なる程日本語の素読とは良い考えですね。
うちの子にもやらせてみようかな。
ところで寺子屋で行われていた「素読」とは
「意味の説明をせずにひたすら何度も音読をする」
ということなのでしょうか。
実は私は辞書の説明ではそこら辺が分からなくてwebをさまよっていたら
根石さんのホームページにたどりついたのです。私のホームページが引っ越しましたのでお知らせします。
http://www01.u-page.so-net.ne.jp/ga2/miyoshi/
Duffy 様江戸時代の素読というのは、想像するしかありません。
絶対に解釈を施さなかったかどうか、それは塾によっていろいろだったと思うのですが、眼目は、解釈をするならするで、その前に必ず「音読と しての読みの完成形を作る」ということだと思います。
素読自体は、解釈なしで成立します。
そして、素読(音読としての読みの完成形)ができたら、後は百家争鳴でよろしいのではないでしょうか。それが文化の活力だと思います。
この掲示板も、百家争鳴めいてきて、あたしゃ、へとへと。http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis
根石様あのあとwebで素読について書いてあるページを見つけました。
ここに書いてある長島先生というのはとても骨太で根石さんを
彷彿とさせました。
早速小六ぐらい向けに書かれた今昔物語で次男坊に素読をやらせてみました。
自分も子供の時に(日本語の)素読をやってれば良かったのにと思います。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5868/new_page_18.htm
http://www2.famille.ne.jp/~sai-hsj/taikai/ha022kan.html
Duffy 様素読の効用を説くホームページ、一部読んできました。
まったくわが意を得たりという記事があります。
以下の論は、まったく私が方法の基本としているものと一致しています。・速読術などが重要視されるようになってきている。素読は、逆で遅読術である。
・素読しているうちに意味が身体で解かってきて、潜在意識に伝わり顕在意識に通じてくるのである。
私は生活の資を得る必要から、素読的方法を英語に適用してきましたが、素読そのものを復活させたいという願いは以前から持っておりま した。
確かに素読は潜在意識に働きかけます。
このことに関して、ネイティヴ言語と語学の言語を区別する際に、・ネイティヴ言語 = 無意識的に意識を作る
・語学の言語 = 意識的に無意識を作ると区別して考えたことがあります。
この方法が怖いのは、国家権力がイデオロギー注入に使った場合です。
非常に強力な方法なので、使い方次第ではとてつもなく危険な方法でもあるとも思っています。http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis