お返事が遅くなりました。>根石さん これは 二通りを意味しています。
まず 日本人講師の方が細かい間違いを訂正する、 外人は いちいち直すのが面倒なのか Good!の一言で かたづけてしまう人が割と多い。まずは コミュニケーション 話そうとする姿勢が第一だと。
間違うことを嫌う日本人には 恐れずに話すことも確かに必用ですが これで いつまでたっても片言英語 ということを助長してしまうこともいなめませんいわゆる英会話学校での講師たちのことをおっしゃっているのだと読みました。英会話学校にせよ、一般の公教育の学校にせよ、英語の扱いはほとんどの場合で間違っています。「身体化」の過程をすっとばしているものがほとんどだからです。
この間違いの巨大さに比するなら、生徒の英語の語法の間違いなどは小さなものに思われてなりません。日本人がやろうが、外人講師がやろうが、日本人の生徒の間違いを正すことで、日本人の生徒の間違いが直るとは思えないのです。ひとつ直っても、またすぐに似たような間違いを再生産するのが、日本人の thinking way だからです。
これらの間違い訂正は頭脳的な過程ですが、その前段階として「身体化」の過程があるかどうかが眼目ではないでしょうか。「身体化」の過程で自然に直ってしまう間違いの数は非常に多いと思いますし、「身体化」を経て、頭脳的に間違いを直すのであれば、その間違いへの「気づき」は新鮮なものになります。生徒の興味の知的レベルが違っているはずです。間違い訂正が不要だと言っているのではありません。それは必要です。しかし、それよりもはるかに必要なのは、「身体化」を先立てること。つまり、順序です。
順序だてるどころか、「身体化」の過程そのものがまるごとすっとばされているのが日本の英語の授業の現状です。欠如しているものは、「身体化」の一語で言えると思います。
コミュニケーションを信奉しても話せるようになるとはとうてい思えません。そんなものは信仰の問題であり、語学の問題ではない。
>第二の意味は 親御 生徒ともに 外人講師には甘く 日本人には成果をきびしく求めます。通って上達しないと 「やっぱり外国人講師じゃないから うまくならないのかしら」っていう あれです。まったくもう自分の努力をたなにあげて よくいってくれます
ほんとに、これに関しては絶望的です。馬鹿は死ななければなおらないと言いますから、しょうがありません。馬鹿は無駄な金をふんだくられて死んでいくようになっているのでしょうか。
英会話学校の繁盛とは、日本人に馬鹿が多いということを証明しているだけのものです。
私もつくづく、疲れはてました。今後はなるべく馬鹿は相手にしないでやっていきたいと思っています。
> 少なくとも音読や筆写の課題をきちんとしていれば 確実に上達するはずなのに。まさに、「音読」と「筆写」が、「身体化」の具体的なメソッドだと思います。日本語の磁場の中で作る英語は、どこまで行っても「もどき」なのだということを踏まえた方法が、「音読」と「筆写」です。
「もどき」の過程を存分にやることです。その後に、「もどき」としての英語を英語の磁場に置くならば、それは英語として息をし始めます。日本にいて英語をやるということは、どれだけの質の「もどき」を作れるかに尽きていると思います。基礎的な身体化の過程をすっとばして、「リピーティング」や「シャドウイング」を薦めるような方法には私は断固反対しようと思っています。これを薦めるような人がバイリンガルであったり、アメリカ帰りであったり、ESSの部長なんかであったりして、後光がさしているように人は思うのかもしれませんが、イメージの根付きを無視したやり方です。これは、基礎的な身体化がすでに実現している人がやるにはよろしいでしょうが、それを欠いてやったら、人間がコピーマシンのようなものになります。語学をよくやった人間には味のないような人が多いですが、基礎段階で「リピーティング」や「シャドウイング」などをやると、えてしてそういう味のしない人間ができるでしょう。
そのあたりのことを、私は「語学的主体」という語で考えようと思っています。そして、「語学的主体」を形成する基礎的な身体化の練習は、「音読」と「筆写」だと思っています。このたどたどしさが大事なのです。このたどたどしいスピードが、イメージが共に動くことを可能にします。イメージが共に動く状態のままに高速化することはいずれ必要になりますが、最初からネイティヴの高速をコピーせよというような方法は間違ったものだと思っています。最初から、「リピーティング」や「シャドウイング」をやるのは、日本人には実に危険なものだと思っています。
音法を何ひとつ持たず、「リピーティング」などやらせた場合でも、小学生などは非常に上手に音をコピーすることがあります。この場合、磁場を欠いていることがほとんどですから、イメージが音とともに動くということがありません。また、シンタックスの内在化は、イメージが動かないと実現されませんから、音のコピーというあだ花が咲くだけに終わるだろうと思います。國弘式の「繰り返し」の回数というものが、シンタックスの内在化には不可欠ですが、このあたりのことが単純で利口な人たちにはわからないのです。
>SVOの内在化 国広さんの本に 誰が どうした 何を さえ わかれば英語はわかるとありましたね。
それを意識しつつ 中学の教科書のような 系統だてて文法がわかるものを 音読または 素読みする 無意識か 内在化するまで。 いろんな本に浮気せず。これが できてから はじめて 多読 多リスニングが役に立つ。まったくこの通りだと思います。順序というものが非常に大切だと思います。