音ができていないと多聴、多読、音読の全てに重大なる支障が生じます。というところを読んで全くその通りだと思いました。1時間の授業にどれだけ音読の時間がとれるのか、15分から20分もとれるとは驚きです。しかし、それが一番の近道であることを先生自身が体験なさっているから、実際にできるのだと思います。あと、授業で説明と音読をして、家でどれだけ生徒が練習するかだと思います。練習シートなるものを例えばつくってできないかと考えています。生徒自身が自己管理の練習にもなり、それぞれのレベルや興味において、れんしゅうの質や量を調節できると思います。あとは教師と生徒のあいだの信頼関係に基づく自己評価を学校内のさまざまな制限の中で、どれだけ実現できるかで音読の成果はあるていど計れるのではないかと今、エリオットさんの原稿を読みながら考えているところです。
ST 様
Eliot 様Eliot>音ができていないと多聴、多読、音読の全てに重大なる支障が生じます。
I agree.
ですが、ST さんの「(音読の時間が)15分から20分もとれるとは驚きです」は私には驚きでした。
たった15分から20分。絶対に必要な時間が15分から20分。それさえもとれないとは、テストが授業を律する公立の学校に通う生徒の惨めな学校英語体験は続くのでしょう。
本当に学校というところは、音読のための「場」にはなっていないのだと思います。
Eliot さんの授業も、語学の本質を把握されているからできるので、多くの先生はテストに律せられているだけでしょう。