Naimaさん
>新学年なので皆教材を携えてやって来ました。 フォレストやネクステージなどの分厚い文法書が1冊、文法と構文問題集が2册、教科書、教科書準拠の問題集、読み物が1冊、プリント教材、データベース5500や速読英単語などの単語本が1册、国際科の生徒はこれに加えてライテイングのテキスト、英語科の生徒は英会話とリスニングのテキストがあります。 リスニングテキストは、何と、NHKの"Let's Speak!" でした。 毎日ラジオを聴いて来るのが宿題。 小テストでダイアローグのディクテーションがあるそうです。とても大変です。 どれもこれも中途半端に終わる様な気がします。 実際、今までも中途半端にしか勉強出来ていません。
めちゃめちゃな量ですね。 英語、ライティング リスニング&英会話。
どれについても宿題がでる。手をひろげすぎ。あぶはちとらず。
もう教科書ひとつでええ。そのひとつで 音作り、音読、リスニング、文法、読解、会話。
それでもたりなければディベートまですればいい。
高校生は英語以外の教科も勉強もしなくてはならないのですから
もうちょっと効率を考えてあげてほしいですね。
>単語の覚え方も教えてもらっておらず、ただ「来週までにここからここまでを覚えてくる事。 小テストでチェックします。」と言われて本を与えられているだけです。 問題集も宿題として出され、小テストでチェックされます。 長文読解のプリントもありますが、これは生徒がセンテンス毎に音読して和訳したものを、先生が訂正や補足すると言う方法だそうです。
先生の仕事はチェックと訂正ですかね?
これじゃあ 言葉の授業なのに「口」を動かすことがありませんね。
辞書の使い方をしっかり教えてほしいですね。
Jackie さん、
おひさしぶりです。
平均すると7〜8種類にもおよぶ教材です。 テキストを教える先生、文法を教える先生、”コミュニカティヴ イングリッシュ”を教える先生、とALT の4人の先生で担当する学校もあり、普通科の生徒でも英語の先生は3人いるとの事でした。 先生方同志の横の連携はうまく行ってるんだろうか、といぶかしく思う事もあります。 他の科目の先生達との調整は難しいでしょうが、せめて英語の先生同志の連携がないと、各々の教材を相互関連させて相乗効果を狙う事も出来ないでしょうし、そんな高尚な教授法を云々する以前に、時間的にこれらを全部生徒に押し付けるのは無理だと言う事がわかるでしょう。 わかってはいるけどやらせているのであれば、何をか言わんや、ですわ。 あぶはちとらず、とおっしゃいましたが、その通りだろうと思います。 なにもかも消化不良になってしまってます。 英語が好きで成績も良く、英語を使う仕事につきたいと思っている生徒達でさえ、「やってられへんわ〜」と嘆くくらいの量です。
テニス部に入っている子もいるのですが、好きなテニスをやっていたら疲れ果てて自宅で宿題をやってられないそうで、ほとんどペーパー部員状態だそうです。 これに他の教科の宿題もテストもありますから、本当に大変です。
前にも投稿したのですが、フォレストやネクステージなどの分厚い文法教材はノートに整理する宿題が主になっています。 宿題分の所が毎週の小テストの問題として出されます。 授業で文法解説などはされているのだと思いますが、それでもこの文法教材を実践に生かす方法が全く教えられていません。 生徒達は黙々と教材をノートに美しくレイアウトしながら書き写すだけで時間を食いつぶしてしまっています。 小テストを何とかやり過ごしたら、数日も経たない内に丸覚えした事は頭から抜け出してしまっています。
NHKのラジオ講座のテキストを利用するなど、私には先生が怠慢だとしか思えません。 "Let's Speak!"では音読やリピーティングを奨励している様ですが、先生がその方法を教えたりするわけでも、教室で音読させるわけでもありません。 ただ「ラジオを聴いて自分で練習して来たら、先生が覚えているかどうか小テストでチェックしてあげます」と言うだけです。 生徒に余計な負担を押し付けているだけの事です。 この学校の英語科は関西ではかなりの名門なのです。 その名門校にして、こういう状態ですから。
先生達の中には塾を目の敵にしている方も沢山います。実際、「塾があるからやりにくい」と言うような事を言う先生や、「塾は学校の授業の敵ですよ」とあからさまに言う先生達にも会いました。 しかし、正規の(?)英会話レッスンの後に「補習」として学校が教え切れていない部分の面倒を見てやっている塾は沢山あります。 個人経営の教室には無料で補習している所が多いのです。
現在、友人の留守中、彼女の教室で臨時に教えているのですが、「学校の勉強も見てやって欲しい」と言う父兄や生徒の要望には応えない、と彼女は心に決めているそうです。 「学校の事は学校で責任もって面倒みてもらって欲しい。」と言うのが彼女の言い分です。 私はそれが本来の姿だと思っています。
息子は私立高校に通いました。 この学校は、宿題や試験勉強をしたい生徒の為に放課後夜の8時まで教室を生徒に解放して、教務室に行けば3〜4人の先生方がいつもおられて、質問や相談に応じて下さっていましたので、塾に通う必要はありませんでした。 私立だからこそ出来る事とはいえ、与えた教材を消化しきれない生徒の為に、それくらいの事は責任を持ってフォローして欲しいと思います。 残業出来ないと言うのであれば、生徒達も先生達も十二分に使いこなせるだけの教材を与え、それでは物足りないと言う生徒を塾に送り出せば良いのです。
英語塾の講師はどうしても下に見られがちで相手にされませんが、ミッフィーさんやあすみさん達の様な英語指導の道理もわきまえておられ英語力もある現役の先生達がどんどん増えて結集されたら、いつかは英語教育を動かす力になるだろうと思います。
励ましのお言葉ありがとうございます。
ご自宅での練習時間がなかなか取れないと言う御事情、お察ししています。 根石さんは「熟成」と言う言葉をつかわれていますが、なるべく時間をみつけて回転読みなさって「熟成」させて下さい。 私もコーチ法について勉強しなければならない事がまだまだ沢山あります。 お違いに頑張りましょうね。
「教材はこれだけ揃えてあるから、勉強法は自分で工夫しなさい」って言うのは理不尽な気がします。 まず先生は生徒に勉強法を教えてあげないと。
Jackie さん,
>もう教科書ひとつでええ。そのひとつで 音作り、音読、リスニング、文法、読解、会話。それでもたりなければディベートまですればいい。
先生達自身が、英語教材の使い方を御存じないのかも... と疑いたくもなります。
読み物などは、皆一律のものがあたえられていますが、先生手作りのものではなく、巻末についている 読解力チェックの問題をそのまま使ってるんですよ。 別に先生が手作りする必要はないと思いますが、それならば沢山あるレベル別読み物の中から生徒に選ばせてやればいいんです。 余力のある子や本の虫の子達には1冊と言わず何冊でも読んでいい事にしたらいいんです。 先生がチェックするのが大変だとは思いますが、先生達なら数時間で読める様な薄っぺらな読み物ですし、選択範囲も数十冊に及ぶ、なんてな事もないんですから、やるんだったら徹底的にやる、おざなりにしかやれないんだったらメインのテキストの指導を充実させる方がいいと思います。
英語科の生徒のライティングテキストは章毎に、自分でエッセイを書く様になっています。 14チャプターありますから、まともにやれば毎月確実にエッセイの添削をしなければならない事になります。 「出来るのか?」 と思います。 生徒も先生もです。 このテキストはロングマンのもので、英語を母国語とする高校生のライティングテキストの様です。 先生達、ええかっこしすぎではないでしょうか。
何十人もの生徒をかかえていると言う状況をよく考えて、もっとも効率的で効果的でシンプルな授業をやればいいと思います。
『或るブスの処〜女ハイ痔』
>根石さんから、回転読みについてのホームページを立ち上げる様に薦められていながら、どういう風に回転読みを紹介したらいのか迷っていて、なかなか仕事がはかどりませんでしたが、この高校生の英語授業の流れを変える事を訴えてみる事から始めようか、と思ったりしています。
ぜひ立ち寄りたいです。楽しみにしています。根石さんのお陰で小川さんと出会えた。感謝です。
いろいろ言いたい放題を言うてますが、気心の知れた仲での事と言う事でお許し下さい。
本当は2月に立ち上げる約束をしていたのですが。 根石さんの語学論をどんな風に紹介するか、とずっと考え倦ねていましたが、自分の身近な疑問点や問題点を手がかりにして素読舎を紹介する方がいいんだと、やっと気がつきました。 私は自分の担当している高校生達の英語勉強をなんとかしてやりたい、と思う気持ちが一番強いので、その事にからめてならいくらでも書けそうな気がしました。 根石さんも、私自身の言葉で私なりの書き方でいいとおっしゃって下さっているので、頑張ってみます。
小川さんのHPの立ち上げをひそかに楽しみにしているひとりです。
できることからすこしずつやっていかれればいずれは日本を代表する回転読みのHPに成長すると思います。抽象論的な話ももちろん大切だとは思いますが、やはり語学は生徒をもっての実践経験を具体的に語るのが一番インパクトも強いし、現場の英語の教員にも刺激になると思います。たださらに希望をいうなら先ほども書きましたが、そのちょっとした勇気を持つ人が一人ひとり増えることで、その人数が一定数になったとき「量」ではなく「質」が変化するということがあるだけだというkとをベルグソンの哲学書で読みました。以前確か作られたもとのものもあることですし得意分野もあることでしょうし、お知り合いの協力なども得ながらかっこええHPを期待しております。
お久しぶりです。4月1日に新年度が始まって以来、毎日毎日訳の分からない内に一日が終わってしまうような日々が続いて、ご無沙汰しておりました。土曜日(公立は休み)も普通どおり出勤してもなお仕事が終わりません。何故?
言い訳になりますが、「1000」の件、もう少し詳しいコメントをお送りしたいんですが、手をつけられない状態です。ごめんなさい。それでも合間をぬって、掲示板だけは読ませていただいてます。
小川さんの教えてらっしゃる高校生の生徒さん、本当に気の毒ですね。同業者ながらなんとかならないのかなって思います。それに、そういった教材も全て生徒からお金を取って買わせているわけだから。買わせて終わり、じゃもったいないし、無責任かなって。
せめて、そんな無意味な宿題(参考書をノートに書き写すだけ)をしなくても罰せられなければいいと思います。やってもやらなくても同じなら、やらない方がましだけど、それによって先生から怒られたり、成績を下げられたりすると困りますものね。特に推薦入試とか受けようと思っていたら、なおさら・・・・(なんか、いい人ぶっているように聞こえますが、本心です。もしかしていい人ぶろうとしているのかな?うーん、でもやっぱり、その生徒さんたちはかわいそうだと思う。)
話は変わって、3月の中ごろ、ある生徒が個人的に英語を教えてくれって言いに来たので、じゃあ、私がやっている勉強方をあなたもやってみる?ということで、彼女を実験台(?)に小川さんにレッスンしていただいた要領でレッスンを始めました。私に余裕がなくて、これまで、3回程度しか見てやれてないんですが、昨日その子に、レッスン初めて何か変わった?と聞くと、LとRの発音を気をつけてやっていたら、洋楽を聞いたりしたとき、LとRの音の違いがはっきりわかるようになった、といっていました。個々の発音は大体できるようになったので次の課題は音の連結処理です。自分で試したところ、小川さんに教えていただいた方法がとても効ききます。回転読みの効果を実感しています。後は、それを生徒に上手に伝えられるようにがんばります。なかなかクラス全員の生徒に満遍なく伝えることが未熟な私にはできないのが悩みの種です。やろうと思うと生徒からびしびしと負のオーラを感じてしまうんですよね・・・・やっぱり人前で発音を直されるのにすごい抵抗感を感じるみたいで。1対1だとそうでもないんですけどね。誰か希望者いない?っていっても「しーん」となって、気まずい雰囲気に。私ひとりが気合をいれてると生徒はますます引いていっている状態です。なので、とりあえずは全体→個人→ペアと練習しています。
ですから、小川さんが、高校生のための回転読みHPを立ち上げようかって、書いてあって本当に待ちどうしく思います。私の担当の生徒たちにもぜひ教えてあげたい。
まずはあなたが書いたものを再度転写いたします。
>700選の功罪とあなたの発音の功罪は同じかもしれない! 投稿者:sb 投稿日: 4月19日(月)21時17分28秒
>700選やDUOをつくった人は英語学習者に貢献していると同じにその罪も大きい。
>音声をコーチングすることは英語学習者に貢献していると同じにその罪も大きい。
「あなたの発音の功罪」を問題にするタイトルを書いたくせに、なぜその直後に「音声をコーチングすること」の功罪を云々する文が書かれたのでしょうか。「発音の功罪」と「コーチングの功罪」とはまるで別のことです。その別の二つのことを一身に備えているのは、根石吉久以外には思い当たらないので、あなたが私の発音につべこべ言いたいのかと私は考えました。
ところが、あなたは「あなた」という語が根石吉久をさすのではなく、「英語を学ぶ全ての人」をさすのだと答えられました。
私にはあなたが何を言いたいのかまるでわかりません。別の問題で、以前にいくこがあなたの言っていることがわからないと書いたことがありますが、日本語で書いた自分の文章が他人から何を言っているかわからないと言われることがどれほど重大な事態であるか、あなたはわからないのでしょうか。
私の発音があなたより下手であるので、その程度の者がコーチングなんかしているのがちゃんちゃらおかしいと言いたいのではないのですか。あなたは「あなたの発音の功罪」と書いたのです。
「あなたの発音の功罪」の「あなた」が、あなたが言うとおり、「英語を学ぶ全ての人」という意味であるのなら、あなたが言いたいことは以下のように書き換え可能になります。
「700選の功罪と英語を学ぶ全ての人の発音の功罪は同じかもしれない!」
いったいどういう意味ですか。教えて下さい。まったくわかりません。
タイトルの直後に、音声のコーチングの功罪を書いていますが、なぜでしょうか。音声のコーチングにどんな功罪があるのか是非教えて下さい。
>日本語で考えみましょう。赤ん坊が「ぽっき−」ということばを覚えるとします。最初は「ぽっきー=楽しい」次に「ぽっき−=食べ物」さらに「ぽっきー=お菓子」「ぽっきー=棒状のお菓子」「ぽっきー=チョコのついた棒状のお菓子」というように「その子供のなかで」「意味」が「進化」していきます。
この文のどこかに、「例えば」とか「一例として」というような語句が必要です。
こんな順番で、意味が進化していくなどとはとうてい信じられません。認識は細分化に向かうとは限らない。生活過程においては、個別の経験を重ねることで「ぽっきー」は抽象化されていきます。最後の最後に認識が「ぽっきー」という語の音のおもしろさに至るなどということは十分にあることです。最初は「もう一本くれえ」だけかもしれない。
子供が「ぽっきー」を覚えた時、音の面白さだけで覚えて、商品を知らないし食べたこともないなら、「ポッキー=特に面白い(好きな)コマーシャル」かもしれない。食べたことがあるなら、いきなり「隣のTちゃんと食べたおいしいもの」かもしれない。「隣のTちゃんと食べたおいしいもの」に巻き付いているのが、チョコレートだと知るには、別にまた「チョコレート」についての意味の「進化」が必要です。
いずれにせよ、ネイティヴ言語の意味の「進化」は順番はぐっちゃぐちゃだと思います。
ネイティヴ言語はそれでいいのです。私は英語フリークを除いては、語学はそれでは駄目だろうと言っているのです。
雑貨屋の回転準備をやっていまして、連日大工仕事をしています。
まぶたが垂れ下がってきましたので、コメントは後日にさせて下さい。
書いていただいたことは、非常にうれしいものでした。
私が判断するところでは、小川さんの発音はsbさんより上等です。
私は「音づくり」のコーチを育てたいと願っている。英語教育という分野において、「音づくり」というものは絶対に必要なのであり、その必要度から見れば、これほど払底しているものは他にはない。しかし、「音づくり」のコーチをやってみたいと希望する人はほとんどいない。これは、英語教育の世界の住人には、何が本当に必要なのかを考えている人などほとんどいないのだということを意味するのではあるまいか。
先日、ミッフィーさんと「コーラスリーディング」のことを少し話した。ミッフィーさんが、「コーラスリーディング」じゃ駄目なんじゃないかと考え始めているということだったと思う。駄目だと思いますと私は答えた。「コーラスリーディング」というのは、先生が模範の読みで読み、教室の生徒が全員で同時に同じ文を読むということをやるのだろうと思うが、このやり方は、先生が模範の読みを示せば生徒はそれを真似ることが可能だという仮説を前提にしている。日本人が日本語の音読をやる場合なら、日常の言語(無意識化されている言語)と音読の練習の言語とで、音の組成が同じなので、単に「
repeat after me 」とだけ指示していても、練習は十分に成り立つ。「 how
to repeat after me 」を扱わなくても、日本人が日本語の音読をやるのであれば問題はない。
日本人が日本で日本語を日常の言語(無意識化されている言語)としながら、英語を練習する場面では、「先生が模範の読みを示せば生徒はそれを真似ることが可能だ」という仮説はまったく成り立たない。とりわけ難しい理由があるわけではない。英語が外国語であって、音の組成(成り立ち)がまったく違うという理由が一つあるだけだ。
「音づくり」のコーチなどと言うと、コーチをやるには、よっぽど上等な発音ができるのでなければならないように思ってしまう人が多いのだろうとも思う。これはネイティヴ話者信仰やらネイティヴ話者コンプレックスやらアメリカ発の戦後民主主義のソフトな睥睨やらとからんだ英語教育者たちの「ひそかな思い」なのだ。この「ひそかな思い」が作っている分厚い壁を前にして、私はただため息をつくばかりなのだが、それでも風穴のひとつくらいはあけられないものかと思い、「電話でレッスン」をやっている。
この「ひそかな思い」は巨大な集団的思いこみを形成する。あるいは、職員室で英語の教員どうしが、お互いの発音の問題には触れないというタブーを形成する。
柴田さんと私はこの点で激しく対立するだろうが、コーチをやるのに「よっぽど上等な発音」などというものは必要ないと私は考えている。私が提示している十程度の発音のポイントがクリアでき、できたらそれに追加される予定のさらに十程度のポイントがクリアできればそれでコーチはできる。しかし、「クリア」できたらというときの「クリア」の中身が問題であって、個人の(コーチ一人の)英語の発音としたら、十から二十程度のポイントとなるものを自分で発音でき、それを踏み外さなければそれでいいが、生徒の発音を「変える」には、これらのポイントとなるものを「どう扱うか」が問題である。
柴田さんは、日本の英語の教室で英語の先生をやっている人たちの発音がよくなれば、必ず生徒の発音はよくなると言われたことがあるが、これは思いこみに過ぎない。発音上の問題点を限定し、それを「どう扱う」かが普及しないなら、上等な先生の発音というものは、「教室のお飾り」に過ぎない。柴田さんは、「先生、あなた一人が発音が上手でどうする? 生徒の発音を変えてやれよ」という意味の批判をされたこともあるが、こっちの批判がまともなのであって、先生の発音が上手になれば自動的に生徒の発音が上手になるなどという自動過程は絶対に成立しないのである。
とびぬけて優れている柴田さんの教室をではなく、日本全国津々浦々にあるあまたの英語の授業というものを眺めるのであれば、ひとまずはポイントは十くらいにしておくのがいいだろうと私は考えている。これらのあまたの英語の授業は、柴田さんのように選り抜きのエリートを相手にしているのではないという問題もある。最初にフォニックスなんかやれば余計混迷が深まるというような場所にいる先生と生徒たちなのである。
AETがらみの悲喜劇を聞くようになったので、「電話でレッスン」の生徒である高校生に「あんたの高校に発音に問題のある先生はいるか?」と聞いたら、「A先生はこのレッスンを受けた方がいいと思う」と言った。電話番号はわかるかと聞いたらわかるというので、教えてもらいその先生の家に電話した。一週間考えさせてほしいと言われ、一週間後、「レッスンを受けさせてください」とのお返事があった。
レッスン開始の直後は、日本語の音の干渉が非常に強い状態(カタカナ発音)をそのまま放置しておいた音だということがすぐにわかったが、他の生徒に対してやっているのと同じ「音づくり」をやっているうちに、ポイント数で十程度のそれぞれの音の輪郭が次第にはっきりしてきた。レッスンを始めて一年ほどの間は、わずか十程度のポイントであっても、よくそれを踏み外すことがあったが、二年ほど経過したら、ほとんど発音のことは私から言わなくてもいいくらいになった。この方は、TOEIC
用の本で練習もされていて、複製音声教材(CD)を多用されており、途中でどもりが発生した。TOEIC用のCDのスピードにいきなり自分を合わせようとしないで、「回転読み」で「ゆっくりとていねいに」音を作って音を安定させてから、TOEIC用のCDを媒介にするようにと指示した。また、音に意味がともなわない場合は、「わざとゆっくり」と読み、音に意味を呼び込むようにとも指示した。この指示によってどもりは直った。そのような危機はあったが、現在では、この先生の発音は私を越えている。CDを多用される人は、2年ほど「電話でレッスン」をやれば、すぐに私の発音レベルなど越えるのである。
私はあまりCDなどを多用しない。自分の作ったわずか10〜20程度のポイントをひたすら守っているだけである。だから認識の浅いsbさんなどに、「功罪」などと言われてしまうが、根石吉久という御仁は、この程度でも「音づくり」のレッスンはできるという場合の「この程度」を守っているのである。そんなところで敷居を高くしたら、いったい何人が「音づくり」のコーチなどやれるというのか。現在早急に必要なのは、「この程度」のコーチなのだ。それが、全国の津々浦々の英語の授業にすぐにでも必要なのだ。
では、「この程度」とは実質的にどの程度のことなのか。それは言葉で明確に言うことができる。
生徒がCDなどの複製音声を媒介にできるまでにしてやれる程度。
模範を示せば生徒はそれを真似できるなどというのは、方法ではなく信仰に過ぎない。英語の教師が方法を持たないせいで、日本全国でどれほどの枚数のCD教材が無駄になっているか計り知れない。
私は「生徒がCDなどの複製音声を媒介にできるまでにしてやれる程度」の「程度」は備えている。その程度にも達していない英検一級の人やガイド資格保持者などと較べてもらう必要もない。またsbさんのように、自分の発音がご自慢になるような英語音への「一元化」などやる気は毛頭ない。生徒がCD音を媒介にして、CDを無駄にしないで使えるようにできれば、コーチとしては本望なのだ。
それでいいではないか。コーチとはそういうものだ。自分の発音なんか自慢にしていてどうするというのか。そんな自慢なんかしている者を頓珍漢と言うのではないのか。あるいはそれはただの英語フリークに過ぎないのではないか。
柴田さんにせよ、小川さんにせよ、sbさんにせよ、「ネイティヴ音への一元化」から抜け出ているとは私には見えない。柴田さんは、英語のプロになるのでもない生徒を相手に「完璧な音」をめざせと言われたし、小川さんは、生徒の音はじきに私(根石吉久)の音よりよくなるという私の言葉に、「悲しいことですね」と言われた。本当にそれは悲しくなんかない。認識としてそれはまったくうらはらである。sbさんは、個人の発音(自分の発音)にばかり興味があって、生徒の発音を実際に変えることに手を着けておられない。それでは、個人の発音などというものは、「教室のお飾り」に過ぎないではないかとすでに私は批判したが、この点に関しては何の返答もいただけない。これらの事例の元にあるのは、「ネイティヴ音への一元化」という信仰なのである。
これに対して、私の「生徒がCDなどの複製音声を媒介にできるまでにしてやれる程度」という「程度」は、真っ向から対立すると考えている。
必要なのは、「一元化」などではない。「媒介」するという語学の態度を生徒の中に作ることである。
語学という行為は、「一元化」ではない。「媒介」である。この認識があやふやだと、英語亡者を増やすだけだ。
>「700選の功罪と英語を学ぶ全ての人の発音の功罪は同じかもしれない!」
この言い方が間違っていることに気がつきました。
「700選など誰かが作った例文集の功罪と英語音声CDや生の声全ての功罪は同じだ」
ということです。
媒介CDも根石さんも小川さんも柴田さんも私もネイティブも、
「その時との瞬間にしか出せない音声を発しているという点で迷惑をかけている存在だということです。」
少しずつ書いていきます。
文法にせよ、音法にせよ、少しでも知っているだけでなく実際に使いこなせる方がいいに決まっている。
それを絞ることが大切だという点で根石さんの意見はすばらしい。
>私はあまりCDなどを多用しない。自分の作ったわずか10〜20程度のポイントをひたすら守っているだけである。
CDであろうが、生の音声であろうが、違いを意識して学ぶのは学習者本人のすることだと言う点がひっかかる。ただしコーチの存在はたいへん意義深いと根石さんのお陰で認識した。
「ネイティヴ音への一元化への反対、つまり多様性」にはsbはもとよりこの掲示板をご覧の方々はすでに納得されていることだと思う。
>日本人が日本で日本語を日常の言語(無意識化されている言語)としながら、英語を練習する場面では、「先生が模範の読みを示せば生徒はそれを真似ることが可能だ」という仮説はまったく成り立たない。とりわけ難しい理由があるわけではない。英語が外国語であって、音の組成(成り立ち)がまったく違うという理由が一つあるだけだ。
外国語を真似ることが可能という仮設は「まったく」成り立たないわけではないが、成り立たない人が多いということを意識しておくことが非常に大切だと思う。言語学習は人によって学習プロセスが違う。一人ひとりのやり方全てがある。ただしある程度の法則がある。根石さんはきっとその法則を示されているものと信じている。ただし完全にではない。あまたある学習方法が書かれている。その人にとっての学習方法だという点を意識しておく必要がある。
>コーチをやるのに「よっぽど上等な発音」などというものは必要ないと私は考えている。
そのとおりだと思います。また言語についてすべてを知っている人なんていません。またそんな必要もないし、そんな人はいません。根石さんは「音づくりのポイント」もきちんと押さえ、「内容についてのポイント」もきちんと押さえ、「語学論のポイント」もきちんと押さえておられるからこそ私も含め生徒さんがついてこられているのではないでしょうか。
>>(sb)日本語で考えみましょう。赤ん坊が「ぽっき−」ということばを覚えるとします。最初は「ぽっきー=楽しい」次に「ぽっき−=食べ物」さらに「ぽっきー=お菓子」「ぽっきー=棒状のお菓子」「ぽっきー=チョコのついた棒状のお菓子」というように「その子供のなかで」「意味」が「進化」していきます。
この文のどこかに、「例えば」とか「一例として」というような語句が必要です。
(根石さん)こんな順番で、意味が進化していくなどとはとうてい信じられません。認識は細分化に向かうとは限らない。生活過程においては、個別の経験を重ねることで「ぽっきー」は抽象化されていきます。最後の最後に認識が「ぽっきー」という語の音のおもしろさに至るなどということは十分にあることです。最初は「もう一本くれえ」だけかもしれない。
子供が「ぽっきー」を覚えた時、音の面白さだけで覚えて、商品を知らないし食べたこともないなら、「ポッキー=特に面白い(好きな)コマーシャル」かもしれない。食べたことがあるなら、いきなり「隣のTちゃんと食べたおいしいもの」かもしれない。「隣のTちゃんと食べたおいしいもの」に巻き付いているのが、チョコレートだと知るには、別にまた「チョコレート」についての意味の「進化」が必要です。
いずれにせよ、ネイティヴ言語の意味の「進化」は順番はぐっちゃぐちゃだと思います。
ネイティヴ言語はそれでいいのです。私は英語フリークを除いては、語学はそれでは駄目だろうと言っているのです。
(sb)この点は全く異論なしです。ネイティブ言語と語学の言語について改めて考えさせられました。
ありがとうございます。
>小川さんは、生徒の音はじきに私(根石吉久)の音よりよくなるという私の言葉に、「悲しいことですね」と言われた。本当にそれは悲しくなんかない。認識としてそれはまったくうらはらである。
「なんか悲し」と言う言い方だったと覚えています。 冗談半分に軽口を叩いたと言っても、何の言い訳にも説明にならないんですが、私は根石さんの「悲しい事なんかない、 かえって喜ばしい事だと思ってる」とのお言葉に敬服しています。 だから、その後に「青藍の誉」だと書いたのです。 ギャルでもあるまいし、ギャル言葉を使った私がいけなかったと思います。 以後、気をつけます。
私は生徒さんに、根石さんの音作りの意図をかならずお伝えする様にしています。 ネイティブスピーカーなみの発音などを礼讃しているわけではありません。 自分自身もそこを目指しているわけではありません。 発音が良いとお誉め頂いたのは有難いのですが、私のも所詮は日本人の音であるとの自覚があります。 日本人の耳にネイティブスピーカーの音の様に聞こえるって事だけでしょう。
>ネイティブスピーカーの音の様に聞こえるって事だけでしょう。
→「いい発音だと聞こえるだけでしょう」に訂正します。
失礼ながら、柴田さんの発音だって、ネイティブスピーカー並みにすごいのかどうか、そんなもんネイティブスピーカーにしかわからへんのと違いますか。 ネイティブスピーカーと英語で話す時、向こうさんは「よっぽどいい発音」なんかどうでもいい、rice が lice や dice に聞こえず、「米」の事だと理解されればそれでええんやないか、と思います。
私の通っているTIME購読クラスで、ネイティブスピーカー講師が生徒の発音を訂正する場合にも、ネイティブスピ−カ−並みの発音にまで持って行こうとしてるわけではありません。 よっぽどいい発音なんかでなくても良しとしています。 根石さんがいつもおっしゃってる様に、「ネイティブの耳に英語として聞こえる音、もしくは、聞きづらくない音」程度でOKを出しています。
これも根石さんがおっしゃっている事と同じですが、余力があって、よっぽどいい発音を目指したいんなら勝手にやればいい。 勝手にやっている人を責める事もないし誉める事もないです。「それが趣味やねんやろ? 勝手にやったらええやん、誰も止めへんがな。 そやけど人に押し付けんといてや」と言うだけです。
私が「事大主義者」「一元主義者」だったなどとは思いもよりませんでしたが、自分は無自覚であったとしても言葉の端々にそういう臭いがするのであれば、そういう所があるのでしょう。 そんな事、絶対に認めとうはないですけどね。
連休中に1週間ほど1人で旅行しますので、その間に自分をよく突き詰めてみたいと思います。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/pillbug-twins/
言うてもええかな... ええい、言うてまえ!
根石さんが、電話レッスンの時に「あすみさんやミッフィーさんの様な先生は、本当に大事にしないといけない」とおっしゃってました。
Naimaさん、おひさしぶりです(^^)ノ。
バイトに出る前で、語学論を語らない書き込みすみません。
連休は、一人旅なさるんですね!
楽しそう〜。
以前、一人旅はあまりしたことがないとおっしゃってたように思います。
大丈夫ですか!? 心配です!!!!
くれぐれも、気をつけて楽しい旅をしてくださいね!!!!!!!!!
1人でハンブルクに行って来ます。 知合いが沢山いるので心丈夫です。 宿泊所と絵付け学校の往復以外は、一歩も動きません。 だから「旅」なんてもんではないですわね。5月5日に夫と合流してから一緒に旅します。
7時半ごろ学校からもどったら、ず〜っと1人なので回転読みホームペ−ジを作る作業をして、ゆっくり自分の先行きについて考えようと思ってます。 「うちら、頭も身体も元気でいられるのは後15年くらいやろ」と昨日友人が言うてました。
あるのですが、雑誌原稿の締切が来ていますので、今日は書けません。
明日ここに来る予定ですが、火曜・水曜・木曜は、雑貨屋の開店準備にかかりきりになりますの
で、それでまた少し欠席させていただく予定です。
小川さん、
メールにお返事できずにいます。明日でも大丈夫ですか?明日はまだ日本ですか?
>失礼ながら、柴田さんの発音だって、ネイティブスピーカー並みにすごいのかどうか、そんなもんネイティブスピーカーにしかわからへんのと違いますか。
音づくりが一通り分かるだけでなく自分で出来るようになった時、非ネイティブ、ネイティブに関わらず分かるということではないでしょうか。それが根石さんや小川さんや柴田さんのレッスンなのだと私は理解しています。
>ネイティブスピーカーと英語で話す時、向こうさんは「よっぽどいい発音」なんかどうでもいい、rice が lice や dice に聞こえず、「米」の事だと理解されればそれでええんやないか、と思います。
とにかく通じればいいし、分かればいいということだと思います。そのために音法は文法を「借りてくる」のだと思います。
音法や文法は「法則」です。
音法を借りてきて「個別的個性的な音声」ができる。
文法やペンマンシップを借りてきて「個別的個性的な文章や文字(書としての)」ができる。
「個別的個性的な記号(音声や文字や文章)」はCDであれ、生の肉声であれ、自分の体の「外」に出した瞬間、迷惑をかけている。存在そのものが迷惑をかけている。それらをもとにしてヒトは言語を獲得していくからです。
私が英語例文集の功罪と音声コーチの功罪をいっていたのはそういうことだったのです。
ここでの「音声コーチ」は「普段の英語全て」と言い換えてもいいと思います。
「普段の英語全て」とは非ネイティブであれ、ネイティブであれ、学習者であれ、コーチであれ、複製音声であれ、生の声や文字であれ、同じことです。CDなどの複製音声も印刷物も同じです。「外」に出た瞬間「ガチガチの氷(情報)」の状態になる。ヒトの中での「概念」は「水」で常に変わりつづけている。
これらのことは根石さんをはじめこの掲示板に書きこみをされている方々、それに養老孟子さんの著作物から学んだことです。改めて感謝します。
音法は文法を(×)
音法や文法を(○)
4月28日に出発で、5月9日に帰って来ます。
明日のレッスンは受講できますのでよろしく御願い致します。
高橋さんのレッスン終了しました。 10ページ "The rash?" まで終わりました。 テストは5+5+5で合格されてます。
ぎゃ〜ぎゃ〜と屁理屈ばっかり言ってますが、聞き捨てにしてください。 あんまり深く考えもしないで書いてしまいました。 sbさん、旅行中にじっくり考えてみます。
原稿の荒書きができたので、ここに書きたくなり来ました。
>私が「事大主義者」「一元主義者」だったなどとは思いもよりませんでしたが、自分は無自覚であったとしても言葉の端々にそういう臭いがするのであれば、そういう所があるのでしょう。そんな事、絶対に認めとうはないですけどね。
そういう臭いがするというより、絶えずネイティヴを参照するところがあると思っています。書いていただいた同じ記事から引用するなら、
>失礼ながら、柴田さんの発音だって、ネイティブスピーカー並みにすごいのかどうか、そんなもんネイティブスピーカーにしかわからへんのと違いますか。
この文の「ネイティブスピーカー並みにすごい」という語句が私には了解できないのです。ネイティヴスピーカーはまるですごくはないのです。ネイティヴスピーカーがそのネイティヴな言語を一つだけ話している分には、何もすごいところはない。日本に英語のネイティヴスピーカーが来ると、その英語が宝石として扱われますが、アメリカに帰ればその同じ英語はただの石ころです。そこらに転がっている石ころです。私らが日本語を石ころ程度に扱っていることがあるのであれば、ネイティヴの英語も石ころであって当然です。ただの石ころであり、何もすごいものはない。
多分、小川さんは、もしも日本在住だけで柴田さんがネイティヴスピーカー並みの音を獲得しているのだったら、それはすごいことであるという意味でおっしゃりたいのだと思いますが、「ネイティヴスピーカー並みにすごい」と書かれたものを素直に読めば、日本在住のままであるとか、英語の磁場で暮らしたことがあるとかがすべてすっとんでしまい、ネイティヴスピーカー並みである自体が価値であることになります。それだったら、ネイティヴスピーカーのネイティヴ音が最上の価値であると言っているのと何の変わりもありません。
柴田さんがすごいのは、ネイティヴスピーカー並みであるかどうかなんか何の関係もないはずです。私は柴田さんはすごいと思っていますが、柴田さんの音が細部に渡って「語学的に鍛え込まれている」からであって、ネイティヴスピーカー並みだからではありません。ネイティヴの音と柴田さんの音は明らかに違います。ネイティヴの音と併置するなら、柴田さんの音はあまりにも行儀がよすぎる。
しかし、この柴田さんにしても、アメリカ(多分)への留学経験をお持ちです。ご自分の音はアメリカへの留学経験を媒介にして語学的に鍛え込まれたものですが、それにしても、磁場でびっしりと英語の音に取り囲まれて「生活」した経験をお持ちです。國弘正雄が、英語獲得経験としてエリートであるのと同じ意味で、柴田さんもエリートです。
柴田さんの発音は、とても語学的に行儀がよく、こんなに行儀よくしゃべる人はネイティヴにはいないわ、というくらいのものです。そしてとても感じのいいものです。まだお聞きになっていないようだったら、テープに録音してお送りします。アメリカ滞在の経験を差し引くなら、私がこれまでに聞いた日本人の英語の発音では最上のものだと思っています。
ネイティヴスピーカー並みにすごいとか、ネイティヴにしかわからないとか、そんなふうに絶えずネイティヴスピーカーを参照しなければいけないのでしょうか。それをコンプレックスと呼ぶことはいけないのでしょうか。日本の戦後は、小川さんに強く刻印されていると思っています。
>「個別的個性的な記号(音声や文字や文章)」はCDであれ、生の肉声であれ、自分の体の「外」に出した瞬間、迷惑をかけている。存在そのものが迷惑をかけている。それらをもとにしてヒトは言語を獲得していくからです。
やりきれませんね。あまりにも思いこみが激しくて、何を言っているのか私には了解できません。存在そのものが迷惑をかけて何がいけないというのですか。何が悲しくて、こんな馬鹿なことを言っているのですか。確かにあなたの言葉は私に迷惑をかけていますが、私はあなたの存在そのものが私に迷惑をかけていると思ったことはありません。こんなものを読むと、私が間違っているかあなたが間違っているか、二つに一つだとしか思えません。
高橋さんのレッスン、ありがとうございました。
私にも日本語の戦後は刻印されており、もしかしたら、小川さんより強く刻印されているかもし
れません。私はそれに対して自覚的でありたいと思ってきただけです。
典型的な刻印をsbさんに読むことができますが、sbさんは非常にそれに無自覚です。
私は小川さんの発音とsbさんの発音を較べて、小川さんの方に軍配をあげていますが、決して
小川さんの発音がネイティヴ音に近いから軍配をあげているのではありません。ネイティヴ音に
近いかどうかで言うなら、sbさんの音の方がネイティヴ音に近いのです。私の軍配は、意味の
重さを音がちゃんと受肉しているかどうかによっています。sbさんの音は、からっぽのドラム
缶を叩いたような音がします。小川さんの音は、ものが詰まっているドラム缶を叩いたときの音
です。「私の判断によれば」というのは、そういうものです。
生徒が示す「ひっこみじあん」や「遠慮」や「内気」を大事にしながら、所詮「音」にすぎないのだから、「生け贄」にしてください。お前ら、片っ端から生け贄にするからと宣言してしまえばいいのです。生徒から嫌われたらおしまいですが、あすみさんはそんなことはなかろうと思っています。
小川さんからのレッスンを早めに切り上げられたことは、私には非常に残念です。
私が最上の価値を置くのは、ネイティヴ並みかどうかではなく、語学的に鍛え込まれているか
どうかだけです。
「茶の本」の素読のレッスンを受けていただくことはできませんでしょうか。
一昨日、同志社大学に行っている生徒さんを失いました。アルバイトをやめたので、レッスンの
お金を払えなくなったとのことでした。悲しかったです。
単なる英語のレッスンではなく素読のレッスンでしたら、優先的に私の空き枠にお誘いしたい
と思って書きました。現在、このレッスンを受けておられるのは、sbさんという方一人だけです。
長い時間がかかりますが、単なる英語のレッスンよりはずっと楽です。一見では、素読のレッスン
と英語のレッスンは区別がつきませんが、私の中では区別があります。
根石さんの「ネイティブスピーカー並みにすごい」についての御指摘、納得しました。
「ネイティブスピーカー並みにすごい」と言うような言い方を、無自覚に使ってると言う自分の現実に目覚めたって事です。 何の気もなしに使ってました。
私のドラム缶が詰まっているかどうか自分では全くわかりません。 けれど、磁場なしの所で英語なんかやってると、穴だらけのバケツに給水しながら走ってる様なもんです。
火事場に着くまで水を補給し続けてないと間に合わないんです。 いつか、boysome
228さんだったかが、英語からしばらく離れていても錆び付く事はない、とおっしゃってたんですが、うそやろ〜、と思いました。 ハンブルクに半年ほどいてドイツ語と英語と日本語のチャンポン生活をして帰国したら、母国語であるはずの日本語が出にくくなってた事があります。 ましてやたかが付け焼き刃の外国語。 私なんか、一週間で錆び付き発音だってグズグズになってしまいます。 強迫観念に駆られているみたいに、やり続けなければなりませんでした。 って、今もそうなんですが。
私は生徒や生徒の父兄から「発音がいい」と言われた事はありますが、同僚の日本人講師や外国人講師から「発音がいい」と言われた事は一度もありません。 私のは日本人特有のアクセントや発音癖が残っているけれど取り立てて注意する程耳障りではなく、「話の内容に集中出来る」最低限度の発音なのだと思います。
今回の議論で、「それで良いんやで」と背中を叩いて励まされました。 (根石さんの「事大主義」云々については、最初ちょっとムッとしましたけど) 何度も書いているのですが、私は英語圏に暮らした事がありません。 旅行でアメリカ人と結婚した夫の従姉の所へ行った事があるだけで、その間、従姉とはずっと日本語でしゃべっておりました。 買い物やホテルでの「会話」のみが、磁場英語でした。
10年間、歯科医薬品関係の輸出入商社で翻訳をやっていましたが、英語を口にする事は皆無と言っていいくらいでした。 その後、児童英語学校の講師を始めるにあたってフォニックスを勉強した辺から自分の発音も意識する様になりました。 もちろん発音クリニックの講師はネイティブスピーカーです。 講師も発音矯正の専門家なんでしょうが、一般の日本人学習者にとっては、"Repeat after me." と大差のない発音指導でした。それに個々の音の発音、単語の発音は指導してくれますが、連音についての指導はありません。
英語の技術翻訳みたいな事ばかりをやって来て、英語を口にする事など皆無だったと言っていいくらいの自分が、比較的楽に英語の連音処理が出来る様になったのは、やはり映画や音楽の力が大きかったと思います。 音楽や映画の鑑賞量は半端ではありませんでした。 根石さんが口を酸っぱくして言っておられる「音を先に行かせる」事を無意識に実践していたのかもしれません。 ず〜っと「うぇーらいおず じゃす せhんてぃー、にゅーのー、わらいみーん」と歌っていて、後になって "Well, I was just seventeen. You know what I mean." だと判明し、そこで始めて「意味と音と綴りが一致する」経験を沢山して来た様に思います。 その下地の上に、発音矯正クリニックを受講した事に意味があったとも思います。
磁場のない学習者である私にとっては、理想に近いステップを踏んで勉強した来たのかもしれません。 英語で電話レッスンのメソッドは、これを凝縮してやっつけてしまおうとするものではないでしょうか。
好むと好まざるとに係わらず、英語が国際語になるのは時代の趨勢になっています。 昔は音楽や医学の世界ではドイツ語も幅を利かせていましたが、今や、そこでも英語が主流の様です。 インターネットに限れば英語での情報が溢れ返ってます。ならば、インド人なまりの英語、タガログ語なまりの英語、ドイツ語なまりの英語、日本語なまりの英語が、国際的に通用していいんじゃないか、と思います。 それぞれの国特有の英語の、味わい、とか、風味、とか、香りとかが感じられる方がいいんじゃないでしょうか。 そう思って来ましたので、「私が事大主義て、どう言う意味やねん!」と憤慨してましたが、そう言いながらもネイティブ英語スタンダード論、みたいな事を口走ってるんじゃ、根石さんに「事大主義」だと言われてもしゃ〜ないですわね。
で、どこのどの英語がスタンダードなんや、って誰にも決められませんわね。
順風満帆ツ。
>私は小川さんの発音とsbさんの発音を較べて、小川さんの方に軍配をあげていますが、決して
小川さんの発音がネイティヴ音に近いから軍配をあげているのではありません。ネイティヴ音に
近いかどうかで言うなら、sbさんの音の方がネイティヴ音に近いのです。私の軍配は、意味の
重さを音がちゃんと受肉しているかどうかによっています。sbさんの音は、からっぽのドラム
缶を叩いたような音がします。小川さんの音は、ものが詰まっているドラム缶を叩いたときの音
です。「私の判断によれば」というのは、そういうものです。
これはよく分かります。異論なしです。根石さんの英語に「ものが詰まっているドラム缶を叩いた音」を感じることがよくあります。私の概念定義力に応じてです。
>「ネイティブスピーカー並みにすごい」という語句が私には了解できないのです。ネイティヴスピーカーはまるですごくはないのです。ネイティヴスピーカーがそのネイティヴな言語を一つだけ話している分には、何もすごいところはない。
賛成です。
>私は生徒や生徒の父兄から「発音がいい」と言われた事はありますが、同僚の日本人講師や外国人講師から「発音がいい」と言われた事は一度もありません。
「発音がいい」というのは「意味が分かりやすい(その聞き手にとって発音が分かりやすいということに加えて)」ということだと思います。日本人が聞き手の場合「グッドモーニング」と日本語的な発音のほうが実際通じやすいのです。全ては聞き手が判断することです。また自分の書いたメモを読みなおしたり、録音したものを聞きなおしたりする場合は自分が判断するということになります。
>私のは日本人特有のアクセントや発音癖が残っているけれど取り立てて注意する程耳障りではなく、「話の内容に集中出来る」最低限度の発音なのだと思います。
耳障りというのは完全に聞き手だけが判断することだと思います。「話の内容に集中出来る最低限度の法則」、それが「音法(音声面)」「文法(文章内容面)」「ペンマンシップ(文字面)」です。それらはできるだけ個人が発する記号(個性としての音声や文字文章)の中に収まっている方がいいのですが、「完璧」ははじめからない。徐々に優先順位の高いものから入れていく必要がある。だから「音づくり」や「文法」「ペンマンシップ」がある。それらを参考にして個人の中に「法則(音法、文法、ペンマンシップ)」を入れていく。
みなさん、私の癖が出ています。図で考えてしまうのです。よかったら書いてみてください。
シンプルな図です。
(個性としての)記号を一番外側に「□(四角)」で書く。
>その内側に。。。
(個性としての)概念を「○(丸)」で書く。
>その内側に。。。
(辞書や百科事典で参考にして個人の中に入れていく)定義を「△(三角)」で書く。
>その内側に。。。
(音法や文法やペンマンシップなどを手本にする)法則(☆(星)」で書く。
□の中に☆が入っていることが「通じる分かる」条件。
○の中に△が入っていることが「分かる」条件。
発信側と受信側ともに、下の条件がそろっていれば、
□の中に完全に○が入っており、
○の中に完全に△が入っており、
△の中に完全に☆が入っていることで
記号論としてのコミュニケーションは完全に成立する。
http://www.eigozuke.co.jp/study/study28.html
ある英語学校のHPです。
そこに「音読している間は日本語に訳せない」とありました。
この点、どう思われますか。
5月からレッスンをよろしくお願いしますします。 早速ですが、2点質問をします。まず、初回は5月1日でよろしいでしょうか。(連休となりますので念のために確認したく質問させていただきます)。 次に、レッスンの予習はすべきでしょうか。小川さんは、特に必要ないと言われていましたが、これまでのレッスンを振り返ると、小川さんに指導していただく以前の問題として、未知の単語がしばしばありました。このような状態であり、予習が必要だと感じております。以上、二点よろしくお願いします。
mailto:owl-c.c@ezweb.ne.jp
(根石さんのHP)<素材>4 より
英語の「音」あるいは「発音」というと、単語を単独に発音して、音がきれいだとか正確だとか評価するようなやり方がある。例えば、NHKの語学番組では、ラジオ・テレビという一方通行のメディアの性質上、視聴者の発音がきれいだとか正確だとかの評価はなされないが、単語単位で発音練習をさせている。中学の教科書の文を吹き込んだCD教材などを聞いてみても、単語単位で発音練習をやるようになっている。こういう構成をとっている教材や番組では、文全体に関しては、ただ「ネイティヴの音をそのまま真似ろ」という考えが前提になっている。
口の筋肉や舌の位置のどこをどうすればネイティヴと同じ音が出てくるのかを説明することはまずない。
これらの教材や番組の構成の前提になっている考えは、単語単位で発音をクリアすれば、獲得された単語の音を組み合わせることで文全体も発音できるとする考えだろう。これは、とてつもなく甘い考えだというしかない。
日本語というどの単音にも母音がついている言語の音と、子音が立て続けに連続する英語の音とはその組成が元から違う。この巨大な距離を埋めるのは、音楽的な感覚が発達した人には難しくないかもしれない。しかし、多くの人には非常に難しい。一例を示せば、「舌を上の歯茎の裏につけたままにしている間だけ音を出して、舌を離したときは音を出さない。そうじゃないと、トとかトゥとかいう音になっちゃって余計な母音がくっついてしまうから」というような説明がないと、多くの人には英語の音の近似値すら出せないことが多々ある。こういう指導をやっているところは、星の数ほどもある英語教育機関の中でも非常に少ないはずだ。
確かにこういう指導をやっているところは少ない。根石さんの「音づくり」の良い点は上の文章にあるような「一方通行」の授業ではないということである。「双方向」のコーチングという点がすごいのだ。
しかし一方、CDやNHKの講座を否定してみても始まらない。肉声であろうが、録音記録媒体であろうが、電話を通そうが、人間の体の外に記号(=音声や文字・文章)として出た瞬間、それはガチガチの「氷」になる。つまり今までの私の言い方では「迷惑をかけている部分」となる。
「迷惑」という言葉を使ったのは確かに語弊があるだろうとは思う。しかし、人間が言語を使用するときに「借りてくる」いわゆる文法、音法、ペンマンシップをはじめ、生の人間の伝え聞き、メディアをはじめとするいわゆる情報、いずれも人間が関わっている言語としての部分は、外に出た瞬間、それはガチガチの「氷」になるということだ。だからCDも生の声も「氷」という意味で、同じなのである。(根石さんや養老孟子さんを十分参考にさせていただいています。)
(根石さんのHP)<素材>4 より(さきほどの続き)
英語の音作りを激しく、厳しくやっている所は極めてまれだと思いま
す。実際、英語の教員の多くにとって英語の発音は、できれば避けて
通りたい弱点です。自分自身が通じるレベルの音が出せない教員がた
くさんいますし、そこそこ通じる音を出せる教員もその多くが英語の
音作り必要な知識を体系的にルール化して生徒に教えることができま
せん。例えば、根石さんが示しておられるような、音と音がぶつかり
合ったときの音の消失とかいうことも生徒に説明できるような知識と
しては持っていないのが現状です。
(Eliot 『音作りへの道』)
例えば、ここにある「音と音がぶつかり合ったときの音の消失」という問題は、単語単位で発音練習をしていたのでは決して解決しない。ここにひとつの法則が導き出せるだろう。
<法則1> 英語の音を扱う場合は、いつも文全体で扱わなければならない。
文全体として「音」の問題を扱う時、次に必ず出てくる問題は、リズムとかイントネーションというものである。つまり、英語学習上での「音」というのは、単語の発音のことではなくて、リズムやイントネーションを備えた文全体をどう扱うかという問題なのである。
単語単位で扱うだけでなく、記号や番号で正解を答えさせるような学校のテストや入試の記述式「発音問題」(!)はまったく問題外である。音韻学者を育てているわけではあるまいに、中学生に向けたテストで発音を字で処理させているのだ。ただただ愚劣なだけである。
(sb)音法を借りてきて個性としての音声記号を用いる際、「文」を単位とするのはたいへん有効な方法で、私が電話でレッスンを受けて一番役に立った点である。なぜ「文」を単位とするのか?人間が言葉を使い、人間が存在しているからなのだろうか。
「文」を使うと概念(イメージ)が浮かびやすくなるからだろうか。。。
辞書の定義を借りたり、人の話を聞いたりして、個人の中に概念を新たに構築していく。
音法、文法などの法則を借りてきて、個人の中に「個としての記号」を構築していく。
概念を構築していくことと、法則を借りてくることは「一緒に」するのがよいのだろうか。
別々にやるのがよいのだろうか。
学校文法教育に限れば「文法」を借りてくる際、陳腐な余計なものを除いた骨だけの文が多い。
それでいいのだろうかという疑問はよくあがってくる。法則としての文法を個人の中に構築するためには内容を無視してよいのだろうか。無視した場合、効率よく法則を借りてくることができるのだろうか。それとも内容がよく頭に思い浮かぶような文がよいのだろうか。
そのことと、音を学ぶ際、文のほうがいいこととは関係があるのだろうか。
よく分からない点も多い。言語学の難しさかもしれない。
「茶の本」のレッスンにお誘いいただき、誠にありがとうございます。
大変恐縮ですが、少しの間検討させてください。
二つ質問させてください。
1)根石さんの空き時間はいつでしょうか?
2)音源無しで進めますか?
といいますのは私レベルで音源無しで進めると、
自習する際、効率が悪いような気がしますので。
『いやんのばかん』
>ある英語学校のHPです。
そこに「音読している間は日本語に訳せない」とありました。
この点、どう思われますか。
皆さん、お久しぶりです。お元気でしょうか?
面白い話題なのでつい出てきてしまいました。
確かに音読している間は日本語に訳せないでしょうね。しかし、だからと言って、英語で考えているかと言うとそうでもないと思います。以前にも言いましたが、音と意味の乖離という現象があります。発音に注意を払いすぎると意味が疎かになるからです。意味を英語で直解しながらの音読というのが理想です。
「意味の受け皿としての音を作る」
では皆さん、行ってきま〜す。
記号の中に概念が入っているのではないだろうか。
概念の中に記号が入っていると考えるのは現在の私には難しい。
概念の中に記号が入っていると考えることも、可能かもしれない。
しかし、その場合、「通じない」ことにどうしてもいらいらしてしまう。
記号の中に概念が入っていると考えると「通じない」こともすんなり受け入れられる。
しかしこんな言い方は非常に「個人的」な言い方であるが。。。
それは通じないことへのあきらめではない。
ヒトは記号を通じてしか発信できないし、受信もできないということなのである。
定義をもとに個人として個性としての概念を組み立てていく作業(@)
法則をもとに個人として個性としての記号を個人の中に入れていく作業(A)
@とAがどのように結合して、発信され、受信されるのか。
@がAに取り込まれるのであって、Aが@に取り込まれるのではないと考えてみるのが現在の私には理解しやすい。しかし、逆であると考えるヒトもいるだろう。そちらが本当は正しいのかもしれない。
言語論はどれも正しいと考えるのが一番いいようにも思う。どちらにしても記号という形で発信受信がなされ、「通じた」「通じなかった」の問題が「形」のみで判断されてしまうのが「問題」なのだ。その中の「概念」をみようとしない。「発音」「文体」「字のうつくしさ」とは一体なんなのだろう。それらは「個性」そのものではないのか。どれが「きれい」でどれが「きたない」のか。そんなものはない。どれが「いい音声」なのか。どれが「いい文体」なのか。どれが「いい文字」なのか。そんなことは受け取る側が決めることだ。
分かるのはどうしてなのか。
記号が同じだからなのか。概念が同じであるからなのか。
概念は個性的だ。記号も個性的だ。ただし記号はその個性的なるものの中に法則が「ある程度きちん」と含まれていなければならない。その法則が音法であり、文法であり、ペンマンシップということだ。つまり「お手本」だ。
記号の規準「お手本」を、やっかいなことに個性的なヒトが作っている。これがどうしても通らなければならない道であると同じに「迷惑(やっかい)」という言い方にもなる。私が発信している時(話している時、書いている時、意見や考えなどを述べている時)他人に迷惑をかけているのである。個性的な記号(音声や文字や文章)を発信しているという意味で。その個性的な記号の内側にはさらに個性的な概念も含まれているという意味で。
「現象(言動)」が新たな「現象(言動)」の規準になる。しかし、それは「量的」には変わらない。いっきに「質的」に変わる。それらが規準になる。つまり文法書であり、音法書であり、ペンマンシップなどといった規準になる。だからあくまでもこういった規準はいつか誰かが作ったものなので、そのことは念頭においておくと言語の本質がつかみやすい。
つまり「現象(言動)」は不変ではない。人々の中で言語は少しずつ変わっていっている。しかし記号や概念の変化はある時いっきにやってくる。英語学習環境の変化も一人ひとりの中では少しずつ変化している。しかし教育システムやルールなどはあるときコップから水があふれ出るように(よく言われる言い方だが)いっきに変化する。この変化の瞬間が「分かる」ということなのかもしれない。
★表現力とコミュニケーション能力(communicative competence to express oneself)
小さい頃から英語を強制するのはアメリカに魂を売ることだ。日本人として日本語をしっかり学ばせなければならない。表現には音楽や絵画やバレエなどがあるが、中心は言葉である。日本語だ。
21世紀の子どもたちに必要なのは発想力とチーム力と失敗を克服する力であろう。どれも表現力がなければ実現できないことだ。
豊かな言葉は“生きる”ことの基本的な力だし、思考や生き方にも大きな影響を与える。自分を伝えることで相手の気持ちをくみ取ることができる。図鑑や絵本だけの言葉では足りない。プリンを食べなければおいしさが分からないように「草いきれ」を教えるのに暑い夏の日に這いずり回ることが大切で、豊かな経験が豊かな言葉を生み出す。
「美しい笑いは家の中の太陽である」とイギリスの小説家サッカレーも書いているが、言葉を育てるポイントは文字を教えることでなく、豊かな親子関係が基盤である。要点は次の通り。
おひさしぶりです。
sbさんは、語学論なりについて、ここで吐き出せるだけ吐き出すのがいいと思っていました。
だから、どんどん書き込みをして、sbさんなりの考えを風にさらしてみるてほしいです。
そして、いずれは英語教育の指導的立場にいるものとして、生徒達が見えてくる書き込みがなされることを、期待しています。
いくこさん、書きこみありがとうございます。
この掲示板から考える材料がもらえることに感謝しています。
私はひとの考えをなぞってばかりであったと思います。
そんな中から、いろんな学びのチャンスをもらっています。
暖かく見守ってくれる人達、こだわりのある人達の掲示板だと思います。
根石さん、ダジャレー婦人の恋人さん、いくこさん、Nishiazabuさん、柴田さん、パクパクさん、小川さん、boysome228さん、今後ともよろしくお願いします。
5月2日(日)家を離れますので、お休みさせてください。ご都合がつきましたら、振り替えの授業をしてください。よろしくお願いします。
> 二つ質問させてください。
> 1)根石さんの空き時間はいつでしょうか?
> 2)音源無しで進めますか?
空き時間は、ただいま流動的でまだ決まりません。月曜日9時から9時半を使っておられる方から、月曜日が具合が悪くなったので他の曜日に変えてもらえないかと申し出がありましたので、調整中です。私のただ今の空き枠は、土曜夜10時50分から11時20分ですが、5月から、金曜夜10時40分から11時10分も空く予定です。月曜日を使っておられる方がこのどちらかに移られてから、空き枠が決定します。決定しましたら、掲示板上でお知らせします。
ネイティヴが吹き込んだ音源が手に入ればいいのですが、素読のレッスンは今のところ音源なしでやっています。もちろんいい音源が発売されたりすれば、導入したいところです。私のレッスンで音源があるのは、「ゴースト」と「七年目の浮気」です。これらは、二つとも映画のシナリオなので、映画のビデオとかDVDとかを音源としています。「茶の本」はこの二つを片づけた人が扱うものとして位置づけていますので、順番通りシナリオ二本を片づけた人は、音源なしでもいけるだろうとにらんでいるわけです。
sbさんは、非常に発音の質がいい方なので、発音のレッスンの要素はほとんどなく、文の音読のこなれが意味の深化をもたらすことをねらっています。ものごとを非常に外在的にとらえる方なので、それを主体としています。もし
Nishiazabu さんが同じ「茶の本」で素読をなされる場合は、愛読書の一つでもあるようなので、言語をではなく岡倉天心そのものを読まれてありますから、sbさんとは入り口が違います。日本語でしか言えないことと、英語でしか言えないことの間に立って、その双方を見るような位置に立っていただくようなことになると思います。私のレッスンは最終的には、そのような位置に立っていただくのがねらいです。そのためには英語力をつけなくてはならないから、英語のレッスンをしているわけです。
素読のレッスンを受けていただく場合は、今のところは、音の練習は、他のテキストを使って自習していただくことになります。Nishiazabu
さんも、以前のレッスンで、もういくらでもCDなどの複製音声を媒介にできるところまでに達していますから、音の方面は自習していただけると思っています。
もっと音の方をやりたい場合は、「ゴースト」の中断された所から再開する手もありますが、どちらかと言えば素読のレッスンをお奨めしたいです。
承知しました。
お返事が非常に遅くなり申しわけありません。庭先で店をやろうとしており、大工仕事、石工仕事などやっており、火曜、水曜、木曜の夜はくたびれ果てて、夜はコンピュータの電源を入れないで寝てしまっております。事情お察し下さるようお願い致します。
初回は5月1日です。私のレッスンは、休日は関係なくやっております。お休みは盆と正月にそれぞれ一週間程度いただいております。これとは別に、年に4回分ほどお休みをいただく場合があります。これは、レッスンが月に4回を基本としており、月に5回ある場合は、一回分をプールしておき、サラリーマンの有給休暇のように使わせていただくものです。この休みをまとめてとることを考えており、来年の2月は一ヶ月まるごとお休みにしていただくかもしれません。庭先でやる店が雑貨屋なので、一ヶ月まるごとのお休みを使って、タイ、ベトナムなどへ雑貨を探しに行こうかという計画です。
レッスンの予習については、未知の単語を調べることならどんどんしていただいて構いません。小川さんがおっしゃったのは、「音」に関してのことだと思います。「イントネーションの自己決定力」と言っているものが確かなものになってきた方には、「音」に関しても予習をするように言っていますが、レッスンを始めて間もない方には、「音」に関しては予習ではなく復習を厚くしてくださるようにお願いしています。
単語を調べておくことは、今後もやって下さるようお願いします。
お返事が遅れましたこと、重ねてお詫び申します。
たくさん書かれているものを読んで、やはり語学の言語と生活の言語の区別ができていないと
思っています。
一度真剣に考えてみてもらえませんか。
同じく言語と呼ばれているものですが、水と油が違うくらいに違うのです。
sbさんは語学の言語にしてやられているように思います。
ご返事ありがとうございます。初回が5月1日であること、予習のやり方及び復習に重点をおくこと等、了解しました。
あと一点確認させてください。レッスンは午後11時から11時30分と当方では認識しておりますが、間違いありませんでしょうか。(nisibayasi様宛ての書き込みで、土曜日の10時50分から11時20分は枠が空いている旨、書かれていたため。)当方の認識が誤りでしたら、お手数ですが、正しいレッスン時刻をご連絡下さいますようお願いします。
先の私の書き込み中、Nishiazabu様のお名前について間違いがありました。私の不注意であり、深くお詫び申し上げます。
本日のレッスンをお休みさせて下さい。連日の保育園の行事、学校行事(激しい登山etc)、その他いろいろのものにしてやられています。
>たくさん書かれているものを読んで、やはり語学の言語と生活の言語の区別ができていないと
思っています。
一度真剣に考えてみてもらえませんか。
同じく言語と呼ばれているものですが、水と油が違うくらいに違うのです。
sbさんは語学の言語にしてやられているように思います。
根石さんがそうおっしゃるということは、そうなのでしょう。
最近わたしが考えているのは、
語学の言語は@記号言語(外在的な部分つまり個性としての音声や文字や文章)、
生活の言語はA概念言語(内在的な部分つまり個性としての考え方や感じ方、生活の総体)
ということです。
コーチが扱えるのは@の部分であり、Aは一人ひとりが経験や辞書などから獲得していくものだと考えているのですが、いかがでしょうか。
(過去ログ1601番より)(根石さん)すべての理解、センス、イメージの動きは、音に集約されて外在化されるので、音(声)こそが、語学という行為から生活言語に血を通わせるときのへその緒みたいなものであり、同時に、もっとも主要なインターフェイスだと思います。「音(声)」とは、理解・情動・イメージなどが瞬時に集約されるほどの集約点なので、語学の内側から「話す」という行為を見るならば、そこにあるのは私が言う意味での「通じる音」なのです。「通じる音」という質が成立しているならば、語学の外からそれを眺めてもやはり「通じる音」だと言えないことはないと思います。しかし、練習者の立場を離れて、それを呼ぶならば、「通じる英語」でもいいと思います。私はあくまでも練習者の立場からものを言い続けたいと考えているだけです。
(過去ログ1602番より)(根石さん)「イメージと同致する音を作れ」=「意識の動きを反映しうる音を作れ」=「通じる音を作れ」です。
良質の音というような音の質の概念をも、「通じる音」は含みます。しかし、あくまでも、それは「通じる音」の一部分です。「通じる」とは、音の質だけの問題ではないことは自明のことではないでしょうか。
ここから上で根石さんがおっしゃっていることと、
ここから下で私が言っていることは同じことではないでしょうか。
語学の言語は@記号言語(外在的な部分つまり個性としての音声や文字や文章)、
生活の言語はA概念言語(内在的な部分つまり個性としての考え方や感じ方、生活の総体)
高橋さんが土曜夜11時〜11時30分に移られることが確定していることを忘失して、昨夜
Nishiazabu さん宛ての記事を書いてしまいました。申しわけありません。頭の中が実に混乱
しておるための間違いです。お許し下さい。
正確なレッスン時刻は、11時〜11時30分で結構です。その前の方が、10時40分に終
わります。通常10分の空きを設けてレッスンをやっておりますので、高橋さんの前に20分空
くことを忘れておりました。もし、10分早めて、10時50分からの方が都合がよければ、お
申し出下さい。どちらにも対応できます。
承知しました。普段の練習の継続はしていて下さるようお願いします。
>分かるのはどうしてなのか。
>記号が同じだからなのか。概念が同じであるからなのか。
相手の言っていることがわかるのは、記号が同じだからなんてことは絶対にないと思っています。sbさん、肘で軽くつつかれながら、「馬鹿」と女に言われることと、この掲示板で「馬鹿」と書かれることとはまるで意味が違います。記号は同じですけど。
記号が同じだから同じものが伝わるなんてことは「まったく」信じておりません。
そんなことであっていいわけがないし、そんなふうに人は動いていません。
「概念」については、sbさんが「概念」と言われるときの概念がわかりません。
言いたいことはわかるような気がしますが、人になかなか通じないと思います。
私が「意味」とか「情動」とか、言い分けてきたものを、「概念」などと一括されるととても淋しい思いが致します。
世の中は「記号」と「概念」で出来ているのではありませんから。
レッスンを中断(あきらめる)人が。
俺のやっていることは駄目なのか。
>>私はあまりCDなどを多用しない。自分の作ったわずか10〜20程度のポイントをひたすら守っているだけである。
>CDであろうが、生の音声であろうが、違いを意識して学ぶのは学習者本人のすることだと言う点がひっかかる。
ひっかかるところにひっかからせていただきますが、わずか10〜20のポイントをクリアする(実はこれが大変なことですが)だけで、日本人の「しゃべり」はまずほとんど通じるだろうと思っています。しかし、しゃべるというのは、相手のしゃべりを聞き取れて成り立つものですから、聞き取れなくては駄目です。それは、実際に磁場に交われば痛いほどにわかるものです。10〜20のポイント以上に「音」に磨きをかけたいと思えば、どんどんやればいい。聞き取りに問題意識を移せば、「音」はいよいよ探求し磨きをかけるべきものになる。それだって、日本語と英語で音の組成が違うからだけの話です。10〜20のポイントをクリアする以上のことをやるかやらないかは、各自にまかせられている。やりたくなったら、やるでしょう。やりたくなったら、どかどかやればいい。「音」の問題一つでも、10〜20以上のポイントの何をどうやって生徒の口の動きとして実現できるのか、あなたにそれがおわかりなら私に教えて下さい。それができるのなら、ネイティヴができないことを初めてあなたがやることになります。
音の細部や微細な違いを認識することをやりたくなるところまで生徒をひっぱってやるレッスンや授業であるかどうかが問題です。例えば、私のレッスンとsbさんの授業を念頭に置いて考えてみて下さい。
理屈に整合性があれば、実際のレッスン(授業)で何をしているかが免罪されるというわけのものではないはずです。まして、図式的な理屈などを実際のご自分の授業を外して描いているようでしたら、それは図式ではなくポンチ絵ではないでしょうか。
>相手の言っていることがわかるのは、記号が同じだからなんてことは絶対にないと思っています。sbさん、肘で軽くつつかれながら、「馬鹿」と女に言われることと、この掲示板で「馬鹿」と書かれることとはまるで意味が違います。記号は同じですけど。
記号が同じだから同じものが伝わるなんてことは「まったく」信じておりません。
そんなことであっていいわけがないし、そんなふうに人は動いていません。
ここの所は根石さんの誤解です。というか私の説明不足かもしれませんが。。。
おそらく根石さんとsbは同じことを言っていると思うのですが。。。
私も記号が同じだから同じものが伝わるなんてことは「まったく」信じておりません。
もう一度以前に書きこみしたものをコピーします。
(個性としての)記号を一番外側に「□(四角)」で書く。
>その内側に。。。
(個性としての)概念を「○(丸)」で書く。
>その内側に。。。
(辞書や百科事典で参考にして個人の中に入れていく)定義を「△(三角)」で書く。
>その内側に。。。
(音法や文法やペンマンシップなどを手本にする)法則(☆(星)」で書く。
□の中に☆が入っていることが「通じる分かる」条件。
○の中に△が入っていることが「分かる」条件。
□の中に○は必ず入っています。しかし○の中に△がきちんと収まっていないヒトもいる。
また、□の中に☆がある程度きちんと入っていないヒトもいる。だから通じないこともあるのです。□=記号とは個性的です。音声文字文章といった外に出る記号は非常に個性的です。そのヒトがその時にしか出せない個性的なものです。しかしなぜ通じるのかというと、その記号の中に法則(音法文法ペンマンシップ)がある程度きちんと含まれているからなのです。その中には根石さんの10〜20のポイントはある程度きちんと入っていないといけないでしょう。そうでなかったら通じない。しかし少しぐらいポイントの数が少なくても概念(考え)が両者である程度了解されていれば通じるのです。逆にいうと概念(考え)がお互いにぼんやりしているとその分記号がしっかりしていないと通じないということになります。
>ひっかかるところにひっかからせていただきますが、わずか10〜20のポイントをクリアする(実はこれが大変なことですが)だけで、日本人の「しゃべり」はまずほとんど通じるだろうと思っています。しかし、しゃべるというのは、相手のしゃべりを聞き取れて成り立つものですから、聞き取れなくては駄目です。それは、実際に磁場に交われば痛いほどにわかるものです。10〜20のポイント以上に「音」に磨きをかけたいと思えば、どんどんやればいい。聞き取りに問題意識を移せば、「音」はいよいよ探求し磨きをかけるべきものになる。それだって、日本語と英語で音の組成が違うからだけの話です。10〜20のポイントをクリアする以上のことをやるかやらないかは、各自にまかせられている。やりたくなったら、やるでしょう。やりたくなったら、どかどかやればいい。「音」の問題一つでも、10〜20以上のポイントの何をどうやって生徒の口の動きとして実現できるのか、あなたにそれがおわかりなら私に教えて下さい。それができるのなら、ネイティヴができないことを初めてあなたがやることになります。
音の細部や微細な違いを認識することをやりたくなるところまで生徒をひっぱってやるレッスンや授業であるかどうかが問題です。例えば、私のレッスンとsbさんの授業を念頭に置いて考えてみて下さい。
理屈に整合性があれば、実際のレッスン(授業)で何をしているかが免罪されるというわけのものではないはずです。まして、図式的な理屈などを実際のご自分の授業を外して描いているようでしたら、それは図式ではなくポンチ絵ではないでしょうか。
よく使われるものほど大切な規則でそれを根付かせることがどれほど大切なことかという根石さんの主張はには異論ありません。
よく使われるものほど大切な規則でそれを根付かせることがどれほど大切なことかという根石さんの主張はには異論ありません。
>よく使われるものほど大切な規則でそれを根付かせることがどれほど大切なことかという根石さんの主張はには異論ありません。
根石さんがsbさんに対して本当に言いたいことは、sbさんがとらえた上記のような「10〜20の基本の音が大切なのだ」ということでは、ないように思います。
あなたの言っていることは、ちっともリアルでない、ということです。
あなたが、
あなたの生徒に対して何ができるか、
何をしようとしているのか、
どうすれば具体的に子供達の音を変えられるのか、
変えるためのクラスづくりを実際にどうしようと思っているのか。
現場が見えてこないのですよ。
100の空想(さもなくばポンチ絵)より、
子供達と対峙した1つの事実の方が、血が通った議論になるということではありませんか。
※下の記事は、投稿ミスです。
>現場が見えてこないのですよ。
おっしゃるとおりです。異論ありません。
発音のポイントでクリアすべきものは、まずは10個程度にしておくのがいい。
このわずか10個が、日本全国津々浦々の学校の授業でクリアされていないのだから。
クリアできないのであれば、それ以上の発音上のポイントに関してものを言ってもただの空回り
になる。
現時点では、私はこの10個を「必死に」守らなくてはならない。
ことは、個人の英語に関わることではない。
ことは、「生徒たち」の英語に関わることだ。
2004.3.07
@ ar [a:r] 顎の下がる明るい音。診察室の「アーン」。
[a] 一瞬顎の下がる音
A 子音+a+子音 [ae] 口の両端を一瞬斜め上に引っ張り上げる。「一瞬般若」
B [逆さe:r] [逆さe][逆さv] 狭い音。日本人はひとまず唇の開きで狭さを作る。
ネイティヴは口はそれほど狭くないが、舌で口の中に狭い息
の通路を作る。ひとまずは唇の開きで作るのがコツ。
[逆さe]と[逆さv]の区別はアクセントの有無により、自然に
備わる。( [逆さe] は息から力が抜ける)
C th 舌の先を上の歯の歯先にあてる。舌が歯にこすれて出るかすれた音。
D f, v 上の歯を下唇の山の頂点より少し内側に押しあてて、離す瞬間に出す。
E t,d,l,n 舌を上の歯の歯茎の裏。それぞれ舌の押しつけ方は微妙に違う
が、技法グラウンド」「回転読み」の量で自然に解決する。
F r 多くは、舌を喉の方に引き込み、口蓋の天井に触らない。
舌が歯に近い方で、宙に浮く場合もあり。ポイントは口蓋の天井に触らない
こと。
D s, z 歯と歯茎の境目あたりに舌がわずかに触わるくらい。狭い隙
間に息を通す。
ES(long s) 「静かにして、シーーッ」のシに含まれる音。
F 単語の最後が t,d,l,n のどれか。次の単語の最初が t,d,l,n のどれか。
前の単語の最後の音は、舌の位置を確保するだけで黙音化。(一瞬の空の音)
この法則以外でも、単語の最後の t や d が舌の位置を確保するだけで、黙音
化することは多い。
G 単語の最後が t, d, l, n のどれか。次の単語の最初が th
前の単語の最後の t,d,l n は舌を th の位置で黙音化させてよい。
H 単語の最後が子音。次の単語の最初が母音。子音と母音は連続する。リエゾン。
I [s][z][d3] と th のぶつかりあいでは、[s][z][d3] が勝つ。
th の音は、[s][z][d3]の音と同化する。
10のポイントの最初の三つが母音に関するものであるのは、理由があります。
この三つが、日本人にとっての最大のポイントだからです。
「音づくり」をやる場合にも、この三つから始めるのがいい。
「鮒釣りに始まり、鮒釣りに終わる」ように、この三つの母音に始まり、この三つの母音に終わる。
それが日本人にとっての英語の「音づくり」だと考えています。
あんたがはっきりものを言うようになったのが俺はうれしい。
それをやらないなら、英語なんかやる意味がないというくらいに俺は思っている。
私はあなたの「個性的」という語に非常にひっかかりを感じます。
そんなものは「個性的」も糞もなく、ただ単に「個別的」なだけのことではないのでしょうか。
そして、それで何がいけないというのでしょうか。
何が「迷惑」なのでしょうか。
そのいいぐさだと、「インド英語」も「フィリピン英語」も「日本英語」も否定されるはずです
が。
>私も記号が同じだから同じものが伝わるなんてことは「まったく」信じておりません。
sbさんはそう書かれました。これは記録として残ります。
では、次の文はどういう意味になりますか?
>分かるのはどうしてなのか。
>記号が同じだからなのか。概念が同じであるからなのか。
記号が同じだから同じものが伝わるとは「まったく」信じていない人が、なんでこういう具合
に自問する必要があるのですか。
Naima様 投稿者:高橋 投稿日: 4月27日(火)00時59分49秒
レッスンありがとうございました。発音についてじっくり指導を受けたのは、初めてであり、非常に勉強に
なりました。指導していただいた文を、帰宅途中のひとけのない道で回転読みをしたりしております。今後
ともよろしくお願いいたします。
高橋様 投稿者:Naima 投稿日: 4月27日(火)11時12分42秒
こちらこそ勉強になりました。 ありがとうございました。 まずは「音を先に行かせる」事に専念して下
さい。 個々の音や単語単位の発音指導はどこでもやっていますが、まとまった文章の流れの中で音を作る
のが素読舎のやり方です。 日本語を介さずに英語を即座に理解する力もリスニング力や会話力も必ず向上
すると確信しています。
tiny sand さん 投稿者:根石吉久 投稿日: 5月 3日(月)00時50分39秒
承知しました。
Naima さんの生徒を減らしたくないのですが、また私の手元に空き枠ができてしまいました。
回りに声をかけていただきたくお願いいたします。
特に、小学校高学年、中学生をお持ちの親に声をかけていただきたくお願い申し上げます。
私がやっているレッスンが何らかの重大な意味を含むものだと認識されておられる方だけで
結構ですが、どうぞ回りに声をかけていただきたく念じております。
素読舎は、娑婆の大勢に逆らって生きてきましたので、お金が得られません。
この道30年になりますが、月額で20万円ちょっとにしかならない日本の現実があります。
すかすかの授業をやっている先生でも、それっぽっちだということはない。しかし、塾の現実は
そうです。大学を出て30年近くになりますが、現実は20万円ちょっとにしかならない。
行が乱れていることはお見逃し願います。
8700(〜4月21日)
までを収録しました。
表紙に目次をつけてみました(が、まだちょっとです)
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
>(sb)記号が同じだから同じものが伝わるなんてことは「まったく」信じておりません。
私が記号という言葉を使っているのは、根石さんの言葉を借りれば「個別的」なものです。
法則(音法、文法、ペンマンシップ)をある程度きちんと含んでいるそのヒトにしか出せない一瞬の「個別的」な「記号」という意味で使わせてもらっています。
そもそも「記号」に同じものなんてない。同じヒトでも時が違えば「記号」は別。その「個別的」な記号の中にこれまた「個別的な」「概念」があります。
私が使っている「概念」という言葉はそのヒトに固有のものです。そのヒトのそれまでの考えや経験の総体です。なのでこれも一瞬のものです。抽象捨象を繰り返しそのヒトだけがもっているまさに概念です。
それを他のヒトと共有しようとするために「記号」必要になるのです。しかしその記号にはルール=法則がなければ通じないし分かりません。ですから記号にはある程度のきちんとした法則(ルール)が入っていなければならないと言っているのです。それらが音法や文法やペンマンシップということなのです。根石さんの電話でレッスンはその音法の基礎基本を学習者が身に付けるための一つの最適な方法を提示しておられます。私が使っている「記号」には「音声文字文章」含まれています。その「音声」の部分にある程度のきちんとした「音法」を含むのに最適なレッスンの一つだと考えています。
>そのいいぐさだと、「インド英語」も「フィリピン英語」も「日本英語」も否定されるはずです
が。
私はそれらを全く否定しません。どんどん使っていくのがいいと思っています。英語を使った時点でその英語が法則に影響を与えるかもしれない。むしろ影響を与えるくらいの英語を使うヒトが日本にも増えればそれだけ影響を与えることができるということになると思います。生活言語として使いつづけることで外野の英語でも内野の英語になると思います。
語学としての英語と生活としての英語。その区別の曖昧さからなかなか抜けきれていないと思う。
語学としての英語にやられているのかもしれない。その違いはなかなか私には理解しがたい。
私が何度も繰り返して書きこみをしてきたこと、つまり「記号としての言語(言語記号)」は、「英語どんでん返しのやっつけ方」小学館文庫 根石吉久著)の中の「空っぽの電池を作ること」という表現と同じことではないかと思う。これが根石さんの言われる語学としての言語。
一方、生活としての言語は、これに個人として意味概念が入っているだけでなく、五感(第6感?なるものも含めて?)を通して入ってくるものも含めたものを根石さんは言われているのだと思います。國広正雄氏がその点に関して無意識的だということを根石さんは言っておられます。その通りだと思います。しかしその点は本人が実際にその外国語が母国語の土地へどのくらいの期間行っているのか(根石さんの言葉では「磁場があるところ」)また行かないことを選ぶのかという本人の問題であり、行った分だけ、そのヒトは母国語(日本語)を学ぶチャンスを自ら放棄しているとも言えるのではないでしょうか。
根石さんには「生みの苦しみ」なるものがある。
手塚治虫には藤子不二雄にとっての手塚のような意味での直接の先行者は、いない。
一人で道を切り開く先行者の孤独は、藤子不二雄の二人にはない。
(スラムダンクな友情論 齋藤 孝 文春文庫 より)
根石さんにも直接の先行者がいない点では「孤独」だと思う。
その孤独にあこがれる時もある。しかし世の中にすぐに引き戻される。私は弱い。弱い存在だ。
>根石さんにも直接の先行者がいない点では「孤独」だと思う。
その孤独にあこがれる時もある。しかし世の中にすぐに引き戻される。私は弱い。弱い存在だ。
sbさん。貴方はとても真摯な方だと思います。そのために他者との意見の相違が気になって仕方がないのでしょう。でも、それにあまり拘泥されるのは如何なものでしょうか?貴方は貴方自身であって、他の何者でもないのですから、もっとご自分の意見に自信をもってください。私の見るところ、この掲示板では貴方はベストスリーの一人です。他のお二人に一歩も引け目を感じる必要などないですよ。
私など、大変図々しいですから、他人の意見は5%しか聞かず、残りの95%はオレ流で通しています。つまり、95%は他人の意見との相違を当然のものとして受け入れていますので、あまりストレスを感じません。でも、そのお陰で、逆に一人の先生の意見に振り回されず、多数の先人からいいとこ取りができるので、斎藤さんも含めて多くの人を許容できたりしてしまうから不思議なものです。
掲示板で他者の意見に振り回されないためには、ある点で他者との意見の相違があきらかになった時の引き際が大事です。あまり一つのポイントに拘ってスレッドを続けても実りのない事が多いですから。そのポイントについて異なる意見が2つあるという事を皆に知らしめるだけで十分です。何もレスポンスがなくても、自分が信念を持っているものならば、分ってくれる人は必ずいるものです。いや、ひょっとして今は誰もわかってくれないかもしれません。実はその方が良いのですよ。その方が人類によりユニークな貢献ができるというものです。
boysome228さんをうらやましいというコメントが今では多かったです。でも東大に入ったりする人達は自分のやり方を最後まで愚直にやり通した人が多いと何かで読みました。たしかにboysome228さんに魅力を感じつつも私はboysome228さんのまねはできませんし、意味がないことです。私は私のやり方で確信をもってやっていきたいとこれからも言語と付き合っていきたいと思っています。素読音読で根石さんからアドバイスいただいた中で特に役に立っていることは「ゆっくりきちんと→きちんと速く」の指導順序に関すること、イメージや概念と記号音声などについて考える機会を得られたことなどです。また兄貴分としていろいろアドバイスをいただけるとありがたいです。これかもよろしくお願いします。
根石さん、boysome228さんはじめみなさまへ
いつも見守っていてくださり感謝しています。
またいろいろご迷惑をお掛けしており申し訳なく思っています。
今後ともよろしくお願い致します。
今日のレッスンで逆さe:(earth,bird,turnなどに出てくる音)をどうすれば学習者により早く伝えられるか、つまり学習者が自覚しやすいか、というようなこと教えていただきました。
英語を母国語にする人達への英語発音レッスンと、日本語を母国語にする人達への英語発音レッスン(発音と音声の違いはこの際考えないものとします)はおのずと力点が変わってくるということを伺いました。
具体的には、「唇を狭める」という日本語での言い方が一番、学習者が早く飲み込むとのこと。
私はae(「あ」と「え」の中間音とよく説明されるもの)とur,ir,erの綴りの今、考えている音(この際、音と音声の違いは考えないものとします)が苦手でした。学習者が気づくための方法として教えていただいた(私の音に対する「傲慢さ」のために根石さんがそのように指導することしか出来なかった、つまり私の器の狭さのため、というのが本当のところでしょう)のですが、自分自身が「舌」より「唇を狭める」ことに気づきを得ました。
ありがとうございました。
sbさんでも、「狭い音」は自信がなかったんですね。だけど、いつもきれいに出てます。
「狭い音」は、「逆さe」と「逆さv」で、これを「狭い音」だと端的にポイントを突いたのは、鵜田さんです。私は、鵜田さんの「30音」という30ものポイント設定には賛成できませんが、「狭い音」というポイントの指摘にはうなりました。
「逆さe」と「逆さv」の音価の違いは、ほとんどがアクセントの有無で自然に解決するので、この両者を区別しないという鵜田さんの見識にも脱帽しました。
鵜田さんの功績はこの2点が最大のものだと思っております。
>具体的には、「唇を狭める」という日本語での言い方が一番、学習者が早く飲み込むとのこと。
これは、「10のポイント」をお読みいただけば、書いてありますが、要するに狭いところを息が通り、「こもる」ことによって「曖昧」な音が出ればいいのです。ですが、日本人(日本語で育った人)の場合には、唇を狭めて出すのが一番てっとりばやいのです。ネイティヴや、複製音声をよく媒介にした人は、舌の動きで口内で狭さを作れるのですが、日本人に対してコーチングをやる場合は、まずは唇で狭さを確保するのがいいというのが私の意見です。これで、「曖昧母音」や「逆さv」を作れなかった私の生徒は一人もいません。
いきなり舌の動きで「狭さ」を作らせようとすると私は言葉を失います。舌が狭さを作ることを、私の言葉のレベルではどうにも描写できません。また、それを描写できた記述をこれまでに読んだことがありません。
まずは、唇の開きの狭さで、狭いところに音が通る(息が通る)感覚をつかんでもらうのが先決だと思っています。それが英語音として誤解が生じないものになれば、それ以後はCDなど複製音声を生徒は自分で媒介にできるようになると思っています。それで、それほどの努力も必要とせず、口内の狭さを作れるようになると思っています。
最初に「狭さ」を意識させないと、それ以後の発展のしっかりした「きっかけ」を作れないだろうと思います。
私は、一応舌の動きで口内を狭めることはできるのですが、いつも初心者のことを考え、唇で「狭さ」を確保することを忘れないようにしています。それが、初心者にとっての最大の「きっかけ」だと信じていますので、初心者がもっともわかりやすい音として、唇で「狭さ」を確保しようと心がけています。初心者が練習して、「狭い音」に入っていくために、もっとも参考になる位置に私の「音」がとどまっていなければならないのだという考え方です。「狭さ」が作る音価の近似値さえ感覚でつかまえられるようになれば、それ以後は生徒はいくらでも複製音声を媒介にして発展させることができます。しかし、私はコーチングをやる者ですから、生徒にとっての入り口にあたる音でいつも自分の音を作るのです。
これは、少し前に書いた「ネイティヴ音への一元化の拒否」という思想です。(私はこれは思想だと思っています。)この点が、私が小川さんとも柴田さんとも違うところです。また、sbさんとも違ってきたところです。
> 私はae(「あ」と「え」の中間音とよく説明されるもの)とur,ir,erの綴りの今、考えている音(この際、音と音声の違いは考えないものとします)が苦手でした。
sbさんでさえそうだったのですから、一般の非常に多くの英語学習者は、この両者を区別できていない人がほとんどです。
これらを区別する決定打は、「一瞬般若」という日本語と「狭い音」という日本語だと思います。
もしかして、と期待しているのですが、この両者をはっきりと区別できるようになったのは、私のレッスンを受けて以後のことでしょうか。
もしそうであれば、私は(音に関して)上級者である人に対しても、「音づくり」ができたことになります。そうであれば非常にうれしいです。