>私はae(「あ」と「え」の中間音とよく説明されるもの)とur,ir,erの綴りの今、考えている音(この際、音と音声の違いは考えないものとします)が苦手でした。
これはあくまでも「音」の問題ですから、「音」と「声」の違いは考える必要はありません。
ur, ir, er の三つを「狭い音」とされているので、もう一点補足します。
or も「狭い音」です。
英語の授業で使えば抜群の効果があると信じているものに、私が考案した「あいうえおフォニックス」があります。
日本人の耳に「アー」と聞こえる音に関してですが、と生徒に前置きします。
生徒に「 a i u e o 」とそれぞれのローマ字の間を開けて、紙に書かせます。そのそれぞれに
「r」を加えて、「 ar ir ur er or 」と書かせます。
「ar」だけを丸でくくれと指示します。
次に、「 ir ur er or 」を、長細い一つの丸でくくれと指示します。
これによって、「ar」 が他の4つから区別されます。
「ar」は「カラスのカー」または「診察室のアーン」です。
舌の先を下の歯の裏にくっつけたまま、顎を下げていくときに出せば出ます。
他の4つは全部「狭い音」です。「 ir ur er or 」の綴りを見て、生徒がいつも「狭さ」を作れるようになったら、実は「ear」も「狭い音」だぞと、狭い音の仲間を一つ増やします。
最初は、日本人に馴染みの深い「あいうえお」で、「顎の下がる明るい音」と「狭くてこもった音」を区別させるのがミソです。
これをひっさげて、学校の教室に立たれることを期待しています。
>私が何度も繰り返して書きこみをしてきたこと、つまり「記号としての言語(言語記号)」は、「英語どんでん返しのやっつけ方」小学館文庫 根石吉久著)の中の「空っぽの電池を作ること」という表現と同じことではないかと思う。
多分、同じことを考えているのかもしれませんが、生徒(実践者)が実践する場合には、sbさんの言い方だと、誤解が多発するでしょう。
「記号としての言語」という言い方で私が真っ先に思い浮かべるのは、「活字」です。
あるいは、道路標識です。道路標識もほとんど全部、「活字」です。何が、「活字」かとも思う。あんなものは、全部「死字」じゃないかとも思う。
sbさん、手元に六法全書というような書物がありますか?
それを読んでみて下さい。そこにどんな「個性」を見つけられますか?
「記号」が「個性」であるなら、六法全書にも「個性」を見つけられるはずです。
多分、日本の近代化を真剣に考えた人の「個性」があるはずですが、六法全書に私はいまだ「個性」なんてものを見ることができていません。それを見る思想があるのであれば、私に教えて下さい。
語学に関する思想こそ、日本の「近代化」を相対化するものはないと思っています。
>語学に関する思想こそ、日本の「近代化」を相対化するものはないと思っています。
→
語学に関する思想こそ、日本の「近代化」を相対化するものではないかと思っています。
>ネイティヴや、複製音声をよく媒介にした人は、舌の動きで口内で狭さを作れるのですが、日本人に対してコーチングをやる場合は、まずは唇で狭さを確保するのがいいというのが私の意見です。
こういうところが本当はずっと大切にしなければならないし、それが喜び(生徒さん達にとってもコーチする側にとっても)なんですね。
「中庸は反抗の逆ではない。反抗は中庸であり、歴史と歴史の混乱を通じて、中庸を命じ、擁護し、再創造する。反抗の価値の起源そのものが、中庸は分裂した形でしか存在しえないことを保証する。反抗から生まれた中庸は、反抗によってしか生存することができない。」(A・カミュ 佐藤・白井訳「反抗的人間」『新潮世界文学49カミュU』新潮社、1969)
日本語訳を読んでも、分かったような分からないようなイヤな感覚ですが、何か教えられます。
私の「反抗的人間」を許してくださる根石さん、boysome228さん、小川さんはじめ、みなさまに感謝します。
>初心者が練習して、「狭い音」に入っていくために、もっとも参考になる位置に私の「音」がとどまっていなければならないのだという考え方
やはり根石さんです。やはり最初をゆく方です。でも私には難しすぎると逃げたくもありません。考えて見ます。考えて見たいです。いや考えて見なければならない大切なことです。また考えて見る価値は十分にあることです。日本人英語教師全員がぜひ考えて見なければならないことの一つであるとも思います。
私はネイティブ信仰なるものは捨てていますが、そのことと根石さんのこれとはまた全然違います。私はただ本名信行氏をなぞっただけです。根石さんは、視点そのものが違うのです。根石さんの発想にはいつも「こども」がいます。「かわりゆくもの」があります。その上で絶対肯定しながら、厳しく、そして「定点観察」をする。谷川俊太郎さんの世界も感じます。
>他の4つは全部「狭い音」です。「 ir ur er or 」の綴りを見て、生徒がいつも「狭さ」を作れるようになったら、実は「ear」も「狭い音」だぞと、狭い音の仲間を一つ増やします。
無意識にorはその音から勘定していませんでした。しかしearを入れるのは中学ならheardがあるからですか?ear,hearが原型でheard,beardは例外と教えてしまっていた感覚があるのですが。。。私は無頓着でした。
改訂音声学入門(小泉保著、大学書林)という本をテープも一緒に手に入れました。日本語を十分視野に入れた各国語のIPAも学べる良書だと聞いています。これを「媒介?」にして注意深く自分の音を探しに出かけたいと考えています。自分だけの音は一生かけて作っていくものなのかもしれません。
sbさんこんにちは。
小泉保さんという方がおられたのですね。
英語音だけではなく、日本語音も視野にいれて
いるのはすごいことだとおもいます。
というのは、日本語をベースにしながら
英語に近づくことができるからです。
たとえば英語のア系の音の創出に関しても
日本語ベースの説明をうけて、英語音の創出が
可能だからです。
日本語音を簡単な変換操作で英語音にすれば、
瞬時解決し、一生ものになるとおもいます。
個別音の変換はすでに解決していますが
文レベルでも多分、同じことだとおもわれます。
日本語の高低リズムを簡単な変換規則・操作で
英語強弱リズムへ移行できるとおもいます。
私たちは、「おはようございます」という和音を
比較的簡単に英語リズムで、外人のように強弱で
物まねできます。
しかし、good morningを英語リズムで言うとなると
とたんに難しくなります。
しかし、日本語を介在させればそんなにむつかしく
ありません。
これは、生徒に対する極めて具体的な教え方であり
生徒は理解しやすいとおもいます。
(日本語をすでに知っているから)
パクパクさん、こんにちは。書きこみありがとうございます。
先ほどの「改訂音声学入門」は「はじめての言語学」黒田龍之介著、講談社現代新書の中の読書相談室というコーナーに載っていたものです。少し引用してみます。
読書相談室 3
音はとにかく聴いてみなければはじまならない。
まずはいろいろな外国語の音に耳を傾けてみよう。
@千野栄一・監修 『世界ことばの旅 地球上80言語カタログ』 研究社 1993
ここには八十の言語が二枚のCDに収められている。各言語の録音時間は一分半。意味がわかるかどうかではなく、言語音を聴いてみるにはいちばんいい。付属の解説書には、このCD(1979年のLP版を復刻)ができるまでの経緯や、収録されている八十の言語についての概説がある。例のコサ語もここで聴ける。
A小泉保『音声学入門』 大学書林 1996
これは決してやさしいものではない。しかしIPAを具体的な音とともに理解する教材はほかにない。音声学に深入りしたい人向けである。学生に貸したのもこのテープである。なお、2003年には改訂版が同社から出ている。
boysome228さんのお陰で、私は学ぶことができました。
言葉の多様性は、文化の多様性や、人間の多様性につながるのだということを考えています。
私はどちらかというと夜型ではないので、早朝書きこみのほうがいい書きながらでも良いアイデアが出るようです。以前のboysome228さんへの投稿では「さん」も付け忘れ、「誤字脱字オンパレード」でまことにお恥ずかしい限りです。もうしわけありませんでした。
>掲示板で他者の意見に振り回されないためには、ある点で他者との意見の相違があきらかになった時の引き際が大事です。あまり一つのポイントに拘ってスレッドを続けても実りのない事が多いですから。そのポイントについて異なる意見が2つあるという事を皆に知らしめるだけで十分です。何もレスポンスがなくても、自分が信念を持っているものならば、分ってくれる人は必ずいるものです。いや、ひょっとして今は誰もわかってくれないかもしれません。実はその方が良いのですよ。その方が人類によりユニークな貢献ができるというものです。
改めてこのアドバイスを読み返しています。この掲示板はそういった「ユニークな貢献」ができる方々の集まりだと思います。根石さんや村田さんのお陰でいろんな方々の出会いがあり感謝しています。今後ともよろしくお願いします。
>>他の4つは全部「狭い音」です。「 ir ur er or 」の綴りを見て、生徒がいつも「狭さ」を作れるようになったら、実は「ear」も「狭い音」だぞと、狭い音の仲間を一つ増やします。
>無意識にorはその音から勘定していませんでした。しかしearを入れるのは中学ならheardがあるからですか?ear,hearが原型でheard,beardは例外と教えてしまっていた感覚があるのですが。。。
最初に、日本人の耳に「アー」と聞こえる場合に、という断りが必要です。
hear, ear, beard などは、「アー」とは聞こえませんから、「あいうえおフォニックス」の適用はできません。
中学の教科書でも、heard だけでなく、earth, early など ear の「狭い音」をちらほらみかけます。「or」の狭い音は、私もちょいと思い浮かべられないので、手元のニューホライズン・中学一年用を開いてみます。
「ar」の「顎の下がる明るい音」(診察室のアーン)は、car, Mark, park,
pardon, hard などすぐにみつかるのですが、「or」の「狭い音」はなかなか見つかりません。
for なんかどう考えるべきなんでしょうね。[f逆さe] が弱形であり、[f鏡文字c] が強形ですから、半分当たっているとも言えますが、音声学的にどうなのかは私にはわかりません。これは
or でも同じことが言えます。
ありました。 junior です。しかし、これも、「単語の前半にアクセントがある場合、単語の最後の母音は曖昧母音化する」(おざなりに発音されるため)という説明で解決してしまう例であり、純然たる「or」=「狭い音」の例としては好適ではありません。
ありました、ありました。 homework です。これも、「単語の前半にアクセントがある場合、単語の最後の母音は曖昧母音化する」で説明できてしまうようにも見えますが、work
だけを取り出しても、「or」= 「狭い音」ですから、これは好適な例です。
やはり、他の「ir, ur, er」= 「狭い音」に較べると、ぶつかる確率はずいぶん低いですが、「or」が日本人の耳に「アー」と聞こえる場合は、「狭い音」だと言い切っていいと思います。
work, world と、二つ思い浮かびました。worst なんかもそうですね。
音声学に深入りしたいようですが、どうか教室という現場をお忘れにならないようにお願いして
おきます。生徒の口の動きを変えられないなら、どれほどの音声学の学識も語学教師(コーチ)
のお飾りに過ぎなくなってしまうことを忘れて欲しくありません。先生一人が音がよく、生徒の
口の動きを変えられないということは、一歩距離を置いて眺めると、実に悲惨で滑稽な光景なの
ですが、それが悲惨であり滑稽だとは誰も指摘しないのが大問題です。
ミッフィーさんが、今日のレッスンで、「5分間音づくり」のことを話して下さいました。近頃
ここに書かれないので、公立高校での「音づくり」としては画期的な実践例となるはずのものが
どうなっているのか気になっておりましたが、やっておられるとお聞きしてうれしく思いました。
話の初めの方で、生徒の音が変わらないというようなことを言われたので、実に不安になりまし
たが、これは上達に時間がかかっているということらしく、詳しく話をお聞きしているうちに、
「(手短にコツを言うと)瞬時に変わる」と言われ、ほっと胸をなでおろしました。そうなので
す。「音づくり」では、生徒の音は「瞬時に変わる」のですが、口の動きとして定着するのに時
間がかかるのです。次のレッスンがあるので、あまり長くお話できなかったのですが、そういう
理解でよろしいですか、ミッフィーさん。
それでよろしければ、ミッフィーさんは「音づくり」の現実の中に踏み込まれたということで
す。ねばり強くやってみて欲しいと願っています。私はとてもうれしく思っています。
日本語の「あ」への先祖帰りの傾向は、ものすごいものがありますので、時間はかかります。
絶えず、「一瞬般若」「顎の下がる明るい音(診察室のアーン)」「狭い音」は指摘しつづけなけれ
ればなりませんが、途中で「あいうえおフォニックス」を噛ませると、抜群の効果があります。そ
れでもなお、生徒が3つの「ア系列」を間違えなくなるまでに、2年や3年はかかります。柴田さ
んの実践例では、「5分間」どころかもっともっと「音づくり」に時間をさいていますが、その場
合でさえ、2年、3年かかると言われていたと覚えています。確か、「音作りへの道」にそういう
記述があったと覚えています。
「ア系列」の3つの区別に関しては、年中指摘しつづける先生でいて欲しいです。あの先生は、
「ア系列」に関してはとことんうるさい先生だったと後々生徒が覚えている先生になって下さい。
それが生徒にとってもっともありがたい先生になるはずです。必ず後に生徒から感謝されますから、
「ア系列」の3つはおろそかにしないで、指摘しつづけて下さるようお願いします。
sbさんに向けて書いていましたが、ミッフィーさんへの記事になってしまいました。sbさん、
ごめんなさい。
私の「電話でレッスン」でも、音に関してまったくの初心者の生徒さんを相手にした場合は、
3つの「ア系列」が区別できるだけでなく、踏み外さないようになるのに、2年から3年か
かっています。週一回、一回30分のレッスンで、生徒さんは、レッスンとレッスンの間の
一週間にかなり自習をされます。継続できている生徒さんは、例外なくかなりの自習をされ
ています。あらかじめいい音をお持ちの生徒さんは別として、音の初心者である生徒さんは、
かなりの自習の時間を含めた上で、2年から3年かかっています。
レッスンの時、お問い合わせ下さった口座は、以下の通りです。よろしくお願い致します。
郵便貯金総合通帳
記号 11180
番号 21641261
名前 根石吉久
過去ログのどこかに書いてありますが、私の希望の一つに、アメリカ在住で英語で苦労されている
日本人の方を相手に「電話でレッスン」をやりたいというものがありました。それはいつかやって
みたいものだと思い続けてきましたが、これまでにその機会を得ることができませんでした。
今日の高橋さんのレッスンで、高橋さんが5月の末からアメリカに渡り、2年ほどの間、在米で仕
事をなさるということ、レッスンはアメリカに渡って以後も継続したいということをお聞きして、
私は内心「やったあ」と叫んでおりました。私の希望の一つがかなうのです。
以前、sbさんが、オーストラリアから2ヶ月ほど「電話でレッスン」を受けてくださいましたの
で、「電話でレッスン」が海を渡るのは初めてではないのですが、2年という比較的長期に英語の
磁場で暮らされる方を相手にレッスンするのですから、今度は意味あいが違うと思って気をひきし
めております。
高橋さんには、「机上の語学」と「生活の言語(実用言語)」をねばり強くこき混ぜてみていただ
きたいと願っています。この両者が区別できないような危機を迎えると思いますが、この危機を乗
り越えることで、言語スキルは時を迎えれば一挙に獲得されると思っています。時間がとれたらで
結構ですので、「電話でレッスン」が英語の「磁場」に切り込んでいく過程を報告していただきた
い旨を高橋さんにお願いしました。それが実現すれば、貴重な記事になるはずだと確信しています。
ふと、思った。
まさか!
でも、これが「音声」?
軟口蓋の「こ」(より内)
と
両舌の「ば」(より外)
ゲームかもしれない。
でも楽しい。
これがレジャーというものか。
昨夜帰りました。 今夜からレッスンお願い致します。
お返事が遅くなりまして済みません。
承知しました。
人名の、「Balistrari」を発音記号で表すとどうなるでしょうか。
よろしくお願いします。
隣に座ってたのは人懐っこく饒舌なイギリス人でした。 日本のマンガが好きだって言って日本の事も良く予習して来ている人でした。 ところがこの人の英語がさっぱりわかりmせん。 しばらく付合ってみて、th
を f の様に発音する事に気がつきました。
thirteen って言ってるのか fourteen って言ってるのか良く解らず、何度も聞き直したもので、すっかり英語力のないおばちゃんだと思われたらしく、(ま、実際そんなとこではありますが) ゆ〜くり簡単な単語でしゃべってくれる様になりました。
トホホ体験でしたが、英語もいろいろですね。
私の生徒の1人は公立高校の3年生です。
英語は教科書の他に、リーディングと長文読解を取っていますが、授業の進め方はどのクラスも全く同じだそうです。 もちろん各クラス、違う先生が担当されます。 先生がテキストを読み逐語訳するのを、生徒が聞いてノートに書き留めるだけです。 リーディングでは薄いペーパーバックの1册でも読むのかと期待してたのですが、長文読解で使う問題集とさして変わらないくらいの短文(!)の逐語訳です。 1週間の授業で英語を一言も発しない事も多々あるとの事でした。
こんな授業、詐欺やないですか...
お返事が遅くなって申しわけありません。
レッスン時に少しお話させてもらいましたが、他の生徒さんのことも考え、ここにも書いておき
ます。
小型の辞書には出ていないと思われますが、私の所持する「リーダーズプラス英和」には、人名
としての Balistrari は出ていませんが、balistraria が載っています。「<塔などの>壁
の狭間」という語意だそうです。西洋建築に詳しくないと、よくわからないしろものですが、人
名の Balistrari はおそらくこの語から出たものかと思われます。
balistraria だと、ba のところの母音は「吊り上げ音(一瞬般若)、ra のところは、[e]
ま
たは「吊り上げ音(一瞬般若)です。
発音記号表記ができないので、以上のような説明になってしまいますが、「電話でレッスン」の
生徒さんにはわかっていただけると思います。
掲示板をお読みになっている方で、balistraria と 人名の Balistrari の関係をご存知の方
がいらしたら教えていただけたらうれしく思います。
>こんな授業、詐欺やないですか...
詐欺だと思います。私どもがここで吠えているだけでなく、生徒や父兄が「これは詐欺だ」と
言葉にするようにならないと駄目だと思います。
以前にも書きましたが、匿名で結構なので、中学生や高校生が学校名・学年・授業の名前くら
いまでを具体的に挙げて、こういう馬鹿げた訳読をやっている授業の一覧表ができてこないと駄
目だとも思います。しかし、この一覧表は実は作成不可能なものかもしれません。馬鹿げた訳読
の授業というものが、「贋の標準形」であったとしても「標準形」です。これが「標準形」とし
て通用してしまっている状況全体が馬鹿げたものです。そこらの中学、高校の授業の多くが「贋
の標準形」を踏襲しているだけのものですから、数が多すぎて一覧表に掲載しきれたものではな
いかもしれません。
しかし、それでもなお、一覧表作りなどの人に憎まれるような作業は必要だと思っています。
この馬鹿げた状況は誰かが切開しなければならない。こんな授業を受けている生徒は、間違いな
く学校英語の犠牲者になります。
勇気ある中学生、高校生諸君、「詐欺授業」を受けておられるようなら、学校名と学年、クラ
ス、授業名をここに記述して下さい。私が時間がとれれば、「詐欺授業・給料泥棒授業一覧」を
作成していきます。
なお「詐欺授業」をやめたいと考えているが、何をどうすればいいかわからないという先生が
おられた場合は、やはり匿名で結構ですから、この掲示板にご相談下さい。
>こんな授業、詐欺やないですか...
昔なら、漢文訓読の寺子屋が詐欺でなかったのと同様、文法を教え、英文和訳を教える英語の授業も詐欺ではなかったのです。今でも翻訳をする人や、書かれた技術や情報を一方的に吸収するために英文に接する人達には、このような授業でもそれなりに役に立っていると言えるでしょう。
でも、今は我が日本国も、二ヶ国語放送が巷に溢れ、外国に情報発信して国際貢献を求められていますので、そういう事をしたい人には、こういう授業は完全にOut
of Dateです。また、ここまで求める人には、語学のための英語でも不十分で、英語でアウトプットができたり、考える事ができるレベルが求められることになります。各自の目標により求められるレベルは変わってきます。現在の公教育に最上級のレベルまで面倒見させるのは酷ですが、せめて発音と、簡単なアウトプット能力程度は教えて欲しいですね。
私もかつては詐欺もりだくさんの授業をやっていました。でも詐欺の授業では生徒の英語の力が伸びないことに、高校3年を担当した昨年、ようやく気づきました。以前何回かここで書き込みをしたことですが、正しくすらすら読めないと、英語が体に染みこまない。文法は問題集の穴埋め問題をこなせばいいという机上の勉強で解決できるもんではない。Readingで「主語の固まりは何かな」とか語句整序の問題で「evenの位置はどこかな」とか生徒に問う。英語の意味の固まり("チャンク"というものだっけ?)をつかめるようになるために一番手っ取り早い方法は音読だと痛感しました。というのも、実際に200題ほどセンターでの語句整序の問題を解かせたのですが、ペーパーで解くだけではどうにも点が伸びなかったのです。しかも3年の11月とか12月に音読をしろと言っても、彼らが勉強するのは英語だけではないので、言葉が心に届きません。たとえどんなに信頼関係があっても、3年になるまでに「音読で英語はなんとかなる」というすり込みができていないと、その意味を理解してもらえません。。evenを使う英文で、She
kept calm even in an emergency.という英文がちょうど今やっている英語Tの教科書で出てきているけど、evenの意味だけで、なぜこの場所にevenがあるのか、理屈だけで説明できますか?たとえ説明できても、生徒が理解するということと、それを声に出してすらすら読めるということは違う問題です。受験英語が批判されている昨今、私はその受験英語で育てられたのでつい受験英語の援護射撃をしたくなるけれども、受験の英語でだって、evenの位置が正しく入れられなかったら点数になりません。センタ試験のーの並べ替え、あれが良くできた問題だよな、と思うのは英語の感覚ができていなければ全く点を取れない作りになっています。しかも配点が高い。今担当している生徒(1年生)にShe
kept calm even in an emergency.を読ませるとevenを「えべん」と読みます。そんな生徒を相手にしています。でもすらすら読めるようになるまで辛抱強く読ませます。とりあえず「イーブン」と、カタカナ発音でも目をつぶります。回転読みと同じ要領ですらすら読めるまで読ませます。「えべん」と読んだ生徒に50回読ませました。読めるようになったら自信を持ちました。自分でも読めるようになったのが嬉しかったようです。それでやる気がまた出たようでした。ただしこれをやったのは授業後の放課後のことです。というわけで授業のことを次に書きます。
授業の手順@前回の授業でやったパートの復習テストAその日やる英文をCDで聴かせるB英文を意味の固まりで区切って音読させる。その日の授業でターゲットにしたい文法項目が入っている英文は2回、3回も読ませる。C内容読解:訳を言ったり、文法項目[今やっているのはwith
名詞 状態]を説明。また英文の内容の心情理解(?)。とこんな様子です。読みに力を入れるぞというのは、生徒も把握していて、音読の時は音楽の授業のように良く声を出します。で、当初は個別の5分間音作りを計画していましたが、どうも一斉に音読する方が良く声を出すので、一斉に読ませています。読ませながら、でも途中で「あ〜、その音だめ。一瞬般若のアで読もう。はいもう一度。」などコツを手渡せば、けっこう音が変わります。狭い逆さeについても同じです。でもいつも元に戻るので、いつも同じことを言っています。同じことをいつも言うと、指示しなくても一瞬般若で言う生徒が現れてくれます。これは収穫です。で、音読で時間を使うので訳や説明の時間が限られます。訳を渡そうかと、同じ学年を担当する先生達に提案しましたが、とりあえずなしでやってみることにしました。で、文法説明についても時間短縮のため、予習プリントなる物を他のスタッフに作ってもらい手渡せるヒントはたくさん渡し、どうしても生徒の印象に残したいところを説明しています。宿題はその日やった英文書写と復習。で、次回の授業の頭に復習テストをします。単語7題、並べ替え3題。7点未満は追試で、追試は間違えたところを10回書かせたうえで、口頭試問です。単語、英文どちらも5回すらすら続けて言えるようになるまで合格できません。この追試をやるにあたっては私の昼休みや放課後の時間を使っています。この時間を使わないとできません。けっこうしんどいです。でもどこまで伸びるかをこの1年で見たいのでやっています。授業のやり方についてはたまたま今年一緒の学年を担当することになった先生達が私より若く(2人いて、いずれも25才とか27才のハンサムな男性で大変嬉しい)その内の一人が新規採用、しかも私が新採指導教員なんぞになっていて(私はまだ32才だというのに…。普通こんなのはベテランの先生がすると相場が決まっているんだが)私の言うことをそのまま受け止めてくれています。もう一人の先生は教員に採用されて3年目、いずれの先生も私のねらいを理解してくれて、チームとして教えるには絶好の環境です。若いって素晴らしいな、と思うのは、従来のやり方と違う授業手法を提案した時に、あまりためらわず、(とまどいはあったみたいでしたが。でもそれも当然と思う)実践してくれるその勇気を持ってくれたことです。教員の世界はまだまだ年功序列があるので、頭の固いおっちゃん先生やおばちゃま先生と組むよりも、経験は少なくとも、若い先生達と組む方が、私にとってはまだやりやすい気がします。こんなことを偉そうに書き込みしていますが、7月の進研模試でどれくらいの偏差値がでるんだか。皆さんの参考になれば明らかにしたいと思います。たとえどんなに悪くとも。題名がこんなですが、書いてみるとあんまり音読たくさんしてませんね。とほほ。
あ、あと単語も読ませてます。patientなんかはけっこう読めません。emergencyに至っては、カタカナでも「イマージェンシー」と言えたらましなほうです。でも「マー」のとこは狭く、と言ってはいますが。他の高校の先生方もよければ授業の様子を教えて下さい。
>漢文訓読の寺子屋が詐欺でなかったのと同様、
私の投降の内容を把握しておられません。
漢文訓読や昔の寺子屋の授業と、今の学校の英語の授業をくらべるなと出来ません。 今の学校の授業は「生徒が声を出す事が全くない」事を問題にしているのです。 昔の寺子屋くらいの授業が、今の学校の英語の授業で出来たら、根石さんは晴耕雨読の安らかな生活に戻りはりますでしょう。
>私の投降の内容を把握しておられません。
当然ですね。 私に文章力がないので、うまく伝わってないのです。 反省します。
失礼しました。
教師呉れしは所詮知恵なり花茨 寺山修司
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きょうしくれしは しょせんちえなり はないばら てらやましゅうじ
季語の花茨(はないばら)は、枝にトゲあがある。白い五弁の花を多数つける。
俳句では、句の主たる部分と季語にギャップがあるほど意外性があって面白い。
教師がくれた「知恵」はどこか理想主義的、
実際に社会にでてみたら、そんなものは役にもたたず、こっちは「茨」で傷だらけだよ、
と読むのは深読みのし過ぎか。
それでも、寺山には教師から知恵はもらったという感覚があるのかもしれない。
(あくまでも、「知恵は」であって、「知恵を」ではないよ。)
まれに、そういうひともいる。
だが、寺山の醍醐味は「実践のひと」というところにある。
だから、花茨をもってきたところが寺山らしくて秀逸だ。
今朝、この句を信濃毎日新聞に見つけて、
なんだか知らないが、小川さんとboysome228 さんの書き込みに通じるものがあるように思った。
いや、微妙に違うかもしれないが、そこは勘弁してください。
英語に関して言えば、「知恵をもらう」なんて悠長なことを言っていたら、
いつまでたっても、とっさに英語を発するようなレベルまでもっていけない。
英語という科目は、もっと「体育」のような科目として扱われるべきな気がしている。
もちろん、保健体育じゃないよ。
知識ばっかりじゃ、だめだからね。
なんて、思いました。
>英語に関して言えば、「知恵をもらう」なんて悠長なことを言っていたら、
いつまでたっても、とっさに英語を発するようなレベルまでもっていけない。
英語という科目は、もっと「体育」のような科目として扱われるべきな気がしている。
「記号」を「体育」として。
「思考」を「教養」として。
「文化」を「技芸」として。
そのせめぎあいが大切。
現在は「体育」と認識している人は少ないと思います。
学習者もコーチも、そういう人を増やしていかないといけないと私は思います。
ところで。。。
「国語」は、
「日本語」は、
なぜ「体育」として扱われないのか。
「磁場」があるからなのか。
「こころ」があるからなのか。
「山月記」があるからなのか。
「舞姫」があるからなのか。
なぜ「英語」には「ジャック∩ベティ−」がないのか。
なんだか、英語学習は、保健体育でもかまわない気もしてきた。
「実践」をやみくもにつむより、
教師が「良質な事例」を与えることで、生徒は反芻するようにイメージトレーニングをするかもしれない。
それで、「良質な電池」を沢山つくっておけば、きっと実践のときに、いい意味で役に立つかもね。
まあ、所詮は、大人側の老婆心ありありなんだろうけど。
英語教育だって、生徒に、良質な英語を効率よく体得してほしいという、
親心(教師ごころ)があった上で、行われるものじゃないか。
その上で、練られるべきなのが、教授法だと思う。
いきなり、「実践だ」の「生きた英語に触れる」だのばかり持ち出しても、
深みのある英語にダイレクトにアクセスする時のためにはネタが少なすぎる。
やっぱり、空の乾電池を、生徒にいっぱい持たせた上で、
実践の時にそれをどんどん充電するのが、いい気がした。
結局、保健体育で生徒たちがイメージを反芻するように、
英語も繰り返し読むという反芻が空の乾電池をつくことになるんだろう。
sbさん>ところで。。。
>「国語」は、
>「日本語」は、
>
>なぜ「体育」として扱われないのか。
>「磁場」があるからなのか。
>「こころ」があるからなのか。
なぜなんでしょうね。
磁場の中にいるし、基本的な日本語は理解できるだろうということを前提にしてるのかもしれませんね。
学校では、小学校の低学年で音読をやって、
学年が上がるにつれて、次第に黙読に移行していくシステムになってるような気がします。
で思ったのですが、学生時代、私は英語より国語の好きな生徒でして、
主に古文でしたが、参考書の例文を素読して、べらべら口からでてくるようにしてたことを思い出しました。
そのころの私はなにをトチ狂ったのか理系にいたんですけど、
そんな私でも国語の成績がひどく悪いということはなかったような気がします。
古文はもはや外国語と同じという話も聞きますし、
成績で国語力の有り無しが測れるとも思えませんが、
国語においても、素読というのはかなり有効だなと身に染みて思っています。
第一、小気味よい良質な日本語のフレーズをすらすらと口ずさむ時、
ちょっとした至福を感じませんか?
(私だけか〜^^;)
小学校5年・6年の時なのですが、担任がもともと中学校の先生だった方でした。
その先生は、朝の学級活動の時、ポスター用紙に大きく書いた漢文を黒板に貼って、
私達児童に、毎日それこそ大きな声で素読(読み下し文でですが)させました。
今思えば、有名なあの「少年老い易く…」です。
クラス中の子が言えるようになると、次は高村光太郎の「道程」かなんかをやった気がします。
こんなことを、小学校を卒業するまで2年間、やっていました。
先生は、それらの文の意味と、その味わい深さを、簡単にだけ説明しました。
でも、これらはいつかまた君達が中学・高校で出会うだろう文で、
ああ、これは聞いたことがある、とそのときに思えればいいと言っていた気がします。
この体験を、私は本当によかったなと今でも思っています。
今、根石さんの素読舎(塾)で、英語を学ぶ生徒達に混じり、
小学生が「声に出して読みたい日本語」をテキストとして、
いろいろな日本語の文を素読しています。
日本語をやってる子供達も、素読舎方式で素読・回転読みをやっています。
あの子達が、将来中学・高校生、そして大人となって、
「ああ、この文知ってる」
と思う瞬間に出会うだろうことを考えると、なんだかワクワクします。
自分がそうだったから。
こんな日本語への接し方は、「体育」そのものかもしれませんね。
今は、意味は分からないかもしれないけれど、
かつて「逆上がり」ができるようになったように、
身体で覚えて、身に付けていけば、国語の体力がつく気がします。
国語も、中学生・高校生になれば、「体育」の部分は自分で家でやれということなんでしょう。
まだ、国語は自分で音を決められるし、ある程度意味もとれるので、自分で練習できますが、
英語に関しては、自主性だけでは乗り越えられない部分がありますよね。
高校卒業後、ほとんど自学自習で英語をそこそこ使える様になり、その後通訳養成所を卒業して、現在通訳のプロとして働いている私の友達が、「英語は体育会系である」と言い切っていました。
これだけコメントするのが精一杯、電車の中で立ってても眠るくらい忙しい毎日ですのら...
お休みなさい
>(根石さん)「音づくり」を考えたら、黒板で説明しているような暇はない。。。
>(根石さん)「音づくり」が成立していない文に関して文法の説明をするのは、根底的に錯誤。。。
>(根石さん)英語の授業で、黒板は敵。。。次に現れる敵は。。。中間・期末のテスト。。。
「英語=体育会系」という言葉が「黒板=敵」とつながる。
「体育の授業では確かにほとんど黒板は不要」
でも「使うべき所では確かに教師は黒板をうまく使っている」(移動黒板など)
英語の教室でも移動黒板みたいなものだけ効果的に使うのもいいかも。。。
>これだけコメントするのが精一杯、電車の中で立ってても眠るくらい忙しい毎日ですのら...
ご苦労様です!
睡眠、よ〜〜〜くとってくださいませ!
メール拝読しました。
承知しました。
私は、このレッスンをなんとか広めたいものだと考えてきまし
たが、なかなか広まってくれず、最近は生徒の数が減り気味なの
で、俺のやっていることは駄目なのかもしれないと考え始めてい
たところでした。熱心にやっていただいてきたKさんの中断は私
にはきついものです。
日本在住のままという条件を考えると、このレッスンは本当は
継続して欲しいのですが、事情が事情ですので仕方がありません。
また再開できる時が来ましたら是非再開していただきたく願っ
ております。何度かレッスンの時にお話しましたように、塾の形
で、そちらの地元に私の方法を伝えてくれる場所を作っていただ
きたいと願っておりましたので、そのことも心にとどめておいて
いただきたくお願い致します。
あまり生徒さんが減っていくようであれば、「電話でレッスン」
自体の廃止を考えなければならないことにもなってしまいます。
お知り合いの方やそのお子さんに奨められる方がおられましたら、
今後ともレッスンのことをお話いただけることを願っております。
6月分をもうお支払いいただいてあるということでしょうか。
郵便局へ行って記帳することをこのところしていませんので、そ
れが確認できておりません。もし、すでに払い込まれてしまった
ようでしたら、再開時の1ヶ月分として使っていただけませんで
しょうか。無料お試しレッスンは、掲示板に広告してもこれまで
申し込みがあったことがありませんので、そう提案させていただ
きたいと思います。
今後再開なされる予定がないようでしたら、6月分のレッスン
代金はお返し致しますので、再開の予定の有無をお知らせいただ
きたくお願い致します。
根石吉久
ホームページ作成をお願い致します。
あ"あ"〜〜〜
ホームページでしたねっ!
「贋の標準形」を叩きつぶさない限り、俺のやってることは、後退戦でしかない。
ピエロか。いくこの言葉を借りるなら、ドン・キホーテか。
相当馬鹿らしくなっている。
自分で習う、練習する。自宅学習。
これって面倒。やったところで誰もほめてくれるわけでなし、
成果もすぐにあらわれるものではない。
それよりも塾で「中間期末のよくでるポイント」を教えてもらったり
問題を解くテクニックを教えてもらったほうが得点に結びつく。
結果が割と早く出る。
でもね、それは付け焼刃なのだよ。本当は。
ここのところをわかっていない父兄、本人が多いのではないか?
目先にとらわれすぎ。
Toeic講座、英検講座など、確かに傾向と対策テクニックを知るのはよいことだ。
でも多くの学校のそれらの講座はまさに付け焼刃的。
受験後に何も残らない。まあ合格証書,高得点がのこればよしか。
英検やTOEIC講座でもその問題を上手く利用しながら
総合的に力を伸ばすことも可能。
しかしこれまたちょっと時間がかかる。
「テクニックのみおしえてくれればいい」という生徒もかなりいる。
「総合力もつけばいい」けれど
総合力をつけるだけの労力はかけたくないと。
問題集を解くことは得意でも音読は面倒?
楽しく英会話は好きだが、その前の構文暗記(口答)などのインプットは面倒。
ふぅ。
酔っ払ったので、勢いで書いてしまうが、私のレッスンは月額で20万円ちょっとの収入しか得られない。この道、30年やってきたが、30年やってきて、月額20万円ちょっとなのである。生徒さんが数人減れば、ただちに10万円代後半、さらに減ればすぐに10万円代前半になる。「音づくり=インプット」は、それほどに娑婆から無視されている。
ジャッキーさんはありがたがらないのは承知のうえだが、はぁ、とか、ふぅ、というため息はまともの音づくりやインプットをやらせるレッスンをやる者たちの共有物だと思う。
まあ、生徒が減っても、私は続けられる限りはレッスンは続けたいと思う。
しかし、この娑婆が「贋の標準形」を信仰しているかぎり、私の「音づくり=インプット」による収入は、生活費に足りるか足りないか程度のところをずっとさまようわけである。完全に足りないとなったらやめるしかないが、さまよえる間はさまよっていたいと思う。
生活ができる最低ラインを確保したら、私のレッスンの枠はすべて埋まってしまう。それ以上の希望者がいたら、奈良の小川さんに預かっていただく。体力的にもうそういうことしかできない。
生活が成り立つ最低ラインが、生徒数の上限だというのは切ない話であるが、素読者はもともとそういう塾であった。女房の薬剤師免許がなかったら、とっくにつぶれていた塾である。
生徒さんにお願いしたい。私の方法がいいものだと思ったなら、是非回りに広めていただきたい。小川さんの生徒が増えてくれることが、私の収入を安定させてもらえることになるので、その一点がまずは現実問題であるが、私はその先を夢みている。私の方法が少しずつ広まって、「贋の標準形」をうち倒す力になることを。
塾だの学校だの、その制度的な形は問わない。
学校にも生徒のことを真剣に考える先生はいるし、塾にも金もうけや腰掛け仕事だけを考えるものがいる。その逆もある。真にあてにできるものは、ひとりの思想の力だけである。
相当に私はへばっている。
倒れるまで歩くのはいいとしても、ほとんどあきらめに近い気持ちが心を領するのが時に耐え難い。
素読者
→
素読舎
NHK わくわく授業。
http://www.nhk.or.jp/wakuwaku/jugyo/housou.html#040520
〜 田尻悟郎先生の英語 〜
柳瀬さんご推薦の先生。
1度NHKで見たがテンポもよい、御順もおさえていてよい授業だと思う。
今回は見なかったので来週の夜中の再放送を録画する予定。
:平成16年5月26日(午前2:25〜2:50)
t
ミッフィーさん。
授業の実践報告楽しく拝読しています。
>私もかつては詐欺もりだくさんの授業をやっていました。
私もです。英会話学校で教えていたころの、英語での授業めちゃくちゃでした。
私の教える力もありませんでした。
研修はたったの3日で現場に「先生」としてほうりだされました。
即席先生の授業に50分5000円も払わされる生徒はかわいそうで
良心がいたみました。
基礎が欠けている生徒に「英語ではなそうごっこ」。
やっていることといえば中学1,2年生レベルです。
内容も好きな映画や食べ物などや旅行英会話。
しかし好きな映画について話したくても
生徒にはその文法力、英作文力も単語力もないのでした。
驚くべきことに、受験を通っているほとんどの大学生にもありませんでした。
ネイティブのレッスンでも似たり寄ったり。
しかし生徒は早く外国人のレッスンをうけたく思う。
大手英会話学校のブランドと誇大広告に惑わされ、
親も本人も大枚をはたいてしまう。
一回5000円5人までの英会話クラスに払うなら(ネイティブのクラスだとしても)
根石さんの電話でのプライベートレッスンに払ったほうがいい。
しかしなかなか理解が得られない。
なぜなら根石さんのレッスンは
自宅学習のおまけつき。
自分で回転読みをしなければならない。
「めんどくせー。それに音読なら自分一人でもできるじゃん。」
「発音ならネイティブのせんせいじゃないと。」
「あまり知られてない教室だ」
「受験に役にたつのかしら」
すぐに結果を求める人々にアピールするのはむずかしい。
しかし根石さんの素読舎は詐欺ではない。
学校内トップの生徒もだしているのですよ。
しっかり結果がでているのです。
みならうべきは英会話学校の営業力。
英会話学校の営業力はすごいです。
口が上手い。甘い夢をうる言葉が多い。
そしてほとんど押し売りに近い。
私はこれ、苦手。誇大広告はできません。
楽しくわかりやすい授業をするが、
しかし本人の地道に努力も必要だ。なんていっちゃうからだめですねー。
ミッフィーさん、
>正しくすらすら読めないと、英語が体に染みこまない。文法は問題集の穴埋め問題をこなせばいいという机上の勉強で解決できるもんではない。
おっしゃる通りですね。
>Readingで「主語の固まりは何かな」とか語句整序の問題で「evenの位置はどこかな」とか生徒に問う。英語の意味の固まり("チャンク"というものだっけ?)をつかめるようになるために一番手っ取り早い方法は音読だと痛感しました。というのも、実際に200題ほどセンターでの語句整序の問>たとえどんなに信頼関係があっても、3年になるまでに「音読で英語はなんとかなる」というすり込みができていないと、その意味を理解してもらえません。
納得。
実際に話すときに evenはどこだ?と思いながらでは話せませんよね。
体に英語を染み込ませる、からっぽの電池を卓さん作ることが大事ですね。
今年は一年生を担当とのこと
チームを組む先生も頭の柔らかい若い先生。
ミッフィーさんの取り組みがたのしみです。
今までの伝統的な授業とこれからの授業の違い。
どちらのほうがより総合力がつくか、
どちらのほうが本当の近道か、
どちらのほうが死なない英語か。
楽しみです。
改革を阻止しようとする抵抗勢力があったらそれも開示してくださると
ありがたいです。
生徒の反応も知りたい。
これからの投稿を心待ちにしています。
6月から、素読舎の分室として、自分の塾がはじまります。
塾の指導方法・テキストは、素読舎と同じです。
私の塾では、中学校の英語の教科書レベルまでをしっかりやり、
教科書に載っている文がベラベラ出てくるレベルまで、もっていくことをねらいとしています。
もちろん、しっかりやるのは、素読です。
生徒さんには、中学の教科書が終わった段階で、
根石さんの素読舎本部へ留学してもらうつもりです。
ですので、私の塾では、小学校高学年から中学生ぐらいまでの子供さんを中心に、
コーチしていきたいと思っています。
6月から来ることになっている生徒さんは、皆小学生です。
素読舎本部では、まっさらなところから英語からはじめるお子さんや、
それ以前の基礎づくりから始めるお子さんも、受け入れています。
これを、私はやろうと思っています。
まっさら英語から始めるお子さんは、ABCを覚えることから始めますが、
それ以前の段階のお子さんには、本に向かう、音に向かう力をつけるよう、
日本語の素読から始めます。
まったく英語をやったことのない子供達の英語の基礎づくりをお手伝いすることは、
実はとても英語の力量の必要なことです。
今も、素読舎本部でコーチングのレッスンを受けさせていただいているのですが、
この経験を生かしてやっていきたいし、英語力をもっともっと向上させていきたいです。
明日、ご挨拶ということで、生徒さんの親御さんがおみえになります。
今日、いつでも塾が始められるように、塾の部屋を整えました。
ちょっと緊張してます。
いかんな。
平常心、平常心。
はじめまして。
杭瀬下ときいて、なつかしくなりました。
かつて昔、上田の諏訪形の浄水場に勤務していた頃(細菌検査を担当)、更埴は採水でまわりました。森のあんずなどもなつかしく思い出されます。もう。更埴という名はなくなったんでよね。ちょっとさみしいです。
英語に関係のない、ローカルな話題で失礼しました。
こちらこそ、はじめまして(^^)ノ。
杭瀬下をご存知なんですね!
とってもびっくりです。すごすぎです。
ところで、更埴の水は、細菌だらけでしたか(^^;)?
エールありがとうございました<(_._)>。
塾の送り迎えが当たり前になっている昨今、
なんと生徒さんのお母さん方、総勢4人、みんな自転車でいらっしゃいました。
なんともいえず、嬉しかったです。
さて、生徒の方々なんですが、みなさん小学生。
当初5人だったのが、蓋を開けてみたら6人でした。
しかも、びっくりしたのは、6人の生徒さんうち、なんと5人までもが、
日本語の素読から始めたいと仰ってるでるんですよ。
国際人として英語のできる子に育てたくて、流暢な英語の獲得のためにはなんでもするのに、
日本語がぐたぐたになっても、平気って母親がいるそうで、なげかわしいなと思っていました。
それが、日本語の素読をやらせたいんだという親御さんの話を聞いて、
なんだか、日本も捨てたもんじゃないなあ、と思いました。
というわけで、来週から始動です。
なんか、ワクワクしてます(^^)ノ。
おやすみなさい。
今、必死でホームページ作ってます〜
奥様にお世話になっている尾田です。
明日5/28(金)のレッスンをお休みします。
また、関連してメールを送らせて頂きました。
よろしくお願いします。
ありがとうございます。
URLを教えて下さい。
途中の状態で公開してしまって下さい。
だんだんに育てていけばいいと思いますので。
猫アレルギーの2人を預けたら、総勢6人に増えたのか。よかった。
素読舎でも、この春初めて、日本語をやらせてほしいというお母さんが現れて、とてもうれしい
と思った。以前から、中学生に英語をやらせようとしたところで、おいおい、日本語がぼろぼろ
じゃねえかという子供がたくさんいるのに気付いていたので、塾の英語の練習の付録みたいにし
てなるべく日本語の素読をやらせてきたが、この部分には父兄はお金を払おうとしてくれなかっ
た。ようやく、子供の日本語を大事にしようという父兄が現れて、おおげさだが時代の空気の変
化を感じた。英語以前に日本語を大事にしようという考えは当然のものだと思うが、世の中馬鹿
なかあちゃんが多くて、幼児に英語なんかやらせている。幼児英語教育がまともに効果があれば、
世の中神経症だらけになることが見えないのだ。あれは効果がないから安全なのだ。
子供が日本語の「磁場」に生きていることを軽くみておるのだ、馬鹿かあちゃんというものど
もは。「磁場論」の払底がもたらした新たな病態だ。総じて、「語学論」が払底しているのだ、
この国には。
素読舎は、「声に出して読みたい日本語」がブームになるずっと前から、子供に音読(素読)を
やらせてきた。斎藤孝がブームになるよりおよそ30年も早くから素読舎がやってきたことは、
日本の音読法の精華・素読だった。そして、食えなかったね、この30年。もうかりゃせんかっ
た。体を痛めて、家を自作したのも、まるで収入が安定しなかったからだ。
まあ、子供たちをよろしく頼む。日本語の素読を望んでいる子供達を大事にしてほしい。
先日の自分の小学校時代の先生の話、面白かった。ああいうものごとの根本をちゃんと見ている
先生がいなくなると本当に困るのだ。
小学校で先生が自由に使える授業時間は、是非、日本語の素読(音読)にあててほしいものだ。
「音づくり」もできないような小学校の先生に、英語なんかいじってもらいたくない。
英語をいじりたいなら、自分で素読舎の「電話でレッスン」を受講しながらにして欲しいものだ。
教室に、まともな英語の音を出すことが何も変なことじゃないという空気が生まれてきているということをお聞きして、とてもうれしく思いました。これ一つが実に実に大変なことなのです。30年ほど塾で「音づくり」をやってきて、塾ではまともな音を出し、学校の教室では「浮き上がる」ことを警戒してカタカナ発音で読むという生徒がいることを、私は重々承知しています。それがどれほど私の塾に苦戦を強いたか、これは一言で語ることができません。
塾(音づくりの場)と学校(贋の標準形の場)の間で、子供は分裂します。子供にそれぞれの場に適する音を出すような余計な分裂をさせてきたのが、これまでの英語教育の罪悪でした。その間で真剣にもがき苦しんだのが、私の娘でした。この娘は、今では英語は大嫌いです。妻も娘も、私が間違っていたのだと長いこと言い続けてきました。そうじゃない。子供に余計な分裂をさせる英語教育の状況が必然的に子供の身に強いるものが、私の子供に強く現れたのだと思っています。
先生が絶えず英語のまともな音の方へ生徒を引っ張るのでなければ、先生がいくら上等な発音を持っていても、子供は分裂します。それが「学校という磁場」です。
先生が自分の音を絶えず変革することは、「前提条件」に過ぎません。本当に必要なのは、生徒に英語の音を渡すときの「渡し方」です。それが、これまでの日本の英語教育に払底していました。その状況を作ってきたのは、文部省という省庁ですが、なんとか子供にまともな音を渡そうとする先生の独創も欠如していました。子供にまともな音を渡そうにも、自分自身の音に自信がなければ、独創も生まれようがなかったのです。英語教育は「自信のなさ」の再生産の場所でした。どれほど自信ありげな授業をやっていても、実は虚仮の皮一枚でやっているだけのものがあっただけです。今日話に出た古株の英語の先生も虚仮の皮のお方です。日本近代の分裂においては、かさぶたくらいの方だとも思いました。そして、そんな方々ばっかりなのです、日本の英語教育の世界は。せめて、虚仮の一念くらいはあるのか。ありはしない。虚仮の皮(ぶあついつらの皮)一枚があるだけです。
学校の教室は、英語のまともな音を出すことに何の遠慮も要らない場所になって欲しい。早くそうなってほしい。職員室が、英語の先生同士で発音を話題にすることに何のわだかまりもない場所になって欲しい。古株のカタカナ発音の先生を批判する生徒が現れていることはその芽です。それはまだ芽です。そして、この芽は絶対に枯らしてはならないと思います。
さて、「あいうえおフォニックス」ですが、ミッフィーさんは、それどころじゃなくて、「一瞬般若」と「狭い音」を区別させるだけで悪戦苦闘しているのだとのことでした。そうお聞きして、ふうむと思いましたが、後で考え直したら、「あいうえおフォニックス」は、まさにその「音の区別」、英語の母音を他の母音の音とまぎれないようにするためにこそあるのだと思いました。レッスンのときに、詳しい話をしたいのですが、後に他の生徒さんのレッスンが控えていますので、いつも中途半端で電話を切るようなことになってしまいますが、考えなおしたところを書いてみたいと思います。
「一瞬般若」はなるほど独特ですが、これは「広い音」の一つにくくれます。子音と子音に挟まれて現れる
a の音ですが、これに r がくっついても、やはり「広い音」の ar です。日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえる音で、「広い音」は、「一瞬般若」と「診察室のアー」です。
「狭い音」という捉え方は、鵜田さんという方の独創によります。「30音」の鵜田さんです。「狭い音」という捉え方が、私には最大のヒントになりました。「狭い音」というからには、「広い音」もあるはずです。鵜田さんは、「広い音」という言い方をしていたかどうかわかりませんが、そう言うことは可能なはずです。
「広い」とか「狭い」というのはひとまずは、口の開きの広い・狭いのことです。
さて、「広い音」という言い方が可能であれば、「一瞬般若」と「診察室のアー」が「広い音」としてまとめられます。それぞれ違う音であり、「一瞬般若」の本質は口の両端が動くことですし、「診察室のアー」では、顎が下に動きます。音価も明らかに違いますが、「広い」ということでは両方とも口の動きを「広く」使うことで共通します。
「あいうえおフォニックス」は、この「広い」と「狭い」をまず最初に生徒に意識させるのに非常に有効です。まずは、「広い」音と、「狭い」音を意識させ、「広い」音の「もう一つ」として「一瞬般若」を位置づけるのが、私は有効だと考えています。
だから、理論的には、「広い」音として、最初に ar を意識させ、それと対立する「狭い」音の
ir, ur, er, or, ear を意識させ、「広い」音のもう一つとして「一瞬般若」を意識させるというパースペクティヴがありうると思います。
これは「理論」としてのそれぞれの音の位置づけですから、実際には最初に「一瞬般若」を扱うということでもまったく構わないのですが、「広い」「狭い」というもっとも大雑把で大事な区別の後に、「一瞬般若」が登場するのでも構わない、いや、その方が生徒にわかりやすいだろうとも思います。「広い」「狭い」の区別を生徒に意識させるのに、「あいうえおフォニックス」はとても効きます。再考をお願いしたいと思います。
子音の区別がしっかりできた段階では、「あいうえおフォニックス」は非常によく効きます。これはすでに実験済みです。
袋小路あやまろ。スミマセン、スミマセン???
先程、今日の振り替えレッスンの呼び出しベルを鳴らしましたが、お出になりませんでした。
もしかして、今日の振り替えを忘れておられますか?
振り替えたものを再度振り替えることはご容赦願っておりますので、今日の分は流れてしま
います。ご承知願います。
レッスンを休まれる場合は連絡をお願い致します。
すっかり忘れていました。申し訳ありません。了解しました。
すっかり忘れていました。申し訳ありませんでした。
>(根石さん)素読舎は、「声に出して読みたい日本語」がブームになるずっと前から、子供に音読(素読)をやらせてきた。斎藤孝がブームになるよりおよそ30年も早くから素読舎がやってきたことは、日本の音読法の精華・素読だった。そして、食えなかったね、この30年。もうかりゃせんかった。体を痛めて、家を自作したのも、まるで収入が安定しなかったからだ。
昨日のレッスンはさぼったのではもちろんありません。いろんなことを考えていてすっかり忘れていたのです。すみませんでした。ところで、上記の根石さんからいくこさんへ宛てた投稿を読んでいて改めて根石さんの偉大さに気づきました。私はきちんと分かっていませんでした。ごめんさない。まさに傲慢だったと今とても反省しています。改めて、今後ともよろしくお願いします。
上記投稿の全体の7行目
ごめんさない。(×)
ごめんなさい。(○)
「IT」の前に国語教育必要 京丹後市・Kさん(農林業・64)
佐世保市の小学六年生女児の同級生殺害事件には衝撃を受けた。親友を殺害するまでに親しみを増幅させたパソコンによるチャット(会話)の詳しい分析が待たれる。
加害者の女児は自分のホームページ(HP)に「うぜー(うっとうしい)クラス」「高慢でジコマン(自己満足)」などの書き込みをしていたそうだ。友人同士で普段にも使っているのだろうか。このような荒々しい感情表現を書き込んで会話が成立するのだろうか。
私はパソコンも携帯電話もまだ初心者で使い方がよく分からない。自分のHPの作り方も知らない。会社員時代の同僚とメール交換をした経験がある。心掛けたことは、相手が何を言いたいのかを注意深く読んだことである。相手は日ごろ、手紙一本書いたことがないと分かっていたからだ。
しかし相手は私のメールを読んで正しく理解してくれなかった。それだけでなくメールの一部や結論だけで分かったつもりになり、他の者に私のことを話題にしたのである。どういうことが起こったか。メール相手が誤解した私の人物像が出来上がっていることが分かったのでメール交換をやめた。
小学生にIT(情報技術)教育が必要だろうか?小学生に必要なことは、パソコンの扱い方ではなく、文章を書き内容を正しく理解する能力を育てることだと思う。数学者の藤原正彦さんは「一に国語、二に国語」と国語の大切さを大学教授の立場から主張している。「うぜー」などの言葉から会話が成立するとは思えない。
引用終わり
本当に悲しい事件だが、無駄にしてはいけない事件で印象に残ったので敢えて引用しました。
ご連絡、ありがとうございました。
投稿ありがとうございます。
私らにとって、まずは日本語が大事だと、幼児英会話をやらせて「すすんでる」つもりの馬鹿母
どもに、腐ればばあと言いたくなってきました。
私らが日々噛みしめなければいけないものは、絶望なのかもしれません。
しかし、生身の身の上ゆえに、ついつい希望など持ってしまいます。
切ないです。
私らにとって、まずは日本語が大事だと、
→
私らにとって、まずは日本語が大事だと。
俺は「偉大」なんかってものとは縁がない。
俺は、嘘っぱちが嫌いなだけです。
今日、ミッフィーさんのレッスンの後の生徒さんがお休みだったので、ミッフィーさんと「あいうえおフォニックス」について話す時間がとれた。
話しているうちに、ミッフィーさんも誤解されておられたことがわかったので、その点も含め、ここに再度整理する形で書いてみたいと思う。
「あいうえおフォニックス」は、ただ単に日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえる音を「広い音」と「狭い音」に分けるためだけのものである。ただそれだけの用途に使うだけだが、この区別は日本人の英語を一挙に「通じる音」に変える力を秘めているものである。
たとえば、 morning の or は、日本人の耳に「あ」または「あー」とは聞こえないので、「あいうえおフォニックス」の対象外である。「あいうえおフォニックス」は、あくまでも日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえるものだけを対象とする。(これは日本人の体を元にし、英語ネイティヴ音への一元化に抗すると同時に、日本人の英語音を「通じる音」にすることを意味するはずである。)
「あいうえおフォニックス」は世界性を持たない。しかし、日本語の磁場で日本語を日常語としている人の英語にとっては特効薬になる。「あいうえお」という母音の並べ方自体が日本語の音の整理法であり、日本語の磁場でしか通用しないからである。
アメリカ生まれのフォニックスは、綴りと音の対応関係の確率の高いものを指摘するものである。その意味で、「あいうえおフォニックス」もフォニックスであることには間違いない。アメリカ生まれのフォニックスが覚えることがたくさんあるのに対して、「あいうえおフォニックス」はまるでわずかな知識で済むのが違うけれども。日本人にとっての最大のポイントだけに的を絞っているのが違うけれども。違うのだ。そこらの松香あたりのフォニックスとは。
「あいうえおフォニックス」で扱う区別は、「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」と「狭い音」の区別だけである。
ここで「狭い音」と言っているのは、発音記号での[逆さe + r] のことである。
「広い音」には、「一瞬般若」と「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」があり、「あいうえおフォニックス」における「広い音」は、「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」のことである。
いくつか例をあげる。
park に含まれる綴りの ar は「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」の音。広い音。
girl に含まれる綴りの ir は「狭い音[逆さe + r] 」の音。狭い音。
surgery に含まれる綴りの ur は「狭い音[逆さe + r] 」の音。狭い音。
nervous に含まれる綴りの er は「狭い音[逆さe + r] 」の音。狭い音。
labor に含まれる綴りの or は「狭い音[逆さe + r] 」の音。狭い音。
法則性を取り出せば、綴りにおける ar が「あー」と聞こえる場合は、「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」の音。広い音。
綴りにおける ir, ur, er, or が「あー」と聞こえる場合は、全部「狭い音」。[逆さe
+ r] 」の音。
たったそれだけのことである。しかし、この法則がみつからなかったおかげでどれほど日本人が英語の「あ系列」の母音で苦労し、誤解を招いてきたことか。
一見、複雑そうに見えるがものすごく簡単なのである。
生徒にあいうえおをローマ字で書かせる。それぞれに r を付けさせる。それで、ar,
ir, ur, er, or という綴りが得られる。ar だけを○で囲ませる。その他の4つを大きな楕円で囲ませる。
ar は「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」の音だよと言う。
ir, ur, er, or は、全部「狭い音」。[逆さe + r] 」の音だよと言う。
「あいうえおフォニックス」でやることはたったそれだけのことである。
ミッフィーさんが、「あいうえおフォニックス」の確率について疑念をお持ちのようでしたので、以下に、多くの生徒さんが使っておられるシナリオの「ゴースト」から、「あいうえおフォニックス」でドンピシャになるものを拾って列挙してみます。
r there
ear year
ur our
or for
ur four
ur your
er yesterday
ur surgery
er surgery
er nervous
ir girl
ir first
ear early
er transfer
ar Carl
ar far
☆ 重要なお知らせ er は狭い音ですが、e と r が逆になった re が「あ」または「あー」と聞こえる場合も同じく「狭い音」です。
で、
re here
re there
re where
re scare
er better
er splatter
er over
or labor
ar hardly
or word
er her
er other
re figure
ええと、ここまでで、テキストの9ページ分から拾い出しただけです。
ここまでの間に例外は見つかっていません。
「あいうえおフォニックス」の音と綴りの対応関係は非常に確率が高いです。
ミッフィーさんが、「あいうえおフォニックス」の確率について疑念をお持ちのようでしたので、
以下に、多くの生徒さんが使っておられるシナリオの「ゴースト」から、「あいうえおフォニッ
クス」でドンピシャになるものを拾って列挙してみます。
r there
ear year
ur our
or for
ur four
ur your
er yesterday
ur surgery
er surgery
er nervous
ir girl
ir first
今日、ミッフィーさんのレッスンの後の生徒さんがお休みだったので、ミッフィーさんと「あいうえおフォニックス」について話す時間がとれた。
話しているうちに、ミッフィーさんも誤解されておられたことがわかったので、その点も含め、ここに再度整理する形で書いてみたいと思う。
「あいうえおフォニックス」は、ただ単に日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえる音を「広い音」と「狭い音」に分けるためだけのものである。ただそれだけの用途に使うだけだが、この区別は日本人の英語を一挙に「通じる音」に変える力を秘めているものである。
たとえば、 morning の or は、日本人の耳に「あ」または「あー」とは聞こえないので、「あいうえおフォニックス」の対象外である。「あいうえおフォニックス」は、あくまでも日本人の耳に「あ」または「あー」と聞こえるものだけを対象とする。(これは日本人の体を元にし、英語ネイティヴ音への一元化に抗すると同時に、日本人の英語音を「通じる音」にすることを意味するはずである。)
「あいうえおフォニックス」は世界性を持たない。しかし、日本語の磁場で日本語を日常語としている人の英語にとっては特効薬になる。「あいうえお」という母音の並べ方自体が日本語の音の整理法であり、日本語の磁場でしか通用しないからである。
アメリカ生まれのフォニックスは、綴りと音の対応関係の確率の高いものを指摘するものである。その意味で、「あいうえおフォニックス」もフォニックスであることには間違いない。アメリカ生まれのフォニックスが覚えることがたくさんあるのに対して、「あいうえおフォニックス」はまるでわずかな知識で済むのが違うけれども。日本人にとっての最大のポイントだけに的を絞っているのが違うけれども。違うのだ。そこらの松香あたりのフォニックスとは。
「あいうえおフォニックス」で扱う区別は、「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」と「狭い音」の区別だけである。
ここで「狭い音」と言っているのは、発音記号での[逆さe + r] のことである。
「広い音」には、「一瞬般若」と「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」があり、「あいうえおフォニックス」における「広い音」は、「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」のことである。
いくつか例をあげる。
park に含まれる綴りの ar は「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」の音。広い音。
girl に含まれる綴りの ir は「狭い音[逆さe + r] 」の音。狭い音。
surgery に含まれる綴りの ur は「狭い音[逆さe + r] 」の音。狭い音。
nervous に含まれる綴りの er は「狭い音[逆さe + r] 」の音。狭い音。
labor に含まれる綴りの or は「狭い音[逆さe + r] 」の音。狭い音。
法則性を取り出せば、綴りにおける ar が「あー」と聞こえる場合は、「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」の音。広い音。
綴りにおける ir, ur, er, or が「あー」と聞こえる場合は、全部「狭い音」。[逆さe
+ r] 」の音。
たったそれだけのことである。しかし、この法則がみつからなかったおかげでどれほど日本人が英語の「あ系列」の母音で苦労し、誤解を招いてきたことか。
一見、複雑そうに見えるがものすごく簡単なのである。
生徒にあいうえおをローマ字で書かせる。それぞれに r を付けさせる。それで、ar,
ir, ur, er, or という綴りが得られる。ar だけを○で囲ませる。その他の4つを大きな楕円で囲ませる。
ar は「顎の下がる明るい音(診察室のアー)」の音だよと言う。
ir, ur, er, or は、全部「狭い音」。[逆さe + r] 」の音だよと言う。
「あいうえおフォニックス」でやることはたったそれだけのことである。
ear early
er transfer
ar Carl
ar far
重要なお知らせ er は狭い音ですが、e と r が逆になった re が「あ」または「あー」と聞こ
える場合も同じく「狭い音」です。
で、
re here
re there
re where
re scare
er better
er splatter
er over
or labor
ar hardly
or word
er her
er other
re figure
ええと、ここまでで、テキストの9ページ分から拾い出しただけです。
ここまでの間に例外は見つかっていません。
「あいうえおフォニックス」の音と綴りの対応関係は非常に確率が高いです。
先程投稿したものは、他の記事が混入してしまいました。
次に再度投稿します。
この掲示板で論じてきた問題の最大のものは、「音と意味の同致(一致)」であるだろう。なぜこれが最大の問題となるのか。なぜそれが「文字と意味の同致(一致)」ではなく、「音と意味の同致(一致)」なのか。
問題に入る前に、「同致」という語について書いておきたい。以前、この掲示板によく書いて下さった柴田さんの授業をsbさんが佐賀県までたずねて行き、授業を参観させてもらい、柴田さんのお宅に一泊させてもらった際、柴田さんが「同致」という語を問題にされ、「そんな語は辞書にはない」と言われたと、sbさんからお聞きしたことがあった。あるいはそれは、白樺湖でsbさん柴田さんにお会いした日、私が白樺湖に到着する前に柴田さんとsbさんの間で交わされた話に出てきたことだったのかもしれない。その辺の記憶が定かではないが、それはどちらでも構わない。
「同致」が辞書になんかなくたって構わない、と私はsbさんに言ったと思う。人間は辞書の収録語の範囲で生きるわけではない。必要なら造語をするし、「磁場」という物理学用語を語学論に転用することもする。人間は言葉に支配されながら、言葉を支配する。支配されるだけに留まらなければならない謂われはない。あるいは、既成の学問の厚みの内に留まらなければならないなどということはない。思えば、私はそんな「逸脱」ばかりをしてきたのだった。私は、「作る」ことに興味があり、既成のものを利用するだけのことに興味がない。既成のものを組み合わせる柴田さんの力量は、私ははっきりと認める。しかし、私の造語は私の必要によって存在しているのであって、既成の語では間に合わず、必要だから苦心して作ってきたのだ。柴田さんの「般若の面」を「一瞬般若」に作り直したのも、私が書き言葉において、「人数」をまったく超えたいからである。自分の生徒だけに及ぶだけの言葉ではなく、誰が使っても使えるものに仕立て直したいからだった。それがうまくいったかどうかは別問題として、である。うまくいっていれば、一人の死後にもそれは残るだろう。
語学論だってそうである。この国には語学論が払底しているのだ。だから、それを作りたいと思ってやってきた。そしてしかし、どこからも給料のもらえない民間の仕事として、残った確かなものは疲労だけである。
「同致」の背後には、「同時」と「一致」があると、自分の語感を検証してみて思うが、「同時に一致させる」あるいは「同時に一致する」事態を一名詞として使う必要があり、私は「同致」を造語した。必要があってのことである。
sbさんから聞いた柴田さんの言葉が私にもたらしたものは、あのように見事な授業を作った人がこの程度のことを言うのか、あるいは、この程度のことを言う人があのような見事な授業を作るのかという驚きだった。日本の英語教育を打破する実質だと私の方からは見える柴田さんの授業は、実は音だけの領域に限定されていて、「音と意味の同致」はまるで理論化の端緒にもついていないのではないか。
さて、問題に戻る。
なぜ、この掲示板で、私は「音と意味の同致」ばかりを問題にしてきたのか。
状況が強いるからだ。学校英語という状況がそれを強いるからだ。
私は「音づくり」という言い方をずっとしてきた。あるいは、学校英語には「音づくり」が欠如している(文部省の罪)という言い方をしてきた。私が言う意味での「音づくり」は、いつも文単位である。単語単位で「音づくり」をしても、現実の言語にはまったく対応できないからだ。絶えず文単位で「音づくり」を行い、言いにくかった文が、英語の音として通用するものとして、連続体としてなめらかに言えるようになり、さらに柔らかくてバネが備わった状態にまで持ち込めれば、つまり、一つの文に関して「音づくり」が完成すれば、その文は覚えようとしなくても、結果として自然にインプットされてしまう。そのために「復習範囲を手放さない」という原理がある。
「音づくり」の結果として、自然にもたらされるものが「インプット」である。これで、薄くゴム印を押した程度には、文のシンタックスがインプットされる。「音づくり=インプット」とはそういうことである。それを学校はやらない。日本在住のままでやれることの究極の形がそれであるのに、それをやらない。文部省がねぼけつづけてきた。
英語の磁場に入ったときに、蘇生するものがまるで出来ない。
柴田さんの授業は、それだけは作っている。それは見事だ。
私が提示した「復習範囲を手放さない」は、いったんインプットされた文も放っておけば、英語の磁場を欠如する日本という場では(これは誰の罪でもない)、絶えず錆び付き消滅する方向に向かうから、どうしても必要な保存装置だということなのだ。
目に見えない錆び付きを陽の元に明示したいという思いも絶えずあった。英検一級合格だろうが、TOEIC
900点越えだろうが、日本語にびっしりと囲まれて生きる日本という場では、英語の練習をさぼれば、じきに二級レベルに落ちるし、800点レベル、700点レベルに落ちるのである。日本における英語とはそういうものだ。私が英検も
TOEIC も一度も受験したことがないのは、それらの受験結果が世間向けには有効でも、自分の練習というものを、一切何からも固定されたくないからだ。
俺は、「音と意味の同致」のために練習するのであって、英検のためにも TOEIC のためにも練習なんぞしたくない。そんなことは絶対にやりたくない。
俺は英検一級保持者としてなんか、この娑婆に立ちたくない。語学論という思想の深度によって立ちたいだけだ。場合によっては、英検の出題者や
TOEIC の出題者を足の裏でふんづけてやるだろう。英語周りの馬鹿どもに対する憤怒によってこの娑婆に立ちたいだけだ。
(いつまでたっても本論に入れない。「音と意味の同致」、後日にします。)
音が意味に同致(≒同時に一致するというような意味)するのには、段階がある。
白色〜黒色にうつる際のグラデーションのようなものなのかもしれない。
徐々に音に意味が重なっていく。
それを「同致」という言葉で根石さんは表現されていると思う。
日本語訳先渡しという授業には賛否両論がある。
日本語を渡した段階で英語そのものの意味を考えなくなる危険性を考慮に入れてのことであろう。しかし「やく」と「いみ」は明らかに違う。
英語そのものの意味は、まず「音作り」がある程度しっかりしてから同致していくのがベターではないかと思う。
しかし学習者のタイプはいろいろである。
だから「音づくりがある程度しっかりしてから」という条件はそれほどこだわらなくてもよい。
私は最近そう思うようになった。
その根拠として次のようなことを考えてみたい。
現在日本で行われている英語教育学習事情はまさに百花繚乱である。
「読み方がきちんと分かっていないうちから、意味を取らせている(学習者の側から言えば意味を取っている)者も実際にいるという「現象」についても十分我々は考えておく必要があるのではないかとも思う。
もちろん私は
@「ある程度しっかりきいて」から「ある程度しっかりよむ」
A「ある程度しっかりよんで」から「ある程度しっかりかく」
これらの手順は語学には「鉄則」であると思っている。
「きく」→(「やく」→)「よむ」→「かく」
この基本原則は破れないのではないかと思う。
もちろん語学習得方法は絶対的なものはない。
各人が一番よいと思ったものの中から選び抜けばよいのである。
私は柴田さんから十分「よめる」ようにしてから「かく」練習をすることと教わった。
このことは未だに私の中では疑問である。いつかお会いする機会があればぜひ教えていただきたいことの一つである。しかし柴田さんは現在たいへんお忙しいと思う。教育実践の闘いの中におられるはずである。それも日本の英語教育をなんとかしたいという激し過ぎる情熱をもって。
柴田さんの学年が卒業されてしばらくたった段階でいかに「音作りが受験実用を超えたところから身につくものであるか」ということをきっと示して下さると期待している。それが実現すれば大きく日本国内での英語学習環境が動くのではないか。そのためには広告媒体では限界があると思う。公共広告はもとより英語教育雑誌関連をはじめ新聞やニュースなどのメディアを効果的に使う戦略も必要だと思う。「英語使えるための。。。」戦略とはまたさらにバージョンアップした「この掲示板の議論の核心部分に大いに関連のある戦略」もきっと良い方向に向かうと確信している。
初めて投稿します。「音作り」に興味を持ち始めた高校教師です。
以前(6825)で酒井国嘉氏の著作内での「言語知識」という用語について、
> 私が強い違和を持ったのは、「言語知識が生得的ならば」という記述である。
というような指摘がありました。(最近このログを見つけました...)
これはチョムスキーでは普通に使われる用語で、言語に関する知識が経験的に獲得されるという従来の見方に対してチョムスキーは生得的であると仮定したわけです。確かに「知識」が「生得的」というのは不自然にも聞こえますが、40年前からそのように表現されています。たとえば、チョムスキーにはKnowledge of Languageという本もあります。したがって、酒井氏の用語法は、(生成文法に詳しい人以外には)誤解を与えかねないとしても、それほど変なものではないと思います。また、
> もしもその物質がネイティヴ言語においてだけ作用し、語学では作用しない、
> あるいは作用しても爆発的な文の生成能力を作らないことがはっきりさせられるならば
> (つまり、年齢として何歳くらいでその物質が脳内から消えるかがはっきりするならば)、
> 英語回りのどうどうめぐりの馬鹿げた議論は終わりになるのだ。私はそれを歓迎したい。
についてですが、チョムスキーは何らかの物質が作用するとか消えるとかいう仮定はしていないと思います。子供が生得的に持っている言語獲得装置(おおざっぱに言えば、これが言語知識であり、普遍文法でもあるはずですが)が後天的に個別言語の文法を生み出すという仮説ではないでしょうか。したがって、第2言語の習得時には言語獲得装置が使えないため、母語と違って外国語の習得には時間がかかるということになるんだと理解しています。
以上、最近過去ログを見て気づいたことを申し上げました。
根石さん、
ホームページ、着々と言うわけにはいきませんが、ただ今がんばってやってますので。
ご登場ありがとうございます。
「音づくり」に興味を持っていただいて、うれしく思います。
チョムスキーの理論の理解関しては、All Black さんとの間にはあまり距離を感じません。
酒井なにがしだの、広島大学柳瀬なにがしだのとの間に巨大な距離を感じます。
連中は、ちゃんと理解していないのだと思います。
理解に関しては
よろしくお願いします。
後日、改めて書かせて下さい。
ただいま酒が入ってしまっておりますので。
r there
re there
先日、私の通っている英語学校主催の発音セミナーがあり参加して来ました。 樋口久さん(Q先生と私達は呼んでいるのですが)と言う若い先生が講師でしたが、この方も日本語の音を英語の音に適用しておられました。 この先生も「英語として無理なく聞こえる発音でいい」との御考えの様です。 強弱のリズムさえきちんとついていれば、英語フリーク的「ネイティブ事大主義」オタク的、発音訓練などしなくて大丈夫みたいです。
さて「私の音読レッスンに使わせて頂いていいですか?」との私のメールに、今日お返事頂きました。 「ネタのパクリはご自由にどうぞ」との事ですので、ここにご紹介します。
さて、rの音ですが、これは日本語で「らららら、、、」と言っておいて最後の「ら」を言う時に舌を動かさないで発音すると「英語のRとして通じる音になる」そうです。
mは「さんま」の「ん」、nは「カンナ」の「ん」、ngは「まんが」の「ん」です。
再来週は「母音の部」です。 Q先生のお許しを得ましたので、また「ネタのパクり」に行って来ます。
ネタをパクらせて頂いたので、先生のハチャメチャなホームページを御紹介しておきます。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Q-Higuchi/
5月8日までの記事を過去ログ倉庫に収録しました。
「大風呂敷から」
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
根石さんへ。
根石さんのホームページですが、近々ミラーサイトを
作ろうと思います。手頃なスペースが見つかり次第
とりかかります。
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
今日も酒が入ってしまっております。
私です。
根石さんのHPのミラーサイトを作りました。
まだコピーしただけで、とりあえずという感じですが、
徐々に手直ししていきます。
場所は
http://f44.aaacafe.ne.jp/~sodoku/
です。
mailto:murataya@avis.ne.jp
自分で作っておいてなんですが…
無料HPの広告うぜー!
「天才児を育てる家庭保育園」
「英会話で幼児教育」
…。
まあ強烈なパロディということでOK!ということにしておきましょう!
http://f44.aaacafe.ne.jp/~sodoku/
mailto:murataya@avis.ne.jp
倉庫の方でQ先生のサイトをリンクさせてもらいました。
「ごつごつ英語ごっこ」の規約もそろそろ改訂する時期だと思います。
・状況にまったく関係ない文は罰金対象。
という変更があったと思いますが、他に変更すべきところがあったら
よろしくです。
下で「投稿者:根石さん」となっているのは村田の間違いです。
いろいろありがとう。
俺の方から、メールで送信する文書を、ミラーサイトの適当な場所に収めてもらえたらと思う
んだが。そうすれば、俺の持ってるIBMのコンピュータと、俺の持ってるIBMのホームペ
ージビルダの相性の悪さで、ホームページ更新不能というか更新嫌気が回避できる。
「ごつごつ英語ごっこ」の規約は村田君が書き直して、ここに転写してみて欲しい。
NGとかOKとか出すから。
お忙しいところ、メールありがとうございました。
Naima> Tさんと杉井さんのレッスンは続いています。 ご安心下さい。
安心しました。
Naima> 何と、この3ヶ月間、無給、交通費持ち出しで働いています。 この夏に
Naima> 宣伝広告を大きく打って、生徒が増えなければ閉校します。 当然、その場合には私の
Naima> お給料も踏み倒して良いと言う前提で助っ人をしています。
女高倉健みたいなお人ですね。義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい女の世界。
すごいと思いました。俺にはできない。
Naima> さて、私の通っている英会話学校で「発音セミナー」がありましたので、
Naima> 参加して見ましたが、Rの発音については根石さんのおっしゃった通りです。
Naima> 舌はどこにもくっつけない事を守って発音すれば、英語のRとして通じると
Naima> 言う事でした。
樋口久さんは面白い。大学の先生ですか。
ららららって、言って、舌を止めるっていうのが、卓抜です。
舌を止めるっていうのは、舌を上に付けないということと同じだと思います。
r は下の歯の裏にはつけても大丈夫です。
ar の「診察室」の音を出すときは、r は下の歯の裏についていたほうがきれいに出ます。
私もついさぼって、実行してないときもありますが。
要するに、rは「上の方に触らない」ってことだと思います。
概論としては、樋口さんの言い方がいいと思います。
Naima> 感心したのは、m, n, ng の発音を「さんま、カンナ、まんが」の3語で説明さ
Naima> れた事です。 これは使えると思うのですが、無断でつかってしまうのも気が
Naima> 引けるのですが、どうでしょうか? 樋口久氏のアイデアと明記して
Naima> おけば問題ないですよね。
是非、使わせていただきたい。発音のポイントに関する最新版に、掲載させていただき
たい。これにきわめて近いことを柴田さんもおっしゃっていたのですが、これほど簡潔・
簡明ではなかった。もっと説明的だったと思います。「さんま、カンナ、まんが」のそれ
ぞれの中の「ん」の音がそれぞれ別の音だと生徒に認識させ、それが英語の発音記号のこ
れこれと(ほとんど)同じだと認識させるのに、最適なものだと思います。
Naima> もうしばらく待って下さればとてもとても助かります。
私は急いではいませんから、待つことは全然構いません。
忘れないでいてくださればいいです。
根石吉久
少し酒が入っていますが、先日ほどでないので、コメントを書かせていただきます。
チョムスキーが Knowledge of Language と言うとき、knowledge は日本語の「言語知識」と言うときの「知識」と同じものであるのだろうかというのが、私の疑問です。
「言語知識」などと訳したのでは、ほとんどの日本人がチョムスキーを理解するのに障碍になると思うのです。
私は、言語に関する「知識」が生得的なものであるとはとうてい信じることができないので、「言語獲得能力」と言ってきました。これが、チョムスキーの「普遍文法」に相当するのだと思っています。All
Black さんが「言語獲得装置」と言っているものとも重なると思いますが、人間も生きているわけですから、「装置」よりは「能力」と言う方がいいかとも思います。
いずれにせよ、これが生得的なものであることに私は一切異議がありません。
>したがって、酒井氏の用語法は、(生成文法に詳しい人以外には)誤解を与えかねないとしても、それほど変なものではないと思います。
学者の間だけで、うんそうだよね、の了解をやっていてもらっては困るのです。
「誤解を与えかねない」どころか、まず間違いなく誤解を与えるので、きわめて変な日本語だと思います。
>> もしもその物質がネイティヴ言語においてだけ作用し、語学では作用しない、
>> あるいは作用しても爆発的な文の生成能力を作らないことがはっきりさせられるならば
>> (つまり、年齢として何歳くらいでその物質が脳内から消えるかがはっきりするなら
>>ば)、 英語回りのどうどうめぐりの馬鹿げた議論は終わりになるのだ。私はそれを歓迎したい。
>についてですが、チョムスキーは何らかの物質が作用するとか消えるとかいう仮定はしていないと思います。
上の私の文章ですが、これはチョムスキーのもの言いではなく、酒井のもの言いを前提にしています。あの新書で、酒井は明らかに、チョムスキーの理論の物質的根拠をみつけようとしていると思いました。もしも、万が一でも見つかるものなら、そりゃ、語学屋にとっての僥倖である。ネイティヴ言語と語学の対象の言語が、その根底からしてまったくの別物であることがはっきりする。そう思ったのでした。
>子供が生得的に持っている言語獲得装置(おおざっぱに言えば、これが言語知識であり、普遍文法でもあるはずですが)が後天的に個別言語の文法を生み出すという仮説ではないでしょうか。したがって、第2言語の習得時には言語獲得装置が使えないため、母語と違って外国語の習得には時間がかかるということになるんだと理解しています。
ここに書かれたことは、私の考えと同じです。今でも「言語知識」という訳語に逆らいたいという点を除けば。
チョムスキーの理論は、ネイティヴ言語に関してだけのものであり、語学の言語に適用するのはまったくのとんちんかんなのですが、そのとんちんかんを広島大学の柳瀬という男はやっています。中島なにがしという中学(だったと思う)の教師が、教室でチョムスキーの「普遍文法」に近いものを作り出したかのように書いている文章があります。とんでもねえ馬鹿やろうだと思いました。
そんなものが学校の教室なんぞで作り出せるものなら、中島なにがしは神です。
広島大学柳瀬なにがし、あいつはまやかしを商売にしてけつかる野郎です。
melma00024863「子どもの感性を育む会」 もうこれ以上ないくらいに頑張っている人には、
自分らしさを尊重するのは、大変素晴らしいコトです。
No.1にならなくていい、元々特別なonly one…
他もある中で、自分が自分を磨く。
人が人として輝けるのは――only oneになれるのは――、努力をしている時。
やるからにはNo.1だ!なんて人も、世の中にはいますけどね。
競争心は大事です。
「次につなげるコトさえできれば、失敗なんて怖くないよ。
では、別の歌詞を。笑
どうせダメなら やってみよう
まぁ、コレは行き過ぎかもしれませんが。
プラス思考が裏目に出ちゃったら、歌でも歌って気晴らし。
そんなこんなで、オススメはミスチルのAnyって曲です。
そんなこんなで、頑張るのはイィコトです。
「これ以上何を頑張ればいいのか」?
「頑張れ」の意味を履き違えれば、そのようにも捕らえられますが…
優しい、人を思いやる心から、「頑張れ」が出てくる。
言葉は、記号じゃない。感情によって生まれるモノです。
言葉は、記号じゃない。
よろしくお願いします。
言葉は「思考」「記号」「文化」の側面を持ち合わせていると何かで読みました。
「思考」としての側面を持ちながらもアウトプットする(話す、書く)時は「記号」としての側面がでてきます。そうでないとコミュニケーション第一主義になってしまう。
確かにコミュニケーションも大事です。しかし、言葉には交わされる直前に文語であれ、口語であれ、「記号」という側面もあることをしっかり認識しておかないと駄目だということです。
相手からアウトプットされる時は「内側に思考を含む外側としては記号」となって放出される。それをインプット(理解する)時は、「外側としては記号を内側に含む自分の思考で包む」ことをしなければ理解することはできない。
だから「回転読み」「回転書き」が大いに必要なのだということになるのではないかと思うのです。
>言葉は、記号じゃない。
その土地の人が使っているうちに「記号」も変化してくる。それが「文化」としての側面です。成長するにつれて個人レベルで「思考(概念)」は当然変化成長する。それが「文化」としての言葉に影響を与える。つまりこれも「変化」する。そして「文化」としての言葉が変化するとそれに伴い、「記号」としての言葉も変化する、そういうことを言っているだけのことです。
つまり、次のような根石さんのおっしゃるとおりということになります。
>言葉は言葉であり、記号は記号です。
アドバイスありがとうございます。
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「頑張って」
この言葉、俺は好きですけどね。
「継続は力なり。引き続き『頑張って』ね。」
自分のペースを崩してしまっている人には、
「ペースなんてそのうち出来るさ、今は我武者羅に『頑張って』みようか。」
ですが、それが過ぎるあまり、努力をしなくなってしまうような…
そんな気が、するのです。
大流行しましたが、俺は正直、好きじゃないです。
たとえ自分が弱かろうと、自分は自分なりに、自分を磨き続ける。
それ故、価値があろうがなかろうが、自分という存在は、ツヤを持つ。
努力もせずに「俺は俺だ」なんて言ってたら、それこそ井の中の蛙。
いや、妄想癖とでも言いましょうか。
No.1が眩しくても、掴み取れそうになくても、自分を磨く努力は惜しまない。
「あぁ、これ以上やっても、どうせ順位は上がらないさ…」なんて考えは、愚
の骨頂。
「そんなのムリに決まってるじゃん!」なんてのも、また然り。
「やるだけやってみよう。結果ダメでも自分のためになるさ。」コレがベスト
ではないでしょうか。
俺的に、その人は、その心がけ自体がonly oneになりうる…と思う。
悔しさで涙を飲むことは、人生の大きな糧になるでしょう。
そこでも、やはりこういう考え。
「どうせ俺には、元々ムリだったんだ…」コレは微妙ですよね。
「アイツがNo.1になれたんは、俺と切磋琢磨したお陰さ。」コレは個人的に好
きです。笑
「俺はよくやったさ。でも、もう少しこうしたら良かったかも。」とか。
「どうしてもっと出来なかったんだろう…今度から、もっと必死になろう。」
とか。
だから怖れず、自分を磨き続けようね。」
コレこそが、件のフレーズの真意ではないでしょうか。
数え切れぬ絶望を味わった 夢を追う旅人
この人生を 全うせよ
誰のモノでもないと 図に乗って しくじって
そんで今日も また神頼み (Mr.Children / 旅人)
【8897】
【タイトル】メールマガジン(続き)
【 日時 】04/06/10 3:37
【 発言者 】根石吉久
悩んだ末に出た答えなら、15点だとしても正しい。
みんな憂いを胸に、長い孤独の果てに、安らぎのパーキングエリアを探してる。
どんな不幸からも、喜びを拾い上げ、笑って暮らす才能を誰もが持ってる。
……あぁ、ミスチル最高。(上四行、全部歌詞からの抜粋です。
是非、じっくり歌詞を噛み締め考えながら聞いてみて下さい。
言い手の好意も、受け手の心がけ次第では、伝わらなくなってしまう。
言葉は、相手の気持ちも考え、柔軟に受け取りましょう。
言い手の一方的な放念なら、それは会話じゃないですから。
これ以上なんて、望んでませんよ。
現在の頑張ってる貴方の背中を押したくて、言葉をそえてるんです。
「自分は何もしないのに」?
自分が自分を磨くのに、他人の力は必要でしょうか。
それでも、懸命な貴方の姿を見れば、応援したくなりますから。
それはもっと別のニュアンスでしょう。
「おいお前、もっと頑張れよ!」のような、強制的な。
たとえばマラソンランナーを見た人の「頑張れーっ!」って声援。
これのどこに、嫌味があるでしょうか。
言われたランナーだって、「コレ以上どうしろってんだ…」なんて思ってない
ハズ。
声援の「頑張れ」は、ランナーの気合とか根性とかの材料になりうるハズです。
カタチは同じでも中身がぜんぜん違うのは、人間も一緒ですよ。
【8898】
【タイトル】sbさん
【 日時 】04/06/10 3:41
【 発言者 】根石吉久
言葉は言葉であり、記号は記号です。
「記号としての言葉」っていうのは、言葉を記号として扱った場合の対象ですから、すでに記号
です。記号が言葉でありうるわけでも、言葉が記号でありうるわけでもない。
記号を言葉として扱うこともできるし、言葉を記号として扱うこともできるだけのことです。
単に扱いの問題で、本質規定として、「記号としての言葉」という言葉を使い、「として」のと
ころでイコールを意味したら、とんでもなく間違うと思います。
【8899】
【タイトル】6月11日お休みさせてください。
【 日時 】04/06/10 18:24
【 発言者 】sb
【8900】
【タイトル】思考、記号、文化
【 日時 】04/06/10 18:43
【 発言者 】sb
おっしゃる通りです。しかし言葉には、「思考」としての側面と「記号」としての側面と「文化」としての側面があるということです。
「記号としての言葉」っていうのは、言葉を記号として扱った場合の対象ですから、すでに記号
です。記号が言葉でありうるわけでも、言葉が記号でありうるわけでもない。
記号を言葉として扱うこともできるし、言葉を記号として扱うこともできるだけのことです。
単に扱いの問題で、本質規定として、「記号としての言葉」という言葉を使い、「として」のと
ころでイコールを意味したら、とんでもなく間違うと思います。