「語彙のもつイメージが学習者の心の中にクオリア(質感)として沸き立たない」という言い方は「巣くう」というおかしな使い方に較べればよっぽどましであるし、ものの言い方としていい。しかし、私はどうしても聞きたい。学校の教室で、英語教員の免許一枚持っているだけの者が、どうすれば語のクオリアを生徒の中に沸き立たせることができるのでしょうかね。それは何をどうやっても無理なことではないでしょうかね。それは学習者本人にまかせていいことではないでしょうかね。学校の教室で、英語科教員がそれができるなどと思うことがとてつもなく不遜なことではないでしょうかね。
一に音読、二に音読、三四も音読、五も音読、と言っていいような柴田武史さんの授業がもっともまともなものであり、それ以後、語をどうイメージするかなど、英語科教員に手のつけられるものではない。そこのところに手をつけられるということは、動いてやまないイメージが可視的なものになることであり、私が常日頃どれだけスケベなことを考えているか、その赤裸々な中身が映像として娑婆に実況中継で公開されることが可能になることなのである。まずい! あるいは、また別に、私がどれほど哲学的に考えているかが娑婆に実況中継で公開されることが可能になることなのである。それはない。人が思うことは、人の思いとして全世界に向けて閉じている。キムジョンイルやフセインが殺されていいのであれば、アメリカの大統領のブッシュも殺されていいと思うことは、思うだけなら思いとして私の中に閉じている。
思いというものは閉じているものなのである。だから、イメージというものも閉じている。閉じたままに、しかし、イメージが核を備えるようになれば、濃縮され、一つの強い点になるならば、それはいつでも全世界に開かれたものになるというダイナミクスを、学校の教室なんかが実現するはずがない。何が「豊かな文脈」か。何が「多読」か。何が「クロスワードパズル」か。それがクオリアを確保する?冗談を言っているのか。逃げを打っているだけだろう。
西本さんが「語彙の学習」の問題点としてあげた二つのポイントのうち、市販の単語帳による一対一対応の丸暗記批判ではなく、もうひとつの、
「教師がモデルとして発音しないので、学習者が声に出して正しい発音ができない」
というこちらの方が眼目なのである。イメージするかしないかは、生徒にまかせればいい。イメージするやつはするし、しないやつはしない。それはまかせるしかない。イメージの基礎になるもの(音)だけを、文を単位としてきちんと作る(イントネーション、リズムも含めて)なら、英語科教員の娑婆(生徒)に対する務めの大半は果たしたと考えていいくらいのものだ。しかし、現在の学校の英語の授業はそれを欠いている。
私どもが主張してきた「音づくり」だけは、客観的な物質として成立する。イメージの浮動性とはまるで違って、「音」はやろうと思えば客観的な物質として成立させることができるものなのだ。体内の物質(イメージ)とは違って、「音」は体外に響きますから。客観的な共有可能な物質ですからね
西本さんには「音づくり」の観点が抜けている。もちろん、「磁場」の観点など期待しようもない。
従って、西本さんは肝心なもの(音)の方には何ひとつとしてコメントしていない。逃げを打っているのである。中学・高校の教員に向けて偉そうにものをいいながら、ご本人は論としては逃げを打っただけのものを書いたのである。犯罪じゃないか。
だって、西本さんは、何をどうすれば、クオリアが生徒の心中に生じるかなど何も書いていないに等しいのだ。まあ、しかし、そんなものは書きようがない。あえて言えば、「生徒が自分で自分に言い聞かせる」という呪術しかないのだ。的が外れたような段階(日本語の訳語との一対一対応)から、英単語のイメージの核をじかに鷲掴みする段階に至るまでの実質は、生徒が自分でやるにまかせるしかない。それは呪術だ、やれ、ということができるだけだ。「クロスワードパズル」なんぞ持ち出して、学校の教室なんかという場でそれができるかのように書くことがすでに錯誤でしかない。というか、論が漫画でしかない。なにが「クロスワードパズル」か。そんなもんでクオリアが沸き立つと思っているのか。馬鹿らしいこと限りないわ、京都教育大学助教授よ。
(この後、西本さんは文法の学習などいろいろ書いておられますので、明日以降対応します。明日も酒の勢いを借りて、こんな調子で勢いのいいことが書けますかどうかは、明日以降のおなぐさみです。近頃、くたびれてしょうがありません。ほっとけばいいものを、私が相手にしてもらえないにもかかわらず、私が相手にするからかもしれません)
>「概念」と「イメージ」というものは、ダイコトミーにしていいものなのだ。
自分の思い(subjectとしての)
と
単語の持つイメージ(objectとしての)
ということで、
ダイコトミー(dichotomy:二項対立)ということですか。
>思いというものは閉じているものなのである。だから、イメージというものも閉じている。
閉じているもの(自分が考えること)
と
閉じているもの(単語が持つイメージ)
が出会う、ことばと対峙することは、人と対峙することと似ていますか。
@文字認識⇒A音韻符号化⇒B理解
Aの音韻符号化の訓練の量質転化点を学習者個人が「気づく」ようにするための「シート」があればよい。
>イメージするかしないかは、生徒にまかせればいい。イメージするやつはするし、しないやつはしない。それはまかせるしかない。
根石さん、多読は生徒がイメージする機会を奪いますか。
>イメージの基礎になるもの(音)だけを、文を単位としてきちんと作る(イントネーション、リズムも含めて)なら、英語科教員の娑婆(生徒)に対する務めの大半は果たしたと考えていいくらいのものだ。しかし、現在の学校の英語の授業はそれを欠いている。
なぜ、「欠いている」のでしょうか。教員養成課程ですか。
>私どもが主張してきた「音づくり」だけは、客観的な物質として成立する。イメージの浮動性とはまるで違って、「音」はやろうと思えば客観的な物質として成立させることができるものなのだ。体内の物質(イメージ)とは違って、「音」は体外に響きますから。客観的な共有可能な物質ですからね
難しいことかもしれませんが、音の分析はどの程度発達してきているのでしょうか。
頭が興奮して、実務が遅れました。申しわけありません。
21日の分を28日にやること承知しました。
「素読のすすめ」安達忠夫著・カナリア書房
本屋で偶然見かけたので衝動買いしてしまいました。
表紙見返しにこんなことが引用されていました。
「素読は有機農法における土づくりとおなじで、即効性を
求めない。意味や内容など理知的な面については説明しな
いので、ことばの響きやリズムといった感性的な面だけが、
時間をかけてじっくり耕され、根がしっかり育つ。(中略)
表面的な意味をせっかちに求めない。『わかった』つもり
にならない」
音読ではなく素読と言っているところが目にとまった点
です。
10年前に絶版になって、最近再版されたそうです。
>>イメージするかしないかは、生徒にまかせればいい。イメージするやつはするし、しないやつはしない。それはまかせるしかない。
>根石さん、多読は生徒がイメージする機会を奪いますか。
なんで多読が生徒からイメージする機会を奪うと考えるのですか。
どういう質問かよくわかりません。
>>イメージの基礎になるもの(音)だけを、文を単位としてきちんと作る(イントネーション、リズムも含めて)なら、英語科教員の娑婆(生徒)に対する務めの大半は果たしたと考えていいくらいのものだ。しかし、現在の学校の英語の授業はそれを欠いている。
>なぜ、「欠いている」のでしょうか。教員養成課程ですか。
私はしがない個人塾をやってきただけの者ですが、sbさんは現職の学校の先生なんですから、回りをよく見て、自分の胸に手をあててみれば、私なんかよりよくおわかりになることと思います。まあ、しかし、私なりの考えを書いておきます。すでに何度も書いたものですが、めんどうくさがらないことにします。
教員養成課程の中の特に「英語音声学」という単位が駄目なのです。輸入ものをそのまま日本で使えるものとしてやってきたのですが、日本語でいったん口の動きが定型化された生徒に対してはまるで使い物にならない。日本語の音を問題にせず、英語に即して、本来の音だけを記述するような「英語音声学」は、学校の教室で生徒の音を変える場合には訳に立たない。生徒の音を「変える」のですから、変えるべき生徒の音は日本語の音に根ざしているのです。だから、日本語の音や日本語の音の生理を排除した「英語音声学」などただのでくのぼうにすぎません。日本で語学に役立てるものとするのであれば、「英語音声学」は、極端に言えば「日本語音変化法」でなければならない。それをずっと無視して、教員養成課程というものはおつに澄ましこんでやってきたのです。教員養成課程の「英語音声学」は膨大な無駄です。
だから、大学の責任が大きい。それを放置してきた文部省の責任も、管理責任として大きい。しかし、それだけではない。現場の先生たちが、「にせの標準形」の呪縛から抜け出せないというところに、末端で悲惨を作り出す責任がある。悲惨の再生産の責任は、現場の先生たちにもあるのです。「にせの標準形」をやっている限り、可もなく不可もないものとして許されてきた爛れきった英語教育界というものを批判する先生がめったにいない。つまりは、先生たちの保身が先に立っているのです。これじゃ駄目なんだと承知しながら、その駄目な「にせの標準形」を繰り返す先生が多数だったのです。
しかし、もっと原理に即して言うなら、学校が「音づくり」ができなかったのは、日本人としてなら「この程度」に英語の音が作れればひとまずは大丈夫という「基準」がなかったからです。また、日本人の口の筋肉を英語用に柔らかくし、バネが備わった状態にするための方法が編み出されて来なかったからです。
「発音10のポイント」と「あいうえおフォニックス」は、「基準」を作ろうとしたものです。この「基準」を構成する項目は、少なければ少ないほどいいのだが、必要な質を確保するために、すでに発表した形になっています。
また、日本人の口の筋肉を英語用に柔らかくし、バネを備えるための方法としては、先達・國弘正雄の「只管朗読」がありますが、「音づくり」のためには、一文を繰り返す方がいいので、口の筋肉を作っていく(変えていく)方法として、「回転読み(独学用)」と「技法グラウンド(レッスン用)」を開発しました。「回転読み」と「技法グラウンド」を修得する過程で、「発音10のポイント」と「あいうえおフォニックス」を体得すれば、音に関してなら絶対に通用するものになります。
暫定的なものながら、すでに「基準」は存在しています。
それが存在していることが何を意味するのかに対して、現場の先生たちからの反応は非常に鈍い。私の「電話でレッスン」を受けてくださっている英語の先生たちがいますが、この方たちがわずかに目をさましているだけで、ニッポン中の多くの英語の先生は「にせの標準形」の泥の中にまどろんでいる。そんなふうにまどろんでいられない時が来ているにもかかわらず、です。
以前sbさんが言っておられた「免許更新制」に私は賛成しようと思います。「音づくり」ができていない先生は、免許を剥奪すべきです。しかし、考えてみれば、免許を剥奪する権力の主体である文部省自体が「音づくり」のための「基準」を何一つ提示してきていないのですから、文部省が免許を剥奪する資格が問われて当然です。というか、文部省にそんな資格がないことはわかりきったことです。資格がないものが、資格を与えてきたのですから、資格も仕方もない。アホな風景です。
私は一人で吠えてきたような気がします。全国の英語科教員のおそらく8割9割の免許というものは、価値のない紙っ切れにすぎないのだ、と。
「にせの標準形」は、文部省・大学・現場の教師たちの三位一体の「にせ」信仰によって作られ、再生産されてきました。
英語教育の問題点を指摘するだけなら、これまでにあらかたの問題点は指摘されてきました。しかし、日本人の体を元にした具体的な方法はほとんど提示されてきていません。わずかながら、「只管朗読」、「只管筆写」がありますが、これにも「音づくり」は欠落しています。
私はsbさんと初めてお会いした白樺湖畔のホテルでの、柴田さんの言葉を再び思い出しています。私立の学校なら、柴田さん以外にも私や柴田さんが言う意味での「音づくり(音作り)」をやっているところがあるのではないでしょうかと私がお聞きしたところ、柴田さんは、「ありません。私が知る限りでは、私の教室と根石さんの塾だけです」と言われたのでした。私は非常に驚いたことを覚えていますが、ここまで書いてきて、やはりそうなのかもしれないと思っているのです。
掲示板を掲げてすでに何年かたちますが、本格的に「音づくり」をやっているというところを私もいまだに知らないのです。私の生徒のうちの数人は英語の先生ですが、一人、ミッフィーさんが「音づくり」を手がけられているようです。また、柴田さんのお弟子さんも柴田さんと同じ学校で「音作り」をやられているようです。私の知る限り、日本での英語の「音づくり」はそれだけです。
素読舎がやってきた仕事を何か特殊なもののように遠巻きに見ている学校の英語の先生たちは、とてつもなく鈍いのだと思います。「にせの標準形」の呪縛から抜けられないためです。
学校がやってきたものは「にせもの」なのだともうはっきりと言わなければならないでしょう。文部省・大学・現場の教師たちの三位一体の「にせ」信仰の息の根をとめることを真剣に考えるべき時が来ていると思われます。
>>私どもが主張してきた「音づくり」だけは、客観的な物質として成立する。イメージの浮動性とはまるで違って、「音」はやろうと思えば客観的な物質として成立させることができるものなのだ。体内の物質(イメージ)とは違って、「音」は体外に響きますから。客観的な共有可能な物質ですからね。
>難しいことかもしれませんが、音の分析はどの程度発達してきているのでしょうか。
どんな質問なのか、よく主旨がわかりません。
sbさんからは、他にも質問を受けていたように思いますが、後日にさせて下さい。
音作りと文法は、同様に大切ですが、この文法も
外人がつくったものをベースにしているのであれば、
やはり、にせの文法になるとおもわれる。
現在の学校英文法は、用語の日本語翻訳が誤解を招きやすい。
受身、受動態、仮定法、仮定法過去、現在進行形、分詞構文、関係代名詞
など、漢字からイメージすると本当にわからない。
例)
The book is interesting.
ついinterestingに、進行のイメージを浮かべてしまう恐れがある。
be+過去分詞がでてきたら、すぐ受身の訳を強制させているため
まったくわからなくなる。(Spring is gone.)
また、頻出語の解説もプアなものが多い。
would:willの過去形
could:canの過去形
内容には間違いないだろうが、wouldやcouldの
真のイメージとは、まったくの別物であろう。
ただ、最近は、文法形の本がどんどん出版されており
(TOEICテストの影響)、なかには、新しい視点の
文法書もでるようになった。(例。新情報、旧情報の
概念を導入して、英語の語並び法則を直観的に説明する)
1.音づくり
2.文法
3.膨大な時間の個人練習量
1と2とは、コーチが受け持ち
3は、生徒の責任。
1は、実用的に解決されているので、今後の残された課題は2となると思われる。
素読用に役たつ文法である。
素読といっても、何らかのイメージや思考がありながら声を出して
いるとおもわれる。
素読練習に感覚的になじむ文法がいずれ生まれてくるとおもう。
>声を出さないリーディングから始めるのは、先に音読やリスニングをやると、脳内では言語野の記号処理の方が重視され、連合野の統合処理(概念処理、意味処理)で英語の内容をイメージで理解するのが難しくなるからです。(HP「英会話の真理に目覚める…」より)
ことばのアプローチは、いろいろある。
>潜在意識を無意識に利用するためには、その前に、潜在意識を意識的に利用し、その方法に習熟し、潜在意識を無意識に利用出来るまで訓練する必要があります。
これは、自転車を運転出来ない人が乗り方を訓練する場合や、右利きの人が左手で箸を使う訓練をする場合を考えれば理解出来ると思います。
我々は、普段はほとんど意識をせずに、自転車を運転したり、箸を使ったりしているのです。
これは、無意識に潜在意識を利用していることを示しています。
そして、この事実は、英会話や数学を習得する場合も変らないのです。
(HP「英会話の真理に目覚める…」より)
久しぶりに書きます。現在公立高校で1年生に英語を教えています。1学期の当初からさんざん生徒に音読をさせ、英語はまず声を出すのが1番大事だと洗脳した結果、生徒もそれを当然と思い、11月になった今もなんのためらいもなく、教室中に響き渡るほどよく読んでいます。とは言え、100%音読オンリーではなく、文法の説明やら、内容把握やらもやっているので音読の占める割合は45分授業のうちの10〜13分程度ですが。発音については、(母音は)明るいア(診察室のアーン)と狭いア(さかさer:/さかさv)と一瞬般若しか言っていません。絶えず言わないと平べったく読むし、私もさぼって言わないこともありますが、でも言い続けていると、少し意識して読む生徒がでてきました。ときどき褒めちぎります。「音読は良い」というのは最近の英語教育の中でも幅をきかせてきているようです(というのは「英語教育○○大会」なんぞに出席したり、英語教育情報などから感じることですが…)。理論には強くないので、私は自分が感覚で得たことを書いてみます。私がリーディングを担当しているクラスは、2クラス、そのうち1つは毎年定員割れを起こす学科のクラスです。定員割れを起こすだけあって、成績は他のクラスと比較するとしょぼい。しかし音読させればよく声をだす。音読をするのがどうやら好きらしい。単語も続けて読むとリズムが生まれて、なんだか気持ちが良くなる、というのがわかるらしく、英語は好きだとかがんばるとか言ってくれている。もともと英語の成績の良い生徒は、英語の音そのものが好きな生徒が多いので、これもよく読む。学校の外に出た時、自力で勉強するための力をつけてやるのが学校の役目だと、柴田さんは1年前の講演で言っておられました。今、つくづくそうだなあと思います。
11月26日(金)20:00〜、お休みします。
よろしくお願いします。
>文法の説明やら、内容把握やらもやっているので音読の占める割合は45分授業のうちの10〜13分程度ですが。発音については、(母音は)明るいア(診察室のアーン)と狭いア(さかさer:/さかさv)と一瞬般若しか言っていません。
その後の授業の様子をお書きいただきうれしく思います。
レッスンの時は、やたら練習の時間を削るわけにはいかないので、授業の様子を聞きたくても聞けないので、ときどき様子を知らせてくださるとありがたく思います。
私は最初、「5分間音づくり」を提唱していたんですが、音読で10分以上も時間を使ってくださっており、音読がそのまま「音づくり」になっているのなら、私が提唱した時間の倍以上の時間を使ってくださっていることになります。
「音づくり」を続けていてくれるといいがとずっと思っておりましたが、やっていてくださるのを知ることができました。時間をたくさん割いてくれていることもですが、なによりも継続して下さっていることがうれしいことです。
3つの「ア系列」の音に関しては、絶えず言い続けて下さい。それをやる時に、「あいうえおフォニックス」を活用されることを希望しています。掲示板に発表してある最新版(村田君が管理する倉庫にも収めてくれてあるようです)をご自分のワープロなどにコピー、貼り付けをして、適当にレイアウトして学校の印刷機で刷って生徒に手渡して使っていただくなどしていただくといいと思います。希望を言わせていただくなら、「素読舎・根石吉久作成」というクレジットをどこかに添えておいていただきたく思います。
「あいうえおフォニックス」の的中率は抜群です。単語末尾の or (逆さe)に関する記述が抜けていて、どのあたりに位置づけするのがいいのか、その後迷い続けていますが、現在のものでもかなり使えるだろうと思っています。生徒に印刷したものを手渡しておけば、生徒の家での学習で使えるので、普段の授業の10分余の「音づくり」(音読)に反映してくるものがあるだろうと思っています。
>学校の外に出た時、自力で勉強するための力をつけてやるのが学校の役目だと、柴田さんは1年前の講演で言っておられました。今、つくづくそうだなあと思います。
同じことを私がこの掲示板で柴田さんに言ったことがあったように覚えています。
ミッフィーさんが私のレッスンを始めて下さるよりも、かなり前のことだったように記憶しています。Mさんという方が、過去ログを読んで、語学論として中身のあると判断されたものをピックアップする作業をして下さっていますが、Mさんに私のその発言をピックアップするように依頼しておきます。
「学校の外」というものを、卒業後という意味に限定する必要はないということを申し添えたいと思います。家で生徒が自分で勉強するのも「学校の外」での勉強です。そして、実際は「学校の外」で生徒は実質的な力の大部分を作っています。そこそこ使えるレベルの英語力でさえ、「学校の中」だけでとうてい作れるものではありません。
「学校の外」(卒業後・在学中の家での学習)で使えるものを、普段の授業で生徒に持たせてやるのが学校の役目なのですから、音読(音づくり)、その中でも特に3つの「ア系列」の区別こそ、眼目中の眼目です。眼目を外しておられないところが、さすがミッフィーさんだと思っています。
本に書いてあり、生徒が自分でやればわかるようなもの(文法の問題を解く・意味を考える)などは、生徒にまかせていい。そんなことだけで授業時間を使ってしまうことは、授業としては張りぼてなのだと思っています。解説つきの問題集を解けば、生徒は自分で文法を考えるようになるし、意味を考える場合も、生徒が自分でイメージするしかないのであって、「概念」と「イメージ」というダイコトミーを利用して言うなら、授業で与えることができるのは、「概念」に過ぎない。(「訳読」授業の「訳」は、概念です。決して「イメージ」ではありません。)「イメージ」するのは、生徒が自分で自分に対して力を行使しなければできることではありません。「イメージ」は、自分で自分に対して力を行使することで、意識に湧いたり浮かんだりするもので、外在的に外から与えられるようなものではない。それが「イメージ」の本質ですから、学校の授業は、まずは外在的に外科手術のように扱える「音づくり」を眼目とするのがいい。それが生徒が得るものがもっとも大きい授業です。
ミッフィーさんが、高校生になってからの生徒に対して敢然と「音づくり」をやってくださっていることは大きな光明です。高校生になってからの生徒を相手にするのは、不利と言えば不利です。本当は中学でまともにやらなければいけないことなのです。
柴田さんが、私立の学校で、中学一年生から「音作り」をされたこと、ミッフィーさんが、公立の高校で、音としての「にせの標準形」を放置せず、「音づくり」をなさっていること。この二つはともに私を勇気づけてくれます。
今後もご報告をお願いします。
承知しました。
日本語の英文法用語に問題があるという点はそうかもしれませんが、文法そのものといいます
か、学習者にとっての各文法事項のイメージというものは、文法用語を越えたものです。
イメージができている段階は、具体的な文法用語を必要としないレベルになっているというこ
とですから、文法事項のイメージは浮かんでも、文法用語は意識に浮かばなくなっているはずで
す。
文法用語そのものの出来のよさや悪さを云々するより、それが「概念」にとどまらず、「イメー
ジ」になりうるかどうかが眼目でしょう。多くの人が「概念」にとどまって、「イメージ」に至
らないというところに本当の問題があります。
私は文法の問題集を生徒に解かせることは賛成です。
しかし、そんなものは学校の授業の時間を使ってやるべきことではなく、生徒が自分勝手にで
やればいいことだとも考えています。問題を多く解くことで、文法は文法用語から抜けて「イメ
ージ」化する。外国語なんですから、一度はそこを通っておく必要があると考えています。
その場合、いい解説のついた問題集を選んでやることが、生徒に対する先生の義務だと思いま
す。それがちゃんとやれれば、責任の半分は果たせている。
生徒が自分でまともにやれば、文法用語は、現行のものの半分から3分の1くらいあれば間に
あってしまうだろうとも思っています。
どこのホームページからの引用かわかりませんし、時間がないので、そこへ読みに行くこともいたしませんが、引用してくださったものへの批判だけ書いておきます。
>>声を出さないリーディングから始めるのは、先に音読やリスニングをやると、脳内では言語野の記号処理の方が重視され、連合野の統合処理(概念処理、意味処理)で英語の内容をイメージで理解するのが難しくなるからです。(HP「英会話の真理に目覚める…」より)
この人が「声を出さないリーディング」と言っているものの実質がどういうものかわかりませんが、subvocalize
された「内心の音」のようなものを言っているのであれば、問題があります。
この方もすでに流通している概念(音読、リスニング、脳内、言語野、記号処理、連合野、統合処理)は使用しているが、観点として「音づくり」というものが欠けています。
根石吉久の言っていることを放置しておくと、こういう落とし穴に落ちてしまうのだという好例です。
具体的に考えてみます。音読やリスニングと組み合わせた「音づくり」がないまま、「声を出さないリーディングから」始めた人は、もし実際に音読させてみれば、たいてい音としての「にせの標準形」でしか発音できないはずです。またそうであれば、リスニングなどの向上に重大な障碍が生じるはずです。リスニングが先だなどと言っておいて、リスニングの障碍の実質を放置するのだから、理屈だけの馬鹿な論です。
脳内の「記号処理」と「統合処理」を並列させ、その前後関係がどうあるべきか(統合処理が記号処理に先立つべきである)とこの人は言っているのですが、これはよくある俗説にすぎません。ネイティヴ言語の習得過程にあるものをなぞって、外国語学習が成り立つかのように言う俗説はかなり流布している迷信の一つですが、この人は、さらにこの迷信をなぞって一見科学的で学問的なもの言いをしているに過ぎない。
「記号処理」と「統合処理」などどっちが先でもいいのです。どっちを先にやっても、先にやったものが後からやるものの邪魔をする。意味にとらわれるから、音の波に乗れないということも起こるし、音だけがからっぽのドラムカンをひっぱたいたように「意味」もなく繰り返されることも起こる。どっちから先にやったところで、先にやったものが邪魔をするのだから、「記号処理」と「統合処理」がさらに「統合」(同致)される必要がある。この人のもの言いは、語学論として「並列」しかできていない。論として「統合」ができていないのです。
音と意味(「記号処理」と「統合処理」)は、本当はどちらからやる「べき」かと言う問題ではない。かつて
boysome228 さんが一度だけいいことを言いました。「音と意味」は二律背反の関係にあると言ったのです。まったく言い当てています。前後関係において、どちらが先かというような問題ではなく、本当は「背反」しあうものなのです。
しかし、お前は素読を持ち出して、「意味」よりも「音」が先だと言い続けてきたではないかという反論が聞こえるような気がします。
これは、私の状況論なのです。
日本の英語教育は実質的に「音」の問題を放置してきました。これは、「音と意味」の二律背反の問題そのものが放置されてきたことを意味します。学校の生徒に身になってみれば、数年にわたって、いや時には、十年以上にもわたって、それが放置されます。そして、結果として「使えない英語」を持たされます。その状況に石を投げ込むように、「音が先だ」と私は言ってきたと自覚しています。
「音」の問題が放置され続けるのであれば、
「記号処理」と「統合処理」がさらに「統合」(同致)される必要がある。
という場合の「統合」(同致)など生じない。というか、実際は学習者は音として「にせの標準形」で学習してしまいますから、「統合」(同致)されたものが「にせもの」になってしまう。
私は単に語学論を言っているにすぎないのですが、語学をまともに語れば語るほど、日本の英語教育が「にせもの」だということがはっきりしてきてしまいますね。
まだお答えしていない以下の点について、後日に致します。
----------------------------------------------------
>「概念」と「イメージ」というものは、ダイコトミーにしていいものなのだ。
自分の思い(subjectとしての)
と
単語の持つイメージ(objectとしての)
ということで、
ダイコトミー(dichotomy:二項対立)ということですか。
>思いというものは閉じているものなのである。だから、イメージというものも閉じている。
閉じているもの(自分が考えること)
と
閉じているもの(単語が持つイメージ)
が出会う、ことばと対峙することは、人と対峙することと似ていますか。
----------------------------------------------------
西本批判も後日継続します。
>「声を出さないリーディングから」始めた人は、もし実際に音読させてみれば、たいてい音としての「にせの標準形」でしか発音できないはずです。またそうであれば、リスニングなどの向上に重大な障碍が生じるはずです。リスニングが先だなどと言っておいて、リスニングの障碍の実質を放置するのだから、理屈だけの馬鹿な論です。
書いているうちに酔いが回り、早とちりしましたので訂正します。
>>声を出さないリーディングから始めるのは、先に音読やリスニングをやると、脳内では言語野の記号処理の方が重視され、連合野の統合処理(概念処理、意味処理)で英語の内容をイメージで理解するのが難しくなるからです。(HP「英会話の真理に目覚める…」より)
どこやらのホームページの記事らしいですが、これを書いた方は、「リスニングが先」だとはどこにも言っていないのに、私が間違えてしまいました。
以下に要点のみ書き直します。
「音」が subvocalize されるためには、その前に vocalize されている必要がある。vocalize
されてもいないものの subvocalize は原理的に意味を成さない。
その意味では、vocalize と subvocalize との間には、「読めるものを書く」というときの「読める」と「書く」との間の前後関係の絶対性と同じ絶対性がある。あれよりもこっちが先だという前後関係の絶対性というものは、語学にはある。
読めもしないものを書くこと(中学の宿題で生徒がやらされているケースがよくある)は語学の土俵においてはナンセンスである。ただ字を引き写しに引き写すだけであるから、語学の上達などは望めず、英習字がうまくなるだけである。教科書のページをまるごとノートに書き写させる宿題を出し、「音づくり」をやらない先生は、生徒の語学の上達を原理の地平で邪魔しているのである。それと同じように、vocalize
されていないものを subvocalize することは原理的に不可能な話であり、同じようにナンセンスである。
しかし、この人が「声を出さないリーディング」と言っているものの実質がはっきりしない。subvocalize
することさえないリーディングというものは想定できないわけではない。文字(綴り)と概念や意味を直結し、音(vocalize
されるものも subvocalize されるものも)を一切排除したリーディングというものは想定できる。ちょうど、読めない漢字の熟語を見て、意味だけはわかっているので読み続ける場合と同じことになるだろう。
この人はそれを言っているのか。
理論のために、純粋に仮定してみよう。この人の理屈を純粋に実行するなら、読んでいる単語のすべてについて、一切の音を排除し、綴りと概念(意味)の直結だけで読むのがいいと言っていることになる。そんな苦痛を誰が引き受けることができるのだろうか。読めない漢字の熟語に出会って、読みを調べもせず続きを読むことができるのは、それがごくたまにあることだからだ。漢字の全部の「音」がわからないままに綴りと概念(意味)との直結を先にやらなければならないとしたら、そんな馬鹿なことを誰がやるというのか。
subvocalize された音を使うのか、それさえも使わないのか。この人の「声を出さないリーディング」というものの実質がわからない。わざわざ「声を出さないリーディング」と言っているのだから、流通している「黙読」というものとは違うことを言いたいのだろうと思うのだが、実質がどんなものなのかがわからない。
subvocalize された音さえ使わない、使ってもごく薄い影のようにしか動かないという読み方はある。いわゆる速読である。しかし、これがやれる人は、vocalization
も subvocalization も経ており、読ませればまともに音読ができる人である。
ときどき、subvocalize せずに英文の数行を読んでいることに気付くことがあるが、その時にも概念とともにリズムだけは動いている。英文のリズムが複数の語から成る意味をもたらしているように感じる。そして、そのリズムは音読やリスニングから得られたものであって、いきなり最初から「声を出さないリーディング」などやって得られるものではない。
音読やリスニングが先だつべきだろう。subvocalization による読みに習熟してから、いわゆる「速読」が可能になるだろう。その時にようやく「声を出さないリーディング」の実質が備わるだろう。subvocalization さえもごく薄いものとなり、あるいは subvocalization 自体がなくなり、英文のリズムと概念(意味)の運動だけの読みが成立するだろう。私はそのとばくちにいる。リズムと概念(意味)が直結された一切の subvocalization なしの読みはまだ英文ではできていない。日本語のやさしい読み物でならちょくちょく食堂でラーメンを食べながらでもやっているが・・・。
「声に出さないリーディング」が私がラーメンを食べながら、日本語でやっているようなことを言っているのであれば、よほどの経験の厚みを必要として成立するものを、最初にやれというのだから、妄説もいいかげんにしろ、である。言っていることが馬鹿であり、理屈のための理屈に過ぎない。その点については訂正の必要を認めない。
> 音と意味(「記号処理」と「統合処理」)は、本当はどちらからやる「べき」かと言う問題ではない。かつて boysome228 さんが一度だけいいことを言いました。「音と意味」は二律背反の関係にあると言ったのです。まったく言い当てています。前後関係において、どちらが先かというような問題ではなく、本当は「背反」しあうものなのです。
性懲りも無く、のここの出てきてしまってお恥ずかしい限りですが、I can't
resist, here.ですので、ちょっと付き合ってやってください。
初期の段階では、確かに音と意味は背反しあうのですが、未来永劫そうかというとそうでもありません。発音に熟達してきて、音のマージが自然にできるようになれば、意味を考えながらしゃべっても、意識の上での音の切れ目というものが、たとえ音がつながっていても存在しますので問題なくなります。音がつながっていても、意識の上では切れているという点がポイントですので、この点を心に留めておいて下さい。これができない内は、無理やり音のマージをやってネイティブっぽく話すと、音と意味は確実に二律背反してしまいますので注意が必要です。その場合には、ブツ切れで話した方がまだましというものです。音と意味の二律背反を克服するためには、英語を使う=アウトプットの機会を多く持つ、或いはそれに相当する練習を十分に積む必要があります。
昨日は代替レッスン有難うございました。
下記がフリーTELカンファレンス提供業者のURLです。
http://www.freeconference.com/
知り合いのネイティブにどのように発音を教えるかをきいてみた。
発音を教える時のテキストは発音用のr−l v−bと書かれているテキストを使用せず
普段クラスで使う会話のテキストで 気になったところをやるそうだ。
まずTがモデルをしめしそれをリピートさせること2,3回。
そしてそれでできなかったら 単語をシラバスごとにぐきってゆっくりリピートをやり、普通の素ピードやってみる。だそうだ。
気になる単語ごとにこれをやる、と。すべての単語をやるわけでない。
文も2、3度リピートさせる程度。
彼曰く「基本的に僕がきいて理解できれば直さない。アメリカにはさまざまなアクセントでしゃべる人達がいる。メキシカン、チャイニーズ、その他のアクセントで。だから通じればきにしなくてよいとぼくは思う。それより内容だ。」
一理ある。
しかし、だ。彼はながらく日本に滞在していて日本人の英語発音のくせが理解できるのだ。
それでOKをだされると、いざアメリカに仕事でまたは旅行で話すときに通じないこともある。
(ハワイなど日本人観光客がおおいところなら問題ないだろう。)
えてして日本に滞在している外国人講師の 発音に対するスタンスはこんなかんじではないだろうか。
ちょっと甘いよな。
彼は発音の教え方をしらないのだ。ネイティブなのに。もったいない。
単独のレッスンならば顔をつきあわせて唇や舌の使い方をみせながら教えることとはできるけれど。発音を身につけるには「英語で映画をみたりニュースをみたり、とにかく英語にふれること」
だそうだ。 ・・・・知ってるよ。耳を鍛えるには絶好だ。
で、英語の発音は移るのか?
彼に「私の発音を直してくれ」といったら「ノープロブレム」と帰ってきた。
私は近頃ちょっと英語からはなれているので 英語がさびついているのを自覚している。
先日、アメリカの友人に久々に電話してその家族と話したとき何回か「Pardon?」とききかえされたのだよ。
子音の基本、母音の基本は 中高校生のうちにしこんだら リスニングらくになり
受験にも役に立つ。
会話するときにも自信をもって話せるようになる。
遠回りのようで近道、 これをわかってる人は少ない。
日本の英語教育は文法に偏りすぎている。
もっと会話しなきゃ。話さなきゃ。
とは先の友人の弁。
あたっているような的外れのような。
むずかしい文法用語は必要ない。()の中に熟語を選んでいれろというのも必要ない。
それが副詞的用法か名詞的用法か区別することよりも
まずは口と体でその用法を覚えるほうが優先されるべきだ。
まず、現在形過去形、進行形、ぐらいは瞬時に活用し変えられるように訓練するべきなのだ。
そう文法は使うものなのだ。必要なのだ。
多くの外国人講師も外人ということにあぐらをかき教え方の研究をおこたっている、
学校の教師も 万年変わらぬ授業でも首にならぬからあぐらをかいている人多数。
私も、一見遠回りだが実は近道という基礎習得を理解してもらうことの難しさに嫌気がさし
英語を教えることのレベルアップをおこたり、自分の英語力をつけることを怠けている。 切腹。
>「記号処理」と「統合処理」がさらに「統合」(同致)される必要がある。この人のもの言いは、語学論として「並列」しかできていない。論として「統合」ができていないのです。
そういうことなんですね。私もJackieさんの書き込みの言葉を借りると同じことです。。。
「私も、一見遠回りだが実は近道という基礎習得を理解してもらうことの難しさに嫌気がさし(このことに私は気づきさえしていなかった!)英語を教えることのレベルアップをおこたり(これも私自身の職務怠慢!)、自分の英語力をつけることを怠けている(練習嫌いの怠け者の私。。。音づくりの本当の意味もほとんど理解していなかった!だから行き詰まったとも言える。。。)」
>(Jackieさん)日本の英語教育は文法に偏りすぎている。もっと会話しなきゃ。話さなきゃ。
とは先の友人の弁。あたっているような的外れのような。
そうなんですよね。どっちも大事。語学論がいつも不毛議論に終始しやすい傾向にあるのは、自分自身の体験が基になりやすいからだと何かで読んだ。
以前私が引用させていただいた、現役高校教員の方の文章を再掲させていただきたい。(少し省略などがありますことをお断りさせていただきます。)
>この無意識的な英語モードは、その作り方を話し合うことはできても、学習者個人が自分で自分の中に作り上げなければできないものであり、継続して養成し続けなければ紛失してしまうものであるように思われます。
>どうしたらこの英語モードを作り上げることが可能でしょうか。
>基本的には、受験英語学習あるいは実用英語学習と称される範疇で行われていることの反対のやり方を多く取り入れることが必要であるように思われます。
昨日考えていたのですが、「受験」が大切だと思っているタイプは「素読」が、「音読」が大切だと思っているタイプは「文法などの解析」が、「実用」が大切だと思っているタイプは「語彙などの素材」が、とまさに、この方が言われているように、「反対のやり方を多く取り入れること」が結構大切なのではないかと思いました。
但し、根石さんもおっしゃるように、「一度に意識できることは一つ」と考えて、「音づくり」に集中する時期はそのようにし、「解析」に集中する時期はそのようにし、「意味」に集中するときはそのようにし、「素読」に集中するときはそのようにする、というのがいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
>たとえば、点数化とか評価の仕方といったようなことから離れたり、辞書を放棄したり、問題を解くというような煩わしいことをやらないようにしたり、訳すという作業をやめたり、完璧主義を捨てたり、というように。。。
(中略)
>無意識的な英語モードを作るうえでの有効な方法は素読です。見かけは平易ですが奥が深く、発見することも楽しみも多く、学校英語や受験英語で学習していることや、やってきたことがいかに役にたっているかがわかるのではないかと思います。
この「やってきたことがいかに役にたっているか」という視点もとても大切だと改めて感じています。
>自分が今持っている力で、簡単に読める物をどんどん英語だけで読んで楽しんでいくことが大切だと思います。途切れないでストーリーを追っていけるものをできるだけレベルを上げないで、心地よいペースでリズミカルに黙読で素読していくことです。
このことは確か、柴田さんもおっしゃっていました。
「この黙読で素読」という表現。。。
「(個人が意味を理解した後の)黙読」と読み替えてもよいと思うのですが。。。
今、ふと思いましたが、國広氏らの「意味が分かった後の音読」ということと、関係があるのでしょうか。
>日常頻繁に使われるやさしい単語や表現に、読めば読むほどダイレクトに反応していけるようになるでしょう。毎日毎日継続して楽しみながら素読を続けているうちに、無意識的な英語モードができあがっていくでしょう。
>このモードがきめ細かくでき上がっていくにつれて、自然に英語が出てきたり、聞いてもひとりでにわかっているというような感覚を持つことができるでしょう。すなわち無意識下での英語反応ができ上がっていくということになると思います。
>実用的にということは、一人一人の一人一人による状態作りのことであって、学習者の知識レベルに関係無くできることであり、競争を度外視して静かに培っていくものであるように思えます。
この著者は柴田さんと同じようないわゆる進学校の先生です。現実の中で、最高の授業をされて、生徒への愛情というか、サービス精神も旺盛な方ではないかと十分推測できます。「競争を度外視し」という言い方も、「声は個性、文字も個性、文も個性」という点で「表現面」を「競争から外す観点」も大切でしょう。矛盾しますが、競争することも大切なようにも思われます。
>いかにして英語嫌いをつくらないか、といった問題の根底には私が今までに述べてきたようなところに問題や切り口があるような気がしています。
「切り口」は「学習者、生徒」にあることと、「音づくり」は、それでもやはり「欠かせない」と私は確信しています。「無意識の英語モード」や「いわゆる実用英語と呼ばれているもの」は「一人一人の一人一人による状態作り」という表現でどうしてもひとくくりにできないものは確かに存在していると私は考えつづけます。
「音づくり」を理解してもらうことよりも、「音づくり」を実践してもらう方法を!
根石さんのお考えが一人でも多くの方に伝わりますように。。。
>(boysome228さん)初期の段階では、確かに音と意味は背反しあうのですが、未来永劫そうかというとそうでもありません。発音に熟達してきて、音のマージが自然にできるようになれば、意味を考えながらしゃべっても、意識の上での音の切れ目というものが、たとえ音がつながっていても存在しますので問題なくなります。音がつながっていても、意識の上では切れているという点がポイントですので、この点を心に留めておいて下さい。
そうなんですよね。このことを拙いながら私自身経験しています。つまり、記号と概念の「分裂状態」です。もちろん文章の難易にもよりますが。。。記号に意識がいく時は、意識は確かにほとんど「記号(音、音声?)」に向いている可能性があります。その時にもちろん全く意味のことを考えないかというとそこはよく分かりません。何かいい資料があれば教えていただけるとありがたいです。
記号⇒意味⇒同致(記号+意味)・・・Aパターン
意味⇒記号⇒同致(意味+記号)・・・Bパターン
Aパターン、Bパターン、いずれの経過をたどる人も同致(統合処理=無意識的英語モード)という一つの頂上目指して、やっていると考えるならば、根石さんとboysome228さんの意見は一致しているということになるのではないでしょうか。
>(根石さん)>「記号処理」と「統合処理」がさらに「統合」(同致)される必要がある。この人のもの言いは、語学論として「並列」しかできていない。論として「統合」ができていないのです。
この「統合処理」と「統合(同致)」という表現についてです。私が考えるのに、これは、単なる「記号」が、「記号とイメージの一致(=同致)」、さらに、「記号とより深まったイメージ」(根石さんの著書「英語どんでん返しのやっつけ方」<小学館文庫>の中の表現を借りると)、「イデア(イメージのより純度の高いものみたいな感じ?)」へと進む過程ということになると思います。つまり、boysome228さんの「音と意味の二律背反」という表現と根石さんの「同致」については同じことになるのではないかと私は思います。
根石さんには本当に感謝しています。お酒も田んぼも近所の方との語らいも時間も、あの温泉でのリラックスタイムも、大切にしながら、時間の許す限り、これからもよろしくお付合いください。
私が言うのもなんですが、お体を大切にしていただきたいです。根石さんに教えていただきたいことはまだまだたくさんあります。今後ともよろしくお願いします。さて。。。
>「音」が subvocalize されるためには、その前に vocalize されている必要がある。vocalize されてもいないものの subvocalize は原理的に意味を成さない。
私の父親が新聞を読むときに「おおっ!唇が動いている」と感じたことが何回かあります。これは「subvocalizationだ!」と思ったものです。vocalizeされていないもの(例えば父親にとっても未知語の漢字の部分は適当に「おん」を当てはめてその部分スキップしているか、その難解な漢字はvocalizeせず、つまり、subvocalizeできるはずもなく、通りすぎていくものだと思いますがいかがでしょうか。しかし、これは当然母国語日本語での話しです。
外国語の場合は、根石さんのおっしゃるとおり、
「vocalize されてもいないものの subvocalize は原理的に意味を成さない。」
ということになると思います。
しかし、慣れてくれば母国語を同じようになっていくとは思いますが。。。
>教科書のページをまるごとノートに書き写させる宿題を出し、「音づくり」をやらない先生は、生徒の語学の上達を原理の地平で邪魔しているのである。
これには随分私自身悩んでいました。そのホントの理由もよく分からずに。そして、それを言語化できずにいる自分がいることに。。。
>subvocalize された音さえ使わない、使ってもごく薄い影のようにしか動かないという読み方はある。いわゆる速読である。しかし、これがやれる人は、vocalization も subvocalization も経ており、読ませればまともに音読ができる人である。
>ときどき、subvocalize せずに英文の数行を読んでいることに気付くことがあるが、その時にも概念とともにリズムだけは動いている。英文のリズムが複数の語から成る意味をもたらしているように感じる。そして、そのリズムは音読やリスニングから得られたものであって、いきなり最初から「声を出さないリーディング」などやって得られるものではない。
日本語にはリズムという言葉があまり馴染まないと私は勝手に考えてしまっていました。
>音読やリスニングが先だつべきだろう。subvocalization による読みに習熟してから、いわゆる「速読」が可能になるだろう。その時にようやく「声を出さないリーディング」の実質が備わるだろう。subvocalization さえもごく薄いものとなり、あるいは subvocalization 自体がなくなり、英文のリズムと概念(意味)の運動だけの読みが成立するだろう。私はそのとばくちにいる。リズムと概念(意味)が直結された一切の subvocalization なしの読みはまだ英文ではできていない。日本語のやさしい読み物でならちょくちょく食堂でラーメンを食べながらでもやっているが・・・。
>「声に出さないリーディング」が私がラーメンを食べながら、日本語でやっているようなことを言っているのであれば、よほどの経験の厚みを必要として成立するものを、最初にやれというのだから、妄説もいいかげんにしろ、である。言っていることが馬鹿であり、理屈のための理屈に過ぎない。その点については訂正の必要を認めない。
まったく同感です。
>。。。この人が「声を出さないリーディング」と言っているものの実質がはっきりしない。subvocalize
することさえないリーディングというものは想定できないわけではない。文字(綴り)と概念や意味を直結し、音(vocalize
されるものも subvocalize されるものも)を一切排除したリーディングというものは想定できる。ちょうど、読めない漢字の熟語を見て、意味だけはわかっているので読み続ける場合と同じことになるだろう。
>この人はそれを言っているのか。
たぶんそのことだと思います。日本語を母国語とする人が漢字などのを読む際に処理している仕方のことを言っておられるのだと思います。「英会話の真理に目覚める…」についてはコメントはよろしければ、もう結構です。根石さんがお考えのところをいろいろ教えていただきたいと思います。
>思いというものは閉じているものなのである。だから、イメージというものも閉じている。
閉じているもの(自分が考えること)
と
閉じているもの(単語が持つイメージ)
が出会う、ことばと対峙することは、人と対峙することと似ていますか。(sbのQ)
このことは昨日考えていました。人間は皮膚によって「閉じている」。その「閉じている」もの同士が「ことば」を使う。理解し合う。その時「こころ」は「通じている」かもしくは、「通じていない」。よく、「こころを開いて」とか聞かれるが、そして、「閉じる」のはよくないともよく聞くが、人間が皮膚で「閉じ」ているのは、会社が外から見れば「閉じ」ているように見えるのと同じことで、だから「ことば」が必要で、「ことば」は開いていることが大事で、「ことば」は人間の「概念」がもとになるのだから、自然で、しかし同じに「人工物」で、以前に根石さんが長野で教えてくださった「sbさん、あそこは田んぼですが、自然ですか。人工物だよね。」などということばを今思い出している。とりとめのない文章ですみません。
いくこ先輩のホームページのURLを教えて下さい。 どっかに行ってしまいました。 リンクしたいので。
過去ログを自分で読んで、コメントすることはしたいが、それに keyword
をつけて次々に同じ keyword を辿ることでそれぞれの keyword の真の概念を知ってもらうことのできるホームページができたらいいと思って、Sumie
さんに無理なお願いをしている。
過去ログ自体の keyword付けは、やはり自分ではできない。それをやろうとしても、そのための時間がまるでみつけられない。英語だけやってればしあわせみたいなフリークとは違って、このところずっと薪割りをやっている。それが片づいたら、またコンクリートをいじる。この季節、コンクリートを練るのはつらいものがあるが、やらないとならない。
コンクリートを練るのがつらいのは、水を使うだ。作業の途中で、どうしてもズボンが濡れたりして、冬の初めにはつらい。真冬はもっとつらいが、真冬になると善光寺盆地では打ったコンクリートそのものが凍るので、コンクリートをいじるのは馬鹿である。
えーと、何を言おうとしていたのだっけ。
過去ログを自分で料理するのはやっていられない。時間がない。それを言おうとしていたのだった。Sumie
さんが、過去ログは順番通りでなく、自分で記事の重要性を決めて、keyword付けなどして、勝手に新しいホームページを膨らませてもいいですかと、先日のレッスンの後で言われたので、私は是非お願いしたいと言った。それこそが、私が私以外の人にやってもらいたいことなのだったので、渡りに舟っていうのはこのことだと思ったのだった。
地元の弟子筋は駄目ですな。動かない。本当は、奈良の Sumie さんにお願いする筋のものじゃない。地元の弟子筋が動いて当然のものだと思う。しかし、動かない。地元の一流だとされている高校を卒業した連中というものは、働かない。なんでだろうと思う。なんであの程度の4流高校を卒業したやつらは働かないのだろう。
そんなことも実はどうでもいい。俺は語学論を新しく絶えず書いて行きたいのだが、かつて書いた語学論を wording として使えない。思考の根は変わらないが、wording が使えれば、それを基盤として新しい考えにつっこんんでいけると思うのだが、地元の弟子筋は何を考えているのだか、そのあたりを汲む能力に欠けている。単に俺の教材とか俺の方法を使いたいということだろうが、それだって、俺が絶えず語学論の新しい地平につっこんでいってできたものだ。既存のできたものさえ使っていればいいのか。それじゃ、あんたらの存在そのものが「かさぶた」みたいなもんじゃないのか。
まあいいや。肝心なものは渡さないと決めればいいことだ。
なんなら、墓場に一緒に埋めてもらえばいいことだ。肝心なものなんざ。
俺が死んだ後、日本の英語がどんなものになろうが知ったことか。
だけど、働かないやつらは駄目だな。
俺の娘も含めて。
すでにかなりな酔っ払いです。
私の語学論は当初から、アルコールが混ざっていますので、今後ともよろしくお願いいたします。
どうもこの西本って野郎が駄目だなあと何度も思っています。
最初に種明かしをしてしまいますが、日本中、西本だらけなのです。そりゃ、名字は各自いろいろでしょうが、いろいろの名字の英語の先生たちは、みんな「西本」なのです。西本だらけの馬鹿ニッポンが皆さん見えないですか。みんなこの程度の理屈にだまくらかされるエイゴキョウユなのです。世も末だというのは、学校の先生を見ていると、実に自然な思いとして、私の中に思いが生じます。
さて、やりますか。
「語彙の学習」に関する問題点として、「英語−日本語の一対一対応の丸暗記」では駄目だと西本さんは言い、それに対する対処法として「多読やゲーム」を提示した。いいかい? 語彙の学習で「一対一」の丸暗記をする精神の姿勢を持っている生徒が、「多読」をやって、あるいはクロスワードパズルをやって、さて何がそこに生じるのか。西本さん、現場を離れてものをいったら、大学人としても駄目なんだよ。
ええかね? 日本語のクロスワードパズルをやってみなさい。推測して、これだっ、というイメージがあって、一瞬、カチアウことで、ある日本語の単語が浮かぶでしょうが。そのときに暫定的に鉛筆でその単語を書き込むでしょうが。
そのことは英語のクロスワードパズルでだって同じなんだってことが、大学の助教授なんかっていう、そこそこ銭になる地位地位パッパの人にはわからんかね。
つまり、「イメージ → 具体的な単語」っていうのが生じうる人にならクロスワードパズルは面白いが、「具体的な単語 → イメージ」という過程をやらなければならない(語学として一言語をやらなければならない)人にとっては、「イメージ → 具体的な単語」なんか成立しない。成立するかしないか以前に苦痛でしかない。
俺が嘘を言っていると思うなら、西本ちゃんよ、助教授よ、現場でおめえさんの理屈通りにやってみろよ。そこらの高校に「私の理論を実践してみたいから、授業時間をいくつか貸してくれないか」と言えば、言うことを聞く校長なんざいるでしょ?
やってみなよ。
おめえがただ気楽な太平楽しか言っていないことがそれでわかるはずだからよ。
sbさん
今日も書きたいことがあって、書き始めたのでしたが、本論に入る前に疲れてしまいました。明日以降にいたします。
書きたいことは、西本がお題目だけ唱えているということです。
これは、文部省がやってきたことを、多少学問的色づけをして繰り返しているということです。
西本よ。
世の中には、ちゃんと文章を読む人間がいるのだ。
なめるんじゃねえ。
またもドタキャンですみません。 今夜のレッスン、お休みさせて下さい。
ホームページのキーワード検索の件ですが、私はフルタイムの仕事もないので比較的暇があります。それにシラミ潰しな作業は趣味の様なものですし、PCに向かっているのも好きですので苦にもなりません。
あまり先輩諸氏をお叱りにならぬよう。 m(_)m
また掲示板を見ずに、呼び出しの電話をかけてしまいました。
承知しました。練習を継続しておいて下さい。
>(boysome228さん)初期の段階では、確かに音と意味は背反しあうのですが、未来永劫そうかというとそうでもありません。発音に熟達してきて、音のマージが自然にできるようになれば、意味を考えながらしゃべっても、意識の上での音の切れ目というものが、たとえ音がつながっていても存在しますので問題なくなります。音がつながっていても、意識の上では切れているという点がポイントですので、この点を心に留めておいて下さい。
あのう、初期の段階に限らず、音と意味は背反しあうのです。それは初級・中級・上級の級の問題ではなく、英語に囲まれて生きているのか、日本語に囲まれて生きているのかの問題です。日本語に囲まれて生きている限り、音と意味は背反しあう。背反しあうという言い方が「科学的」に聞こえるなら、言い直して、そもそも外国語は、音と意味がばらばらであり、それぞれ別々のものであり、それを絶えず一致(同致・同時化)させるのが語学という動きやまない行為なのだということです。
嘘だと思うなら、boysomeさん程度の上級者でいいから、5年ほどいっさい日本語だけで生きてみるがいい。英語なんぞぼろぼろになっている。まあ、仕事で英語が必要なら、それをやるためには退職の必要があるので、俺はその点においては何の責任も負う気はないが、想像力があるのであれば、想像してみてもらうのでもいい。5年やめてみなさいよ。ぼろぼろだ。俺は、英語塾をやりながら、釣りばっかりやっていた5年というものがあって、ああ、ぼろぼろになっていくなあというのを、鯉が餌を銜えるのを伝える竿先を見ながら思っていたのだったなあ、昔。
で、ぼろぼろになってから、また英語に戻ってみなさい。
「音」と「意味」は結びつかないから。
「音」を意識すれば、「意味」がすっとぶし、「意味」を思えば、「音」がすっとぶ。
どっちかしかできなくなる。
5年で大丈夫。やってみなさいよ。
言っておくが、俺は意地悪だよ、フリークには。
あんたがやれっこないとわかっていて、こういうことを言うのだからね、俺は。
>意識の上での音の切れ目というものが、たとえ音がつながっていても存在します
そんなこた当たり前だ。
俺は、「音と意味の二律背反」という言葉でそんな程度のことを言っているのではない。boysome
ちゃんからは、wording だけいただいて、俺は俺の定義を与えて、この言葉を今後使わせていただく。boysome
ちゃん、感謝!
「音と意味の二律背反」に関しては、どこかで書いた覚えがあるので、探して引用してみます。多分、
midnight press に書いたんだ。
死んでいる言語の一番わかりやすい例は、英語を習い始めたばかりの中学1年生が、「習う
learn 習う learn」などとぶつぶつと唱えて自分に言い聞かせるような場面にみつかる。これは、一見、対応する日本語と英語を単に並列させているように見えるが、実は「音」と「意味」を一体化させようとしているのである。「習う」という日本語から意味を取りだし、「learn
」という「意味のない音」に意味を込めようとしているのである。「音」と「意味」が別々のものとして分離しているから、それらを一体化させようとして呪文のようなぶつぶつを唱えるのである。
「意味」と「音」の分離、あるいは、「音」だけがあり「意味」がそれに伴わないことは、語学の対象としての言語が死んでいることの証拠の一つである。生きて動いている言語において、「音」と「意味」がばらばらであるなどということはない。
言語として死んでいるから、それを生き返らせようとして中学一年生は呪文を唱えるのである。この呪術がうまくいき、「音」と「意味」が合体し、「
learn 」という音に対して、「習う」という日本語の訳語を必要とせずに、「意味そのもの=
learn という語のイメージの核」がただちに生じるようになれば、learn という語は生き返ったのだと考えていいだろう。そこに至る呪術の途中では、語学の机上において、ミイラが踊りを踊っているだけなのである。
こんなことは、生活言語では起こらない。いや、「音」というものひとつだけとりあげても、生活言語には「声」はあるが、「音」というものはないのだと言ったほうがいい。誰も皆、生活では「声」を聞いているのであり、「音」などを聞いているわけではない。例えば、言葉を覚え始めた幼児に母親が話しかけているとき、幼児が聞いているのは、「音」ではなく「声」である。
昨日だったかも書いたが、日本中「西本」だらけなので、西本有逸さんにまたご登場願うことにする。京都教育大学なんて知らなかったが、そこの西本さんはもちろん「西本」さんだが、広島大学の助教授だか教授だか助手だか知らない柳瀬なんとかも「西本」だった。今はどうしているかな。あの腰抜け。
なんで英語まわりは腰抜けばかりなんだ。おお、足腰がしっかりしてるぞと思った柴田さんさえ、俺を敬遠して遠回りにこの掲示板を覗いているんだわ、きっと。知ったこっちゃねえ、各自勝手にやれ。
俺は滅ぼすだけだ。俺が仲立ちしたにしろ、柳瀬程度の者とくっついたら、柴田さん、だいなしだよ。人だましはよくない。俺は滅ぼすね。柳瀬が、国立大学で今後、教授だか助教授だか助手だかしらねえが、そういうものをやっていくとして、それをどれだけ長くやっていけるにせよ、俺はその意味を滅ぼすね。くだらねえんだよ柳瀬。
何がチョムスキーか。チョムスキーの「文法」はともかく、「普遍」がおめえにわかっているのか。わかっていないと俺はわかっている。なんで、チョムスキーは政治的な発言をずっと続けているのか、おめえはわかっているのか。わかっていねえと俺はわかっている。ツインタワービルが美しく崩れ落ちたとき、人は死んだわね。しかし、チョムスキーは言った。この程度のことは世界中で数え切れないほど起こってきた、と。
しかも、それを起こしたのは、その元凶はアメリカだ、と。
いいか、柳瀬。そのように発言できて初めて、「普遍」という言葉を使え。
10年早い。10年で足りればの話だが。
まあ、達者で暮らせ。
大学のセンコウなんぞ、馬鹿ばっかしと言ったら語弊があるが、大学のセンコウやってる人たちさ、馬鹿ばっかしは「普遍的」だと、一度くらい退職覚悟で言ってみろよ。
制度の家畜のくせに、言葉づらだけ立派そうなことをやっていりゃ、銭になる。
腐れだ。
西本が「STEP英語情報」に書いた記事を読んで、もういきなり最初から駄目だこりゃ、なんだが、こいつも「音読賛成派」なんだわね。いやだね、この程度の理屈しか言えないやつが「音読賛成派」なんだから。おめえなんぞ、トップダウンをやってろ。理屈の声の調子がトップダウンじゃねえか。あほ。
西本は書いた。
・教師がモデルとして発音しないので、学習者が声に出して正しい発音ができない。
教師がモデルとして発音しないのは、大学の「教科教育法」を受け持っているあんたみたいな者のせいだというのはすでに書いたので、繰り返さない。皆さんに、西本の文章を繰り返して見て欲しいのだ。
・教師がモデルとして発音しないので、学習者が声に出して正しい発音ができない。
西本はそう書いた。駄目でしょ、これじゃ。
これが駄目だというのは、柴田武史さんがこの掲示板に昔書いてくれた記事で言い尽くされている。「先生、あんた一人が上手でどうする? 生徒を上手にしてみろよ」である。
「西本」たち(英語教科教育法担当腐れ大学人)が、「(現場に立つ予定の)教師の卵がモデルとして発音」できるようにできるとは俺は毛頭思っていない。駄目なんだよね、「西本」達じゃ。
あんたらの世話になってもならなくても、教師がアメリカ帰りで、モデルとしてちゃんと発音ができて、教室で発音したとするわいな。そうすりゃ、「生徒が声に出して正しい発音」ができるってのかいな、ええ? 西本よ。
モデルとして「正しい発音」をすれば、「生徒が声に出して正しい発音」ができるってのか。そんな理屈で済むのなら、AET導入ですでに解決しているはずじゃねえのかよ。AETが来て、日本人の生徒の発音がどれだけ変わったってんだ?
税金の無駄使いをやっただけで、日本人の生徒の発音は変わってないぜ。
おめえのすっとばし理論でいいなら、AETは役に立つはずだ。大学人なんざ、世の中のためになって初めて大学人だろうが。おめえの理屈でAETを役に立ててみろよ。ああ? やってみろよ。
本屋に行けば、1500円程度でCD付きの英語本が買える。
おめえの理屈が本当なら、日本中のCD付きの英語本が生き返る。
おめえの理屈が駄目だから、日本中のCD付きの英語本がびっしりと死んでいる。
理屈を言うのであれば、おめえ、責任とるつもりがあるのか。
ええ、おい? 俺と会ってみるか?
「音づくり」という観点が抜けてるのが、おめえさんがとことん駄目なところだ。
本命は「あいうえおフォニックス」だ。
それが、馬鹿どもには今も見えない。
「磁場論」はもっとさらに単純なことを言っているので、馬鹿どもにはなおさら見えない。
暴走族が走る。それは、みんなが秩序だってるからできるのだ、という話しを聞いた。このことはいろんな意味を含んでいる。私なりにいろいろと考えてみた。
sbは族にはなれない。根石さんは族タイプだろうか。そうではないのだろうか。私にはどちらともとれる。タカ派かハト派かは、この際、問題にもならない。発展を想う気持ちが大切なのかもしれない。
対象や自分も含めた学習者。その全てに対してどうするのがいいと考えるのか。その気持ちを常に表現していくことが大事だと思う。一方、大切に想う人(養わなければならない人など)がいればいるほど、人が過激になれない面もあると思う。
柴田さんの勇気はすごいと私は思う。私は柴田さんにはいろいろとお世話になった。まだ私はなにも返せていない。でも柴田さんはたぶん「来るもの拒まず、去る者追わず?」の発想をお持ちなのだと思う。練習量は尋常ではない。生徒さん立ちを想う気持ちは並ではない。授業の組み立てに執念を感じた。エネルギーがすごい。妻子がありながら、ここまで出来る人はあまりいないと思う。
音声と文字。表現した途端、自分には選択と責任がそれなりに生じる。「認知の歪み」も、誰でも多かれ少なかれ生じる。でも表現していくことは人間にとってとても大切なことだと思う。ハト派かタカ派はこの際、問題にもならない。みんな、自由人なのだ。つまり、optionをその時その時選んでいるに過ぎない。もちろん責任は生じる。しかし、職人気質が含まれない仕事は本来ないはず。暴走族に社会的意義はあるのだろうか。いや、ないのだろうか。この掲示板の果たす役割はなんなのだろうか。前に進むことが大切なのだろうか。足踏みすることが大切なのだろうか。
>柴田さんの勇気はすごいと私は思う。私は柴田さんにはいろいろとお世話になった。まだ私はなにも返せていない。でも柴田さんはたぶん「来るもの拒まず、去る者追わず?」の発想をお持ちなのだと思う。
柴田さんの勇気とは 学校英語の教育の流れのなかで、
異端ともいえる音読と音作り中心の授業をしてらっしゃることですよね?
>練習量は尋常ではない。生徒さん立ちを想う気持ちは並ではない。授業の組み立てに執念を感じた。エネルギーがすごい。妻子がありながら、ここまで出来る人はあまりいないと思う。
すごいと思います。しかしSBさんご自身がおっしゃっているように
>職人気質が含まれない仕事は本来ないはず。です。
−妻子がありながらここまで出来る人はあまりいないー どの仕事でも手はぬけないはず。
寿司屋が不味い寿司をだしたらそれでおわりです。旨い寿司をていきょうしなれば。
妻子が病気だからといって、大工が傾いた家をたてるわけにはいきません。
妻子がいてもいなくても そこまでやるのが本来です。
英語の教師は 自分の英語力と生徒の英語力をつけなければなりません。
学校の教師はそこに進路指導生活指導なども加わってきますが それをふくめてのおまんま代です。 妻子がいるからといって 手をぬくわけにはいかんぜよ。
ま、私自身自分の英語力をつけることを怠りがちのこのごろ 精気をかいて手を抜きがちなので
またもや「切腹」です。
それから 根石さんは暴走族ではないですよね?
ぼうそうしてるのは 現代の学校教育と ゆとりきょういくで へたれの教科書を作っている
文部科学省のほう。
sbさんの投稿いつも拝読しております。
受験英語学習VS実用英語学習にとらわれない英語教育を
sbさんが実行に移す時ではないかと。
受験英語と実用英語はダイコトミー(出た!大学教授のカタカナ好き!つまりは対立ということでOKですか)するものではなく、 ベースは同じ。口と手をつかっての音づくりと基本文法、構文の内在化。
sbさんの理論や考え方を実践しなければもったいないです。
さまざまな壁もでてくることでしょうが
掲示板上で 皆で対策も考えることができますし。
>音声と文字。表現した途端、自分には選択と責任がそれなりに生じる。「認知の歪み」も、誰でも多かれ少なかれ生じる。でも表現していくことは人間にとってとても大切なことだと思う。ハト派かタカ派はこの際、問題にもならない。みんな、自由人なのだ。つまり、optionをその時その時選んでいるに過ぎない。もちろん責任は生じる。しかし、職人気質が含まれない仕事は本来ないはず。暴走族に社会的意義はあるのだろうか。いや、ないのだろうか。この掲示板の果たす役割はなんなのだろうか。前に進むことが大切なのだろうか。足踏みすることが大切なのだろうか。
人はその気になれば何からでも学べます。ここに限らず、掲示板の投稿にはそこまで言いますかと言いたくなる程過激な物言いがあります。しかし、そこに自分にとっての真実を発見できればそれはそれで役に立つ。むしろ怖いのは固定観念に囚われて、広い心を失う事です。何から・誰からでも学ぶ謙虚さを失ってはなりません。個々の人間は本来ちっぽけな存在です。人類数万年の歴史の一瞬を生きて、先人の偉大な業績の上に乗っかってほんの小さな貢献ができれば幸せというものです。
PS:先日ご紹介いただいた田中茂範氏の本、大変参考になりました。
>むしろ怖いのは固定観念に囚われて、広い心を失う事です。何から・誰からでも学ぶ謙虚さを失ってはなりません。個々の人間は本来ちっぽけな存在です。人類数万年の歴史の一瞬を生きて、先人の偉大な業績の上に乗っかってほんの小さな貢献ができれば幸せというものです。
暴走しそうな私を止めてくださるのはいつもboysome228さんです。感謝しています。今後ともよろしくお願いします。
>ここに限らず、掲示板の投稿にはそこまで言いますかと言いたくなる程過激な物言いがあります。
ほんとですね。 でも、ぬるい所で妥協していては議論にならない現実もあります。 自分の確信する所に従って火花散らす議論をする事も大切だろうと思います。 塾長は、こと英語指導に関しては非常に謙虚で真摯な人でありますが、ウソ臭い謙虚さとは無縁の人であります。
確かに「何からでも学べる」と思います。 思いはしますが、何が一番効果的なのかを考える必要があります。 特に今の英語教育界や英会話業界の現状を見ていると、その感がますます強くなります。 10年近くも英会話学校に通い、ベテランのネイティブ・スピーカーについて週に数回のレッスンを受講して来ていながら、far なのか four なのか、はたまたfir なのか、区別のつかない発音で、たどたどとしか会話出来ない生徒をいっぱい見て来ました。 映画を見る? ペーパーバックをどんどん読む? 「生」の英語にどんどん接する? 留学する? どれもこれもそれなりの効果はあります。 おっしゃる通り、何からでも学べます。「やったらやっただけの」効果はあります。 時間とお金があって、英語を趣味でやってる人はそれでもいいと思います。 英語を学ぶ目的も人それぞれです。 やったらやっただけの成果を得られはしますが、「やっただけの成果しか得られない」と言う事も考えて見る必要があります。
ここは英会話の百貨店でも、英会話の座談会の場でもないのです。 反英語フリークを標榜するがちがちの語学論BBSであり、そのガチガチの語学論を突き崩すくらいの鋭い突っ込みを歓迎する気概をもったBBSでもあろうと思っていますが、どうでしょうか?
強硬な英語論をぶち上げるからと言って、人格云々とは無関係です。 これが多くの英語学習者が有り難がる「ディベート」の真髄ではないかと思いますが、どうでしょう?
最近、「最適英語学習法」に行ってみたんですが、BBSを閉じてしまっておられますね? いい掲示板だったのに。
>ここは英会話の百貨店でも、英会話の座談会の場でもないのです。 反英語フリークを標榜するがちがちの語学論BBSであり、そのガチガチの語学論を突き崩すくらいの鋭い突っ込みを歓迎する気概をもったBBSでもあろうと思っていますが、どうでしょうか?
強硬な英語論をぶち上げるからと言って、人格云々とは無関係です。 これが多くの英語学習者が有り難がる「ディベート」の真髄ではないかと思いますが、どうでしょう?
鋭いディベートは大いに結構です。しかし、発言内容そのものへの突っ込みは当然ですが、その人個人や人格への攻撃はルール違反ではないですか?
ここはなかなか内容のある掲示板ですが、いささか長野県根石村になってしまっているのではないでしょうか?ここを訪れる旅人は、異説を唱えると村八分にあって、無事生きて帰れるか否か我が身が心配になります。と言う事は、オープンな掲示板を標榜してはいるが、異なる意見を持つ人達を知らず知らずの内に遠ざける結果となってしまっているのではないかと危惧されます。
>最近、「最適英語学習法」に行ってみたんですが、BBSを閉じてしまっておられますね? いい掲示板だったのに。
そうですね。その点、ここはずっとオープンしていますので、塾長には感謝です。
長野県根石村は立派な村です。きれいな村です。ゴミ一つ落ちていないという意味ではありません。入村しやすい所です。生活感がただよっている所です。同時に自然がいっぱいです。そして、入村する人たちは根石村になんらかの価値を見出した立派な方たちです。
あとは、根石村にもっとたくさんの人達が入ってきてくれるように、みんなで考えていくことも必要かもしれません。ガンジーの精神が必要なのかもしれません。ルールは集まった人達で決めればいいことだと思います。
自由人でない人は本来いない。職人でない仕事もない。複数以上の人が集まればルールがいるが、各ルールはその中で決めていけばよい。
皆さんが、もっとグループを大きくしたければ、それに見合った自分たちのルールがいるのかもしれない。でも小さなグループでもそれなりに楽しい。ところが、楽しい楽しいといっていて喜んでいる人達の掲示板ではないような気もする。
志しある人達のグループだからこそ、根石村は根石町に、そして根石市になることが必要だとsbは思います。
12月4日(土)のレッスンですが、仕事が入ったため、お休みさせて下さい。よろしくお願いいたします。
>異説を唱えると村八分にあって、無事生きて帰れるか否か我が身が心配になります。と言う事は、オープンな掲示板を標榜してはいるが、異なる意見を持つ人達を知らず知らずの内に遠ざける結果となってしまっているのではないかと危惧されます。
異説をとなえると村八分にされる?
えー そうですか?この掲示板は自由闊達に意見交換が行われてるとおもいますよ。
少々言葉は荒いですが、本質はまさに「自由」。徹底的に意見を戦わすことができると私は思いますが。
ただ
※本人が討論するほど「語学論」を持たないとき、
※または自分の意見に自信がなかったり
※ただ単に面倒な場合、
※語学論に飽きた、もうすでに実践中だからここで話すことはない。
※単に忙しい
※時に喧嘩言葉もまじるので 恐い。
これらの理由などで、書くのを辞めてしまうのではないでしょうか?
もったいないです。多くの人の意見を伺いたいですね。
私にとっては 言葉あたりはやわらかいけれど異論や異説、キビシイ意見などに対して、
オブラートの誉め殺しで異説を消しにかかるところのほうがよっぽど恐いです。
テレカンファレンスについて根石さんあてメールを
いれましたのでみていただけますでしょうか。
ここにはかいていなかったのですが、
実は仕事をいったん休業していました。
体の調子をくずしていたので療養が必要でした。
だいたいの生徒も外人講師に手放してもいいころだったので旅だつようにして
家業の雑貨屋を少し手伝い 英語は実質休業していました。
英語をやめることも考えました。体も心も疲れていました。
幸いにして体の調子もよくなってきたので
本業に復活しようとしています。
いままでは高校生以上社会人を相手にしてきました。
受験とはかかわりのない仕事をしてきました。
しかしこれからは中学生も教えていこうかとおもっています。
今自分の教え方を振り返っています。
生徒の数がのびず自転車操業状態だったのには理由があるはず。
もっと「伸びてる」という成果を感じられる授業を。
テストの点なり受験を通しての「見える結果」をだす授業を。
「よそとくらべて納得して決めてください」といわずにその場で入会きめてもらう営業トークも
ものにしなければならないでしょう。
労力に見合った月謝を払ってもらえるような授業をしたい。
下手な外国人教師よりは授業研究をしているはずだが 同じだけのレッスン料を言うと
「高い」とくる。
外国人というネームバリューに負けないくらいのうむもゆわせぬ実力を身につけなければ。
来年の春の復帰をめざします。
プロバイダからip電話用の登録が完了した旨がきました。
それから今日、NTTからip電話用モデムが到着しました。
明日はちょっとパソコン設定できないかもしれないので、
日曜日に使えるようにしてみたいと思います。
承知しました。
ありがとうございます。
ただいま時間がとれませんので、今日、レッスン終了後見させていただきます。
用件のみにて。
昨夜はレッスンを終えてそのままへたるように寝てしまいました。
レッスンの時はたいてい次の人の時間が迫っていて、生徒さんとなかなか話ができません。
これからこころあたりのある生徒さんに電話してみます。
I 村さんからOKの返事をいただけました。
村田君にも連絡をとりましたが、部屋の電話も携帯電話もつながりませんでした。村田君は、
IP電話を申し込んだようですが、まだ開通してはいないようです。
もう一人、Fさんという方にお願いしましたが、今日の午後5時は出先から帰れるかどうか
微妙な時間なので、帰れたらつないでみるがというお返事をいただきました。
というわけで、確保できたのはお一人だけです。
事情があり私はIP電話を導入できないのですが、10分だけのテストなら、私も参加して
みようとも思います。
というわけで、予定は I 村さん、SAIT さん、私の3人です。
今回は無理なようですが、次回にアメリカ経由の無料会議電話の実験に参加してみて下さい。
俺の方は、今回だけ普通の回線からつないでみるつもりです。
今日の電話でレッスンは体調不良のため休ませてください。
承知しました。
振り替えが使えますので、次回のレッスンの時、言って下さい。
埼玉SAITさん、根石さん、藤澤さん、先程はお世話様
でした。参加させていただきましたI村です。
今回のテレカンファレンスですが、音質とかそういうこと
より何より、日本各地の電話音声がアメリカ国内で一つに
なったということに、今更ですけれど私は感動しています。
音質もそれほど悪くなかったのではないでしょうか。
声にエコーがかかるような感じはしましたが、それほど
気になりませんでしたし。私の普段のIP電話は結構雑音
が入りますが、電話でレッスンに支障がでるほどでは
ありませんし、テレカンファレンスも使用可能では
ないかと思いました。
なんか俺が SAIT さんが無料会議電話の話をして IP 電話開設を急がせてしまったようで、申しわけないような気がしていますが、俺の方も今日
SAIT さんが主体を務めて下さった無料会議電話に参加して、IP 電話に切り替える潮時かなと思っているところです。
これまで ISDN から抜けられなかったのは、俺が二階で「電話でレッスン」をしているときに、女房がやっている地元相手の塾(素読舎)へ塾生から休みの連絡などが入るから、実質的に電話回線として使えるものを二つ確保しておかなければならなかったからでした。しかし、女房の携帯の電話番号を塾生に教えておけば、ADSL
を導入して、電話を IP 電話にしてしまうことができるじゃないかとキリピーに言われ、そうかそういう手があるなと思ったのでした。
俺が IP 電話に切り替えた場合のメリットというものを考え始めています。
無料会議電話というものが、日本に上陸するものかどうかわからないのですが、まあ時間の問題だとも思っています。アメリカに電話して無料会議電話を使ってみて、俺は
NTT に腹が立ちました。
俺はもうフリークは相手にせんからとはっきりと言っているのに、俺のこの掲示板にのこのこ出てきて、「長野県根石村」などとアホなことを言っているお人がいますが、NTT
の体質こそは日本の「村」の体質が作った滅びるべきものの典型でしょう。アメリカにすでに無料会議電話があるというのに、NTT
のクリアカンファランスとやらは、通話料金の他に会議に参加する人全員に1分25円も課金するのですから、どうしようもないお代官根性です。日本の村の体質が作ったもので滅びてはならないものはさっさと滅び(俺が生まれて育った村では自殺者がこの数年で何人も出ています)、NTT
のような滅びなくてはならないものがのうのうと生き残っている。
NTT に対抗する電話会社が協力しあって、日本にも一つ無料会議電話を作るべきだというのが、アメリカ経由で俺と塾生の方々3人と同時に話したりしてみての今日の感想でした。これは電話での通話を促進するのに有効だと思いますが、その場合でも
NTT に基本料という金が流れ込むのが腹が立ちます。こういう金が、小泉みたいなやくざものを首相に据え続けるような日本の体質になっている。
これほど NTT が嫌いなのに、俺が IP 電話を使うときは、OCN を選ぶだろうと思うと気持ちが逆噴射に似た動きをします。回りの話を聞く限りでは、ヤフーBB
なんかは回線の品質が不安定で、仕事には使えそうもない。「電話でレッスン」をやっているときに、勝手に回線が切れたりしたんでは仕事にならない。俺の生徒さんの
IP 電話では、KDDI だかの系列の ディオン(DION と書くのですかね?)とやらもよく切れます。
山形の I村さんの OCN が、SAIT さんのマンション型の IP 電話(光通信)などを除外すると最も安定しているので、現在の俺の逆噴射判断があります。
俺が IP 電話を導入した場合、すぐに思いつくのが、女房、村田君、いくこを相手にした会議式のレッスンです。俺が地元相手の塾から手をひいて以後、英語の音に関していくつか新しくわかったことがあるのですが、女房、村田君、いくこがみんな
IP 電話を使ってくれて、俺が IP 電話を導入すれば、月々各自4千円程度でレッスンが可能になり、ここ数年の間に俺がみつけたものを伝えることができます。俺の娘にも参加してもらいたいと俺は思っています。もはや、無料で伝えることは素読舎内部においてもやりたくはありません。
会議電話というか、電話会議というか、こんな程度のこともアメリカ経由でなければできないの
かというものに関して、感想をありがとうございます。
今、ちょいと頭に血が登っておりまして、本当に「村」に腹が立っております。
「村」の住人のくせしやがって、「長野県根石村」などというアホを書き付けた者どもに対する
腹だちが背後にあるとも思います。
なんか俺が SAIT さんが無料会議電話の話をして
→
なんか俺が SAIT さんの無料会議電話の話をして
そうですか。休業なさっていたんですか。Jackie さんのような真摯な方が休業しなければならないということを思うと、日本という「村」、その村の中の「村」である学校(大学をもちろん含む)の犯罪というものを思わないわけにはいきません。
そういう「村」の住人が俺なんぞに対して「穏健なもの言い」を求めることに対しては、命あるかぎり、ぶちまかしひっくり返してやろうと思っております。
まったく Jackie さんの言う通りだと思ったのでした。
「暴走」しているのは、現在の公教育機関としての学校です。そのもっとも見やすい教科が英語科です。しょせん、文部馬鹿省のいいなりをやっている学校のいいなりをやっている教員の言うことですから、気にしても無駄です。ほったらかそうと思っておりますが、しかし、それにしても「生徒」のくせに言うことがでかい。この掲示板の意味などがいまだにわからないようなら、この掲示板に出入りしなければよかろうがと思ったのでした。返事をする気にもなりません。
>英語をやめることも考えました。体も心も疲れていました。
俺もしょっちゅうそのことを考えます。
>いままでは高校生以上社会人を相手にしてきました。
受験とはかかわりのない仕事をしてきました。
しかしこれからは中学生も教えていこうかとおもっています。
やってみるとおわかりになると思いますが、このラインもきついです。
そういう枠組みで考えない方がいいように思います。
「音」を中心に据えるか据えないかという枠組みの方がはるかに重要だと思います。
「音」を中心に据えた上で、長崎などのパターンプラクティスを実践される方が、実質的だと思っています。
俺(私)の生徒には、小学生・中学生・高校生もいますが、すべて親が「音」を中心に据えたレッスンを望んで、私のレッスンを選んでくれた場合の生徒です。
制度が幻想させたがっている枠組みは、微分してしまうべきだと思います。
無料会議電話で私が仕事を始めた場合は、ID をお教えしますので、参観してみて下さることをお願いします。
今日は連絡もらったみたいでどうもすみませんです。
ip電話については、登場した時から村田は「パケット通
信で電話?」と主に原理的に予想される品質から全然念
頭になかったのですが、いろいろ話を聞いてみると、数
年の間にインフラと技術革新が進んでいるようで、まあ
使用に耐えるのかな、と思い導入してみました。
初期費用は全然かからないし、月々数百円だからいいか
な?とも思いまして。
というわけでご心配なく。
村田の教室からもろすあんじぇるすに住もうという人が
出てきたのでまあ時期的にもいいんじゃないかと。
ただ、村田は加入しているプロバイダがip電話はODNを採
用しているようなので、根石さんの書きこみからちょっと
不安要素があるわけですが…。
ちなみにODN系だと対アメリカ通信は1分9円です。
無料会議電話サービスの実験は首尾よくいったみたいで
すね。
次回は参加したいです。
まあ時間がみんな一緒にとれるかどうかはわかりませんけど…。
Sumie先輩やJackieさんやその他の人たちが一緒に加わっている
状態ってかなりいいかもと思いました。
余談ですが、NTTが新規加入者から「預かっていた」通称「加入権」
をなかったものにしようとしているという話を聞きました。ほんと
だったらひどい話です。
>※本人が討論するほど「語学論」を持たないとき、
人に英語を教えるようなやくざな商売をしているのであれば、学校の教師、塾の講師、英会話学校教師を問わず、「語学論」を持たなければ駄目だと思います。そうでなければ、アメリカ発の睥睨から逃れられないのです。この点に関して、もっとも微細で微妙な感覚をお持ちの方は、私の知る限りでは柴田武史さんです。sbさんなどは、穴だらけです。自分が論理として相対することができず、暴走する論理でどれほど俺の手間をわずらわせたかも心得ないまま、この掲示板の「意味」などを問うたりしたのですから、私は今後さらに『暴走』したいものだと思いました。二重かぎ括弧の暴走です。ああ、暴走も裸が気持ちいい。
※または自分の意見に自信がなかったり
まあ、この掲示板は、玄人さん、あるいは半玄人さんのためのものになっていますから、自信のない方は、私が今後、無料電話会議を開催することがあったら、参観なさることをお奨めしたいです。私は確信を深めつつありますが、「論理」だけがすべてを貫くのです。あっちを見たり、こっちを見たりの人たち、つまり、しろうとなのに学校の先生をやらなければならない人たちが持っていないものこそ「論理」です。食うに困らんからということで免許などとってしまった人たちこそ、今後は悲惨だと思います。
※ただ単に面倒な場合、
こりゃ、しょうがねえや。俺もよくそういう状態になります。
※語学論に飽きた、もうすでに実践中だからここで話すことはない。
冗談じゃねえと思います。日本に「語学論」はまだまともには立ち上がっていません。
※単に忙しい
これもしょうがねえが、村田君がしっかりしていてくれれば、過去ログでみんな読めます。俺も忙しいときは、掲示板なんかやってられるか、アホクセ、という気持ちになり、その気持ちに従順に生きております。
※時に喧嘩言葉もまじるので 恐い。
俺が恐い人間かどうかは、私の生徒さんに聞いてもらえばわかります。
私は厳しいだけです。
酒も飲まずに酔っ払う人は、今後なるべく相手にしないでいたいと思った日でした。
>余談ですが、NTTが新規加入者から「預かっていた」通称「加入権」をなかったものにしようと
しているという話を聞きました。ほんとだったらひどい話です。
そうですよ。杭瀬下村です。
俺がおめえに何の危害を加えたってのかね。
アホはアホをやっていろ。
日本語を英語の発音でしゃべっていろ。
何が「生きて帰れるか」だね。ええ?
論理が生きているか死んでいるかだけの問題じゃねえか。
アホはアホだ。
人格の問題じゃねえ。おめえのアホの問題だ。
ろすあんじぇるすはカタカナで書いてむらいたい。
ろすあんじぇするはやめてむらいたい。
よくなっています。
メタファでアメリカをコケにする歌など登場しているから、しばらくは日本も大丈夫じゃないか
と希望が持てた日でもありました。
亜室波江さんなんかも、貧乏くさくなくなってよろしいとおもいました。
よしよしと何度もうなづいてしまいましたが、歌など歌っている人たちは純粋でよい。
語学論と歌が対立項(なんていいましたっけな、ダイゴトミーじゃねえ、ダイゴは俺の生徒の弟
だった、そうでしたぁ、ダイ「コ」トミーでした)になってることを、日本の皆様が早く認識し
て下さることを願った日でもありましたぁ。
毎度のことながら、酔っ払いであった日でもありましたぁ。
やい、いいかげんにしろよ、糞ったれども。
根石さん、村田先輩、
私も参観したいんですが、どうしたらいいですか? ようわかってないんです。 私は今ISDN(か?)を使ってるんですが。 ブロードバンドの事もなんだか良く理解できてしませんし。 私の場合は、具体的にどうしたらいいのか、ご面倒ですがアドバイス御願いします。
すべてよし・・・仏
こだわるな・・・空
よいかげん・・・中道
ありがとう・・・礼拝行
みなできる・・・一切衆生悉有仏性
>>しかしこれからは中学生も教えていこうかとおもっています。
>やってみるとおわかりになると思いますが、このラインもきついです。
そういう枠組みで考えない方がいいように思います。
そうですか。根石さんは進学塾と長年たたかってこられたのでしたね。
受験のための塾やら補修塾やらは 大手塾、近所にも私塾がありますね。
私達のころは1学年6クラスあったものが1学年3クラスに減っています。
少子化にともない パイの争いは厳しいのでしょう。
生徒を育てるための「実力」が必要ですね。
途中参加ならなおのこと。
受験のポイントを教える塾も多い中、英語の基礎力を地道につけていく方法がうけいれられるかどうか。 中高生のニーズといったら受験にパスする実力。
遠回りのようだが基礎力をつければ 英語は一生の財産になるのだが・・・・。
わかってもらうには実力とマーケティングと営業力か。
根石さん、村田さん、Naimaさん、いくこさんも がんばってらっしゃることだし。
見習ってひとぶんばり。
今回は顧客のニーズをつかまなければ。
私は英会話をやりたいという人に 英会話をやりつつも基礎力を身につけるトレーニングをしてきた。やる気を出して外国に巣だった子もいる。なにかをつかん人もいる。これは嬉しい。
途中で止めた人もいる。トレーニングはやりたくないけれど英会話をしたいという人たちだ。
彼、彼女たちは 英会話をしている自分という湯気がほしかったのだ。
私は顧客のニーズに反していたから辞めていったのだ。
基礎なぞやらずに適当に外人をあしらって フリーカンバッセーションさせてればよかったのだ。
生徒が力をつけようがつけまいがしったこっちゃないと。
求めているものは 「英会話湯気」なのだから
旅行会話のコースもやったが 基礎力ないとね、話しにならない。
教科書の本文通りに会話は進まないから。
「ハウマッチ?」「トイレドコ?」の特級のサバイバルイングリッシュなら
旅行前に何回かふれるだけでいいが。
前にも書いたが
白人の外国人の友人がやっている英会話教室はとても盛っている。
正直くやしい。 彼はただの外人だ。教える力????
「子供の時からネイティブに習うと発音も英語も身につく」とうたっている。
顧客のニーズにぴったりマッチしている。
大人のクラスも カルチャーおばさんたちに人気だ。
一年かよっても二年通ってもちっとも上達がないが そんなことは関係ないのだ。
外人と話す自分で満足なのだから。
カルチャーおじさん、おばさんには私は外人でないので満足してはもらえない。
しっかしこういう人を教えるのは 私にとってとってもストレスだった。
私はカルチャーでなくやる気のある子を教えたい。
築いた英語力が将来に役立つように。
なんて理想論ばかりこいてるからだめやねん。商売なんやから
顧客満足かすたまあさてぃすふぁくしょんとやらが重要なんやで。
やっぱりなあ、実家家業の雑貨屋を大きくするか。
小さいが顧客はいる。
よいものを売ればいいのだ。
生徒の成長に責任をおわなくてよいのだ。
小売も大変な時代だが 探せば活路はあるだろう。
英語を教える夜の仕事と違い、
昼間の仕事だから 病みあがりの体にはこのほうがいい。
カナダ人の友人はカナダの中学侯教師の教職から 大学に行きなおし不動産の家販売をはじめた。
AETの友人はアメリカに戻り 普通の会社に入社して事務をやっている。
どちらも教えることが好きだったが 転職した。
「いやー、休日に予習しなくていいし 気が楽。やめてよかった」と言っている。
食べていくために どちらかを選んで出発しなければ。
(英語教室やる気になったと言っていたではないか??)と自らつっこんどきます。
村田は会議のサービスはまだ体験してないのでよくわかりませんが…。
このサービスがアメリカ国内のサービスらしいので、アメリカの電
話番号に電話して参加する必要があるようです。
そこで、IP電話の出番なのですが、多分ISDNだと線が細いので音声
データが渋滞して、音が途切れたりしやすいんじゃないでしょうか。
だからISDNよりデータがたくさん送ることができるADSLとかに回線
を変更する必要があると思うのですが。
詳しい方、あとよろしくです。
村田の塾には中学3年になってからなんとかしてくれとやってくる生徒さんが結構います。
ところが、中学3年の教科書をいきなり回転読みで練習するといっても、語数もそこそこ
多いのでなかなか先へ進みにくいです。
そこで、中学3年の教科書の回転読み練習用の素材を作ってしばらく試験的に使ってみま
した。
(1)After this
この後
(2)After tihs, the number
この後、数は
(3)After this, the number of people
この後、人々の数は
(4)After this, the number of people led by King
この後、キングに指導された人々の数は
(5)After this, the number of people led by King increased.
この後、キングに指導された人々の数は増えました。
(5)が教科書の本文です。
(1)の日本語訳を言ってから、After this After this ...と5回連続で読んでもらいます。
(2),(3),(4),(5)と同じようにしていきます。
不慣れなうちは、(3)から(4)へ移るあたりでつっかかり始めるので、(3)からもう一回練習
してもらいます。
最終的に(5)がすらすら読めるようにします。
まあこうやって書いてみるとさもないものですけど。
短いものから始めるので、回転読みの回路が作りやすいのと、勢いがつけやいのが自信に
つながると思います。
以上、参考まで。
村田はある意味サロン的に機能してるカラオケ教室なんかはアリだと思います。
だけど。
「カルチャーばばあ」
あーなんといやらしいひびきでしょうね。
カラオケ教室で楽しく集うじじばばとは一線を画するいやらしさ。
語学はいったんバカにならないとだめだと思うんですけど、カル
チャーばばあは決してバカにならないんですよね。
プライドだけが高いバカ。
まあ年齢に関係ないですけどね。
村田はへたれですが、なんとかやってます。
ともに、というのはまあ僭越なんですが、それでもともに、
なんとかやっていきましょうよ。
After tihs, the number → After this, the number
お休みばかりで申し訳有りませんが、今夜のレッスンはお休みさせて下さい。 期末対策で少し忙しいので。 来週よろしく御願いします。
また掲示板を読まずに電話を鳴らしてしまいました。ごめんなさい。
練習の継続をお願いします。
お宅の電話が ISDN だということは知っていましたので、今回、お誘いしませんでした。もちろ
ん、ISDN でアメリカの無料会議電話につながりますが、圧倒的に料金的に不利です。私は、おも
しろ半分で、10分だけつないでみました。「じゃ、私はこれで退室しますので、あとは皆さんで
お話して下さい」と言ったら、皆さんはなんだか笑い声を立てて、私より先にお二人が退室されて
しまい、残ったのは SAIT さんと私だけでした。
まあ、やったのは電話やプロバイダに関する世間話だけでした。
うちも ISDN なのですが、そろそろ IP 電話にしようかと思っていますが、千曲市鋳物師屋642
−3では、どのプロバイダが一番安定した回線を提供するのかがまだわからないので、もうちょい
様子見です。
導入に工事費数千円、回線の質が悪かったら、他のプロバイダに変えるのに、また工事費数千円で
すから、やだ。プロバイダどもめ、回線品質に自信があるなら、工事費ただにしろ。
俺、文句を言うのはもうやだから、「回転読み」と「技法グラウンド」について、差別しておい
て下さい。
> (1)After this
この後
(2)After tihs, the number
この後、数は
(3)After this, the number of people
この後、人々の数は
(4)After this, the number of people led by King
この後、キングに指導された人々の数は
(5)After this, the number of people led by King increased.
この後、キングに指導された人々の数は増えました。
自分で方式を編み出そうとしているのがわかってうれしかったです。
これはいいと思いました。
ミソは、既存の各種メソッドに「技法グラウンド」を歯車を噛み合わせるように噛み合わせる
ことだと思います。
そうすれば、学校の訳読式や文法説明も全部生き返ると思いました。
俺は、その実験を今、小学生相手にやっています。
夜遅く、回転読みと技法グラウンドを差別しときます。
「音読」は黙読と違い「声に出して読むこと」です。自分が音読すると相手はそれを聞くことができます。上手に音読すると意味が相手に伝わります。当たり前ですね。
では、「音読」と「回転読み」はどこが違うのでしょうか。回転読みは同じ文章を100回程度読みます。文単位で読んでいきます。文単位とは大文字からピリオド(.)までのことです。大文字からピリオドまでを最低50回繰り返し読むのです。
50回〜100回で変化が出てきます。変化がでるのには個人差があります。しかし、だいたいこの数字で変化が出る人が多いのです。変化とは自分がことばを使いこなしているという実感です。そこまで繰り返し繰り返し音読するのです。それが「回転読み」です。
何回も何回も繰り返す。それが「回転」ということです。ぐるぐる回すのです。しかしそこまで読む人はほとんどいません。馬鹿らしいと感じているからです。なぜそのようなことをするのか。それは自分の体の中にその「ことばを入れるため」なのです。
なんのために「ことば」を学ぶのか。それは「使う」ためでしょう。「使う」ものは当然「分かる」。受験で「使う」。長文を読んで「分かる」。会話を聴いて「分かる」。尋ねる時に「使う」。答えてもらって聴いて「分かる」。手紙やメールを書いて「使う」。それらを読んで「分かる」。電話で相手の声を聴いて「分かる」。ファックスを読んで「分かる」。電話で話したりファックスで書いたりして「使う」。映画を観て「分かる」。新聞を読んで「分かる」。つまり、「分かる」ため、「使う」ために、学ぶということです。
なぜ学ぶのか、この当たり前のことが今まであまり真剣に考えられてきませんでした。その当たり前のことをやっていくのがこの「回転読み」です。
つまり、音読は「声に出して読むこと」。一方、回転読みは「声に出して100回(文単位)連続で読むこと」。その目的は、「使えること」「分かること」。そのために「自分の体の中に入れること」。体の中に入れるために同じ文を繰り返し約100回音読する。それが「回転読み」です。
直前の投稿はNaimaさんのHP「素読舎案内板」を参考に自分なりに考えてみた文章です。
回転読み:学習者が、机上で自分一人でやる練習。一つの文を、なめらかさを持つまで、学習者が納得いくまで読む練習。
技法グラウンド:塾や学校などで、一つの文を最低5回以上繰り返して読む練習。必ずコーチがつく。
村田が昨日書きこみしたのは、あくまで「技法グラウンド用素材」であって、回転読み用ではありません。「塾で、一つの文を5回以上読む」ことを目的にしたものであるので、技法グラウンド用の素材ということになります。
なんとなく違和感を感じたこと。
>「音読」は黙読と違い「声に出して読むこと」です。自分が音読すると相手はそれを聞くことができます。上手に音読すると意味が相手に伝わります。当たり前ですね。
(sbさんは「音読」としていますが、「大風呂敷」に書いているの
で、村田は「素読」と読み替えます)
これは本当だろうか。素読という観点からすると違和感あります。
声を出して読むと相手に「意味が伝わる」のは「当たり前」か?
村田は今日、高校生に、彼のやっている部分のはるか先を声を出し
て読んで、「意味がわかるか?」と聞いてみました。
彼は「わからん」と言う。
村田はこれが当たり前だと思うんですよ。
日本語のテキストを声を出して読んだとして、意味が相手に対して
伝わるのは当たり前だろうか。これも必ずしも当たり前とは言え
ないと思うんです。
素読は、とりあえず意味は保留してよいから、とにかく声を出して
読むということだと思います。意味はそのうちわかる。さらに読ん
でいると、わかった、と思っていた以上のことがさらにわかる。
>では、「音読」と「回転読み」はどこが違うのでしょうか。回転読みは同じ文章を100回程度読みます。文単位で読んでいきます。文単位とは大文字からピリオド(.)までのことです。大文字からピリオドまでを最低50回繰り返し読むのです。
読む回数は「何回」とは決まっていないと思うんですよ。
確かに過去ログでは50回とか100回とか数字はあるんですけど、
村田はあくまでも一つの目安であると思っています。
なめらかさを獲得するために「結果として」200回読んでいた、
500回読んでいた、ということになると思うんですよ。
ウチの塾生は100回どころではない勢いで練習している者もい
ます。あれは読むこと自体が一つの楽しさになっているなあと
思います。
>なんのために「ことば」を学ぶのか。それは「使う」ためでしょう。
使用価値のためだけに学ぶわけではないと思うんですよね。
単におもしろいから、とかではだめかな?
その結果として、ああ通じたよ、もアリだと思うんですけど。
コメントありがとうございます。
いろいろ考えてみたいと思います。
>(村田さん)声を出して読むと相手に「意味が伝わる」のは「当たり前」か?
そんなことはありません。このsbの表現は可笑しいですね。あまり考えずに書いてしまいました。
>(sb)音読すると意味が相手に伝わります。
これはこのように表現した方が良いかもしれません。⇒「音読すると音声が相手に伝わります。」
この表現も可笑しいかもしれません。またいろいろ教えていただきたいと思います。
意味が伝わるかどうかは聞き手の概念構築度や音づくりの度合い(=同致の度合い?)によるのでしょうか。双方の概念構築度と音づくりがうまくかみ合わさっている場合は通じる。やはり同致という言葉がいるということも少しずつ分かってきたような気がします。
日本人の英語話者では、概念構築度(ここでは文字文章とイメージが一致しているというくらいの意味)がたいへん高度なのに音づくりができていない人も多い。そのため、通じないと感じている人が多い。彼らは日本人が聞き手であれば非常によく通じるのである。
逆に、英語フリークの中でも音に関心がある少数派は音づくりが比較的できているが概念構築度が低い場合は「日本人にはきれいな音と表面上は受け止められる(概念構築度が高く、音づくりがあまり出来ていない聞き手には同致が出来ていない分、分かりにくいことになる)」「ネイティブには話者の概念構築度に応じて通じる(音づくりに基本原則を踏まえているため)」
同致が出来ておらず、概念構築度も低い人も多いが、いわゆる英会話を楽しんでいる人も多い。
音づくり⇒同致・・・Aパターン
同致⇒音づくり・・・Bパターン
では、根石さんは確か、Aパターンだ!と言っておられた記憶があるのですが、確かにBパターンで音づくりの修正にたいへん苦労されている方々は多いのだと思います。音づくりの基礎が出来ていないのに、概念構築と記号(文字+音声)を同致しようとすることは、どう考えてもエコノミーとは言えない。しかし、この当たり前のことを理解してもらうことが難しい。それくらい歪んでいるとも言えるのではないでしょうか。
音づくりと概念構築は別々の作業で、一度に一つのことに集中したほうがよい。「音づくり」は「音づくり」でやる。「音づくり+概念構築=同致」は「同致」としてやる。順序は「音づくり⇒同致」。
それから他にも村田さんにコメントしていただいたところもありますが、また投稿させていただきます。重ねてコメントありがとうございました。
正直なところを書く。中野の話があったとき、俺はどれほどお前にそれをやらせたかったかわからない。俺の相場を呑んできた話だから、往復する時間まで入れて、時給二千円になる話だ。本体だけなら四千円になる。
この国で英語が安くなることはない。俺の理論が正しければ、英語しかわからない外人の値は下がっても、語学の本質を認識する日本人の値は下がらない。
やらせたいと思い、直後にできっこないと思った。
語学とは無益を生きることだ。
目先の金を見ている者に、シャバが語学の代価を払い続けることはない。ただ信用を落とすことで終わりになるだけだ。
俺の今の生徒たちは、俺が正面から無益を生きているところまで見て、俺にお金を払ってくれている人たちだ。俺はそう思っている。
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ここでの追記
語学とは、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」を生きることだ。
自分を無にする練習だ。
この掲示板を村田君が立ち上げてくれてから、延べ人数ですが、四万人を越える人が読んでくだ
さいました。
初代「大風呂敷」で三万五千人、二代目「大風呂敷」でほぼ四万人。ここで四万人。
合計で、酔っ払いの頭が狂っていなければ、11万から12万人の方が読んでくださったことに
なります。
感謝いたします。
これからは、もっと多くの人に読んでもらえるように努力したいと思います。
村が町になんかならなくていい。町が市になんかならなくていい。
村や町や市が、国を相手取ることが成立しなければならない。
あらゆる国家の死滅が私の願いです。
休眠状態だった頭を活性化させ 英語教室のプランをねるためにHP散策を再開。
All aboutに英語を勉強してきたものが皆賛同するとおもわれる
王道ともいえるオーソドックスな勉強法のまとめがかいてあった。
速習!英会話上達のつぼ
http://allabout.co.jp/study/english/closeup/CU20030125A/index.htm
口の筋肉が英語上達の秘訣!
http://allabout.co.jp/study/english/closeup/CU20030128A/index.htm
さらにリスニング力を高める方法
http://allabout.co.jp/study/english/closeup/CU20030128D/index.htm
上記の英会話習得法をすべて実行するのは英語がどうしても必要な人意外は無理だろう。
英語が必要な社会人にも仕事があり 英語に費やすことのできる時間はかぎられている。
中学高校生は授業、部活、他教科の勉強もある。
彼らには上の勉強をオールマイティーにやっている時間はない。
時間がとれるのは夏休みもながく 時間がある大学生ぐらいだろう。
素読、音読 回転読み テープのかけながしをメインに
たまーにディクテーションンなどを加えるのがよいだろう。
全部やることも必要だが あぶ蜂取らずになりそうで。
基礎固めはもっとシンプルにだ。
やはり 発音、音読、回転読み。基礎構文の徹底。
外人講師ー下記のようなことを言う まともな外国人講師ってめったにいないのが残念だ。
彼らの生徒はラッキーです。
イアンさんより英語を学ぶ日本人へのアドバイス
http://allabout.co.jp/study/english/closeup/CU20030526A/index2.htm
もし、英語を本当に上達させたかったら、自ら進んで勉強しなければなりません。これだけは覚えておいてください。誰もあなたに英語を教えることはできません。あなた自身が学ばないといけないのです。英語の力を伸ばすには、あらゆる方法を試し、苦労をいとわないで一生懸命に打ち込まないといけないということです。
http://allabout.co.jp/study/english/closeup/CU20030513A/index3.htm
>「ラサール弁護士のREAL英会話」
英語を話す日本人、あるいは学んでいる日本人に対して、何かアドバイスをいただけませんか?
はい、僕のアドバイスはすごくシンプルですよ。
▼ 1.一生懸命勉強する
本屋さんへ行くと、「世界で一番やさしい英語の本」とか「英語は勉強する必要なし」なんていうタイトルの本を見かけるかもしれませんが、語学を学ぶって実は本当に大変な作業なんです。
▼ 2.規則正しい学習
ただ、1週間に1度、英会話学校へ通うだけでは十分ではありません。毎日勉強しなければなりません。英語を生活の一部にしましょう。少なくとも1日に30分の学習は必要です。
▼ 3.根気強く!地道な努力をする
▼ 4.楽しく学びましょう
もし推理小説が好きなら、英語版推理小説を読んでみましょう。音楽が好きなら、英語の歌詞から