【10282】
【タイトル】維持すべきレベル
【 日時 】06/02/02 1:27
【 発言者 】根石吉久
先日、ミッフィーさんが修学旅行で生徒を連れてオーストラリアに行かれたとき、以前イギリスに短期留学されていたときより、英語が口から軽く出てくるよう
になっていて楽しかったという記事を書かれ、そのことについて、ミッフィーさんのレッスンの時、少しお話した。
ミッフィーさんの場合は、普段の授業の下準備などきちんとやられているので、そういう作業との相乗効果があるとは思うが、私の「電話でレッスン」が、日本
在住のままで英語が軽く口から出てくるようにする作用があることは、以前にOさんが言って下さったことでもあった。
Oさんは大手電機会社に勤めておられ、ほとんど毎月、海外への出張がある方である。Oさんは現在の会社に移られる前は富士通に勤めておられた。富士通と
ファナックが資本系列が同じためだと思うが、Oさんは富士通社員だった頃は、遠藤尚雄さんの社内英語教室に参加されていたそうである。今、階下に行って、
遠藤さんの「英語は独学に限る」という本を持ってきたが、肩書きをここに書き写してみる。
元ファナック常務取締役
元FANUC USA, FANUC EUROPE社長
GE Fanuc Automation Europe社長
国際教育研究所長
表紙の売り文句は、「独学英語でロボットを世界に売った男の英語独習術」である。
私は断言するが、この人は英語のしゃべりでは、絶対に私よりはるかに自在に駆使する人である。こういう種類の肩書きの人はみんなそうである。日本在住のま
ま「ごつごつ英語でいいんだ」「ごつごつとしゃべるべきだ」などと言ってきた私などはまったく足下にも及ばないことは明白なのである。
しかし、もう一つ断言したくなるのは、こういう人より私の方が、人に英語をしゃべるようにさせるのはうまいということである。しゃべりで自分が英語を駆使
できることは、そのまま人に英語をしゃべるようにさせる能力とはまるで別のものである。もし、それが同じものであれば、英語ネイティヴは一人残らず、日本
人に英語をしゃべらせるようにするための一流の技術を持っていることになるが、そんな馬鹿なことはない。現に、英語ネイティヴのいる英会話学校に通って、
何十万もの金を使って、20か30程度の決まり文句だけ言えるようになっただけの人は私の回りにごろごろいるのである。決まり文句一個が一万円も二万円も
するのですか、と半分皮肉で私は言ったことがある。
自分が英語がしゃべれることと、人に英語をしゃべるようにさせる力とは「まったく」種類が別なのである。自分が自在に英語を駆使できる人のほとんどすべて
が、「磁場」の焼き付けによって、シンタックスを内部に焼いた人であって、国弘正雄にせよ遠藤尚雄にせよ、自分が日本国内にいてやったことだけは公表する
が、「磁場」にSVOシンタックスを焼き付けられたことについてはほとんど何も言わないのである。これは、語学論としてどちらも二流であることを意味して
いる。
と、ここまでが前置きであって、私のレッスンを受けて下さるようになって一年ほど経過した頃、Oさんは、「なんだか不思議なんですが、このごろは出張に出
ても、向こうに着いた当日から仕事ができるようになりました。遠藤さんの教室に行っていた頃は、出張に出て、頭が英語の回路に切り替わるのに2,3日か
かっていたんですがね・・・」と私に言われた。Oさんは、ベトナムに滞在し、英語で仕事をされていた期間もあるから、英語の思考回路は体の中にもっておら
れるのだが、それでも普段日本で日本語で暮らしていると、英語の思考回路に頭が切り替わるのに、英語の磁場に行っても2,3日かかっていたというのであ
る。それが、私の「電話でレッスン」を受け始めて一年ほどで、出張先で初日から英語が使えるようになったというのである。
Oさんは遠藤さんの教室で力をつけられ、私のレッスンで花を開かせたということだろうか。不遜に聞こえようと、私はそうは思わないのである。Oさんが遠藤
さんの教室に通い続けたとしたら、出張先で頭が英語の回路に切り替わるのに2,3日かかるという事情は続いていただろうと思う。言っては申し訳ないが、遠
藤さんは、自分では自在に英語を駆使するが、人に英語を駆使させる力においては二流なのである。人に英語を駆使させる力とは、そのまま語学論の力なのであ
り、国弘正雄にせよ遠藤さんにせよ、語学論として見るならまったく二流のしろものでしかない。そして、これらの二流のものが、これまでの日本ではせめても
の最上のものであった。
Oさんに起こったのと同じことが、ミッフィーさんの中にも起こっていたのを、オーストラリアへの修学旅行の記事が証明してくれたのだと私は考えている。
このことを日本語を日常言語としながら、「英語を維持する」と言ってきた。「英語を維持する」ということの実質は、磁場に渡ればただちに充電が起こり、放
電が起こるだけの性能の「からっぽの電池」を作り続けるということでもある。「からっぽ」とは、文法的に理解されていても、意味がわかっていても、「当事
者性」がからっぽであるということである。「磁場」に渡れば、ただちに充電・放電が起こる状態を「維持する」、つまり「起動可能状態」を維持するというこ
とが、私が言っている「維持する」のレベルである。「充電・放電」が起こるとは、「当事者性」を担うということと同義にもなる。英語という言語の当事者と
なって使い続ければ、そのことによって、シンタックスが内部に焼き付けられるのである。
「磁場帰り」の人の「ぺらぺら」とは、このシンタックスの焼き付けがもたらすものであり、それはよく見てもらえばはっきりするが、「磁場」の力によるもの
なのである。ご当人の語学の成果なんかではない。ご当人の語学は、「焼き付け」が起こる状態を準備しただけである。国弘の「只管朗読」だって、準備の方法
としてきちんと位置づけなければならないのだが、国弘ご当人はそれをやっていない。「磁場」のシンタックス焼き付けは、国弘の著作ではくらがりになってい
る。
いずれにせよ、私の生徒さんたちの中に、「起動可能状態」の英語が作られているのは、私の語学論のせいである。私の英語駆使能力や英語の知識量なんかのせ
いでは絶対にない。