転載、感謝。
研究材料になる覚悟はできましたか。
Eliot さんの講義、まとめてくれませんか。
根石様「イギリス英語の発音は [Λ」で示してあるのに、アメリカ英語では[逆さe]で示してあるから、この二つを区別する必要はない」ということには賛成できません。その論理で言うと、
「イギリス英語では can't の母音は[α:]で示してあるが、アメリカ英語では[aとeがくっ付いた記号]で示してあるので、[α:]と[aとeがくっ付いた記号]は区別する必要はない」
⇒結論⇒ backは[bα:k]でも[baek](aeをくっ付けて読んで下さい)でもよいし、calmは[kα:m]でも[kaem]でもよい???ということになりませんか。
イギリス英語では /u/=[Λ]と[逆さe]は明らかに別物として扱われます。イギリス英語の教本でこの二つを区別する必要がないと主張するものはありません。イギリス英語の[Λ]は日本語の「ア」に近い音なので、明らかに[逆さe]とは異なると考えられています。一方、アメリカ英語の[Λ]は中舌母音であり、その音価が[逆さe]に近いため、「同じ音であり、強勢があると[Λ]になり、強勢がないと[逆さe]になる」と主張する音声学者がいるわけです。アメリカ英語だけを考えると、その主張も理解できないわけではありません。
しかし、英語では強勢があると[○○]になり、強勢がないと[逆さe]になるのは何も[Λ]に限ったことではなく、大半の母音にも当てはまる現象なのです。例えば、前に例に挙げた experiment の最後の音節の母音は、強勢があれば[e]で、なければschwa(これからは[逆さe]ではなく、schwaと書きます)になります。また、San Franciscoの Franの母音は強勢がないために通常schwaですが、♪I left my heart in Sa〜n Fra〜ncisco〜♪ と歌うときには Fran は[ae]で発音されてます。
あるアメリカ映画の中で単語のつづりを覚えられない小学生の息子に父親が police をつづらせようとしてしてヒントを出すシーンがありました。父親は息子に "Watch my mouth. Poe-lees. Poe-lees."と言いました。Poeの部分は強くはっきり[pou]と発音しておりました。
私が[Λ]とschwaを別物として考えたほうがいいと言うのは、もっぱら、教育的な観点からの判断です。そう教えた方が生徒にとって理解しやすいし、私も説明しやすいからです。
なお worry, hurryなどの発音の英米差については別の機会に書き込みたいと思っております。
米音か英音か(a/e/i/o/uの短母音の話の前に)の中の
の発音を真似するよう強請される
↓
の発音を真似するよう強制される
a/e/i/o/u(その5)の中の
@ ingか
↓
@ ngか何でいまさらと思われるかもしれませんが、私の一連の書き込みをまとめていただくのなら、その際に訂正をお願いできませんでしょうか。
体調がよくありません。今日はお休みさせてください。よろしくお願いします。
いやあ、Eliot さんは、原理主義者ですね。
私もそうなんですが、見ているところが違うと思いました。
私改め俺は、[ae]の音は、アメリカにつきあっていくのなら、大事だと思います。
そうじゃなければ、大事だとは思いません。
これが音原理主義者にわかっていただけるかどうかわかりませんが、[ae]音はアメリカの不安の
音だと思っています。
俺改めあたしゃ、どの国の発音もモデルやお手本にする気はありません。
ただ媒介にするだけです。媒介にして、日本の英語を作りたいだけです。
Eliot さんに対する私の最大の興味は、日本人のための感じのいい英語の音を提唱することがで
きる人だという点です。まだ、Eliot さんは本音を言ってねえなという感じがあるんです。
本当に、Eliot さんの音に関する原理主義と、私のシンタックス原理主義はいつか一緒に仕事を
する必要があると思います。
私は、あんまり細かいことは、飽きます。
学問と女につきあうには、微に入り細に入りがいいのだとは思うものの、まあ、通じるっての
が肝心だというのが、私の原理です。
以前にも議論しましたが、「完璧な発音」という理念、ヴァーサス、「通じりゃいい」でした。
「通じりゃいい」は、「完璧な発音」の下位概念ではなく、上位概念だということをその時も申
しあげたと思います。
冗談じゃねえ。言葉は音じゃねえ、そう思っています。
音はとことん大事だということを踏まえた上での意見です。
正月には、なんとしても新しい家にいたいと思っています。
塾の仕事も是非見ていただきたいと思っていますが、来年の正月あたり、遊びに来ませんか。
もうじきです。
ST さんは、俺はすごく好きな人です。仕事は何を見ていただいてもかまいません。
全部見ていってほしいと思っています。会える日を楽しみにしていますから。
逆さeは、おざなりな音、どうでもいい音、気が抜けちゃった音だと思っています。
大まじめに問題にする音だとは思えません。
アメリカ的いいかげんさの音です。
>どの国の発音もモデルやお手本にする気はありません。ただ媒介にするだけです。>[ae]音はアメリカの不安の音だと思っています。
>大まじめに問題にする音だとは思えません。アメリカ的いいかげんさの音です。
>言葉は音じゃねえ、そう思っています。
ちっともわかりません。私の感覚とはまったく違うようです。
この数日間たくさん書いたので、しばらくお休みします。
ある国の言葉をお手本にする意識と、媒介にする意識はまるで違います。この両者は、実際の練習では厳密に区別できるものではなく、両者が混ざり合っているのが普通です。そうであっても、やはり、「お手本にする」という意識と「媒介にする」という意識はとことん別のものです。お手本にする意識は、ある国の音のネイティヴな音の質が上等であるかのように錯覚します。その意識は一般的には、日本語の音より、英語の音の方が上等で上位にあるかのような錯覚を蔓延させます。その蔓延はすでにあります。私は私の回りに、考えの転倒した英語フリークをたくさん知っています。余所の国の言葉の音を上等だと感じるなどは、単に個人の好みにとどまる分には、はあそうですかで、放置しておきますが、「自分以外の人の英語」に触る人は、「媒介」という概念は確実に理解しているべきだと思っています。
私がEliot さんの存在を貴重だと思うのは、この「媒介」に必要な知識を備えた方だと思うからです。「日本人に合う感じのいい英語の音」というのに私は非常に興味があり、いつかそれを全面的にここ(掲示板)で繰り広げていただきたいと思っています。それは、アメリカ音そのものでもイギリス音そのものでもなく、両者から養分をとりながら日本独自の音の確立をめざす作業になると思います。それが実際にどういうものか、言葉で書けるものかどうか、難関はありますが、是非提示していただきたいと願っています。それが姿を現した時に、実現しているものは、それはやはり、「媒介」という行為の果実であろうと考えています。
私にお送りいただいた生徒とEliot さんの英語の読みの録音テープにある Eliot さんの読みがそれを実現しているのではないかとも思っています。私はあの英語音が実に好きです。ああいう音をどう日本人の口に実現するか、どうアメリカ音やイギリス音を媒介にするか、それが Eliot さんの教室「以外」の場所でも成立しうるように、理論的に日本語として言葉にすることにこそ Eliot さんのお仕事がたどるべき道があると思っています。それが、徹底的にアメリカ音やイギリス音を「媒介」にした場合に、日本人の口の筋肉の動きが自然に作り出す質なのかどうか、その辺は私にはよくわかりませんが、Eliot さんの実践にある芽は、一教室の中だけにとどまっていてもらっては困る、もっと、広く認識されなければならないものだと信じています。実践としては、初学者に対するEliot さんの実践は学校という場においては画期的なものです。しかし、私の懸念は、同人社さんに使ってもらおうと思って書いている「素材」でも今後はっきり書こうと思っていますが、次の言い方に要約されます。音は絶対に大事だ。音は大事にされなければならないが、音をいくら純粋に突き詰めても、言葉にはならない。日本人にとって、英語の最大の眼目は、シンタックスを瞬間的に鷲掴みにすることが成立するかどうかであって、そのためにこそ音がとことん大事にされる必要がある。
シンタックスを瞬間的に鷲掴みにすることが成立するかどうかは、実はほとんど生徒一人の机上の練習にかかっています。音の質に関しては教えることはできますが、イメージの濃度や、シンタックス鷲掴みが成立しているかどうかは、直接にはどんな優秀な教師にも知ることはできないのです。教室という場は、これに対してはかなり無力なものだと考えています。しかし、音作りに「復習範囲を手放さない」という原理を一つ導入すると、生徒の机上を相当に応援することはできると思っています。
これまでの Eliot さんの実践も、まさに日本語で育った日本人の口の動きに、英語という言語の口の動きを実現するということであり、実質は「媒介」ということの実践だったと思います。生徒の口の動きとして実現したものは、どれだけアメリカ音に似ていても、それは「媒介」後の日本人の英語音であり、アメリカ音ではないはずです。ここがアメリカではないからです。
「媒介」するという行為の主体を抜いてしまうと、教室で生徒が発する音は、完璧をめざすべき、不完全な(アメリカ)音というものになってしまいます。いずれ生徒は卒業し、一人で自分の英語を鍛えていく過程に入ります。それ以後、アメリカ音やイギリス音を「お手本」にする意識で語学をやっていき、とことん「媒介」にしてやるんだという意識が育っていないと、英語をやる日本人という主体がすっとんじゃいませんか。これがすっとんじゃっていて、アメリカ音という乳房にぶらさがって、ちゃんと口を動かして乳を吸うことをやらない者のことを私は英語フリークと呼んで馬鹿にしてきましたが、「お手本」という考え方から脱却しないと、英語フリークを作ることになってしまいませんか。
日本では、アメリカ音はできません。非常によく似たものはできますが、それは非常によく似たものであって、アメリカ音ではありません。アメリカ音というのは、アメリカの生活感覚が育てるものであり、アメリカの生活感覚と一体化したものです。「よく似たもの」は、その持ち主の感覚がアメリカの生活感覚では「ない」のですから、どこまでいってもアメリカ音ではありません。音素や音価をどれだけ細分化し、総合しても、アメリカならアメリカの生活感覚には至りません。ちょっと「アメリカ人」になったみたいな気がするだけです。それはチイチイパッパであり、語学のご愛嬌です。
日本でアメリカ音が作れると思っているのは、錯覚です。元から無理なのですから、「お手本」にして床の間に置いておくような意識は破り捨て、さっさと「媒介」にし、しかもとことん「媒介」にして、自分の音を鍛え込めばいい。そのことで、「日本人向けの英語の音」は育てられるのではないでしょうか。「磁場」だけが作りうる言語能力が絶対にあると私が考えているのも、まさにこの問題です。
過去ログが整っていませんので、過去の記事を参照できませんが、ネイティヴ言語と語学の対象としての言語の間の、「感情込み」の有無の違いとして言及し、Eliot さんからは、考えているので待ってくれと言われ、その後、私はずっとその問題に関しての書き込みをお待ちしていました。議論は尻切れとんぼのままになっております。音の微細な問題に深入りする前に、私は「磁場」あるいは「生な感情」だけが作りうる言語能力に関する Eliot さんのお考えをお聞きしたかったと思いました。
知識の開陳はいつでも歓迎いたしますが、尻切れとんぼはなんとかしていただきたい。これを放置するのは知識人のずるい癖だと思います。
また、私の泥に対しては、的を射抜いていただきたい。泥とまぎれて生きていかなければならない身の上として、それが知識人に対する願いです。
Eliot さんの知識には舌をまいておりますが、舌をまいてものごとが終わりにならないので、私の仕事というものがあります。問題は「音」そのものにとどまるものではなく、音とシンタックスの瞬間的な結合をどう成立させるかにあります。それが成立した時は、文法がどう学習者に働くのか、意味がどこから沸き立つのかの問題はクリアされているのかもしれませんが、それをどうクリアするのかが、音の問題自体にもあります。「正確な音」「きれいな音」「完璧な音」でどうにかなるものではありません。この問題に一応の解答として私が与えたものが、素読であり回転読みです。問題は音自体ではない。音とシンタックスの瞬間的な統合・合体だと考えています。
>[ae]音はアメリカの不安の音だと思っています。これは、[ae]音がどうにも行儀のよくない大げさな音と感じる私の日本育ちの感覚が作用していると思いますが、なぜこの大げさな音がアメリカに育ったのかと考えると、私はインディアン殺しにまでつながると思っています。弓に対する鉄砲の音、金属的な音と感じます。
これは私の勝手な思いこみとして扱われ、日本の戦後市民社会の住人様には相手にされないのだろうとも思っておりますが、それならそれでいい。私は、自分の感覚をいつわりたくはないと思うだけのことです。私の自分の感覚とは、アジアの農村育ちの感覚です。
アメリカはこの大げさな音を「なぜ」必要としたのか。
私はそのように考える者です。
Eliot さんにはこの「なぜ」がない。それが不満と言えば不満です。>>どの国の発音もモデルやお手本にする気はありません。ただ媒介にするだけです。
酔っぱらって書いた文章ではありますが、何も訂正の必要がないと思っています。
日本人がやるべきことは、「媒介にする」ということであり、「モデル」や「お手本」としてあがめることではありません。「お手本」か? けっ、と思います。>>大まじめに問題にする音だとは思えません。アメリカ的いいかげんさの音です。
これもまったく訂正の必要がありません。多くの母音が、アメリカで曖昧母音になるのは、それが「おざなり」に扱われるからです。アクセントのない場所の母音の多くがアメリカでは、曖昧母音となる傾向があり、これは「適当に言っとけばいい音」なわけで、prevail した chaos とともにまともに相手にする価値があるとは思えません。なんで、私らが chaos やおざなり扱いを大まじめにモデルなんぞにする必要があるでしょうか。馬鹿らしくてやってらんねえや、っていうのが正解ではないでしょうか。アメリカの画一性というものがあり、これは文明レベル(決して文化レベルではない)がもたらす画一性ですが、その画一性の枠の中にいる人たちの「崩れとしての標準音」なんぞ、俺はやる気はねえよ(基準とする気はねえよ)という根性が私にはあります。だけど、媒介にする場面では、とことん媒介にしてやろうじゃねえかと思っているだけです。私は、アメリカ映画を教材に使うような人間ですから、媒介にする場面ではなんでもござれなのです。かまうこたねえ、やってやろうじゃねえかっていうのも私の方針の一つです。
>言葉は音じゃねえ、そう思っています。
言葉は音ではありません。言葉は現象の根元であり、人が生き死にすることに直接に触れているものです。
音というものは、本来的に、誰とつきあうか、どこで暮らすのかという問題です。アメリカ音を「媒介にする」ことにはまったく異論はありませんが、それは、アメリカ音を媒介にしとくと、経済的にあるいは政治的に都合がいいというだけの話です。アメリカが経済的に政治的にパワーがあるというだけのことです。だけど、語学が経済的な事情や政治的な事情に振り回されているのは醜い光景です。インド人とつきあっていくのであれば、私はインド英語の音を媒介にして練習しますし、ネパール人とつきあっていくのであればネパール英語を媒介にします。アメリカ英語の音を媒介にするということを私がやるのは、どこまでいっても「ひとまず」の話です。
語学の音というのは、音楽の音とは違うのです。語学では、純粋音は絶えず馬鹿にされて当然です。純粋音を奉じる人は、馬鹿にされることをも奉じるべきです。生活言語に渡る時も、音は絶対に重要ですが、それは「生活言語」ですから、あくまでも誰とつきあうか、どこで生きていくかの問題であり、自分の英語音がどう扱われるかの問題です。語学はこの不純に絶えず触れている領域です。純粋化することは必要であるが、絶えず不純に立ち返る必要がある。それが語学であると思っています。
>ちっともわかりません。私の感覚とはまったく違うようです。そう思います。私の感覚は Eliot さんにはちょいとわからないだろうと思います。でもわかることができるなら、わかってほしいと思っています。わかってもらえないなら私はあきらめることも知っています。Eliot さんが教えた生徒のうち、ちっとも上達しない生徒の中にあるものを私は思っています。畳屋の息子、板金屋の息子、大工の息子、私はその息子たちの中に起こる英語音との激しい葛藤を想像します。すぐに上達するような「優秀な」生徒には大した興味はありません。脳味噌の濃度が薄いのは、葛藤の少ない「優秀」なやつらの方です。今の娑婆が今後も今の娑婆であるなら、この「優秀な」やつらの方が有利だというだけのことで、人間の優劣はいつでもひっくり返るものだと私は信じています。
Eliot さんの感覚と私の感覚は本当に違います。私は娑婆と直接に肌身をすり合わせて生きてきました。方法的に間違えば、私は食い詰めるのです。私が生きてきた場所は、「塾」です。制度の外です。その場所から、学校という聖域が作り出す「娑婆との間接性」を理解はしています。だけど、そんなもん、語学という暴力を奉じる者として破り捨てることは可能だということも信じています。学校という聖域の中でその間接性を破り捨てる先生がいたなら、その先生の存在は美しい。また、そうでなければ醜いのです。その程度の厳しい視線は、学校の先生は当然のこととして覚悟していただきたい。私は今も泥にまみれて生きていきます。今後も泥とのおつきあいです。これを避けて生きようとは思っておりません。音の問題一つにも、それが現れてしまうということです。
朝起きると、もうYさん一家は、出発していました。どこへかと言うと、日本です。1年に一度の里帰りです。
御主人のDさんは、おいてきぼり、いやいや仕事で、いつものようにもう出社しています。Uさんと私は、昨日のうちにYさんに言われたものを、冷蔵庫からとりだし、朝食をとりました。我々も、今日がアメリカ最後の日です。外はうららか晴天です。
食事を終えて、お皿を洗い、そして3階のお泊りさせていただいた部屋に戻りました。鞄に荷物をつめます。こころなしか来たときより荷物が重く感じます。それほどたくさんお土産を買ったつもりはないのですが、それでも荷物をつめるのに一苦労しました。
布団をたたみ、はずしたシーツをきちんとたたみます。
そして、部屋をあとにしました。
我々も出発です。トークンひとつと三十五セントをもって。
アメリカというところは、はまると、とっても好きになるということをよく聞いていました。
行ってみて、ほんのひとかじりでしたが、確かにわかる気がしました。
これを自由というのか分かりませんが、好きなかっこをしていても、だれもとがめないということです。上品に着飾ることも、ラフすぎる身なりや、太っていたにしても、許されます。
身の安全が守られていれば、とても気持ちよいところだと思いました。さて肝心の英語修行については、というと、う〜む、激しく英語が必要とされる状況はありませんでした。でも、英語を使うのに躊躇というのはあまりなかったように思います。それから、米国の発音になれてきたせいか、耳がいくぶん達者になった(あくまでいくぶんですが)ように思いました。
アメリカから帰って4ヶ月あまりになります。たった4ヶ月です。なのに、とても遠いことのように思えます。その間に、NYでのテロ事件にはじまって世情は一変しています。
これから世の中はどう変わっていくのでしょうか。身近になったアメリカ、身近になったテロ。アメリカの報復措置で、もしもアメリカ側が負けることがあれば、これがアメリカの弱体化につながるかもしれない。そうしたら、世界共通語が、英語から違う言葉になることも場合によってはあるかもしれません。EUにしても、基軸とする言葉が英語にならない可能性もあります。
そんな中でも、英語にかりたてられるこの気持ちはなんなんでしょう。断末魔のさけびがまだ聞こえてこないからでしょうか。それでも、私は、つたない英語をもちながら、せっせと英語塾に通います。
(おわり)
「質問です」というタイトルのメールを手違いで、紛失してしまいました。
まだ読めておりません。申し訳ありませんが、こちらをのぞいておられましたら、もう一度お送り
いただきたくお願いいたします。
自分の連載もまとめておいてね。
Eliot様>語学の音というのは、音楽の音とは違うのです。語学では、純粋音は絶えず
馬鹿にされて当然です。純粋音を奉じる人は、馬鹿にされることをも奉じるべ
きです。生活言語に渡る時も、音は絶対に重要ですが、それは「生活言語」で
すから、あくまでも誰とつきあうか、どこで生きていくかの問題であり・・・やべえ、ここは誤解されるかも知れないなと自分の文章を眺めていて思いました。「馬鹿にされて当然」というのは、「日本では馬鹿にされて当然」とお読み下さい。私が「音づくり」をやる先生を馬鹿にしているということではありません。しかし、純粋音を奉じる先生を馬鹿にする生徒たちがいたとすれば(顔に出すか出さないかを別にすれば、私はいっぱいいると思っています)、その生徒の感覚も私にはよくわかるのです。「磁場」を欠いた場所で純粋音を問題にしていることに対して、生徒が腹で思うことには正統な感覚があると思っています。
「馬鹿にされて当然」とはその正統な感覚を私は支持するという意味です。だけど、そいつらに「音づくり」はやらせるということです。
音がシンタックスと一体化し、意味の通路になり、文まるごとの意味を瞬間的に成立させることを目撃するまでは、生徒は「音」だけを問題にすることに対する疑いを捨てないでしょう。しかし、語学には、「音」だけを問題にすべき時期があり、最初は音と意味は一体ではありません。その間、馬鹿にされながらやり続けるということを私自身もやっています。「音づくり」はとことん大事であるが、純粋音の方へ傾いたり、英米音を「お手本」化して安心するのに賛成できないと私が思うのは、この日本人の中に伏在する「純粋音を馬鹿にする気持ち」を決して過小評価してはならないと思うからです。また、その気持ちはしごく当然であり、よくわかるものだとも思っているのです。
私が相手にしているのは、中学入試を経たような羊たちではなく、うぞうむぞうの泥だらけの山羊みたいな連中なので、この純粋音を馬鹿にする感覚も強いのです。そして、私はこの連中が示す英語音への抵抗感が好きなのです。日本人の感覚としてとても自然だということです。
やはり、この辺でも、Eliot さんと私とでは、羊飼いと山羊飼いの違いが出てきます。
もしも本当に英語をしゃべるようになるなら、おとなしい羊たちより、この泥だらけの山羊みたいな連中の方が絶対に面白いと思っています。こいつらに英語をしゃべらせたいとはしばしば思うことです。実に皮肉なことながら、英語をしゃべらせたいと私が思うのが、すぐに英語に上達し、英語になじみがいいような連中ではなく、英語に対して大きな抵抗を示す連中なのです。しかし、山羊はなかなか英語をやりません。だから、私の仕事も失敗続きです。それでもやはり、泥だらけの山羊の方が、おとなしい羊たちよりずっと面白いという感覚は私の正直な感覚です。私自身が、羊の皮をかぶった狼ならぬ、羊の皮をかぶった山羊ですので、山羊たちの感覚はよくわかるのです。
私が泥をかぶった山羊であるというのは、学校の英語のお世話になった覚えがまるでないことを取り上げてもそうです。中学の頃は、私はまだ今ほどにくたらしい人間ではありませんでしたので、テスト勉強などもやったことがあります。(ひゃあ、恥ずかし。)その頃に自分で読んで納得した文法の基礎の基礎などは、果たして学校のお世話になったといえるのかどうか。とにかく、授業などというものから何かを教わった覚えが私にはまるでありません。高校に入ってからは、私はテスト勉強などやったことがなく、テストが近づくと遊びに行こうぜと友だちを誘っては嫌がられておりました。高校在学の後半では、一切の勉強をやらないくらいにへそはしっかり曲がっておりました。学校は本当に嫌いなのです。
また、私は英語科の教師というものがあらかた嫌いで、教師の側にもそれがわかるのか、ある教師などは、前の方から順に当ててきて、私の前の席のやつまで当て、私を飛び越して、私の後ろの席のやつを当てました。あっはっは、だったので、以後、そいつの授業の時間は、文学かなんかの本を読むことにあて、授業は一切聞かなくなりました。
英語の授業ではありませんが、授業中に花札をやっていて、花札を取り上げられ、友だちから借りた花札だったので職員室まで取りに行き、「お前は俺の授業をなんだと思っているのか」と言われ、「だけど、先生の授業、誰も聞いてるやつはいねえよ」と言い、教師を激怒させたのも私です。文系のクラスの物理の授業は、実際聞いているやつは誰もいなくて、生徒はおとなしく別のお勉強の本など机に広げていたのです。それを黙認していた教師が「俺の授業をなんだと思っているのか」も糞もねえや。私の言葉に激怒した物理の教師は、私をとっちめるために、休み時間が終わっても、2年生の授業に出ていきませんでした。2年生の週番が、「先生、授業に来て下さい」と迎えにきても、よっぽど私が腹に据えかねたのか授業に行かず、一時間私を怒り続けました。当時の屋代高校の2年生のどこかのクラスの皆さん、ごめんなさい、あなたがたの物理の授業を潰したのは私です。まあ、当時は屋代高校にとっても、いい時代でした。今の屋代高校のやつらは、とても後輩だと思うことができないほどに、概して感覚が痩せぎすです。ああ、やだやだ、勉強のできるやつはろくでもねえ。
当時の屋代高校には、私のことを好いてくれる先生もごく少数いて、化学の先生は、「根石、謝れ。根石、とにかくいいから謝れ」と物理の先生の前でおろおろしていました。M先生は、私のためにおろおろしてくれました。M先生、物理の教師と私の間で先生がおろおろして、私を職員会議にかけないようにしてくれていたことを思い出すと、私は今でも涙がこぼれそうになります。
今、一滴こぼれちゃいましたよ。
しかし、まあ、私はそんな生徒でした。学校とはとことん相性が悪いのです。
英語科の教師という人たちとも、どうにも相性がよくないのです。そんな人間が、現在英語でおまんまを食っているのは、いったいどうしたことかと、我ながら我が身を眺めなおすことがしばしばです。再度申し上げますが、「音づくり」をやる先生を、私が馬鹿にしているということではありません。私がそれを馬鹿にするのであれば、私は私を馬鹿にしなければならなくなります。私も下手くそながら、「音づくり」はやっているわけで、「音づくり」は絶対に大事だと考えている人間であることは、Eliot さんにはわかっていただいていると思います。
この話の背後には、私の妻の学校の話が下敷きになっています。
妻の学校は、中高一貫の私立(土佐高校)ですが、妻が中学1年のとき、アメリカ帰りの先生が、生徒の音のいちいちを直し、正確にはこうしろと口の動かし方を指導したそうです。1年間で、生徒はかなり上手に英語を発音できるようになったそうです。しかし、中学2年のときに英語の先生が変わり、2年生からの先生は音のことについては何も言わない人だったとのことで、生徒の音は急激に日本式発音に戻ったそうです。一挙に戻るという感じで戻ったそうです。
Eliot さんは中学1年生から続けて同じ生徒を見ておられるので、この問題が噴き出していません。
このことに関しても、英米の音を「お手本」ととらえている限り、いずれ日本式の音に英語音を戻してしまう生徒は出てくるだろうと私は考えています。「お手本」というようなお上品なものに据えておいては駄目だ。手当たりしだいに、媒介にするための媒介物として扱う態度を育てなければ駄目だ。そうでないかぎり、英米の音に「対する主体」が立つ場所がない。そう考えています。泥だらけの山羊たちが無言のまま私に教えていることです。
まあ、中学入試をパスして中学生になるような羊たちはそうでもないのかもしれません。私の山羊たちの多くは、よほど何か思うことがなければ、間違いなく日本式に戻してしまいますね。
「媒介にする」という「主体の行為」にしなければ駄目なんじゃないか。そう考えて、私は現在、苦闘しております。「お手本」にするのと、「媒介にする」のとでは、実際は混ざることがあっても、原理的には別のことです。そこまでは私の中ではっきりしています。
英米音は、生徒一人一人の自分の「音づくり」の場面での「媒介物」である。そうはっきりと位置づける必要がある。「仰げば尊し、我が英米音」から媒介物にまで引きずり降ろす必要が絶対にあると思います。やかましわ。床の間に置いておくような「お手本」にしておいてやるもんか。
それが私の流儀です。
ところが、多くの英語の先生は、相変わらず「お手本」意識から抜け出さない。自分では生徒に対して「音づくり」をやらないくせに、英米音を「お手本」とすることから抜けられない。そういう先生がうじゃうじゃいます。
これが実に、語学としては転倒した態度だと思っているのです。
Eliot さんはそういう人ではない。実践として「音づくり」をやられた方です。
Eliot さんの実践が語っているのは、私から見ると、語学の初期段階での英米音の見事な「媒介」だと思います。
ただ、それを Eliot さん自身が、「お手本にならう」から、「媒介」という行為の主体を成立させる方向にひっぱる必要があることを自覚しておられないのではないかという懸念があるのだということです。純粋音に近づけることを眼目とするのではなく、媒介にする主体の意志を育てることを眼目とするならば、どんな上達の遅い生徒も、いや、そういう生徒こそ、本当の宝を秘めた生徒なのだということです。英語に対する抵抗素の強い生徒です。本当に大事にすべきなのはそういう生徒です。
私が言いたいのは、語学はもっともっと行儀が悪くてかまわないのだということです。
片っ端からくらいついてやるというどう猛さが必要だということでもあります。
行儀悪く言いますが、くらいついて噛み砕き呑み込もうとする動きを「媒介」と呼んでいるわけです。
これは、「お手本にする」というお嬢ちゃんお坊ちゃん流儀とは別物です。
私の考えでは、語学はその程度に行儀が悪くて当然なのです。
泥かぶりの山羊どもの方が、うまく火がつけば、はるかに大輪の花火を開かせます。ほとんどが、種々のこの娑婆の事情によって、火薬が湿けってしまうだけのことで、行儀の悪い山羊どもが花火を開かせるなら、開いたときの花火は見事です。
中上健次みたいなもんです。Eliot さんの初学者の英語への導入は見事である。しかし、この見事な実践が広がりを持つためには、そして、そのことによって日本の英語を変えるためには、「語学論」として理論化する作業が必須だと考えています。Eliot さんの実践は、一教室の中に封じておいてよい実践だとは思えません。原理をみつけ、それを公開していく作業はどうしても必要ではないかと思っています。
お暇がとれましたら、お考えをお聞かせください。
素読舎「電話でレッスン」コーチ陣チーフコーチ 根石吉久
担当 「逃亡者」「ゴースト」「ミッション・インポシブル」
「スピード」「ノッティングヒルの恋人」サブ・チーフコーチ 根石せい
担当 「E.T.」「ボディ・ガード」「逃亡者」「七年目の
浮気」サブ・コーチ 村田晴彦
担当 「フル・メタル・ジャケット」「不思議の国のアリス」サブ・コーチ 大友伸尚
担当 「スピード」
私のやれる枠がひとつあります。
妻にはふたつみっつあります。
そのほか、村田君、大友さんの枠があります。
興味のある方はどうぞお問い合わせ下さい。
「ニューヨークで暮らすということ」
PHP選書166
お奨めします。
札幌のOさんの「電話でレッスン」を今日(正確には昨日)やりました。
先週のOさんのレッスンで、私の「技法グラウンド」を塾の授業で使ってもらっていますかとおた
ずねしたところ、実は古文の授業で使っているが、効果があるとのことでうれしく思いました。
素読を原理とした方法は、実は語学だけでなく、古典を味わうための基礎づくりにも使えます。
私の方法を英語以外の科目に応用して下さっているのはありがたいが、私は、その報告をこの掲示
板でやって欲しいと願っています。皆さんまるで、自分の英語力さえつけばそれでいいやと思って
おられるのかどうか、私のレッスンで自分の英語がどう変わってきたかの報告をしてくださいませ
ん。それって、ケチくさくありませんでしょうか。そりゃ、生徒さんから見れば、一回30分の授業が月に4回から5回。総計2時間か2時間半の
レッスン。それで月額1万円をふんだくられる。高い。その上、報告の義務など負わされてたまる
かと思われるかもしれません。しかし、私の方の事情を申し上げますと、私の方では、一人の生徒
さんのレッスンをするために、実際のレッスンにかかる時間よりも多い時間を準備に使っておるの
です。
生徒さんからは高い。私からは安い。それが月額1万円です。私はあくまで、報告をしていただきたく要求いたします。
自分の英語だけを考えて、報告はやりたくないという生徒ばかりだとしっかりわかった日が来ま
したら、私は「電話でレッスン」を一切やめます。その日は来るなら突然来ると思います。ツイン
タワーが昨日まではあったが、今日はないというように、「電話でレッスン」が突然なくなること
はありうることをご承知おき下さい。私は現在、英語以外で食っていくことを考えております。
新しい家に移ったら、庭先で店をやることを考えております。
百姓に戻りたい。百姓の作物を庭先で自分で売ることをやってみたい。
もしもその時にも英語をやっているのであれば、私は余技でやりたいと思っています。
英語職人からはそろそろ降りたいと考えています。自分の英語の変化は、生徒さんの中で、目に見えないほどにゆっくりと確実に進行していると
思います。そこのところに目を凝らしていただきたい。そして、それを言葉にして欲しい。これ
はとても書きにくい種類のものですが、是非書いていただきたい。そう願っています。
2日前に、Mちゃんのお母さんのレッスンをしました。
Mちゃんのお母さんは、レッスンの数日前にアメリカ人に会って話をしたそうです。
そのアメリカ人にすごく英語を褒められたそうです。
どこで習っているんだと聞かれたので、長野で習っていると言ったそうです。
そりゃ、電話でやってるんだと言わないとわけわかんねえよ、と私は言いました。
Mちゃんのお母さんは山口県に住んでいるのです。私のレッスンを受けて下さる前から、Mちゃんのお母さんはすごくいい音を持っていた方ですか
ら、音に関しては私のレッスンがやったことは小さい。しかし、日本在住の英語としては、確実
に変わりつつあると思っています。これも、生徒さんが報告して下さらないので、私が報告します。
>「完璧な発音」という理念、ヴァーサス、「通じりゃいい」でした。
「通じりゃいい」は、「完璧な発音」の下位概念ではなく、上位概念だということをその時も申
しあげたと思います。言葉は音じゃねえ、そう思っています。音はとことん大事だということを踏まえた上での意見です。持ち帰ります。尚、本日から、USAサイドのアメリカ生まれ、アメリカ育ち、アメリカ在住の日系2世(日本に留学経験あり)にもREPORTを開始します。
音は絶対に大事だ。音は大事にされなければならないが、音をいくら純粋に突き詰めても、言葉にはならない。日本人にとって、英語の最大の眼目は、シンタックスを瞬間的に鷲掴みにすることが成立するかどうかであって、そのためにこそ音がとことん大事にされる必要がある。
を中心とする部分、持ち帰ります。
>[ae]音はアメリカの不安の音だと思っています>アメリカはこの大げさな音を「なぜ」必要としたのか。
私はそのように考える者です。
Eliot さんにはこの「なぜ」がない。それが不満と言えば不満です。このことについて、ネイティブ(カナダ人)と話をしたりして、考えてみました。結局私なりに結論に達したのは「ae」音は方言(dialect)ではないかということです。 方言というのは必要性があって生まれてくるのではないと思います。 その土地土地で、自然発生的に生まれるのではないでしょうか? 「ae]音もおそらく、元は英国の片田舎の方言だったのではないでしょうか? そこからのアメリカへの移民の一部が使い始め、開拓者精神の溌剌さにもマッチして定着した、ということではないでしょうか? オーストラリアで「ei」が「ai」と発音されるのも方言ではないかと思いますが、詳しいことをご存知の方がいらっしゃればお教え願えないでしょうか?
「逆v」と「逆e」の違いは前者が強く発音され、後者が弱く発音される違いのみで、口の開け具合は同じではないでしょうか?
私も「通じればよい」発音に賛成ですが、Eliotさんのように生徒に基本を教える立場ではそれは言えないのではないかと思います。それから、英米語を「お手本に・・・」というのは屈辱的で、心情的には受け入れたくないというのが日本人としての当たり前の感情だと思います。その意味で英米語を「媒介に・・・」というのは「主体性を保持しようとする」上でベターだろうと思います。以上私の感想を述べさせて頂きました。
ありがとうございます。
今後もよろしくお願いいたします。へろへろに疲れ切っております。「素材」の方は少し休んでから書き継ぎます。
こちらへのご意見もよろしくお願い致します。
お久しぶりです。なかなかお宅の掲示板を読みにいく時間もとれないでいます。[ae]音、イギリスの方言の音ではないかとの推測、ありうることだとは思います。
しかし、アメリカで、「おおげさな音」として発達したのではないかとも考えています。
[a] と [e] を合体させて一挙に発音してしまう(簡略化・簡便化)というのも、アメリカ気質
によく似合いますが、それと、ヤンキー気質が化合した音じゃないかなあと感じます。
どちらかというと私は嫌いな音です。
「電話でレッスン」の生徒さんを2種類に分けようかと考えています。1.自分の英語力だけが問題であり、自分の英語力がつけばそれでいいと考える生徒さん。
2.自分の英語力をつけることと同時進行で、方法について考え、考えたことを公表して下さる
生徒さん。(日本の英語を変えることに力を貸して下さる生徒さん)「2」の生徒さんは、「電話でレッスン」による自分の英語の変化もこの掲示板に報告して下さることを義務化したいと思います。月に一度程度、報告をお願いします。
素読を原理とした「技法グラウンド」という方法が、「電話でレッスン」の練習の主体となります。新しいところをやる場合も、復習テストをやる場合も、「技法グラウンド」で行っています。これに「復習範囲を手放さない」という原理を噛ませることで、じわじわと英語力を変化させることをねらっています。この方法は、これまでいろんな英語機関を使ってみたが効果がなかったという人の英語をも変えました。この方法は普遍性を備えていると私は考えています。しかし、私がそう考えたところで、世の中からはひとりよがりの方法だとして扱われることが多く、多くの人にはなかなか具体的にイメージしていただくことができないままでいます。
実際にレッスンを受けて下さっている方に、どこがどう変わったかなどのご報告をいただくと、私の方で、その変化の元にある原理に照明を当てることができます。あるいは、それを考えることができます。それらの過程を公表していくことで、レッスンの実質部分が、多くの方にある程度立体的にイメージできるのではないかと思います。
妻の協力を得てやってきましたが、現在、村田君と大友さんがそれぞれシナリオを一冊ずつ片づけ、レッスンの受け皿となってくれています。
私と妻がお受けできるレッスンの駒数などはしょせん知れています。私と妻とで受けられる数のレッスンをお引き受けして、おまんまを食うことの一助になればそれでいいと考えるのであれば、私は生徒さんに、自分の英語の変化を言葉にして報告して欲しいなどと要求しません。
私は「技法グラウンド」が日本の英語のこれまでのていたらくを変えるための起爆力を持っていると思っているのです。ですから、この方法を世の中に広めてみたいと願っています。そのためには、実際に使っていただいた方には、自分の英語の変化をみつめていただき、それを言葉にしていただく必要があります。ハンドルネームを使っての公表でかまいません。
私がやれるレッスンの枠は、現在でもほぼいっぱいに埋まっており、空いている枠は一つしかありません。妻に二つか三つの枠が空いていますが、しょせんその程度の空き枠です。ですから、今後は、現在の生徒さんのうち、「2」を選択なさる生徒さんに育っていただいて、もし新しい生徒さんが申し込まれてきたときに、新しい生徒さんを相手に「レッスンする」ことを引き受けていただきたいと考えています。これは、実は、日本在住のままに英語を維持するには現実的な案ではないでしょうか。
自分の英語力をつけるだけでなく、レッスンの方法自体を私から受け継いでいただき、その方法を自分の生徒さんに施していただきたいのです。自分が片づけたテキストに、「こなれ」が生じれば、そのテキストに関してならレッスン「する側」に立っていただくことができます。もちろん、レッスンの代金は、実際にレッスンする方に受け取っていただきます。この時点で、素読舎の「電話でレッスン・コーチ陣」に実名を連ねていただきます。自分の生徒さんに対する責任が生じるからです。
自分がやったテキスト(多くは映画のシナリオ)の「こなれ」を維持し、錆を寄せ付けないでおくことが「レッスンする」側に立った人にとっての最大の利点ですが、私から受けるレッスンの代金が無料になるのも利点です。実際は、私にはお払いいただくわけですが、自分の生徒さんからいただくレッスン料があるので、実質的に無料化します。同じシナリオで、生徒さんが二人になると、わずかながら収入が生じます。
週に一回、レッスンを受け、週に一回は、「技法グラウンド」における初心者の「レッスンをする」。これは、自分の英語を維持していくのに、非常に現実的な方法だと考えています。私の経験からも言えることですが、自分の英語を錆び付かせないためには、「自分以外」の人の英語の面倒をみてあげるのが最良です。生徒さんに対する責任がありますから、自分が片づけたシナリオをさらに読み込む必要が生じます。それがそのまま、自分の英語を錆び付かせないための作業になります。
現在の私の生徒さんに、新しい生徒さんを引き受けていただく場合、新しい生徒さんは、私からは間接的な存在になってしまいます。私のところに申し込まれた方が、私から間接的な存在になってしまい、私が責任を負えなくなってしまうということが考えられます。
ですから、私から間接的な生徒さんには、この掲示板に月に一度くらいはレッスンの様子を報告していただくことを最初に約束していただく予定です。また、コーチをやってくださる方にも、月に一度程度の報告をお願いしたいと思っています。すべては陽の元であけっぴろげにやりましょうやということです。以上の案を実現していくに際して、料金を改定したいと思います。
1.自分の英語力だけが問題であり、自分の英語力がつけばそれでいいと考える生徒さん。
2.自分の英語力をつけることと同時進行で、方法について考え、考えたことを公表して下さる
生徒さん。(日本の英語を変えることに力を貸して下さる生徒さん)「1」を選択なさる生徒さんは、現在の月額1万円を1万1千円にさせていただきます。
「2」を選択なさる生徒さんは、現在の月額1万円のままでお使いいただきます。「2」を選択なさる生徒さんは、将来、自分で生徒を引き受ける心づもりでいて下さるようにお願いいたします。必ず私が生徒さんを紹介できるという保証はできませんが、私の方に空き枠がなくなっており、新たに申し込まれた生徒さんが、私の生徒さん自身がやられたシナリオ(テキスト)を選択することを承知して下さった場合は、必ず紹介いたします。
生徒さんが、別の生徒さんを紹介して下さったような場合は、紹介して下さった生徒さんのレッスン時間を毎回5分延長するようなお礼は、私と同様にして下さるようにお願いします。私の生徒さんの生徒さんが、「1」を選択なさる場合は、私の直接の生徒さんから私に月額千円をお恵みいただきたく思います。この掲示板への記事の原稿料と考えていただければと思います。
私の直接の生徒さんの生徒さんが、「2」を選択なさる場合は、シナリオの2冊目を私が直接にレッスン致します。その場合は、私の直接の生徒さんに、いったん私の手を離れ、高度なレッスンのできる方のレッスンを受けていただき、私に空き枠が生じるように、調整させていただくことをお許し下さい。以上のようなものは、ずっと長いことあたためてきた考えです。
まだ実施はいたしませんが、一応、素案として提示だけしておきます。
現在の生徒さんたちにお願いします。
「電話でレッスン」で行っている「技法グラウンド」の効果の程をご報告下さい。それをまるでやっていただけないとなると、私の方で気が抜けます。
やってるかいがない。
急に思いついたので、実施します。「電話でレッスン」のお試しコースを設けます。
通常、週一回、毎回30分、月額1万円ですが、「お試しコース」は月2回、一回30分、月額5千円です。興味はあるが、月額1万円なあ、と思って迷っておられる方にお使いいただきたく思います。お試しいただいて、こいつは実質があると納得して下さったら、通常のレッスンにお申し込みいただきたく思います。
テキストは、現在の力をお聞きし、「E.T」「ゴースト」「ミッドナイトラン」の内から選んでいただきます。
素読舎はもうかっていませんので、「お試しコース」とはいいながら、無料では行えません。この点、悪しからずご承知下さい。
「お試しコース」に申し込みがあった場合は、現在の私の一つ分の空き枠、妻の2つあるいは3つ分の空き枠のうちで行います。妻の2つあるいは3つ分は、2つなのか3つなのか、聞いておきます。
メールは以下の通りです。
ax9y-nis@asahi-net.or.jp
いただいたメールを手違いで紛失し、読めずにおります。
ここを読んでおられましたら、申し訳ありませんが、もう一度お送り下さい。
妻の空き枠は二つです。
月曜、火曜、夜11時以降です。来年4月以降になると、妻の空き枠が3つ増えます。
昨日、ビデオが届きました。ありがとうございます!日曜日は何とか授業はこなせたものの、最後は喉が潰れてて
レッスンの方を断念しちゃいました。ごめんなさい。
月曜日もせっかくの休日が一日中ダウンしてました。
一日、ゆっくり休養を取れたおかげで、今日からは再びピンピンしてます。
先生も風邪には気をつけてくださいね。
ではでは!!
7月からレッスンを受けているものです。経過を報告したいとは思っておりました。しかし、このような掲示板に投稿したことがありません。また、文章を作ることが苦手でもあります。ずるずると、忙しさにかまけてきました。
根石さんが、経過を知りたく思うこと、本当に当然です。電話だけでのつながりで、顔を見ながらレッスンしていただいているわけではありません。少なくとも、レッスンの感想、報告、成果は知らせるべきだと思いましたので、書きます。
レッスンの成果はまだ未知です。自分のが英語力がどれだけ上がっているのかわからないというのが本当のところです。発音は当然上達しました。英語に対する関心も高まっています。でも、やはり、初発の英語の音が聞き分けられる、書いてある文章の読み取りが素早くなるなどの具体的な成果はわかりません。
ただ、今の私にとってこのレッスンは「楽しい」のです。くり返し発音して、音になれていくと、滑らかになっていきます。なれると、テープの音が聞き取れるようになります。レッスンのときのテストで、根石さんの音を聞いて、すぐに場面を思い浮かべられると、結構すらりと音が出てきて楽しい気持ちになります。
とりあえず、ここまでご報告します。まだ、書きたいことがあります。また書きます。
本当にありがとうございます。
文章を作ることが苦手だとおっしゃいますが、そういう人の文章が好きです。
素のままの文章をありがとうございました。
「楽しい」という言葉は、私と妻にとって最大の励ましとなります。okada さんは、私は楽しみにしていて、ときどき okada さん、どんな調子だ? と妻に聞いて
います。是非またご報告をお願いします。
>でも、やはり、初発の英語の音が聞き分けられる、書いてある文章の読み取りが素早くなるな
どの具体的な成果はわかりません。これは、インプットの絶対量の問題だと思います。
非常におおざっぱなことを言いますが、最低量で千の文章はインプットしていただきたいと思
います。もちろん、「音づくり」を経た千の文章です。
一概に千の文章と言いますが、Hello! やら、Nice! やらも一つの文と言えば文です。Good
idea! とか、Good morning! とか、それでも文と言えば文です。
私が言っている千の文というのは、語数で10語を越える程度の文で千をインプットする必要
があるということだとお考え下さい。
まずはひとまず、目をつむってでも、それを実現していただきたくお願いします。
一つの節目は必ずできます。
元気になってよかったです。
私は、センセイ、元気ないねって、今日、生徒から言われました。
この生徒は、たいがいとっても元気なので、私はときどき元気をもらうことがあります。
今日はもらい損ねてしまいました。
ビデオどんなもんでしょう。こちらで確認せずに送ってしまいましたが、ちゃんと見れますか。いよいよミッドナイトランです。
私の方で、先週準備をしていて、わけのわからないところが出てきました。
ウドの店に持ち込んで、ニュージーランドから来た女の人やニューヨークから来た男などに聞い
てみなくてはなりません。しかし、ウドの店にもなかなか行ってる暇がない。おそらくこれからも疑問点は出てくると思いますが、nobu さんと二人で考えてみて解決がつか
ないものは、ウドの店に持ち込みます。もうじき、私は自宅というものを持つことができます。
そうしたら遊びに来て下さい。
ウドの店にも連れていきます。レッスンの報告をお願いします。
間違えました。
札幌のokada さんでした。
酔っぱらっていますので、間違えました。札幌のokadaさんは私の直接の生徒で、妻の生徒ではありません。
間違えました。ごめんなさい。でも、最低千の文というのは、どなたにも言えることですので、こちらは間違っておりません。
徹夜して、風呂場の防水工事をやり、帰宅。
午前11時近いのに、眠れない。
午後2時には、起きて、信州中野へ行くために高速道路を走らなければならないのに。
酒を飲んでいるのですが、まだ眠れない。
どうすりゃいいのさ、こんな時は。
根石様、浜谷様。シェークスピアの発音がどういうものだったかお聞きになったことがありますか。私はあります。もちろんシェークスピア本人の録音も17世紀のイギリス人の録音もあるわけではありませんので、私が聞いたのは、学者が種々の資料を元に研究して、このようなものであっただろうと考えた、17世紀のイングランドの発音です。シェークスピアの戯曲の台詞の一部を発音記号で書いたものを見たこともあります。それはどのような発音だったと思われますか。
アメリカ英語の発音の起源がどこの英語かとか、どのようにして現代アメリカ英語の発音が成立していったかとかいうことをどれくらいご存知ですか。アメリカ英語の起源は17世紀のイングランド英語です。それが大西洋を渡って、新しい事物に対応するために新しい語彙を多く獲得しましたが、この英語は、イングランド英語がその後に経験した変化の圏外にいたために、語法や発音の面では、古いイングランド英語の特徴をたくさん残しているということをご存知でしょうか。
一般的なアメリカ英語とBBC英語の発音上の大きな差のなかに次の点があります。
@母音が続かない r を発音するのが米、しないのが英。e.g. car, port, here
A o の短母音を唇を丸めないで[α]と発音するのが米、丸めるのが英。e.g. not, box, god
B第二アクセントがある..ary/..ery/..uryを[eri:]と発音し、..oryを[o:ri:]と発音するのが米、いずれも[(逆さe)ri]と発音するのが英。 e.g. dictionary, stationery, Danbury,
dormitory
C ask words の a の発音が[ae]なのが米、[α:]となるのが英。 e.g. ask, can't, lastこれらの違いのうち現代アメリカ英語の特徴とされる方の発音はすべてシェークスピアの時代のイングランド南部の英語の特徴です。現代イギリス英語の特徴とされる方の発音はすべて18世紀以降イングランドで生じた発音なのです。ですから、学者の言うことを信じれば、シェークスピア劇の俳優たちは not を[nαt]と発音し、cast を[kaest]と発音し、star を大げさな[r]の音を響かせて [stα:r]と発音していたらしいということになります。
[ae]の発音はイングランドの片田舎の細々とした方言の中にあったのが、アメリカ英語の中でアメリカ原住民を蹂躙しながら発達していったという説は、話としては面白いかもしれませんが、根拠のない話です。[ae]の音は何百年も昔のイングランド英語の生き残りです。
[逆さe]が[Λ]と同じものかどうかという議論はもういたしません。見解の相違ということにしておきたいと思います。ただし、この音が「アメリカ的いいかげんさ」の音というご意見はおかしいと思います。[逆さe]も17世紀の英語にはたくさん使われていましたし、アメリカへよりも遅く18世紀末以降に移住が始まった(ゆえに現代イギリス英語に非常に似ている)オーストラリア英語にもたくさん使われているからです。
私は、○○人はこういう国民性を持つが故にこういう「音」を出すようになっただとか、こういう「音」を発する民族だから、こういう性格になっただとかいう議論にはまったく興味がありません。言葉としてどういう「音」を発していようが、どの民族も残酷な争いはしてきたし、すぐれた民族文化もそれぞれに生み出してきたのです。「音」のせいでも、「音」が結果でもありません。
>[a] と [e] を合体させて一挙に発音してしまう(簡略化・簡便化)というのも、アメリカ気質
によく似合いますが、それと、ヤンキー気質が化合した音じゃないかなあと感じます。これは単なる言いがかりだと思います。
>どちらかというと私は嫌いな音です。
これは好みの問題ですから、お好きなように。私は別に好きでも嫌いでもありませんが・・・。
>アメリカはこの大げさな音を「なぜ」必要としたのか。
私はそのように考える者です。
Eliot さんにはこの「なぜ」がない。それが不満と言えば不満です私が「なぜアメリカがこの大げさな音を必要にしたのか」と思わないかといえば、私にとってはそのような疑問が意味のないものだからです。
>逆さeは、おざなりな音、どうでもいい音、気が抜けちゃった音だと思っています。
大まじめに問題にする音だとは思えません。これが根石さんが生徒さんにschwaのことを話すときになさる説明でしょうか。私は生徒に質問されて「どうでもいい音」というような説明はいたしません。また、掲示板をお読みになっている英語学習者のためにと思って詳しく書いたつもりなのですが、「大まじめに問題にする音だとは思えない」のようにあしらわれてしまったのは残念です。
>いやあ、Eliot さんは、原理主義者ですね。
他意のないことはわかっていても、アメリカのテロ事件の後ではこのように言われるのは愉快な気持ちはいたしません。
根石様これについては「大風呂敷の記事の過去ログ」にまだ出てきていない8月4日以降のやり取りをもう一度読んでからにさせていただけませんか。必ず書きますので。
私が「なぜアメリカがこの大げさな音を必要にしたのか」と思わないかといえば、
↓
私が「なぜアメリカがこの大げさな音を必要にしたのか」と思わない理由は、
ありがとうございました。
シェイクスピアの時代の発音は、現代アメリカの発音に似ているということでしょうか。>アメリカ英語の発音の起源がどこの英語かとか、どのようにして現代アメリ
カ英語の発音が成立していったかとかいうことをどれくらいご存知ですか。ほとんど知らないです。「イングランド英語がその後に経験した変化の圏外にいたために、語法や発音の面で、古いイングランド英語の特徴をたくさん残している」ということは、知識としては知っていました。それが果たしてどの程度のものかは、Eliot さんが言われる通り、当時の音が録音されていないので、聴きくらべられず、感覚では納得できておりません。だから、本当には納得できておりません。私はものごとを納得するのに、時間がかかるタイプですので、その点、お許し下さい。学者が再構成したシェイクスピア劇の音を聴いてみたいと思いました。
私が現代アメリカ英語で「大げさな」と感じるのは、特に[ae]音です。[r]音も、昔、「大げさ」だと思ったことがありますが、今は感覚が麻痺したのか感じなくなりました。[ae]音に関しては、今でも、うっと思うくらい嫌な感じを持つことがあります。特に、それを感じたのが、ニュークラウンだったか、ニューホライズンだったかの中学の教科書の本文を吹き込んだCD教材ででした。なんで、そんなに「でかい口の般若」をやるかなあと思い、辟易しました。教科書会社の作るCDは、多くの人にとっての「お手本」、私の方法からは「媒介物」の音になりますが、たとえ媒介物でも、こんな音はいやだと思うような音でした。全部がそういう[ae]であったわけでなく、吹き込んだ一人がとりわけいやな[ae]音を出すのです。これは現代アメリカ英語の音として一般化できるものではないのかもしれず、一部の傾向なのかもしれません。その辺が私にはわかりません。
私は普段、映画のシナリオを教材にして「電話でレッスン」をやってる関係上、映画の英語音を聴くのですが、[ae]音が嫌でたまらんという感じになることは「あまり」ありません。私の知り合いのアメリカ人と話をしていてもそういうことはほとんどありません。
中学の教科書のCD音は、初学者用にきわめてゆっくりと吹き込んであります。教材が、純粋音を意識させようという作り方になっています。その場合に、[ae]音が実に嫌な音だと思ったのでした。生活の中で普通に使われるアメリカ音は、むしろ「崩れた音」を多量に含むのでしょうが、むしろ、こちらの方が「感じがいい」。これは、教材音と普通音(生活音)の比較となります。
「感じがいい」比べですと、映画の音を聴きくらべていると、古い映画(「七年目の浮気」が私が扱っているシナリオでは比較的古い)と新しい映画の音の違いを意識させられることがあります。そして、古い映画の音の方が「感じがいい」と私は感じます。新しい映画の音は、chaos prevailed でしたっけ、やたらに崩れが多い。これは、アメリカ音の音の新旧の比較です。
映画の作り方の作法も作用しているかもしれません。「七年目の浮気」は、作法としては劇の作法の尻尾をもっております。こっちの方がいい感じです。私の好みを人に押しつけるつもりはありませんが、好みははっきりさせておきたいとは思っています。
発音記号で[ae]と表される音にも、「大げさ」なものから、そう感じないものまでグラデーションを成していくつもあるのではないかと新しく考えています。自分で発音していても、「嫌な音を出しちゃったぜ」と思う時と、「おっ、これなら割といいんじゃないか」と思う時とがあるので、偏差はあると思っています。
イングランド南部の古い英語が保存されているアメリカ音というのは、私が知っているものでは、「七年目の浮気」の音に近いのかなと思います。古いと言ってもばかに古いわけではないです。(モンローの可愛いことは日に日に新しいが、いかんせん歴史音痴で、数字でいつの映画と言えないのが苦しい。1950年代の映画みたいな気がします)
しょせん映画ですから、シェイクスピアを持ち出せば、ついこの間作られたばかりと言えば言えるほどの距離しか「現代」との間にはありませんが、それでも、「現代」アメリカ音との間には莫大な開きがあり、現代アメリカ音はどんどん嫌な音になりつつあるんじゃないかという感覚ははっきりあるのです。特に映画の英語の音がそうだと思います。音楽はほとんど知りません。
「傲慢さと無知の音」と私の耳が聞いているときがあります。
傲慢で無知を持ち味としている私ですら、そう聞いているのですから、「現代」アメリカの傲慢さと無知は、「現代」アメリカの音と連動していると私は思います。
>[ae]の音は何百年も昔のイングランド英語の生き残りです。おそらく、いやだぜこの音はと思って私の耳が聞いている[ae]音は、ここで Eliot さんが言われている「何百年も昔のイングランド英語」の質と同じではないと思っています。おそらく、「現代」アメリカだけが出している音だろうと見当をつけています。
> [逆さe]が[Λ]と同じものかどうかという議論はもういたしません。見解の相違ということにしておきたいと思います。
私は、まずこれだけは最初にやった方がいいという、発音指導上の順序を確立すべきだという考えです。初学者にとっては、[逆e]と[逆v]の区別よりも、th, r, l [a],[ae],[逆さe]など、これをやらないと「ひとまず通じる」というレベルさえ確保しがたいという基本の区別があります。これはそんなに数は多くないと思います。まず、最初にそれをやり、それらが綴りの目視と連動するように口の動きとして身体化したなら、[逆e],[逆v]の区別もやればいい。
私の感覚では、「逆v」の方が唇に力が入るという感じがしますが、違いますでしょうか。
発音記号として別扱いされているのだから、音の違いは存在するとは思いますが、百科事典的に音の現象を羅列するのではなく、音の扱いに順序を立てることが緊急の必要だと思っています。これに関しても、現在の学校英語は何もやっていないと同然です。(今回も、Eliot さんのクラスのようなものを例外とします)
私みたいなおおざっぱな人間が、音の訓練の順序を今更考えなくてはならないのですから、文部科学省とやら、いやはやです。
順序を立てる作業としては、日本語で育った日本人の口の筋肉の研究(すなわち日本語の音組織の研究)がベースになるはずです。英語の音韻学など、英米の輸入にとどまって、日本人の口の筋肉という現実をすっとばしてきた英語学者どもの怠慢があるとは思われませんか。この怠慢のおかげで、私なんかもいいかげんな歳なのに、英語の音で子供や社会人相手に苦労しているのだと思います。日本人の英語発音用のものなのだから、日本語で育った口の筋肉がどういうものかということを踏まえなければ、日本人用には使えない。
私は、これに関しては、きわめて簡単に考えており、「余計な母音の削除作業」だととらえています。student の最後の t を「ト」または「トゥ」などのように母音付きで発音するのが、日本語に影響された初学者の英語発音としては自然ですが、英語耳には耳ざわりであったり、アメリカ人やイギリス人の頭が混乱するということになります。だから、「余計な母音の削除作業」はやる必要があると考えていますが、これは Eliot さんにはおわかりいただけると思いますが、けっこう時間のかかる作業です。(私の塾は中・高校生は週二回ですが、3年くらいかかるのではないでしょうか)
日本語で育った日本人の口の筋肉の研究というほど大げさなものを言わなくても、実際の発音指導では、「余計な母音の削除作業」をやるだけで、英語として受け取られる音がかなりできてくると思っています。
数を限って簡便化する、日本人の口の動きに有効な順序を確立する。この二つは大事だと思っていましたので、この掲示板が立ち上がった頃、「英語学習法憲法」を作るのにご協力いただけませんかと提案し、Eliot さんからは賛成していただいた記憶があります。この提案の背後に、以上のような考えがあったわけです。
>ただし、この音が「アメリカ的いいかげんさ」の音というご意見はおかしいと思い
ます。[逆さe]も17世紀の英語にはたくさん使われていましたし、アメリカへより
も遅く18世紀末以降に移住が始まった(ゆえに現代イギリス英語に非常に似てい
る)オーストラリア英語にもたくさん使われているからです。私がおおざっぱに感じていたのは、イギリス英語は比較的スペリングに忠実だが、アメリカ英語には崩れが多いというものでした。これは間違った見方でしょうか。
[逆さe]が17世紀の英語になかったとか、オーストラリア英語にないと言っているのではありません。もちろんたくさん使われていると思います。しかし、(アクセントのない位置の)多くの母音の発音を[逆さe]にしてしまうアメリカ英語の傾向というものがあると思っておりました。
この傾向をさして、「いいかげんさの音」と言ったものです。
これは、あくまで言語現象をさして言ったのです。アメリカ人を「おおざっぱ」だとか「いいかげん」だと言いたくて言ったことではありません。(実は言いたいところもあります。ブリヂストンのタイヤ問題などになると、言いたくなります・・・)
合理的でフランクである。この性質は実に私なんかもアメリカから学んだ貴重なものだと思っていますが(身についていませんが)、これが悲しいことに、現代アメリカでは「ひとりよがりで傲慢なもの」になっている。特にそれが政治に現れている。そういう普段の考えは、英語の音の問題を考えていてもどうしても顔を出してきます。その辺で、今度は私が「学問的」に「ひとりよがりで傲慢」になることはどうしてもあると思いますので、今後も Eliot さんに正していただく必要があります。よろしくお願いします。学問上では師と仰いでおりますので。昔から、私は師に対して行儀が悪いのです。これは、ひねくれて曲がりに曲がったおかげでまっすぐになったような本性ですので、この点、ひとつ、お含みおきの程、お願い致します。
まあ、しかし、新聞のように「正しいことしか言えない」ような掲示板にはする予定がありません。このあたりのバランスは本当に難しいです。
音に戻ります。
アクセントのあるところでははっきりと区別される母音が、特に語尾近くのアクセントのないところでは「おざなり」に扱われて、[逆さe」になると考えてきました。これは、英語の音の性質に元々備わっている傾向ではないかと思うのですが、それが特にアメリカで「いいかげんさ」「おざなり」なものとして発達したと考えてきました。
この「いいかげん」は、アメリカ的というより、口語的と言った方がいいかとも思います。普段、私なんぞも日本語を意識しないで使っているときは、実に「いいかげん」に発音しています。おそらく、どこの言葉をしゃべっている人も普段はそうです。ですから、今回の「いいかげん」発言は、普段の私のアメリカ(政治)への反感とは切り離すべきことです。
英語をやりながらも、私の中でアメリカ(政治)への反感は持続します。英語をやってる人が、アメリカは何もかもいい、というような幻想を持って生きていく余地はなくなった時代になりました。ここでも誤解が生じるといけないので、お断りしますが、私の生徒の中にいるある種のタイプの人たちを頭に浮かべて言っているのです。
>これが根石さんが生徒さんにschwaのことを話すときになさる説明でしょう
か。私は生徒に質問されて「どうでもいい音」というような説明はいたしませ
ん。また、掲示板をお読みになっている英語学習者のためにと思って詳しく
書いたつもりなのですが、「大まじめに問題にする音だとは思えない」のよう
にあしらわれてしまったのは残念です。schwa っていうのは、どんなものでしょうか。ST さんが書かれたときもわかりませんでした。曖昧母音と言われているもののことでしょうか。
「どうでもいい音」というのは、ネイティヴがそう扱っている音という意味です。
それを大まじめにお手本にしたりモデルにしたりするのが、語学に特有の滑稽な性質だとは思っています。もちろん、私はこの滑稽をまともに生きてしまった男です。個人攻撃をしたいんではなくて、語学の nature を言いたかったのです。語学というのは、滑稽という点では、文学と双璧を成すくらいのものだという認識があります。
私は、ネイティヴがいいかげんに扱っている音だと思えば、そう生徒に言います。それは必要な知識だと思っています。「どうでもいい音」というのは、学問的には実にいいかげんな言い方で、「ネイティヴがいいかげんに扱っている音」という言い方に訂正させて下さい。酔っぱらわないで書けばいいのですが、掲示板の維持は今は仕事ではないので、酔っぱらわないでやっていけません。「大風呂敷=酔っぱらい掲示板」と思っていただいていいくらいに酔って書きます。最近、酔っぱらいの言うことは信用できないという鮎川信夫の昔の発言を読みましたが、(松岡祥男という人が、吉本隆明の単行本未収録の対談・座談を刊行しており、その最新号で読みました)、やはり酔っぱらいの言うことは、腹八分目じゃねえか、話半分に聞いておくくらいにお願いしちゃいます。今も酔っぱらいです。
>>いやあ、Eliot さんは、原理主義者ですね。
>他意のないことはわかっていても、アメリカのテロ事件の後ではこのように言われるのは愉快な気持ちはいたしません。
これもごめんなさい。
酔っぱらって書くとろくなことを書きませんね。
でも、私は原理主義者です。語学の原理が、まったく無視されてきた学校英語という私の天敵がおります。英語として受け取られる音を作ってから(音づくりをしてから)、文法の説明をするならしろ、という原理を私はどうにもいいかげんにすることができません。ものごとには順序があるのですが、学校英語という無原理主義は、実に実にでたらめに、ものごとの順序を踏みにじってきました。恨み骨髄なのです。
Eliot さんに向けた、「音・原理主義者」は、褒め言葉の一種だと受け取っていただくことはできないでしょうか。音を純粋音の方へいくら突き詰めても、言葉にはならないという批判はそのままに置いておきますが、「音・原理主義者」という言い方には私の尊敬の念がこもっております。
その伝でいきますと、私は「シンタックス・原理主義者」であると思っていますが、誰も尊敬してくれないので、妻に尊敬しろと強要してます。今後ともよろしくお願い致します。
ありがとね。皆様
村田君が、過去ログを整序してくれました。
後は、私の努力ですが、今日も、やってらんねえやと思いながら自宅自作現場に行きます。
「完璧な音」論議、楽しみにしています。できるだけ早めに、過去ログを私のホームページの方へ掲載するよう努力します。
Eliot 様、ST 様なんじゃこれは?と思っていたのですが、辞書をひいてみたら、なんのことはないただの英単語でした。音声学上の用語ですね。「あいまい母音」と訳されていました。
「あいまい母音」という日本語単語なら知っておりました。それで事足りていたのでした。
この英単語を私が知らなかった一事が、私がいかに目の前にある日本人学習者の口の動きばかり見てきて、音声学等の学問など何一つしてこなかったかを証明しています。そして、それを恥じる気が私にありません。ものを知らないことは、恥じる必要はないが、自慢する必要もない。知らなかったら知ればいい。それだけのことだ。これは、私が死ぬ当日まで持ち続けるであろう語学の原理の一つでもあります。
Eliot 様、ST 様、schwa に関してきっかけをいただいたこと、感謝します。
「ホームページビルダー」へメールで送ってもらったものを読む込むと、<!>という記号が表示
されますが、これは整序に使った痕跡だと思ったので削除しました。
600番台の後ろの方に記事の重複がありますが、番号を一つずらすと以後が全部ずれてしまうの
で、重複は放置しました。皆様
私の書いた記事で、手直しした部分があります。
また、すぐ目についた字句の間違いなどは、他の方の文も書き直してあります。
記事の重複はありますが、使えると思います。
今日中に、ホームページの方へ格納する予定です。
<素材>12.繰り返し
文字が不要になるまで文字とつきあうということをやるのに、どうしても欠かせないことは、「繰り返し」である。語学から、この「繰り返し」ということを外してしまうと、語学自体が成立しないほど、「繰り返し」は語学にとって重要な柱なのだが、これが、語学と生活言語をはっきりとへだてる。
Nice to meet you. という言い回しを、口になじませるために、何度も繰り返し言い続けることは、語学ではきわめて当たり前の行為だが、生活の中でこれを繰り返して相手に言ったら、絶対に変な奴だと思われるだろう。
Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet you. Nice to meet you. ・・・・
実際に使ってみるのは危険を伴うので、お勧めしないが、もしも実際に初めて会った人にそう言い続けたら、少なくとも頭のおかしなやつだと思われる。場合によっては、殴られる。生活言語では、話の相手との関係はいつも切実なものであり、同じことを繰り返し言い続けることは、相手へのおちょくりなどを意味する場合が多々あるからである。
しかし、この「頭のおかしな」やつだと思われるようなことを、語学という机上の世界で繰り広げることは、まるで当然で普通のことである。何のおちょくりでもない。おちょくりどころか、語学では絶対に必要なことなのである。語学で「絶対に必要なこと」が生活過程ではタブーとなる。人生いろいろ、であるが、語学はうらはら、なのである。人生全体に対してうらはらなのである。
生活言語から見れば、語学の言語は滑稽であり、語学の言語から見れば、生活言語は痩せた意味が支配する貧しい世界である。
Nice to meet you. で言うならば、意味などすっとんだままで、ひたすら口の筋肉の運動をやり、筋肉を鍛えたり、筋肉の動きをなめらかにするだけのために、この Nice to meet you. を使用することだって、語学ではきわめて普通のことである。
この一点をもってしても、語学の言語と生活言語とは、根底から別の性質の言語であるということが言える。語学の言語と生活言語ははっきり分けて考えた方がいいと、私は長いことずっと思ってきた。語学では、意味などすっとんだままで、口の筋肉の運動だけしていることは可能だが、生活言語では、まずそんなことは許されない。不動産の契約場面で、口の筋肉の運動のためだけに文を繰り返し言い続けていると殺されるかもしれない。生活過程で、そんな「遊び」が許されているのは、2歳程度の幼児にだけである。生活言語には「遊び」の要素がきわめて少ないのである。語学となれば、その全体を「遊び」にしてしまうことすら可能であるのに。
<素材>13
語学の言語と生活言語の関係は、虚と実の関係である。どちらが虚でどちらが実であるかは、実はひっくり返ることもありうる。言葉を語学で扱うように、「言葉だけのもの」として扱う場所から、生活言語を眺めると、実に虚であるという感覚が成立することも充分にありうることなのだ。詩から見た生活が虚であるようなものである。
生活に戻ろう、じゃなかった、「繰り返し」の問題を繰り返そう。
私の「大風呂敷」という掲示板に書いてくださる ST さんという方に教わったことだが、國弘さんは「只管朗読」を唱えられ、しかも、千回の「繰り返し」を唱えられているそうである。千回?。千という数字にどんな根拠があるのだろうと思ったが、その後、考えてきて、これにはどうやら根拠があると信じるようになった。
百回の朗読(私の言い方なら素読、あるいは「回転読み」)を十回繰り返せば千回になる。五十回の朗読を二十回繰り返しても千回になる。私の「技法グラウンド」なら、二百回繰り返せば千回になる。どんな数字と数字の組み合わせであろうと、千回程度繰り返した文が、本当に使い物になる文なのだという意味でなら、私はこれは実に根拠のある数字だと思うようになった。
千回繰り返し言い続けた文というのは、「もうつくづくいやんなった」「飽き飽きした」「もういいよ」というように感覚される文である。そういう文だけが使い物になる。語学から生活言語に渡れる文というのはそういうものだのだ。國弘さんはすごい。
アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリスなど、どこでもいいが、英語が生活言語である場所に渡り、そこで英語の能力を獲得することは、生活言語の場で生活言語を獲得することである。この点では、世界のどんな場所でも人がいるところでは必ず行われている言語の獲得過程(ネイティヴ言語の獲得)と同じである。
ここが語学ではまったく違う。とことん違う。
語学は絶対に生活言語の場で生活言語を獲得するような行為ではない。虚から実に渡ることだ。このダイナミクスは、語学だけが持つもので、生活言語の場で生活言語を獲得した人の知らないものである。
過去ログ601〜700を「大風呂敷の記事の倉庫」に収録しました。
過去ログ 701〜800をホームページビルダーに読み込むと文字化けして編集できません。
601〜700の時と違う処理が施されているのでしょうか。
ネットスケープに読み込むと正常に表示されます。
WZでも、ちゃんとテキスト文字になります。
どんな原因が考えられますか。
電話をかけたのですが、出ないので、こちらに書きます。
私はいらついていたのだと思います。
日本の英語の現状に対しては、広汎な知識よりも、順序立ての方が大事だと思っていました。
順序立てというのも、それほど大した話ではなくて、 th, l, r の子音、3種類の「ア系列」
の母音などのごくごくわずかなものです。[s]と[縦長s]もありますか。これらに順序を与え、
その後はしばらく「余計な母音の削除作業」が続くだろうというのが私の考えていたものです。
おそらく Eliot さんは、それだけじゃ少なすぎると言われるかもしれません。しかし、私の
考えでは、「完璧な音」よりも「通じる音」の方が上位にあるものです。「通じる音」をひとま
ず確保するために、以上のポイントは必須のものになります。
それ以上の細分化は、これらのポイントが確実に身体化されて以後のものだと思っています。
エリートにとってはどうだか知りませんが、「通じる音」の方が、人々にとって緊急に必要な
ものです。その点について、以前の議論が中断されていたことが、私のいらつきになっていたと
思います。
最低の数のポイント、それらの順序、それらの身体化の方法(「般若面」「診察室」など)の
定式化を私はまずやりたいと思っています。
お考えをお聞かせ下さい。
実現するかどうかはともかく、私は本当に日本の英語の現状をひっくり返してやりたいと考え
てはいるのです。oというアルファベットがどんなに変移するかについての詳しい講義は、これは絶対に読み返
す必要があると思ったので、いくこに過去ログから独立させてまとめてくれと頼みました。書い
ていただいたことに感謝いたします。しかし、読んでいるうちに、これより先にやらなくてはならないことがある。緊急の必要事項
ですら、日本ではいまだ常識になっていない。そういういらだちがつのってしまったということ
だったと思います。失礼の段はお許しください。本当の初心者のための、しかし、「通じる」という質は確保できるだけの最低限のポイントの
数を定めることにご協力下さいませんか。日本人の英語の非常に多くに今すぐにでも必要なもの
です。
素材7(2).音づくり」が語学のすべてを準備する
学校がいいかげんに扱ってきた「音づくり」というものは、どれほど口が酸っぱくなっても言わなければならないほど大事なものである。これがなくては語学が成立しないからだ。これは原理の名に値するだろう。
<原理> 「音づくり」が語学のすべてを準備する。
この原理から派生する練習方法は、学校や塾で行われるのと、一人の机上とでは別のものになる。
まず学校の場合を考えてみると、Eliot さんが行ったものがほぼ理想型であり完成形だと言えるだろう。初学者に対する学校の教室での「音づくり」についてはすでに、Eliot さんの実践で新たな地平は切り開かれている。http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis/ooburosi/series/otomichi.htm
Eliot さんの実践においても、意味から音だけを切り離して、音だけの訓練を行う期間を最初に設けている。この期間の後に、Eliot さんは管理職から生徒の点が低いことをとがめられている。これについては、後に Eliot さん自身の文を引用する。
私は初学者に対してやる音の訓練というものは限られたものであるべきだと考える。初学者が最初にやたらに詳しい音の区別をやられると混乱が起こるだけである。日本人にとって最重要なものからやっていくのがいい。それは、 l, r の区別。th の舌の位置。[ae][a][逆e]の発音の仕分け。[s]と[縦長s]の区別くらいのものではないかと思う。この程度は最初からやるべきであり、これだけのものにはまったくの初心者の段階で習熟させるべきだ。l の舌の位置が確実なものになったら、t, d, n などが同じ位置で発音されることに気づかせ、身体化する。そして、これらのほんのわずかなポイントが身体化されるだけで、日本人の英語は、音として英語として扱われるようなものになる。シンタックスという難題がこの後にひかえているが、音だけなら、「通じる音」になるのである。
これらは単独の音の仕分けであるが、この他に日本人にとって練習が必要なものに「余計な母音の削除」というものがある。これは、一月やふた月でできるものではない。私の塾は、中学生・高校生は週二回通ってくるが、「余計な母音」がきれいにとれるまでには、二、三年はかかる。指摘すれば、その場でとれるというものではなく、英語用に普段から口を回し続けて、二、三年後にようやく余計な母音がとれてくる。つまり、子音を子音だけで発音できるようになってくる。日本語の癖が英語の音の中から抜けるだけでも、若い人で二年も三年もかかる。日本語という磁場の中での英語音の訓練とはそういうものである。
素材7(3)「余計な母音」がきれいにとれた頃から、生徒は日本語の音と英語の音の二つを持つようになったと言っていいのではないか。そこ頃には、単独の音もきれいに出るようになっている。これくらいまでの訓練は、私にもできる。これ以後の訓練になると、Eliot さんのような専門性が必要になる。
私はその種の専門的知識はないので、これ以後の段階に関しては、映画のシナリオをテキストに選び、英語で映画を観てもらうような訓練をしている。
口をどう動かすのか、舌の位置がどこにあるのか、息の使い方をどうするのか、それらを指摘するものは、単独の音では、本当にわずかな数の音に関してだけである。それに関しては、生徒が間違うたびに必ず直す。直させて最低五回は繰り返し正しく言わせる。単独の音の区別や発音の数を最低限におさえてあるのは、「通じる音」が確保できればいいと考えているからである。その先に、どれだけ音を練りこむか、どれだけ細かく発音しわけるかは生徒各自が自分でやるべきであり、いつまでもこちらが口を出すことではない。それから先は、「もっと泳げるようになるには、水の中で泳げ」しかないからだ。最低のポイントだけきちんと押さえておけば、英語として受け取られる音は作れる。その先は、複製音声教材が世にあふれているので、各自の意欲によってどこまでも音を細分化していけばいい。
学校や塾がやれることは、最低限のポイントだけはきちんと押さえるということである。そして、どんなに辟易されても言わなければならないことは、これをほとんどの学校や塾はこれまでやってきていないということである。
私は、これらの訓練を行う場合でも、必ず文全体を扱いながら行う。イントネーションやリズムを文に備えることを行いながら、個々の発音のポイントを訓練する。
語学では、音と意味は分離するので、これらのポイントを訓練している時は、生徒は意味など考えている余裕はないだろう。それが、コーチが訓練する場合の訓練の性質になる。
これに対して、「一人の机上」というものがある。ランボウという詩人に「架空のオペラ」という言葉があるが、語学は「机上のオペラ」だと言ってもいい。生活言語と語学の言語が根本からして違うものだという論議は後に行うが、語学はどこまでいってもあくまで仮のものであり、生活過程ではない。語学とは、「机上のオペラ」の激化に他ならないのだ。
そうして、「机上」という語学の場が確保されたなら、英語をやる一人にとって、「一人の机上」が成立する。語学の肝心要のところは一人でやるしかないものなのだ。コーチの要・不要を言えば、コーチは必要なものだが、コーチから指摘されたものを本当に身体化するのは、あくまでも「一人の机上」である。一人になって、新しく得た知識を身体化することをやらないならば、いくらいいコーチについても実りはない。
音の細かい問題に関しては、これは「一生もの」だと考えておいた方がいいのかもしれない。普通、「一生もの」というのは、買った品物の品質がいいので一生使えるというような意味で使われる言葉だろうが、ここで言っている「一生もの」はまるで違う意味である。英語の音につきあうならば、一生かけて、徐々に徐々に細分化し、区別できるようにしていくようなゆるやかな過程が必要になるという意味である。きりがないのだ。改善をめざせばどこまでも改善の余地はある。
いくつかの最低限のポイントは、英語をやり始めた最初の場面でやるのがいい。それ以降は、時間をかけて音に関する感覚を磨いていく作業に入る。語学教材のCDを使うのか、映画を使うのか、生きたネイティヴを先生にするのか、それは生徒が自分で工夫すればいい。最低限のポイントさえ、身体化されていれば、以後は生徒の意欲によってどうにでも発展はありうる。
しかし、この発展の芽を摘んでいるのが学校英語である。最低限のポイントが確保されていないので、生徒はそれ以後の過程に入ることができない。つまり、学校英語は障碍になっているのだ。
素読舎の仕事は、半分以上がこの障碍を取り除くことだった。
まともに「音づくり」をやらせること。それだけで、仕事の半分以上であった。しかし、これをやると、後の発展が可能になる。
また、現在は社会人を相手に「電話でレッスン」というものをやっているが、これの眼目も、学校英語の犠牲者たちに「音づくり」をやってもらうことである。点数や、受験の合格・不合格の問題はないが、やっている仕事は、素読舎で中学生や高校生に対してやっていることと本質的には何の変わりもない。従って、生徒の側には、「一人の机上」が必要になることも変わりはない。
.小学校で英語をやるなら素読にとどめよ小学校に英語が導入されようとしている。あるいは、この本が出版された時にはすでに導入されてしまっているのかもしれない。
How do you do? をやるのだそうだ。How are you? をやって、Fine, thank you. をやるのだそうだ。そんで、Nice to meet you. をやるのだそうである。つまり、現在の中学一年生の教科書の初めに載っているような文をやるということだ。
国際的なコミュニケーション能力を育てるとかいう話である。
すげえ話だ。馬っ鹿でぇ、である。
ここでも何一つ磁場のことは考えられていない。英語をやる場合に、最初の大原則になる「日本には英語が作る磁場はない」という条件が何も考えられていない。磁場のないところでの、擬似的なあいさつの修得。なるほど、戦後市民社会に照応した疑似語学的な光景ではあるだろう。
これは、実に子供と語学を馬鹿にした話でもあるのだ。
磁場に置きさえすれば、言語習得のスピードは大人は絶対に子供にかなわない。しかし、英語の磁場のないところで、早期に英語を始めたところで、子供だからって、英語のシンタックスが身に付くわけではない。
子供は大人より若い。たいがいそんなもんである。しかし若いということは絶対条件ではないのだ。語学は若ければどうにかなるってなものではない。
子供が言語の習得が速いのは、磁場としての言語が、子供にとっての切実な生活の条件だからである。友だちになりたい。言い返してやりたい。仲直りしたい。すべて、子供にとっての切実な生活に直接に結びついている。だから、磁場としての言語を子供はまたたくまに覚えていくし、それを磁場が支え養っているのである。英語に限ったことではない。それがどんな言語であっても、子供は本物の磁場に置かれるなら、大人が及びもつかないスピードでその磁場を作っている言語を身につける。
磁場があるということは、絶対的なことなのである。等しく、磁場がないということも絶対的なことなのである。
このことを、小学生に英語をやらせるという案はひとつも勘案していない。どう見たって、馬っ鹿でぇ、である。
すでに書いたことだが、学校英語というのは、ものごとの順序をとことん踏みにじったでたらめなものだ。小学校の英語は、このでたらめを始めさせる年齢を早めるか、疑似英会話学校みたいなものを持ち込むかどっちかになるだろう。
学校英語に対する風当たりが強いせいか(当たり前だ!)、これまでの学校英語をそのまま小学校へ持ち込むのではないというような言い訳が用意されているようである。だったら、疑似英会話学校が持ち込まれるに決まっている。
それ以外に日本に何があるというのだ。いや、実はある。素読である。しかし、素読舎のような存在を、これまでの制度や戦後市民社会がどう遇してきたのかを思い返せば、またどうせ、疑似英会話学校が持ち込まれるのだろうと暗澹とした気持ちになって、いつものことだと思うだけのことである。日本の英語の未来は暗い。見ているがいい。必ず結果が出る。相変わらず暗いという結果が。
<素材>10(3)私はよく大人の人にたとえ話をする。
しゃべるための英語は水みたいなもんです。アメリカで身につけた英語は水です。初めから水です。ところが、日本で作る英語は氷なんです。氷だって、H2Oにゃ変わりないけど、水と氷じゃ使う場面じゃ同じに使えない。水が張ってあるからってスケートを始めるやつはいないし、氷の固まりに突撃して水泳をするやつもいない。氷でごろごろ洗濯する主婦は、よく言って変わり者だし、悪く言えば馬鹿だ。水と氷じゃ使い勝手が違う。で、しゃべるための英語は水なんですね。アメリカじゃ水がざぶざぶしてる。アメリカで英語を身につけるっていうのは、ざぶざぶしてるところでざぶざぶしてきたということなんですが、日本で作る英語は氷にしかならない。本当にこれはそうなんだ。氷だから、それが融けた分だけが水になる。どれだけ融けてどれだけ水になるかは、それは熱がどれだけあるかだ。つまり、あなたの熱意がどれほどのものかだ。つまり、練習がどれほどのものであるかだ。ざぶざぶなんてありゃしねえんだ、ここでは、ざぶざぶなんて。
だけどよく考えてごらんなさいよ。日本じゃ、とにかく最初は氷しか手に入らないんだから、水が欲しければでかい氷を作るしかないんだ。英会話学校で習う決まり文句なんか、冷蔵庫の製氷皿の氷程度の大きさしかないが、それで英語をしゃべろうったって、あくまで決まり文句をしゃべるしかできない。氷河を作るんですよ。氷河を。氷河の下なら、水が川になって流れてる。
えっ、あんた氷河を持ってるのかって。そりゃ、むにゃむにゃでさ、池の氷程度のもんだけどさ、それにしたって、製氷皿程度じゃだめだよ。学校だって、英会話学校だって、製氷皿だ。実際に作れるかどうかはともかく、理念だね、語学の理念としては氷河を作るって、もう、雄叫びをあげちゃっていいんだ。「一人の机上」で氷河を作る。それが語学だよ。
そんな話をよくする。氷河をめざせっていうまともな語学の理念から見ると、小学校への英語導入というのは、ああ、また製氷皿ごっこか、としか見えないのである。やってみろ。それで英語が使えるようになるんなら、こちとらこんな苦労はしねえよ。まったく泣きたくなるぜってなもんだ、おばちゃん。
小学生に英語で下手な芝居をやらせて何がおもしろいのか。何がコミュニケーションか。コミュニケーションとは下手な芝居のことではない。
素読である。素読なら氷河が作れる。素読は、初めから磁場の存在を当てにしていない。語学そのものというより、語学を準備する方法だととらえるなら、素読は準備を整えるのに使える。「日本の」小学生にやらせるなら、語学の準備でいいではないか。準備が整っていると整っていないとでは、その先は大違いである。
しかし、問題がある。小学生の先生に、英語の「音づくり」ができる人がいないという問題だ。つまり、コーチの質が悪いというより、コーチと呼べるほどの人がいないという大問題である。素読を原理として、英語の「音づくり」をやるにも、コーチができる人がいないのでは絵に描いた餅であった。
文部科学省よ。俺にちゃんと金を払え。そして、インターネット上で、素読を原理とした「音づくり」の方法を学校の先生に習わせろ。あるいは、民間の英語のリズムと音を身につけている人をどんどん学校に登用して、雀の涙程度じゃないだけのものを払え。この人たちに、「技法グラウンド」を修得させろ。Eliot さんの「音づくり」に関する記事を小学生に英語を触らせようとする人々に素読させよ。などと叫びをあげてみたところで、どうにもなりはしないのだ。どうせ、疑似英会話学校の導入と、製氷皿ごっこなのだ。
駄目だこりゃ。
重量級の記事が連続しており、書きにくいかもしれませんが、遠慮せずに皆さん書いて
下さい。
長野・Bさんが、シナリオ「ボディ・ガード」を終わらせました。
おめでとうございます。
Bさんは妻の生徒さんですが、妻に現在の様子を聞いてみました。
「ボディ・ガード」一冊の最初の方から3分の1程度の分量は、「こなれ」ができているとのこ
とです。一冊全部こなれたころになって、新しい生徒さんが「ボディ・ガード」を希望する場合
はコーチをお願いしたいのですが、覚悟を固める覚悟を固めに入っていただけませんでしょうか。
コーチをお願いする場合は、「素読舎電話でレッスン・コーチ陣」に実名でお名前を連ねていた
だくことになります。
お金を払うのではなく、お金をいただく側に回ることは、日本在住のまま英語を維持するには、
非常に現実的な選択です。責任が生じ、生徒さんとのレッスンの前に、自分でやるべき準備が生
じます。この準備は、自分がすでに片づけたシナリオに関して行うのですが、これをやることで、
一段と「こなれ」ができてきます。
同一のシナリオを扱う生徒さんが二人、三人いると、國弘正男さんの言われる「只管朗読」千回
を、生徒さんのレッスンの準備を行うことで達成することができるかもしれません。これは、つ
らいと言えばつらい作業ですが、その後に使い物になる文がぐんと増えるという意味で実質があ
ります。おこずかいができるという以上の利があります。
実は、それが私がやっていることでもあるのです。しかし、私は、自分の英語のことだけ考えているのではないので、Bさんにもシナリオ一冊片
づけた時点での、「電話でレッスン」の感想を書いていただきたい。強く要望します。
私は英語学習者のネットワークを「電話でレッスン」を通じて作りたいと願っています。
是非ご協力ください。
Bさんは、二冊目は「七年目の浮気」をやります。
このシナリオは語学的には非常にお得です。
リチャードの妄想が激しく、それを全部口に出してひとりごとを言うので、台詞がやたらに多い。
だからお得です。
Bさん。健闘を祈っています。
うちの女房、生徒を怒らないけど、生徒を甘やかさないんじゃないでしょうか。
どうも、私は甘やかされた覚えがかつてないので、なんとなくそんな感じがするんですが。
その辺の感想でも結構ですから書いて下さい。
この孤独こそ、俺が日本人根性に突きつけてきたものだ。
ニューヨークはどこにでもある。
また酔っぱらって塾の広告のコピーが出来たのでお披露目します。
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がっはっは。
学校の英語じゃ駄目だよ。
使えるようにはなりゃせん。
俺は学校の英語のお世話になったことはない。
書いてる途中で、「投稿」ボタンを押してしまいました。
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また酔っぱらって塾の広告のコピーが出来たのでお披露目します。
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がっはっは。
学校の英語じゃ駄目だよ。
使えるようにはなりゃせん。
俺は学校の英語のお世話になったことはない。
更埴市に素読舎という塾がある。
突破口。それが、すぐ側にあるのに、気づかないのは、俺のせいじゃない。
見学はいつでもできる。だけど、俺が迷惑そうな顔をしても、気にしないでね。
気にしない覚悟ができたら、見に来てね。
「在日英語」あるいは、英語の「在日性」という言葉で考えていたことがある。
「在日」という語を冠した言葉で、もっともよく使われたのは「在日朝鮮人」あるいは「在日朝鮮人問題」というものだった。この場合の「在日」というのが、日本人側からの視線なのか、朝鮮人側の自覚としての視線なのかがわからない。
「在日」とは、日本に仮にいるという意識のありかなのか。日本で日々の暮らしを暮らしすでにそれになじんでいる事実を言っているのか。いや、どうもそういう感じはない。ことさらに「在日」というからには、そこに何らかの違和がある。
何も調べたことがないので、根拠はないが、「在日」というのは、自分がどこに帰属するのかを問うときに出てきた言葉ではないだろうか。これは、行政的な処理におけるもの、つまり国籍やらというものの問題ではない。
しかし、それでもなおわからない。これは、何を自然と感じ、何に異物感を持つかというような意識の自然性や、意識の疎外感のありかを指し示している言葉なのか。自分という意識の組成(意識の自然性)を異物として孤立させていく日本という社会に動く別の自然性の力学のありかを指し示している言葉なのか。つまり、個の意識の検証の問題なのか、社会に働く力学の問題なのか。私は中学・高校の頃を通じて、学校そのものに対してはいつも折り合いが悪かったが、学校英語というものに対してとりわけよく考えたわけではなかった。高校が終わって、浪人している一年の間に、英語が面白くなり、語学というものは面白いものだと思ってどんどんやっているうちに、大学受験の一科目であることを忘れるようなことがあった。しょせんは、大学受験の一科目として始めたにすぎないが、語学そのものの面白さをみつけてしまったということである。
その時も、単に語学を面白がっていただけのことであり、なぜ英語かなどということは考えもしなかった。別に英語でなくてもよかったのかもしれない。大学受験の一科目にフランス語が課されていれば、フランス語を語学として面白がるということであったのかもしれない。私が英語をやったのは、たまたまそれが大学受験の一科目であったからだ。動機としては、まったくそれ以外のものではない。やらなきゃならないからやったのであり、やってみたら面白かったからどんどんやっただけである。
生活のために家庭教師から始めて、塾をやり始めるまでの経緯は「根石吉久の暮らしの手帳」という本に書いた。(ミッドナイト・プレス刊)
英語についていろいろ考え出したのは、塾という仕事を始めてからのことである。語学そのものとして英語を面白がるという経験は浪人の一年でしたが、とりわけ英語について考えるということをした覚えはない。塾を始めてしまうと、考えなければならないことが続出してきたのだ。
今は五十歳を過ぎたが、五十になる手前で、英語の「在日性」という言葉が私の中に出てきた。
「在日朝鮮人」という語でも、上記のようにわからないことはいくつもあるが、この語が響かせている響きに孤立の深さというものがひとつある。孤立の深さという響きを「在日英語」という語は響かせうるのかどうか。私自身は、その響きを響かせたいと思って、こんな語の組み合わせを使用しているが、ただ変なことを言っていると扱われるだけで終わることが多い。
「クレオール」という語の正確な意味合いを知らないので、使い方を間違えるかもしれないが、日本の英語がクレオール化することはなかった。親から子へネイティヴな言語の一つとして伝わることはないということである。放置しておいても自然に伝わるということがないということである。文明的な浸食の度合いはともかく、日本が政体として植民地になることをなんとかまぬがれてきたことが、日本が今日、日本語の磁場できているということの根拠である。それは本当にそうではないか。そう思った頃から、「日本の英語」ということをまともに考えるようになった。中年になって腹が出てから、ようやく「外部」の存在が肌身で感じられたのだ。別に出た腹の肌身で感じているわけではないが、「外部」がはっきり存在するようになるまでに、けっこう長い時間がかかったということである。「磁場」という考え方自体も、日本の英語の非クレオール性を考えることから出てきた。それが順序だっただろう。孤立する。深く孤立する。それが日本の英語である。この英語は、一種奇妙な性質を持っていて、この奇妙さは英語をやった者どうしでもなかなかお互いに認めたがらないような閉じた構造をしている。この閉じた構造は、日本に暮らしているかぎりは、ついに生活言語の方へ開かれることはないのではないか。意志の疎通をはかるとか、用を足すとかで、日本の中で英語を使うことはよくある。しかし、英語で二時間も三時間も時を忘れて話し続けるというようなことはない。そういうものとして私の英語は育っていない。もっともこれは、日本語でもないから、私の言語は、生活言語の方へ開かれていかない種類のものだということなのかもしれない。生活言語が面白いとはどうしても思えないような何かが私の中には持続するのだ。逆に、だから、英語の「在日性」に強く照応するものが私にあるのだと言えるのかもしれない。生活言語の方に開かれない言語(文学の言葉はこの性質を強く持っている)に働く光学が、英語の「在日性」をみつけたのかもしれない。
しかし、時に私は語学の好きな人たちに、あなたが語学をやったのは、あなたの中のなんらかの「在日性」のゆえではなかったのかと聞きたい強い衝動にかられることがある。みんな、敗戦国が仰ぎ見たアメリカの輝かしさのせいで英語をやったのか。そんな人ばかりなのか。孤心が、言葉そのものを相手にする語学という領域へあなたを導いたのではなかったのかと聞きたくなることがある。
この歳になって、なおも生煮えの疑問が持続するのだ。生活言語の方へ開かれることがない言語を、日本の中で持ち続けるということはどういうことなのか。英語の「在日性」はこのまま閉じられて、どんな普遍性へもつながることはないのか。
「なにかあるだろう」とこの掲示板でいくこが言っていたが、いくこはこの疑問の端緒に立ったのだと言ってもいい。なにかあるだろうと私も思っている。
無断欠席をしまして、ごめんなさい。体調がすぐれずとても回転ができる状態ではありません。
11月分と12月分は今日19日月曜日に振り込みます。とりあえず電話だけは毎週お願いします。
わかりました。
電話はします。
『お盆・コレクター』
ダジャレー夫人の恋人様わかりません。
毎度、ダジャレの解説を要求して申し訳ありませんが、今回もご説明をお願い致します。
映画の題名か何かですか?
申し訳ありませんね。世情にうとくて。
田中荘へ行ってみて、少し読んだ。
なんだ、この連休は長野へ帰ってるんじゃねえか。
日記なんか公開するから、しっかり動向がばれる。
塾やってると相手してらんねえかもしれねえが、遊びに来いよ。日記、面白いよ。
日々是空日ってな感じの、大学生の生活感があって・・・。
宇宙論、ちゃんとやること。
宇宙論でなんか書いたら、ここへ連絡を寄こせ。バイトしてるんじゃねえか。
英語に金使え。
「電話でレッスン」やれ。
わかりました。
Bone collecter という映画の題名だと女房が教えてくださいました。
ダジャレとしては、まったくしょうがないとのことです。これまでの傑作は、私の観点からは、
カラマルゾの兄弟
2本ほど原稿にかまけているうちに、
遅れに遅れたレスになりまして、申し訳ありません。
ご質問は、なぜ砂漠の民の帽子(フリジア帽)がヨーロッパの国における「自由」の
象徴になったのか、とのご趣旨でした。共和国を象徴するマリアンヌも頭にかぶっている、フリジア帽と言われる赤い帽子は、以前にN.Y.の自由の女神の話の中でも触れた、古代ローマ時代の「自由の女神」も被っていた頭巾(=解放された奴隷の頭にかぶせられたフェルト製の物)に由来し、文化によって継承されてきた「自由のシンボル」でありました。これがたまたま東方の砂漠の民の被っていた帽子と形がよく似ていたのです。昔のヨーロッパ人にとって、多少なりとも訳のわかっている東方(オリエント)とは、フリギア辺りが殆ど限界であったことから、彼らは、その自由のシンボルである帽子を勝手に「フリギア(人の)帽子」と呼び始めたのが発端であったようです。
砂漠の民が移動の自由をもっていたことに憧れて、なんて思いはさらさらなく、あくまで自分たちから見た世界観に基づいた名前です。
例えば日本で薩摩の芋と思われている「さつまいも」を、当の薩摩(鹿児島)では「カライモ(=唐イモ)」…昔の中国「唐」から伝来したことから、こう呼んでいることにも似ております。しかし一般に日本人が、珍しい文物は何でもある、と言う憧れも込めて、「唐」の名を戴いたのに比べ、フリギアの方は、むしろよくわからぬ東の果て、と言ったニュアンスだった訳ですから、やっぱり昨今、問題となっている「グローバリゼーション」のセンスともどこか通じる中華思想的な発想の一端を感じる名前ではあります。
そんなネーミングの帽子だけ被って自由だ、何だと主張してみても、どこか根本に「辺境」の思いを置き忘れていたんだ、と言った事の意味合いに最近のフランスは政治的にも大変、神経質になってきたようです。こうしたグローバル化の権化たるアメリカのナイーブさを部分的なりとも、浮き彫りにする狙いもあったでしょう。
その効用に気付いたからこそ、植民地アルジェリアが独立して40年近くたつまで「内戦」としか認めてこなかったそのアルジェリア戦争を、3年前になって漸く初めて「独立戦争」だった、と国会で謳った訳です。アメリカの独立戦争はあれほどおおっぴらに賞賛してた同じ国が・・・です。ただ、「頭隠して尻隠さず」は、同時に「いずこも同じ秋の夕暮れ」でして、9月11日以降、更に多くが指摘されるようになってきているのが世界的トレンド、でもあります。以上、誠に遅くなりましたが、時間がたって拍子抜けされないことを願いつつ、今後もよろしくお願い申し上げます。
根石さん、お久しぶりです、さて、「迷いを断ち切れ! 最適英語学習法」の掲示板でお話をし始めてからもうかなりの時間が経過しています。その中で、私の多読による英語(英会話)学習法が初学者には不向きであることを度々仰られていたと思います。2,3日前にその同じ掲示板でやはり多読による学習法を実践している方のHPを読む機会を得ました。SSS英語学習法と言います。URLはhttp://www.seg.co.jp/sss/ です。中一終了程度の初歩の文法と基本単語200〜300語程度を知っている人が対象の下限ということです。Penguin, Oxford, Cambridge等のGraded Readersを使って、グレード別、段階的に大量に読むことを主眼にしているということです。私はこの半年ほど英会話サークル(相談室)主宰してきて、自分がしてきたと同じ方法での多読(普通のペーパーバックにより最初のうちは20−30の理解度でもいいんだという・・・非常な難行)を奨めてきましたが、その愚かさに気が付きました。これからは、そのような方法は中級以上の人に奨め、初級者にはSSS方式で行こうと思っています。 上記サイトを読んでみていただけば分かることですが、SSS英語学習法は古川昭夫さんという高校生対象の塾を経営されておられる方が編み出されたもので、使える英語修得と受験英語学習との両立可能な新しい英語教育を求めて行き着いた結果だそうです。 根石さんと古川氏はどちらも塾をやっておられるうちに「新しい英語教育」の手法を編み出されたのだと思いますが、どちらも貴重な手法だと思います。出来ればその2手法が相まって「新しい英語教育」になって行ってくれることを願っています。
そう、こっち帰ってきてんすよ!
でも3日間って事もあって意外に忙しいというか、
根石さんなんか日々是空日って云ってたけど、
どうも俺、
時間の使い方が不器用って云うか・・・あと田中荘ですが、
あれ近いうちに全面改築するんでお楽しみに、
今大体は出来てんだけど、
もうちょい、
今のページより進化させてっから公開しようかと、宇宙論についてのページも、
本気でやってこうと、
最近本も3冊くらい買って読んでいるしだい、
学校での授業でも宇宙科学っての取ってるし、そんなとこでした。
ではでは、
福岡県の方からメールをいただいたものを掲載します。これに対するお返事は、別の記事として独立させます。----------------------------------------------------
根石吉久様
はじめまして
私は福岡県で医者をやっておりますFという者です。
年齢は35歳です。
あなたのホームページを拝見し,非常に興味を持ちました。
英語を使う機会は,専門文献をたまに読むくらいで,英文を書いたり,会話をしたりということとは無縁でした。
もちろん本当は読み書きについては勉強する必要性があるんですが国内にいる限り差し迫って必要が無かったものでさぼっておりました(お恥ずかしい話です)。
しかし,来年の春から急遽アメリカに留学することになり,現在,遅まきながら勉強を始めているところです。つまり,あと5ヶ月程度しか無い状況ですが,その場合,あなたの提唱されておられる音作りやシンタックスの構築は,行う意味がありますでしょうか(数ヶ月学習することが後の自習時に役立つかという意味)?
また,素読舎の生徒の方々にはこのやり方で英語を習得された方も多数おられるかと思いますが,毎日,どのくらいの時間を勉強に割いておられるのか,もし,お分かりでしたら教えてください。私の今のレベルはおそらく中学生レベル以下で,しかも会話に関しては自分の言いたい事は,ほとんど伝えられません。現在,中学生の教科書の復習,研究社の英会話教本,ラジオの教材(日本人向けにスピードを遅くしたもの)をちょこちょこと勉強し,英会話学校にも通っております。
メールありがとうございました。また、ホームページをお読みいただいたこと、うれしく思いました。5ヶ月程度で、一挙に英語をものにするのは、お仕事を持ちながらではなかなか難しいと思います。5ヶ月のうちに是非お持ちになっていただきたいのは、英語力そのものよりも、「方法」です。突破口を切り開くことのできる「方法」が肝心だと思います。
それを確立して、アメリカに渡られてからも継続なさるのが最良かと思います。言語の磁場で、その言語をどんどん獲得していく能力は、幼児だけのものであり、日本で大人になった人は、アメリカに滞在される場合でも、何らかの方法を確立し、継続する必要があります。
10代くらいまでの人だと、身体への日本語の食い込みがまだ浅いので、アメリカにいて友だちができるだけで英語が使えるようになるということがあります。幼児の言語獲得と似た過程がまだ成立する年齢だということです。(当然、日本語が弱体化しますが・・・)
Fさんの場合、35歳という年齢を考えると、継続するための方法をつかむことが必ず必要になると思います。「音づくり」は、英会話学校などやめて、ただちに突入していただきたい基礎の基礎です。これこそが、日本の学校英語、受験英語からすっぽり欠け落ちているものです。学校も予備校もNHKの語学番組も英会話学校も、この絶対に必要な訓練をしていません。最近は、アルクの音読講座(イングリッシュ・キング)を受講している方の英語を手ほどきしましたが、元からやりなおす必要があるのがわかり、元からやっています。複製可能な音声教材ではできない訓練があります。コーチが直に指示するしかないことがあるのですが、日本ではこれをやれる人が極端に少ないのです。
これは、本当は日本人が日本人に対して行うのが最良です。英語ネイティヴは、日本語で育った日本人の口の筋肉のどこをどうすれば英語の音(として通用する音)が出るのかを知りません。ネイティヴに習うのがいいというのは、大人の初心者にはまったく間違った方法だと思っています。
シンタックスに関しては、「シンタックスの構築」というより、私は「シンタックスの鷲掴み」と言っております。「音づくり」ができ、音が本当にこなれてくると、この「鷲掴み」が成立するようになります。日本にいてやるより、アメリカに渡られてやられると、語学と生活言語を往復することが日々頻繁に起こりますので、語学の机上での「鷲掴み」もはるかに成立しやすくなります。
それにしても、「音づくり」の基礎は日本でやっておかれるのがいいと思います。アメリカに行けばなんとかなるというようなことではありません。口のどこをどうするのかを、ある程度体得しておかないと、真似しようとしても真似しようがない事態におちいることはありえます。私の「電話でレッスン」を是非ご検討下さい。日本におられる5ヶ月間これを受けられるだけでも違いますが、経済的に許すならば、アメリカから国際電話を使ってレッスンを継続なさることもできます。電話代以外に月額1万円が必要になります。
どのくらいの時間が必要かということですが、日本在住という条件下では膨大な時間が必要です。きりがないのです。どこまでやってもその先があります。しかし、話す・聞くことに関しては、アメリカ在住の方がはるかに有利なのは絶対的です。ある一定のレベルに達するには、はるかに短い時間で済むはずです。
英語の上達に必要な時間というものは、一定の時間を想定してみても、その中における練習の密度や意識の集中力によって変わります。日本在住かアメリか在住かによっても変わります。それらの要素の組み合わせの関数になってしまいます。
語学的には有利な条件下に入られるわけですから、方法的に間違わなければ、また、語学と生活言語の間を臆さず頻繁に往復なさるなら、上達は日本在住よりはるかに早いと思います。どのくらい時間がかかるかということを心配するより、日本にいる間は、やれるだけやる、できるかぎり多くやるということをこころがけていただきたいと思います。それにしても、「音づくり」はまず必須のものです。以上ですが、不明の点は再度おたずねください。
SSS のホームページ見てきました。概要はつかんだつもりです。
やはり、この方法に関しても、基本的には浜谷さんの方法に関して考えていたことと
同じことを考えざるをえませんでした。英語をある程度のレベルまで持ち込んだ人に対
して有効な方法だという感想です。
「意味の塊として読む」とありますが、「意味の塊」が塊としてわかるのは、何の前
提もなく成立するはずはないのです。本当の初心者は、どこからどこまでが塊なのかが
わからないので、200語やそこらの語彙数しか持たない人が、意味の塊を自力でとら
えるのは至難の業です。いちいちカンマでも付してあれば別ですが・・・。文法に関し
ては中学一年程度の文法力ということですが、さてどんなものかと思います。
この方法は、中級以上の方には間違いなく効果があると思います。しかし、初心者に
本当に必要なのはコーチつきの音読だという考えは変わりません。Eliot さんがやられ
た方法です。この SSS では音読は補助的な方法として位置づけられていますが、そこは
違うと思います。浜谷さんが、生徒のレベルに応じて、思い切り易しい読み物から始められるのは賛成
です。それがいいと思います。しかし、その場合でも、音読のコーチは浜谷さんがやっ
てあげてほしいと思います。易しすぎるんじゃないかというくらいに易しいものをやり、
その代わり、音読はとことん鍛え込む。そのことによって、英語のリズムが身体化され
ます。その過程で、同一テキストで、ネイティヴスピーカの吹き込みによる複製音声が
併用できれば、日本在住のままの練習方法としてベストです。私の用語ではネイティブ
な英語の「媒介」です。
しかし、これは結局個別指導ということになります。一人一人の生徒のレベルに応じ
るにはそれしかありません。私の映画のシナリオを使った「電話でレッスン」は実はこの方法にきわめて近いので
す。思い切り易しいテキストを選択するということはありませんが、映画という疑似磁
場(仮構された磁場)が状況をあらかじめ準備してくれるので、音読さえまともにやれ
ば、「意味の塊」はとてもつかまえやすいのです。
映画のシナリオを2,3冊片づけてから、SSS の方法を採用するのがいいんじゃない
かと思いました。
わけがわからんままでの多読は、一般的にはおすすめできません。しかし、コーチつ
きの音読ならわけがわからんままで、それにリズムを備えてしまうことができます。ま
ず音を完成させて、意味は後からおいで、ということが成立します。そのときに、易し
いテキストなら、意味は音読の直後に追いついてくれると思います。
私は映画を利用しますが、映画を使わないなら、思い切り易しいテキストを選択して
多読するというのは充分に成果のあがる方法だと思います。
その場合でも、眼目は音読のコーチが「音作り」をやることだと考えています。
世の中に「音読」の有効性は知られるようになってきましたが、コーチつきの音読な
らずっと早道だということはまだまだ知られるに至っておりません。私はもちろん、や
れる間はこれをやりますが、浜谷さんにもやってみてほしいと思います。
思い切り易しいテキスト。コーチつきの音読。ネイティヴ音声の媒介。
これで英語になじみが生じた時点で、文法をやればいいと思います。
宇宙論、やれよな。
これまでのものをまともに踏まえるだけでも大変だが、そこに止まっていないで、やれよ。英語どうすんだよ。
取り敢えず英語は、
塾ん時やっていた教材で、
暫くは復習というかやり直しというか、
そんなことやっていきたいとこ、なんせ貧乏学生なもんで・・・、
そう云えば、
現場今日見ましたよ!
ありがとうございました。私は人格に問題がある男ですが、お見捨てなきよう。
また、諸般に渡り、行動がのろいのですが、その点は斟酌頂きたくお願い致します。フリジア帽は、砂漠の民の移動の自由という自由ではなかったのですか。
残念です。
私は、なぜだか知りませんが、小学生の頃からモンゴルが大好きでした。多分、「怪
傑ハリマオ」というテレビが登場した頃の番組のせいかとも思います。
「ハリマオ、馬鹿みたいだ」というのが、私の妻の意見ですが、そういう醒めたもの
の見方でどれほどのものが見れるのかと憤慨しております。うるせえ、バーろ。ハリマ
オは絶対にいいんだぞ、と言い返すと、女房はへらへら笑っております。女房というも
のは本当にどうしようもねえしろものです。
今回思ったのは、SVO vs. SOV というものでした。
小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」という本で書いた問題ですが、どう
も、SVO シンタックスの国には中華思想が育つと思っておるのです。ヨーロッパ、アメ
リカ、中国が SVO シンタックスの「地方」です。
モンゴル、朝鮮、ネパール、日本、南アジアのいくつもの国が、 SOV シンタックスの
「地方」です。こういう場所には強力な中華思想は育たなかったと思っています。
言語のシンタックスが、思想をかなり決めているんじゃないかという妄想を私は持っ
ています。
フランスあたりの中華思想について書いていただいたので、SVO vs. SOV を思い出し
ました。
お暇がとれましたら、また是非おいで下さい。P.S
Ton 様が、脇田さんはカンヅメになっているとおっしゃっておりましたが、何を書い
ていらしたのですか。
とにかく錆び付かせないなら文句はねえよ。現場、中へ入って見たの?
俺、けっこうでかい薪ストーブ買ったんだけど、見た?
根石吉久様ぜひ,<電話でレッスン>を受講したいと思いますが,
具体的な申し込み方法の詳細を教えてください。
さっそくお返事いただきありがとうございます。びっくりしました。申し込みの意志は、今いただいたメールにありますので、手続き終了です。
問題は、空き枠ですが、毎週土曜日夜10時50分から30分間が空いているだけです。
これでよろしいでしょうか。なるべく飲み会を断って、土曜日の夜は、10時50分に
はご帰宅願いたいと思います。
妻もレッスンをしておりますが、月曜、火曜に空き枠がひとつずつあったと思います。
だいたい同じような時間帯だったと思います。時間帯は、確認しますが、現在妻は就寝し
ておりますので、明日以降になります。もう一つの問題は、テキストの選択です。映画のシナリオを使用します。最初にいただ
いたメールの英語力の自己診断がその通りであれば、「E.T.」が最適かと思います。
あくまで、自己診断が当たっていた場合です。現在、レッスンで使用しているシナリオは以下の通りです。
----------------------------------------------------
E.t.
七年目の浮気
ボディ・ガード
----------------------------------------------------
ゴースト
スピード
逃亡者
ミッド・ナイト・ラン
フルメタル・ジャケット
ミッション・インポシブル
----------------------------------------------------
上の段が妻が扱っているものです。下の段が私がやっているものです。下の段のものを
選んでいただく場合は、土曜日夜10時50分からです。上の段のものを選んでいただく
場合は、月曜か火曜です。いわゆる読解力を持っておられる方なら、「ゴースト」がお薦めです。
「逃亡者」もだいたい同じレベルです。
「七年目の浮気」は、リチャードという男がやたら妄想が激しく、妄想を全部言葉にし
てしゃべるので、やたらセリフが多く、語学的には非常にお得ですが、初心者にはおすす
めできません。「フルメタル・ジャケット」は強烈に下品な英語のオンパレードですので、
これも一部の方にしかお薦めできません。「ミッション・インポシブル」は、スパイの隠
語が多く、これも初心者にはどうかと思います。
最初のメールの自己診断は、多分に謙遜があるとにらんでおりますので、「ゴースト」
がいいんじゃないかというのが、私の判断です。私の空き枠を使っていただけるなら、土
曜日は、「ゴースト」をやる方が多いので、私も助かります。「ゴースト」は学校英語を
やったが、その犠牲になってしまった方には入門用に最適だと思います。
「スピード」をやられる場合は、奈良県の大友さんという方がコーチをしてくださいま
す。「フルメタル・ジャケット」をやられる場合は、小学館文庫「英語どんでんがえしの
やっつけ方」の共著者である村田君がコーチをします。この二つを選ばれる場合は、私の方で曜日と時間帯を調整いたします。
お薦めは以下の通りとなります。
「E.T.」「ゴースト」「逃亡者」テキストを決めていただけば、すぐにこちらからテキストをお送りします。そのシナリ
オの映画は、ビデオ屋で借りて準備してください。字幕部分に紙をセロテープで止めて使
用します。そちらでビデオが手に入らない場合は、ご連絡ください。
夜分ゆえ、お電話は差し控えます。
こちらにお電話でお問い合わせいただく場合は、
026-272-4330またレッスン代金の振り込み先は以下の通りです。申し訳ありませんが、振り込み料金
をご負担いただきたくお願い申し上げます。入会金のようなものはありません。(電話でレッスン用)
・郵便貯金総合通帳
記号 11180
番号 21641261
名前 根石吉久午前中から午後にかけて寝ております。また事情あり、午後3時過ぎには自宅を留守に
することが多いので、午後2時から3時頃にお電話いただけるなら、ほとんど確実にヒッ
トいたします。以上です。不明の点はお問い合わせ下さい。
---------------------------------------------
根石吉久
Email ax9y-nis@asahi-net.or.jp
URL http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis
C phone 090(3316)4180
---------------------------------------------
俺的にも英語は錆付かせたくないし、
錆を感して相当焦ってるし、でもいつかは意思疎通の手段として使えるレベルにしたいし、
唯其れだけ…
現場ですが、
残念ながらあの前を軽トラで通っただけです。
しかも俺が運転してたから、
全部が全部見れたわけでもないし、
でもタダタダ、
『
きれいになったなぁ、』
と思って、
中も見たいものです。
次の機会にでも立ち寄るかも!?
とにかく英語を錆び付かせるな。
錆び付かせたら、俺が頭にくる。
「いつかは」なんて思って錆を進行させていたら、「いつかは」使い物にならなくなるまで錆び
る。それが日本という言語の磁場だ。やるんなら、今やれ。
大学生の身分のうちにやるべし。勤めに出てからの方がはるかにずっと不利だ。
大学にいる間に新しい力を付け加えるのと、錆を進行させてしまうのとでは、その後は大違いだ。
今やらないなら、「いつかは」なんて時は来ないと考えた方がいいのではないのか。
一人でやるんなら一人でやるのでいいから、今やるべし。
19世紀にトロイの遺跡を発掘したドイツ人貿易商ハインリッヒ・シュリーマンは外国語習得の天才だったとしても知られています。英語を始めとして、最終的には18の言語を使えるようになったそうです。彼の自伝の翻訳がいくつもの出版社から出ていますが、その中に彼の外国語学習法のエッセンスを述べた部分があります。そこを岩波文庫の「古代への情熱」から引用します。「この簡単な方法とはまず次のことにある。非常に多く音読すること、決して翻訳しないこと、毎日一時間をあてること、つねに興味ある対象について作文を書くこと、これを教師の指導によって訂正すること、前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦することである」
私は、シュリーマンの外国語習得法に興味を持って、入手できた、シュリーマンの自伝の四冊の和訳本を読み比べていたところ、不可解なことに気づき、1年くらい前に出版社に問い合わせたことがあるのですが、その謎はまだ完全には解けていません。そのことについてお話します。
四冊はいずれもドイツ語で書かれた同じ本を邦訳したものです。「岩波文庫」「新潮文庫」「角川文庫」「小学館」から出ています。題はみんな「古代への情熱」となっていたと思います。上記の、シュリーマンの言語学習法の最初の三点は
1.大量の音読
2.翻訳をしない
3.毎日1時間をあてる
となっていますが、このうち、2と3の部分が四冊の訳本の記述が一致しないのです。どの会社の本にどう書いてあるかは正確には覚えていませんが、2については
2.決して翻訳をしない
2.ちょっとした翻訳をする
2.短文の訳をする
と、まるで正反対のことが書いてあります。3は
3.毎日1時間をあてる
3.1日に1時間は勉強する
3.毎日授業を受ける
と書いてあるものに分かれます。これはいったいどういうことなのでしょうか。この部分はシュリーマンの外国語学習法の根幹の部分であり、英語学習法の本の中に引用されていることもあります。例えば、井上一馬氏の「英語できますか」(新潮文庫)のp.176に角川文庫の訳文が載っていますし、國弘正雄氏の「英語の話し方」(たちばな出版)のp.130に岩波文庫からの引用があります。個人のサイトでもこの学習法を話題にしているものがあります。http://www.nagano.com/journal/miura/980814.html
(余談ですが、このページの記事はなかなか面白かったです)そんなに注目されるこの一節の翻訳がなぜこんなに違っているのでしょうか。それを知りたくて、私は四つの出版社に問い合わせたところ、岩波文庫からだけは2回も手紙を出したのに無視されましたが、他の三社からは翻訳者の返事をいただきました。
そのおかげで面白いことがわかりました。2の点、すなわち「訳すか、訳さないか」というまるで正反対のことになったのは、ドイツ語の原書の中の一つの単語が原因でした。
「keine か kleine か、それが問題だ!」
私はドイツ語がわかりませんが、keineは「無の」という意味で、kleineは「小さい」という意味らしいのです。返事をくれた3人の翻訳者たちが使った原書には kleine 〜〜(〜〜は「翻訳」という意味のドイツ語単語)と書いてあったので、「小さい翻訳→ちょっとした翻訳/短文を訳す」となったわけです。ところが、小学館の本の訳者は「小さい翻訳をする」ではシュリーマンが他のところで述べている学習法と矛盾するから、英語版(後述)を参考にして、kleineはkeineの誤植であると判断し、「訳をしない」と訳したと回答をくれました。本当に誤植なのかどうかは私にはわかりません。しかし、この謎を解くために私も古本でこの本の原書の英語版を入手して調べてみました。岩波文庫の注釈の中で訳者はシュリーマン自身が同じ本をドイツ語でも英語でも書いたと述べ、この英語版を参照したことを明らかにしています。しかし、今回返事をもらった訳者たちの中には、この英語版はシュリーマンが書いたドイツ語版をだれか別の人が英訳した翻訳本だと言っている人もいて、この点の真偽も私にはわかりません。ただ、この英語版はシュリーマンが著者であることしか出ておらず、訳本であるということをうかがわせるような記述(訳者名など)が一切ありません。
ではこの本には何と書いてあったのでしょうか。以下、引用します。Necessity taught me a method which greatly facilitates the study of a language. This method consists in reading a great deal aloud, without making a translation, taking a lesson every day, constantly writing essays upon subjects of interest, correcting these under the supervision of a teacher, learning them by heart, and repeating in the next lesson what was corrected on the previous day.
いかがでしょう。「翻訳をせずに大量に音読をする」と「毎日(1)授業を受ける」となっていますね。この英語版に従うとシュリーマンの言う理想的外国語学習法は
1翻訳をしない大量の音読をする。
2常に興味のあることについて作文を書く。
3毎日授業を受ける。その際に教師にその作文を添削してもらい、
それを翌日の授業で暗誦する。となりませんでしょうか。
なお、英語版の taking a lesson every day が「1時間をあてる・1時間勉強する・授業を受ける」と分かれた原因は、翻訳者の回答によって、ドイツ語版の
eine Stunde nimmt
の解釈の相違だったとわかりましたが、ドイツ語がわからない私にはどちらが正しいのか判断のしようがありません。しかし、英語版の taking a lesson には複数の解釈は不可能ですね。
残る謎は「英語版はだれが書いたか」「kleine は keine の誤植か。誤植であるとすれば、いつ生じた誤植か(ドイツ語版は1961年までに9版を数えているそうです)。もしかしたら初版から kleineとなっていたのかも」「eine Stunde nimmtの意味は何か」です。
私はシュリーマンの学習法(reading a great deal aloud, without making a translation, taking a lesson every day, constantly writing essays upon subjects of interest, correcting these under the supervision of a teacher, learning them by heart, and repeating in the next lesson what was corrected on the previous day)は大変よい方法だと思いますが、國弘氏が「英語の話し方」のp.130〜p.137で詳しく述べているように、日本人が英語を学習する際には文法の学習は絶対に必要だと思います。また、http://www.nagano.com/journal/miura/980814.htmlで三浦氏が言うように、音声の指導(=音作りの指導)は絶対に欠かせないものだと信じています。ドイツ人であり、オランダで働いていたシュリーマンにとって英語の文法と発音は非常に習得しやすかったはずですが、日本人にとっては事情が違います。私は、学校での指導で、文法と音作りというこの二点を補いながら、生徒たちに、意味のわかった英文の大量の音読と暗唱をさせています。さらに、週に4回英語日記(20語以上の英文)を提出させ、できるだけ毎回添削し(ようと努力し)ています。ただし、今のところ日記の暗記はさせていません。しかし、将来は毎日の分というわけにはいかないでしょうが、ある程度は日記文の暗記も強いようかと計画しているところです。
私はシュリーマンの学習法(reading a great deal aloud, without making a translation, taking a lesson every day, constantly writing essays upon subjects of interest, correcting these under the supervision of a teacher, learning them by heart, and repeating in the next lesson what was corrected on the previous day)は大変よい方法だと思いますが、國弘氏が「英語の話し方」のp.130〜p.137で詳しく述べているように、日本人が英語を学習する際には文法の学習は絶対に必要だと思います。また、
http://www.nagano.com/journal/miura/980814.html
で三浦氏が言うように、音声の指導(=音作りの指導)は絶対に欠かせないものだと信じています。ドイツ人であり、オランダで働いていたシュリーマンにとって英語の文法と発音は非常に習得しやすかったはずですが、日本人にとっては事情が違います。私は、学校での指導で、文法と音作りというこの二点を補いながら、生徒たちに、意味のわかった英文の大量の音読と暗唱をさせています。さらに、週に4回英語日記(20語以上の英文)を提出させ、できるだけ毎回添削し(ようと努力し)ています。ただし、今のところ日記の暗記はさせていません。しかし、将来は毎日の分というわけにはいかないでしょうが、ある程度は日記文の暗記も強いようかと計画しているところです。
ありがとうございます。
シュリーマンの方法は、まったく的をついたものだと改めて思いました。
「翻訳はしない」というのが、シュリーマンがどう書いていたかが不明であっても、正解だと思い
ました。まだ、過去ログをホームページに掲載できずにいます。
申し訳ありません。
今日は、昔の塾生が遊びにきたので、外に飲みに出て、今帰宅したところです。少し酔いをさましてから、過去ログに着手しようかと思いますが、寝てしまったらごかんべんを。
みません。
前の記事の「みません」はゴミです。
読み過ごしていただくよう、皆様にお願いいたします。
Fさんからお電話いただき、「電話でレッスン」のお仲間が増えました。
レッスンを始められて少し進展してから、この掲示板にもお誘いする予定です。
今日、Fさんに向けたメールを転写しておきます。
こんな調子で、「電話でレッスン」の申し込みからテキスト選択までが進むという見本です。
なお、Fさんのレッスンをお受けすることで、根石吉久の空き枠はひとまず埋まりました。
新居に移り、落ち着いて、来春あたり、塾の募集をにらみ合わせ、来春以降の「電話でレッスン」
の空き枠を考える予定です。
妻の空き枠は二つあります。
興味をお持ちの方は、この掲示板でお問い合わせ下さい。
以下、Fさんへのメールです。
----------------------------------------------------
確認のため、12月1日の手続きを書いておきます。12月1日夜10時50分、こちらから電話をかけ、ベルを数回鳴らして、いったん
電話を切りますので、そちらから026−272−4330
にお電話下さい。
では。
何かありましたら、またご連絡ください。
お宅の塾で、「音づくり」をやられるのに、私から受けておられるレッスンがどんな具合に機能
しているのかのご報告をお願いします。