本当に感謝です。「音つくりへの道」シリーズなど読みたいところはたくさんあるのですが、後のお楽しみをして、とりあえず目についたのは、エリオット先生のこの投稿です。>中級以上の英語学習者が、音と音とがぶつかり合ったときの変化を学ぶための教材として次の二点をお勧めします。
@英語の発音パーフェクト学習事典(深澤俊昭 アルク)
ABetter English Pronunciation (J.D.O'Connor Cambridge University Press)*2センチくらいの分厚さの本ですよね。たしか何回か書店で見かけた記憶があります。おもしろそうだなと思って2回ほど買おうとしたのですが、その時はやめました。でも帰国したら絶対に買って毎日少しずつ読んで見ようと思います。ありがとうございました。
>@はCD付きの本で、英語の発音について相当詳しい知識と練習が得られます。Aは英語で書かれていますので、高校中級程度以上の英文読解力が必要ですが、音の変化について詳しい解説があります。イギリス英語の本ですが、音の変化に関する記述は何式英語であってもあてはまることがほとんどです。同じ本が成美堂からも出ていると思います。
*ます(日)をざっと読んでから(月)にチャレンジしたいと思います。
>音と音とのぶつかり合いについてフォニックスは何も教えてくれません。上記の二冊の本のように発音の変化を教えてくれる本が初級者用にはほとんど何も存在しないという事実が、音作り不在の日本の英語教育の証拠です。
*本当に「音作り不在」なのがよくわかりますね。フォニックスはヴィクトリーアンカー英和辞典の巻末のあの表を授業で紹介したことがあります。個々の発音/フォニックス/音のぶつかりあい/そのほかのプロソディーについて全て発音に関することはきちんとやるべきなのですね。(1)できるだけ何度も英語をきかせる。〜(12)基礎英語を聞かせない」も読ませて頂きました。うんうんと、何回もコンピューターの前でうなずいていました。
これから「音作りへの道」シリーズを読むことができてうれしいです!!!
大風呂敷のストックのページを作っていただき感謝しています。今日さっそくみてみました。一度には読めないので少しずつ読んでいく予定です。これで安心して帰国後も「音作りへの道シリーズ」や過去の根石先生や浜谷先生たちの記事が読めます。うれしいです。
本当にありがとーーーーーーございました!!!
ST 様>「音とイメージの同致」という言葉が今後、国弘先生の「只管朗読」の
ように英語教育を語る上での重要なキーワードにならないといけないと思
います。國弘さんは、実はまだ読んだことがないのですが、皆さんのお話に何度も出てくるので、読まなければいけない人だとは思っています。いや、それどころか、方法的な先達だろうと思っています。
ST 様>根石先生には官僚の批判をせずに英語教育審議会のメンバーになって
いただきたいと思うくらいです。私は、早稲田にいた頃、早稲田原人というあだ名がついていたそうです。私は知らなかったのですが、後で同じクラスだったやつに聞きました。
「えっ、お前、知らなかったの?」
と言われました。そんなわけで、私はどうも在野が好きです。私がトチ狂って、英語教育審議会のメンバーになどなった日には、喧嘩しまくりで、英語教育審議会が分裂すると思います。官僚の批判は不可欠ですから、「官僚の批判をせずに」など所詮無理な注文です。
在野が面白い。金にはならんけど。
在野でやりましょうや。
学校の先生に必要なのも、在野精神です。日本の英語という荒野が広がっているのですから・・・。
インターネットは、在野の者にとっては使える道具です。
浜谷さん>私はやはりSTさんが仰ったようにトップダウンの勉強方法を採ったように思
っています。つまり、根石さんは英語を根底から揺り動かしてやっつけられた。
私は目的(使える英語をものにする⇒ガイド試験に受かる)を決めて、その目
的を達成するためのベストと考えられる方法(多読で語彙・構文をインプット
する)を考案し、それに向かって猛進したということです。私は人それぞれに
合った方法で勉強すべきだと考えております。たまたま私が現在関心をもって
いる対象の方達が前述しましたように「英語(英会話)に再挑戦しようとして
いる」社会人です。(前述しましたように40数年前の私の姿がそこにあるか
らです)まあ、私が教えられることは私が経験したことしかないというのが本
音ではあります。その点根石さんの方法は全ての方が対象になりますので、私
も私の主宰する「英会話学習相談室」で「映画でリスニング」のレッスンの受
講を奨めるなど貴「素読舎」の教え方を間接的に採りいれさせていただいてお
ります。私はつい最近までは、確かにボトムアップの方だったと思いますが、浜谷さんは若い頃に、ボトムアップもトップダウンも両方やった方だと思っています。中学の英語の教科書の「音読」は、ボトムアップだと思っています。また、「多読で語彙・構文をインプットする」ことも、ボトムアップだと思います。その後に、聞いて聞いて聞きまくるのようなトップダウンをやられたのだというふうに、私は浜谷さんを理解しています。
私の「電話でレッスン」をご紹介いただけたことはとてもうれしいのですが、この掲示板での論議を参考になさって、方法を錬り込まれ、ご自分で実践なさることも是非続けていっていただきたく思います。
私の懸念は、「前提」の捉え方だと思います。浜谷さんの方法だと、どうしても、ある程度の「前提」は当然のこととされてしまうと思うのです。しかし、この「前提」を持たない社会人の初心者もたくさんおられます。いや、こちらの数の方がはるかに多いのです。この人たちに対する福音があるべきだと思っています。今頃になりましたが、お送りいただいた Horse Whisperer の吹き込みテープを聞かせていただいています。Eliot さんの音を聞いても、浜谷さんの音を聞いても、思うことは、俺なんぞが、英語の「音づくり」を唱えて、人様にレッスンするなんぞはお恥ずかしいかぎりだ、ということです。しかし、方法に対する方法的懐疑が不足している間は、私の仕事はあるのだとも思っています。
浜谷さんがお持ちの鍛え込まれた音が、初心者が音読をやる場合に模範として必要な音です。しかし、以前にも書いたことがありますが、上級者は、「前提」を作った過程を忘れてしまい、人の体に「前提」を持たせる方法がわからなくなってしまいがちです。初心者を理解するのにもっとも大切なことは、「上手に思い出す」ということではないでしょうか。「40年前の私の姿」とともに、40年前の「私の姿以前の私の姿」を思い出すということではないでしょうか。「音読」や文法をやっていた「私の姿」です。
直面するものは荒野です。しかし、この荒野を耕さないかぎり、日本の英語はできてこないと考えています。浜谷さんは、瞬時に「意味の固まり」をとらえて読み進められますが、初心者はこれができないのです。「意味の固まり」を固まりとして捉えるには、インプット量とともに瞬間的な理解が不可欠です。大学受験をなさらなかったとお聞きしていますが、浜谷さんの英語の基底は、「音読」と「学校英語」を組み合わせたことによって形成されていると思います。この二つを緊密に組み合わせるなら、日本人に勧められる方法として普遍性を持っていると思います。逆に、このうち「音読」を欠いた場合のことを、是非想像していただきたいのです。それが、世にある英語の死屍累々です。
私の「電話でレッスン」の録音ですが、もうしばらくお待ち下さい。どうやればいいのかいまだわかっていない状態です。生徒の声も入っていた方がいいだろうと思っていますので。名古屋のK君に録音の許可をもらってありますが・・・。私は実生活では何をやるのも結構のろまです。その点、どうぞお含みおき下さい。
お暇がとれたら、是非、素読舎に遊びにおいでください。びっくりするようなボロ屋に住んでいます。
根石様私が「完璧な発音」ということばで指しているものは、根石様がいわれる「その時点でのベストな音」と同じものです。「完璧な発音を目指せ」というのは「できる限り英語の音を出すよう最善を尽くせ」という意味であり、それ以上でもそれ以下のものでもありません。
私は、日本人英語学習者がまるでアメリカ人とかイギリス人のように発音できなければならないとは思いません。しかし、モデル、または媒介、とする英語に発音の体系が備わっている以上、初学者はひたすらそれを身に付けるよう最大の努力を傾けるべきだとは思います。その際、指導者は、学習者が通常規範とするアメリカ英語やイギリス英語の話者が「アジア・アフリカを蹂躙した大英帝国が発した音であり、世界の警察・アメリカ国家が発する音でもある」発音をしているということは、とりあえずおいといて、学習者が音に集中して、激しく音作りに精を出すよう指導すべきだと思います。もちろん指導者自身がその問題に無自覚であっていいはずはありませんが、英語を学び始めたばかりの中学生に「大英帝国と世界の警察国家アメリカの世界支配」について語る必要はないと考えています。あくまで、とりあえずは、ですが。
英語教師の中には結構能天気な人もいて、英語ができれば世界はばら色、英語ができれば即国際人のように思っていたり、アメリカ英語は美しい、いやオックスフォード英語が最高で、アメリカ訛りは下品だ、など勝手なことを生徒に向かって平気で言うこともあります。私自身はそういう向きとは一線を画したいと思っております。
「通じる音であればよい」というのはあくまで結果としてであり、この姿勢を音作りの練習過程にストレートに持ちこむのには疑問を感じます。何語であれ、ネイティブスピーカーは育って行く中で自分の周りに聞こえる音をほぼ「完璧に」身に付けるからこそ、お国訛りも備えた「通じる音」を習得するのではありませんか。外国語学習者もモデルとする発音と同じになるように、まはたできるだけ近づくように、特に初学者の段階で練習に励んで、その成果として、各人の適性と練習に応じた「通じる音」を獲得するのではないでしょうか。
アメリカ英語やイギリス英語(BBC英語やReceived Pronunciation=RPと呼ばれるもの)と同じ音を出すように生徒に練習させたら、抑圧に通じるというご意見には反対です。それが抑圧といわれるのなら、語いの学習も文法の学習も抑圧でしょうか。英語の学習そのものが抑圧でしょうか。まあ、そういう見方もできるかもしれません。私には、それを理由に英語の学習をバカにする知人がおります。「英語ヘゲモニーの手先か、あんたは」と言われます。
しかし、英語が世界で一番使われる言語になってしまっている現在、英語を学習して使っていかざるを得ない以上、「実に現世的な支配・被支配の構造を反映したものである」というこの言語の性格を自覚しつつ、アメリカ英語であれイギリス英語であれ、徹底的な模倣と練習を通して、日本人である私たちの文化を載せることができる道具へと磨き上げていくことができればいいのではないかと思います。
「通じる音」というのを唯一の基準としたら、発音の指導はしにくくなると思います。なぜなら、例えば、thの音の出し方は「絶対的な基準」として示せますが、生徒が出すthの音、あるいはthもどきの音が通じる音であるかどうかには絶対的な基準は立てられないからです。実際、英語の音作りなど全然していない日本人学習者の発音でも、英語使用の場面においては、文脈などの助けがあれば相当通じます。極端な話、通じるかどうかだけを基準にすれば、母音はアイウエオの五つで何とかごまかし、th/sの対立も無視、lとrも文脈まかせでも、かなり通じるはずです。では、生徒がthirdを[sa:d]のように発音したとき、指導者はどうコメントすればよいのでしょう。確かに、突然何の脈絡もなしに、[sa:d]という音を聞かされた英語人にthirdは思いつかないでしょうが、何らかの文脈のヒントによって[sa:d]がthirdとして「通じる」可能性は否定できないとすれば、指導者は学習者に「通じるからいいよ」と言ってもいいのでしょうか。まさか、ですよね。二年以上中学生に発音を指導してきましたが、一歩教室を出るとすべて日本語で事足りる世界に生きている生徒達の中に、thirdをsird/sahdと言わないように練習することの意義が実感できず、私が無理強いすればthirdと発音するのに、普段はほとんど常に手を抜いてsirdやsahdとしか言わない者たちがいます。こういう生徒達に「通じる発音」であればよいのだという目標を設定するのは、現状追認でしかないと思います。
一方、一生懸命練習するのだけれど、下手という生徒たちもいます。何せ、日本語の発音が不明瞭で、普段から口をあまり開けずに広げずにモソモソとしゃべる人たちですから、英語の音を発する時にも同じようにしか口が開きません。私はこういう生徒たちもできるだけ上手になるように指導せねばなりません。私がよく使うコメントは
「それでも十分通じるとは思うけど、さらに英語らしい音を出すには云々....」
です。そうなんです。十分通じる音なんです。英語の音らしくはないけれど。そこをもう一歩踏み込んで、さらに英語の音に近づくことができるよう、ヒントを与えて練習させています。中学3年生とはまだそういう時期であると思うからです。今週、二泊三日の韓国旅行に行きました。ソウルではツアーガイドをはじめ、ホテルの人、お店の人、タクシー運転手など実に多くの人が日本語を話します。お店の人が「ひっとっちゅ?」といわれても「一つ?」と聞いているんだなとわかりました。でも例えばもしこの調子の発音でこの人に観光ガイドを延々やられたら大変ですよ。聞く側に相当の辛抱と集中力さらには想像力を要求することでしょう。さらにもしそのガイドさんに「おっしゃることは何とかわかりますが、発音をもっと日本語の音に近づける方がいいですよ」とアドバイスしたらどうでしょう。そのガイドさんが「我が民族を蹂躙した日本人の発音を真似るなど国辱的行為だ。私の発音で十分だ。抑圧はやめてほしい」と言ったら、私たちはその通りだなあと思うべきでしょうか。
私は「快・不快」の基準を発音指導に持ちこむことはありません。「完璧な発音を目指して練習させるべきだ」と音作りへの道で書いたときも、快・不快云々と書いた記憶はないのですが、ボストン在住の黒人の方の例を出されましたので、少々考えを述べさせていただきます。もし私がデパートの店員から「おいあんた」と言われたらとてつもなく不快でしょう。もっとも、これは発音ではなく、言葉づかいの問題ですけど。テレビのニュースを見ていてアナウンサーの発音が不明瞭で聞き取りにくいものだったら、やはり不快でしょう。日本語を使う外国人から街で道を聞かれて「あのさー、道聞きたいんだけどさー」などと言われたら、これも不快でしょう。しばらくぶりに高校の同窓会に行って昔のクラスメートたちが「ところであなたはどんなお仕事をなさっているのですか」などと聞いてきたら、よそよそしすぎて、これもまた不快でしょう。
私たちが英語を使う際も原則的には同じことだと思います。相手に自分のメッセージを一番効率よく伝達するためにはメッセージ以外のことに相手の注意がそれないようにするのがいいはずで、そのためには、その場に適した文法、語い、表現、そして発音を用いるよう努めるべきだと思います。ビジネスレターを英語で書く際にはそれらしく書かねばビジネスチャンスを失うかもしれません。こちらの意図が通じれば何でもいいじゃーん! というわけにはいかないでしょう。発音もそれに準じて考えれば、外国語として英語を習得しようとしている日本人が学習者が目指す発音の目標もただ単に「通じればよし」ではなく、国際的な場面で何人を相手にして英語を話しているのかにかかわらず、その日本人の教育程度やその人の立場から大きくはずれた印象を与えることなく、相手に過大な負担をかけることなく理解してもらえる発音が望ましいといえるのではないでしょうか。言いかえれば、「相手が発音に特に注意を払うことがないような発音」です。
なお、南部出身の黒人の話者の訛りがボストンでどう受け取られ、彼のモディファイされた発音が故郷でどう評価されるかという問題や、アメリカ人の歯抜けの老婆の発音が立派に通じる音だとかいうことは、あくまで英語を母語とする人々の枠内での問題です。私は、それは日本語の音から英語の音へという音作りの道の旅人が直面する諸問題とはまた違った問題だと考えます。
>国際的な場面で何人を相手にして英語を話しているのかにかかわらず
⇒国際的な場面で何国人を相手にして英語を話しているのかにかかわらず
Eliot 様書き込みありがとうございました。
基本的に古い方から、コメントをしていますので、少しお待ち下さい。
Eliot 様書き込みありがとうございました。
基本的に古い方から、コメントをしていますので、少しお待ち下さい。
お久しぶりです。
英語とは関係ないのですが、最近イチローが宮本武蔵に似ている
という説をいろんなところで見聞きします。
とても興味を持ったのでご紹介します。
根石さん
ちょっと先ですが22日(水)ゆいまあるの教室が終わってからあの周辺でどうでしょうか。
ゆいまある生徒以外の方、この掲示板を見てちょっと興味がある一般の方の参加もOKの
オフ会にしてみませんか?詳しいことはまた追ってお知らせということで…
浜谷様>このネーミングはいただきました! 英語で言うと"Reading for hearing
practice"と言えばいいのでしょうか? ただ、{根石先生に『喝!』されそ
うなので「リスニング読み」もやめて・・・}とあるのはどういういみなのか
よく分りませんが・・・。ST さんはなんとかという島に出かけるので、しばらく掲示板には書かれないと思いますので、私が弁明します。あくまで私のための弁明です。
私は一度も ST さんに「喝!」と言ったことはないのですが、いつなんどきそれを言うかわからんというオーラが私から出ているということなのでしょうか。
以前、ヒアリングとリスニングの区別について書いた覚えがあります。どんなふうに書いたか、記憶が薄れつつありますが、ヒアリングは「聞こえている」ということであり、リスニングは「耳を傾けて聞く」ということだとして、めざすものは「ヒアリング」であり「リスニング」ではない、という考えを書いたように覚えています。
「リスニング」は努力することだと思います。トップダウンの練習の実質部分はリスニングだと思います。これはやるにこしたことはないという性質のもので、必ずやらなければやらないものだとは考えていません。「回転読み」で音を錬りこめば、「リスニング」をすっとばしてでも、「ヒアリング」が可能になると思っています。意味がわからないままに「音」を聞き続ける努力ということは、私は大人ですから我慢できません。
「回転読み」は自分の口の動きを錬りこんで、英語の音に迫る方法です。こっちの努力の方が私は気が紛れます。この間、リスニングをやって、英語ネイティヴの音を媒介にすることはよい練習になります。しかし、リスニングが主体ではなく、ネイティブ音を媒介にしながら、あくまで自分の口の動きを鍛えて自分の音を作ることが主体です。中級以上の方がこれをやると、(リスニングを媒介として使うかもしれないが)リスニングを主体としないままに、ヒアリングが成立します。めざすべきは「ヒアリング」、と思います。
ヒアリングというのは、聞く気もなくて、耳に聞こえてきた音に注意を払うだけで「意味」が成立するという聞き方(聞こえ方)だと思います。これが成立するようになるのを支えるのが、私の場合は「回転読み」です。
ヒアリングマラソンだかなんだか知らないが、1000時間とか、長時間聞けば英語が聞こえるようになるというような口説き文句は妄説だと思います。アルクなんぞは、近頃少しまともになりましたが、20年ほど前は妄説をまき散らしていた会社でした。むかっ腹がたったことをはっきり覚えています。今頃になって、何が「音読」か。泥棒根性めが。 浜谷さんがおっしゃるように、ヒアリングは「聴解」ですから、これにも絶対に下地が必要です。その下地を私は「回転読み」で作っています。リスニングよりもヒアリングの方が上位にあると思っています。
誤解を恐れずに言えば、リスニングは「机上」の語学の行為であり、ヒアリングはそのまま生活過程に持ち込んでさしつかえないレベルだと考えています。
浜谷様>STさんからご評価いただきました、いわゆる「ヒヤリング読み」について、根石
さんはじめこの掲示板ビュウアーのみなさんのご批評を仰ぎたいとおもいます。ど
んなものでも結構ですのでお気軽にお寄せいただきたいと存じます。「ヒアリング読み」というからには、すでにヒアリングが(ある程度でいいから)できる人にしかできないと思います。音読のような前提(下地)を持った人にしか成立しないと思います。
ST 様>先生自身が必ずしもこなれを作らなくても技法グラウンドのテストの文のみ事前
に練習してさえいただければ、受講者の本当に心からやりたい本をやるほうがより
長続きすると思うのですが、いかがでしょうか?これでは根石先生の基本的な考え
方に沿わずダメだとおっしゃるかもしれず、非常に言いにくいのですが、畏れ多く
も申し上げます。職人根性のようなものが私にあるのか、やはりレッスンの前にはなるべく「こなれ」は作り続けたいのです。
受講者の本当にやりたい本をやるのが長続きするというのは、その通りだと思いますが、なにぶんにも五十歳の誕生日を若い女の人たちに(義理であっても)、祝っていただくような歳になり、腹も出て、ぎっくり腰の常習者であり、たまには糠味噌女房のご要望にもお応えしており、かなり年上のおばあさんに惚れられるようなこともあり、とにかく、体力がどうにも追いつかないのです。基本的な考え方に沿わないというようなことではなく、ひたすらもっぱら完璧に100パーセント、体力の問題です。
でも、二本くらいは来年の年寄り(私)にもできるかもしれません。生きていればですが・・・。
そうだ、村田君に頼んでおくか。
この掲示板を閉じる時は、「根石吉久さんは先日お亡くなりになりました」という一文を投稿して下さい。馬鹿野郎、やっとくたばったかと書く人が何人いたかを、私が埋まっている土の上でご報告ください。何人だろうが、俺の知ったこっちゃないが、まあ、一応。
ST 様>豪州からの電話では雑音は入りますか?
オーストラリアからの電話は非常にクリアに聞こえます。
東京・大阪・山口がひどい雑音が入ります。
NTT、何やってんだか。
ST 様> > 重量級のシナリオなので、テスト範囲が先に進んだだけでも練習は先に進んでいる。めげないでほしいと思う。
> 知りたいです。その「重量級のシナリオ」。一体何ですか。これは、長野のねこむすめさんがやっているシナリオで、「ノッティングヒルの恋人」です。ねこむすめさんは、これはラブコメディなので、「実用的」かな、と思って始めたのだそうです。
振ります。
ねこむすめさん、どのように「実用的」なのですか。教えて下さい。
詳しくていねいに、口移しで教えて下さい。
お願いします。「じじいっ!」って言って怒ってはいけません。
「おやじぃ!」って言って怒られるのも、もうすっかり飽きました。
人生はつらい。
ラブがただのコメディになってしまうところが・・・。おかしいな。巨乳のお嬢が俺にかき氷をおごってくれることになっているのに、何の連絡もない。巨乳のお嬢のおごりの練乳付きのかき氷、早くぺろぺろしたいのにぃ。
ST 様>[d3]というのはどういうことなのでしょうか?また[d1][d2][d4]などもある
のでしょうか?初め、Eliot さんをからかっているのかと思いましたが、そうじゃないみたいなので・・・。
[d3] の 3 というのは、縦長の「ろ」の発音記号の代用だと思います。
ST 様>「初心者」の定義として私の意見を述べさせて下さい。今まで根石先生や浜谷先
生のご議論を読んで私なりに初心者と考えるのは「音と文字の同致の基礎を練習し
ている最中の人」ということになります。これが出来た人はとりあえず初心者の域
を出て「初級者」と考えてよいのではないかと思います。根石先生の言葉と借りれ
ばさらに「中級者」の定義としては「音とイメージの同致の基礎を練習している最
中の人」ということになります。これが出来た人はとりあえず中級者の域を出て「
上級者」と考えてよいのではないかと思います。すべて賛成です。
「初級」の前に「初心」を置かれたことに、目を開かれました。
基礎づくりの前の地盤固めです。上級者は「もう放っておいてもいい人」です。
ST 様「初級者」は、知識を獲得し、(文法的・構造的)理解を練習する人
としたら、どうでしょうか。
あくまでおおまかな区別であり、中級者が「理解を練習」することももちろんあります。
ミュージアムショップは、いろいろなものを売っています。本から宝石から、スカーフからなにやら売っています。
でも、宝石には、美術館の展示品の複製みたいなものは売っていませんでした。
つまらん。なにか理由がありそうです。ここで、自分へのおみやげとして、ノーマン・ロックウェルの画集を買いました。良い買い物をしました。
それから、Yさんご家族へのお土産を買おうということになりました。ネクタイ、スカーフなどなどです。
それに思いついて、もう一品スカーフを購入しました。そのとき、色違いのを店員さんが出してきたので、
「それは、縁の色が違う。それから、下地が黒い色の方が欲しい」
とかなんとか、やっとこすっとこ説明して、店員さんが、理解してくれたので、在庫を調べてもらいました。
その時です。とっても小さな声で店員さんは、独り言をいいました。
「あ、在庫あった」
これは、明らかに日本語です。東洋系だということは一目で分かりましたが、日本人だとは思いませんでした。
でももう、そのささやきは、聞こえなかったことにして、
「サンキュー、べりーまっち」
と、言って売り場を後にしました。
こんなとき、私はとっても悲しい疲れを感じます。
どこの国に行こうが、まずは日本語で話し掛けるぐらいな気持ちがない自分に、悲しさを感じるのです。実は、前にも同じことをしました。ヘルシンキの空港でです。フィンランドの三越みたいなデパートの出店が空港内にありました。なんだったろう、絵葉書かなにかが何か欲しくて店員さんに英語で尋ねたら、
「うちには置いてないので、いったん外に出て、そこで買ってください」
と言われました。英語です。
そうですか、ありがとうございました、と会釈したときです。胸のバッジが見えました。
英語と日本語が「しゃべれますバッジ」をつけているじゃありませんか。よく見れば、名前も佐藤さんだかなんだか、とにかく日本の名字です。は〜。
深いため息とともに、なにやってるんだろう、じぶん、と思いました。
というわけで、なんとなくもやもやしつつ、ボストン美術館を後にしたのでございます。
(つづく)
>この後、もう一度過去ログを追加できれば、Eliotさんの「音作りへの道」の全体が現れるはず
です。その時点で、「書いた順に上から」読めるように整序して、俺にメールで送ってくれませ
んか。わかりましたぁ。着手しまっす(^^)v。
ところで、7月の初旬ぐらいから二十日分ぐらい、カキコがないのですが、どこか保存してありますでしょうか。
今日、塾にいくので、そのときにでも教えてくださいませ〜。
>受験生に「音読」させるだけで、総合的に英語力は判断できます。*このことは90%以上(数字に根拠はありませんが)においてはその通りだと思います。しかし、私は音だけが先行しずぎ「音とイメージの同致」に苦しんでいるのです。結局は「電圧装置」「回転読み」「回転書き」が弱かったのだけかもしれませんが、音だけが通じるという点では高校生のころに完成に近づきつつあり、これが私の悩みでした。(他の人からはうらやましがられるのですが、ちょっと話すと話せると思われてしまうのがすごく嫌でした。また教職についてからも発音訓練をするには解釈力が足りないのででしゃばってはならないとも思っていました。(また根石先生におこられそうですが)
>どこの国に行こうが、まずは日本語で話し掛けるぐらいな気持ちがない自分に、悲しさを感じるのです。*悲しさを感じるときは日本語で声をかけます。この前、フィリップ島(あのペンギンパレードで有名なとこ)のKOALA CONSERVATION CENTREで東洋系の人なので声を掛けたら、台湾の人でした。お連れさんの3人は日本人だったのですが、その分、しゃべらなかった彼女が日本人に感じられたのは不思議ではないしょう。彼女は日本語が話せないのを申しわけなさそうにしていました。こっちが申しわけなくなりました。
*でもそんなこと、どちらでもいいという気にもなります。話している内に一番適切な言語体系(ちゃんぽんが適切な場合もありうるのではないでしょうか?)になってくると思います。根石先生がいう所の「人間の頭ほど精密なデータベースはない」ということと少し似ている気もします。
>[d3] の 3 というのは、縦長の「ろ」の発音記号の代用だと思います。*古川さんか別の方か忘れましたが、発音記号を入力するソフトか何かを私も帰国後探したいと思います。「ろ」と説明するのが確かにわかりやすいですね。エリオット先生の説明で一応理解をしていましたが、よりいっそう確信がもてました。ありがとうございました。
エリオット先生をからかうなんて。。。私には畏れ多いことです!
ST 様ああ、すでに Eliot さんがお返事されていたんですね。読み過ごしておりました。
ごめんなさい、Eliot さん。
突然ですが、おじゃまします。
わたしは、中学1年のとき「英語」に遭遇して、すっかり嫌いになり
それ以来、英語から逃走しつづけている者です。
エイゴと聞くと、ぼくの内なるタイガーホースが暴れます。
何だかわけがわからないのですが。
ここに訪れるのも無意識がさせているのでしょうか。「悪人正機」吉本隆明×糸井重里からの引用です。
方言と外国語の違いは、地続きだと思っている。
「日本にいる外国人でも、日本語があまりにもうまいと、なんだかヘンな
感じがしますけどね。ちょっとヘタなくらいがいいんだろうなあと、思
ったことがありますね。」
「これも実感なんですけど、僕は自分の考え方として方言と民族語の違い
は、地続きになっていると思っているわけですよ。ずっと方言を延長し
ていくとね、違う民族語になるって。で、そこに断絶はないと思ってる
わけですよ。」
「僕の学生時代なんか、山形にいたんだけれど・・・コトバが通じません
方言がきつくてね。・・・方言だからわかるなんてウソだって、そのと
き思いましたよ。だから、その地続きのところに外国の民族語があるん
だって考えです。」ううむ。わかるような気になるけど、人にうまく説明できないかも。
方言を、いきなり外国語に接続させる着想に絶句いたしました。
ではまた。
豪州からレッスンを受けて4、5回になる。クレジットの請求、だいじょうぶかな?ちょっと心配。でもそんなこと気にしてたら旅行なんてできない。でも心配。。。
>>先生自身が必ずしもこなれを作らなくても技法グラウンドのテストの文のみ事前に練習してさえいただければ、受講者の本当に心からやりたい本をやるほうがより長続きすると思うのですが、いかがでしょうか?これでは根石先生の基本的な考え方に沿わずダメだとおっしゃるかもしれず、非常に言いにくいのですが、畏れ多くも申し上げます。*これを投稿してから「後悔」していました。今わたしは根石先生のレッスンを受けている。「音と文字の同致」から「音とイメージの同致」へという基本理念に教えをこうているのに失礼なことをいってしまったと思いました。下のように説明をいただけたのは私にとっては非常にラッキーですが、本来ならば生徒失格です。私が自分なりに考えたことは、根石先生自身がレッスンされる全ての文の「こなれ」を作られるのはもっと深い意味があるのだと思っています。技法グラウンドのテストの文だけを仮に練習してレッスンしても全ての質問(構文や単語は受ける側が調べていて当然ですが、行間や構文熟語の中にあるイメージに関する質問などあらゆる質問)に答えられるようにされるためでもあると思うのです。私の考えはかわりました。根石先生がおっしゃる範囲の題材をレッスンを続ける場合は選びたいと思います。今後ともよろしくお願いします。
また、引用の続きです。言葉の成立には、全然根拠がないんだ
「要するに言葉っていうのはね、全部根拠がないんですよ。・・・
なぜお米のことを〈米〉って言うのかに根拠なんて、全然ないんです
なぜコメって言ったのかといったら、それは偶然でしかないでしょう」
「人間そのものが持っている根拠のなさと同じでね。生まれたことって
いうのには根拠がないんですね」
「どういうコトバが、いま一番役に立つっていうか、通用しやすいかっ
て言えば、英語でしょうね」
「どうしてなんだって言われると困るんですけど、多分英国人が最も早
く、・・・植民地をもったりとか、いろいろやったっていうことがあ
るのかな」
「今のところは英語が一番役に立つから、じゃあ英語を習っておきゃい
いじゃないかって、こういうふうになるわけです」
「利害がからんでくると・・・切実になりますから・・・自然にやらざ
るを得ない」
「国家の強さによって、ある民族語が広まっていくか衰退していくかっ
ていうよりは、もっとビジネスの必要に応じた、利害が、決めていく」
「まあ、英語を憶えたいんだとしたら、違うコトバだと思わないで、方
言のひとつとして考える方法というのは、案外早く憶えられる」最後の「方言のひとつとして考える方法」っていうのは、よくわかりませんが。
英語嫌いには、まったくインパクトのないコトバでした。
勉強している人には、わかるのでしょうか。ではまた。
>私がトチ狂って、英語教育審議会のメンバーになどなった日には、喧嘩しまくりで、英語教育審議会が分裂すると思います。官僚の批判は不可欠ですから、「官僚の批判をせずに」など所詮無理な注文です。*現実的な話しでは正直いってないかもしれませんね。でも私は喧嘩してほしいとも思っています。根石先生の日本の英語教育に対する基本的な考え方は「革命」的なものです。実践してきた人が今まであまりにも少ないためにそういう声が上がってこなかったのかもしれません。やりきる人がまず少ないこともあると思います。これは私の予測ですが、「素読舎」である程度続いた人というのはもうその時点で学習することを自立している(英語に限ったことではない!)人だと思うのです。学歴ではありません。成績の善し悪しでもありません。生涯に渡って非常に大切なLIFE SKILLを身につけたことになると思います。それほど根石先生の考え方は大切なのです。教育の方法が大きく見直されています。たとえ根石先生が出て行かれなくても他の誰かかが言い出すと思います。ネットも発達してているので私も自分で「電圧装置」「回転読み」「回転書き」などをしっかり体験し効果があがれば、文部科学省に手紙を書きます。きっと効果はあると思います。私自身でその実験をします。結果は必ずでるものと信じています。根石先生は実験済みです。知識を運動に変えて生活のスキルとする。これほど大切で戦後なされてこなかった効果的な教育の方法はないと思います。素読は見直されるべきです。コンピューターが発達すればするほど見直されなければならないと思います。だんだん焦点がぼけてきましたね。
>学校の先生に必要なのも、在野精神です。日本の英語という荒野が広がっているのですから・・・。*エリオット先生が最初の偏差値にもめげずご自分の信じる道で教育なさっているのには本当に頭がさがります。また私自身も実践しなければと思っています。今まで英語は教養でした。これからは「スポーツ」と考えられる時代です。しかし学校教育における教養性も尊重されるべきだとも思います。根石先生の考え方はその全てを超越するものです。ゆっくりとしかし確実に私も努力したいと思っています。
>インターネットは、在野の者にとっては使える道具です。*全くその通りだと思います。
>村田晴彦君が、「フルメタル・ジャケット」のシナリオを終わらせました。*村田さんおめでとうございまーーーーーーーーーーす!一本終わらせるのは本当に大変なことですね。それからいつも大風呂敷のまとめをつくっていただき感謝しています!
>小学生や中学一年生など、本当の初心者は、「音」だけのインプットになってしまうこともあり得ます。順序を言えば、それでいいのです。「音」だけのインプットが終わっているものを文法的、意味的に理解するのは比較的容易で、。。これに反して、「音」のインプットが終わっていないものについて行った理解は、「知識が知識のままにとどまる」ことに終わりがちです。文法が知識のレベルを抜けられず、センスにならない。これでも、学校のテストでは点がとれてしまいます。なかなか、日本の英語が育たないのは、学校のテストという、英語にとっての諸悪の根元があるためです。*ここなんですよね。「音」だけではない。しかし「音」からでよい。「音」なくしては「イメージ」にも移れない。「知」だけではだめだ。「生」になっていなくてはだめだ。「自分」で獲得しなければだめだ。「生活技術」の獲得なのだ。これがすべての道に通じる根石先生のお考えだと思います。どうでしょうか?間違ってませんか?
では、ほんとに、いってきます。タスマニアから帰るのは約2週間後です。もしネットカフェなるものがあれば書き込みをするかもしれません。日本語変換ソフトが入っていればさらによいのですが。
>*悲しさを感じるときは日本語で声をかけます。なに言ってるんですか。
こっちだって楽しい旅行の最中ですわ。
あらかじめ悲しさを感じてる訳じゃないんだから。なにが、「悲しさを感じるときは日本語で声をかけます。」ですか、
そんなもん、先にわかってりゃ苦労はないですよ。それともホームシックということですか。なんだかんだ言ったって、結局はちゃんぽんでも皿うどんでも、なるたけスムースな対話ができるように、お互い歩み寄ることは当然でしょう。まぜこぜ言語だって、ありありです。
まずコミュニケーションをとるのに、とっさに英語を使おうとする日本人の悲しい習性だ、といったまでです。しかも、個人的にという話です。
ST 様>その理由ははっきり覚えていませんが、根石先生が以前掲示板でリスニング
という言葉を否定されていたからです。あまり詳しいことは覚えていません。リスニングという言葉を否定したということではなかったと思います。そもそも、言葉を否定しても意味がありません。リスニングという「考え方」を否定することなら可能ですが、そういうことをした記憶もありません。
以前、どこかで、「ヒアリング」という言い方は変で、「リスニング」でなければならないというような理屈を読んだことを覚えているのです。その時は、耳を鍛えることに今ほど関心がなかったので、なんでかなあと思っただけでした。
その後、語学の場としての「机上」での言語と生活過程での生活言語をはっきりわけて考えるようになり、「リスニング」は語学の練習用、「ヒアリング」は生活用というようなおおまかな区別をしました。もちろん、生活過程の中でも、雑踏の中で相手の言っていることが聞き難い時などは、「リスニング」も行われます。
「リスニング」という考え方自体も私は否定してはいません。
「ヒアリング」という考え方は全然変じゃないと書いたのではなかったでしょうか。
耳に関しては、「リスニング」が「ヒアリング」になるのがいいのだと考えています。
いくこへ>塾の場合、英語は会話の道具でしかないとまざまざと示されます。しょせん教
える側も学ぶ側も日本人です。英語ができるかできないかは、練習の差ぐらいな
ことです。そうやって覚えた英語は、コミュニケーションの道具にすぎません。
そして、それでいいのです。素読舎に対するとてつもないつかまえ方だと思いました。
私は、「英語=道具」観はとりません。また、世上に勢いのある「コミュニケーション第一論」もとりません。言葉は道具としての一面があるのは確かなので、道具として使うことはもちろん私もします。しかし、「言語=道具」ではない。言語は必ず道具をはみ出す何かです。
私にとっての日本語が単に「道具」でないのは自分には明らかです。日本語が私の基底を養って作ってくれたのだと思うので、「道具」としてとらえるのは、言葉に対する不遜な態度だと思っています。
英語は私の基底を養ってくれた言語ではありません。そして、日本語で養われた基底に何か非常に異質なものを置く言語であることも間違いありません。日本語で養われた基底が、この異質なものを受胎することで何がもたらされるのか。日本語にとっての単なるノイズになるのか、それとも日本語を鍛える作用になるのか、それは英語観あるいは言語観によって分かれるのだと思っています。自分の意識を英語と日本語が相互に作用を及ぼす場とすることができるのも、その相互作用が生じることが可能になるのも、英語が単なる道具ではなく「言葉」だからです。
いずれにせよ、私は英語というものを、絶えず日本語との関係の中で考えています。日本語で育った人間としてはきわめて当然なことだと思っています。
お手本としての範型は語学の「机上」では絶対に必要ですが、ひとたび「机上」を離れて、生活過程に入ったなら、範型は絶えず破られ、忘れられるべきです。範型から得られたエッセンスだけが動いていればいい。私が考えているのは、あるいは日本語そのものでもなければ英語そのものでもなく、その双方から得られる別種のエッセンスがぶつかり合う時の相互作用です。あるいはその反発と融合の繰り返しが作る普遍性です。
異質なエッセンスの相互作用、その反発と融合が作る普遍性ということを考えたときに、いつも思い浮かぶ言葉は、「ニューヨーク」です。
誤解されることを恐れないで言うなら、日本在住のまま英語をやることは、自分の意識を「ニューヨーク化」することではないでしょうか。私は、このことを「アメリカ化」とはまるで異質なことと考えています。ほとんど正反対のベクトルだと思うことさえあります。ニューヨークはアメリカじゃない、と言ったら、ウドがその通りだと言ったので、こんなに簡単に話が通じていいのかとびっくりしたことがありましたが、その時、確かに話は通じていました。ウドはニューヨークに住んでいたことがあります。お手本や範型に従うだけの範囲にとどまる人にはなかなかわかってもらえないことですが、エッセンスが動くことによる「変形」は英語という言語にとっての新しい富なのです。100人の人がいれば、おそらく100人に近い人がこれを富だとは思わず、「変なもの」だと見ます。とりわけ日本人の卑下根性がそう見ます。
しかし、英語という言語自体が口をきけたなら、英語はそれを富だと言うと思っています。また、日本語という言語自体が口をきけたなら、やはりそれを日本語にとっての新しい富だと言うと思います。私が英語をやっているのは、(下世話方面では生活のためですが)もう一つには、自分を養ってくれた日本語に対する恩返しだとも思っています。日本語によって養われた基底に英語が媒介にされた時に得られるエッセンスは、英語そのものでもなく日本語そのものでもないが、あくまでその二つの言語に同時に触れています。あるいは、へその緒を二本持つひとつの生き物です。
単に道具として英語が使えればいいのであれば、日本に住み続けて英語をやるなどということは圧倒的に不利なことです。
「日本にいてやる英語」が単なる道具であってたまるかという気持ちが私にはあります。その程度のものを持つのにこんなに苦労する必要はない。本当に道具だけのことなら、こんな苦労は他でして、その苦労で金を作り、通訳でも雇っていた方がいい。本当に道具だけのことだったら、私はそうします。商社に勤めているとか、日々の実務で英語が必要なら、話は別ですが・・・。
圧倒的に不利な条件を逆手にとらないと、日本にいつづけて英語をやることの豊かな意味に気づかないままで終わると思います。英語をやって、こんなに苦労してこんなに実りの少ない土地であることが、普遍という小さな穀物をもたらさないのであれば、私は決して英語などやりません。
机の前に座り込み語学として英語をやることが、自分をとりかこむ時代の制約を越え出る契機となりうるのではないかと思えないなら、英語などやりません。
根石さんへおっしゃんの書き込みを読みました。うーむ、とうなるご指摘でした。
まだ完全に読み切れていないので、じっくり読んでまた、書き込みをしたいと思います。
また、私は、おっしゃんの文面に出てくる単語の定義がしっかりと読み取れていないです。
稚拙な質問をさせていただくかもしれません、その時は、よろしくお願いいたします。すこし考えたことを書きます。いや、これは反芻です。
私にとっても、確かに日本語は単なる道具ではありませんでした。
やはり日本語が、私の基底を養ってくれたということは事実であると思いました。
「道具」としてとらえるのは、言葉に対する不遜な態度だと思いました。親の恩を知らずに、好き勝手な物言いをしているような気持ちになりました。
書き込み(ほんまつてんとう)、いきなり怒り口調ですみませんでした。
だいたいは、静かにしていることのが多いのです。
ただ、ときどき、無性に怒るんです。
もうしわけ、ございませんでした。
ST様wrote:
>村田晴彦君が、「フルメタル・ジャケット」のシナリオ
を終わらせました。
*村田さんおめでとうございまーーーーーーーーーーす!
ども!ありがとうございまーーーーーーーーーす!
でも、月曜英会話教室は、超!高密度なんで、本当はもっと早く
終わってないといけなかったかも、です(泣☆それではちょっとシナリオFull Metall Jacketの宣伝を…。
私は、情念・怨念・ルサンチマン山盛りの泣き泣き映画も大好き
なんですが、ハリウッド産でもたまぁーにある、カラっとかわい
た映画も好きなのです。
戦争ものだと、国内・国外を問わず、ジメっとした感じのものが
多いですよね。
ところがStanley Kubrickの撮る戦争映画は、極限状況を描いてい
るにもかかわらず、カラっとしていて、爽快でさえあるのです。サワリの部分をちょっと引用してみます。(新兵訓練の場面)
=============================
HARTMAN:
If you ladies leave my island, if you survive recruit
training... you will be a weapon, you will be a minister
of death, praying for war. But until that day you are
pukes! You're the lowest form of life on Earth. You are
not even human fucking beings! You are nothing but
unorganized grabasstic pieces of amphibian shit! Because
I am hard, you will not like me. But the more you hate me,
the more you will learn. I am hard, but I am fair! There
is no racial bigotry here! I do not look down on niggers,
kikes, wops or greasers. Here you are all equally worthless!
And my orders are to weed out all non-hackers who do not
pack the gear to serve in my beloved Corps! Do you maggots
understand that?
=============================
Here you are all equally worthless!
こういうの、なかなか思いつかない言葉じゃありませんか?
それもそのはず、Hartman(訓練教官)役の俳優は、実際海兵隊に
いた人で、Full Metal Jacket撮影時には、当初、教練のアドバイ
ザーとして参加していたのですが、その時の彼の口調に、Kubrick
が惚れこんで、役者として起用した、という経緯があるらしいです。復習やってくとだんだんわかってくるんですけど、語呂がよいの
です。「Hartman構文」にハマっていってるなあ、というのが自分
で分かる。特に大声で回転読みして言っていると、気持ちが良くなっ
てくるのです(笑)
最初の頃は、教室の帰りの車の中で、"I'm Gunnary Hartman, your
〜"と怒鳴りながら帰ってました。端から見ると相当変だったでしょ
うが(笑)この脚本、ストレス解消に「も」もってこい!です。
ちょっと、女性にはお勧めできないのが残念(笑)
Eliot 様>>th の前の t,d,l,n は上の歯の裏あるいは歯先に舌の先をもっていき、
脱落(あるいは黙音化)させる (根石)>「thの前のt,d,l,nは歯茎ではなくて上の前歯の裏あるいは歯先に舌の先を
あてて発音する。ただし、tとdは舌先をあてたまま息の流れを絶ち、一瞬の
無音状態を生じさせた後、直ちにthを発音する」あやふやなところを直していただきありがとうございました。
私のもくろみとして、なるべく簡単で短く理解しやすい言い回しで、日本人が英語の音を作るのに役にたつものにしたいということがあります。音づくりの際の「決まり文句」を作りたいのです。知識として不正確であることは避けたいのですが、しかし、長かったり複雑だったり難しそうであったりしない「決まり文句」にしたいのです。・th の前の t,d,l,n 舌の先を歯先へ
・th の前の t, d 無音になる
・th の前の l,n 発音される以上の三項目は間違っていないでしょうか。間違っていなければ、固定化し、塾生に素読させる材料にします。
・t,d,l,n,ch,j 上の歯の歯茎に舌の先
これは、以前に書いたものと同一です。これはこのままで使えると思います。
(発音個々)
・she は、口笛を吹くように口先を丸くすると出る。
・she は、「(しずかにしてもらうときにいう)シーーーッ」
・see は、口の両端を横にひっぱると出る。(子供がイーッだ、とやるときの口の形)>I open the door./I opened the door.が同じに発音されることはなく、ed
の部分は舌先を前歯の裏にあてたままでの一瞬の無音状態によって表現されま
す。これは自分ではクリアできているのですが、生徒さんに説明するとき、どう言うのが一番わかりやすいかをいつも考えます。th の位置に舌を持っていって、「音にならない音」「気配の音」「小さな一拍」などと言います。まあ、一対一でやるときは、そんなことをごてごてと言って、モデルの音を作れば、生徒さんはすぐに真似てできてしまいますので、そんな言い方でいいのかとも思っています。
>I spend the money./I spent the money.とか I wrote the letter./I rode the
bus.の中に出て来るspend/spent, wrote/rodeの発音はそれぞれ同じでしょうか?
いえ、無音状態といってもdとt は微妙に違います。これを説明するのはなかなかむ
ずかしいのですが、しいて言えば、d+thのときのdには舌先を上の前歯の裏にあてた
状態のままでもかすかに音があるのです。舌をdの位置にセットして、鼻をつまんで
(これはnの発音をしてしまわないための措置)、舌はしっかりつけたまま、声を一
瞬だけ出してみてください。ほんの一瞬、のど、つまり声帯から鼻の方へ「ッグ」と
いう感じの音が聞こえるでしょう。やってみましたが、つまり、わずかに喉がふるえるかどうかの違いということでしょうか。このあたりが、私の長年の疑問だったところです。
ST 様>>ch, j についても、口を動かしてみると確かに、t、d などと同じ位置でし
たが、これまでの私の分類では、舌の位置として t,d,l,n の仲間に入っていま
せんでした。これも新知識。>これに関しては私は疑問が残ります。根石先生は新知識とおっしゃいますが、
私は /t/d/n/l/ は同じでもそれらと/ch/j/ (こちらは綴字表記)は違うと思い
ます。おかしいなあ。change を何度も発音してみました。唇の形は大きく変わるのですが、舌の位置は同じような気がします。
Eliot 様(発音原則)
・t,d,l,n,ch,j 上の歯の歯茎に舌の先
・th の前の t,d,l,n 舌の先を歯先へ
・th の前の t, d 無音になる
・th の前の l,n 発音される(発音個々)
・she は、口笛を吹くように口先を丸くすると出る。
・she は、「(しずかにしてもらうときにいう)シーーーッ」
・see は、口の両端を横にひっぱると出る。(子供がイーッだ、とやるときの口の形)
・Is this the bus? → Iz zis zuh bus? (アメリカ)
・Who's there? → Who's zair? (アメリカ)
・s+th ⇒ s+z (アメリカ)
・z+th ⇒ z+z (アメリカ)簡略にまとめました。間違いがありましたら、ご指摘下さい。
Eliot 様>つまり、s/z+th⇒s/z+zという変化が生じているわけです。ですが、注意深
い発音ではこの場合でも/th/は/th/のまま発音されます。私は、外国語として
英語を話す私たちは面倒でも/th/を発音するよう練習した方がいいと思います。そう思います。ちゃんと th を th として発音し、アメリカ崩れの音を直してやるのがいいのではないでしょうか。私もみかけによらず遠慮深いので、いまのところやっていませんが・・・あ、いけねえ、それをやれるだけの音がまだ俺の口に実現してないのだった・・・。音だけのことなら、(私はともかくとして)アメリカ人よりいい発音をする日本人がいます。親切に直してやらないまでも、崩れを指摘することはやっていいと思います。
だって、th は th なんだから。別の話ですが、個々の語についての語感がネイティヴのように身体化されないのは、これはどこまでいっても身体化されることはないと思っています。英語の磁場で暮らすことでしか養われないものが絶対にあると思っています。アメリカ式に生活しなければ、アメリカ英語の語感は身につかない。だから、身につかなくて結構なのだと考えています。
だから、日本人の間違った英語を直してあげよう、アメリカではそうは言わずにこう言うんだよという趣旨の、おためごかしの英語本があふれていますが、うるせえよばかやろ、と思っています。個々の語の語感、個々の語法の本当のところは、あんな本なんかではどうにもなりはしない。日本式に暮らしていたら絶対に身につかないものを書いた本が、日本式に暮らしている人たちに売れるというのは、これは実は語学的な現象というより、コンプレックスを利用した文化政策の一種にやられているのだと思います。出版社は、もうかるから本を出すだけだと思っているかもしれませんが、まず最初に出版社がやられているのだと思います。アルク、大嫌いだ。
うるせえよばかやろ、と思いながらも私はその種の本を買うことがあります。日本在住のままにでもそれらは媒介材料としては使えるからです。使って、元をとってやります。文化政策の一種にやられてしまう人々は、元をとりません。あこがれの幻の国の呼吸が詰まった本として、本棚に飾ってあります。うるせえよ、とことん使って、真っ黒にし、ぼろぼろにして元をとってやればいいのだ。
世界のさまざまな生活の中の一種類としてアメリカ式生活もあるのだから、その一種類として媒介にしてやろうじゃないかという魂胆です。別にそれを知るのにやぶさかではないということです。
やぶさかではないので、アメリカ映画のシナリオを使うこともします。
生活ぐるみでなければ身につかないセンスを知識として持ってもしょうがない。磁場だけが作りうるセンスというものが絶対にあり、それは絶対なのだから、その磁場のないところでは手に入ることはない。
生活の場の絶対性という考えを私は決して手放すことはないでしょう。
映画などの疑似磁場をせいぜい利用して、間接的に徐々に隔靴掻痒のセンスを作っている行為を、アメリカ帰りなどが馬鹿にしやがったら、とことんやっつけてやる用意はいつも整っています。話に枝が生えました。お聞き流し下さい。
本をよく読まれる人だと思いますので、英語をやっている人たちに冷や水をぶっかけるような
ものを読まれましたら、また引用して下さい。
日本の英語馬鹿踊りには薬になることだと思います。
素読舎日録歯医者へ。仮歯をかぶせるための麻酔を打たれる。やがて口の左半分が大きな餅を噛んでいるみたいに動かしにくくなり、「月曜インプット」の教室ができるかどうか不安になる。どのくらいで麻酔が切れるのかと聞いたら、2時間くらいだというから、教室が始まる1時間前くらいには動くようになるとわかり一安心する。
歯医者はいい。治療の椅子に座らされて、若い女の人の柔らかい指で、くちびるをめくられたりして、目を閉じているのはとてもいい。ほっぺたに着ているものとその内側の柔らかさが触ったり触らなかったりしているのを感じているのもとてもいい。「カチカチと噛んで下さい」と言われて、カチカチしたり、「噛んで下さい」と言われて、じっと噛んでいたら、することが違っていたらしく、「カチカチ」とだけ言われて、またカチカチしたり、「ゆすいでください」と言われて口をゆすぎ、「あけてください」と言われて口をあけ、「倒しますよ」と言われて倒されたり、何もかも言いなりになって、全部をあずけているのがとてもいい。
歯医者で金を払うとき、一円も持っていないことに気づく。やべえと思ったが、財布忘れてきたと言ったら、受付のおねえさんが「今度持ってきてください」と言ったので、今度持っていくもん、ボク。
歯医者から更埴市役所へ。蛍が発生するような親水施設とやらを自作中の家の前に作るという計画だそうだ。Sさんと共有にしてある小さな土地から自作中の家の敷地に出入りするのは、車の運転が難しく、公道がカーブしていて見通しが悪く、親水施設に樹木を植えられたりしたら、今よりももっと見通しが悪くなる。ついては、Kさんが市に土地を売った後でいいから、市から私に用地の隅を道路用に2メートル幅で数メートルの長さ売ってもらえないか。そうすれば、見通しが多少悪くなっても、初めて私の家に来た人の交通事故の心配が少なくなると交渉する。何分にも、まだ計画段階であり、確約はできないとのことだが、是非考慮して欲しいと頼んで帰る。考慮してもらえないなら、この親水施設を作ることには反対する。急カーブではないから、車がスピードを落とさない場所なのだ。しかも、住んでいる人間からも、通行する車からも、見通しの悪いところに、私の家の出口がある。蛍が生きられる確率が高くなって、人間が交通事故で死ぬ確率が高くなるようなら、反対するしかない。
市役所から現場へ。トタン張り少し。ツーバイシックスを二枚合わせて幅広の板を作るためボンドで接着。後をTちゃんと娘にまかせて、帰宅。
月曜インプット教室。お嬢は仕事が忙しく休み。Kさんも仕事で休み。仕事は英語にはよろしくない。お嬢はそろそろどかんとやるべき時期になっているから、仕事がとてもよろしくない。また、仕事場でGジュニアのへまの後始末をしたのか。出席したのは、マダム、村田君、Yさんの三人のみ。Yさんは、「逃亡者」と「ミッドナイトラン」のどっちをやるかで迷いがある。村田君は、練習不足ながら、「ミッドナイトラン」を楽しくやっている。練習不足なので、生徒の人数不足を利用していじめた。いじめられると村田君ははしゃいで喜ぶので、こちらの気が抜ける。
教室終了後、スパゲティ。女房が畑で作ったトマトのソースがうまい。村田君、聡にもほんのわずかだけ食わせる。「ネイシサアン」の声が庭でする。ウドが遊びに来たとわかる。どうしたと言ったら、一人でドライブしていたが顔を見たくなったので来たとのこと。外へ飲みに行くかと言ったら、「おおぎや」へ行こうというから出かける。女房と村田君も同行。瓶ビールをコップで分けて飲む。女房と村田君はラーメン。俺とウドは餃子とライスとモヤシ炒めとキムチ。例の如く、すけべ話、いやらし話、うれし話、はずかし話。なんでいつもこうなる?
何の話をしていたのか忘れたが、「That's めんどくさすぎる for Neishisan.」とウドが言ったので、「おめえには日本語を習って欲しくねえよ」と言った。俺が、2年ほど前の正月に、薪ストーブに丸太を放り込んで、火がつかないまま放置しておいたら、ウドが来て、「You, too lazy」と言った。lazy だの、phony teacher だのろくなことを言わない。最近は日本語で図星をつきやがるのだ。
寝床に入って、ペーパーバックスの「嵐が丘」を読むが、どうも気持ちがざわついて眠くならない。起き出してこれを書く。
いつもNHK FMの日曜喫茶室という番組を楽しんでいるのですが、
先日「新明解日本語アクセント辞典」を20年振りに改訂発行された
国語学者の秋永一枝さんがゲストで出てまして興味深いことを
言っておられました。
アクセントとは:状況や感情に関係なく固定した単語の調子のあげさげのことで、
イントネーションとは:そのときの話し手の感情を表すためにつける抑揚のことだ。
とおっしゃってました。
日本語と英語の違いはあるものの私はこの話を聞いて我が意を得たりという
感じがしました。
イントネーションとは「こうするものですよ」と教えられるものではなく
「こういう感情を表したいときには、こうするものですよ」と教えられるもの
であるべきだとずっと思っていたからです。
皆さんどうでしょう。
身から出たオナラモーニング息子(男にしかわからないらしい)
マザーグース読みたる母に
マザーブス と子が言い。
マザーグズ ううむ。ムショーに帰りたい
親の死に眼が見えません
ダンスでゴン
セックスハラスメント
失礼しました。ではでは。
『猿の学生』
金に糸目をつけたい
出ん出ん無視無視パチンコ台
私は /t/d/n/l/ は同じでもそれらと/ch/j/ (こちらは綴字表記)は違うと思い
ます。*Now I am in the Youth Hostel in Launceston which is in north of Tasmania state.
I don't know how to operate a software of Japanese language. So I must write English.
The crucial difference of pronunciation I think is the position of toungue. Basically in case of the pronunciation/l/n/d/t/ we should touch back of the upper teeth which is not precise though using the tip of the tongue. On the other hand the pronunciation /j/t+longs/ we usually don't touch the same part.
That's just what I think. But it's just my opinion please tell me how to do.
aaaaa
aaaaa
浜谷さん>私は英会話学校へ通うことが一概に良くないとは考えていません。問題はその利
用方法だと思います。漫然と通うのは根石さんはじめ多くの達人の方たちが仰って
いるように金をどぶに捨てるようなものだと思いますが、上記のように割り切って
考え、ヒヤリングに特化して利用するなら値打ちは十分引き出せると考えています。ヒアリングに特化して使い、開眼されたこととは、具体的にはどんなことだったのか、お教えいただけるとうれしく思います。
私の英会話学校否定は、目的意識をはっきり持たないで通っている生徒批判でもあるのです。英会話学校に通う多くの人が、「風邪がウツルように英語がウツル」と思っています。これに対して、私は「英語は風邪じゃないからウツラない」と言ってきました。
非常に多くの人が、外人の存在そのものに頼ります。外人の存在そのものに頼り、自分ではたいした勉強をやらない人が多いのです。おばさんよう、そんなことなら、外人のいるホストクラブに行った方がずっといいぜ、と私は平気で言います。
英語ネイティヴと恋人関係になったりすれば、ネイテイヴが運んできた英語の磁場の中に入ることはできます。そして、これが磁場の最小単位でしょう。しかし、英会話学校の教室は、特に何を教えるわけでもなくただおしゃべりしているだけの教室でも、教室は教室であり、そこでは英語はあくまでも教室という状況での英語でしかありません。「ひとつ言葉間違えたら、あの娘にわるいじゃない(サザンオールスターズ)」という切実さが教室にはないのです。
とりわけ、教室で何か状況設定をして、その状況での役を分担して会話する練習などは、言葉を間接化する教室という状況の中で、お芝居という間接化をするわけですから、間接化がさらに間接化されます。
これは、映画がどれほど手に汗握るものであっても、その映画を観る人に直接的な危険が迫っているわけではないのと同じようなことです。教室というところには、本当の意味での切実さはないのです。教室は、言葉をどうしても間接的なものにしてしまいます。教師と生徒が授業をはなれて本気で喧嘩でも始めてしまうと、教室という場でも切実さが生まれますし、言葉が直接的なものになりますが、そういうことができる人は英会話学校なんかに通うより一人でどんどんインプットする方がいいことを知っていますから、めったに教室などというところには現れません。
教室で直接性や切実さが生まれることはまずありません。通常の「教える者と教えられる者」という図式の中では、言葉は知識であり、間接的なものにとどまります。
この「間接性」という一点を人々は見逃すのです。しょせん、語学は「間接性」の激化なのですが、英会話学校に通う人は、外人の存在に頼る他力本願がありますので、「激化」などやりません。「間接性」でしかないものを「生」だと思っているのです。
浜谷さんが、大損しなかったのは、ヒアリングに特化するという目的意識がはっきりしており、ヒアリング練習として練習を激化させるのにうまく利用したためでしょう。これを一般の「風邪がウツルように英語がウツル」ことを期待する他力本願の人々に薦めても、結果は「ドブに金」になることがほとんどだと思います。もっとも、他力本願の人は、私の方法でやっても駄目ですが・・・。他力本願だった人を自力本願に方向転換させるのに、例えば月額1万円だったらあまりにも安すぎますが、まあ文句も言わずやっております。
他力本願が駄目なのであって、英会話学校がいけないのではないのかもしれません。しかし、他力本願の連中に甘いことを言って、外人というものさえあてがっておけば金もうけができるという魂胆は学校の経営側にはしっかりあるのです。この他力本願と金もうけ魂胆の組み合わせが、英会話学校の繁盛になっているわけであり、英語をまともに語学としてとらえようと努めている私の側から見ると、やはり、アホか、の一言が飛び出すのは避けようがないのです。
ダグラス・ラミスの「イデオロギーとしての英会話」という本に、ラミスが日本の英会話学校で仕事をしていた時のエピソードが書いてあります。ある日、英語をよく研究し、語学的な訓練を経て英語に習熟している日本人教師が、「私は文句を言うわけではないが」と前置きして、ラミスに次のようなことを言ったというのです。
「私はもうここに20年(だったか30年だったか)も勤めているのですが、あなたよりも給料が安いのですよ」
ラミスは、この先生が英語の使い手としてきちんとした力を持っていることを知っており、語学的訓練の質と量は自分とはくらべものにならないのにもかかわらず、自分より給料が安いと知って非常にびっくりしたというのです。自分は単に子供の頃からしゃべってきた言葉を教室でしゃべり、来る途中の電車の中で見たことなどをおしゃべりしているだけなのに、なぜこの語学の達人よりも給料が多いのか。そんな馬鹿なことが・・・という話です。
浜谷さんが冷や飯を食い、私が冷や飯を食うのは、他力本願の馬鹿と、その馬鹿に外人をあてがう経営魂胆の組み合わせがあるためです。アメリカコンプレックスを出汁にした商売なのです。私らのような冷や飯食いの位置からは、少なくとも敵の姿だけははっきり見えていないといけないと思うのですが・・・。
ダジャレー夫人の恋人様>セックスハラスメント
これはどのあたりが駄洒落なのでしょうか。
今後ともよろしくお願いします。
重量級の記事が多いので、こういうのは歓迎です。
浜谷様>私はこれを登山に喩えています。登り切った時の快感は何ともいえないもので
すが、20−30%しか分らない本でも最後まで読み切ったことで達成感があり
ますし、それらの苦労して呼んだ本が本棚に並んでいくのを眺めることで自信に
つながると確信しています。逆に途中で挫折し投げ出すと投げ出す癖がつき自信
喪失につながります。最初は20−30%でもそれが、30−40%、40−5
0%と次第に読む力はついてくると思いますし、どのような本が自分に向いてい
るかもそのうちに分ってきます。20〜30パーセントしか読みとれなくてもペーパーバックスを読み続けるという方法が、登山に喩えられるのはとてもよくわかります。私のホームページでも、英語をやるという行為を登山に喩えたページがあります。私は高校の頃は山岳部にいましたので、この喩えはよくわかります。私は、縦走に持ち込めと言っています。
20〜30〜40〜50〜60パーセントに読む力がついてくるのも納得できます。これを信じなければ語学などやっていられるものではありません。
しかし、やはり、語学を語学としてやり、一応の基礎を持っている人(文法がわかる人)でないと、この「20〜30〜40〜50〜60パーセント」も起こらないと考えています。単にくじけて終わるのではないでしょうか。
浜谷さんに何度でも何度でも申し上げるべきは、「前提の有無」です。
浜谷様>根石さんは「どうしても見当をつけて、(内部音声として)発音してしまいた
くなります。これがつらいところです」とされていますが、上記の私の引いてき
た例ではどうですか?もし知らなかったとしてです。この例のような場合発音的
には簡単だから、見当をつけて(内部音声として)発音しますか? 同じ例でST
さんはもし知らなかったとしてどうされますか?ST さんへのコメントですが、私の場合を書いておきます。
例にあげられた、scruff であれば、私も(内部音声として)発音することをためらわないと思います。
問題は、発音のヴァージョンがいくつか考えられる場合です。これは、自分で勝手に決めたくなるのを我慢して留保するわけで、これがけっこうつらいのです。
解決策はただただ語彙力ですが、20〜30パーセントしか理解できない場合では、語彙力も大してないと思いますから、難行苦行になると思うのですが・・・。
>根石さんに質問させていただきたいことがあります。素読の場合はどうでしょう
か?知らない語彙は見当をつけて音読しないのでしょうか?素読というのは、インタラクティヴな方法で、「読みを知っている人」と「読みを知らない人」とで練習するわけです。
先生という言葉はどうにも好きではないのですが、便宜的にここで使えば、先生と生徒が一対一で向き合ってやるのが素読の基本の形です。
従って、「読みを知っている人」が、「知らない語彙」を含んでいるテキストを使用することはありません。原理的に矛盾します。
それなのに、実際には「読みを知っている人」が「読みを知っていなければいけないのに知らない人」になる場合が突発します。所詮、生身の人間ですから。その場合は、ごめんと生徒に謝って、調べればいいのです。以前、地元のお寺の副住職を相手に素読をやったことがありました。空海全集から副住職がやりたいテキストを選んで素読にかけたわけですが、私にはチンプンカンプンの語彙が非常に多くあり、「Kさん、俺、読めねえや、ごめん。本山に問い合わせて読みを確定してくれねえか」と頼みました。先生役失格ですが、Kさんは、それでもいいからやってみたいと言ってくれたので、生徒に読みを教わりながら先生役をやりました。
この場合は、空海のテキストを教えたのではなく、ただ単に素読を教えただけでした。
この副住職は、現在、京都の本山から呼ばれて本山で修行しています。早く帰って来てくれねえかなあ。冷や飯食いの私には、いないと淋しい人なんです・・・。
Eliot 様>英語の学習での発音の重要性を説いている人が作っているサイトをひとつご紹介し
ます。参考になりますので、よろしかったらご覧になってみてください。「英語・発
音・語彙」を中心にして英語学習について相当の量の情報を発信しています。
http://www.scn-net.ne.jp/~language/お教えいただきありがとうございました。
行って読ませていただきました。
ここで s の調音点は上の歯の裏だと知りました。
いいサイトだと思います。こういうサイトを作っておられる方には感謝感謝です。発音のコツをなるべく簡潔な言い回しで生徒に言うためのデータを少しずつゆっくり作っていこうと思っています。このサイトなどで調べられることは調べようとは思いますが、なにぶんにもずぼらな性分ですので、自分の口を動かしながら生じた疑問を突如ここへ書くことがあるかとも思います。その場合は、ご面倒ながらよろしくお願いします。
この掲示板が呼んでますよぉ。お暇ができたら出てきてください。
ST 様>ワンサギとはアボリジニ辞典(先日町のとある小さな雑貨屋で求めたもの)を引い
てみる。to drag; to pull, borne, もう一つよく分からない。何を DRAGするのか、
PULLするのか?地元のかつての繁栄をもたらしたCOALなのか?それとも風なのか?地
元の人達や友達は、wonthaggiはWIND AND RAIN(/ライン/とやはり発音している!)
という。ふうむ。こういう疑問は、持ち続けていただきたい。生きているうちに「ああ、そうだったのか」ということが起こるか起こらないかはわからないのですが、起こればすごくうれしいものです。
ST 様>ごり押しの練習とは、どのようなものですか?ぜひ知りたいです。
ごり押しというのは、語学に必要だというだけのことです。
要するに、ただごり押しするのです。
だって、apple がりんご、などというのは、知っている人は当たり前だと思っていますが、知らない人は、これを自分に強制しなければならないわけで、外部(知識)を内部に強制するわけです。単語一つ覚えるのでも、磁場を欠いた語学の場では、ごり押しにならざるをえません。
民主主義者が何を信じるか知りませんが、語学は暴力的といえば暴力的な行為です。
Shima 様素読舎訪問記、ありがとうございました。
>塾生と先生が各自の課題を素読する声が素読舎内に響きわたっている。私は「先生」という日本語の語が好きではなく、「先生」と呼ばれるのも好きではありません。
「かわや、といれ、せんめんじょ、べんじょ、はばかり」などは、何と言おうと、ちんこまるだしで小便をし、お尻まるだしで大便をする場所であり、しょせんクサイ場所でもあります。突然何を言い出すのかと思われるかもしれませんが、次から次へと「あの場所」を指し示す語を発明し、臭いを振り落とそうとしても、しょせんクサイ場所をさす言葉だから、臭いがついてしまい、そのため、また新たに別の語を発明しなければならなくなるということの繰り返しだという話です。
私は「先生」という語にも、ある種の嫌いな臭いをかぐのです。資格がらみ、免許がらみ、権力からの許可、権威からの許可(生け花、茶道など)を嗅いでしまいます。私が明らかに嫌いな臭いを嗅いでいるにもかかわらず、「先生」という語はなかなか更新されません。水戸黄門のスケさんだか、カクさんだかが、「これが目に入らぬか」と言えば、人が「ははあっ」って言ってひれ伏す図式が、「先生」という語の背後にあるわけで、これが嫌だから私はウゾウムゾウの一つ(塾)という仕事を選んだと思っています。半分は無意識ですが、半分は自覚的に選びました。
中学と高校の英語の教員免許に必要な単位はすべてとり、教育実習もやりましたが、最後、書類を書いて免許に変える時点で、なんだかすっかりその気がなくなり、放置してしまいました。
いくこが、この掲示板でも私のことを「おっしゃん」と呼んでいますが、これが私の塾で自然に生まれてきた私の呼び名です。「先生」はやめてくれ、「先生」以外なら何と呼んでもいいから、と言っていたら、ほぼ「おっしゃん」か「おじさん」になりました。近頃の子供は「おじさん」と呼びます。
でも、こんなことを大人の人にいちいち言っていると、そのたびにいちいち説明しなければならないので、非常にめんどうです。だから、大人の人に「先生」と呼ばれても、我慢することにしています。それでも、「ゆいまある」などの生徒さんたちは、とてもこんなものを先生と呼ぶわけにはいかないという感覚をしっかり持っておられる方が多く、逃げ道を探して「根石さん」と呼んでくれます。正常だと思っています。ウドはウドで、英語の人ですから、科学的に phony teacher と言うことがあります。このやろ、図星をつきやがって。
資格がらみ、免許がらみ、権力からの許可、などの理由の他には、「先生」と呼ばれると、「人格」まで要求されるような恐怖があるのです。そんなものを要求されてしまえば、俺の好きなすけべ話が掲示板でできない。どうしても、すけべ話が好きな人徳を確保したいと願っています。Shima 様には、その後、女房がレッスンさせていただいておりますが、私が作った「話体」という教材を高く評価していただいたと女房が言っておりました。
そのことについて、またこの掲示板に書いていただけるとありがたく思います。
どんなふうに使われているか、どんな効果があるかなど書いていただけると、しこしこと作ったかいがあります。
どうぞよろしくお願いいたします。
ST 様>昨日もcourageが本の中に何度も出てきて、すぐに訳語がでてきてしまう。どう
したらこの日本語を消して英語 courageの「イメージ」を浮かび上がらせること
ができるのか。というようなことを考えていました。やはり「電圧装置」が弱いの
でしょうか?それとも「イメージ力」が足りないのでしょうか?強く強くただイメ
ージする。弱い頭は鍛えるしかない。やはり電圧装置」なのか?「英語どんでんがえしのやっつけ方」は、種本(「英語のやっつけ方」)が大学受験をする人たち向けのものだったので、かなりきつい練習方法が書いてあります。大学受験に「音づくり」を緊密に結合させれば、日本在住のまま使える英語を作るための最短距離になると考えており、大学受験生にこれまでの受験英語から踏み出して、大学受験が終わった時点で、使える英語としてよちよち歩きができる程度のものを持ってもらいたいという願いがあったためです。そのため、短期間に強引にやる方法が書いてあります。「電圧装置」などはその最たるものです。
映画のシナリオを使った「電話でレッスン」では、もっとおだやかにイメージを醸すために、「復習範囲を手放さない」という原理を据えてあります。この原理は、素読そのものと関係ないのですが、非常に素読的なものであると思っています。
若い人にはきつい方法を奨めたいが、社会人の方で時間がなかなかとれない方には、「復習範囲を手放さない」おだやかな方法でやっています。
しかし、このおだやかな方法でやってもなお、練習量が足りないと思われる方が散見されるのは残念なことです。まあ、人には調子のいいときと悪いときの波がありますから、気長にやっていくしかないんだと思っています。
むかし、セクハラというコトバが出回り始めたころ
あるひとが、「それって、セックスハラスメントのこと」
と真顔でまわりに聞いて失笑を買ったとのこと。つまり、伝聞で私のところにきたときには、
セックスで憂さを晴らす、というおよそ反対の意味になっていた、という
ことなのです。
自分のまわりだけしか通じないようですね。残念でした。
口直しに、ひとつ。インター寝っておらんでよ
根石教祖は、そう見えましたので。ではでは。
根石さん、>ヒアリングに特化して使い、開眼されたこととは、具体的にはどんなことだったのか、お教えいただけるとうれしく思います。
「開眼」とまでは言っていません。「値打ちが引き出せる」、つまり媒介としての「外人の喋り」から学べることもあるということです。 具体的に記憶に残っているのはaffect の a の発音です。それが e (え)と聞こえたのです。その先生(米国人)特有の発音だったのかも知れませんが・・・。
私が英会話学校を利用したのは40年ぐらい前でしたが、その頃は英会話学校という名称だったかどうか不確かです。私が選んだ上級クラスでは、兎に角外人の先生が時事問題等を喋りまくるだけでした。勿論質問は可でした。だからヒヤリングに特化せざるを得なかったのかも知れません。英会話学校が現在の形態になって久しいですが、やはりおかしな形態だと思っています。私は現在英会話サークル(相談室も兼ねて)を主宰していて、チャットの時間を1時間半もとってやっていますが、来られている方々は異口同音にもっと喋る場が欲しいと言っています。喋る場の確保が出来れば、外人のいる英会話学校でなくても良いのではと考えています。私はそういう観点から「英語(英会話)学習相談機関(サークル)」の各地での設立を呼びかけさせていただいています。良貨は悪貨を駆逐できないかなと考えているのですが・・・。
>英会話学校に通う多くの人が、「風邪がウツルように英語がウツル」と思っています。これに対して、私は「英語は風邪じゃないからウツラない」と言ってきました。
こういう風に思っているいわゆる他力本願の人が多くいることを否定はしませんが、前述のように喋る機会を求めて行っている人が多くいるのも否定できないと考えています。だから実際の話としてサークルに参加している人で、同時に英会話学校に1週間に1回通っておられる人には、私はヒヤリングに特化して通うように奨めています。インプットの大切さも分ってくれているようなのでサークルのチャット・タイムを充実させていけば、英会話学校から足を洗ってくれる日も近いのではないかと期待しています。ちなみにチャット・タイムでは英字新聞のきり抜きなどによりトピックをきめてやっています。最近では「大学の効用」、「日本人の宗教観」などです。
多くの英会話学校、新聞の巨大広告によるカセット販売、6週間で英会話が出来るようになるなどの誇大宣伝によるハウトゥ本の版権で豪勢に飯を食ってる人などが片方に居り、根石さんや私や様々な無料のHPで本当の英語(英会話)学習法を伝えようとして、「冷や飯」を食わされている者も居るという状態は何とかならないものかといつも考えていますが、どこの世界にも同じことは散見されるのではないでしょうか? 地道に信ずる道を進むしかないと思っています。たとえその道が我々の生きている間に評価されなくても、死後にでも評価されればいい、それは芸術家が死後に正当に評価されているのに似ていると思っています。
朝日新聞・夕刊・今日掲載エッセイ玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)の
『文字を立てる』から
「禅では不立文字(ふりゅうもんじ)といいます。肝心なことは
言葉や文字では伝わらず、以心伝心しかないということでしょ
う。しかしそう言う禅宗にこそ、他の宗派より多くの著作が遺
されています」英語を学習されているみなさんにお尋ねしたい。以心伝心なるコトバは
英語にあるのでしょうか。あれば教えてください。よろしく。
小池昌代『屋上への誘惑』から引用。「言葉というものを操って、私たちは他者と関係したつもりで
いるけれど、本当は、・・・互いを少しも知らないで、この
世に寄る辺なく点在しているだけではないか」「人と話をしていて、話題がとぎれることがある。その瞬間の
まの悪さが、私は実は、案外好きだ。話すことなど、もう何
もない。ーーその虚空のなかに身を置くと、ないことのなか
に、やがてゆっくりと充ちてくるものがある。話題を探すの
ではない。私たちという存在が、こうしていつも、遠くから
やってくるものに、手繰り寄せられ、探されるのだ」「私たちは、・・・未来の時間のために、現在を使うというこ
とに耐えられないのではないか。それは現在をからっぽにす
ることだから。例えば大学に受かるためだけに、受験勉強を
することには耐えられない。勉強することそのもののなかに
目的を持たなければ、とても、やっていけるものではない。
・・・未来も過去もなく、あるのは現在だけ。その現在とい
う一点に、生も死も、なにもかもがある。そうすると、・・
・すべてが、いつも本番ということになる」
英語嫌い人様>英語を学習されているみなさんにお尋ねしたい。以心伝心なるコトバは
英語にあるのでしょうか。あれば教えてください。三省堂のDaily Concise 和英辞書に 「 tacit understanding ] という訳がありますが、以心伝心に該当すると思われます。他の学習者のかたで、より適当な訳をご存知の方おられますか?
本屋で立ち読み・宮崎学の発言から「トイレットホルダーのペーパーを三角に折る人がいるでしょう。
なんとなく礼儀なのかと思っているんでしょうか。たしなみなの
だと。これはね。勘違いなんだよ。ホテルの関係者から聞いたん
だよ。この三角はホテルの清掃員の合図なんだそうだ。清掃が終
わったという合図。三角がなくなったら、お客がトイレを使用し
たということで、また清掃するわけ。ホテルは24時間365日の営
業で絶えず汚れを取り除く清掃が重要なことなんだ。だから清掃
員じゃない人が三角に折る行為は、清掃業務の妨害をしているわけ」
混乱する清掃員の姿が浮かぶようですね。迷惑して怒っているのでしょう。
私は以前から、なんで三角に折るんだと怪訝には思っていました。普通の
人がです。なんで「たしなみ」なのかってね。だからやりませんでしたけど。
これで理由がハッキリしました。
「たしなみ」を好む人は、「刷り込み」されやすい人なのかも。
浜谷様お教え頂きありがとうございました。
「暗黙の了解」ということなのでしょうか。
おことばですが、もし「暗黙の了解」であれば、そのことは
言葉で表現できるのではないでしょうか。
禅僧の言われるのは「肝心なことは以心伝心でしかわからない」
という意味です。まあ、これは禅の世界のことなので英語には
ないかも知れませんね。
被害猛暑で疲れ果て掃きだめにツルッパゲ
ユー・ガツっとメールでめげる何やん
「考える人」は動かない(脱糞中?)
くるくるパーマ
英語嫌い人様>おことばですが、もし「暗黙の了解」であれば、そのことは
言葉で表現できるのではないでしょうか。
禅僧の言われるのは「肝心なことは以心伝心でしかわからない」
という意味です。まあ、これは禅の世界のことなので英語には
ないかも知れませんね。そうかも知れません。三省堂の方もそこまでは調べてないのかも知れません。
私は感じとしてその訳が一番その表現に近いのではないかと思っています。
しかし、禅の世界のことに限らず、日本語の表現が全部英語にあるとは考え
られませんし、逆に英語の表現が全部日本語にあるとも考えられません。
生活、習慣が違う訳ですから。他の英語学習者の方のご意見をお聞かせ
頂けませんか?
英語嫌い人さん
ではフランス語でもどうですか?Your true mind can only be delivered by your mind, not by your words.
Duffyさん。私は日本語ですら100%できる者ではありません。
日本語のやりとりですら、人により違う解釈をすることが
日々頻繁に起こっていると考えております。また、自分の言っていることが相手に伝わるのは50%ぐらい
ではないでしょうか。なぜなら、人は自ずと備わった世界観を
武器にして相手に対しているからだと思います。
すれ違いは世の常なのでしょう。ですから、フランス語はもとより外国語を修得する気はありません。
まえにも書きましたが、中学1年のとき「英語」に遭遇して強い拒絶反応を
起こしてしまい、それが「トラウマ」になったのです。むろん理由は不明。
たぶんトラウマの呪縛から逃れんために、ここに来ているんだろうなと思います。
皆様今回も村田君の助力により、この掲示板の201〜300番の記事を下記に保存しました。ご利用下さい。
http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis/ooburosi/201-300.html
この掲示板では、同じ問題を何度でも蒸し返すことは歓迎いたします。すでに根石吉久のホームページに登録されている記事についてコメントなさる場合は、記事番号を併記していただくと、他の人がその記事の前後の流れを確かめてからコメントなさるのに便利かと思います。ご協力下さい。
ダジャレーはだれじゃー。
ダジャレー夫人の恋人親指。(中指でないから、そんなにいやらしくありません。いや、待て、小指はいやらしいぞ。
どうしよう、胸苦しい)
素読舎日録午後1時起きる。
飯。「やじろべえ」へ。茂子はどうしているか。今日も、愛の巣でなめくじのようにただれて溶けているのか、という話を小山さんとする。馬鹿たれが、勝手に溶けていろ。男一人つかまえれば、娑婆には用がねえんだ、あいつは、という話を小山さんと続ける。ほんとに何してるかねえ、と小山さんが言ったから、口あけて、昼寝こいてるだけじゃねえの? と言って、二人して口あけて笑った。
自宅自作現場へ。玄関のドアを取り付ける準備を長いことやっていたが、ようやくドアがついた。しかし、まだ仮止め。
暗くなって借家へ帰る。「電話でレッスン」。名古屋・K君は、最近発音がよくなった。「基礎問題集」という素読舎オリジナルの教材は楽しんで使っている感じがする。K君のレッスンを一時間。高校生は一時間は必要だろう。その後、長野Yさんの「ノッティングヒルの恋人」。構文まるごと把握の力が、単文、重文から、徐々に複文に手をかけはじめている感じがある。この人には、小型ながら、ヨーロッパ系の思考回路がある。
おばんです。
最近、ネットラジオで海外放送を聴くのがおもしろくなってきました。
( http://www.webcastpilot.com/japan/ や
http://www2.starcat.ne.jp/~ndxc/link.htm にいろんな局へのリンクがあります)英語の音が固まりになって入ってくるようになった気がします。
レッスンの成果でしょうか。テキスト(「ゴースト」)で何度も練習したフレーズが、
耳から飛び込んでくるのは快感です。
ただ、聴こえたから即理解できるのかといえばさにあらず、文の構造を意識していないと、
話者のイイタイコトは伝わってきません。
ここらへんは、多分浜谷さんの強調しておられる多読などでカバーしなければならない部分かなと
思っています。それにしても各国の放送を聴いていると、英語もいろいろあるんだなーと思います。
Real Audioが聴ける環境にある方は、是非一度、インド( http://air.kode.net/news1.html )の放送を聴いてみてください。
私には、どちらかというと、アメリカ英語よりインド英語の方が聴きやすいのです。
もしかして、今週のレッスンは休みですか?
ST 様>「こうじ」さんから得ることがたくさんあるはずなのにその機会を逃している
ように思えてなりません。正直いって。
それから言葉使いについて。この掲示板はもちろん一般に公開されているはず
です。表裏を使い分けることが必要な場合は、使い分けをする必要もあるのでは
ないかと思います。「こうじさんから」云々については、私はそうは思わなかっただけです。
こうじさんに登場してもらいたい場合は、ST さんから呼びかけて下さい。
公開の場ですから、誰が誰に呼びかけていただいてもかまわないのです。こうじさんに関しては、英語に関する記事が高飛車であるのがむかついたのでした。
言葉使いというのは、私のおまんこ発言のことだと思いますが、裏表の使い分けが下手で昔から損ばかりしてきた人間ですので、もう、どうしようもない。私の病気ですね。
ST 様>>アメリカ英語やイギリス英語でいいよ、と思っています。
>「やっぱ「牛乳」でしょ!」とは私は思いません。むしろ「お茶づけ」といいたい。私は「イギリス英語やアメリカ英語でいいよ」とは思いません。
イギリス英語やアメリカ英語でいいよ、と言ったのは、日本人が媒介にする英語としてなら、イギリス英語やアメリカ英語でいいよ、ということです。
それらを媒介にしても、できてくる英語は日本英語です。
「同じ幻想」が日本人は強すぎます。イギリス英語やアメリカ英語と「同じ」英語を身体化するのが、上等な語学的態度だと思っている人が多すぎます。日本に住んで「お茶漬け」をすすりながら作る英語は、どれほどご立派な発音の英語でも、日本英語なのです。だから、積極的に日本英語を作るべきです。日本英語を作ろうという呼びかけは、「同じ幻想」を食い破ろうという呼びかけでもあるのです。別に日本人に限らず、非英語圏の人が英語を習う場合に、イギリス英語やアメリカ英語を媒介にすることでよろしいのではないでしょうか。
ST 様>私の場合は「音」があまりにも強烈に入り過ぎるのか「イメージ」構築に今も苦
しんでいます。これはむしろ「信仰」の問題ではないでしょうか。
語学というミクロの世界を、拡大鏡で広げてみると、「音」を信仰している人がたくさんいます。
戸隠神社で言えば、「奥社」は「音」そのものではありません。
「音」はインターフェイスとして、絶対に大事にすべきものです。
日本の学校英語・受験英語は、絶対に大事にすべきものを大事にしてきませんでした。
「音」を大事にして、「通じる音」を作るべきです。
しかし、「音の問題」を解決したその先に語学の「奥社」があります。「音とイメージの同致」だと思います。
「『音』があまりにも強烈に入り過ぎる」というより、「音」を解決することで語学が成立するというように信仰したためではないでしょうか。これは、パクパクさんに向けても言いたいことです。
パクパク様>音、イメージ、音とイメージの合致 まさに、このプロセスコントロールであると
おもいます。ただし、シリアルな直列構造ではなく、同時多発領域でしょう。そうい
う意味で、映画には、音とイメージの同時提示があります。直列構造ではないというのはその通りです。
むしろ、実態としては「ごった煮」だと思います。
どんな順序で成立してもいいのです。
極端な話が、「音とイメージの同致」が先に成立してはみたものの、「音」が「通じない音」であったら、後から「音」をきちんと通じるものにするのでもいいのです。
札幌のOさん、山梨のSさん、福岡のMさん、長野のBさんなど、私の生徒さんに、学校英語の犠牲者がおられますが、この方々は、「音」と「イメージ」を同致させる力は充分にお持ちです。宝光社、中社、奥社の順序は、おおざっぱな順序ではありますが、これをたどるのがもっとも効率がいいとは言えます。語学の一つの定式として意味がないものではないと思います。
「同時多発領域」というのは、パクパクさんがおっしゃるものとずれると思いますが、私はどうしても「回転読み」を思い出します。「回転読み」を技法とだけとらえず、意識の運動の場であるととらえるなら、まさにこれは「同時多発領域」です。
映画が提示するイメージというのは、私が言っている「イメージ」とは別物です。
映画のイメージはむしろ、美術の世界でイメージと言っているものに近いと思います。つまり、具体的な映像のことです。
私が「イメージ」と言ってきたのは、生きている人間の意識に現象するイメージで、本人にしかわからないもの。視覚ではとらえることのできないものです。こちらの「イメージ」の核になるものは、むしろ、「概念」とか「観念」というようなものだと思います。
書き込みありがとうございます。
レッスンの成果だと思いますよ。私のパソコンでも、音を鳴らしたくなった記事でした。
私はパソコン利用では、まったく文字派でして、パソコンが音を出すと、うるせえなと
思ってきました。もうちょい自宅自作が進んだら、音も鳴らしてみようかと思います。お盆休みは、13日から19日まで、です。
従って、もう一回レッスンがありますから、あわててください。
書き込みありがとうございます。
レッスンの成果だと思いますよ。私のパソコンでも、音を鳴らしたくなった記事でした。
私はパソコン利用では、まったく文字派でして、パソコンが音を出すと、うるせえなと
思ってきました。もうちょい自宅自作が進んだら、音も鳴らしてみようかと思います。お盆休みは、13日から19日まで、です。
従って、もう一回レッスンがありますから、あわててください。
ST 様>「インターフェイス」というのは「どんでんがえし」の最初のほうにあった
「ローマ字変換」というのと同じような意味でしょうか?いや、違います。
「ローマ字変換」は、もっとも汎用性があるという意味で使いました。
言語でもっとも汎用性があるのは、現代では英語だろうということの喩えです。「インターフェイス」というのは、どうも他に言いようがないので、英単語をカタカナ表記したわけですが、ちょっと辞書を開いてみます。汎用性のことを言いたかったのではありません。
in・ter・face[名]共通領域;(二者間の)接触面;〈電算〉インターフェース.―[動]調和する〔させる〕,連結する.
「接触面」というイメージです。
津田美鶴様>お誕生日おめでとうございます。もう「血」の問題は解決されましたでしょうか?
私も最初は「血」にみえましたが、少し離れてみてみると、プレゼントボックスを手
のひらにのせている様にみえるのですが・・・。ありがとうございます。
「血」の問題ですが、これを書いた美しい女が月曜日に来ましたので聞いてみました。
「血の道」の問題ではなかったようです。
ケーキとロウソクだったようです。こちらに出張がありましたら、お寄り下さい。
女房が津田さんのことを教室で話すと、飢えた男どもが、はあはあと息が荒くなり、でろでろと涎を垂らすのが気持ち悪いです。女房は、「津田さんの英語はとてもきれいで、津田さんの声はとても可愛い」と言っただけなのですが・・・。
うちの女房は、男を張り飛ばすのは得意ですから、安心して遊びにおいで下さい。
浜谷様浜谷さんの掲示板、久しぶりに読みにいきました。
100の記事、すべて読みました。
私のことが問題にされているせいもあり、面白かったです。
まあ、私がアクの強いのは、どうにもなりません。自分でもこのアクはもてあましているの
です。
最近の記事に活気があると思いました。
明日はこちらに見えられるのですね。楽しみにしています。
素読舎訪問記を是非書いていただきたいと願っています。皆様
浜谷さんの記事の末尾に浜谷さんのホームページのURLがいつも書かれていたと思い
ます。是非、読みに行ってみて下さい。
浜谷様浜谷さんの掲示板、久しぶりに読みにいきました。
100の記事、すべて読みました。
私のことが問題にされているせいもあり、面白かったです。
まあ、私がアクの強いのは、どうにもなりません。自分でもこのアクはもてあましているの
です。
最近の記事に活気があると思いました。
明日はこちらに見えられるのですね。楽しみにしています。
素読舎訪問記を是非書いていただきたいと願っています。皆様
浜谷さんの記事の末尾に浜谷さんのホームページのURLがいつも書かれていたと思い
ます。是非、読みに行ってみて下さい。
帰りの地下鉄で、Uさんは、気分が悪くなってしまいました。
例のごとく、クーラーがききすぎている上、ガタゴトと揺れるのです。
なんとか、ビーコンズフィールドについたのですが、もう大変です。それでもなんとか家にたどり着きました。
家にもどると、日本語学校のPTAの方々と子供たちが、バーベキューを終えてくつろいでいました。
Uさんに、気分が悪くなったことを話し、外の芝生の上に、タオルでも敷いて寝ていることにしました。
しばらくすると、子供たちが外で遊び始めました。9歳を筆頭に女の子達が、元気いっぱい走り回っています。ときには、虫を捕まえてきては、見せてくれます。
Uさんの専攻は、環境アセスメントで、植物をはじめ動物やら昆虫やらなにやら、大変物知りです。
気分の悪いなか、子供たちが採ってくる昆虫の名前を教えてあげていました。
私は、肉体派(?)ということで、子供たちと家の周りを追いかけっこをしました。子供たちの明るい笑い声が響きます。
日本でも、こんな声を聞くことは、ほんとうになくなりました。
それから、小さな彼女たちの英単語の発音には、いやはやとても驚きました。幼稚園の女の子に、何度か発音してもらって、私が真似して言うのをやってみましたが、口の筋肉が思うように動きません。
ああ、彼らがやがて帰国子女と呼ばれるのだな、と思いました。(つづく)
なぜフランス語か?
英語が嫌いならと考えただけで、何にも考えてません。
英語嫌いさんの「トラウマ」がどのようなものか興味がありますね。
>Duffyさん。
> まえにも書きましたが、中学1年のとき「英語」に遭遇して強い拒絶反応を
> 起こしてしまい、それが「トラウマ」になったのです。むろん理由は不明。
> たぶんトラウマの呪縛から逃れんために、ここに来ているんだろうなと思います。
根石さん>浜谷さんの掲示板、久しぶりに読みにいきました。
100の記事、すべて読みました。ありがとうございます。 もっと頻繁に読みに来てください、と言いたいのですが、残念ながら書き込み数が少ないので言えません。 わざわざこの掲示板のビュウアーの方々に宣伝して頂いてありがとうございました。まあHP開設後1年も経ってませんので(今年初めよりやってます)まだ多くは望めないと楽観しています。「面白い」とご批評も頂きましてありがとうございます。投稿人数は少ないですが、少数精鋭ではないかと自負しています。それに較べるとこの掲示板は掲示板としての歴史は浅いにも拘わらず大繁盛で、さしずめ精鋭大部隊というところでしょう。ますますのご隆盛を願っています。古川さんの掲示板は最近淋しくなりました。でも英語学習の掲示板としては頼りにしている人も沢山いるみたいなのでいつも見にいってます。ちょっとでしゃばってレスし過ぎかとも思いますが、わたしのHPの宣伝を兼ね、知っていることは伝えてあげたいと言う気持ちからレス続けています。今日小谷の山小屋に立ち寄ってからと思っていましたが、めんどくさくなったので、今晩名古屋のカプセルホテルに泊まり、そちらに明日昼過ぎ直接お伺いします。お邪魔になると思いますが、見学と、そのあと一献傾けながらお話ができることを楽しみにしています。
素読舎日録全国の皆様、お早うございます。
昨日、午後、浜谷さんが素読舎を見学に来てくださいました。
浜谷さんは、塾にはあまり興味がなく、ホテルで寝ていらしたようです。
「電話でレッスン」の時間に見えて、私が二つやったレッスンを聞いておられました。
一つは、九州のおばあちゃんちに行っているMちゃん(中学3年生)のレッスン。もう一つは、長野の小学校の先生のSさんのレッスン。最後に、奈良O友さんのレッスンでしたが、この方は音づくりに少し行き詰まっておられるためか、こちらが何度か電話したのに、お返事はありませんでした。20分待って、現れている大きな峠を越えて欲しいと要望するメールを書いて、打ち切りました。思い出した。川中島、M崎H馬の親、私のに塾にちゃんと息子を通わせて、2ヶ月分、3万なんぼを払わなかった酒屋のおやじ。私はちゃんと覚えているから、ここに書きます。川中島の人々に告ぐ。この酒屋から酒を買っても金は払う必要はねえよ。俺をなめないでね。
最後のレッスンの奈良・O友さんが応答がなく、盆休みに入るのに、後味が悪かったが、村田君に電話。上山田・昇龍園で待ち合わせることにする。いくこも誘うことにする。
浜谷さんが、Eliot さんのテープを聞きたいというので、聞いてもらう。やはり、何度聞いても感服する。浜谷さんも、素晴らしいとうなる。浜谷さんと女房を乗せて上山田へ向かう途中、ウドの店に灯りがあったので、車を止める。
プライベイトのパーティをやっていた。これから上山田に行く途中で寄っただけだと言うが、まあ座って少し飲めと言うから少し座った。氷を入れたコップを3つくれて、勝手に注いで飲めとウイスキーのボトルを一本くれたので、やはり飲んでしまう。気がついたら、村田くんといくこを昇龍園にかなり待たせていることに気づき、トミコに頼んで昇龍園の電話番号を調べてもらい、ウドにダイヤルしてもらう。昇龍園に通じたので、村田君を電話口に呼んでもらい、わりいけど、もう酔っちゃったから、計画変更で、ウドの店にいくこを連れて来てくれとたのむ。連絡がついて、腹が減っているのに気づき、トミコに頼んで、カレーを食わせてもらう。
この間、ウドの店で初めて会ったロバートに再会。今日は、堰が切れたように英語をしゃべりまくっている。朝から英語をしゃべりまくりだという。ロバートは日本語がかなりできるが、毎日日本語に囲まれて日本語で話して、ストレスを溜めていたらしい。
途中で、湯原のバンドの人たちが来る。サイモン・ガーファンクルの歌を男だけで歌うが、実におとなしくきれいにハモる。みんなで美しい歌ばかり歌うので、「網走番外地」をギターでやれと言ったら、なんでだか、「長崎は今日も雨だった」を湯原がかなでた。こいつはいつもこんなお馬鹿さんで、気が抜ける。中村さんに再会。どうも意見が合わず、メールはごぶさただったが、「大風呂敷」に登場してくれと言う。小川村のジンさんという人に顔を合わせるのも二度目。和太鼓をやる人で、ニューヨークでコンサートをやることを考えている人。喜太郎と一緒に小川に来た人で北海道生まれ。喜太郎は今どうしているんですかね、と聞いたら、デンバーだったか、アメリカにいるとのこと。
湯原に肩、首筋、背中、腰をもんでもらう。弱ったな、こんなにあちこち固くなっちまってと言われる。久しぶりに体がほぐれた。
体をほぐしてもらってまた飲む。
馬鹿話ばかりで大騒ぎして朝になる。
いくこが帰る。
湯原とジンさんがお開きにすると言うので、わしらもお開きにする。
ロバートをパチンコ屋の近くの和菓子屋の前で降ろし、浜谷さんをルートイン更埴の横で降ろして、帰宅。くたくたに酔っているが気持ちがいい。
もうろうとしてこれを書き、以後眠ることとする。
皆様お盆の間は、この掲示板に来られるかどうか未定です。
来た場合も、相変わらず、以前の記事の蒸し返しに努めるつもりです。
皆様、お盆の間に時間があったら、たくさん書き込んでおいてください。帰って来られた
ご先祖様に書いていただいても結構です。
投稿者:いくこ 投稿日: 8月 6日(月)00時30分59秒鼻息が荒くてすみません〜。ぶひ〜〜
再掲してみようかなと思いまして、書き込みました。
読み流しで結構ですぅ。
タスマニアは面白かったですか?STさんwrote:
>*悲しさを感じるときは日本語で声をかけます。なに言ってるんですか。
こっちだって楽しい旅行の最中ですわ。
あらかじめ悲しさを感じてる訳じゃないんだから。なにが、「悲しさを感じるときは日本語で声をかけます。」ですか、
そんなもん、先にわかってりゃ苦労はないですよ。それともホームシックということですか。なんだかんだ言ったって、結局はちゃんぽんでも皿うどんでも、なるたけスムースな対話ができるように、お互い歩み寄ることは当然でしょう。まぜこぜ言語だって、ありありです。
まずコミュニケーションをとるのに、とっさに英語を使おうとする日本人の悲しい習性だ、といったまでです。しかも、個人的にという話です。