素読舎の塾長は俺だ。
俺が柱だ。
その俺がしこしこと本気で作ってきた「あいうえおフォニックス」について、まともに読みもしねえで、門下のあほたれがでかい口をききやがる。
やってられるか。
で、いくこは俺の門下というより、実質は俺の女房の門下である。
しかし、俺の女房は俺の門下である。
俺がいくこを破門するためには、俺は女房を破門しなければならない。
いくこがでかい口をききやがったことを、いくこ自身がどう処理するのか。
俺は女房を破門することは構わない。
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・・・「あいうえおフォニックス」の大前提・・・
・アクセントのあるところの母音は、(比較的綴り通りに)はっきりとくっきりと発音されるが、それ以後の母音はぼける。ぼけて、曖昧母音化する(粗末にされる)傾向が強い。(この曖昧母音が無視されてなくなることもある。)
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・・・「あいうえおフォニックス」の小前提・・・
・日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえる音に関する「広い・狭い」の区別を綴りから割り出すためのものであること
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<それぞれの綴りにアクセントがある場合・あるいはそれぞれの綴りがアクセントの前にある場合>
・生徒にローマ字で「あいうえお」を書かせる
・それぞれに r をつけさせる
・得られた ar ir ur er or の ar だけを○で囲ませる
・残った ir ur er or を大きな一つの楕円でひとくくりに囲ませる
・これで、ar と他の4つ ir ur er or が別のグループとしてはっきり区別される
・ar は「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」
・他の4つ(ir ur er or)は、「狭い音」
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<それぞれの綴りがアクセントの後ろにくる場合>
・生徒にローマ字で「あいうえお」を書かせる
・それぞれに r をつけさせる
・得られた ar ir ur er or のすべてを大きな一つの楕円でひとくくりに囲ませる
・全部「狭い音」になる
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(以上の図式は「 a i u e o 」に「r」をつけたものだけのものだが、図式が単に図式としてでなく、生徒が英語を音読していく場合に自然に使えるように感覚化された(反射神経ができた)あたりで、ear, re を追加する)
・ear も「狭い音」
・re は er と同じく「狭い音」(母音の後で re が現れる・図式の er の下に括弧に入れて
(re) と生徒に書かせる)
・あるいは、「ar, ir, ur, er, or」だけを扱う段階で、最初から 「er」の下に、括弧に入れて(=re)として、扱うのもいい。「er
= re」が現れる確率は、「ear」が現れる確率よりはるかに高いからである。
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<例外>
・earに関して heart, hearth (ともに 顎の下がる明るい音になる)
・er に関して sergeant (顎の下がる明るい音になる)
・ar に関して particular (どちらの ar も「狭い音」)
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稲荷山で喫茶店をやっているKさんが、ずっと一筋、自分が求めるものを求め続けてこれまでやってきた、それは根石さんが長年英語をやってきて、今でも真剣に日本人にとっての英語を考えているのと同じだ、と言っていたとHさんから聞いた。
自分がやってきたことを、そのように求め続け、作り続けてもいない若い者から、わかったようなつらをされると、無性に腹が立つとも言っていたそうだ。
「あいうえおフォニックス」は、日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえる音に関してだけ
のものですが、区別しているのは、『顎の下がる明るい「あー」(歯医者のアー)』と『狭い
「あ」』だけです。
広い音には、『顎の下がる明るい「あー」(歯医者のアー)』の他に、「一瞬般若(吊り上げ音)」
がありますが、「一瞬般若」は「あいうえおフォニックス」が扱う音としては対象外です。
>>語学の言語と生活の言語の区別ができていない
>これは自虐論者か道具論者という議論なのでしょうか?
自虐論というのは、まだ読んだことがありませんので、新書の名前がわかりましたら教えて下さい。しかし、字面を見るだけでも、自虐論というのがどんなものかはわかる気がします。私はこの掲示板で「反英語フリーク」を掲げておりますが、自虐が生じるのは、「英語フリーク」においてです。磁場に渡った英語フリークの病気は、磁場がなおしてくれますが、日本在住のままの英語フリークの病気を治す薬は日本語の磁場にはありませんので、病気は深まる一方、その結果、自虐が生じるのではないでしょうか。
私が言い続けてきた理屈は、「自虐論」です。というか、「自虐批判」です。
道具論には、一定の根拠はありますが、言葉に関する思想の底が浅すぎるので、まともに相手にしたくありません。
で、語学の言語と生活言語の区別ができていないという問題は、自虐批判とも道具論とも無関係ではありませんが、直接には別問題です。
お手数をわずらわせて申しわけないですが、多忙をきわめておりますゆえ、私がsbさんのどんな発言に対して、「語学の言語と生活の言語の区別ができていない」と発言したのか、覚えておいででしたら、私のものでもsbさんのものでも結構ですので、引用していただけたら幸いです。
もし、この問題について興味がおありの方がおられて、第三者の立場から引用していただけるならなお結構ですので、読者の方々にもお願いしておきたいと思います。
たまにはいいものです。海外滞在。
ここ何年も旅をしていないので行きたいですね。
リフレッシュをしに。
ながらくひとつところにいると凝り固まる。
頑固になる。
そんなとき自分をぽーんとどこかに放り出してやると
こだわりがとける。
物事を別の角度からみれるようになり いままでこんなことで悩んでいたのかとばからしくなる。
私の英語の力はさびてきている。さびまくりだ。
英語への執念、恋も醒め 教えることに前より情熱をいだかなくなった。
いだかなくなったのにはわけもある。
ただ英語がしゃべれるというだけの外国人に1時間4000円もはらうのに
私には払えないらしい。
しっかりとレッスンプランをたて
なるべく効率的に効果的に英語の基礎力を身につけようとしているものにとって
単なるくっちゃべり外人兄ちゃんより稼ぎが悪いというのは
時にあまりにもばからしくなるのだ。やってられねーよ。
ま、私の不徳のいたすところもままある。
英語で飯をくうのだから英語力、教える力をたえず磨かねばならない。
それで英語圏滞在を考える。
英語力チャージ。
語学学校に午前中いってみるか。いやほとんどの語学学校は行くに値しない。
(Naimaさんがドイツ滞在中に通っていた学校を覗く。ここは効果ありですね)
行くに値しないがどっぷりと英語にひたることができる。
単なる旅行だけでは英語を使う機会は少ないのだ。
休息。午後は気ままに散策。ビーチがあれば昼寝。
夜はバーにでも行ってコロナビアかテキーラで雑談。
いつもと違う環境に自分をおき
自らをリセットして
充電してパワーアップしたいところだ。
根石さんも いかがです?
からっぽの電池を充電しに行きませんか?
あいうえおファニックスについて、
掲示板で、前提条件を含めたあいうえおファおニックスについて、
思慮なく軽んじた発言をしたことをお詫びもうしあげます。
今後は、いっそう語学について真摯にとりくでいく所存で降ります。
よろしくお願いもうしあげます。
あいうえおフォニックスと直接関係があるとは言えないかもしれませんが、
この理論(あるいは法則)を太らせる材料となるのではないかと思うものがありました。
アルファベット o (単独で現れる場合) を 「あ」と発音する場合が、アメリカ英語においてよくみられるという点です。
単語帳のとあるページからですが、o の含まれる単語をくまなくひろってみます。
例1)単独で子音と子音の間にあり「あ」と発音される場合
compliment, bond, hospitality, odds, colleage, posture, doctrine, prophecy,
bottom, botany, contest, posterity, (theology)
例2)うしろに u を伴って「あ」と発音する場合
output, counsel, drought
例3)発音が「あ」(逆さ e) となる場合
prisoner, symptom, irony, retoric, deducation, corporation*, riot
例外1)r を伴って発音が鏡文字 c: となる場合
core, course, court, corporatopn*, shortcoming
例外2)発音が ou となる場合、あるいはその他
revolt, oath, zone
category, dogma, childhood, bosom
*は、重複して掲載しているもの
法則性については、まだ私の中でうまく整理されておらず、言及できずにいますがご了承ください。
とりいそぎ、失礼いたします。
■追記
あいうえおフォニックス および 10の発音 の効用について、考えていました。
これらの発音規則を学ぶことは、
日本人が英語の音を聞いたとき、
それがどの単語であるかを特定するのに、非常に助けになる、
のではないかと思うようになりました。
その中でも、
「あ」・「あー」が、明るい音であるか狭い音であるかを知っているだけで、
日本人のヒアリング力は、かなり向上するものと思います。
これにあわせて、先にあげた o が「あ」と発音されているのを知っていれば、
日本人が「お」と発音されるものと誤解して聞き取れなかった単語が、
そうとう聞こえるようになるのではないか、と思いました。
あいうえおフォニックスは、
日本人の英語のヒアリング力を向上させる点で、
かなり有効な戦略性を持っているのではないかと期待されます。
■訂正
先の記事において、訂正があります。
>例外1)r を伴って発音が鏡文字 c: となる場合
>core, course, court, corporatopn*, shortcoming
の
corporatopn* → corporation*
の誤りです。
失礼いたしました。
さる公的機関の世論調査によれば、ふだんの生活の中で自分自身の日本語のことば遣いが乱れていると感じることがあるかと調査したところ、「よくある」「ときどきある」「たまにある」で八割に達したそうだ。多くの人が自分のことば遣いをダメだと思っているのである。
なんと自虐的なのだろう!これは謙虚さを超えていると思う。日常使っていることばにこれほど多くの人が自信を持てないとは、驚きである。
なぜか?それは常にダメだダメだといわれているからである。ことばについての話が好きなのはいいのだが、マスコミなどの報道では「最近のことばの乱れ」というのに焦点の当たっていることがとても多い。この「乱れ」という観点からしてすでに評価が含まれている。常日頃からそういうものを目にしていれば、自分のことば遣いに自信が持てなくなるもの当然である。彼らを言語自虐論者と呼ぼう。
またこの反対の立場を取る者も現れる。つまり、ことば遣いが少々違ったって、それがどうした、ことばなんて通じればいいじゃないか、そうせ道具なんだから、といった開き直りである。いくら乱れているといわれようが、ふだんは何の問題もなく話しているんだ。そんな細かいことを気にするのは、一部の意地悪な言語学者ぐらいだ。学者がえらそうになんか言ったところで君するもんか。こういうグループを言語道具論者としよう。
この自虐論者と道具論者は、真っ向から対立するものではない。自虐論者があるときキレて、ついに道具論者になるというパターンもある。過激な人も多い。かくして、言語学者に対する敵は増えるばかりで、月のない夜は外を歩けない。
『はじめての言語学』(黒田龍之介、2004)講談社現代新書
根石さんちで昼飯をごちそうになりました。
雑貨屋きりPと俺と根石さんとで飯を食いながら話していたわけですが。
その時、根石さんは、こう言ってました。
「最近、英語の聞き取りができるようになってきた分、日本語の聞き取り
ができなくなってきたような気がする」
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最近、村田はテント芝居の脚本を音読するのに凝ってます。
演劇のセリフは、身体の動きに立脚している部分が大きいので、音読
してもおもしろいのです。さらに、音読していて初めて気づいたのですが、
一つのセリフの中で、時間軸や空間が流動し、意味が2重、3重以上
に重層的になっているのに感動してしまうのです。
(根石さんだったら、詩を読め、と言うでしょうけど)
最近、村田は英語の方が音読しやすいかな?と思います。
日本語の音読っていうのは、普通はしない、というのがまず一点。
普段日本語をしゃべるときは、無意識に自分のクセによってしゃべってい
る部分がかなりあるので、字面が意識の流れや口の動きを裏切るので
す。村田は出っ歯なので、言いにくい言いまわしは身体が無意識に避
けているということもわかりました。
英語をやることによって、日本語が聞き取りにくいと思うようになったり、
日本語をしゃべるのが、実は不自由だったんだと思ったりするのは似てい
ることなのか、と思ったのでした。
今日、おもしれー!と思ったこと。
昨日、きりPがポータブルレコードプレイヤーを持ってきて、ジャズも聞き
たいねえ、と言っていたから、デイブ・ブルーベック・カルテットを持ってい
きました。あーほんとはドルフィとかコルトレーンとか持っていきたいところ
ですが、残念ながらそれはCDしか持ってないんだなあ!
それで根石さんがきりPに、
「昼間にジャズを聞いているなんて、物悲しいな」
といいました。
きりP「『物悲しい』ってどういうこと?」
根石さん「村田くんにきいてみな」
ということで、きりPが物悲しいってどういうこと?と村田に聞いてきたの
でした。改めて聞かれると、さてねえ?です。
「なんとなく悲しいってことかなあ?」
その後、根石さんに、
「改めて聞かれるとわかんないもんだねえ」
と言ったら、
「他の言葉で説明しても端からすり抜けていってしまうからな」
言葉っていうのは、そういうもんですね…。
あ、付け加えると、きりPは村田よりずっと頭が切れる人です。
後、村田が、脚本音読してるんですよ、と言ったら、根石さんも、うーん、
俺もやってみるかな?と言ってたんですが…。
「昔、演劇はストリートパフォーマンスとか言って日常を非日常に変えて
しまうということをやっていたんだが…日常の会話の中でいきなり演劇を
始めてしまうってのはおもしろくないかい?非日常を日常で真綿で締める
ようにくるんでしまうのだ…ただ、帰ってくるのが大変かもしれないが」
すごくおもしろそうだなあと思いましたよ。確かに、帰ってこれるかどうかはわ
からないですが。
最後に、民芸理論の話をしていて、根石さんが、
「批評は、地の塩なんだ」
と言ってました。あー、なんでこういう言葉が出てきたのか、途中経過を
今は思い出せないんですけどね…。気になったので、書きとめておきます。
「もしかして、聖書の言葉っすか?」
と聞いたら、いや、俺が言ってるんだけどね、と言われました。
受験対策として音読指導は
効果があるか?
1.軽視される音読指導
英語国で生活することなく,英語をマスターした人たちがまず例外なく勧める学習法が音読です。コミュニケーション能力の基礎を身につける手段としての音読の有効性が個人的体験として実証されていると言えます。しかし,学校では,特に高校では音読指導は十分に行われていないようです。音読指導が軽視されていると思われるいくつかの事実を挙げてみましょう。
数年前のことですが,私が昨年3月まで勤務していた高校の卒業生で,教員採用試験に合格した私の教え子が,ある高校に着任早々に校内の新任研修担当指導教官から最初に言われたのが,「うちの学校は進学校で,リスニングや音読の指導には生徒も興味を示しませんから,そのような指導はしないように。」ということでした。
ある県の公立高校数校で教えた経験のある方から,「私の県では,特に進学校では音読指導は御法度になっている高校が多いです。」という話を聞きました。
昨年4月から大学で教えるようになり,教育実習や観察実習に出かける学生に対する事前指導で,「中学や高校時代にどんな英語の授業を受けてきましたか?」と一人一人に尋ねたところ,音読指導が全く行われていない高校も少なからずあり,行われていても,毎時間1回だけという形式的な指導しか行われていないことがわかりました。私の勤務校のの学生たちは「進学校」出身者が多く,また約半数が近畿2府4県以外の出身者ですから,全国的にも音読指導が軽視されていると言えそうです。
2.なぜ軽視されるのか?
(A) 大学入試で音読が課されていない。
(B) 入試でもっとも重視される読解力の養成に音声は不要であるという思い込み。
(C) 音読指導を十分に行うための時間が取れない。(進度が遅れる)
(D) 生徒が声を出さない。
(E) 効果が明確でない。
進学校で音読指導が行われない原因を列挙すると,このようになるでしょう。その内,(E)の原因を取り除くことができれば,(A)と(B)は消えてなくなるでしょうし,(C)と(D)は,自分の過去の経験から,大した問題ではないと私は思っています。
(E)についてはあとに回して,(C)と(D)について触れておきます。(C)と(D)は,どちらかと言えば,音読指導は大切だとお考えの先生方が音読指導ができない理由として挙げられるものです。
(C)については,進度も確保しながら,音読指導に充てる時間を捻出することはできます。和訳をさせたあと,その和訳を生徒がノートに書くために何度も繰り返し和訳を言うというのがよくありますが,授業が済んでから(あるいは1レッスン終了後)和訳を配布すれば時間を節約できます。全文和訳をやめることも考えていいでしょう。ただし,使用する教科書が難し過ぎるとだめですから,生徒の力に合ったものを選ぶことが必要です。「全訳しないと生徒が満足しない」と思われるかもしれませんが,全訳を続けると生徒はいつまでも全訳をしてほしがりますが,部分訳で1年間通せば,生徒は慣れてくることが,生徒に対して実施したアンケートからわかっています。また,本文のあとの練習問題は解答を配布して,家で自己添削させ,わからないところを次の時間に質問させれば済むことです。これらは私が実際に行っていたことです。「進学校」の生徒ならその程度のことはできるはずです。
(D)については,「掃除をさぼる生徒が多いからといって,掃除をするよう指導するのをやめますか?」とお尋ねしたいと思います。そんな場合は,先生も生徒といっしょに掃除して,ねばり強く指導を続けるのではないでしょうか。音読指導も同じです。
3.受験対策として音読指導は効果があるか?
「入試対策としては音読指導など無駄だ。」という考え方が「進学校」では多く見られますが,実際はどうでしょうか。ここでは,コミュニケーション能力の一部であるリスニングとリーディング・スピードに対する音読指導の効果と,入試対策としての音読指導の効果に関する実証研究(鈴木,
1998)を紹介します。
1.音読指導を十分に行うと,リスニング力とリーディング・スピードが向上する。
音読回数を大幅に増やした音読指導を行ったクラス(Aクラス)と,音読指導を儀式的に行ったクラス(Bクラス)に対して,4月と2月にリスニング力と理解を伴ったリーディング・スピードを測定したところ,両クラスの優劣関係は表1のようになりました。
<表 1>
リスニング リーディング・スピード
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4月 A=B A=B
2月 A>B(p<0.05) A>B(p<0.01)
--------------------------------------------
4月の時点では,両クラスの間には統計的有意差はありませんでしたが,2月の時点では音読回数が多いAクラスが,リスニングとリーディング・スピードにおいて,Bクラスを上回りました。
(注/たとえば,p<0.05 は危険率5%ということで,A, B両クラスが100回テストを受けた場合に,BクラスがAクラスを上回る確率は5回以下であることを意味します。pの値が0.05以下の場合に統計的有意差があるとされています。数字上は上回っていても,pの値が0.05を越えているときは統計的有意差はないということになります。)
2.音読指導を十分に行うと,入試に対応できる学力も養成できる。
大量音読クラス(Aグループ)と,1〜2回程度の儀式的な音読クラス(Bグループ)の校内模擬試験(センター試験形式と国公立大学2次試験形式)の成績,センター試験自己採点結果を比べたところ,両グループの優劣関係は表2と表3のようになりました。
<表 2>
センター形式模試 センター試験
------------------------------------------------
6月 A=B
11月 A>B(p<0.05) A>B(p<0.01)
------------------------------------------------
<表 3>
国公立2次試験形式模試
------------------------------------------------
6月 A=B
11月 A>B(p<0.05)
------------------------------------------------
表2,表3が示すように,6月時点での校内模試の成績を比較すると,センター試験形式模試においても,国公立2次試験形式模試においても,2つのグループの平均点には統計的有意差はありませんでしたが,11月の校内模擬試験,1月のセンター試験の成績はいずれもAグループがBグループを統計的有意差をもって上回っています。
これだけで,音読は入試対策としてもっとも効果的な方法であると主張するつもりはありません。英語の授業は音読だけで成り立っているのではありませんし,授業中の様々な活動や家庭学習によって英語力は伸びていくからです。しかし,「音読は入試に必要とされる学力を養成する有効な方法の一つである」とは言えそうです。また,「入試に対応する学力の養成には音読は無駄だ」という考え方は間違っていると言えるでしょう。
4.英語が苦手な生徒にも効果はあるか?
少し本題からそれますが,英語が嫌いな生徒にも音読指導は効果があります。いわゆる「困難校」で勤務していた頃から,授業中のいろいろな活動を生徒に評価させていますが,英語が非常に苦手で嫌いな生徒でも,音声が絡んだ活動は高く評価していました。音読もその一つです。英語が苦手なあるいは嫌いな生徒でも音声を重視した授業を受けると苦手意識が少なくなり,また英語嫌いの生徒が減少することもわかりました。(逆に,音声を軽視した指導を続けると,英語が好きな生徒が多い進学校でも,英語が嫌いが増えることもわかっています。)
学習した語彙や文法が内在化し,コミュニケーションのための基礎力がつき,入試にも対応できる学力がつく音読をもっと生徒にさせたいものです。音読できるようになれば,一人で学習する際にも大きな支えになります。筆者が実施したアンケートに対する生徒の回答からもそのことがわかります。私たちは目先のことにとらわれることなく,本当に生徒のためになる授業をしたいものです。音読指導もその一つです。
(参考文献)
鈴木寿一「音読指導再評価−音読指導の効果に関する実証的研究」(1998,『LLA関西支部研究集録』第7号,pp.13-28)
(京都教育大学助教授)
TOEFLやTOEIC
音読(文字の美しさや綺麗さを自由英作文などに求めないのと同様、音読力を測定するのに、音声や発音の美しさや綺麗さを求めないことが大切ではないかと思うのですが、みなさんいかがでしょうか。そしてどのように「音読力」を測定するかという問題ですが、ズバリ「音読量」で測定してみてはどうかと思うのです。根石さんは電話でレッスンでとにかく「5回連続できちんと言える」こと、「復習範囲を徹底的に手放さない」こと、などを中心に指導されています。音声の綺麗さなどは、書道の字の「美しさ」のようなもので、評価者によって違いが出てくるのは当然のことです。「理想的な異性のタイプは?」という質問が、「どこの英語をモデルにするか?」という質問と繋がる感覚があるのですが、みなさん、いかがでしょうか?「好きな日本語や英語のフォントは?」というのも、いわゆる「趣味の領域」だと思いますし、「あの人の演技は今一つ、とか、あの歌手の声はいいねえ」などというのも、繋がると思います。そこで、音読力を大学入試や高校入試などで測定する基準として「きちんと」「3回ないし5回くらい」「連続で」「音声や発音は度外視して」「聴覚力が普通程度と測定された複数の評価者に聞こえる音量で」言えるかどうかでかなり判断できると思うのですが、みなさん、いかがでしょうか?もちろんそれに加えて、その文章を書かせます。書かせる回数は「1回ないし2回」で十分でしょう。この「音読」と「筆写」を「少しでも速く」でもなく、「きちんと」「さっさと」できるかを診ることで少なくとも「英語の基礎力」があるかどうかは、かなりきちんと測定できると思うのですが、みなさん、いかがでしょうか。
先日、レッスンを休まれた方があったので、次のレッスンまでの間に時間ができたので、横になって一休みしているうちに眠ってしまった。そこへいくこが来て、謝りたいと言ったので眼が覚めた。
いくことの口論は、いくこが「あいうえおフォニックス」が「日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえる音」に関してだけのものであるという一点(前提)を無視しているという私の指摘に対して、or
が「鏡文字c:」となる事例が多いと言い続けることに対して、私が腹を立てたことから始まった。これは「あいうえおフォニックス」にとっては、irrelevant(とんちんかん)な事例であるが、いくこが「あいうえおフォニックス」ができそこないであり、使えるしろものではないような口調でものを言い出したことで、私が「それなら使うな」と言い、いくこが「使わねえわ」と言ったことから破門に至ったものだった。
『日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえる音』という限定の元では、「あいうえおフォニックス」の的中率は100パーセント近いものになるという確信が私にあるので、身近な者からの粗末な扱いには頭に血が登った。完成形に至っていないだけであり、「あいうえおフォニックス」は使えるものである。
いくこが言った or の問題は、日本人の耳に「おー」と聞こえる音に関してのものである。
「あいうえおフォニックス」の or は、日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえるものである。
そのことをはっきり例示しようと思って、パソコン画面に「ゴースト」の文法解析をやりかけたものを表示させ、「or」で検索をかけた。これは、「おー」と聞こえる例だから、「あいうえおフォニックス」の対象外だし、これは「あ」と聞こえるし、これは「あー」と聞こえる例だから「あいうえおフォニックス」の的中例だと言って、検索を続けているうちに、ゴーストというテキストのわずかなページ数だけを検索しただけなら、アクセントのある位置に
or が来れば「鏡文字c:」となる(「おー」と聞こえる)事例ばかりであることに気付いた。いくこは
or が「おー」となる例が多いとだけ言っていたのだが、そこに「アクセントがくれば」という条件を与えれば、法則化できるほどに
or が「おー」と聞こえる場合が多い。
しかしそれでも、ただ単に or は「おー」だ法則化してしまえば、今度は
word, world などが例外になる。今、ちょっと思いつかないが、or が「狭いア」になる例は、例外扱いするには多すぎるだろう。だからこそ、『日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえる音』という限定を置いたのだった。
その後、考えて次のようにするのがいいかとも思った。
日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえる or は「狭いア」であり、日本人の耳に「おー」と聞こえる
or は「鏡文字 c:」(ゆでたまご)である、と。
この二つのうち、「ゆでたまご」は日本人の日本語の「おー」で代用しても、しゃべる分には通じる。しかし、「狭いア」を日本人の「あー」や「あ」で代用したら、通じない。だから、日本人にとっては、「あいうえおフォニックス」における or こそが問題なのである、という問題意識からすれば、いくら or が「おー」となる事例が多かろうと、「あいうえおフォニックス」から or を外すことはできない。
ar の問題にせよ、or の問題にせよ、アクセントの有無によって「あいうえおフォニックス」を二つに分割するのではなく、祖形に戻して
「ar, ir, ur, er, or」だけを提示し、ar と or に註をつける形にするのがいいのではないかとも考えている。
ar に関してなら、『アクセント以後に ar が現れる場合は、ar さえも「狭い音」になることが多い』という註を付け、or
に関してなら、『アクセントがくる場合は、日本人の耳に「おー」と聞こえる音になる場合が多い(「あいうえおフォニックス」の対象外)』という註を付けるのである。
そうすると、アクセントによって「あいうえおフォニックス」自体を分割するのをやめることになるから、もう一度ふりだしに戻ることになる。
「あいうえおフォニックス」は、そもそもいかに英語に狭い音が多いかということをはっきりさせるためのものである。だとすれば、「ar,
ir, ur, er, or」のすべてを狭い音だとしてしまうことも考えられる。ar の註に、『アクセント以前やアクセント位置では、「顎の下がる明るい「あー」(歯医者のアー)になる』とすれば、「あいうえおフォニックス」の全体が、基本的に「狭い音」を扱うものになる。前提を置き、註をつけ、その後で例外を探せばいいのではないだろうか。
再度、「あいうえおフォニックス」を考え直す機会を与えてくれた功績を認め、いくこの破門は解いた。
1601なぜ「通じる英語」のことを「通じる音」と言うのか(1) 投稿者:根石吉久 投稿日: 1月 4日(金)20時09分44秒
私の考えていることは、少しわかりにくいと思いますので、同じようなことを再度書いてみます。
> そういう人の英語は「通じる音」よりも「通じる英語」
とか「斬れる英語」とか「使える英語」とでも呼んだ方が適
当ではありませんか。そして「通じる音」という語句は、あ
くまで発音の問題に限定して使わないと話がかみ合わないと
思います。
「通じる音」を「通じる英語」と読み替えれば、おっしゃ
っていることに異論はありません。
確かに、私が言っていることは「通じる英語」と言った方が、わかりやすいと思いました。英語で話をしている人の話として顕在しているものは、単なる「音」ではなく、「英語」ではないかと言えるからです。
なぜ私が「通じる英語」とわかりやすく言えばよさそうなものを、「通じる音」と言っているのかと考えてみると、日本に住んで「語学として」英語をやる人の場所からものを言っているからだと思います。つまり練習者の場所からものを言っているからだと思います。あるいは、その場所を離れずに考えてきたからです。
語学をやらない人にはあまり意味のない言い方でしょうが、語学として英語をやる人にとっては、「通じる音」という概念の中に、「音とイメージの同致」までを含めてしまった方が実際的だし、役に立つと考えるのです。そうすれば、「イメージと同致する音を作れ」という方針が引き出せるからです。あるいは、「音づくりの過程で、同時にイメージも作れ=イメージせよ」という方針です。
語学とは、まったく語学の中にいて、純粋に語学をやること(机上の練習)でもありますが、「渡る」行為によって、語学の言語を脱皮させ、「生活言語にする」ところまで含めていいのではないか。
生活過程で生活言語を使うことは、語学ではなく生活です。ここを私は峻別しますが、生活言語として生きたものを、再び「机上」に持ち帰り、再度、語学の言語に化かして鍛えるならば、語学には、語学の言語と生活言語を往復することの全体まで含めてしまっていいのではないか。往復行為自体も語学ではないか。そう考えています。
この「往復」を可能にする音(イメージが同致して動く音)をさして、私は「通じる音」と言っています。実際、「通じる」とはそういうことではないでしょうか。化けて生活言語に「なる」ことのできる英語が、「通じる音」であるならば、「音とイメージの同致」は必須条件ですから、「通じる音」という概念に「音とイメージの同致」も含めてしまっています。
語学から「出る」とか、語学から生活言語に「渡る」とか、語学を「脱皮」して生活言語にするとか、あるいは、生活言語から語学の言語に「帰る」とか、語学の言語と生活言語の間を「往復・往来する」行為全体をも語学の行為と呼ぶならば、そして、その行為総体の内側で考えるなら、あらゆる語学の練習とそれによって動く意識の動きのすべてが、「音(声)」として顕在化します。
すべての理解、センス、イメージの動きは、音に集約されて外在化されるので、音(声)こそが、語学という行為から生活言語に血を通わせるときのへその緒みたいなものであり、同時に、もっとも主要なインターフェイスだと思います。「音(声)」とは、理解・情動・イメージなどが瞬時に集約されるほどの集約点なので、語学の内側から「話す」という行為を見るならば、そこにあるのは私が言う意味での「通じる音」なのです。「通じる音」という質が成立しているならば、語学の外からそれを眺めてもやはり「通じる音」だと言えないことはないと思います。しかし、練習者の立場を離れて、それを呼ぶならば、「通じる英語」でもいいと思います。私はあくまでも練習者の立場からものを言い続けたいと考えているだけです。
http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis
ここまで引用
以前、素読舎にお邪魔したとき「毎日の練習に入るまでの約束事」のようなものを毎回生徒さんに読ませていらっしゃったのを思い出しました。「音声はインタフェイス」のようなことも盛り込まれていましたがその意味が今日分かりました。ありがとうございました。
日本人がアメリカ伝来のフォニックスを、英語の綴りから音を割り出すためのものとして使っている(だからネイティヴ音が「前提」とされている)のに対して、「あいうえおフォニックス」が、「音づくり(音読=回転読み)」のためのものだからである。英語音という前提が「ない」場所で、英語音を「作る」ためのものだからである。
ネイティヴ音は、日本人の英語学習においては「前提」にできない。柴田さんだって、複製のネイティヴ音を「媒介」にして、そのコピーを「作り」ながら、フォニックスを生徒に与えたはずである。そうしなければ、どこにも「前提」などありはしないのだ。アメリカ本国のフォニックスとそこがまるで違う。同時に英語音を「作り」ながらでなければ使えないというのが、日本におけるフォニックスの自転車操業なのだ。
「あいうえおフォニックス」が、英語ネイティヴ音を前提とせず、日本語で育った日本人の体(耳)を前提としているところがもっともわかりにくいのである。
「あいうえおフォニックス」は、日本人の体と、その体が英語音をどうとらえるのかというところを「前提」としているのである。当然である。日本人が英語をやるというのは、そういうことであるはずだ。この前提を置いた上で、後は「にじり寄れば」いい。英語ネイティヴ音は、「にじり寄る」ための媒介物であり、「前提」なんかではない。
媒介物として使用するのであれば、この複製音声全盛の世の中である。テープだろうが、CDだろうが、MDだろうが全部役に立つ。
欠けているのは「媒介」という思想なのだ。
「英語複製音声天下り方式」(CD付き市販本、NHKの英語学習放送)あるいは「英語ネイティヴ音声天下り方式」(英会話学校)が駄目なのは、日本人の体を「前提」としていないからなのだ。日本人が英語音に「にじり寄る」ための語学的主体を作れないからなのだ。
だからちょっと英語ができると思えば、ただのフリークにすぎないような醜いしろものがやたら跋扈するのである。語学的主体が作れるならば、フリークにはならない。
@Daydreaming once was considered a waste of time.
・considered
APsychologists regarded it as evidence of maladjustment, an attempt
to escape from reality.
・regarded
BThey warned that habitual daydreaming could reduce a person's effectiveness
in real life and hamper his ability to cope with problems.
・warned*
・person's
・hamper
CEven the more indulgent psychologists considered daydreaming a childish
habit which caused students to get bad grades and adults to fail at their
jobs.
more*
considered
their?
DRecent research on daydreaming, however, indicates that it is an intrinsic
part of daily life.
research?
however
part
EDaydreaming, it has been discovered, is an effective means of relaxation.
discovered
FBut the beneficial effects of daydreaming go beyond that.
GExperiments conducted by Dr. Joan T. Freyberg, a New York City psychotherapist,
showed that daydreaming significantly helps intellectual growth, powers
of concentration, attention span, and the ability to communicate with others.
Freyberg
psychotherapist*
powers
others
HDr. Freyberg also discovered that her patients who easily engaged
in fantasy-making usually responded more quickly to treatment.
Freyberg
discovered
her
more*
@Daydreaming once was considered a waste of time.
・considered
APsychologists regarded it as evidence of maladjustment, an attempt
to escape from reality.
・regarded
BThey warned that habitual daydreaming could reduce a person's effectiveness
in real life and hamper his ability to cope with problems.
・warned*
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CEven the more indulgent psychologists considered daydreaming a childish
habit which caused students to get bad grades and adults to fail at their
jobs.
・more*
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DRecent research on daydreaming, however, indicates that it is an intrinsic
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EDaydreaming, it has been discovered, is an effective means of relaxation.
・discovered
FBut the beneficial effects of daydreaming go beyond that.
GExperiments conducted by Dr. Joan T. Freyberg, a New York City psychotherapist,
showed that daydreaming significantly helps intellectual growth, powers
of concentration, attention span, and the ability to communicate with others.
・Freyberg
・psychotherapist*
・powers
・others
HDr. Freyberg also discovered that her patients who easily engaged
in fantasy-making usually responded more quickly to treatment.
・Freyberg
・discovered
・her
・more*
語学に前提がないように、言葉というものにそもそも前提はない。母語で考えてみればそのことは明らかである。以前柴田さんも話題にされていた「モデル」の問題なのかもしれない。「モデル」が「前提」にならないのが面白い。根石さんの言い方だと「モデル」は「媒介物」ということになるのであろうか。日本人であれ、英語が母語の人であれ、それ以外の人やモノ(CDやテープなどの複製音声)であれ、誰かが「モデル」にならざるを得ないという難しい問題がある。
しかし、基礎となる部分(法則、つまり音法や文法など)は存在していると思う。言語記号に音声記号と文字記号があるとすると、そのどちらにもはやり基礎となる共通部分(法則)は存在していると思う。
>アメリカ本国のフォニックスとそこがまるで違う。同時に英語音を「作り」ながらでなければ使えないというのが、日本におけるフォニックスの自転車操業なのだ。
「自転車操業」の部分は否めないにしても、フォニックスから導入されるなどしていろいろと工夫されている日本の熱心な英語コーチは「日本語にはない英語の特徴(つまり表音文字)については十分考えた上、たとえ「直輸入」だとしても、授業に活かされているのだと思う。そのことを十分理解した上で、さらに「にじり寄る」ために、さらに発展・改良させるために、「あいうえおフォニックス」などの「日本人が英語を学ぶという視点をさらに工夫したいろいろの方法」が、もっと研究実践されていくことが望ましいのではないかと思う。
アメリカの子供がフォニックスを習う時は、自分が既に持っている英語の音を、単語の綴りに結びつけていくだけなので、子供がすでに持っている音がフォニックス学習の「前提」となる。日本の子供にそんな「前提」はない。
それが日本には「前提」がないということです。そこのところを、
>語学に前提がないように、言葉というものにそもそも前提はない。
こんなふうに平べったい論理で、いっしょくたにローラーをかけられたんじゃたまったもんじゃない。
「そもそも」などとおっしゃりますが、そもそも、これはいったい何を言っている文なのでしょうか。なんでもかんでもいっしょくたにして、論証なしに言い放つなら、楽なもんですね。
語学には「前提」があります。母語で育ったイメージ形成力です。言葉というものに「前提」はあります。チョムスキーの言う「普遍文法」、あるいは私の言う「言語獲得能力」です。
「モデル」はただそれだけでは「前提」になりません。そこに、「音づくり」の具体的な方法がなければ、教室の生徒にとっては「モデル」音など、単にお飾りに過ぎないのです。すでに口が酸っぱい。
「モデル」が何もしないで「媒介物」になるわけではありません。「モデル」はそのままなら「モデル」のままです。そして、日本中の学校で、「モデル」は「モデル」のままに終わっているではないですか。それを「媒介物」にするのは、語学的主体です。「モデル」を「媒介物」として取り入れる語学的な足元の確かさです。
この足元の確かさもないままに、英語音を獲得してしまう曲芸をやらかすのが英語フリークたちです。普通の生徒に勧められるような行いではない。
だから、簡単に言えば、日本では、音を作りながらでなければフォニックスは使えないと言っているのです。先生が「音づくり」の技術を持たない場所で、フォニックスなど一切無効だとははっきり言えます。また、「自転車操業」という語で、フォニックス使用を否定しようという意図もありません。やるならそれしかないと言っているだけです。
sbさんにおいて、語学の言語と生活言語の区別がついていない事例を新しく書かれたものにみつけることができました。
>日本人であれ、英語が母語の人であれ、それ以外の人やモノ(CDやテープなどの複製音声)であれ、誰かが「モデル」にならざるを得ないという難しい問題がある。
英語獲得に場面を限れば、英語を母語として育つ人は決して自分以外の人たちの音を「モデル」になんかしていない。それは「モデル」なんかじゃない。初めから「媒介物」です。例えば、母親は子供に「直接」話しかけるのです。世界の誰に向かってでもなく、ただ自分一人に向けられている「直接性」や「切実さ」や「のっぴきならなさ」は子供に最初からあるのです。時には、包み込むような愛と一緒にそれらがあるのです。母親がよしんば自分のしゃべりを「モデル」扱いしたところで、子供にとっては、それは音としての「モデル」以前に、母親が自分の言うことを「真似させようとしている意図」です。子供は、音としての「モデル」より先に、必ず母親の「意図」を受け取ります。「音」は付随物であり、子供の意識はただただ「感情」に向かっています。普段の自分の日本語使用だってよく眺めてごらんになればわかる。「言葉」や「音」より「先に」、相手の「意図」や「感情」に向かっている自分がいるはずです。
この直接性の場は、語学にはありません。語学では、あらゆる文が自分にとって間接的です。直接的なものがあるとすれば、想像的なイメージのリアリティがあるだけです。
ネイティヴ言語獲得の場面にいる「人」と語学の場面における「CDやテープなどの複製音声」を、例のごとく平べったくローラーをかけていっしょくたにすること自体が、sbさんが、語学と生活言語の区別ができていないことを証拠だてているのです。
sbさんは、「人」も「cd、テープ」も言語を獲得しつつある意識における「外在物」だとしか考えられないのです。子供にとっての母親の愛にせよ、母親の怒りにせよ、それが外在物であるわけがない。それらは間違いなく、最初から「わがこと」なのです。その「わがこと」が言葉と一緒に自分に届き、響くのです。外在的な「モデル」なんかであるわけがない。
>しかし、基礎となる部分(法則、つまり音法や文法など)は存在していると思う。言語記号に音声記号と文字記号があるとすると、そのどちらにもはやり基礎となる共通部分(法則)は存在していると思う。
存在しております。しかし、これもまた「音」と同じく語学にとっては「外在物」ですから、媒介にして「わがこと」に変換しなければ、「外在物」のままです。
>「自転車操業」の部分は否めないにしても、フォニックスから導入されるなどしていろいろと工夫されている日本の熱心な英語コーチは「日本語にはない英語の特徴(つまり表音文字)については十分考えた上、たとえ「直輸入」だとしても、授業に活かされているのだと思う。そのことを十分理解した上で、さらに「にじり寄る」ために、さらに発展・改良させるために、「あいうえおフォニックス」などの「日本人が英語を学ぶという視点をさらに工夫したいろいろの方法」が、もっと研究実践されていくことが望ましいのではないかと思う。
こういう「いい子」の文章が、何も切り開くことがないことはおわかりになりませんでしょうか。そんな「日本の熱心な英語コーチ」が、柴田さん以外にどこにおられますかね。あっちに気を配り、こっちに気を気を配りして、自分の言いたいことがもうろうとしてくるような文章を書いて、何か楽しいですか。
サンプル提示をありがとうございます。
一度、「あいうえおフォニックス」を祖形に戻してみたいと考えていますので、その後に、
提示していただいたサンプルを使って、解説してみたいと思っています。
以前メールを遅らせていただいたものです。このような形で掲載していただきありがとうございます!
ところで、最近ある情報を手にいれました!
長聖中学の寮でおととし起きた出来事です。これは私を信頼してくれる生徒からの情報です。
おととし、5月後半、中間考査後、夕食を食べた後、複数の生徒が気持ち悪いなどの体調不良を訴えたとのこと。学習会が始まる前に吐いてしまった生徒も複数名、夜の点呼前にはすの数は20名を超えていたかもしれないほどであったらしい。しかし、この生徒(今後Aと記述)が、体調不良を訴えたが教師は「早く寝ろ」との対応(その日昼間頭痛のために飲んだ薬のせいにされた)。Aはその後、何回か吐いた。そして、深夜になり、教師側から病院にいこうといわれた。この時点で、体調不良で病院に行った生徒は15人超。(しかも、同日夜教師が病院で点滴を先に受けている)
この時点で、教師が生徒を信用していない、本気で心配していないことが伺われる。
Aはこの時、医者から入院するように言われた。(二日間)
見舞いはなし。
この原因は食中毒(SRSV)である。入院は2名。病院に行ったもの30名程と新聞は報じたが、実際は入院10名、病院に行った人数は50人を超えていたようだ(バスで行った)。
しかも!
学校側はAの親に対し、この真相をAが退院するまで伏せ、「勉強をがんばりすぎて、悪い風邪にかかったようだ」などと言っていたらしい。
全校集会でも、副校長が「悪い風邪がはやっている。吐き気がひどい」などと話したらしい。
いい加減にしてもらいたい。
そこまでして「学校」を守る必要があるだろうか。
因みにこの事件で寮を辞めた生徒は3名。
やはり、ここの体質は腐りきっているとしか言えない。
私がとんちんかんをやらかしたかもしれません。
>日本人であれ、英語が母語の人であれ、それ以外の人やモノ(CDやテープなどの複製音声)であれ、誰かが「モデル」にならざるを得ないという難しい問題がある。
「Aであれ、Bであれ、Cであれ、誰かが「モデル」にならざるを得ないという難しい問題がある。」とsbさんは書かれているのであり、A、B、Cはすべて、「モデル」となるもの(人)のことなのではないかと読み直してみて思いました。私は「日本人であれ」「英語が母語の人であれ」というところを、「日本人にとっても」「英語が母語の人にとっても」と読んでしまっておりました。「日本人」とか「英語が母語の人」というところには、「日本語で育ち、日本に住みながら英語をやる人」というような限定がないので、sbさんの文を語学の過程もネイティヴ言語獲得過程も区別していない文だとして読んでしまったのでした。寝不足でもうろうとする日が続いていたせいです。お許し下さい。
sbさんが最初から話を語学に限定しているのであれば、「モデル」というものは語学上の「モデル」だけを言っているのであり、ネイティヴ言語獲得過程における幼児にとっての「モデル」は問題の外ですので、私の誤解です。
その上でお聞きしますが、なぜそれが「難しい問題」なのでしょうか。
誰か(何か)が「モデル」に「ならざるを得ない」というところに、高校英語教師というsbさんの職業の響きを感じるのは私だけでしょうか。これは、sbさんが「モデル」をやりたくないということを言っておられるのでしょうか。
なぜ「ならざるを得ない」ととらえるのかとお聞きしているのです。
視点を学習者(生徒)の側にとっていないな、と思うのです。
生徒にとっては、先生というものは「いい音」を出せる人であるである前に、「音づくり」ができる人でなければ意味がない。「モデル」なぞCDでいい。先生は、該当の音をどう出すべきかを的確に言える人でなければならない。
ここに私が言ってきた、「中間音」という考えが登場する根拠があります。日本人の日本語なまり(カタカナ発音)からは抜け出しているが、英語ネイティヴの音ではない(当然です!)音。つまり、誕生して育つ過程で自然に身につけた英語音ではなく、意識的に人工的に作った音。この音のことを「中間音」と言ってきました。
コーチが備えるべき音はこの「中間音」です。中間音にもピンからキリまでありますが、何をもって、ピンとし、何をもって、キリとするのかということの方がはるかに難しい問題ではないでしょうか。これまで、多くのわけのわかっていない人たちは、英語ネイティヴと同じ音を出すことをピンとしてきたのです。認識としてはめくらです。このめくらが、自虐を生むのだとも考えてきました。
なかなか人々ははっきりと認識してくれませんが、英語ネイティヴには日本人に向けて英語の「音づくり」はできないのです。彼らは日本人の発音が違うということはただちに指摘できる。しかし、その後は何もできはしない。ただ違うということができるだけであり、どこをどうすれば該当の音が作れるのかは何も言うことができない。
生徒の側からすれば、彼らがやれるのは、単に「モデル」に過ぎません。彼らの英語は「自然言語」ですから、「音」についてもほぼ無意識です。私たちが日本語の音についてほとんど無意識に話しているのと同じです。
「モデル」を「媒介」にして「中間音」を作る作業は、生徒の語学的主体です。この場面で意識的に人工的に英語音を作ってきた「中間音」のプロ(=コーチ)がいれば、その「音づくり」の技術は生徒に大いに役に立ちます。長く迷い続けなくても済むからです。
コーチが持つべき音は、「中間音」でいい、というよりも「中間音」でなければならない。日本人の生徒が「媒介」にし、英語音に「にじり寄る」時に、もっとも役に立つのは「中間音」であり、その音の作り方の知識です。「中間音」の「媒介」が成立すれば、次に英語ネイティヴ音(CDなどのモデル)が「媒介物」として役に立ちます。この順序が世の中にいまだ確立しておりませんが、私はずっとそれを言ってきたのです。コーチの必要性を言ってきたのも、世の中が「中間音」を馬鹿にしていることが間違っていると認識してきたことと同時進行でした。そこらにごろごろしているのは、英語ネイティヴ音信者ばかりじゃありませんか。そんな者どもに語学がわかってたまるかと思っています。
私の実践例では、「音づくり」をきちんとやれば、若い生徒の音は私の音よりよくなります。「音づくり」によって、生徒の側に「中間音」をきちんと作れば、CD(モデル音)が一挙に役に立つ教材に変わるからです。単なる「モデル」の音が(語学的に)「わがこと」として受け取れるようになり、「媒介」という行為が成立するからです。生徒が私よりいい英語の音を出すのに何の不思議もない。CDを媒介にしているのですから。
私の「音づくり」は、複製音声を「媒介」にするところまで視野に入れて行っていますが、そこにどうしても必要なものとして「中間音」があるのです。いうなれば、私は「中間音」のプロなのです。
歓迎いたします。
できれば、進学会をぶち倒すだけの質を備えた内部告発を期待しております。
数年前、信州中野のお宮に付属する建物(公民館のようなところ)で、数人の子供を相手に週一回英語のクラスを持っていたことがあった。ある日、ちょっと待てよと内心に思うところがあり、生徒に練習を中断させて、黒板に「a,
i, u, e, o」とローマ字であいうえおを書き、それぞれに「r」を加えて、「ar,
ir, ur, er, or」とした。
英語の音が「あ」とか「あー」と聞こえる場合、この中で「ar」だけが「顎の下がる明るいア(歯医者のアー)」だと言い、残りの4つ、「ir,
ur, er, or」は「狭い音」だと言った。そのつもりで英単語をよく見ながら音読するようにと言って、生徒を練習に戻させた。普段から、「歯医者のアー」とか、「狭い音」という言い方は使用していて、絶えず日本語の「あ」に先祖帰りする生徒の音を「歯医者のアー」「狭い音」にひきもどすことをやっていたので、単体としての「歯医者のアー」や単体としての「狭い音」の感覚は生徒の中にできている。それを前提として、そう説明したのである。
「あいうえおフォニックス」は中野の神社の脇で生まれた。その祖形は、実に単純なもので、「あいうえお」のローマ字に r を加えただけのものだ。
体感でものを言うだけだが、この簡単な図式だけで(「あ」または「あー」と聞こえる音に関して)「顎の下がる明るい音」と「狭い音」の区別は90パーセント以上、いや、95パーセント以上的中する。
その後、re が「あ」または「あー」と聞こえる場合は、er と同じだから「狭い音」であるとか、ear
も「狭い音」であるとか、ar がアクセントの後にくる場合は、ar でさえも「狭い音」になるとか、どう考えても図式にとっては例外になる例だとか、いろいろなものを考えて、特に
ar にとってのアクセント位置によって、図式を二つに分割した。
ar にアクセントが来る例の方が多いが、ar がアクセントより後ろにくる例もぽつぽつと目にしたので、それによって図式を分割してみたのである。
or が「狭い音」になる例より、「おー」と聞こえる例の方が多いという指摘がいくこからあった。これは、「あいうえおフォニックス」が「あ」または「あー」と聞こえる音についてのものであるという前提を無視していることから論争になったが、いくこの指摘自体はその通りである。
ar と or に註をつける形で祖形に戻したほうがいいかもしれないと考えた。
次に、祖形に註を加えたものを提示し、皆さんの意見をお聞きすることにする。
ご協力をお願いします。
Jackie さん、アドバイスありがとうございます。
私も相当煮詰まっておりまして、ほんとにどっか余所へ行って、充電したいものです。
今日の夜、多治見と土岐に出かけ、3日ほど滞在します。雑貨屋を始めたので、陶器の仕入れに
行くのです。仕事がらみですから、ゆっくりはできませんが、それでも、普段の暮らしからは離
れられると思っています。またご登場ください。
いくこへ
再度の問題提起ありがとう。これについては、俺は少し前から「o は七変化する」と言ってきた。
後でもう一度書くつもりだが、忘れていたら、書けと言ってほしい。
「あいうえおフォニックス」の祖形に註をつけるために最近の関連の記事を読み直しているところで、sbさんの投稿をみつけました。
鈴木さんのページからの引用をありがとうございました。
非常に興味深いものがあります。私なんぞがただ言い放つ形で言ってきたものを、学問的に支えてくれるものだと思っています。
URLも教えていただけたらと思っています。
祖形に註を加えようとして、第二前提自体を取り払うことを考え始めてしまった。頭の中が沸騰してきた。「あいうえおフォニックス」が、「あ」または「あー」と聞こえる音の広い音・狭い音の区別だけを扱うものではなくなってしまい、「おー」と聞こえる音も扱うことになるが、どっちが生徒の側に混乱が少なく、例外が少なくなるか。
ギブアップする。
多治見へ行く車の中で今夜考えることにする。
ar の問題は、アクセント位置であらかた解決する。
or の問題は、w の有無で解決するのではないか。
W 音はかなり口唇を前に突き出して出すので、続くar 音が「おー」に片寄るのは自然の成行きかもしれないと考えたりします。 口を究極まですぼめた後にarの音の為にぐっと大きく開くのはしんどいですね。 ネイティブスーカーにも面倒臭いんじゃないでしょうか。 もともとは「あ−」音だったものが、時代を経て発音しやすい方に流れて行った結果、「おー」の様な音になったのではないでしょうか。international が「イナナショナル」になってしまう様に、言いやすい方が主流になったのではないでしょうか。
もしこの推測が正しければ、例外として扱い、そういう説明を付け加える方が生徒も理解しやすいと思います。
見当外れ、でした。 (^^;;
>生徒にとっては、先生というものは「いい音」を出せる人であるである前に、「音づくり」ができる人でなければ意味がない。「モデル」なぞCDでいい。先生は、該当の音をどう出すべきかを的確に言える人でなければならない。
このことは口語だけでなく文語にも言えることだと思います。
生徒にとっては、先生というものは「いい文章、いい文字」を書ける人である前に、「文章がつくれるか、文字が書けるか」ができる人でなければ意味がない。「お手本の文章やきれいな文字」は教科書やペンマンシップに任せておけばよい。先生は個々の文字をどう書くか、文章をどのように構成するか(文法的に修辞的に)的確に言える人でなければならない。
>ここに私が言ってきた、「中間音」という考えが登場する根拠があります。日本人の日本語なまり(カタカナ発音)からは抜け出しているが、英語ネイティヴの音ではない(当然です!)音。つまり、誕生して育つ過程で自然に身につけた英語音ではなく、意識的に人工的に作った音。この音のことを「中間音」と言ってきました。
ネイティブ音はそんなに偉いものではないと思います。ネイティブだって、ノンネイティブだって「中間音」を出している。ただ「通じている」「分かっている」「通じさせることができる」「分からせることが出来る」かどうかだけが問題だと思います。「相手に」なのか「自分に(つまり自分で書いて後で確認するメモなのか)」なのかという違いはあるとしてもです。もちろんそこにはある程度の「法則(ルール)」の問題が絡んでくると思います。
>コーチが備えるべき音はこの「中間音」です。中間音にもピンからキリまでありますが、何をもって、ピンとし、何をもって、キリとするのかということの方がはるかに難しい問題ではないでしょうか。
ネイティブであろうが、ノンネイティブであろうが、「中間音」を出していると認識が「自虐」から抜け出すことになるのだと思います。ネイティブだから「音作り」が出来ないということはないと思います。日本語をしっかりやって「通じる日本語を獲得した英語ネイティブなら、日本語と英語の発音の特徴をある程度押さえた人なら、たとえネイティブであろうと日本人に対して英語音をコーチすることは可能であるし、そうならなければならないと思います。我々の発言が英会話学校やALTを始めとする人たちの意識を変えることになればいいと思います。意識しないと行動は変わらないと思います。
>これまで、多くのわけのわかっていない人たちは、英語ネイティヴと同じ音を出すことをピンとしてきたのです。認識としてはめくらです。このめくらが、自虐を生むのだとも考えてきました。
そういうことになると思います。同じ人間です。ネイティブであろうが、そうでなかろうが。国際語としてのthe
Englishでなく、an Englishという発想があれば、ピンというものの相対化は十分可能なものになると思います。また近い将来そうなることは十分予測可能です。
http://www.zoshindo.co.jp/Ms_Ns/Dialg29a.htm#ondoku
レッスンを休まれるときは連絡をお願いします。
すみませんでした。
事情により、体力を非常に消耗しております。
しかし、「ゴースト」の文法解析をさぼり続けるわけにはいかない。
教材作りが生徒さんの練習に追いつかれたら一大事ですので、今日は文法解析をやります。
sbさん
少し時間を下さい。
Naima さんにもお願いします。
@すらすらよめる
A整理と理解
Bイメージを使う
記憶に関するあるHPをヒントに今まで根石さんに教えていただいたことを基に書いてみました。
はやりBについてはいろいろ各個人の工夫があると思いますが、みなさんどのようにイメージの世界を広げていらっしゃるのでしょうか?いろいろ教えていただきたいのです。
Bイメージを使う
といっても日本語の文章や法律、表現、グラフなどいろいろなものを覚える時に「絵を使う」または「頭の中に絵を描くような感じ」をもっていらっしゃる方は多いのかもしれません。絵を描くことができないような抽象的な「例えば「抽象的な」というような単語」は頭の中でどのようにイメージ化しているのでしょうかねえ。
根石さん、体調が良く無いとの事。 お大事にして下さい。
今朝メールを入れたのですが、今日の電話レッスンを休ませて下さい。
夜に出かけます。 怪しい仕事をしに行くわけではありません。
承知しました。
こんにちは。
このところ、いくこ塾をはじめて、子供たちからいろいろ刺激をうけていおります。
まだまだ、これからだけど、楽しんで、そして時に厳しく、憎まれ役になることを恐れず、
やってきたいです。
Naima師匠、まじで、いろいろご相談させていただくことがあるかと思いますが、
よろしくお願いいたします。
で、このところ何回か、親御さんから「英検」について聞かれることがありました。
広告をぶった時、
「中学3年生なのですが、英検2級対策をしてもらえませんか」
という問い合わせがありました。
それから昨日も、塾生の親御さんから、
中学3年までに英検準2級をとらせたいのですがどんなもんでしょう、
という相談がありました。
で、よく聞いてみると、
どうも高校入試などの推薦入学枠で、準2級以上をもっていると配慮されるらしい、
ということなのです。
確か、英検は3級が中学校修了レベルぐらいだったと思いますので、
準2級がとれるならば、中学3年生では英語ができるという判断基準にはなるかもしれないな、
とは思いました。
いずれにせよ、塾生の場合は小学生で英語を始めたばかりだし、
入塾のお問い合わせでも、その中3生が実際どのぐらいのレベルなのかわからないので、
いきなり英検対策というわけにはいきませんが、
将来、英検対策の生徒さんを受け入れるとしても、
できれば、やっぱりまずは中学の教科書のレベルをしっかり固めてから、
という基本線は、かえられないな、と思う、いくこでした。
乱文失礼いたします。
こんにちは
僕は去年の11月から根石さんの電話でレッスンをやっている者です。
(プロフィール:男、19歳、長野県に在住)
僕は高校の後半から英語に興味を持ち始めました。
英語を聞き取り、話すには何が必要かを本などで調べてみました。
たどり着いた答えは、「発音」でした。
まず英語を勉強するのに大切な点は発音をしっかりできるようにするということでした。
自分で発音できないものは聞き取れないそうです。
でも、発音に関して中学(普通の市立中学)や高校(職業高校)ではほとんど扱いませんでした。
覚えているのはf、vの発音する時は唇をかむとか、thの発音は舌をかむようにと言われたぐらいです。
根石さんが言われている「せまい音(発音記号はeの逆)」に関して教えられたことは全く記憶がありません。
例えば、「fast」と「first」の発音の違いが全く分からず、中、高と過ごしました。
なぜ、発音に関して、中学や高校ではもとしっかりやらないのでしょうか?もし、英語の先生や学校教育に詳しい人がおられましたら、なぜやらないのかを教えくださればありがたいです。
確かに、一クラス約40人もいれば、1人1人に対して発音を直していくのは無理だとは思いますが、だからといって、発音に関して授業でほとんど扱わないのはおかしいと思います。
中学校では基本的に、教科書を先生やテープの後に音読し、文法についてやっただけでした。
発音や音と音のつながりに関してはほとんど扱いませんでした。
mailto:i-sei@valley.ne.jp
>覚えているのはf、vの発音する時は唇をかむとか、thの発音は舌をかむようにと言われたぐらいです。(記号「>」は以前の誰かの掲示板での発言を意味します。つまり今回はあなた石坂さん自身の発言です。それをもとに何か私の書き込みをしようとしているということです。)
fやv、thの発音の話を覚えていたのですか。私が高校生の時は全く覚えていませんでした。授業を自覚的に聞いておられたのだと思います。
私も根石さんのレッスンを受けているsbと申します。根石さんのレッスンを受けてアドバイスに従っていれば「英語の基礎は確実につきます」。やり方はいろいろあって自分に合うやり方を見つけていけばいいと思いますが、本当の基礎の段階ではある程度の誰にでも共通するやり方があると思います。それをきちんとやってもらえるのがこの電話でレッスンだと思います。
「あいうえおフォニックス」を「顎の下がる明るいア」の音と、「狭いアの音」の区別だけを扱うものにすべきか、それに「ゆでたまご・唇を丸くし唇自体に力を入れる音」を加えて、3つの音を区別するものにすべきか、迷い続けています。すでにこれらの音をクリアされた人にとっては、区別すべき音が二つであろうが、三つであろうが差はないと思われるかもしれませんが、初心者にとってはそれはそうではない。二つが三つになるだけで、非常に面倒なものであるという印象を与えてしまうおそれがある。しかし、三つの音を区別するものに仕立てると、これまでよりもはるかに広い範囲を扱えるものになることも確かである。
祖形を祖形のままに提示し、「日本人の耳に<ア>または<アー>と聞こえる音に関して」という前提を置くだけで、90パーセント以上の「顎の下がる明るいア(歯医者のアー)」と「狭いア」は区別できる。これをひとつ置くことは必要ではないか。初心者にはこれが一番わかりやすい。
もうひとつ、「ア系列」だけを扱うものだという前提を取り払って、「ゆでたまご」をも扱えるものとして、進化形を別に提示するのがいいのではないか。
せっかく破門騒ぎまでやったのだから、「ゆでたまご」を反映させるのもいいだろう。そうしても、アメリカ直輸入のフォニックスほど煩雑なものにはならないだろう。
と、そのあたりまで考えております。
石坂君は、
>なぜ、発音に関して、中学や高校ではもとしっかりやらないのでしょうか?もし、英語の先生
や学校教育に詳しい人がおられましたら、なぜやらないのかを教えくださればありがたいです。
と書いています。この点に関して、sbさんが答えて下さるのがいいと思います。
sbさんは現職の高校の英語の先生ですから。
私はすでにこの掲示板で、現在の石坂君の疑問に対して答えを出したことがありますが、sb
さんは教師という立場から答えてくださるのがいいと思います。
私も実は英語教師の免許に必要な大学の単位はすべて取得し、教育実習もやりましたが、最後
に申請してそれを一枚の免許にする段階で放棄しました。私が自分でみつけた方法を、学校の
授業という形で展開することは無理だろうとにらんだためでした。
國弘正雄さんに今年の正月にお会いしたとき、國弘さんも只管朗読を学校の授業で実現するこ
とは無理だと考えてきたと言われました。
この「無理」に風穴をあけたのが、柴田さんだと考えています。
私は柴田さんの実践には、本当に驚きました。
「音と意味の同致」に関しては、柴田さんに理論はありませんが、初心者の段階でもっとも
必要な訓練(音の訓練)に関しては、柴田さんがやったことが、学校でやれることの最良の
モデルだとも思っています。
話が逸れました。
よろしくお願いします。
>なぜ、発音に関して、中学や高校ではもとしっかりやらないのでしょうか?
この質問はすばらしい。この疑問を考えた石坂さんに敬意を表します。発音に関して中学や高校でもっとしっかりやらなければならないのに「実際は十分出来ていない」のが現実だからです。
そしてこの問題は私自身まだまだきちんとした答えが出ていないのです。でもこの質問にきちんとした形で答えていくことは私にとってはたいへんうれしいし、また楽しみでもあります。なぜなら私は現役の高校英語教員だからです。
しかし現在は「抑うつ神経症」という病気で休んでいます。仕事をやめて他の仕事をしようかとも何度も考えました。でも現在は「休職」状態でまず自分の心身の健康回復を目標に日々頑張っています。だから石坂さんにもこの掲示板をご覧になっている方々にもあまりはっきり「英語教員」ということは知られたくなかったのです。
まず第一に、よくある答えに「就職試験や上級学校への入学試験に直接関係ないから」というのがありますが、今ではこの答えは意味を持ちません。
現在ではリスニングを試験を取り入れている所がどんどん出てきているからです。そして、石坂さんも書かれているように「自分で発音できないものは聞き取れないそうです。」ということが実際にあるからです。このことは英語学習に関する常識になりつつあると思います。
石坂さんは、「発音」という言葉について、どのようなイメージをもっていますか?私は「発音」というのは「個性」だと考えています。一般的には「発音記号」(国際的にはIPAというのがあります。初耳なら後で調べてみてください。)などと使われて、誰もが持っている「音」の共通部分というイメージがあるかもしれません。しかし、私はそれを「音声」と捉えて「その人にしか出せない音声」と考えます。このことは根石さんから学んだことです。
「ことば」には「話し言葉」と「書き言葉」があります。日本語でもそうですが、「文字」「書道」には個性がでます。その人独特の文字の形があります。同じように「話し方や発音」にもその人の特色がでるのです。それを私は便宜上、「音声」と呼んでいます。
しかしプロ野球でもそうだと思いますが、個性は「基本原理」があってこその「個性・特色」です。イチロー選手が素振りを今でも毎日していることでもよく分かります。では、英語「基本原理」は何か?それが「音声」つまり「発音」なのではないかと思うのです。」
しかし「音声」は外からの「モデル」がないと自分の内側に「つくる」ことはできません。だからCDやテープやNHKを始めとする語学教材や英会話学校を始めとするネイティブスピーカーと言われる先生などが登場する機会が特に今までは多かったのです。
しかし、モデルは必ずしもネイティブである必要なありません。日本語が母語である人でもよいわけです。むしろ、日本人の学習者に「日本語独特の音と英語独特の音の違い」などを明確に「日本語で」説明できるコーチがあればそのほうが良かったのです。
そのことを真剣に考えて実際に塾を開かれたパイオニア(先駆者)が根石吉久さんだと私は思っています。もちろん他に同じようなやり方で英語を習得された方もいらっしゃるかもしれません。しかし「真剣に考え」「生徒の立場に立ち」「定点観測を怠らず(つまり同じ生徒をしっかり見つめつづけること)」「理論や理念もしっかりしており」「。。。」まだまだ続くのですが、あまり根石さんはほめすぎると図にのり、私に「ほめすぎる!」と怒られるのでこのくらいにしておきます。
まだきちんとした「なぜ発音をもっと中学高校でしっかりやらないのか」という答えは全くでていません。今日はとりあえずここまでにしたいと思いますが、この掲示板を時々見てください。そして石坂さんも意見を書きこんでみてください。私もできるだけ応答したいと思います。
このような形での書きこみを促してくれた石坂さんに感謝します。
このような形での書きこみを促してくださった根石さんに感謝します。
ありがとう。
あなたが現職の高校英語教員だということは、過去ログを読む人にはばればれですから、今さら
隠しても無駄です。
>石坂さんは、「発音」という言葉について、どのようなイメージをもっていますか?私は「発音」というのは「個性」だと考えています。一般的には「発音記号」(国際的にはIPAというのがあります。初耳なら後で調べてみてください。)などと使われて、誰もが持っている「音」の共通部分というイメージがあるかもしれません。しかし、私はそれを「音声」と捉えて「その人にしか出せない音声」と考えます。このことは根石さんから学んだことです。
私がsbさんが述べられているようなことを言ったことがあったでしょうか。あったようなら、過去ログから引用して下さるようお願い致します。
私は「音」と「声」を区別したことはあります。しかし、「個性」などという戦後民主主義じみた概念とそれらを結びつけたことは、私の自覚では一度もなかったと思っています。
発音記号というものがあり、それが有効であるなら、「音」は「個性」なんかではありません。sbさんの言う「個性」という語を使うなら、あらゆる有象無象の個性を貫いている音の共通部分を抽き出して、それに該当するものとして発音記号というものが存在しているのです。私が「音づくり」と言う場合でも、柴田さんが「音作り」という場合でも、それは必ずこの「共通部分」を作ることをさしています。そうでなければ、私が「あいうえおフォニックス」などを人と喧嘩しながら作っている意味がありません。
なんなんでしょうか、その「個性」とやらは。
個性だの民主主義だの、アメリカ伝来日本歪曲版ほど、語学と縁のないものはありません。
私の「音」と「声」の区別に関しては、「midnight press」という詩の雑誌に書いたものがありますので、以下に引用します。
自分に対する暴力です。
暴力の自覚もなく暴力を振るってきたことに対して、sbさんはあまり自覚的ではないと思って
きました。
あらかじめ死んでいる言語
語学を長いことやってきたので、語学のことを考えることがよくある。語学の言語のことを考えていると、語学の言語以外の言語が気になり、語学の言語とそれ以外の言語を対照させて考えたりするような癖もできた。
語学から見たら生活言語がどう見えるかとか、逆に生活言語から見たら語学の言語がどう見えるかというようなことが気になるのである。
語学の言語と対照させるために、生活言語と言ってみたり、ネイティヴ言語と言ってみたり、自然言語と言ってみたりしたいろいろな言語があるが、これらの言語は生きている。書き言葉や、書かれた文学のテキストの問題を持ち出すと、非常に面倒なことになるが、少なくとも、話し言葉としての生活言語、ネイティヴ言語、自然言語というものは生きて動くなまものである。人間の意識の動きと分離しがたいものだから雑多であったり、流動状態であったり、整理されていなかったり、断片ばかりだったり、衝動的だったりするが、みんな生きて動いている。
語学の言語は死んでいる。ある人に、語学の言語というものは死んでいるのだと言ったら、変なことを言う人だという感じの反応が返ってきた。不気味なことを言う人だというような感じでもあった。あからさまな言葉ではなかったものの激しく反発されたので、むしろこちらがびっくりしたのだった。
語学の言語が死んだ言語だというのは、異様な考えなのだろうか。私にはしごく当然のことに思われるのだが、私に反発した人は、「生きた表現」というようなものを信じている人だったということなのだろうか。
私は「電話でレッスン」という英語のレッスンで映画のシナリオを使っているが、テキストには気の利いた言い回しが載っていることがある。また、ことわざ集のようなものには、ツボにはまった言い回しがたくさんあったりする。比喩に面白いものがあったりもする。そういうものを「生きた表現」と呼ぶことに反対はしないが、語学の対象になったとたんに、それらは全部死んでしまう。「生きた表現」は「生きた表現」のままに死んでしまう。語学の対象になったとたんに、言葉がかさぶたのようなものになり、客体化されるのだと言えばいいのか、飛び回る昆虫ではなくピンで止められた標本となるのだと言えばいいのか。
死んでいる言語の一番わかりやすい例は、英語を習い始めたばかりの中学1年生が、「習う
learn 習う learn」などとぶつぶつと唱えて自分に言い聞かせるような場面にみつかる。これは、一見、対応する日本語と英語を単に並列させているように見えるが、実は「音」と「意味」を一体化させようとしているのである。「習う」という日本語から意味を取りだし、「learn
」という「意味のない音」に意味を込めようとしているのである。「音」と「意味」が別々のものとして分離しているから、それらを一体化させようとして呪文のようなぶつぶつを唱えるのである。
「意味」と「音」の分離、あるいは、「音」だけがあり「意味」がそれに伴わないことは、語学の対象としての言語が死んでいることの証拠の一つである。生きて動いている言語において、「音」と「意味」がばらばらであるなどということはない。
言語として死んでいるから、それを生き返らせようとして中学一年生は呪文を唱えるのである。この呪術がうまくいき、「音」と「意味」が合体し、「
learn 」という音に対して、「習う」という日本語の訳語を必要とせずに、「意味そのもの=
learn という語のイメージの核」がただちに生じるようになれば、learn という語は生き返ったのだと考えていいだろう。そこに至る呪術の途中では、語学の机上において、ミイラが踊りを踊っているだけなのである。
こんなことは、生活言語では起こらない。いや、「音」というものひとつだけとりあげても、生活言語には「声」はあるが、「音」というものはないのだと言ったほうがいい。誰も皆、生活では「声」を聞いているのであり、「音」などを聞いているわけではない。例えば、言葉を覚え始めた幼児に母親が話しかけているとき、幼児が聞いているのは、「音」ではなく「声」である。
(私は最近孫を持ったが、孫の顔をみていてわからなくなったことがある。生まれたばかりの赤ん坊が持つ意識の白紙状態は、「声」を聞いているのか、「音」を聞いているのか。それがわからない。この時点では、無機物が有機的であり、有機物が無機的であり、相互に交流しているみたいなのだ。)
なにはともあれ、赤ん坊が母親の言葉に反応するようになった時からは、赤ん坊が聞いているのは母親の気持ちや感情と分離しがたい「声」である。もちろん、この「声」も録音できるので、録音されてしまえば「音」であるだろうが、それでも、言葉が母親から発せられているその時に、話しかけられている幼児にとって、言葉は必ず「声」であって「音」ではない。つまり、自分に直接に話しかけられているという関係が、幼児を言葉の当事者にしているということである。生活言語においては、大人と大人の話でもそうである。話す人もそれを聞く人も言葉の当事者である。
この当事者性とでも言うべきものも、語学にはない。当事者性もなく、言葉は「声」ではなく「音」に過ぎず、そしてそれに意味が伴わないというような事態において、言葉はすでにあらかじめびっしりと死んでいるのである。単純な事実であり、何も気持ち悪がられる必要はない。
なぜ学校ではちゃんと「発音」を扱わないかに関して、sbさんは答が出ていないようです。
私は、それについては一応の答を出してあります。過去ログを読んでくれればわかりますが、
過去ログは膨大な量があり、どうでもいいような記事も決して少なくはないので、該当部分
を探すのが大変だと思いますから、手短に私の考えを書いておきます。
日本語と英語が音に関しても、文構造に関しても根底的に異なる言語であるということにつ
いては、文部省に何の責任もありませんが、このことをきちんと方法的に組み込むことなく、
大学の英語教員養成課程のカリキュラムを組み立ててあることが根本の原因です。
大学の英語教員養成課程には「英語音声学」という単位があります。日本中の英語の先生は
全員この単位をとった人たちです。そして、この「英語音声学」とやらが、日本の英語の教
室では(先生たちは「現場では」と言っています)、役に立たないのです。
この「英語音声学」は日本の学者が作ったものではなく、アメリカの学者が作ったものの輸
入品です。この輸入品が日本人の生徒に英語の「音づくり」をするときに、役に立たないの
です。すでに、日本語の音を持った人が英語をやるのであるという明らかな前提を無視して
いるからです。もちろん、アメリカの学者にも罪はありません。こんな直輸入ものを無媒介
に導入して、「お飾り」にすぎないものを単位として設定し、教員になろうとする人たちに
強制し、柴田さんや私の実践のように、現実に日本語で育ってすでに日本語の音を持ってい
る生徒に対応できている事例を無視しつづけている馬鹿役所(文部省)があるからです。
日本の学校でまともな「音づくり」がなされないのは、馬鹿役所(文部省)の責任が半分、
それをまともに批判できない大学教員どものおさぼりの責任が半分です。
大学教員どものおさぼりについては、以前、広島大学で教えている柳瀬という男と喧嘩こ
きましたが、興味がありましたら、過去ログを参照して下さるとありがたいです。
どなたか、過去ログから、石坂君の疑問に関連する記事や、文部省批判、大学教員批判を
引用して下さると助かります。
なぜ日本の英語教育が駄目なのか、多少ははっきりするだろうと思います。
あなたが現場復帰できないでいることの原因の一つに、あなた自身は「音」を非常に大事にされ
る人なのに、高校の英語の授業という現場では、それが実践できないということがありますか?
もしそうであるなら、あなたの敵も文部省です。なぜ現場の教師が文部省のでたらめさをえぐら
ないのか。私には不思議で仕方がありません。
あなたは現場復帰して、度胸を据えて「音づくり」をやるべきです。
sbさんが紹介してくださった、鈴木さんという大学の先生のホームページはいいものだと思って
います。
過去ログ倉庫からのリンクに加えておいて下さい。
私はまだ、読みに行く時間がとれませんが、いずれゆっくりと読みたいと思っています。
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鈴木さんのURLです。 投稿者:sb 投稿日: 7月13日(火)05時14分49秒
http://www.zoshindo.co.jp/Ms_Ns/Dialg29a.htm#ondoku
根石>ここに私が言ってきた、「中間音」という考えが登場する根拠があります。日本人の日本語なまり(カタカナ発音)からは抜け出しているが、英語ネイティヴの音ではない(当然です!)音。つまり、誕生して育つ過程で自然に身につけた英語音ではなく、意識的に人工的に作った音。この音のことを「中間音」と言ってきました。
sb>ネイティブ音はそんなに偉いものではないと思います。ネイティブだって、ノンネイティブだって「中間音」を出している。ただ「通じている」「分かっている」「通じさせることができる」「分からせることが出来る」かどうかだけが問題だと思います。
ネイティヴだって「中間音」を出しているというふうに、例の如く一般化のローラーをかけられたのでは、私はここに書くことが空しくなります。
私は、「中間音」を「育つ過程で自然に身につけた英語音ではなく、意識的に人工的に作った音」だと定義してあるのに、sbさんによってその定義はまったく無視されています。ネイティヴの音は、それぞれ個々の癖はあってもみんな「育つ過程で自然に身につけた英語音」ですから、私の言っている意味での「中間音」であるわけがありません。
イギリスの歯抜け婆さんのふがふが音でさえ、それが明瞭でないだけであって、「中間音」であるわけではない。「意識的に人工的に」ふがふが音を出しているのではないからです。
sbさんは、sbさんの使いたい意味で<中間音>ということを言いたいのであるならば、括弧つきの「中間音」という表記はやめていただきたい。私は定義したうえで、括弧をつけ、「中間音」としているのです。
>ネイティブだから「音作り」が出来ないということはないと思います。日本語をしっかりやって「通じる日本語を獲得した英語ネイティブなら、日本語と英語の発音の特徴をある程度押さえた人なら、たとえネイティブであろうと日本人に対して英語音をコーチすることは可能であるし、そうならなければならないと思います。
「そうならなければならない」のはその通りです。
しかし、そうならなければならないことを実現して、実際に日本人に対して「音づくり」がやれている外人をどなたか一人でもいいがご存知なのですか。
私は、英会話学校でセンセイをやっている外人は何人も知っておりますが、そのうちの一人だって、日本語の音をすでに持った日本人に対して「音づくり」がやれている者を知りません。
彼らがやれることはモデル音を出すことまで、です。それ以上の何をやれるわけでもない。それをやるためには、相当高度な日本語能力が必要ですし、日本人の舌や唇が日本語の音によってどう定式化されているかを知っていなければならない。「通じる日本語を獲得した」程度の英語ネイティヴに、日本語で育った人の口の動きを変えることができるなどとはとうてい信じることはできません。実際にそれを可能にした人を一人でもいいですが知っておられた上で、『ネイティブだから「音作り」が出来ないということはないと思います。』などと言っておられるのですか。一人もそれを知らないで言っているのであれば、そして根拠を掘り出してないならば、それは空論ではないですか。
ちゃんと現実を見て欲しいと思います。
sbさんにあるのは理屈だけではないですか。
あなたの理屈を私は信じることができません。
現に日本の津々浦々の英会話学校で、外人は日本語の音をすでに持っている人に対して何もできていないではないですか。あなたはかつて英語フリークだったので、こういうところに非常に盲目なのだと思っています。
外人のモデル音も英語フリークには有効だ。
フリークはやみくもに真似するのが好きだからだ。
私の「音づくり」は、口の筋肉の動きに障碍がないなら、あらゆる日本人に有効である。
英語がしゃべれるだけの外人なんかと同列に扱われてたまるか。
お返事が遅れ申しわけありません。
>W 音はかなり口唇を前に突き出して出すので、続くar 音が「おー」に片寄るのは自然の成行きかもしれないと考えたりします。 口を究極まですぼめた後にarの音の為にぐっと大きく開くのはしんどいですね。(略)
> もしこの推測が正しければ、例外として扱い、そういう説明を付け加える方が生徒も理解しやすいと思います。
唇の開きを小さくして前に突きだす w 音が、それに続く母音を変形させるのではないかという考えは、非常に示唆的です。それがなぜ、「えー」などにならず、「おー」になるのかというのは相変わらず疑問のままに残りますが。
最近、「あいうえおフォニックス」をどうまとめるかを考えていて、w に関して二つほど法則があると思っています。
w に続く or は、「狭いアの音」
例: word, work, world, worse, worth
w に続く ar は、「ゆでたまご・唇を丸く開き唇自体に力を入れるオーの音」
例: war, toward, ward, warden, warm
これらにも例外はありますが、まずかなりの確率で当たりますので、定式化していいと思っています。これをどう「あいうえおフォニックス」に組み込むかを考えています。
私自身の電話レッスンの事、勝手ばかりで申し訳ありません。 今日もお尻に火が付いています。 発音の件やらホームページ作成の件やら宿題が山積していますが、もうしばらく御猶予下さい。 いくこ先輩にもお返事もせず、真に申し訳有りません。
雑誌の原稿を書きますので、また少し掲示板をお休みします。
承知しました。
義理を生きる Naima さんを応援していますので、きちんと片がついたら、レッスンに復帰され、
がんがん練習されることを望んでいます。
石坂さんは、「発音」という言葉について、どのようなイメージをもっていますか?私は「発音」というのは「個性」だと考えています。一般的には「発音記号」(国際的にはIPAというのがあります。初耳なら後で調べてみてください。)などと使われて、誰もが持っている「音」の共通部分というイメージがあるかもしれません。しかし、私はそれを「音声」と捉えて「その人にしか出せない音声」と考えます。このことは根石さんから学んだことです。
私がsbさんが述べられているようなことを言ったことがあったでしょうか。あったようなら、過去ログから引用して下さるようお願い致します。
すみません。訂正します。
>私は「音」と「声」を区別したことはあります。しかし、「個性」などという戦後民主主義じみた概念とそれらを結びつけたことは、私の自覚では一度もなかったと思っています。
根石さんの頭の中の「音」は、私の中では「音法(発音記号にいくつかの基本的な単語と単語が重なった時の約束事を加えたもの)」ととらえています。また、「声」は、私の中では「音声」という風にとらえています。なぜなら、「声」には、根石さんがこの後、おっしゃっている「音」が含まれているからです。それからもう一つ。根石さんのおっしゃる「音」を日本人英語コーチは一体どこまで塾生や生徒に身に着けさせることができるのかということです。そのことについて根石さんはどのように考えておられますか。
>発音記号というものがあり、それが有効であるなら、「音」は「個性」なんかではありません。
これは私の定義の仕方でも、根石さんの定義の仕方でも同じことですから問題にはなりません。
根石さん・・・「音」と「声」に区別・・・「音」は個性ではない
sb・・・「音法」と「音声」に区別・・・「音法(根石さんのおっしゃる「音」と同義?)」は個性ではない
>sbさんの言う「個性」という語を使うなら、あらゆる有象無象の個性を貫いている音の共通部分を抽き出して、それに該当するものとして発音記号というものが存在しているのです。
このことが今私が書きこんだこと、そのものです。たぶん。
>なぜ学校ではちゃんと「発音」を扱わないかに関して、sbさんは答が出ていないようです。
この根石さんの書きこみには少しムッときました。なぜなら私は石坂さんへの書きこみで次ぎのように結んだからです。
>(sb)まだきちんとした「なぜ発音をもっと中学高校でしっかりやらないのか」という答えは全くでていません。今日はとりあえずここまでにしたいと思いますが、この掲示板を時々見てください。
これは私の表現力の拙さです。でもどうしてムッとしたのか。なぜ学校で発音をしっかりやらないのかということに対する答えの続きを書く気持ちがまだあったからです。このような「怒り」は大切にしていきたいと思っています。自分の「怒り」は結局は「自分」から出ているからです。だから自分の責任なのです。
そこのところを本当によく分からず混乱していた自分というのがありました。「わたし」と「わたしのあたま」、「わたし」と「わたしのからだ」、「わたし」と「わたしのこころ」がある程度区別しながら、自分の中にもっていると今までどうしようもなかった「怒り」「空しさ」が少しずつですが、解消されていきます。これは私自身が少し経験したことです。
そこで私が石坂さんへの回答としていくつか考えていた項目のみを書き出してみます。まだどんどん出てくるかもしれませんが、「今」の時点で思いついたことや本で読んだことです。
@(前回の石坂さんへの中で書きましたが)就職・進学試験における問題
A音声測定が難しいという問題
B教員世代にはまだまだムラ社会意識が強く(もちろんこれも大変大切なのですが)私も含めて変えていくだけのちょっとした勇気を持ち合わせていないという問題(つまり何でも前例が幅を利かせてしまう)
C日本語の特殊事情(日本の漢字は表意文字で、ネイティブ言語から輸入されたphonicsや根石さんがおっしゃっていた大学教員養成段階での音声学はこれまた輸入物であるということ、これについてはまた機会があれば補足します)
DCでもでてきましたが、教員養成と教員免許の問題
だいたいこのあたりではないかと思います。
>あなたが現場復帰できないでいることの原因の一つに、あなた自身は「音」を非常に大事にされ
る人なのに、高校の英語の授業という現場では、それが実践できないということがありますか?
そのことも含まれています。でもこの掲示板ではそれ以外のいろいろな私の現場復帰できない原因は聞いてもらいたくありません。
>もしそうであるなら、あなたの敵も文部省です。なぜ現場の教師が文部省のでたらめさをえぐら
ないのか。私には不思議で仕方がありません。
根石さんは敵を作るのが好きですね。私は自分の「怒り」を大切にしながら、自分に関係のある人達とはうまく適応していきたいです。そしてそれらの人達を意見がぶつかったら、「説得」はしません。「納得」してもらうように努力しようと思います。そして追いかけないことにしたいなあと思っています。
>あなたは現場復帰して、度胸を据えて「音づくり」をやるべきです。
根石さんは教祖ですか?いい加減にしてください。今の私のことについては見守っていていただけますか。
>ネイティヴだって「中間音」を出しているというふうに、例の如く一般化のローラーをかけられたのでは、私はここに書くことが空しくなります。
ちょっと喧嘩調子になってきたことをお詫びします。でも「空しく」なってみてください。根石さんの塾生の皆さんの英語も日本語も少しずつ向上してきているのではないですか。私自身日本語も英語も音声面でも文字面でも文章面でも少しずつ向上してきているのではないかなあと思っている面もあります。3歩進んで2歩下がるという感じですが。。。
でもでも。。読み返してみると根石さんのおっしゃることが分かってきました。その部分を引用します。
>私は、「中間音」を「育つ過程で自然に身につけた英語音ではなく、意識的に人工的に作った音」だと定義してあるのに、sbさんによってその定義はまったく無視されています。ネイティヴの音は、それぞれ個々の癖はあってもみんな「育つ過程で自然に身につけた英語音」ですから、私の言っている意味での「中間音」であるわけがありません。
ここのところは私自身ずっと疑問に思ってきたところです。「育つ過程で自然に身につけた英語音」と「意識的に人工的に作った音(=根石さんの言い方では「中間音」)で、「音」の部分において何か違いがあるのでしょうか?「声」は生得的なものだとすると。。。「音」そのものに違いがあるということなのでしょうか?それは納得できません。なぜなら「イメージを伴っているかどうか」そして「生活上の経験があるかどうか」などだけが問題なのであって、「音」そのものは「音」だと思うのです。ネイティブだからネイティブの出す音は「人工的な音ではなく」、ノンネイティブだからノンネイティブの出す音は「人工的な音」なのでしょうか?私は同じと考えて良いと思います。
しかし、ここが言語の面白いところですが、根石さんのお考えもよし、私sbの考えもそれでよし、いろんな考えが言語習得・獲得にはあると思っています。
根石さん議論はお手柔らかに願います。
石坂さん話しが急に難しくなってしまい、申し訳ありません。またぜひこの掲示板でお会いできることを楽しみにしております。
イギリスの歯抜け婆さんのふがふが音でさえ、それが明瞭でないだけであって、「中間音」であるわけではない。「意識的に人工的に」ふがふが音を出しているのではないからです。
>『ネイティブだから「音作り」が出来ないということはないと思います。』などと言っておられるのですか。一人もそれを知らないで言っているのであれば、そして根拠を掘り出してないならば、それは空論ではないですか。
>空論かどうかは時間が経ってみないと分かりません。いろんな人がいろんな所で動いているかもしれませんから。「大風呂敷」だけが大風呂敷を広げているのではないと思いますがいかがでしょうか。
>ちゃんと現実を見て欲しいと思います。
現実を見ていくことの大切さをかみしめて日々の療養生活を送らせていただいています。
>sbさんにあるのは理屈だけではないですか。
理屈が多い分、実際そうだったと思いますが、これからもそうかどうかは私のbehavior次第です。
>あなたの理屈を私は信じることができません。
そうですか。私は根石さんのbehaviorについて尊敬し応援しているひとりです。
なんか今回たくさん書きこみをしましたが、お返事はゆっくりした時で結構です。
失礼します。
こちらに書かれる文章から推測して
とてもよい先生なのでしょうね。
自分を磨く努力を怠らず、向上につとめてらっしゃる。
しかし学校は,システムはそう簡単にかわらない。
改革しようにもあらゆる抵抗勢力が・・・・。
閉塞感ありません?
私は窒息しそうになりますね。
英語の足腰をきたえたほうが 結果的にみて近道なのに
みな、うさぎさんになりたがる。
一見して近道でもかなりの周り道なのに
てっとりはやく結果がでる小手先を欲しがる。
または楽しく自然に身につく道を選ぶ。
そっちの楽しいじゃなくて 実のある力をつける楽しみのほうが
よっぽど楽しいんだけどね。
いくこさん、
小学生の塾生さんの親御さん、気がはやいですね。
基礎力をある程度つけてからじゃないと
最初に英検ありきは 本末転倒。
まあ英検の勉強もやり方によっては実のある力をつけることは可能ですが。
愚痴っぽくなりました。またNaimaさんの叱咤激励をお待ちしています。
そうですよね。プロにならなくては。 あまちゃんですね、私。
>根石さんの頭の中の「音」は、私の中では「音法(発音記号にいくつかの基本的な単語と単語が重なった時の約束事を加えたもの)」ととらえています。また、「声」は、私の中では「音声」という風にとらえています。なぜなら、「声」には、根石さんがこの後、おっしゃっている「音」が含まれているからです。それからもう一つ。根石さんのおっしゃる「音」を日本人英語コーチは一体どこまで塾生や生徒に身に着けさせることができるのかということです。そのことについて根石さんはどのように考えておられますか。
「音法」は法です。方法です。「音声」は「音と声」です。
「音」は純粋に物理現象です。「声」は物理現象で片づけられません。感情や思いというものと分離できないものが「声」です。私が言っている「声」というものと、sbさんが言おうと誰が言おうと、「音声」というものは違います。「音声」などという言い方は、音や声を総称しただけのものではないですか。「声」はいつも当事者性とともにあり、他人事ではありませんが、「音声」などは相も変わらず他人事です。そういう総称では、何もはっきりしてこないから、私は「音」と言い、「声」と言っているのです。
私は、語学の言語と生活言語を峻別しています。だから、「音」と「声」はまるで違うものだと言ってきました。実際に語学の言語と生活言語がまるで性質の違うものであるところに「音」と「声」を峻別する根拠があるのです。
私が「音」と「声」と言う場合に、その両者はまるで違うという考えはあっても、そこに「音法」などという「法」は含めてありません。ただ単に「音」と「声」は違うと言っているだけです。それが、語学での音声現象と、生活での音声現象がまったく違うところだと言っているだけです。当事者性やのっぴきならなさの「あるなし」を言っているのです。
「音」と「声」のように、同じように扱われがちなものに対して、語学をやる者の心得として、そこをきちんと区別しろと言っているのです。
「音法」は法です。「音声」は「音と声」です。その両者が違うなどということは最初からわかりきったことです。「法」と「総称」がいったいどういうふうに対になっているのか、あなたの文章からではわかりません。
「声」に「音」が含まれているなどという考えは迷信だと思っております。「声」は「声」であり、「音」は「音」です。人の「声」を聞いている人が、決して「音」などを聞いてはいないという理屈はおわかりにならないでしょうか。それを「音声」などと総称しててんたんとしていられるのは、テープレコーダーの心くらいなものだと思います。人が「音」を聞いていないならば、そこに「音」はないのです。物理学者なら、たとえ人が「声」を聞いているときでも、そこに「音」はあると言うでしょう。そんな理屈は私でもわかります。その程度の科学的な考えがいったい語学において何の役に立つと考えておられるのでしょうか。それについてはちっともわかりません。
私が、「音」と「声」と分けて考えているものを、あなたは「音声」として、ここでも一般化のローラーをかけているのです。そこへ、「音法」というまったく関係のない方角から別のものをひっぱりこんだのです。
「音法」について言うなら、私は「あいうえおフォニックス」は「音法」だと思っています。
これが普及する日が来るのか来ないのか、もしも普及するならば、日本にようやく「音法」と呼べるものが誕生するのだと思っています。尊大だと言われようと何と言われようとかまいませんが、これまでに果たして「音法」と呼ぶに値するようなものがいったいあったでしょうか。あなたが現場で、「音づくり」がやれないことは、単に受験制度や学校制度の問題にとどまらず、これまでにまともな「音法」そのものがなかったことを証明しているのです。
>根石さんのおっしゃる「音」を日本人英語コーチは一体どこまで塾生や生徒に身に着けさせることができるのかということです。そのことについて根石さんはどのように考えておられますか。
英語ネイティヴがその「音」を英語として受け取り、さほどストレスを感じない程度にはできますね。石坂君あたりは、それを証明してくれると思っています。アメリカ在住のまま、私のレッスンを続けて下さっている高橋さんもそれを証明してくれると思っています。
私は、それをフリークでない普通の生徒にも実現できます。日本の学校はそれをやれていないではないですか。あなたがいくら「音」を大事に思っても、あなたにおいてそれはやれていないではないですか。
だから、理屈だけだと言っているのです。
>>あなたが現場復帰できないでいることの原因の一つに、あなた自身は「音」を非常に大事にされる人なのに、高校の英語の授業という現場では、それが実践できないということがありますか?
>そのことも含まれています。でもこの掲示板ではそれ以外のいろいろな私の現場復帰できない原因は聞いてもらいたくありません。
私は、過去ログを読まれる人には、あなたが現職の高校英語教員であることはわかることだから、あなたが高校の英語科教員であると言ったのであり、あなたが現場復帰できないでいるということは、あなたが自分でそう書かれるまで触れておりません。
もちろん、「それ以外の原因」などについて私は聞くつもりはありません。
私が「それ以外の原因」など何か聞きましたか?
>>もしそうであるなら、あなたの敵も文部省です。なぜ現場の教師が文部省のでたらめさをえぐらないのか。私には不思議で仕方がありません。
>根石さんは敵を作るのが好きですね。私は自分の「怒り」を大切にしながら、自分に関係のある人達とはうまく適応していきたいです。そしてそれらの人達を意見がぶつかったら、「説得」はしません。「納得」してもらうように努力しようと思います。そして追いかけないことにしたいなあと思っています。
私は文部省のことを言っているのです。「自分に関係のある人達」のことなど言っておりません。
>>あなたは現場復帰して、度胸を据えて「音づくり」をやるべきです。
>根石さんは教祖ですか?いい加減にしてください。今の私のことについては見守っていていただけますか。
あなたの病気については見守っています。あなたがレッスンを休む際に、何の連絡もしないでいることがあることについても見守っています。
しかし、レッスンを休むならそのことを連絡すべきであることについては、それはそのままその通りであり、英語科教員として金を受け取っているのであれば、現場復帰してあなたの信じる実践をやるべきであるのは、それもそのままその通りです。あなたが現実感覚が希薄であろうとなかろうと、それはそのままその通りなのです。
過去ログを読み返せば判然とすることですが、「音づくり」に関してこれだけ膨大な発言を繰り返してきたあなたが、学校の現場で「音づくり」をしようとしまいと俺の勝手だとでも言いたいのでしょうか。
私が見守っていることと、「それはそのままその通り」であることとは別問題です。
いっしょくたにしないでいただきたい。
>ここのところは私自身ずっと疑問に思ってきたところです。「育つ過程で自然に身につけた英語音」と「意識的に人工的に作った音(=根石さんの言い方では「中間音」)で、「音」の部分において何か違いがあるのでしょうか?「声」は生得的なものだとすると。。。「音」そのものに違いがあるということなのでしょうか?
それは納得できません。なぜなら「イメージを伴っているかどうか」そして「生活上の経験があるかどうか」などだけが問題なのであって、「音」そのものは「音」だと思うのです。ネイティブだからネイティブの出す音は「人工的な音ではなく」、ノンネイティブだからノンネイティブの出す音は「人工的な音」なのでしょうか?私は同じと考えて良いと思います。
「音」そのものは「音」です。何の反対もしません。
國弘正雄は、「音」だけでなく、「英語」そのものについて、ノンネイティヴの作るものは「人工的なもの」だと言っています。その「人工的なもの」に対置されるものが、「自然なもの」で何かおかしいでしょうか。私が言っているのは、結果としての音ではなく、「音」が作られる過程のことです。過程においては、両者はまったく異なります。柴田さんや私がやっている「音づくり」というものが「人工的なもの」であるというのと同じ意味で、あなたは自分の日本語の「音」を本当に「人工的に」作ったのですか。誰も自分が日本語の「音」を獲得した頃のことは覚えていませんが、私に言わせれば、でたらめは言わないでくれ、となります。
「結果としての音」が「音」の部分において何の違いもないとして、それは誰にとっての話ですか。
物理学者にとってなら「同じ」でしょう。それが「同じ」だとして、それでどうかしましたか。
物理学者にとってならともかく、その「音」を「声」に変えて発語する者にとっても、それを受け取って返事を返す人にとっても、「自然に身につけた音」と「人工的に作った音」は音価が同じでも、ただちに違うものになります。まさに言われているとおり、「イメージが伴っているかどうか」の問題があるからです。あるいは、イメージのずれの問題があるからです。語学の縁(へり)において、「音」は「声」となるべきでしょうが、その時に、同じ音のはずのものが、まったく異なった働きをすることがあるのは、イメージが伴う速度、イメージとの一体化の強度が違う、あるいはイメージそのものが違うためです。イメージの問題がからむと、同じ音が同じものではなくなります。物理学的に「音」として同じだなどということは、大した問題ではないどころか、ほとんど問題にもならないのが生活過程です。何度も言いますが、生活過程では、語学的な興味において人の話を聞くのでない限り、人は「音」など聞いていない。人は話す人の感情や思いとわかちがたい「声」ばかりを聞くからです。
そこでは、物理学者にとっての「同じ音」など、ほとんど意味がないのです。
物理学者にとってではなく、語学教師にとってどうなのですか。音価が「同じ」だとして、それでどうだというのですか。語学教師にとっては、「同じ」かどうかは、「音づくり」の実践において、生徒の口の動きを変えられるかどうかにおいて問題なのであって、「音づくり」をやっていない語学教師が「同じ」だなどと言っていて、それで何がどうなるというのですか。すでに何度も書きましたが、あなたの上質な発音は、生徒のためのものではなく、あなたの自己満足のためのものなのですか。「同じ」だからそれでどうだというのですか。それは「飾り物」ですか。
物理学者がある音価についてきわめて精密に定式化できたとして、さらに「音」としてはネイティヴのものもノンネイティヴのものも「同じ」だと判定したとして、それは物理現象として同じだと言っただけのことです。なぜあなたは物理学者の真似なんかしているのでしょうか。わけがわかりません。
物理学者めいた判定を下したところで、ネイティヴの「音」には最初からイメージが伴うこと、つまり、「声」として存在すること、ノンネイティヴの「音」は「声」から切り離されて、まったく口の運動として、感情抜きで独在させることができ、イメージの伴わない「音」となってしまうことが可能であること、それがきわめて普通の語学の過程であるだけでなく、上達にとって必須であること、そのことによって、言語使用そのものに根底的な違いが生じることなどには一指をも触れ得ないと考えます。
物理学者にとって同じ音であるものが、語学にとっても、生活過程にとっても、まるで異なるものとなるという理屈はおわかりにならないでしょうか。語学と生活過程を峻別できなければ、同じ音価がまるで意味の異なるものとなることはおわかりにならないのかもしれません。最初からイメージとともに獲得され、生活過程で繰り返し使用されているネイティヴな語や文に伴っている「音」が、イメージを伴わずに独在する過程にある「音」と、「語学の過程」にとっても「生活過程」にとっても同じものであるわけがないのです。
再度お聞きしますが、いったい誰にとって、あるいは何にとっての話をしているのですか。
いったいどこで「同じ」だと言っているのでしょうか。
私が信じることができないのは、あなたの物理学者めいた「客観性」なのかもしれません。その客観性が、人の痛みを構わず、一般化のローラーをかけるから腹がたつのです。
また、日本人の生徒にとっては、「自然に身につけた音」を持つ人に習うよりは、「意識的に人工的に作った音」を持つ人に習う方がいいのは、当然のことです。私はそのことを書きたくて、あなたが引用した部分を書いたのです。物理学者やその真似ごとにとって「同じ」かどうかなど知ったことではありません。
「意識的に人工的に」音を作った人なら、どうすればその該当の音が出せるのかを言葉で説明できますが、「自然に」身につけた人にはそれができません。私はスリランカから来た若者に日本語を教えていて、自分がある一つの日本語の音をどのように発音しているかを説明できないことに気付いたときに、そのことを考えました。「自然に身につけた音」に関してはネイティヴ話者は説明できないのです。だから英語ネイティヴには日本人の英語音は作れないと言っているのです。前回もお聞きしましたが、英語ネイティヴで私が言う意味での「音づくり」がやれる人を一人でもいいからご存知だとでも言うのですか。
「意識的に人工的に作った音」というものは、生活過程に突き混ぜないと、そこに実感がありません。だから、語学の先には「音」を「声」とする生活過程があるのです。
語学における「音」に実感が伴うことがある場合は、語学をやる学習者の意識からのみもたらされる「イメージ」のリアルさによるものであるか、「物語としての磁場」がもたらす文脈からの実感(小説などを読む場面を想定しています)があるだけです。
そこには「他者性」というものはなく、「他者」ときり結ぶ「切実さ」も「のっぴきならなさ」も「当事者性」もありません。
極論すれば、生活過程においては誰も「音」そのものなどは聞いていないのです。
誰も聞きもしないものを鍛錬するのが語学です。「音づくり」とは、物理現象としての「インターフェイスつくり」だからです。そこだけに限定すれば、sbさんの言っている「同じ」ものはあります。私のレッスンもそれを作っているのです。あなたが「同じ」だなどと言いながら「音づくり」をやっていないのであれば、あなたは空論をもてあそんでいるだけのことです。あなたが大事に考えている「音」というのは、いったい誰のためのものなのでしょうか。ほんとうにわかりません。
「声」については生得性ということもありましょうが、私は「生きて動く感情」、「生きて動く思考」、それと同致するものについて言っています。
原稿等、お忙しいであろう時に回答していただいたこと、たいへん感謝しております。少し時間をかけて考えてみます。根石さんにとっては当たり前のことでも、私にとってはまだまだ未消化の部分であろうことが十分予想される内容です。
まずはお礼まで。
僕が高校生の時に、英語の先生に「発音をもっと勉強したほうがいいんでしょうか」と質問したことがありました。そのとき先生は、「通じればいいんだよ」と一言で終ってしまいました。
sbさんや根石さんが真剣に僕の質問に回答して下さった事に本当に感謝します。
>私も根石さんのレッスンを受けているsbと申します。根石さんのレッスンを受けてアドバイスに従っていれば「英語の基礎は確実につきます」。やり方はいろいろあって自分に合うやり方を見つけていけばいいと思いますが、本当の基礎の段階ではある程度の誰にでも共通するやり方があると思います。それをきちんとやってもらえるのがこの電話でレッスンだと思います。
sbさんのこの回答には励まされました。
sbさんには会ったことはありませんが、見ず知らずの若者(ここでは僕)の質問に真剣に回答してくれたというのは、とてもうれしいものです。根石さんにも言えることですが。僕もそういう「人」になりたいと思ってます。
sbさんこれからもよろしくお願いします。
僕は電話でレッスンをやっています。シナリオは「ゴースト」です。
最初は電話でなんか本当にできるのか、と少し疑問がありました。
最初は狭い口とかあごを下げるようにと言われても、なかなかできませんでした。そこで、考えたのが、鏡を使って自分の口を観察しながらレッスンを受けると言うものです。
僕はいつも、鏡を用意してレッスンを受けています。これはこれからレッスンを受ける方にはとてもお勧めです。根石さんからokがでたら、その口の大きさなどをなるべく覚えるようにしています。
レッスンを受けてみてどのくらい経ったかは忘れましたが、いつものようにレッスンを受けていると、そのレッスンの一週間前は感じなかったのに、根石さんの口の動きが急に分かるようになりました。頭が勝手に口の動きを感じ取っているというか。もし同じような経験をした方がおられましたら、うまく説明できないので、補足していただければありがたいです。
また、レッスンを受けて、少ししてから、テキストの「ゴースト」を見てみると、しっかり読んでいる文はスーと聞き取れました。自分でも驚いたのですが。
(sbさん)>根石さんのおっしゃる「音」を日本人英語コーチは一体どこまで塾生や生徒に身に着けさせることができるのかということです。そのことについて根石さんはどのように考えておられますか。
(根石さん)>>英語ネイティヴがその「音」を英語として受け取り、さほどストレスを感じない程度にはできますね。
僕は英会話スクールを二つほど通ってみましたが、どうも自分の中で納得がいかなかったのでやめました。でも根石さんのレッスンはとても自分の中で、納得しています。根石さんは音についてのレッスンをやっていますが、過度に音に捕らわれすぎてはいないと思います。英語を勉強している人の中には、完璧にネイティブの音に近づけようとする人もいるとの事ですが、発音に関して言えば、根石さんが言われている程度に発音できればいいと思います。
一生徒としての感想でした。
(感想は鬼の方に書くようにといわれましたが、見つからなかったので、こちらに書かせていただきました。)
小林秀雄『考えるヒント』(文春文庫)所収の、『プラトンの「国家」』より引用。
「政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一とかけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と」
ありがとう。
今日、ある女の人と英語嫌い人さんの話をしました。
根石さんと、フリークさんとで、どっちが鬼だかわからないけど、根石さんが鬼になったり、鬼
退治をしたりしてがちがちの語学論をやっているときに、英語嫌い人さんが一見まったく別の方
角から発言してくれると、ホッとすると女の人は言っていました。
ありがとう。
女の人が、たくさん発言してくれていたはずの掲示板ですが、近頃、めっきり女の発言が少なく
なりましたな。
その昔は、この掲示板はハーレムだと思っていた私ですが、少し見当違いでしたかな。
石坂さん、いろいろ書きこみをしてくれたようで、うれしいです。今は付合う人がたいへん限られているので何か友達ができたようなうれしさも感じます。
>僕は英会話スクールを二つほど通ってみましたが、どうも自分の中で納得がいかなかったのでやめました。でも根石さんのレッスンはとても自分の中で、納得しています。
「自分の中で納得がいくかどうか」はとても大切な基準ではないかと思います。何を食べるか、いつ寝るか、どこに行くか、いつ決めるのか、何を望むのか、どのように対応したいのか、誰に教えてもらうか、などなど、そこの基準がしっかりしていると、健康や人徳が自然にもらえるのではないかと思います。
>僕が高校生の時に、英語の先生に「発音をもっと勉強したほうがいいんでしょうか」と質問したことがありました。そのとき先生は、「通じればいいんだよ」と一言で終ってしまいました。」
「通じれば」とか「分かれば」とかいった表現があります。これについてはいろいろ深い意味も十分考えられます。「発音をもっと勉強したほうがいいのか」ということも私自身しっかり考えていきたい問題です。石坂さんは素直にいろいろ質問や疑問を身近な人に投げかけていらっしゃるようです。これは生きていく上でとても大切なある意味技術をもうすでにお持ちではないかということで、すばらしいことだと思います。
鏡を用意して電話でレッスンを受けられているとのこと。これもまたすばらしいアイデアです。自分にとっての口の形を覚えようともしていらっしゃる。これもまたすばらしい。ところで私はいつもテキスト片手にレッスンを受けているので受話器しか持てません。鏡は机に置くタイプですか?
また電話の声をヘッドホンで聞き、自分の声も口の前にくるマイクでしゃべれるものを根石さんのお家で見かけたので、そういうのもひょっとしたらどこかで手に入るかもしれません。いろいろ試されている石坂さんの素直な行動力に敬意を表します。
>根石さんは音についてのレッスンをやっていますが、過度に音に捕らわれすぎてはいないと思います。英語を勉強している人の中には、完璧にネイティブの音に近づけようとする人もいるとの事ですが、発音に関して言えば、根石さんが言われている程度に発音できればいいと思います。
根石さんが言われている程度とあなたが満足する程度が同じなら問題はないと思います。根石さんのアドバイスに沿ってある程度できたかなと感じた頃に文単位(大文字からピリオドまで)で同じ文を5回ほど自分の音声をテープにとってみて、その声で文字文章が書け、その文がテキストに80〜90%くらいヒットしていれば(スペルミスが1個かせいぜい2個、でもその単語は意識して練習するのが大切なことは言うまでもありません)、どんどん先へ進む方がいいのかもしれません。
>英語を勉強している人の中には、完璧にネイティブの音に近づけようとする人もいるとの事ですが、発音に関して言えば、根石さんが言われている程度に発音できればいいと思います。
根石さんについていってみてください。信頼できる方です。そして自分の可能性を信じてください。少しずつですが、確実に進歩している自分を確認できることでしょう。
mailto:susumutakahata@hotmail.com
根石さん、Jackie さん、
なかなか投降出来なくてすみません。 仕事がひとつ片付いたら、また外野からブーイングが入るくらいうるさく投降しますんで
本質的に語学は暴力だと根石さんずっと前に言ってましたね。
再認識。
外国語なんてものは意識にとって所詮異物だわ。
子供がわざと小さな声で英文を読んだり。
黙ったり。
どもったり。
するのは、異物に対する無意識な・しかし必死な抵抗だ。
どんなやさしい顔したって、やさしい声したって、やさしいコトバを使っても、教師・先生なんて異物を強制するもんでしかないわ。
だったら「先生」には「個性を尊重する」なんて言ってほしくないわ。
その存在の暴力性に自覚的になってください。
それは悪かもしれないが、必要なものなのですから。
「暴力はイケナイデス」なんてのはみんせいにでもまかしておいて、泣きながら生徒に暴力ふるってください。
そして自分に対して、悲鳴をあげながら暴力をふるってください。
戦後民主主義の呪縛からfreeになってください。
個性なんてものは、たたかれてたたかれて、その後にそれでも残っちゃうのが個性です。
暴力ふるわれて、それで消えてしまうようなものは、個性なんかじゃない。
そんなもの、いずれ世間の荒波にもまれて、消えてしまいます。
俺は自分のことは、生徒さんより多少先に行っている者くらいのものに思っています。
ただし、生徒の誰よりも激しく練習しているつもりです。
人間の出来・不出来からいったら、俺の生徒さんの方が出来てるくらいなもんだと思います。
誰が「先生」というものに「人格」を求めるのでしょう。
今の日本で、先生なんてのは、儒教道徳における先生ではないでしょう。
戦後民主主義自体が、儒教を否定してますから。
「(映画に)幸せに犯されている」
栗本慎一郎が小森和子さんや淀川長治さんを評して言った言葉です。
英語フリークってのは、要するにそういうことだと思いますが、根石さん、どう思いますか?
mailto:murataya@avis.ne.jp
電話でレッスンを始めてから4ヶ月、渡米してから2ヶ月になった高橋です。こちらに来てからは何かと雑事が重なることもあり、なかなか練習する時間がとれず、それこそ毎回、レッスンのために根石さんからの電話が鳴るまで回転読みをしております。先週、やっと「ゴースト」の20ページに入ることができ喜んでおります。なぜかというと、19ページから20ページにかけての歌の部分のレッスンについて、「いい年をした男が二人、土曜の深夜に愛の歌の歌詞を材料に英語の練習をするというのは、ある意味不気味ね」などとからかわれていたからです。ひどいことをいう奴です。
さて、渡米後の私の英語の状況ですが、英語力がのびたと感じることはなく、相変わらず非常に不自由しております。特に、アメリカ人同士の会話や会議中の発言を聞き取るには、大変難渋しています。ただ、2週間ほど前から、分からないなりにともかく日本語を聞くのに似た感覚で、英語での会話や発言がすーと入ってくるように感じるようになってきました。特に、その発言等の内容に知っていたり、語彙的にあまり難しいものでないと英語を聞いているというよりも、内容そのものを聞く、それに集中するという感覚が生じております。
また、特に渡米後、感じている電話でレッスンの長所と感じているところを三点書かせていただきます。
まず第一に、意識的に英語を練習する時間をとるための枠組みになるということだと感じております。最初にも書かせて頂いたように、自分にとってもしも電話でレッスンという枠がなければ、あらためて英語を語学として練習することは今以上に難しいだろう、おそらく日々の忙しさにかまけてやらなくなってしまうのではないかと思うからです。
第二に、電話でレッスンを通じて、ともかく通じる音が出せるようになっているはずという自信をもって英語を話すことができるということです。もちろん、いつでも通じる音が出せるほど安定しておりませんが、アメリカ人に通じなければ、根石さんに指摘を受けたときと同様に、意識して音を修正すれば何とか通じるという自信を持つことができております。もしも、電話でレッスンを受けてなければ、いかに自分で英語を勉強しても、この点についてはまったく改善できていなかったのではないかと思います。
第三に、英語を練習する際に、自分に生じやすい他の教材や練習法への浮気心を押さえ、地道な練習に専念できるように働きかけてくれることです。これは、毎週のテストに合格するための練習をすると、他に手を出す時間がなく、強制的に地道な練習に集中することができているとも言い換えることができるでしょう。語学において地道な練習が必要なことは、知識としては知っていてもなかなか実行できずにおりましたが、根石さんがレッスンの時に言われる「とにかく何回も読み込んでください。練習の量を確保してください。」という言葉に後押しされ、その言葉を信じてレッスンの復習に専念できております。
以上、甚だまとまりを欠きますが、私の英語の現状とあらためて感じている電話でレッスンの有り難いところ等を書かせて頂きました。
家の都合によりお休みさせて下さい。音の質の変化、身をもって感じているところです。後日このことをここで報告したいと思います。
承知しました。
練習の継続をお願いします。
投稿、ありがとうございます。
励まされます。
アメリカ在住の方で英語で苦労されている方がおられましたら、この掲示板をご紹介いただけた
らと、ぶしつけながら考えました。
なお、小川さんが「電話でレッスン」を広めるためのホームページを作成していてくださいます。
それができたら、もっと広くこのレッスンがわかってもらえるようになるのではないかと期待し
ています。
時間がとれませんので、後ほど再度書かせていただきます。ひとまず御礼まで。
あんたのコピーライターの才能を高く買っていますので、小川さんのホームページ作りに協力し
てほしいのですが・・・。
中学の最初にやることと言えば、英単語の練習帳(単語を書きやすいように線が入ったもの)を買い、英単語を練習すると思います。その時にやるのが、日本語と対にして覚えます。英単語一つと日本語の一つの意味を結びつけて覚えます。
このことには英語を真剣に勉強しようと思ったときから疑問に感じていました。なぜなら応用がきかないという事と必ず日本語の助けを借りないと英語を理解できなくなってしまうと思ったからです。
聞き取りにも、英語を聞いたら、日本語を思い出し、日本語で理解しようとする、と会話を聞き取れないという最悪な事態に(;;
今日のレッスンの最後に英単語はイメージを使って覚えるということを教えてもらいました。英単語の意味を調べた時に出てくる日本語は参考、ヒントであって、そこから共通する部分を抜き出し、それをイメージとする。そして、言いながら、書きながら、イメージし、覚える。
さらに、辞書だけでは分からないものがあるので、文の中でどのように使われているかを感じ取るのだと。
発音に関しても、単語の覚え方にしても、学校の英語教育には何かが欠けているとつくづく考えさせられました。これでは真剣に勉強している生徒がかわいそうだと思います。本当に・・・
先程、レッスンを終えて(高橋さんが土曜日の最後の生徒さんです)、サッポロビールのDraft
One というビール(発泡酒?)のロング缶を一本空けました。
日本におられた時にレッスンの申し込みをいただいて、私のレッスン枠が埋まっており、小川さんに預かっていただいた生徒さんでしたが、渡米の少し前に私に空き枠ができ、私の生徒さんになっていただいたと覚えております。一ヶ月私のレッスンを受けて、渡米されたのではなかったでしょうか。
小川さんの手元から私の手元に戻っていただいた時に、小川さんから、「高橋さんは発音に苦労しておられる」というメールをいただいたことも思い出しました。確かに、私の生徒さんとして練習を始められた時にも、発音のことで指摘することは比較的多い生徒さんでした。ですから、私のレッスン開始一ヶ月で渡米されるとお聞きした時は、正直なところを申しますと、私に多少の不安がありました。ああ、大変だなと思ったのを覚えております。
しかし、渡米後の何回かのレッスンをやらせていただいて、私の不安はとてもやわらいでいます。実は私が緊張してしまうほど、毎回、そちらから「音」を送っていただいていると思っています。どういうことかと申しますと、例えばですが、sorry
の o を私は長年、日本語での「オ」の系列の音として発音してきましたが、今日のレッスンで、高橋さんが「ア」の系列の音(顎の下がる明るいア)で発音されるのを聞いて、おっ、アメリカだっ、と思ったのです。日々、アメリカ音を身に浴びておられるのだということを私はしっかりと受け止めたと思います。
レッスンでの私の指示する音(語学の机上の音)を携えて、生活過程(仕事の英語を含めてです)で圧倒的に押し寄せるアメリカ音に切り込んで混じり、現地の音を体に受け止めて、私に返して下さる。ああ「磁場」だなあ、と思う思いが、いずれ私の語学論に何らかの形で反映していくだろうことを思うと、在米のまま私のレッスンを続けてくださっていることに感謝したいと思っております。
>先週、やっと「ゴースト」の20ページに入ることができ喜んでおります。なぜかというと、19ページから20ページにかけての歌の部分のレッスンについて、「いい年をした男が二人、土曜の深夜に愛の歌の歌詞を材料に英語の練習をするというのは、ある意味不気味ね」などとからかわれていたからです。ひどいことをいう奴です。
たぶん「ひどいことをいう奴」は、奥様だと推測しておりますが、私の理論によれば、奥様はいいところを突いているのです。この「ある意味不気味」なところが語学というものでして、私は山形県の男の生徒さんを相手に、やはり、土曜日の深夜、「I
love you. I really love you.」などとやっていて、顔を赤らめたことがあります。掲示板にたまに
「I 村」さんの名前で書いて下さる方です。I 村さんは、私の家に遊びに来てくれたことがあって、I
村奥様も一緒に遊びに来てくださったので、奥様に誤解される心配はないのですが、それにしてもねえ、土曜深夜に男同士が、「I
love you. I really love you.」ですからね。レッスンをやりながら、自分で自分のことを「ひどいことをいう奴」だと思ったわけでした。
「語学」は「生活」から誤解されることがありうることを、語学をやる人間はいちおう踏まえておく必要があるかもしれません。
> さて、渡米後の私の英語の状況ですが、英語力がのびたと感じることはなく、相変わらず非常に不自由しております。特に、アメリカ人同士の会話や会議中の発言を聞き取るには、大変難渋しています。ただ、2週間ほど前から、分からないなりにともかく日本語を聞くのに似た感覚で、英語での会話や発言がすーと入ってくるように感じるようになってきました。特に、その発言等の内容に知っていたり、語彙的にあまり難しいものでないと英語を聞いているというよりも、内容そのものを聞く、それに集中するという感覚が生じております。
非常に正確に現在の高橋さんの英語の状態を書いて下さったと思い感謝しています。
そうです。「内容そのもの」というものが、語学の机上では「仮」のものでしかないのですが、自分がそのグループに加わっている場での会話や会議の発言などは、他人事ではないわけですから、「内容そのもの」が最重要事です。とても、自然なことです。そして、この「自然なこと」が日本在住の語学の机上では原理的に生じないのです。それが、生じるところが私の用語では、「磁場」です。語学にとってはもっともいい場所におられるのです。私としてはうらやましいですが、日本在住のまま指をくわえていることになるでしょう。どうぞ、この機会を活かすためにも、「電話でレッスン」のための練習に手抜きが生じないで2年間を過ごされるようお願いしたいと念じております。つまり、「机上 生活 机上 生活 机上 生活」の交流を存分にしていただきたいと念じているということです。個人差がありますから、いつのことかわかりませんが、「語学」なのか「生活」なのかわからなくなるような危機を迎えられることと思います。その危機を乗り越えれば、語学的なスキルは急激に獲得されるものだと私は考えています。
さて、Draft One の二本目にとりかかりましたが、なるべく乱れないようにしたいと思います。
> また、特に渡米後、感じている電話でレッスンの長所と感じているところを三点書かせていただきます。
まず第一に、意識的に英語を練習する時間をとるための枠組みになるということだと感じております。
いわゆるペースメーカーとしての機能は、日本在住の方を相手にでも、アメリカ在住の方を相手にレッスンするのでも、「電話でレッスン」はうまく機能するだろうと自負しております。レッスンがやれることは、「机上の練習」ですが、アメリカ在住の方だと、レッスンで扱ったことをただちに「生活過程」に持ち込んで突き混ぜられる。「枠組み」を設定できるだけでなく、レッスン直後に「生活過程」に突き混ぜられるというところを存分に活用なされるようにお願いします。私は歳とったコーチですので、大したプレイはできないのです。「磁場」で存分にプレイされてくれば、たとえ2年でも、高橋さんは私よりはるかに「しゃべれる人」になって帰国されることを確信しています。それがまあ、コーチというものの存在理由なわけです。帰国後、ただちに英語の錆び付きが始まりますが、それでも「磁場」でプリントされた感覚はどこかに必ず生き続けますので、途中でつらいことがあっても、人と交わって下さい。おいくつなのか聞きそびれておりますが、私は若い人に期待するしかない歳です。実は今日(じゃなく昨日か、正確には)、私は誕生日を迎えまして、53歳だか、54歳になりました。どっちなのか、自分でもわからないのですが、多分どっちかで当たっていると思います。
> 第二に、電話でレッスンを通じて、ともかく通じる音が出せるようになっているはずという自信をもって英語を話すことができるということです。もちろん、いつでも通じる音が出せるほど安定しておりませんが、アメリカ人に通じなければ、根石さんに指摘を受けたときと同様に、意識して音を修正すれば何とか通じるという自信を持つことができております。もしも、電話でレッスンを受けてなければ、いかに自分で英語を勉強しても、この点についてはまったく改善できていなかったのではないかと思います。
お書きいただいたことで、一番うれしかったのはここでした。「電話でレッスン」なんかやめようかと思ったこともあったのでしたが、続けていてよかったと思うことができました。
>第三に、英語を練習する際に、自分に生じやすい他の教材や練習法への浮気心を押さえ、地道な練習に専念できるように働きかけてくれることです。これは、毎週のテストに合格するための練習をすると、他に手を出す時間がなく、強制的に地道な練習に集中することができているとも言い換えることができるでしょう。
私のレッスンは下敷きです。音が安定し、シンタックスが駆使できる時が訪れたなら、他のこともどかどかやっていただいて結構です。しばらくは辛抱して、私のレッスンにおつきあい下さい。
最近車上狙いにやられて、15万円ほど失いまして、気が滅入っておりましたが、高橋さんの記事で元気が出ました。再度お礼申し上げます。
語学のコツは、暴力的に強く「思う」ことです。
やってみて欲しいと思っています。
語学はとても危ない行為です。
しかし、やってみて欲しいです。