【12002】
しまりすさんへ 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月10日(土)13時15分30秒

しまりすさんからのお誘い、どうしたものかと思案していたのですが、根石さんのお許しが出ましたので、ここで続けさせていただきます。しまりすさんの掲示 板にお邪魔するのは、どうも気が進まないのです。場の雰囲気というものがありますので。

ですので、いただいたご質問にできる範囲でお答えしたいと思います。

まず、前提として申し上げたいのは、私はできれば子供の教育からは手を引きたいと思っているということです。手を引くというと語弊があるかもしれません が、自分自身が教えることはもちろん、伴走者としてのコーチングもできる限り避けたいと思っています。適切な指導者を見つけ、お金は出すけど口は出さず見 守る、が良いと思っています。

しかし、前にも書きましたが、使える教育費の多くの部分を税金という形で学校に徴収されていますので、どうしても他に回せる部分が限られてしまいます。

そして、息子にとっては勉強は二の次三の次ですので、スポーツの方にまずは回ります。そこで予算編成終了!、となっています。それはそれで良いとは思って います。スポーツのコーチから多くのものを得ていると思いますので。一番大事なのは「コーチってすごいなあ」この感覚と思っています。根石さんが「親の 背」とお書きになっていますが、親よりコーチの背中と思っています。

では、予算不足だから勉強については全く放っておけるかどうか、というのが問題です。放っておいたら、暗くなるまで遊んで帰ってきて、あとはゲーム、カー ドゲーム、テレビ、以上、本日終了!

それでは、プロのコーチ無しで、(害を最小にして)何ができるかということになります。「どんぐり」に関しては、そういう点で糸山さんのFAX指導を受け おられるしまりすさんと私とでは状況が異なるとは思います。

>まず、お聞きしたいことは、らくださんは、どんぐり文章題を始められるにあたって、著書や過去ログをお読みになったのでしょうか?ということです。

私が「どんぐり」を知ったのは、たしか2002年でした。その当時は過去ログは今ほど膨大ではなかったと記憶していますが全て読みました。その後、『絶対 学力』[文春ネスコ (2003/03)]、『三角計算練習ドリル』[宝島社 (2003/09)]、『新・絶対学力』[文春ネスコ (2004/03)]を読みましたが、それ以降発行されたものは読んでおりません。

>らくださんは、どんぐり文章題を一緒に描かれたことがありますか?簡単でしたか?

たくさんではありませんが、もちろんあります。確かに大人でも手強いものはあると思います。でも、だからといって「どんぐり文章題」に子供の読解力養成を 託そうとは思いませんでした。なぜかは後述します。

>このようなことは、どんぐり文章題を初めてやったほとんどの子どもと親が経験することです。

多くの子どもがそういう状態になることは想像できます。

>合う合わないとは関係ないと思います。

要は「やりたくない」と子どもが口にするとか、端から見ていて気持ちが入っていないとか、そういう事はあると思います。そういう場合に、どの程度の期間、 (子供が切れる)頻度で親が見切りをつけるか、ということですね。それを結果として「合わなかった」と表現しました。お子さんの場合は、幸いなことに「直 訴」できる相手がいますので煮詰まることが無いのだと思います。

>どんぐり文章題、親が誘導してしまっては何の意味もありません。
正直申しまして、あの700問を本当に自分の力で描けるのであれば、
きちんと思考力の育ったお子さんですから、何も問題ないと思います。
書写や音読なども、必要ないのではないでしょうか。

設問の日本語の意味がわかっているかどうかを「誘導尋問」で確認したという感じでしょうか。どれが主語でどれが述語で修飾関係はどうなっているのか。最初 の文と次の文の関係がわかっているか、など。いくら日本語でも、さらっと読んで意味が掴めないとうことがあると思うのです。それは大人でもありますよね。

「どんぐり」を止めた直接の理由は「子供に合わない」と判断したからですが、同時に、やはり、まずは言葉の訓練が必要ではないかと感じたことです。こうい う言い方を糸山さんは否定されると思いますが、よくある「算数の文章題が解けないのは、国語力の問題だな」というやつです。

ですので、その後やったことと言えば、小学生2〜6年生用の国文法のドリルと、読む練習のための国語の文章題ドリルです。国語文章題ドリルは、設問に答え させることが目的ではなく、題材とされている文章を読むことが目的ですので、あるきっかけでそれは終わりました。ドリルの中に宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」 が出てきたことです(一話まるまる入っています)。勉強の最後に「よし、俺が久しぶりに読みきかせしてやるよ」と言って音読してやったのですが、私がほと んど号泣してしまって、まともに読めなくなってしまいました。「お、お父さん、大丈夫?」状態です。これは今年の話ですが、そこで夏休みの宿題の自由研究 を宮沢賢治にする事にし、息子はずいぶん賢治の童話を読みました。ある程度、文章を読むことに対する抵抗感が弱まったと思います。そして、家族で岩手に旅 しました。岩手山麓のキャンプ村で強い風が吹いてきたとき、風上に向って息子は気持ち良さそうに「どっどど どどうど どどうど どどう」と言っていまし た。

>本を読みさえすれば読解力がつくというものではありません。
どんぐり文章題での言葉からイメージへの変換は、緻密な読解力養成になります。

へのお答えになっていますかどうか。

>目で考えることが、この文章題の核だと思うのですが、
これがわからなくても、文章題は描けると書かれているのがとても不思議です。

「どんぐり」を止めた後も、この「目で考える」ということが気になってはいたのです。そして、吉さんを通して、以前から存じ上げていた根石さんと糸山さん がつながったというわけです。

糸山さんは

> ■読解力(分かる)とは言葉を視覚イメージとして頭の中で再現することです。「見える=分かる」なのです。思考(考える)とは視覚イメージを操作すること です。ですから、「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」を使って絵図を描く(言葉を視覚イメージに変換する)ことで、→国語(読解力と表現力)も算 数(算数の読解力)も総合力(思考力)も養成できる(思考のプラットホーム理論)←のです。

と書かれていますが、やはり絵図を描くまでの段階で、「言葉がわかる」ことが必要ということですね。「わかる」ということがイメージを作り上げるというこ とだと定義することとしても、そのイメージを「視覚イメージ」と言い切ってしまっていいのかが大いに疑問です。算数・数学とのつながりで言えば、それで良 いのかもしれません。そしてその「視覚イメージ」は、数や量、空間の感覚とつながっているということになるかと思います。

しかし、イメージというものを視覚とのつながりだけに限定して「読解力とは、とか、わかるとは」と言われますと、やはり違和感を感じざるを得ないのです。 それは、あくまで算数の文章問題に正解する、という目的に限定された話ではないか?

たとえば臭覚はどうでしょう。ある文を読んで、遠い昔に嗅いだことのある匂いがよみがえってきて、なんとも言えない郷愁を感じる、ということは無いでしょ うか。そして、そういう読解力は不要でしょうか?

また、糸山さんは絵図を描いた後の手順として

> 4.描いたら文章は見ないで絵図だけで考える。
※絵図を使って頭で考えるのではなく絵図そのもので(目で)考える:分かるようにする
5.答えが見えるように絵図を描き直す。

とも書かれていますが、この過程で設問の文章を排除する(読まない、文章を思い出しもしない)ということが可能なのだろうか、ということも私の疑問でし た。

以上、お答えしきれていないところもあるかもしれませんが、ひとまずこんなところで。



【12003】
根石さんへ 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月10日(土)14時08分11秒

ありがとうございます。

> やってみられるのはいいことだと思います。子供の勉強につきあって嫌われるのでなく、親が自分で何か一つ勉強を続けていくことがいいことです。

実を言いますと、できるだけ英語とはお近づきになりたくない、というのが本音です。しかし、多くの会社で同様の状況が起きていると思われますが、私の職場 でも「英語ができないんじゃねー」という雰囲気がジワジワと強まりつつあります。ある意味、それは仕方のない面もありまして、といいますのも、私が所属す る会社が、いわば「英語で食ってる」会社だからです。

私のかつての同僚の中には、その「肩身のせまさ」から「もう英語から解放されたい」「英語ができないし、やりたくもない自分がこの会社にいてもこの先ね」 と辞めていった者も複数おります。

英語を始めるかどうするか。もう少し考えてみたいと思います。

>「茶の本」をメインテキストにされた場合で、それ以外には何も英語をやらないというのであれば、「新しい英語」「現代の英語」に触れないことになってし まうので、一種独特の英語力ができるでしょう。

「茶の本」が現段階でメインテキストとするには良い選択ではないことは分かりました。

>「音づくり」をやらないと、英語力そのものが大きく欠けたところのあるものになってしまいますので、非常に損な結果になります。

そして、独習では音づくりが難しいということですね。オヤジはともかく、息子もあと半年足らずで英語との付き合いが始まります。教科書準拠のCDを買い与 えておくだけでは難しそうですね。こちらも、どうするか考えることにします。

>「茶の本」を吹き込んだ市販のCDがあるかどうか知りません。あったら、どなたでも結構ですのでお教え下さい。

につきましては、『英語達人読本 CD付き』(斎藤兆史・上岡伸雄/中央公論新社)の中に少し(利休最期の一節。朗読はピーター・バラカン)収録されてい ます。

それと、おそらく全編モノとして、ことのは出版というところで

http://www.kotonoha.co.jp/

オーディオブックを出しているようです。



【12004】
根石さん、らくださんへ 投稿者:しまりす 投稿日: 2007年11月10日(土)16時36分57秒

根石さんへ

私は、ここでどんぐりの議論を続けることはしたくありません。根石さんをおもんばかってという訳ではなく、これは私の気持ちです。これから先、ここにはあ まり出入りしないと思います。私のブログの掲示板は、ほとんど使っておりませんので、雰囲気も何も特にはありません。どうぞいらっしゃってください。


らくださんへ

根石さんにお書きした通り、これから先、ここにはあまり出入りしないと思います。

私は娘が中学に入れば、自分の意思で学習ができる子どもにしたいと思っています。今はその土台作りです。中学からは、私は手を放します。でも、今は(そ う、12歳までは)、親が育ててやらねばならないと思っています。これは、私の教育方針です。

ブログに書いている通り、娘は始めた当初から今まで、煮詰まりっぱなしです。ほんとうに大変です。でも、あと2年ちょっとしかないんだから、つきあってや ろうと思っています。うちは今、添削を受けていますが、家庭での学習なので、導いてやるのは親の仕事です。チャレンジなど一般の通信教育のように、子ども に勝手に問題をやらせておいて、郵送して、親はオワリ!という添削とは違います。また、スポーツクラブなどでつきっきりでコーチを受けるのとも状況は大き く異なります。

お金のことがよく話題になっているので、書いておきます。添削は週2題まで、添削料は5カ月で15000円です。月あたり3000円。この添削、糸山先生 は今期でやめると書いておられます。

問題などが入っているCDは7年分で10000円です。小3から始めた我が家でも4年間使って、年間2500円、月で割ると200円強。コーヒー一杯にも 満たない額です。大半の御家庭では、これだけで、やっておられます。私は9月から、(自分の治療も一区切りついたので)、CDから印刷した問題を使って、 娘の同級生も交えた寺子屋をしていますが、無償です。1枚のCDを、娘以外に4人の子どもが使っていることになりますが、初めに出した10000円以外は 何も支払わずに使っています。

どんぐり文章題は小学生用の問題なので、普通の大人なら、できて当り前です。私は“文章題を解かれたことがありますか?”ではなく“文章題を描かれたこと がありますか?”とお聞きしました。これは、きちんと絵に描いてされたことのある方なら、『目で考える』という意味が、くだくだしい説明なしにおわかりに なるはずだからです。絵を描かずに、一般の算数の文章題を解くようなやり方では、おわかりにならないと思います。

「算数の文章題が解けないのは、国語力の問題だな」というのは、一般的にみんなが抱く『感想』です。では、どうやったら国語力がつくのか?ーーーほとんど の方は答えを持っておられません。このことについて、糸山先生の本2冊と過去ログをお読みになって、文章題もされた上で、おわかりになっておられないので あれば、私がここで何を書いても無駄なので、これ以上は書きません。

失礼いたしました。

http://burogu



【12005】
根石さん、らくださんへ 投稿者:しまりす 投稿日: 2007年11月10日(土)16時39分9秒

根石さんへ

私は、ここでどんぐりの議論を続けることはしたくありません。根石さんをおもんばかってという訳ではなく、これは私の気持ちです。これから先、ここにはあ まり出入りしないと思います。私のブログの掲示板は、ほとんど使っておりませんので、雰囲気も何も特にはありません。どうぞいらっしゃってください。


らくださんへ

根石さんにお書きした通り、これから先、ここにはあまり出入りしないと思います。

私は娘が中学に入れば、自分の意思で学習ができる子どもにしたいと思っています。今はその土台作りです。中学からは、私は手を放します。でも、今は(そ う、12歳までは)、親が育ててやらねばならないと思っています。これは、私の教育方針です。

ブログに書いている通り、娘は始めた当初から今まで、煮詰まりっぱなしです。ほんとうに大変です。でも、あと2年ちょっとしかないんだから、つきあってや ろうと思っています。うちは今、添削を受けていますが、家庭での学習なので、導いてやるのは親の仕事です。チャレンジなど一般の通信教育のように、子ども に勝手に問題をやらせておいて、郵送して、親はオワリ!という添削とは違います。また、スポーツクラブなどでつきっきりでコーチを受けるのとも状況は大き く異なります。

お金のことがよく話題になっているので、書いておきます。添削は週2題まで、添削料は5カ月で15000円です。月あたり3000円。この添削、糸山先生 は今期でやめると書いておられます。

問題などが入っているCDは7年分で10000円です。小3から始めた我が家でも4年間使って、年間2500円、月で割ると200円強。コーヒー一杯にも 満たない額です。大半の御家庭では、これだけで、やっておられます。私は9月から、(自分の治療も一区切りついたので)、CDから印刷した問題を使って、 娘の同級生も交えた寺子屋をしていますが、無償です。1枚のCDを、娘以外に4人の子どもが使っていることになりますが、初めに出した10000円以外は 何も支払わずに使っています。

どんぐり文章題は小学生用の問題なので、普通の大人なら、できて当り前です。私は“文章題を解かれたことがありますか?”ではなく“文章題を描かれたこと がありますか?”とお聞きしました。これは、きちんと絵に描いてされたことのある方なら、『目で考える』という意味が、くだくだしい説明なしにおわかりに なるはずだからです。絵を描かずに、一般の算数の文章題を解くようなやり方では、おわかりにならないと思います。

「算数の文章題が解けないのは、国語力の問題だな」というのは、一般的にみんなが抱く『感想』です。では、どうやったら国語力がつくのか?ーーーほとんど の方は答えを持っておられません。このことについて、糸山先生の本2冊と過去ログをお読みになって、文章題もされた上で、おわかりになっておられないので あれば、私がここで何を書いても無駄なので、これ以上は書きません。

失礼いたしました。

http://plaza.rakuten.co.jp/clematis1010/



【12006】
絵図 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月10日(土)20時54分50秒

少し前に、糸山さんの言葉だという「一言も言葉を知らなくても考えることが出来る」にギョッとして、これはないだろう、というやりとりを根石さんとしたこ とがありました。
今回、しまりすさんのコメント等で、その発言が、具体的には、算数の文章問題を解くときに問題文をいったん絵図に置きかえれば、問題文の言葉に戻ることな く絵図の操作のみで問題を解くことができる、というような場面を背景にしているということがわかり、なるほどと妙な納得をしているところです。

糸山さんの立場を考えればしごく当然なことなのでしょうが、そこまで学校内(学習内)的な環境に骨がらみとなった言葉とは、うかつにも気づきませんでし た。
ただ、算数の文章題を解くという特殊な環境に限定にしても、らくださんがおっしゃるように、言葉と絵図を対立させて考えるのは無理があります。どう考えて も、絵図に変換し、絵図で考えることそのもののうちに言葉が介在します。「問題文」と「絵図」の区別が必要なのは、学習指導という「実用」場面においてな のでしょう。

実生活でぶち当たる問題を考える際にも、ある種の絵図を描く必要にせまられることがあります。しかしこの場合に大切なのは、言葉を絵図に置き換えること自 体にはなくて、現場に散乱する言葉を、自分の言葉に置き換えて了解することであり、その補助手段として絵図や思考イメージが有用である、ということだろう と体験的には思えます。絵図とは、もう一つの言葉なのです。(視覚的イメージの操作に思考を限定するなら、いわゆる全盲の人はどう思考するのかというちゃ ちゃを入れたくなるところです。)

たとえば、根石さんの糸山さんの思考にたいする批判、激昂をどんな風に理解したらいいのか、という問題があります。(当事者でない僕には擬似問題にすぎま せんが。)二人の膨大な文章にあたることは難しいでしょうし、根石さんが次々に繰り出す論点についていくだけでも頭が痛くなります。
僕自身は、何回か書いてきたように、この対立を「根石さんは言葉の本質論であり、糸山さんは言葉の方法論・技術論である」というように要約し、イメージす ることで了解しやすくしています。これはシンプルな理解なので、図にする必要はないのですが、一つの絵図といっていいと思います。

しかしもっと複雑で重要な問題、たとえば根石吉久の思想をどう理解するか、という問題を考えるためには、少なくとも僕には、ある種の絵図(概念図)の手助 けが必要です。
すぐれた詩人にして、破天荒な文学者、筋金入りの英語職人、自宅を自作し、百姓仕事をしながら「社会問題」にも首をつっこみ、夜中飲んだくれて時に大風呂 敷で吼え、何万行にもわたる英語テキストの作成に没頭する・・・
このような複雑な人格にして、思考の「極北」を歩むような人間を常人が理解するためには、確かにテクスト(問題文)の字面をおうだけではなく、それを自分 なりの絵図へと変換する努力が必要だろうと思います。



【12010】
しまりすさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月12日(月)05時35分2秒

 ひとまず「大風呂敷」に書いて、おたくのブログに貼り付けるということでやらせていただきます。貼り付けの作業は村田君がやってくれることになっていま す。
 この掲示板をお読み下さっている読者の方々が読みやすい形でやっていきたいと思います。この場合、しまりすさんのブログで私にお答えいただいた記事は、 こちらにコピーさせていただきます。私の記事だけだと、議論の流れが見えなくなってしまいますし、私は自分がどれほど醜態をさらした議論であっても、すべ て過去ログに記録する方針でおりますので、過去ログを備えておられないおたくのブログに書いただけだと、書いたものが闇に葬られる可能性があるとも考えて います。

>私は“文章題を解かれたことがありますか?”ではなく“文章題を描かれたことがありますか?”とお聞きしました。これは、きちんと絵に描いてされたこと のある方なら、『目で考える』という意味が、くだくだしい説明なしにおわかりになるはずだからです。

 「文章題を描かれたことがありますか?」という文が、日本語として奇妙なものであることにお気づきですか。
 もし「描く」という語で言いたければ、文章題が要求している答に至るための理路が判然とするように、「絵図を描かれたことがありますか?」でしょう。あ くまでも「描く」のは絵図であり、「文章題を描く」では、理路もへちまもありません。「文章題を描かれたことがありますか?」などという言い方は、理路が 成り立つ根底をみずから崩しているのと同じです。これを揚げ足取りだなどと思わないでいただきたい。お書きになった文は、「正確を期する」ために書かれた 部分なのです。「正確を期する」ために書かれるのなら、正確に書いてもらわないと読む方が迷惑するのです。

 『目で考える』というのは、その前に理路が成立しているから成立するのではありませんか。理路が成立しているから、絵図に「描く」ことができるのであ り、だからこそ『目で考える』が成立するので、その逆ではありません。そして、「思考」は、理路が成立する以前に動いているのであり、絵図とは「回答直前 の理路」が形を得たものにすぎません。だから、実質部分は、『目で考える』ではないのです。実質部分は、「それ以前」にあるのです。

 正答することが大事なのではない、絵図が理路の形として描けるかどうかが大事なので、一番時間をかけていいのはそこだというのには異論はありません。し かし、それが本当であるならば、『目で考える』などというもの言いそのものが、(絵図以前の)思考から夾雑物が抜け、理路が成立するまでの過程を抜かして しまう「まぬけなもの言い」だというのが私の批判点です。 『目で考える』だの『視考力』などという言い方そのものが、糸山の「過程が大事」という言い方 を裏切っているのです。
 この点で、糸山が言っていることは、理論としてまったくの出来損ないです。

 思考とともに動いているのは、言葉を脱いだイメージであるという論に対しては、私は糸山に異論はありません。
 言葉を読み取り、その場に必要なイメージが動くから、理路が成立するのだという意味で言っているのであれば、その通りだと思います。言葉そのものにとら われていたら、イメージが一人歩きすることもなく、理路も成立しません。

 しかし、イメージは心が観るのであり、目が見るのではありません。こんな簡単なことが糸山にはわからないのでしょうか。そうとは思われません。これは 「だまし」なのです。こんな簡単なことがわからないのは、むしろ、糸山の信者たちなのでしょう。
 糸山については、算数病とでも名付けておきましょうか。算数病患者がイメージの生態を語れるなどと思ったらとんでもないのです。

 吉さんが、糸山と根石が同じことを言っていると何度か「大風呂敷」に書かれたことがありますが、数学でも語学でもイメージが動くかどうかが最重要なポイ ントだという点だけなら、私は糸山と同じことを言ってきました。

 ところが、なぜイメージが動くようになるのかということに関して、「言葉なんか知らなくてもイメージだけでやれる」というようなことを本当に糸山が言っ ているのでしたら、このおたんこなすとしか言いようがありません。
 そもそもいったい、言葉を知らなくて、どうやって「良質の文章問題」を読むというのですか。
 イメージは言葉を媒介にして育つのです。あるいは、イメージを媒介にして言葉が育つと言っても同じです。しっかりとイメージが媒介にされていると、その 人にとって言葉が深くなるからです。
 いずれにせよ、言葉とイメージというものの間に絶えざる「往来」=「相互作用」があるということです。言葉を覚える前の子供にも、不定形のイメージの流 れはあるでしょう。大人があいまいな形にならない夢を観ることがあるのと同じように。しかし、そのイメージの流れは、糸山が言う意味での「思考」に使える ようなものではありません。「言葉」が媒介にされない限り、「思考」が立ち上がることなどあり得ないのです。「思考」が立ち上がることがいいことかどうか は別として・・・。(それこそが人間の原罪なのかもしれないのだから・・・)
 子供は自分が初めて出会う言葉に興味があり、その場の空気や状況、その言葉が置かれた文脈や、人の意図などさまざまなものを媒介にして、ひとまず自分な りのイメージを持ちます。違う場面で同じ言葉に出会うことを繰り返すうちに、イメージに厚みができ、その語の「イメージの核」とでも言うべきものが形成さ れます。その頃に、初めは知らなかった言葉が、よく慣れた(慣れきった)言葉になります。
 一度形成された「イメージの核」が、具体的な言葉(慣れきった言葉)を脱いで、一人歩きすることが、イメージが動くということです。元の言葉がなくて も、イメージだけが動くようになるということです。

 私は語学をやってきた者ですが、イメージが言葉を脱ぐことができるかどうかが、語学に上達するかどうかを決める要因として最大のものだと考えています。 語学をやる場合、イメージは元の言葉(日本語の言葉)を抜け出して、外国語の言葉に棲みつくようになり、そこで変容します。元の言葉を抜けて別の言葉に棲 みつきさらに変容し続けるということは、イメージの生態として、ネイティヴ言語(私たちにとっての日本語と言われているもの)でも生じます。
 私の教材づくりもこの点から目をそらさずに作り続けてきたと思っています。

 「易しすぎず難しすぎない」日本語のエッセイなどを小学生に素読させるのがいいと私が言ってきたのは、上の考えに基づいています。素読には読解力を準備 する方法があります。読解力を養成する方法など誰にもわからないなどと早合点していただく必要はありません。そんなものは身勝手な独断というものです。
 むしろ、いくら私が小学生に素読がいいと言ったところで、日本語にお金を払う日本人など誰もいないというだけのことなのです。戦後日本の「お勉強」まわ りの神経症が、どんな貧しい考えによってできているかを物語るものだと思っています。

 また、糸山の「算数の文章題を解くことで読解力がつく」ということに関しては、我田引水めいたことを言うんじゃねえよという批判があります。算数の文章 題を解くことで育つのは、理路を成立させるための「読解力」だけです。情感までも含めた読解力から見れば、上澄みをすくうだけの貧しいしろものに過ぎませ ん。それは理路を成立させる訓練にはなるかもしれませんが、しょせん「お勉強」における理路(舞台上の芝居)であり、生きていくために必要な思考力とは別 の世界のものです。生きていくための思考力というものは、情感を備えていなければ役立たずです。その区別が、戦後の市民社会の思考貧乏人たちにわからなく なってしまっただけのことです。南無阿弥陀仏。

 理路を成立させるための読解力というものは、読解力のうちのごく一部に過ぎません。これを読解力そのものとするのは、これまた糸山お得意の詐欺なので す。信者には詐欺が見えなくなるだけのことです。

 お聞きしたいことは他にもありますが、ひとまずこれだけにしておきます。



【12014】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月12日(月)06時35分21秒

>実を言いますと、できるだけ英語とはお近づきになりたくない、というのが本音です。

 お気持ちはよくわかります。

>オヤジはともかく、息子もあと半年足らずで英語との付き合いが始まります。教科書準拠のCDを買い与えておくだけでは難しそうですね。こちらも、どうす るか考えることにします。

 「オヤジはともかく」が、実は私の考えでもあります。(怒らないで下さい。怒るなら文部省を怒って下さい。)
 CDを買い与えるだけでは、日本人の英語の「音」は何の解決にもなりません。これは、柴田さんも言明されています。「音づくり」をやってきた者だけが 知っている「過程」というものがあります。
 私はよく、「俺よりも生徒の方が発音がいいんだ」と公言しますが、そうするとたいていの人が笑います。しかし、これは事実なのです。「俺」が「俺よりも 生徒の方が発音がいいんだ」という状態にしたのだから、音に関しては俺は腕のいい職人なんだぞ、と言っているつもりなんですが、まあ、たいてい笑われてし まいますね。
 私は最初からCDを使えとは言いません。2,3年、レッスンを受けてもらってから、「もうCDをどんどん使っていいよ」と言います。そうすると、あっと いう間に、生徒の発音が私より良くなってしまうのです。中学生くらいの年齢だと、本当にあっという間に良くなってしまい、ほうっ、とあっけにとられること があります。
 CDの音(ネイティヴ音)を「媒介」にできるだけの(元になる)「音」を作るのが仕事の大きな部分なのです。

>それと、おそらく全編モノとして、ことのは出版というところで
http://www.kotonoha.co.jp/

 ありがとうございました。クレジットカードで買えたので買いました。
 iTune とかいうソフトでダウンロードしただけでした。
 昨夜聴きましたが、吹き込みはどうやらイギリス人ですね。
 アメリカ英語よりはいいかもしれない。
 decent って言うんでしょうか。
 「茶の本」に合う英語だと思いました。



【12015】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月12日(月)07時00分54秒

>「よし、俺が久しぶりに読みきかせしてやるよ」と言って音読してやったのですが、私がほとんど号泣してしまって、まともに読めなくなってしまいました。 「お、お父さん、大丈夫?」状態です。これは今年の話ですが、そこで夏休みの宿題の自由研究を宮沢賢治にする事にし、息子はずいぶん賢治の童話を読みまし た。ある程度、文章を読むことに対する抵抗感が弱まったと思います。そして、家族で岩手に旅しました。岩手山麓のキャンプ村で強い風が吹いてきたとき、風 上に向って息子は気持ち良さそうに「どっどど どどうど どどうど どどう」と言っていました。

 いい話です。いいおやじだと思います。つい、私も泣き出しそうになり、やっと踏みとどまりました。

<3MX90>
蟻塚(ありづか)小学校では毎朝、1時間30分かけて蟻探しをします。
茜(あかね)組は35人、椿(つばき)組は42人、向日葵組は38人です。
茜組は全員6秒で1匹、椿組は9秒で1匹、向日葵組は8秒で1匹の蟻を
探すことができます。蟻50匹につき角砂糖7個と交換できるとすると、
みんなで何個の角砂糖を手に入れることができますか。

 こんなもの読むことと、賢治を読むことを較べることは、不遜で不潔なことに思われますが、今の小学生はこんなものを何百も読まされて苦しめられて、「思 考力」だなどと化かされて、生きる力を奪われていくのです。
 馬鹿らしきこと限りなし、です。

>しかし、イメージというものを視覚とのつながりだけに限定して「読解力とは、とか、わかるとは」と言われますと、やはり違和感を感じざるを得ないので す。それは、あくまで算数の文章問題に正解する、という目的に限定された話ではないか?

 matsu さんが言われていることも、今日私がしまりすさんに向けて書いたものも同じものを批判していると思います。私の場合は、「違和感を感じる」程度のもの言い にとどまらず、「糸山、嘘つけ、このやろ」となるのですが・・・。



【12016】
(無題) 投稿者:しまりす 投稿日: 2007年11月12日(月)11時11分52秒

こんにちは。先日は、うちの掲示板に来てくださいと書きましたが、気が変わりました。そんな手間をかけていらっしゃっていただく必要はありませんし、私も こちらには二度と来ません。そもそも私は、最初の投稿をらくださん宛に書いたのであって、根石さん宛には何も書いておりません。根石さんが横から見ていろ いろ言っておられるだけです。ですので、根石さんの御質問に私がお答えする義務はないはずです。“文章題を描く ”という表現を使ったのは、(どんぐりをある程度御存知のはずの)らくださんに対してだからです。この掲示板でよく使われている“回転読み”と同様、こう いう言葉は共通の認識のある人同士でしか通じないので、根石さん宛に書くのであれば、こういう表現はいたしません。何も知らない人に対して“文章題を描 く”が奇妙な日本語であることはわかっています。

『目で考える』は、算数の文章題に限った話ではありませんが、私がこの掲示板で、言葉だけを使って、説明しきれるものではありません。全盲の人のことにつ いては、どんぐりのHPと糸山先生の著作で触れられています。言葉とイメージとの関係についても、根石さんは大きく誤解されていますが、この場で説明しつ くせるものではありませんし、私自身、根石さんに説明しようという気もありません。不毛な議論に使う時間があれば、英語の練習をしたいと思っています。ど うも、お騒がせいたしました。



【12018】
しまりすさん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月12日(月)12時37分37秒

お返事を考えている間に「終結宣言」されたので、もうお読みになっていないかもしれませんが、書いておきます。

>お金のことがよく話題になっているので、

「どんぐり」にあまりお金がかからないことは、以前のそらまめさんの書き込みで、皆さんの了解事項だと思いますよ。今回のしまりすさんの書き込みで、 FAX指導の料金が高くないこともわかりました。

私が教育費のことを書くのは、もちろん我が家の台所事情という生臭い話もありますが(そういったことが、教育格差問題といって取り沙汰されるわけです)、 税金を取ることばっかり考えて、まともな事をやらない行政に対する皮肉、と考えて下さい。

ただ、私は文科省批判はしますが、いわゆる「ゆとり教育」の方向性は間違っていなかったと思いますし、推進役だった寺脇研さん(クビになっちゃいましたけ ど)の考え方には共感するところはあります。なんか、薄っぺらな方達に「教育再生」していただけるということで、それすら巻き返されちゃいましたけど。

>文章題を描かれたことがありますか?”とお聞きしました

根石さんみたいな突っ込みはしませんが、事実を申しますと「絵図は描きました」。描いてみたからこそ疑問が生まれたのです。

>どうやったら国語力がつくのか?ーーーほとんどの方は答えを持っておられません

根石さんは

>読解力を養成する方法など誰にもわからないなどと早合点していただく必要はありません。そんなものは身勝手な独断というもの

とおっしゃいますが、私はしまりすさんのお嘆きもわかります。国語の良い先生はあまりいませんよね。というか、表に出てこない。なぜかといえば、

>日本語にお金を払う日本人など誰もいないというだけのこと

という根石さんのご指摘通りですし、どうしてそうなったかと言えば、たぶん占領軍(アメリカ)が、日本の言語教育を骨抜きにしたからでしょう。これは「陰 謀史観」なんかではないと思います。

でも、その状況も変わりつつあるような気がします。国語教育が大切であることを多くの親達が感じ始めていると思いますし、以前よりお金を払うようになって きてもいると思います。

さらに、「ただし」を重ねるなら、その状況にも一定の注意が必要と思います。国語が重要だという背景には、第一に企業側からの「コミュニケーション能力重 視主義」が、また国家権力側(ものものしい言い方ですが)からは、ナショナリズムへの動員が要請されている可能性があるからです。

尤も、私にはナイーブに反国家を言い立てる気はなく、企業も国家も私達が生きていくために現時点では必要な器であると思っていますので、根石さんが言われ るように「素読をお上が言い出したら要注意」、という意識を持っておけば良いと思っています。「愛国心?ウンウン、必要だね。でも、君にそれを言われたか ないよ、安倍くん(もうずっこけちゃいましたが)」という感じですね。

ここから先は、matsuさんへのコメントとして書きたいと思います。



【12019】
しまりすさん 投稿者:Jackie 投稿日:2007年11月12日(月)16時47分7秒

穏やかを装いながら、キツイ言い方でさようなら宣言。

どんぐり教の教徒さん?まるで宗教を信じてる人に反論したときに
返ってくるような拒絶というか噛み付きというか。
信仰しすぎでちょっと怖い。



私はやおろず信仰、いいところはどこからも取り入れていきたい。
どんぐりの本も読みましたし、HPのの文章題も姪にやらせてみました。

・・指導者がいないとむずかしいわ。

素読にもコーチがいるように、どんぐり指導もはじめはプロの直接指導を受けてからでなければどんぐりも難しいと思いました。



【12021】
議論 投稿者:Naima 投稿日: 2007年11月12日(月)20時35分51秒

なんでこう皆さん議論が出来ないんでしょうか。どうしてけんか腰になってしまうのか...

要は、根石はだまってろ、何もしらないくせにごちゃごちゃぬかすなっ、てことをしまりすさんはおっしゃってるんですね。まあ、根石さんは歯に衣を着せない 言い方をされる方ですから、しまりすさんが腹を立てられる気持ちもわからないではないです。

でもらくださんは冷静に言葉を選んで議論されてると思いますよ。らくださん相手の議論が不毛だとは思いませんが。うちの掲示板に来て議論しろと言い、もう 来てもらわなくても良いといい、私は二度とここには来ないといい、でまた来て怒りをぶちまけられる。

いったい議論って何なんですか....自分が良いと信ずるところを人に伝えるってどういうことなんですか...

英語の勉強なんかやってる場合ではありません。糸山説に対するらくださんの「誤解」「曲解」を解けないことの方が重大だと思うんですが。

らくだは話す価値もないアホだ、とでも?

ところで...

らくださんは確かにいい親父さんなんでしょうけど、しまりすさんだっていいおふくろさんなんじゃないでしょうか。息子の勉強ひとつ見てやった事がなく、家 事と仕事でいっぱいいっぱいで本の読み聞かせをしようと思うと自分が居眠りしてしまうような母親だった私からみると、まぶしいくらいのお母さんです。爪の 垢でも頂きたいくらい。

もう手遅れですけど。



【12022】
根石思想のイメージ 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月12日(月)21時22分33秒

根石吉久の思想のイメージとして、僕が現時点で抱いているものを、できるだけ簡潔に描いてみようと思います。
そのために、とりあえずキイワードとして、「磁場」「語学」「批評」「娑婆」の四つの言葉を取りあげてみます。前の二つについては、多くの人に異論はない でしょう。
「批評」は、「詩」や「思想」と言い換えられるものです。
「娑婆」は、日本語の磁場のことであり、僕の理解する限り若き日の詩人根石吉久のキイワードであった「生活」のことです。

では、この四語をどのように組み合わせるのか。本当はフリーハンドで図を描きたいところですが、なんとか記号でそれを再現してみます。

  < 磁    場 >
         ↓

    批評 ・ 語学

    ↑
  < 娑    婆 >

「磁場」と「娑婆」は、横長の楕円形であらわすのがよいのですが、その英語と日本語の磁場の領域が上下に離れてむきあうことになります。
その中間の場所に、「磁場」からたたき出されてそれに対立する「語学」と、「娑婆」からたたき出されてそれに対立する「批評」が、並んで存在します。
上下の磁場が、直接的、具体的なものの領域だとしたら、その中間にある「批評」と「語学」は、間接的、抽象的な「媒介」の領域となるでしょう。

ひどく簡単な概念図のようですが、眼目は、語学と批評を軸として、磁場と娑婆との関係が、合わせ鏡のように折り重なるという部分です。(ジバとシャバと韻 を踏ませたのは、ちょっとした遊び心ですが。)語学論として、表面に見えているのは、上半分でしかありません。

なぜ根石さんが「嵐の一年」で、語学の獲得とともに詩や批評が読めるようになったのか、
なぜ根石さんが「媒介」を重んじて、磁場の直接性を二次的なものとするのか、
等々の疑問についても、この概念図が考える手がかりを与えてくれるように思います。

「こんな血の通ってねえ絵図で、俺のことがわかってたまるか。ばかやろ。」と根石さんなら言うかもしれません。ただ、このイメージを得たときに、自分なり に根石さんを読めるかもしれないと感じたのは事実です。



【12024】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月13日(火)05時37分40秒

>たぶん占領軍(アメリカ)が、日本の言語教育を骨抜きにしたからでしょう。

 これに関して、何か公開されている資料で読めるものはありますでしょうか。



【12025】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月13日(火)05時40分27秒

 「茶の本」の朗読で、タダで聞けるものがあります。
 以前、Naima さんに教えていただいたURLです。
 ここの翻訳はとても良質なものだと思います。




http://www.linkclub.or.jp/~flmbwys/reading_E/E_top.html



【12026】
しまりすさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月13日(火)05時46分53秒

心の狭さをまるだしにしていただき、ありがとうございました。
南無阿弥陀仏。



【12028】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月13日(火)10時01分11秒

>「茶の本」の朗読で、タダで聞けるものがあります

この朗読は、人間の肉声ではないと思うのですが、いかがでしょうか。テキストを流し込んで読み上げるソフトを使用しているのではないかと感じました。

昔に比べ、この手のソフトも出来が良くなって、リスニングやシャドーイングの練習で実用に耐えるという人もいますが、そのあたりのご意見をお聞かせ願えれ ばと思います。

占領軍の件ですが、すみません、確たる証拠はありません。状況からしてたぶん、という域を出ません。独立前にも仮検定教科書というものがあり、いわゆる国 語教育には『言語』と『文学』という2つがあった。しかし『言語』は消えた。消えた背景に冷戦の激化があったのではないか、という内容をどこかで読みまし た。仮にそうだとしても、証拠は無いですね。何か資料が見つかったらお知らせいたします。

最近でも、アメリカによる「年次要望書」の存在と日本の数々の規制緩和との関係も、関岡英之さんが『拒否できない日本』で書かなければ表に出てこなかった と思いますし。



【12029】
matsuさん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月13日(火)10時57分23秒

>そこまで学校内(学習内)的な環境に骨がらみとなった言葉とは、うかつにも気づきませんでした。

この「骨がらみ」を抜け出すのは容易なことではないと思うんです。抜け出した、と思ったら「本当の学力」「生きる力」の獲得競争に骨がらみになっていたり して。

「学校」や「受験」から安直に抜け出そうと思わないで、「学力」について徹底的に詰めて考えれば良いのではないかという気がします。徹底的に詰めていった ら突き抜けていた、ということがあるのだと思います。根石さんの場合は受験英語から語学論に突き抜けて行かれたわけですよね。

今回、『英語どんでん』を再読して唸ったところがあります。7年前に初めて読んだ時には完璧に読み飛ばしていました。神戸の酒鬼薔薇事件とオウム事件に触 れていらっしゃるんです。「学校」どころか「社会」まで突き抜けてしまった彼ら。

根石さんはそんな彼らに対する処方箋を提示しています。語学をやれ、と。語学というとことん空しい作業を通して、現実に帰還する、あるいは現実と往来する 技術を持ってほしいと。

泥臭いですねえ。この泥臭さの何分の一かでも持つことができれば、「学力」や「教育」をめぐって、お互いの議論がすれ違いになることはないのではないかと 思うのですが。



【12031】
らくださん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月13日(火)20時21分7秒

僕の場合、「読解力」や「思考力」を、どうしても自分の問題として考えこんでしまうところがあって、この掲示板を読みながら、自分には別の誰かの(例えば 自分の子どもの)学力を育てる、という発想がほとんどないことに気づかされました。
たとえば、「教育」や「子育て」という名目において、別の誰かの存在を操作しうると考えるときに、その人間のうちに生じる裂け目の方が気になります。仮に 文科省に欺瞞や退廃があらわであったとしても、それは扱う対象が膨大であることに応じて拡大されただけであって、「教育」を信じ込んだ一人の人間のうちに 生じる欺瞞や退廃と質的には変わらない気がするのです。
もっともこれは、自分が仕事で教育行政の片棒を担いでいることの言い訳にすぎないかもしれません。

人は方法によって思考するのではない、という誰かの言葉があったような気がします。その後の言葉は忘れましたが、おそらく何らかの動機、根石さんの言葉で いえば「意志」で思考するのだろうと思います。その時がくれば、自分のなかに埋め込まれた様々な媒介物、「否定性」を使って(きっと、糸山さんが忌み嫌う コンピューターゲームで培われた何かをさえ駆使して)考え始めるのだろうと思います。

宵の口から酔っ払ったような、かみ合わないコメントで申し訳ありません。

らくださんがおっしゃるように、『英語どんでん』は、不思議なことがいっぱい書いてある実に魅力的な書物ですよね。英語学習書の体裁をとった、オリジナル な思想書といっていいと思います。
Naimaさんが以前書かれていましたが、根石さんに束になってかかっていけたらいいですね。根石さんの思想を「守る」のではなく、ぶち当たって(あわよ くば、ぶち殺すことで実をとって)息長く考え続けることができたらと思います。



【12032】
茶の本 投稿者:Naima 投稿日: 2007年11月13日(火)22時36分25秒

らくださん、

横入り、ごめんなさい。音声は肉声ではありませんね。



【12033】
Naima さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月15日(木)03時05分20秒

 このおっさん、気が入ってないなと感じるのは、肉声ではないせいだったのですね。
 どこの人なんだろうとも思いました。私は、英語を聴いて、オーストラリアだなとか、アメリカ東海岸だなとか、南部だなとか判定するのが下手ですが、それ にしてもどこの人なんだろうとも思いました。何より、イントネーションがローラーをかけたように同じものが繰り返されるのが変で、おっさん、勉強しすぎた んかあとも思ったのでした。勉強しすぎたにしては、田舎くささが強烈で、その田舎がどこかまるでわからないのでした。



【12034】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月15日(木)04時24分14秒

>僕の場合、「読解力」や「思考力」を、どうしても自分の問題として考えこんでしまうところがあって、この掲示板を読みながら、自分には別の誰かの(例え ば自分の子どもの)学力を育てる、という発想がほとんどないことに気づかされました。

 「読解力」、「思考力」、「学力」という語に学校臭が強いことに対する異和が(抵抗素)が matsu さんにはあるのだと思います。この抵抗素が、ええと、誰でしたっけ、しまりすさんでしたね、あの人にはない。抵抗素がないくせに、拒絶力の行使は大したも んです。こういうのが、「絶対学力」なんて言葉にころっとやられているのです。
 学校的な(どんぐり的な)「読解力」では、読む力が見抜く力になっていかない、「思考力」も、微細な(あるいは巨大な)現実を繰り込んで考える力になっ ていかない。しつらえられた舞台上の演技としての、読解や思考にしかならない。そういう抽象レベルでの「現実」にとことん鈍いのが、「学力」回りの戦後の 母親たちです。「あんた、学校の勉強やったくらいで、こんなこともわからんようなってもうたんか」という Naima さん的嘆きが戦後の「学力」回りの母親たちに希薄です。抽象レベルでは、アメリカにおまんこをやられているのです。

>たとえば、「教育」や「子育て」という名目において、別の誰かの存在を操作しうると考えるときに、その人間のうちに生じる裂け目の方が気になります。仮 に文科省に欺瞞や退廃があらわであったとしても、それは扱う対象が膨大であることに応じて拡大されただけであって、「教育」を信じ込んだ一人の人間のうち に生じる欺瞞や退廃と質的には変わらない気がするのです。

 吉本喜劇の方でなく、悲劇の方の吉本による「吉本的」になりますが、一人の人間に生じる欺瞞や退廃と、文部科学省に生じている欺瞞や退廃はまったく違う ものだと思います。文部科学省には、最初の方に欺瞞や退廃があり、それが、新聞的言論に追いつめられて「裂け目」になっていくのに対し、戦前にせよ戦中に せよ戦後にせよ、おかあちゃんたちには、なにはともあれ我が子が可愛いというという原点があります。(この原点は全的に肯定されるべきです。)その原点を 娑婆の空気で薄められ、次におかあちゃんたちは「社会」とまぶしてしまいます。そこに「裂け目」が生じるのです。しまりすさんちのように。「学力信仰」が 生じて裂け目が生じるのであり、この「裂け目」に無自覚になれば、欺瞞となり退廃になっていくという方向があります。国家とは方角というか方向が正反対で す。
 おかあちゃんたちに生じている「裂け目」からは、古い古い言葉ながら、「民衆」の痛い血が流れています。しまりすさんちのどんぐりちゃんの煮詰まりよう においても。らくださんちの、号泣においても。この場合の「おかあちゃん」は性別は関係ないですね。子を見て育てと願う力の別名です。
 文部科学省には、最初から国家体制維持という欺瞞退廃が備わっていると思います。わたしら、国家なんかなくたってやっていける、そんなもんないほうが、 よっぽど楽にやっていけるというのが、戦後直後の闇市のおかあちゃんだったろうし、馬鹿娘のパンパンたちだっただろうと想像するのです。おかあちゃんたち が国家にやられたていたらくがのべたらに広がっている現在ではあるものの、おかあちゃんたちの意志と日本国家の意志は区別は必要だと思います。根底が違う ものだと思います。
 「裂け目」に敏感なのは、むしろ男の方なんかもしれませんね。エロ的意味でなく。

>らくださんがおっしゃるように、『英語どんでん』は、不思議なことがいっぱい書いてある実に魅力的な書物ですよね。英語学習書の体裁をとった、オリジナ ルな思想書といっていいと思います。

 またしても褒めすぎ(です)。これをけなす方向に使っていただくと、いい議論が生まれるかもしれません。少しという量が大事です。大量にけなすと、また 私が激昂し、寿命が短くなりますから。

>Naimaさんが以前書かれていましたが、根石さんに束になってかかっていけたらいいですね。根石さんの思想を「守る」のではなく、ぶち当たって(あわ よくば、ぶち殺すことで実をとって)息長く考え続けることができたらと思います。

 こちらくたくたですが、お待ちしています。そしたらいい話ができると思っています。



【12036】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月15日(木)04時56分10秒

>「学校」や「受験」から安直に抜け出そうと思わないで、「学力」について徹底的に詰めて考えれば良いのではないかという気がします。徹底的に詰めていっ たら突き抜けていた、ということがあるのだと思います。根石さんの場合は受験英語から語学論に突き抜けて行かれたわけですよね。

 「突き抜けていた」を子供にまかせるのが難しい時代ですが、それをやらないといけないのだと思います。そう自戒しています。



【12037】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月15日(木)05時08分43秒

>昔に比べ、この手のソフトも出来が良くなって、リスニングやシャドーイングの練習で実用に耐えるという人もいますが、そのあたりのご意見をお聞かせ願え ればと思います。

 子供は飽きると思います。



【12038】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月15日(木)05時23分41秒

>「こんな血の通ってねえ絵図で、俺のことがわかってたまるか。ばかやろ。」と根石さんなら言うかもしれません。

 今は昔、sbさんという方がおられまして、図式をいくつも描いてくださったのですが、血が通っていないなと思ったことを思い出しました。
 matsu さんの絵図は、お受けできます。

 私の若き日のキーワードが「生活」だったのだと教えていただき、思い出した詩がありました。ちょっと探してみます。

 出てきません。

 「根石吉久贋詩・1」と「2」という私家版の詩集があるのですが、紛失してしまいました。でも、この屋根の下にあるとは思います。

 確か、金魚を見ながら生活を思考した詩だったような気がします。



【12039】
先をこされました 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月15日(木)06時56分42秒

根石さん

次の根石さんの詩の紹介は、議論の流れ上「ガラスの極楽」(金魚と生活の詩です)にしようと思っていたところでした。
足立さんもブログのコメントで書かれていたと思いますが、根石さんの詩の本領は、思い切って下世話に「エロ的な」ものだと思うのですが、これは少しかわい らしい感じの叙情的な小品ですよね。
次の根石論の書き込みは、根石思想と吉本隆明というテーマでいこう思っていたところでした。負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、いい突込みをいれてい ただいたので、具体的に話に入っていけそうで、うれしいです。



【12041】
根石さんの詩A 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月15日(木)19時55分55秒

ガラスの極楽    根石吉久

私の涙は塩気がないので
妻はあきれた
ちゃんとした涙を流してみたら
と忠告した
ありがとう妻よ
私の最愛の虚体よ
金魚でも見よう
金魚は胴ぶるいしてうんこしている
それが何になろ
気がついてみれば
金魚は裸であった
ひきずっているうんこも
穴から出たのだ
と思えばつらい
妻よごらん
このガラスの箱の中
金魚は丸い腹をよじっている
金魚の口がまんまるくなる
何に驚いたわけでもない
うちわのような尾を垂れて
いくら急いでも進まない
これが生活だ


 『人形のつめ』より



【12042】
吉本的 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月15日(木)22時55分44秒

>吉本喜劇の方でなく、悲劇の方の吉本による「吉本的」になりますが、一人の人間に生じる欺瞞や退廃と、文部科学省に生じている欺瞞や退廃はまったく違う ものだと思います。

根石さんの書いたものを読んでいると、やはり吉本隆明の影を大きく感じます。ただここでも「吉本的」と注釈をいれるような微妙な距離感が、僕には好ましく 思えます。(以前、溶融炉の問題でも、科学技術礼賛に傾きがちな吉本の意見に釘をさしている発言もありましたよね。)
僕自身は、根石さんより10歳ばかり下ということもあって、吉本の熱心な読者だったり、特別好きだったりしたことはありません。しかし、すぐれた思想が書 物を離れても人の心をとらえるように、吉本の思想のイメージの痕跡は今の僕の中にも生きている気がします。
ただ、根石さんがここで援用している論理、いわゆる自己幻想や対幻想と共同幻想の「逆立」ということは、正直なところ、僕には腑に落ちない部分でした。も ちろん、日々体験することからも、それが何を意味しているかは理解できます。ただし、吉本が、個人や対の関係の心におきる出来事を、集団や社会の関係へつ なげて理解する試みを峻拒することに、さほど説得力を感じなかったのです。

あるとき、共同幻想論の文庫版前書きだったと思いますが、吉本が、戦中、戦後の体験を語りながら、個人の心の動かし方からどうしても理解が及ばない集団の 奇怪な振舞いを「共同幻想」と呼ぶほかなかった、ということを書いているのを読んで、初めてある納得を得た気がしました。昨年死んだ僕の父親が同い年とい うこともあって、そのためにも愛憎半ばするところがあるのですが、吉本があの時代に何を見てきたのかはおおよそ想像がつきます。
「逆立」は客観的な原理などではなく、吉本が自分の生きたその場所で、そのように見、そのように理解せざるを得なかった何かである、というのが、僕のなけ なしの吉本理解のポイントです。略画で言えば、吉本に見えたのは、素朴で理解可能な民衆のかなたに、奇怪な国家の共同幻想が立ちあがるイメージだろうと思 います。

一方、自分自身に即すると、吉本のようなイメージを抱くことはできません。むしろ個々人の心性の奇怪さが前面に伸び上がり、その隊列の向こうに社会や国家 の姿がかすんで見えるというのが、リアルな心象風景です。(そのために、根石さんのいう「おかあちゃん」と「文部科学省」との間の断絶よりも、連続性が気 になる、という言い方になりました。)
それが吉本の見出した国家本質をないがしろにする平和ボケ、市民社会ボケしたタワ言だというふうには考えません。僕の中で、最も強く生き残っている吉本 は、やはり、あの、戦争の時代の戦場における死も、平和な時代の畳の上の死も、まったく「等価」であると言い切った吉本ですから。お前の生きているその場 所で、そこから見える可能な限り正確な世界のイメージを描け、という励ましが僕にとって(おそらく多くの人にとってもそうでしょうが)吉本の批評の核心で す。

吉本だけに、少しかたくなりすぎました。吉本読みのベテランには、不十分すぎる走り書きでしょうが、意を汲んでいただけたら助かります。次には、根石さん と吉本との距離について、あてずっぽうながら書いてみたいと思います。



【12043】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月17日(土)01時20分13秒

 多分、私より matsu さんの方が吉本をたくさん読んでおられると思いました。
 私はまったくつまみ食いをしてきたような読者で、本もあんまり持っていません。持っている本も、他の本と同じで、ダンボールに詰めたままになっており、 どこに何があるのかわかりません。今度の冬の間には、なんとか本にアクセスできるようにしたいと思っています。
 昔、松岡祥男さんと一度喧嘩をして仲良くなりました。ご存知かどうか知りませんが、松岡さんは、吉本から「今の若い人の中で、理念的にもっともいいもの を持っている」と評価されたことがあります。その評価があって後だったように覚えていますが、松岡さんが詩の雑誌の時評で、私の書いたものに異論を書か れ、私がそれに反論したことがあり、その後、急に仲良くなったことがありました。今では私の大事な友達の一人です。

 現在、松岡さんは、吉本の著作から漏れているものや、改稿される前の雑誌初出のものなどを集め、吉本の許可を得た上で、冊子にして刊行する仕事をしてお られます。私は熱心に吉本を追いかけた読者ではなく、松岡さんの仕事を見ていたくて、発行される冊子を購読しています。そして、ときどき、松岡さんが「吉 本さんからもらったけど、先に買ってあったから、一冊あげます」と言って、私に吉本の新しい本をプレゼントしてくれたりすることがあるので、それを読んだ りしてきました。松岡さんには4,5回会いましたが、吉本隆明には一度も会ったことがありません。

 若い頃は、雑誌などめくってみて、なんでこんな七面倒くさい言い方で書くのかという反感が先立ち、吉本隆明はほとんど読みませんでした。(その頃の私が よく読んだのは吉岡実でした。)
 友達が吉本をめぐって激しく論争している脇で、「俺、吉本なんてまとめて読んだのは一冊もねえや」と言って議論に水をさしたこともあったくらいです。友 達の議論はそれで中断され、友達は私に「お前みたいなのも珍しいから、いっそこれからも読まないがいい」と言ったくらいでした。
 しかし、その後、「生活」が始まり、自分の理解が及ぶ範囲でですが、ぽつぽつと読んだのでした。そして、松岡さんと知り合って、購読している冊子やプレ ゼントしてもらったものなどを、やはりぽつぽつと読んできたという程度です。

 文庫版「共同幻想論」の前書きには興味がひかれました。まだ読んでいません。気にして探してみるつもりです。

>ただ、根石さんがここで援用している論理、いわゆる自己幻想や対幻想と共同幻想の「逆立」ということは、正直なところ、僕には腑に落ちない部分でした。 もちろん、日々体験することからも、それが何を意味しているかは理解できます。ただし、吉本が、個人や対の関係の心におきる出来事を、集団や社会の関係へ つなげて理解する試みを峻拒することに、さほど説得力を感じなかったのです。

 吉本は確かに「逆立する」と言っていますが、「本質が違う」と言っているのだと考えてもいいのではないかと思います。もし「本質が違う」という言い方で いいのなら、私は「磁場論」で、磁場における言語と語学の机上における言語は「本質が違う」ということを言ってきたので、そういう言い方をするというとこ ろで、私に吉本の影を感じられるというのならよく納得できます。まるで違うものを一緒くたにするな、というのは、語学という小さな領域ではありますが、確 かに執拗に言い続けてきました。

 吉本は「自己幻想」ではなく「個人幻想」と言っていたかと思いますが、これはやはり、その原形というもので考えた方がいいのではないかと思います。いま だ、「共同幻想」という「人さらいがさらう前の形」を「個人幻想」と言えばいいのだという理解です。子供が病気になって熱を出しているときに、「治れ、育 て」と願う気持ちのようなものに、いかなる共同性もないと思います。世間のどこにでも無数にあるものですが、その一つ一つの願いは一つ一つとして具体的な のであり、そこにいかなる共同性もないと思います。(戦場の死も、畳の上の死も、交通事故による死でも、一つ一つ絶対的な一個の死であり、その重量にまっ たく違いはないというのも、一つ一つとして切実であり、具体的であり、一つ一つとして扱われるべきだという吉本の思想だと思います。)

 「対幻想」という場合に共同性があるとすれば、ただ当事者の二人の間に(対の関係において)共同性が生じるかもしれないが、集団や社会や国家がもつ共同 性を帯びていないものを言っていると考えれば、やはりこれも「共同幻想」から切れた独自の領域(原形)として、集団や社会の共同性から分離できる。分離で きる形のものを「対幻想」と言っているのだろうというのが私の理解です。

 吉本の「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」という言い方は、そのそれぞれの原形の方へ引き絞って出てきた言い方だと考えています。それぞれの原形の方へ 引き絞ったものだと考えれば、そのそれぞれがそのそれぞれとして成立すると納得できます。

>あるとき、共同幻想論の文庫版前書きだったと思いますが、吉本が、戦中、戦後の体験を語りながら、個人の心の動かし方からどうしても理解が及ばない集団 の奇怪な振舞いを「共同幻想」と呼ぶほかなかった、ということを書いているのを読んで、初めてある納得を得た気がしました。

 「共同幻想」は、集団の振る舞いという場面もあり、言論という面で見れば、集会所や議会での決議なんかの他に、個人の言い分の形になっているものもあり ます。最後のものは、個人が発言しているように見えるので、外見的には「個人幻想」に見えるかもしれません。
 しかし、それはすでに「共同幻想」という虫に食われた後、と言えばいいのか、「共同幻想」という「人さらいにさらわれた後の形」だと言えばいいのか。す でに、「共同幻想」の側が、「個人幻想」を「媒介」にしてしまった後の形だと言えばいいのか。いずれにせよ、「さらわれた」とか「食われた」とか「媒介に された」いうイメージが私にあります。
 病気の子供を前にして「治れ、育て」と願うような「原形」(いかなる共同性も帯びていないもの)に対置すれば判然とすると思いますが、個人の発言であろ うとなかろうと、すでに「原形」からさまよい出て、「原形」から切れている何か、変質した後の何か、「個人幻想」としての魂を売った後の何か、はありま す。小声で言うべきか、大声で言うべきか、日常的に目にするものです。(ただの笑い話ですが、千曲市議会などというものを傍聴したことがあります。確かに そこでは、議員「個人の発言」として発言があるのでしたが、ことごとく「共同幻想」に食われた後の残骸が散らばっていただけでした。)

 個人が「共同幻想」を「媒介にする」ということで言えば、それは微細に見るなら、言語を使用する限り、いつでも個人は「共同幻想」を「媒介にする」しか ありません。(これは、いつでも「共同幻想」によって個人が「媒介にされる」、「共同幻想」によって個人が食われる=さらわれる契機になっていると思いま す。)

 言語を使用するだけで、個人が「共同幻想」を「媒介にする」ことは成立するのですが、これと逆のベクトルがあります。「共同幻想」の側が、個人(の思 考・幻想)を「媒介」にするという場面が別にあります。うまくいくかどうかは別として、広告宣伝、スローガンなどはいつもそれをやろうとしていると思いま す。この掲示板回りの最近の卑近な例で言えば、「駅前留学」だの、「良質の文章問題」だの、「絶対学力」だのという言葉があり、それにころっとやられた人 たちがおり、これらは「共同幻想」の側が、個人を媒介にし終えた例だと言っていいと思います。戦後市民社会の学力回りの神経症と私が言っているのも、「共 同幻想」が「個人幻想」を「媒介」にしちゃった後のものだと理解しています。個人の考えなのに、「個人幻想」の原形からさまよい出て、「共同幻想」にとら えられてしまっている例だと思います。

 「共同幻想」に対して抵抗素のない者たち、あるいは抵抗素を手放した者たちに罪がないのであれば、吉本の戦争責任論で、個人としての戦争迎合詩人たちが やり玉にあげられる必要もないはずです。その必要があると吉本は考えたし、私もその必要はあると思っています。
 吉本も共同幻想に食われたし、迎合詩人たちも食われた。食われたこと自体を開示しろと吉本は言っている。そこからしか戦後は始まらないのだ、と。吉本は それを開示したが、迎合詩人は開示しないばかりか、戦後、抵抗詩人だったふりをした。それを吉本は許せなかった。

>略画で言えば、吉本に見えたのは、素朴で理解可能な民衆のかなたに、奇怪な国家の共同幻想が立ちあがるイメージだろうと思います。

 「奇怪な国家の共同幻想」という言い方はよく理解できますが、「素朴で理解可能な民衆」というのは、ほとんど理解できません。「共同幻想」が個人を食っ た後に個人が発する幻想は、いつでも奇怪なものだと思っています。私たちが日常目にするのは、そういう奇怪な民衆の一人一人だと思っています。私も自分と いうものに気を許せば、ただちにそういう一人になります。そして、実際に手をゆるめたことがあります。(「激昂」なんかもそれの一つなのかどうか。私の自 覚では、私の「激昂」は、「共同幻想」から身をひき剥がすときの動作なんじゃないかと思っていますが・・・。一応、「掲示板」という舞台上の演技なんだと いう自覚はあります。「演技だから」、気は入れてあります。)

>一方、自分自身に即すると、吉本のようなイメージを抱くことはできません。むしろ個々人の心性の奇怪さが前面に伸び上がり、その隊列の向こうに社会や国 家の姿がかすんで見えるというのが、リアルな心象風景です。

 日常の中にいる限り、それは私にとっても同じで、個々人の幻想の奇怪さがすぐ近くに見えます。あるいは、自分の幻想の奇怪さがもっとも私に近いという か・・・。
 社会や国家は、その外側にかすんで見えるというのが、私にとってもリアルな日常です。
 そのことと、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」のそれぞれを、それぞれの原形として取り出し、分離(対立・逆立)させようとする吉本の思考とは別だと 思います。個々人のあるいは自分の幻想の奇怪さがいくらリアルであっても、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」のそれぞれが、他と「本質が違う」というこ とは成立しますし、これは吉本によって見いだされた戦後という時間の貴重な果実だと思っています。

 自戒を込めて言うのですが、吉本はもっと読まれなければならないのではないでしょうか。



【12045】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月17日(土)09時24分7秒

いえいえ。僕も吉本は、たいして読んでいません。
ただ、自分の言葉で考えて納得したことは、わかったような顔をして堂々とモノをいっていいのだ、という変な自信の奥をずっとさぐっていくと、そこには吉本 から受け取ったものがひかえているような気もします。(もちろん、その裏側には、自前の言葉でない受け売りで利いた風なことはいうな、という厳しさはある わけですが。)

僕はこれから、根石さんの思想の方が、吉本の思想より大きい、ということを考えようとしている人間です。そのくらいずさんな吉本理解なわけですから(と書 くと根石さんにも失礼か?!ごめんなさい)、吉本のよい読者から見れば、まったく見当違いのことをいっているということになるだろうと思います。吉本につ いて、何が正しいか、ということは、僕にはさほど興味はありません。

では、なぜ吉本にふれたのかというと、根石さんたちの世代と意思疎通する上で、吉本の考えがツールとして貴重であることを、なんとなく体験的に知っている からです。今回も根石さんの発言をいろいろ引き出せて(一点、とても重要な言葉を釣り上げることができました)、よかったと思っています。ただ、こういう 場合いつものことなのですが、ここ大風呂敷でも、吉本を知らないもっと若い世代にとっては、ぽかん、ということかもしれません。そういう世代にも、吉本を 読んだほうがいいとすすめることには、ためらいがあります。『英語どんでん』のように、ずっと読みやすくて、考える栄養になる本が他に多くあるからです。

吉本の思想のなかで、共同幻想論の考え方というものは、前にも書いたとおり僕はあまり評価できない部分です。
根石さんのコメントを読むと、共同幻想論を血肉化して思考していることがわかりますので、この点では、すぐには議論はかみあわないかもしれません。
共同幻想論の考え方は、テーゼとしてわかりやすいので、根石さんのように血肉化して現実との関係で鍛え上げなくとも、受け売りで振り回しやすいところがあ りますよね。批判主義的な左翼の心情にも受けがいいでしょうし。これも体験的には、という話なのですが、上の世代が、共同幻想についての吉本の理解を不変 の真理のように持ち出すときに、それをテコにして考えていくという姿勢ではなく、むしろ議論の拒絶を感じてうんざりした記憶があります。(吉本自身も80 年代以降、この考え方を前面に出すことは少なくなったような気がします。)

僕が吉本の考え方の中で好きなものは、初期吉本の「関係の絶対性」の方です。
人間が動かしがたい関係の中にとらわれて生きているからこそ、各人が自分の場所で生き死にし考えることは、本質的に同じ価値をもつ、という考え方(全く自 己流の要約かもしれませんが)は、僕には自分の背筋をしゃんとさせ、他者とまっすぐに向き合う気持ちを与えてくれるように思います。
根石さんは、この点でも、共同性から分離した個や対の問題として、共同幻想論の枠組みの中で考えておられるようですね。
僕はむしろ、共同幻想論自体が吉本の「関係の絶対性」の産物であり、そこを離れた本質論や「原形」論は成立しないのではないか、という疑いをもっていま す。

根石さんの体質がしみこんだ共同幻想論は、吉本のそれとはまた違ったものだろうと思います。じっくり味読したいと思います。



【12052】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月18日(日)02時06分46秒

>「オヤジはともかく」と言いましたが、オヤジから始める方向で考えています。息子のことは、中学に上がってから改めて考えるつもりです。

 これまでの経験では、小学校6年の間に私の方法で「音づくり」をやっておくのと、中学へ入ってから始めた場合とでは、中一の後半の最初の山場で子供に生 じるストレスが違います。
 定期テストで平均点がガタ落ちする時期が、中一の後半から終盤にあります。べつに気にしなければいいのですが、多くの場合、これを気にして苦手意識を植 え付けられ始めるのがこの時期です。中2になると、けっこうな数の子が苦手意識を持たされています。
 本当は小学6年の一年間を使って、「音づくり」をやっておくと、中学に入ってから、文法や意味に意識を集中させることができますので、それがもっともお すすめなのです。今後、4ヶ月ほどしかありませんが、それでもこの間に「音づくり」を手がけておくと、息子さんのためにいいと思います。

 「音づくり」は割と時間がかかります。そして、大事なことなのに、学校のテストの点にはなりません。ですから、一年ずらして、小6からやってもらうのが 私には有り難い。テストの点なんか気にするなというのは、私の基本にありますが、それでも子供はどうしても気にしてしまいます。半年一年の開始時期の違い で、苦手意識を持たせられるかどうかに影響が出た例は多く見てきました。

 息子さんに小学校の残りの時間と中学の3年をやってもらって、その後、私の自作教材を息子さんが使われる時が来たら、お父さんもレッスンに参加されるの はいかがでしょうか。親子でレッスンを受けるというのは、結構楽しいんじゃないかと思います。共通の話題という接点が作れますし。それまで、「英語どんで ん」その他を参考にされて自習され、なるべく長く息子さんにレッスン枠を譲られるのをお奨めしたいです。これは matsu さんにもお奨めしました。

 4ヶ月でも、「音づくり」をやっておくと中学に入ってから、違ってくると思います。

 もっとも、息子さんがやってみたがっているかどうかが一番の問題です。
 嫌がっているようでしたら、お父さんが先にやって試してみられるのがいいと思います。息子さん次第です。
 どんぐりの後で、息子さんが「またかよぅ」と思っているのでしたら、息子さんの「嫌がり」を尊重して下さい。私はどんぐりからの被害を被るしかありませ ん。「嫌がり」というのが、子供(生徒)にとっても、私にとっても最大の被害となります。

Naima さんにお預けした生徒さんに、東京のTさんという大人の生徒さんがおられましたが、レッスン開始当初、英語に対する苦手意識があると言われました。私の自 作教材で2年ほどやられた頃、電話でお話して、「苦手意識だけはなくなりました」と言われました。一度、苦手意識を持たされると、それを払拭するのに二年 三年はかかります。この二年三年につきあうと、本当に学校はろくでもないものだと思います。

 学校が振りかざすテストの点というものを気にしないでいられるなら、英語なんざ、いつからでもゴリ押しが効きます。大人になってからでも、ゴリ押しをや る腹さえ決まれば、ゴリ押しが効きます。
 テストの点というものが、今どき強力な「共同幻想」として猛威を振るっていて、これとどう向き合うかということがやはり問題です。おやじが気にしなくて も、子供が気にしてしまう。あるいは、おやじが気にしても、子供は気にしない(ふりをする)。気にするのが「普通」だという空気が作られ、ろくでもない時 代になってしまっています。そんなものが「普通」でもなんでもないんですけど・・・。

 私はよく中学生に「点なんか気にしなくていいから」と言っていますが、それを言うだけでも、子供は多少気が晴れるらしく、レッスンの時に声に力が入った りします。そうすると、その数ヶ月後くらいに、急に伸びたりします。
 それとは逆に、小学生からレッスンを始めて力があるくせに、テストなんか馬鹿にして、全然テスト勉強をしない子もいました。お母さんが心配して、「テス トで点がとれない」と言われるので、子供に聞いてみたら、60点くらいの点をとっていたのでした。「全然テスト勉強をしないのか。ううむ、なかなかいい態 度だと思う。基本はそれでいいんだ。だけど、お母さんがお金を出してくれなくなると、レッスンができなくなっちゃうんだ。今度のテストで、テスト勉強って のをやったらどうなるか、一度試してみてくれないか」と言ったら、テスト勉強をやってくれたらしく、99点だったか、98点だかとりました。そういう子も います。世間は広い。私は、一度だけテスト勉強をしてみることを頼んだだけですが、その後、その子がどうしているか知りません。その後、テストの点も聞い たことがありません。

 まあ、ゲスノカングリになるといけませんので、基本的な考えだけ申しあげておきます。ご判断下さい。



【12053】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月18日(日)03時16分57秒

>僕はこれから、根石さんの思想の方が、吉本の思想より大きい、ということを考えようとしている人間です。そのくらいずさんな吉本理解なわけですから(と 書くと根石さんにも失礼か?!ごめんなさい)、吉本のよい読者から見れば、まったく見当違いのことをいっているということになるだろうと思います。吉本に ついて、何が正しいか、ということは、僕にはさほど興味はありません。

 いやあ、とんでもないことになってきていますね。
 俺が吉本と比較されるなんてメに会うとは、これまでの生涯に、一度も思いませんでした。
 (と書くと根石さんにも失礼か?!ごめんなさい)で、笑わせてもらえました。久しぶりに笑いました。「久しぶり」は、私がろくでもない生活をしているせ いです。
 私も、吉本について、何が正しいかというような数式めいた思考はしてきていないつもりです。吉本が何を生きたのかがいつでも問題です。

 今日のお電話でも言った通り、私は「共同幻想論」を読み通して「いない」ろくでもない(ずさんな)読者です。吉本の座談や対談が好きで、それを読んで、 「ああ、そういうことなんか」と納得したりしてきました。
 座談、対談の他には、(理論ではなく)エッセイのレベルで書いたものが特に好きです。タイトルを忘れましたが、追悼集があったと思います。それなんかと りわけ好きです。中上健次(健次で、表記よかったんでしたっけ?)を追悼した文は、読むたびに泣きます。この本も、引っ越し以後に買ったのに、行方不明で す。なさけねえ。
 吉本が、対談や座談を多く残したのは、大正解だと思います。
 このおやじは、やっぱり日本の近代の言葉の限界をよく知っているのだと思います。がちがちの理論と、対談、座談は両方なくちゃ駄目なんだと、そりゃしょ うがないんだと、個人の力業でどうにもなりゃしねえんだ、と。
 対談、座談がなかったらと思うと、私はぞっとします。そういう論理を吉本は行使したと思います。その有り難味は、今後の世代に咲くはずだろうと思いま す。しかし、本筋の書き言葉で吉本がやったことは、言葉があんまりがちがちに固く、やはり受け入れることのできる層は非常に薄い。薄いからといっても、そ の薄い層に期待するしかなかろうと思います。酒が入って書いていますので、ちょいといいかげんな書き方で書いていますが、誰にというんでなく、今後の世代 に期待していたいです。そうじゃねえと、やってらんねえってところがあります。

>今回も根石さんの発言をいろいろ引き出せて(一点、とても重要な言葉を釣り上げることができました)、よかったと思っています。

 何だったんでしょう? 気になります。

>上の世代が、共同幻想についての吉本の理解を不変の真理のように持ち出すときに、それをテコにして考えていくという姿勢ではなく、むしろ議論の拒絶を感 じてうんざりした記憶があります。

 私は吉本の話をしても、話が全然通じない人たちばかりを相手にして生きてきたので、そういう「うんざり」は経験がありません。ああ、千曲市に一人だけい たか、吉本をめぐって、喧嘩になった人が。この人は、今、56だか57歳の私よりまた一回り上の世代です。多分、66歳くらいだと思います。この人とはよ く喧嘩しました。10年くらい口をきかないでいて、最近また口をきくようになりました。版画家をやっています。こちらに遊びに来られたら、遊びに行って、 一緒に版画を彫るのを邪魔しましょう。面白い人です。日常的につきあうと腹がたちますので、「水の交わり」がよろしい人です。

>僕が吉本の考え方の中で好きなものは、初期吉本の「関係の絶対性」の方です。

 「マチウ書試論」だったような気がしますが、イエスが故郷で説教をしたら、「あれはなんであんなに偉いことを言うんだ」「あいつの父親は、・・だし、あ いつの兄弟は・・じゃないか」という具合で、イエスも故郷ではケチョンケチョンだったという話があったような・・・。
 これを水で薄めたような経験は私にあり、それが私の「関係の絶対性」という言葉の理解なんです。どうにもこのフルサトというやつは。
 「語学論」なんかいくら書いても駄目なんです。現在は千曲市と呼ばれる地域の中の「中区」という村とその回りの村では、もう私はケチョンケチョンなわけ です。私のおやじは「礼吉」という名前ですが、村では「れいきっちゃん」と呼ばれていて、まあ、百姓をやらせても下手、俳句をやらせても二流、川柳をやら せるとたまにいい、女が惚れる顔をしてるが、女がまるで扱えない、貧乏であり、結構それが平気である、など、「れいきっちゃん」は軽侮とともに「れいきっ ちゃん」と呼ばれるわけです。
 溶融炉建設に反対するビラを配って、地主根性の校長あがりを批判したりすると、おふくろは「こんなもの書くから村の中を歩けない」とかおろおろするので すが、おやじはケッコウヘーキという顔をして飄々としています。なんかうかがい知れないところがある。
 そういう「れいきっちゃん」の息子が、東京の大学なんか出て、できちゃったで子供と女を連れて帰ってきたところで、「なんだ、れいきっちゃんの息子か」 で話は終わり、俺はけっこういい語学論を持ってるんだぞとか、語学に関するまともな考えがあるんだぞとか、だから、子供の英語は俺にまかせるといいぞ、と か言ったところで、「あはあ、れいきっちゃんの息子だろ、おめえ」で終わり。ケチョンケチョン。
 これが、私には「関係の絶対性」なんです。

>僕はむしろ、共同幻想論自体が吉本の「関係の絶対性」の産物であり、そこを離れた本質論や「原形」論は成立しないのではないか、という疑いをもっていま す。

 この辺がよくわかりませんでした。「関係の絶対性」の産物というなら、まともな文学作品や批評は全部「関係の絶対性」の産物ではないでしょうか。
 本質論とか、原形のほうに引き絞るということが成立するのは、文学を「論」とか「科学」の方に引っ張って引きずり寄せる時に成立すると思います。文学 は、その程度のことをやっても耐えるしろものなので、やっていいのだと思います。松岡祥男さんの言葉で言えば、「文学はなんでもあり」だと思います。
 この辺、なんかすれ違っている気がしますが、ゆっくりやりましょう。



【12054】
批評の場所 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月18日(日)12時28分55秒

はい。こちらこそ、ゆっくりお願いします。
最後の部分、少し性急にかっこつけて書きすぎました。さすがに根石さんは、相手の言葉の中の「空虚な」部分は見逃しませんね。やはり根石さんは、言葉のプ ロ、批評のプロなんだと思います。

たとえば糸山さん相手の激論にしても、糸山さんファンにとっては、吉さんの引用やどんぐりのホームページの走り読みくらいで、糸山思想の根っこを否定する ような発言をしたことについて不満をもっていると思います。
語学の例の方がわかりやすいと思いますが、語学のプロならば、相手のほんの数行話すのを聞いただけで、相手の語学力をたやすく見切ってしまうのではないで しょうか。少なくとも相手の根本的欠陥についての診断を誤ることはないだろうと思います。日本語の磁場の中で読み書きされる日本語の文章は、見かけはどれ も充実した姿をとっていますが、批評という観点から見るとき、穴ぼこだらけで空虚を多く抱え込んだものとなります。
根石さんが、糸山さんに読み込んだ「空虚」は間違いのないものであると僕も思います。(根石さんが「掲示板上の演技」という激昂の是非は、また別の問題と して。)

さて息子の新しい先生へのオマージュはこのくらいにして、自分の説明不足を少し補ってみます。
吉本が、戦中、戦後の体験という固有な場所で、共同幻想なるものを見出し、自己幻想(瑣末なことですが、吉本はこちらも使っています)とののっぴきならな い関係について認識した場面がまずあったのだろうと思います。
そのなかから、共同幻想が、自己幻想や対幻想と本質を異にし、むしろ逆立していること等を本質論として引きしぼっていった過程というものがあったのだろう と思います。そこに一種の倫理的判断(共同幻想が「悪」であって、廃絶すべきだという)をかぶせたことも理解できます。
僕が問題にしたかったのは、吉本がそこで出した結論を、いかなる時代、いかなる場所においても通用する真理として受け取れるか、ということです。

僕はむしろ、吉本の理論もその生誕の場所とコミで受け取るべきなんだろうと考えます。それは吉本の批評の瑕疵ではなくて、むしろ批評というのは、科学的な 真理なんかとは違い、それが生まれ育った場所とどれだけ徹底的に切り結んでいるのか、その刻印を全身に帯びつつ思考しているか、が勝負の分かれ目となるの だと思います。
僕が根石さんの批評を(ある点で吉本よりも)すぐれていると考える根拠もそこにあります。

80年代、僕が一番吉本をよく読んでいた時期に、講演等でよくいっていて、耳に残っている言葉があります。
人間は、自分にとって決定的な体験をもつと、すぐにそこに立ち戻って考え勝ちである。自分の場合はもちろん戦争(敗戦)体験である。しかし日本社会という ものを考えた場合に、オイルショックの前後に大きな転換が起こっている。自分はこの転換点を自分の批評に繰り込みたい、というような内容でした。
吉本自身に、それまでに培った批評の言葉が、時代の転換のなかでそのままでは通用しないという危機感があったのだと思います。

確かに80年代以降、吉本の批評は、消費資本主義の成立を前提にして、消費にまつわる共同幻想を準肯定的にとらえるようなスタンスに舵取りを変えたように 思えます。(そのことで以前からの読者に大きな戸惑いを与えたと記憶しています。)
そのことのいい悪いは措くとしても、吉本自身が、批評の生誕する場所にきわめて意識的な思想家であることは確かだろうと思います。



【12057】
根石吉久さんへ 投稿者:聞いてみようそうしよう 投稿日:2007年11月18日(日)21時08分50秒

私は数学ができないんですが、数学はこうやって訓練しろというのはわかるんです。数学ができないくせに、それを言うから、人は不信を表情に浮かべます。で も、私の塾には、私の言うとおりに数学をやって、数学の高得点で東大に入っちゃったようなやつもいます。

どんな指導をしたんですか?細かく教えてください。かなり興味あります。



【12058】
やばい 投稿者:聞いてみようそうしよう 投稿日:2007年11月18日(日)21時12分32秒

バレルかも



【12061】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月19日(月)11時23分26秒

 小学生のレッスンでは、「訳先渡し」をやります。
 「訳先渡し」と「音づくり」の組み合わせは、楽になじんでもらうためです。
 ひとまずは、目をなじませ、口の動きをなじませるという順序を踏んでいるところは、方法的には素読直伝だと思います。

「お遊びじゃないな」という尻込みは、むしろ、レッスンを始める前に持たれてしまうのかもしれません。
 語学論の「がちがち」さ加減と、実際のレッスンの様子とはまるで違います。
 この落差は私にはどうにも埋められません。
 現在の生徒さんが、語学論の固さとレッスンの使いやすさは別物だともっと書いてくれればいいんですが・・・。

「落差」があるから「楽さ」、なんですが。



【12067】
聞いてみようそうしようさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月20日(火)00時53分19秒

>バレルかも

 どういう意味でしょうか。もしかして、東大へ行ったご本人てことでしょうか。
 そうだといいんですがね。
 そうだったら、おい、お前、俺にそろそろご恩返しをしろと強要することができます。



【12068】
聞いてみようそうしようさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月20日(火)01時13分14秒

 ご本人だったら、ご本人に書いてもらえばいいのですが、ご本人かどうかわからないので私が書きます。他の読者の方にも役にたつかもしれないので・・・。

 数学の問題を、3種類に分けます。これは小学生にも、トーダイセーにも適用できます。
 3種類とは、「楽ちんな問題」「苦労したが解けた問題」「どうにも手に負えない問題」の3種類です。この分け方なら、どの人にも適用できるのです。

 「楽ちんな問題」は放置してよい。
 「どうにも手に負えない問題」は放置してよい。

 「苦労したが解けた問題」を番号をつけてノートに集める。
 集まった問題を繰り返し解き、「英語どんでん・・・」の「重ね方・はずし方」の要領で問題と解法に慣れてしまう。

 それをやっているうちに、「どうにも手に負えない問題」が少しずつ、「苦労したが解けた問題」の仲間入りしてくる。

 疲れています。「重ね方・はずし方」の要領がおわかりにならない場合は、また後日書きます。おわかりにならない場合は、その旨お書き下さい。



【12069】
見当がつかない 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月20日(火)01時20分47秒

聞いてみようそうしようさんは、もしかして、京都大学の大学院まで行ったあの大将か?
それならそれで、この掲示板に登場して、俺にご恩返ししろと、やはり強要できる。



【12071】
聞いてみようそうしよう さん 投稿者:らくだ 投稿日:2007年11月20日(火)10時00分18秒

横入りしますが、

>私は数学ができないんですが、数学はこうやって訓練しろというのはわかるんです。数学ができないくせに、それを言うから、人は不信を表情に浮かべ ます。でも、私の塾には、私の言うとおりに数学をやって、数学の高得点で東大に入っちゃったようなやつもいます。

の部分は、根石さんがこの掲示板に書かれた内容でしょうか?引用符がついていなかったため、繋がりが良く分かりませんでした。

それと、よろしければ、数学について書き込まれた意図についても教えていただければと思います。といいますのは、この問題に興味があります。機会があれ ば、算数・数学について根石さんにお聞きしたいと思っていたからです。

子供の学力についての論争は、多くの場合、算数・数学を舞台にしています。糸山問題の中核にも算数・数学問題があると思っておりますので。



【12072】
根石吉久さん・らくださんへ 投稿者:聞いてみようそうしよう 投稿日:2007年11月21日(水)00時22分25秒

>>根石吉久さん
いえまったく根石さんとは関係ない者です。たんなる誤爆です。ごめんなさい。
吉さんのHPからどんぐり倶楽部と素読舎を知って書き込んだだけです。根石さんだったら
算数・数学をどう指導するのかな?って思ったから書きました。おいらはまだ、英語どんでん読んでないので読んだ上で要領がつかめなかったまた相談させてく ださい。ありがとうございました。

>>らくださん
>>私は数学ができないんですが、数学はこうやって訓練しろというのはわかるんです。数学ができないくせに、それを言うから、人は不信を表情に浮かべま す。でも、私の塾には、私の言うとおりに数学をやって、数学の高得点で東大に入っちゃったようなやつもいます。
の部分は、根石さんがこの掲示板に書かれた内容でしょうか?引用符がついていなかったため、繋がりが良く分かりませんでした。

引用符つけるの忘れました。ごめんなさい。その部分は根石さんの文の引用です。

>>それと、よろしければ、数学について書き込まれた意図についても教えていただければと思います。

意図はありません。おいらは考えることが苦手なので下の文を読んだらなんとなく聞きたくなっただけです。あと吉さんのHPで根石吉久さんと糸山泰造さんが 同じこと言ってるって書いてあったけど全然同じじゃなくね?と思ったからってのもあります。

根石吉久さん・糸山泰造さん・アインシュタインさん
<引用>
[生理学]
○糸山泰造
1.私の考えの基本には哲学は生理学の一部である。という確信があります。そして、この生理学(人の反応の仕方)は私自身と目の前の子供から教えられたも のです。

2.アインシュタインはこう言いました。「一番よく分かるのは自分自身で体験することだ」と。私もそう思います。なぜならば、人の基本的な反応は誰もが同 じだからです。


○根石吉久
脳の左右はよく知りませんが、論理を分担している脳の部分と感覚を分担している部分が違うということは十分に信じられることです。しかし、それは脳にまか せておけばいいので、私が脳さんに言いたいことは、「じゃあ、まかせたからね」ということだけです。右脳さんがやってくれるんでも、左脳さんがやってくれ るんでもいいや、だけど、俺は英語を聞き取って、その場でわかりたいんだからね、よろしくってことです。実質は脳さんがやってくれるんでも、実感レベルで は私の心がやってると思うことに何の差し支えもないと考えています。生理学的根拠は参考にしかならない。私の心に何が起こるかと思っていた方が実質的だと 思っています。


[数学]
○糸山泰造
1.せっかく文章問題を解いているのに絵図で考えることをしないで文章から式を考えている人がいますがこれも大きな勘違いです。視覚イメージを意識せずに 解く文章問題はえる力を育てる材料にはなりません。しないよりはマシですが、非常に効率の悪い方法です。なぜなら、非常に大くの問題を解けば中にはイメー ジ操作をする子も偶然に出てくるので、その子は考える力を得ることが出来ます。しかし、これは偶然です。最初から、キチンと考えるとはどういうことかを教 えれば子供達は100%考えることができるようになります。偶然に頼って教育をすべきではありません。
……………………………………………………………………………………………
■読解力(分かる)とは言葉を視覚イメージとして頭の中で再現することです。「見える=分かる」なのです。思考(考える)とは視覚イメージを操作すること です。ですから、「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」を使って絵図を描く(言葉を視覚イメージに変換する)ことで、→国語(読解力と表現力)も算 数(算数の読解力)も総合力(思考力)も養成できる(思考のプラットホーム理論)←のです。ところが、算数(計算)は得意だけれど国語が弱いから文章問題 ができないと勘違いしている人が大勢います。読解力がないから算数の文章問題が解けないのではありません。分かる・考えるということがどういうことなのか を根本的に分かっていないのです。教えてもらっていないのです。これは欠陥教育です。文字(文章)とは音声を記号化したものです。音声とはイメージ(殆ど が視覚イメージ)を再現するためのキッカケです。「読解力がない」とは「文字(→音声)から視覚イメージを明確に再現できない」ということです。ですか ら、どんなにたくさん文章を読んでも視覚イメージ化の練習をしなければ読解力も思考力も育ちません。基本の基本です!!視覚イメージ化がなければ「何度読 んでも分かる」ことはない
……………………………………………………………………………………………
■絵図を描くことの本当の意味:頭の中で視覚イメージを持続するのは無用のエネルギーを大量に浪費するので手を使い目を通して必要な視覚イメージを瞬時に 利用することで頭のエネルギーを最も効率的に「考えること」にだけ使うのです。だから、楽に考えられるのです。大人でも絵を描かなければ解けないのは、そ れだけ視覚イメージを頭の中で維持するのにはエネルギーを浪費するからなのです
思考のプラットホーム理論
<国語も算数も使う力は同じ視考力(視覚イメージの再現と操作)です>
●思考力の使い方(意識の仕方:注意するポイント)を少し変えるだけで良いんです。
※このことを知らずに違う力だと思っていると無駄な時間を浪費します。
……………………………………………………………………………………………
●国語的内容の理解方法とは「視覚イメージの流れ:複数の視覚イメージを細部に注意することなく流している」を意識することです。
 すると、細部に注意しないことで流れを意識しやすくなるのです。「内容」と呼ばれているのは「流れ」のことです。ですから、国語の読解力とは視覚イメー ジを操作ではなく再現とその移り変わり(流れ)に重点を置くことなのです。
……………………………………………………………………………………………
●算数的内容の理解方法とは「視覚イメージの細部:単数の視覚イメージを細部に注意して見ている」を意識することです。そして、イメージ操作を加えます。 イメージの移動・変形・連想・比較ですね。このイメージ操作を算数の言葉にしたのが計算式です。文章→計算式ではすぐに行き詰まってしまいます。文章→絵 図(絵図の変形)→計算式は何にでも応用が利きます。
……………………………………………………………………………………………
●使う能力(視覚イメージの再現と操作)は同じですが注意すべきポイントが違うのにポイントのシフトをしていないからです。ギアチェンジをしないで山道と 高速道路を走ろうとしているから効果が現れないのです。
●楽しい「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」という中間形(プラットホーム)を知っていると修飾の少ないの数学にも修飾の多い文学にもどちらにも 簡単に移行できる。
●視覚イメージは思考のプラットホームなのです。
……………………………………………………………………………………………
<表現力も全く同じ力:視考力を使います>
視覚イメージの言葉などでの説明が表現力です。ですから、要約する場合なら視覚イメージを簡略化してその簡略化した視覚イメージの説明をすればいいのです し、長文ならば視覚イメージを細部まで表現すればいい。感情なら人物の視覚イメージを良く見て説明すればいいのです。変化させるのは言葉ではなく視覚イ メージなのです。言葉は視覚イメージの説明に過ぎません。説明する対象を変えれば説明の仕方は当然変わるのです。それなのにイメージをそのままにして表現 だけいじってもそれは言葉の言い換えであるだけです。

2.▼「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」が
 国語力(読解力)も養成できる理由は、シーン展開を含んでいるからです。
算数と国語の違いは1シーンの細部描写(再現)か多数シーンの曖昧描写(再現)かの違いです。算数も国語も本質的には、視覚イメージ再現という点において は全く同じなのです。
違いは細部描写には根気と緻密さが必要ですし、複数シーンの流れをつかむには大まかな理解(再現)で数多くのシーン理解(再現)をする、あるいは完全に理 解しなくても次に行く大雑把さ(拘りすぎないこと)が必要になるということなのです。ここで大事なことは精細(緻密なこと)から大雑把になることは比較的 に簡単ですが、逆は難しいということです。整理整頓を出来る人が乱雑にするのは簡単ですが、日頃から乱雑にしている人が
整理整頓するのは難しいということです。「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」は
算数の文章問題ですから緻密さを要求されます。しかもかなり高度な緻密さです。さらに、ストーリー性を加えてありますから解きながらの遊びがあります。実 は、この遊びが国語の複数シーンの把握につながるのです。算数の文章問題が楽しくなければいけないのは「飽きないように」ではなく、国語力もつけるために 必要だからなのです。ですから、「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」はこれだけで国語力も算数力も付くのです。
プラトンが創立した哲学学校の門に「幾何学を解さざる者入るべからず」と刻んだのは
「哲学には精緻な思考が必要である」ということです。計算とは全く関係ないのです。また、曖昧な流れの方が日常的であるが故に訓練が必要なのは緻密な描写 の方なのです。映画を楽しめない人はいませんが絵画を楽しめない人は多いのもこのことが原因です。楽しい「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」とい う中間形(プラットホーム)を知っていると修飾の少ない数学にも修飾の多い文学にもどちらにも簡単に移行することが出来るようになります。さらに、独創的 な考えもヒラメキでさえも養成することが出来ます。なぜなら、これらは全て視覚イメージの操作から生まれるものだからです。

○根石吉久
1.数式が作る論理と、言語が作る論理は違います。数式の論理は、実に清潔ですが、やせた論理です。言語が作る論理は、ごみやばい菌だらけ、夾雑物だらけ です。しかし、言語が数学を育てたのであって、その逆ではありません。 私はいまだ、夾雑物だらけの言語が作る論理が好きですね。確かにこの世には、数式化できない論理があります。
2.数学はその抽象性の清潔さのおかげで、抽象の高みから生活に直接に戻る経路が閉ざされてしまうのが大きな違いでしょうか。

[考える]
○糸山泰造
全世界の言葉を全て知っていても考え方を知らなければ何も考えられない。
一言も言葉を知らなくても考えることは出来る。

○アインシュタイン
1.アインシュタインの「自伝ノート」Paul Arthur Schilpp, Albert Einstein als Philosoph und Naturforscherシュテゥットガルト・1955年「多くの場合、記号(言葉)がなくても思考は進められるもので無意識のうちにさえもかなりの程 度までそれがやれるということは、自分にとっていまや疑いないことである」

[教育]
○アインシュタイン
教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、自 ら考え行動できる人間をつくること、それが教育の目的といえよう。by アインシュタイン

[全盲の人の視覚イメージ]
○糸山泰造
私はできあいの理論を信じません。私は目の前の子供たちの反応だけを信じることにしているからです。しかしながら、今回だけは小山田さんという全盲の方に お話を伺いました。イメージ思考についての最終確認をしたかったからです。視覚のない方にも私の考えが通じるのかどうかを確かめたかったのです。イメージ (特に視覚イメージ)で理解したり考えたりしていることが全盲の方にもあてはまるのだろうかと思ったからです。
小山田さんは、「言葉はきっかけにすぎないですね」「イメージで考えているというのは、まったくその通りだと思います」と言われました。

<引用終わり> []はおいらが適当につけた。

>>子供の学力についての論争は、多くの場合、算数・数学を舞台にしています。糸山問題の中核にも算数・数学問題があると思っておりますので。

そうそうおれもそう思う。でもおいらは考える力がないから根石さんと議論はできないので
らくださんにそのことを議論してほしいです。たまに横入りさせてください。
そろそろ刺身パックにたんぽぽをのせる作業に戻ります。



【12073】
聞いてみようそうしよう さん 投稿者:らくだ 投稿日:2007年11月21日(水)09時28分3秒

>おいらは考える力がないから根石さんと議論はできないので

ご謙遜を。これだけ引用と整理をされているのですから。
私こそ、『英語どんでん』も3回目に突入したばかりで、過去ログも未だつまみ食い程度にしか読んでいませんので、ボチボチ行きたいと思います。



【12074】
根石さんと吉本 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月21日(水)22時14分48秒

  < 磁    場 >    ・・・英語の磁場
        ↑↓

     批評 / 語学

   ↑↓
  < 娑    婆 >    ・・・日本語の磁場、生活

 この根石さんの思想の模型は、イメージを膨らませれば、娑婆の領域を底面とし、批評を頂点とする円錐形と、磁場の領域を底面とし、語学を頂点とする逆向 きの円錐形との組み合わせとして理解することができます。
 この思想モデルの独自性をみるためには、吉本隆明の思想を参照することが有効です。
 吉本の膨大な仕事も、その思想の骨格を取り出すときには、このモデルの下半分の円錐形の図式に収まるものであることが見て取れます。

      批評 ・・・ 知(知識人)/ 自己幻想

      ↑↓
  < 娑    婆 >    ・・・ 大衆の原像 / 共同幻想

 例えば、吉本の知識人論で考えられるのは、娑婆=「大衆の原像」から上昇する批評=「知」のありようです。芥川論や転向論では、そのような知の必然的な 挫折を描き、知識人の課題として、大衆の原像を知の内部に繰り込むことが提唱されます。親鸞論では、上りつめた知の高みから非知=娑婆に還ることが知の最 後の課題とされます。
 あるいは、共同幻想論における自己幻想と共同幻想の逆立というテーゼも、娑婆=共同幻想に対抗する批評=自己幻想というこの枠組みで理解することができ ます。この構図においても、消費資本主義を肯定する80年代以降の吉本によって、いわば批評の娑婆への漸次的接近が図られることになります。
 このように見ると、吉本の関心が図の下半分の円錐に限られており、その円錐の高さ(垂線)を押し縮める方向で動いているということは、最低限確認できる だろうと思います。

 吉本の思考と比べると、根石さんがいかに独自で、異様ともいえるような場所で考えているかが、はっきりします。英語と日本語の磁場とに引き裂かれ、語学 と固く結びついた批評は、吉本のように娑婆へのホンケガエリを目指すことはできなくなります。
 また、根石さんのいう語学と磁場との峻別は、単に日本在住のままで英語をやるということでなく、学問共同体や企業共同体における「役立ち」からまったく 切れたところで純粋に語学をやるという立場によって初めて見出されるもののように思われます。
 いまはまだ全くのあてずっぽうでしかありませんが、根石さんの使う「空っぽの電池」という言葉が、根石さんの批評的な位置をよく示す重要な比喩であるよ うな気がしてなりません。
 「空っぽの電池」としての知。
 徹底して空っぽであることによって、複数の磁場へと自在にわたって行くような知こそ、吉本を超える根石さんの批評のイメージだと思います。



【12076】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月23日(金)00時02分51秒

>この根石さんの思想の模型は、イメージを膨らませれば、娑婆の領域を底面とし、批評を頂点とする円錐形と、磁場の領域を底面とし、語学を頂点とする逆向 きの円錐形との組み合わせとして理解することができます。

 「磁場の領域を底面とし」というときの「磁場」は、「ネイティブ言語の磁場」を想定されたのでしょうか、異言語(外国語)の「磁場」を想定されたので しょうか。
 語学は、どちらの「磁場」をも底面とすることができますが、私は日本語の「磁場」(ネイティヴ言語の「磁場」)としか接触しませんので、そちらが「底 面」となります。たまに外国に行っても、異言語の「磁場」の中を点のように移動するだけで、日本にいるときのように、「磁場」と交わる感触がありません。 (つまり、円錐形であれ何であれ、立体になっていかないという感触があります。)やはり、そこで生活しなければ、そのことは生じないのだろうと思っていま す。
 「娑婆」と「批評」の間に立体が立ち上がるとは思いますが、同時にねじれが生じていると思います。ねじれてもつながっているのは、「娑婆」の言語と「批 評」の言語が抽象レベルの違いはあっても、私にとっては同じネイティヴ言語から派生しているものだからです。
 異言語の「磁場」にせよ、ネイティヴ言語(日本語)の「磁場」にせよ、「磁場」と「語学」の間には、私の場合(日本で例えば「英語」をやる多くの日本人 の場合も)、「ねじれ」でなく、「切断」があると思っています。
 「語学」の対象が英語である場合、日本でそれをやっていることによって、対象言語の「磁場」から切れています。また、対象としている言語がネイティブ言 語(日本語)ではないので、日本語の「磁場」からも切れています。このように、どちらの磁場からも切れているものを「語学」だと考えています。
 これが、例えばアメリカに住んで、英語を日々使いながら語学をやるという人の場合は、英語の「磁場」にある言語と自分の語学の対象が同じ言語になります から、「切断」ではなく、「ねじれ」としてつながるわけです。その場合に、matsu さんが描かれる円錐形が、「娑婆・批評」と同型のものとして扱えるようになると思います。

 吉本には、私にはない「運動」というものがあります。80年代以降の吉本に、「運動」という感じはありませんが、勤めてはやめる(やめさせられる)こと を繰り返していた時期の吉本には、「娑婆」とも違う、(労働組合を組織しようとするなどの)「運動」の領域があり、これがまた、独自の領域になっているの ではないでしょうか。
 吉本の「対幻想」の原形は男女間(あるいは三角関係)における幻想かと思いますが、「運動」なんかに関わりようがなかった私などから見ると、吉本の「運 動」も、「対幻想」の領域にかなりの部分が含まれていくのではないだろうかと思います。あるセクトにコミットする時点では、そのセクトの「共同幻想」にコ ミットしていくわけでしょうが、労働組合を作ろうとして人と一人一人話している時点では、幻想は「対幻想」の内側にあるだろう、と。
 この吉本の「運動」まで考えに入れると、matsu さんが描かれた私についての図式は、単に複雑な形をしているだけで、しょせん「対幻想」の領域の希薄なものです。私がいまだ、吉本を本当に読めていないと いうのは、その辺も考えてそう思っているのです。
 吉本が「対幻想」を独自な領域として取り出すに至るまでの労働としての思想に、私の「語学論」などとうてい及ぶものではありません。

 語学という行為は「磁場・娑婆」の血を浴びはしないのです。吉本の「対幻想」は、「磁場・娑婆」の血を浴びています。

 ただ、80年代以降の時代の空気には、「からっぽ」という言葉の方が照応するかもしれません。

>また、根石さんのいう語学と磁場との峻別は、単に日本在住のままで英語をやるということでなく、学問共同体や企業共同体における「役立ち」からまったく 切れたところで純粋に語学をやるという立場によって初めて見出されるもののように思われます。

 これはありがたい把握でした。語学は目に見える形で役に立たなくてもいいんだというのが、私の考えの基にあります。私にとって、語学がもっとも役に立っ たのは、日本語の文章を読んだり書いたりする場合の栄養素を養ってくれたという点にあります。この点で、実は「英語どんでん・・・」の岡田と同じことを私 もやっていたのかもしれません。「通訳」「翻訳」を始め、「役立ち」「実用」から、私の語学は切れています。
 日本語の文章を読んだり書いたりするときの養分などは、まったく語学の「対象言語」使用から「切断」されて見えるはずです。というか、それは目に見えな いところで、「切れてからつながる」。あるいは、ある言語から生じたイメージが異質な言語を媒介にするところから見れば、「つながってから切れる」。
 「磁場」と「語学」の間にある「切断」と、イメージを強化する(独在させる)ことによる具体的言語からの「切断」(イメージによる具体的言語の脱皮)、 この二つの「切断」がどういう姻戚関係にあるのか、いまだうまく言えません。
 イメージに言語を脱皮させること。あるいは、イメージに異言語をつなげさせること。つなげられたものの間に生じる「ねじれ」を持ち続けること。こういう 行為もある種の血は浴びるのですが、しょせん、机上という抽象的な場所に飛ぶ光のような色のない血です。

 またしても吉本に戻りますが、吉本の思想はじかに現実と擦れて、現実からの返り血を浴びています。それは血の色をした血だと思います。それが変わったの は、matsu さんが言われる通り、80年代以降ということになると思います。吉本も色のない血を浴び始めたのか。
 80年代以降の吉本に関しては、私はよくわかっていなくて、何から読んだらいいかご教示願えたらと思っています。



【12079】
らくださんへ 投稿者:聞いてみようそうしよう 投稿日:2007年11月23日(金)04時52分21秒

謙遜でもなんでもなくておいらの頭の悪さはガチですよw大雑把なことを言って頭の良い人にいろいろ考えてもらうのがおいらの手法です。だから、らくださん に期待してます。
とりあえずおいらの意見。
[仮説1]
○目で解くことについて
<6MX00>
ムササビ商店とモモンガ商店では、毎年恒例のマント祭りを開催しました。
今年の売り上げはムササビ商店がモモンガ商店の15/12(12分の15)で154320円
でした。ではムササビ商店とモモンガ商店の売り上げの差額は幾らだったので
しょうか。
<解答の流れ>
154320×12/15(15分の12)=123456
154320-123456=30864
<6MX00>30864円

・解法のポイント
モモンガ商店の売り上げ×15/12=ムササビ商店の売り上げ(154320円)
だから
モモンガ商店の売り上げ=ムササビ商店の売り上げ(154320円)×12/15

・子どもの思考
問題文読む→モモンガ商店の売り上げ×15/12=ムササビ商店の売り上げ(154320円)を読みとる→ムササビ商店の売り上げ(154320円)−モ モンガ商店の売り上げ(差額)が求められていることを読みとる→モモンガ商店の売り上げっていくらだろう→分からない
つまり、子どもにはモモンガ商店の売り上げ×15/12=ムササビ商店の売り上げ(154320円)
だから
モモンガ商店の売り上げ=ムササビ商店の売り上げ(154320円)×12/15の「だから」のつながりが見えにくいんだと思うんです。

・目で解く
この問題を絵にすると(絵が書けないないので言葉を交えて説明しますが)、モモンガ商店の売り上げ「□」(金貨の塊の絵)を均等に12分割+その12分割 した1つ分の大きさ×3つ分(3/12)した「□」=ムササビ商店の売り上げ(154320円)になります。
つまり、この時点でムササビ商店の売り上げ「□」(154320円)を15分割した絵が欠けているはずです。<ここまでが問題文イメージを絵にした状態>

そうするとムササビ商店の売り上げ「□」(154320円)の15分割したうちの12個分がモモンガ商店の売り上げだっていうことが目で見てわかるじゃな いですか。<モモンガ商店の売り上げ発見>
これを数式にすると、モモンガの売り上げ=154320×12/15になります。これが目で解くってことじゃないでしょうか。

[仮説2]
○良質の算数文章問題について

・類題が多い(らくださん情報)
ここから少し養老さんを引用します(生理学として正しいかどうかは分からないけどおいらの実感レベルとして納得できる話)
<引用>
繰り返しで、人は学ぶ

で、脳の活動は、ずっと一生その繰り返しなんです。だから根本的には脳は、このくり返しでつくられます。しかも、毎回くり返しているようでいて、少しずつ らせん状に上っていくみたいに、そのくり返しから、いつの間にか脳は変わらない規則を学習していくんです。一回ごとのくり返しをすべておぼえていたら、頭 は破裂しちゃいますから、そういうことは脳は関知しないんです。脳がやるのは、くり返しやってもいつも変わらない、ということの規則を、いつの間にか学習 しているとううことなんです。
この学習が積み重なると、どうなるか。
たとえば、比例するふたつの三角形。ひとつは遠くにあって、ひとつが近くにあるとするでしょ。それをしょっちゅう、いろんなところから見ていると、最終的 に脳ミソが何をおぼえこむかというと、比例関係なんです。そんなふうに、脳は、あっちからもこっちからも、いろんな距離から見ているあいだに、変わらない こと、変わらない性質だけを、おぼえていくんです。
で、算数で比例を習うと、ふつうはキミたち、外側に「比例」という規則があって、その、外側にある規則を自分が学んでいるんだ、なんて思ってるでしょう。
ぼくが言いたいのは、キミの頭の中に、くり返し学んだすえにすでにわかっている「比例関係」がじつは最初からあるんだっていうことです。むずかしく言う と、外部的に外側から説明してもらうと、頭の中にあるから、わかる、ということ。それが脳の働きというものなんです。ふつう考えるのと、ちょうど逆で しょ。
それと同じことで、キミたちは学校で、外からいろいろ教えられるもんだと思っているでしょう?でも、そうじゃない。わかるというのは、もともと自分の中に わかるだけのものが、ループのくり返しによりでき上がっていて、それを外から説明されるから、わかるんだ。
<引用終わり>

おいらは算数を究極的に突き詰めていくと「比」の概念が理解できているかどうかが分かれ道になると思ってるんです。「比」の概念が理解できていれば割合、 相似の概念も軽く理解できます。比の概念を理解していることが中学・高校数学をしっかり消化できる前提条件になっていると思います。
で、良質の算数文章問題に類題が多いのは意図的に「比」の概念を分からせようとしているからじゃないでしょうか?(脳は変わらない規則を学習していく)。 そして小学生の内に「比」の概念を理解した子どもは後で伸びると思います(数学を消化できるだけの力があるから)。しかし、ただそれだけのことだと思うん です。「比」の概念は大人になってからでも習得できます。だから思考の臨界期なんてのは馬鹿げています。小学生の時に計算ばっかりやってないで文字、数字 から具体的なイメージを導き出して操作すること(考えること)やその考えることを通して高度な概念の基礎(比など)を獲得していこうってことなら納得でき ます。
「比」の概念を身につけて使いこなすにはそれなりの時間がかかるので小学生の内に身につける(使う)機会が少なかった子どもが数学の落ちこぼれになるとい うことは多いと思います。そして、単純な計算と漢字練習ばっかりやってた子どもはそうなりやすいかもしれないし、理解力も低いように見えるかもしれない。 でも、それを思考の臨界期いう脳の機能と結びつけちゃいかんと思います。



【12082】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月23日(金)08時29分36秒

風邪の中、コメントを強要してしまって申し訳ありませんでした。

あの図の二つの円錐でいえば、批評−娑婆関係は「ねじれ」であり、語学−磁場関係は「切断」であるということはよくわかりました。だから、後者は、実感と して立体をなしていないということも。

しょせん、考える手がかりとしての模型なので、それ自体にこだわるわけでないのですが、自分なりにある程度使えるのではないかと考えているのは、批評−娑 婆の正立に対して、語学−磁場が倒立像として描けるところです。
根石さんの言うような、ネイティブ語とは全く異質の関係を、倒立ということであらわすことができるかもしれません。

にもかかわらず、この「ねじれ」と「切断」の間には、何らかの対応関係、「姻戚関係」があるだろうと思います。またしても手前味噌ですが、そこに考えるポ イントがあるということを、全く同じ形の二つの円錐で示すことができるのかもしれません。

だいぶ頭を整理することができました。今日はなんとかレポートできそうです。

吉本についてはまた後日。
根石さんは謙遜されますが、根石さんは思想の現場で、吉本以上の返り血を浴びていると思います。

今晩の初回のレッスン、よろしくお願いします。



【12083】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月23日(金)18時42分12秒

レッスンの件、ご連絡ができずにいます。住んでいるマンションの光電話回線が足りなくなっており、増設工事を予定しているとのことで工事日程を確認中で す。ラチがあかないようであれば、別の手も考えようと思っています。

>新たなご感想がありましたらお聞かせ下さい

感想ですか...。実のところ読むほどに口が重くなって、少し黙っていたいなと思っていたところなのですが。

この本についてまともな感想を語るためには、自分自身が「回転読み」「電圧装置」等を使って語学を深く実践してみなければ難しいと感じています。とんでも ない本を読み始めてしまったな、というのが正直なところです。



【12084】
書評『日本人と英語』 投稿者:外野。 投稿日: 2007年11月24日(土)16時39分27秒

書評
『日本人と英語』
斎藤兆史
出版社:研究社
発行:2007年10月
ISBN:9784327377205
価格:¥2100 (本体¥2000+税)

国民必読の「愛憎劇」
 「駅前留学」NOVAの経営破綻(はたん)をめぐる連日の報道をながめながら不思議だった。これほど大量な人々がなぜ英会話学校に通うのか。本当に必要 なのか。そもそも役に立つのか。

 その答えは、すべて本書にある。敢(あ)えて国民必読といいたい。英語教育史をベースに日本人の英語愛憎劇が活写されている。開国期の「文明語」熱、日 英同盟の英学ブームを経て、学力選別手段としての「受験英語」成立、大正期の「外国語」高等小学校導入と英語廃止論、戦時下の敵国語教育、敗戦後の人気ラ ジオ講座、英米の言語戦略とコミュニケーション中心主義、そして第二公用語化をめざす「平成の英語」。

 あくまで抑制的な著述だが、小学校の「英会話ごっこ」やセンター試験のリスニング導入など愚劣極まる近年の教育政策に、私も義憤がこみあげてきた。百年 を超える英語教育史を振り返れば、日常生活で英語を使わない日本人が英語を習得することが、どれほど困難かは自明である。明治期のエリートは、国家存亡の 危機にのぞんで死に物狂いで英語漬けになって学んだが、その学習動機が消えた日露戦争以後、日本人の英語力は一貫して低下している。つまり、国際的地位の 向上と英語力低下は連動していた。

 著者の指摘どおり、いかなる英語教育法も一日一時間の授業でめざましい成果を挙げることは不可能である。この「厳然たる事実」から目を背け、文法・訳読 を受験英語として否定することから教育改革の迷走は始まった。「読解」が受験、教養という暗いイメージで退けられ、「コミュニケーション」には自己表現、 国際理解など明るい意味付けが行われている。だが、英語の母語話者との対等なコミュニケーションを可能にするのは、個性的な文化を創造する日本語能力だけ である。脱「ゆとり教育」の今も、国語教育の充実より貧弱な英語で自己紹介できることに価値が置かれている。奴隷根性の実用感覚というべきだろう。

 ◇さいとう・よしふみ=1958年生まれ。東京大学准教授。専門は英語教育・学習論。

研究社 2000円

評・佐藤卓己(京都大学准教授)

(2007年11月19日 読売新聞)



【12085】
気をとり直して 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月24日(土)17時47分44秒

「まともな感想」を書こうなどと欲張ったことを考えていたのですが、やめることにします。生煮えご免で感じたことを書くことにいたします。

matsuさんは根石さんの立場を

>学問共同体や企業共同体における「役立ち」からまったく切れたところで純粋に語学をやるという立場

と評し、根石さんは

> これはありがたい把握でした。語学は目に見える形で役に立たなくてもいいんだというのが、私の考えの基にあります

と応えておられますが、私は「役立ち」に少しこだわってみたいと思います。高度に抽象化された批評の世界に参加できない負け惜しみもあるのですが...。

以前、私が「英語で食っている」会社に属していると書きました。ハンドルネームを使っている意味がなくなりかねないため、あまり詳しいことはご容赦いただ きますが、「英語教育機関」に所属していると言い換えます。仕事柄、英語学習の指南書の類を数多く読んできました。これまで、國弘正雄さんの『國弘流英語 の話し方』が類書としては最良のものと思ってきたのですが、この認識は改めなければならない、というのが第一の感想です。

『英語どんでん』は7年ほど前に一度読んでいるのですが、その時は「回転読み」という手法のインパクトだけが印象に残り、ほとんどまともに読めていませ ん。情けない話です。

今、読み返して、7年間も本棚の奥に眠らせてしまったことに愕然としている、そんなところであります。國弘さんの本と比べて、どこが優れているかという点 につきましては、根石さんご自身が過去ログで述べられているかと思います。

それは、「磁場論」の有無ということなります。生活言語と語学とを厳しく峻別することの重要性をここまで明確に述べている本は、他に無いのではないかと思 います。あればどなたかご教示下さい。

この峻別こそが、非常に「役立つ」考え方だと思います。すでに高い英語力をお持ちの方が、日本に暮らしつつ英語力の維持、向上に取り組む場合にはもちろん でしょうが、ある種の英語難民にとって、「生活言語と語学との峻別」は福音と言える考え方です。望むと望まざるとにかかわらず、英語を勉強せざるをえない 膨大な中学・高校生にとっても福音となる「ハズ」です。伝道師がいれば、ですが。生活言語と語学との混同が、どれだけ多くの犠牲者を出してきたかを考えれ ば、福音という言葉は適切な表現だと思っています。

しかし同時に、独習書としての限界を合わせ持っていることは否定できないと思います。「回転読み」や「電圧装置」といった方法を伝授してくれているだけ で、充分に実用的な本だと思いますが、「音作り」については、やはり独習は無理ということになりますので。しかし、それは本の限界というより、独習の限界 と言えますので、無い物ねだりをしても仕方ありません。そのあたりも根石さんは過去ログで触れておられます。國弘さんの中学時代の音作りの謎について書か れているところです。非常に読みごたえのある文章でした。



【12087】
聞いてみようそうしよう さん 投稿者:らくだ 投稿日:2007年11月25日(日)09時51分33秒

・単純な高速計算の反復は有害である
・文章題を使って考える習慣をつけるのが良い

というのが糸山さんの考え方の基本にあり、それは正しいのではないか。また、数学のキモになる項目に習熟するように文章題が構成されている点も評価でき る。以上が聞いてみようそうしようさんのご意見と考えてよろしいですね。

少なくとも、

・単純な高速計算の反復は有害である

については根石さんも同様のことをおっしゃっていると思います。子供を計算ロボットにするような教育を批判されています。また、泥臭く、粘り強く考えるこ とに価値を置くべきともおっしゃっています(『英語どんでん』249ページ)。

そのために文章題を使うのが良いのか、文章題を解く過程で絵図を用いる習慣をつけさせると良いのか、という点についてどうお考えかは分かりません。

さて、ここで私から根石さんに質問を投げかけてみるならば、こういうことになります。

・単純な計算の反復は本当に有害か
・それを高速でさせること(ストップウォッチでタイムを計ること)は有害か
・それを大量にさせることは有害か

です。なぜそんな問いを立てるかと言いますと、教育に関しては昔から以下の対立点で語られることが多かったと考えるからです。

「できる」から「わかる」へ
    vs
「わかる」から「できる」へ

あるいは

「読み書きそろばん」
   vs
「考える力」

素読というのは、上段に属する(と一般的にはみなされる)と思います。また、語学における基礎練習と計算の反復練習が、一見、似ているような感じを持たせ ます。

以上が、第一の質問です。

第二の質問は、

・算数・数学教育において、素読はどの程度有効か

ということです。『英語どんでん』の書評ページに小池隆さんが

>語学に限らず学問は全て独学でしたが、法学も文学も哲学も、その他私が学んだものは全てが素読か写本だったのです

と書かれています。文科系の科目についてはイメージがわくのですが、理数系の科目についてはどうなのか、とりわけ算数・数学の場合は。

・算数・数学教科書べらべら読み
・文章題の問題文べらべら読み

これらは有効か、ということになります。特に

・文章題の問題文べらべら読み

は、文を一度読んだら絵図に転換し、あとは絵図で考える、という糸山さんの考え方と対立することになります。



【12088】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月26日(月)01時33分45秒

>この吉本の「運動」まで考えに入れると、matsu さんが描かれた私についての図式は、単に複雑な形をしているだけで、しょせん「対幻想」の領域の希薄なものです。
>吉本が「対幻想」を独自な領域として取り出すに至るまでの労働としての思想に、私の「語学論」などとうてい及ぶものではありません。

風邪のところ申し訳ありませんが、一点だけ、忘れないうちに書かせてください。
この引用の部分が、実は僕にはイメージのしづらいところでした。

僕には吉本に発想の根本は、かなり常識的で、それゆえにまともであるという印象があります。一人の人間の心の動きや振舞いと、人間同士が直に向き合ったと きのそれ、および人間が集団をなしたときのそれを区分けしようとした発想自体は、それほど特別なものではないような気がします。
また、対幻想の位置づけも、自己幻想と共同幻想との関連の中で語られる以上、以前のモデルでいえば、批評−娑婆の関係の内側にあるものと考えます。

ただ、根石さんが自分の語学論を対幻想の領域にあるものと考えていることには興味をひかれました。

「英語!糞くらえ」と腹の底から思いながら、延々とかかわっていく(かかわらざるをえない)姿勢は、他なるものに対する関係の、一種の極限といっていいの かもしれません。この意味では、語学をやらなかった吉本が思いも及ばなかった対幻想の核心を、根石さんがつかんでいるとさえ言えるだろうと思います。
英語回りで流した血のことを根石さんはこの掲示板でも書いていたと思いますが、それを「希薄」と形容したのは、おそらく語学の空虚さ(からっぽ)を踏まえ てのことでしょう。しかし、その希薄は、吉本の充実に対して認識上劣位にあるものではないと思います。
他者の領域と向き合う対幻想の只中に徹底して空虚な媒介を見出す、というのが根石さんの批評の独創だと考えるからです。



【12089】
「共同幻想論」と語学 投稿者:村田 投稿日: 2007年11月27日(火)00時22分20秒

今日、塾の広告の話をしているときに根石さんが話していたことがとても面白かったので記録しておきます。記録、と言っても、あくまでも私というフィルタを 通したものですが…。
以下、メモ書き。
===============
・語学において、吉本隆明の「共同幻想論」は有効である。
・自己幻想は一人称。
 (村田の理解)「語学」は自己幻想に属するものである。
・対幻想は二人称。
・共同幻想は、一人称、二人称をとりまく三人称の世界。
・「対幻想」は、最小の「磁場」である。
 (以下、村田の理解)
 英語圏で生活して、日本に帰ってきた日本人の英語は、日本に帰ってきた途端に錆付きはじめる。ただし、ダンナが英語ネイティヴ、あるいはヨメが英語ネイ ティヴである場合は、この限りではない。日常生活の中で英語を使い、英語の感覚がお互いの共通感覚として通用するからである。
・英会話学校には、「磁場」がない。英会話学校のネイティヴ講師は磁力は発するが、それは点にすぎない。
 (以下、村田の理解)
 英会話学校の講師が、例えネイティヴだとしても、彼・彼女は「磁力」を発してはいるけれども、そこには「磁場」はない。もしもそこに「磁場」があるとす れば、講師と生徒以上の深い関係があるはずである。
・「あいさつ」は「共同幻想」である。
 (以下、村田の理解)
 1対1で話していたとしても、「薄い」関係は「対幻想」ではない。たとえば「あいさつ」は「共同幻想」を媒介とした会話である。
・「話す」ことは「対幻想」である。
 (以下、村田の理解)
 真剣で、実のある話は、いつも「対幻想」である。夫婦、同棲相手、同性同士でも気心の知れた者同士の話は「対幻想」である。
・「磁場」は、「共同幻想」込みのものである。
・「教室」では「語学」は成り立たない。
 (以下、村田の理解)
 「語学」は、生活言語とは切り離されたものであり、「個」でやるものである。また、「個」でしかできないものである。だから、教室では本来語学は成り立 たない。もしも成り立つというのなら、それは洗脳である。



【12090】
過去ログでの「共同幻想論」への言及 投稿者:村田 投稿日:2007年11月27日(火)00時23分48秒

【5798】
【タイトル】吉本隆明資料集25から
【 日時 】02/09/28 2:26
【 発言者 】根石吉久

吉本 (略)ほんとはわからないけれど、たぶん自分が敗戦直後にやろうと
   思ったことを、三島さんの行動に感じたんじゃないかという気がしま
   す。だから、三島さんに気持ちが同化していかれたと思います。
山折 あの頃から村上さんはエネルギーというか、バイタリティーが薄れて
   いくというような感じがしましたね。
吉本 そうですね。そういう言い方をすればそうなんですし、べつな言い方
   をすれば、村上さんはその時を契機にして、ある意味で戦争体験に帰
   ったということも言えましょう。またそこから命がかかってない思想
   はみんなだめなんだという感じを蘇らせていきました。(略)だから、
   ある意味では、村上さんは、あいつが言っていることは命がけじゃな
   いという意味で、左翼思想からマルクス主義からみんな含めて、馬鹿
   に見えてきたということがあるんじゃないでしょうか。村上さんはそ
   れを契機に凝縮し始めたという感じがぼくはしたんです。開かなけれ
   ばだめだ、と戦後ぼくらは考えてきたと思うんですが、逆に村上さん
   の方から見れば、命をかけていない思想なんかだめだと、見えていっ
   たのではないかという気がします。

根石註 「村上さん」は村上一郎です。
この吉本資料集は、単行本未収録の対談、座談を集めたものです。
高知の松岡祥男さんが、一人で尽力されて集められました。

個人出版ですから、100ページに満たない冊子が一冊千円します。
しかし、これは価値ある集成です。
最新の25号では、「菊屋まつり」フリートークが強力です。吉本の骨太の
思想が実にはっきりと見える発言があります。

「一人の机上」と「対での話」また、その双方に対して、「共同の場での発
言」、その相互の間に莫大な距離があるという考えは、私は吉本に負ってい
るかもしれない。吉本は読み切れたという感じがいつまでたってもしない思
想家ですが、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の間に逆立の構造がある
ことを言ったことは、私は受け止めたと思っています。

ESSを横目に見ていた若い頃には、それは受け止めていませんでした。
私が吉本をぽつぽつ読んだのは、学生を終えてからでした。
生活しながら、松岡さんに薦められたりして読んできました。
吉本の考えはリアルです。

松岡さんへの連絡先

780−0921
高知県高知市井口町45 松岡祥男
電話 088−873−2479

=============================================
【6848】
【タイトル】「磁場」について
【 日時 】03/01/06 18:31
【 発言者 】根石吉久

 今年から、「個的磁場」という用語と「共有磁場」という用語を使い分けようとさっき思いついた。
 「個的磁場」は個人の意識を場とする場合の磁場であり、「共有磁場」は二人の人間が形成する磁場である。そうなれば、社会的な広がりを成している磁場 (言語圏)を「共同磁場」と言おうかとも思う。
 基本的な区分けは、吉本の「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の区分けに大きく負っている。
 語学の場は、ひとまずは「個的磁場」である。語学が上達してその言語を使えるようになった場合は、「個的磁場」が「共有磁場」や「共同磁場」と相互作用 を起こすようになったのだととらえれば、ものごとはすっきりするのではないかと考えたのである。

 あっちを囓り、こっちを囓りして「言語の脳科学」という本をほぼ読み終えようとしているが、どうも気持ちがすっきりしない。いや、むしゃくしゃする。言 語の実際の生態と科学的根拠の間のあまりにも莫大な距離というものはわかるし、それを埋めようとする努力が科学の努力であるとはわかるが、ほとんどなにほ ども言語に迫れていないではないかと思うからむしゃくしゃする。まして、「共同磁場」における「言語」が「個的磁場」で咀嚼され、一人の人間の「言葉」と なる過程になど指先一つ触れ得ていない。

 「個的磁場」は、言葉の運動域である。「言語」が「言葉」となる場である。
 「共有磁場」は、「言語」が「言葉」になり、「言葉」が「言語」になる場である。
 「共有磁場」は、「言葉」が「言語」化される場である。

 言葉そのものの生態を明らかにしようという態度は、酒井にはあまりない。
 「言語」と「言葉」では、その性質がプラスとマイナスほどに違うことすら無視されている。しかし、いくつかの言語学の成果の紹介はあり、その部分は面白 かった。現状紹介の本であると思えば、まあそれほど腹も立たないが。

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【10309】
【タイトル】賛成だが反対だ
【 日時 】06/02/08 1:50
【 発言者 】根石吉久

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遠藤尚雄「英語は独学に限る」から引用
------------------------------------------------------

日本語から英語への言語的なギャップが大きいことは確かですが、真の理由は別にあります。学習方法が間違っていたり、効果がない方法を平気で続けていたり する人が多いからです。これでは努力と時間をドブにすてるようなもの。(略)

@何を言っているのかよくわからないのに、ラジオのFENやテレビ
のCNNニュースをやたらに聞いたり、英語だけの映画を見たりす
る。
Aいつかわかるようになると信じて、英語のテイプだけを浴びるよう
に聞きまくっている。
B漫然と英語学校に通っている。
C海外に住みさえすれば英語が上手になると思い込んで、海外留学や
ホーム・ステイを計画している。

(略)よく聞いてもわからないものをいくら浴びるようにたくさん聞いてもわかるようにはなりません。
(略)海外に何年住んでも、ショッピング程度の英語しか身に付かないということは珍しくありません。

------以下、根石------------------------------------------------

学習法として間違っている例として遠藤が挙げている四つの項目に関して、異存はない。すべて、戦後の日本に現象した英語回りの「信仰」に過ぎないからだ。 そして、これらの「信仰」や「信心」をバネに荒稼ぎしたテープ販売会社などは大新聞に全面広告を打ち続けるほど儲けてきた。まともな英語学習法によって儲 けてきたのではなく、「信仰」や「信心」によって儲けてきたのである。遠藤さん、あなたの育った家も「信仰」や「信心」によっていたのですが、まあ、それ はここでは棚にあげておきましょう。
遠藤が「間違っていたり」とか「効果がない方法」「わかるようにはなりません」「身に付かない」というふうに否定をしている間は、遠藤の言説に何の問題も ない。すべてその通りである。否定している時の遠藤はいい。
遠藤が間違っているのは、BとCの間に区別を設けることがないところにある。
B、Cについては遠藤は以下のように言っている。

英語学校も何人かのグループで授業をするような場合は、受け身の授
業だけで終わってしまい、学習の進行度も他の人のペースに合わさな
くてはならないので効率が悪い。英語学校でも、ネイティヴと一対一
の完全個人授業だと効果はあるでしょうが、費用がかかる。Cのよう
に海外へ行って勉強することはそれ以上に費用がかかるが、海外に何
年住んでもショッピング程度の英語しか身に付かないということは珍
しくありません。

「海外」すなわち「英語が通用する場所」のような、「海外」という用語にはあまり深入りしないでおこうかと思う。世界には英語なんか通じない場所はいくら でもあるし、その場所も日本の外なら「海外」なんだが、と言うにとどめ、こんな用語が自分に対して野放しになっているのは、英語なんか通じない場所の人々 の「生活」なんかには主たる関心はなく、この男が主に「儲け話」や「会社」の実業の人を、英語で話す相手として想定しているからだ、と言うにとどめ、いく らかエコノミック・アニマルと英語帝国主義の臭いがする、と言うにとどめておけばいい。
まともな独学の方が、どんな「学校」の授業より効率がいいというのは、別に英会話学校や英語学校や文部科学省の元の英語の授業に限ったことではなく、あら ゆる「学校」というものを刺し貫く原理のようなものだ。私が「学校」が駄目だと考える理由は、どんな授業でもイメージを直かに扱うことが不可能だからだ が、遠藤のように知識獲得の速度や効率の点だけで考えても、「学校」より「独学」の方がまともである。ここに関しては、遠藤の主張の大枠には何の異存もな く、その通りだと思う。
しかし、「ネイティヴとの一対一の完全個人授業だと効果はあるでしょうが」のようなところに現れている化けの皮がとことん駄目なのである。「一対一の完全 個人授業」であろうがなかろうが、この「ネイティヴ」に語学の「方法」がなければ、「授業」なんかで効果があるわけがない。ここにあるのは、古い古い遠藤 の信仰なのである。「完全個人授業」に馬鹿な思い込みなんか持つ必要はない。問題はどこまで行っても「方法」である。「方法」を持たないネイティヴなんか に語学的な意味はまったくない。「一対一」だろうが、「磁場」だろうが、そこで得られるスキルなんぞは、すべて語学の方法とは何の関係もない。
「一対一」が恋人関係とか肉体関係とか夫婦関係とか、吉本隆明の用語で言えばもろな「対幻想」の関係にあるのであれば、「一対一」に意味はあるだろう。外 国語のスキルだけに目をつけてものを言うなら、その「一対一」に意味はあるだろう。それは戦後すぐにぱんぱんたちが証明したことだ。だいたいが、日本の女 で英語ぺらぺらをやっているようなのには、「恋人関係」「肉体関係」「夫婦関係」からスキルの養分を得たようなのが多いのである。別に構うことはないが、 そんなものは「語学」でもなんでもないとだけははっきりさせておかなければならないことだ。
「対幻想」を持つのは、恋人であり、夫婦であり、友達でありというように、「一対一」の関係を取り結ぶ人だが、これは本質的に組織に属する人間ではない。 一人の人間として一人の人間を求めている人間である。「会社員」が会社員として行動するときに持っている幻想はこれとは違う。私の誤解でなければ、これを 吉本隆明は「共同幻想」と呼んでいる。「売り」や「買い」や「利益」や「損失」に関する幻想は、すべて元締めとして「会社」が要請しているものだし、相手 の会社員もその種の幻想を強いられている。いくら「一対一」で交渉しているのでも、元締めに「会社」があり、「資本」があり、「国家」があるのであれば、 それは「共同幻想」だ。組織の人間が持つのは「共同幻想」である。遠藤の英語の主戦場はこっちに属している。「規則」や「法」に縛られた幻想である。これ はやはり「寺」のせいでしょうかね。
個人の英語が「対幻想」に属していようが、「共同幻想」に属していようが、すべて個人の英語であることに変わりはない。しかし、この「個人の英語」という ものを、原理的に取り出すなら、吉本の用語で「個人幻想」になるだろうし、私の用語で「机上の意識」となるだろう。語学とは本質的に「個人幻想」や「机上 の意識」以外のものではないのである。
遠藤が駄目なのは、ファナックを大きくしたような仕事をした半面で、思想的にまるで幼児にすぎないところである。「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」を相 互に峻別する吉本の仕事が戦後最大の思想の仕事だったのだが、日本の思想のこの方面にはまったく音痴のまま、遠藤は(多くの遠藤たちは)世界に羽ばたいて いるのである。「金儲け」にはそれでよろしかろう。金儲けは金儲けに過ぎず、語学ではない。
語学の方法を考えることは、狭い範囲でだが、時に思想たりうる。それが私の土俵だ。
世界を股にかけ、「金儲け」をするためでなく、「個人幻想」を「対幻想」に渡らせるために、そして、「共同幻想」を相対化するために、とりわけ「引き籠も り」や「登校拒否」をやっている若い人たちに語学をやれと言い続けているのはそのためだ。
遠藤よ、あんたの功績は認める。多くの遠藤たちの功績がなかったら、ぱんぱんはぱんぱんのままであっただろう。「肉体関係」は成立しても、日本の若い女た ちの「恋人関係」「夫婦関係」はちゃんと成立することはなかっただろう。あんたたちの功績はある。日本の若い女たちがまるで気づいていないにしてもそれは ある。あんたたちに流れた血も涙もあった。
しかし、語学論は別だ。それが「論」としてまともになれば、それは必ず思想に触れないわけにはいかない。吉本に触れなければならないだろうし、民俗学のま ともな仕事に触れないわけにはいかない。

だいたいが、日本の女で英語ぺらぺらをやっているようなのには、
「恋人関係」「肉体関係」「夫婦関係」からスキルの養分を得たよ
うなのが多いのである。

私は今夜こう書いた。ついでに言っておこう。

だいたいが、日本の男で英語ぺらぺらをやっているようなのには、
民俗学がわからないようなのが多いのである。おつむの中身が近代
主義にやられ、アメリカのリベラルにやられ、アメリカ直輸入の技
術・学説にやられ、果ては日本の戦後民主主義なんぞにやられて、
ナイスミドルなんぞやっていたのが多いのである。

駄目なものは駄目なんだ。あほらしい。



【12091】
村田君 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月27日(火)01時25分6秒

記録ありがとう。
書き直してみたいところが散見されるので、書き直しておきます。
------------------------------------------------------

・「語学論」において、吉本隆明の「共同幻想論」は有効である。

・自己幻想は一人称の世界。
 (村田の理解)「語学」は自己幻想に属するものである。

・対幻想は一人称と二人称の世界。

・共同幻想は、一人称、二人称をとりまく三人称の世界。

・「対幻想」は、「最小の磁場」である。
 (以下、村田の理解)
 英語圏で生活して、日本に帰ってきた日本人の英語は、日本に帰ってきた途端に錆付きはじめる。ただし、ダンナが英語ネイティヴ、あるいはヨメが英語ネイ ティヴである場合は、この限りではない。日常生活の中で英語を使い、英語の感覚がお互いの共通感覚として通用するからである。

・英会話学校には、「磁場」がない。英会話学校のネイティヴ講師は磁力は発するが、それは点にすぎない。「場」を形成することはない。
 (以下、村田の理解)
 英会話学校の講師が、例えネイティヴだとしても、彼・彼女は「磁力」を発してはいるけれども、そこには「磁場」はない。もしもそこに「磁場」があるとす れば、講師と生徒以上の深い関係があるはずである。

根石註。ううむ。「深い関係」か。いつもながら村田解釈には「濃い」ものがある。「深い」か「濃い」かはともかく、喧嘩用語で言えば、「サシでやる」= 「対等にやりあう」ということが生じなければ、「場」にはならない。(教育関係者たちの立派な理屈はともかく)先生は生徒より上位にあるのであり、この関 係が固定されている「場」は、言語の「場」ではなく、政治の「場」である。

・「あいさつ」の範囲を出ないつき合いに生じるのは、「共同幻想」に取り込まれた範囲でのつき合いであり、それが一対一の間に生じているものでも、「対幻 想」としては独立できない。
 (以下、村田の理解)
 1対1で話していたとしても、「薄い」関係は「対幻想」ではない。たとえば「あいさつ」は「共同幻想」を媒介とした会話である。

・「話す」ことは「対幻想」である。
 (以下、村田の理解)
 真剣で、実のある話は、いつも「対幻想」である。夫婦、同棲相手、同性同士でも気心の知れた者同士の話は「対幻想」である。

・「磁場」は、「共同幻想」込みのものである。

・「教室」では「語学」は成り立たない。
 (以下、村田の理解)
 「語学」は、生活言語とは切り離されたものであり、「個」でやるものである。また、「個」でしかできないものである。だから、教室では本来語学は成り立 たない。もしも成り立つというのなら、それは洗脳である。

 根石註。「もしも成り立つというのなら、それは洗脳である」というのは、「教室で語学が成り立つという洗脳」のように読めます。そういう洗脳も存在しま すが、私が言ったのは、「教室では(教師は)直かにイメージを扱うことができない。イメージを直かに扱うことができるのはいつでも、「個」(一人一人の生 徒が自分に対して行う行為)でしかない。この原理を壊せば、オウムがやったように「マインドコントロール」をすることにまっすぐつながる、ということでし た。



【12092】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月27日(火)02時46分18秒

 起きて少し調子がいいなと思っていると、午後になって変な汗をかくことが続き、夜になるとへたばっていました。今日も、汗は出たのですが、底をついた感 じがしないので、書いてみようかと思っています。

>>この吉本の「運動」まで考えに入れると、matsu さんが描かれた私についての図式は、単に複雑な形をしているだけで、しょせん「対幻想」の領域の希薄なものです。

>ただ、根石さんが自分の語学論を対幻想の領域にあるものと考えていることには興味をひかれました。

 「対幻想」の領域の希薄なもの、といういう言い方が誤解を招いてしまったのかと思います。これは、「対幻想」の領域における、希薄なもの、ということで はなく、「対幻想」という領域を欠きがちなものというつもりで書いたものです。

>僕には吉本に発想の根本は、かなり常識的で、それゆえにまともであるという印象があります。一人の人間の心の動きや振舞いと、人間同士が直に向き合った ときのそれ、および人間が集団をなしたときのそれを区分けしようとした発想自体は、それほど特別なものではないような気がします。

 私には、吉本の発想がよくわかるところと、わからないところがあります。わかるところは、「共同幻想」にやられた吉本のくやしさです。わからないところ は、多分吉本が都会育ちであるために、田舎育ちの者にはわからないのだと思っています。田舎育ちというより、村育ちと言った方が正確かもしれません。村の 中の我が家は、「山」と「里」が対立する場所でした。おふくろが山育ちで、おやじが里育ちで、何かどうにも相容れないものがあったらしく思われます。私が 「非常識的」なのは、この「山」と「里」の対立に根があるのではないかと考えています。この点において、吉本は「常識的」であり、「まとも」なのだと思い ます。
 「それほど特別なものではない」とおっしゃいますが、私は、「自己(個人)幻想」「対幻想」「共同幻想」を区分けした思想を他に知りません。

>また、対幻想の位置づけも、自己幻想と共同幻想との関連の中で語られる以上、以前のモデルでいえば、批評−娑婆の関係の内側にあるものと考えます。

 「批評−娑婆の関係」の中から、批評が言葉として立ち上がるとき、「対幻想」も「共同幻想」も「媒介」にはされますが、動いているものは「個人幻想」の みだと思います。「批評−娑婆の関係の内側にある」というところがよくわかりませんでした。

>「英語!糞くらえ」と腹の底から思いながら、延々とかかわっていく(かかわらざるをえない)姿勢は、他なるものに対する関係の、一種の極限といっていい のかもしれません。この意味では、語学をやらなかった吉本が思いも及ばなかった対幻想の核心を、根石さんがつかんでいるとさえ言えるだろうと思います。

 「対幻想」というのは、あくまでも、人間と人間が一対一の関係にあるときに生じている幻想を言っているのだと思います。英語とどれほど極限の形で切り結 ぼうが、それが語学である限り、そこにあるのは「個人幻想」です。

 余談です。文学作品を読むことで生じるイメージの流れも、語学によって生じるイメージの流れも、「個人幻想」であることでは同じです。語学そのものには 恩があり、私に無関係ではありませんが、語学という行為によって言葉から生じるイメージは、ひとまず私とは無関係です。私が生きてもがくこととは無関係な イメージを、語学という行為は私の中に流します。そこが、文学作品を読むような行為とまったく異なるところです。私は、文学の言葉を自分が生きることと無 関係に読むことはしませんが、語学の言葉は、ひとまず、まったく私と無関係であることが普通です。語学によるイメージは、確かに私という個のエネルギーを 消費して生じているのですが、イメージそのものは私とは関係がないのです。いくらリアルなイメージが成立しても、それは仮のものであり、干物であり、ミイ ラであり、生きてもがく私と関係がありません。

>しかし、その希薄は、吉本の充実に対して認識上劣位にあるものではないと思います。

 「語学論」が「空虚」をきちんととらえきることができれば、もちろん劣位にあるものではないと思います。ただ、私の「語学論」は、吉本が「運動」の領域 で浴びた血のようなものを浴びているのではない。掲示板で議論が成立すれば、「対幻想」の世界に入るのでしょうが、書き言葉による議論で浴びる血は、とて も「抽象的な血」です。空虚な血というべきか。

>他者の領域と向き合う対幻想の只中に徹底して空虚な媒介を見出す、というのが根石さんの批評の独創だと考えるからです。

 あれ、私が今日書いたばかりのことを、matsu さんが先に書かれていたのかと今気づきました。「空虚な血」を「空虚な媒介」と読めば、matsu さんが先に書いてくださっていたのでした。「空虚な媒介」を見いだすのは、紙上での論争でもまともな論争なら同じだと思いますが、インターネットのせい で、なまじな交換度数ではなくなっています。
 ネットを、自分の批評的な言葉の主戦場にしたという点で、私は吉本と違うということかもしれません。本当に紙には書かなくなりました。



【12095】
らくださんへ 投稿者:聞いてみよう 投稿日:2007年11月27日(火)20時56分35秒

どうも。聞いてみようそうしよう改め聞いてみようです。

>>・単純な高速計算の反復は有害である
・文章題を使って考える習慣をつけるのが良い

というのが糸山さんの考え方の基本にあり、それは正しいのではないか。また、数学のキモになる項目に習熟するように文章題が構成されている点も評価でき る。以上が聞いてみようそうしようさんのご意見と考えてよろしいですね。

そうです。分かりやすくまとめていただきありがとうございます。
少し訂正するなら、>>・単純な高速計算の反復は有害である。

有害であるというよりは無駄が多いなくらいの認識です(もちろん尋常ではない量の計算の反復をやらせるのは有害だと思っています)。



【12097】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月27日(火)23時21分48秒

やや議論が錯綜してしまって、いったい何を問題にしているのか、自分にも(まして他の人には)見えにくくなってしまった気がしますので、ざっくばらんな調 子で、議論の経過を振り返ることを許してください。

はじめに、僕が根石さんの言葉の力に驚いた、という事情があります。
僕は、かつて根石さんの詩のファンだったのですが、そのことと関係なく、現在の根石さんの批評の力にひきつけられました。批評や思想は、自分の中では長く こだわってきたものなので、そこでの自分の感覚、勘のようなものには、それなりに自信があります。

語学の実践的な知識や技法についてのやりとりが、この掲示板の主目的だとは思ったのですが、根石さんの語学論の「論」の部分をとりだして、そこに集中する ような議論があってもいいだろうと考えて、根石論の投稿を始めたわけです。
その場合、根石さん(の世代)に影響の大きい吉本隆明の用語法を使えば、根石さんと議論の連絡がとりやすいんじゃないか、僕が根石さんの思想から何をうけ とっているのかが伝わるのではないか、と考えました。
それは、今のところ半分成功して、半分失敗だったような気がします。

成功の部分は、やはり吉本の名前を出すと議論が盛り上がる、ということです。
吉本の信奉者の中には、吉本の批判をするのも許さないというような極端な反応もありますが、根石さんはきちっと距離をとりながら、やはり吉本に対して、譲 れない思い入れがあるようですね。
しかし、根石さんの語学論の骨格は、実際のところ、吉本の思想とはほとんど無関係に成立しているというのが本当だろうと思います。本来、無関係のものを関 係づけて論じたために、根石さんからの反応を複雑にしてしまった、というのが、半分失敗と感じている部分です。

根石さんが敬意を表する吉本と比較して、根石さんがすぐれているという議論にしてしまったために、かえって根石さんが(謙譲の気持ちから)自分の語学論を 吉本の言葉で語り、吉本の影響を強調する方向に誘導してしまった気がします。

たしかに根石さんはある意味では、吉本の言葉遣いに影響を受けているし、共同幻想論の用語で、根石さんの語学論の様々なテーマを分類整理することはできる でしょう。しかし、それはさほど有効ではない、と思います。吉本批評の「磁場」を超えて、他者の胸倉をつかむような言葉にはなりえないという意味で、で す。

もともと、僕は根石さんの言葉に、吉本とは全く異質な響きを聞いていました。
根石さんの批評のもっとも強いメッセージは、語学のすすめ、です。
しかし、これほど一見わかりやすそうで、納得するのが非常に難しい言葉はないだろうと思います。
外国語を勉強して、海外の思想や文物に触れ、島国根性を抜け出して視野を広めろいうのではない。外国語を通じて、異質な文化に生きる人たちと交流し、豊か な関係を取り結べというのでもない。
ただひたすら「からっぽの電池」を作り続けるような空虚さに向き合いつづけろ、というわけです。
根石さんは、広い視野や豊かな関係をもつことではなく、その手前にある圧倒的に空虚な体験こそ、人間にとって本質的で大切なものである、とまっすぐに指差 しています。

不思議なことに、この言葉は、人を深いところで励ます響きをもっている、というのが僕の感想です。それがなぜなのかはよくわかりません。
ただ、わが身を振り返るとき、自分の人生のエネルギーのほとんどを、空虚な労働というものに費やしてきてしまったこと、今も、そして今後ともそうであろう こと、という動かしがたい事実とどこかでつながっているのかもしれません。

この点でいうと、吉本は広い視野という「知」と、豊かな関係という「大衆の原像」の人にすぎない、という気がします。根石さんとは、まったく資質が違いま す。
根石さんが指し示す語学という経験を、吉本の用語で分類することが有効でないと考えるゆえんです。
(たとえば根石さんが書いているように、個人幻想という用語は、語学と文学との決定的違いをしめすことができません。一人で行う、という事実をいうためだ けなら、大仰に過ぎる言葉だと思います。)

僕自身の希望は、吉本よりも、もっと根石さんと近い場所で考えている批評や思想を参照して、もう少し正確な根石論を考えてみたい、というものです。
幸い、息子のレッスンという関係もできたので、少し(かなり)減速して、少しずつ考えていきたいと思います。



【12098】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月28日(水)09時19分52秒

自分で質問しておいて恐縮ですが、質問を取り下げさせていただきたいと思います。既にご回答を用意されていらっしゃいましたら申し訳ありません。

9月末(吉さんとの行き違いが始まる直前あたり)からの過去ログを読み返し、私の質問の答えのほとんどは、これまでの根石さんのご発言の中に含まれている ようです。

私の頭の中が整理されていないだけでした。自分の質問に自分で答えることをまずしてみたいと思います。

聞いてみようさん。すみません、そんなわけです。



【12099】
聞いてみようさん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月28日(水)09時47分6秒

聞いてみようさん、そんなわけで失礼します。

比のことを含め、算数の重要項目は何か、といった問題についてですが、自分の関心の中心からはやや外れるように思っています。全く関心が無いわけではない のですが。

たぶん糸山さんはそのあたりの選別や、問題の作り方については長けていらっしゃるのだと思いますし、そういう意味で文章題をうまく使うことは選択肢の一つ だとは思います。



【12100】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月29日(木)00時19分30秒

>しかし、根石さんの語学論の骨格は、実際のところ、吉本の思想とはほとんど無関係に成立しているというのが本当だろうと思います。

 語学論の骨格は吉本と無関係に作り始めたのですが、書いているうちに、吉本の幻想論の3つの区分けが有効だろうと思い始めたのでした。
 掲示板を始めた当初、「言語の磁場」という言い方がなかなか理解してもらえなくて苦労した覚えがあります。
 「磁場」という場を考えていると、例えば、机上は「場」たりうるのかというような疑問が生じます。村田君が引用してくれた過去ログによって、「個人磁 場」「個的磁場」というような語をかつて私が考えていたことがわかりました。「個人幻想」として机上の意識に生じるものも、意識という「場」に生じるのだ から「磁場」の一つと考えてもよかろうと思っていたのでしたが、最近はそう思わなくなりました。
 「場」(空間としての広がり)を形成するのは、「対幻想」(夫婦・恋人・友人などの一対一の関係に生じる幻想)と「共同幻想」であり、「個人幻想」は空 間を要しない。点として位置だけがある。なぜなら、意識は時間としての「場」だから、他の二つの場とは質的に違う、というようなことを最近は考えていま す。
 私は自分を吉本教信者だとは思いませんが、吉本の考えたことというのは、私の語学論から参照すると、いいヒントを与えてくれることが多いのです。
 吉本思想があって、その後に私の語学論が成立したということではありません。語学論を作ってみたら、吉本を参照すると面白いということです。

>吉本批評の「磁場」を超えて、他者の胸倉をつかむような言葉にはなりえないという意味で、です。

 わかりました。ただ、自分の考えを吉本のものと突き合わせると、考えが進む感じがあるのです。吉本思想の枠組みの中に自分が考えることを置こうというの ではないのです。吉本の考えたことを「媒介」にすると、何かが活性化されるような感じを覚えるのです。

>根石さんは、広い視野や豊かな関係をもつことではなく、その手前にある圧倒的に空虚な体験こそ、人間にとって本質的で大切なものである、とまっすぐに指 差しています。

 これは、あらゆる生物の中で、人間が一番空虚な生き物だと私が考えているからかもしれません。人間の中には、思考だとかイメージだとかいう空虚があるわ けです。その空虚こそ、人間に特有のものであり、本質的なものだと考えるわけです。有効性と連動するイメージや思考は、普通、空虚だとは意識されません が、語学という行為によって私の中に流れるイメージが、私が生きてもがくこと(生きること)と無関係である時、その「無関係」が、人間がどれほど空虚な生 き物かを一番はっきりさせるという意味で、語学は思想の契機たりうると考えています。生きることや有効性と無関係なイメージをリアルなものとして激化する という行為こそ、人間という生き物の空虚さをはっきりと照らし出す行為なのだという考えが、「語学論」の根の方にあるのだろうと思っています。

>不思議なことに、この言葉は、人を深いところで励ます響きをもっている、というのが僕の感想です。それがなぜなのかはよくわかりません

 昔、「一応、文学として書いたもの」を読んで下さった方が、心が元気になるとか、励まされると言って下さったことがありました。「エロ」なんぞを書くの が好きな私が人を励ますことがあるのかと驚き、謎につつまれた経験があります。
 もし、「語学論」が人を励ますことがあり得たなら、それは松岡祥男さんが言う「文学はなんでもあり」という意味で、ある種の文学なのかもしれません。私 が文学をやろうとしていないにもかかわらず、です。

>ただ、わが身を振り返るとき、自分の人生のエネルギーのほとんどを、空虚な労働というものに費やしてきてしまったこと、今も、そして今後ともそうであろ うこと、という動かしがたい事実とどこかでつながっているのかもしれません。

 まさにその通りだというのが、我が身を振り返ったとき、私にも生じる思いです。教材づくりなどやっているとき、我が身は「空虚」という祭壇に捧げられた 生け贄みたいなもんだなと思うのです。「空虚」とか「無益」とかいう祭壇に自分を捧げるのでなければ、やってらんねえよと思います。
 そこに何かあるはずなんです。いまだ言葉にできない何かがあるのだと思ってやっています。私が民衆につながることのできる何かがあるのだ、と。人々の声 にならない声につながることのできる何かがある、と。

>この点でいうと、吉本は広い視野という「知」と、豊かな関係という「大衆の原像」の人にすぎない、という気がします。根石さんとは、まったく資質が違い ます。

 ああ、広い視野。それに対して、私はコンプレックスがあります。しかし、吉本だって、6畳の部屋にいても、とことん他人が書いたものを読めば、そこから 世界は見えるというようなことを言っています。狭いところを生ききれるなら、もっとも広いところにつながるということを言っているのかと思います。このダ イナミズムがある限り、「・・の人にすぎない」というのはいかがなものか。

 吉本と私が資質が違うことは、私にも自覚があります。
 私はどうしても百姓仕事とか大工仕事というものから、自分を切り離すことができません。吉本の父親は舟大工だったそうですが、吉本は完全に自分を切り離 しました。私にはそれができません。資質の違いだと思います。

 余談ですが、私は吉本そのものより、松岡祥男さんに惚れているんです。
 松岡さんほど吉本を「媒介」にした人はなかろうとも思っています。
 ほぼ吉本の口調を丸写しにしたような文章を書く時期を経て、松岡さんの言葉は、まったく気持ちのいい、歯切れのいいものになりました。松岡さんの文章を 読むと、他の何を読むのと較べても、いちばん気持ちが晴れ晴れとします。

>僕自身の希望は、吉本よりも、もっと根石さんと近い場所で考えている批評や思想を参照して、もう少し正確な根石論を考えてみたい、というものです。

 ありがたいことです。よろしくお願いいたします。

>幸い、息子のレッスンという関係もできたので、少し(かなり)減速して、少しずつ考えていきたいと思います。

 私も、少しずつやっていこうと思いますのでよろしくお願い致します。
 息子さんのレッスンについては、もう少したったら書かせて下さい。



【12101】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月29日(木)00時29分37秒

>自分で質問しておいて恐縮ですが、質問を取り下げさせていただきたいと思います。既にご回答を用意されていらっしゃいましたら申し訳ありません。

 回答は用意してありませんが、これを機会に新たに考えてみようと思っていました。ですので、らくださんだけに向けてでなく、この掲示板を読んでくださっ ている皆さんに向けて、新しく書かせてください。



【12102】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月29日(木)00時35分41秒

>私は少しずつですが過去ログを読んでいます。既にこの場では議論が尽くされた事をほじくり返している感もあります。

 過去ログをお読みいただきありがたく思っています。
 議論が尽くされたことでも、いまだ娑婆には定式としては何も形成されておりませんので、蒸し返すことはやっていいのだと思います。



【12103】
聞いてみようさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月29日(木)00時50分14秒

>・単純な高速計算の反復は有害である
・文章題を使って考える習慣をつけるのが良い

 単純な高速計算の反復は、やりすぎたら有害です。(マスターベーションと同じです。)
 その私の考えは、聞いてみようさんの考えと同じです。
 だからといって、文章題だぞ、という糸山の考えには同意しません。
 文章題というからには、「文章」というものが存在します。
 「文章」は言葉で書かれます。
 言葉がなくても、イメージだけで考えられるという糸山の考えには同意できるのですが、それは、言葉を読み取れた後(理路が成立した後)のことだけを語っ ているにすぎません。
 イメージだけで考える(絵図だけで考える)ということの前に(それが文章題だったら)、文章を読み取るということがなければ何も始まりはしないのだとい うことです。
 その文章を読み取る力を文章題を読むことで養えるというのが、糸山の手前勝手な理屈です。
 文章を読み取るのが苦にならないという子供もいれば、文章を読み取ることを嫌だと思う子供もいます。文章を読み取ることが嫌な子供にとっては、糸山作成 の「良質な」文章題を読み取ることも嫌なのです。
 すでに、嫌なわけです。
 「嫌だ」が成立してしまっているわけです。
 それを、糸山は、「良質な文章題」を解こうとして、文章を読めば、文章を読む力がつくというふうに詐欺をほざくのです。
 すでに、詐欺なわけです。
 「詐欺」が成立してしまっているわけです。

 文章を読むのを嫌がる子供に対して有効なのは、「(とことん悪質・無味乾燥で)良質な文章題」なんかではなく、機械的な「素読」なのだというのが、私の 言い分です。



【12104】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月29日(木)01時16分24秒

>・単純な計算の反復は本当に有害か

 やりすぎれば有害です。

>・それを高速でさせること(ストップウォッチでタイムを計ること)は有害か

 非常に有害だと思います。奴隷作成の方法に他なりません。


>「できる」から「わかる」へ
    vs
「わかる」から「できる」へ

あるいは

「読み書きそろばん」
   vs
「考える力」

 これは、西の方角から登っても東の方角から登っても、同じ山の頂上に着くというようなことだろうと思います。
 どっちが先でも構わないと思います。
 前回は東から登ったが、今度は西から登ってみるかなんてことができるのが最高だと思います。
 どっちが先であってもいいが、「やりすぎ」はよくないということだろうと思います。東からしか登れないと固定されるのもよくない。西も同様です。
 「わかる」も「できる」も山の頂上に行くための契機にすぎないと思います。「わかる」も「できる」も何のプライオリティにもならない。契機にすぎない。
 人々はここんところをなかなかわかってくれないのですが、「わかる」でさえ契機にすぎないのは、それが「他人によってしつらえられた舞台上での思考にす ぎない」からです。
 山の頂上にあるのは、「わかる」という契機とはまるでちがう、別の「わかる」です。

 人間の思考の半分以上を占めてはならないような性質のものを、ただのべたらに「思考」だと言い、「思考力」だというのは犯罪です。
 糸山はこの犯罪を犯しています。

>素読というのは、上段に属する(と一般的にはみなされる)と思います。また、語学における基礎練習と計算の反復練習が、一見、似ているような感じを持た せます。

 素読というのは、上段に属する方法です。

・算数・数学教科書べらべら読み

 九九と同じように、(学校の)算数・数学では、べらべら読みをすることが有効な部分は大いにあるだろうと思います。私は数学が嫌いで、高校入学と同時に 放り出したのでどの部分か言えませんがお許し下さい。


>・文章題の問題文べらべら読み
は、文を一度読んだら絵図に転換し、あとは絵図で考える、という糸山さんの考え方と対立することになります。

 この「文を一度読んだら」というのが、くさいですね。
 しまりすさんのお子さんでも、「煮詰まった」のであれば、実際は文章は何度も読み返しているはずです。
 「文章題の問題文べらべら読み」は、実に実にむなしい作業ですが、学校の点をとるためだけだったら有効です。大人が仕組んである(文章題の)パターンに 子供が慣れるために有効です。
 実際に私はこれを試してみたことがあります。2ヶ月後くらいのテストで、一挙に数学の点がはねあがった子供がいました。
 しかし、この方法も糸山同様、くさいもんです。
 子供が生きていく力なんぞにはなりはしないだろうと思いました。



【12105】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月29日(木)01時35分55秒

>今、読み返して、 7年間も本棚の奥に眠らせてしまったことに愕然としている、そんなところであります。國弘さんの本と比べて、どこが優れているかという点につきましては、 根石さんご自身が過去ログで述べられているかと思います。
それは、「磁場論」の有無ということなります。生活言語と語学とを厳しく峻別することの重要性をここまで明確に述べている本は、他に無いのではないかと思 います。あればどなたかご教示下さい。
この峻別こそが、非常に「役立つ」考え方だと思います。すでに高い英語力をお持ちの方が、日本に暮らしつつ英語力の維持、向上に取り組む場合にはもちろん でしょうが、ある種の英語難民にとって、「生活言語と語学との峻別」は福音と言える考え方です。望むと望まざるとにかかわらず、英語を勉強せざるをえない 膨大な中学・高校生にとっても福音となる「ハズ」です。伝道師がいれば、ですが。生活言語と語学との混同が、どれだけ多くの犠牲者を出してきたかを考えれ ば、福音という言葉は適切な表現だと思っています。

 ありがとうございます。小学館文庫の「どんでん・・」は、ほとんど誰もまともに読んでくれないと思ってきましたが、ようやく一人の読者にめぐりあった思 いです。
 ただ、あれを書いた当時は、「磁場論」としては芽を出す前の種の状態だったと思います。「磁場論」は、記憶が確かならば、この「大風呂敷」という掲示板 で開始しました。
 「福音」となってくれればいいのですが、「磁場論」を福音だと思ってくれない英語学習者がほとんどすべてです。

>しかし同時に、独習書としての限界を合わせ持っていることは否定できないと思います。「回転読み」や「電圧装置」といった方法を伝授してくれているだけ で、充分に実用的な本だと思いますが、「音作り」については、やはり独習は無理ということになりますので。しかし、それは本の限界というより、独習の限界 と言えますので、無い物ねだりをしても仕方ありません。

 一番、わかりやすくてすぐに役にたつのは「電圧装置」かなと思っています。「音づくり」はもちろん、「回転読み」も、なかなかコツは伝えられません。
 もし興味がおありでしたら、私が自作した「イメージ核受肉教材」というやつをお送りしますので、「電圧装置」でやってみられたらどうかと思いました。

>そのあたりも根石さんは過去ログで触れておられます。國弘さんの中学時代の音作りの謎について書かれているところです。非常に読みごたえのある文章でし た。

 書いた覚えはあるのですが、実際にどんな言葉を置いたのかはわからなくなっています。

------>村田君
 國弘さんについて書いたものを集めて、過去ログに独立した部屋を作ってもらえないもんだろうか。
 らくださんのように過去ログについて触れて書かれたものが掲示板に掲載された場合に、「該当記事はこれです」と村田君がすぐに引用できるようにしてもら えないだろうか。
 新しく掲示板を訪れてくれている読者に対して、そうするのが親切だと思うので。



【12107】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月29日(木)01時55分46秒

>レッスンの件、ご連絡ができずにいます。住んでいるマンションの光電話回線が足りなくなっており、増設工事を予定しているとのことで工事日程を確認中で す。ラチがあかないようであれば、別の手も考えようと思っています。

 現在はADSLでしょうか。
 ADSLでもIP電話というのは使えるはずです。プロバイダにお問い合わせいただくのがいいと思います。
 ちなみに、ベトナムと日本の間でスカイプを使ってレッスンを受けておられるちえさんは、ADSL回線ですが、非常にクリアに聞こえます。熊谷におられる Kさんという方のマンション型の光通信(なんとかBBと言っていたが名前を忘失)よりも、ベトナムのADSL回線の方がはるかに安定しています。おかしな 話ですが、実際にそうです。

>この本についてまともな感想を語るためには、自分自身が「回転読み」「電圧装置」等を使って語学を深く実践してみなければ難しいと感じています。とんで もない本を読み始めてしまったな、というのが正直なところです。

 本当にあれはとんでもない本かもしれません。というのは、私自身が今あそこに書いてある方法でやることができないのです。体力がなくなり、すぐにへばっ てしまうからです。
 あれはやはり、大学受験期の人たちに向けたものなんだなと思います。元になっている「英語のやっつけ方」という自費出版本が、完全に大学受験生に向けて 書いたものでしたから。
 一番体力の充実している時期の人たち向けですから、おじさんたちは違う方法をみつけるのがいいかもしれません。
 私自身はペーパーバックスの読み方として実験中のものがあります。試しているところですので、定式化できたら掲示板に書こうと思います。



【12109】
素読です 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月29日(木)05時40分28秒

自分なりのまとめをしようと思っていましたが、痒いところを全て根石さんに掻かれて(書かれて)しまいました。

糸山文章題を止めた時に「これは違うんじゃないか?」と感じつつ、自分では言葉で説明できなかった事を明確に言葉にしていただいた、と思います。

そして、では、どうするのが良いのか、という点についても。

素読ですね。私は根石さんにご説明いただくまで音読との区別がはっきりしませんでしたが、音読ではダメですね。やはり素読です。

とりあえず簡単なまとめです。また、その辺りについてぼちぼち書かせていただきます。



【12111】
回転聞き 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年11月29日(木)07時02分48秒

根石さんに一つ質問です。

『英語どんでん』を最初に読んだ時に「回転読み」のインパクトが強かった、と書きました。それには理由があります。

20代の頃に韓国語を習う機会がありました。週に1回の教室でのレッスンで、楽しかったのですが全然覚えられません。そこで「10リピートリスニング」と 命名した自作のテープを作りました。当時始まったばかりのNHKハングル講座のダイアローグを録音し、1センテンスずつ10回連続でダビングしたテープを 作って聞いていたのです。ダイアローグを通しで10回聞くよりも、1センテンスずつ連続10回聞いたほうが良く覚えられると感じたからです。これは、ある 程度成功しました。1文まるごと耳に馴染むと言いますか。もう韓国語は忘れましたが、今でも耳に残っているフレーズはいくつかあり、家内が韓国ドラマに夢 中になっている横で、ペラペラっとまねをしてウケを狙ったりしています。

しかし、第三者から見れば、10回ダビングするという労力自体が馬鹿げて見えますし、1文ずつ連続で聞いたほうが覚えやすいなどと言っても、ほとんど相手 にされませんでした。

どういう経路で『英語どんでん』に行き着いたかは記憶に無いのですが、「回転読み」という言葉を聞いて、「もしかして..」と思ったことは覚えています。 そして読んでみて、自分が考えていたこととは違ってはいても、似たようなことをプロの先生が書いていることに、えらく感動したのでした。

『英語どんでん』の中には「回転聞き」は出てきませんが、過去ログを探索していて下記のご発言を見つけました。


>あるいは、イントネーションや発音の「音づくり」をやられるなら、

 「回転読み」→「CDによる回転聞き」→「回転読み」

 をやります。
 これを書いていて、気付いたのは、「CDによる回転聞き」をやるのに、CDは不便だなということです。該当の文の頭出しが面倒です。音声データに切れ目 を入れるための切れ目の個数の制限数が少ないのが、CDというメディアの欠点です。 (【4847】【タイトル】Naima さん【 日時】02/08/23 3:40 )


今は便利な時代になりました。10回ダビングなどする必要がありません。私の手持ちの音声編集ソフト(フリーソフト)には、「Loop」という機能があ り、音声の波形でセンテンスの切れ目は一目瞭然ですので、その部分を選択してLoop再生させれば、延々と繰り返し再生してくれますので簡単に「回転聞 き」することができます。

「回転読み」をする前に、まずはCDの「回転聞き」で耳ならしをするという方法についてのお考えをお聞かせ願えればと思います。



【12112】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年11月29日(木)20時58分23秒

>しかし、吉本だって、6畳の部屋にいても、とことん他人が書いたものを読めば、そこから世界は見えるというようなことを言っています。狭いところを生き きれるなら、もっとも広いところにつながるということを言っているのかと思います。

>教材づくりなどやっているとき、我が身は「空虚」という祭壇に捧げられた生け贄みたいなもんだなと思うのです。「空虚」とか「無益」とかいう祭壇に自分 を捧げるのでなければ、やってらんねえよと思います。

六畳間にうずくまりながら、イメージを道具として使いこなし、世界の全体に目をこらそうとする行為と、イメージの空虚さに徹底的に身をさらそうとする振舞 いとでは、やはりその方向が逆である気がします。
もっとも、僕にしても、そのどちらからも励まされる、というのが正直なところです。
ただ、自分を含めたたいていの人たちが、目をふせて黙々と生活や労働の空虚さに耐えているという現実から言えば、根石さんの方向の方に、根石さんのいう 「民衆」に通じる何かがより多く含まれているような気がします。
(だから、僕には、根石さんに「労働の思想」がないとは思えません。むしろ労働の思想そのものだと思います。)

あるいは、こんな風に言い換えられるかもしれません。
一人の人間が、自分の自由のきかない現実にぶちあたり、その虚しさや不条理に身をさらしたとき、そのときどんなふうに振舞うのか。
その空虚を、自分の身から引き離して可能な限り遠くへと放擲し、それを認識の力で抹殺しようとしたのが吉本であり、吉本の「共同幻想論」であると。
その空虚を自分の身で抱き取り、自分の身体ごと燃焼させて「浄化」させようとするのが根石さんであり、根石さんの語学論である、と。

一ヶ月ばかりの書き込みで、ようやくこのイメージにたどり着いた、という感じです。期せずして、絵図というものが思考の大切な手がかりであること、しかし やはりそれがキッカケにすぎないことを実証したような気もします。

話は変わりますが、日本の批評の系譜で言うと、根石さんは吉本よりも、柄谷行人と近い場所にいるような気がします。柄谷も、毀誉褒貶の激しい批評家です し、吉本の読者からは嫌悪されることも多いので、根石さんには意外(不本意)かもしれませんが。



【12114】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 2日(日)02時29分10秒

>六畳間にうずくまりながら、イメージを道具として使いこなし、世界の全体に目をこらそうとする行為と、イメージの空虚さに徹底的に身をさらそうとする振 舞いとでは、やはりその方向が逆である気がします。

 「世界の全体」を見ようとするとき、その「世界」というのが、吉本の場合、ちゃんと具体的なんだと思います。
 方向が逆というか、私の場合、イメージだけが動く空虚な場所にぐずぐずととどまってしまうのだと思います。その場所では、「世界」は、matsu さんが言われる「イメージの空虚さ」の外側にあることになるだろうと思います。

>その空虚を、自分の身から引き離して可能な限り遠くへと放擲し、それを認識の力で抹殺しようとしたのが吉本であり、吉本の「共同幻想論」であると。
その空虚を自分の身で抱き取り、自分の身体ごと燃焼させて「浄化」させようとするのが根石さんであり、根石さんの語学論である、と。

 この辺はちょっとよくわかりません。吉本こそ、「空虚さ」を生きたのだとも思えます。
 私に関して、「空虚」を抱き取るというのは、その通りかもしれません。「浄化」というより、抱き取って抱いたままにしておくだけですが。そうしていると 自分というものが空虚なものだとわかりますが、私はそういう確認をするのが好きだというだけのことかもしれません。

>日本の批評の系譜で言うと、根石さんは吉本よりも、柄谷行人と近い場所にいるような気がします。

 柄谷が語学をよくやった人だということは知っていますが、「畏怖する人間」という本を一冊持っているだけで、柄谷のことはよく知りません。だけど、文学 者というより、学者のレベルでものを言う人間だなというような感触だけは持っています。
 あくまで「こころざしは」ということで言うのですが、こころざしにおいては、私は柄谷のような言葉を書きたくはなく、吉本のような言葉を書きたいので す。
 この「吉本のような」というのにも註が必要で、主に私が吉本を読んできたのは、吉本の「やわらかい」著作です。代表的なのが、対談や座談で、これには尽 きない魅力があります。以前も書きましたが、「共同幻想論」に代表される「固い」言葉に対しての私の反発は強いもので、今でも若い頃に持った反発ははっき り思い出せるものです。おそらく今読んでも、同じ反発を繰り返すと思います。
 ですので、私の「共同幻想論」理解は、「共同幻想論」そのものを読んでのものではなく、「共同幻想論」その他に言及した対談・座談からのものです。間接 的なものです。吉本の信者の皆さんから、これをいけないと言われると、私は困ってしまいます。「共同幻想論」そのものは、まだ一度も読み通すことができて いないのですから。



【12115】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 2日(日)02時47分0秒

>当時始まったばかりのNHKハングル講座のダイアローグを録音し、1センテンスずつ 10回連続でダビングしたテープを作って聞いていたのです。ダイアローグを通しで10回聞くよりも、1センテンスずつ連続10回聞いたほうが良く覚えられ ると感じたからです。これは、ある程度成功しました。

 根本においては、私の「回転読み」とか「回転書き」と同じものだと思います。

>『英語どんでん』の中には「回転聞き」は出てきませんが、過去ログを探索していて下記のご発言を見つけました。
>>あるいは、イントネーションや発音の「音づくり」をやられるなら、
 「回転読み」→「CDによる回転聞き」→「回転読み」

 らくださんは、「回転読み」→「回転聞き」→「回転読み」の前に、「回転聞き」を置きたいということなのかと考えました。
 私は、それは置いてもいいし置かなくてもいいという考えです。
 「回転読み」→「回転聞き」→「回転読み」をユニットにしてあるのは、「回転聞き」は「回転読み」の媒介項だという考えによります。
 「回転読み」が「回転聞き」を媒介にするんだということです。
 「回転聞き」→「回転読み」→「回転聞き」をユニットにしても、それを繰り返せば、「回転読み」→「回転聞き」→「回転読み」によるループと同じものに なりますので、「回転読み」→「回転聞き」→「回転読み」の前に、「回転聞き」を置いても置かなくてもどちらでもいいということです。
 どっちのユニットにせよ、そのユニットを繰り返すことが肝心です。そうすれば、同じループになります。

「回転聞き」→「回転読み」→「回転聞き」→「回転読み」→「回転聞き」→「回転読み」・・・というループになるということです。

>私の手持ちの音声編集ソフト(フリーソフト)には、「Loop」という機能があり、音声の波形でセンテンスの切れ目は一目瞭然ですので、その部分を選択 してLoop再生させれば、延々と繰り返し再生してくれますので簡単に「回転聞き」することができます

 このフリーソフトの名前を教えていただけませんでしょうか。
 レッスンそのものをネット上に公開する場合、テープレコーダからの音声をファイル化するソフトはみつかったのですが、余計なところを削るというような機 能がそのソフトにありません。「Loop」という機能を持っているソフトなら余計なところを削除する機能もあるんじゃないかと思ったのでした。



【12116】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月 2日(日)05時14分27秒

>吉本こそ、「空虚さ」を生きたのだとも思えます。

僕の場合、吉本にとっての空虚なるものこそ、共同幻想だったという見方です。「共同幻想!糞くらえ」と思いながら、それを本来自分(たち)の生の現場とは 無関係の、廃絶すべきものと考えて、認識の「固い」言葉でそれをやろうとした、という理解です。

>「浄化」というより、抱き取って抱いたままにしておくだけですが。そうしていると自分というものが空虚なものだとわかりますが、私はそういう確認をする のが好きだというだけのことかもしれません。

「英語!糞くらえ」と思いながら、日夜英語と格闘し、語学論を突き詰め、人に語学をすすめる(はた目には不可解な!?)実践の総体を、やや甘い比喩ですが 「浄化」という言葉であらわしました。確認するのが好き、というレベルではないような気がします。

僕は、批評や思想という振舞いの根っこを、あまり難しく考えていません。
ある人間が心底腑に落ちて、言葉や行動の原理とするような納得の形は、たとえ独創的な思想家のものであっても、とてもシンプルなものだろうと思います。
どうしようもなく「糞食らえ!」と感じる何かに対するかかわり方の違い、それを突き放すのか、引き寄せるのか、という方向の違いが吉本と根石さんとの間に あるんじゃないか、ということです。

>「共同幻想論」に代表される「固い」言葉に対しての私の反発は強いもので、今でも若い頃に持った反発ははっきり思い出せるものです。おそらく今読んで も、同じ反発を繰り返すと思います。

がちがちの語学論の掲示板の主宰者で、日夜、硬質の議論を吹きかける根石さんの言葉として、誰も納得しないと思いますが。(冗談です。)
吉本の理論書については、「固い」というより、わざと論理的につながらない書き方をしているとしか思えないので、読み通すことができないのが当然だろうと 思います。ファンには、造語癖とぎくしゃくした論理に一種独特の魅力がある、ということなのでしょうが。

柄谷についての根石さんの感想は、おそらくそうだろうな、と思います。
ただ、少し冷めた見方かもしれませんが、誰が何を読むのかということについては、時代とか世代とかいうものが大きいという気がしています。
ここにきて、吉本本が多く出版されていますが、その書き手も受け手も相変わらず全共闘世代のようです。
その下の僕の世代以下では、むしろ柄谷の影響の方が圧倒的に大きいと思います。僕も、柄谷を一つの基準にして考えてきた時間が長かったような気がします。 90年代以降に世界や言葉と向き合った世代には、またもっと別な人がいるでしょう。
ただ、吉本自身が、言葉についても体験についても、その出会いの個別性を超える努力を自分に課している人だったと思います。

そもそも根石論の切り口が、語学論と吉本の違いというところだったのですが、根石さん自身も、語学論を語るときと、吉本を語るときでは微妙にニュアンスに 違いがでるような気がします。語学論からすれば、大風呂敷を広げて、糞も味噌もなんでも媒介にしてやる、ということになると思いますが。(吉本のように書 きたい、という言葉は、根石さんにしては少し気弱な感じがします。)



【12118】
独学における音の問題 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月 2日(日)09時26分57秒

>「回転聞き」は「回転読み」の媒介項だという考え

良くわかりました。肝はあくまで読みにあるわけですね。物覚えの悪さを克服するための窮余の策とはやはり似て非なるものでした。

>らくださんは、「回転読み」→「回転聞き」→「回転読み」の前に、「回転聞き」を置きたいということなのかと考えました

むしろ「回転読み」以前の問題で引っ掛かっていると言えます。つまり、媒介項ということで言えば、CDの音声を媒介とすること自体の可能性と限界、という 事になります。

「素読」の定義として、コーチと学習者の1対1の関係、というのがあり、この関係を持つことの重要性は強調してもしすぎることはないのだと思います。英語 を始めるなら素読舎の電話レッスンを受けるに限る。あー、私も受けたい素読舎のレッスン。しかし、枠は息子に譲ることにしました。もし息子が「レッスンや めたいなー」なんて一言でも発したら、ニコニコしながら「いいよ、やめやめ」と言って、私が後釜に座る所存ではあります。

さてオヤジです。独学を無残な失敗に終わらせないための算段をしたいと思います。ここで考えておきたいのが、前に述べました國弘正男さんとの絡みで言え ば、「素読」と「只管朗読」との間、といったことになります。

國弘正雄さんに関しての以前の書き込み

>そのあたりも根石さんは過去ログで触れておられます。國弘さんの中学時代の音作りの謎について書かれているところです。非常に読みごたえのある文章でし た。

で私が参照した箇所は過去ログの5152〜5154です。

國弘さんが中学時代のご自分の「音の質」について語っていないことを根石さんは指摘しておられます。つまり、國弘さんが後にネイティブに褒められたという 発音を、中学時代にコーチなしで獲得することができたのか?という疑問です。

過去ログの7901〜7903の「『只管朗読』の洗濯(1)〜(3)」では「只管朗読」について

> 國弘正雄の「只管朗読」は、独学法である。「只管朗読」の場には、コーチは存在しない。現代では、コーチの代用品としてCDなどの録音音声を利用する ことはできるが、英語フリークや音楽センスのいい人など、一部の人にしか独学で「音づくり」はできないことが無視されている。最初から、フリーク性やセン スが前提されている方法であることが「只管朗読」の欠点である。

とあります。

また、7943〜7945では、國弘編の学習教材『英会話・ぜったい・音読』(講談社インターナショナル)について

>端的に言いきってしまえば、こういう本は英語フリークにしか向かない。本にCDを付けたところで、複製音声で英語音を作れる人は少ないからである。英語 フリークはこの難所を乗り越える。悪く言えば、虚仮の一念であるし、よく言えば、好きこそものの上手なれ、である

と書かれています。

私は英語フリークではないし、音楽のセンスは...。

それでも、やむを得ずコーチ無しで独習する場合、音の問題をどう考えればよいのか、ということです。「電圧装置」で単語をやっつけるにしても口で言いなが ら書くことが必要になりますので、音の問題は発生すると思います。その際、CD付き教材の音を媒介にせざるをないと思うのですが、媒介にするときのポイン トはどこにあるのだろう、ということです。

何度も耳に残るまで聞き倒してから口にする方が良いのか、1回2回と注意深く聞き、一つ一つの音や、音のつながりなどを意識し、口に出してみる、という方 法が良いのか。特に後者の場合は音を分析的に扱うことになりますので、発音に関する基礎的な知識が必要になってくるのではないかと感じます。

根石さんに

> もし興味がおありでしたら、私が自作した「イメージ核受肉教材」というやつをお送りしますので、「電圧装置」でやってみられたらどうかと思いました

とお誘いいただきました。自分がコーチを受けるわけでもないのに、貴重な教材をご提供いただくことは心苦しいのですが、非常に興味があります。皆さん「ス ゴイ教材」とおっしゃっているものを見てみたい、使ってみたいという気持ちがあります。

ただ、教材はコーチを前提として作成されているでしょうから、媒介とする音が無いという、さらに難しい条件がつくのではないかと思います。果たして有効に 使いこなせるものか...。

あるいは、この教材を使いつつ、音の方は何か発音用のCD教材、たとえばこの掲示板では「UDA式30音」が比較的評価されていたように感じますが(30 音でも多いということですが)、そういったものを使って基本を押さえるということで良いものか、そのあたりを教えていただければと思います。



【12121】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 4日(火)01時36分55秒

>媒介項ということで言えば、CDの音声を媒介とすること自体の可能性と限界、という事になります。

 これは、口の筋肉の柔らかさと大いに関係があります。普通ネイティヴ言語(私たちにとっての日本語)だけ話していると意識しませんが、歳をとればとるほ ど、ネイティヴ言語に口の動きが固定され、ネイティヴ言語に必要な口の動き以外の動かし方がやりにくくなっていきます。

 (掲示板をお読みいただいている他の方にも向けた余談です。小学校3年生くらいまでは口の動きがとても柔らかいです。これは、日本語の音もまだ本当には 固まっていないということを意味していると思います。この時期は、子供は英語の音をつかまえるのはとても上手です。しかし、この時期に英語をやらせるのは 私は賛成できません。もしもどうしてもやらせたいなら、素読で英語を「冷凍しておく」のがいいと思います。それ以外は、「効果がないから害もない」という 結果になるだけです。効果があれば、害になります。子供に幼児英会話などやらせているお母さんたちはお馬鹿さんたちでもあります。言語の修得を「たかが言 葉だ」となめているのです。効果があれば、英語の思考法まで身に付いてしまうのです。それが日本語の磁場で子供が育つのに害になります。英語の思考法が身 に付いたまま日本語で暮らしたら害になるに決まっているのです。)

 本題に戻ります。
 大人になって日本語の音で口が固められて以後の人は、なるべく知っている知識を活用して、どんどん口を動かし、口の動きを少しずつ柔らかくしていくこと が必要です。
 このときに必要な知識は、一度英語をやり中級後半くらいに入ったことのある人の場合は決して数多いものではありません。
 ア系列の母音とリエゾンと音のぶつかり合いの処理(黙音の置き方)だけやれば、CDの音など複製音声を媒介にできるレベルになります。

 息子さんが嫌だと言わなければ、息子さんのレッスンを傍聴なさるのはいかがでしょうか。最初の3ヶ月ほどで、必要な知識は身に付くと思いますので、その 後はご自分で自習できると思います。

>「素読」の定義として、コーチと学習者の1対1の関係、というのがあり、この関係を持つことの重要性は強調してもしすぎることはないのだと思います。英 語を始めるなら素読舎の電話レッスンを受けるに限る。あー、私も受けたい素読舎のレッスン。

 ご理解いただけてうれしいです。ありがとうございます。

>しかし、枠は息子に譲ることにしました。もし息子が「レッスンやめたいなー」なんて一言でも発したら、ニコニコしながら「いいよ、やめやめ」と言って、 私が後釜に座る所存ではあります。

 息子さんに長く続けて欲しいと思っています。(大学生になってもバイトしてレッスン代をかせいで続けて欲しいです。)
 以前にも書きましたが、私のレッスンでは、生徒が高校生になると、「ゴースト」を元にした私の自作教材を使います。この時点で、電話線を分岐させるな り、2台のコンピュータを使って、家の中でスカイプを二つ立ち上げるなりして、お父さんにレッスンに参加していただきたく思います。おやじさんと息子さん に同時にレッスンするのは私もやったことがないので、是非やってみたいです。おもしろいと思いますよ。

>さてオヤジです。独学を無残な失敗に終わらせないための算段をしたいと思います。ここで考えておきたいのが、前に述べました國弘正男さんとの絡みで言え ば、「素読」と「只管朗読」との間、といったことになります。
>國弘さんが中学時代のご自分の「音の質」について語っていないことを根石さんは指摘しておられます。つまり、國弘さんが後にネイティブに褒められたとい う発音を、中学時代にコーチなしで獲得することができたのか?という疑問です。

 國弘さんの只管朗読は過激ですから、多分先に書いた口の筋肉の柔らかさということにおいては、英語用にかなり柔らかくなっていたのだろうと推測していま す。ネイティヴ音を媒介にすれば、容易にネイティヴ音が着床しうるだけの柔らかさとバネを作ってあったのだろうと現在では推測しています。
 ちなみに私は國弘さんの生の英語発音を聞いたことがあります。長野に来られたときに、國弘さんから声をかけていただきお会いしました。國弘さんの発音 は、磁場仕込みというより、日本の机上仕込みの音の質が強いと思いました。國弘さんが同時通訳で有名になったのは、ご自分の発音の質というより、英語磁場 仕込みで英語のシンタックスが深く体に根を張っていたということによるのだと考えています。一度は英語の大地に根をしっかり張ったことで、自分の体にシン タックスが根を張ったわけです。
 これは、日本の机上だけで英語をやった場合には生じないことです。
 日本の机上で作った英語は死物ではありませんが、根が張れる範囲は語学という「植木鉢」の大きさに限られてしまいます。英語磁場でなら、覚悟さえすれ ば、「大地」に根を張ることができるのです。私たちが、日本語の磁場という「大地」に根を張って生きているのと同様にです。

>それでも、やむを得ずコーチ無しで独習する場合、音の問題をどう考えればよいのか、ということです。「電圧装置」で単語をやっつけるにしても口で言いな がら書くことが必要になりますので、音の問題は発生すると思います。その際、CD付き教材の音を媒介にせざるをないと思うのですが、媒介にするときのポイ ントはどこにあるのだろう、ということです。

 口が痛くなるくらいまで口を動かして、筋肉の柔らかさを作ることがポイントになります。息子さんが高校生になるまで、それをやっておいていただき、先に 書きましたように、いずれレッスンに参加していただけば、短時間に音のポイントをつかんでいただけると思います。ひとまずは、息子さんに言って、レッスン の傍聴をお願い致します。

>何度も耳に残るまで聞き倒してから口にする方が良いのか、1回2回と注意深く聞き、一つ一つの音や、音のつながりなどを意識し、口に出してみる、という 方法が良いのか。特に後者の場合は音を分析的に扱うことになりますので、発音に関する基礎的な知識が必要になってくるのではないかと感じます。

 耳に残るまで聞くということは大事なポイントです。くどくなりますが、耳に残った音が自分の口の動きに着床しうるように、口の動きの柔らかさを作ること がそれ以前に大事なポイントです。

>自分がコーチを受けるわけでもないのに、貴重な教材をご提供いただくことは心苦しいのですが、非常に興味があります。皆さん「スゴイ教材」とおっしゃっ ているものを見てみたい、使ってみたいという気持ちがあります。

 一目見ただけだと、なんじゃこれ、と思われると思いますが、お送りします。CDRに焼いて郵送するのでもいいのですが、スカイプを使うと非常に簡単に送 れることがわかりましたので、スカイプを導入していただけたらありがたく思います。
 スカイプの安定度はコンピュータの性能にも左右されるようですが、ひとまず試してみられることはおすすめです。スカイプでやれるようなら、息子さんの レッスンも電話代が無料になります。

>あるいは、この教材を使いつつ、音の方は何か発音用のCD教材、たとえばこの掲示板では「UDA式30音」が比較的評価されていたように感じますが (30音でも多いということですが)、そういったものを使って基本を押さえるということで良いものか、そのあたりを教えていただければと思います。

 鵜田さんのものも悪くありませんが、けっこう面倒です。
 息子さんのレッスンの傍聴がひとまずおすすめです。

 どうも同じことを何度も書いた記事になってしまいまして申し訳ありません。

追伸。
 ソフトのダウンロード先をお教え頂きありがとうございました。
 さっそくダウンロードして、キリピーという女の子に試してもらったのですが、MP3というファイル形式を読み込むのは、上位版でしかできないことが判明 しました。ネットにはMP3で掲載する予定なので、他のソフトを探すことにしました。お手数をおかけして申し訳ありませんでした。



【12124】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月 4日(火)12時28分59秒

やはり聞いてみるものです。物事の優先度がはっきりしてきます。なにはともあれ「口の筋肉の柔らかさ」ということですね。

>歳をとればとるほど、ネイティヴ言語に口の動きが固定され

口だけでなく、そこらじゅう固くなりまくりです。ただ、「英語なんぞやってられるか」という心の固さだけは、根石さんの語学論で解きほぐされましたので感 謝しています。次は口の柔らかさを目指すことにします。

>この時期は、子供は英語の音をつかまえるのはとても上手です。しかし、この時期に英語をやらせるのは私は賛成できません

結果として(3年生未満ではありませんが)小学生の息子に英語をやらせることになりましたので、そのことについては、改めて書きたいと思います。

また、レッスンをお願いするにあたり、以前ご説明いただきました「学校の成績とレッスン」についても、いずれ整理しておきたいと思っています。

>効果があれば、英語の思考法まで身に付いてしまうのです

これは大人にも言えるのでしょうか。以前、ある中国問題の研究家が「自分はあまり中国語をやりすぎないように注意している。うまくなりすぎると、気づかな いうちに日本人の思考からずれてしまいかねず、日本人研究者としては注意しなければならないと思っている」という主旨の話をされていました。

> 息子さんが嫌だと言わなければ、息子さんのレッスンを傍聴なさるのはいかがでしょうか

それは思いつきませんでした。見てみたい気はしますが、レッスンを金曜日に設定していただいたので、仕事の状況から難しいかもしれません。それに、私が見 ていたら、下の娘(幼稚園)が自分にも見せろと言ってきかなくなるのは必定です。大騒ぎになってレッスンにならない気がします。

> 息子さんに長く続けて欲しいと思っています。(大学生になってもバイトしてレッスン代をかせいで続けて欲しいです。)

はい。オヤジの都合はともかく、親としてはそうあって欲しいと願っております。えらく月並みな言い方ですが「継続は力」ですので。英語「力」はもちろんで すが、素読という方法を続けていくことで、目に見えない「力」を蓄積していくのではないかと期待しています。村田さんが引用された『英語どんでん』の「岡 田君のエピソード」にしても、根石さんの「嵐の一年」にしてもそうですが、英語に留まらないものをつかみ取ってくれることを願っています。

3年後にオヤジと一緒に英語のレッスンを楽しめるほど素直に育ってくれるといいのですが...。まあ、あまり素直すぎるのも気持ち悪いですが。

國弘さんの生英語の話、「植木鉢」と「大地」の話は理屈としては分かるのですが、今の私には奥が深くて実感がわきません。語学に深く分け入った方だけが実 感できる世界ですね。

>スカイプを使うと非常に簡単に送れることがわかりましたので、スカイプを導入していただけたらありがたく思います

すみません。使っているPCが古くてスカイプに対応しません。お手数なのですが、着払いの宅急便にてお送りいただけると助かります。



【12125】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月 4日(火)22時26分6秒

話が難しくなって困っている、ということは、根石さんにとってあまり食欲のわかない議論になってきたということだろうと思います。
僕にとっては、なんとか現時点で考えられるところまで考えた、という満足感があるのですが、根石さんや掲示板の読者の方には、煙に巻かれたような不快感が 残っているのかもしれません。

批評フリークの店はひとまず休業するにしても、今までの罪滅ぼしとして、少し具体的なことを書いてみることにします。

半年前から、英語学習を始めました。
それには、いろいろな理由がありますが、小学3年生の次男が、今も母国語の中で、うまくそれを使いこなせないことに悪戦苦闘している姿を見て、自分も同じ 境遇のなかに身を置いてみたいという気持ちも少しはあった気がします。

卒業以来、ときどき思い出したように英語をかじっても、英語を実際に使う機会はほとんど全くなかったため、とにかく英語らしきものを口にすること自体が恥 ずかしくて仕方ないわけです。
そこで、通勤の車で聞いた英語のCD(前からもっていた英単語のDUOですが)から気に入った一文を暗記して、英語に堪能な同僚にそれを聞いてもらう、と いうこと毎日続けることにしました。
そのとき、普通に覚えただけでは相手と向き合ったときにまったく言葉にならないのに、十分に「回転読み」したものは、自然と口について出てくるということ を体験しました。中年過ぎの柔軟性を欠いた頭脳と身体にも(にこそ)回転読みが有効なのかもしれません。

職場にインドから来た青年いて、週に一回、日本語の本をすこしづついっしょに読んでいます。ネール大卒の優秀な彼の日本語力と、僕のなけなしの英単語力を 組み合わせて、経済の本をめぐってけっこう興味深い議論ができているのですが、昨日、彼がおもしろいことをいいました。
日本語の複雑な文章につまずいたとき、その文章を英語で考えてもわからないが、ヒンディー語に置き換えるとわかるようになると。
彼によると、ヒンディ語の文法やシンタックスは、日本語とよく似ているそうです。彼は大学で英語を通じて日本語を獲得したはずですが、その英語を飛び越え て、ヒンディ語の力を借りて日本語を理解しているわけです。
根石さんのいっている、日英間のシンタックスの壁ということを思い出しました。

それで、さっそく今日ヒンディ語の入門書を買ってきて、目を通しているところです。
まったく見慣れない文字の並びに、どこまで根性が続くかわかりませんが、彼からは英語ではなく、ヒンディ語を習おうと思っています。



【12126】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 5日(水)01時26分10秒

>批評フリークの店はひとまず休業するにしても、

 批評フリークの人には、私の批評を外側から見た場合どう見えるのかを指摘して欲しいので、「ひとまず」程度の休業にして下さい。

>それには、いろいろな理由がありますが、小学3年生の次男が、今も母国語の中で、うまくそれを使いこなせないことに悪戦苦闘している姿を見て、自分も同 じ境遇のなかに身を置いてみたいという気持ちも少しはあった気がします。

 語学に惹かれる人の根には、そういう動機があるような気がします。
 単に英米に憧れたために英語が上達したというようなフリークさんたちでさえ、その根には、日本のしんねりむっつりが嫌でたまらんというような「否定」が あると思います。磁場帰りの人を見て、指をくわえた上によだれまで垂らすようなことをあんまり天真爛漫にやってもらうと反吐が出るからやめてちょうだいね とは思いますが、そういうフリークさんたちも、自分を英語に駆り立てたものが否定すべきしんねりむっつりであり、動機は「否定」なのだと正直に語ってくれ るなら、今後認めてあげてやりたい。
 「肯定性」やら「憧れ」やら「健康」やら「天真爛漫」やら「実体」やらへの反抗として「空虚」とか「語学」とか「イメージ」とか「悪戦苦闘」は存在理由 があるのだと思います。
 matsu さんの語学の撰び取り方は、「悪戦苦闘」「もがき」への愛なのだと思います。それは、英語フリークどもの「憧れ」やら「寄らば大樹の陰」思想を斬りつける ことができるものです。私が考える「語学」と通底するものだと思います。

>とにかく英語らしきものを口にすること自体が恥ずかしくて仕方ないわけです。

 このことを何度かこの掲示板に書いた覚えがありますが、どんな反応ももらえたことがありません。きわめて普通の感覚だと思います。世界の主流づらをする 英米の言語を口にすることが恥ずかしいことでないことがおかしいのですが、この辺の感覚が英米磁場から帰った人たちにおいて、すり減って、どころではな く、なくなっているのが通例です。そういう人たちは、半人前の日本人なのだと思っているとだいたい正確です。

>普通に覚えただけでは相手と向き合ったときにまったく言葉にならないのに、十分に「回転読み」したものは、自然と口について出てくるということを体験し ました。中年過ぎの柔軟性を欠いた頭脳と身体にも(にこそ)回転読みが有効なのかもしれません。

 「回転読み」をやっていただいたのは、「英語どんでん」をお読みいただいて以後でしょうか。それ以前に、(今から考えれば)「回転読み」という名前で呼 ぶのがいいようなことをされていたのでしょうか。興味を持ちました。

>日本語の複雑な文章につまずいたとき、その文章を英語で考えてもわからないが、ヒンディー語に置き換えるとわかるようになると。
彼によると、ヒンディ語の文法やシンタックスは、日本語とよく似ているそうです。彼は大学で英語を通じて日本語を獲得したはずですが、その英語を飛び越え て、ヒンディ語の力を借りて日本語を理解しているわけです。
根石さんのいっている、日英間のシンタックスの壁ということを思い出しました。

 ヒンディーは、シンタックスが日本語と同じだということは、雑貨屋をやってインドにたびたび仕入れに行っている人から数年前に聞きました。もしかして、 海伝いの言語なのかもしれないですね。インドの北の方より、南の方がヒンディを余計に使っているというような事実があれば、その可能性はあると思っていま す。インドから来た人に聞いてみてもらえませんでしょうか。海に面していても、中国語は大陸伝いの言語なのかもしれない。タイ語やベトナム語も。今のとこ ろ、まるであてずっぽうを言っているにすぎないのですが。
 キリスト教の聖書には、元は言語というものは一つだったが、神が人間どうしが話ができなくなるように、さまざまな言語を作ったのだというでたらめな話が あるそうですが、私は言語の元になったものに少なくとも二つあると考えています。
 中国人よりも韓国人やモンゴル人の方がすみやかに日本語に上達するということや、日本人や韓国人がとことん英語に苦労するということを考えると、元が一 つだったとはとうてい思えない。元の元から違うのだと思っています。

>まったく見慣れない文字の並びに、どこまで根性が続くかわかりませんが、彼からは英語ではなく、ヒンディ語を習おうと思っています。

 ええ。途中経過のエピソードで結構ですので、ここに書いていただけたらと思いました。



【12127】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 5日(水)01時57分50秒

>以前、ある中国問題の研究家が「自分はあまり中国語をやりすぎないように注意している。うまくなりすぎると、気づかないうちに日本人の思考からずれてし まいかねず、日本人研究者としては注意しなければならないと思っている」という主旨の話をされていました。

 日常を娑婆で暮らすのか、大学で暮らすのかというような違いが左右すると思います。私は「娑婆派」ですので、どれほど英語をやろうと、絶えず日本の娑婆 が私を日本語による思考に引き戻してしまいます。ギリシャ神話だったと思いますが、積み木崩しみたいな話があったような。何度山の上に岩を運び上げても、 必ず転げ落とされてしまうような話だったと思います。シジホスだかシジュポスだかという名前の神話です。日本の机上で英語を継続するのは、ちょっとそれに 似ています。
 日本の机上で養われる英語力というのは、とことん空しいことを積極的にやることによってできる副産物みたいなものだという感じがします。いきなり主産物 を欲しがって挫折する人が多いのですが、「有効にむなしいこと」をやって、副産物を手に入れるのがいいと思います。
 話が逸れました。
 日本の娑婆に交わって生きるなら、中国語をやろうが英語をやろうが、「分裂を生きる」ということになると思います。その自覚を持ちながら、実際に分裂を 生きてしまうのが、SVOシンタックスを対象とした語学ということになるのではないでしょうか。この中国問題の研究者には、日本の娑婆で生きるのなら、ど れほど中国語をやっても構わない、「分裂を生きる」ことが誠実なことなのだ、と言いたい気がしました。

>それに、私が見ていたら、下の娘(幼稚園)が自分にも見せろと言ってきかなくなるのは必定です。大騒ぎになってレッスンにならない気がします。

 わかりました。それでは、息子さんを仕込みますので、一年後くらいに息子さんに読みを聞いてもらって下さい。一年後にお父さんのレッスンをやることにな るから、俺の説明の仕方をよく聞いておいてね、とどこかで言っておきます。

>根石さんの「嵐の一年」にしてもそうですが、英語に留まらないものをつかみ取ってくれることを願っています。

 そうですね。語学はおもしろみがわかると自分でどんどんやるようになります。そうなれば、英語力の他に、何か別の力(副産物)が穫れます。もしかすれ ば、そっちが実は主産物なのかもしれません。我が身を振り返ってみても、どうもそんな気がします。

>國弘さんの生英語の話、「植木鉢」と「大地」の話は理屈としては分かるのですが、今の私には奥が深くて実感がわきません。語学に深く分け入った方だけが 実感できる世界ですね。

 それほどごたいそうな話でもありません。
 國弘さんについて、私はこの掲示板で批判めいたことを言ったことがありますが、それは、「植木鉢」と「大地」のような話を國弘さんがまるでしないことに よります。英語の達人が語学論をちゃんとやれるわけではないことのサンプルとして國弘さんを名指ししたのでしたが、磁場帰りの人たちはそんな人たちばかり です。
 「日本にいてどれほど英語をやっても、私が持つ英語と同じような、体にシンタックスが根を張った英語にはならない」と國弘さんが言明してくれるのがいい のですが、國弘さんはそこをくらがりにしたままです。
 そういうことをはっきり言わないことが、日本の英語状況をどれほど混乱させているのかという視点が國弘さんにありません。

>着払いの宅急便にてお送りいただけると助かります。

 承知しました。着払いでなくて結構ですよ。クロネコのメール便なら、80円で送れますので、気にしないで下さい。

 音声処理ソフトについての情報ありがとうございました。iTune がそんな使い方ができるとは知りませんでした。
 キリピーに「大風呂敷」のらくださんの記事を読むように言っておきます。



【12131】
インド人と日本語 投稿者:Jackie 投稿日:2007年12月 5日(水)15時51分41秒

>日本語の複雑な文章につまずいたとき、その文章を英語で考えてもわからないが、ヒンディー語に置き換えるとわかるようになると。
彼によると、ヒンディ語の文法やシンタックスは、日本語とよく似ているそうです。彼は大学で英語を通じて日本語を獲得したはずですが、その英語を飛び越え て、ヒンディ語の力を借りて日本語を理解しているわけです。
根石さんのいっている、日英間のシンタックスの壁ということを思い出しました。

以前知り合ったインド人は日本に滞在1年半というのに日常会話はもちろん商用談義をなんなくこなしていました。外国人なまりが少ない日本語でした。早期上 達には磁場、プラス努力、そしてそこにはシンクタックスの影響もあったのですね。



【12133】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月 5日(水)20時25分41秒

了解しました。
ただ、次に彼に会うのが来週なので、返事は少し遅れると思います。

>「回転読み」をやっていただいたのは、「英語どんでん」をお読みいただいて以後でしょうか。それ以前に、(今から考えれば)「回転読み」という名前で呼 ぶのがいいようなことをされていたのでしょうか。

もちろん(残念ながら)、根石さんの本を読んでからです。
回転読みの練習を十分にできたのは、一部の文章にすぎませんが、それ以外の文章が今では思い出すだけでも苦労するのに対して、ずいぶん時間をおいても自然 と口について出てくるのは驚きです。
頭で記憶したものという感じではないですね。(自分の頭にはこんな持続力がありません。)口が記憶している、とでもいうべきでしょうか。



【12134】
matsuさん2カ国語? 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月 5日(水)21時12分36秒

matsuさんは英語とヒンディー語ですか。チャレンジャーですね。私は英語だけでも電池が持つか...。

>>とにかく英語らしきものを口にすること自体が恥ずかしくて仕方ないわけです。

> このことを何度かこの掲示板に書いた覚えがありますが、どんな反応ももらえたことがありません。きわめて普通の感覚だと思います。

根石さんの語学論が「ある種の」英語難民には福音だ、と書いた時の「ある種」というのは、そういう人を想定しています。本当は「私にとって福音」と書けば よかったのでしょうが、私の周りに「その種の」人達が結構いるので、お仲間として引っ張り込んだ表現で書きました。

私には、英語だけが特別だという感覚があります。matsuさん、ヒンディー語を口にするの恥ずかしいですか?私は韓国語をかじったときには、その恥ずか しさは全く感じませんでした。

ちなみに、根石さんが言われる通り、韓国語もSOVシンタックスですね。20年ほど前に韓国でお近づきになった人達(延世大学内の語学堂というところで日 本語を習っている人達)は、1年程度の学習者なのに「うまいなあ」と感心する人が何人もいました。



【12135】
らくださん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月 6日(木)20時36分19秒

いやいや。
語学に関しては、こうだ、といえるようなことはほとんどありません。
まだまだほんの駆け出しなので。

ただ「素読舎親の会」の新参者としては、レッスンの受け方について、必要にせまられて実践していることがあります。

長男は中一で人並みに親を疎ましく思っているようなので、レッスンは傍聴していません。
レッスン後に、その内容を彼から教えてもらうようにしています。
そのため、レッスン後すぐに、音の直し方を中心に、根石さんが言ったとおりのことをノートにメモしておくようにアドバイスしています。

レッスンの範囲について、できるだけ毎日回転読みの復習をするようにもアドバイスしていますが、時間と気分があったときには、親もいっしょに練習するよう にしています。
その場合も、子どもが先に読んだあと、親が続けて読むというふうに、あくまで子どもが「先生」役ですが。

親に教える、という関係を彼が面白がって、学ぶことに積極的になってくれたらと思いますが、親のそんな姑息な意図などたやすく「見抜いて」いるかもしれま せん。

まだ2回の受講なので、なんとも言えませんが、このやり方でなんとかペースをつかめそうな感じがしています。



【12136】
根石吉久さんへ 投稿者:聞いてみよう 投稿日:2007年12月 6日(木)23時42分59秒

すみません体調をくずしていました。お久しぶりです。

>>文章を読み取るのが苦にならないという子供もいれば、文章を読み取ることを嫌だと思う子供もいます。文章を読み取ることが嫌な子供にとっては、糸山作 成の「良質な」文章題を読み取ることも嫌なのです。
 すでに、嫌なわけです。
 「嫌だ」が成立してしまっているわけです。
 それを、糸山は、「良質な文章題」を解こうとして、文章を読めば、文章を読む力がつくというふうに詐欺をほざくのです。
 すでに、詐欺なわけです。
 「詐欺」が成立してしまっているわけです。

たしかにこれだけ読むと「詐欺」が成立していますが、「ゆっくり、じっくり、丁寧に」という大原則を踏まえて糸山さんの{「良質な文章題」を解こうとし て、文章を読めば、文章を読む力がつく}を読めば詐欺ではないように感じます。
子どもが好き好んで「良質な文章題」に取り組むようになるまで「ゆっくり、じっくり、丁寧に」誘導したり待ったりすればいいんじゃないでしょうか?
また、おいらは「良質な文章題」を絶対にやらなければならない物だとは考えていません。
親が子どもに「明確な意図を持ってする教育」の方法の一つとして優れていると思っているだけです。

>>文章を読むのを嫌がる子供に対して有効なのは、「(とことん悪質・無味乾燥で)良質な文章題」なんかではなく、機械的な「素読」なのだというのが、私 の言い分です。

すみません良質な文章問題のどのへんがとことん悪質・無味乾燥なんでしょうか?
おいらは良質な文章問題から再現されるイメージがツマランとは思います。それは良質な文章問題が、文章題の言葉→イメージ(純粋に論理をつかむ力)・その イメージを操作して求められている形にする(純粋に物事を分析・比較する思考力)を養うために作られているからだと思います。
純粋に論理をつかむ力、思考する力は将来何か考える時のいい道具になると思います。糸山さんも「(理論上)正しいことがそれを実行していいという判断基準 にはならない」って言ってるので良質な文章問題を解く力=人間の思考とは思っていないハズです。


日本語の文章を素読することについて質問させて下さい。
おいらは素読に関して全くの素人なので自分で少しその効能を体感してみたいのですが、
テキスト→難度を含み、興味がある内容。
やり方→(イメージできるところは)イメージしながら音読。※補助として辞書を引いたりする。でいいんでしょうか?

効能としては
・最初は分からなかったところの論理がつかめるようになる。
・自分なりの意味をもてるようになる。
 素読というのはまずは論理をつかむことを目標に音読→論理をつかむ→さらに音読→自分なりの意味の獲得という流れでしょうか?(もちろんこれは大まかな 話です。論理をつかむ前だっていろいろ意味を考えながら読むハズですから)

根石さんが素読をすすめるのは>>イメージは言葉を媒介にして育つのです。あるいは、イメージを媒介にして言葉が育つと言っても同じです。しっかりとイ メージが媒介にされていると、その人にとって言葉が深くなるからです。

これが理由でしょうか?
つまり、
1.論理をつかむ過程で→>>イメージに厚みができ、その語の「イメージの核」ができる
2.自分なりの意味をもてるようになる=一度形成された「イメージの核」が、具体的な言葉(慣れきった言葉)を脱いで、イメージが動くようになる。
ということでしょうか?



【12137】
余計なお世話かもしれませんが 投稿者:聞いてみよう 投稿日:2007年12月 6日(木)23時55分24秒

http://www007.upp.so-net.ne.jp/eigodeyume/gakushu-my-theory.html
(抜粋)
<< とりあえず小学生にはいろいろさせない >>

小学生に英語の音を持たせる事が、
どれだけその子のためになるのでしょうか?

私の息子にも、 発達障害の児童にも、
幼少期から英語の音を持たせた方が良いとお考えなのでしょうか?

幼児英会話教室の先生方、、素読舎さん、、お答えください。
文部科学省さんお答えください。

小学生に英語をやらせる事にどれだけの意味があるのでしょうか?

小学生の英語だけではありません。

百マス計算だって、、ポータブルゲームだってそうです。

私が守りたいのは12歳までの(10代前半までの)子供の精神の安定と、
子供達が自分で考え、自分で切り抜けていく力の獲得です。


私が獲得中の「教育論」のベースとなっているものです



【12138】
訂正 投稿者:聞いてみよう 投稿日:2007年12月 7日(金)00時28分28秒

<< とりあえず小学生にはいろいろさせない >>

小学生に英語の音を持たせる事が、
どれだけその子のためになるのでしょうか?

私の息子にも、 発達障害の児童にも、
幼少期から英語の音を持たせた方が良いとお考えなのでしょうか?

幼児英会話教室の先生方、、素読舎さん、、お答えください。
文部科学省さんお答えください。

小学生に英語をやらせる事にどれだけの意味があるのでしょうか?

小学生の英語だけではありません。

百マス計算だって、、ポータブルゲームだってそうです。

私が守りたいのは12歳までの(10代前半までの)子供の精神の安定と、
子供達が自分で考え、自分で切り抜けていく力の獲得です。


私が獲得中の「教育論」のベースとなっているものです。


「えいごで夢を見るまで」 吉吉  2007年11月





おことわり:
文科省が導入を考えている小学生の英語と、素読舎さんの小学生向け英語とは、
まったく質の違うもので、語学論の観点からは、本来、並べて語られるべきではありません。

(抜粋)語学論をもった素読舎さんの英語の指導方法は安全だと私は思っています。
語学論からみると素晴らしい指導法だと思っています。

しかし、、私が獲得中の「教育論」からすると「同じ」なのですね。
素読舎を含め、その他の幼児英語教室の先生方、文科省さん、みんな「同じ」です。
どちらも「小学生に英語を指導する」という意味で「同じ」です。
反論・異論を唱える方もいらっしゃるでしょうが、これが今の私の価値観なのです。

小学生に英語? ヤメトケ と言いたい。



【12139】
小学生に英語? 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月 7日(金)15時01分16秒

今日は小学6年の息子の初レッスンの日ですので、記念すべき日にこのテーマでいくことにします。

>しかし、、私が獲得中の「教育論」からすると「同じ」なのですね。
素読舎を含め、その他の幼児英語教室の先生方、文科省さん、みんな「同じ」です。
どちらも「小学生に英語を指導する」という意味で「同じ」です。


小学生に英語、是か非か?

それを問うなら、こう問い直しましょう。

中学生に英語、是か非か?
大学入試に英語、是か非か?

もっと問い直しましょう、そもそも日本人に英語、是か非か?

その事を問わずに、小学生に英語を指導することの是非を云々しても、ほとんど意味がないと私は考えます。

では、なぜ小学校6年の息子に英語をやらせるかって?痛いところ突かれました。根石さんに誘われたもんで、ついつい。

文科省による小学校への英語導入に反対である私が、根石さんのお誘いにすんなり乗ってしまった。なぜなんだろう。

これから考えてみることにします。ともかく今日からレッスンが始まります!



【12140】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 9日(日)00時53分3秒
  編集済
>今日は小学6年の息子の初レッスンの日です

 メールいただいていたのに、やぼ用にかまけていて気づかず、その後も連絡が遅れまして申し訳ありません。
 教科書、ご近所から借りられてよかったです。
 メールで書くべきところ、ここに書くことで済ませてしまいますが、あしからず。
 教材の代金等は不要です。レッスンを受けておられる方には、「イメージ核受肉教材」は代金をいただかずにお送りしています。今回は、レッスンを受けるご 本人ではなく、お父さんにお送りすることになりますが、やはりお代は結構です。
 まだ、お送りしてありませんが、明日あたりとり急ぎCDRに焼く予定ですので、もう少しだけお待ち下さい。

>小学生に英語、是か非か?

 これは、子供がどの程度に日本語を地盤としているかによって是にも非にもなります。非常におおざっぱに言えば、地盤が固まっていない場合は、非になりま す。英語なんぞより、日本語をしっかりさせろ、ということになります。
 また、方法にもよります。英語で思考することなどまったく求めず、単に一文の音の連続を物理的に作るだけなら、日本語の地盤のできていない子供にやって も害になりません。そんなものが害になるのであれば、西洋音階で歌を歌わせることでも害になります。
 歌を覚えるように、音の連続性を物理的に作ることだけなら、日本語の地盤がまだ弱い場合でも始めていいのです。これが素読という方法の最大の利点です。 日常を日本語で暮らしているので、週に一度程度英語の音を扱っても扱わなくても、英語をやった場合でもやらない場合でも、日本語の地盤は同様に強化されて いきます。
 小学生に英語をやらせるのを心配する人は、「磁場論」がわかっていないのです。「英語の磁場」を欠いてやるのだから、小学生でも、日本語が固まっていな い年齢でも、始めて害になりません。素読的方法は、「英語を冷凍してしまう」からです。素読的方法で作られる英語は、いつか(大人になった頃)解凍される ことを予定はしているものの、小学生の時期には完全に「冷凍もの」のままなのです。
 吉さんは、これがわかっていない。「磁場論」が本当にはわかっていないのです。「磁場帰り」の人の限界かと思います。「磁場帰り」の人は、本当に「磁 場」の力がわからなくなるのです。國弘批判で言ったことも同じです。ここが「日本語の磁場」だということがわかっていないのです。



【12141】
聞いてみようさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 9日(日)01時42分58秒

転写ありがとうございます。私は、その後、一度も吉さんのホームページを読みに行っていないので、転写して下さらないと、吉さんが現在何を言っているのか 知らないままでした。

>文科省が導入を考えている小学生の英語と、素読舎さんの小学生向け英語とは、まったく質の違うもので、語学論の観点からは、本来、並べて語られるべきで はありません。

 ここで、「質の違うもの」と吉さんは言っています。

>(抜粋)語学論をもった素読舎さんの英語の指導方法は安全だと私は思っています。語学論からみると素晴らしい指導法だと思っています。

 ここで、「安全」という観点から、吉さんは素読舎ならいいと言っています。

>しかし、、私が獲得中の「教育論」からすると「同じ」なのですね。
素読舎を含め、その他の幼児英語教室の先生方、文科省さん、みんな「同じ」です。
どちらも「小学生に英語を指導する」という意味で「同じ」です。
反論・異論を唱える方もいらっしゃるでしょうが、これが今の私の価値観なのです。

 ここで、自分で「並べて語られるべきではない」という言をひるがえし、素読舎を含め、その他の幼児英語教室の先生方、文科省さん、みんな「同じ」だと 言っています。「並べて語られるべきではない」というのは、「同じではない」ということです。わずかな短い文を並べて、「同じではない」と言い、「同じ」 だと言っています。なんなんでしょうかね。こういう人は。私は吉さんが、素読舎に目をつけてくれたことに、素読舎を見つけてくれたことに、感謝してはいま す。しかし、いったい何なんだ、と思うしかありません。並の磁場帰りと同様のおたんこなすだったのかという落胆がありますが、実はそんなにも落胆している わけではありません。「磁場帰り」というのはたいがいこんな人たちなのです。
 自分のオリジナルな考えというものがない。
 それが、磁場帰りの人たちの一大特徴です。

 文部科学省も素読舎も「同じ」だという根拠が、「小学生に英語をやらせる」ということだけなのです。実に馬鹿らしい。
 こんな理屈がまともな理屈であるなら、私も吉さんも「便所で糞をするから」「同じ」になってしまいますわ。
 方法も、論も、あったもんじゃない。
 こんなことで、何が「教育論」か。
 ちったあ、自分で考えろ。根石だの糸山だの、何ひとつ信仰や信奉はする必要がないのだ。



【12142】
根石吉久さんへ 投稿者:聞いてみよう 投稿日:2007年12月 9日(日)02時13分39秒

今気づいたんですがおいらの書き方に不備がありました。本当に申し訳ないすみません。
訂正と書いた文章の(抜粋)の位置がズレているのと、リンクが貼られていませんでした。本当に申し訳ない。ごめんなさい。

[訂正文]
http://www007.upp.so-net.ne.jp/eigodeyume/gakushu-my-theory.html
(抜粋)
<< とりあえず小学生にはいろいろさせない >>

小学生に英語の音を持たせる事が、
どれだけその子のためになるのでしょうか?

私の息子にも、 発達障害の児童にも、
幼少期から英語の音を持たせた方が良いとお考えなのでしょうか?

幼児英会話教室の先生方、、素読舎さん、、お答えください。
文部科学省さんお答えください。

小学生に英語をやらせる事にどれだけの意味があるのでしょうか?

小学生の英語だけではありません。

百マス計算だって、、ポータブルゲームだってそうです。

私が守りたいのは12歳までの(10代前半までの)子供の精神の安定と、
子供達が自分で考え、自分で切り抜けていく力の獲得です。


私が獲得中の「教育論」のベースとなっているものです。


「えいごで夢を見るまで」 吉吉  2007年11月





おことわり:
文科省が導入を考えている小学生の英語と、素読舎さんの小学生向け英語とは、
まったく質の違うもので、語学論の観点からは、本来、並べて語られるべきではありません。

語学論をもった素読舎さんの英語の指導方法は安全だと私は思っています。
語学論からみると素晴らしい指導法だと思っています。

しかし、、私が獲得中の「教育論」からすると「同じ」なのですね。
素読舎を含め、その他の幼児英語教室の先生方、文科省さん、みんな「同じ」です。
どちらも「小学生に英語を指導する」という意味で「同じ」です。
反論・異論を唱える方もいらっしゃるでしょうが、これが今の私の価値観なのです。

小学生に英語? ヤメトケ と言いたい。



【12143】
聞いてみようさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 9日(日)02時16分54秒

吉さん(ここで返事ができないように自分で自分を縛ったことは私のせいではありませんことをご確認下さい)

>小学生に英語の音を持たせる事が、
どれだけその子のためになるのでしょうか?

 非常にその子のためになります。もしも、将来英語を使う場面に立ち至るならば。

>私の息子にも、発達障害の児童にも、幼少期から英語の音を持たせた方が良いとお考えなのでしょうか?

 それについては、私は言及したことがありません。一人一人全部違うはずです。私は吉さんのお子さんの「障害」の名前さえ、覚えていないのです。吉さんに も会ったことがないし、お子さんにも会ったことがない。だから、「こういう子の場合はこうじゃないかなあ」というようなことは一切言えません。「障害」を 前にした場合、「英語どころの話かよ」というのならよくわかります。それを、「小学生に英語をやらせること」に敵対するような論理になることがまるでわか りません。糸山の12歳限界説に飛び込んでしまったことも、ご自身の責任であることをご承知下さい。

>幼児英会話教室の先生方、、素読舎さん、、お答えください。
文部科学省さんお答えください。

 幼児英会話教室の先生方も、文部科学省も吉さんの質問に答えないでしょうが、素読舎だけは答えておきます。

>小学生に英語をやらせる事にどれだけの意味があるのでしょうか?

 ひとりひとり違います。

>百マス計算だって、、ポータブルゲームだってそうです。

 百マス計算も、ポータブルゲームもよく知りませんので、お答えできませんが、残忍なシーンが視覚として子供に害を与えるという吉さんの凡庸な説にはいつ か反論したことがあります。多分、吉さんがここに来られないと宣言した後だったと思います。その視覚が残忍なシーンであることや、強いものが弱いものに絶 対的に勝つという決定論が害になるのではなく、「体感」を欠き、頭脳的感覚だけになってしまうから、そういうメディアが駄目なんだと書いた覚えがありま す。こういう本質論には、吉さんは応じてくれない。応じることができないのか、わざと目をつむっているのか。

>私が守りたいのは12歳までの(10代前半までの)子供の精神の安定と、
子供達が自分で考え、自分で切り抜けていく力の獲得です。

12歳限界説は聞き飽きました。そんなものに根拠はないというのが私の考えです。



【12144】
聞いてみようさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 9日(日)02時35分20秒

 私が言いすぎているところがあることが、お示し下さったリンクのページを読みに行き、よくわかりました。
 しかし、吉さんはわかってくれると思います。



【12145】
根石吉久さんへ 投稿者:聞いてみよう 投稿日:2007年12月 9日(日)03時01分20秒

>私が言いすぎているところがあることが、お示し下さったリンクのページを読みに行き、よくわかりました。
しかし、吉さんはわかってくれると思います。

気持ちが救われましたありがとうございます。今後気をつけます。
このページを素読舎さんの解答として吉さんのブログに貼っていいですか?って聞こうと思っていたんですが、今は(おいらが)ちょっと複雑な気分です。
また明日来ます。



【12146】
聞いてみようさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月 9日(日)03時17分6秒

>すみません体調をくずしていました。お久しぶりです。

 お久しぶりです。私の方も体調が悪く、やっとこすっとこってな感じです。

>「ゆっくり、じっくり、丁寧に」という大原則を踏まえて糸山さんの{「良質な文章題」を解こうとして、文章を読めば、文章を読む力がつく}を読めば詐欺 ではないように感じます。

 ううむ。あのう、文章とか文とかいうものには、論理に奉仕する文章や文がある一方で、感情や不定に奉仕する文章や文もあるんです。
 糸山の作る文章題は、ひたすら論理に奉仕するだけです。論理に奉仕するだけの文章を読んで、文章を読む力がつくなどというのは「詐欺」だと言っているの です。

>子どもが好き好んで「良質な文章題」に取り組むようになるまで「ゆっくり、じっくり、丁寧に」誘導したり待ったりすればいいんじゃないでしょうか?

 まったくその通りです。

>親が子どもに「明確な意図を持ってする教育」の方法の一つとして優れていると思っているだけです。

 そうです。親の思想の質次第ですね。

>>文章を読むのを嫌がる子供に対して有効なのは、「(とことん悪質・無味乾燥で)良質な文章題」なんかではなく、機械的な「素読」なのだというのが、私 の言い分です。
>すみません良質な文章問題のどのへんがとことん悪質・無味乾燥なんでしょうか?

 済みません。もう糸山のことを言うのが面倒くさくて。
 すでに書いたので、またしても面倒くさいのですが、論理に奉仕する文章と不定に奉仕する文章を区別しろと言っているだけです。
 論理に奉仕する文章が「良質」であればあるほど、「悪質・無味乾燥」になることは通例です。大学で蓄積される論文なんぞ、あらかたそんなもんじゃないの でしょうか。文学における文体論から見たら、おめえさん、これでも一人前のつもりなんか、っていうようなものだらけ。そう思っております。

>おいらは良質な文章問題から再現されるイメージがツマランとは思います。

 いやあ、イメージはつまらんことはない。子供が必死につかんだイメージは大学の学者が持つイメージより、ほとんどの場合ずっとはるかに美しいです。

>それは良質な文章問題が、文章題の言葉→イメージ(純粋に論理
をつかむ力)・そのイメージを操作して求められている形にする(純
粋に物事を分析・比較する思考力)を養うために作られているから
だと思います。

 ほとんどその通りだと思いますが、「イメージを操作」するというところにイメージの力の軽視があると思いました。人間には、そんな力はないんです。正確 なところを言えば、「イメージに操作される」のが人間です。
 「良質な文章問題」がつまらないのは、大人が子供に対して「たくらむ」からです。それを悪だと自覚してやるのならともかく、糸山なんぞは、論理に奉仕す るだけの文章から得られるイメージを、思考力だなどと普遍化するのです。それが犯罪だと言っているのです。

>純粋に論理をつかむ力、思考する力は将来何か考える時のいい道具になると思います。糸山さんも「(理論上)正しいことがそれを実行していいという判断基 準にはならない」って言ってるので良質な文章問題を解く力=人間の思考とは思っていないハズです。

 そりゃそうです。

>日本語の文章を素読することについて質問させて下さい。
おいらは素読に関して全くの素人なので自分で少しその効能を体感してみたいのですが、テキスト→難度を含み、興味がある内容。
やり方→(イメージできるところは)イメージしながら音読。※補助として辞書を引いたりする。でいいんでしょうか?

 辞書なんかひかなくていいですよ。難度を含む文章(馬鹿らしいほど簡単ではなく、胃が痛くなるほど難しくはない文章)をただ単にすらすらと読めるように なるようにしてみて下さい。それを継続してみて下さい。
 それで何が起こるのかは、私は本当のところはわかりません。
 むしろ、それで何が起こったのかをここに公開していただくのがいいと思います。もし本当にやっていただけて、公開していただければ、非常に世の中のため になると思います。

>効能としては
・最初は分からなかったところの論理がつかめるようになる。
・自分なりの意味をもてるようになる。
 素読というのはまずは論理をつかむことを目標に音読→論理をつかむ→さらに音読→自分なりの意味の獲得という流れでしょうか?(もちろんこれは大まかな 話です。論理をつかむ前だっていろいろ意味を考えながら読むハズですから)

 ええ。「大まか」なところでいいのですから、ともかくやってみて下さい。論理が先でも感覚が先でもどっちでもいいのです。しょせん、それらが一体になる べきなのです。要点は、難度のある文を、実際に自分の口を動かしてすらすら言える(読める)ようにするという簡単な原理が一つあるだけです。


>1.論理をつかむ過程で→>>イメージに厚みができ、その語の「イメージの核」ができる
2.自分なりの意味をもてるようになる=一度形成された「イメージの核」が、具体的な言葉(慣れきった言葉)を脱いで、イメージが動くようになる。
ということでしょうか?

 糸山の文章題のようなやせ細った数学的論理を考えるのでなければ、「論理」というのは、通常、「文脈」と言われているものと同じです。
 このあたりは、まあ、とにかくめくらめっぽうでもいいですから、実際に声に出して読んでもらえば、私が下手に説明するよりずっとよくわかるはずです。

 お答えにならないような答えで申し訳ないですが、期待しています。



【12148】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月 9日(日)07時53分21秒

教材の件、恐れ入ります。有効に使わせていただきます。

息子のレッスン第1回ありがとうございました。早速質問なのですが。復習(毎日の練習)についてです。

>週に一度程度英語の音を扱っても扱わなくても

と書かれているからといって、復習(毎日の練習)をしなくても良いというわけではないのですよね。と言いますのは、根石さんが出された音をちゃんと覚えて いられるかというと、かなり怪しいわけです。

「ちょっとやってみ」と言うと、「あれ?なんだったっけ..」と全く飛んでしまっている文も結構あり、練習しようにもお手本の音が記憶の彼方に...。

それでも、次のレッスンまでのつなぎの手本としてのCDは必要ないでしょうか?とりあえず、私の英語らしからぬ読みをヒントとして1回聞かせて、根石さん が出した音の記憶を呼び起こさせて口に乗せさせる、という方法なのですが。そうすると、記憶がおぼろげなので、明らかにおかしいなという音を発していま す。本人も「間違った音で繰り返してもいいのかなあ」などと申しております。



【12150】
イケてる家庭教育 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月 9日(日)09時26分14秒

>>親が子どもに「明確な意図を持ってする教育」の方法の一つとして優れていると思っているだけです。

> そうです。親の思想の質次第ですね。

私は実際に使ってみて、そしてやめた時に「完全否定はしないが、さほど優れているとは思えない」と判断しました。

糸山文章題の“魅力”をキャッチコピー風に言うと「国語力と算数力の一石二鳥!」という感じでしょうか。これは親に受けると思います。

第一に、前に書きましたが、子供の学力問題は昔から算数・数学をめぐってなされると相場が決まっています。ここのところの学力低下論、反ゆとり教育論も、 経済学者・西村和雄さんの『分数ができない大学生』(東洋経済新報社)が火付け役だったと思います。

算数は中学受験にも関係しますし、受験が関係ない親にとっても、自分が数学嫌いだった記憶のある方が多いと思われるので(根石さんも“自白”されてます ね。私も高校時代は常に赤点との戦いでした)、子供にはそんな思いをさせたくないな、というのがあると思います。

そこに、OECDの学習到達度調査で云々、という情報がニュースで流れ、それを裏付けます。日本の子は理数系に弱い。そもそも嫌いと答える子が多い、と。 元々、実感があるので大いに説得されるわけです。私は、OECD云々は、単に反ゆとり教育派による利権復活のプロパガンダだと踏んでいますが。

では、公文か。なんか違う。百マスか。これもなんか違う。計算だけで大丈夫なのか???そこに「文章題が解けないのは、考える力が無いからだ」と来られる と、「そうだそうだ、私もそうだった」となります。

第二に、国語力ですが、国語については、これまであまり取り上げられてきませんでした。ここで根石さんの過去ログ(NO.102)でのご発言を引用しま す。

> ではその日本語ですが、小学校の教室でやっている「国語」という授業の日本語の扱いかたは相当でたらめなものだと思います。私は中学1年生に、 「ニュー・クラウン」とか「ニュー・ホライズン」という英語の教科書の「教科書ガイド」を音読させることがありますが、中学1年生になって、日本語が読め ない子供がたくさんいます。生活言語としての日本語に渡る質を学校の「国語」は持っていません。

このところ、こういった実感は学校で、生活の場で、職場で、多くの大人たちに共通のものになってきたと思います。

そして、これもまたOECDの学習到達度調査で「日本の子供の読解力は低い」とやられ、藤原正彦さんがベストセラー『国家の品格』(新潮社)で「英語より も国語」とお書きになっていたりするので、すわ国語力、となるわけです。

そういった状況の中で「国語力も算数力も、そして考える力もこの教材でバッチリ」といったプレゼンをされますと、それだけで飛びつく親は多いはずです。糸 山さんが巧いと思うのは、そこに「思考の臨界期」「視考力」といった“理論武装”を施しているところでしょう。

しかし、考えてみれば、それほど難しく考える必要などないわけです。国語力と算数力の両方(そして「考える力」も)を伸ばしたい、と考えたとしても、一つ の方法(教材)で同時に伸ばさなければならない理由はありません。糸山さんは「ゆっくり・ジックリ」と謳っているわりには、方法論において効率を求めすぎ という感じがします。国語力に関して言えば、それはそれで伸ばせばよいのですし、それが本筋でしょう。単純な事だと思います。

そして私は、絵図とか算数力とかいう以前に、文章を読むところで引っ掛かっている息子を見て、この方法じゃダメだな...と思ったわけです。聞いてみよう さんがおっしゃるように

>子どもが好き好んで「良質な文章題」に取り組むようになるまで「ゆっくり、じっくり、丁寧に」誘導したり待ったりすればいいんじゃないでしょうか?

という方法も、もちろんあるとは思います。しまりすさんは粘り強くそれを実践されているのでしょう。しかし、それだけの価値があるかどうかが、今度は問題 になってきます。

>文章とか文とかいうものには、論理に奉仕する文章や文がある一方で、感情や不定に奉仕する文章や文もあるんです。
 糸山の作る文章題は、ひたすら論理に奉仕するだけです。

と根石さんが言い当ててくださっています。つまり、国語力を高める必要があるとしても、その教材として算数の文章題はないだろ、というごく当たり前の感覚 です。

その後、かといって私には方法が分らず、国文法の簡単なドリルや出口汪さんの「論理エンジン」(『新日本語トレーニング』小学館)、小説(「走れメロス」 です)の音読を経由して素読にたどりついたわけです。

ふー、長かった。もう少し早く素読にたどり着くべきでした。息子よ、すまん。

何が問題かといえば、以前、しまりすさんがおっしゃっていたかと思いますが、国語力を伸ばすための有効な方法論を示している例があまりに少なく、人目に触 れることが無いということです。

決まり文句のように、本を読ませれば良い、という話になるわけですが、一方で、子供が本を読むようにするにはどうすればいいのか..と途方に暮れる声もま た多いのが現状でしょう。今時、本なんか読みゃしないのです。それは子供に限ったことではないと思います。

素読がなぜ有効だと思うかと言いますと、まずは導入しやすいからです。幼少期に読み聞かせをする親は多いでしょう。そのうち子供は文字を覚え、自分で読み たがります。娘(幼稚園年中)がちょうどその時期にあり、たどたどしいながら、自分で平仮名の本を読みはじめています。もう、読みたくてしょうがないわけ です。字が読めるお兄ちゃんがうらやましいわけです。

子供が自分で本を読めるようになると、たいていの親が読み聞かせをやめてしまうと思います。それを素読に移行してあげると良いのではないか、というのが現 時点での私の考えです。

方法としての素読の良いところは、子供に勝手に読ませるのではなく、かといって読んでやるだけでもないところにあると踏んでいます。本当は、素読舎がやっ ている(やっていた?)ように、日本語素読のプロが施すのが良いのでしょうが、英語でなく日本語なら家庭でもなんとかかんとかできるでしょう。

この過程で、文章を読む事に対する抵抗感が無くなり、読む事の楽しさを感じるようになれば、自然と本を手に取るようになるのではないか、と思っています。

再び過去ログ(同じくNO.102)から。

> 小学生にちゃんと日本語の「音読」をさせれば、彼らは日本語の磁場の中に生きていますから、音読がこなれた文は自然に充電されます。生活言語からの充 電、生活言語への放電が交互に自然に起こるのが、日本人の日本語の素読だと思います。
 きわめて乱暴なことを言えば、分析的な文法知識(しかも基底のあやふやなニセ文法)を放置して、まずはさまざまな(古典も含めた)日本語に対して「音 読」「素読」をちゃんとやるべきです。再度乱暴に言えば、小学生の間はそれで十分だと考えています。



【12151】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月 9日(日)10時17分19秒

会長うんぬんはともかく、素読舎の実践を親の立場から応援することは、ぜひやっていきたいものです。

しかし、親の立場ということを意識すると、英語(語学)と国語(批評)に関する力を、自分がどうつけるのか、という問題と、子どもにどうつけさせるのか、 という問題が二重写しになって、なかなか一筋縄でいかなくなってきますね。

通常の教育論が、ひどく明快である代わりにつまらないのは、親自身の問題をカットした上で、既製品の思考力や英語力を自明のものとして、それをいかに子ど もに与えるのかという技術論に終始しているからのような気がします。

今は、語学とともに、自分自身の素読についても検討中ですが、自分にとってある程度の難易度を持つ文章ということになると、どうしても明治期の「漢文脈」 の文章ということになります。
しかしそうなると、現代日本文と漢文脈との関係という問題も引きずり出されてきて、これもまた一筋縄ではいかない問題につながっていきそうです。



【12152】
親自身のための教育論 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月 9日(日)11時33分57秒

>通常の教育論が、ひどく明快である代わりにつまらないのは、親自身の問題をカットした上で、既製品の思考力や英語力を自明のものとして、それをいかに子 どもに与えるのかという技術論に終始しているからのような気がします。

重要なご指摘と思います。

これから近所の祭りに出かけますので、また書きます、会長!



【12153】
DS脳 投稿者:Jackie 投稿日:2007年12月 9日(日)13時28分12秒

【帯広】小6学級、任天堂DS使って朝学習…「授業より楽しい」「すぐに正解分かり、間違い直せる。一斉授業ではできないメリット」
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1196922215/l50

1 :早よ説教部屋に来栖川芹香 m9( ゚д゚) → ネットナンパ師φ ★:2007/12/06(木) 15:23:35 ID:???0

<帯広柏小の6年生 携帯ゲーム機で朝学習 漢字の読み書き、計算に活用 集中力高く、意欲向上>
http://www.tokachi.co.jp/kachi/0712/12_05.htm
帯広柏小学校(對馬克憲校長、児童462人)は児童の自主学習を促進して基礎学力
を高めようと、携帯ゲーム機を学習に取り入れている。漢字と計算ソフトを使い、朝学
習で6年生67人が活用。児童は教職員が驚くほどの集中力を見せ、漢字力や学習
意欲向上などの効果が表れ始めている。

文部科学省の委託を受け、全国13の小・中、高校に「ニンテンドーDS」を貸し出して
学習成果を調査しているNPO法人「パソコンキッズ」(本部東京、赤堀侃司代表理事)
の事業の一環。北海道は柏小のみが参加している。

柏小は個別指導の充実や学習意欲を喚起する目的で補助教材的に導入。10月上
旬から毎週水・木曜日の朝学習(午前8時20−40分)で実施、漢字能力検定協会
公式ソフトでは書き取りや読み取りのほか、画数や部首など漢字の成り立ちも学ん
でいる。

児童は私語もせずに、真剣な表情でゲームに集中。出題範囲が小6までの漢字検
定5級をすでに終え、高校卒業レベルの2級に挑戦する児童も。学校の漢字テストで
も高得点傾向にあり、学力定着が図られているという。

楠本歩未さん(12)は「授業よりもDSの方が楽しい。漢字が好きになった」、竹田亮
哉君(11)も「進んで勉強する気持ちが強くなった。DSで勉強するのは当たり前」と
笑顔。6年生の担任の青木啓洋教諭は「すぐに正解が分かり、間違いを直せるのが
一斉授業ではできない特徴。短い時間を有効に使える」と話す。





>柏小は個別指導の充実や学習意欲を喚起する目的で補助教材的に導入。10月上
旬から毎週水・木曜日の朝学習(午前8時20−40分)で実施、


私が小学生のころも算数の計算とか漢字の書き取りなどを行う、朝のドリルタイムというのがありました。ううっ、あんまりやりたくないなーというのが思い出 です。
DSを本格的に授業に取り入れるのは問題がありますが、週2回×20分ぐらいなら、
ゲーム性で楽しく、悔しく、それが動機付けにもなるのなら、まあよいかと。



>来年1月からは、2年生が授業時間内で掛け算・九九の復習に活用する予定。


しかし、だんだんDSが授業を侵食していくとしたら考えものです。DS脳はキケン。
瞬時に○か×を出す結果を出すことが当たり前になり、「あいまい」「宙ぶらりんゆえの空想や試行錯誤が育たない。
思考することが中断される。迷ったからこそ、苦労したからこそ、深く根付くものがある。



「Yes、かNoか。改革か改革をやめるか、正義か悪か、郵政民営化に賛成か反対か」


あー反吐がでる。



DSとやらは、液晶に「ペン書き」の手書き感覚が味わえるそうですが、紙に鉛筆で書く手書きとは違うでしょう。
そして液晶から目に入るものと、本、紙から目に入るものでは、脳に記憶される頻度が違う。場所も違うように私は感じます。


電子本よりやはり紙の本がいい。
電子本は読んだ気がしない。

デジタルをとりいれつつも基本はアナログで。

効率を重視した教育には行間がなく、行間がないと、根が張らない。



【12154】
DS 是か非か 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月 9日(日)18時10分48秒

学校の授業にDSが導入されることについては、他のさまざまな試聴覚教材が使用されるのと同程度に、賛成の反対なのだ(バカボンのパパ風)。授業での使用 にせよ、遊びとしてにせよ、やり過ぎ注意!ということに尽きると思います。

私の息子の場合は、完全に放任すればDSはやり過ぎるでしょう。大大大好きですので。ですので「いつまでゲームやってんの!没収だ、没収!」と家内が しょっちゅう雄叫びをあげています。

そんな息子でも「漢検DS」「計算DS」には見向きもしません。「ドリルなら紙のやつの方が良いなあ」「学校で授業でやるって言われたら?」に対しては 「微妙..」

DSにしてもインターネットにしても、一時期問題になった映画バトル・ロワイアルにしてもそうですが、本当に注意してほしいと思うのは、安直に犯罪と結び つけるタイプの言説です。ゲームやネットや映画で人格が壊れて人を殺す、というたぐいの物言いです。本当に良く考えてから発言してほしいと思います。犯罪 の背景には、今もって貧困の問題や制度がもたらす疎外の問題など深刻な問題があるにも関わらず、この手の言説は、そういうものを覆い隠す役回りしか演じる ことがないからです。



【12155】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月11日(火)00時37分21秒

>犯罪の背景には、今もって貧困の問題や制度がもたらす疎外の問題など深刻な問題があるにも関わらず、この手の言説は、そういうものを覆い隠す役回りしか 演じることがないからです。

 同意。
 残酷な映像が、人間を残酷にするという「直線的」な考えは、「良質な文章問題」などに「問題がない」と考える人が持ちやすいものかもしれないと思いまし た。「良質な文章問題」が良質であればあるほど、やせ細った数学的な直線的な論理への信仰が生じやすいかもしれません。
 「存在のふくらみ」というものが、下水に流されてしまうかもしれません。80年代頃からの非常にあぶない傾向だと言えば、またあてずっぽうになるのかも しれませんが、この頃に何か決定的な転回点があったように考えています。それが何なのか、いまだわかりませんが。



【12156】
Jackie さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月11日(火)00時41分12秒

 任天堂DS
 くさいですね。
 銭が動いている感じがします。
 溶融炉の場合は、「地元対策費」という金が動くようですが、ここにも同種の金が動いている感じです。
 くさい。



【12158】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月11日(火)00時59分42秒

>会長うんぬんはともかく、素読舎の実践を親の立場から応援することは、ぜひやっていきたいものです。

 よろしくお願いいたします。

>しかし、親の立場ということを意識すると、英語(語学)と国語(批評)に関する力を、自分がどうつけるのか、という問題と、子どもにどうつけさせるの か、という問題が二重写しになって、なかなか一筋縄でいかなくなってきますね。

 眼目は、子供がのめり込むほど面白がるかどうかだと思います。その場合に、親やコーチがやれることは、邪魔を取り除くことだと思います。
 積極的に子供に対して何かするのではなく、(消極的に?)しっかりと邪魔を取り除いてやることではないか、と。
 手前味噌を承知で言いますが、英語学習で言えば、ちゃんと「音づくり」をやるところを選びとることで、英語学習における邪魔の最大のものを取り除くこと ができます。子供に対して、ちゃんと音づくりをやらないことが、その後の子供の英語獲得にどれほどの邪魔になっているかが、いまだ日本人の英語学習の共通 認識になっていません。
 らくださんも matsu さんも、日本の親たちの先頭に立ったのだと思っていただいていいと思います。
 その意味でも、matsu さんに親の会の会長をやっていただきたく思います。特に仕事はありません。会長じゃあ、とときたま威張っていただけば結構です。
 そして、素読舎の方法に対する批評をお願い致します。

>今は、語学とともに、自分自身の素読についても検討中ですが、自分にとってある程度の難易度を持つ文章ということになると、どうしても明治期の「漢文 脈」の文章ということになります。

 具体的には、どんなテキストを考えておられますでしょうか。
 面白そうだと思ったら、私も始めますのでお教え下さい。



【12159】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月11日(火)01時33分14秒

>そういった状況の中で「国語力も算数力も、そして考える力もこの教材でバッチリ」といったプレゼンをされますと、それだけで飛びつく親は多いはずです。 糸山さんが巧いと思うのは、そこに「思考の臨界期」「視考力」といった“理論武装”を施しているところでしょう。

 同意。
 吉さんの神、糸山。糸山の神、「思考の臨界期」「視考力」。
 それを撃てばいいのだと思って、めんどうくさくてしょうがないのに、書いてきました。とうてい理論としての体裁は備えていませんが、いかにもいかにもと いう具合に書くのは糸山は上手です。
 何が「臨界期」かよ、と思います。
 そんなことを言うなら、あらゆる年齢の人があらゆる場面で「臨界期」を迎えていることをどうしてくれるんだ。
 糸山よ、おれの臨界期=インポテンツは、なにか「良質な・・」でどうにかなったってんかよ。吉さんの口調で言わせてもらうが、糸山さん、答えてくださ い、だよ。
 あああ。

>しかし、考えてみれば、それほど難しく考える必要などないわけです。国語力と算数力の両方(そして「考える力」も)を伸ばしたい、と考えたとしても、一 つの方法(教材)で同時に伸ばさなければならない理由はありません。糸山さんは「ゆっくり・ジックリ」と謳っているわりには、方法論において効率を求めす ぎという感じがします。国語力に関して言えば、それはそれで伸ばせばよいのですし、それが本筋でしょう。単純な事だと思います。

 世の中に平常心があるのだということを、糸山はなめています。
 だから駆り立てるのです。
 糸山には、嘘つけこのやろ、と言っておけばそれでいいのだと思います。
 理論にも何にもなっていない。口当たりはいいですがね。

>つまり、国語力を高める必要があるとしても、その教材として算数の文章題はないだろ、というごく当たり前の感覚です。

 同意。
 糸山なんぞがのさばっている間は、日本はその分だけ確実に貧しくなるでしょう。

>ふー、長かった。もう少し早く素読にたどり着くべきでした。息子よ、すまん。

 おやじさんとしては、matsu さんが具体的なテキストを提示してくれたら、一緒に素読を始めてみませんか。2,3年すれば、スカイプが動くコンピュータが2,3万になると思いますの で、その頃まで、各自自習して、この掲示板に報告する程度のことをやり、その後、matsu さんとらくださんと私と、スカイプでつないで素読をやりませんか。

>決まり文句のように、本を読ませれば良い、という話になるわけですが、一方で、子供が本を読むようにするにはどうすればいいのか..と途方に暮れる声も また多いのが現状でしょう。今時、本なんか読みゃしないのです。それは子供に限ったことではないと思います。

 邪魔を取り除くことをやってやらないで、本を読めと言ったって駄目なんだということだと思います。また、本当に本を面白がるのは、本人が何か問題を抱え 込んだ時なのだということを外して、本を読めなどと言ってもしょうがないんだということもあります。
 誰だっていずれ問題は抱え込むのですから、親やコーチは邪魔を取り除くことだけやっておけば義理は果たせたものと考えていいと思います。

>素読がなぜ有効だと思うかと言いますと、まずは導入しやすいからです。幼少期に読み聞かせをする親は多いでしょう。そのうち子供は文字を覚え、自分で読 みたがります。

 うちの孫とだいぶ違いますね。うちの孫は、いまだ字に敵対しています。おもしろいなと思って見ています。

 ただ、いくつか字を覚えかけているので、素読用というか音読用に、今日、孫にテキストを作ってやりました。塾で、おにいちゃんやおねえちゃんが字を読ん でいるので、たまに自分でも字を読みたがるときがあるのです。その時に、じゃあこれを読んでごらんと言って読ませるように女房に言ってあります。半分くら い知っている字を使い、半分くらい知らない字を使って作ってあります。なるべく画数の少ない字を使っています。画数が少ない方が、目になじみやすかろうと 思ってのことです。「そうま」というのが、孫の名前です。
------------------------------------------------------
そ、う、ま、は、に、か、い、し、り

そうまは、にかい
しり、かいかい
そうまに、かに
かには、はう
しりに、はう
しり、かいかい

いしに、かに
はうは、かに
かには、はう
そういうまにまに
しり、かいかい

うまうま そうま
まいまう そうま
まうまう そうま
そうま、まい まう
しり、かいかい

いかは、しりか
かいは、しりか
うには、しりか
はかに、しり
しりかいかい

しりは、かいかいか
いしは、いし
そりは、そり
しりは、しり
そりに、しり
しり、かいかい

そういうそうま
------------------------------------------------------

>子供が自分で本を読めるようになると、たいていの親が読み聞かせをやめてしまうと思います。それを素読に移行してあげると良いのではないか、というのが 現時点での私の考えです。

 御意。

>方法としての素読の良いところは、子供に勝手に読ませるのではなく、かといって読んでやるだけでもないところにあると踏んでいます。本当は、素読舎が やっている(やっていた?)ように、日本語素読のプロが施すのが良いのでしょうが、英語でなく日本語なら家庭でもなんとかかんとかできるでしょう。

 糸山の「良質・・・」なんかより、ずっと家庭で親と子が一緒にやるのに向いていると思います。



【12160】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月11日(火)02時10分1秒

>教材の件、恐れ入ります。有効に使わせていただきます。

 今日、クロネコのメール便でお送りしました。

>復習(毎日の練習)をしなくても良いというわけではないのですよね。と言いますのは、根石さんが出された音をちゃんと覚えていられるかというと、かなり 怪しいわけです。

 これに対して、早くお返事を書くべきだと思いながら、昨今のやぼ用のため遅くなりました。お許し下さい。
 「かなり怪しい」ので大丈夫です。まだ始めたばかりなので、子供は私に対して、「このおやじどういうおやじなんだ?」と思っていて、音自体の説明は半分 上の空です。私のレッスンでは、同じ説明を何度でもやりますから、そのうちに子供が「おお、そんなことはわかってるぞ」という気持ちになることがあるで しょう。その頃に、ようやく音が根付くのです。
 大人相手の場合は、復習だけでいいからよくやっておいてくれと言いますが、小学生は「かなり怪しい」で大丈夫です。レッスン(私)に慣れてくると、どん どん正確に吸収してくれます。

>それでも、次のレッスンまでのつなぎの手本としてのCDは必要ないでしょうか?

 CDは今のところ、必要ありません。私は、2,3年してから、もうCDをどんとん使っていいよ、と言います。そうすると、一挙に私の音の質を追い抜きま す。それを見ているのが私は楽しいのです。私の楽しみが減りますので、今のところCDは要りません。

>とりあえず、私の英語らしからぬ読みをヒントとして1回聞かせて、根石さんが出した音の記憶を呼び起こさせて口に乗せさせる、という方法なのですが。そ うすると、記憶がおぼろげなので、明らかにおかしいなという音を発しています。本人も「間違った音で繰り返してもいいのかなあ」などと申しております。

 今のところは、復習すら必要ないということです。ですが、「復習しといてね」と私は子供に言います。「記憶がおぼろげ」のままでいいのです。レッスンの 中で何度でも復習しますし、だんだんはっきりしていきますから、ご心配は要りません。放っておいていただいて大丈夫です。3ヶ月くらいたった頃、息子さん に、「読んでみな」と言ってみて下さい。英語の音が根付いてきているのに気づかれると思います。
 これを小学6年生の一年間にやっておかれると、中学に入ってから、意味やイメージに集中できるので、大変得策です。

 これは、理論化したことがあります。
 「音と意味の二律背反」ということで書いたことがあります。

 現時点での学校対策として、小学6年の一年間に「音」をやっておくと、中学に入って、意味、イメージ、文法に集中できる。
 それが大変お得なのだということです。



【12161】
エピソード三つ 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月11日(火)06時56分33秒

前回のレッスンのあと、息子がへらへらしているので聞くと、根石さんがおかしかったという。冠詞の説明でさりげなく根石さんが使った喩えが、子どもの笑い のツボに入ったらしい。
根石さんといえば、『根石吉久の暮らしの手帳』ミッドナイトプレス社。
抱腹絶倒のエッセイ満載で、根石さんが日本語磁場の中で鍛え上げた言葉の力の真髄が味わえます。未見の人はぜひ注文を。
ただ、息子には、まだ見せるのはもったいない?!

レッスンのあと、いっしょに回転読みの練習をしていたら、僕の発音に、息子が、おや、といぶかしげな顔をする。しっかり子どもに発音をなおされました。
受験英語では発音記号に意識的なつもりだったし、今はCD聞いているのに。うれしいような、かなしいような。
たしかに僕の耳でも、3回のレッスンで、音の変わりようはびっくりです。

友人との勉強会の席。言葉に敏感なその友人が、根石吉久という名前の字の並びがとても美しい、という。
ねいしきちく、と読ませたりしない?と聞かれました。
根石さん、どうでしょうか。



【12162】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月11日(火)12時10分14秒

> 今のところは、復習すら必要ないということです。

承知しました。とりあえず放っておきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。何か私から申し伝えたほうが良いことがあればお知らせください。

>まだ始めたばかりなので、子供は私に対して、「このおやじどういうおやじなんだ?」と思っていて

おっしゃる通りで。

「根石先生ってどんな顔してるのかなあ。気になるぅー。」

と申しておりました。

「かなり怪しい」と言えば、私のオツムのほうが怪しいかもしれません。

「あいへう゛ぉ、あいへう゛ぉ...」と言うので、何のこっちゃ、と思ったのですが「I have a ....」のことでした。私のオツムの中は「あいはぶ」ですから、早くも英語の音の世界に入っていったんだなーと。



【12163】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月12日(水)01時18分51秒

>何か私から申し伝えたほうが良いことがあればお知らせください。

 今のところ特にありません。

>「根石先生ってどんな顔してるのかなあ。気になるぅー。」
と申しておりました。

 どこかに顔を載せたページがあったような。
 村田君、どこだっけか?

>「あいへう゛ぉ、あいへう゛ぉ...」と言うので、何のこっちゃ、と思ったのですが「I have a ....」のことでした。私のオツムの中は「あいはぶ」ですから、早くも英語の音の世界に入っていったんだなーと。

 これについて、少し説明します。
 have の綴りの中にある a は「一瞬般若」というあだ名の音です。
 通常、子音と子音に挟まれた「綴り上の a」が、日本人の耳に「ア」と聞こえる場合に、「一瞬般若」になります。
 これを生徒さんに出させるときの説明法は、「口の両端を斜め上にひっぱりあげて『ア』と言う」です。
 これは、通常の発音の教科書の記述とは違っています。通常の教科書では、口の両端を横にひっぱり、同時に顎をさげて「ア」と言うというような説明になる かと思いますが、この説明の仕方では、口の両端の動かし方と顎の動かし方の二つを意識しなくてはなりません。これだと、すぐにコツをつかむことが難しくな ります。子供が二つのことをするのだと思いがちだからです。
 私が口の両端だけを意識させるのは、口の両端の動きと顎の下がりとで、どちらが「一瞬般若」の音の本質を決定しているかと考え、口の両端の動きの方にあ るとしたためです。口の両端の動きだけで、充分に「通じる音」は確保できます。
 ただし、顎の下がりを加えた方が、上品な音にはなります。だから、ひとまず、口の両端だけで「一瞬般若」を作り、その音が充分に安定してから、「実は同 時に顎を下げてもいいんだよ」と言います。ひとまず本質部分を確保し、その後にさらに音を変形させるというやり方をしています。動き(体感)の変容として 二段階で扱うのであり、初めから二つのことを同時にやらせるということは避けています。

 二段階の一段目をやったばかりなので、「あいへう゛ぉ、あいへう゛ぉ...」と聞こえるわけです。そのうちに、まぎれもない「一瞬般若」の音が穫れます ので、少しお待ち下さい。



【12164】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月13日(木)10時00分40秒

「イメージ核受肉教材」届きました。ありがとうございます。

これは過去ログにたびたび出てくる『ゴースト』をベースにした教材なんですね。レッスンの各段階における教材の位置づけなんですが、

小学生は「語数別」
中学生は自分が学校で使っている教科書
高校生以上は「イメージ核受肉」

という捉え方で良いのでしょうか。この「イメージ核受肉」は膨大な分量で、そうそう終わりにはならないでしょうから、高校生以上はかなり長期間、この教材 で勉強するということになるわけですね。

一見した印象としては、映画のシナリオを題材としつつ、これだけ詳細な単語・文法解析が施され、かつ分量が確保されたものは、ちょっと無いだろう、と思い ました。

独りで使う際にはDVDの音を媒介にするということになると思いますが、学習用教材のCDではないので、どの程度聞き取れるか???というところが今後の 問題と思っています。

蛇足ですが『ゴースト』は昔、彼女と映画館で見ました。その「彼女」は今のカミさんなので、あまりロマンチックな思い出とは言えませんが。



【12166】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月14日(金)00時00分29秒

>前回のレッスンのあと、息子がへらへらしているので聞くと、根石さんがおかしかったという。冠詞の説明でさりげなく根石さんが使った喩えが、子どもの笑 いのツボに入ったらしい。

 多分、、a と the の違いの説明のことだと思います。その時、こんなことを言いました。

the っていうのは、話している人どうしで、何をさしているかお互いにわかっているものに使う。だから、部屋の中にいて、Open the window. と言えば、まず間違いなく、話している人たちがいる「その部屋の窓」になる。このときに、Open a window. と言うと、いきなり部屋を飛び出して、100メートルくらい走って行って、どこか知らない人の家の窓を開けてきたってかまわない。 a っていうのは、「適当などれか一つ」ってことも表してしまうから、どこの家の窓でもいいんだ。

 どこか知らない人の家の窓をいきなり開けてしまうイメージが息子さんにはおかしかったらしく、説明しているとき、声をたてて笑っていました。

>ただ、息子には、まだ見せるのはもったいない?!

 どこかにわずかながらエロが混じっていたような覚えがありますので、そのへんをどうするかですね。ご判断におまかせします。テレビコマーシャルなんか で、エロは結構茶の間に入り込んできますので、どうってこたあねえのか、どうなのか。エロがわかると、子供の身には結構切ないです。この切なさと危なさを なんとか乗り切って、子供は大人になっていくんですけど、親としてはどうすりゃいいんでしょう。難問です。

>レッスンのあと、いっしょに回転読みの練習をしていたら、僕の発音に、息子が、おや、といぶかしげな顔をする。しっかり子どもに発音をなおされました。
受験英語では発音記号に意識的なつもりだったし、今はCD聞いているのに。うれしいような、かなしいような。
たしかに僕の耳でも、3回のレッスンで、音の変わりようはびっくりです。

 初めの3ヶ月くらいで、音はどんどん変わります。
 安定してくるまでには、2年から3年くらいかかります。(これが私が長いこと小学4年生から生徒さんを受けつけてきた根拠です。小学校のうちに音を安定 させ、中学に入ったら、意味・文法に専念してもらえば、まともな音で英語のあらゆる練習ができるからです。これに害が生じないことは、先日書きました。)
 今は混乱してもらっている段階ですが、かなり混乱させてから、「あいうえおフォニックス」の説明をすると、単語の綴りから音を割り出せるようになりま す。この「あいうえおフォニックス」は非常に例外が少なく、今のところ、例外としてすぐに思いつくのは、sergeant の er, heart, hearth の ear くらいのものです。(これについては、ご要望があれば、後日この掲示板上で説明いたします)
 「あいうえおフォニックス」が身に付いて、綴りを見たら感覚的に瞬時に音にできるようになると、学校の教室の中で「一人だけまともな音を出している生 徒」になりがちで、これが問題と言えば問題です。
 私の生徒が高校生になったばかりの時、AETの英語ネイティヴが、授業が終わってすぐに、私の生徒の机のところに来て、「あなたは、どこか外国で暮らし ていたことがあるのか」と聞いたそうです。「一人だけ音が違う(まともだ)」と言ったそうです。これは生徒本人が私に言ったのではなく、お母さんが「おか げさまで」という言葉と一緒に私に伝えてくれました。
 この子は、学校の教室でもまったく平気で私の作った音で発音していたのですが、別の子は、学校の教室用と私のレッスン用とで音を使いわけていた節があり ます。これも本人ではなく、お母さんから聞きました。
 使い分けは余計な労力になりますが、生徒が非常に控えめなおとなしい子で、一人だけ教室で、違う(まともな)音を響かせるのがいやだったらしいのです。 つまり、教室で浮き上がるのを避けるために、余計な労力を使っていたということになります。複雑な気持ちになったのを覚えています。

 それほど、現在の学校がよしとしている「音」はまともでないのです。

>ねいしきちく、と読ませたりしない?と聞かれました。
根石さん、どうでしょうか。

 「きちく」っていうのは、「鬼畜米英」の「鬼畜」でしょうか。
 どうもいやな感じですね。アメリカ人でもイギリス人でも、ひとりひとりと話をしているぶんには、全然「鬼畜」ではないんですが、アメリカ国家とかイギリ ス国家になると、とたんに「鬼畜」って感じがします。それは別にアメリカやイギリスに限ったことでなく、中国なんかが戦時中に日本の軍がやったことを「鬼 畜」扱いする一方で、チベットに対しては平気で自分で「鬼畜」をやっているわけです。朝鮮でも、中国でも、日本でも、アメリカでもイギリスでも、国家は全 部「鬼畜」だと言っていいと思います。
 こんなことを書くと、また、徹底的な反国家思想としてまた吉本の話に戻ってしまいそうですが・・・。
 私は、自分では鬼だと思っていますが。あるいは、戦後民主主義の鬼っ子だと。

------------------------------------------------------
 以上、二日ばかり前に書いたのですが、掲示板がメンテナンスをやっていたせいかどうか、掲載しようとしてできませんでした。
 遅れましたが、今日掲載いたします。



【12168】
大人の素読 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月14日(金)00時28分54秒

>おやじさんとしては、matsu さんが具体的なテキストを提示してくれたら

素読や音読に関しては、語学以上に手付かずの領域で、テキストを提示するどころではないのですが、せっかく振っていただいたので、考えを書いてみたいと思 います。
荒削りのたたき台、のつもりですので、その点ご容赦を。

素読とは、自分にとって未知の言語をマスターするために、意味よりも音を優先させて、音読の習得から入っていく方法であると定義するとします。
日本人が英語をマスターする場合が、その典型となるでしょう。
小学生が、難度の高い文章を「素読」する場合は、どう考えるべきなのか。
「話し言葉」と「書き言葉」を異質の言語と考えれば、とりあえず前者をマスターした子どもが、後者の言語へと渡るために、ある程度パターン化した素読を利 用できるということのような気がします。

それでは、「話し言葉」も「書き言葉」もある程度習得した大人にとって、単なる音読ではない素読の効用はどこにあるのか。
当人にとって十分異質性をもった言葉や思考の体系へと身を投げ出し、それを我が物とするために、素読という方法が有効なのだろうと思います。
しかし、その異質性の内容が、大人の場合は各人において違い、そのために素読の標準的なテキストを定めにくい、というのが僕の今の感じです。

たとえば、吉本隆明の散文は、それが外国語のように難しいという人にとっては素読の対象となるでしょうが、それを理解する根石さんにとってはそうではない でしょう。
あるいは書き言葉の世界にすでに侵入している大人は、すでに様々な価値判断や嗜好をもっているので、その人にとって理解する意欲を起こさせるものでない と、素読の対象とはなりえません。
たとえば、柄谷行人の散文が、根石さんにとって異質性を持つとしても、それをわざわざ素読する気にはならないと思います。(本人の価値感や嗜好をとりあえ ず度外視して、「いいもの」を推薦できる子どもと、この点で異なるでしょう。)

すると、現代日本の大人にとって、ある程度共通して異質性のある言語、というと、前近代の「古文」や、戦前の文語文、ということになるかもしれません。そ のとき、ごく大雑把にいって、近代人としての僕たちが、同時代の読み物としての関心を持ちやすいのは、明治期以降の文語調の文章という気がします。
しかし、その場合も、それが同時代性を帯びているだけに、その選択には各人の価値観がからんでくるだろうと思います。

実は今、僕が素読を検討しているのは、明治の宗教哲学者清澤満之(きよさわまんし)の文章なのですが、真宗大谷派の宗門の修行者としての匂いの強い彼の文 章を、あまり人に薦める気はありません。
らくださんや吉さんの取り上げた「茶の本」あたりが一般的なような気もしますが、僕個人には岡倉天心をぜひ読もうという動機はとりあえず希薄です。

このあたり、まだ、こんな感じがするというだけで、実際はまだよくわかりません。
各人の思想や嗜好と離れた、中立的にすぐれたテキストというものが存在するのかもしれません。
うまく努力が持続するかはわかりませんが、いろいろ試行錯誤しながら、途中経過をもとに議論できたらと思います。



【12170】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月14日(金)00時49分57秒

 無事届いたようで安心しました。

>小学生は「語数別」
中学生は自分が学校で使っている教科書
高校生以上は「イメージ核受肉」
という捉え方で良いのでしょうか。

 小学生は現在は3年生から受け付けていますが、3年生から5年生までは、「語数別分類」、6年生から入学予定の学校の教科書、中学生は学校の教科書、高 校生以上は「イメージ核受肉」となります。それ以外に、上級者向けに、「どしゃぶり型レッスン」というのがあり、現在、佐賀県の高校の英語の先生が一人だ けやっておられます。

>この「イメージ核受肉」は膨大な分量で、そうそう終わりにはならないでしょうから、高校生以上はかなり長期間、この教材で勉強するということになるわけ ですね。

 そういうことになります。私の勝手な定義ですが、中学レベルの文法がものになっていて、中学の教科書がまともな音で音読できるというくらいから中級とし ています。それ以前が初級になります。
 どこから上級かというのを決めるのは難しいですし、上級になった人も少し練習をやらないでいるとすぐに中級になってしまうという場所が日本(語の磁場) なわけですので、「どしゃぶり型レッスン」を受けておられる方以外のほとんどの生徒さんが中級なわけです。ときどき、小学生、中学生の初級レベルの人が レッスンを受けてくれるだけですから、自作教材としては、中級の人が上級になるところを作ればいいと考えています。
 量が膨大なのは、英語力維持が眼目だと思っているためです。
 英語力を作るのも大変だが、それを日本語の磁場で、生活の中で維持するのは、同じくらい、ひょっとすると、英語力を作るよりももっと大変だと考えていま す。
 レッスンを継続していてもらえれば英語力は維持できると断言するためには、教材は膨大なものにするしかありませんでした。お送りした9万行程度の教材の 7万行程度のところまで追い上げてきている生徒が一人おりますので、とにかく追いつかれてしまうわけにはいかないのです。この生徒は、ただいま大学受験浪 人をしています。

>一見した印象としては、映画のシナリオを題材としつつ、これだけ詳細な単語・文法解析が施され、かつ分量が確保されたものは、ちょっと無いだろう、と思 いました。

 今、9万行を越えたところですが、これはまだまだ作ります。
 文法の説明なんかも、何度でも同じものが繰り返し出てきます。よくわかっているところは読み飛ばしてもらえばいいので、これでもかというくらい同じ説 明、同じ文が繰り返し出てきます。
 今はまだ、大学受験用の参考書から文を採用しているところで、それが終われば、再び、映画のシナリオの「7年目の浮気」の解析を予定しています。「7年 目の浮気」の解析のために、「ゴースト」に出てくる文だけではとうてい足りないので、大学受験用の参考書を「媒介」にしたわけです。
 「7年目の浮気」を解析し終わったら、チョムスキーをやろうか、岡倉天心をやろうか思案中ですが、それまで生きていられるかどうか。

>独りで使う際にはDVDの音を媒介にするということになると思いますが、学習用教材のCDではないので、どの程度聞き取れるか???というところが今後 の問題と思っています。

 先日書きました「口の筋肉の柔らかさ」を獲得する練習をしていただけば、けっこう聞き取れるようになります。試してみて下さい。

>蛇足ですが『ゴースト』は昔、彼女と映画館で見ました。その「彼女」は今のカミさんなので、あまりロマンチックな思い出とは言えませんが。

 いや、それを言うと奥さんが怒ると思います。その当時はロマンチックだったんでしょうから。
 いやはや、うちもねえ。ロマンチックのロの字もねえ。
 あああ。



【12175】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月18日(火)02時17分46秒

>素読とは、自分にとって未知の言語をマスターするために、意味よりも音を優先させて、音読の習得から入っていく方法であると定義するとします。

 「未知の言語」だけとは限らないと思います。
 語学向けの方法ではなく、未知の日本語の語彙を獲得していくにもいい方法です。

>「話し言葉」と「書き言葉」を異質の言語と考えれば、とりあえず前者をマスターした子どもが、後者の言語へと渡るために、ある程度パターン化した素読を 利用できるということのような気がします。

 そうだと思います。

>それでは、「話し言葉」も「書き言葉」もある程度習得した大人にとって、単なる音読ではない素読の効用はどこにあるのか。
当人にとって十分異質性をもった言葉や思考の体系へと身を投げ出し、それを我が物とするために、素読という方法が有効なのだろうと思います。

 はい。それと、暗記ではないけれど、素読で日本語をくたくたに洗濯しておくと、何かものを書くときに、くたくたにしておいた日本語の言い回しが、(その ままの形でなくても)媒介にされ、自分の表現領域を広げると思います。

>しかし、その異質性の内容が、大人の場合は各人において違い、そのために素読の標準的なテキストを定めにくい、というのが僕の今の感じです。

 これはまさにその通りです。

>たとえば、吉本隆明の散文は、それが外国語のように難しいという人にとっては素読の対象となるでしょうが、それを理解する根石さんにとってはそうではな いでしょう。

 吉本の本で、途中まで読んで放り出したようなもの(「共同幻想論」など)を素読の対象にするのは、私にとっていい結果になると思いました。しかし、なに ぶん時間がとれない。しかし、やってみたいです。

>たとえば、柄谷行人の散文が、根石さんにとって異質性を持つとしても、それをわざわざ素読する気にはならないと思います。(本人の価値感や嗜好をとりあ えず度外視して、「いいもの」を推薦できる子どもと、この点で異なるでしょう。)

 柄谷だって、異質性ということで、素読の対象になります。やってみてつまらなかったら、いつでも放り出して、他のテキストに移ればいいわけです。

>実は今、僕が素読を検討しているのは、明治の宗教哲学者清澤満之(きよさわまんし)の文章なのですが、真宗大谷派の宗門の修行者としての匂いの強い彼の 文章を、あまり人に薦める気はありません。

 キモの部分を少しこの掲示板に引用していただけますか。
 興味があります。



【12176】
大人の素読プラン 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月19日(水)20時27分34秒
  編集済
1.テキストには一円も使わない。手持ちの積読本から、素読向きの本を選び出して、間に合わせる。手持ちの日本語力の活用という趣旨から、テキストも手持 ちで。

 探すと、意外と素読向きの本を持っていることに気づきました。論語も二冊発見。素読向きの本は、当然黙読には不向きですぐに投げ出していたわけですね。

2.表現の異質性(異形性)と内容の異質性(難解性)とを組み合わせで、様々なタイプのテキストを試してみる。

 日本人の初学者にとって、英語の素読は、表現の異形性はマキシマムで、内容の難解性はミニマム、ということになると思います。
 大人の素読は、表現の異質性のレベルは落ちる代わりに、内容の異質性により多く向き合うことになります。たとえば・・・

               表現の異質度   内容の異質度
 日本の古典   徒然草      大        中
 漢文      論語       大        大
 明治の文語文  西田幾太郎    中        大
 現代の批評文  柄谷行人     小        中

3.大人の素読は、学力テスト等で学習結果を計ることができないため、読み続けることができるかどうか、それが面白いかどうか、読むことで自分の内部に生 じたものが自覚できるかどうか、等をモノサシに自由にテキストを渡り歩くことになる。

 などと、いろいろプランを考えているうちが楽しいですね。
 やや手を広げすぎの状態ですが、素読という方法で、言葉の海に身をひたす(溺れさせる)ことは、ぜひやってみたいと思います。



【12177】
清澤満之 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月19日(水)20時56分19秒

>道理と信仰とは互いに相依り相助くべきものにして、決して相害し相容れざるものにあらざるなり。相害し、相容れざるは、彼の信仰と此の信仰との間に存す るのみ。ゆえに道理に矛盾背反なく、すべての衝突争闘は信仰と信仰との間に存するものなりと謂うを得べし。此の点に於いては信仰は道理によりて矯正せらる べきものたり。

キモを示せるほど読んでいませんが、信仰は道理(理性)によって矯正できるという、宗教者らしからぬ断言には、日本で最初に西欧哲学を学んだ仏教者の気迫 がみなぎっている感じがします。



【12179】
オヤジの日本語素読 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月22日(土)14時05分52秒

私もお誘いを受けていたので一言。日本語の素読については、非常に興味があります。実のところ、英語よりも、こちらをやりたいというのが本音です。しか し、「英語をやるぞ」と決めたので、当面はそちらに専念したいと思っています。不器用なので、複数のことを同時に始めると共倒れになる可能性大、でありま す。始めないのですが、クチバシだけは突っ込ませてください。

> 日本人の初学者にとって、英語の素読は、表現の異形性はマキシマムで、内容の難解性はミニマム、ということになると思います

ああ、なるほど、と思います。なかなか英語をやる気にならなかった理由の一つがここにあると思います。今さら「Hello. How are you?」なんて、やってられるかよ、という感覚です。他言語の場合は、その言語の背景にある「文化の厚み」みたいなものへの関心から入ることが多いです ので、初学者が学習を軌道に乗せる、言わば離陸させる時の浮力が効くと思います。

英語の場合は、それが無いんですね。逆に「アメリカ、糞だな」みたいなマイナス感情が、学習意欲を低下させることこそあるものの。

なので、私は、せめて「内容の難解性」を浮力に使おうと『茶の本』をテキストに選択することを考えたわけですが、それは無茶なことだと分かり、代りに「語 学論」に出会うことで、浮力を手に入れたわけです。今は「Hello. How are you?」を100回素読することが苦痛、と感じることはなくなりました。

さて、日本語ですが、私が素読に関心を持つ理由の一つは、先日、根石さんが書かれていたこと

> 「存在のふくらみ」というものが、下水に流されてしまうかもしれません。80年代頃からの非常にあぶない傾向だと言えば、またあてずっぽうになるのか もしれませんが、この頃に何か決定的な転回点があったように考えています。それが何なのか、いまだわかりませんが。

ということとつながっているような気がしています。私は80年代というと、ちょうど二十歳ぐらいだったのですが、何と言いますか、非常に空疎な気分であっ た記憶があります。それは単に自分自身の心持ちの問題かもしれませんが。個人的な心持ちと言えば、先日、友人にそのことを聞いたら「80年代か。時代の空 気みたいなのはわからないな。俺はその年にジョン・レノンが死んで、何もする気がなくなってたけど」と言っていました。

80年代からこっち、そんな空疎な時代が続いており、それがここ数年は目に見える形で噴出しつつある、という感覚があります。と同時に、そのことに対する 抵抗感と言いますか、見直しをしたいという感覚が、人々に共有されつつあるのではないかという風にも感じます。

それは、大げさに言えば「近代の見直し」というようなことなのではないかと思っています。戦後が問題であった、というよりも、御一新以来、ずっと日本の近 代は問題であり続けたのではないか、ということです。

そして、江戸が見直されます。御一新、本当に必要だったのか。少なくとも、ああいう形でなくてはならなかったのか。最近、みなもと太郎のマンガ『風雲児た ち』を読んでいます。江戸時代の蘭学者達が活写されていますが、江戸って、結構イケてたんじゃなかろうか。と思います。寺子屋、素読、結構イケてたんじゃ なかろうか。

子供も大人も、寺子屋・素読、もっと見直しても良いのではないか。そんな事をここのところ考えております。それにしても、素読の伝統が断ち切られたこと は、大きな損失だったのではないでしょうか。こういうものは、やはり「音」が大切だと感じます。親から子へ、子から孫へ、音が口伝えされることが結構大事 なのではなかったか、と思ったりします。

と、言いますのは、実際に、家庭学習として素読を実践しようとすると、音の問題が頭をもたげるのです。前に、素読は家庭でできる、などと偉そうに書きまし たが、実のところ、問題が無いこともないのです。子供は難しい漢字が読めません。また、イントネーションも間違えます。親が最初に読んで手本を示すには、 漢字が読めて、イントネーションが分からないと手本になりません。

親の教養のレベルが問われてしまうのであります。



【12180】
オヤジの英語素読 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月22日(土)20時56分11秒

『ゴースト』DVD からの音声抽出が無事できました。そこで、この教材について、ごく初歩的な質問をさせていただければと思います。

今やり始めたことは、まずは教材(A4で印刷すると2000ページぐらいになりますので、最初の50ページほどを印刷)を読んで(黙読)みることです。

過去ログのいろんな方からのご発言にありますように、新出のセリフに関連する既出のセリフや文法説明が、これでもかと繰り返し出てきますが、解説は考え方 の道筋がていねいかつ簡潔にまとめられていて、わかりやすいです。

また、一つのセリフごとに

セリフ→そのセリフに関連した説明→セリフ再録

という流れになっているのは、使い勝手を考慮してのことかと思いますが、セリフが最初と最後に2回収録され、解説がサンドイッチされているのが、とても使 いやすいです。

解説が「be動詞の現在形はam,are,is」といったところから施されていますので、以前、根石さんがおっしゃった通り、私のような再入門派でも無理 なく学習できると思います。内容は、中学の教科書に戻るより楽しいことは言うまでもありません。逆に「where'd=where didの短縮形」といった解説は、普通の学習用教材ではあまり触れられないと思いますので、「へぇー」と感心しつつ楽しめます。

音に関しては、DVDからWAV形式で取り出しPCで聞けるようにしました。

ここで音について疑問が出ました。映画のセリフが「生の英語」と言えるかどうかはともかく、少なくとも学習用教材と違って、文も短縮形や省略が多用されて いますし、俳優がしゃべる音もスピードが速く、音の連結や脱落などが多いと思います。

中学生までの学校教科書を使っての勉強が、プールの中で泳ぎ方を身につけているようなものとすれば、高校に上がってからいきなりの映画シナリオというの は、波も潮の流れも深みもある海で泳ぐようなものなのではないかと感じます。それでも、コーチ付きであれば、溺れることなく冲まで泳ぎだせるようレッスン が進んでいくのだろうとは思いますが。

問題は独りで使う場合ですが(異例なのかもしれませんが)、口に出して練習するときに、聞こえたままを口にすれば良いのでしょうか?質問を変えるならば、 レッスンの場合はDVDの音というより、根石さんの作る音を手本とするのだと思いますが、どういう考え方で作られる音を生徒さんに示されるのでしょうか。

たとえば、最初の方に

・And eighty years of dust.

というセリフが出てくるのですが、私の耳には(あえてカタカナ表記をすれば)

・デイリィイヤーズアダス

という風にしか聞こえないのです。間違いかもしれませんが。

こういう場合にこういう音が消えるとか、つながって聞こえるといった知識面での裏付けを、その都度、発音関連の本などで確認し「こう聞こえるのは理論的に 間違っていない」と確かめた方が良いのでしょうか。

それとも、取りあえず耳に聞こえた通りに口にする練習をしていいものでしょうか?聞こえない音は自分の耳が出来ていないからだ、と考えれば、自分に聞こえ た通りを口にすればいいというものでもないような気もします。

また、

・デイリィイヤーズアダス

は聞き取れれば良いのであって、自分が口にするときに聞こえた通りに真似する必要はなく、つまりリスニング用の練習とスピーキング用の練習とを分け、ス ピーキング用としては

・エンディエイティーイヤーズオヴダスト

という風に、学習用教材っぽい感じに頭の中で修正して練習するのが無難なのでしょうか?

あるいは「口にできない音は聞こえもしない」という方もいますが、

・デイリィイヤーズアダス

と口に出すことを普段から練習しないと聞き取ることもできない、と考えるべきでしょうか?

実際にこういう教材を前にしてみますと、音の問題というのが考えていたよりもずっと大事な問題なのだと感じます。



【12181】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月23日(日)04時22分24秒

>今やり始めたことは、まずは教材(A4で印刷すると2000ページぐらいになりますので、最初の50ページほどを印刷)を読んで(黙読)みることです。

 黙読は後回しにしていただいて、まずは英文の全文(大文字から始まりピリオドで終わるもの)を「回転読み」していただくのがいいかと思います。黙読して も多分面白くないかと思います。
 プリントアウトしていただいてもいいのですが、テキストの自分がやったところまでに印(☆印など)をつければ、パソコンの画面上で使えます。
 パソコンの画面上で使うことの利点は、物質的には、紙やインクを使わないので資源の無駄がないことと、場所を占めないことですが、それよりも大きな利点 は、エディタ(ワープロ)の「検索」機能を使うと、単語、熟語、文法用語などで検索し、いろんな文にアクセスできることです。

>過去ログのいろんな方からのご発言にありますように、新出のセリフに関連する既出のセリフや文法説明が、これでもかと繰り返し出てきますが、解説は考え 方の道筋がていねいかつ簡潔にまとめられていて、わかりやすいです。
また、一つのセリフごとに
セリフ→そのセリフに関連した説明→セリフ再録
という流れになっているのは、使い勝手を考慮してのことかと思いますが、セリフが最初と最後に2回収録され、解説がサンドイッチされているのが、とても使 いやすいです。

 実際に使って下さる人からの評価が一番うれしいです。ありがとうございます。

>問題は独りで使う場合ですが(異例なのかもしれませんが)、口に出して練習するときに、聞こえたままを口にすれば良いのでしょうか?質問を変えるなら ば、レッスンの場合はDVDの音というより、根石さんの作る音を手本とするのだと思いますが、どういう考え方で作られる音を生徒さんに示されるのでしょう か。

 ここにある問題は、私が「語学的標準型」と言ってきたことに関わります。
 「語学的標準型」は、初心者の場合と、中級者の場合、上級者の場合で違ってきますが、私がレッスンで多用するのは、初心者の場合と中級者の場合です。上 級者の場合は、私から吸収していただく分と私が吸収させてもらう分が混在します。
 DVDの音を「聞こえたままを口にすれば良い」かどうかに迷い、それを問題にされている方は明らかに中級者だと私は判断します。
 で、中級者について書きます。
 「語学的標準型」は、以前この掲示板でパクパクさんが書かれた「カジュアルな音」という考えと鋭く対立します。パクパクさんの「カジュアル」という概念 は、学校英語(学校が放置している英語の発音)に対置したものです。学校英語の音というのは、音の問題を放置した場合に日本人の口に(自然に)実現してし まう音のことです。これはもちろんそのままに放置したら駄目なんですが、これをくたくたになるほど使い込むと面白いことになります。以前書いた通り、「回 転読み」で口の筋肉が痛くなるほど口を動かして、「口の筋肉の柔らかさ」を獲得していくと、日本人にとっての英語の音の問題があぶり出しのようにあぶり出 されてきます。柴田さんの言われる「音と音のぶつかり合い」の問題が、「回転読み」でしっかりとあぶり出され、顕在化します。あぶり出し、問題を顕在化さ せた時点で、発音の知識を媒介にすると、一挙に音が変わっていきます。
 これをやってしまうと、私の言う「ア系列の音」の問題が残るだけとなります。
 私のレッスンも、過程をおだやかにしてそれをやっているのです。
 この過程をすっとばして、自分に「聞こえたまま」を言うとしても、音価として、「聞こえたまま」を言っていることはまったく保証されません。「聞こえた まま」を言っているつもりなのだが、実は「聞こえたままと違う音」を出していることはおおいにありうることです。音楽的なセンスがいいとか、日本語の音が 固まっていない人(多くは子供)なら、「聞こえたまま」で音価をきちんとつかまえてしまうことがありますが、多くの場合、音価として妥当かどうかを保証し てくれるものがないことになります。
 子供が英語の磁場に生まれてくるとか、英語の磁場で生き始めるのなら、パクパクさんの「カジュアルな音」でいいわけです。というより、子供にとっては 「語学的」だとか「カジュアル」だとかの区別がありません。いや、それ以前に、普通、子供の生活で「語学的」な音に触れることはないでしょう。子供には、 「語学的」と「カジュアル」の対立がないばかりでなく、真性の「聞こえるままの音」しかないわけです。(複製音声の場合、日本にいる子供には英語の磁場が ないので興味が持続しないし、英語磁場にいる子供には、絶対的な言語(生活言語)の音なので、面白がることができます。)

 このときの子供の純粋な聴覚を、ある具体的な一つの言語で音が固まった後の人(大人)の多くは、失っていると考えるのが安全だと思います。日本人の大人 が日本語の磁場で英語をやる場合、「二重に遠ざけられている」ということになります。(「英語磁場」でないというがひとつ、音価自体から遠ざけられること がもうひとつ。)
 「喪失」ということが、大人の語学の大前提です。

 で、どうするかですが、やはり、自分の口の筋肉を柔らかくする(=鍛える)ということが契機になると思います。出発点にあるのが学校英語的な音でも、文 を繰り返し言って鍛え込み、音の真形を求めていれば、口の筋肉の動きは、DVDの音を受肉できるだけの柔らかを備えていきます。それが、英語の複製音声を 「媒介」にできるようになるということです。
 「聞こえたまま」を言うことには私は反対です。「聞こえたまま」が日本語の音の範型の内側にとどまっている場合が多々あるからです。「聞こえたまま」が 子供の場合と大人の場合では、根底的に違っていることが多いのです。
 (英語)磁場に育つ子供なら何の問題もないし、子供は「聞こえたまま」を言うことを繰り返しながら、いずれ(しかも短い期間に)音の真形に「自然に」至 ります。これが起こることを何(誰)が決めているのかは、まったくわかりませんが、とにかく、子供にはこれが「自然に」起こります。それが子供にとっての 「自然」なのです。

 この「自然」を失った後の人を大人というのだというのが、私の考えです。

 いつまでも、核心を言えず、困っていますが、次のような手順が有効だと思います。
 間違いを(そんなに)気にせず、どんどん口を動かして、口の筋肉の柔らかさを作る(維持する)。その後に、複製音声を「媒介」にする。(「手本にする」 というのでもいいです。「口の筋肉の柔らかさ」を作りつつ聞く場合は、本当は「媒介」にしているのだと思います・・・)。

>・And eighty years of dust.
というセリフが出てくるのですが、私の耳には(あえてカタカナ表記をすれば)
・デイリィイヤーズアダス
という風にしか聞こえないのです。間違いかもしれませんが。

 かなり耳がいいと思いました。
 and の an は弱音になることがほとんどです。それが極端になると、気配の音になってしまい、何百万円するオーディオ機器ならはっきり聞こえるが、数万円のオーディオ 機器だと聞こえない音になるというような現象だと思います。

 弱音と言いましたが、弱音は非常に難しいです。

 強く言うんでなく、弱くていいんだから楽そうだと思う人がいるかもしれませんが、意識して弱音を言うとどうしても強くなりすぎるのです。弱音こそ、「口 の筋肉の柔らかさ」がないとどうにもならないものです。「柔らかさ」がくたくたになっていると、ああ、ここんとこは気配にしかならないんだというのが感覚 でわかります。というより、特に強調する語でない場合は、自然に気配になっていきます。話す人がどんなシチュエーションにいるかによって、気配になった り、音としてはっきりするかが決まります。

 私もまぎれもなく「語学」をやっているので、弱音を強く言いすぎるきらいは絶えずあります。しかし、そのあたりにはあんまり神経質にならないことがいい と思います。
 私はそれをうどんを食いながら英語をしゃべっていて知りました。
 Uという男(オーストリア(ドイツ語)育ちで、アメリカで10年以上在住、スピードとシンタックの根の張り方はほぼ英語ネイティブに等しい)が、よく私 の家に出入りしていた頃、Uが玄関に立ったので、Come on in. を言うのに、うどんを口に入れて、口を閉じたままそれを言ったのです。Uには、「ンンン」としか聞こえなかったはずです。Uがこたつの向こうに座って、話 し始めてからもまだ私はうどんを食っていたので、What did you say? を言うのにも「ンンンン」と言っていましたが、それで話は通じていました。すべてイントネーションだけで通じていたので、音なんか、それこそすべての音を 「ん」に変換していたのです。
 イントネーションだけで話をしていたのだから、「聞こえたまま」を言うのが練習としていいのだということになりそうですが、そうではないのです。学校英 語的な日本人の「自然」を「口の筋肉のやわらかさ」になるまで鍛えると、英語の複製音声のイントネーションが自分の口に宿るようになるのです。この過程を すっとばして、最初から「聞こえたまま」を言うことには、どうにもこうにも反対を唱えたいと思います。

>こういう場合にこういう音が消えるとか、つながって聞こえるといった知識面での裏付けを、その都度、発音関連の本などで確認し「こう聞こえるのは理論的 に間違っていない」と確かめた方が良いのでしょうか。

 そういうことをいちいちやらずに、とにかく口の筋肉を鍛え込み、「やわらかさ」を作ることだと思います。やみくもにでいいですからそれをやると、「は あ、なるほど、そう言っているね」という具合に聞こえてくるときが来ます。その前後に、発音関連の本の知識はとても役に立ちます。「やわらかさ」を作る前 に、発音関係の本を参照するのは、すすめられません。

>・デイリィイヤーズアダス
は聞き取れれば良いのであって、自分が口にするときに聞こえた通りに真似する必要はなく、つまりリスニング用の練習とスピーキング用の練習とを分け、ス ピーキング用としては
・エンディエイティーイヤーズオヴダスト
という風に、学習用教材っぽい感じに頭の中で修正して練習するのが無難なのでしょうか?

 「聞き取れれば良い」というので大正解だと思います。
 練習としては、「カジュアル」な音は、媒介物です。

>あるいは「口にできない音は聞こえもしない」という方もいますが、
・デイリィイヤーズアダス
と口に出すことを普段から練習しないと聞き取ることもできない、と考えるべきでしょうか?

 私も「口にできない音は聞こえもしない」と考える者ですが、複製音声を「聞こえるまま」に言っても、「口にできない」とも考えています。それが日本人の 自然なのだと思います。複製音声を最初から「お手本」にするのではなく、日本人の「口の筋肉の自然」が作る音を鍛え込むことで、ネイティヴ音が根付くため の「やわらかさ」を作ることが先だということです。
 宣伝になってしまいますが、私のレッスンを受け始めた方が、2,3ヶ月して言われることは、「レッスンでやったところははっきり聞き取れる」という感想 です。
 こう書くと、私がよっぽど英語を聴き取るのができるかのように聞こえるかもしれませんが、事実はまるで違い、私は四苦八苦しています。
 聴き取りも、英単語を一つずつものにしていくようなものです。単位が単語単位ではなく、フレーズ単位になるのが大きく違いますが・・・。いまだに私は英 単語を一つずつものにしていくことをやっており、それを聴き取りの方に大きくシフトしようという態勢になっていません。多分寿命が足りません。(鯉釣りに 10数年入れ込んだのがいけませんでした。それと、自宅を自作したのも・・・)

>実際にこういう教材を前にしてみますと、音の問題というのが考えていたよりもずっと大事な問題なのだと感じます。

 「一部の英語難民」という感じのことを書かれたことがありましたが、私は「一部の」という形容語句は必要ないと考えています。
 「一部の」という語を使うなら、「一部の英語磁場に渡った後日本語磁場に戻った難民」というふうに使いたいと思います。彼らの方が、よっぽど難民だと思 います。
 「英語難民」は日本人のほとんどすべての人をさす言葉だと思っています。
 文部科学省の罪が根底にあるのです。
 「音」を放置しつづけた犯罪があります。語学的には明らかに犯罪です。



【12182】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月24日(月)21時15分3秒

ご回答ありがとうございます。口を動かすことと耳との関係の糸口が少し見えてきました。「パクパクさん」で検索して

> 多くの方は、シャドウイングなりなんなり、複製音声を聞いて、それと同じように言ってみようという練習をされるのではないかと思うのですが、私の場合 は、聞くときはずっと聞くだけ。「回転読み」で自分の口を動かす時は、そればっかりをやります。(329. あたりまえのことをやるだけ 投稿者:根石吉久  投稿日: 7月15日(日)03時42分09秒)

を見つけました。過去ログは、ほんとうに英語学習に関する宝庫ですね。他にもたくさんお宝発言がありそうですが、とりあえず自分がとるべき方法がわりまし たので、やりながら色々と探してみようと思います。



【12184】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月26日(水)03時10分11秒

 明治期の漢語の多い日本語の素読のことを考えています。
 引用して下さった部分は、キモの部分ではないと思いました。
 キモの部分は、提示しても、ほとんどの人に「なんじゃこれ!」と思われるか、笑われるようなところにあると思います。

 らくださん宛ての記事に書きましたが、私は鯉釣りに狂ったことのある男です。
 千曲川は、土手の上を車で走って見ていると、浅瀬ばかりのように見える川ですが、実は2メートルを越える淵があり、この淵をねぐらとして、巨大な鯉が棲 んでいます。私が釣り上げたので最大のものは80センチほどのものですが、1メートルを越えるものがごくたまに釣り上げられます。リールという邪悪な装置 ができたせいです。一度、60センチを越えるやつを釣り上げたとき、回転するリールの糸を指で押さえて。摩擦で鯉の走りを弱めようとしたところ、火傷しま した。
 それと、自宅自作がいけませんでした。その間、中学生・高校生の英語の面倒は見ることができましたが、自宅ができるまでは、上級者のレッスンはとても じゃないができませんでした。
 今も英語の練習をしていて、これが実にくたびれて、口の筋肉のへとへとと同時に、体力的にへとへとになっています。いまだ、(のんびりと)教材を作り続 けているので、日本語の素読にいつとりかかれるかわかりません。生きているうちに、matsu さんとお手合わせを願えたらとは思っています。

 素読は一人でやるものではないので、清澤のものをテキストに、息子さんと始められたらどうかと思いました。
 もしやられた場合は、その経過をこの掲示板にご報告願えれば、現今の日本人のためになる知識が得られると思います。



【12186】
らくださん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月27日(木)20時13分23秒

>80年代からこっち、そんな空疎な時代が続いており、それがここ数年は目に見える形で噴出しつつある、という感覚があります。

僕も、ちょうど80年に大学に入学した世代なので、らくださんが言われることはわかるような気がします。
ただ、自分が自己形成し、生きてきた時代というのは、まさにその「空虚な時代」だったので、あまりそれを突き放して語れない、という思いもあります。
根石さんの世代とは、10年ばかりの差なのですが、体験的には、かなり大きな断絶があるという印象です。
むしろより若い世代との間に、良かれ悪しかれ共通項が多いかもしれません。

80年代以降の精神史として、より若い世代の批評としては、数年前話題になった、北田暁大の『嗤う日本のナショナリズム』には感心して、学ぶところが多 かったです。
ただ、わざと小難しく書いているみたいなところがあって、好悪がわかれるとは思いますが。



【12187】
集中力の授業 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月27日(木)20時57分24秒

福岡ローカルの新聞に、以下のような公立中学校の授業の紹介記事がありました。

>授業の様子はこうです。担当する国語の授業で、ある生徒が教科書を音読します。他の生徒は静かに聞きながら、読み間違いに気付いたら切りのいいところで 手を挙げて合図し、間違った部分を含む一節をこの生徒が読みます。この指摘を受けて、最初の生徒がこの部分を再び読みますが、思い込みや先入観があるため 間違いに気付かず、同じ失敗をすることがあります。
するとまた、指摘した生徒がその部分を読んでみせ、最初の生徒がまた読む。こんな風に繰り返します。読む側も聞く側も双方が集中し、教室はピーンと張りつ めた空気になります。
>本当に集中して50分間の授業が終えると、生徒たちも私もかなり疲れるので毎回できるものではありませんが、何度か繰り返すと劇的な効果が表れます。
>私の教師生活は来年度が最後。「集中力の授業」を誰かにきちんと伝え残したいと思っています。

全く不案内な分野なので、あてずっぽうの感想でしかありませんが、
 「読み」だけに集中して、読みの間違いの修正も「読み」で返すという徹底ぶり。
 「読み」への集中が、教師、生徒ともにへとへとになることを指摘している点。
 「読み」のみの訓練が、成績にも十分な効果をもたらすとしている点。
などで、新鮮な印象を持ちました。
この先生自身の認識としては、集中力の養成、ということに比重があるようですが、学校現場における素読の取り組みとして、注目すべき実践であるように思い ました。



【12189】
matsuさん 投稿者:らくだ 投稿日: 2007年12月28日(金)11時04分56秒

ひょっとすると同級生かもしれませんね。

北田暁大は、宮台真司との対談『限界の思考〜空虚な時代を生き抜くための社会学』を読んだだけで、話題作の『嗤う日本のナショナリズム』は「読みたい本リ スト」に入れたままで、まだ手が付いていません。読んでみます。

>わざと小難しく書いているみたいなところがあって

小難しく、というのは確かにあるかもしれませんが、社会学系のものは、やさしく書いてくれていても、最低限の思想史がわかっていないと、なかなか消化しき れないですね。でも、得るところは多いと思います。

ちなみに、matsuさんが根石さんの『暮らしの手帳』を

>抱腹絶倒のエッセイ満載

と書かれていたのでamazonで即注文。昨日届きましたので、正月の酒の肴にさせてもらおうと思っています。



【12190】
らくださん 投稿者:matsu 投稿日: 2007年12月28日(金)19時31分57秒

『嗤う日本』については、読書会のレポーターをしたので、やや詳細に読みました。
次々にキイワードが投入されるのですが、それらの定義が一貫していないというか、少しずつ言い換えていくのが、読みにくかったと記憶してます。
他の本では、もっと明晰判明な書き方をしていたので、書法上の戦略があるのかもしれません。
最大の共感点は、テレビ批評の消しゴム版画家ナンシー関を、90年代の批評史、精神史のなかで最大限に評価しているところです。

らくださんも、同級生というなら、きっとおもしろく読めるだろうと思います。



【12193】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年12月31日(月)03時12分17秒

 ただいま、ゲッツ板谷「インド怪人紀行」を読んでいます。
 吉本・柄谷みたいな思想書も読むことは読むのですが、自分でアジア本と呼んでいるジャンルの本をたくさん買う癖があります。
 今読んでいるゲッツの本に出てくるカモちゃんというのが、今でも夫婦かどうか知りませんが、西原理恵子の旦那です。このカモちゃんが書いた本を先日 105円で手に入れ、読んだところ実に面白かったです。西原の絵も、はあなるほどと初めて思い、いいじゃないかと初めて思いました。
 下手な小説は読めたもんじゃないとも思いました。が、本のタイトルを忘れてしまいました。村田君に貸したので手元にありません。



【12195】
よいお年を 投稿者:村田 投稿日: 2008年 1月 1日(火)00時02分45秒

今年もほんとうに最後になりました。
お世話になった方々、ありがとうございました。
掲示板に来られた方、書き込みされた方、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。

根石さんへ
西原理恵子の本のタイトルは「アジアパー伝」でした。

私はアメリカ南部へ行きたいと思っています。



【12197】
今年のテーマの提案 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月 6日(日)03時11分47秒

 これまで、特に一年のテーマというものを決めずにこの掲示板を営んできましたが、今年はテーマというやつでやってみたいような気がしました。

 「コンピュータを英語学習にどう活用するか」を提案したいと思います。

 小学館文庫「英語どんでん・・・」に書いた技法のうち、主に「回転読み」について長いことこの掲示板で議論したり、説明したりしてきました。日本の英語 学習状況は、今も混迷のうちにあり、小学生に「音づくり」をやらせないまま、小学校の教室をごそまつな英会話教室にするような指示を文部科学省が出してい るようなていたらくです。NOVA が本質をさらした後でも、お馬鹿さんたちは英会話学校に行くでしょう。「文まるごとの音づくり=インプット」は今も放置されたままです。
 日本の英語学習状況の泥沼は、現在も何も変わっていませんが、そろそろ、「回転読み」から「電圧装置」の方へ議論の場、検討の場を移していきたいと思い ます。「回転読み」については、過去ログさえ整理されれば、かなりな部分が議論されたことがはっきりするでしょう。

 「コンピュータを英語学習にどう活用するか」と言うと、それによって思いつくことは人さまざまでしょうが、私は、「電圧装置」の原理と結びつけて考えて います。知識量を増やすと同時に、知識を感覚やイメージに変える過程が「電圧装置」です。といいますか、「電圧装置」を経た後の、「切断読み」です。

 とぎれとぎれながら、新しい練習方法を試しています。
 それを公開しながら、皆さんに「電圧装置」→「切断読み」を実験してみていただきたいと思っています。この掲示板を読まれる方や私の生徒さんのほとんど 全員が、コンピュータを使っているわけですから、「コンピュータを英語学習にどう活用するか」を論じながら、「電圧装置」、「切断読み」の威力を知ってい ただくことを主眼としてみたいと思います。



【12202】
メール転載 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月 8日(火)01時24分53秒

 お返事ありがとうございます。

> アマゾンのマーケットプレイスで
> 送料込みで598円でした。

 お教えくださりありがとうございました。そんなもんですよね。なんでいきなり
1万なんぼなんぞという値がついたのかわけがわかりませんでした。

>私は一応中学の英語の教師をしていました。

 ああ、そうでしたか。学校の先生と塾をやっている者との垣根を取り払えればい
いですね。
 英語の先生にはレッスンの全体としての組成を知っていただきたいと思いますが、
それは、一ヶ月間の「無料お試し」では無理です。「無料お試し」で知っていただ
くことができるのは、「音づくり=文まるごとのインプット」のとば口だけです。
 是非、「大風呂敷」でお話したいと思っております。なんらかの形で、素読舎の
方法を生かしていただけるのではないかという期待を持ってしまいました。

> 訳あって、現在特別支援学校に勤務しています。
> 部活動の指導が無くなり、土日が自分の時間として
> 使える様になりました。何年勤務するのか私には
> 分かりません。

 特別支援学校というのがどんなものなのか知りません。お教えいただけたら幸い
です。

> 特別支援学校からまた中学校か、小学校に
> 勤務することになったときに、大風呂敷に
> 出て来る柴田武史さんの「音作りの道」に
> 出てくる普通の学校の授業は、カムバックしたら
> やりたく無いと思いました。

 現状では厳しい道だと思いますが、「やりたくない」ことを貫くことをやってい
ただきたく思います。柴田さんも、管理職と対立しながらやられました。

> 現職ですから塾は開けないのですが
> 塾生ゼロ人の塾を開いて、その教材を素読しようと
> 思った次第です。

 その教材というのは、「回転読み」を吹き込んだもののことでしょうか。
 すでに販売を中止したテープは、教材ではありません。「回転読み」をわかって
もらおうとして作成したものです。(実際に自分の口を動かさないで、耳で聞いて
も「回転読み」はわかってもらえないとわかり販売を中止しましたが・・・)
 「塾生ゼロ人の塾を開」くというところがよくわかりませんでしたが、お金をも
らわず塾をやるのもやはり、現職の先生には禁じられているのでしょうか。お金を
もらわないなら構わないというのでしたら、塾をやられたらいいと思いました。
 中級初期くらいの生徒からを対象にした、「イメージ核受肉教材」というものが
あります。これは文字通り教材です。1000円分の郵便小為替をお送りいただけ
ば、お送りできます。「電話でレッスン」の生徒さんが使っているものです。
 ただ、この教材をお求めになる方にはどなたにもあらかじめお断りしているので
すが、一見しただけだと、「なんじゃこれ?」と思われて終わりになることが多々
あります。膨大な教材ですが、その構造がわかりにくいのです。レッスンを長く継
続された方が、「なるほど、こういう作り方をしてあるのは、そういうわけだった
のか」と言って下さることはあります。
 興味がおありでしたら、再度メールをいただくか、「大風呂敷」の方にその旨お
書きいただけばお送りします。住所をお知らせいただいていますので、代金は後か
らでも結構です。

> 先生のところに行き着く前に、
> 教科書の音読はやってきました。國弘正雄氏の本の影響。

 國弘さんの「朗読」や一般の「音読」と、私の方法が違うところがあるとすれば、
「音づくり=文まるごとのインプット」という時の、「音づくり」という項目の有
無にあると思います。また、柴田さんの方法には「音作り」という項目があります
が、柴田さんの勤務されるような「優秀」な生徒を集めた学校でならともかく、一
般の学校でやると、「内容を理解してもいず、文法もわかっていない」状態で、音
読の音の部分だけが発達することになりがちです。
 「イメージ核受肉教材」には、文法も書いてあります。文法理解、文構造理解に
もはっきり立ち入る教材です。それを自作しているかいないかが、私と柴田さんの
違うところかと思います。柴田さんは、文法理解については、教科書ガイドを買わ
せて自分で読んでおけと言っておけば済むと言われていますが、私はどうもそんな
ものではないだろうと考えています。
 これは本質的には、「順序」の問題です。順序そのものは、柴田さんの考えと私
の考えはまったく同じです。「文法」の扱いが違います。
 「音づくり」もできていないのに、文法をやるという順序が間違っているという
のが、私と柴田さんの同じところで、「音づくり」さえきちんとできていれば、文
法は文法でまともに扱う必要があるというのが私の考えです。しかし、両方を学校
でやることはとうてい不可能だろうとも思っています。その意味で、柴田さんの授
業が「現在の学校がやれる最良の授業」だという考えは今も同じです。
 私の方法でも、文法は生徒の自習にまかせておくという一点に関しては柴田さん
と同じですが、私には文法理解のための「電圧装置」「回転書き」「切断読み」と
いう方法が背後にありますので、それらにもっとも適合しやすい教材として、「イ
メージ核受肉教材」というのを自作してきました。それが違いとなると思います。

> 教師に成り立ての頃は、未来塾に通いたくて、部活の
> 指導を理由に行けませんでした。
> 時は流れて、中津僚子さんは高齢になり、今は
> 弟子さんたちが続けているそうです。ここも
> 音作りから英語に入るそうです。

 どうもよくわかっていなくて、以前に「大風呂敷」で中津僚子と他の人とを混同
し、ののしったことがあったような気がします。中津という人は「どうして英語や
るの?」というようなタイトルの本を書いた人でしたでしょうか。パクパクさんと
いう人や私の生徒さんで、口にタオルを入れられて音の矯正をさせられたというこ
とを聞いていますが、そんなことをやるような人でしょうか。本家本元信仰の強い
人なんだなという反感が強くあります。クレオールや「第三項」の価値がわからな
い人なんだな、英語フリークにはありがちないやなやつだなと思ったことがありま
した。いつでも喧嘩の相手になってやろうと思っていますが、あちらさまは大人で
しょうから、喧嘩にはのってこないでしょう。
 本家本元信仰では、アメリカなりイギリスの音と同じ音を出させることが「音づ
くり」なんでしょうが、これは原理的に破綻しています。一つの言語しか持たない
人と、二つの言語を持つ人とでは、自然に音が違ってくることを無視した信仰です。
 「ネイティヴ」ということをあまりに簡単に考えるから、口にタオルなどつっこ
ませるような迷妄に陥るのだという批判が私にあります。しかし、いまだ、私が混
同していて、中津僚子ではなく他の人のことを批判しているのかもしれません。私
は、二流以下の文化人の名前を覚えるのがとても下手ですので、混同していたら、
いつでも謝罪したうえで訂正したいと思います。

 多少、酒が入ったせいで、語学論をやり始めてしまいました。
 掲示板の方に転載させていただくことをご承知いただきたくお願いいたします。

根石吉久



【12203】
加藤恭子さんと中津燎子さん 投稿者:村田 投稿日: 2008年 1月 8日(火)21時57分13秒

中津燎子さんの名前が出てくるのは過去ログ【10302】あたりですね。
(http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/log/10301-10400.html)

中津燎子さんの「英語と運命」という本の書評(amazon.co.jp)でこう書いている人がいました。

>加藤恭子氏とおなじ大正末期〜昭和一桁生まれで、
>米国で働いて艱難辛苦英語を身につけた中津先生の自伝的半生記
>であります。

これを読んで、加藤さんと中津さんは同じ年代の人なので、「業界」では時として並び称されることもあるのではないかと思いました。根石さんが問題にしてい る人は、やはり中津燎子さんではないでしょうか。

・中津燎子さん略歴
(http://nakatsu-miraijuku.com/history.htmlより)
1925年、福岡市に生まれる。2歳から12歳まで旧ソ連のウラジオストックにて過ごす。1936年、日本に帰国。1956年から1965年、滞米。帰国 後、英語塾を開く。そのときの体験を書いた『なんで英語やるの?』で第5回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
ことばの後ろにある文化を理解すること無しに、ことばを学ぶことはできないという考えから、異文化コミュニケーションを訓練する未来塾を始める。
2000年3月まで、宮崎公立大学で英語発音発声訓練を指導。未来塾顧問。最新刊「英語と運命」(2005年12月 三五館)。

・加藤恭子さん略歴
(http://www.sakamura-lab.org/tachibana/hatachi/katouk.html)
 一九二九年生まれ。一九四九年、早稲田大学仏文科に入学し、翌年結婚。一九五三年、早稲田を卒業後、夫婦でカリフォルニア大学に留学。ハウスキーパーを して生活費を稼ぎながら学ぶ。一九五五年にワシントン大学に移り、一九五七年、マスター・オブ・アーツの称号を取得。一九五九年、奨学金を得てフランスに 渡り、ナンシイ大学に留学。デイプロム・デチュード・シュペリュールを受ける。その後、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学院で勉強を続けたのち、一九六 一年帰国。一九六五年、早稲田大学博士課程を修了し、渡米、マサチューセッツ大学の特別研究員となる。一九七二年に帰国。現在、上智大学コミュニティ・カ レッジ講師。『大酋長フィリップ王』(春秋社)、『アメリカへ行った僚子』(中公文庫)、『ヨーロッパ心の旅』(原書房・共著・ロゲンドルフ賞受賞)、 『日本を愛した科学者』(ジャパンタイムズ・日本エッセイストクラブ賞受賞)、『こんなふうに英語をやったら?』(中公文庫)、『英語小論文の書き方』 (講談社現代新書)など、著書多数。



【12204】
メール転載 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月11日(金)00時42分7秒

お返事ありがとうございました。

> うまく説明はできませんが、「日本人の日本人による
> 英語」を志している本なのかなと思います。

 「日本人の日本人による英語」を作るのであれば、なんで口にタオル
などつっこんで矯正するなんてことをするのか、わけがわかりませんで
した。多分 r 音を獲得させるためだと思いますが。もっとも、タオル
云々は、人から聞いた話で、私が現場で確認したわけではありません。

> 直接原典にあたるとダイレクトに伝わるかも知れません。
> お節介ですが素読舎に「何で英語やるの」の配送を手配しておきました。
> 受け取っていただけたら幸いです。

 ありがとうございます。

> 発音をやり直したいと思ったのは、
> 教室では自分が生徒の発音のモデルになると思います。
> そのモデルの発音が、いい加減だと生徒が
> そのいい加減の発音の再生産をしてしまうと思った
> からです。

 これは、大風呂敷で議論し尽くした問題ですが、先生の音が「いい加減」
ではまずいけれども、非常にうまい場合でも問題は残ります。「いい加減」
は再生産されるけれども、「うまい」は再生産されるとは限りません。
 先生が発音に関して問題がなくても、生徒が日本語の音で英語音を代置す
ることはまず防げません。ここに、個々の音や音のぶつかりあいに関して、
「どう指示するか」という問題があります。
 本当は、この問題があらゆる英語教育機関で共有されないと解決しません。
指示の仕方はまだ何ひとつできていないと考えています。柴田さんから大き
なヒントをいただいて、私は私なりのものを作りましたが、今のところ、私
のレッスンで使用しているだけです。
 特に、「あいうえおフォニックス」は「ア系列(日本人の耳がアという音
として聴き取る音)」に関して、特効薬になるかと自負しています。

> 「イメージ核受肉教材」は、まだ希望しません。
> 心の準備ができたら再度メールしたいと思います。

 わかりました。

根石吉久



【12205】
メール転載 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月11日(金)19時37分21秒

 Yさん経由でレッスンの問い合わせがありました。メールへのお返事を以下に
転載します。レッスン開始時の連絡事項には共通事項が多いのですが、この共通
事項によって、どんな感じでレッスンが開始されるのかを推察していただければ
と思ってのことです。
------------------------------------------------------

 お返事ありがとうございます。
 9時半でもよろしいとのこと承知しました。

 2月開始でよろしいでしょうか。
 それまでに準備していただくことは、一年数ヶ月語に入学予定の
中学の英語の教科書を一冊準備していただくことと、その教科書名
をこちらに教えていただくことです。
 それだけしていただけば、レッスンを開始することができます。

 ご存知かと思いますが、私が開設している「大風呂敷」という掲
示板があります。小学生時から英語をやらせることの是非について
かなり議論がありましたので、レッスンを開始されて半年おきくら
いで結構ですので、お母さんから見たお子さんの様子を「大風呂敷」
にご報告いただけたらと思っています。
 私は、素読を元に据えた方法に限り、小学生から英語をやること
はまったくかまわないと掲示板で発言しております。
 「音作り」を外した文部科学省の方針(小学校の教室を粗末な英
会話教室に変えること)には反対だとも言明してきました。
 レッスンを使って下さる方(やその父兄)から、報告をいただけ
るとうれしく思います。

 レッスン開始時は、こちらからそちらの電話を4,5回鳴らし、
いったん電話を切りますので、そちらから

026−・・・−・・・・

に電話をしていただきます。

 休みの規約等、以下の通りです。

・土曜日夜9時半〜10時
・盆、正月に一回のお休みをいただく。
・月4回を基本とする(同じ曜日が5回あるときは、1回分をプール
 し、後でお休みをいただくときに使わせていただく)

・月額 12000円
・郵便貯金総合通帳
記号 11180
番号 21641261
名前 根石吉久



【12207】
息子のレッスン 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 1月12日(土)12時22分40秒

だいぶ遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。

> レッスンを使って下さる方(やその父兄)から、報告をいただけ
るとうれしく思います。

小6の息子のレッスンですが、始めてまだ1ヶ月程度のため、ご報告には早いと思っていたのですが、ここまでに感じたことを少しご報告しておきたいと思いま す。

前に書きましたが、レッスン初日を終わった時点で息子が口にする音を聞き「ああ、英語の音の世界に入っていったんだな」と感じました。中学校で英語を始め たら、間違いなくカタカナ英語になると思われますが、始めて接する英語の音が、すでにしてカタカナ英語ではない。当たり前のことですが、その実感は強烈な ものです。

ちょうど今朝、家内が始めてレッスンについてコメントしていました。「根石先生のレッスン、いいよ。」

時々、息子が覚えたフレーズを口ずさみます。まだ全然なんだとは思いますが、それでも我々にこびりついているカタカナ英語と全く違うことを家内も実感し て、スゴイと思ったようです。

だから言っただろーが、財務大臣よ。予算組んで正解だべ。

また、中学生になって、それっぽい音を出すことが恥ずかしい、と感じる前に始めることは、かなりプラスなのではないか、との家内の弁。

良いこと言うじゃねーの。奥様。

小学生から英語をやるのが良いとか悪いとかいう議論は、それによって日本語が破壊されるかどうか、という視点と、習い事で子供から自由や遊ぶ時間を奪う云 々、という2つの視点があるかと思います。

前者については、根石さんの理論を信じるしかありませんが、説得力のあるものと直感しています。後者については、そもそも、学校が主であり、習い事が従と いう発想そのものを疑ってかかる必要もあるのではないかと私は考えています。

塾やお稽古が主で、学校は社交場にすぎんよ。そんな見方があっても良いのではないかと。とオヤジが考える以前に、息子はそう思っているフシがありますが。



【12208】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月13日(日)02時13分39秒

>だいぶ遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。

 こちらこそよろしくお願い致します。

>前に書きましたが、レッスン初日を終わった時点で息子が口にする音を聞き「ああ、英語の音の世界に入っていったんだな」と感じました。中学校で英語を始 めたら、間違いなくカタカナ英語になると思われますが、始めて接する英語の音が、すでにしてカタカナ英語ではない。当たり前のことですが、その実感は強烈 なものです。

 まだ大部分は日本語で作られた口の筋肉だけで発音していますが、少しずつ英語用に筋肉ができていくと思います。
 一ヶ月での感想をありがとうございました。
 三ヶ月くらいたったら、再度お願いしたいと思います。

>ちょうど今朝、家内が始めてレッスンについてコメントしていました。「根石先生のレッスン、いいよ。」

 ほっとしました。

>だから言っただろーが、財務大臣よ。予算組んで正解だべ。

 レッスンを始める前は、奥様にとっては、海のものとも山のものともつかないものだっただろうと思いますが、それに予算を組んで下さったことに感謝してい ます。

>また、中学生になって、それっぽい音を出すことが恥ずかしい、と感じる前に始めることは、かなりプラスなのではないか、との家内の弁。

 私が作ろうとしているのは、「その音」であり、「それっぽい音」ではありません。ですが、中学に入ると、「それっぽい音」扱いされることがあるかもしれ ません。そこで、「その音」で貫けるかどうかという余計な苦労が日本の学校では生じます。ここをどう闘うかという問題が生じます。「それっぽい音」扱いさ れた場合は、お父さんが学校の英語の先生とゆっくりと話しあっていただく必要が生じるかもしれません。犯罪組織・文部科学省がやっていることには、言葉に して抗議する必要が生じるかもしれません。
 もしそんな必要が生じた場合は、この掲示板に経過をすべて書かれるのがいいと思います。

>小学生から英語をやるのが良いとか悪いとかいう議論は、それによって日本語が破壊されるかどうか、という視点と、習い事で子供から自由や遊ぶ時間を奪う 云々、という2つの視点があるかと思います。

 そうです。この二つの視点があると思います。素読を元にしたレッスンでは、英語の文まるごとを「冷凍もの、干物、ミイラ、死物、仮死状態」などにいたし ますので、害が生じません。日本語は、その外側=日常の時空間で正常に育ちます。
 習い事で子供から時間を奪うというこっちが本当に重大問題だと思います。
 親に眼があるかないかだと思います。何を選ぶべきかは、眼がないと決まりませんので。
 手前味噌ですが、習い事の二つや三つ削って、「電話でレッスン」を選択してもらいたいものだと思っています。

 今日、空き枠がすべて埋まりましたので、Yさんがコーチを退かれたのが、やはり残念です。ミッフィーさんの他、Naima さん、Yさん級の人が今の生徒さんにいませんので、今後もしレッスンを希望する生徒さんが現れたら、どうしたらいいのか途方にくれています。ミッフィーさ んは、公立の高校の英語の先生ですので、「電話でレッスン」のコーチをお願いできません。
 この春、もし生徒さんが現れたら、予約制にでもするしかないと思っています。

>後者については、そもそも、学校が主であり、習い事が従という発想そのものを疑ってかかる必要もあるのではないかと私は考えています。

 それで本来なのですが、子供は学校に行かなくてはならないので、学校が負担を作り出します。理論としては、らくださんの理論で、理念になります。

>塾やお稽古が主で、学校は社交場にすぎんよ。そんな見方があっても良いのではないかと。とオヤジが考える以前に、息子はそう思っているフシがあります が。

 息子さんに大いに期待しています。
 多分、「その音」でやってくれるお子さんだろうと思います。



【12209】
「電話でレッスン」を申し込まれた場合、次のようなメールでのやりとりがあります。 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 1月13日(日)02時23分41秒

 返信ありがとうございました。

> 2月から開始ということと、レッスンの子供の様子の報告の事承知いたしました。

 よろしくお願いいたします。

> 初回は2月2日の土曜日ですね。

 はい。当日、こちらからお教えいただいた電話に電話し、数回鳴らして切りますの
で、そちらから 026−・・・−・・・・に電話をしていただきます。

> 質問や分からない事が始めてみてから出てくると思いますが、そのときは
> 「大風呂敷」でお伺いしたほうがよろしいのでしょうか。
> それともこのメールでもよろしいのでしょうか。

 個別・特殊な問題はメールがいいと思いますが、多くの場合、「日本語で生活しな
がら持つべき英語」「音作りをすっとばす学校英語」というところから出てくる問題
としてメスを入れれば、他の方の役に立つことがあると思います。適宜ご判断いた
だければうれしく思います。

> 教科書の準備が整ったら又連絡をします。

 教科書の名前がわかり次第お教えくださるようお願い致します。
 ニューホライズンかニュークラウンのようなメジャーなものでしたら、こちらに手
持ちがありますので、あわてなくていいのですが、他の教科書でしたら、注文して手
に入れなくてはならず、こちらの書店に注文を入れてから10日から2週間くらいか
かります。
 ニューホライズンかニュークラウンでなかった場合、そちらで教科書を手に入れる
時、二冊買っていただくことをお願いできますでしょうか。二冊のうち一冊をお子さ
ん用に手元に置かれ、一冊を私用に下記に送っていただければ、田舎の書店を相手に
焦らなくて済みますので、やっていただけるなら、お願いしてしまいたいのですが・
・・。その場合、書籍代、送料等を最初のレッスン代金12000円から差し引いて
いただきたく思います。

 ニューホライズンかニュークラウンであった場合は、一冊だけ手に入れていただき、
私には教科書名をお知らせくださるだけで結構です。

387−0015 千曲市鋳物師屋642−3 根石吉久

 ご連絡をお待ちしています。



【12213】
皆様 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月18日(金)02時30分13秒

皆様

 スカイプ用にカメラを買い、先ほど設置しました。
 今日、村田君が私の家に来たので、二階のパソコンと一階のパソコンをスカイプでつなぎ、映像を調整しましたが、まあ、しょせんこんなもんかという程度の 映像はスカイプで公開できるようになりました。
 私の机上で行われるものは、「電話でレッスン」と、自分用の練習と、教材作りです。
 この3つのうちのどれかをやっている時は、私の机上にカメラを向けておいて、机上を公開してしまおうかとは前から思ってました。2,3日前、酔った出来 心でカメラを買いました。ネットで注文しました。2千円ちょっとでした。Logicool の製品で、店は amazon.co.jp です。
 「電話でレッスン」は、口で説明しても、文章に書いて説明しても、どうにもわかってもらえないことが多く、だったら実況中継しちゃったらどうだとは以前 から考えていたことでした。ベトナムのハノイと日本をスカイプで結んで、ちえさんのレッスンを開始した初日、スカイプの画面上にちえさんの顔が表示された ことがあり、非常にびっくりしたことを今でも鮮明に覚えています。その時は、音声の質を最優先したかったため、パソコンからカメラを切り離してもらいまし たが、スカイプで相手のパソコンに映像を表示できるのだということはしっかりと頭に残りました。いつか私の机上を公開してみようかと、その時以来考えてい ました。
 設置は非常に簡単でした。ウインドウズXPが備えているドライバが認識され、スカイプがカメラを認識しました。こちらがやったことは、カメラをUSBの 受け口に接続し、スカイプを立ち上げただけでした。
 画像の質は非常に不満です。パソコンの画面上の文字も、「回転書き」で私が紙の上にボールペンで書く字も、カメラは拾うことはできません。それでも、 「回転読み」と「回転書き」の接点は、概念としてはわかってもらえるだろうと思っています。
 「公開」とは言うものの(「大風呂敷」もそうですが)、荒しが入ることがしばしばあります。ですので、公開手続きをしていただいた上で公開していこうと 思います。

 公開するにあたって、傍聴される方、アドバイスを受けられる方、質問される方へのお願いがあります。感想を「大風呂敷」に書いていただくことです。これ を前提に、傍聴その他をお願い致します。

------------------------------------------------------
・「電話でレッスン」の公開手続き

 公開するレッスンの曜日時間帯をこの掲示板でお知らせします。公開に同意していただいた生徒さんのレッスンのみを公開します。

 レッスンしている時は、スカイプを使ってレッスンの様子を傍聴される方と私がお話することはできません。私のスカイプで、ヴォリュームを絞り、傍聴され ている方が何か話されても私には聞こえない状態にしておきます。スカイプで傍聴しておられる方同士がお話することは多分できるはずです。私の方では、「会 議電話を作成」という機能を立ち上げておき、発信された方が確認できたら、「会議電話」にお迎えします。
 荒しを排除するため、傍聴される前に以下の手続きをお願いします。

・あらかじめ下記のメールアドレスに、スカイプ名・氏名・住所・電話番号を書いてお申し込み下さい。(現在の生徒さんの紹介による場合は、その旨お書き添 え下さい。)こちらの「スカイプ名」を返信します。

9031oiurekjfdsm@infoseek.jp

・レッスンの当日申し込まれた場合は、傍聴していただくための手続きを私が完了できません。数日前にお申し込み下さい。「何月何日何曜日何時何分からスカ イプ接続で傍聴希望」と明記して下さい。

(お送りいただいたデータは、現在は特に使用する予定はありませんが、将来メールマガジンを発行した時に使わせていただくかもしれません。)
------------------------------------------------------
・自分(根石吉久)の練習方法・公開手続き

・練習を始める直前に、この掲示板にその旨書きます。

・あらかじめ下記のメールアドレスに、スカイプ名・氏名・住所・電話番号を書いてお申し込み下さい。(現在の生徒さんの紹介による場合は、その旨お書き添 え下さい。)こちらの「スカイプ名」を返信します。

9031oiurekjfdsm@infoseek.jp

・練習途中でも、スカイプの会議電話が受け付けられる限りの人数まで受け付けます。多くの場合、お話はできませんので、掲示板上で質問等をお願いします。

(お送りいただいたデータは、現在は特に使用する予定はありませんが、将来メールマガジンを発行した時に使わせていただくかもしれません。)
------------------------------------------------------
・教材作り・公開手続き

・教材作りを始める直前に、この掲示板にその旨書きます。

・あらかじめ下記のメールアドレスに、スカイプ名・氏名・住所・電話番号を書いてお申し込み下さい。(現在の生徒さんの紹介による場合は、その旨お書き添 え下さい。)こちらの「スカイプ名」を返信します。

9031oiurekjfdsm@infoseek.jp

・途中でも、スカイプの会議電話が受け付けられる限りの人数まで受け付けます。多くの場合、お話はできませんので、掲示板上で質問等をお願いします。

(お送りいただいたデータは、現在は特に使用する予定はありませんが、将来メールマガジンを発行した時に使わせていただくかもしれません。)
------------------------------------------------------

 以上は暫定的なものです。
 やってみて、順次変えていく予定です。

 以上お知らせです。よろしくお願い致します。



【12215】
公開規約書き換え 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月18日(金)12時10分30秒

・「電話でレッスン」の公開手続き

 公開するレッスンの曜日時間帯をこの掲示板でお知らせします。公開に同意していただいた生徒さんのレッスンのみを公開します。

 レッスンしている時は、スカイプを使ってレッスンの様子を傍聴される方と私がお話することはできません。私のスカイプで、ヴォリュームを絞り、傍聴され ている方が何か話されても私には聞こえない状態にしておきます。スカイプで傍聴しておられる方同士がお話することは多分できるはずです。私の方では、「会 議電話を作成」という機能を立ち上げておき、発信された方が確認できたら、「会議電話」にお迎えします。
 荒しを排除するため、傍聴される前に以下の手続きをお願いします。

・あらかじめ下記のメールアドレスに、スカイプ名・氏名・住所・電話番号を書いてお申し込み下さい。(現在の生徒さんの紹介による場合は、その旨お書き添 え下さい。)こちらの「スカイプ名」を返信します。

9031oiurekjfdsm@infoseek.jp

・レッスンの当日申し込まれた場合は、傍聴していただくための手続きを私が完了できません。数日前にお申し込み下さい。「何月何日何曜日何時何分からスカ イプ接続で傍聴希望」と明記して下さい。

(お送りいただいたデータは、現在は特に使用する予定はありませんが、将来メールマガジンを発行した時に使わせていただくかもしれません。)
------------------------------------------------------
・自分(根石吉久)の練習方法・公開手続き

・練習を始める直前に、この掲示板にその旨書きます。

・あらかじめ下記のメールアドレスに、スカイプ名・氏名・住所・電話番号を書いてお申し込み下さい。(現在の生徒さんの紹介による場合は、その旨お書き添 え下さい。)こちらの「スカイプ名」を返信します。

9031oiurekjfdsm@infoseek.jp

・練習途中でも、スカイプの会議電話が受け付けられる限りの人数まで受け付けます。多くの場合、お話はできませんので、掲示板上で質問等をお願いします。

(お送りいただいたデータは、現在は特に使用する予定はありませんが、将来メールマガジンを発行した時に使わせていただくかもしれません。)
------------------------------------------------------
・教材作り・公開手続き

・「電話でレッスン」の生徒さんに公開します。教材作りを始める直前に、この掲示板にその旨書きます。この時間は、練習方法のアドバイス等にも利用しま す。スカイプでつながった場合は、双方で話ができるようにこちらのヴォリュームをあげ、教材作りを中断して、お話しすることができます。

・あらかじめ下記のメールアドレスに、スカイプ名・氏名・住所・電話番号を書いてお申し込み下さい。こちらの「スカイプ名」を返信します。一度私にスカイ プ名を送ってある方は、氏名と用件の概要のみメールにお書き下さい。

9031oiurekjfdsm@infoseek.jp

・途中でも、スカイプの会議電話が受け付けられる限りの人数まで受け付けますが、アドバイス等、個別の話をしている途中では、その後にスカイプで接続され た方の受信をしないこともあります。その場合はなるべく掲示板上でご連絡下さい。

(お送りいただいたデータは、現在は特に使用する予定はありませんが、将来メールマガジンを発行した時に使わせていただくかもしれません。)



【12216】
お知らせ 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 1月18日(金)12時21分53秒

これから1時間ほど、「回転書き」を使った練習をします。
ときどき、メールチェックをしながらやりますので、興味をお持ちの方はメールして下さい。
------------------------------------------------------
・自分(根石吉久)の練習方法・公開手続き

・練習を始める直前に、この掲示板にその旨書きます。

・あらかじめ下記のメールアドレスに、スカイプ名・氏名・住所・電話番号を書いてお申し込み下さい。(現在の生徒さんの紹介による場合は、その旨お書き添 え下さい。)こちらの「スカイプ名」を返信します。

9031oiurekjfdsm@infoseek.jp

・練習途中でも、スカイプの会議電話が受け付けられる限りの人数まで受け付けます。多くの場合、お話はできませんので、掲示板上で質問等をお願いします。

(お送りいただいたデータは、現在は特に使用する予定はありませんが、将来メールマガジンを発行した時に使わせていただくかもしれません。)



【12217】
教材作り時のスカイプ立ち上げ。改訂 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 1月19日(土)01時35分14秒

・教材作り時、コーヒーブレイク、生徒まかせ

・「電話でレッスン」の生徒さん向けです。教材作りを始める直前に、この掲示板にその旨書きます。教材作りの途中にスカイプでの接続ができるように、スカ イプを立ち上げておきます。生徒さんの練習方法のアドバイスなどに利用します。スカイプでつながった場合は、双方で話ができるようにこちらのヴォリューム をあげ、教材作りを中断して、お話しすることができます。まあ、私にとってのコーヒーブレイクです。ほとんど申し込みがあるまいと思い、開設します。

・あらかじめ下記のメールアドレスに、スカイプ名・氏名・住所・電話番号を書いてお申し込み下さい。こちらの「スカイプ名」を返信します。一度私にスカイ プ名を送ってある方は、いきなりスカイプで接続していただいて結構です。

9031oiurekjfdsm@infoseek.jp

・スカイプの会議電話が受け付けられる限りの人数まで受け付けますが、アドバイス等、個別の話をしている途中では、その後にスカイプで接続された方の受信 をしないこともあります。あしからず。その場合はなるべく掲示板上でご連絡下さい。



【12219】
なんで英語やるの・中津燎子について 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 1月19日(土)03時13分9秒

 群馬県の英語科の教員免許を持っておられる(多分)中学の先生から、中津燎子さんの「なんで英語やるの?」を送っていただきました。この本は、実は昔読 んだことがありますが、その時の本をなくしてしまったので、いただいた本で再読することができました。
 読み直してみて、ああ、こんなことも書いてあったんだと思った場所がいくつもありましたが、読み通しての印象は昔読んだときと同じでした。隔靴掻痒、で す。

 正月に、この掲示板でのテーマを「回転読み」から「回転書き」に移行させたいと書きましたが、「回転読み」は「回転書き」の前提になるものですので、随 時必要があれば、今後も「回転読み」について書くつもりです。

 中津さんの本について書こうと思っているのですが、この本は、私に即して言えば、「回転読み」に関連するものが書いてあるだけで、「回転書き」に関連す ることについてはほとんど何も書かれていないと言っていいと思います。
 ですから、私が中津さんの本についてコメントすれば、「回転読み」周りのことを書くことになります。今年のテーマと違ってしまいますが、しばらくやって みようかと思います。

 「おお、いかにも」「まったくその通り」「御意」「よく言ってくれた」「激しく同意・賛成」などと思った部分の引用をやってみたいと思っております。

 そのために、今夜また読んでみる予定です。
 すぐ寝てしまうかもしれませんが、できるだけ読んでみます。



【12220】
「一ヶ月で何ができるかレッスン」開設のお知らせ 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 1月19日(土)04時55分13秒

 これまで、無料で「お試しレッスン」というものを設けていましたが、これを廃止します。
 過去ログをよく読んでいただけば、「お試しレッスン」というものをやっていることを知ることができるのですが、どなたにも膨大な過去ログを読んでいる暇 はないわけですし、私にも無料の「お試し」を繰り返し掲示板に広告する暇がありません。廃止いたします。
 これに代わり「一ヶ月で何ができるかレッスン」というのを開設します。
 対象は、スカイプを使っておられる方だけにいたします。こちらでスカイプ用にカメラを導入しましたので、生徒さん側でスカイプを使っていただけば、私の 口の動きを見ていただくことができるからです。
 「音づくり」は私が「ア系列」と呼んできた音に重点を置き、一ヶ月だけ使っていただきます。非常に大雑把に言えば、「ア系列」の3つの音をしっかりさせ るだけで、日本人の発音は激変します。一生懸命英語をやってきたけど、音に自信がないために、誤解を招いたり、相手に変な顔をされたりしたことのある方に 役に立つレッスンです。

 有料です。8千円だけいただきます。このレッスンを一ヶ月以上続けることはできません。

 レッスンの最後で、「あいうえおフォニックス」を講義します。

 レッスン枠の曜日と時間帯を固定しません。
 空き枠があるときは、空き枠を使います。空き枠がないときは、双方で都合のつく曜日時間帯で、通常のレッスン時間の前後にその都度設けることとします。 設置する「一ヶ月で何ができるかレッスン」は一枠(一回30分)のみです。

 お問い合わせは、9031oiurekjfdsm@infoseek.jp までお願い致します。
 「根石吉久」という投稿者名をクリックしていただいても、同じところにメールが届きます。



【12221】
今年の目標 投稿者:村田 投稿日: 2008年 1月19日(土)15時03分39秒

過去ログの分類現在に追いつかせること。
キーワードは大まかに次の7つ。

「イメージ」
「あいうえおフォニックス」
「回転読み」
「素読」
「人」(国広正雄さんや松本道弘さんなど人の業績に関する発言)
「レポート・感想」
「背景」
(「背景」は『植民地』や『日米安全保障』とか、語学をかこむ大きな背景についての発言)
「磁場」はほとんどすべてに共通しているのでキーワードにはしないで大項目を倉庫に掲げる。

これが今年の目標です。



【12222】
親子で素読 投稿者:matsu 投稿日: 2008年 1月19日(土)20時54分30秒

親子の素読が、ようやく軌道にのりかかっています。
テキストは岩波文庫の「三酔人経綸問答」中江兆民著にしました。
近代化を急ぐ明治の日本で、理想主義的な「洋学紳士」、国権主義的な「豪傑君」、現実主義の「南海先生」が酒を酌み交わしながら、談論風発するというもの で、以前から読んでみたいと積読してたものです。

テキストのメリットとしては、なにより総ルビであることです。これで、とにかく子どもでも素読はできます。
また、現代語訳が別にあるので、その部分の音読を交えることで、とにかく意味を大づかみすることができます。もっとも、難易度でいえば、この現代語訳のほ うでも、中学一年生には十分に難しく素読の対象となるものですが。
酔っ払いの放談という体裁をとった啓蒙書であるため、子どもにもとっつきやすいという利点もあります。
さらに昨年、大きなサイズのワイド版が出てたので、それをテキスト用として購入したのですが、扱いやすくて便利です。

デメリットとして考えられるのは、明治20年出版の漢文脈の文体であるため、難易度はかなりのものがある、ということです。子どもはもちろん、大人もある 程度適当に読み流すという態度でなければ、読めたものでありません。
また、テキストは、原文尊重であるため、漢字も旧字体で使用法も現代の標準的なものでないため、普通に子どもの読み書きの「学力」をつけるという意味で は、まったく「効率的」ではないだろうと思います。

子どもには無理かなと思いつつはじめた素読ですが、意外とすんなりと継続できています。(ちなみに成績は、田舎の公立中学で中のやや下といったところで す)
今日は、原文の方の音読がおもしろい、と言っていました。
根石さんのレッスンで、英語の素読を徹底して仕込まれている、ということと関連、連動しているのかもしれません。

本来素読は、自分だけでやるつもりだったのですが、根石さんの、素読は一人でやるものでないという言葉に示唆されて、息子を巻き込みました。
その結果、相手があるのでサボることができず継続できる、相手の読む文を音だけで聞く楽しみがある、というメリットに気付いたところです。



【12223】
matsuさん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 1月21日(月)10時30分29秒

中江兆民ですか。こういうのに触れておくと、歴史で出てきた時にもイメージが膨らみますよね。人名の丸暗記でなく。

素読といえば、今、『「学び」の復権---模倣と習熟』辻本雅史(角川書店)という本を読んでいます。江戸前期の儒学者・貝原益軒の思想を中心とした江戸 時代の学習文化研究から現代の教育を見直そうという内容です。まだ途中ですが、なかなかおもしろいです。もちろん、素読について言及されています。



【12228】
廃止 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月22日(火)18時02分4秒

スカイプによる参観のうち、「教材づくり」の参観を廃止します。パソコン画面をカメラに映せば、教材作りの流れがわかってもらえるかと考えたものですが、 現在のスカイプ用のカメラやパソコン環境では、ノートパソコンの液晶画面の字をカメラが拾うことができません。これでは、ただ私の指がキーボードを叩くの がわかるだけですので、やめることにしました。



【12232】
「なんで英語やるの?」 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月26日(土)02時18分17秒

 隔靴掻痒の一冊をようやく読み終えました。同時進行で、向田邦子の「父の詫び状」を読んでいました。「なんで英語やるの?」の日本語はどこまでも間接的 で、向田邦子の日本語はどこまでも直接的で、それをちゃんぽんに読んだので、ひどい経験をしました。
 中津燎子という人は、自分の日本語が非常に間接的なものだという自覚がないのではないかと思ったことでした。対象に切り込んでいくときは、直接性があ る。これは、あくまでも論理がもたらす直接性なのである。それ以外の部分(大部分)の日本語を読んでも、何を言いたいのかよくわからない。日本語の直接性 で生きている人たちに「何を言いたいのかよくわからない」ということが生じることが、中津燎子には「よくわからない」のではないだろうか。

 今後しばらくの間、中津燎子の言うことで、「これはいいじゃないか。その通りだよ」という部分だけ引用する作業をやります。



【12234】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2008年 1月27日(日)00時25分32秒

息子がレッスンでお世話になって、2ヶ月がたちました。
週に2回程度は、居間で息子の復習に付き合っている、というか息子に教わっているのですが、らくださんの家と同じく、息子の読みを聞いて、妻が根石さんの レッスンの効果を実感しているようです。
考えてみれば、言葉について、一般にその実力やレベルを測るのは、読み(語り)や発音についてというのが自然ですよね。学校のテストや学力テストの点数で 測る、というのは、やや倒錯した話なのかもしれません。後者には比較的な無頓着な我が家では、根石さんのレッスンの効果はもう実証済みという雰囲気です。

根石さんは、自身のレッスンの技法を、他者に伝えうるものとして考えておられるようですが(実際に技術としてそうなのでしょうが)、僕自身が、根石さん以 外のコーチに依頼するかというと、たぶんその気持ちにはならない気がします。
根石さんの語学論を、もっとも本質的で有効な日本人の英語習得法、と理解するとしたら、それは確かに、英語学習という点では画期的なことでしょうが、そこ にとどまるというか、単なる技法にすぎないということになると思います。

「嵐の一年」を経て、すぐれた詩と批評を書き、数十年にわたって独自の学び舎を切り盛りし、千曲川の鯉と格闘しながら、10年をかけて自宅を自作し、自然 農法で野菜を作りつつ、ゴミ処理問題で地域の政治にかかわる・・・といった根石さんの八方破れ(失礼!)の丸ごとを信頼して、レッスンをお願いしている、 といったら大げさにすぎるでしょうか。
以前にも書きましたが、根石さんの「語学論」は、そのような場所で(のみ)生まれ、育まれた思想であると思います。

勉強があまり得意といえない息子が、親から見ても熱心に取り組んで、素読にまで積極的になったのは、ありきたりな言い方ですが、根石さんの人間的な魅力 と、その根底にあるユーモアに魅かれているからだろうと思います。

中年過ぎ親父の英語再入門の方も、どうにか半年がすぎました。僕自身も、受験勉強の一年間の自己流の学習で、あるレベルまでは一気に引き上げたという「成 功体験」あるので、要は気合と自分なりの試行錯誤だ、とどうしても独学にこだわってしまいます。
時間的にも、体力的にも、耳からの学習が中心となるので、聞くだけで英語と和訳が理解できるタイプのCDを選んで聞き続けていますが、学習のかなめは、根 石さんから学んだ方法を自己流にアレンジして実行しています。
回転読みで、とにかく無理やりにでも、英文を身体になじませ、しみこませる事。
そのあと、口について出てくるようになった英文を、切断読みで、一語一語イメージとして受け取りなおし、定着させること。
回転書きのほうは、最近ようやく取り組み始めたところです。

素読の方は、思いつきで始めたのですが、ひょうたんから駒というか、意外に楽しいのに驚いています。言葉と発達の遅れている次男とも、手持ちの絵本で初め てみました。長男と僕が勉強している姿を見て、自分もやってみたくなったようで、嫌がらずに読んでいます。
素読に関しては、何をどんな風に読むのか、こちらはそれこそ全くの試行錯誤となると思いますが、それが楽しみです。



【12236】
「なんで英語やるの?」賛成部分 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 1月27日(日)02時51分31秒

14.
 二度目は眼をとじて、音をききとる事のみに専念した。しみじみと日本の少女の声は何と愛くるしいのだろうと感心はしたが、英語としてきくと、何としても やさしく、やわらかすぎて小鳥のさえずりに似ている。暫くきくうちに、このような独特のリズムと高低をくり返す音、ころころと限りなくなめらかに音と音 が、やわらかにころがってゆく音をもつ言語を聞いたことがない、と思った。

(註。書き写していると、言ってることはいいと思うが、これはやっぱり悪文というものかという感想を禁じ得ない。「ころころと限りなくなめらかに音と音 が、やわらかにころがってゆく音をもつ言語を」あたりが変なのである。音、音の繰り返しだけでなく、日本語のシンタックスとして変なのである。「ころころ と限りなくなめらかにやわらかにころがってゆく音をもつ言語を」じゃ言いたいことが言えないと中津燎子さんは思うのだろうか。この種の文が満載の本なの で、その結果が「隔靴掻痒」という読後感につながるのではあるまいか。「賛成部分」を書き写しているのだが、どうしてもコメントを書きたくなってしま う。)


17.
「学校じゃ、発音はやらないんです」
「全然?」
「ええ、二、三回やるだけです。アルファベットの時に」
「アルファベットと言うと中学一年の時でしょう。それじゃ、高校まで音なしの英語授業ですか?」
「発音は、自分でラジオやテレビの講座をきいておぼえるんです。各自、テープを買ったり、外人の人に習ったりして・・・」

(註。初めて英語を教えた高校生の生徒とのやりとり。14ページの「やわらかにころがってゆく音」云々も、この生徒に初めて英文を読ませたときの感想。)


20.
彼女の英語の抑揚が非常に奇妙にきこえた理由は、全くの基礎音の訓練なしで、一足とびにテープや外人の発音を只まねて、しかもその期間があまりにも長すぎ たため、独特の、英語でもなく、日本語でもない、のっぺらぼうと、ぺらぺらを、交互にはぎ合わせたような音声の言語になってしまっている事だった。

(註。ボストンに行ってきた人が手渡してくれた美術館の展示案内パンフレットに、日本美術について書いた文があり、総じて super flat だとあった。うん、なるほどと思ったことを思い出した。英語ネイティヴの口の筋肉の使用量からもたらされる英語音の立体性から見れば、日本人の独習英語の 音が「のっぺらぼう」と聞こえるのはよくわかる。)

24.
 英、独、仏、伊、スペイン、ポルトガル、ロシア、中国、韓国、蒙古、中近東、東欧、アフリカ、全く限りがない。その言語の音声をざっときいてみると、か なり破裂音のような強い息を出す。従って強い音をもつ言語が多い、と思う。
 それにくらべて、我が日本語ははっきり違う。あまりわめく必要がない。わめくよりむしろ、静かにやさしい音を出す。

26.
AND THE BOOK なんて言う文になるといともすらすらとアアザブックゥとなる。一寸きくとひびきはなめらかだが文章のつづり無視の発音である。きいている方では、 OTHER BOOK の R をぞんざいにやりすごした文にきこえる。それにしては前後とつりあわないな、と考えているうちにますます、五里霧中となる。日本人が英語をやればやる程、 この基礎ぬき流暢方式になるのではなかろうか。



【12237】
ぼちぼちいきます。 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月27日(日)02時58分58秒

中津さんの文の書き写しは、ぼちぼちやります。
漢字にするところとしないところが、私が普段書く文とあまりにも違うので、なるべく書き写し間違えないようにしようとすると、非常にくたびれます。した がって、ぼちぼちやります。

例えば次のような具合です。

テープや外人の発音を只まねて、(中津)

テープや外人の発音をただ真似て、(根石)



【12238】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 1月28日(月)04時11分11秒

 今、記事を読んでいて、matsu さんの文が私宛になっているのを見て、やべえと思い、書き出したところです。一度はらくださん宛てのものと思って読み始めておりました。

>息子がレッスンでお世話になって、2ヶ月がたちました。
週に2回程度は、居間で息子の復習に付き合っている、というか息子に教わっているのですが、らくださんの家と同じく、息子の読みを聞いて、妻が根石さんの レッスンの効果を実感しているようです。

 息子さんから教わったことというのを、具体的に書いていただくとありがたく思います。それが、日本の英語教育の暗部を照らし出すはずです。

>考えてみれば、言葉について、一般にその実力やレベルを測るのは、読み(語り)や発音についてというのが自然ですよね。学校のテストや学力テストの点数 で測る、というのは、やや倒錯した話なのかもしれません。後者には比較的な無頓着な我が家では、根石さんのレッスンの効果はもう実証済みという雰囲気で す。

 学校のテストはどうしても本当の実力を歪ませます。「お前はこれこれの高校を受けろ」みたいに、生徒を振り分けるためのテストだからです。「やや倒錯し た話」というより、まったく転倒した話だと思います。

 私のレッスンの効果についてですが、ひとまず発音や読みに関しての評価をいただけたと思っています。ありがとうございます。今後、シンタックスを根付か せることを時間をかけてやっていきます。

>根石さんは、自身のレッスンの技法を、他者に伝えうるものとして考えておられるようですが(実際に技術としてそうなのでしょうが)、僕自身が、根石さん 以外のコーチに依頼するかというと、たぶんその気持ちにはならない気がします。

 これについては、ときどき自分でも考えることがあります。要するに職人の技術と同じで、一代限りのものなのかもしれません。それでも、伝えられるだけは 伝えてみたいとも思うために、村田君のような「弟子」がいます。

>根石さんの語学論を、もっとも本質的で有効な日本人の英語習得法、と理解するとしたら、それは確かに、英語学習という点では画期的なことでしょうが、そ こにとどまるというか、単なる技法にすぎないということになると思います。

 抽象的な理屈を言うのでなく、語学という具体的な土俵を設け、そこで日本近代において「ごみ」扱いされてきた素読を原理として使ってみるというところか ら、いくつかの技法が出てきたわけです。結果として提示し、自分でも使っているわけですが、結果ですから、「単なる技法」と見えるのは仕方がありません。

>「嵐の一年」を経て、すぐれた詩と批評を書き、数十年にわたって独自の学び舎を切り盛りし、千曲川の鯉と格闘しながら、10年をかけて自宅を自作し、自 然農法で野菜を作りつつ、ゴミ処理問題で地域の政治にかかわる・・・といった根石さんの八方破れ(失礼!)の丸ごとを信頼して、レッスンをお願いしてい る、といったら大げさにすぎるでしょうか。

 これは非常にありがたいPTAさんでして、こんなふうに理解して下さっているのは matsu さん一人おられるだけです。

>以前にも書きましたが、根石さんの「語学論」は、そのような場所で(のみ)生まれ、育まれた思想であると思います。

 形はそう見えませんが、一種の思想だとは自分でも思っております。

>勉強があまり得意といえない息子が、親から見ても熱心に取り組んで、素読にまで積極的になったのは、ありきたりな言い方ですが、根石さんの人間的な魅力 と、その根底にあるユーモアに魅かれているからだろうと思います。

 電話を通じたレッスンで、一回30分、週に一回のレッスンですから、人間的な魅力というより、素読という方法が実にシンプルでとりかかりやすいからだと 思っております。レッスンでは、実際にレッスンそのものをやっているだけですし。

>中年過ぎ親父の英語再入門の方も、どうにか半年がすぎました。僕自身も、受験勉強の一年間の自己流の学習で、あるレベルまでは一気に引き上げたという 「成功体験」あるので、要は気合と自分なりの試行錯誤だ、とどうしても独学にこだわってしまいます。

 基本はそれでいいのだと思います。しかし、外国語学習の場合は、独学ではまず手に入らないという質もあります。入口にあるべき「音」の問題がそのほとん どすべてですが、学校英語にも独学英語にも、その問題があるようで、じつは「ない」のです。

>時間的にも、体力的にも、耳からの学習が中心となるので、聞くだけで英語と和訳が理解できるタイプのCDを選んで聞き続けていますが、学習のかなめは、 根石さんから学んだ方法を自己流にアレンジして実行しています。
回転読みで、とにかく無理やりにでも、英文を身体になじませ、しみこませる事。
そのあと、口について出てくるようになった英文を、切断読みで、一語一語イメージとして受け取りなおし、定着させること。
回転書きのほうは、最近ようやく取り組み始めたところです。

 「回転読み」「切断読み」「回転書き」をやって下されば、どんどん力がついていくと思います。息子さんが、高校生になった頃に、電話線を分岐させて、半 年でいいですからレッスンに参加されてみられたらどうでしょうか。きっと役に立つと思います。

>素読の方は、思いつきで始めたのですが、ひょうたんから駒というか、意外に楽しいのに驚いています。言葉と発達の遅れている次男とも、手持ちの絵本で初 めてみました。長男と僕が勉強している姿を見て、自分もやってみたくなったようで、嫌がらずに読んでいます。
素読に関しては、何をどんな風に読むのか、こちらはそれこそ全くの試行錯誤となると思いますが、それが楽しみです。

 すでに書いたところですが、素読というのはきわめてシンプルでとりつきやすいのです。「試行錯誤」の過程を書いていただけたらありがたいです。
 音読でも素読でもそうですが、眼目となるところをつかんでやらないと、「音読がはやったのでやってみたが、思うように成果があがらない」という、学校の 先生たちのボヤキになります。matsu さんは、眼目をつかまれています。信頼していますので、どうぞお続けになり、報告をいただけたらと思います。



【12239】
「なんで英語やるの?」引用2回目 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 1月30日(水)02時00分15秒

教師をやっている外人で、やたらに発音を省略形で教える人間がいれば、その人には教える資格がない。ふつうの会話を路上でやるのとちがい、生徒に教えてい る外人で、省略を、音の上でも文の上でも教える人はいない筈である。(略)日本の小学校で、一年生の時から日本文を教えるのに省略形から教えはしないであ ろう。

(文句なし)


明治以来英語を大幅に教育の中にくりこんで来ていながら、日本における、英語教育の当事者たちは代々、
「英語の基礎とは、何か」
 と言う事すらよくわかっていないで今日まで来ているのではないか。

(註。言っていることに文句はないが、「日本における、英語教育の当事者たち」というように、形容語句と形容される語句の間に、読点をはさまないでもらい たい。私も似たようなことをこの掲示板でやってるかもしれないが、それにしても、中津さんの日本語の漢字使用法と読点の打ち方は、さすがにロシア育ちだと 思わせるものがある。)


いかに、彼の叩きこんだ基礎がほんものであったかは、アメリカにいる間中、骨身に徹して悟らされたものである。彼の主張は、単純で、言語を習得するのに必 要な事は、その目的と、基礎訓練で、頭脳も、才能も、学歴も、人間も、関係ない、と言うことであった。私も全面的にそう思う。

(註。いきなり閑話休題。やはり、中津さんにわかっていないのは、「磁場」ということである。ロシアで子供時代を過ごしたせいで、日本に帰ってから、「日 本で」急速に英語を獲得できたのだということが盲点になっている。「頭脳も、才能も、学歴も、人間も、関係ない」のは、「磁場」における言語習得に言える ことで、学歴はともかく、日本にいて英語をやるのであれば、頭脳も人間も要るのです。これらすべてが要らないのであれば、なんでこれだけ日本人が英語で苦 しむのかがまるで説明できないではないか。そんなにも何もかも要らないのであれば、テレビから流れる英語程度で日本人が英語を身につけてもよさそうなもの ではないか。「磁場」がわからないから、こういう妄説が出てくるのである。
 閑話休題終了。ここで「彼」と言われているのは、次のように書かれている中津燎子さんの先生である。
 「J・山城氏はまことに口下手な男性であった。
 年は当時、三十歳をこしていただろうか。
 ロサンゼルス生まれの二世で終戦後、老いた両親をつれて鹿児島に帰ってきたと言う事とロサンゼルスのカレッジを出たらしい事の二つしか知らなかった。」
 そういう先生と、ロシア育ちの生徒の組み合わせで、日本にいながら英語の高度なレベルが身についたのだ。その後さらに、中津さんはアメリカに留学してい る。中津さんは、「磁場」がわかっちゃいないのだ。この人も、半分は「磁場帰りの鼻高々の先生づら」に過ぎない。)



【12240】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 2月 2日(土)14時00分13秒

息子のレッスンについて質問です。

レッスンを始める際に、当面は予習復習不要。レッスン中に、復習しておくように言うことはあるけれども、特に気にする必要はない、といったお話をお聞きし たような気がしており、今も実行中です。実行中、というのも変な言い方ですが、「復習、ちゃんとやれよ」といった事を言っておりません。今後も、それで良 いのでしょうか?

「先生、復習しろとか言わないの?」
「言う事あるよ」
「で、おまえ、やってんの?」
「やってるよー。でも、俺、今バスケに夢中だから」

なんじゃ、それ。

生活の状況から見て、とても復習しているようには思えません。この先もそれで良いでしょうか?私は、根石さんから「家庭でこのように指導を」というご連絡 が無いかぎり、何も言うつもりはありません。あまり余計なことを言わずに、できれば英語学習全般に関しての方向付けをお任せできれば、と思っております。

現時点では、最初に申し上げたように、本人は遊びの延長のような感じでいると思います。

先日、

「おれ、英語やって良かったと思うんだよなあ」

と初めて口にしていました。

「どうしてそう思うんだ?」
「滑舌が良くなったと思うんだよ」
「滑舌?」
「そう。俺、歌好きじゃん。英語の歌詞の部分がね、うまくやれちゃうわけよ」

滑舌の意味が分かっているとは思えないのですが、こういうことのようです。日本の歌手のポップスを四六時中歌っているのですが、その中に英語の歌詞が含ま れるわけです。英語を習っているから、そこがうまく歌える、それは嬉しい、と。

息子が歌詞カードを持ってきて、この英語の部分は何て書いてあるんだ、と聞く事が良くあります。CDを聞くだけでは何て言っているか分からないし、つづり の読み方も分からない。カタカナ読みで教えろ、と要求しますので教えてやりますと、

「わかった、わかった」

と言って、たぶん根石さんとのレッスンをイメージしているのでしょう、回転しています。

そのことは英語の練習にはならないでしょうが、「英語やってよかったあ」と自分が大好きな趣味に引き付けて感じていることは、ひとまず良かったな、と思っ ています。

家内も同じように息子につづりの読み方を教える事があるようなのですが、逆に

「違う違う、ifのfはね、こうよ、こう」

と発音矯正されているようです。



【12241】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 2月 3日(日)02時47分57秒

>「復習、ちゃんとやれよ」といった事を言っておりません。今後も、それで良いのでしょうか?

 はい、それで結構です。今のところは、音の獲得は週一回30分のレッスンの中で行われるだけです。お気づきかどうか、わずか30分を15分と15分に分 け、前半の15分を復習にあてています。レッスン自体が復習を組み込んでありますので、今のところ予習も復習も特にやっていただく必要はありません。も し、本人がやりたい場合は、復習だけやっておいてもらえばいいと思います。
 構文が把握できた上で、文まるごとを鷲掴みにすることができるようになるのに、通常2年から3年くらいかかりますが、その頃になると復習や予習について こちらから指示するようになるかと思います。

 習い事が子供の時間を奪うという問題に対しては、極めて負荷の小さいレッスンだと思っております。週一回わずか30分のレッスンですが、継続していただ けば、はっきりと形成されてくる力があります。そのあたりを、お子さんが中学に入学したあたりから、この掲示板にご報告いただけたらと思います。

 「イメージ核受肉教材」を継続して作りながら、素読舎で使用している「ABCD」という教材をパソコンで打ち込み始めました。一部、書き換えたりしてい ますので、新たに打ち込みしています。この教材ができあがると、私のレッスンでは中学の教材を使わなくなると思います。もし、一年後くらいにできていた ら、息子さんのテキストは中学一年の教科書から「ABCD」という教材に接続されるかもしれません。
 いずれは、小学生から始めた人も、素読舎自作の教材から始めてもらうことになると思います。利点は、教科書が4年ごとに改訂されることで、レッスンが振 り回されることを回避できることと、コーチを育てやすくなることだと考えています。
 息子さんが高校に入った頃から、matsu さんやらくださんにもコーチをやられることをお奨めするかもしれません。その下準備として、一年程度、息子さんと一緒にスカイプで「電話でレッスン」をお 受けになることをお奨めします。レッスン代金は同じですから、一挙両得が成立すると思います。

>生活の状況から見て、とても復習しているようには思えません。この先もそれで良いでしょうか?

 毎週のレッスンごとに、復習とか予習とかのことを言うより、息子さんの全体を見ていていただけば結構だと思います。

>現時点では、最初に申し上げたように、本人は遊びの延長のような感じでいると思います。

 それで大丈夫です。私のレッスンは「遊び」を売りにしているものではありませんが、息子さん本人が「遊び」だとしていても、実質部分は形成されていきま すのでご安心下さい。

>「そう。俺、歌好きじゃん。英語の歌詞の部分がね、うまくやれちゃうわけよ」
滑舌の意味が分かっているとは思えないのですが、こういうことのようです。日本の歌手のポップスを四六時中歌っているのですが、その中に英語の歌詞が含ま れるわけです。英語を習っているから、そこがうまく歌える、それは嬉しい、と。

 そういうことでいいのだと思います。私のレッスン自体はそんなに嬉しいとか楽しいとかいうものではないのですが、それが英語の歌詞をリズムに乗せて歌え る楽しさにつながっているのであれば、ひとまず今の時点での大きな成果だと思います。私こそ嬉しくなっています。

>そのことは英語の練習にはならないでしょうが、「英語やってよかったあ」と自分が大好きな趣味に引き付けて感じていることは、ひとまず良かったな、と 思っています。

 いや、いずれは英語の練習になっていくと思います。レッスンが進んで、構文が把握できて、文まるごとを鷲掴みにできるレベルになった頃に、今意味もわか らずに歌っている歌がどんどん意味のある歌になっていくと思いますから。
 歌を歌うことは素読とは関係ないように見えますが、原理として、息子さんは素読を実践していることになります。これは素読そのものではありませんが、原 理として素読を踏まえているものだということです。もちろん、息子さんがそれを意識しているかどうかは関係ありません。
 matsu さんのお宅では素読そのものを開始されており、らくださんのお宅では息子さんが素読を楽しみの中に組み込んでいる。
 大げさに聞こえるかもしれませんが、ようやく私の考えてきたことを理解して下さる方が現れ始めたように思っています。

>家内も同じように息子につづりの読み方を教える事があるようなのですが、逆に
「違う違う、ifのfはね、こうよ、こう」
と発音矯正されているようです。

 日本人のほとんどが、英語に関しては文部省の犠牲者ですので、こういう光景は、私のレッスンを受けているお子さんの家庭では普通のこととして生じるもの と思います。
 今はレッスン枠がうまっていますので、新しく小学生や中学生のレッスンをお受けできない状態ですが、なんとかしてコーチを探し、なるべく広がりを作りた いと考えています。



【12242】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 2月 3日(日)22時47分11秒

ありがとうございます。

> 習い事が子供の時間を奪うという問題

この問題に少しこだわってみたいと思います。私はどちらかといえば習い事推進派と言えます。学校は多少サボってもいいから習い事は大事に。少々過激な考え 方かもしれませんが、学校なんていく必要なし、という不登校推進派まではいっておらず、制度(娑婆)とは適当に折り合い付けような、というしごく穏健な考 え方と思っています。

以前挙げました『「学び」の復権---模倣と習熟』辻本雅史(角川書店)に近代教育の方法論は、教育(教え育む)という考え方とともに、すでに使命を終え ているのではないか、という主旨の事が書いてありました。根石さん流に言えば、黒板を使った授業なんて、ということになるかと思います。個々人の「学び」 を支援する寺子屋の考え方を再考すべき時ではないか、というのが著者の主張です。賛同できるところの多い本でした。

習い事には色々あり、また、取り組み方によって子供への負荷はかなり異なると思っています。塾通いも、中学受験を目的として熱心に取り組めば、子供に(親 にも)大きな負荷をかけることになると思いますが、塾に行って学校の先生とは一味違う先生に教えを受けることを目的とするのであれば、それほどの負荷はか からないでしょう。

スポーツ系であれば、たとえば息子はサッカーを週1回習っていますが、それも子供(と親)の入れ込み方によって全く変わります。中学に上がる際に、Jリー グの下部組織のようなクラブチームに入団するには、セレクションという“お受験”を突破する必要があります。また、息子の友達の場合は水泳をやっています が、強化選手を目指して毎朝練習だそうです。その子は、朝練をしていることを友達には決して口にしないそうです。

息子の場合は根石さんのレッスンを含めて4つの習い事をしていますが、どれも趣味のレベルですので、ほとんど負荷はかかっていません。子供の時間を奪う、 というのは主に遊ぶ時間を指すことになると思いますが、習い事自体が(特にスポーツ系の場合は)遊びの延長ですし、見るところ、使える時間のほとんどを友 達との外遊びに使っていますので、むしろ英語のレッスンぐらい毎日の練習をさせてもよいのかな、と思うぐらいです。

尤も、あと2ヵ月もすれば中学に上がって部活も始まり、生活に大きな変化が出てくると思いますので、その頃にまた考えたいと思います。

>週一回わずか30分のレッスンですが、継続していただけば、はっきりと形成されてくる力があります。

根石さんのレッスンが、週1回の30分のみで一定の効果があがるように考えられているのは、素晴らしいことだと思います。私が子供の頃、姉がピアノを習っ ていたのですが、毎日の練習が必須でした。練習をサボって週1回のレッスンに行くと、先生が鍵盤をバーン!と叩いて、「1週間何やってたんですか」と叱ら れていました。ノコノコ見学に行った私は、怖くなって習うのをやめたのを思い出します。今から思えば、楽器というのは1日でも練習を怠るとドンドン腕が落 ちてしまう、ということなのですが、英語というのも似たところがあるのではないかと、ふと感じました。

> 今はレッスン枠がうまっていますので、新しく小学生や中学生のレッスンをお受けできない状態ですが、なんとかしてコーチを探し、なるべく広がりを作り たいと考えています。

素読舎の取り組みがどう広がるのか、には関心がありますが、なかなか難しい問題が根っこにあると感じます。根石さんとmatsuさんとのやりとりの中での 「一代限りか」といったご発言にもそれを感じますが、大きなテーマですので改めてにします。



【12245】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 2月 9日(土)08時16分38秒

>> 習い事が子供の時間を奪うという問題
>この問題に少しこだわってみたいと思います。私はどちらかといえば習い事推進派と言えます。学校は多少サボってもいいから習い事は大事に。少々過激な考 え方かもしれませんが、学校なんていく必要なし、という不登校推進派まではいっておらず、制度(娑婆)とは適当に折り合い付けような、というしごく穏健な 考え方と思っています。

 このスタンスはいいなと思います。だけど、子供が中学に行くようになると、学校側からの「縛り」が格段にきつくなります。「適当な折り合い」がつけにく くなり、子供の気持ちが不安定になることが生じやすくなります。

>以前挙げました『「学び」の復権---模倣と習熟』辻本雅史(角川書店)に近代教育の方法論は、教育(教え育む)という考え方とともに、すでに使命を終 えているのではないか、という主旨の事が書いてありました。根石さん流に言えば、黒板を使った授業なんて、ということになるかと思います。個々人の「学 び」を支援する寺子屋の考え方を再考すべき時ではないか、というのが著者の主張です。賛同できるところの多い本でした。

 まだ読んでありません。ご教示有り難うございます。是非読んでみようと思います。

>息子の場合は根石さんのレッスンを含めて4つの習い事をしていますが、どれも趣味のレベルですので、ほとんど負荷はかかっていません。子供の時間を奪 う、というのは主に遊ぶ時間を指すことになると思いますが、習い事自体が(特にスポーツ系の場合は)遊びの延長ですし、見るところ、使える時間のほとんど を友達との外遊びに使っていますので、むしろ英語のレッスンぐらい毎日の練習をさせてもよいのかな、と思うぐらいです。

 朝8時に学校へ行って、夜8時に家に帰ってくるみたいな中学生がたくさんいるのではないでしょうか。物理的に一日は24時間であり、その半分が学校に 「取られて」いて不思議に思わない人たちがたくさんいるように思います。学校もスポーツの習い事もその他の習い事も even なんだと思いますが、具体的に学校に奪われる時間があり、それが子供の負担になっていくと思います。「適当な折り合い」というのがつけやすい小学生時代と 違ってきて、「適当な折り合い」というのがまともな課題になってしまうのが中学以降かと思います。心の準備は必要かと考えます。

>ノコノコ見学に行った私は、怖くなって習うのをやめたのを思い出します。

私の塾も、以前はそういう塾でした。

>今から思えば、楽器というのは1日でも練習を怠るとドンドン腕が落ちてしまう、ということなのですが、英語というのも似たところがあるのではないかと、 ふと感じました。

 これは、英語力があるレベル以上に達した人の場合に当てはまります。あるレベル以上に達すると、日本語の磁場では、一日さぼるとドカンと力がなくなるよ うなことがあります。始めたばかりの小学生だと、一週間まるごとさぼっても、ほとんど減るものがありません。
 一日さぼるとドカンと力がなくなるようなレベルの人は、セミプロあるいはプロのレベル(語学でお金が得られるレベル=生活できるレベル)です。
 今のところは、あせらずにゆっくり進ませて(遊ばせて)やって下さい。

>素読舎の取り組みがどう広がるのか、には関心がありますが、なかなか難しい問題が根っこにあると感じます。根石さんとmatsuさんとのやりとりの中で の「一代限りか」といったご発言にもそれを感じますが、大きなテーマですので改めてにします。

 直接人にすすめていただくのももちろん有り難いことですが、現在時点で練りつつある方法に注目し続けていただくのが、もっとも励みになります。よろしく お願い致します。



【12249】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 2月11日(月)09時36分18秒

>子供が中学に行くようになると、学校側からの「縛り」が格段にきつくなります。

息子の様子を見ていると、給食を残しても、忘れ物をしても、宿題をやらなくても、これといった罰は課せられないようで緊張感なし。自分が子供の頃とはずい ぶん変わったものだ、と感じます。中学校もこんなゆるい調子で行くものかと。

>心の準備は必要

そうですね。あまり振り回されないようにしたいと思います。早くも息子が「中学入ったら、俺、どの塾行くの?」と聞いてきました。友達に聞かれたそうで す。「え?塾行かないといけないの?」と聞いたら「当然じゃん」と言われたとか。

そんなもんですかね。



【12258】
レッスンありがとうございました。 投稿者:ももこ 投稿日:2008年 2月20日(水)04時44分30秒

根石さん
レッスンありがとうございました。久しぶりにレッスンの感想をかけそうなので書いてみようと思います。

レッスンで使うテキストでは、だんだん一度で目が拾える文字が増えてきて、1行丸々目に入ったものはぱっと読めるなと感じています。知らないうちに暗記し ている文章も多いのだと思います。スラスラ口から出ようとする分、口が回らなくなってしまい、練習不足を感じます。

お休みをたびたびしながら、さらに練習不足の状態でも続けることで効果があるんだなとレッスンを受けるたびに感じます。12月くらいまでは、お休みすると 翌週に口が動かなくて、レッスンの後半になってやっと口が動くようになったなと感じる状態でしたが、今日のレッスンでは、12月の頃よりは口が動かないと 感じることが少なくなりました。(一瞬般若の口がなかなか出来なくなっていたので、少し練習しようと思います。)

あとは、レッスンでスラスラ言える(つもり)の単語とそうでない単語で明らかに聞こえ方が違います。ニュースなどを聞いていてもそこだけ浮き上がってくる ので面白いです。そういう意味ではゴーストのDVDを見るのはとても楽しいです。出来てないところからだんだんぼやけて聞こえてきます。

レッスンでは、音声ファイルででてきた「ジャンプ」のほかに、この方法に切り替わったら、エディタなどで、テキストを検索してみるなどして、飛ばしたとこ ろは自習するようにとも伺いました。

妊娠していることもあって亀の歩みになりそうですが、継続することを第一にゆっくり進んでいこうと思います。

きりさん
音声ファイルアップありがとうございます。他の方のレッスンなどを聞くことができてとても勉強になります。また、自分のレッスンのアップだと聞き漏らして いる部分も振り返ることができてありがたいです。



【12264】
親子で素読 投稿者:matsu 投稿日: 2008年 2月25日(月)00時55分9秒

「三酔人経綸問答」(中江兆民)の素読を、定期テストでの中断をはさみながらなんとか継続しています。
特別な成果を求めているわけではないので、親子でそれなりに楽しく継続できているということ自体で、一定の成果があったといえるだろうと思います。
方法としては、毎回10行弱、子どもが原文を読んだ後で、いい加減な解説を交えつつ父親が読み、次に子どもが現代語訳を読んで意味をおさえ、最後に子ども がもう一度原文を読む、というやり方をとっています。
次の回の最初に、復習として前回の原文を子どもが読むようにしています。父親の方は、手抜き勝ちですが、暇な折に予習復習としてひとりで読んでいます。

岩波文庫の編者たちが、「朗読主義」、つまり「古典は、文学的なそれであろうと思想的なそれであろうと、原則的には声を出して朗読せらるべきもの、否、そ の要処要処は暗誦せらるべきもの、という立場」をとってくれていることの恩恵を受けているわけですが、総ルビ、現代語訳付でないと、今のようには出来な かったと思います。

>いわく、かの人や国に勲労あり。その職にいてその勲労あるは当然のことにあらずや、平生俸給をうくるにあらずや・・・

原文はとても再現できないので、漢字を新字にしてその半分くらい仮名に変えたものですが、常日頃仕事上教員の叙勲の事務などもしなければいけない立場から すれば、思わず快哉を叫びたくなるようなくだりです。
その他、内容的に決して難しくはない、アクチュアルな指摘にあふれていて、中学1年でもある程度は面白く読めているようです。

貴族制度を評した言葉、
>噴飯にたえざるなり。
の現代語訳として
>へん、とんだお笑い草だ。
とあるような部分には反応して、笑っています。

ただこのペースだと、読了まで半年くらいはかかってしまいそうなので、春休みくらいには、気分転換にもう少し難度の低いテキストを併用してみようと考えて います。



【12266】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 2月26日(火)00時33分7秒

面白く読ませていただきました。
これは非常に新しい試みだと思います。
江戸の素読そのままをやらなきゃならんという必然はないですから。
うまくいっているようで、参考になります。



【12267】
ももこさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 2月26日(火)00時41分32秒

>知らないうちに暗記している文章も多いのだと思います。スラスラ口から出ようとする分、口が回らなくなってしまい、練習不足を感じます。

お書きいただいた「知らないうちに」ということが非常に大事なポイントです。「いつのまにか」と言ってもいいと思いますが、これが素読を原理とした方法の 最大の利点ではないかと思っています。ももこさんの場合も、覚えようとか暗記しようとしたことはなかったのではないでしょうか。結果として、「いつのまに か」「知らないうちに」覚えているということが起こるのは、結果以前=過程において、素読という方法が働いているからだと思います。

>お休みをたびたびしながら、さらに練習不足の状態でも続けることで効果があるんだなとレッスンを受けるたびに感じます。

 お休みが多くても、やれる日はレッスンを受けて下さい。その後に影響します。

>レッスンでは、音声ファイルででてきた「ジャンプ」のほかに、この方法に切り替わったら、エディタなどで、テキストを検索してみるなどして、飛ば したところは自習するようにとも伺いました。

 この自習ですが、「英語どんでん・・」の「電圧装置」を主体にしてやられることを是非お奨めしたいです。

>妊娠していることもあって亀の歩みになりそうですが、継続することを第一にゆっくり進んでいこうと思います。

 ええ、ゆっくりでいいです。



【12273】
中津燎子「なんで英語やるの?」から引用 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 2月29日(金)03時09分32秒

 この循環方式は実にきびしいもので、誰でもがこの方式の訓練をうけられるとも思わないし、又うけるべきだとも考えない。やはり英語を使う職業人以外は無 理だろうし、その必要もないだろう。
 それにJ・山城氏の全く平静な態度が、訓練のきびしさにひきかえあまりに対照的で、癪にさわってならなかった。

 註:循環方式というのは、3回言い直して駄目な場合は、レッスンの一番最初に戻されるという方式。
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「あなたは私の英語をまねするから出来ないのです。おうむのものまねには限度があるのです。あなた自身の英語を発見して下さい。まねた英語はほんものでな いから、ほんものの価値は与えられません。ものまね英語を喋べるより自分の国の言葉を堂々と喋るべきです」

 註:J・山城氏の言葉として書かれている。しかし、ものまねだけじゃ駄目だと言いながら、このJ・山城という人は、口の筋肉のどこをどうしろという指示 はまったく出していない。そして、「あなた自身の英語を発見して下さい」などと言っている。「真似しろ」と言う人にしろ、「真似じゃ駄目」という人にし ろ、英語ネイティヴは、口の筋肉のどこをどうしろと言うことができないという典型例である。
------------------------------------------------------
「私は、日本の人がまちがいだらけのひどい英語を使うのを批難しません。正式に習得しなかったからね。しかしそれを、アメリカ人たちが賞賛しうけ入れるふ りをして、裏面では、首をすくめて馬鹿扱いにし相手にもしない事が最も不愉快です。わからなければわからない、と言えばいいのです。そして又、それにだま されている日本人も不愉快です。

註:J・山城氏の言葉。これは日本が占領軍に占領されていた時代の発言である。
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人々のもつ奇妙な英語アレルギーはどうも学校でしこまれて来るのではないかと気がついて来た。十人のうち、八人は、学校で英語にいじめられた思い出を実に 怨みつらみをこめて話をする。その怨みの深さはかなりのものだが、そのわりに教師と、学校側に対しての怨みがないのが、私には又、奇妙でおかしい。
 そのかわり、と言うと変だが、その分だけ自分でせっせとコンプレックスをもってしまっている感じだ。英語がダメだった自分を責めてそれで終わらせてい て、教師の教え方、教育法、などと根本的なものに対しては疑いも、怨みもないらしいのが、ほんとにおかしい。自分の国の言葉でもないのにぎゅうぎゅう責め られて、学校を出てから後々まで、自分を責めていて、アメリカ帰りの母子をみると大なり小なりの屈折した反応を示す。

註:「教師と、学校側に対しての怨み」というのでもまったくの的外れではないが、本当は「大学の教員養成課程と文部科学省(当時は文部省)に対しての怨 み」と書くべきところである。的を射抜いていないのに、「ほんとにおかしい」などと書いているのがほんとにおかしい。この引用における「アメリカ帰りの母 子」というのは、中津燎子とその子供のこと。
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「趣味は?」
「英会話なの」
 などと言う娘さんにあうと、私はきょとんとしてしまうのである。
 大体、会話を習うとは何だろう。会話なんてのは、自分で作るものでテキストから習うものではないのが原則ではないか。

註:異議無し。
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【12275】
はじめて見たレッスン 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 3月 1日(土)10時36分30秒

息子がレッスンを始めて約3ヶ月がたちました。ずっと仕事が忙しくレッスンの時刻に帰れなかったのですが、昨日は早めに切り上げ、はじめてレッスンの様子 を見ることができました。帰宅すると既にレッスンは始まっており、そっと部屋を開けると回転読みの真っ最中。息子はチラリと私を見ると、お呼びじゃないな いよ、という感じて「シッシッ」と手で追い払うしぐさ。あまり長居をしても気が散るので、二三度覗く程度にしました。少し文が長くなるとうまく覚えられな くて頭を抱えたり、目を閉じて集中してみたりしていました。
レッスンが終わるのを居間で待ちながら、30分というのは短いようで意外と長いな、という感じを持ちました。ああいう感じで集中的にやるのは、かなり密度 が高く、いいとこ30分かなと。集中力を付けるという意味でも良い訓練だと感じました。



【12276】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 3月 3日(月)03時53分17秒

 息子さんがレッスンを受けている様子をご報告いただきましてありがとうございます。
 たまにレッスンの様子を見てもらって掲示板に報告してもらうように私からお父さんに言ってあるから、と私から息子さんに伝えます。ときどき様子を見てま たご報告下さい。
 素読舎の音声ファイルで聞いていただけばおわかりになるように、30分のほとんどの時間を生徒が口を動かしっぱなしに動かすことに使います。これは、小 学生には集中力を要します。そして、おっしゃる通り、30分程度が適当な長さだと思います。

 いまだうまく書けないのですが、以前から気づいていることがあります。
 小学生が私の「電話でレッスン」を受けると、最初は非常に上手で、その後いったんはとても下手になります。
 「最初は非常に上手」というのは、幼児英会話などによく生じる現象で、これは子供の口の筋肉というのは、日本語用に「固まりきっていない」からです。 「固まりきっていない」口の筋肉が、その表層だけを使って、非常に上手に英語の音をつかまえます。
 この期間は、「固まりきっていない」ほど、つまり、口の筋肉が柔らかいほど長くなる傾向があります。「固まってきている」ほど、早く英語が下手になりま す。文字通り「固まりきっている」なら、最初からいきなり下手です。
 この「上手」や「下手」を、私は価値の上下なしに考えています。つまり、「上手」がプラスの価値であり、「下手」がマイナスの価値だとは考えません。と いうより、「下手」な期間をくぐることが、日本人の発音が英語として通じるようになるのには必須の時間なのだと考えています。
 非常に大事な期間です。
 英語の中に生まれた子供(英語磁場に生まれた子供)なら、意味やイメージと合体した英語の音を幼児期に表層でつかまえ、それを放置しておいても、しっか りとその子供の口の筋肉に根付きます(固まります)。
 ところが、日本語を日常言語(生活言語)にしている子供の場合は、口の筋肉の表層がつかまえた音は、そのままでは根付くことがありません。日常言語が日 本語であり、口の筋肉はその言語に使用することの方が圧倒的に多い(時間的に長い)ので、植えられた苗(表層でつかまえられた音)を簡単にひっくり返して 根を乾かしてしまいます。
 ですから、幼児英会話にお金を払って、子供がじょうずに英語の音をつかまえるのを見て、それがそのまま英語の音が子供に根付いたものだと考えている母親 なんかは、ただ空しい夢をみているだけです。
 いったん「下手になる」というところをくぐらないと、日本人の口に英語の音が根付くことはありません。
 息子さんがすでに言いにくそうにしているのは、割と日本語の音が固まってきている年齢だからだと思います。私のレッスンが持たせようとしている英語の音 と日本語の音とが、混ざり始めて、口の筋肉が混乱し始めたのだろうと思います。いったん混乱し、よく混ざり、その後に再び分離するようになったときに、よ うやく日本人の口に英語の音が根付き始めるのです。

 英語に関する言説がこの過程をつかまえているのは、いまだ目にしたことがありません。
 また、この過程を自覚化できていない幼児向け、小学生向けの英語教室はすべて駄目だとも思っています。



【12292】
自然農法 福岡正信 時事通信社 昭和五十二年二版 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 3月20日(木)12時11分5秒

 福岡正信さんという人の本を読んでいます。英語関係の人ではなく農業関係の人です。福岡さんは、「自然農法」を提唱した人ですが、この種の本を読むと、 俺がやってきたことは、「自然農」や「自然農法」と根本が同じなんだなと思うことがよくあります。
 福岡さんが先に「自然農法」を提唱し、その後、川口由一さんという方が「自然農」を提唱しています。細部に違いはありますが、道教的な直感が日本の農を 救い出そうとしている一点において、福岡さんが言うところも川口さんが言うところも違いはない。日本の近代が馬鹿にし、化学肥料まみれ農薬まみれ、ビニー ルまみれ石油まみれにしてしまった小さな農を深い悲しみでみつめてきた人たちです。
 学校や英会話学校がやってきたことは、大量の知識を生徒に押しつけ不消化を起こさせたり、「磁場」の本来の働きを無視し、個人(英語ネイティヴ)のスキ ルで目をくらませ、個人が「磁場」がやることと同等のこととができるかのように宣伝してきたことです。これは、化学肥料や農薬を多用し、土を駄目にしてい く近代(科学的)農法と同じです。土そのものを見ていない。土は微細な鉱物だとして済ませて、科学肥料や農薬の方ばかり見てきたのです。
 福岡さんは、1グラムの畑の土についてでさえ人間は本当のことは知り得ないと考え、その不可知論であきらめるのではなく、土が悪くなるものを「取り除 く」ことをやったのでした。おそらく、福岡さんは「土をつくる」という考えさえ否定するでしょう。人間には、土が悪くなるものを「取り除く」ことしかでき ない。「土をつくる」などという考えは不遜な考えであり、土は自分でよくなるのだと言うでしょう。その背後にあるのは、東洋的な「自然」のとらえ方です。 机上の理屈から出たものではない。実際に田に立ち、畑に立ち、風を受け、雨に打たれて、「自然」と交わるところで、「自然」をとらえています。
 私の語学論も、土(生徒の消化力)がよくなることだけをねらってきたものです。その邪魔になるものを「取り除く」ことをしてきたものです。外的カリキュ ラム(文部科学省作成のカリキュラム)に従って知識(量)を与えることの否定、講義式(黒板式)授業の否定、英語ネイティヴの人を「磁場」といつわること の否定、その他、種々の否定は、すべて英語が根付くための土(生徒の消化力)をよくするために否定すべきものだから否定してきたのです。
 やはりこの背後にあるのは、人間の知の領域においてでさえ、「自然」から切れたものと「自然」につながっているものとがあるという考えかと思います。土 (生徒の消化力)というものは、「自然」なものです。これは、消化力が消化力を強めるという具合に、「自然」によくなる性質のもので、親や教師が「作れ る」などと考えること自体が不遜なことです。
 福岡さんも川口さんも、人間は米一粒だって「作る」ことはできないと見事に言っています。米は米で生きていくのであり、生きていくことの邪魔をしないこ としかできないと言っています。
 教師や親が、思考力や想像力や消化力を作ることができるわけがない。思考力が思考力を強めるのであり、想像力が想像力を強めるのであり、消化力が消化力 を強めるのであり、それは、米一粒が生きているということと同じで、「自然」につながっている。「自然」の流転の一部だということです。
 今、教育が農薬まみれ、化学肥料まみれになっています。
 私が三十数年前に提唱した「素読」も、教育が子供たちに振り掛けている農薬や化学肥料を否定したものだったと言っていいかと思います。当時、私はそれを 言葉にすることができませんでしたが・・・。

 蛇足。
 福岡さんのこの本は、農業技術者的用語が多く読みにくいので、「自然農法 わら一本の革命(春秋社)」の方をおすすめします。私もこちらを最初に読みま した。



【12293】
根石さんへ 投稿者:巴里子 投稿日: 2008年 3月22日(土)23時41分45秒

 レッスンを受けてから、来月で1年になろうとしています。この間に感想の一つや二つ書くべきだったのに「なまくら」にもほどがあると我ながらあきれてい ます。
 1年前の今頃は、英語の勉強方法を探していたときでした。あまたある英語情報の中から素読舎を見つけたのは奇跡に近いと思っています。
 根石さんの英語は言うまでもありませんが、文章や詩(二つしか知りません)も大好きで、いつも何かしら刺激や感動を受けます。この度の農業と語学論につ いては、とりわけ感慨深いものがあります。
 レッスンを受ける前の私の英語は荒れ放題のゴツゴツしたものでした。、この頃は「亀の歩み」ならぬ「蝸牛の如く」進歩しているかなと分析しています。毎 回のレッスンで邪魔を取り除いて頂き、土をよくして頂いているなと実感しています。復習や予習が苦にならず、楽しくなってきています。
 先日、ゴーストのビデオの中古を手に入れました。習ったところは随分聞き取れています。せりふによっては何回聞いてもダメな部分もありますが いずれ聞 き取れるようになるかなと思っています。
 どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。



【12294】
横から失礼します 投稿者:bebe 投稿日: 2008年 3月24日(月)00時43分16秒

 はじめまして。ここの掲示板の英語に関する議論はとても面白いので、たまに見させていただいてます。二年前から今に至るまで売れているらしい松澤喜好さ んという方の書いた「単語耳」という本を読んで見たのですが、なかなか好印象を受けまして、根石さんならどういう風に思うのかなと思い書き込ませていただ きました。もしすでにお読みでしたら、いくらか感想をいただけると幸いです。
 僕がいいと思ったところは、発音に関する注意が的確だと感じたことと、図解入りの発音の説明が分かりやすいということです。気に入らないとこもありまし て、上手く言えませんが、「ネイティブ」というフレーズが多用されているあたりに反発を感じます。別にネイティブに近づけなくてもいいやと思います。もう ひとつ、本を使ったりCDを使ったりしても自分ひとりでは通じる音を作るのは難しいだろうというふうに僕は思いますが、そういうことは触れられていなかっ たようです。本での勉強には限界があると思うのですが、それでも本を頼りに勉強するしかない人にとってはいい本だと感じました。



【12295】
bebe さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 3月24日(月)01時20分47秒

 松澤喜好さんは知りませんでした。というか、自分で本を書いたくせに、英語習得の方法論を書いた本にほとんど興味がないのです。しかし、人様が読んでみ たらいいという本を読むのはやぶさかでないので、注文してみます。
 しかし、英語につきあうのはしんどいですね。群馬県の英語の先生が私のためにわざわざ買って送って下さった本(中津燎子・「なんで英語やるの?」・文春 文庫)にコメントしようとして、やる時間がとれないままです。(村田君がどの程度に料理するか見てみたいので、村田君にコメントを頼むかな。まあ、村田君 に時間があればだが・・・)

>僕がいいと思ったところは、発音に関する注意が的確だと感じたことと、図解入りの発音の説明が分かりやすいということです。

 この辺を注目しました。音はネイティヴに近づける必要があると思いますが、ネイティヴと同じになる必要はないというか、同じになりはしないというか、無 理なことはしない方がいいというのが私の考えです。聴き取りが上達する程度には近づける必要があると思っています。

 これから、古本を探します。



【12297】
巴里子さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 3月24日(月)02時01分8秒

>レッスンを受けてから、来月で1年になろうとしています。

もうそんなになりますかね。私の感覚では7ヶ月程度かと思っていました。

>この間に感想の一つや二つ書くべきだったのに「なまくら」にもほどがあると我ながらあきれています。

 この「なまくら」という語の使い方は長野県とまったく同じで嬉しくなりました。「なまくら刀」という使い方は全国的なものでしょうが、人間の性質につい て、直に「なまくら」を使うのは全国的なのかどうか。「ああ、あいつか。あいつはなまくらだ」というような使い方は、長野県では、年寄りが使います。若い 人はあんまり言いませんね。若い人が働くのが嫌いになったからでしょうね。

>1年前の今頃は、英語の勉強方法を探していたときでした。あまたある英語情報の中から素読舎を見つけたのは奇跡に近いと思っています。

 みつけて下さってありがたく思っています。

>根石さんの英語は言うまでもありませんが、文章や詩(二つしか知りません)も大好きで、いつも何かしら刺激や感動を受けます。

 ありがとうございます。私の本で持っているものの名前をお知らせ下さい。お持ちでないものをプレゼントしたく思います。市場に出なかった(本の流通に乗 らなかったもの)数点ありますので。

>この度の農業と語学論については、とりわけ感慨深いものがあります。
 レッスンを受ける前の私の英語は荒れ放題のゴツゴツしたものでした。、この頃は「亀の歩み」ならぬ「蝸牛の如く」進歩しているかなと分析しています。毎 回のレッスンで邪魔を取り除いて頂き、土をよくして頂いているなと実感しています。復習や予習が苦にならず、楽しくなってきています。

 「復習や予習が苦にならず、楽しくなってきています。」この文章が一番うれしいです。

>先日、ゴーストのビデオの中古を手に入れました。習ったところは随分聞き取れています。せりふによっては何回聞いてもダメな部分もありますが いずれ聞 き取れるようになるかなと思っています。

 聴き取りも日本に住んで英語をやるなら、単語一つずつ覚えるようなものです。一挙にみんな聞こえるようになるなどという人だましが横行しています。それ が起こるとしたら、それは「磁場」にいる間に起こるだけです。日本に住んでいるかぎり、一つずつ、一つずつ聞き取れるようになります。一つずつ増えていく のは楽しいです。

>どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。

 こちらこそよろしく。



【12302】
根石さん 投稿者:村田 投稿日: 2008年 3月26日(水)23時28分57秒

今読み返してみたらどう読んでも「なんで英語やるの」の方について書かれてますね。なんで勘違いしたのやら…。
「単語耳」の方は、おいおい読んでいきますので、中津さんの本、読ませてください。

「単語耳」は、ざっと見たところ、発音の仕方の説明はおもしろいのもあると思ったんですが、「はじめに」のところでひっかかるところがありましたのでメモ させていただきます。

p004-005
「この核となる「黄金の56パターン」は、基本的には「音節(一口で言える子音・母音のかたまり)」の音です。この56パターンを、日本人も最初に脳内に 入れておくべきです。その後で、その56パターンの組み合わせとして英単語を記憶していけば、手っ取り早く、ネイティヴと同じ脳内語彙空間(脳の中に単語 を整理してしまっている配置の仕方)を構築できるからです。
 ネイティヴと同じ脳内語彙空間を築いてから単語暗記をしていくと、英会話の際に、どのような英単語も即座に正確に脳内で検索できるようになります。」

p005
「『単語耳』の実践編をこなせば、ネイティヴの脳の構造をそのままあなたの脳にトレース(転写)でき、”大学卒の英米人”同等の単語力を見につけられるの です。」

実践編の内容とは別として、ここらへんがひっかかりました。
著者は脳をコンピュータと同じようなものとして語っているのかな…?という気がしました。
ハードディスクのコピーをするような感覚で「ネイティヴの脳の構造をそのまま」トレースできるような錯覚を覚えます。



【12304】
村田君 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 3月28日(金)02時04分17秒

 たぶん、「英語耳」、違う本買っちゃってるよ。
 著者は松澤喜好さんですか?松澤さんのは、出版社はASCIIです。

 村田君が引用してくれたのは、ほんの少しですが、村田君が持っている本の方は読む気がなくなりました。

 松澤さんのやつを読み始めていますが、もっとずっとまともなことを書いています。
 おすすめ本と言っていいと思います。
 一応読んでからまた書きます。



【12306】
英語耳・単語耳 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 3月28日(金)10時55分47秒

「英語耳」「単語耳」ともに松澤喜好さんのご著書ですね。先に「英語耳」が出て大ヒットし、続編として「単語耳」が出ています。他にもTOEIC対策とし ての「闘耳」などもあります。

「英語耳」は、もともとはネットから火がついたと聞いたことがあります。松澤さんのホームぺージは

http://www.scn-net.ne.jp/~language/

です。

村田さんが「単語耳」から引用され「ひっかかった」とお書きになっていますが、「英語耳」という書名を見た瞬間に「うさん臭さ」はお感じになりませんでし たか?私はこの種の「うさん臭さ」を全面的に否定するつもりはなく、むしろ多数の読者を獲得することを宿命づけられた「商品」のネーミングの妙と、比較的 好意的に評価する立場なのですが。



【12307】
根石さん・らくださん 投稿者:村田 投稿日: 2008年 3月29日(土)06時27分6秒

私が買ったのも松澤喜好さんのASCIIの本です。
版がいくつかあるようなので、引用した「はじめに」の部分は違うのかもしれません。


「英語耳」というネーミングには「うさん臭さ」は感じませんでした。
根石さんが以前、「英語筋」という言い方をしていたのを聞いたことがあり、私もその名前には納得していましたので。
(「英語筋」は、日本語ネイティヴが英語の回転読みをやっていると発達していく筋肉と、それを足がかりにした意識の流れに名前を付けてみたものだったと思 います。)



【12310】
生徒さんからのレッスンの感想(メール)を転写 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 4月 1日(火)00時02分23秒

先日、2回目のレッスンでした。
テキストの字を目でおうことに
精一杯で口など全くついてこないです。
自分で自分の口にびっくりしています。
今までのことを思い出してみても英語を音読すること自体
全くといっていいほどありませんでした。
その事自体にレッスンを始めるまで気付いてもいませんでした。

初めてのレッスンの後
娘に感想を聞かれたので、
ものすごく集中するね、と答えたところ、
「そうでしょう。そうなんだよ。集中するんだよ。」
となんだかうれしそうでした。
前に時間が早くすぎるような気がする、といわれた
事を実感しました。かなり密度の濃い時間です。

練習に関しては、根石さんがすらすらと読めるようになるまで、とおっしゃった
言葉が私にはすごくわかりやすかったです。
何回読むとか、暗記するまでとか、ではなく
すらすら読めることを目標に頑張ります。
自分でも意外ですが、練習が楽しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。



【12311】
村田さん 投稿者:bebe 投稿日: 2008年 4月 2日(水)19時13分36秒

村田さんに引用していただいた部分はあまり読んでいなかったのですが、確かにそこは引っかかります。
脳がうんぬんかんぬんという議論を聞くときに僕が気になるのは、今回に限らないことですが、脳と体全体の関係が無視されていて脳だけ独立に議論されている ということです。村田さんが引用された部分について言うと、英語が脳の中だけで完結するような印象を受けてしまうというのが気になりました。



【12313】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 4月 3日(木)09時54分54秒

息子が小学校を卒業しました。「小学生の英語レッスン」も終わりということになります。昨年の12月から始めましたので 4ヵ月経ちました。始める時に、(ダメな)学校英語と遭遇する前の体力作りとしては最低1年は欲しい、という主旨のお話があったかと思いますが、今それを 実感しています。

息子の英語の状態が分かるわけではないのですが、感じとしては、まだ戸惑いつつレッスンを受けているというところで、こなれてくるには4ヵ月では短い、や はり1年は必要だなと感じます。

来週、中学に入学しますが、学校での英語の授業と遭遇して本人がどう感じるのか楽しみです。

それから、息子に英語のドリルを何か買ってきてほしいと言われています。以前書きましたが、好きな音楽グループの歌の中に英語の歌詞がかなり出てきます。 本人曰く「早く英語が読めるようになりたい」のだそうです。

アルファベットと音の関係がわかるようになりたい、ということだと思いますが、今の段階でドリルの自習などできるとは思えませんので、「焦らないで根石先 生のレッスンをしっかりやっとけ」と取りあえず話しています。



【12316】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月 3日(木)23時51分6秒

>息子が小学校を卒業しました。

 おめでとうございます。

>「小学生の英語レッスン」も終わりということになります。昨年の12月から始めましたので4ヵ月経ちました。始める時に、(ダメな)学校英語と遭遇する 前の体力作りとしては最低1年は欲しい、という主旨のお話があったかと思いますが、今それを実感しています。

 小学生の間に英語をやらせる必要はないという人は、日本の中学や高校の英語の実態を知らないのです。中学に対応するのに、私のレッスンで一年やっておく とおかないのではまったくその後が変わってしまうと思っています。

>来週、中学に入学しますが、学校での英語の授業と遭遇して本人がどう感じるのか楽しみです。

 中学の様子を聞いて、書いていただけたらと思います。一般的に、中学一年の春、英語が嫌いな生徒はほとんどいません。(小学生のときに変なところに通わ されて嫌いになった場合を除きます。)しかし、中学一年の終わりからぼつぼつ、二年になるとかなりな数の生徒が英語は嫌いだと言い出します。

>それから、息子に英語のドリルを何か買ってきてほしいと言われています。以前書きましたが、好きな音楽グループの歌の中に英語の歌詞がかなり出てきま す。本人曰く「早く英語が読めるようになりたい」のだそうです。

 辞書のひき方を教えてあげるのがいいと思いました。

>アルファベットと音の関係がわかるようになりたい、ということだと思いますが、今の段階でドリルの自習などできるとは思えませんので、「焦らないで根石 先生のレッスンをしっかりやっとけ」と取りあえず話しています。

 アルファベットと音の関係を知るには、ドリル帳では無理です。コーチ付きのレッスン以上のものはありません。もう少し音のこなれがよくなってきたら、綴 りと音の相互関係を息子さんに言うつもりでいますので、そうお伝え下さい。



【12318】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月 4日(金)00時32分56秒

 自分が書いたものへの注釈です。

>アルファベットと音の関係を知るには、ドリル帳では無理です。コーチ付きのレッスン以上のものはありません。もう少し音のこなれがよくなってきたら、綴 りと音の相互関係を息子さんに言うつもりでいますので、そうお伝え下さい。

 息子さんに、「これは口の両端斜め上」、「これは顎の下がるアー」、「もっと狭く」、「唇で卵をくわえたように丸くして唇に力を入れる」などというよう な指示をしょっちゅう出しています。これを続けて、こんな綴りのときはこうなるという感覚が息子さんに生じた頃に、「あいうえおフォニックス」をやると、 以後、格段に「アルファベットと音の関係」がはっきりします。
 息子さんが、自分で見当をつけて外れが少なくなってきた頃にやろうと思っています。



【12319】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月 4日(金)00時38分58秒

 しばらく書いていただいていませんが、息子さんの様子をお知らせくださるとありがたいです。
 先日、学校の成績はあがったかどうか息子さんに聞きましたところ、まだあがらないとのことでした。
 多分、その時に言ったような気がしますが、よく読めるようになった文を繰り返し書きながら、書くスピードで英単語のイメージの核を掴もうとする練習をど んどんやって欲しいと思っています。
 学校の成績(テストの点)は、英語の実力と同じではないのですが、点があがると生徒が元気になるので軽視していません。
 書くスピードでイメージするということをやってもらうのが、現在の時点では最良だと思います。



【12320】
bebeさん、同感です。 投稿者:村田 投稿日: 2008年 4月 4日(金)01時47分11秒

>脳がうんぬんかんぬんという議論を聞くときに僕が気になるのは、
>今回に限らないことですが、脳と体全体の関係が無視されていて
>脳だけ独立に議論されているということです。

同感です。
大脳生理学という分野があって、一定の成果があるのは知っているけれど、一方で、どこからどこまでが脳なの?とかも思ったりもしています。
一時期流行った、「話が聞けない男 地図が読めない女」なんていうのは、わたしはハナから信用してませんでした。「男脳・女脳」なんてのは、環境要因・後 天的学習の要素が大きいものだと思っていますので。

大脳に関しての議論は、この掲示板でも以前にありまたが、語学論的には根石さんのこの記事が的確だと思います。(一部引用)

==================================
[1906]
>意味を考えていては音は聞こえません。それは(生半可な脳についての知識によれば)意味を考えるのは左脳だからです。論理的に考えるのも左脳です。音を 聞くのは右脳です。見るのではなく観るというのによく似ています。意味にとらわれては音は聞こえません。

 重要なことを言っておられると思います。脳の左右はよく知りませんが、論理を分担している脳の部分と感覚を分担している部分が違うということは十分に信 じられることです。しかし、それは脳にまかせておけばいいので、私が脳さんに言いたいことは、「じゃあ、まかせたからね」ということだけです。右脳さんが やってくれるんでも、左脳さんがやってくれるんでもいいや、だけど、俺は英語を聞き取って、その場でわかりたいんだからね、よろしくってことです。実質は 脳さんがやってくれるんでも、実感レベルでは私の心がやってると思うことに何の差し支えもないと考えています。生理学的根拠は参考にしかならない。私の心 に何が起こるかと思っていた方が実質的だと思っています。英語を使う場面でも、相手や自分の脳とつきあうというより、相手の心や自分の心とつきあうのだと 思っています。
 心とつきあう場合は、総合体とつきあうのですから、右脳も左脳も交互にあるいは同時に動いてもらわないと困ります。「じゃあ、まかせたからね」というの は、二人ともちゃんと動いてね、信頼してるからね、ということです。
==================================
ほんとに、語学やってるものにとっては、「脳さん、まかせたからね」でいいと思います。無意識のレベルというのは、自分にはどうにもなりませんので。



【12323】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 4月 4日(金)19時21分33秒

>辞書のひき方を教えてあげるのがいい

中学に入ったら学校から辞書の推薦があるのだろうと思います。私が中学の時は研究社の新英和でした。辞書の使い方は学校で教えてくれるのでしょうか。私は ちゃんと教わった記憶がありません。辞書を使えるようになるのは、結構、高度な気がします。引いても意味の確定やら発音記号の読み方やら...。中1の最 初から辞書は使えるものでしょうか。

また、電子辞書はどうでしょうか。音も出て便利ですが、やはり紙の辞書を使いこなせるようになってからの方が良いのでしょうね。

matsuさんへのコメントで書かれていた

>よく読めるようになった文を繰り返し書く

というのは息子の段階ではどうでしょうか。ドリルなどをやらせるよりずっと良い方法だと思ったのですが。



【12326】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月 5日(土)02時56分29秒

>辞書を使えるようになるのは、結構、高度な気がします。引いても意味の確定やら発音記号の読み方やら...。中1の最初から辞書は使えるものでしょうか

 辞書のひき方はほとんどの学校が教えていないと思います。
 辞書を平気でひきこなせるようになるのは、(現在の学校の中では)中学1年生ではかなり高度なことだとは思います。しかし、辞書のひき方を教えるのはや る価値があると思います。
 辞書にいろんなことが書いてあることで混乱するのが大事だと思います。意味ひとつでも一筋縄ではいかんなあと感じることが大事で、その過程を経て、語の イメージの核を求める動機が生まれると思います。

>よく読めるようになった文を繰り返し書く
というのは息子の段階ではどうでしょうか。ドリルなどをやらせるよりずっと良い方法だと思ったのですが。

 もちろんよく読める文を繰り返し書くというのをやってもらってかまいませんが、どうせ学校の宿題でやらされます。5月頃にはそんな宿題を出す教師が多い です。学校の宿題で書かされるとして、その時に、「語のイメージの核」を求めてやるのと、ただひき写しでペンマンシップをやっているのとでは、その後が まったく違ってしまいます。それぞれの語には「イメージの核」があるということを子供が気づくためにも、辞書をひかせるのがいいと思っています。

 今どきですから、電子辞書でまるでかまわないと私は考えています。
 ただ、学校の先生の中には、自分が自動車で学校に来ているくせに、子供が電子辞書をひくことをいやがる人がいて、何の根拠でその嫌悪を子供に押しつける のがわからないまま、子供は従うみたいな光景があります。
 家で電子辞書をひくことはいいと思っています。



【12327】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月 5日(土)03時04分43秒

大事なことを言い忘れました。
辞書のひき方を覚えたお子さんは、すでによく読める文に出てくる単語とか、自分の好きな歌に出てくる単語とかを調べればいいと思います。その方がお子さん は面白がると思います。そういう作業と、書きながらイメージすることを交互にすることがいいと思います。



【12328】
松澤喜好・英語耳・ASCII・2004年10月8日初版 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 4月 5日(土)03時36分32秒

 この本は、好感をもって読んだ。英語のよく使える人が書いた本としてはかなり謙虚な調子で書かれているからだった。穏当な人だと思ったのだった。しか し、これも、村田君が引用してくれた別の本の前書きで、化けの皮だったらしいことがわかった。村田君が引用した部分から判断するが、脳に関して言っている ことが駄目なのである。脳の問題じゃなくて、「磁場」の問題だということを言明できないのが駄目なのである。それができないから、理論として駄目なのであ る。脳なんぞの問題にして、「磁場」の作用を小さめに書き、居丈高になるのが、化けの皮がはがれた姿なのである。
 この人は私の理論によれば、「よく準備を整えたうえで、磁場に渡った人」なのである。この本の中のところどころに、「私の英語学習歴」というコラムがあ るが、そこから引用する。

(p.92)
 1979年から1981までの2年間、駐在でイギリスに行きました。私はイギリス人開発チームの一員となり、開発エンジニアの1人としてプログラミング を担当しました。(略)報告も週報もソフトウェアのレビューも当然英語でしました。はじめのうちはミーティングで自分の進捗の説明を細かいところまでは説 明しきれなかったため、絵や説明資料を事前に書いて言葉を補っていました。2年目になると自由に細かいところまで意思疎通ができるようになりました。

 これが語っていることは、日本で十分な準備をして磁場に渡った場合は、2年でも闊達な英語が手に入るということです。しかし、それが可能になるのも、そ こが「磁場」だからということを軽んじています。ここを軽んじることが、日本で英語を媒介に商売にするときの最大のコツですが、それをちゃんと踏まえてい ますね。それが気に入りませんね。
 この人は、「磁場だけがもたらす作用」を一般の人よりはるかに短期間に取り込んでいます。それは日本にいた時の準備の厚みが相当なものだったからです が、それでも、「2年目になると自由に細かいところまで意思疎通ができるようになりました」ということは磁場においてでなければ生じないことだということ をはっきり書かないのが駄目なところです。
 そういうことで言うなら、英語回りの人だましという伝統の内にある人です。

 それでもしかし、この人が日本にいたときに作った「準備の厚み」は非常に参考になります。語学理論を言っている本だと思わず、自分の経験に即してハウツ ウをアドバイスしている本だと思って読めば、そんなに腹も立たないで済みます。

 多分、私が古本で買ったのが松澤さんが最初に書いた本だろうと思いますが、ここに書かれている方法はなかなかいい。英語が達者な人が一般にはっきり書こ うとしない「繰り返しの効用」を書いているのがいい。その一点では、國弘政雄と同じように評価できる。

 ひとまずハウツウを求めている方にはおすすめしたいくらいに、方法自体はいいものです。

 ただ、bebeさんや村田君が評価していた、「発音の指示の仕方」が私は気に入りませんでした。音の外側から概念的に説明しているだけで、該当の音がす でに獲得されている人には「なるほど」と思わせるかもしれませんが、該当の音をまだ獲得していない人には、こんな説明で音が獲得できるはずがないと思うと ころがいくつもあります。該当の音の本質を言えていないのです。

 村田君が読んだのが2冊目なのかなと思いましたが、村田君が引用してくれたところを読んだ限りでは、松澤喜好という同名の別人かと思うくらい、2冊目 (?)のもの言いは居丈高です。一冊目は人にすすめたいと思ったのに、二冊目は読む気もしない。



【12329】
音の説明が本質的でない一例 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月 5日(土)04時01分13秒

 e と a の組み合わされた発音記号が指示している「一瞬般若」の音に関して、松澤さんは次のように説明します。

 [e]の口の形から[a]の口の形まで、口をいきおいよく移動させながら発音します。発音の最後では、日本語の「ア」よりも大きく口を開いた状態です。

 こんな説明で、初心者が「一瞬般若」の音を獲得できるわけがありません。これが納得できるのは、「一瞬般若」の音をすでに獲得してある人だけです。概念 的であり、外在的であり、ものごとを判然とさせるというより、より混乱させる説明であると私が批判しても、おそらくこの人には私が言うことがわからないで しょう。自分の体感を「自然」としてしまっているからです。

 「一瞬般若」の音の私の説明の仕方は以下の通りです。

・口の両端を斜め上に引っ張りあげる
・一番引っ張りあがっている時に出す

 このことで、この音の本質が「口の両端が動く」というところにあるということが生徒に伝わります。これで、かなりいやな感じの金属音めいた音が穫れ、生 徒は「一瞬般若」という音の核をつかみます。それが簡単に出せるようになり安定した段階で、次のようにも言います。

・顎をさげるともっと感じのいい音になるけど・・・

 どこをどうするということを言うにも、「口をいきおいよく移動させながら」などと言っているんでは駄目です。音の本質がそんなところにはない。この音の 本質は「口の両端が動く」ことにあるのであり、口がいきおいよく移動するなどというところにはないからです。そもそも、まじめな人なら「口を移動する」っ てどうやってやるんだ?と思うような雑な説明です。口を移動するって、口をおでこに持っていくんか?と思わざるをえないような雑な日本語です。
 ただ単に言葉の表面づらだけ正確なのでは駄目なのです。
 それでは実用知識としてはまったく正確にはならない。
 最大の売りの部分がまるでなっちゃいないというのが、この本の最大の欠点でしょう。
 しかし、それでも参考にできる部分が多くありますから、私が買った一冊目(?)はお奨めします。



【12330】
あいうえおフォニックス 投稿者:村田 投稿日: 2008年 4月 6日(日)00時59分55秒

今日のROGUE Statesの読み合わせの後、根石さんから、子供に教える時の「あいうえおフォニックス」の説明がありました。

書き言葉での「あいうえおフォニックス」はこちらです。
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/aiueo.html

今日のメモ。
・狭くこもった音をどのように出すか。
 →まず唇を狭くして、唇の狭さで「狭さの感覚」をつかんでもらう。
 →舌が上あごに近づくことによって狭さを出しているようになったら、OK。

・「狭さの感覚」は「唇の狭さ」→「口の中の狭さ」に移行していく

・狭くこもった音は /r/ とほぼ同じ

・「あいうえおフォニックス」をやる時期
 子供がつづりを見て、狭い音の感覚を自分なりに判断しはじめた時。その時に「あいうえおフォニックス」を教えると、子供は自信をもって狭い音を出すよう になる。



【12331】
単語耳 投稿者:村田 投稿日: 2008年 4月 6日(日)01時06分32秒

私が買った本はこれです。
「単語耳 英単語八千を一生忘れない「完全な英語耳」 理論編+実践編Lv.1」
松澤喜好 2007年6月6日第1版3刷 ASCII

初版は2007年4月9日です。
根石さんのは「英語耳」で私のは「単語耳」で、違う本でした。



【12332】
根石さん 投稿者:bebe 投稿日: 2008年 4月 6日(日)18時15分2秒

ご意見を下さりありがとうございます。僕が読んだのは「単語耳」です。1、2年のうちに英語圏の国へ行くことになり、どうやって勉強しようかと考えていて 見つけた本です。

・音の説明が本質的でない
・日本にいるときの準備の仕方は参考になる
・「磁場」という問題について言及がない

このあたりは特に参考にさせていただきます。



【12333】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2008年 4月 6日(日)18時54分9秒

息子がレッスンを始めてから、4ヶ月半が経過して、1年の教科書が終了しました。
この間、週一回のレッスンを面倒がることなく、日ごろの姿から比較して、かなり積極的に参加しているのはむしろ意外でした。
成績はともかく、授業の読みの場面などで、英語に対して得意意識をもってくれたようで、レッスンのおかげと感謝しております。
勉強一般に関しては、うかつにも最近初めて息子の勉強の中身を見て、元塾教師の目からみて、典型的な「まじめだけれども勉強が苦手な子」のパターンである ことに驚きました。英語に限らず、ある程度理解していることも、問題の形で出されると正解が答えられず、それをどう見直していいかもわからないという状態 です。
本人にも成績を上げたい、という気持ちがあるようなので、この春休みから、暇をみつけてその辺の基本的なノウハウをざっと教えるようにしています。
二年からは、根石さんの指導のとおり、回転読みに加え、回転書きにきちっと取り組むように本人と話しています。本人も、テストで点が取れない理由が、書い ていないことにあるという自覚をもっているようです。
あと、はじめたばかりですが、4月から、NHKの基礎英語2を親子で聞いています。
これは息子のためというよりも、親父の勉強に息子をつき合わせているのが実態に近いのですが、別々の時間に聞いて、出来る範囲で夜に基本フレーズの回転読 みの練習くらいいっしょにできたらと思っています。今のところ、面白がって聞いているようです。
本年度も、根石さんのレッスンを(親子の)英語(のみならず言葉の)学習の核として活かしたいと思っておりますので、どうかよろしくお願いします。



【12341】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月10日(木)05時15分58秒

高校生くらいになれば、息子さんに伸びがあると思います。
まだ、ちょっと萎縮していい子にしてるんだろうと思います。
テクニックを教えるのは、外在的な知識にとどめて、その後、もし、テクニック通りをやらなくても、放置して見守ることだけしていただければいいと思いま す。
子供は必ず大きく動く時があります。



【12342】
bebe さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月10日(木)05時19分39秒

本当は長いものを書いて、自己流の論文にしたいのですが、ただいま百姓仕事が大忙しで、短いものしか書けませんでした。少しでも参考になったらうれしく思 います。
英語圏で暮らし始めても、大風呂敷に時々書いていただけたらうれしいです。
英語圏で「磁場だけがもたらす作用」について書いていただけることを強く願っています。



【12343】
「自然農・川口由一の世界」(川口由一+鳥山敏子・晩成書房) 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 4月10日(木)05時22分29秒

名著です。
農業の本で、一見、英語学習と関係ないように思えますが、英語の学習法のハウツウ本を読むより、参考になるものが多いと思います。



【12350】
根石さんの詩B 投稿者:matsu 投稿日: 2008年 4月12日(土)08時33分43秒

町をぬけて    根石吉久

町には女が歩いていて
私はそれが気がかりだった
女にはいろいろがついているので裸体ではなく
はだしではなく
犯されて死んで片足だけみつかった
そのもとの体に似ていて
まだ犯されてはいなくて死んではいなくて
誘っているのだった

私は下を向いて歩いていて
夏の太陽だから首を撃ってきて
影は私の影だがくっきりと重くて
歩いてくる女の影がそれに重なるときに
何かが死んでゆくのだった

やっと目をあげると
町はぐるぐるとめまいしていて
いつまでもそこにあるのだった
みずすまし
みずすまし
狂うみずすましの影が水底で正円を描き

町はぐるぐるとめまいしていて
町には女が歩いていて
私はそれが心配だった
ふくらはぎやももがむきだしで
むきだしの脚に即してさかのぼれば
そこには私が思う穴が閉じていると思えば
それもやはりむきだしで
心配だった

町をぬけると
女のいない草っぱらに
太陽がひとつしたたり
私の莫大な影が
うすら青い手と脚をつかんで
背後にひどく伸びていった


「同時代批評2」(1980.11)より



【12351】
根本栄による根石吉久論  投稿者:matsu 投稿日: 2008年 4月12日(土)09時22分47秒

根石吉久が『詩的現代第1号』に発表した「蜜の味」は傑作だった。彼の詩のいっかんしたモチーフである<性的フェティシズム>への偏執と<生活>への鋭い 異和とが、見事な切り結びを演じていた。重くはない。はりつくような、つらいユーモアがあった。
「生活。このきちがいじみたもの」と壁に刻み込むようにかつて根石は書きつけたが、目覚めればそこにはいつも生活があるという理不尽さに、彼はどうしても 慣れることができないらしい。夢の裂け目から這い出た姿勢で彼は<生活>の輪郭をさかなでする。
早稲田の学生時代、高橋敏夫らと『はいまあと』という雑誌を出していた頃の根石の詩は、一編の詩の意味が極度に無化されていて、性的なるものへの嗜好も負 の生活感覚もその中心は周到にはぐらかされていた。端的にいってしまえば吉岡実『静かな家』の圧倒的な影響下に根石はあったのだが、その後の彼の変貌、 じょじょに詩に<意味>を呼び込んでいくその道程はスリリングな見物だった。
(ついでにいえば、『静物』でもなく『僧侶』でもなく『静かな家』の吉岡を好んだことは、根石の変わらぬ俗語使用への偏愛を示しているだろう。根石の詩の 魅力はいつも、ガラクタ同然のその言葉、その文体の発する低い調子にある)
吉岡実の世界に<意味>をひっぱりこむこと。それはもちろん吉岡とはまったく別の世界つくりあげることだが、根石は数年の時をかけて強行した。そこに見出 されたものの<中心>に、「生活。このきちがいじみたもの」という言葉があった、といっていい。
(中略)
1951年生まれの根石はすでに29歳になるが、いまだ第一詩集をもたない。根石よ。金がないのか。つらいな。 (「同時代批評2」1980.11 根本栄)



【12352】
根石さん 投稿者:matsu 投稿日: 2008年 4月12日(土)10時02分3秒

しばらくさぼっていましたが、久しぶりに根石さんの詩を引用します。
巴里子さんのように注目して読んでくださっている人もおられるのですね。
「町をぬけて」は、私が最初に読んだ根石さんの詩で、「書店で」と並んでもっとも好きな詩です。若い男の妄想のモノローグにさしはさまれた、第三連の転調 が印象に残ります。
根本さんの根石論は、短いけれど愛情あふれる、的確な批評に思えます。



【12354】
学年トップ 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月12日(土)20時46分58秒

 長野市にある信州大学付属中学2年生の英語の学年トップが素読舎の塾生だということが判明しました。今日、塾にきたAさんが、進級テストのテストで満点 だったと知らせてくれたのでわかったものです。満点は一人だけではなかったようですが、数は非常に少ないと先生が言っていたそうです。
 Aさんは小学校の高学年のときに素読舎を使い始めていました。



【12360】
学年トップ 投稿者:Naima 投稿日: 2008年 4月18日(金)00時03分46秒

素読舎の機関誌だったと思うんですが、学年トップ対談が掲載されてましたね。根石さんと生徒さんの会話がとても生き生きと楽しかったのを覚えています。各 学年のトップを員素読舎の生徒さんが占めていたように覚えていますが...



【12361】
成績と実力 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 4月18日(金)09時50分59秒

ここのところ、学校の成績について話題になっていますね。息子が中学生になり、いよいよ英語の授業も始まりましたので、少し考えてみたいと思っています。

学年トップのお話ですが、Aさんを含め、その生徒さん達は対面授業を受けている(いた)生徒さんでしょうか。電話レッスンの場合と対面授業の場合とで、生 徒が受ける影響に違いがあるのではないかと思ったのですが。



【12365】
戸倉分室でも学年トップ 投稿者:村田 投稿日: 2008年 4月19日(土)22時03分21秒

埴生中学3年生のR 君が英語で学年トップになっていたとわかりました。
(トップは同点で2人いるそうです)
彼は小学校高学年から始めて、一時期、他へ行っていましたが、去年の後半から戸倉分室へ来ました。戸倉分室へ来る前はモチベーションが下がっていたとのこ とですが、現在、入塾した時にくらべると練習の質も格段によくなっていて、試験の点数も右肩あがりです。
総合でも学年トップだとのことでした。



【12368】
村田君 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月21日(月)23時46分10秒

>埴生中学3年生の R君が英語で学年トップになっていたとわかりました。

 いいニュースでうれしいです。テストの点数は本当はどうでもいいことながら、子供の元気に作用するので、学年トップが出るとこっちもうれしくなります。
 私のところは、生徒わずか三人のうちの一人が学年トップです。昔は、やたらに学年トップが出て、埴生中学じゃ、1年と3年が学年トップか、2年が揃え ば、総なめだが、うまくいかねえもんだ、などと、赤鉛筆を舐めながら競馬をやっているおやじのような気分でした。
 素読舎は、自分で言っちゃいけないけど、言っちゃうけど、学校のテストの点をとらせるのは昔から上手なのです。それなのに、三人しかいない塾になりまし た。私がどれだけ地元から干されて生きてきたのか、その数字だけでよくわかります。
 今は、ご存知の通り、「電話でレッスン」でかろうじて生きています。
 地元と決裂するようなことをやりたがらないのが、村田君のいいところであり、時として弱腰のところです。ぎっくり腰が直ってよかったです、ひとまず。
 練習に時間がかかり過ぎるというような文句をよく言われ、今は時間をかけてやる必要がある時期だから時間をかけているんだと言うと、部活で忙しいから時 間をかけてもらっちゃ困るというような親があり、だったら、時間のかからない塾へ行かせればいいじゃないかと言うと、子供に素読舎に通わせるのをやめ、娑 婆には、「うちの子供をやめさせた」などと言いふらす糞ババアがいて、ババアなのに糞というか、糞なのにババアというか、そういうババアと糞の合体物が、 町の中では有力者の家だったりして、有力者なんぞに遠慮してものを言う私ではなかったので、つまり、干されたのです。

 東大出にも糞がいっぱいいるという話はひとまず棚にあげると、私の塾から東大に合格者を出したときも、同じ学年のやつらは5,6人だったと思います。信 学会なんぞ、数百人の中から一人二人東大合格を出して、バンバンザイやってるんですが、塾の質を考慮に入れれば、素読舎塾長は、信学会なんぞと比べられる のも鳥肌が立ちます。
 素読舎の塾生数三人、信学会の塾生数数千人でも、素読舎は意気軒昂ですね。
 めでたいというか、おめでたいというか。
 伝統的に、ゼニにはあんまり縁のない方法ですから、素読舎の伝統を守るのは大変なことですぜ。



【12370】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 4月22日(火)00時08分7秒

>学年トップのお話ですが、Aさんを含め、その生徒さん達は対面授業を受けている(いた)生徒さんでしょうか。電話レッスンの場合と対面授業の場合とで、 生徒が受ける影響に違いがあるのではないかと思ったのですが。

 学年トップがよく出るのは、対面授業の方が多いですが、今は(対面授業の)生徒数が少ないので、学年トップもあまり出なくなりました。
 総数では対面授業より少ないものの、「電話でレッスン」の生徒でも、学年トップが出ています。

 バラせば怒るかどうか。最近この掲示板に登場してくれた片原さんも、中学のときによく学年トップだった記憶があります。中学の時に対面レッスン、中学の 終わり頃から、素読舎「電話でレッスン」に切り替えました。今は信州大学教育学部に合格して松本にいます。
 片原さんの妹は今年、須坂高校の三年生になりましたが、こちらは高校に入ってから、何度か学年トップになっています。こちらは、小学校5年だったか6年 の時に、一年間対面レッスン、以後すべて「電話でレッスン」です。
 今、別のコンピュータに記録してあるのを見てみました。
 小5から開始。高校入学直後のテストで学年トップ。((ちなみに、須坂高校というのは、須坂、中野など、北信(長野県の北のほう)での、トップの学校で す。))
 2年生になって、進研模試(ベネッセ)の英語で学年トップになっています。

 「電話でレッスン」でも、小学生、中学生で十人ほどの生徒がいれば、何人かは学年トップにできると思います。自画自賛をすれば、点をとらせるのは素読舎 は非常にうまいのです。それが素読舎のレッスンがねらっているものではないだけのことで、点をとらせるのは今でもうまいはずです。

 学年トップになるかどうかではなく、肝心なことは、将来、英語磁場に交わったとき、砂が水を吸うように磁場の磁力を吸うことのできる基礎を作れるかで す。
 学校で点なんか取れなくても、磁場の磁力を吸う基礎が作れさえすればいいと考えています。



【12376】
成績と実力その2 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 4月22日(火)08時28分44秒

>点をとらせるのは素読舎は非常にうまいのです。

はい。存じておりました。根石さんが下記のような素晴らしい表彰を受けていることも。

http://www14.plala.or.jp/Sodokusya/sodokusy/hyoshojo.htm

学校の成績が良くても実力があるとは限りませんが、実力がつけば成績につなげることはできるのだと思います。尤も、実力があるがゆえに点を取りにくいテス ト、というのもあるかもしれませんが。

対面授業では、根石さんや村田さんのお人柄に触れることで良い影響を受け、勉強に気持ちが入っていくといった事があると思いますが、やはり素読の方法が優 れているので電話レッスンでも実力をつけて、結果として良い成績を取る子供が出ているのだろうと思います。

注意しなければならないのは、中間・期末テストといった、短い期間の目標を重視して学習を細切れで場当たり的なものにしないようにすることではないかと 思っています。

あとは、いつごろから週1回30分のレッスン以外の自主トレを始めさせるかですが、今のところ部活が始まってヘロヘロになっているようですので、慣れるま で様子を見たいと思っています。ちなみに部活の顧問は英語の先生とのことでした。



【12381】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 4月28日(月)12時48分26秒

私が中学生の頃は考えられなかったことですが、今は、中学校で教科書準拠のCDなどを販売するようです。CD、文型練習帳、単語帳などの「購入のおすす め」をもらってきました。教科書ガイド(いわゆるアンチョコ)はリストに載っておらず、この辺は昔も今も変わらないようです。たしか、Eliotさんでし たか、学校で積極的に教科書ガイドを使わせるという話題が過去ログにあったかと思いますが。

全部必要ない、ということで良いかとは思うのですが、CDについてだけ確認しておきたいと思います。根石さんに音作りのレッスンを受けているわけですか ら、媒介としてのCDは、現時点では必要ないのだ思います。そういうお話だったかと記憶しています。

ただ、今後レッスンが進んでいき、中2中3になったときに、もう一度振り返って中1の教科書を「只管朗読」するようなことが必要か、その際に、今度はCD を媒介として利用するということは必要か、ということです。

必要であれば、後々、教科書が変わったりしたら絶版になりますので、購入しておいても良いかなと思っております。

それとも、レッスンが進んでいったら中1の教科書に戻ることは不要で、次の教材に進んでいけば良い、という感じでしょうか。この先、2〜3年のレッスンの ステップアップのイメージを教えていただければ思います。

特に、ある程度まとまった長さの英文を読めるようになることと、レッスンとの関係について教えていただければと思います。



【12382】
らくださん 投稿者:村田 投稿日: 2008年 4月30日(水)05時06分55秒

横から失礼します。

Eliotさんが教科書ガイドに触れているのは「音作りへの道」ですね。
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/ron/otomichi2002.html

> その後は教科書の勉強に入ったのですが、音作りはこれからが本番と思い、授業時間の多くを音読に使いました。授業で英文和訳はまったくしませ ん。文法の説明も最小限にして、生徒には教科書ガイドと教科書のワークブックを買わせて、各自が自分で読み、問題を解いて内容や文法を勉強するよう指導し ました。授業では教科書の英文に音のつながりや変化が起こるところに印をつけたプリントを配って、それを使った音読練習を繰り返し、最終的には、課文の和 訳プリントを見ながら、まるで英文を読んでいるように英語が言えるまで練習させました。言えるようになったら、和訳を見ながら英語が書けるようにさせまし た。


CDについては、私は買っておいた方がいいと思います。
素読舎で以前、「技法グラウンド」を導入し始めたとき、塾生がもう飽きるほど繰り返して読んだ文に関しては、コーチが最初に言う代わりに、CDの音声を一 文づつ流し、すかさず塾生が繰り返す、ということをやっていました。
私は、媒介としての音で土台ができている文に関して、自分でCDの音声を聞き、自分の音とCDの音の摺り合わせをするために必要だと思ってやっていまし た。

>ただ、今後レッスンが進んでいき、中2中3になったときに、もう一度振り返って中1の教科書を「只管朗読」するようなことが必要か、その際に、今 度はCDを媒介として利用するということは必要か、ということです。

塾の方でやっているのは、まさにこういう感じです。
「常に復習をしていく」・「復習範囲を手放さない」。
だから1年のときの教科書にはいつでも戻れるようにしておく。
飽きるほど読んで、そらで言えるようになった文に関して、CDを聞いて言ってみる。だから絶版になる前に入手された方がいいと思います。

余談になりますが、小学校高学年で英語が導入されるというニュースで笑ったことがあります(生徒にとっては困ったことですが)。
小学校の先生で発音に自信がない先生が困っている、だけど大丈夫、音声CDがあるからそれを流せばいいのです、というニュースでした(フジテレビの「特ダ ネ」っていう番組でした)

「子どもは耳がいいからすぐ聞き取れるようになる」という物語に期待して、最初からCDを流すっていうのはいかがなものか。無茶なことをするなあと思った のですが、来年からそういう授業が本格的に始まるそうです。
CDの使い方に関しては素読舎とは反対の方を向いているわけですが、うまくいくとは思えません。



【12384】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 5月 2日(金)03時13分47秒

お返事が遅れ申し訳ありません。
音声CDは買っていただくことをお願い致します。
私のレッスンでの復習範囲に関しては、使いたければCDを使って練習してもいいことを、次回のレッスンの時、私の方から息子さんに言うつもりです。

中学3年間は「復習範囲を手放さない」ので、中学3年生になっても中学1年生の教科書を使う場合があります。訳先渡しをする必要がなく、技法グラウンドの 途中で扱う日本語訳を自分でどんどん作れるような生徒の場合は、2年の教科書から復習範囲にします。

 2年、3年になっても、レッスンでやることは今やっていることと基本的に何も変わりません。生徒さんに力がついてくると、レッスンの進度(先に進むス ピード)が変わってきます。そのスピード(私がではなく生徒が決めるスピード)によって、レッスンの中で多少省略する過程も出てくることがあるという程度 のことで、基本的には今と変わらないことを続けます。

ゴーストの「イメージ核受肉教材」を手がけるようになった時(高校入学後)、中学3年の教科書を復習範囲として残す場合もありますし、切り離して、「イ メージ核受肉教材」だけをやる場合もあります。

村田君がしてくれたコメントの通りでいいと思います。



【12388】
村田さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 5月 3日(土)22時39分11秒

コメントありがとうございます。

「音作りへの道」再読しました。英語の音作りというのは、手間と時間のかかる取り組みなのだと改めて感じます。CD購入します。

それにしても「復習範囲を手放さない」というのは至言ですね。英語に限らず大事な考え方だと思います。息子は今はまだ毎日部活(サッカー)があるという生 活に慣れておらず、勉強の方はあまり自主トレをする時間がとれていません。なので英語に関しては週1回のレッスン以上のことはさせていません。

少し時間がある時は小学校の算数の復習をやっています。算数がかなり怪しく、4年生からやり直して現在6年生。中学に入って数学になったのだから、小学算 数はリセットして再出発、という考え方もあるでしょうし、友達の多くが早くも塾に通い始めているようです。

しかし、あまり欲張ってあれこれやっても、結果として定着しないのでは無駄に時間を過ごさせることになると思い、思い切り復習重視でやっております。やり 方は、間違えた問題を間を置いて何度でもやり直して潰していく方法で、根石さんが以前、コメントされていたように思います。算数が一段落したら、英語の自 主トレを始めようと思っています。



【12402】
生きた英語と死んだ英語 投稿者:Jackie 投稿日:2008年 5月17日(土)17時14分21秒

生きた会話をならってもそれはたやすく死ぬ。
死んだ英語でからっぽの電池をつくれば、それは磁場で花開く。


一時の英会話ブームは去った模様。
しかし子供に英語を習わせる親は増えている。

幼児が母語を獲得するたまでに、毎日毎日の語りかけがあって、
繰り返しがあって、やっと聞き分け、そして発話するのに、
どれほどの時間がついやされているのか、それをなぜわからないのだろう、親は。

子供のころから習えば幻想か。

詐欺師・・・いまだ幻想を売ればもうかる時代なのか。

なかなか理解されない、からっぽの電池を教える仕事。

花開かせるにはどんな方法があるのだろう。


磁場以外で、生きた英語、生の英会話を外人から習っても、
繰り返しがないかぎり
たやすく死ぬ。「生の英語」は死んでしまう。


しかしからっぽの電池ー死んでいる英語、はよみがえることができるのだ。



【12403】
生きた言葉と死んだ言葉 投稿者:村田 投稿日: 2008年 5月18日(日)01時06分48秒

先日、根石さんと「磁場」についてのお話をしました。

そのとき、生きた言葉と死んだ言葉についての話が出てきたので、書きます。
日常生活の中の言葉は、「生きた言葉」です。
語学で扱う言葉は、「死んだ言葉」です。
生きた言葉を死なせるのは簡単で、言葉を状況から切り離して、繰り返し唱えることで、言葉を死なせることになります。

根石さんは、死んで、もう一度生き返ることが大事だといいました。
「単にスキルアップなら、こんなことは関係ないな。」
と根石さんは言いました。
「死んだ言葉の側から、生きた言葉を見れば、生きた言葉の方が世迷言に思える」とも。

状況から切り離された言葉をひたすら繰り返し唱えるという行為は、端から見たら気が違ったように見える、ということがこの掲示板でも何度か書かれていまし た。だけど、それは気が違ったように「見える」んじゃなくて、語学の瞬間は「気が違っている」のかもしれないと思いました。
根石さんが以前、「語学は本当はヤバイことだ」と言ったり書いたりしていましたが、先日お話している時、私は、本当にそうなのかもしれないと思いました。

でも、語学をしている瞬間は、意識が死んだ言葉の方へ行くかもしれないけれど、語学は死んだ言葉を生きた言葉にする行為でもあります。死んだ言葉と生きた 言葉の間を意識が往復し、生きた言葉をもう一度捉えなおすことに語学の意味があるのかもしれない、ということを、根石さんの話から私は受け取りました。

語学をする意味は、言葉を捉えなおし、生活を捉えなおすことにあるのかもしれないと思います。


「生きた英語」を「生きた言葉」として身につけるなら、英語圏へ行ってそこに永住するしかないってことになりますね。
ネイティヴに対する劣等感は、スキルにのみ価値を見出すところから出てくるんでしょう。


(このときの話はテープに録音してありまして、詳細は、テープ起こしをしたものを近いうちに掲示板に投稿しますので、お読みください)



【12405】
生徒さんからのメールと私からのお返事 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 5月24日(土)02時20分42秒

根石様

横浜のKです。いつもお世話になっております。
今回は私の夫のレッスンの申し込みのお願いです。
私のレッスンの様子を見て影響をうけたようで
自分もお願いしたいといっています。
もし今後枠があくようなことがあれば
是非お願いしたいです。
枠がないのは承知していますので気長に
待たせてもらってよろしいでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。

---Kさんへのお返事---

 ありがとうございます。
 一読、泣き出しそうになりました。
 こんなふうに評価して下さる人がいるんだと思って生きていきます。
 枠が空きましたらすぐに連絡させていただきます。
 心配なのは、家計に響くお金の額です。
 普段から、生徒さんのレッスンをしながら、英語にこんなに金がかかっていいの
かと思っている時があるのです。

 スカイプを導入されるのはどうでしょうか。
 光通信とコンピュータが二台必要になりますが、奥様と旦那様とで一緒にレッスンを
受けられたらどうでしょうか。それなら、お金は今のままでできます。コーチ一人、生
徒二人でも、レッスンの効果は半分に減るということはありません。自分が発音してな
い時でも、もう一人の生徒さんの発音や私の発音や、他の生徒さんの発音を直す過程な
ど、聞いているわけですから、お金は半額、もしかしたら効果は倍増ということもあり
得ないことではないと思っています。

 スカイプは使えます。
 電話代もタダになります。
 ご検討下さい。

根石吉久



【12406】
昨夜掲載したものへの註 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 5月25日(日)01時30分56秒

横浜のKさんは、最初小学校5年生のお子さんを私に預けてくださいました。小学生から英語をやらせるのはよろしくないというような議論がこの掲示板でなさ れた後でした。多分、素読舎の方法なら小学生にやらせても大丈夫だと確かめられて申し込んで下さったのだと思っています。その後、「娘があんまり楽しそう にやっているので、私もやりたくなった」と言われ、Kさんご本人もレッスンを始められました。子供でも大人でも私のレッスンは一枠1万2千円がかかってし まいます。(一対一を基本とするレッスンなので、これでようやく続けてやれています。)お子さんとKさんと二人で2万4千円いただいていますが、旦那さん も始めたいと言い出されたとのことで、うれしいと同時にびっくりもしたのでした。英語一つで、家計の中に3万6千円も占めてしまうのは、私の家の家計(家 族4人で月20万円程度)から考えると、目の玉が飛び出るようなことなのです。それで、Kさんのメールを一読、泣き出しそうになってしまったのでした。
 でも、あくまでも我が家の家計を基準にしてのことだとお断りしなければなりません。



【12407】
Jackie さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 5月25日(日)01時38分51秒

村田君と喫茶店で死んでいる英語やからっぽの電池について話した直後に、ちょうど同じ話題で投稿していただいたのでびっくりしました。
テレパシーってものを信じそうになりました。



【12408】
ニュース 投稿者:Jackie 投稿日:2008年 5月26日(月)12時46分12秒

政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)が
26日に福田康夫首相に提出する第1次報告が25日、明らかになった。
日本の国際競争力を高める観点から英語教育の「抜本的強化」を強調、
小学3年から英語を必修化させるほか、毎年10万人の高校生を英語圏に留学させることなどを提言した。

1次報告は、(1)小中学生への携帯電話からの有害情報対策(2)若い保護者の子育て支援
(3)留学生30万人計画の国家戦略(4)英語教育の抜本見直し(5)環境教育
−の5本柱で構成されている。

懇談会が英語教育についてアジア諸国と比較したところ、日本で中学校までに教える
単語や語句の数は中国や韓国、台湾の小学校終了時と同程度でしかないことや、
教科書の分量も日本が各国の半分以下で中国とは6倍も開きがあることなどが分かった。

このため、新学習指導要領で決まった平成23年度から始まる小学5年からの
完全必修化よりさらに強化していくべきだとの意見で一致した。

小学3年からの英語教育実施に向けて、年35時間以上英語の授業を行うモデル校を
全国に5000校設けて支援する。TOEIC、TOEFLや英検を活用することも明記し、
具体的には小学校から大学までの各段階での到達目標、英語教員の採用基準に
それぞれ使うことを入れた。

このほか、日本の伝統・文化を英語で紹介できるような教材をそろえることや、
メディアに対して日本人向け英語放送の充実に取り組むことを明記した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080526-00000050-san-soci


日本の伝統文化を英語で紹介なんて高度な技術だ。
伝統や文化をしらない小学生や中学生にそれを英語で紹介させるなんて荒唐無稽。

そういえば、英語教育関連で
環境問題を英語で話せるようにするなどという英語の授業モデルもあったなあ。

環境問題だあ、熱帯雨林だあ、って大人だってよくわからないのに、
未生徒たちにそれを議論させる大人のエゴを感じたよ。

レジ袋有料化でエコ?
個人的にはレジ袋有料化なんて企業のエゴだとおもってる。
一年に一家庭が使うレジ袋は、石油燃料に換算して1Lペットボトル3本分にみたない。

ちりも積もれば山となる。とはいうが、
じゃなぜ、魚や肉のプラスティックトレーは有料化しないんだ?
昔みたいに新聞紙に来るんで持ち帰るのがエコじゃないのか?

24時間スーパーが近くに開業しようとしている。その企業が「エコのためレジ袋有料化します。」とかいうと夜中にコウコウと電気をつけて、冷暖房するほう が環境にわるいだろと。

白熱電球をやめてエコロジー?トイレと階段ぐらいしか使ってない家が多いのでは?。
蛍光灯型白熱灯は高いけれど省エネでエコ??

世の中胡散臭いことが大手を振ってまかり通っている。

でも胡散臭いことも毎日テレビや新聞で「エコエコ」と宣伝されると
信じる人が大多数となり、
疑いをもつものは「この人、変」といわれるのである。


しっかし英語必修化はビジネスチャンスだよなあ。
乗っからない手はないよなあ。

消費税あがったらモノをうる雑貨屋みたいな商売は一番先に打撃が来るし、

二束のわらじをはかないと生きてはいけなくなりそうだから、英語の勉強は再開使用かと思うのであった。

英語なんて忘れてしまっている
遠ざかると、英語なんて簡単に忘れてしまう。Toeic?受験料高すぎ。
Toeicが何点だろうと、留学しようと、磁場から離れてしまえば、そしてメインテナンスしなければ英語なんてわすれてしまうのだ。
生活に必要ないからだ。ある程度英語をやってもわすれてしまうのに
小学校から英語をやれば「身につくよくつく」とでもいうのかね?

それこそ「なんで英語やるの?」
英語を小学校から始めると「国際競争力」が高まるんだ???

国際競争力ってなにだ?

国際競争力のため法人税を下げるとか、国際競争力のため、移民を入れるとか
なんか、水戸黄門の印籠なみにつかわれてるが、
水戸黄門に失礼だ。

英語再開にも多大なエネルギーがいる。
またあの、英語幻想、英会話幻想に惑わされた人たちに、地道な英語をわかってもらう作業。

あーやだやだ。

根石さん、村田さん、よくがんばっていますね。尊敬。



【12409】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 5月26日(月)15時10分55秒

土曜日の部活の練習中に息子が右の鎖骨を骨折しました。いつかは怪我との闘いがあのだろうと覚悟はしていたのですが、こんなに早く訪れるとは思っていませ んでした。痛みは大きくないらしく元気にしておりますが、当分、練習に出られないことが悔しいようです。

利き手は使えるのですが、あまり素早く書くことができないため、レッスン中に与えられる訳を書き留めることに手間どるかもしれません。CDと一緒に教科書 ガイドを購入してあるのですが、あらかじめ意味を確認させておく方が良いでしょうか。



【12410】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 5月28日(水)01時44分46秒

 レッスン中に私が生徒に渡す訳は書き留める必要がありません。書き留めないほうがいいのではないかと思っています。そのことは息子さんに言ってありま す。
 書き留めたいということ(多分、文法的理解)があれば、もちろん書き留めてもらっていいのですが、訳そのものを書き留めるのは必要ありません。
 「書く」ということでどんどんやって欲しいのは、すでにレッスンでやった部分(復習範囲)の文を、考えながら、イメージしながら書くという作業です。
 耳と目と頭脳があれば、レッスンの時間は他に要りません。
 レッスンの時間以外で「回転書き」をやって欲しいと思っています。



【12411】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 5月28日(水)10時01分15秒

ありがとうございます。

> レッスン中に私が生徒に渡す訳は書き留める必要がありません。書き留めないほうがいいのではないかと思っています。そのことは息子さんに言ってありま す。

そうでしたか。息子はやり方を誤解しているかもしれません。2回程レッスンの様子を見た時は訳を教科書に書き取っていました。意味を書き留めておかない と、後で困ると思っているのだと思います。

これではレッスン中の音に対する集中力が落ちてしまう可能性があるかと思いますので、注意しておきます。

実は怪我をする数日前から自主トレを始めていました。「電圧装置」を使ってはどうかと思い、『英語どんでん』の該当箇所を読ませ、教科書を頭から殺しちゃ おうぜ、という話をしていました。

今は右手をあまり使えないため一時中断と相成りました。骨がくっついたら再開させたいと思っています。



【12412】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 5月29日(木)03時00分29秒

 書き漏らしていました。

>CDと一緒に教科書ガイドを購入してあるのですが、あらかじめ意味を確認させておく方が良いでしょうか。

 どちらでもいいと思います。教科書ガイドはとても出来が悪いですので、理解から生じる「意味」が手に入らず、「訳」の丸覚えをやってしまう可能性が非常 に高いと思っています。これまで、私が渡す「訳」をメモしていたのと同じようなこととして、教科書ガイドを読んで「訳」を覚えることは、レッスンでは無効 になることが多いです。といいますのは、私は結構「直訳」をやらせるのです。日本語として変だけど、英語の構造をつかまえているかどうかは「直訳」じゃな いとわからないからと生徒に言い、「直訳」をやらせます。
 教科書ガイドの説明は出来が悪いですが、「訳」はそれなりにこなれており、このこなれた「訳」を覚えても、私が「直訳」でやってみなと言うと丸覚えの 「訳」は無効になってしまうのです。
 私が渡す「訳」もメモする必要がないというのは、自分で理解して自分なりに訳すことができるようにするためです。生徒は1年半くらい非常に困ります。困 り続けてもらうことが必要なのです。



【12413】
らくださんへの記事への註 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 5月29日(木)03時04分28秒
混乱が大きい方が、収穫も大きい。
理解が生じる過程は、整序されたものではない。
大きな混乱からこそ、見事な整序が得られる。



【12414】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 5月30日(金)09時55分56秒

ありがとうございます。

考えさせられることが多々あります。「音作り」の重要性についてはわかったつもりになっていましたが、とにかくお任せしておけば良いと、レッスンの流れや 「日本語訳先渡し」の位置付けについてあまり考えておりませんでした。

しかし、想定していたことではありますが、早くも「素読舎におまかせ」ではすまなくなってきたと感じています。つまり、子供の気持ちの中に学校英語との摩 擦が起き始め、親として調整しなければならなくなってきているからです。とりあえず、過去ログから引用し、考える材料にしたいと思っています。

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【11041】
【タイトル】nishiazabu さん
【記事番号】1633 (2147483647)
【 日時 】06/12/11 21:36
【 発言者 】根石吉久

>根石様は意味をどの程度意識して
>音読すればよろしいと思われますか。
>意味を意識すれば当然音読のスピードは遅くなります。
>スピード重視か、意味重視か、その都度使い分ければよいのか

 これは、初心者と中級者・上級者で違ってきます。
 初心者(小学生・中学一年生)の場合は、まず「音だけ」を作るのがいいと思います。意味は後からわかってくればいいとしておいて、「音だけ」に集中させ るのがいい。
 この場合の「音だけ」の「音」とは、一単語を対象とした「音づくり」ではなく、文まるごとを一単位とした「音づくり」による「音」です。従って、音と音 のぶつかりあいの処理やリズム・イントネーションまで含めた「音」(の連続)です。
 中学生の教科書を使った私のレッスンでは、復習用に、生徒に5回以上同じ文を繰り返させたら、私が日本語の訳を言ってしまうということをやっています。 もう少し詳しく書くと、

 「コーチの読み1回」→「生徒、同じ文を繰り返し5回(以上)」→「コーチの日本語訳」→「生徒、日本語訳を復唱」→「コーチの読み1回」→「生徒、同 じ文を繰り返し5回(以上)」

 「コーチの読み1回」→「生徒、同じ文を繰り返し5回(以上)」を一単位として「技法グラウンド」と名付けてありますが、技法グラウンドで、「コーチの 日本語訳」→「生徒、日本語訳を復唱」をはさんである(サンドイッチにしてある)わけです。
 中学生にこれをやらせているのは、その場ですぐに意味にしなくてもよい、意味は他から与えられたものでもいい、単語になじみ、語法になじみ、構造がわか り、最後に「自分で意味がとれる」ようになればいいという考えでこうしています。初心者には、音の連続性を通じてまずは英文に「なじませる」。よくなじめ ば、英文の内部に潜り込むことが容易になるので、単語のコア・イメージをつかんだり、構造的把握(構文把握)が自分でやれるようになります。逆から言え ば、自分でそれがやれるようになるための準備を常日頃から繰り返しているということになります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【12061】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2007年11月19日(月)11時23分26秒

 小学生のレッスン では、「訳先渡し」をやります。
 「訳先渡し」と「音づくり」の組み合わせは、楽になじんでもらうためです。
 ひとまずは、目をなじませ、口の動きをなじませるという順序を踏んでいるところは、方法的には素読直伝だと思います。

「お遊びじゃないな」という尻込みは、むしろ、レッスンを始める前に持たれてしまうのかもしれません。
 語学論の「がちがち」さ加減と、実際のレッスンの様子とはまるで違います。
 この落差は私にはどうにも埋められません。
 現在の生徒さんが、語学論の固さとレッスンの使いやすさは別物だともっと書いてくれればいいんですが・・・。

「落差」があるから「楽さ」、なんですが。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

後者は、去年の秋に私にコメントしていただいたものです。



【12421】
「イメージ核受肉教材」の記述について 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 6月 1日(日)12時25分5秒

 以前の生徒さんから、「イメージ核受肉教材」の記述についてメールで意見がありましたので、ひとまずその意見を転写いたします。その後、私がさしあげた メールを転写いたします。以下、引用です。
------------------------------------------------------
根石さん

横浜のYです。  突然のメールですみません。
家内から質問がありまして、私の方で考えをまとめたものを送らせてください。
お時間のある時で結構ですので、一読願いますでしょうか。


Well, I think she hit her head harder than we think.

Well, she was talking to nobody that wasn't there before she even hit her
head.

Well, I know she is, but you know sister can do that.

・・・
この会話に出てくる nobody that wasn't there のイメージが難しいと
家内に言われました。 学校で、否定の否定(二重否定)は「肯定だ」と習ったと
いうのです。
この二重否定の理解が難しいというのですね。

nobody を否定しているので、somebody になるのではないか、、と言うのが質問でし
た。

出勤前でしたので、私は家内に「口語では、二重否定は肯定ではなく、
否定を強調するケースが多いから、、この文章は、nobody (誰もいなかった)とい
う否定を、強調したにすぎない」そのように伝えて家をでました。
・・・

帰宅すると、スクリーンプレイの日本語を読んで、それでもわからないので、根石さ
んのテキストの文法解析を読んだが、それでもわからないと言われました。

スクリーンプレイの日本語訳は次です。
She was talking to nobody that wasn't there before she even hit her head.
頭をぶつける前は存在しない人と話しなんかしなかったもの。
(以前は頭は正常だった、、と、言いたいのだと思います)

根石さんのテキストに出てくるイメージは次です。
彼女はそこにいない誰にも話しかけていなかった。/ 彼女が彼女の頭を打つ前でさ


「そこにいない誰にも○○してなかった」
う〜〜ん、、この日本語のイメージが難しかったのです。

しかも、、最後に「〜でさえ」がつくので、ちょっと違和感を感じます。
ロジックと言いましょうか、、つじつまが合わなくなる日本語に感じますが、
どうでしょう?

・・・
私のイメージは次のようなものです。
家内には、nobody that wasn't there を、ghost に置き換えて読むように伝えまし
た。
日本語にするなら「独り言」がハマルと思いました。

She was talking to nobody that wasn't there before she even hit her head.

She was talking to a ghost before she even hit her head.
   ↓
She was talking 独り言 before she even hit her head.

目に見えない(存在しない)誰かとは話をしていたわよ、頭を打つ以前から、、(頭
を打つ前でさえ)

(頭を打つ以前だって、誰かと(ゴーストと)話をしていたわよ)
(独り言は、頭を打つ以前からよ、、、)

これが私の中のイメージです。 肯定文だと思います。
それをハッキリさせるのが、even のイメージです。

・・・・
スクリーンプレイの対訳和文

思ったよりひどく頭をぶつけたみたいね。

頭をぶつける前は存在しない人と話なんてしなかったもの。(← evenのイメージが
抜けた日本語)

話をしてたわ、だって霊媒師でしょ。

・・・・

スクリーンプレイのこの場面の対訳は、英語のロジックを優先しないで、
日本語での面白さを優先させたものだと思います。
英語のイメージの動きは違うと(私は)感じています。
私の中のイメージの動きを整理して日本語をスッキリさせてみました。

・・・・

思ったより強く頭をぶつけたみたいね。

でも、頭をぶつける以前だって、彼女は独り言を言ってたわよ。

独り言は知ってるわ、、でもシスターがゴーストと話せるってあんた知ってた?


・・・・・
教科書どおりの訳ではないですが、次のイメージの動きを見てください。

思ったより強く頭をぶつけたみたいね。

でも、独り言は以前もしてたから、頭がおかしいのは今に始まったことではないで
しょ。

前の彼女の独り言は知ってるわ、、、でも本当に頭がおかしくなっちゃったみたい
よ。

・・・・
ここの解釈をするために、レンタルビデオ屋で映画をはじめて借りてきました。
場面のイメージを見て、イントネーションも確認すれば、僕の解釈を確信できると
思ったからです。

この場面の最後のセリフですが、、
そこには薄い疑問のようなイントネーションが加わっていると感じました。

Well, I know she is, but you know sister can do that.
  ↓
Well, I know she is, but you know sister can do that?
  ↓
Well, I know she is, but did you know sister can do that?


・・・・
私の言いたいポイント:

nobody の入っているこの文章は、
「○○でなかったことはなかった」というイメージの動きではないと(私は)思うの
です。
nobody だと「否定」のイメージですが、この文章全体の核は、
あくまでも「話していた」という肯定だと私は思うのです。

否定プラス否定が必ず肯定になるわけではない。
否定プラス否定は、否定の強調されてるケースが多い。

後半にでてくる even の単語のイメージが重要。
evenが書いてなければ、スクリーンプレイや、根石さんの解釈もありえると思います
が、
even があるために、、「今に始まったことではない」という事が強調されていると
思います。

どうでしょう?



【12422】
メールへのお返事 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 6月 1日(日)12時40分25秒

先ほどさしあげたメールに書き加えたいことが出てきましたので、再度メールをさし
あげます。

------------------------------------------------------
メールありがとうございました。
おっしゃる通りでいいと思います。複数の生徒さんを相手にレッスンをしており、私
自身が同じ文に何度も出会いますので、どうもはっきりしないな、どうもピンとこな
いなという部分が、次第にはっきりしてくるということがあります。この過程は、眠
さをこらえてはっきりしないアタマで、「イメージ核受肉教材」を作っているときの
あいまいさが後にはっきりしてくる過程にもなっているわけで、後で改訂しなくちゃ
駄目だなと思うところがいくつかあります。なにしろ、7万行台を使っている生徒さ
んがいるので、私はせきたてられるように先へ先へ解析を進めなければなりません。
ご指摘の箇所は、Yさんのおっしゃるように私の中でも現在では整理されていまし
たが、いまだ改訂をやっておりません。現在、テキストづくりは10万行を越えたと
ころで、「7年目の浮気」にとりかかっています。二重否定の似たような例にぶつか
った時点で、該当部分の書き直しをやろうと思っております。
現在の私のイメージを書いておきます。

------------------------------------------------------
> Well, I think she hit her head harder than we think.

 私たちが考えてるよりも強く頭を打ったみたいよ。

> Well, she was talking to nobody that wasn't there before she even hit her
> head.

 そうね。彼女は頭を打つ前でも、(商売上)そこにいもしない人に話しかけていた
 わ。

> Well, I know she is, but you know sister can do that.

 そう。彼女はそんなことをする。でも、(今は)(実在するゴーストと)話ができ
 るのよ。
------------------------------------------------------

 Yさんの解釈と私の解釈の違いは、Yさんが「独り言」ととらえているのに対し、
私は、オダ・メイが、客の前でも、架空のありもしない者に話しかけるというごま
かしをやって商売を続けてきたという事実を背後にしているという点にあります。
 オダ・メイのアシスタントたちが、この時点でも、ゴーストの実在を信じていな
いのであれば、「今は実在のゴーストと話ができる」が、そのままひっくり返り
「いよいよ頭がおかしくなった」という解釈になります。

 文法レベルでの理解は、ご指摘の通りです。
 いずれ改訂したいと思います。

> 根石さんのテキストに出てくるイメージは次です。
> 彼女はそこにいない誰にも話しかけていなかった。/ 彼女が彼女の頭を打つ前で
さえ

「話しかけていなかった」ではなく、「いもしない人に話しかけていた」と改訂する
つもりでおります。nobody に話しかけていたのであり、この nobody はこの場面で
は、あえてくどく言えば、「架空のありもしないごまかしの」ということだと思いま
す。それを言っているのがthat wasn't there という形容詞節だと考えています。

該当部分を書いていたとき、やたら急いで書いたため、スクリーンプレイのテキスト
の解釈に引きずられたのだと思います。スクリーンプレイ社の担当者の訳は誤訳でし
ょう。

ご指摘ありがとうございました。

返事は要らないとのことでしたが、個人情報を伏せて、「大風呂敷」に双方のメール
を公開しておきたいと思います。いずれ行う改訂のための忘備としてですので、ご了
解下さい。

根石吉久



【12423】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 6月 2日(月)01時14分40秒

 「訳先渡し」についてですが、これをやるのは、生徒が初めてやる文だけです。「復習範囲を手放さない」というのを原理の一つにしていますから、中学生の 生徒は毎回、レッスンの半分の時間は復習に使うようにしています。この復習の時は、技法グラウンドの後で、私が訳すのではなく、生徒に自分で訳させるよう にしています。
 息子さんが私の訳のメモをとったのは、復習のとき、私が訳を与えず、生徒に訳させるからだと思います。この復習が始めたばかりの中学生の生徒にはきつい のです。
 英語ジンセイ、楽もありゃ苦もあるという組み合わせでレッスンが行われています。
 メモをとってもらっても、害が生じるわけではありませんが、きついところを抜けるのが遅くなるだけです。これが学校の成績に反映する時期の前後に関係し てきます。
 先日のレッスンで、メモをとっちゃいけないわけではないけど、なるべくとらないようにしておいた方が、きついのを抜けるのが早くなるからということを息 子さんに言っておきました。



【12428】
何で「磁場」なんて言ってきたんだろう? 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 6月 7日(土)01時36分23秒

根石 近頃はさ、まあ、夜中の12時頃だけど、英語の仕事終わると、そのまま素直に寝れるんだ。一風呂浴びてから寝るってこともあるけど、そのままへたり 込むみたいにというか、泥の中に転がり込むみたいに寝ちゃうときもあって。百姓やり始めたおかげで、朝方まで起きてるってことがなくなってきて・・・
村田 今はもう起きてないんですか。
根石 寝ちゃってることが多いな。体くたびれるからなんだけど。英語のレッスンがない日でも百姓はやって、夜になるとお湯に行って長々と入ってくるから、 レッスンやる日より余計眠れる。
村田 温泉に入って眠くなる・・・。亀の湯ですか?
根石 そう、亀の湯。昼間、雨かなんか降ってると、とっておきの湯=国民温泉だな。最近は百姓やりながら、思ったり考えたりしていることが多くて、考えた ことを書きとめとくとか、それをきっかけにして何か書き始めて展開していくことが全然できないって状態なわけだ。だから、喫茶店で何か村田君を相手にしゃ べって、それを簡単にテープ起こしして、「大風呂敷」用の語学論の記事にしてみたいというのを考えついたわけだ。だけど、この間、夜寝れなかった時があっ たから日録書いたけど、あれは何時頃書いたか、夜中の2時か3時頃だったような気がするけど、書きたくなればああやって書くこともするけど、前に、「英語 どんでん返しのやっつけ方」でやったみたいに、村田君を相手に何かしゃべって、テープ起こしするみたいなやり方が、百姓仕事と組み合わせていくにはいいか なと思っているんだ。松岡さんに吉本隆明の「状況への発言集成」っていう三冊本を送ってもらって読み始めて、布団に横になって寝る前に読んでるんだけど、 読み始めるとすぐに寝ちゃう。だから、一冊読むのにものすごく時間かかる。一冊読むのに10日とか下手すりゃ20日もかけてる。
村田 いつもはどのくらいで読むんですか。
根石 そりゃたてつづけに読んでれば、一日で一冊読んじゃうようなこともあるよ。だけど、今はそういう読み方ができない。それから、ここ1、2年は、ごみ の問題で時間をとられてきちゃったんだけど、つくづくくたびれたというか、語学論の方をもっとやりたいって気持ちがある。
村田 掃除とか洗濯しながら、ネタを思いついたんで書きとめてあるんですけど・・・
根石 あ、書いてある?
村田 「大風呂敷」の方にはまだ書いてなくて、メモとして書きとめてあるだけなんですけど・・・
根石 そうやって書いてくれたりして、何かきっかけでも作ってくれれば、それをきっかけにして俺も書くってことになることもあるだろうけど、今はそれもま まならないなあ。あのさ、俺の言ってきたことで「磁場」ってのがあるじゃん?
村田 はい。
根石 そんな「磁場」みたいな言い方したところで、「それがいったい何なんですか?」みたいな反応ばっかりだという感じがある。
村田 そうですね。
根石 自分で「磁場」ってことを言い出したんだけど、自分でも「これでいったい何を言ってきたのかな」と思うときもあるわけだ。先に核になることを言っ ちゃうと、これ、言語が「生きてる」とか「死んでる」という問題を言ってるんだと思うんだよ。言語が生きてる場所ってのを「磁場」って言ってきたわけだけ ど、そこに生きてる言語ってのは、「話し言葉」であったり、「書き言葉」であったりするわけだ。で、どうなんだろう、「話し言葉」ってのは、俺が言ってる 「磁場」に、もろそのまんま「生きてる」。それに対して、「書き言葉」ってのはさ、「磁場」が人間の意識にとりこまれた後のことっていうかさ・・・
村田 はあ。
根石 だって、「書き言葉」なんて、普通一人だけでやるもんじゃん。だから、「話し言葉」の中で一番「書き言葉」に近いのは「独りごと」だよ。
村田 はいはいはい。
根石 「独りごと」ってのは、現象的にはあくまでも「話し言葉」だけど、相手もいないし、第三者もいないし、社会的な広がりと重なってるものとしての「磁 場」に対しては閉じてるわけだ。歴史的にはどうだか知らないけど、一人の人、個人ていう場では、「話し言葉」が「独りごと」化して、次に「書き言葉」にな るような気がする。で、「書き言葉」には「磁場」はないのかっていうと、明らかに「磁場」はあるんだ。だけど、「磁場」が生じる場所っていうのは、あくま でも一人の人間、個人の意識という場所だけだよな。一人の意識の中に「話し言葉」の体験の堆積で濃縮された「磁場」というのかな。意識が「磁場」そのもの なんだよ。
村田 うん、うん。そうです。
根石 それまでの生活過程とか育ってくる過程とか、話し言葉や書き言葉を全部含めた上でのあらゆる言語体験とか、そういえば、「読み言葉」ってのもあるし な。
村田 「読み言葉」?
根石 「読み言葉」や「聞き言葉」は、「発語」じゃなくなるわけだ。「話し言葉」に対して、「聞き言葉」が成り立つように、「書き言葉」に対して、「読み 言葉」ってのが成り立つ。おおまかに言えば、これまで「話し言葉」って言ってきたもののレベルには「聞き言葉」も含まれてるよとか、「書き言葉」って言っ てきたレベルには、「読み言葉」も含まれてるよってことになるけど、四つをわざわざ別々に考えれば、「話し言葉」や「書き言葉」は、あくまでも発語の言葉 であって、「聞き言葉」や「読み言葉」には「発語」ってのはないわけだ。

(続く)



【12434】
イメージについて 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 6月11日(水)10時22分13秒

根石さんと村田さんのweb対談、こういうの待ってました。『英語どんでんがえしのやっつけ方』(小学館文庫)を読み返しておりますが、師弟の掛け合いが とても良いですので。

今、なぜ『英語どんでん』を読み返しているかと言いますと、「イメージ」というものについて、どう書いてあったかを確認したかったからです。しかし、今回 のweb対談もそうですが話のレベルが高いです。『どんでん』におけるイメージについての話も。

レベルが高いと感じるのは、私が外国語学習の過程において、イメージをわしづかみにできるようになった経験がないので、実感を伴って読む事ができていない からだと思います。それはそれで、仕方のない事ですので取りあえずよしといたします。

当面問題に感じているのは子供への説明の仕方についてです。息子の普段の練習について、根石さんから「イメージしながら書く」という作業を勧められたこと に関してです。なるほど、と理解した気になっていたのですが、いざ実際に息子に説明する段になって、はたと気付きました。「イメージしながら」って、どう 説明すればいいんだろう。

appleは赤くて丸くて甘酸っぱくて...と、『どんでん』に書いてあるような説明はできそうです。モノでなくても、単語なら何とかなるかも知れませ ん。「最初はこじつけでも良くて...」とか「haveだったら何かモノを持っている場面を想像するとか」「じゃあ、教科書のI have a question Ms. Millerのhaveは?」「おー、そうか。モノとは限らないな。イメージを修正すれば?最初はこじつけでも良いって、そういう意味だよ。修正すれば良 いよ。そういうのこれからもジャンジャンでてくると思うよ」

という感じでしょうか。しかし、文の場合が良く分からないのです。イメージ=日本語訳でないことは確かだと思います。なので、レッスンでも訳の丸覚えに陥 らないための手を打たれているということだったかと思います。とすると、一つ一つの単語のイメージをくっつけて出てくる何か?でもないですし。何と表現す れば良いのでしょうか?

そのために「日本語訳先渡し」があり、イメージ=日本訳よろしく訳の丸覚えをするのではなく、一旦、訳を媒介として文全体が「こういうことを言ってる」と 諒解し、それを取りあえずのイメージとする、という感じになるでしょうか。

つまり説明としては「その文がだいたいどんなこと言ってるかは分かるんだろ?その、だいたいの意味を思い浮かべながら何回か書けばいいんだよ」といった説 明で問題ないでしょうか?

適切な説明をしておかないと、何も考えずに手を動かすだけに終わってしまうような気がします。「言いながら、書きながら、イメージする」。ことば面は簡単 そうですが、なかなか奥が深い行為だと感じます。



【12436】
イメージについて 投稿者:sb 投稿日: 2008年 6月13日(金)20時28分26秒

(らくださん)>日本語訳でないことは確かだと思います
「イメージしながら」って、どう説明すればいいんだろう。

逆に「どんなことがイメージに浮かぶ(頭に浮かぶ)?」と聞いてみるというのはいかがでしょう

返事がなければ下にあるようならくださん自身のイメージを使ってご本人がイメージするのを助けるのがいいと思います。訳語というのはイメージを助ける道具 にはなると思います

イメージに含まれているらしいこと

説明(日本語、英語、ジェスチャー。。。)

数字
写真

同じ単語を含む別の例文や映像
対象となるテキストを読む速度に緩急をつけることも本人がイメージしやすくなるきっかけになるかも

ありとあらゆることを利用して本人がイメージします
ただしそのイメージは本人にしか分かりません
本人以外が理解するためにはコトバを含むなんらかのコミュニケーションが必要です



【12440】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 6月14日(土)01時49分21秒

>根石さんと村田さんのweb対談、こういうの待ってました。『英語どんでんがえしのやっつけ方』(小学館文庫)を読み返しておりますが、師弟の掛け合い がとても良いですので。

 ありがとうございます。あの頃の調子をとりもどせるものかどうか、なんとか、しこしことやっていこうと思っておりますので、続けてお読みいただけたらう れしく思います。

>当面問題に感じているのは子供への説明の仕方についてです。息子の普段の練習について、根石さんから「イメージしながら書く」という作業を勧められたこ とに関してです。なるほど、と理解した気になっていたのですが、いざ実際に息子に説明する段になって、はたと気付きました。「イメージしながら」って、ど う説明すればいいんだろう。

 これ、私も生徒さんに「イメージしながら」ってどういうことなんですか?、とか、どういうふうに?とか聞かれることがあるんですが、どんぴしゃの説明が できません。ですが、ある一つの英単語について、「こんな感じだな、こんな感じの単語だ」というときの「感じ」というものが感じられれば、それでいいんで す。それがイメージの誕生です。これは、「感じ」ですから、すでに「訳語」ではありません。しかし、この「感じ」というやつを、「説明」によって生徒の中 に生じさせることは本来的にはできません。説明可能なのは「概念」であって、イメージではなくなってしまうと考えています。生徒が「こんな感じ」というも のを感じることによって、勝手に自分で動き出すものがイメージであり、説明によって了解したもの(概念)とは違うものです。抽象語はイメージと概念とが限 りなく近いと思っていますが、中学生が扱う単語には抽象語は多くないので、「こんな感じ」っていう「感じ」をつかむのが肝心ととらえていいと思います。

>appleは赤くて丸くて甘酸っぱくて...と、『どんでん』に書いてあるような説明はできそうです。

 これも甘くて丸くてというように言葉にして説明してしまうと、すでにイメージではなくなってしまいます。甘くて丸いああいう感じのあれ、っていうのが、 息子さんの中に自発するかどうか、それを感覚として持つかどうかが肝心なことになります。これは外在的に教師なりコーチなりが持たせることはできません。 生徒において初発がないとイメージにならないと思います。説明すると、初発ではなくなってしまうわけです。

>モノでなくても、単語なら何とかなるかも知れません。「最初はこじつけでも良くて...」とか「haveだったら何かモノを持っている場面を想像すると か」「じゃあ、教科書のI have a question Ms. Millerのhaveは?」「おー、そうか。モノとは限らないな。イメージを修正すれば?最初はこじつけでも良いって、そういう意味だよ。修正すれば良 いよ。そういうのこれからもジャンジャンでてくると思うよ」

 こじつけでもいいというのは、訳語(日本語)を媒介にして「イメージ」を作るので、その「イメージ」が英単語の本来のイメージと比較した場合にずれが生 じたり、夾雑物が混ざったりすることは避けられないということを言っていたつもりです。だから、「ずれ」や「夾雑物」を恐れる必要なひとつもないんだとい うことです。「ずれ」なんかを気にして、自分なりにイメージしないでいたら、理論的には、いつまでたっても本来の英単語のイメージ核に迫ることが始まりま せん。
 英語の「磁場」で生活すれば、「磁場」がイメージすることを強いるので、話は別になりますが、日本語の磁場で日本語を使って暮らしている場合は、英単語 のイメージというものは(個の意識という最小の<あるいは最大の>場で)強引に持つべきものとなります。
 なにはともあれ、自分なりに「こんな感じ」というのを感じるしかないわけです。その場合に、日本語の訳語がきっかけになります。あくまでもきっかけであ り、媒介物です。英単語に即してイメージそのものが生じて動くようになるということは、媒介物(日本語・訳語)を脱皮してイメージが動き出すということと 同じです。しかし、これは「説明」ではどうにもならないものだと思っています。一個人の中で、とにかくそれが動き出すかどうか、媒介物を脱皮するかどうか が肝心なことですから。
 説明可能なのは、語の概念や語と語の関係(文法)などで、それらの説明は私のレッスンでもしておりますが、イメージそのものは生徒が自分で自分の中に初 発させる以外にありません。
 以上、本質論です。以下、方法論です。
 レッスンで可能なのは、「イメージが生じやすくする」ということです。これこそが私のレッスンがねらっている最大のものです。訳語を与えたり、文法の説 明をしたりしていますが、レッスンを継続していただくことによってもたらされる果実は、本当はイメージが生じやすくなる状態というものだろうと思っていま す。イメージが生じやすくなるように、英語をやってごつごつする意識を道普請します。しばらくの間、説明は必要であり、生徒の側の混乱も必須なのですが、 レッスン継続の厚みがもたらす、「こなれ」が鍵になります。初めのうち、どうもなんとなくあやふやな対応をしていた生徒が、しっかりと文の構造を踏まえ て、語をイメージするようになるのに二年くらいかかります。。
 これに関連するのが、「音とイメージの二律背反」というものです。言い方は難しそうですが、実は簡単なことで、音や発音に気をとられていれば意味なんか 考えていられないということです。意味にばかり気をとられていれば、音がいいかげんになるという逆の関係もあります。後者は学校英語によく見られます。
 で、私がどうしているかと言えば、まず音を片付けてしまう。文まるごとの音全体を絶えず扱い、個々の音をなおしたりしながら、文まるごとの音がなめらか にはっきりと出ている状態にまで持ち込みます。このために「復習範囲を手放さない」わけです。何度でも復習して、読み(音読)が「こなれ」た文について は、生徒は個々の単語を非常にイメージしやすくなってきます。音に気をとられないでいいし、文全体の中に置かれた個々の単語は、文構造の理解からイメージ が充填されるということも生じます。音に気をとられなくていい状態を作るのに2年くらいかかるのと、文構造が理解され、語がイメージされるようになるのが 2年後くらいになるのは、内在的に関連しているはずです。音に気をとられなくていい状態になるのと、文構造の理解がしっかりし、イメージが動き出すのが同 じ頃だということです。それが、中学生の場合は2年くらいというレッスン時間の厚みだろうと思います。
 私のレッスンでこの2年を耐えた生徒が、ある学校のあるテストである点をとります。私のレッスンを受けた子供と同じ得点の子供がいた場合、私の生徒の方 がまず間違いなく実力があります。それは、多くの生徒がわけがわからず英語をやってるにすぎなくなる高校入学後にはっきりしてしてきます。私の生徒が高校 入学後にわけがわからず英語をやってるにすぎなくなることはありません。これまでにそれはありませんでしたから、これはもう断言してしまいたいと思いま す。
 matsu さんのお子さんは現在中学2年生ですが、1年生のときからレッスンさせていただいています。レッスンを始めた当初、なんとなくおおづかみにしている(日本 語訳を覚えている)が、文構造にもぐりこんではっきり理解しているわけではないという状態が続きました。この状態は放っておくと、理解できないという状態 につながっていきますが、最近になって、はっきりと理解している手応えが生じています。混乱の期間は割と短期間でした。はっきり理解し始めたことが、まだ 学校のテストの点には反映していないようですが、遠からず反映してくるだろうと予想しています。
 らくださんのお子さんの場合は、今、混乱が生じていると思います。これは良い兆候なんです。私のレッスンがなければ、混乱はもっと小さいものであったは ずなんですが、お子さんにとっては、今、混乱が大きなものと感じられている時期だと思います。ここのところはまかせておいていただきたいところなのです。 ストレスにならないなら、混乱が続いているのはいいことです。
 あらかじめ外在的に整序された秩序(文部省制定の文法の学年割りなど)ではなく、混乱や混沌からのみ生まれる秩序というものがあります。ほんとの秩序と いうものは本来そういうものだろうと思います。役に立つのはこっちであり、文部省なんかが作った外在的秩序では決してありません。小学生から始めていただ いたので、混乱が長引いているということがありますが、これはいい作用としていずれ作用し始めます。

>しかし、文の場合が良く分からないのです。イメージ=日本語訳でないことは確かだと思います。なので、レッスンでも訳の丸覚えに陥らないための手を打た れているということだったかと思います。とすると、一つ一つの単語のイメージをくっつけて出てくる何か?でもないですし。何と表現すれば良いのでしょう か?

 訳のまる覚えが役に立たなくなるようにするために、いわゆる「直訳」をやらせています。
 文法的な理解は、理解ですから、頭の作業が多いと思います。学校英語はこればかりやらせるわけです。イメージし、イメージと音(文字)を合体させるの は、頭脳の作業だけではないと思います。(脳生理学がどう言うのか知りませんし、脳生理学につべこべ言われようとどうしようと、比喩的には)胸に抱くこと ができるか、腹で納得できるかどうかというような、(比喩的ですが)首より下がかかわってくる作業ではないかと思っています。
 最終的には、文まるごとで一つのイメージが生じるようなことになるわけですが、今は、ここに至るための道普請をやっているところです。個々の単語にもつ きあうし、文法の理屈にもつきあうし、構造を感覚的につかむことにもつきあいますが、最終的にはそれらが溶けて一つのものになっていきます。レッスンはそ れが成立しやすくするための道普請です。
 不遜に聞こえても構わないので言ってしまいたいのです。これをもろそのままやっているレッスンは、おそらく私のものが唯一です。柴田さんの優れた学校で の実践でも、音づくりとイメージと構造理解と文法理解が溶けて一つになるまでの面倒は見ていません。私は、週一回30分のレッスンでそれをやっています。 柴田さんと私とで、どっちが「生徒まかせ」が多いかは、見る方向によってどっちにもなります。
 私が学校の授業をやれば、多分、柴田さんとはまったく違うことをやります。ネイティブ音との接点の面積は広いほどいいにしても、私はあれほどにネイティ ブ音をモデルとして、生徒に同一化させるということはやりません。教科書ガイドを読めばそれでいいとはとうてい思えません。ガイドの質があまりにも低すぎ ますから。
 私がやっているのは、道普請を続けて、イメージが動き出すようにすること、理解もイメージも構造把握も溶けて一つになることを生じやすくすることです。 柴田さんの学校のように超優秀な生徒ばかり集めて、東大合格何十人を売りにすることとはまるで違ったことをやっています。そのことを言うのに、柴田さんは おとなしい羊を相手にしているが、俺が相手にしてるのは、暴れる泥だらけの山羊なんだと言ったことがあります。
 百点満点で話をすれば、柴田さんのいる学校に集まる生徒は、80点90点をとる生徒です。私の生徒は、20点30点の生徒もたくさんいます。20点30 点の生徒を50点60点にし、70点80点にするわけですが、そうやって20点くらいから始めて、80点くらいになった生徒は、しばしば、柴田さんの学校 の90点以上よりよっぽど実力があります。
 道普請は続けていくわけですので、徐々に道は平らになっていきます。その過程で、生徒には「イメージしながら一つの文を繰り返しいっぱい書くように」と 言います。この言い方はいつも同じでいいと思っています。こまかく説明しても、説明は無力だと思っています。

 息子さんが高校生になった頃に、スカイプを使って、ゴーストの解析から始まっている「イメージ核受肉教材」を息子さんと一緒に使われることに再度お誘い したいと思っています。スカイプを使えば、電話代はまったくかかりませんし、レッスン代金一人分で二人でレッスンを受けていただけます。レッスンに参加し ていただけば、言葉数を多く費やして私が語学論として言っていたことは、なんだこんなことかとか、なるほどそうかとか、きわめて簡単に納得していただくこ とがいくつもあると思っています。是非ご検討下さい。

 また、しばらくの間は、息子さんの英語は私にあずけっぱなしにしておいていただくので大丈夫だとも思っています。



【12445】
スカイプ導入のおすすめ 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 6月14日(土)02時50分57秒

 酒が回り始めていますが、もう少し書いておきたく思います。

 娘さんを私のレッスンに預けてくださっていた方が、娘さんがあんまり楽しそうにレッスンを受けてるので自分でもやってみたいと言われて、ご自分でもレッ スンを受け始めておられました。そして、今日初めてスカイプを使ってレッスンを受けられました。
 ノンノン母さんです。(多分、「のんのんかあさん」ではなく、「のんのんははさん」と読むべきだと思います)
 娘さん(ノンノンさん)のレッスンの様子を見てお母さんがレッスンをやりたくなり、お母さんのレッスンの様子を見てお父さんもレッスンを受けたくなり、 私にはうれしい連鎖でした。今日のレッスンはご夫婦を相手のレッスンでした。
 奥さんのほうは、これまでのレッスン時間の厚みと音のこなれがありますが、旦那さんはいきなり口を動かせと言われたので、ずいぶんストレスになったかと 思います。一月も経てば、ストレスはなくなってきますので、レッスン時に申しましたことを少しずつやっていただくことをお願いいたします。

 で、
 スカイプのお勧めでした。

 現在電話を使ってレッスンを受けておられる方にも、スカイプはお勧めできます。

 通信回線として、ADSLか光が必要になります。OSはXP以後のものになると思います。(XPで十分使えます。)
 スカイプは、単なるパソコン用のソフトです。ヤフーやグーグルに「スカイプ」とか「skype」という検索語を与えて検索すれば、スカイプをダウンロー ドできるサイトが簡単にみつかります。ソフトをダウンロードして、パソコンで立ち上げ、自分のスカイプ名(自分で自分につけるあだ名みたいなもの)を登録 すればスカイプが使えるようになります。ソフト導入も無料ですし、このソフトを使えば、電話代も無料になります。使わないテはなかろうというくらいにいい ソフトです。
 このソフトを作った会社は、じゃあ、なんでモウケてるんだろうと不思議に思ったことがありますが、スカイプから電話につなげる部分でモウケが出るんで しょうね。スカイプから電話につなげるには、プリペイドのカードを購入する必要があるようです。私は今のところ、これは使っていません。

 通信回線さえ一定の品質が確保できれば、音質も電話と遜色がありません。電話よりも地の声はよく響くくらいです。

 現在電話を使っておられる生徒さんで、通信回線がADSL以上の方はは是非ご検討下さい。

 (建設会社が一日単位とか数日単位で賃貸しするアパートにひかれている回線は、非常に線が細く、スカイプを使うにはまったく不向きです。その程度の貧弱 な回線をひいて、高速回線などと言っている建設会社があります。十分お気をつけ下さい。今、一生懸命、会社名を思い出そうとしているのですが、出てきませ ん。なんて言ったっけか?倉庫業もやっている会社です。どなたか思い当たった方は具体的な会社名を書いて下さい。
 そうだ、村田君に硫黄じゃねえ、言おう。あれ、何という会社だったっけか?
 ああいう詐欺行為は、滅ぼしていく必要があるから、そっと携帯で教えて下さい。
 私の責任で、この掲示板に会社名を載せます。
 何ネットだっけか?)

 ま、スカイプのお勧めでした。
 スカイプを提供している会社の儲け方のシステムはさっぱりしていていいです。
 会社には申し訳ないが、スカイプ同士をつなげるとパソコンが消費する電力料金以外にはお金がかからなくなってしまうのです。
 スカイプを提供している会社は、掛け値なく立派な、志のいい会社です。

 くどいですが、スカイプをお勧めします。(私はその会社の回し者ではありません。いいものはいいってだけのことを言いたかっただけですので。)



【12449】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 6月14日(土)18時20分18秒

詳細なご説明、ありがとうございます。

>しばらくの間は、息子さんの英語は私にあずけっぱなしにしておいていただくので大丈夫だとも思っています。

はい。英語の実力をつける、という面については根石さんにお預けしておけば間違いないと思っております。ただ、それとは別に、これは英語に限らない事です が、そろそろ机に座って一定の時間を過ごす事も身につけさせたいと思っております。自分が中学生の頃にできていたかと言われれば返答に窮しますが、これは なかなか難儀です。

難儀なので、多くの親御さんは塾に行かせる事でそういう時間を作るわけですが、私はそれをしたくありません。そこで、週に1度のレッスンに関連づけた自己 練習を1日30分でもするようにすれば、力を蓄えつつ習慣もできて良いのではないかと考えています。

そしてこの自己練習について、「イメージしながら書く」ことを奨められましたので、それで行くことにしました。自己練習のメニューも、息子が自分で工夫し てできるようになるまで、できれば根石さんにお任せできないかと思っております。その時の状態に応じて、必要な指示を与えていただければと思います。そし て、できれば息子に伝えていただくだけでなく、掲示板にも書き込んでいただけると助かります。

イメージについてですが、私は単語や文のイメージを説明しようと考えたというより、イメージするということがどういうことなのか、について何らかの説明が 必要かと思ったのですが、根石さんのご説明を読み、そういう説明も必要ないことがわかりました。

「書いてみてどう?」と聞いたところ「手が痛い」と言っていましたので、腱鞘炎にならないよう注意してやるぐらいで良いのだと思います。



【12455】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 6月21日(土)03時23分19秒

>英語に限らない事ですが、そろそろ机に座って一定の時間を過ごす事も身につけさせたいと思っております。自分が中学生の頃にできていたかと言われれば返 答に窮しますが、これはなかなか難儀です。

 私も返答に窮するクチです。中学生の頃、一定時間を机に向かう習慣などありませんでした。これも、子供にまかせちゃったらどうでしょう。子供にやらせる んじゃなく、アドバイス程度にとどめておいたらどうでしょう。

>難儀なので、多くの親御さんは塾に行かせる事でそういう時間を作るわけですが、私はそれをしたくありません。そこで、週に1度のレッスンに関連づけた自 己練習を1日30分でもするようにすれば、力を蓄えつつ習慣もできて良いのではないかと考えています。

 もちろん、息子さんがそうしてくれれば力がつきますが、自分からそうするようになることを待つのがいいと思います。親はついあせりますから、待つのが けっこう難しいです。中学生頃にいじると、後でしぼんでしまうことはよくあります。

>そしてこの自己練習について、「イメージしながら書く」ことを奨められましたので、それで行くことにしました。自己練習のメニューも、息子が自分で工夫 してできるようになるまで、できれば根石さんにお任せできないかと思っております。その時の状態に応じて、必要な指示を与えていただければと思います。

 「言いながら、書きながら、イメージする」のがまだ難しいようですから、ひとまず単語単位で、それをやるのがいいと考えています。レッスンの時間以外に とれなかったので、まだ息子さんには言ってありません。

>そして、できれば息子に伝えていただくだけでなく、掲示板にも書き込んでいただけると助かります。

 なるべくそうします。

>イメージについてですが、私は単語や文のイメージを説明しようと考えたというより、イメージするということがどういうことなのか、について何らかの説明 が必要かと思ったのですが、根石さんのご説明を読み、そういう説明も必要ないことがわかりました。

 いや、説明できるなら説明した方がいいんですが、私もいまだドンピシャに言えないので、難しいことだと思っています。日本語に訳すことは、イメージする 途中にあることにすぎないということ、日本語に訳して満足していては駄目なことなどなら、言えるのですが、イメージすること自体を言葉にするのは、いまだ できません。

>「書いてみてどう?」と聞いたところ「手が痛い」と言っていましたので、腱鞘炎にならないよう注意してやるぐらいで良いのだと思います。

 これは気をつけてやっていただきたいです。激しく「回転書き」をやると本当に腱鞘炎になるおそれがあります。



【12457】
らくださん、根石さん、レスありがとうございます 投稿者:sb 投稿日:2008年 6月22日(日)18時40分21秒

イメージや訳語については根石さんより充分な解説がありました。
私がたいへん参考させていただいたinservice educationという単語で検索したHPにも、らくださんが参考になさるのに有益な情報があるかもしれません。もうごらんになっていらっしゃるかもし れませんが

らくださんのお子様が根石さんと出会われたことが幸いだと思います。
すべて根石さんにお任せしておけばいいと思います。

根石さん、私は3月末で教員を辞職しました。今はアルバイトなどをしております。また機会がありましたら、話し相手になっていただければ幸いです。



【12458】
sbさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 6月22日(日)19時05分25秒

 私が小学館から「英語どんでん返しのやっつけ方」を出して、まっさきに反応してくださった現職の英語教師の方がsbさんでした。辞職されたと聞いて、思 うところがあります。 娑婆は一歩踏み込めば、どこも魑魅魍魎の世界ですから、教職をやめてもやめなくても同じなのですが、教職や公務員の世界は、(一歩 でなく)半歩踏み込んだだけで魑魅魍魎とつきあわされるか、魑魅魍魎の一員にさせられるように気がします。しかも、その自覚を伴わないように一員になって いくのが恐ろしい世界だと思っています。

 ワーキングプアの世界と娑婆との境界線みたいなところを私は歩いてきました。何の資格にも頼らずにやってきました。魑魅魍魎を蹴飛ばすにはいいのです が、食いつなぐのが大変です。
 気持ちだけはさばさばしたという感じがあるのではないかと、今のsbさんのことを想像しています。英語を錆び付かせるのはもったいないですから、ひとま ずは素読舎のネット要員をお願いしたいと思います。(掲示板で語学論を練られることをしていただきたいと思います。学校「外」にいて初めて始まる語学論と いうものがあるはずです。)

 今は空きがありませんが、スカイプを使って3人くらいでレッスンを受けられると、一人あたり現在の一枠の料金の3分の1=4000円でレッスンが継続で きます。こちらもご検討下さい。



【12463】
母音の前のtheは『ジ』と読むか 投稿者:村田 投稿日:2008年 6月23日(月)17時19分44秒

根石さんとスカイプでチョムスキーのRogue Statesをやっているときのことです。

Rogue Statesの読み合わせを始めてから気になっていたことがありました。
根石さんは母音の前のtheを「ジ」と読んでいないなあと。
でも、何か目論見があってあえてやってるんだろうな、と思っていました。
たぶん、theの強形が母音の前で自然に「ジ」という感じに発音されるようになる、というようなことを実験しているんじゃないかな?と。

で、先々週なんですが、読み合わせ中に、ついに聞いてみました。

村田「母音の前のtheを、『ジ』と読んでませんよね?どうしてですか?」
根石さん「ネイティヴは『ザ』『ジ』という感じには区別しいてないんじゃないかなあ。無意識にやっていることだと思うんだよ。俺は母音の前のtheが 『ザ』になるか『ジ』になるかっていうことには今では関心がないから、全部『ザ』と読んでいるよ。」
村田「私は、根石さんが実験してるんだと思っていました。」
根石さん「そんなことはしていないよ。俺は『ダーリンは外国人』っていう漫画を読んで、ネイティヴは母音の前の『ザ』『ジ』に関しては無意識なんだという ことがわかってから、わざわざ『ジ』とは言わなくなった。むしろ日本の学者とか英語まわりの人たちには細かく言う人がいるかもしれないね。」
村田「それじゃあ、塾生には母音の前のtheの『ザ』『ジ』は特に注意することはないですね?『学校のテストでは母音の前のtheはジと読むという問題が 出るときがある』という知識だけ言っておいて。」
根石さん「村田君はそう言うけどさ、俺は今までテストでその問題に出会ったことないんだよなあ。見たことあるかい?」
村田「言われてみればなかったかも…。」
根石さん「そうだろ?
ネイティヴは母音が言いにくいんじゃないかなあと俺は思うんだよ。特に母音の連続が。そのことと母音の前のtheの読み方が関係あるかどうかはわからない が…。日本語は母音だらけだから、日本人は『ザ』か『ジ』かということが気になるのかもしれないな。
theはだいたい弱形の場合が多いから、弱い音である限りは『ザ』でも『ジ』でもOKだ。
俺は『ザ』か『ジ』かっていうことには関心がないけれど、弱い音かどうかということには注意する。塾生には『語学的標準形』としての読み方をした場合に、 弱い音で読んでいるかどうかは意識させるべきだ。そもそも『ザ』と『ジ』の母音はそれぞれ/逆さe/と/i/で、これは音的にはよく似ている。 /i/は/逆さe/ほど弱くない。/逆さe/は消滅寸前の音だな。ネイティヴはここらへんの音は別の音とは意識していないんじゃないか。」
村田「日本人だから、別の音として捉えるんでしょうかね。」

以下は私が感じたことです。
英語ネイティヴにとっては、/i/と/逆さe/は同じ音の強弱の関係。
日本語ネイティヴにとっては、/i/と/逆さe/は別の母音に聞こえてしまう。
「語学的標準形」で例文を読む時、音が強いか弱いかを意識してこなれた音を作っていけば、/i/と/逆さe/が別の音ではなく、同じ音の強弱が変化したも のであることを体感できるのではないか。
であるなら、語学的標準形として読む練習をしている限り、『ザ』であるか『ジ』であるかは問題ではない。

まだ具体的なおもしろいエピソードがあったんですが、割愛。『ザ』か『ジ』か、っていうことだけから話がえらく広がっていくものです。



【12464】
NOVA元社長を逮捕 社員積立金3億円流用 投稿者:外野。 投稿日:2008年 6月25日(水)02時56分7秒

2008年6月24 日(火) 東奥日報 ニュース

■ NOVA元社長を逮捕 社員積立金3億円流用

写真

 経営破たんした英会話学校NOVA(破産手続き中)で昨年7月、福利厚生用の社員の積立金約3億2000万円を流用したとして、大阪府警捜査2課は24 日、業務上横領容疑で、元社長猿橋望容疑者(56)=大阪市天王寺区生玉町、経理を担当していた元次長村田利彦容疑者(49)=奈良市大宮町=を逮捕し た。

 捜査2課は、大阪市中央区の統括本部があったビルなど関係先数カ所を家宅捜索。業界最大手の英会話学校の経営破たんから約8カ月、経営者の刑事責任が問 われる事態に発展した。

 猿橋容疑者は容疑を一部否認、村田容疑者は認めているという。

 調べでは、猿橋容疑者らは昨年7月20日、福利厚生のためにつくられた「社友会」の積立金約3億2000万円ほぼ全額を、猿橋容疑者がオーナーで村田容 疑者が社長を務めていた「ノヴァ企画」の銀行口座に移して横領した疑い。その日のうちに受講生の解約返還金に流用された。
※写真=家宅捜索のため、NOVAの統括本部があったビルに向かう大阪府警の捜査員=24日午後6時47分、大阪市中央区

(共同通信社)



【12466】
何で「磁場」なんて言ってきたんだろう。(2) 投稿者:根石吉久 投稿日:2008年 6月30日(月)00時01分7秒

2008年6月12 日テープ起こし、08年6月29日再考

根石 簡単に言えば、「書く」っていうのは能動性で、「話す」ってのも能動性で、それに対して、「聞く」っていうのと「読む」ってのが受動性になる。
 「読む」っていうのは受動性だけど、読みながら自分なりにイメージを作る、読みながら自分の中にイメージを産出するっていうのは能動性だよな。受動性の 中の能動性ってのがある。
 「書く」っていうことはそれ自体は能動性だけど、受動性が踏まえられているから書けるっていうことがある。この世に生まれてきた人間が、「聞き言葉」と して言葉を受動しないで「話す」ってことはないだろうし、多分、「読み言葉」を受動しないで、いきなり「書く」ってこともないと思う。個人において、「話 し言葉」や「書き言葉」が成り立つ場合は、それ以前に「聞き言葉」や「読み言葉」を通じて、自分の中に受動性が繰り込まれているわけだよ。だから、「書 く」っていう行為だけを見ればというか、その場だけを見れば、あるいは外見だけ見れば、能動性だけれども、前提として受動性がある。能動性は、受動性を前 提にしているわけだ。
 そうすると、「受動性が転じた能動性」とか、「受動性をすでに繰り込んである能動性」ってのがあることになる。簡単に言えば、「受動的な能動性」とか、 「能動的な受動性」っていうような言い方が成り立つんじゃないか。「読む」ってことは、「受動的な能動性」って言えるし、「書く」なんてのは、「能動的な 受動性」って言えるんじゃないか。
村田 その場合、「読む」っていうほうはよくわかりますが、「書く」ってのはどうなんでしょう。
根石 「書き言葉」っていうのは自分にすぐに跳ね返ってくる。書きながら、ほんとうにそうかよっていう自問が生じているとかさ。これは、「話し言葉」にも あって、自分でしゃべりながら、本当にそうかなあと自問が生じているとか、しゃべりながら、ちょっと違うことを言っているなあと思いながらしゃべってると か、言葉がすぐに自分に跳ね返って、跳ね返ったものを自分が受けとっている回路があるわけだ。言葉「以後の受動性」ってものがある。「書く」とか「話 す」っていう行為の中に、「受動的能動性」も「能動的受動性」も見つけられると思う。だから、「話す」「書く」に能動性だけ見ているのは、あくまで外在的 に現象だけ見ているだけのことだ。「能動性」の中には「受動性」が繰り込まれているんだよとか、「受動性」の中にただちに「能動性」が立ち上がるんだって いうのが、言語体験ていうものだと思うんだよ。言語が生きてるって言えばいいのか、言語を生きるって言えばいいのか、言語体験とか、言語を経験するってい うことの中に、そういう「能動性」と「受動性」との「あざなえる縄のごとし」みたいなのがある。
村田 そうすると、「話し言葉」って言った場合と、「聞き言葉」って言った場合の、「言葉」っていう語が言っていることが違うような気がするんですが。
根石 どういうこと?
村田 「書き言葉・話し言葉」って言った場合の「言葉」は、普通に言葉だとして受け取れるんですけど、「聞き言葉」て言った場合は、言葉そのものじゃなく て、聞こうとする姿勢みたいなものなのかなと思ったんですけど。
根石 「聞き言葉」だって、姿勢とか意識の向け方とかを言っているんじゃなくて、言葉そのものなんだよ。「話す」において、唇だとか舌だとか喉だとかを振 動させることで空気を振動させて、「聞く」において、鼓膜を振動させているものは、同一の言葉なんだよ。ここで同一の言葉って言うのは、しゃべっている自 分とそれを聞いている相手の間にあるものは同じ言葉だよっていう意味だけどさ。「話し言葉」っていう場合の「言葉」も「聞き言葉」っていう場合の「言葉」 も、同じ言葉が別の人間にそれぞれ別の振動を引き起こしているだけだ。同じ「言葉」がそれをやってるんだから、「しゃべり言葉」も「聞き言葉」も言葉だ。
 村田君が言ってるのは、普通、「聞き言葉」っていう言い方はあんまりしないってことなんじゃないか。「聞き言葉」ってことを言い出したのは簡単な理由で さ、表面的に、「話し言葉」が能動性に見えるとしたら、同じように表面的に、「聞き言葉」ってのは「受動的」なものに見える。「能動」と「受動」のもっと も単純な対の関係ってのを言うために、「聞き言葉」ってのを言ってみただけのことなんだ。それで一応、「表面的にとらえた場合の対の関係」が作れる。対に なる二つをそれぞれ、もう一度よく見てみると、能動的に見えるものの中にすでに受動性があるとか、受動的に見えるものがただちに能動性に転じているとか は、これは表面的にとらえた「能動性」と「受動性」の内部構造を言ってみたわけだ。これさ、ネイティヴ言語では、ほんとに「限りなく同時」だって言えると 思う。「聞き言葉」なんてさ、微分していけば、鼓膜の振動と脳の動きとを別のものとして扱うことが可能なように見えるけど、そんなことはやってみる気はな くてさ、やったって、脳生理学は成立するかもしれないけど、語学論は成立しない。鼓膜が空気の振動を受け止める受動性と、考えやイメージが動く能動性は 「かぎりなく同時」だと見る方がいい。脳生理学をやるんでなくて、語学論からネイティブ言語を参照した場合、「限りなく同時」から「限りなく」をとっ ちゃって、「同時」だとまで言ってしまっていいと思う。そう見たときに、語学ではなく語学論が成り立つんだと思う。ネイティヴ言語の「同時性」があらかじ め壊れているというか、「同時性」があらかじめ存在しないのが語学だと言った時に、ようやく語学論が立ち上がるんだと思う。
 語学では、「同時性」が「磁場」の作用の結果としては成り立たない。当該の「磁場」そのものがないから「同時性」が「自然性」としては成り立たたない。 それを成り立たせようとするのが語学なわけだ。あらかじめばらばらなものを「同時」という状態にもっていこうとするのが語学だと思う。どこまでやれるかは 別の話なわけだ。
 ネイティヴ言語でも、ぼんやりしてたり、上の空で人の話を聞いていたりすれば、この「同時性」はすぐに壊れて、鼓膜の振動という「受動性」と、イメージ や考えの動き(脳の動き)との間にタイムラグが生じる。数秒から十数秒程度のタイムラグが生じることがある。
 語学において、最初はばらばらな「能動性」と「受動性」が「同時」に動くようになるという場合、このタイムラグは、ネイティヴ言語とは比べものにならな いほど大きい。単語なり文のイメージの核が本当に把握できないと、あるいは、音や文字という外在物の感受が意識におけるイメージの核の生起になったり、ま たその逆に、イメージの生起がただちに具体的な語や文を意識に喚起することが「同時」にならないと、「同時性」が成立しないんだけど、そうなると、語学で は、最初にそれを「受動」したときから数年も十数年もたってから、「受動性」と「能動性」が同時化するってことはざらにあることだよ。これ、極端なことを 言っているんじゃなくてさ、「磁場」を欠いて語学だけやってる場合、本当にざらにあることだよ。俺が「イメージ核受肉教材」なんてものを作って、「アジア の大河型レッスン」なんてことをやってるのは、ここを踏まえているからなんだ。
 これが、最初から意識が言葉の当事者になってる言語と、意識がどこまでも当事者性を欠いている言語との差だと思う。この差を「磁場」って語が解くはずだ と思って、「磁場」ってことを言ってきているんだ。
 言葉の当事者である場(「磁場」)では、ほとんどの場合、「受動性」と「能動性」は「同時」に動いているんだけど、ぼんやりしてたり、上の空だったりす るときに生じるタイムラグってのが、「受動性」は「受動性」であり「能動性」は「能動性」だと、本来別々のものだっていうのをはっきりさせる。人間がぼん やりしていればしているほど、これをはっきりさせると思う。(笑)
 ぼんやりしてたり、上の空だったりしているときの「意識の空白状態」が、語学の場なんじゃないかな。それは現実から切れてたり、遊離してたりするんだけ ど、現実から「切れている」とか「離れている」意識っていうのが語学の本当の「場」なんじゃないかな。
 「生活言語」や「磁場」における「ぼんやり」や「上の空」は、意識から力が抜けている状態だ。語学はそこのところがまったく違っていて、「強くイメージ するために意識を行使する」っていうことは語学の常態としてありうる。全然「ぼんやり」や「上の空」じゃないわけだ。そこがまるで違っている。だけど、現 実から「切れている」とか「遊離している」っていう点で、語学という行為の全体は、生活言語やネイティヴ言語の「空白」と同じ位置を占める。激しい語学と いう行為の全体が、生活言語や当事者性を生きる言語(「磁場」における言語)の中の「ぼんやり」や「上の空」という「空白」と位置的に重なる。
 これは独断だけど、子供の頃、「ぼんやり」してたり、「上の空」だったことが多かった人っていうのが、語学に向いているかもしれない。今言ってきたこと からすれば、語学が成り立つための「位置」だけはすでに持っているわけだから。
 語学ってのは、現実を生きるんじゃなくて、現実の「空白」を生きる行為なんだ。「ぼんやり」や「上の空」と同じで、現実から「切れている」し「遊離して いる」。どれほど激しく語学をやっても、これは変わりない。もし、語学に現実ってものがあるとすれば、それは「意識における」ってことをはっきり限定した 上での現実性だ。つまり、イメージの現実性だ。いわゆる「現実」から切れた「別の現実」だ。



【12468】
村田君の記事への補足 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 6月30日(月)01時01分55秒

 「ザ」と「ジ」の違いは、弱い母音の違いであり、一方は「逆さe」、もう一方は[i] です。
 単独で現れる「逆さe」は、「弱い音(狭い音)」で、[i]は、[e]を強形ととらえた場合の弱形です。( [e]の弱い音が[i]です。)
 [e]の弱い音が[i]である例は、record などのの名詞と動詞の発音の違いになります。
 record が名詞であれば、re のところにアクセントがあり、e は発音記号でも [e] になりますが、動詞であれば、アクセントが cor のところに移り、re は弱くなり、そこに含まれる e は [i]の音になります。つまり、[e] が弱い場合、[i] になるということです。
 ともに「弱い音」の [逆さe] と [i] の区別なんかにかかずらっている暇に、もっと直すべき大事な音がいっぱいあるという考えを持っています。
 特に大事なのが、「ア系列」と私が呼んでいる系列に含まれる音の区別です。
 こっちの重大さから見れば、「ザ」と「ジ」の区別などスコラ的なアホくさい区別にすぎないと考えているわけです。学校英語がスコラ的であることの例は、 こういうささいなところにもみつかります。
 「ザ」と「ジ」の区別なんか放っておいても、「ア系列」の音をきちんと区別できるようになれば、日本人の英語の音は十分使い物になると言っても同じで す。



【12479】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 7月 5日(土)22時11分0秒

最近、掲示板に書いていただけませんが、お忙しいでしょうか。

 お願いしたいことがあるのですが・・・。
 片原さんという大学生がレッスンを受けていますが、大学の授業その他で帰るのが遅くなり、金曜夜8時40分からのレッスンに間に合わないことが多くなっ ています。片原さんのレッスンの後が、息子さんの9時20分からのレッスンになっていますが、片原さんの枠と息子さんの枠を交換していただくことは可能で しょうか。
 ご都合をお知らせ下さい。

 息子さんの英語の様子はどんなでしょうか。
 私の方は少し手応えを感じ始めています。
 構文の把握がずいぶんしっかりしてきていると思います。
 そろそろテストの点などにも反映しはじめるのではないかと思っていますが、どんなものでしょうか。相対的な順位といったらいいのか、学年順位とかクラス 内の順位のようなものが動き始めているのではないかと思っていますが・・・。



【12481】
レッスン枠の件 投稿者:matsu 投稿日: 2008年 7月 6日(日)23時17分35秒

了解いたしました。
それでは、今週から金曜午後8時40分でお願いしてよろしいでしょうか。
私(父親)の方は、4月から職場が変わって、多少忙しくなりました。
息子の方は、4月からラジオの基礎英語2をかかさず聞いているくらいで、根石さんのおかげで英語にはやる気があるようですが、学校等のテストの結果は、相 変わらず中位グループから抜け出せていません。
もっともこれは、他のすべての教科にいえることなので、本人の意欲の問題は別にしても、(クイズ形式の)テストに答える技術、それに備える技術に難がある ようです。
ほっておくわけにも行かないので、親子で暗中模索しているところです。



【12485】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 7月 7日(月)19時53分34秒

 ありがとうございます。
 今週金曜から8時40分に呼び出すように致しますのでよろしくお願い致します。

>もっともこれは、他のすべての教科にいえることなので、本人の意欲の問題は別にしても、(クイズ形式の)テストに答える技術、それに備える技術に難があ るようです。
ほっておくわけにも行かないので、親子で暗中模索しているところです。

 「(クイズ形式の)テスト」についてですが、具体的にはどんなもののことを言われているのでしょうか。「電圧装置」でたいがい片づくものと思ったのです が・・・。
 お時間がとれましたら、お教え下さい。



【12487】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 7月 7日(月)23時38分6秒

 先日の息子さんのレッスンで、文単位で、「言いながら、書きながら、イメージする」っていうのが難しい場合は、単語単位でそれをやるのをいいという話を しました。
 単語単位で、「言いながら、書きながら」をやる場合に、言って書いている単語が「こんな感じ」というのを感じるのがいい、それを感じられれば、それがイ メージなんだと言いました。
 中学生には、今後、同じことを言っていこうと思っています。
 単語単位で、「言いながら、書きながら、イメージする」という練習は、「英語どんでん返しのやっつけ方」で、「電圧装置」をやる下準備の練習として書い たものと同じものです。
 初級、中級くらいの人には、「単語単位で」ということを今後奨めていこうと思いました。



【12488】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 7月 9日(水)00時01分25秒

ありがとうございます。

先週のレッスンは久しぶりに最初から最後まで横で見ていました。最後の方、少し長めの文が出てきて苦労していたようですが、訳を書き写すことで気を散らす 事は無くなっていました。

今の所、自主練習は、教科書の頭から各文を10回ずつ書くことを毎日30分ということでやっています。一応、毎日やるということになっていますが、実際は やったりやらなかったりです。

最初は文単位の電圧装置(左に訳、右に英文)、という無謀な?ことをやっていました。これはさすがに難かしかったらしく、本人が単語でやりたい、と言い出 して切り替えました。単語で、と言い出したのは、ちょうど学校の単語テストやら中間テストやらが始まった時で、単語を覚えるのにこれは使える、と本人が判 断したようです。

その後、左に日本語、右に英語という電圧装置スタイルより、ただ英語を書いて、言って、イメージ、が良いと言う事になり今のスタイルに落ち着いています。 今日、今のを続けるか単語単位にするか本人に聞いたところ、今のままでやってみるとのことでした。イメージできてるか聞くと、教科書に絵がいっぱい出てく るので、なんとなく分かるから大丈夫ということです。

この先、英文が長くなったり難しくなってきたら、単語にするわ、と言い出すかもしれません。

はじめての中間試験は、まだ実力云々というレベルのものではありませんが、本人はまずまず無難に乗り切った、という感じのようです。私は現時点ではあまり 成績については頓着しませんが、家内は結構気にします。息子が抵抗感もなくスムーズに英語と付き合っている事について、「入り方が良かったんじゃないかな あ」と家内は言っております。根石さんのレッスンから入った事がとても効いている、と考えているようです。私もそう思います。

もう少し早く、最低、小六の頭から、できれば小五から始めたら良かったな、と今は思っています。本人に興味があれば、さらに早くても良いかもしれません。 声を出す事は良い!と感じます。



【12493】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 7月12日(土)00時27分17秒

 レッスンの前半15分は復習をやっておりますが、復習範囲では、こちらが訳を渡さず、生徒に訳させています。今日の息子さんのレッスンで、訳が出てこな い文が多かったので、次のようなことを言いました。

「単語単位で、言いながら書きながらイメージするってことをやってくれと言ってあるけど、訳が出てこないってことはイメージするってことをやってないって ことだと思う。言いながらいっぱい書くということをちゃんとやっているとしたら、イメージするってことをやってないんだと思う。イメージするっていうの は、こういうこと、って強く思ったり、この単語はこんな感じだと感じることで生まれてくる。それは日本語でも英語でもなく、生きている人間の中に、思うこ とや感じることで動くものなんだ。それがはっきり動けば、イメージは英語にもなれるし、日本語にもなれる。俺が訳す日本語の訳っていうのは、あくまでもお おざっぱなヒントで、イメージっていうものは生徒が自分で思ったり感じたりしないと生まれてこない。」

 そんなことを話しました。中学1年生には難しい話だったかもしれませんが、だんだんわかってくれると思っています。

 今日は、訳が出てこない文が多かったので、復習時間を20分に増やしました。これは他の生徒にも同じようにしています。

 先日書いていただいたことで気になったのは、文単位での「電圧装置」です。これは、意識が日本語と英語の間を比較的自由に行き来するようになったらやっ てもらっていいですが、今の段階では、単語単位を基本にやってもらうのがいいと思います。
 「電圧装置」が機能するためには、「言いながら書きながら思う」という練習をたっぷりやってもらうに限ります。この練習には、特に名前をつけてありませ んが、「言いながら書きながら思う」というのがそのまま練習の名前でいいと思っております。

 単語単位を基本にということは、必ず単語でやれという意味ではありません。

 例えば、「〜がある」ということを言うときの There is 〜. ですが、これは there is を単位として扱ってもらって構いません。「単語単位を基本」は、一語か二語、場合によっては、三語、四語で扱えばいいというくらいのゆるいものです。



【12494】
作成中の教材 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 7月12日(土)00時31分51秒

 現在、ABCDという教材を作っています。以前にも同名の教材を作り、塾で使ってきましたが、全面的に書き直しています。
 この教材が完成したら、小学生や中学生がレッスンを始める時に、中学の教科書ではなく、この教材を使って始めようと考えています。
 中学の教科書を使った場合の最大の欠点は、4年目ごとに教科書の内容が変わってしまうことです。
 自分が作った教材なら、10年でも20年でも固定できます。いっそ自作したほうがましだと思ったので作成を継続します。



【12495】
村田君 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 7月12日(土)00時45分46秒

現在作っているABCDが出来たら、村田君に作ってもらった語数別分類の教材は、生徒が何語くらいでてこずるかを調べるための教材にしようと考えていま す。



【12496】
根石さん 投稿者:らくだ 投稿日: 2008年 7月12日(土)00時58分0秒

先週も、そばでレッスンを聞いていて、確かに「ここ日本語がわからないんですけど」という言葉を連発していました。訳を教科書に書き写しているのをやめさ せようとした時に「訳を言わされるんだけど、忘れちゃうから」と言うので、「わからなければ聞けばいいよ」と言いましたので、聞けば済むんだと思ってし まったかもしれません。

やはり、文単位で書いているときに、全体のイメージはできていないのでしょう。英語ができないといっても、一応こちらは大人なので、中学一年生の教科書の 英文はひどく易しいと思ってしまいますが、子供にとっては全く未知の言葉なので、こちらが想像している以上に????なのですね。やはり、単語にしてイ メージを重視した方が良いのかもしれません。

>単語単位を基本にということは、必ず単語でやれという意味ではありません。

これが意外と本人には難しくはないかと思います。どこで区切ってまとめれば良いのかわからないのではないかと思いますので。ですので、まずは1語単位で試 してみたいと思います。ただ、先日、「isってどういう意味だっけ?」と聞かれて返答に困ってしまいました。とにかく1語、にすると、そういう質問をされ そうな気もします。

とりあえず、やってみます。



【12497】
matsu さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 7月12日(土)00時59分8秒

 今日のレッスンで、He studied English during summer vacation in Australia. で少してこずりました。
 studied English の部分の息子さんの訳は、「英語の勉強をした」でしたが、それだと英語の構造がつかまらないと言いました。「英語を勉強した」でも、「英語の勉強をした」 でもほとんど同じことを言っているんだけど、「英語の勉強をした」だと、英語の構造がつかめないと言いました。

 study 〜 で、「〜を勉強する」だから、study English の構造をつかむには、「英語を勉強する」じゃないとつかまらないと言いました。

 ずいぶんと構造把握ができていると思っていましたが、まだ少し、構造(構文)を雰囲気で扱っている様子が見られました。ふうむと思いました。雰囲気でつ かんだつもりになっていることを脱皮するのに、もう少しお時間を下さい。



【12498】
らくださん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2008年 7月12日(土)01時10分2秒

モノの名前のように、イメージしやすい単語と、be動詞や関係代名詞や前置詞のように、機能語というようなものがあります。
イメージしやすい語は、イメージがモノをなぞっていると思います。
機能語は、その機能をつかめば、だんだんその機能のイメージができていきます。

言いながら書きながらイメージする練習では、ひとまず、一語でやってみてもらうのは賛成です。
音として扱うのは文全体をレッスンで扱いますので、普段の練習はひとまず一語でやってみて下さい。



【12499】
根石さん (語数別テキスト) 投稿者:村田 投稿日:2008年 7月13日(日)15時21分50秒

了解です。
つまづいたところはノートを見ればわかるようになっています。
どういうところで言いにくくなっているかは検討したいところですが、13語以上のあたりから例文の採集がなかなかうまくいかないので、まず入力を先にやっ ております。
最も行ったり来たりが激しくなりそうな4語〜8語あたりは、例文の数はそれぞれ150文はありますので、今のところ大丈夫だと思います。

1語の文の最初が"Football."で、実はここが一番の難関かとも思います。
例文が充実してきたら、第2版として順番を変えようかと考えています。