるようにします。あるいは、13万行台の復習をやるペアを新たに 作って、根石さんと私の自立練習枠とのメンバー交代をやったりすることもできるようにします(だから「ジャムセッション」です)。

小川さん、Yoshieさん、村田の8万行台、Uさんとピッコロさん、Tommyさんとたけさんの「自立練習」枠は、復習の「自立練習」にあたるので、復 習用の掲示板に報告を書いてください。
復習部分の「自立練習」報告用の掲示板 http://www.sodokusha.com/patio2/patio.cgi

【17233】
ももこさん 皆さん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 8月 2日(月)03時28分30秒

子どもさんの読書感想文のことを書いておられたのを思い出して、私も、助言いただきたいな〜と思っています。我が家も宿題がでましたが、どう書かせていい ものか?だいたい、課題図書になるような本は読みたがらなくて、娯楽物、歴史漫画なんかで書こうとしてるものですから、先が思いやられます。しかも、もう 取り組まないとのんびりさんの我が家ですから、焦っています。

でも、参考にネットで読書感想文コンクールの受賞作品を読んでいると、もう少し手を加えれば、新聞の図書案内に載れるんじゃないかという内容もありまし て、すごいな〜と思ったりしました。ただ、最後のまとめの部分が「僕にできること」という範囲に限定されてしまって残念ですが。エッセイストになれるん じゃないかという筆力の子もいて、参考になります。
ネットで得た情報では本を読む前と後では自分の考えがどう変わったかというのを機軸にするといいかなと思ったのですが、子どもに指導する際の、アドバイス があったらお願いします。

【17235】
「復習部分の自立練習報告」に加えて... 投稿者:小川 投稿日:2010年 8月 2日(月)14時13分50秒

「不思議の国のアリス」や「準1級語彙問題例文」の回転読みなど、それぞれ個人的目標達成の為の自立練習も盛んなようです。

あくまで素読舎のイメージ核受肉教材を幹として、枝葉としての「課外活動報告」の場があればいいと思いますが、いかがでしょうか。

【17241】
子音の連続の説明 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 8月 3日(火)00時14分44秒

レッスンの時に次の例文にあたりました。
I've been thinking about it a lot, and I think we should just do it.

この例文の we should just do it の部分で、根石さんが次のような説明をしてくれました。

====================================
 should just の d と j の子音の連続では、d はおたまじゃくしのしっぽのようなものだと思っていい。
 just do の t と d の子音の連続では、t の音は完全に消える(黙る)。
====================================

「おたまじゃくしのしっぽ」っていう説明の仕方がおもしろくてわかりやすいと思いました。このおたまじゃくしは後ろ足が生え始めているのか、それともほぼ カエルの形になっているのか。わたしは後ろ足が生えたおたまじゃくしを想像しました。

【17243】
コーチ用アドバイス 10 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 8月 3日(火)00時27分6秒

音の立体化のうち、「口に力を入れる」の指示の仕方。(1万行を越えた人に対する指示)

音がつながっている状態ができたら、ゆるめることなく、リズムをこわさず、「口の動きに力を入れる」ように言う。口に力を入れるのではなく、口の「動き」 に力を入れる。(ただ「口に力を入れる」だけだと、喉に力を入れてしまう人もいる)
口の動きに力が入ったのを感じることができたら、今度は口の動きに力を入れるのを気にしなくていいから、「一段とつなげる」ように言う。

【17245】
復習部分の「自立練習」報告用掲示板について 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 8月 3日(火)00時37分24秒

小川さんが、「課外活動用」の場を提案されています。
私も、通常の「自立練習」をやっている人が、枝葉としての『「準1級語彙問題例文」の回転読み』などを『復習部分の「自立練習」』報告用掲示板に書き込む のはおもしろいと思うのですが、いかがでしょうか?
もちろん、「イメージ核受肉教材」がメインの練習になっていることが大前提です。

【17263】
会議室の報告 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 8月 7日(土)01時09分46秒

小川さんから提案のあった「課外活動」報告用の掲示板について、会議室で話しました。
「イメージ核受肉教材」の練習を幹とし、枝葉として別のテキストを「自立練習」するのが提案された「課外活動」でした。
今日話した中で、素読舎の生徒ではない人が素読舎の生徒と組んで「イメージ核受肉教材」以外のテキストの「自立練習」だけをやってもいいんじゃないか、と 根石さんが言いました。そして、次のような話がでました。

 ・「イメージ核受肉教材」以外のテキストを使った「自立練習」の報告用掲示板の名前は「大枝小枝─とびいりOK!(無料)」とする。
 ・現在、週1で開かれる応援団会議室の時間を「大枝小枝」の時間にあてる。(応援団会議室は月1〜2のペースにする)
 ・11時20分から集まって、10分程でペアを決め、それぞれ「自立練習」に入っていく。その後、「大枝小枝」に報告する。(11時20分前にすでに始 めていてもいいかもしれない)
 ・大人の日本語素読の時間としても使う。
 ・「大枝小枝」に報告を書きこむ時には、タイトルに「練習に使った本の名前:練習者名」を書きこむ。そうすることで、練習に使った本の名前が検索にひっ かかり、そこから「大枝小枝」にとびいりする人がいるかもしれない。
 ・「とびいり」で来た人が、二人一組で練習することの利点に気付くかもしれない。(一人じゃなかなか長続きしない)
 ・素読舎の生徒と、生徒ではない人のペアで「自立練習」をすることで、生徒ではない人がレッスンに興味を持つかもしれない。

 また、「自立練習」・復習部分の「自立練習」・「大枝小枝」の連絡事項や、レッスンのお休みの連絡などは、連絡事項専用掲示板を作り、連絡事項はすべて そこに書きこむようにする。「大風呂敷」は、語学論専用の掲示板とする。

以上、構想の段階です。次回の会議室で話し合う予定です。みなさま、ぜひ参加してください。

来週の会議室はお休みです。次回は20日の予定です。

【17271】
根石さん 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 8月 7日(土)21時57分28秒

アドバイス、ありがとうございます。
息子は、夏でも冬でも下着は「裸の大将」みたいなランニングなのですが、家の中を探してみます。1枚はあるかな?

遅くなりましたが、今日、差し入れのビールを送りました。山まで持ってきてくださっても良いし、かさばるようでしたら、素読舎界隈のみなさんで・・・

明日は子連れ可の野外コンサートにワイン3L持込で行ってきます。女友達とどこまで飲めるか?私が”うわばみ”であるのかどうかも、挑戦してきたいと思い ます〜

我が家の日本語素読のことも、ぼちぼちとmixiにも報告しているのですが、東京都世田谷区では「日本語」というのが独自の科目としてあって、教育委員会 編集で教科書を作っているのを知りまして、そのお古の教科書を使って、うちでも(ご近所さんもたまに)読みあいっこしています。その教科書には、現代詩、 俳句、漢詩などで、きれいな写真と大きな字、なぞなぞのページもあります。実際に世田谷区では好きなページを好きなだけ読んできてという宿題だったそうで す。

以前掲示板で、お母さんから「音読の宿題が負担になっている」という話がありましたが、この教科書で、このやり方だったら、負担も少なくならないかなと思 いました。機会がありましたら是非手にとって現物を見てみてください。

最近慌しくしていて日本語素読見学に参加できないのですが、また都合がつきましたら、お願いします。娘も、3人の男の子の名前を確認して、今日はどうだっ たんだろうと気にしていました。

ちなみに、品川区には「市民化」じゃなかった。「市民科」というのがあるようです!

【17277】
江戸の母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月10日(火)00時36分45秒

>前掲示板で、お母さんから「音読の宿題が負担になっている」という話がありましたが、この教科書で、このやり方だったら、負担も少なくならないかなと思 いました。機会がありましたら是非手にとって現物を見てみてください。

 キャンプに来られたときにお話すればいいことなのかもしれませんが、一応どなたにも私の立ち位置を知っていただくのはいいことなので、お返事します。
 私は、学校がやることにはほぼ100パーセント興味を失っています。
 昔、大岡信とそのお仲間が、「国語」ではなく、「日本語」という名前の教科書を出したことがあります。文部省「非」検定の「教科書」でした。
 世田谷区の教育委員会のやっていることは、この「教科書」の流れをくむものだと考えていますが、素読に対する考えをはっきりさせないようなところが何を やっても駄目なんだと思っています。
 「音読」はあたりさわりがない。
 「素読」は使いようによっては非常に危険です。

 国家や権力が「素読」などと言い出したときは絶対に用心し、みんなで大騒ぎすべきですが、「素読」という日本語の単語さえ通じなくなっているご時世です から、いまさら国が「素読」など使えるとも思いません。
 しかし、です。
 日本人はさきごろ大変馬鹿になりましたので、おおかたは糞民主主義を信奉する馬鹿だと思うのがいいと思います。
 この人たちを相手になら、国もやる余地がある。
 この人たちのだまされ上手が大手を振って権力と一緒に動く日がきたら、私は一切の発言をやめます。
 今だから、まだやっていられるのだという考えがときどき私の中に起こります。

【17282】
パナソニック採用の8割が外国人、大学生就職深刻 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 8月15日(日)10時44分30秒

ニュースです。
http://news.nifty.com/cs/economy/economyalldetail/jcast-69022/1.htm

【17283】
じりき問題 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月16日(月)09時25分14秒

 「じりき」という語を辞書でしらべてみました。やはり、私がこれまでに何回か使ったように「地力」という漢字で表記されています。「地力」は「ちりょ く」とも読んで、「ちりょく」の場合は、園芸、農業、林業関係の用語になり、「土地が作物を育てる能力・土地の生産力」です。
 私は最初「じりき」という語を相撲のラジオ放送で聞いたのでした。相撲の解説者が使っていた「地力」は、辞書では「そのものに、もともと備わっている 力・能力、本来の実力」というふうに説明されています。
 相撲の解説者は「ジリキをつける」というふうに使っていたのですが、「もともと備わっている力」だったら、「ジリキをつける」というふうなものではない はずです。(元力士の)解説者が、「(もっと稽古して体を作って)ジリキをつけないと・・・」というふうに使うのであれば、地力というものも稽古によって 作られるものだということになり、厳密には「もともと備わっている力」という定義ではおかしいことになります。
 「もともと」のものなら、「地力を引き出す」なり「地力を強める」という言い方になるはずで、「地力をつける」はおかしい。それは「つける」ようなもの ではない。
 では、元力士の使い方がおかしいのかと考えて、私はそうではなく辞書の定義がおかしいではないかと疑っています。元力士が「地力」というものに関して間 違った使い方をするとは考えにくいからです。
 私が辞書の記述をやるなら、「もともと備わっている力とその発展形」とでもすると思います。

 細かいことを書いたのは、掲示板を始めた当初、「磁場」という用語をめぐってかなり混乱があったことを思い出すからです。今では、「磁場」という語を間 違って使う人はいなくなりましたので、「磁場」については心配していませんが、今後「じりき=地力」という語を使っていく場合、どう表記すべきか迷ってい ます。「地力」という表記では、「じりき」と読む人より、「ちりょく」と読む人の方が多いだろうとも思います。ひらがなやカタカナで書いたのでは、ちょい とへなちょこだし、と。

 いま思いついただけのものですが、「3J」ができます。
 「じば=磁場」「じりき=地力」「じりつ=自立」で「3J」ということになります。
 これらについて、典型的な使い方は以下のようなものになるかと思います。

「日本在住のままの語学においては、『磁場』の磁力を欠いています」「英会話学校に行っても『磁場』は手に入りません。あそこにあるのは、あくまでも「教 室」に過ぎません」

「ひとまず教材の3万行程度をやって、中級半ばくらいの『地力』を作ってもらわないと」

「「自立練習」の『自立』っていうのは、生徒が二人で練習してもらうことですが、語学は元々は一人になってやることなので、最終的な「自立練習」はひとり でやる練習です」

 「3J」は思いつきにすぎませんので、「じりき=地力」問題に戻ります。

 学力だなんだと言い、進学校は生徒に過大な要求を出していますが、決して「じりき=地力」を作っているとは思えない。学力という迷妄を押しつけられてい る現代の子供達から奪われていくのは「じりき=地力」なのだと考えているので、用語として表記を決めた方がいいのだが、どう表記すべきかと迷っています。
 思い切って、JIRIKIとアルファベット表記にしてしまおうかとも・・・

【17284】
OZさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月16日(月)09時32分30秒

たくさんの一財産をありがとうございました。

「じりき問題」を考えたのは、同封して下さった資料を読んでのことでした。
息子さんがつき合わされている学校の英語のレベルがわかりましたので、盆明けからレッスンでの教材の扱い方を一部変えてみようと考えています。

【17302】
応援団会議室(「自立練習」について) 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 8月21日(土)02時17分54秒

前回の会議の議題について、ももこさんから提案があり、それをもとに話しあいました。

◎まず、レッスン・「自立練習」を誰でも見学できる状態にしておく。
  すでにレッスンの見学や、「自立練習」の見学をした生徒さんもいますが、レッスンや「自立練習」
 は誰でも見学できることをあらためてアナウンスします。生徒だけでなく、外部の人も誰でも見学でき
 るようにします。

◎「復習範囲の自立練習」と「素読舎の教材以外を使った自立練習(課外活動)」
 ・「復習範囲の自立練習」
   レッスンや「自立練習」の見学をして、「この人と復習範囲の自立練習をしてみたい」と思った生
  徒さんが、相手の生徒さんと都合がつけば復習範囲の自立練習ができるようにします。多くの生徒さ
  んがレッスンを見学していれば、○○さんは□□さんと復習範囲の自立練習をするのがいいんじゃな
  いかとアドバイスする人も出てくるかもしれません。いろいろな人とペアを組んで、ペアの関係がシャッ
  フルできるようにします。
   復習範囲の自立練習は、まず生徒同士ではじめますが、いずれ外部の人とペアを組めるようにしま
  す。外部の人が生徒とペアを組んで「自立練習」を体験することで、素読舎の生徒が出す音との違い
  を感じ、そこから「スカイプでレッスン」に入ってくることも期待しています。

 ・「素読舎の教材以外を使った自立練習(課外活動)」
   素読舎の教材以外を使う自立練習は、ひとまず生徒同士でやります。
   報告は、復習範囲の自立練習用の掲示板を使います。

  「復習範囲の自立練習」も「素読舎の教材以外を使った自立練習(課外活動)」も、生徒だけでなく
  外部の人も誰もが見学ができるようにします。


「自立練習」について、以上の方針で進めていきます。

【17336】
英語で日本を語れるか。 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 8月28日(土)04時11分0秒
内田樹「女は何を欲望するか?」(角川ONEテーマ21)定 価・本体705円(税別)
からの引用。26頁。
「他者の言葉
 外国語学校に英会話を習いに行くと、しばしば外国人の教師に、「英語で」日本の文化や
社会についての意見を述べることを求められる。そのとき、私たちは実に定型的な言葉づか
いで自国について語っている自分に気づく。
 経験のある方も多いだろうが、「英語」で日本社会について語ろうとすると、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、ほとんど自動的に「欧米から見た日本 社会についての固定観念」(集団主義、個性を抑圧する教育、創造性の欠如、巧妙な「ものまね」、アメリカ追随、アジア蔑視・・・・)を語ってしまう。とい うのは、日本を「外から」冷たく突き放して批判的にコメントする英語のフレーズはどんどん湧き出てくるのに、その反対に、欧米の人々が見逃していること、 気づいていないことのうちにも「すばらしいもの」があるのだということを説明するため言い回しが私たちの貧弱な英語語彙のどこにも存在しないからである。
 でも、それが当然なのだ。
 私たちは英会話のレッスンを通じて、英語圏の人々が日常的に繰り返すストックフレーズを暗記させられる。そうやって私たちは、英語圏の人々に固有の価値 観や美意識を身体化させてゆくことになる。英語的な発想法や世界の切り取り方を身体に刷り込むというのが、「英語が使える」ということである。そうである 以上、英語を使って、「英語話者には見えない事象」、「英語話者がこれまで一度として言語化したことがない概念」を語るということは、きわめて困難な、ほ とんど不可能な企てだということがわかる。」

【17337】
馬の骨さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月28日(土)05時16分29秒

 コピーペースト、ありがとうございます。
 実に、まったく、内田の言う通りです。
 内田がいてくれるととても助かります。
 私は、自己中心的で「ない」欧米人のために、間違った英語、日本語に非常に影響された英語、だけど、「欧米人に理解可能」な英語を、日本人が作らなけれ ば駄目だと思っています。

 感性や思考法まで欧米人みたいになったらおしまいだと思います。

 今のところ、そんなオーベー感性やオーベー思考法はにせものだから私たちは安心して日本語の世界に生きていられるのです。
 まともな詩人だったら、エーゴをやるんじゃないでしょうかね。言葉と言語がどう違うかを考えないで詩人なんてやってられるもんなんでしょうかね。

 押し寄せてきていますね。
 オーベーが。
 それに対する本当の対処法を知らない馬鹿どもばかりです。日本という国にいる英語使い・言葉使いなんてものは。
 私らの年代で言えば、山本かずこや松岡祥男みたいな本当に良質なもの以外は、私は詩の回りにいる者どもを全否定したいと思っています。こんなんじゃ駄目 だというようなものばかり読まされます。
 英語回りも詩回りも馬鹿ばっかしじゃありませんか?
 大馬鹿者があんまりいませんですね。
 あんまり知りませんけど、当てずっぽうを言っておきます。
 私が、確認した限りでは、まあ、英語回りは本当に馬鹿ばっかしです。
 詩まわりは、さすがに、馬鹿が圧倒的だとしても、ときどき、馬鹿がとんでもない心理や真理をあらわにするので、語学よりは詩の方が面白い。
 だけど、だけど、ですわね。
 やっぱり、詩の回りも圧倒的に馬鹿ばっかし。そんなの相手にしてる暇はないです。
 書いたものを読むと、何が詩かよと思うしかない。
 詩をおとしめて詩人づらすんじゃねえよってなテアイばっかし。

【17338】
あだ名 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月28日(土)05時32分29秒

 先日、酔っぱらってではあるものの、村田君に、「新戸倉温泉 が景気がよかったころのお坊ちゃん」というあだ名をつけてしまいました。
 ジュクチョウが、夜を徹して考えたりしても、お坊ちゃんはあんまり仕事をしてくれません。夜を徹して考えたものを、こちらがまだ言葉にできないのだか ら、あんまり責める気はないのですが、それにしても「思想」ってもんをあんまり自分を標準にして決めるんじゃねえよとは、出会った頃の昔から思っていまし た。

【17339】
根石さん 投稿者:ももこ 投稿日:2010年 8月28日(土)11時32分55秒

下の書き込みについて横から質問です。
思想を自分を標準にして決めない(?)方法ってあるのでしょうか?根石さんの書き込みを拝見してふつふつと考えています。

思想の意味を検索したらウィキペディアに

思想(しそう、英: thought)とは、人間が自分自身および自分の周囲について、あるいは自分が感じ思考できるものごとについて抱く、あるまとまった考えのことである。 単なる直観とは区別される。感じた事(テーマ)を基に思索し、直観で得たものを反省的に洗練して言語・言葉としてまとめること。また、まとめたもの。哲学 や宗教の一部との区分は曖昧である。なお、その時代が占める思想の潮流(時勢)のことを思潮と呼ぶ。
と出ていました。

また、標準の意味をネット辞書で調べてみると
1 判断のよりどころや行動の目安となるもの。基準。「―に合わない」
2 平均的であること。また、その度合い・数値。並み。「―に及ばない」「―の体重」

と出ていました。私はこの文章の標準を2の意味だと思って読んでいます。

私のためになりそうだなと感じるので、もしよろしければアドバイスいただけるとうれしいです。

【17344】
今日、午前中に村田君に言ったこと 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月29日(日)01時05分39秒

・記事は追加されている。かえって拡散する。
・焦点ができない。
・またしばらく経った。新たな生徒の感想がない。書いてくれと頼む作業を村田がやるべし。
・過去ログの扱いのとき言ったこと。膨大なものの中からピックアップし、同種のものを集めることで、焦点を作れる。
・焦点は一つではない。円ではなく楕円。楕円ではなく、不定形。
・せっかくホームページを作っているのに、新たにベタを作っている感じがする。働いている感じがしない。
・働いているというのは、量の問題ではない。ホームページならホームページが作品として独り立ちできるかどうかの問題。

・教材、作り直している。
・受験用、問題集から、問題をゴーストの文の間にはさんでいる。
・これは聖の工事と同時進行で進める。

・松岡さん関係、根石詩集関係、何がどうなっているか、話をする機会があるたびに、どれがどこまで進んだかを報告すべき。
・俺がやっていることが、余りにも多岐にわたるため、何がどうなっているのか、自分でわからなくなる。当分の間、聖の小屋のことを考えたい。確認の作業を その都度、少なくとも、週に一度は報告がないと、こちらの頭が忙しくなる。

【17346】
山本さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月29日(日)01時11分5秒

ご連絡ありがとうございました。
掲示板を読まず、レッスンを始めてしまい、レッスンしながら、掲示板を読みました。
OZさんからこの夏にお便りをいただき、山本さんの息子さんが、素読(音読)に対してなんらかの手応えを感じてくれているようだと書いてくださいました。
そうでしたら、大変うれしく思っています。
今後ともよろしくお願い致します。

【17347】
村田さんへHP関連 投稿者:ももこ 投稿日:2010年 8月29日(日)01時37分43秒

そろそろHPの運用も慣れてきたのではないかと思います。
掲示板の設置も
サイドバーの追加方法
パスの書き方
コマンドの書き方
もOKなので、おそらく私の出る幕はないかなぁと思っています。

一応メンテナンスはしやすいように(おそらくいろいろと組み替えることにはなるとおもっていたので)作ってみたつもりです。いかがでしょうか。

ここから先は村田さんがどういったサイト(何を伝えたいのか)になさりたいのか、そういった思いをお知らせいただいたほうが、そしてサポートしようとする 塾生(私も含めて)が動きやすいと思います。

ラフでいいのでお考えをきかせていただけるとうれしいです。何かお力になれるかもしれません。

あっそうだ!ちょうどいいので村田さんへ質問します^^

・村田さんってどうして素読舎のコーチになろうと思ったんですか?
・どうしてここまで続いてきたのですか?(大変そうなのに・・・^^;)
・それを支えるものって何なのでしょう?
・こんなに広めるのが大変な(?)素読舎のメソッドを広めたいとどうして思われるのでしょうか?

もしよろしければおしえてくださ〜い^^

【17348】
ももこさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月29日(日)01時52分37秒

>思想を自分を標準にして決めない(?)方法ってあるのでしょ うか?

 思想っていうのは、例えば、明治以後の日本の近代思想とか、アメリカにこてんぱんにやられて以後の戦後思想とかがあります。
 左翼思想もあるし、右翼思想もあるし、農本主義もあるしという具合のものです。
 これらは、私が生まれてくる前からありました。つまり、歴史の中にあります。
 日本に生まれた子供は日本語の中に生まれてくるのと同じように、人は思想史の中に生まれてくると言っていいと思います。
 思想は主に本を読む(媒介にする)ことで、今を生きている人間に取り入れられます。自分が生まれる前の時間を生きた人の思想を読み、それを媒介にし、自 分の中で練っていけば、練られたものは練った人の思想だと言っていいだろうと考えています。

 「思想」を自分を標準にして決める決めないという問題ですが、自分が生まれる前に書かれたものは、自分なりにせいいっぱい読み取ることができるだけで、 自分なんてものを標準にして決めるわけにはまいらないだろうと思います。自分なんてものは、それを理解するための燃料にすぎないと考えています。

 ひとまず、焦点を一つにしてお答えしますが、何か参考になりましたら幸いです。

 昨夜は、吉さんからもらった沖縄の古酒を飲み、ずいぶんはらわたに応えたもので、頭がぐらぐらするのを構わず、普段の不平不満を吐き出したような次第で すが、馬の骨さんが引用してくださった内田樹の論旨からは大きく脱線しました。
 英語回りは馬鹿ばっかしという言い方は、ずいぶん前から私は何度もこの掲示板に書いたように思います。主に想定しているのは学校の英語の先生や英会話学 校のネイティヴ教師などです。
 あるいは、学校の先生の言うことをおとなしく聞いて、「音づくり」もやらず、パズルみたいに文法問題を解いたりして、それでいずれは「使える英語」を手 に入れられるかもしれないと思っている生徒も馬鹿の一人に数えたくなりますが、しかし、生徒には罪はない。学校や学校制度に従順な教師どもが、もっとも罪 があります。

 内田樹の論をゆうべちゃんと媒介にできなかったのは、酒のせいにしてしまおうと思いますが、「思想」ってものの扱いは、「自分を標準にする」ってことを やったら、もう最初に間違うと思っています。ちなみに、私の文における「標準」の意味は、ももこさんが2の方だと思ったのと違い、1の方です。

 「自分を標準にする」のではなく、思想を受容し、感じ、考え、自分の中に新しいものを練るのが思想とのつきあい方だと考えています。その全体を「媒介」 という語で考えてもいます。
 受容し、媒介にし、練る。この全体をも、「媒介」という一語で言ってしまいたいという気もします。

 思想は、やたらに自分などというものから生えてくるものだとは考えられないのです。
 すでにあるものを読み、媒介にする以外にないのではないかと思っています。

 村田君が作ってくれているホームページに、動きが感じられないことを以前から不満に思っていました。そのことに関しては、以前から、村田君に、「俺や素 読舎や過去ログをダシに使っていいから、自分なりのホームページを作ってみたらどうだ」とは言っていたのですが、村田君がやっているのは、ほとんど最近の 掲示板のいい記事をコピー・ペーストする作業だけだなとも思っていました。
 記事は追加されているのだが、動きが感じられないというのは、村田君が「思想」というものを外在的なものにしてしまっているからです。語学論も思想の世 界の片隅にはあっていいものなので、「思想」というふうに括弧付きで昨夜は表記しました。

 実際にそうなるかどうかはわかりませんが、今後の素読舎は村田君の生徒を獲得するために活動することになるというベクトルが私の中にあります。しかし、 ホームページ一つとってみても、ご本人がなかなか自分の仕事にしてくれない。

 媒介にして練るという作業、もっとも肝心な作業がなされていないのだと考えています。だから、追加しかなく、コピー・ペーストしかなく、焦点が浮き彫り にならない。

 思想などと言うとおおげさに聞こえるかもしれませんが、動きにならず、コピー・ペーストだけがあるようなことは、やはり「思想」の問題だと考えていま す。

 ひとまず以上で中断します。
 お返事をいただいた場合、今夜中にお返事は書けないと思います。自業自得とは言え、やることがちまたのおろち、じゃない、やまたのおろちの蛸足状態で、 疲れてしまっておりますので、お許し下さい。

 そうだ。
 私はももこさんの考えを聞くとき、大変生き生きとした動きを感じます。基本に、受容力・媒介力があるんだと感じます。これはおべんちゃらではなく、掛け 値なく私が受容しているものです。

 今日は読み直しせず、書いたものをそのまま掲載してしまいますが、その点もお含みいただけるとありがたく思います。

【17349】
ももこさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月29日(日)02時03分17秒

ズバリ質問をありがとうございます。


・村田さんってどうして素読舎のコーチになろうと思ったんですか?
・どうしてここまで続いてきたのですか?(大変そうなのに・・・^^;)
・それを支えるものって何なのでしょう?
・こんなに広めるのが大変な(?)素読舎のメソッドを広めたいとどうして思われるのでしょうか?

 私も是非村田君から聞いてみたいです。

【17351】
ももこさん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年 8月29日(日)04時20分38秒

まさにHPをやるための質問どうも。

>・村田さんってどうして素読舎のコーチになろうと思ったんですか?
 大学受験浪人だった頃、英語が全然伸びず、もう駄目だと思っていた時、「英語のやっつけ方」を読んだことが遠いきっかけです。
 「英語のやっつけ方」は小学館文庫の「英語どんでん返しのやっつけ方」のもとになった本です。「頭がよいとか悪いとかはでっちあげだ。鍛えてしまえばよ い」という言葉で考え方が変わりました。「電圧装置」や「回転読み」「回転書き」から、とにかくしらみつぶしにやっていくことを知りました。そして、「だ いじょうぶだ、心は死にはしない」という一文がとてもはげみになりました。救われた、と言っていいと思います。「心は死にはしない」。こんなに簡潔で、力 強い肯定の言葉に、出会ったことがありませんでした。その言葉で、本気で英語をやっつけようと思うようになったと思います。
 社会人になり、家庭教師をやっていた時期があるのですが、受験直前専用の役が多く、結果は出せるものの、何かが違うと思い続けていました。テストで高得 点を取れるようになっても、この人たちはひと月もたったらやったことをすぐ忘れてしまう。本当に力をつけるためにはどうしたらいいか。
 私は自分では通ったことのなかった素読舎に、自分を鍛え直すために、塾生として通い始めました。
 通って数カ月経った頃、根石さんから「先生」をやってみないか、と言われました。いずれ自分で塾をやってみたい気持ちはあったけれど、それはまだ先のこ とだと考えていました。でもどうせやるなら、真正面から英語と取り組み、テストを越えたところで力をつけるところでやった方がいい、と思い、家庭教師はや め、素読舎で「先生」を始めました。


>・どうしてここまで続いてきたのですか?(大変そうなのに・・・^^;)
>・それを支えるものって何なのでしょう?
 一度、本気でやめてしまおうと思ったことがあります。けれどやめなかった。それは根石さんが厳しくサポートしてくれたからです。

>・こんなに広めるのが大変な(?)素読舎のメソッドを広めたいとどうして思われるのでしょうか?
 私は英語関係の学校や教室に行ったことがないので、素読舎の方法しか知りません。
 けれども、雑誌やネットで、1日○○分間CDを聞けばあっという間に英語を聞き取れるようになる、とか、○○という教材を使えば半年間で TOEIC800点を取ることを保証します、なんてCMを見ると、嘘つけ、と思います。また、小学生の子供が、アイドルとペラペラと「英会話」やっている CMなんかは、帰国子女だろ、と思います。英語関係のCMを見るとなんかうそくさいと思う。そういう時、素読舎のことをもっと知ってほしいと思います。
それから、根石さんが日本語を軸足にした、「日本人の英語」をうちだしていることです。英語ネイティヴに対しての憧れをあおらないし、劣等感を持たせな い。


ひとまずここまでです。

【17352】
無題 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 8月29日(日)10時53分7秒

内田樹が、どこかで書いてましたが
「ひとの、とくに若いひとの自尊感情を損ねるようなまねはしてはいけない」って言ってます。
つまり、英語学習は容易であるかのような宣伝等につられて、実際に学習してみたら困難を覚え、
自分の能力に不安を抱く。つまり自尊感情を損ねるのです。自分は劣っているのではないか?ってね。インチキ宣伝のために。
わたしは、むかし昔、英語が嫌いでした。いまでもね。言い換えれば「自尊感情が脅かされていた」のでした。
ここにいる人は、そんなことはないでしょうけど。そんな人たちも多くいるのです。

【17353】
根石さん 投稿者:ももこ 投稿日:2010年 8月29日(日)12時05分29秒

思想についてアドバイスありがとうございます。
標準について、私も1だと思っていたのに、2と書いてしまいました^^;
それは枝葉なので、そのままにしちゃいますが、自分を「燃料にする」「媒介にする」という言葉になるほど〜って感じました。

一旦自分の中に受け入れて練って新たな自分の考えが生まれる。ゼロからオリジナルってなかなかないですもんね。

語学論も素読も思想もリンクしているように私は感じます。
そしてそう感じられるのも、
さまざまなものを受容し、媒介にする力をつけることができたのも、
日本語でしっかり自分の考えを持ちたいと思えるようになったのも

素読舎のお蔭だと思っています。本当にありがたいです。そしていつまでも「子供電話相談」のような素朴な質問を受け止めてもらえる大風呂敷という場も私に はありがたい環境です。

そんなわけで、私の思考力や質問力といった部分にいい影響を与えてくださっている素読舎のメソッドですが、英語のほうでも花開かせる努力をせねばと思って おります^^;

英語を習得するには最初は緩やかでも上級者になるまでには急な峠を上らねばならないと伺っています。そしてその峠を越えたら同じ峠は越えられないんじゃな いか(超えてしまったら道を戻れないんじゃないか)と感じています。さびつくというのはまた別のような気がしますし・・・。

たとえがヘンかもしれませんが、自転車って乗れるようになったら、乗れないときのアンバランスさや怖さって再現できないような気がするんです。そんなこと が英語にも言えるかなって思います。だからコーチの皆さんには「初心者っていいでしょ〜^^」っていいたくなります。(ホントはさっさと脱出すべきなんで しょうけど笑)

峠を上り始めたなと思ったらそのときはそのまま掲示板に投稿しようと思います。コーチのみなさんどうぞ見守ってくださいませ^^。

余談
私は英語で馬の骨さんの書き込みにあった「自尊感情を損ねられた」一人だと思っています。高校から英語が分かったり分からなかったりし始めたのでそのあた りからだと思います。だから英語をやっつけたいなという気持ちもあります^^;

でも実際素読舎で英語を始めてみて「損ねられたからなんなんだ。だったらそこからやればいいじゃない」みたいなたくましさというか開き直りみたいな感情が 生まれています。
いいのか悪いのか・・・。

【17354】
馬の骨さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月29日(日)15時38分12秒

 内田樹の言ってることはわかるつもりです。
 ですが、「自尊感情」の「自尊」に中身がないとき、馬の骨さんならどう考えますか。やるべきこともやらないで、「自尊」なんか持ってもらっても困る。そ のことで他に皺寄せが生じることに無自覚な場合なんかはとりわけ困る。そのあたりについて、どう考えますか。

 別の話です。
 先日は酒の勢いで、わずかな語数のうちに話が横ずれして、詩人なんかもひきあいに出してしまいましたが、私は「詩を書こうとして詩を書く」っていう行為 はとても変なものだと思っています。職業詩人じゃあるまいに、と思ってしまいます。
 ちなみに、職業詩人というと、私は芭蕉と谷川俊太郎を思います。 芭蕉は俳句の連衆っていうんでしょうか(よく知りません)、まあ、仲間や弟子筋のとこ ろへ行って泊めてもらって一宿一飯が手に入った。旅を枕にして、「詩人」一本でなんとか生きられる形を作った。日本では、講とか結社みたいなものがない と、職業詩人は成り立たないのかとか考えます。講は善光寺なんかにありますし、結社は俳句・短歌の世界にあります。結社ってのが、芭蕉の頃からあったのか どうか。そのへんは知りません。
 がらっと変わって、谷川俊太郎は、雑誌メディアとのお付き合いですが、まあ、いちばん「詩人」一本でやっている。それでも、本当に一本でやれるわけでは なくて、スヌーピーの翻訳とかマザーグースの翻訳とかやってきた。本当に一本でやると、(芭蕉の)旅で死ぬ覚悟みたいな形しかないのかとも思います。こう いうふうに書いていると、砂漠のランボーを思ったりもします。ランボーは詩を捨てて、砂漠で商人をやったらしいですが。砂漠のランボーってのは、「詩以 後」だなとも考えています。
 ともかく、職業詩人でないのに、「詩を書こうとして詩を書く」ってことがどうにもわけがわからない。あんまり本気になって書いたので、詩なんか書くつも りはなかったのに、結果的に詩になっちゃったというのが経緯としてはまともな経緯ではないでしょうか。詩は書こうとして書くもんじゃない、析出されるもん だ、結果として生まれ落ちるもんだという考えがあるのです。
 書こうとして書くってことと、生まれ落ちるってことがうまく連動すれば文句はないのですが、書こうとして書くってことが、生まれ落ちることを邪魔してい るケースが圧倒的に多い。たまに詩の同人誌なんか見ると、そう思います。
 話を戻します。

>つまり、英語学習は容易であるかのような宣伝等につられて、実際に学習してみたら困難を覚え、自分の能力に不安を抱く。つまり自尊感情を損ねるのです。 自分は劣っているのではないか?ってね。インチキ宣伝のために。

 これはまったくこの通りだと思います。これは世の中の英語回りの商売人についての言葉だと思いますが、「いい高校」なんてのもそれを生徒の中に引き起こ しています。「いい高校」の生徒の多くってのは、「自尊感情を損ねられた」人たちです。

 詩人が語学をやるのはいいことだと思っています。「主言語の縁」の自覚は詩人にこそ必要なものなんじゃないか、と。

【17355】
根石さん 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 8月29日(日)19時04分46秒

内田樹の言ってることはわかるつもりです。
 ですが、「自尊感情」の「自尊」に中身がないとき、馬の骨さんならどう考えますか。やるべきこともやらないで、「自尊」なんか持ってもらっても困る。そ のことで他に皺寄せが生じることに無自覚な場合なんかはとりわけ困る。そのあたりについて、どう考えますか。
>自尊感情とは、内田樹の造語だと思いますが、自尊心とは違う意味を持たせたのでしょう。
 記憶では、若いときの心の底に流れている自然な自己肯定感情を指しているのだろうと思い
 ます。ですから自負心や自尊心とは別物と考えたら、どうでしょうか。


 私は「詩を書こうとして詩を書く」っていう行為はとても変なものだと思っています。職業詩人じゃあるまいに、と思ってしまいます。
 ちなみに、職業詩人というと、私は芭蕉と谷川俊太郎を思います。 芭蕉は俳句の連衆っていうんでしょうか(よく知りません)、まあ、仲間や弟子筋のとこ ろへ行って泊めてもらって一宿一飯が手に入った。旅を枕にして、「詩人」一本でなんとか生きられる形を作った。日本では、講とか結社みたいなものがない と、職業詩人は成り立たないのかとか考えます。講は善光寺なんかにありますし、結社は俳句・短歌の世界にあります。結社ってのが、芭蕉の頃からあったのか どうか。そのへんは知りません。
 がらっと変わって、谷川俊太郎は、雑誌メディアとのお付き合いですが、まあ、いちばん「詩人」一本でやっている。それでも、本当に一本でやれるわけでは なくて、スヌーピーの翻訳とかマザーグースの翻訳とかやってきた。本当に一本でやると、(芭蕉の)旅で死ぬ覚悟みたいな形しかないのかとも思います。こう いうふうに書いていると、砂漠のランボーを思ったりもします。ランボーは詩を捨てて、砂漠で商人をやったらしいですが。砂漠のランボーってのは、「詩以 後」だなとも考えています。
 ともかく、職業詩人でないのに、「詩を書こうとして詩を書く」ってことがどうにもわけがわからない。あんまり本気になって書いたので、詩なんか書くつも りはなかったのに、結果的に詩になっちゃったというのが経緯としてはまともな経緯ではないでしょうか。詩は書こうとして書くもんじゃない、析出されるもん だ、結果として生まれ落ちるもんだという考えがあるのです。
 書こうとして書くってことと、生まれ落ちるってことがうまく連動すれば文句はないのですが、書こうとして書くってことが、生まれ落ちることを邪魔してい るケースが圧倒的に多い。たまに詩の同人誌なんか見ると、そう思います。
>この一文は慧眼ですね。一部のSNSで根石さんが書いたものとして発表します。

>つまり、英語学習は容易であるかのような宣伝等につられて、実際に学習してみたら困難を覚え、自分の能力に不安を抱く。つまり自尊感情を損ねるのです。 自分は劣っているのではないか?ってね。インチキ宣伝のために。

 これはまったくこの通りだと思います。これは世の中の英語回りの商売人についての言葉だと思いますが、「いい高校」なんてのもそれを生徒の中に引き起こ しています。「いい高校」の生徒の多くってのは、「自尊感情を損ねられた」人たちです。
>どういうことでしょうか。理由がまったく思い浮かびません。わたしには説明が必要です。宜し
 く。
 詩人が語学をやるのはいいことだと思っています。「主言語の縁」の自覚は詩人にこそ必要なものなんじゃないか、と。
>確かにそうですね。この文も、一部のSNSで根石さんが書いたものとして発表します。
  たしか菊池寛が「文学をやるひとは、必ず語学をものにするように」と書いてましたね。

【17357】
根石さん、ももこさんへ 投稿者:フミ 投稿日:2010年 8月30日(月)11時22分15秒

日本語の素読で息子がお世話になっています。
大変申し訳ないのですが、日本語素読をやめたいと思います。
5か月続けましたが、目を離すと、他のこと(ネットで他のページを見ていたり)しながら口だけで素読をする時があります。はじめての詩以外はあまり。本を 見ない様子。
適当に合わしている感じで、本人も先生は好きだけれど、何かが上達する実感がなく辞めたいと言っています。

もうひとつ気になるところは、関西に住んでいるので、微妙にイントネーションがちがうんです。根石さんの落ち着いた日本語は、さすがに素読指導者のプロと して素晴らしいものと感じています。はじめのうちは、谷川俊太郎は関東の人だから、こういうイントネーションでこの詩を作ったんだろうなどと思いながら、 聞いていたのですが、息子は関西のイントネーションに無意識に変えて読んでいたりします。英語と違って、母国語である日本語は、地域によってに微妙なニュ アンス差があり、表現が違うのだと改めて気づいた次第です。谷川俊太郎の詩を時々くちづさむなど、とてもいいこともたくさんあるのですが、できれば、親子 で素読を続けたいと考えています。
ももこさんの息子さんには申し訳ないのですが、他のパ−トナーを探していただければと思います。気軽に日本語素読のパートナーを引き受けてしまって、申し 訳なかったと思います。もう少し、息子の学年が上がってから、英語の素読に参加させてください。8月いっぱいで終わりにしたいと思っていますが、9月いっ ぱいは続けてほしいなど、ご意見があれば言ってください。よろしくお願いいたします。

【17358】
馬の骨さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月30日(月)11時24分8秒

>自尊感情とは、内田樹の造語だと思いますが、自尊心とは違う 意味を持たせたのでしょう。
 記憶では、若いときの心の底に流れている自然な自己肯定感情を指しているのだろうと思い
 ます。ですから自負心や自尊心とは別物と考えたら、どうでしょうか。

 そうですか。「若いときの心の底に流れている自然な自己肯定感情」というものが、私には具体的なものとしてイメージできません。「自然な自己否定的感 情」ならわかるような気がします。
 「若いとき」というのが、どのくらいの年齢層について言っているのかもわからないので、やはり、内田の本を買って読んでみるべきなんだろうなと思ってい ます。
 おすすめの一冊を挙げていただけたらありがたいです。

>>これはまったくこの通りだと思います。これは世の中の英語回りの商売人についての言葉だと思いますが、「いい高校」なんてのもそれを生徒の中に引き起 こしています。「いい高校」の生徒の多くってのは、「自尊感情を損ねられた」人たちです。
>どういうことでしょうか。理由がまったく思い浮かびません。わたしには説明が必要です。宜しく。

 「いい高校」というのは、括弧つきで表記してある通り、世間で「いい高校」と言われている受験校です。そういうところで、「実際に学習してみたら困難を 覚え、自分の能力に不安を抱く。つまり自尊感情を損ねるのです。自分は劣っているのではないか?ってね。」ってことが、「大量に」起こっています。「いい 高校」でやっていることは、こなしきれないほどの「知識」の強制だけです。「知識」をどう扱うのかには触れないまま、「知識」を子供にねじこむのです。と いうか、子供の自分に対して「知識」をねじこませるのです。それが、量的に普通じゃない。結果として、「実際に学習してみたら困難を覚え、自分の能力に不 安を抱く。つまり自尊感情を損ねるのです。自分は劣っているのではないか?ってね。」ってことが多量に生じています。その隠された現実を眺めるなら、「い い高校」っていうのは、子供の自尊感情を損ねるのに「いい高校」です。

>一部のSNSで根石さんが書いたものとして発表します。

 近頃、世の中の動きについていけてないところが出てきて、「一部のSNS」というものがどんなものなのかわかりません。ちょっと教えて下さい。

【17360】
ももこさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月30日(月)11時47分50秒

>そんなわけで、私の思考力や質問力といった部分にいい影響を与えてくださっている素読舎のメソッドですが、英語のほうでも花開かせる努力をせねばと思っ ております^^;

 この間うちに見えたとき、ももこさんが自分に「質問力」がついたと言われたのを聞いたときは本当にうれしく思いました。

>英語を習得するには最初は緩やかでも上級者になるまでには急な峠を上らねばならないと伺っています。

 そのことを、(レッスンで準備を整えて)「いつかどかんとやれ」という言い方をしてきました。

>そしてその峠を越えたら同じ峠は越えられないんじゃないか(超えてしまったら道を戻れないんじゃないか)と感じています。

 同じ峠は越えられません。道を戻れるかどうかは、また別です。ご自分でコーチをやるようになってくれれば、「ああ、初心者ってのはこうなんだな」という 驚きを持つこととして、道を戻ることはできます。これは、同じ峠を逆戻りするということではないと思います。だけど、帰路はある。そう考えています。

>さびつくというのはまた別のような気がしますし・・・。

 まったく別のことです。

【17362】
ちょっと気づいたこと 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年 8月30日(月)11時55分5秒

 お子さんがレッスンをやめてしまうケースでは、お母さんがレッスンを受けていない場合が多いんじゃないかということをふと思いました。自分でやらない で、子供にだけやらせるという姿勢が、子供の側に与えるものがあるんじゃないかと。
 「二人一枠」ではありますが、レッスンの中におけるコーチと生徒の関係は、基本的に「一対一」です。この形式で、一人6千円は決して高い値段ではないの で、できることならお母さんもレッスンを受けてほしいものです。
 お母さんやお父さんがレッスンから受け取っているものは、子供が継続するために目に見えない力を及ぼすのではないでしょうか。

【17368】
内田樹(うちだ・たつる)のおすすめ本は 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 9月 2日(木)22時42分31秒

「ためらいの倫理学ー戦争・性・物語」(角川文庫) 税込みで  660円
「日本辺境論」(新潮新書) 税込みで 777円
他多数です。

【17377】
日本語素読 自立練習のお知らせ 投稿者:ももこ 投稿日:2010年 9月 4日(土)03時35分49秒

素読舎の自立練習の一環として息子と私で自立練習を始めます。場合によっては上の娘も練習に加わります。

教材はレッスンで使っている谷川俊太郎さんの「朝のかたち」を予定しています。

日時は不定です。始める前に連絡用掲示板に書きます。お相手してくださる方がいらっしゃればその方とお話してすすめる可能性もあります。

江戸の母さんちのお子さんいかがですか?(うふ^^)
聞くだけでもオッケーです。

小心者なので、最初のうちは素読舎の塾生さん&ご家族の方のみにさせてください。スカイプのチャットで呼んでくだされば会議通話にお入りいただけるように します。

以後連絡用の掲示板で随時お知らせします。よろしくお願いします。

【17378】
「重要なので、日本語で失礼いたします」 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年 9月 5日(日)23時07分38秒

インターネットショッピングモール「楽天市場」を運営する楽天は、2012年度末までに社内の公用語を英語にすると発表。移行期間の現段階は日本語と英語 が混在しているが、そんな中で、楽天社内では「重要なので、日本語で失礼いたします」という言葉が流行している、そんな嘘か本当かわからない噂が出ている とネットで笑い話になっている。
まだ社内では日本語と英語が混在
楽天の三木谷浩史社長は2010年6月30日、自ら英語で記者会見を行った。その中で、国際的な競争力を高めるためには社員全員 が英語を話せる必要がある、として2月から役員会や経営会議が英語になっていることを紹介。英語を公用語にする理由を、海外での販売額が将来的に全体の 70%にまで拡大するため、英語でのビジネスが重要になる、などと語った。
現在は社員全員が英語でやり取りをしていて、掲示板に貼られる告知も英語になっているが、まだ社員同士の会話は日本語と英語が混 在している状態だという。
そうしたなか「ツイッター」に10年8月23日「英語化の中、逆に重要なので日本語で失礼しますという言葉が流行ってきた」とい うつぶやきが出た。ネットではこれをつぶやいたのが楽天の社員だという噂が立ち個人が運営するニュースサイトやブログで大きく取り上げられ、ちょっとした 騒ぎになった。
「ツイッター」には
「確かにw 本当に理解してるのかそりゃ不安になる」
「『重要なので通訳を付けます』だと大爆笑しそう」
「どこからどこまでがネタなのかわからない」
「笑ったw 日本語通じない日本人に『重要なので日本語でお願いします』とか言ってやりたい」などという感想がつぶやかれた。
「根拠のないうわさ話」と楽天広報
英語の公用語化といえば、「ユニクロ」を運営するファーストリテイリングも進めているが、同社の場合は外国人が参加する会議やそれに使用する書類、外国人 社員との会話、外国人に宛てたメールなどについては英語になるが、「日本人社員同士の会話はこれまで通り日本語で行いますから、 他社とは異なります」と同社広報は話している。
今回「ツイッター」に出たつぶやきについて楽天広報は、楽天の社員がつぶやいたとされていることについて、誰がつぶやいたかわからない根拠のないうわさ話 だと切り捨てた。英語の公用語化については全社を挙げてのプロジェクトであり、社員も前向きに真剣に取り組んでいる。楽天は今年、新たに6ヵ国での事業展 開を発表し、新規採用する社員のうち3割が外国籍になる。現在は12年度末の完全実施に向けた移行期間であり、慣れない部分も出ているかもしれないが、企 業のグローバル化と外国籍社員が増えていく中で、英語の公用語化は避けて通れない段階にきている、と強調した。

【17379】
ももこさん 日本語素読 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年 9月 6日(月)02時09分17秒

日本語素読自立練習〜興味深いですね!
是非、時間があえば、見学させてください〜〜

ただ、今下の子よりも上の子のほうが心配で・・・
なにか選んでテキストを音読させる習慣をつけたいんですけど。

すべての点において、難しいです。
でも、今できることといったら、良質な日本語の文章に触れさせることしかない〜〜と思うんですよね。

【17382】
コー チ用アドバイス 11 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年 9月13日(月)23時51分38秒

コーチ用アドバイス

弱音の問題について。
例文 You're outta your mind. で、 outta の最後の a の音も大きく発音する場合、最初の o の音を大きく発音するように指示してもうまくいかない。
outta の最後の a はまさに弱音なので、日本人にとってはなかなか出せる音ではない。弱音については、どんどん繰り返していくしかない。

【17384】
大人のための素読の会 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年 9月14日(火)00時30分16秒

私は日本語の使い方がいいとは言えないので、日本語素読をやろうと思います。
まず、テキストを作るところから始めたいと思います。
自分が今まで読んだ本で気になったところを切り取って、掲示板に貼っていきます。
はじめはいいと思っていたものも、後で読み直したらおもしろくないかもしれません。
それはテキスト用として集めた文章がある程度集まってから考えて、取捨選択して
いこうと思います。
書きとること(書く、ではない)自体も、自分の日本語の力になるような気がします。
テキストがたまってきたら、スカイプで素読会をするつもりです。興味のある方は、どうぞ参加してください。



「ぼくらの最終戦争(ハルマゲドン)」 著者:橋本治 出版社:小学館  p62
========================================================
 日本国憲法は、第二〇条は「信教の自由」だけれども、その前の第一九条には、もっと多くの日本人に関係があって重要なことが書いてある。第一九条はとて もシンプルに、こうとだけ言っているのだ。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と。

「信仰したくない自由」「自分の頭でものを考えたい自由」を保障するものは、この憲法第一九条なのだけれども、日本人は、<一人でものを考えられない>。 (<>内傍点)自分の意見を”自分の意見”として、はっきりと持たない。だから、”集団になった人間”の意見だけが、大きな声で通る。「オレはそんなのや だね」が、当たり前に通用しなかったら、それだけで”異常事態”なんだということが、どうも、なおざりにされている。


「ぼくらの最終戦争(ハルマゲドン)」 著者:橋本治 出版社:小学館  p65
========================================================
”国家神道によるファシズム”というものが遠い昔の記憶になって、自分から進んで”宗教からの自由”というのを訴えなかった日本人は、宗教に弱い。だか ら、宗教というものが<こわいもの>(<>内傍点)で、「人間の自由な発想にブレーキをかけて制限するものだ」ということに関して、あまりにもナイーブ だ。”ナイーブ”というのは、”幼稚”ということだけれども。


「ぼくらの最終戦争(ハルマゲドン)」 著者:橋本治 出版社:小学館  p65
========================================================
 人間は、自分の頭でものを考える”個”なのだ。しかし、自分というものを集団の中にまぎれこませて生きているーーそれを当たり前だと思っている日本人達 は、その”個”であることを、「へんなこと」だと思っている。
”個であること”が”へんなこと”なのだから、「自分の頭でものを考えたい」と思った人間が、<うっかりと間違えて、>(<>内傍点)”考える”よりも” 考えずに信じる”でしかない宗教の方へ走ってしまっても、それをあんまり”へんなこと”だとは思わない。「個人の自由なんだろ」なんてことを言って、それ でおしまいだ。
 「信教の自由」は個人の自由だけれども、しかし、宗教というものが、「自分の頭で考えるよりも、他人の言うことを信じるもの」だということは変わらな い。なにしろ、宗教というものは。”神”とか”超常現象”とかいう、頭で考えられないことを前提にして、その前提を呑み込ませることからはじまるものなの だから。そこのところを、よく考えてほしいもんだよ。

【17385】
レッスン再開について&ご報告 投稿者:チョ コ 投稿日:2010年 9月14日(火)11時40分26秒

引越しがやっと終わり、少し落ち着きました。
引越し当日以外仕事の休みが取れなかったので、準備〜片付け(まだダンボールの山ですが)と
目の回るような日々でした。
根石さん&村田さんのところへは2時間くらいでしょうか?
子どもたちはお会いする事にテレ・・・があるようですが、ぜひお伺いしたいと思っています。

予定通り、長男の素読を10月から再開したいと思っています。
村田さんよろしくお願いします。

次男の日本語素読の件ですが、親がレッスンを受けていない影響との
根石さんのご指摘、私自身が感じていた所です。
しかし今回、諸事情があり子どもたちには私学を選択しました。
家二軒の維持と私学の学費とで、経済的にはかなり厳しい状況があります。
次男については、私がしばらく親子ふたりで自主練習してみようかと思っています。
様子を見ながら根石さんのレッスンを再開できればと思っていますが、いかがでしょうか?

【17387】
内田樹が語る「自尊感情」の説明です。 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年 9月14日(火)22時50分9秒

「・・・・自尊感情というのはどのように構造化されているのか、どうすれば、「十分な自尊感情をもっている」人たちをつくりだすか、という問いに知的資源 を割く方が合理的ではないでしょうか。
最終的に自尊感情を形成するのは「私にはあなたが必要だ」という他者からの懇請の言葉に尽くされると思います。
「自尊感情」というのは「オレはえらい」という自己認識のことではなく、「私は生きなければならない。私にはやらなければならない仕事があり、それは私以 外の人間によっては代替できぬからである」という他者とのかかわりからもたらされるものだからです。
I cannot live without you というメッセージほど人間の「生きなければならない」という気持ちをかきたてるものはありません。」

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/09/14_1114.php
からの引用です。

【17390】
内 田樹(うちだ・たつる)のおすすめ本 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年 9月21日(火)18時57分26秒

「街場の現代思想」 (文春文庫) 600円+税

とっつきにくそうな題名ですが、身の回りにある身近な「問題」の姿を明らかにして、
そのまま「現代思想」の問題だったことが、わかってしまうのです。

【17391】
大人のための素読の会用データ 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年 9月25日(土)00時43分25秒

15------------------------------------------------------
吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p44-45,20100924, 村田晴彦,自由

 それにしても折口信夫という国文学者はたいへんな人だと改めて思う。歌人の岡野弘彦は柳田国男と折口信夫を弥次喜多道中のように描いた末、柳田国男が修 理中の天皇陵にずかずか入って、とがめる門衛にお説教をし、折口信夫が代わりに謝罪してすました挿話を書いていてわたしは興味深く読んだ。
 しかし岡野弘彦がその本のなかで折口信夫の同性愛やナショナリストぶりを見つけているのはつまらないことだ。こういう固定観念から開放されて、おまえみ たいな門衛など以前は要らなかった、天皇陵など自由に出入りできるんだと説教する柳田国男と代わりに謝っているお供の折口信夫の愉しい光景を岡野弘彦の本 から受けとれるだけでいいのだ。
 つくづく思想を右と左に分けてすましている人士と、それを思想理念、理想として世界を色分けしたヨシフ・スターリンの一国社会主義理論の虚偽を払底して くれたらとおもう。
 だがスターリンやその支配下に出来上がった芸術理念であるアナトーリー・ルナチャルスキーの政治と文学(芸術)理論を否定しきれなかった根拠は、唯物論 と<さまざまなニュアンスをもった観念論>をあたかも敵対し得るかのように決めつけたウラジミール=イリイッチ・レーニンの『唯物論と経験批 判論』の政治哲学に根源があるのだ。

【17393】
馬 の骨さん 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年 9月25日(土)01時12分23秒

いつも内田樹の紹介ありがとうございます。
おすすめの「街場の現代思想」に加え、「ためらいの倫理学」「街場のアメリカ論」「街場のメディア論」「街場の中国論」をさきほど注文しました。
中国論は特に興味があります。
素読用に引用できる部分が相当あると思っています。

【17394】
村田さん 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年 9月25日(土)04時19分11秒

内田樹の文章は、毎年、大学受験の国語に出題されるているそうですね。
18歳だと、むずかしいと思います。

あと「日本辺境論」(新潮新書)は、著者自身がツイッターでいってますが、中国や韓国の読者を頭において書いたそうです。中国訳が出るそうです。視点が明 瞭で面白いですね。
おすすめです。

【17395】
大 人のための素読の会用データ 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年 9月26日(日)01時31分24秒

16------------------------------------------------------
吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p56-57,20100925, 村田晴彦,

 日本近代文芸批評の祖である小林秀雄の『無常といふこと』という古典芸術論のなかに梅若万三郎の演じる能「当麻」を鑑賞したときのことを記した文章があ る。そのなかで世阿弥の『花伝書』の「花」という能の概念にからめて「美しい花がある。花の美しさ(などといふもの)はない」という名文句がある。「美し い花」という絶対的な能演技はあるが、「花の美しさ」という比較説明的な能演技は世阿弥の能概念にはないのだという意味だ。
 わたしも文芸批評にたずさわってきたからわかるが、こんな簡潔で見事な表現はなかなかできないものだ。これは実際に花を観賞して美しいなと感ずる人はい るが、「美しい花」の存在感を一瞬にして心に容{い}れる人はそういないのと同じことになる。

【17396】
日本と中国の「外交について」内田樹の見解 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年 9月26日(日)15時25分44秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/09/26_1027.php

【17397】
内田樹のツイッターより 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年 9月27日(月)21時12分54秒

2010年09月 21日 16時23分
内田樹のツイッターより。

(「日本辺境論」が中国で出版されるにあたって)
「日中関係が緊張しているときですから、隣国のみなさんに日本人の国民性格や合意形成の仕方についてご理解をいただけるといいんですけどね。あれはアメリ カと中国と韓国のひとを読者に想定した書いた本なんですから(ほんとよ)。」
約5時間前webか

【17398】
大人のための素読の会用データ 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年 9月28日(火)01時04分59秒

17------------------------------------------------------
吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p58,20100927, 村田晴彦,

 思想さえあれば文芸作品(芸術)の軽重は判断できるという錯覚。芸術はただ永遠に仕えるだけだという閉じた考え方も欠陥があるとしなければならないとお もう。例えば『源氏物語』は優れた芸術作品だが、同時に同時代の風俗的な事件はすべてといっていいほど語られている。



18------------------------------------------------------
吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p61-62,20100927, 村田晴彦,

 現在の社会現象の特徴として眼につくことを挙げよと問われたら、わたしなら次のものをすぐ挙げる。それは精神的にいうと上は政府高官や社会的有力者から 下は小さな学童に至るまで正常な判断と異常な判断との境界や相違がつかずにあいまいになっていることだ。現実の例を挙げてみれば、民族(国家)と、(国 民)国家と、国家とはいえないおなじ考えをもった種族(部族)共同体が幾つか寄合っている地域(宗教)がさらに集まっているゆるい共同体連合との区別がつ かない。しかしそんな連合体は現在でも存在する。
 そうかとおもうと、同盟国とその部分、自治体と独立民族(国民国家)の区別がつかないため、同盟というのは相手国の利害に無条件に追従することだと勘違 いしている。また戦争と戦場との区別がつかないため国法を無視し、戦争相手国の領土内に平然と進入して、戦闘するためではなく平和的な援助のためだと強弁 する。これは政府高官の正常と異常の境界がわからない症候である。
 また小学校の高学年か中学校低学年くらいの学童が、友達を拘束して刃物で殺傷する。親しいつき合いと離反の区別がつかない。わが子がそうなっているのと おなじで、両親が夫婦関係にさまたげと感ずると、夫も妻も平気で幼児の首をしめたり、高所から突き落としたり、食べ物を与えずに死なせたりするようになっ ている。
 これは現在の社会状態で最も根本的な病気で、老幼の年齢区別もなく、社会的な総体病ともいうべきものだといえる。



19------------------------------------------------------
吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p63-64,20100927, 村田晴彦,

 そしてそれを社会総体症候とみれば、その社会的根本原因は、すでに第三次産業の利害が全産業の過半数の重さを占めるようになった現在、精神労働と肉体労 働の区別が産業の分野や労働の条件によって区別し難くなったこと、産業の分野でも精神労働と肉体労働の二重性を誰もがもち、ただ比重の違いがあるだけで、 古典的な区別はなくなってしまったことなどは明らかだ。したがって農家から次男三男が都会へ出て工業、製造業で働くというような産業の歴史的な進化は考え にくくなった。産業の進化の歴史が決定できなくなっていることは、根本的な問題のようにおもえる。
 もちろん社会的産業と社会的病気とはそれぞれに別のもので、個人が負うものであるのは当然だ。しかし社会的集合としては根本性と共通性だけを挙げれば十 分で、あとは個々の症例によることになる。



20------------------------------------------------------
吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p79-80,20100927, 村田晴彦,

 老齢化で一番辛いことは、身体の動きが鈍くなり、足腰が弱くて痛みがともなうといったことではない。自己の意力や意志、そう志向することと、それに従っ て実現しようとする行為や運動性との「背離」が著しく増大することだ。これは若い人にはわからない。老齢だから身体を動かすのが億劫なんだと誤解してい る。丁寧にいえばそうに違いないのではあるが、真の原因はこの意力と行動の背離性にあるのだ。これは専門と素人、熟練と浅い経験との違いではなく、老齢に 固有のものだ。
 わたしたちのような引きこもりを職業的専門にしてきたような老齢と、運動性を職業にしてきた老齢は、同じ老齢でもこの背離を助長する職業と、この背離を 縮めることを職業としてきた者としての決定的な相違がある。この見方からすると、老齢というのは年齢ではなく、この意力と身体の運動性の背離の大小だと いってよいとおもう。これを老齢の二重性として理解できるかどうかが、本当の科学性であるといえよう。

【17399】
日曜の塾のメモ 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年10月 2日(土)20時32分52秒

日曜日の塾では、ある程度まで進んでいる塾生(ABCDの400くらい)を対象に、塾長がまとめて説明する時があります。
これから、それを掲示板に記録していこうと思います。

============================================
9月26日

・Tsutomu told him about his life.
  → told him は himのhがとれて /touldim/ となる
  聞き取りのために弱形を知っていた方がいいのであえて弱形で練習させた。(弱形の音が出なくてもいい)

・弱形について
 弱形を出すのは難しい。口の筋肉が強い人が遊びで出すような音。鍛えられてから出る音。


・hear aobout
 通常、hear の最後の音は「逆さe」だが、hearの r の後が母音の場合、rが復活する時がある。この場合の発音は /hi「逆さe」r「逆さe」baut/。

・2つの単語での子音+母音の連続
 二つの単語が並んでいて、前のの単語の最後が子音、次の単語の最初が母音の場合、音をつなげる。
 (ただし、音をつなげていいのは意味の上でつながっている時のみ)
 例)talk about it
    talk about → /k/ +/逆さe/ → 「トーカバウト」
    about it → /t/ + /i/ → 「アバウティット」


・2つの単語での子音+子音の連続
 連続する単語の、前の単語の最後が子音で、次の単語の最初も子音の場合、前の単語の最後の子音は後ろの単語の最後の子音の半分くらいの音で発音する。
 例)eight feet
   eight の /t/ は、feetの /t/ の半分くらいの音で発音する。
 逆に、強調したい時は、はっきりと発音する。


・一度つながった音を大事にして練習する。

・一気に口に力を入れようとすると型が壊れる。少しずつ力を入れていくのがコツ。

【17400】
馬の骨さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月 3日(日)23時42分0秒

 内田樹「日本辺境論」読みました。面白かったです。ですが、内田は「統一権力以後」しか書かないなという感想を今日になって持ちました。大雑把に言っ て、邪馬台国以後みたいなことです。もっとも、それ以前のことは、何の文献もないわけなので、誰も想像的なことしか書けないわけですが、そこへ向けて想像 を発動させることがないなという感想です。
 今は、「ためらいの倫理学」にとりかかっています。

 極端なことを言うと、私はヤマト以後にはあんまり関心がないのです。

 しかし、まあ、現代的な問題に関しては非常に幅広く言及していて、フェミニズムならフェミニズムの、左翼なら左翼の「語法」そのものを問題にしていると ころは、非常に面白いし目を開かれる思いがします。

【17401】
語学論のおさらい 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月 3日(日)23時47分41秒

 ハリマオ5号用 に、語学論のおさらいをしようと思って書きかけているものがあります。
 5号は、田中エリスさん、松岡祥男さん、根石吉久の原稿で発行する予定です。
 田中さんと松岡さんの原稿はすでにいただいてあります。
 根石吉久がひとりぐずぐずしています。

 ハリマオ5号用の原稿は、根石吉久の分に限って、印刷する前にこの掲示板に掲載し、皆さんに読んでいただこうかと思っています。
 もう少し書いたら、掲載いたします。

【17402】
大人のための素読の会用データ 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年10月 4日(月)22時47分25秒

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吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p82-83,20101004, 村田晴彦,

 動物身体の運動性は人間を除いてすべて反射的なものだ。意志と行動のあいだに分割や間隙がない。人間は意思することと身体運動を起こすこととのあいだに 時間差があり、そのあいだにあらぬ空想を混じえたり、想像にふけったり、妄想や思い込みにとらわれたりする。これは身体運動を鈍く遅くするが、思考や想像 力を豊かに発達させ、言葉を生みだすことに寄与してきた。
 老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、大いなる誤解である。老齢者は意思し、身体の行動を 起こすことのあいだの「背離」が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は「超人間」なのだ。これを洞察できないと老齢者と若者との差異は ひどくなるばかりだ。老齢者は若者を人間というものを外側からしか見られない愚か者だとおもい、若者は老齢者をよぼよぼの老衰者だとおもってあなどる。両 方とも大いなる誤解である。一般社会の常識はそれですませているが、精神の「有事」になると取り返しのつかない相互不信になる。感性が鈍化するのではな く、あまりに意志力と身体の運動性との背離が大きくなるので、他人に告げるのも億劫になり、そのくせ想像力、空想力、妄想、思い入れなどは一層活発にな る。これが老齢の大きな特徴である。


22------------------------------------------------------
吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p86-87,20101004, 村田晴彦,

 考えを集中するとき、無意識に呼吸を詰めていることは、誰でも知っているし、体験している。「思索する」専門家はこれを老齢まで何十年もやっている。呼 吸を詰めると脳の働き以外の「運動性」にとってはことごとく障害になる。これを指摘して文章にしてみせたのは人の身体の生態を述べた三木成夫氏だった。歩 行をはじめとする身体内外の人間の運動性にとってすべて障害になる。なぜ障害になることを人間は好んでやるかのようにやるのだろうか。それは人間だからで あるというほかない。
 反対にスポーツは人間の身体の運動性を動物に近づけるほど上達するはずである。だが優れた運動選手はそこで止めないで、意識的にもっと上達しようとして 競い合って障害を克服してもっと修練する。実際には身体がぼろぼろになってもなお修練しなければ国際的に通用する選手までいかない。そんなにならずにいい から止めておけばいいとおもうのだがやってしまう。なぜだろうか。これまた人間だからというほかない。




【17404】
語学論の生い立ちについて(1) 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年10月 8日(金)18時27分37秒

語学論の生い立ちについて

              根石吉久


 何かが座礁している感じがずっとある。何かがでなく、何もかもがなのかもしれない。
 インターネット上に掲示板「大風呂敷」を設置して、十年ほど語学論と称していろいろ書いた。この間、生活エッセイのようなものはほとんど書かなかった。 詩はもうとうにやめたと思っていた。なるべくブンガクっぽいことはやらないようにしていたのだと言ってもいい。
 今も、詩はもうとうにやめたもののままだし、生活エッセイのようなものを書く気になってもネット上のブログのようなものになるだろう。書くことは、ネッ ト上にというのがほぼ基本になった。
 詩を読むことにも熱心さはなくなった。面白い詩にほとんど出会わないというのも理由ではあるだろう。熱心に探さないから、面白い詩に出会うことがないの だと言っても同じことだ。
 拡散してしまったのだという方がいいのかもしれない。座礁している感じというのは、なにもかも拡散してしまったことの感じかもしれない。それは、自業自 得というものなのかもしれない。
 家を自作し、畑を作り、薪ストーブ用の薪を集め、薪割りをするなど、体を動かして汗をかくことは継続してきた。そうすると、もうまるで異質なものが自分 の中にただ混在するようになった。異質なものが鋭く対立するというのではなく、ただ単に混在するようになったのだ。異質なものが異質なままに混在し、その 状態が放置されている。

 それでも、とぎれとぎれになお持続してみようと思うものの一つに語学論がある。なぜ語学論なのか。

 大学を出て、無職のまま田舎に帰り、市営住宅に入って、毎日ひなたぼっこをしていたら、友達が家庭教師の口を持ってきてくれた。やれると思ったのは英語 だけだったので、英語の家庭教師をやった。生徒がやたらにいい点をとるというので、回る家が増え、回りきれなくなり塾を開いた。ここまではほぼ「自然発生 的」だった。
 点をとらせるのは楽なことだ。しかし、生徒の中に作りかけた語学の力を生き延びさせるのはまったく困難なことだ。ほとんどが死ぬ。

 私を家庭教師として雇う人たちは、家庭教師が作るものを「語学力」というふうにはとらえなかった。「英語の点」というふうにしかとらえないのだ。
 学校は「語学力」なんか作っていない。だけど、「英語の点」ははじき出す。家庭教師としての仕事は、「英語の点」というものと「語学力」というものを両 立させることだと自分で決めたことがあった。そうでなければ面白くない。これは本来両立していていいはずのものだが、日本の学校(制度)の中では両立して いない。両立させるためには、構想力のようなものが必要である。
 点だけとらせるのは楽なことだが、「そのことを通じて」、その後に語学力として生き延びることのできるものを作ること。これはやってみると大変な仕事 だった。

 点さえとってくれば、ほとんどすべての親は満足なのだ。高校入試に受かったり大学入試に受かったりすれば満足なのだ。その意識は子供にもあり、大学に受 かってしまえば、英語の練習などやめてしまう場合が多かった。受験用の塾の英語なら、そう扱ってもらっていい。受験用の塾の英語は、学校が「英語力」とし ているものをなぞっているだけだから、滅びても大したことはない。もともとそれは芽を出さないと決まっている「英語力」だからだ。実はあらかじめ死んでい るものだから、中断してもしなくても同じだ。

 なぜあらかじめ死んでいるのか。日本人がやる英語を「英語の点」というものを軸に考えてしまえば、イメージと音の間に絶縁体があることを放置してしま う。それに関して、学校はまったくの無策だ。
 素読舎で作った語学力の元になるものを放置するな。それはとんでもなくもったいないのだ。イメージと音の間の絶縁体を、通電する質に変えてある。そのこ と一つを言うためにでも、語学論が必要だった。

 イメージと音というときの「音」は、単語の発音のことではない。あるいは個々の「音」(音素)のことではない。文まるごとの「音」のことである。だか ら、イントネーションも音と音のぶつかりあいの処理もすべて含んでいる。この分野がまったく手つかずのままだと言っていい。この部分が手つかずのままだか ら、日本人は「組み立てる」必要のないところで文を組み立ててしまう。「組み立てる」ことを否定する方法がなければならない。つまりは、文を丸飲みする方 法がなければならない。丸飲みしてから、それを壊し、組み立てるというのが順序であるべきだ。
 語学には絶対的な順序というものがある。丸飲みしてから壊し組み立てるという基本を外さなければ、少しくらい発音が悪かろうが、語学力は生き延びること ができるが、この基本を外してしまうと、何かを最初から全部やりなおさなければならないことになる。私の現在の生徒が、小中高の生徒ではなく、社会人が多 いのはそのことを意味している。「音」というものを文まるごとの音と考えれば、私の生徒に社会人が多いのも、イメージと音の間に絶縁体があるからなのだと いうことで説明がつく。

 あの人たちのあれが文学というものであるなら、俺がやっているのは文学なんかじゃないというようなことを松岡祥男さんが言ったことがある。あんなものが 文学なもんか。俺がやっているのが文学だと、松岡さんはそういう言葉で書いたのではないが、私はそう読んだ。それ以外の読み方はできない。譲れない一線と いうものはある。そういう関係は、私の場合は、学校の英語や受験用の塾の英語との間に避けようもなく生じた。それが避けようもなかったということが、語学 論が必要だと言い出したことの根なのである。

 掲示板「大風呂敷」に書いた量は少ないものではない。しかし、きれぎれであり、まるで整理はされていない。書いたものは「過去ログ」として保存されてい るので、読み返せば読み返すことができる。それを読み返して、書いた当時のことを思い出し、現在からコメントを付けるような作業をしてみようかと考えたこ ともあったが、いつも何かおっくうで新しく書いてしまえばいいと思ってしまう。
 それにしても、語学論というものは、決まりきったことを書くようなことなので、内心の消耗はけっこう激しいものがある。(そんなことはどうでもいいか ら、始めてしまえばいい。)

【17405】
(2) 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月 8日(金)18時29分12秒

(2)

 言葉を使うとき、イメージと音、あるいは、イメージと文字はくっついていると思っている人が多い。現象的には、確かにイメージと音(文字)はくっついて いるように見える。だけど、それはある一定量の体力(気力)がある場合に、人の意識に自然に起こるだけのことではないのか。それは体力(気力)が自然に くっつけているだけで、イメージそのもの、音そのもの、文字そのものからすれば、実はくっついてはいないのではないか。だが、普通、「イメージそのものか らすれば」などというふうには考えない。普通は意識に感じられるものを自然だとするのだから、それは人の日常的な「意識にとってのもの」であり、「そのも のにとってのもの」ではない。
 本を読むとき、ただ字だけ見ているだけでヨミススメてしまうことがある。だいぶヨミススメてから、何も読んでいなかったことに気づくことがある。これ は、字をたどっていただけで、その間、イメージは動かなかったということである。イメージが動いたとしても、ヨミススメているものとは「直接しないイメー ジ」が動いていたことである。字の上を視線がただ滑っていただけだという状態である。
 人の話を聞いているときにも、そういう状態になることがある。確かに相手が話し続けていることはわかっているのだが、確かに耳は音を聞いているのだが、 (つまり、意識が「声」を「音」にしてしまっているのだが、)相手が何のことをしゃべっていたのであるか、すっぽり抜け落ちていて、「ええと、すみませ ん、もう一度言ってもらえませんか」などと、まるでエーカイワのフレーズのような日本語を言うことがある。そこでは、言葉は単なる音になってしまってい て、私の中にイメージの動きを作ることがないのだ。イメージが欠落してしまうのだ。
 これは私に特に発現する病気のような現象なのだろうか。私には、イメージと音、イメージと文字が分離しやすい傾向がある。これが一種の病気だというなら 病気でもいい。しかし、この病状がはっきりさせてくれることが一つある。それは、イメージと音、あるいはイメージと文字はくっついているように見えるだけ で、体力がなかったり、あまり疲れていたりすると、あるいはあまりにもどうでもいい話であると、それらは簡単に分離するということだ。イメージと音が元々 は分離しているから、仮にくっついているだけだから、そういうことが起こるのではないかと疑うことができるということである。
 イメージと音、イメージと文字は一体化している「ように見える」だけで、もともとは一体ではないのだろうと考えたのである。くっついているように見える ものが、簡単に離れるのはもともとはくっついていないからだろう。体力や気力、あるいは話への興味という接着剤が弱い場合、イメージと音、イメージと文字 は離れてしまう。少なくとも私にはそれが起こる。
 例えば、本を読むとき、うまく読めているときというのは、一度(ならず何度も)どこかでくっついた(くっつけた)イメージと文字の一体が再生産されてい るときなのである。微細に見れば、意識が過去にくっつけたものを、現在の読書において「くっつけ直している」のである。そのようにして、さまざまな文脈 で、イメージと語の一体化は強化され、語のイメージは純化されていくのだろう。あるいはイメージが抽象レベルを高めていくのだろう。人の話がうまく自分の 中に入ってくるというのも、私の意識が音にイメージをくっつけ直して、音を声に変え、そのことで変位した(昇華されたあるいは降位した)イメージを取り出 すようなことなのである。そういう過程があまりにも自動的に、かつ瞬間的に生じるので、イメージと音(イメージと文字)があらかじめくっついている「よう に見える」のだ。

 生活言語においてすら、このことが起こる。生活言語において「すら」というときの、「すら」が大事なのだ。まして、語学においては、というのが、私の語 学論の基底にあるものである。

 生活言語において、イメージと音、イメージと文字がくっついている「ように見える」のが、なぜそんなにも「普通」であり「自然」なのか。
 生活言語には、強制力が働いているからである。その強制力は外から来ることもあれば、内から来ることもある。本を読んでいる場合は、生身の相手を相手に しているのではないからひとまず脇に置いて、人の話を音だけとして受け取り続け、声や話として受け取っていない状態を考えてみればわかりやすい。これは相 手に対して非常に失礼なことなのである。そういうことをしていることがわかれば、相手は非常に気を悪くする。だから、私は自分で自分に対して、音をイメー ジとくっつけて声に変換することを強制することがある。そこに働いているのは、「〜してはならない」「〜しなければならない」という強制力である。この場 を生きなければならないという強制力である。
 ほんとうにつまらない話だと思っていても、相手に気を悪くさせては「ならない」から、それは単なる音ではなく人の声だと自分に「強制する」。無理にでも 音をイメージに変換させて声にする。そこでは、意識的に意識を励起状態に仕立てる作業が「強制される」。

 最初に世界から切り離されていること。それは生活言語の領域で「病気」として発現する。しかし、語学という領域では、それは最初から当たり前のことであ る。生活言語では「病気」であるものが、語学では病気でもなんでもないのだということ。それは十代の終わりにいた私にはひとつの救済であったのかもしれな い。語学は「世界から切り離されている」ということ。

 語学論の一部で、「磁場の磁力」ということを言い続けたことがあるが、「磁場の磁力」とは、強制力と言い換えることもできるだろう。そこで強制されてい るのは、当事者というものである。生活言語では、つまり言語磁場の磁力の内では、誰も当事者性というものをまぬかれる者はいない。
 どんな馬鹿話でも、その馬鹿話の当事者はいるし、どんな嘘を言うのでも、その嘘を言う当事者がいる。
 確かに病者として認定されるまでは、あるいは確かに病者として隔離されるまでは、誰も当事者性はまぬかれない。その強制力が「磁場の磁力」だ。

 という、このような話は、私が英語フリークと呼んでいる人々には本当に通じないのである。「磁場の磁力だけがもたらすものが絶対的にある」と私が言っ て、ただそのひとつをめぐって、半年も一年もとんちんかんな「磁場」という語の使用が掲示板上に踊るようなことがあった。「磁場」というのは、物理学かな んかの用語を語学論に借用しているので、比喩として使っているのには違いないが、それにしてもそれはそんなに難しい比喩ではない。掲示板上で「馬の骨」と いう名前で書いている人は詩人で、どこの誰だかバラしても本人は怒らないと思うのでバラすが、足立和夫さんである。足立さんは、「なんでわからないのかね え。不思議だねえ。」とあきれて言ったことがある。「わからないんだよ。フリークってのはそういうもんだよ」と私は言ったことがある。掲示板「大風呂敷」 のサブタイトルは、「反英語フリーク」となっている。タイトルもサブタイトルも、英語でおまんまを食っていく場合にはあんまりいいものではない。

【17406】
(3) 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月 8日(金)18時30分26秒

(3)

 私において、イメージと語(音あるいは文字)が分離しやすいということについては、「そりゃ、お前だけのことだ。単なる病気だよ」と言われるなら、「そ うかもしれない」と言うとして、その時に私は、「では、語学ではどうなんだ?」と言いたくなるのである。
 語学では、イメージと語(音あるいは文字)は「あらかじめ」分離している。あらかじめ分離していることは誰の目にもはっきりしている。だけど「見れども 見えず」というか、だれもそのことを見ようとしないのである。「あらかじめ」分離していることこそが、語学という方法を組み立てるときの基底になるものな のだが。

 語学においては、イメージと音は分離している。分離しやすいのではなく、初めから分離している。いや、分離しているどころの話ではなく、イメージが「存 在しない」!

 「りんご、アップル」とか「アップル、りんご」と言い続けているまったくの初心者を想定してみればいい。これは、林檎は apple だと知った初心者が、「林檎」という日本語がもたらすイメージを apple という音に「くっつけ」ている場面である。
 いや、まだイメージとも言えないかもしれない。まったくの初心者は、apple という英「単語」を林檎という日本語「単語」とくっつけているのかもしれない。それは肯定されるべきことだが、放置しておいてはいけないことがらである が、その話は別にすることにする。
 初心者は、apple は林檎だと「知ったから」、くっつけようとしているわけで、それを知るまでは、apple という見慣れない綴り、あるいは apple という耳慣れない音があっただけである。当初、文字あるいは音だけがあり、(イメージどころか、)それに対応する日本語の単語すら存在しなかっのだ。この 条件が語学の条件である。どんな上級者にも、「知らない単語」というものはあるから、この条件は初心者から上級者まで誰にでもあてはまる。つまり、語学で は誰でも、くっついていないものを「くっつける」のだ。磁場の磁力(強制力)の接着力をあてにせず、自分で「くっつける」しかない。

 語学とは「くっつける」ことだ。だから、語学論は「くっつけ方」を言うことだ。ちまたでは、「くっつけ方」がでたらめなのだ。というか、「くっつけ方」 を云々することをなぜか誰もしないのだ。(素読舎では、これを「言いながら書きながら思う」と言っている。)

 語学の場面では、音とイメージが一体化していないということは、病気でもなんでもない。初心者にはあてはまるが上級者にはあてはまらないというようなも のでもない。語学をやる者はどんな人もこの条件を生きることを避けられないという普遍的なことがらである。

 ネイティヴ言語とか生活言語に働いているのは当事者性であり、その強制力だ。強制力は多くの場合、「場の状況」から来る。つきつめれば、ネイティヴ言語 や生活言語の「磁場の磁力」というものは、当事者であることを強制する強制力である。この強制力は、言葉の地平では、語とイメージが「あらかじめくっつい ていること」を強制する強制力である。誰もこの強制力をまぬかれない。それがネイティヴ言語や生活言語の普遍性である。

 それが、語学における言語と生活言語がまったく違うところなのだ。語学をやっていながら、ここが区別できていない人はやたらに多い。

 ネイティヴ言語や生活言語においては、当事者性が強力な接着剤として働くから、イメージと語(音あるいは文字)が一体のものとして見えるのだ。あるいは 実質的には、一体のものとして扱ってさしつかえないほどに接着させられているのだ。一体である(ように見える)ことが「普通」であり、「自然」であるの は、いつかどこかで、意識が場の状況を媒介にして(強制力に従って?)イメージと語を接着したからである。意識が、場の状況を媒介にして、語と一体化させ るべきイメージを誕生させたからである。このとき、それをやっているのは「意識」なのか、「場の状況」なのか。

 生活言語、あるいはネイティヴ言語におけるイメージの誕生。これは、場の状況が意識に「させた」ことだとも言える。状況が意識に「させた」のであれば、 意識は状況にイメージを誕生「させられた」のである。
 しかし、生き生きとした赤ん坊の「意識」というものを見ると、意識が活発に「している」ことがある。「場の状況」を繰り込んで、「している」ものがい る。鶏と卵の関係なのか。謎だ。

 語学の場面には、当事者であることを強制する強制力などというものはない。語学の場面にあるのは、自分が「当事者ではない」文ばかりである。すべては仮 のものである。音も練習用の音であり、当事者が発する声とは本質が違う。文字も練習用の文字であり、読書するものが読む言葉とは本質が違う。そもそも、イ メージが存在しないから、「アップル、林檎」でわかる通り、イメージは「林檎」という日本語の単語からの借り物である。音も仮のもの、文字も仮のもの、さ らに借り物のイメージも仮のものである。それらを「くっつけて」最終的に apple そのもののイメージが「まともな音」や「まともな綴り」とくっついて一体化するかどうか。そこに語学の成否がある。うまくできたかどうかは、生活言語の場 面で使ってみればわかる。あるいは読書してみればわかる。音や文字としてではなく、apple なら apple という「語(全体)」として使ってみればわかる。「声」にしてみれば、あるいは「言葉」にしてみればわかる。

 語学は生活言語の領域で検証されるのか。そうだ。しかし、語学という領域はその検証以前の領域のことだ。つまり、すべてが仮のものである領域のことだ。 ここでの当事者性は、生活言語における当事者性とはまったく違う。語学における当事者とは、「くっつける」ことの当事者に過ぎない。もし、くっつけるべき イメージが存在しないなら、それを「存在させる」当事者だ。存在しないものを存在させる当事者?
 それはつまり、「仮に思う」ことの当事者である。

 二歳、三歳くらいの幼児(の生活言語)に起こっていることはどんなことなのか。幼児は語学をやっているのではないし、文字を相手にすることはないから、 イメージと音の関係だけを考えればいい。
 場の状況(お母さんの笑顔も怒った顔もそれぞれの状況を作る)の中に響く音は音ではなく、「声」であり、「表情」であり、「気持ち」であり、「こころ」 だ。赤ん坊ほどに、「声」や「表情」に敏感な人間はいない。それらが赤ん坊にとっての全世界を構成するからだ。
 イメージと音の関係だけを考えればいいと言ったそばから、そんなことは不可能なことだとわかる。言語学者にとっては可能なことだが、赤ん坊にはとんでも ないことなのである。赤ん坊には言語の「音」などというものは存在しない。言語学者が「音」だととらえるもののことごとくが、赤ん坊には「声」なのであ る。

 「声」を「音」に変えられるほど、生活言語(ネイティヴ言語)において残酷なことはない。「声」は生きているが、「音」は死んでいる。「声」の生きられ る場所が生活言語(ネイティヴ言語)という場所である。
 「声」を「声」でなくしてしまいがちな私の状態は、つまり、「声」を「音」にしてしまいがちな私の状態は、私の幼児期と関係があるのだろうか。私は、 「声」を「音」にし、さらにイメージを喪失しがちな人間なのである。

【17407】
(4) 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月 8日(金)18時32分34秒

(4)

 語学では、最初にあるのが「音」であり「声」ではない。
 語学において、「音」と「イメージ」が分離している、あるいは、当初「イメージ」が存在しないというということは、そこに「死」があるということであ る。語学は「死」に関わることなのだ。「音」は死体であり、「文字」は死体である。当初、語学の対象としての言語は、総体として、あらかじめびっしりと死 んでいる。

 語学の対象は「言葉の死体」である。あるいは、人々の個々の命があってもなくても存在する言語である。個々の命の一つである私がその「死体」を処理す る。だから、語学とは「逆葬式」なのだと人に言ったことがあったが、気持ち悪がられただけだった。
 「逆葬式」。死体をいじり生き返らせること。それが語学だ。語学をやる者は、「逆葬式」を執り行う者なのである。神主でも僧侶でも牧師でもないが、当初 から「死」に関わる者なのである。言葉の「死体」を処理する者であり、イタコとかミコなんかと一番近いのではないか。神主や僧侶はやらないが、イタコとか ミコは「死んだ者の声」を「生き返らせる」。

 そこを見ないで、「生きた英語」だの「生き生きとした表現」だのと言っている者ばかりがうようよしている。
 「生きた英語」が欲しければ、「逆葬式」をくぐれ。その後で、「死んだ者の声」をたよりに、「磁場」でそれを手に入れればいい。「生きた英語」は文字通 りのもので、生きている。それは「逆葬式」なんか不要のままに生きている。そして、それは「磁場」にしかない。「磁場」に渡ったばかりの人にとって、最初 それは「死んだ者の声」のようなものではないか。「逆葬式」という手続きがなければ、それはわけがわからない。
 「逆葬式」を執り行え。なるべく日本にいるうちに。そう言ってきた。

 「死んだ者の声」を無数に生き返らせるのが語学である。
 日本で普通に得られる「生きた英語」は英語で読書する形以外にはない。つまり、書き言葉の形しかない。そして、英語フリークが欲しがっている「生きた英 語」というのは書き言葉の形のものではない。生きた人間の口から出てくるしゃべり言葉の形のものだ。その場合でも、「逆葬式」が、死体をまっとうに処理す ることが必要なのだと私は言い続けてきたのだった。なぜなら、「磁場」が違うから、と。英語の「磁場」は日本にはないから、と。

 日本語という酸性雨をかぶりながら「逆葬式」をやるべきなのである。それをやらないで、「磁場」でしか手に入らないものを指をくわえて見る者たち。「生 きた英語」だとかいう空念仏を唱える者たち。それをさして私は「英語フリーク」と言ってきたのだった。
 日本にいてやれることは語学だけだ。つまり、「逆葬式」だけだ。それが、「磁場の磁力だけがもたらすものが絶対的にある」「日本にないものを日本で求め てもしょうがない」ということなのだ。可能なのは語学だけだ。

 語学は「磁場」をあてにしない。人々は「磁場」をあてにする。あてにしたっていいのだ。いいも悪いもなく、飛行機を降りればそこは「磁場」だ。しかし、 そこから始まるのは「語学」ではない。その場を切り抜けることであり、要求を通すことであり、通せないことであり、要求に従ったり従わなかったりすること であり、生活であり、仕事であり、遊びだ。その他さまざまであるが、それら一切は「語学」ではない。「語学」は、それら一切以外のものだ。だから、「磁 場」にいて「語学」をする場合は、「自分の部屋」とか「図書館の一室」とかいうものが必要であり、「一人になること」が必要である。日本にいて日本人が文 学をやるときに、「部屋」とか「一室」とか「一人になること」が必要であるのと変わりはない。
 アメリカで英語を勉強する。大いに結構である。「自分の部屋」で、あるいは「図書館の一室」で、「一人になって」やればいい。わざわざ「磁場から切れ て」打ち込めばいい。あるいは「つっかえ棒」が必要ならば、スカイプで日本の根石につないで、レッスンを受ければいい。
 ところが日本の英語フリークたちがアコガレているのは、「自分の部屋」で、あるいは「図書館の一室」で、「一人になって」得るものではない。そうして得 るものは、日本にいても得ることができるが、フリークたちがアコガレるのはそうしたものではない。だから、フリークたちは、英会話学校というおかしなとこ ろに行くのだ。
 フリークがあこがれるのは、自分の部屋の外で、図書館の一室の外で、一人ではなく他の人と交流して得るものである。「一人」で獲得したものが、二人、あ るいは三人以上の人々の場で合金となるのだということにはまったく無自覚なまま、だから、「一人」になってやらなければならないことをやらないまま、金を ふんだくられ、ふんだくられても蛙のつらに小便のまま、いつまでたっても元の木阿弥のままである。英会話学校に通って英語が話せるようになった人に会った ことはない。無知が栄えたためしがないとはこのことである。欠けているのは「語学論」だ。

 日本に生まれた赤ん坊が日本語を獲得していくのでも、「他の人と交流して」獲得していくのでは「ない」。他の人と交流もするのだが、実はイメージとこそ 交流する。イメージと交流することが、人と交流することの通路を作っていく。
 「人」をしか見ないで、「イメージ」を見ない人たち。英語フリークの人たち。その生態の周辺を少し抜粋して、フリークの話はひとまず切り上げ、次号から 「くっつける」ことの話に戻ろうと思う。

【17408】
(5) 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月 8日(金)18時36分21秒

(5)

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素読舎ホームページから(一部削除、訂正)

英会話学校はハイエナだ

 学校では、そのままにしておいたら使えない英語になってしまう音にOKを出す。一人一人の子供に「通じる音の音づくり」をやっていたら、中間テストも期 末テストもできなくなるのは目に見えている。だから、通じるようにならない音にOKを出し続けるのだ。そもそも「音づくり」をやれる教員がほとんどいな い。

 学校がやっていることは語学には毒でしかない。語学という独自の領域を他から分離させて確定することさえできれば、この領域では生活言語から見てどれほ ど倒錯的なことも倒錯ではない。逆に、語学という意識の場を本当に確定してからでないと、実は語学は非常に危ないものなのだ。そんな危険に対しても、学校 は無知のままだ。
 学校は英語をまともに語学として扱うことができていないのだ。だから往生できない英語ばかりが、さまようのだ。

 語学という領域で必要なことは、「からっぽ」を大きく肯定すること。小学生や中学生の段階では、意味と音が「ずれる」ことを肯定すること。最後に、意味 と音を一致させようとしたときに、ごつごつした、不自由なしゃべり心地が生じることを全面的に肯定することだ。これらが、基本的な認識として多くの人に共 有されるまでは、日本の英語は往生できずにさまよい続けるしかないだろう。
 机の上では、なめらかに速く、実際に使うときは、ごつごつと不自由に。これがきわめて自然な日本育ちの英語なのだが、それを自然な性質だと言う人がほと んどいない。

 ごつごつした英語をおとしめ、ぺらぺら英語をあがめるのは、卑屈な植民地根性でしかない。

 語学の言語と生活の言語を地続きだと思っているのは、途方もない迷信である。語学の言語と生活の言語はまるで別のものであり、語学の言語に熟達すること で、生活の場面で英語をしゃべるようになる人は、途中で語学から生活の地平に向けて大きくジャンプするのだ。語学の言語と生活の言語は決して地続きではな く、その間には大きな断層がある。ジャンプするのでなければ越えられない断層がある。

 アジア諸国に英語でしゃべっている国がいっぱいあるのに、日本人は英語でしゃべれないと世界から馬鹿にされて、何をへこたれているのであろう。アジア諸 国で、英語が使われている現象は、ヨーロッパの貴族どもの都合(やくざどもの都合)によって、ハードな植民地化が行われた結果以外のものではない。それは まがいもなく悲惨な言語状況なのに、欧米寄りのものの見方しかできない日本人は、それをまるで「いいこと」であるかのように語る。無知が発する腐臭という ものもあるのだ。

 英語をやるのであれば、日本人がやるべきことは、日本語と英語を両方とも持つことだろう。その場合、日本人がしゃべる英語はごつごつした、無骨な、なめ らかでない、不自由な英語で「あるべき」なのだということが、馬鹿どもにはわからない。アメリカ人のようにぺらぺらとしゃべる英語が日本でも上等なのだと 信仰している。馬鹿は死ななきゃなおらないということは本当のことなのだ。

 英語が作る磁場がない場所で作られる英語は、直に土から生えている植物ではない。日本で作られる英語力というものは、どこまでいっても鉢植えの植物なの だ。土から切り離された植物。根を張る範囲を鉢に限られた植物。絶えず水をやり世話をしていなければ枯れてしまう植物、それが日本の英語なのだ。

 英語が作る磁場があるということは、親や友達が英語をしゃべっているから、語学などやらなくても、ネイティブな言語として英語が自然に身に付く場所であ るということだ。日本はそういう場所ではない。日本は日本語の磁場でできた場所だ。

 うろおぼえだが、脳の生理のことを鵜田さんという人のホームページで読んだことがある。夏の終わりごろから鳴く虫の鳴き声、つまり「虫の音」を、日本人 の場合は、言語を担当する脳が聞いているのだそうだ。これは、虫の鳴き声を、「音」として聞いているのではなく、「声」として聞いているということであ る。虫の鳴き声を、ある種の言語として聞くというのは、アジアの人々の自然への親和性を語っている。
 これに対して、西洋の文化的シンタックス、言語的シンタックスで育った人たちは、虫の声を、あくまで客体化された「音」として聞いており、言語脳では聞 いていないということだ。虫の声は単なる音や雑音として聞こえるらしい。だから、虫の声をうるさいものとして聞くということになる。

 言語のシンタックスは文化的シンタックスを規定し、文化的シンタックスは人間の生理にまで食い込むのだ。人々は言葉の構造の違いが、文化全体を規定する ほどの要因になり、人間の生理の働きまでも別のものにするものだとは思っていない。たかが言葉の違いだと思っている。

 まるで異質なシンタックスから成る英語と日本語が、相互に鉄に対する酸として働くのは当然だ。

 政治的な暴力(言語政策)によって、英語を強制されるような事態になるなら、日本人は英語をしゃべるようになるだろう。それは、日本語を引き裂いた後、 あるいは日本語を引き裂きつつ、それをやることになるだろう。あるいは、日本語を引き「裂かれ」つつ・・・。

 日本はヨーロッパのハードな植民地になることはまぬがれたが、アメリカのソフトな植民地だ。文化的な植民地という泥に沈んでいくことに無自覚な国だ。 能、歌舞伎、禅、生け花、そんなものが文化的植民地化を食い止める力になるだろうか。最期の防波堤は、言語のシンタックスだけではないのか。

 元はイギリス語であり、それがアメリカ方言としてのアメリカ語になった英語を、世界語としてさらにもう一度対象化することが日本の英語に課せられている のだと考えている人は少なくて、アメリカ人が英語を話すようにぺらぺらとしゃべることが上等だと考えている人が多い。日本のごつごつした英語を劣ったもの のように感じる植民地根性がある。この根性が見ないものこそ、「磁場」というものである。

【17409】
(6) 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月 8日(金)18時37分30秒

(6)

 英語を世界語とするとは、日本人が日本で作った英語によって、標準化された英語のアメリカ方言に変形を加えることを意味する。どの国も、どの人も、自分 のネイティヴな言語によって英語に変形を加えていいのだ。それが英語が世界語になるということなのだ。変形後の各種英語を摺り合わせ、標準英語を媒介にし て、世界語を作っていけばいい。
 卑屈な根性によって、ごつごつした英語の価値をかえりみないこと、そして「本物のアメリカ英語」のぺらぺらをあがめていることが、これまでの日本の英語 のもっとも駄目なところなのだ。

 私は机の上の練習では(語学という場所では)、徹底的にアメリカ語やイギリス語を媒介にし、真似しようとする。とことん媒介にしようと思って練習する し、なめらかさも作る。しかし、実際に使う場面では、その机の上のなめらかさでしゃべることを内心がはっきり拒絶するのを感じている。ぶっきらぼうで、不 器用でごつごつしたしゃべり方になる。異質な二つの文化的シンタックスの「間にある」言語が、私にとっての英語なので、それがごつごつしたものになるのは 当たり前だと思っている。それがなめらかな英語になるときは、私の英語がアメリカ語に食われた時だ。それはごめんこうむると思っている。標準を媒介にする のは、こちらが主体としてやることだ。食われてたまるかと思っている。

 日本人が全員習う教科である英語が、言語としていつまでたっても植民地語になれないでいることは面白い現象だ。アメリカにしてみれば、とても不本意な言 語現象であるはずだが、日本語は英語の骨を溶かしてしまい、世界ででかいつらができるはずの英語は、日本ではなかなか育つことがない。

 これはとても面白い現象なのだ。これは単に学校の無能力のせいだけではない。これは日本語の酸の強さの証なのだ。

 日本語は英語という鉄にとって強力な酸であり、英語は日本語という鉄にとって強力な酸だ。この関係には絶対的なものがある。アメリカに渡って日本語を使 わないで四、五年たって帰ってきた昔の塾生がいたが、半年ほどの間、日本語がしゃべれなかった。日本語の骨が英語によって溶かされていたのだ。英語に囲ま れれば、日本語で育った人の日本語の骨も溶かされる。逆に、日本語に囲まれた英語は、中途半端な練習では骨さえできてこない。

 日本語が鉄であるならば、英語は酸であり、英語が鉄であるならば、日本語が酸である。お互いにお互いのシンタックスを溶かす。

 日本語そのものが英語に対してagainstの位置を譲らないことにきちんと注目すべきなのに、その観点はいまだ弱いままだ。これは、ナショナリズムの ようなものとは何の関係もない。言語の構造を虚心に見れば、英語と日本語の間には、はっきりとagainstの関係を形成する根本的な違いがある。これは あくまで言語的な観点から成立する関係であり、しかもその関係は絶対的なのだ。

 日本の学校の英語が役立たずだということは、いまや世界的に有名であり、それだから、言語に対する認識を欠いていても、日本に行けば英語を教えるだけで いい金になるというふざけた言いぐさがアメリカやカナダあたりで囁かれる。私は、アメリカでそれが囁かれる現場にいたことがある。あんなもの(英会話学校 の教師)はだれだってできると囁かれていた。日本の英会話学校に通うお馬鹿さんたちのことを思い浮かべ、なんで私が屈辱を噛みしめなくてはならないかがわ からないままに、屈辱を噛みしめていたことがある。

 英会話学校で英語を教えている連中は、アメリカやカナダに帰れば、ただのあんちゃんやねえちゃんにすぎない。アメリカやカナダに育ったのだから、英語は 根っからの言語だが、彼らのほとんどが言語に対する認識などは持ち合わせていない。単に語学的な技法の点においても、日本人の口をどう動かせば英語の音が 作れるのか、あるいは英語という言語に備わっている構造を日本人はどうすれば身体化できるのか、そんな認識は何も持っていない連中がほとんどだ。日本では 英語をしゃべる人間だというだけで金がかせげる。そんな囁きによって、日本に来る英語ネイティブのあんちゃんやねえちゃんたち。彼らを正確に呼ぶならば、 ハイエナである。じかに税金を使ってAETというハイエナを呼んでいる馬鹿な役所もある。

 日本の学校の英語が「死体」であるから、ハイエナが群がるのだ。
 因果関係ははっきりしている。
 この事態の根本の責任は、英語に対する日本語の抵抗素を勘定に入れて語学の方法論を作れなかった文部省とその御用学者たちにある。英語と日本語が、相互 にagainstな関係をはらむ言語同士だという認識を踏まえない語学の方法は、植民地根性やむやみな英語に対する反発みたいなものしか生み出さない。

 日本の英語教育産業に動く金は世界一の規模だということだが、この根本には、文部省やその御用学者の語学に対する認識力の貧困がある。

 学校英語のあらかたが死ぬので、学校英語の犠牲者を食い物にして、今日もハイエナ(外人)が群がる。

 英会話学校に通えば、死んだ英語が生き返るというのなら文句はない。ところが実際は、英会話学校に通っても、ガイジンの個人指導を受けても、死んだ英語 は死んだままだ。ただ金をふんだくられて終わるのが、日本の英会話学校に通うオヒトヨシ達だ。

 日本では英語はやるべきことをやらなければ絶対に身に付かない。そして、その「やるべきこと」が学校で点がとれるとか、高校入試や大学入試に合格するこ ととはまるで別の場所にあることに多くの人が気づかない。その眼目が「音づくり」であり、語や語法の「イメージ化」であり、それを煮詰める「イデア化」で あることを、学校はまるで提示できていない。現時点では、生徒が自分で気がつく以外にない。(小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」を参照のこ と)

 腐肉に群がるハイエナがでかいつらをしている場所が、日本の英会話学校である。
 何度でも言うしかないだろう。
 「英語は風邪じゃないからウツラナイ」

 英語学校なら世界中にある。
 英会話学校なんていう馬鹿なものは日本にしかない。

【17410】
(7) 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月 8日(金)18時38分58秒

(7)

 文化的シンタックスを支える言語のシンタックスが、生理の動きの違いまでを決めていること。それをふまえるなら、日本の英語はごつごつした、不自由な、 苦しいものとしてとどまるのが正常なのだ。ごつごつした不自由な英語は、決して否定されてはならない。それが日本における英語の自然な性質だ。日本人が日 本に暮らしてアメリカ人のようにふるまうこと、ぺらぺら英語をあやつる猿芝居は馬鹿にやらせておけばいい。この認識はもっと一般的な常識になるべきだ。

 私は日本人は英語をやらなくていいと言っているのではない。
 それどころか、こんな甘っちょろいことをやっていてどうなるものかと思っている者だ。
 どんどんやって、ごつごつした、不自由な英語をおかまいなしにしゃべるのがいいと思っている。日本の英語に、雑であること、無骨であることの価値が回復 されなければならない。

 日本に育った英語というものは、その本来の性質からして、不自然で不自由なものなのだから、それを恥じることは要らない。それを恥じることは自分で自分 をおとしめること以外のものではない。それを恥じることが植民地根性への第一歩なのだ。

 むしろ、不自由で不自然だということこそが、日本の英語のアイデンティティなのだ。

 本場アメリカの英語の正しい語法はこうだと教えを垂れる類のおためごかし本ばかりが氾濫している。日本で使う英語なんだから、本場アメリカの英語をその まま使うのはおかしなことだという認識がない。言語は言語の磁場を作り、それはその社会や文化とシームレスに連続している。本場アメリカの英語は、本場ア メリカの英語として参照し媒介にすべきだが、それをそのままに日本でしゃべることはとてつもなくおかしなことなのだ。それなのにそれが上等なことであるか のような幻想が蔓延している。この幻想は毒にしかならない。

 本場アメリカの英語は、日本やその文化にシームレスに連続するようなものでは決してない。
 根本的に異質な文化の「間で」使われる英語が、ごつごつしていなかったり、無骨なものでなかったりしたら、それこそが、おかしな事態なのだ。

 ごつごつしていること、不自由であること、それでもなお自分を開くために英語をしゃべること。日本語でしか言えないことは日本語で言うが、英語でしか言 えないことは英語で言うこと。日本の英語に、この位置を確定しなければ何も始まりはしない。そうでない間は、馬鹿が利口そうな顔をしているという英語状況 は変わりはしない。

 例えば、アメリカで英語をしゃべる能力を獲得したというだけの日本人がなんで上等そうな利口そうな顔ができるのか。この人たちの英語が、「アメリカで」 獲得した言語能力であるという一点において、本当には日本だけに住んで英語を獲得することの労苦を知らない。その労苦を知らない者が利口そうな顔ができる 場所、それが日本の戦後という時空だ。
 この利口そうな顔の成立を支えているのが、実際は学校英語の死体が発する死臭なのだということに誰も気がつこうともしない。

 この国には英語をまともに語学として対象化する視線が欠けている。この視線が獲得されるまでは、植民地根性の英語フリークの跋扈はやまないだろう。

 この国では語学という独自のフィールドがまだ確定されていない。

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【17411】
馬 の骨さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月 9日(土)04時32分31秒

 内田樹が書くのは、統一権力以後ばっかりだという前言を撤回します。統一権力以後ばっかりを書いたのは「日本辺境論」であり、今日読んでいる「こんな日 本でよかったね」(文春文庫)には、人間の起源に触れる面白いことが書いてありました。

 「穢れ」は貨幣よりも階級よりも交換よりも古い。
 「穢れ」という概念をほかの動物は持たない。
 ならば、「穢れ」という概念をもつことによって人類は他の霊長類と分岐したのだと考える方が論理的だろう。
 (略)
 死体を埋葬する習慣をもつ生物は人間だけである。
 なぜ、死体を埋葬するのか?
 汚いから?
 そんなことはありえない。
 生物の死骸なんか、それこそ「枯葉」から「バクテリアの死体」まで、地上にごろごろしているのに、どうして人間の死体だけが「汚い」とされるのか?
 それはあえて逆説を弄するならば「人間の死体は生きている」からである。
 人間は葬礼という習慣をもつことによって他の霊長類と分かれた。
 なぜ葬礼を行うのか?
 理由はひとつしかない。
 それは葬礼をしないと死者が「死なない」からだ。
               (ひとはなぜ葬礼を行うか)

 まあ、すごいスピードですね。内田樹はものすごく速い。なんでこんなに速いのかわかりませんが、多分、考えていることの凝縮度の一方で、現実の処理がや たら忙しいのだろうかと推測しています。観念の舞踏としては、大変に美しい残像を残しています。

 だけど、葬礼には、死体が腐って臭くなるからという形而下的な理由もあるのだろうと思います。「枯葉」や「バクテリアの死体」なんか気にならないが、人 間の死体が腐って臭くなるのは困る。それがついこの間まで話しをしていた人の死体だったら、まったく困る。自分が生きるに生きられない。なんとか、なんら かの形でケリをつけなければならない。いったんはそうしなければならない。そうでなければ、ついこの間までのあの人はどうなってしまうのか、と困る。
 人間に限らず、犬でも馬でも、ある程度の大きさ以上の動物の死体は、葬礼をするかしないにかかわらず、腐るので困るのです。鼻がひん曲がるほど臭いので 困るのです。観念の舞踏の速い人はそこをすっとばすので困る。
 内田は「人間の死体は生きている」と言い、『死者が「死なない」』と言っています。死体は腐るが死者は腐るわけではない。言っていることは、死体につい てなのか、死者についてなのかはっきりしてほしい。いつのまにか語っていることのオブジェクトが違ってしまうのは困る。

 なぜ葬礼を行うのか?
 葬礼をしないと死者が「死なない」からだ。

 これだけでいいんじゃないのか。

 奥村さんは、私において、なかなか死にません。私は奥村さんの死体を見たわけではないし、葬礼に加わったわけではありません。(先日、ちょうど死後一年 目くらいの時、青梅にお線香をあげにはいきましたが・・・)
 奥村さんが死なないのは、奥村さんが「書いた人」だったからだと考えています。「猩々蠅」を読むと、生前の奥村さんが彷彿とされ、「死なない」。死体は もうないので腐ることはないが、奥村さんの言葉は、書き言葉として残存し、その物質性によって、奥村さんを彷彿とさせ、私において、『死者が「死なな い」』。この場合の要は、「言葉」なんだと思うのです。有史以前から、笑顔や声や表情はあり、それらも死者の「言葉」なんだと思うのです。

 昼間、語学における言語は「死体」だなどと書いて、夜、内田を読んでいたら、また「死体」について書いてあったので、一度落としたコンピュータの電源を 入れ、内田樹を紹介して下さった馬の骨さんにご挨拶申し上げた次第です。

 ハリマオ用の原稿としてひとまず書いたものの、明日読んで気に入らなければ、書き直す予定でいます。
 そろそろ、またハリマオ用に詩をいただけませんでしょうか。

【17412】
根石さん 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年10月 9日(土)23時11分20秒

内田樹の本をだいぶ読み進んでるようですね。
そのうち小田島隆は天才だ、という言葉にも出会うでしょう。

>人間の起源に触れる面白いことが書いてありました。
当然です(笑)。内田樹とって文化人類学(構造人類学)の影響は、とても大きいのです。
とくにレビ・ストロースについては、よく言及しています。熱帯で研究生活を送った人で、
「家族の祖型は遡れず、それは謎である」といっている、と内田は、よく語りますね。

>死体の腐臭から埋葬する
なるほど、そうかもしれませんが、そういうことをするのは、やはり人間だけだとおもいますが。。死者の言葉が残る、というのも重要ですね。
内田は、よく呪いということを語ります。「他者の言葉に縛られる」という意味でしょうか。そのことと関係があるのでしょうね。。

そっか、奥村さんが亡くなって一年たちましたか。
奥村さんの語った言葉も、よく思い出します。その声とともに。。

【17413】
生 徒さんへのお願い 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年10月10日(日) 16時34分57秒

 「スカイプでレッスン」は上の方に「自立練習のみ=無料」の過程があるレッスンです。ある程度先へ進んだ生徒さんは、「自立練習のみ=無料」の過程へ 入ってもらうことができます。(「何万行になったから無料過程へ入れる」のではなく、「自立練習」の進み具合や、練習の質などから判断して「自立練習のみ =無料」の過程へ入ってもらいます。)
 ただ、生徒さんがせっかく「自立練習のみ=無料」の過程の候補になっても、レッスンに空き枠がある時は「自立練習のみ=無料」の過程へは入れません。 レッスン枠が全部埋まっていて、新しい生徒さんが入ってきた時に、候補の生徒さんは「下の方から」押し上げられる形で「自立練習のみ=無料」の過程へ入っ てもらうことができます。ですから、生徒さんが少ないと、なかなか「自立練習のみ=無料」の過程へ入ってもらうことができません。
 そこで生徒のみなさんにお願いします。継続して周りに声をかけてください。自分が声をかけた人が新しい生徒になることで、先へ進んでいる誰かが「自立練 習のみ=無料」の過程へ入れます。また、自分が「自立練習のみ=無料」の過程の候補になった時、他の人が紹介してくれた人が新しい生徒としてレッスンに入 ることで、「自立練習のみ=無料」の過程へ入る場合もあります。自分が「自立練習のみ=無料」の過程へ入る時のためにも、継続的に周りの人に声をかけてく ださい。よろしくお願いします。

【17414】
(無 題) 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月10日(日) 23時33分16秒

修正

 「スカイプでレッスン」は最終的には、「自立練習のみ=無料過程」に入っていただくためのレッスンです。先へ進んだ生徒さんは、コーチが注意することが なくなってくると「自立練習のみ=無料過程」への候補になります。(「何万行進んだから無料過程へ入れる」という基準はおおまかなものです。現在は、6万 行、7万行台を目安にしていますが、「自立練習」の進み具合や、レッスンにおける練習の質などから判断して「自立練習のみ=無料過程」へ進んでいただきま す。)

 生徒さんがせっかく「自立練習のみ=無料過程」の候補になっても、レッスンに空き枠がある期間は、「自立練習のみ=無料過程」に進んでいただくことがで きません。レッスン枠が全部埋まっていて、新しい生徒さんで新しい「二人一枠」ができたときに、無料過程へ進む候補の生徒さんは(「下の方から」押し上げ られる形で)「自立練習のみ=無料過程」へ入っていただくことになります。

 枠の数が少ないと、「三人一枠」など変則的な構成の枠ができた場合に、調整が非常に難しくなるなどの問題もありますので、現在のコーチ(村田)の手元に 枠を増やす必要を感じています。根石は現在の枠の数を増やす予定はありません。いろんなレベルの練習が揃っていると、「三人一枠」の変則を修正することが やりやすくなります。

 生徒さんに、継続して周りに声をかけてくださることをお願いします。自分が声をかけた人が新しい生徒になることで、先端部分を練習している生徒が「自立 練習のみ=無料過程」へ入ることができるようになります。また、自分が「自立練習のみ=無料過程」の候補になった時、他の人が紹介してくれた人が新しい練 習枠を作ってくれることで、自分が「自立練習のみ=無料過程」へ進むようにしてくれる可能性は大いにありうることです。自分が「自立練習のみ=無料過程」 へ入る時のためにも、継続的に周りの人に声をかけてくださるようお願いします。

【17415】
「自立練習のみ=無料過程」に関する規約 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月11日(月) 00時06分56秒

1.(根石、村田の)枠の総数が一つ以上増えているときに、もっとも練習力のある生徒から「自立練習のみ=無料過程」へ進む。

2.「自立練習のみ=無料過程」へ進む候補者が複数いる場合、それまでに生徒を紹介してある生徒が優先される。

3.「自立練習のみ=無料過程」へ進む候補者が複数いて、どの人も新しい生徒を紹介してある場合、新しい生徒の紹介数が多い者から、「自立練習のみ=無料 過程」へ進む。

4.新しくレッスンを受講する生徒が、「スカイプでレッスン」の生徒、あるいは素読舎の通塾の生徒が書いたどの記事を読んでレッスンを始める決意をしたか をコーチは確認する。記事が特定できる場合は、その記事を書いた生徒を紹介者とする。

5.根石、あるいは、村田が書いた記事を読んでレッスンを始める決意をした場合については、生徒各位は紹介者とならない。

【17416】
男女雇用機会均等法に関する内田樹の見解 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月11日(月) 00時53分32秒

 妙に世知に長けた野郎がなれなれしく肩に手を回して「な、ウチダ、そういうもんなんだよ。世の中、所詮、色と金だよ」というようなことを言われたときの ような、「べたっ」とした気持ちの悪さを感じるのである。
 (略)
 均等法に私はそれと似たものを感じたのである。
 「要するにみなさん、ぶっちゃけた話が、いい服着て、いい家住んで、美味い物喰って、いい車乗りたいんでしょ。ねえ、本音で行きましょうよ、ウチダさ〜 ん」というようなことを耳元で言われたようなべたっとした不快感を覚えるのである。
 たしかにそのような言明は大多数の人間にとっては自明の真理であろう。けれども、「いや、世の中そういうことばかりじゃないでしょう」という人々が少数 なりとはいえこの世にはいるし、いないと困る。そして、人類史上、世の中をこれまでより少しでも住み易くする方向に貢献した人々のほとんどはこの「そう じゃないでしょう派」に属する。

                    (女子大の「実学志向」は自滅への道)
                    「こんな日本でよかったね」(文春文庫)P.191

【17420】
今週のできごと 投稿者:Piggy 投稿日:2010年10月16日(土)08時04分36秒

今週、イギリス人と半日一緒にいる、という私にとっては驚くべき体験をしましたので、書きたくなりました。学校でネイティブ・スピーカーと日常的に接して いる今の若い学生さんや、英語上級者は、何のこと?と思うかもしれませんが、私にとっては初めての体験だったのです。さらに先ほど、生まれてはじめて、あ る共通の趣味を持つ人たちがつどうフォーラムにおいて、英語でチャット(ネットにどんどん書き込むことで、その場で文字でおしゃべりすること)をしまし た。

根石さんのレッスンをうけるようになって、1年半とちょっとです。最近急に、自分の中で英語が動き始めるのを感じていました。英語でメールを書いたり、掲 示板やブログのコメント欄に書き込んだり。でも話したり、チャットをするところまで行くとは思いませんでした。

今までのことを簡単にお話すると、中学高校では英語は得意科目で、辞書をひいてパズルをとくようにして英語の意味がわかっていくのが好きでした。でもネイ ティブ・スピーカーに授業を受けることは皆無でしたし、LL教室もありませんでした。大学にはいってサークルで、あるアメリカ人をまねいておしゃべりする 機会がありましたが、私は何一つわからず、何一つ話せませんでした。数人、ちゃんと彼女と話ができる学生がいて、どうしてそんなことができるのか私にはわ かりませんでした。卒業後の専門は理系分野です。専門の文書なら、だれでも卒業後数年経てば、辞書なしで情報を得ることができるようになります。専門用語 さえわかっていれば、情報を得るのに不自由はないのです。でもあいかわらず私は話せませんでした。専門のことさえ話せないのです。専門用語を羅列するだけ では、話す時には何も伝わりませんから。専門分野で書く機会もときどきありますが、これは何とかなるのです。でもパズルであることにはかわりはなく、単語 をあっちこっちからとってきて、くみあわせていました。

話す機会からは逃げ回っていました。逃げるのに疲れて英会話教室でプライベートレッスンを6年くらい前に半年くらい受けましたが、何かが身に付いたという 実感はまったくなく、敗北感だけでした。

そういう私が、挨拶と自己紹介以外は実際の場面では英語で話したことがなかった私が、今週イギリス人と半日すごして、文章を頭の中でくみたてずに、しゃべ りたいことをまず英語で話しだしていたのです。先ほどはとにかく思いつくままに文章を頭から書いては、ネット上でおしゃべりをしていたのです。

もちろん、今週イギリス人と話していたときは、とつとつとしゃべり、山ほどの間違いをしました。でも、時々文章まるごとがするっと口から出て来たり、ある いは文章はとぎれても、文章中の固まりは固まりとして出て来たりするのです。適切にとっさに返答できたりするのです。チャットになると、さらに文章は短く 単純になりますが、単語をあっちへやりこっちへやりしていては会話に追いつかないし、実際に目の前にいれば文章が終わるのを待ってくれるけれども、チャッ トではこちらがキーボードを打っているのは相手にはみえませんから、時間勝負です(私への質問の時は、私の答えを待ってくれますが)。それがちゃんと文章 として頭から打てるのです。

何がこういう変化をもたらしたのか。一つは英語の「型」が発音ごとからだにしみこんだこと。もう一つは、英語のイメージが自分に身近になったこと。英語の 文章が持つイメージ、ということでしょうか。これは「型」と同じことかもしれません。「型」が持つイメージ。根石さんがおっしゃる「語法」とはこのことで しょうか。そして、ここ数ヶ月の「つなげて」「もう一段とつなげて」が、ものすごく効いているように思うのです。もちろんそれまでのことがあったからこそ の効果でしょうが。「つなげて」がはじまってから、自分の中で英語の「型」が、自分のものとして動き出した、という実感があるのです。以前何度もきいてい た映画の音声の意味がすっと入って来て、驚いたりしました。きくことに関しては、解像度があがった、という感じです。

最後にひとつだけ、困ったことを書くと(半分冗談です)、Yesでなく、Yeahと言ってしまうことです。ゴーストではYeahというあいづちのほうが、 Yesよりもずっと多く出てきますから。今回はそうではありませんでしたが、フォーマルな場所では気をつけます。

【17422】
Piggy さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年10月19日(火) 23時38分12秒

>えーと、これは読みながらくすくすと笑ってしまったのですが、こんなことは申し上げた覚えはありません。話す機会からは逃げ回っている、という表現は最 初にレッスンをお願いするときの投稿で書きましたが、私はええ格好しいですから具体的なことは書きませんし、レッスンをはじめて少しして、こういうことを お話したこともありません。

 私が「逃げ回っていた」という言葉から、実際に行為として逃げ回ることを想像したのだということがわかりました。逃げ回るというのは、心の中でのこと だったということと了解しました。
 それから、お話を聞いたのではなく、書いてくださっていたのだということを教えていただきありがとうございます。探して、村田君に一連の記事としてホー ムページで読めるようにしてもらうつもりです。

>最近英語が自分の中で動き出したのを感じていたので、実際の場面で「話すこと」をためしてみたくなった、ということです。

 英語が「動き出した」のを感じれば、しゃべることを試したくなる。そういう自然のなりゆきだったと読ませていただきました。多くの場合、私のレッスンで 一年半少しでは「動き出した」ということは起こりませんので、やはり下地の厚みが効いていると思います。
 異言語で話すというのはどんな感じのことなのかを知りたいというのが、レッスンを受けて下さった動機だとは、以前からわかっておりましたが、実際に英語 でしゃべってみて、どんな感じだったでしょうか。なんだ、どうってことないじゃないかという感じでしょうか。

>実は自分でも、なぜ「つなげて」「もう一段とつなげて」がこんなに効いたのか、よくわかっていないのです。

 「もう一段とつなげて」という指示に従っていただけば、つながった一連の音が、それで一つの意味を形成するようになります。意識の中に数語から10語程 度までのつながった音を一つととらえるような位置が形成されるのではないかと思います。10語程度が形成する意味を一つととらえるくらいになれば、いわゆ る日常会話は問題なくできるようになるはずだと考えています。7語くらいを一つとしてとらえるくらいで、話し始めることはできると思います。話し始めるこ とができるようになり、「7語で一つ」から「8語で一つ」レベルに行くのに、私の作った教材で1万行から2万行くらいやる必要があるだろうという勘を持っ ています。その間、ずっと「一段とつなげる」という意思を持ち続けて、ということです。

>ホームページおよびパンフレットに、どうぞお使い下さい。大学と職位については、申し訳ないのですが伏せさせてください。というのは私の場合はかなり特 殊な経歴と立場なのです。大学の研究者の中で最も英語が必要で、英語圏への留学が必須とさえ言えるのは、文系の研究者ではなく理系の研究者です。理系の領 域では日本語の原著論文はほとんど価値を認められない、と言ってもよいほどです。私は日本語の原著論文を書くことも読むこともまったくありません(総説は あります)。そのなかで私は事情により留学経験がなく、あまりに特殊であり、特殊な自分をさらしたいとは思いませんし、理系の研究者への誤解を招きたくも ありません(ここでさらしているのも、居心地悪いのです)。ですから理系を専門とする社会人、とのみお書き下さい。

 承知しました。
 私はいまだにPiggyさんが何という大学の先生なのか知らないままですので、このまま知らないままに致します。
 食えるか食えないかの線上を歩き続けた素読舎のレッスンを長年見てきたにもかかわらず、自分でもやろうとしている村田君のために、「・・大学教授(助教 授)」みたいな文字を使わせてもらえれば有り難いと思ったのでした。
 素読舎は、自前の語学論を持つことで他の英語教育機関とは違うし、自前の語学論で得たものを実際のレッスンに活用する点ではどこにもひけはとるまいと思 う一方、経営的にはほとんど泡沫に等しく、絶えず食えるか食えないかの問題がリアルなものになります。そのために心に浮かんだものでした。申し訳ありませ ん。

 理系の論文についてですが、日本語で最初に書き、それを雑に翻訳するというのがいいのではないかと思います。日本語の論文が非常にすぐれたものである場 合、それを雑に翻訳したもの(英語)を読んだ人たちは、日本語を読みたくなるのではないかと、門外漢の気楽さで考えています。それが通用するようになれ ば、Piggyさんは「あまりに特殊」ではなくなるはずです。
 いつの日のことになるやらわかりませんが、そういう日が来るといいと思っています。政治力学上では、今は圧倒的に英語でしょうが、メジャーな英語もアフ リカで数十人しか話していない言語も、本来は、等位にあると思っています。
 人間の命も、ミミズの命も等位にあるというような意味で。言語だって、本来はそうだ、と。

【17423】
根 石さん 投稿者:Piggy 投稿日:2010年10月20日(水)00時39分43秒

>私が「逃げ回っていた」という言葉から、実際に行為として逃げ回ることを想像したのだということがわかりました。逃げ回るというのは、心の中でのこと だったということと了解しました。

いえ、心の中だけだった、ということでもありません。構内を歩く時に逃げないだけで、たとえば外国からの客人とはできるだけ関わらないようにするとか、挨 拶が終わったらさっさと立ち去るとか、そういう実際の行為はありました。それで、「構内を歩く時のことは実際の私とは違いますが、『話す機会から逃げ回っ ていた』ということの中身は、細かいことはともかく、そうかけ離れたものでもないのかもしれません」と書いたのです。

>異言語で話すというのはどんな感じのことなのかを知りたいというのが、レッスンを受けて下さった動機だとは、以前からわかっておりましたが、実際に英語 でしゃべってみて、どんな感じだったでしょうか。なんだ、どうってことないじゃないかという感じでしょうか。

とても不思議だった、というのが今の感じです。文章を頭の中でくみたてて、確認してから口にするのではなく、イメージが先にあって口を開くと(つっかえな がらでも)文章が出てくる、というのがとても不思議でした。日本語ならあたり前のことですが。そしてたとえばGood morning. という二語からなる挨拶であれば、苦もなくやっていることですが。だから、今までは挨拶二語が単位だったけど、二語から拡張できるのだな、不思議だな、と いう感じです。

【17424】
「反日」の意味について 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年10月20日(水) 10時55分56秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/10/18_1550.php

【17426】
馬の骨さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月20日(水) 23時56分26秒

やはり、内田樹、面白い。
「政治と文学(問題)」は、内田によって止揚されたと思います。
これは状況への大きな貢献だと思います。

【17427】
根 石さん 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年10月21日(木) 14時40分4秒

止揚ということが、政治と文学について同じ通路で語ることができる、ということなら、そのとうりだと思いますね。

では何故できたのか。内田樹が影響を受けたレヴィ=ストロースの「構造人類学」
に拠るところが大きいのではないでしょうか。

「親族の存在理由は何か?
 親族の再生産である」・・・何はともあれ親族が再生産されないと
「社会」そのものが 遠からず消失してしまう」
内田樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」文藝春秋(1400円+税)から引用。

内田は、生き延びられるかどうかという判断基準を、よく使うのは、上記の事を言ってるのでしょうね。
そして、政治と文学を通底するものが、上の言葉ではないでしょうか。

【17428】
馬の骨さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月21日(木) 22時19分31秒

>止揚ということが、政治と文学について同じ通路で語ることができる、ということなら、そのとうりだと思いますね。

 高橋源一郎が、こういう人の出現を「ずっとずっと待っていた」とどこかに書いていました。高橋の言ってることが、わかるような気がしました。

>では何故できたのか。内田樹が影響を受けたレヴィ=ストロースの「構造人類学」に拠るところが大きいのではないでしょうか。

 「構造人類学」については何も知りません。レヴィ=ストロースはもうずいぶん前から翻訳書が出ていますが、「読める」ようなものでしょうか。翻訳書の多 くが「読めない」しろものだと、以前、馬の骨さんが言っていました。「読める」ものがありましたら、教えて下さい。

>「親族の存在理由は何か?
 親族の再生産である」・・・何はともあれ親族が再生産されないと
「社会」そのものが 遠からず消失してしまう」
内田樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」文藝春秋(1400円+税)から引用。

 先日は、「家族」という語で、「その起源はわからない」というような話でしたが、今回は、「親族」ということで、頭が混乱しています。
 「家族」の起源なんか簡単じゃねえか。子供を産んだら、その親が育てることにしたっていうのが起源じゃねえかと思っていました。レヴィ=ストロースが考 えたことってのは、そんな簡単なことじゃないんでしょうか。
 今回は、親族が再生産されないと「社会」そのものが遠からず消失してしまうという時の「社会」というのがよくわかりません。私は、「社会」は必要な物の 「交換」があれば消失しないと思いますが。

【17429】
「ガセネッタ&シモネッタ」からの引用 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月22日(金) 00時33分7秒

 米原万里「ガセ ネッタ&シモネッタ」(文春文庫)を読んでいたら、語学をやる人に参考になるなと思ったところがありました。以下に引用します。
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米原 アナトール・フランスが辞書のことを「アルファベット順に置かれた宇宙」と言ってます。ところが、電子辞書ができたらアルファベット順じゃなくて、 人間の脳味噌に近くなったんですね。
柳瀬 (略)たしかに電子辞書は、これは革命ですよ。
(略)
米原 露和・和露辞典の電子化はまだ夢の夢です。英露・露英は電子化が進んでいますが。露和・和露については、電子辞書どころか、専門分野ごとの辞書が一 切ありません。わたしたちが雇われるのは、金融とかコンピュータとか放射線医学とか、そういうところで雇われますでしょ。ところが、それについて辞書がな いんですね。もう一つ、言葉の意味っていうのは、実際には辞書にカバーされきれないほど、いろんな使い方をするんですよ。私たち通訳の場合、まだ文字にさ れていない言葉の意味に出会う場面がすごく多いんです。(略)
 だから、みんな自分で辞書というか、用語集を作るしかないんです。(略)それで、時々そうした用語集を持ち寄って、学習会で発表するわけです。(略)そ れで手持ちの用語集、「軍事用語集」とか「医学用語集」、辞書ではまだカバーされていない言葉の意味とか、新しい言葉をどんどん集めていったんです。
(略)
 それで、その分野の仕事で出かけるとき、豆単語集をパッと頭に入れておくだけでぜんぜん違うんですね。人間の脳味噌って、わからないものが多すぎると全 部入ってこない。情報としてわからないものが二割くらいだと印象に残って入ってくるんだけど、もう五割以上わからないと、ほとんどそれ全部灰色で、何もわ からない。なかったことと同じになっちゃいます。
       (柳瀬尚紀との対談「翻訳と通訳と辞書」から)

<根石・註>
 とりわけ、最期の段落で言ってることが役立つだろうと思います。わからなくても、我慢して多読を続けていれば力がつくと言う人がいますが、米原が最期の 段落で言っていることは、それを覆しています。
 通訳する人は、「わかる」ものを通訳するわけですが、読書でも「わかる」ものを読んでいるわけです。情報としてわからないもの二割くらいまでならいい、 五割以上わからないと何もわからないというあたりが、同時通訳をやる人だけでなく、語学の途中で読書をやろうとする人に役に立つはずです。
 「何もわからない」状態で、いくら多読を続けても無駄なのだと読み替えることができます。

【17430】
根石さん 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年10月22日(金) 22時33分44秒

混乱させてしまい申し訳ない。
明らかに「家族」ではなく「親族」です。間違いです。

わたしは内田樹の語る「構造主義」に傾いているのであって、フランスの構造主義を
学んだわけではありません。
内田樹「寝ながら学べる構造主義」文春新書(690円+税)を読んでみただけの人なんです。
読後感は「寝ながらは学べません」ということが解りました。
また、この本は内田樹の勘所だなと思いました。

もうひとつお薦めします。
内田樹「態度が悪くてすみません」角川ONEテーマ21(724円+税)
短文をまとめたもので、読みやすいかと思いますが、内容は濃く深いですね。

【17431】
「自立練習のみ=無料過程」を育てて下さい。 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年10月23日(土) 01時17分41秒

 現在、「自立練習のみ=無料過程」の生徒は一人だけいます。小学生の頃から素読舎に通塾、高校に入って「電話でレッスン」(現在は「スカイプでレッス ン」)を継続、さらに大学に入って2年ほどレッスンを継続した時点で、「自立練習のみ=無料過程」に移行しました。吉さんが一緒にこの過程で練習していま す。
 また、「自立練習のみ=無料過程」の候補は現在二人いますが、これまでレッスンのみで「自立練習」をやってきていませんので、「自立練習」を開始して下 さるようお願いしています。
 候補の二人は、「二人一枠」でレッスンを継続してきて下さっていますが、一人の方は忙しいので「自立練習」を形成することができないとのこと。もう一人 の方は、TOEIC受験にしばらく専念したいとのことで、やはり「自立練習」を形成できないとのことで、現在の二人の候補に「自立練習のみ=無料過程」に 移っていただくのは少し先のことになりそうです。

 現在、多くの生徒さんが「ゴースト」の「音読」をやっています。この「音読」の質によって「自立練習のみ=無料過程」への候補になるならないが決まりま す。
 多くの生徒さんが、新しいページ1ページ分、復習4頁分を2箇所という組み合わせで「音読」を進めていますが、「ゴースト」が一冊終わると、新しいペー ジがなくなりますので、復習4ページ分3箇所で音読のチェックをします。このチェックが普段10分以内で終わるようになったら、二冊目のテキスト「七年目 の浮気」の音読を開始します。構成は、新しいページ1ページ分、復習4ページ分3箇所です。これを12分以内に終わらせれば合格です。「七年目の浮気」が 片づき、新しいページがなくなったら、「ゴースト」と「七年目の浮気」の二冊を、復習4ページ分4箇所でしばらくチェックします。15分以内で、合格です が、12分以内でできる回数が増えてきたら、「自立練習のみ=無料過程」の候補になります。

 候補者のうち、生徒さんを紹介してある人と紹介してない人がいる場合、紹介してある人が先に「自立練習のみ=無料過程」に入るなど、規約を作ります。現 在、暫定的なものができていますので、月に二度ほどこの掲示板に掲載します。

 「自立練習のみ=無料過程」の生徒数が、現在の有料過程の生徒数と同じくらいになるのが夢です。
 「自立練習のみ=無料過程」は、日本在住のまま、いったん作った英語力を錆びつかせないための有力な「装置」になるはずです。
 こういうものが、これまでの日本にはありませんでした。
 「自立練習のみ=無料過程」がうまく立ち上がるよう、皆様のご協力をお願い致します。

【17432】
馬の骨さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月23日(土) 01時26分43秒

「親族」でしたか。
親族の起源というのは、難しいですね。この問題に関して、内田以前に強い関心を持続していたのは吉本隆明です。吉本の沖縄への関心の持続はこの問題と関係 があると思います。私には難しくてわからない。

お薦め下さった本、「寝ながら学べる構造主義」を今日ネットで注文しました。
私は、寝ながら読むつもりですが、「寝ながらは学べません」ということになるんだろうなと思っています。

【17433】
現在の生徒さんが、「自立練習のみ=無料過程」をどう育てるか 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月23日(土) 20時00分7秒

1.自分の練習をしっかりやる。
 (「自立練習のみ」でやっていけるだけの地力を作る)
2.新しい生徒さんを紹介していただく。
 (「無料過程」の候補は、新しい枠が埋まることで、押し出し式に無料過程に進みます。)
3.掲示板に自分の英語の変化を書いていただく。
 (素読舎の広報活動を助けていただくことになります。新しくレッスンを始める人に、どの記事を読んで始めることを決めたかを確認します。該当の記事を書 いた生徒さんが、新しい生徒の「紹介者」になります。)

【17434】
教 育の受益者は本人ではない 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年10月23日(土) 23時38分11秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/10/22_1013.php

【17435】
馬の骨さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月24日(日) 01時35分18秒

「内田樹の研究室」の記事読みました。
いつも有益な記事の紹介をしていただき、感謝。

素読舎にどこかが金を出すべきだと私は思いました。
そうすれば、素読舎はやる気のある生徒を選び、これまでよりはるかに実績を作れると思っています。だけど、どこも出しっこありません。
アメリカ的「小乗」が跋扈しているのだから、どうしようもありません。

明日も百姓をやります。

【17436】
吉さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月24日(日) 01時41分21秒

掲示板、読んで下さっているでしょうか。

吉さんが、かたさんのコーチをしているのでなく、「一緒に練習している」というふうに規定すれば、吉さんも私の「生徒」であることになります。

そうすると、「自立練習のみ=無料過程」の生徒が二人いることになります。

吉さんを私の「生徒」としてもよろしいでしょうか。
お読みになっていたら、ご返事いただけると幸い。

【17437】
ジャンプに関する規約(暫定案) 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月24日(日) 03時00分38秒

小乗根性を克服するために

 現在、「ゴースト・文法解析」に、およそ高校生向けの文法問題を混ぜ込んで教材づくりをしています。
 この版が完成すると、高校2年から大学受験レベルの基礎を、文法・語法問題によって作ることができるようになります。
 高校以降は、途中からシナリオ「ゴースト」を音読することを始めますが、それと並行して、高校生向けの文法問題の系をたどることで、そのまま「文法・語 法問題1000」を扱えるようになります。「ゴースト・文法解析」を扱わず、「高校生向け文法問題」の系をたどる使い方ができるようになります。

 つまり、大学受験のための知識をよりぶあつくすることができます。

 その過程に至るまでに、教材「abcd」の500番までは必須です。
 教材「abcd」は、550番くらいから、一枠分が巨大になりますが、このあたりをジャンプできるように暫定案を考えています。

<ジャンプ・暫定案>

・「ゴースト・文法解析」(イメージ核受肉教材)を使っている人が、教材の5万行近くまでジャンプするのは、「イントネーションの自己決定力」によりま す。

・「abcd」教材の650番から1000番までのジャンプは、新しい塾生紹介があった場合によります。「abcd」は全部で3万行ほどありますが、 650から1000へジャンプする350の枠で占めているのは、1万3千行ほどです。塾生の紹介があることにより、「abcd」のおよそ半分近いものを ジャンプできるように致します。

 現在作成中の「高校生向け文法問題」は、無理なくこのジャンプを可能にするものです。
 この教材を作成する間、16万行台の教材作りを停止します。

 塾生紹介をご勘案下さい。

【17438】
根石さんへ 投稿者:吉 投稿日:2010年10月24日(日)21時01分4秒

お世話になっております。
すみません、、、掲示板から離れておりましたが、
家内が教えてくれました。

> 吉さんが、かたさんのコーチをしているのでなく、
> 「一緒に練習している」というふうに規定すれば、
> 吉さんも私の「生徒」であることになります。

はい、、かたさんには、よい練習相手になってもらっています。
根石さんのおかげで、よい練習パートナーに巡り合ったと感謝しております。

> 「自立練習のみ=無料過程」の生徒が二人いることになります。
> 吉さんを私の「生徒」としてもよろしいでしょうか。

もちろんです。 ありがとうございます。

現在、掲示板をお休みさせて頂いております。
言葉とエネルギーが上手くシンクロしない状態です。
英語の音読は止めませんので、しばらくこのままの状態で
やらせていただけますようお願いいたします。

【17440】
メディアの病 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年10月27日(水) 00時27分40秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/10/26_1116.php

【17441】
馬の骨さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月28日(木) 03時31分10秒

 内田樹を読みに行き、ふうむ、というようなためいきが出ました。
 私は早稲田の2年生3年生4年生の頃、まったく就職活動をしませんでした。
 何年生の時かも忘れましたが落第をしましたので、5年生の終わりの3月に、エロ本出版社、中央大学出身者の名簿作成管理会社、編み物のムック作成会社な どに出向き、俺を雇う気はないですかねという就職活動をしました。どこへ行っても蹴られました。編集業界は渡り鳥の世界で、すぐに使えるような人しか雇っ てくれない。新卒を教育して使えるようにするなどという余裕は、小学館、講談社なんかという大手にしかないのです。こういう大手は、落第したような気骨の ある人間を雇ってはくれないだろうとは、私の方でメボシをつけていたのです。

 荻窪駅のキオスクで買った新聞で就職先を探していたのですが、大学に何か情報があるんじゃないかと思い、大学の就職課というところに行ったら、「今頃、 なにしに来たんだ。今頃、職を探しに来るようなやつはいない。初めてだ」と言われました。
 なんなんだ。大学にいる間は、大いに勉強し(大学で勉強したんではありません。大学なんかまるで駄目なので、古本屋から本を買ってきて勉強しました。) 大学卒業間際になって、急遽就職活動をすることの何が変なのか。

 就職課の人があきれたような顔をして、問題外だという扱いをしたことを今でも思い出します。

 素読舎はなんだかんだ言ったところで、よくぞまあ、存立し続けたものだと感心してしまいます。早稲田卒業? そんなもの、あらかたはクズですがね。長野 でも、信越放送のパーソナリティとか、長野市長とか、クズです。

【17442】
吉さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年10月28日(木) 03時48分33秒

 生徒になっていただきありがとうございます。
 今後、「無料過程」の生徒が二人いることを公表できます。
 優秀な人はこき使われますので、ゆっくりと英語を養って下さい。
 吉さんの、生徒紹介はかなりな数になると思っていますが、まだ調査が終わりませんので、終わりましたら村田君の方から公表します。
 生徒紹介数においては、吉さんはダントツです。
 しかし、日本在住を継続したまま英語をものにするということが、本当にわかってくださっているという感触はいまだありません。

【17443】
根石さん 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年11月 2日(火)15時27分37秒

就職活動という事がわからなかったし、自尊感情の腰が砕けていた。その頃のわたしは。
法政卒業も、あらかたクズです。大学の勉強もダメで、神保町の古本屋街をうろうろしてました。

たしか大学の就職課は、学生にアナウンスしてなかったと思います。したからどうだという事はないのですが。わたしも卒業間際になって就職課に顔を出しまし た。親切さの欠けた態度だけは覚えています。ああ、この時期は終わってんだな、と判った。そう「問題外」だったんですね。

いま思えば、親父のコネがあった。一流企業がいくつか。
そのコネの時期も逸していたんです。もっとも行こうという意思は、まるでなかった。「社会の仕組み」ってやつが判ってなかった。自分の意思は大事なことで すけど。後悔はないですね。転職を繰り返し、さまざまな業界を知り、はじめて「社会の仕組み」の一部を垣間見ることができたようにおもいましたが。だから どうなんだ、と訊かれれば、別にとしか言いようもないことですが。。

結局、新聞で見た小さな会社に拾われました。
ある時、その会社の社長が言ってました。「文学部はダメだな。やはり法律か経済を勉強した奴でないと役に立たん」と。なるほどと思い、黙ってました。わた しは社会学部だったのです。自分なりに文学方面を齧ってたつもりですけど(笑)。。

【17444】
内田樹の武道論 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月 3日(水)02時13分18秒

 最初のうちは、形そのものができませんから、もともとの意味が失われて形骸化した、ただの無意味な身ぶりなんじゃないかなという疑念が湧いてきます。こ れが最初のハードルです。この段階で「降りてしまう」人間がいます。だから形なんか無意味だ、という安直な結論に飛びついて、形稽古を止めてしまうか、自 分がやりやすいように形を変えてしまう人間がいます。
 この最初のハードルを跳び越えることができるのは、「武道の形」には「何か今の自分程度の術技では理解が届かない深い意味があるに違いない」と思える人 間だけです。
 自分に分かること、自分にできることだけをやる人間と、自分に分からないこと、自分にできないことだからこそやりたいと思う人間を「スクリーニング」す るこれが最初のハードルです。武道が求めているのは、そういう小さな自我の殻を破ることのできる人間です。
 その次は、ある種の形がある種の身体部位の微妙な使い方を要求することに気づく段階です。
 なるほど、これが「武術的身体運用」というものかと、はじめて「腑に落ちる」経験をするのがこのときです。こういう身体運用が自動的にできるようになれ ばよいのだな、と納得がゆくのです。
 でも形というものの奥深さは、おそらくそれにはとどまらないものだと思います。ぼくは今はまだその段階にとどまっていますけれど、「この先がある」とい うことについて確信が出てきました。うまく言えませんが、それはこの「形を捨てる」という段階が次に来るはずだ、ということです。
 形という人間の身体の動きをわざと不自由にさせるようなネガティヴな条件づけをするのは、そのような条件づけを「ぜんぜん気にしない」ような心身の状態 を作り出すための教育的な布石ではないかと思うのです。
 どの芸道でも「守破離」ということが言われます。
 規範に従う段階、それを破る段階、そしてそれから離れる段階。
 こういうことばの教育的意味が最近になってようやく少し分かってきました。
   (「疲れすぎて眠れぬ夜のために」内田樹・角川文庫,p.151)

 内田樹の専門はフランス現代思想ですが、大学で合気道も教えているということがこの文庫本でわかりました。まだ読んでいませんが、内田には武道論がある とのことです。まとまった一冊があるのかどうかわかりませんが、ここに引用したものによって、内田の武道論の一端に触れることができます。
 この引用文の中の、「守破離」という語に私の目は引きつけられました。初めて目にする語で、私は知りませんでした。「規範に従う段階、それを破る段階、 そしてそれから離れる段階。」という言葉を読んで、すぐに脳裏に浮かんだのは、「回転読み」「切断読み」「言葉として使うこと」の三つでした。
 空手や合気道の形のような定型ではないのですが、「回転読み」は形の思想から生まれているものです。形(かた)ではないが、形(かたち)です。武道の形 (かた)というのは、複数の形(かたち)の連続でできている定型です。
 私はまだ形(かた)を作れていませんが、形(かた)の思想はうすぼんやりとながら、体内に持続して持ち続けてきたと思っています。本来の形(かた)では ありませんが、英文ひとつの形(かたち)を形(かた)にしてしまったらどうなるんだと考えて編み出したのが「回転読み」だと言えば言えると思っています。
 武道の形は、一つの流派が持つ数としてはそんなに多くはありません。多くある必要がないからです。「守破離」のそれぞれの段階を歩き通させることさえで きればいいので、多くある必要はありません。
 語学には武道が持つ形(かたち)の複合としての形(かた)はありませんので、ひとまずは一つの文を一つの形(かた)として扱ってしまうしかありません。 そうすると、語学には無数の形(かた)があるということになります。形(かた)そのものより、語学は武道以上に「形(かた)の思想」が要になると考えてい ます。
 武道でも、私がここで言っている意味での形(かたち)の練習はあります。空手の突きでも、同じ突きを何十回も何百回も繰り返す練習はあります。これは形 (かたち)の練習で、形(かた)ではありません。形(かた)ではありませんが、この何十回も何百回も繰り返すことは、形(かた)の思想がもたらすもので す。繰り返しにより、感覚が深化することを喜ぶことが形(かた)の思想のエッセンスです。同じ文を繰り返し言い続けることで、自分の中で感覚が深化するこ とを感じることのできる人、それを喜ぶことのできる人は語学の才能があるのだと思ってもらって間違いないと思います。
 語学では、一つの文を一つの形(かた)として扱ってしまう。言葉は簡単ですが、これは非常にわかりにくいことなのかもしれません。しかし、今のところ、 この言い方しか思いつきません。
 武道は喧嘩でも闘いでもありません。それはやはり、「道」なのだと思います。人の「道」というような道徳にとどまらない。身体を通じて、命が生きている ことを感じとれれば、それで武道であると言えると思います。中国のタオが言っていることにそれは通じているものであり、日本の武道は中国のタオの優れた一 分派であると言えばいいのだと考えています。
 語学もやはり、「身体を通じて」でなければ駄目なのです。「頭脳を通じて」では駄目です。はんちくなゴガクというものがあります。それは、英語なら英語 の「磁場」に渡って、いきなり当事者として「磁場」で生活してしまうようなものです。これは、いきなり喧嘩をするようなものです。およそ、「道」などとい うものではありません。はんちくなゴガクというものなら、「頭脳を通じて」だけでやれます。なぜなら、「身体を通じて」というものは、生活過程そのものが ほぼ受け持ってくれるからです。「身体を通じて」ということを、微細に感じとれなくても、「磁場」が「身体を通じ『させて』」しまうのです。だから、身体 論としても、語学論としても、はんちくなものしか持てなくなってしまいます。
 同じ英語をやったのでも、「日本在住」の語学と、「磁場帰り」(「磁場」だのみ)の達者なスキルとは、まるで本質が違うものです。男が女の気持ちがわか らず、女が男の気持ちがわからないというのと同じくらいに、お互いのことがわからないものだと思います。

 内田樹に戻ります。
 内田のこの本を読んでうれしく思ったのは、「守破離」という言葉を私が知らなかったにもかかわらず、「規範に従う段階、それを破る段階、そしてそれから 離れる段階」が、「回転読み」「切断読み」「言葉として使うこと」の三つとして、私の考えの中にすでにあったことでした。

 私は、「道」を歩くのであれば、「守破離」の後もあると考えています。
 それは、剣道家の「素振り」のように、毎日続けるようなことです。あるいは、寺の毎朝のお勤めとしての読経のようなものです。このようなものを続けるこ とで、形(かた)にとらわれるか、本当に形(かた)を破れるのかが決まるのだと考えています。形(かた)の思想は、人の一生をかけて吟味するに値するもの だと思っています。

【17445】
馬 の骨さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月 3日(水)02時28分22秒

 なんだか、読んで、にこにこしてしまいました。
 まあ、娑婆からすれば、俺たちこそ、クズなんですが。そんなことは、言われなくてもわかってらあ、ってなもんですね。「問題外」なのです。

 「親父のコネ」なんて使わなかったほうがよかったのだと思います。
 そんなもの使うと、まあ、人によりますが、たいがい人間がネジクレますぜ。

>転職を繰り返し、さまざまな業界を知り、はじめて「社会の仕組み」の一部を垣間見ることができたようにおもいましたが。だからどうなんだ、と訊かれれ ば、別にとしか言いようもないことですが。。

 そうですね。「別に」ですね。

>結局、新聞で見た小さな会社に拾われました。

 俺は、拾われなかった。馬の骨以下だったんです。
 実は私は、ひそかに学校の教員になる単位は全部集めたのです。それで、自分が出た高校で教育実習というのをやり、後は東京都に教員免許を要請すればいい だけにしたのです。それで、それをやりませんでした。
 高校の職員室にいたときに、ああ、これは俺の生きる場所ではないと思ったのでした。何の論理もなかったのです。ただ体の中で感覚が私に教えていたと思い ます。
 教育実習を終えて、東京に戻ってからは、編集者かなと思って、編集者募集の新聞広告で職を探しました。どこへ行っても蹴られたのは、前回書いた通りで す。よく覚えていませんが、10箇所くらい出向きました。
 「ハリマオ」なんか発行しているのは、編集者になりたくてなれなかった偏執者なのかもしれません。
 あれら弱小出版社は、俺を雇っていたらもうかっていたかもしれないのにと思うことがありますが、俺を雇っていたら内輪もめでつぶれていたかもしれないと も思うこともあります。

 私にも後悔はないです。

【17446】
内田樹の武道といえば。。 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年11月 3日(水)05時32分28秒

「私の身体は頭がいい」(文春文庫)600円+税
「身体を通して時代を読むー武術的立場」(文春文庫) 648縁+税

最新刊
「武道的思考」(筑摩選書)[単行本]1680円+税
など、たくさんあるようです。

合気道六段、居合道三段、杖道三段の武道家。

【17447】
内田樹を調べると。。 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年11月 3日(水)05時37分24秒

内田樹ーヴィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9

【17448】
「守破離」 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年11月 6日(土)23時21分52秒

根石さんが内田樹に触発されて書かれた文章は、たくさん考えるところがあるのだけれど、最初に読んだ時、「守破離」から、文法のことを思いました。
まずすらすら読めることが先ですが、外国語を身につけるには文法についても知らなければならない。文法のこともこれでもかというくらいにやって、最後には 文法を意識しなくても読めたり話したりできるところまで行く。掲示板での以前の議論で、根石さんが「文法は忘れるもの」と言っているのを思い出しました。 文法の「破」が何になるか今ちょっと見当がつかないですが。
「守破離」はもっといろいろなことに言えることなんだと思いました。
また書きます。

【17449】
お久しぶりです 投稿者:福 岡Mです 投稿日:2010年11月 8日(月)23時42分53秒

根石さん、お久しぶりです。お元気ですか?数年前にお世話になった、福岡Mです。覚えていらっしゃいますか。中津先生のコーナー、いいですね。私も96年 に1年間、中津先生の発音訓練を月に一度のペースで受けていましたので(一度もOKになったことがありませんでしたが)、大変貴重なコーナーだな、と思い 拝見しました。ここを見ながら、また一から練習します。また、内田樹氏の著書も、ここ数年はまって読んでいまして、いろいろ考えるきっかけをいただいてい ます。村田さんが書かれている、文法もそうですし、発音もまたそうなのでしょう。私はまだまだ守の段階ですけども、いつか離れてみたいものです。英語でも 武道でもありませんが、茶道のお手前も形をまず守ることが大切で、そのお手前も覚えるのが面倒くさくて投げ出したくなっていたのですが、ある日突然、その お手前の順番が如何に無駄のない流れになっているのかというのを発見し、いたく納得したのを覚えています。守ってみて初めて見えるもの、色んな場面である のでしょう。さて、久々にお邪魔して、厚かましいのですが、今度スカイプ練習見学させていただけると嬉しいです。では、また書き込みしに来ます。

【17450】
連絡専用掲示板から転載 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年11月 8日(月)23時45分53秒

連絡専用掲示板の中の「大風呂敷」向けの記事を、転載させていただきます。

====================================

お久しぶりです。 投稿者:ももこ 投稿日:2010年11月 3日(水)06時17分54秒 編集済

おひさしぶりです。ももこです。つわりが終わったかとおもったら、血圧が高く「もっと休みなさい。そうじゃないと入院になっちゃうわよ」と指導をされてし まう日々を過ごしています。(原因は疲労とストレスによるものが大きいから安静にするようにとのことです^^;)

そんななか(?)、娘が根石さんのレッスンに移り初回のレッスンをうけました。
途中娘自身が、風邪気味だったのため、ダラダラしていたので「やる気がないならやめなさい」と私に怒られグレる場面もありスミマセンでした。

今日は、私の感想を書きます。

村田さんのレッスンと違って、1レッスンの間に結構直すんだなぁというのが印象に残りました。といっても沢山のポイントを直すのではなくて、1つのポイン ト「口の両端斜め上」であればそのポイントを集中的にかなり手をいれるんだなぁという感じでしょうか。(末娘がヘッドホン音量を最大にしていたため、私も 聞くことができました。)
「あっここも両端斜め上なんだ」とひっそり私も練習してました^^;

村田さんのレッスンではのびのびしていましたが、根石さんのレッスンでは喝を入れられたというか「こりゃまずいぞ」と思っているように見えます。
(いい意味で)コーチによってやはりカラーが出るのかなとちょっと感じています。

これからの娘が楽しみです。


<<レッスン枠移動に関して>>
我が家の意向をお伝えする必要がもしかしたらあるのかと思い、あわせて書き込みします。

レッスン日時ですが、ご一緒してくださる生徒さんのご家庭の都合がよければどの枠に移っても構いません。

支払い以外のレッスン受講に関わることは、すべて娘に任せていますので、変更があるようでしたら、娘に直接お伝えいただければと思います。交渉も娘として いただいて結構です。よろしくおねがいします。

【17451】
連絡専用掲示板から転載 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年11月 8日(月)23時50分47秒

息子は 投稿者:N 投稿日:2010年11月 8日(月)22時17分8秒

今日は、もう一人参加していただいて、2人でさせていただきました。
2人になって、余裕ができたのか、ずいぶん調子よく、生意気を言っておりました(^^;)

村田さん、急な申し出に対応していただいて、ありがとうございました。お世話様でした。
ゆっくり母さんにも、ずいぶん手助けしていただいて、かたじけない!といった感じでした。ありがとうございます!!
恐る恐る、お試しを始めさせた息子ですが、一年前と比べると、ずいぶん成長したのでしょうか。前はかなり無関心だったのですが、なんとなく「食いつき」が 違う気がします。
根石さんも、5年生は、始めるのに最適とおっしゃってましたが、「時期」というものがあるのでしょうね。
良いきっかけになってくれればいいのになあ。。と心で祈っています。

【17452】
ももこさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年11月 8日(月)23時58分52秒

>おひさしぶりです。ももこです。つわりが終わったかとおもったら、血圧が高く「もっと休みなさい。そうじゃないと入院になっちゃうわよ」と指導をされて しまう日々を過ごしています。(原因は疲労とストレスによるものが大きいから安静にするようにとのことです^^;)

 大事な時ですから、お医者さんの言いつけを守って休んでいただくようお願いします。レッスンの方も休んでいただいているのですから。
 掲示板の方もぼちぼちにして下さい。赤ちゃんが生まれて、レッスンに復活できるようになりましたら、どんどん書いていただきたいと願っておりますので。

>そんななか(?)、娘が根石さんのレッスンに移り初回のレッスンをうけました。
途中娘自身が、風邪気味だったのため、ダラダラしていたので「やる気がないならやめなさい」と私に怒られグレる場面もありスミマセンでした。

 レッスンを聞いていていただくのは結構ですが、レッスン中は娘さんに声をかけないようにしていただきたくお願い致します。

>村田さんのレッスンと違って、1レッスンの間に結構直すんだなぁというのが印象に残りました。といっても沢山のポイントを直すのではなくて、1つのポイ ント「口の両端斜め上」であればそのポイントを集中的にかなり手をいれるんだなぁという感じでしょうか。(末娘がヘッドホン音量を最大にしていたため、私 も聞くことができました。)
「あっここも両端斜め上なんだ」とひっそり私も練習してました^^;

 始めたばかりの頃は、そんなに直しは多く入れない方がいいと考えています。今日のレッスンより、先週のレッスンの方が生徒たちの口の動きに元気があった ので、先週は多めに直しを入れたのだろうと思っています。直しの多い・少ないというのは、普段はあまり意識しておりません。今日は、意識してやりました が、直しは多くなかったと思います。

>村田さんのレッスンではのびのびしていましたが、根石さんのレッスンでは喝を入れられたというか「こりゃまずいぞ」と思っているように見えます。
(いい意味で)コーチによってやはりカラーが出るのかなとちょっと感じています。

 直しを入れるのは、直しを入れてもいいくらいまでの読みの連続性ができてきているからです。これは、村田君のレッスンの間にできてきたものです。
 「喝を入れられた」というほどのものではないんじゃないかと思っていますが。

 読みの連続性さえできていない段階では、直しはほとんど入れません。
 連続性は個々の文にもよります。一般に語数が多くなるほど、連続性が作りにくくなります。

>これからの娘が楽しみです。

 私も楽しみにしています。


<<レッスン枠移動に関して>>

>支払い以外のレッスン受講に関わることは、すべて娘に任せていますので、変更があるようでしたら、娘に直接お伝えいただければと思います。交渉も娘とし ていただいて結構です。よろしくおねがいします。

 枠の移動については、全員の承諾が得られましたので、来月から可能になりました。ありがとうございました。

【17453】
福岡Mさん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月 9日(火)00時27分37秒

>根石さん、お久しぶりです。お元気ですか?数年前にお世話になった、福岡Mです。覚えていらっしゃいますか。

 お久しぶりです。これまで、福岡の生徒さんはイニシャルがMの方が三人おられます。文章から察するに、久留米市のMさんだと思いますが、当たりでしょう か。テキストは何を使っていたのでしたっけ。
 あの頃とはずいぶんとレッスンの様子が変わり、今は私が自作した巨大な教材を使っています。コーチの数も三人に増えています。
 レッスンは「二人一枠」が標準になり、一人月額6千円で受講していただけるようにもなりました。

 この巨大な教材は、「自立練習のみ=無料課程」につながっています。
 私がレッスンで注意することがほぼなくなった段階の生徒さんは、「自立練習のみ=無料過程」へ進む候補になっていただき、新しい生徒さんが始めてくれる ことで枠数が増えると、「押し出し式」に「無料課程」に進んでいただくようになります。現在、二人の「無料課程」の生徒がおります。
 私のレッスンは、いずれはお金がかからなくなるものになりました。
 「自立練習のみ」になると、巨大な教材が無料で開放されます。

>中津先生のコーナー、いいですね。私も96年に1年間、中津先生の発音訓練を月に一度のペースで受けていましたので(一度もOKになったことがありませ んでしたが)、大変貴重なコーナーだな、と思い拝見しました。ここを見ながら、また一から練習します。

 中津さんの方法は、文の連続性ができてから(イントネーションの決定力がある程度できてから)やるといいと考えています。中津さんには「中間音」という 考えがなく、初心者は脱落する人が多いのではないだろうかという老婆心を持っています。

>また、内田樹氏の著書も、ここ数年はまって読んでいまして、いろいろ考えるきっかけをいただいています。村田さんが書かれている、文法もそうですし、発 音もまたそうなのでしょう。私はまだまだ守の段階ですけども、いつか離れてみたいものです。英語でも武道でもありませんが、茶道のお手前も形をまず守るこ とが大切で、そのお手前も覚えるのが面倒くさくて投げ出したくなっていたのですが、ある日突然、そのお手前の順番が如何に無駄のない流れになっているのか というのを発見し、いたく納得したのを覚えています。守ってみて初めて見えるもの、色んな場面であるのでしょう。さて、久々にお邪魔して、厚かましいので すが、今度スカイプ練習見学させていただけると嬉しいです。では、また書き込みしに来ます。

 内田樹は面白いですね。今後、もっと広く読まれるようになるだろうと思っています。馬の骨さんがこの掲示板で紹介して下さったのです。武道論としてまと まったものが出ているようなので、読んでみようと思っています。
 茶道のお手前については私は何も知りませんが、書いてくださったようなことはよく納得できるものです。
 スカイプを使ったレッスンをスカイプで見学していただくこと、歓迎いたします。スカイプ名を教えておいていただき、曜日、時間帯等打ち合わせておく必要 がありますので、素読舎連絡専用掲示板の方に書いて下さるとありがたく思います。

【17454】
Nさん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月 9日(火)00時33分57秒

>恐る恐る、お試しを始めさせた息子ですが、一年前と比べると、ずいぶん成長したのでしょうか。前はかなり無関心だったのですが、なんとなく「食いつき」 が違う気がします。

 時期というものがあると思います。5年生で始めるのは、ベストだと思います。それと、お母さんがレッスンに食らいついて継続しているのを見てきたこと も、大きく作用していると思っています。

 ゆっくり母さんが働いて下さったとのこと、感謝しています。
 よろしくお伝え下さい。

【17455】
N さん 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年11月 9日(火)01時01分54秒

>恐る恐る、お試しを始めさせた息子ですが、一年前と比べると、ずいぶん成長したのでしょうか。前はかなり無関心だったのですが、なんとなく「食い つき」が違う気がします。

1年前の様子はわかりませんが、今は熱心ですね。時機があるのかもしれません。小学5年生という時期はやはり一番いいのかもしれませんね。
先週は初めてで、しかも一人だったので、相当疲れたと思いますが、くらいついてくる姿勢が感じられました。このまま続いてほしいと思います。

【17457】
根石さん 投稿者:ももこ 投稿日:2010年11月 9日(火)08時18分49秒

コメントありがとうございます。なるほど、連続性ができるまでの初期は、直しが多く入らないんですね。

次のステップに娘は進んだんですね。
直しが入ったあとから読みがぎこちなくなり、娘もそのことは感じているみたいです。そのぎこちなさを脱ぎ去りたいような様子で、レッスン後自主練習をして いるような様子が今日は見られました。「何か再構築されているんだろうなぁ」とは感じます。

最近テキストの語数が増えたのでしょうか、注意する部分がふえたのでしょうか、cameraなどに苦戦していますね。マイクを通さないと明らかに娘の発音 がcanonになっているのですが、cameraが娘にはcanonになるんですね。ちょっと面白いです。(私には何度発音してみてもcameraが canonには聞こえないんですが・・・。^^;)

これからもよろしくお願いします。

【17458】
ももこさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年11月 9日(火)13時24分49秒

>最近テキストの語数が増えたのでしょうか、注意する部分がふえたのでしょうか、cameraなどに苦戦していますね。マイクを通さないと明らかに娘の発 音がcanonになっているのですが、cameraが娘にはcanonになるんですね。ちょっと面白いです。(私には何度発音してみてもcameraが canonには聞こえないんですが・・・。^^;)

 camera は「きゃめろん」という子供がけっこういます。

 m と n がはっきり区別されていない子供もけっこう多く、区別されるまでに2年くらいかかる子供もいます。できる人からすれば、唇を閉じるのか少し開いたままでい るのかにすぎませんし、日本語でも「マ行」の m 音系は存在するのですから、そんなに難しいはずはなかろうと思うかもしれませんが、小学5年、6年くらいになるまでは、本当は日本人の日本語の音も「固 まってはいない」のです。(子供のしゃべりが可愛いのは、日本語の「中間音」が多く含まれている時期だからです。)

 日本語の「ん」は実は m 音系であることがままある、ということが影響しているのではないかと思っています。「さんま」の「ん」のように、「ん」の次に m 音系が続くと、日本語では「ん」は n ではなく m になります。(唇が閉じています。)日本語の「ん」は実は、n でも m でもあるわけです。

 camera の ra のところを「ろん」と言う子供がけっこう多いのはどういうわけなのかはわかりません。日本語の音の体系と、英語の音の体系とがぶつかりあっているのだとい うことがわかるだけです。r音が日本語に「存在しない」から起こる現象だろうとは思います。子供は「ろん」に代置した方が気持ちが落ち着くのではないだろ うかと思います。
 また、r 音は、日本人の英語の音の練習では、最後に根付く単音だと思ってもらっていい音です。いきなりは出ません。日本語でできかけている口の動きのどこにもそれ は「存在しない」からです。
 中津遼子のように、「これはこうなんだ」と説明し、自分で言ってみせても駄目なんです。まずは、口をどんどん動かさせ、動きの「自由度」というものを作 り(このときに、口の筋肉もわずかずつ形成されます)、その後に「説明」を置くのでないと駄目です。中津が自分でいくら正しい音を出せても、子供(生徒) がそれを実現しないのでは意味がありません。この意味のなさは、Repeat after me.方式のすべてに言えることです。「中間音」で、どんどん動かさせるということが最初に置かれるべきものです。娘さんが今出している音は、「上等の中 間音」だと考えていただいていいと思います。

 r のときは、「舌はどこにも触らない」ということを言う適期が来たら私はそれを言います。今は、まだ「準備体操をよくやって体をあたためておく」(口の筋肉 の動く範囲を少しずつ広げておく)というくらいの時期だと思って下さい。この時に、子供の声に元気があるというのが非常に大事です。レッスンの最中に横か ら何か言わないでいただくことを重ねてお願い致します。

 各単音について手順が決まっていてレッスンしているわけではありません。言ってみたがまだ早かったかと思えば、またしばらく言わないでいるというような こともやります。勘で判断することが非常に多くあります。この勘の働きは、村田君と私とではかなり違うかもしれません。

 私の教材は、波状的に復習が行われるようになっています。今、canon と言っている音も、半年、一年後には直っていますから注目していて下さい。直れば、つまり、camera として固定されれば、以後は canon に戻ることはありません。

 素読舎の「音づくり」には、「中間音」という概念があります。福岡Mさんに書いたことも関連しますが、「中間音」を肯定しなければいけない時期に、強引 に「ネイティヴ音でやれ」というようなことを言うと、多くの子供が英語が嫌いになります。
 厳密には、「ネイティヴ音」というのは、英語ネイティヴだけが出す音のことです。それは普通、「英語しか話さない(話せない)人の出す音」です。地域性 や個人的な癖にも浸されている音です。そんなものと、日本人が同一化する必要はありません。また、同一化はできません。日本在住のまま英語をやり、日本語 と英語を二つ話す人の場合(幼児期から成立したバイリンガル以外は)、その英語音は、「英語の音として通用する音」であり、決して「ネイティヴ音」などで はありません。上手な音、下手な音というのはありますが、いくら上手な音でも、日本語が第一言語である人の音は、決して英語の「ネイティヴ音」ではありま せん。ネイティヴ音だと思っている人がいたとしたら、耳が悪いのか、何か勘違いしているのかのどちらかです。勘違いしている人は、「ネイティヴ」という語 がわかっていないのです。

 今、娘さんが出している「中間音」は多分、canon ではなく、camon (きゃmぉん)に近いのではないかと思っています。私にはそう聞こえていました。
 スカイプの場合、マイクによって音質がかなり違ってきます。
 しかし、音がかなり小さくても、マイクがどんなマイクであっても、半年、一年後には camera に直っているはずです。是非注目していて下さい。

 この推移の中に素読舎の「音づくり」というものの実質があります。

【17459】
根石さん 投稿者:ももこ 投稿日:2010年11月 9日(火)13時53分4秒

閲覧したらちょうど 書き込みがあったので、そのまま書き込みます。
解説ありがとうございます。たしかに、きゃのん/きゃめろんを行ったり来たりしてました。

「日本語の音が固まらない」そういった時期に娘はあるんですね。そういったことを今知っておいてよかったと思います。(逆に知らずに来春からの新カリキュ ラムで英語に触れさせていたらと思うと・・・。)子供って面白いですね。

日本語が固まるというところから言うと、やはりお相手の6年生の男の子とは段階が違うんですね。でも一緒にレッスンができるところがスゴイというか面白い なと感じます。

前回は風邪、今回は寝坊なので、次からは元気な本来の娘に戻ると思います。(今学芸会の練習中なんです。)
と同時に私も娘にかまっていられないので^^;レッスンはほぼ参観できなくなると思います。(ただ、仕事の都合、PCのそばに電話があるので、電話が掛 かってくると話し声が入るかもしれません。昨日は夫からの電話があったので「レッスン中なんですけど」と電話を切らせる場面がありました。)

でも、cameraについては面白いので、すこし記憶に留めておこうと思います。半年後といえばお腹の子が生まれる頃ですから、その頃の娘の音、どうなっ てるんだろうなぁ〜とちょっとワクワクします。


質問です。
おそらく愚問だと思うのですが、先程のきゃのん・きゃめおんに限らず、「?」と思う発音でも本人が練習したい場合は練習させていていいのでしょうか?(と いってもhaveがヘブでも勝手にさせていたのですが^^;)


何はともあれ、娘には初心にもどって(?)「間違えてもいいから元気に堂々と」とアドバイスしようと思います。

【17460】
酔余、camera 再説 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年11月10日(水) 01時04分38秒

 典型的なのは、 her だと考えていますが、こんな簡単な(中学1年生で出てくる)単語でも、実は間違って発音している人がたくさんいます。
 これは、私が作った「あいうえお・フォニックス」が扱う er の音が出せていないということです。もっとも簡単に言うと、綴りで、a, i, u, e, o に r をくっつけた ar(アクセントのある ar は別格), ir, ur, er, or は、「狭いアー」であるという規定から、日本語の「ハー」が大きくずれているからです。

 coffee が通じないのは、f 音が出ていないのが原因だと考える人がいるかもしれませんが、実際はアクセントがフラットである場合が多いだろうと私は思っています。 coffee の co を際だたせて強く言えば通じるだろうと思います。これはアクセントがフラットすぎると通じない典型例です。coffee の co の部分を ffee より「倍くらい強く」言えば通じるだろうと思います。(これはしかし、ダークテクニックに類することで、f 音の練習をしなくていいと言っているのではありません。)

 アクセントのある位置の音が「間違っている」と、英語音としてはまず通じません。coffee の場合は、co のところで日本語の「こ」の音を強く言うと通じます。「か」を強く言うのでも通じます。

 通じないことの原因がアクセントである場合(coffeeなど)というのは、カタカナ表記として英単語が日本語単語になっているものに多く見られます。
 camera も英単語が日本語単語になったものですが、これはアクセントではなく、単音が難しい例になります。

レッスンで、camera を私が発音すると、生徒が日本語音で「カメラ」ということはまずありません。ほとんどすべての人が「キャメラ」と言います。K 音と一体化する「一瞬般若」は比較的簡単に出します。この段階では、口の両端が動いていませんので、実は音は違っているのですが、日本語の「キャ」を口の 両端の動きによって出すことは、日本人には難しいことではありません。
で、「キヤメラ」の「メ」と「ラ」の方が難しい。日本人は、「メ」と「ラ」をくっきりと言ってしまうのです。camera の me と ra は、相当に「いいかげんに」言わないといけない。「キャ」の時に、口の両端がビシッと動きさえすれば、全体を「キャムオ」というくらいの感じで言えば通じ ると思います。

 で、なぜ「キャムオ」の「ム」で通じ、「オ」で通じるのかが問題です。

 camera は ca のところにアクセントがあります。
 アクセントがあるところの直後の母音はまず間違いなく、弱音化します。
「狭く弱い音」になります。これは英語の音の体系における非常に強い癖として注目すべきものです。
 camera の ca のアクセントの後で、me は「ぼけ」ます。ぼけて、「狭く弱い」音になります。日本語の「メ」を狭く弱い音で出せれば、それでOKですが、この「弱い音」というのが、日本人には けっこう難しいのです。
「キャムオ」で通じるのは、日本語の「ム」の音に含まれる「ゥ」の音が「狭い」からです。日本語の「あ・い・う・え・お」の音の中では、「ウ」と「オ」の 音が狭い(唇の開きが狭い)のです。「エ」もけっこう狭いですから、「キャメオ」ももちろん通じます。
 日本語の「ウ」が「狭い」ので、「キャメウ」でも通じます。
 これら全部を使うとどういう組み合わせができるのか、頭が混乱してきていますが、「キャ」を強くドンと出せれば、「キャメウ」でも「キャムオ」でも 「キャメオ」でも「キャムウ」でも通じるということです。

 私と柴田さんが別れた原因は、「通じる」という語の解釈によります。
 今になって柴田さんが書いてくださったことを読むと、「練習の場面」と「実際に使う場面」をはっきりと区別して下さっていることに気づきます。そのこと については申し訳なかったと思います。
 柴田さんが、あまりにも細部にわたって日本人の口の動きを「直す」ことに私が反感を抱いたことが原因でした。こんなにもよく知っているのなら、発音教則 本を書くべきだ。(書くなら、私が印刷する手間は惜しまない、うちには印刷機がある!)それをやらないで、一つの学校の一つの教室の中だけで通用させてい るのはまずいんじゃないかという批判が私の側にあったのです。

 私が最大の学恩をいただいたのは、柴田武史さんから、です。そして、恩人と早期に別れてしまいました。羊と山羊の違いのせいだと言えば、中原中也の読者 なら面白がってくれるかもしれません。
 柴田さんの生徒たちは、羊なのです。本当によく飼い慣らされている羊なのです。東大に60人も合格させる中高一貫校の羊たちなのです。
 私の生徒たちは、山羊ですね。荒っぽい。でたらめな文部科学省の犠牲者たちであるだけでなく、語学論を読めるというレベルの人が多いので、文化的植民地 下における「英語の教室」の羊生徒たちと比べると、明らかに批評意識が強く、そのために、荒っぽい。山羊です。私は、山羊である生徒を持てたことを、本当 に幸運なことだと思っています。

 しかし、論理レベルでは、私が間違っていました。
 柴田さんは、「練習の場面」と「実際に使う場面」をはっきりと区別して下さっていた。柴田さんは学者になれるが、私は学者にはなれない。私は、職人が好 きですし、自分でも語学職人になりたい人間です。
 細部にわたる「直し」は必要ないという考えは今も変わりません。
 日本の在来の家だってそうです。構造的に本当に屋根や壁の重さを支える柱や土台は荒削りの材です。見せる柱というのは、ぴかぴかに鉋をかけてあります。 ぴかぴかに鉋がかかった「部屋の中から見る柱」というのが本当に構造を支えているのではない。(大黒柱を使っていた頃の日本の家はそうです。)柴田さん、 それ、袋小路だよ、というのが、今になっての私の批判なのです。「職人による先生批判」だったのです。職人というのは論理レベルではよく間違えるもので す。論理レベルで間違うくせに仕事はいいというのは、職人にはよくいます。

 で、話が跳びました。

camera で「キャ」を強くドンと出せれば、「キャメウ」でも「キャムオ」でも「キャメオ」でも「キャムウ」でも通じるというのは、実は、ここにおける「ム」や 「メ」や「ウ」や「オ」は、発音記号では「逆さe」を含むというのが眼目です。

 日本人の英語は、「逆さe」が出せるようになれば相当に通じるというのが私の持説です。「逆さe」が最大の眼目だと考えています。

 私は半ば冗談で、「俺は三つの音で、おまんま食ってんだ」と人に言うことがあります。三つの音というのは、「顎の下がる明るいアー(歯医者)」と「口の 両端の動きで出すア(一瞬般若)」と「狭いア(逆さe,逆さv)」です。

 もちろん、私が生徒に出す指示は他に無数にありますが、眼目はこの三つです。聴き取りに使えるだけの「連続性=速度」を備えて、「自立練習のみ=無料課 程」に進む生徒は、連続性や速度はもちろんですが、その連続性や速度に「三つの音」が「区別されて備わっている」はずです。

 そのレベルになれば、日本人としては英語の音はひとまずいい。
 その先をやりたければ、各自勝手に興味の赴くままにやればいい。
 私がやっているレッスンは日本人に「基礎」を持たせるだけのことだ。

 どこまでいっても、私の使う比喩は建築用語が多いのは、自宅自作をした人間なのでしょうがないと勘弁してもらおうと思います。

【17461】
ももこさん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月10日(水) 01時31分30秒

>日本語が固まるというところから言うと、やはりお相手の6年生の男の子とは段階が違うんですね。

 そうです。しかし、これは、一挙に変わるというほど段階が違うのではないのです。3年生や4年生と5年生6年生との間にあるのもグラデーションです。
 このグラデーションが、5年生くらいで急に「大人がしゃべる日本語音」が濃くなってきます。多分、体ができてくることと並行しているのだと思います。

 もし、コンピュータの基底にあるように0と1くらいに全く違うのであれば、私は小学3年生からレッスンを受けつけるということはやりません。

【17462】
根石さん 投稿者:ももこ 投稿日:2010年11月10日(水) 12時20分23秒

くわしくありがとうございます。
グラデーションですか。年齢も個人差もきっとその中には微妙にあるんでしょうね。それがあるからこそ3年生まで開始学年を下げるまでにゆっくり時間をかけ てこられたのかなと感じました。(他にも理由があるとおもいますが)

娘のレッスンをきっかけに子供の音について、小学生の英語レッスンについて知ることができ感謝しております。ありがとうございます。

【17463】
階層化する社会について 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年11月14日(日) 18時43分46秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php

抜粋
「月本洋さんによると、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」。
その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。
言い換えるならば、他者との身体的な「同期」が「理解」ということの本質なのである。」

【17464】
立国の道すじについて 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年11月14日(日) 18時58分8秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/11/09_0945.php



抜粋
[「英語ができる日本人」のプログラムを起案したとき、文科省はそのHPに堂々と「経済競争を勝ち抜くため」と書いた。
英語ができないと金儲けができない。
それが教育行政のトップが英語教育の必要性を基礎づけるために使ったロジックである。
爾来、日本の生徒たちの英語学力は底なしの低下を続けている。
こんな「下品」な教育目的で活性化するほど人間の知性は「下品」に作られていないからである。]

【17465】
馬の骨さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年11月14日(日) 23時28分49秒

どちらの記事もいいですね。
内田樹、相変わらずの快進撃。
「大風呂敷」の読者の皆さんにも是非読んでもらいたい。

【17466】
村田君 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年11月14日(日) 23時31分40秒

「大風呂敷」から、内田樹さんのホームページにリンクを張るのがいいと思います。

【17467】
根石さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年11月15日(月) 06時34分40秒

どちらの記事も根石さんが言っていることを別の角度から言っているように思えました。
リンクの件、了解です。

【17468】
根石さん 投稿者:ミキ 投稿日:2010年11月16日(火) 23時13分38秒

馬の骨さんの紹介してくださる内田樹氏の記事、面白く読ませていただいています。

世界のジュネーブ、ヨーロッパのブルクセルに習うアジアの東京という案は面白いですね。もし、常設アジア議会というものが実現し、会議言語が英語という事 になると、英語の新たな分岐点になるのではないかと...。

俗にいうアメリカ英語、イギリス英語、国際英語(?)国際英語は、スタンダード英語とでも言えば良いのでしょうか?皆が対等に使えるもの。あ、内田氏はリ ングア フランカと言っていましたか...。私達が素読を通して学ぼうと思っている英語はこれだ、と解釈しているのですが、間違っていますか?

これらに加えて,アジアの国々のものの考え方、アジア言語の音の特色を反映したアジア英語みたいなものもうまれるのではないかと想像します。

私も21世紀の世界の中心はアジアになっていくと思います。個人的には、日本の将来は対中国で(特にネガティブな意味ばかりではなく)、どれだけ他のアジ ア各国(特にインド)とタッグを組んでいけるかにかかっていると思います。

【17469】
連絡専用掲示板から転載 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年11月19日(金) 10時12分20秒

質問です 投稿者:江戸の母 投稿日:2010年11月19日(金)00時31分24秒

wheneverのアクセントの場所なのですが、レッスンではneverの最初のほうのeにあったと記憶しているのですが、辞書で調べたところ、紙の辞書 ではneverの最初のe、発音が聞ける電子辞書ではWhenのeにあるように聞こえました。どちらが正しいのでしょうか?

【17470】
江戸の母さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年11月19日(金) 10時13分26秒

>whenever のアクセントの場所なのですが、レッスンではneverの最初のほうのeにあったと記憶しているのですが、辞書で調べたところ、紙の辞書ではneverの 最初のe、発音が聞ける電子辞書ではWhenのeにあるように聞こえました。どちらが正しいのでしょうか?

whenever は when+ever です。n と e がつながって /ne/ となります。
私の手もとにある辞書ではすべて ever の最初の e にアクセント記号があります。
(研究社英和中辞典、ジーニアス、リーダース、OALD、COD、Cobuild すべて同じ)

うちの辞書で発音が聞けるのは、研究社英和中辞典と Cobuild なので、聞いてみました。
中辞典の方は発音記号通りに聞こえます。Cobuild では when の方にアクセントがあるかのように聞こえました。ただ、Cobuild で wherever 、whoever など他の単語を引いて発音を聞いてみると、発音記号通りに聞こえます。吹き込んだ人の声質などの影響があるのかどうか。ちょっとわかりません。
ともかく、whenever に関しては、レッスンでやったアクセント位置で間違いありません。

【17471】
メール、その他転載 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月20日(土) 20時08分29秒

A さんからメールをいただきましたので、転載させていただきます。

------------------------------------------------------
根石さん

いつもお世話になります。
今日息子が、学校で英語授業があったというので話を聞いてみると、ネイティブ講師と担任によるお買い物会話で担任が言うには「英語はちゃんとやらなくても いい」「できればちゃんとやったほうがいい」と言ったそうです。
なにをもってして「ちゃんと」なのかわからないですけど、おそらく今まで私ら世代が受けてきたがちがちの文法から入るのではなくて、会話中心で「買い物が できればオッケー」ということなのではないかと思います。(How much の後ろの is it は省略されてると思います)

また、「ほかの子は”サーティーン”といってたけど、俺は”thirteen”(アの狭い音)を言ったよ」とのこと。

「英語という異文化に楽しく触れさせ、英語に興味を持たせる」が学校の第一目標のようですので、楽しくやっているようです。そんな中、重箱の隅をつつくよ うなことはしたくないですけど、担任の「ちゃんとやらなくていい」という言葉を、英語植民地化から逃れる手段としては、いいセンスかなとも思うのですが、 語学を扱う人、教育者という見かたで見たらどうも、許せないものを感じてしまいます。
「ちゃんとやらなくていい語学」なんて、存在するんでしょうか?
子どもを預けている都合上、担任にかみつく気はありませんが。息子も「一体どっちなんだろう?」という反応でした。

悪い影響を受けないためには、学校にはなにも期待しないでおきます。
英語を専門としてきていない先生なので”thirteen”の音を、出せるかどうかも気にならないでしょうし、先生も発音できないかもしれません。(先生 には英語以外では感謝してるので、こんなこと公言できませんけどね)

とにかく小学校英語授業は、とんでもない時間だなと思います。ここに、ものすごい教育委員会の労力とお金が費やされています。しかも大真面目にです。

それでいて、生徒の側としては、”まともに身につけないこと””楽しくやり過ごすこと”が処方箋なのですよね。

以上、愚痴でした。
読んでいただいてありがとうございます。

ところで、これは楽しくなる話です。
先日 T ちゃんのお母さんに「なんで、素読を始めようと思ったのか」「これからも、続けますか?」と聞いてみました。
動機は、音読には興味があって声に出して読むのはいいと思っていた。(今でも思ってる。)面白そうだなと思ったから。で、T ちゃんに習い事、たくさんやりたくなってくる年頃なので、なにか止めたらという話をしたところ、幼稚園から習っているバレエをやめてもいいから、英語はや りたい。というのでびっくりしたそうです。お母さんが「ほかにも英語教室(会話)があるよ」といっても、「根石さんのがいい」とのこと。

「それは、Dくんのうちにいけるから?」ときいたら、「それもあるけど、根石さんの英語がいい」といったそうです。
お母さんも、何故、そんなに素読舎がいいというのか、わからないんだよね〜〜と不思議がってました。

D が続けていられるのも、T ちゃんがいてくれたからで、本当にこの偶然に感謝しています。

今後ともよろしくお願いします。
それでは
A
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以上、いただいたメールです。一部削除させていただいた部分があります。
以下、差し上げた返信です。
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A様

 メールありがとうございました。
 「大風呂敷」に転写させて下さい。
 メールにとどめておくなら、井戸端会議の域を出ません。
 転写に際して、個人が推定できるような要素は外して掲載
しますので、ご許可下さい。

 T ちゃんの話はうれしいものでした。
 何を感じとってくれているのか、私にもわからないところがあ
りますが、要するに手応えがあるということなのではないかと推
測しています。

根石吉久
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 掲示板に掲載するに際し、気になったところがありましたので、以下、追記します。
 A さんのメールにある、『担任の「ちゃんとやらなくていい」という言葉を、英語植民地化から逃れる手段としては、いいセンスかなとも思うのですが、』につい てですが、私は「いいセンス」だとはとうてい思えません。
 「ちゃんとやらなくていい」という扱いこそ、日本の戦後がアメリカの文化的植民地であることを証しています。子供の興味を、エーカイワやアイサツやカイ モノの決まり文句に「とどまらせる」ことは、子供を馬鹿にしていると同時に、英語教育行政の植民地根性を証し立てています。
 語学として「ちゃんとやる」ところに、英語を(知的)対象とする主体性がはぐくまれるのです。アイサツやカイモノの決まり文句を覚えさせるだけという扱 い方では、異文化に出会うことはできません。ここにあるのは、アメリカ文化につき従う植民地根性です。つき従っている限りは、英語も英語話者も、「絶対的 上位」にあり、異文化としてこちらを振り向き相互に向き合うことは起こりません。つき従うことで、むしろ主体性は滅ぼされます。
 小学校に英語を導入することによって、日本人の大多数はますます英語から遠ざけられるだろうと私は予想しています。
 心ある親であれば、「芽を出させてはいけない。種として持たせるだけ」という素読舎の方法に注目してくれるはずなのですが・・・。
 小学校英語を見て、「あれじゃどうにもならない」と思われた方は、是非素読舎に連絡をいただきたいものです。「芽を出させてはいけない」というところが 理解しにくいかもしれませんが、これは非常に大事なポイントです。

 小学校英語は、単なる遊びに過ぎない。それも、悪い癖をつける質のよくない遊びだと考えるのがいいと思います。

thirteen の ir を 「逆さ e」で発音した D 君にくじけないように伝えて下さい。

 小学校への英語導入は必ず失敗します。子供を馬鹿にし、言葉を馬鹿にしている計画が成功するはずはありません。

【17472】
ミキさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年11月21日(日) 01時23分15秒

 遅くなりまして済みません。

>世界のジュネーブ、ヨーロッパのブルクセルに習うアジアの東京という案は面白いですね。もし、常設アジア議会というものが実現し、会議言語が英語という 事になると、英語の新たな分岐点になるのではないかと...。

 日本は、憲法で武力を放棄した国なんですから、国際会議やアジア会議を常時開くような国になってもらいたいもんです。「ことば」の国になってもらいた い。

>俗にいうアメリカ英語、イギリス英語、国際英語(?)国際英語は、スタンダード英語とでも言えば良いのでしょうか?皆が対等に使えるもの。あ、内田氏は リングア フランカと言っていましたか...。私達が素読を通して学ぼうと思っている英語はこれだ、と解釈しているのですが、間違っていますか?

 アメリカ英語、イギリス英語はイメージ可能なんですが、国際英語っていうものは、ボディのないようなあいまいなものだと思います。実態は、まちまちな英 語の集合ってものになるしかないのではないでしょうか。各種さまざま種々雑多な英語の集合体は、しばらくはスタンダードになれないような気もします。集合 体の中で擦れ合って熱が生まれてくれば、スタンダードとなる核の部分ができてくるのかもしれません。
 私は、アメリカ英語なりイギリス英語をスタンダードとするのでいいという考えです。ただし、それ以外の英語は、このスタンダードを「媒介」にすべきであ り、同一化すべきではないと考えています。
 日本人は、スタンダード英語を媒介にして、そのスタンダードな英語に変形を加え、日本の英語というものを作っていいんだという考えも、ずいぶん前に書い たことがあります。その場合に、スタンダード英語に変形を加えるのは「語学的主体」です。悲しいことですが、私は日本で、「語学的主体」というものを目に することはめったにありません。スタンダード追随派ばっかりです。
 内田樹のリングア・フランカっていうのは、どんなものなんでしょうか。これまでに読んだ範囲では、この言葉に出会っていないと思いますので、教えていた だけたら幸いです。

>これらに加えて,アジアの国々のものの考え方、アジア言語の音の特色を反映したアジア英語みたいなものもうまれるのではないかと想像します。

 アジアの国々で英語がよく通じるところは、無惨な歴史(ハードな植民地化を伴った言語政策)を持っています。植民地化によってではなく、アジアの人々が 主体として、スタンダードを「媒介」にすることでアジアの英語を作っていけばいいのだと考えています。
 日本には、日本の英語を作ることが課せられているはずですが、文部科学省というところは、子供を馬鹿にして、小学生英語みたいなとんちんかんなものしか 考えつかないのです。

>私も21世紀の世界の中心はアジアになっていくと思います。個人的には、日本の将来は対中国で(特にネガティブな意味ばかりではなく)、どれだけ他のア ジア各国(特にインド)とタッグを組んでいけるかにかかっていると思います。

 アジアの人々とは仲良くしていきたいものだと思います。
 インドとタッグを組む時の言語はやはり英語になるのだろうと思います。

【17473】
A さん 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年11月21日(日) 01時54分44秒

>また、「ほかの子は”サーティーン”といってたけど、俺は”thirteen”(アの狭い音)を言ったよ」とのこと。

これは結構きついことなんで、息子さんには、負けるな!と思います。

私は塾では、特に小6の塾生や中1の塾生には「中学ではおまえらの発音は、もしかしたら変に思われるかもしれない。でもおまえらの発音は確実に通じる音 だ。おまえらを馬鹿にするやつらの音は決して通用しない。だから自信を持って発音しろ」と言っています。

>英語植民地化から逃れる手段としては、いいセンスかなとも思うのですが、
私もこれはセンスがいいとは思わなくて、学校の先生の怠慢だと思います。

【17479】
根石さん 投稿者:ミ キ 投稿日:2010年11月22日(月) 00時39分32秒

LINGUA FRANCA については、馬の骨さんの紹介してくださる内田樹氏の「内田樹の研究室 みんなまとめて、面倒みよう」のなかで、『リンガ フランカ論』 『リンガ フランカのすすめ』と言うタイトルで記事が書かれています。内田氏が作った言葉ではありませんが、彼が言いたかっただろう(と私が想像する)も のの代名詞としてぴったりしていると感心しました。

学習してく上ではアメリカ、イギリス英語をお手本にする事で良いんですね。(でも、その中でどれがスタンダードなのか、自分の中でちょっと混乱してしまう 時があるのですが...。)頑張ります。

【17480】
「七人の侍」の組織論 投稿者:馬 の骨 投稿日:2010年11月22日(月) 21時30分2秒

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/11/22_1626.php

一部抜粋
「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は「攻めの経営」というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿 らないものである。
けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難 であり、高い人間的能力を要求するということである。
そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。

【17481】
ミキさん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月23日(火) 00時58分18秒

 教えていただき、内田樹のブログで、「リンガ フランカ」で検索し、読むことができました。ありがとうございます。

 これ、私が、「ごつごつした英語」って言ってきたものとそんなに違わないと思いました。

 これは、しかし、英語フリークばっかりがでかいつらをしたがる日本国では、なかなか通用しない考えです。
 つくづく馬鹿らしくなるところを、内田は(文体上では)陽気に突き抜けていく。
 それがすごいと思います。

【17482】
馬の骨さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月23日(火) 01時06分15秒

 いやあ、組織論ですか。
 そこいらはまったく苦手です。
 私は「イエスマン」の一人も持たないで生きてきました。
 「イエスマン」のふりをするだけの者には出会ってきました。

 私の器が小さいのです。
 組織で生きたくないのです。
 多分、そこが内田樹と私が違うところだろうと思います。

 だから、内田は私には大事なモノカキです。

【17483】
「音づくり」と「音作り」 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月24日(水) 03時19分15秒

 「大風呂敷」が設置されて間もなく、柴田武史さんが登場して下さり、「音作り」という用語を使われた。私は、それ以前から「音づくり」と書いてきたよう な覚えがあったが、そのあたりから「づくり」の部分を意識的にひらがなで書いてきた。
 漢字で書いたりひらがなで書いたりすることで、柴田さんの「音作り」と私の「音づくり」を区別できるわけではないし、当時はとりわけ区別しようとも思わ なかった。

 柴田さんの「音づくり」はネイティヴ音に従順で、主に「個々の音」を直し、「音と音のぶつかり合いの処理」をするものである。
 「個々の音」を扱うことなら、いろいろな人がやっているだろう。しかし、「音と音のぶつかりあいの処理」をやっている英語機関はほとんどない。

 ニューヨークのツインタワービルに飛行機が突っ込んだ9.11事件の後、柴田さんの勤務する学校のイギリスへの修学旅行がとりやめになり、長野の白樺湖 でのスキー合宿に変更になったということがあった。そのとき、柴田さんから誘われて、一泊の部屋を予約していただき、池ノ平ホテルに会いに行ったことがあ る。

 掲示板で、柴田さんが「音作り」と書き、私が「音づくり」と書いているものに共通するのは、柴田さんの言い方では「音と音のぶつかり合いの処理」であ り、私の言い方では「連音処理」だが、これは同じものを言っている。
 私と柴田さんの方法に共通するものがこれである。

 池の平ホテルで、私は柴田さんにお聞きした。
「長野県は私立の学校が少ないんですが、私らが言うような意味での『オトヅクリ」は長野県の公立の中学高校ではやっているところはない。少なくとも私は知 らない。他の県でも同じようなものだと思う。私立はどうなんでしょう。柴田さんは、私立の中高一貫校なんですが、私立の中高の英語の先生たちの集まりみた いなものがあれば、話に出るんじゃないかと思うんですが、私立だったら『オトヅクリ』をやっているところがあるんじゃないでしょうか」
 私はそうたずねた。
 柴田さんは言下に否定した。
「ありません。『オトヅクリ』をやっているのは、私の教室と、根石さんの素読舎だけです」

 それを聞いて、びっくりしたのを今も覚えている。
 そうなのか。私は英語教育関係の専門誌みたいなものを購読するようなことはしたことがないし、学校の個々の教室の様子をいろいろな事例として知っている わけでもない。
 私が「学校の英語の扱い方は駄目だ」と言ってきたことの根拠になっているのは、私が受けた中学、高校、大学の英語の授業というものだけである。それは、 英語教育というもののほんの「一部分」にすぎないはずだ。世間はもっと広いはずだから、と思って、「私立ならどうか」と私は柴田さんに聞いたのだったが、 柴田さんの口から飛び出したのははっきりした否定だった。

 「一部分」は「全部」だったのである。柴田さんは非常に目配りの広い方なので、「連音処理」や「音と音のぶつかりあいの処理」をやっているところがあれ ば知らないはずはないと思い、「そうなのか」と思い、内心非常に驚いていた。

 連音処理をやらないということは、私の言い方での「生徒の繰り返しにつきあう」ということをやらないということと同じなのである。
 何度も読む、繰り返し読むということにつきあっていては、学校の授業は成り立たないとほとんどの学校の先生は考えるだろう。しかし、柴田さんはそれを やった。公立・私立を問わず、それをやった最初の先生ではないだろうか。
 (その貴重な実践は、「大風呂敷」の過去ログに収録されている。)

 私のレッスンでは、私(コーチ)が一度読んだものを、生徒が5回(以上)繰り返し読む。こうすることで、その文の中から、どれを直すべきかをコーチは選 択する。直すべきものが3つも4つもあっても、最初のうちは1つかせいぜい2つしか扱わない。これは、私に「中間音」という考えがあるためである。
 直すべきものが3つも4つもあるが、そのうちの1つにねらいを定めて直した場合、直っていない音は2つも3つも残る。それでいいとするのが、「中間音」 の考え方である。

 私が作った教材では、同じ文が繰り返し繰り返し出てくる。波状的に「復習」が行われるようになっているが、これはしかし、本当のところは「復習」をする ためではない。
 3つ直すべきものがあり、最初はそのうちの1つだけを直したとする。それで「ひとまずはよし」とする。次にまた同じ文が出てきたときに、最初に直したも のの定着度を確認したうえで、2つ目を直す。2つ直してもまだ1つ直すべきものが残るが、「ひとまずはよし」とする。次にまた同じ文が出てきたら、3つ目 を直す。これで、荒削りながら、直すべきものがなくなる。ここまでは、「復習」のように見えて、実は「復習」ではないのである。いつも「新しいこと」を やっているのだから。
 こうして「つくった」音は、CDなどの複製音声を「媒介」にするための基ができたレベルであると考えることができる。
 直すべきものがなくなった読みの音も「中間音」である。CDなどの複製音声を「媒介」にさせてみれば、こういう練習をしてある者としてない者とでは、ネ イティヴ音を「取り込む」様子にはっきりとした違いが生じるが、「まだ」ネイティヴ音を「媒介」にし「取り込む」レベルにあるのだから、やはり「中間音」 である。
 話がめんどうになるが、では、ネイティヴ音を「媒介」にした「後」の音は「中間音」ではなくなるのかと言えば、やはりそこにあるものも「中間音」であ る。

 ここまでの練習では、音の立体性のようなものは問題にされていない。
 いくら表面的な口の筋肉の使い方であっても、「個々の音」に問題がなく、「連音処理」ができていれば、CD音を「媒介」にすることはできるし、してもい い。しかし、この段階では、音はまだ非常にフラットである。とりわけ、日本語という言語で育った者の口の筋肉はフラットな音を作る。口の筋肉の動きが立体 的ではない。

 柴田さんが中学を卒業する生徒たちの読みを録音したCDを送って下さったことがあった。概して非常に「うまい」。それを聞いた人たちは、「すごい」と口 を揃えて言った。私には一抹の懸念があった。端的な印象だが、「音が薄い」と思ったのだった。フラットな音のままで「うまい」のである。
 柴田さんにおいてさえ、音の「立体性」は生徒の自主練習にまかせる他はないのだろうとその時に思った。学校の教室という制限の中では、音の「立体性」ま で扱うことは不可能だろう、と。

 私のレッスンを数年続けてくれた生徒ならどなたにもわかってもらえるだろうと思うが、私のレッスンは音の「立体性」を作ることまでレッスンの中に組み込 んである。
 「もっとつなげて」という指示、「もっと口の動きそのものに力を入れて」という指示は、音の「立体性」を作るためのものである。

 昨日のレッスンである枠の生徒さんに話したことの概要を書いておきたいと思う。

「英語ネイティヴの人というのは、英語で育った人ということです。こういう人たちは、四六時中、のべつまくなしに英語を耳にし、英語を口にする。夢をみて いるときでも、夢の中に出てくるのは英語ですから、四六時中、のべつまくなしにという言い方は大げさでもなんでもない。その通りなんです。
 日本に住んで、日本語で暮らしながら英語を練習するということには、こういう「四六時中」や「のべつまくなし」というものはありません。本当に文字通り それをやったら生活が成り立たなくなる。
 私の生徒さんには、非常に仕事が忙しい方もいます。下手をすると、一週間の間に英語の音に触れるのが、このレッスンの30分だけということになりかねな いような方もいます。
 日本語でも英語でも同じですが、子供のしゃべり方を聞いていると可愛いと思いますが、あの可愛らしさというのは、「大人の音」がまだ口の筋肉に根を張っ ていないことからくる可愛らしさなんです。筋肉の動きの非常に浅いところにしか「大人の音」の根は張っていない。だけど、日本語ネイティヴは日本語に「四 六時中」「のべつまくなし」に触れて育つので、「大人の音」がだんだん根を張っていく。日本人の口には日本語の音が、英語ネイティヴの口の筋肉には英語の 音が根付いていく。これは、生活過程そのものに、「四六時中」「のべつまくなし」があるから、「自然に」そうなる。放っておいてもそうなる。
 語学では「自然にそうなる」なんてことは起こりません。どこかで、人工的に強引にやるということが必要です。
 私の「音づくり」も、個々の音を直したり、連音処理をしたりすることから始まりますが、だいたい教材の1万行を越えたあたりから、「つなげろ」「もっと 口の動きそのものに力を入れろ」ということを指示するようになります。これは、日本語の音がフラットだからということの他に、そうしないと、「大人の音= その言語の標準音」が筋肉に根を張ることが起こらないということが一番の理由です。意識的に「つなげる」ということ、「口の動きそのものに力を入れる」と いうことをやらないと駄目なんです。」

 そういうことを生徒さんにしゃべっていて、「個々の音」の扱いや、「連音処理」は、私の「音づくり」においては、「前段」とすればいいことに気づいた。
 「前段」に対して「後段」があり、それが、「つなげろ」であり、「口の動きそのものに力を入れろ」の指示になる。

 「前段」は、自作教材でほぼ1万行を使って扱う。それ以降が「後段」になる。もちろん、最初の1万行を扱う間にも「つなげろ」と言うことはあるし、「口 の動きに力を入れろ」ということもある。数万行扱った生徒にも、個々の音で直すべきものがあれば、直すこともする。だから、1万行というのは非常におお ざっぱなものだが、おおざっぱに言えばそうなるということである。

 「前段」で1万行なら、「後段」は何万行扱うのかという疑問が生じるかもしれない。これは、非常におおざっぱにさえ、何万行と言うことができない。

 私のレッスンには、「自立練習のみ=無料課程」というものがある。
 個々の音、連音処理、読みの連続性、音の立体性のすべてにわたって注意することがなくなったレベルになれば、生徒さんは「自立練習のみ=無料課程」に 移っていただく。ここからは、巨大な教材をいくら使ってもらっても、お金がかからない。(村田コーチの元にレッスン枠が増えていることなどの他の条件もあ るが・・・)

 「前段」というのも「後段」というのも、「レッスン期間」における「前段」であり「後段」である。
 「前段」はおおざっぱに1万行という目安がある。
 「後段」は数万行あるいは十数万行というくらいにしか言えない。時間で言えば、何年かかるかは生徒にまかされる。よく練習すれば短くなるし、チンタラや れば長くなるとしか言えない。

 「自立練習のみ=無料課程」までも射程に入れれば、「レッスン期間=前段」、「無料課程=後段」と考えることもできるだろうが、今日書いたものは、レッ スン期間中での「前段」「後段」のことである。

 柴田さんが言われたように、「連音処理・音と音のぶつかりあいの処理」をやるところが、柴田さんの教室と素読舎の他にはないのだとして、では音の立体性 を扱うところはどこにあるのか。
 これは、日本全国くまなく探してもらっても、素読舎以外にはどこにもないのではないか。

 実はある。機関にではなく、「個体」として「ある」だろうと思う。
 学校にも塾にもその他あらゆる教育機関にも頼らず、「一人でやる練習」でそれをやる人はいるのだろうと思う。
 私も大学の受験英語でそれをやった。他にもいるだろうと思う。砂の中にゴマ粒を落として、それを探そうとしたら大変だ、というより、まずみつからないと あきらめるのがいいだろう。しかし、みつからないからと言って、砂の中に確かにゴマ粒が混ざっていることは間違いはない。砂を蒔いても芽は出さないが、ゴ マ粒は生きた種なら芽を出すだろう。しかし、砂の中のゴマ粒はまずみつからないだろう。

 私が言いたいのは、教育機関でそれを持ったものがあるのかということだ。
 教育機関がそれを持てば、英語は英語フリークの専有物ではなくなる。
 つまり、内田樹の言う「リンガ フランカ」が現実のものとして立ち上がることが可能になる。
 内田は、「リンガ フランカ」を言うが、現実にそれがどう立ち上がるのかについては言えていない。扱う語彙を使用頻度の高いものに限るというようなこと しか言えていない。問題はそんなところにあるのではない。
 内田が武道論で展開すべきものと同等のものが、語学論として展開されなければ、道というものはつかないのである。

 柴田さんのように、私も言いきってしまおう。

 意識的に「音の立体性」を作っているところは、素読舎以外にはない。
 ここで「音の立体性」と言っているものは、ひとまず実体として読んでもらっていいが、実は「方法の立体性」として読んでもらいたいとも思っている。

 私の語学のレッスンにおいては、ひとまず、そしていきなり、生徒の体を動かさせる。頭ではない。内田樹の合気道とその点では何の変わりもないだろうと思 う。
 内田は武道論を書くのでわかっているものと思う。内田は、師と弟子という関係でものを考えることができ、先生と数十人の生徒の関係(教室での関係)では ないものを持っている。
 そういう人になら、「教室」では駄目なんだということがわかってもらえるのではないかと思うが、いまだ内田の書くものにその観点はない。

【17484】
ミキさん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月25日(木) 02時39分47秒

>学習してく上ではアメリカ、イギリス英語をお手本にする事で良いんですね。(でも、その中でどれがスタンダードなのか、自分の中でちょっと混乱してしま う時があるのですが...。)頑張ります。

 アメリカ、イギリス英語を「お手本」と考えてもかまいませんが、私は、「お手本」を「媒介にする」と考えています。日本語で育った日本人の体を元に、 「自分の体から」考えていきます。

>でも、その中でどれがスタンダードなのか、

 アメリカ英語でも、イギリス英語でも、テレビ英語とか放送英語みたいな、どの地域に住んでいても理解可能な英語を「スタンダード」とするのでいいと思い ます。実は、味のあんまりない英語ですが・・・。
 それとも、スタンダードはアメリカ英語なのかイギリス英語なのか、という問題意識なんでしょうか。
 その場合は、誰と商売をするのかとか、誰とつきあい続けるのかということで決定するのでいいと思います。当面、そんな相手がないというのなら、自分の好 みでいいとも思います。

 アジアの人たちとつきあうのなら、インドはイギリス英語、タイ、ベトナムはアメリカ英語でしょうか。
 スタンダードをどっちにするかよりも、どちらのスタンダードであれ、それを「媒介」にできるかどうかが大事だと考えています。

 「お手本」にすれば、「媒介」にできるとは限らないと思っています。
 「お手本」という考えは、概して主体性を殺してしまうとも思っています。
 「お手本」ではなく、「お手本にしてもいいブツ」だと私は考えます。

 アメリカやイギリスに行けば、英語はただの「石ころ」です。
 近代の日本にいれば、英語が「宝石」扱いされているのを見させられます。

 「お手本にしていいブツ」というのは、英語も「石ころ」なんだと認識することになります。その点では、私は唯ブツ論者です。

【17485】
メモ 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月26日(金) 15時44分41秒

 植民地化と連動する言語政策から、磁場論を無視した小学校への英語導入に至るまで、施政側から出てくるものはすべて、「ことば」と「言語」を区別してい ない。あるいは、区別することができない。
 「ことば」に対置される「言語」とは何であり、「言語」に対置される「ことば」とは何なのか。共によく流通している語であるが、ここに改めて「ことば」 を定義し、「言語」を定義する必要が生じる。
 私の定義では、「ことば」は「生」に根を持ち、「言語」は「死」に根を持つものである。それが語学から見た「ことば」であり、「言語」である。語学だけ が「言葉=生」・「言語=死」の構造を明らかにすると言ってもよい。

【17486】
連絡用掲示板から転写 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年11月29日(月) 03時18分7秒

皆様 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年11月29日(月)03時12分52秒

 今後もパンフレットを作るようなことがありましたら、その途中経過を、「ホームページ作成編集室」という掲示板ですべて公開していきたいと思います。
 印刷し製本屋に製本を依頼してしまってからでは、変更ができませんので、作成経過を公表し、その過程で変更すべきものを変更したいと思います。
 作成中に「これはこのままではまずい」というようなことがありましたら、「ホームページ作成編集室」にお書きいただけば、「作成編集室」における記事そ のものも削除いたします。

 Piggy さん宛てにも書きましたが、私の「スカイプでレッスン」は食うや食わずで継続してきたものです。私のすべての枠が埋まっている場合に、なんとか生活ができ ます。
 「無料過程」の人しか使わない部分の教材づくり(現在、十数万行台)を継続するためには、現在の生徒さんたちに、継続的に積極的に、周りに広めていただ く必要がありますが、なかなかやっていただけません。
 現在は二つの空き枠が生じています。これだけで非常にきついのです。私は私の語学の方法をまともなものだと考えていますが、この種のまともなものには、 世の中の多くの人々は目を向けてくれません。
 ですので、もしパンフレットを作れば、あからさまな「宣伝・広告」をやるしかありません。本当は、パンフレットなんか作りたくないのです。私は、教材づ くりと語学論に専念したいのですが、今回は、それらを中断して、パンフレットづくりをせざるを得ませんでした。

 今後、パンフレットを作る場合は、この掲示板に告知し、「ホームページ作成編集室」に途中経過をすべて公開いたします。

【17487】
連絡用掲示板から転写 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年12月 4日(土)03時08分8秒

根石さん 投稿者:ノンノン母 投稿日:2010年12月 3日(金)23時52分26秒

根石さん。パンフレット、ハリマオ届きました。連絡が遅くなりました。どうもありがとうございます。パンフレットですが、知り合いに興味をもってくれてる 人がいるのですが、
レッスンの時間が何時になるのかしりたいそうです。今二つの枠があるとのことですが、
何時があいているのか教えていただけますでしょうか。
それから、私事ですが、先日英検準2級に合格しました。二十?三十?数年ぶりに受けた試験でしたのですっかり緊張してしまったのですが、一次、二次試験と 無事に合格をすることができました。とてもうれしいです。リスニングで点を稼ぐことができていたのでレッスンでの効果であることを実感しました。本当にあ りがたくおもっています。
それから、娘ですが、3級に合格しました。こちらは私とは違い、満点に近い点数での合格でした。来年1月には準2級を受けるそうです。合格したら又自慢? させてください。
よろしくお願いいたします。


ノンノン母さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年12月 4日(土)02時55分35秒

>パンフレットですが、知り合いに興味をもってくれてる人がいるのですが、
レッスンの時間が何時になるのかしりたいそうです。今二つの枠があるとのことですが、何時があいているのか教えていただけますでしょうか。

 ありがとうございます。このところ気が滅入ることが多く、何をやってもうまくいかないなあと思う日もありました。力づけられました。本当にありがとうご ざいます。

 私の空き枠は、金曜夜9時20分からと、月曜夜9時からの枠です。
 お知り合いの方の都合と合えばいいのですが・・・。
 交渉すれば、月曜9時の枠は、同じ曜日の9時40分からの枠と交換することができるかもしれませんが、12月からこの枠のメンバーが入れ替わったばかり ですので、お使いいただけるとしても、来年1月以降になります。
 金曜の空き枠の時間帯は、その前の8時40分からの枠と交換していただける可能性もあります。こちらも、来年1月以降になります。
 どちらにせよ、交渉の結果次第です。
 お知り合いの使いたい曜日時間帯をお知らせいただけると有り難く存じます。

>それから、私事ですが、先日英検準2級に合格しました。二十?三十?数年ぶりに受けた試験でしたのですっかり緊張してしまったのですが、一次、二次試験 と無事に合格をすることができました。とてもうれしいです。リスニングで点を稼ぐことができていたのでレッスンでの効果であることを実感しました。本当に ありがたくおもっています。

 私もうれしいです。英語の錆を落としただけでなく、新しい力をつけて下さっていると思います。英語はつくづく嫌気がさすことがありますが、その時に踏ん 張っていただけることを願っています。今は登り調子ですから心配していませんが、なかなか壁が破れないという時がいずれ来ます。その時に踏ん張っていただ くことを期待しています。今は、いけいけどんどんでいいと思います。

>それから、娘ですが、3級に合格しました。こちらは私とは違い、満点に近い点数での合格でした。来年1月には準2級を受けるそうです。合格したら又自 慢?させてください。
よろしくお願いいたします。

 娘さんはとても着実です。私は期待しています。
 以前にも書きましたが、日本人は匿名(ネット名)で書く時でさえ、我が子自慢をなかなかしてくれません。英語の力がついているとか、学校でクラスで何番 になったとか、学年で何番になったとか、どしどし自慢していただくと、私が元気になりますので、どしどし自慢して下さい。

 学校名などを伏せて、自慢をお寄せ下さい。
 この掲示板を「連絡・自慢専用掲示板」と呼んで下さっても結構ですので。

【17488】
音の連続(f, v, b, p) 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年12月 4日(土)06時36分21秒

私は月曜日に、根石 さんの監修のもとでコーチしている枠があります。

I don't feel his vibration. という文で、生徒さんが、vibration の b の後に、どうしても母音 u が入ってしまうので、vi の i の方を大きく発音してください、と言ったことがありました。vi は第2アクセントだけれど、そこを大きめに発音することで、相対的に b の後の母音は小さく聞こえるととっさに思ったのです。(今これを書いているとわかりますが、だめな指示だと思います。口の動き自体は変わらないのですか ら)
この時、根石さんから、生徒さんに対して「b は唇を閉じるだけにして、すぐに r を発音するつもりで発音してください」という指示がありました。私に対しては、これは子音の連続の問題だから、具体的な指示を出せなければ駄目だとアドバ イスされました。
生徒さんは、根石さんの指示に従って I don't feel his vibration. と繰り返しているうちに、b の後ろの母音は消えていきました。


この後、子音の連続について考えていました。
v も、子音の連続の中においてみると、唇を閉じると言っていいのかもしれない。Give me. は Gimme. と発音している時もあるし。
じゃあほぼ同じ発音の f にも同じことが言えるかもしれない。
p もそうかもしれない。

p もそうかもしれないと考えたのは、私の p の音が弱いことに関係があります。
例えば、ゴーストには You wanna help me lift this up? という文が出てきますが、ここでは p が2回出てきます。p は破裂させる音なので、意識的に破裂させようとすると、すごくむずかしい。
私にとって、なんで p の音が難しいのか考えてみると、唇だけで破裂させる音だからかと思います。v, f は上の歯に下唇がくっつくので、コントロールしやすい。v, f で終わる単語も、下唇を上の歯につけ、息をせきとめるようにするといい。けれど、p は唇だけで破裂させるので、とっかかりがない気がする。下手をすると p の後に母音がはっきりついてしまう。
私が You wanna help me lift this up? をつなげて言っている時は、help の p 、lift の f 、up の p を唇を閉じて言っているだけの時があります。
先日、小川さんと自立練習をやっている時に、この文が出てきたので、あえて唇を閉じるだけで発音して、意見を聞いてみました。小川さんは、ちゃんと You wanna help me lift this up? と聞こえるとおっしゃいました。

ならば、 v, f, b, p は子音の連続の中では唇を閉じる音と言ってもいいのではないかと思いました。
これも、「練習の中で出てくる中間音」かと思っています。

小川さんは、フォニックスだと b, p は同じ系列の音だと言っていました。
私は、日本人としては、まずは「閉じる」音としてとらえていいのではないかと思います。すらすら言えるようになった後、やりたければ b, p についても細かな違いを出すようにすればいいのではないでしょうか。

【17489】
メモ 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年12月 4日(土)17時59分50秒

 なぜお経はわけのわからない音の連続として日本で現象したのか。
 インドの仏典を翻訳した中国語をそのまま載せるシンタックスが日本になかったからである。

 身体において言語のシンタックス自体が相互に against である経験は、日本人にとって、明治の開国から始まった経験ではない。日本語と中国語との関係においてはるか昔に生じたものである。

 日本語はシンタックスごと中国語を載せることができない。(英文法的観点から見れば)日本語は「SOV」シンタックスであり、中国語は「SVO」シン タックスであるから、相互のシンタックスはなじまない。というより against の関係にある。
 相互のシンタックスがなじむものなら(欧米語同士の相互関係のようになじむものなら)、そこには「激突」はない。例えば、ラテン語で表される観念や概念 が変形して、各国語(各個別言語)の中にちらばるというような現象は、各国語(各個別言語)のシンタックスが相互になじむもの(共通の祖先を持つもの)で あるという相互親和性による。シンタックスの相互親和性がありさえすれば、極端に言えば、新奇な語や極端に古い外国語を自分のネイティヴ言語のシンタック スで使い続けさえすれば、新奇な語がしだいになじみの「日常語」に近づくか、「日常語」に同化していく道がある。

 それが中国語と日本語の間になかった。
 だから、お経はわけのわからない音の連続のままだったのだ。
 今も、英語と日本語の間にそれがない。
 だから、日本のテレビでいくら英語の音が鳴っても、日本人にはわけのわからない音の連続のままである。

 (スエーデン人と(日本で)英語で話した時に知ったのだが、スエーデン人はテレビで英語の映画など観ているだけで、英語を覚えてしまうと言っていた。英 語とスエーデン語のシンタックスが共通の祖先を持つということの証だろう。それがあれば、各個別言語の音の違いは、比較的容易に乗り越えられるということ なのだ。日本で例えば、秋田弁と土佐弁で話をする程度の違いなのだ。)

 「わけのわからない音の連続」のほうがありがたみがある、というようなことはありうることである。しかし、もし中国語をそのまま載せるシンタックスが日 本にあれば、日本人の知的興味が中国語の語彙を音だけ変形させて日本語にそのまま載せた成果というものもあるはずである。「わけのわからない音の連続」を ありがたがるというだけで済ませておいたはずはない。
 「中国語の語彙を音だけ変形させて日本語のシンタックスにそのまま載せた成果」というものは、実はある。それが江戸時代の漢籍の扱い方だ。論語を親分と した封建制度イデオロギーの書物たちをどう読むか、だっただろう。
 漢籍の扱いの基本は素読である。中国語の語彙は日本語音化された読みで読まれ、返り点や「てにをは」や「一、二、三」などが使われた。シンタックスは日 本語のまま無傷であり、日本語音化されたが語彙の表記は明らかに中国語(漢字)のままである。「てにをは」やわずかな記号だけを使って、観念や概念はなる べく中国語のまま受容しなじむ方法が、当時の素読だったはずだ。およそ、「同化した」というレベルではないが、それゆえにこそ、この方法によってシンタッ クスの「激突」は回避され、語学は回避された。
 日本語に「てにをは」がなかったら、これは不可能だった。逆に言えば、「てにをは」があったせいで、中国語のテキストが生のまま扱われることが一般化し なかったと言ってもいい。

 「激突」を回避する方法は、いかにも「鎖国」と釣り合っている。それは、「太平の夢を見る方法」だと言ってもいい。それは中国語のテキストを、日本語の シンタックスで読むという奇天烈な方法なのである。

 こういうテキストの読み方が庶民にまで開放されていたということはないのではないか。つまり、藩校では素読を使ったが、寺子屋では素読は使われなかった というようなことなのではないか。このあたりが、いつまでも私にはくらがりのままである。

 シンタックスそのものは、はるかに古いものであるが、表記としての現代の日本語(激しい漢字仮名交じり状態)の原型を「江戸の素読」のテキストに見るこ とはできないのか。そんなものが原型なわけがない、それ以前にも漢字とかなが混じり、素直に日本語のシンタックスに従った表記はあったと例を挙げることは できるかもしれない。しかし、なじみのない概念、難解な概念を「てにをは」で元テキストとは順不同につなげて、「かなり無理な日本語」ながら、シンタック ス自体はれっきとした日本語としてテキスト化し、それになじみ、侍なら侍の共同観念とする、あるいはその共同観念に参加する、あるいはその共同観念を媒介 にした「ことば」の分派同士が争い殺し合う、というような「観念のなじみ」の共有化、その共有を元にした争いは、江戸末期頃に始まったのではないか。これ は文化の爛熟と関係がある。「観念の共有化と共有を元にした争い」は爛熟なしには起こらない。
 それ以前は、「観念のなじみ」の共有というものは、寺の中にあったくらいのものではないか。あるいは、講の中に。(講というものもよくわからないもので ある。)

 「わけのわからない音の連続」の成立は、「江戸の素読」以前のものである。一部の僧侶(語学の才能たち)を除いて、お経というテキストを「わけのわから ない音の連続」のまま受容するしかなかった時期というものが、「江戸の素読」以前には、相当長い期間にわたって存在している。「わけのわからない音の連 続」のままにしておけば、そこには「激突」もないし、「観念のなじみ」とその共有化、そのことによる争いというものも生じない。わけがわからないゆえにあ りがたい、ということの他に、位階が作る制度にとって「安全」だということもあったはずだ。

 「江戸の素読」というものは、いや、こんなものもこうすればわけがわかるものになる、という一大発明だったと言える。「わけのわからない音の連続」のま まに放置しておくことはない。こうすれば、わけがわからないゆえにありがたいという盲目性から抜けることはできるという方法だったのではないか。いずれ、 「太平の夢を見る」方法に堕するとしても。

 その素読の方法は、仏典に向けることもできたはずだ。しかし、おおざっぱに言って、それは仏典には使われず、儒教的新興イデオロギーに主に使われた。こ れは江戸幕府の政治的な理由によるものだろう。

 しかし、方法自体は「政治的な理由」から抜け出る。
 それが、現代においても素読が息を吹き返すということなのである。

 素読舎では、素読をそのままに使っているのではない。
 方法的原理を素読から得ているだけだ。それはそうだが、素読が息を吹き返した地点の名を素読舎と呼ぶのだとは言える。

 素読舎が扱ってきたのは英語だが、英語のシンタックスそのものを身体内に立ち上げることがめざされた。「日本在住のまま」という条件下で、それがどう可 能かが素読舎の課題の一つだった。
 異質シンタックスを身体内に立ち上げる点において、素読舎の素読は「江戸の素読」とは違う。「江戸の素読」は日本語のシンタックスをそのまま使ってい た。(それが多数派だっただろう。)それは、近代の学校の「漢文」の授業に流れ込んでいる。
 素読舎は、「江戸の素読」を養分として、明治時代に開花した英語使いたちにあった「激突」からの流れを汲むものだ。とりわけ、岡倉天心。「激突」を経 て、岡倉が見いだしたものは、儒教を過去の方へ越えたところに息づいているタオだった。

 「江戸の素読」が回避し緩和することのできた「激突」が、再び回避できなくなった時代、それが坂本龍馬以後なのである。その意味では、太平洋戦争後の 「えいかいわぶーむ」には、敗戦以前、開戦以前からの流れを汲むところがあったのかもしれない。
 しかし、なおもよく見てみるなら、龍馬の「激突」、あるいは龍馬以後の「激突」はすでに滅びているのが見える。現在の小学校への英語導入につながる戦後 の「えいかいわぶーむ」に、「激突」はない。それがないことが、敗戦以後の心的植民地の証なのである。

 「激突」を回避して、語学が成就することはない。
 「江戸の素読」や「えいかいわぶーむ」を、語学の方に奪い返すこと。
 異質シンタックスとの間に交通を開くこと。

 「龍馬以後」は続いているのに、「激突」は滅びてしまった。
 戦争という「激突」によって滅ぼされてしまったということか。

 語学「内」の「激突」を見る者はきわめて少ない。
 空海の頃から、それはずっと続いていたはずだ。「太平の夢」を見ていられた人が多数を占めていたときにも、「激突」は寺に属したりしながら、個の中に持 続したり、息を吹き返したりしていたはずなのだ。それを、「語学的才能たち」と呼べばいいのではないか。

【17490】
村 田君 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年12月 4日(土)18時01分38秒

>ならば、 v, f, b, p は子音の連続の中では唇を閉じる音と言ってもいいのではないかと思いました。

 これは特にその後ろに「唇を閉じる音」(m音など)が続く場合だと思います。
 You wanna help me lift this up? の up にある p は、「唇を閉じて息で開く」音だと思います。

【17491】
村田君 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年12月 4日(土)23時01分13秒

補足

>ならば、 v, f, b, p は子音の連続の中では唇を閉じる音と言ってもいいのではないかと思いました。

 これは特にその後ろに「唇を閉じる音」(m音など)が続く場合だと思います。
 v,f,b,p が v,f,b,p とぶつかり合う場合も、(前の音が)「閉じて息で開く音」の前半=「閉じた状態」としていいと思います。
 vb とか、fp とか、 pb とかのぶつかりあいで、前の音が「閉じた」状態になり、後ろの音が(前の音の)「閉じた」状態をひきついで、その後「開く」ということになります。一瞬の 間にそうなるのですが、スローモーションで見ればそうなると思います。
 ですが、こんなふうに解析的にしなくても、該当の音を言うつもりで「閉じていていい」という感覚がつかめれば、それで解決することもあります。解決して いる場合は、こちらから何も言う必要はないことは言うまでもありません。レッスンでアドバイスするときは、解析的に言う必要があります。その際、「子音の 連続の中では」ではあいまいな言い方になります。「v, f, b, p に子音が続く場合に」というように、音の「前後関係」がはっきりする言い方がいい。

 蛇足ですが、You wanna help me lift this up? の up にある p は、「唇を閉じて息で開く」ことになります。これは、文末にあるので、音がぶつかりあうことがないからです。

【17494】
根石さん 投稿者:村 田晴彦 投稿日:2010年12月 5日(日)00時55分18秒

コメントありがとうございます。
すっきりしました。

>レッスンでアドバイスするときは、解析的に言う必要があります。その際、「子音の連続の中では」ではあいまいな言い方になります。「v, f, b, p に子音が続く場合に」というように、音の「前後関係」がはっきりする言い方がいい。

「子音の連続の中では」は違う受けとられ方をしてしまうかもしれませんね。
「v, f, b, p に子音が続く場合、v, f, b, p は唇を閉じていい」と言うようにします。

>蛇足ですが、You wanna help me lift this up? の up にある p は、「唇を閉じて息で開く」ことになります。
自分で意識してやってみると、確かに up の p は唇が軽く開いてました。up の p も破裂していないと感じていたので、「閉じる」と書いていました。
根石さんの「唇を閉じて息で開く」はとても正確な言い方だと思います。

【17497】
根石さん 投稿者:tiny sand 投稿日:2010年12月 9日(木)00時15分29秒

お久しぶりです。ご 無沙汰しています。孫の子守で留守をしていたので、返事が遅くなりました。
申し訳ありません。「ハリマオ」とパンフレットを送っていただき、ありがとうございました。
「幼児英会話=遊郭」論は、興味深く読みました。パンフレットは中学生がいる知人に、持って行こうと思っています。

この頃、随分久しぶりに中学時代の教科書を読んでみました。
タイトルは「Spring Has Come Again」で
"Ring! Ring! Ring! Wake up! Wake up!" the clock cries out.
It is just half past six. という書き出しで始まるのですが
中学生の時は、リング、リングといわゆるカタカナ発音で読んでいたので、英語を学んでいても
英語ではないような変な感覚が、私にはありました。でも根石さんに教えていただいた音で
今読んでみると、英単語の一つ一つが教科書から飛び出してくるような、不思議な気持ちになりました。それと同時に、情景も立体的に浮かんできます。改めて 「音づくり」は大事だなと思いました。
根石さんに本当に感謝しています。

【17498】
桐田真輔さんのサイト「キキハウス」から引用。 投稿者:馬の骨 投稿日:2010年12月14日(火) 22時02分58秒

吉本隆明『ひとり』(2010年10月18日発行・講談社 1000)は講話録。カバーに「15歳への寺子屋授業その実録」とあり、文芸評論家の吉本隆明 氏が、15歳の男女4人を相手に1年かけて行ったという寺子屋授業。全6章(1時間目から6時間目まで)にわけられていて、4時間目の芥川、太宰、賢治の 作品を紹介解説した創作世界への誘いのような特別授業をのぞいて、それぞれ冒頭に参加した男女の思っていることや質問事項がしめされ、その問いに答える形 で吉本氏の講話が収録されている。自分がひとりきりだと思う、将来のことがよくわからない、片思いってどう思うか、大人になるとはどういうことか、など、 孤独感や恋愛感情、将来への不安など、15歳(中学三年生)という年齢前後に誰もがはじめて遭遇するような素朴ながら普遍的な問いに、1924年生まれの 著者は自らの体験をくみあげるようにしながら丁寧にこたえている。思うところを答えようとすると自然に(作為なく)自ら考えぬいてきた原理的な思考の骨格 につながっていくところが、いつもながら味わい深いところ。

【17499】
tiny sand さん 投稿者:根 石吉久 投稿日:2010年12月16日(木) 00時59分36秒

お久しぶりです。
お元気そうな声が聞けてうれしいです。

 昔の生徒さんのうちから、「ハリマオ」やパンフレットを読んでいただけそうな方をこちらでピックアップして、送らせていただきました。

>パンフレットは中学生がいる知人に、持って行こうと思っています。

 ありがとうございます。よろしくお願い致します。

>この頃、随分久しぶりに中学時代の教科書を読んでみました。
タイトルは「Spring Has Come Again」で
"Ring! Ring! Ring! Wake up! Wake up!" the clock cries out.
It is just half past six. という書き出しで始まるのですが
中学生の時は、リング、リングといわゆるカタカナ発音で読んでいたので、英語を学んでいても
英語ではないような変な感覚が、私にはありました。でも根石さんに教えていただいた音で
今読んでみると、英単語の一つ一つが教科書から飛び出してくるような、不思議な気持ちになりました。それと同時に、情景も立体的に浮かんできます。改めて 「音づくり」は大事だなと思いました。
根石さんに本当に感謝しています。

 こちらもうれしく読みました。
 私のレッスンには、「無料過程」というものができました。
 音読のレベルで判断し、これなら大丈夫というレベルに達した生徒さんから、「生徒同士での練習」だけに移行してもらい、教材と方法を無料で使っていただ くものです。現在二人の「無料過程」の生徒さんがいます。
 興味がおありでしたら、お問い合わせ下さい。スカイプを使われているといいのですが・・・。

【17500】
連絡専用掲示板から転載 投稿者:村田晴彦 投稿日:2010年12月16日(木) 08時03分45秒

日本人の脳 投稿者:東風平恵典 投稿日:2010年12月14日(火)12時02分3秒

根石さんはひよっとしたら僕を覚えているかも知れません。僕も早くから素読法で英語は勉強してきました。
今年で辞めるつもりでいます。理由は単純です。表現が出来ない。語学に身を入れすぎると、思想表現ができません。「塾はどこまでいくか」を読んで誤解を受 けそうな投稿がありましたので、少し書かせてください。
角田忠信さんの「日本人の脳」ってありますね。この本は現在は知りませんがロングセラーだったのです。
最初の本なくしてしまい、再度購入したのが確か1996年の暮れです。この本を読んで寄稿なさったとおもいますが、どうも正確でありません。日本人の脳っ て欧米人だけでなく、近隣諸国の人たちとも違います。韓国中国、台湾の人たちは自然音を言語脳では聞きません。右脳で反応するのです。虫の鳴き声は単なる 雑音です。素読舎は優れています。是非頑張ってください。根石さんのfax番号を教えて頂ければ幸いです。
恐らくrecessionもあって英会話学校はつぶれるととおもいます。根石さんが執筆なさっているのがその根拠となっています。「怪傑ハリマオ」を拝読 してもそんな気ががしております。頑張って頂きたいと存じます。


東風平さん 投稿者:根石吉久 投稿日:2010年12月16日(木)00時10分18秒

 記憶が薄れておりますが、私の以前の借家へドイツ人二人の方達と見えて泊まっていかれた方でしょうか。
 どのような経緯で見えられたのか思い出せずにおります。詩の雑誌とかで、知って訪ねて来られたのでしょうか。

>今年で辞めるつもりでいます。理由は単純です。表現が出来ない。語学に身を入れすぎると、思想表現ができません。

 あるいはそうかもしれません。日本在住という条件下では、激しい語学を一生続けることはできません。日常の中にどう語学を組み込むかは、非常に難しいも のがあります。そこを考えて作ったのが、素読舎の「ひとつの巨大な教材」というものです。
 私は日本在住のまま行うべきものは、語学の「達成」ではなく、「維持」だと考えています。「磁場」に交わったときに、反応を起こしうるだけの質の「維 持」です。剣道の素振りみたいなものとしてイメージしています。「真剣」を忘れずに「維持する練習」です。

>角田忠信さんの「日本人の脳」ってありますね。この本は現在は知りませんがロングセラーだったのです。

 パンフレットに書いたものは、鵜田さんという方のホームページで読んだ「ような記憶」があるだけで、どこで読んだのかはっきりしません。
 角田さんの「日本人の脳」は読んだ記憶がありません。

>韓国中国、台湾の人たちは自然音を言語脳では聞きません。

 中国語は英文法的観点からは、「SVO」タイプですから、ヨーロッパ系の言語とシンタックスが同じになります。「台湾の人たち」というのが、中国系の人 たちを言うのか、高砂族など地付きの民族の人たちを言うのかわかりませんが、中国系の人たちなら、これもヨーロッパ系となります。地付きの民族がどういう 言語を持っていた(いる?)のか私に知識がありません。
 韓国語は「SOV」タイプであり、日本語と同じです。「虫の声」などに日本人と同じように反応する可能性は高いと思っています。

 いずれにせよ、私は言語のシンタックスが文化のシンタックスを基礎づけ、人間の生理的な反応のレベルにまで食い込むことがあるのだと言いたかったので す。言語というものは、文化総体の基底になるほどのものなのだ、と。
 「虫の声」に対する反応については、「生理的な反応のレベル」で起こることの一例として提示できればそれでよかったのです。
 脳科学そのものには、ほとんど関心がありません。

 英語は、いまいましいことながら、今後、欧米諸国だけでなく、アジア、アフリカの人々との交流にも使われていく言語となるだろうと考えています。日本人 として英語をどうとらえるべきかという観点は、以前に増して大事なものになっているのですが、そこに急務があるとは誰も考えていないように私には思えま す。多くの人がとんちんかんなことをやっていますし、語学論にもほとんどまともなものはありません。

 私にとっての英語は、そもそもは大学受験での受験科目の一つに過ぎませんでした。受験勉強でやったことで、その当時は意識していなかったものを、後年塾 をやりながら少しずつ意識化してきました。英語をやるということの中に、「語学」の方法として普遍化できるものがあるはずだという勘はありました。今も、 「語学」の方法として普遍化することは可能だと考えています。
 それが可能であれば、私の提示している方法が対象とするものは、「英語」に限らない。他の言語に対しても、それぞれの方法を組み立てる場合の基礎的な理 論として使えると思っています。

 私は英語以外の言語のコーチや講師をやれるのではありませんが、どんな教材を作り、それをどういうふうに使うべきかということなら、どんな言語について でもアドバイスはできるとも思っています。

>恐らくrecessionもあって英会話学校はつぶれるととおもいます。

 英会話学校がばたばたとつぶれても、日本の小学校への英語導入という新たな迷妄が登場しています。なぜ英会話学校は無能なくせにのさばれたのかについて は誰も明らかにしようとしません。英会話学校がのさばったことと小学校への英語導入は同根のものです。この国には、語学論が成立していないのです。「そ れっぽい」ことをやってごまかすことだけを続けています。

>根石さんが執筆なさっているのがその根拠となっています。「怪傑ハリマオ」を拝読してもそんな気ががしております。頑張って頂きたいと存じます。

 ありがとうございます。体力がなくなってきましたが、少しずつ手作りで教材を作っています。語学論は道遠しです。体力と相談しながらやっていくつもりで す。

 FAX番号は、メールでお送りします。よろしくお願い致します。
 車の中に、携帯電話を放置して、さきほど留守電に東風平さんが吹き込んで下さったものを聞いたところです。すぐにお返事できず申し訳ありませんでした。
 宮古島の方だと聞き取れたのですが、間違いないでしょうか。電話番号がわからなかったので、この掲示板にお返事させていただきました。
 住所をお知らせ下されば、パンフレットをお送りしたいと思いました。お知り合いの方に手渡して読んでいただければうれしく思います。

 ひとまず、以上書きましたものを、メールに転写してお送りします。