【8201】
【タイトル】募集は営業、営業は生活、生活は妥協、妥協は募集
【 日時 】03/11/29 15:16
【 発言者 】sb

行動を起こさせる営業戦略は「理想」ではなく、「戦略」であること。
ここを私は自覚していませんでした。

しかし「戦略」には「そったく同時」という大原則があります。
ご存知のように「ひながたまごの内側から殻をつつく、その時に、親鳥が、そのひながつつく瞬間を見届けて、即、間髪を入れず外側から殻をつつく」というやつです。また受け売りです。ごめんなさい。

しかし私は根石さんの「電話でレッスン」を通じて、「語学とはどういうものか」「語学とはどのようにして学ぶのが自分にとっての生活に役に立つのか」などを深く深く学ぶことができました。
学び続けることが大切です。しかしきりがありません。私の場合は日本語の素読や背景知識、それに電圧装置の作り方をきちんと学ぶべきだったと反省しきりです。でもこれからの学びにたいへん役に立ったばかりでなく、自分にとって一生の財産になったことがたくさんあります。

@自己管理、自己目標設定を最終的に助けるプログラムであること。
A音づくりを塾生が自ら内的に理解し、実際の行動に(練習力、回転読みなど)移せるものであること。
B語学論の真髄を分かりやすい言葉で相手がほしい情報だけを欲しい時に的確に伝える準備があること。

などがノートにまとめる時のポイントであるような感じがしています。



【8202】
【タイトル】英語暗唱大会と英語弁論大会
【 日時 】03/11/29 15:20
【 発言者 】sb

英語暗唱大会は音作りに主に機能します。また音に意味を溶け込ませることにも役に立つ場合もたくさんあると思います。

英語弁論大会は背景知識を高めるのに主に機能します。また音作りや音に意味を溶け込ませることにも役に立つと思います。

焦点のあたる場所が少しずつ違うと思います。



【8203】
【タイトル】アドレス訂正及び讃美歌の二
【 日時 】03/11/29 15:21
【 発言者 】波江究一

アドレス印刻違ひありまして失礼。 二作目出来ましたので紹介かたがた。
末尾にあるが正しいアドレスです。その言語に内在する特質を存分に発揮
してこれを国際間に認知普及せしめることが将来の於て無用の侮りを除く
重要なる戦略と思ひます。

奇し霊孕む
処女より生れて
罪を癒せる子
諸音植ゑ匂へ
率ゐ結ふ縁ぞ
我が名消さぬ野路


くすしたまはらむおとめよりあれてつみをいやせるこ
もろねうゑにほへひきゐゆふえんそわかなけさぬのち

When the child who purifies our crime
Is born from the maiden belly conceived by the Holy Spirit,
We will play all good tones.
And we connect solidarity with unknown people,
And we will parade a field, reciting an immortal name



【8204】
【タイトル】「チョムスキーのアメリカ」の反響
【 日時 】03/11/30 0:37
【 発言者 】足立和夫

灰皿ネット「足立和夫の家」http://www.haizara.net/~kirita/adachi/の
BBS「骸骨人の風」より引用。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★2003年11月28日 14時11分★ ザンビア河野
下の根石さんの発言の引用(複雑だなあ)にはもろ手を挙げて賛成したいです。反戦掲示板というまどろっこしいことをしなくてもこんなに明確に表現してくれた根石さんに感謝したいです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※「根石さんの発言」というのは、この掲示板に書かれた、「チョムスキーのアメリカ」投稿者:根石吉久  投稿日:11月16日(日)のこと指しています。

mailto:ck9k-adc@asahi-net.or.jp



【8205】
【タイトル】(無題)
【 日時 】03/11/30 12:27
【 発言者 】ダジャレー夫人の恋人

好色選挙法。



【8206】
【タイトル】多分、足立さんがコピーしてくれる
【 日時 】03/12/01 1:34
【 発言者 】根石吉久

と思うので、ザンビアさんにここで書きます。

お読みいただきうれしいです。
こちら http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs にもたまにおいで下さい。



【8207】
【タイトル】波江究一 さん
【 日時 】03/12/01 1:36
【 発言者 】根石吉久

URLを書くのをお忘れになっておられるかと思います。
お教え下さい。



【8208】
【タイトル】sbさん
【 日時 】03/12/01 1:38
【 発言者 】根石吉久

>募集は営業、営業は生活、生活は妥協、妥協は募集

どういう意味だか、ちいともわかりません。



【8209】
【タイトル】「電話でレッスン」アドバイス
【 日時 】03/12/01 2:52
【 発言者 】根石吉久

 生徒さんにアドバイスした場合に、I村さんがレッスンをコンピュータの音声ファイルにしてるってのを聞いて、俺もそれ参考にして、アドバイスの部分だけ録音してみようかなって思ったんですわ。
 ええと、喩え話で言うと、新品のジーパンを買ってきたとして、音の質がまだ新品のジーパンの状態っていう感じなんです。まだごわごわして硬いっていうこ となんですが、体になじんでくると、布が柔らかくなって、非常に穿きやすくなって、それで、布もまだしっかりしてて、っていうこの状態が続けば一番いいん ですが、そうもいかなくて、そのうちに布が薄くなって破れちゃいますね。
 今日やったところだと、I had Rose move your three o'clock ・・・の文が特にごわごわしていて硬いっていう感じがしました。これから柔らかくしていくわけですけど、とにかく回数を読み込んでもらうことだと思います。
 えーと、英語のネイティヴの音っていうのは、崩れた音が暗黙の了解のうちに許容されていくので、ジーパンで言えば穿きすぎちゃってあるので、穿き過ぎて穴があいちゃったっていうような音なんですね。布自体が薄くなってるというか、くたくたになってるんですね。
 ネイティヴの音っていうのはそういう音なんですよね。
 で、わたしらが語学で作るべき音っていうのは、そのくたくたな薄い布みたいな音だとは考えていないんです。ネイティヴの音をやたら尊重する人がたくさん いるんですが、布が薄くなってるとか穴があいてるというような音の性質自体はお手本にする必要はないですね。柔らかくて繊維がしっかりしてるっていう音が 作れればいいんだと思うんです。
 ただねえ、その柔らかくてバネがあるっていうところまで持ち込むためには、どうしても回数を読み込む必要があるんです。だから、頭で覚えちゃったとか、 暗記しちゃったので言えるっていうレベルで止まっちゃわないってことが非常に大事なんですね。あくまで「読み込む」っていう感じで、ジーパンだったら「穿 き込む」っていう感じで、口の筋肉を「使い込む」って感じで、筋肉を鍛えるつもりで、ひとつやってみて欲しいんですが。

 もう覚えたからいい、と思うとそれが語学では落とし穴ですから。もう充分になじんだ文でも、どんどん読み込むっていう練習をつづけて下さい。



【8210】
【タイトル】こんにちは
【 日時 】03/12/01 10:46
【 発言者 】ザンビア河野

根石さんこんにちは。およびにより参上いたしましたザンビアです。

チョムスキーの件は私が身も心もすりへらしてやっていた反戦掲示板にある解答をあたえるものでした。ありがとうございました。

ここの主題である、言語については先におじゃました波江さんとこそこそ話しあっております。そこでは日本語の問題について語り合っているのです。

世界は日本語だけで構成されているわけではもちろんないですね。日本語と外国語(印欧語族、セムハム語族、ウラルアルタイ語族、ポリネシア諸語族)との間 の意識交換は翻訳ということでなされるわけですがこれにすごい難題が数々よこたわっているというのが最近の私の主張です。

http://sky.zero.ad.jp/toku/zambia/

mailto:zambia@sky.zero.ad.jp



【8211】
【タイトル】波江さんについて
【 日時 】03/12/01 15:45
【 発言者 】ザンビア河野

根石さん、故有って波江さんはウチの一角にすんでます。下のリンクが彼のホームページとおもってください。

http://8315.teacup.com/talkingsnake/bbs

mailto:zambia@sky.zero.ad.jp



【8212】
【タイトル】また一つ理解しました。根石さんに感謝しています。
【 日時 】03/12/02 0:03
【 発言者 】sb

>>募集は営業、営業は生活、生活は妥協、妥協は募集

>どういう意味だか、ちいともわかりません。

酔っていたようです。失礼しました。


薄く擦り切れたジーパン(くずれた言葉)を履かないのが語学であるというのは、
音声の崩れ自体を生活言語でしかとらえてはいけないということなのですね。崩れは生活言語に渡ってしまった場合のみに許されるという風に語学では割り切ることが(意識的になるということが)上達の早道ということなのですね。
文字の面から言うと、ゴーストで扱われているような非文(文法的におかしい)、つまり崩れている文字(もしくは文)も語学としてはとりあえずとらえないと いうことになるのでしょうか。生活言語として(本来は渡ることはほとんどあり得ないが渡ってしまった場合)の英語はとりあえず無視することが大切だという ことですね。700選へのこだわりへの自身が私自身持てた気がします。同時に早く700選からも卒業して、ゴーストへ移行することの大切さにも気づきまし た。

言葉ほど人工的なものはないが、言葉ほど人間的(自然的)なものもない。
語学としてとらえるということは、意識として言語をとらえるということがやっと自分の中で整理できました。
生活言語は無意識(自然的)なのに対し、語学は意識的(人工的)だということがやっと本当の意味で別々なものとなりました。根石さんの生活言語としての英語と語学としての英語を意識的に分けることの意味を内側から分かった気がします。ありがとうございました。



【8213】
【タイトル】ザンビア河野 様
【 日時 】03/12/02 23:48
【 発言者 】根石吉久

現在、
http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
http://6829.teacup.com/nessy/bbs
などを読むだけで、他の掲示板にほとんど読みに行く時間がとれません。

しかし、先程、サンビアさんの掲示板を読みに行きました。
波江さんの字数歌は、最初に一つ読んだときは非常にびっくりしましたが、いくつも読むと
とても読みにくく、古い教養がなければとりつけない質を持っています。
とりわけ、旧かなづかいに日本語のアイデンティティを求めることは私はとうてい賛成でき
ません。旧かなづかいの方が整合性があるという意見には耳を傾けるべきだと思いますが、
そこにアイデンティティのようなものを求めると間違うと思います。
私は、日本語のアイデンティティは、その言語構造そのものにあると考えている者です。
どれほどカタカナが反乱しようと、どれほど整合性を欠く新かなづかいで書かれようと、若
い人がどれほど流行語で日本語を乱そうと、その言語構造(シンタックス)が日本語のもの
であれば、それはまともな日本語だと思います。
最後の砦というものがあるとすれば、ただ日本語のシンタックスあるのみだろうと思ってお
ります。旧かななど復活したところで、シンタックスがやられればどうしようもないのです。



【8214】
【タイトル】訂正
【 日時 】03/12/02 23:51
【 発言者 】根石吉久

>カタカナが反乱しようと

 → カタカナが氾濫しようと



【8215】
【タイトル】根石さんありがとうございます。
【 日時 】03/12/03 11:50
【 発言者 】ザンビア河野

言語構造ですか、それは核心をつくご意見ですね。多いに賛成できるとおもいます。

波江さんは 古えにもどすべし というご意見でしょうが現実問題として不可能でしょう。古えでも各時代で特徴とニュアンス(語味といったらいいでしょうか?)がちがうとおもいますからね。私にとっては鎌倉時代はきらいな日本語です。

言語構造以外にもこのニュアンスというのも大事だというのが私見です。ロルカのところもごらんになったでしょうが、翻訳や語学の問題もここが重要な点かとおもいます。

http://sky.zero.ad.jp/toku/zambia/

mailto:zambia@sky.zero.ad.jp



【8216】
【タイトル】小津安二郎監督作品
【 日時 】03/12/03 21:50
【 発言者 】sb

小津作品「大人の見る絵本、生まれてはみたけれど?」を見ました。NHKBSでやっていました。
いつか根石さん宅をお尋ねした時、奥様が「東京物語」などを教えてくださったことがきっかけとなりました。ありがとうございました。



【8217】
【タイトル】根石さん
【 日時 】03/12/04 14:19
【 発言者 】sb

根石さん
私のような者にいろいろお教えいただき、感謝しています。
また表現や引用など、不適切で稚拙であったことを反省しています。
申し訳ありませんでした。
記号言語とイメージや生成文法とチョムスキーは今の私には難しすぎます。
しばらく間をおいて、いろいろ実践してみたく思います。
本当にありがとうございました。
今後ともお付き合いしていただければ幸いです。



【8218】
【タイトル】引用
【 日時 】03/12/04 14:53
【 発言者 】ザンビア河野

>根石さんの発言「私は、日本語のアイデンティティは、その言語構造そのものにあると考えている者です。
どれほどカタカナが反乱しようと、どれほど整合性を欠く新かなづかいで書かれようと、若
い人がどれほど流行語で日本語を乱そうと、その言語構造(シンタックス)が日本語のもの
であれば、それはまともな日本語だと思います。」の部分、こちらの掲示板で引用しました。
事後報告失礼。


http://sky.zero.ad.jp/toku/zambia/

mailto:zambia@sky.zero.ad.jp



【8219】
【タイトル】事務連絡
【 日時 】03/12/05 18:32
【 発言者 】I村

 12月からレッスンの時間帯が変更と伺ってましたが、
10:10〜10:40の時間帯でよかったのですよね?

 念のため確認をお願いします。



【8220】
【タイトル】I 村さん
【 日時 】03/12/06 0:48
【 発言者 】根石吉久

そうです。



【8221】
【タイトル】皆様
【 日時 】03/12/06 0:49
【 発言者 】根石吉久

腰の調子がいまいち本調子ではないので、昼間土方仕事をして疲れている日は、腰をかばって
夜は横になっております。
そのうちにまた書きます。



【8222】
【タイトル】ザンビアさん
【 日時 】03/12/06 0:51
【 発言者 】根石吉久

引用のお断りのお手数は不要です。
私のものは、本来の主旨を尊重していただければ、どこでどのように引用していただいても
結構です。

ご丁寧にありがとうございました。



【8223】
【タイトル】sbさん
【 日時 】03/12/06 0:53
【 発言者 】根石吉久

なんですか、こと改まって。
こちらこそよろしくお願いします。



【8224】
【タイトル】sbさん
【 日時 】03/12/06 0:56
【 発言者 】根石吉久

>記号言語とイメージや生成文法とチョムスキーは今の私には難しすぎます。
 しばらく間をおいて、いろいろ実践してみたく思います。

まずは、「5分間音づくり」から始めてみて欲しいものだと思っています。
ミッフィーさん(柴田さんの講演をお聞きになった佐賀県の高校の英語の先生)も、来春から
「5分間音づくり」を試してみられるようです。
5分なら、通常の授業の邪魔をせず、「音づくり」ができるだろうと思います。
公立の学校での「音づくり」はまずそんなところから着手すべきだろうと思います。



【8225】
【タイトル】ニュアンス
【 日時 】03/12/06 1:13
【 発言者 】根石吉久

ザンビア様

そうですね。言語構造だけだと、日本人のアイデンティティと朝鮮人のアイデンティティはほぼ
同じものになります。ニュアンスということを考慮しないと、日本語でしか言えないこと、朝鮮
語でしか言えないことというものがすっとんでしましますね。
私は日本語の歴史における各時代のニュアンスは、実におおざっぱに感じることができるだけで
す。鎌倉時代に特有のニュアンスというような細かい感覚はいまだ所有できていません。
おいおいにお教え下さい。



【8226】
【タイトル】それでもしかし
【 日時 】03/12/06 1:35
【 発言者 】根石吉久

英語という語学をやってきて、「話せるようにならない問題」を考えてきましたので、私の目に
は、「言語構造」が大きくうつるようです。
言語構造(シンタックス)が、ほぼ無意識化されないのに、しゃべろうとするのは無理だと思う
のです。ニュアンス以前の問題としてそれがあるように思います。

翻訳は語学の発展形ですが、やはり、語学から出て、語学から切れた独自の領域を形成している
と思います。そこでは、ニュアンスがきわめて大事になるということはよくわかります。

話をする、読書する、翻訳するなど、語学の成果を実用とする以前の、語学が語学であり続けて
いる領域を私は考えてきました。そこでの難題は、まずはシンタックスだろうと思っています。

インド・ヨーロッパ語系に対して、ウラル・アルタイ語系の日本語のアイデンティティは、シン
タックスとなると思います。
ニュアンスということになると、ウラル・アルタイ語系の中の各言語において、それぞれ固有の
ニュアンスとなります。

日本語の、あるいはそれを使う人のアイデンティティとなると、ニュアンスとした方がいいのか
もしれません。

それでも、しかし、押し寄せるヨーロッパ系のシンタックスをどう受け止めるかという場合には、
「言語構造」だろうなと思っているのです。ニュアンスは、戦後の日本語は相当のダメージを受
けています。生活がアメリカ化したことによるものだろうと思います。
しかし、シンタックスはまるで無傷ではないか、と思っているのです。

「寝た?」
「まだ」
「欲しい」
「うん」

こんな会話で用が足りるのが日本語で、これはシンタックス的にはとても正当な日本語です。
これを英語で言うとして、

Sleeping?
No
Want it?
Yeah

とでもするとして、問題は3番目の Want it? です。
Want? だけでわからんのかなあと思うのは、日本人で英語ネイティヴは、自然に it を言う
と思うのです。

で、とことん省略してもなお、「動詞+目的語」という構造が顔を出す。

「寝たの?」
「ううん」
「欲しいの」
「・・・」(うなずくだけ)

ニュアンスってのは、こちらの問題ですね。



【8227】
【タイトル】仮名遣か「かなころがし」か
【 日時 】03/12/06 13:36
【 発言者 】波江究一

 旧かなづかいに日本語のアイデンティティを求めることは私はとうてい賛成でき
 ません。旧かなづかいの方が整合性があるという意見には耳を傾けるべきだと思いますが、
といふご意見ですが旧かなといふ用語がそも罠であると思ひます。視点を換へれば今公式の仮名遣いとしてはびこつて居るものの方が「かなころがし」とよばれて然るべきでせう。動詞の活用語尾
五十音経緯図の一行にをさまるべきところ、あふ あはない あへば が あう あわない あえば
のやうにあわ行間を右往左往するのみならず、いろはに代表される独特の言語表現機能を台無しに
してしまふからです。いろはの伝へて居ることで最も大事なことはその構成時各音が我々はその一
を欠いても総体成立し得ない有機的連鎖体なのだといつて居る所にあります。
英語辞書には単音にして品詞定義あるは一人称代名詞と不定冠詞のみですが。国語辞書はそれこそ
仮名各音につき辞両面に亘る定義の山です。その意味するところは彼が無機質なる表記部材である
に対し、わが国語表記を構成する仮名とは各音に命を宿した細胞器官も同じといふにあります。
これがいろは歌のごとき他言語に類例ない表現機能を可能ならしめて居るのです。「かなころがし」は五十音図が経緯図としてある意味をも、いろはに篭められた世界観文明千載の大略をも蹂躪
してしまふ性質の物であつて、決してこれを永続させてはならぬと思ひます。
下記性懲り無く下手な英訳つけて不信者の讃美歌つくり置きました。


樅の枝に灯り
集ひ寄る我等
雪屋根を綺ふ
星ぞ果てぬ裔
興さむ名浮く気
馬柵へ立ち居ん眼

もみのえにあかりつとひよるわれらゆきやねをいろふほしそはてぬすゑおこさむなうくけませにたちゐんめ

在枞的树枝点蜡烛的房间里(上),我们集聚祝福救星的诞生。在雪积的屋顶的上,称呼星的光和,到世间末了都不腐朽的名放光在。靠近马小房注视的人影,用三个博士们洗吗?

The candles burning on the branch of the christmass tree,
Where we gather and congratulate a savior on birth.
A stellar light shining on the roof thick snow layed.
Praised the name which does not decay till the end of a world,
Are they three doctors who come and watch the horse hut?



【8228】
【タイトル】透視
【 日時 】03/12/07 11:51
【 発言者 】ザンビア河野

なんか私の頭の中の整理がつかない言葉の塊を根石さんが透視してくれているのではないかとおもってしまいます。

ただ言語構造というのは比較言語学の分類で音声言語学的な分類だとニュアンスは違う集合体を我々の前に出現させるかもしれません。そこいらへんを詳しく調 べたという人を私は不幸にしてしりませんが膨大なフィールドワークが必要な関係で専門家がいないのだとおもいます。調査には金がかかりますしね。これが政 治とか経済的な価値のある研究だとみとめられれば、全世界的な調査がおこなわれるでしょう。

音声にもなんらかの秘密がかくされているとおもいますが裏付けを取り様がなく、現時点では言語構造が国語を代表するというご意見に賛成したいとおもいます。

http://sky.zero.ad.jp/toku/zambia/

mailto:zambia@sky.zero.ad.jp



【8229】
【タイトル】イラク
【 日時 】03/12/10 13:10
【 発言者 】ザンビア河野

イラク派兵が決定しましたね。ロルカの死の予感と同じような将来の不安をかんじます。

http://sky.zero.ad.jp/toku/zambia/htm/news.htm

mailto:zambia@sky.zero.ad.jp



【8230】
【タイトル】言文一致かデアル点か
【 日時 】03/12/11 14:26
【 発言者 】波江究一

いろはとは何も古語ばかりでなく、いはゆる現代史風に平明な表現も可能だといふ証明までに
下記投稿致します。書かれた文章はすべて文語であつて、現代語口語なるものは、その実文末に特徴的に頻出する語法をとつてデスマスデアル点といふへぼ訓点 であるといふ観点も可能です。いはゆる文語全体と等価に対峙するものとして言文一致なるものが確立されてある訳ではありません。飽くまで畸形の派生形でし かないといふが、私の立場です。

子ども達に
親は願ふ
平和な明日
造る夢を
誉れ照らし
拡げ笑む世
跛者(ゐざり)失せん
消えぬ希望

こともたちにおやはねかふへいわなあすつくるゆめを
ほまれてらしひろけゑむよゐさりうせんきえぬのそみ

跛者(ゐざり)失せん 地雷に触れて脚を失ふやうなこと。


小泉氏憲法前文を都合のよいところだけ持ち出して人的派遣を決定の声明を出したやうですね。
言葉は非力の極みですが下手にいぢり廻すとおお火傷をすると思ひます。



【8231】
【タイトル】泣きっ面に蜂
【 日時 】03/12/12 23:18
【 発言者 】ミッフィー

我が家のちびゴンたちの面倒を見てくれているじーちゃんが入院してしまった…息子は水疱瘡にかかってしまった…だんなは事故を起こしてしまった(不幸中の 幸いでお互いけがはなかったらしい。神様仏様ありがとう)そして私はEliot大先生の授業を来週見学に行く手配をしていたのに、その日ちびゴンが完治し ていない可能性が高く私がガッコを休んで面倒を見なければならず、早速キャンセルせざるを得なかった…Eliotさん、見ていらっしゃるでしょうか、この サイトを。先生の授業を見に行く予定にしていたのは私です。ごめんなさい。でもいずれおじゃまさせてください。そんな私は今「いわゆる受験指導」の真っ最 中ですが、センター試験だろうが、国立大の入試だろーが私大だろーが、あったりまえの話ですが、英語のシンタックスがしみこんでいればするする読めるし、 なければ読むのに難儀する。たとえば英作文やイディオムの小テストをする。声に出して読んで覚える生徒は伸びるし、眺めているだけの生徒は伸びない傾向が ある。10枚ワンパックと多少違うが、がりがり書きまくる生徒もなかなかいい感じ。いくら「…かどうか」のifやら「…ということ」のthatやら「…で あること、もの」のwhatを口先で説明しても英文が体に、かけらだけでも残っていたら話は通じるのだけれど、何もないところからの、例文を引用しての説 明は焼け石に水のよう。じゅわーっ、しゅしゅしゅと蒸発しているのが目に見えます。中学高校の英語の先生、とにかくいっぱい低学年から音を出して読ませよ う。私もこの一週間のさぼりを克服すべく、回転今からがんばろうっと…。



【8232】
【タイトル】火曜日のレッスン
【 日時 】03/12/15 16:30
【 発言者 】Naima

夕べから東京にいます。 帰りが遅くなりそうなので、明日のレッスンを休ませてください。すみません。



【8233】
【タイトル】明日のレッスン
【 日時 】03/12/15 19:04
【 発言者 】もっこり

所用につき、レッスンの時間に電話できません。
申し訳ありませんが、おやすみさせてください。



【8234】
【タイトル】Naima さん、もっこりさん
【 日時 】03/12/16 18:08
【 発言者 】根石吉久

承知しました。

なかなか掲示板に書けなくて申しわけありません。



【8235】
【タイトル】過去ログ
【 日時 】03/12/18 18:01
【 発言者 】村田

8200番までの過去ログを倉庫に収録しました。

http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/

http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/



【8236】
【タイトル】今日のレッスン
【 日時 】03/12/20 8:13
【 発言者 】ミッフィー

体調が絶不調です。当日で申し訳ありませんが今日のレッスンお休みさせて下さい。



【8237】
【タイトル】ミッフィーさん
【 日時 】03/12/20 18:55
【 発言者 】根石吉久

承知しました。



【8238】
【タイトル】今週の電話レッスン
【 日時 】03/12/21 9:37
【 発言者 】Naima

祭日で自宅にいますので自宅の電話を鳴らして下さい。



【8239】
【タイトル】Naima さん
【 日時 】03/12/22 20:58
【 発言者 】根石吉久

承知しました。



【8240】
【タイトル】色は風味の讃美歌二
【 日時 】03/12/23 13:33
【 発言者 】波江究一

明日がイブですか。中英二ヶ国語の翻訳をエンジンによつて得ましたが,専門家お揃ひの所で拙い訳に添削玉はらばと投稿,ご笑覧のほどを。


樅の枝に灯り
集ひ寄る我等
雪屋根を綺ふ
星ぞ果てぬ裔
興さむ名浮く気
馬柵へ立ち居ん眼

もみのえにあかりつとひよるわれらゆきやねをいろふほしそはてぬすゑおこさむなうくけませにたちゐんめ

在枞的树枝点蜡烛的房间里(上),我们集聚祝福救星的诞生。在雪积的屋顶的上,称呼星的光和,到世间末了都不腐朽的名放光在。靠近马小房注视的人影,用三个博士们洗吗?

The candles burning on the branch of the christmass tree,
Where we gather and congratulate a savior on birth.
A stellar light shining on the roof thick snow layed.
Praised the name which does not decay till the end of a world,
Are they three doctors who come and watch the horse hut?



【8241】
【タイトル】聞いたことのあるダジャレ。
【 日時 】03/12/23 22:16
【 発言者 】ダジャレー夫人の恋人

恩を肌で返す。



【8242】
【タイトル】こんなコトバ見つけました。
【 日時 】03/12/25 20:31
【 発言者 】英語嫌い人

神谷美恵子訳『マルクス・アウレーリウス自省録』(岩波文庫)から引用。

「意見を作る能力を畏敬せよ。自然にたいして、また理性的存在として
の構成素質にたいしてふさわしくない意見が(我々の)指導理性の中に生
ぜぬようにする役目は、ひとえにこの能力の上にかかっているのだ。ま
たこの能力こそ(我々が)軽率になるのを防ぎ、人間にたいするしたしみ
と神々にたいする服従とを約束するのである。」



【8243】
【タイトル】急で申し訳ありません
【 日時 】03/12/27 14:11
【 発言者 】I村

 本日のレッスンを休ませていただきます。
 また、来年よろしくお願いします。



【8244】
【タイトル】I 村さん
【 日時 】03/12/28 12:23
【 発言者 】根石吉久

昨日のうちにお返事できず申しわけありません。
今年はかなりの進展がありました。いよいよ熟成させる過程に入りますので、来年も頑張って
下さい。



【8245】
【タイトル】本年最後に、投稿させていただきます。
【 日時 】03/12/31 18:42
【 発言者 】パクパク

たぶん、浜谷さまも、この掲示板を投稿されなくても
毎日、アクセスされておられるとおもいます。


浜谷さんのように優等生だった方以外は、浜谷さんの多読のやり方で英語が上達するには、300年から500年かかると思います。一生懸命にやってもそのく らいかかると思います。私は冗談を言っているのではありません。浜谷さんにはよかった方法でしょうが、普遍性はない。この性質を決めているのは、浜谷さん が、多読に至るまでの「前提」を軽んじているという一事です。SSSも同じことです。

今年は、多読が、音読ブームにつづいて、商業的にブレークしたときだと
おもいます。
しかし、来年は、その勢いは持続しないのではないかとおもいます。
300年から、500年もしくは、永遠に、多読では到達しえないとおもいます。
わたしは、やはり、素読のベースの元に、多読が必要とおもいます。
しかし、素読のベースがなく、多読をしても、なんらの効果もないと
おもいます。
自分自身の上達のことも含めて、来年、具体的に投稿したいと
おもっております。



【8246】
【タイトル】あけましておめでとうございます
【 日時 】04/01/01 4:04
【 発言者 】いくこ

旧年中は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。

パクパクさん<
>わたしは、やはり、素読のベースの元に、多読が必要とおもいます。
>しかし、素読のベースがなく、多読をしても、なんらの効果もないと
>おもいます。

これはパラドックスとして、あえて提示してらっしゃるのでしょうか。

私は、英語の基礎をつくるためには、素読は欠かせないと思っています。いろいろな方法はあるでしょう。しかし、素読・特に回転読みは苦労ではありますが、英語がよく身に染みます。頭だけで考えただけでは捉えきれない長いフレーズを身体に取り込むことさえ可能になります。

初めて見た英文を脳を振り絞って暗記しても、脳の中にそれを受け入れる素地ができていなければ、英文をとらえることはできないと思っています。そこで、素 読は、体が英文を捉える素地をつくるのに最適です。素読する英文には単語もイデオムも含まれていますし、一文をわしずかみして身に付けることによって、噛 めば噛むほど味がでるスルメと同じく、後々英語に対する理解度があがるほど、その英語の一文はより有用になっていきます。だから、復習範囲も、手放すわけ にはいかないのです。

パクパクさんがおっしゃっている「素読のベースの元に、多読が必要」は、そもそもどういう意味なのかよくわかりません。が仮に素読ができるようになるために、多読が必要というならば、それは初級者には、不毛な英語への取り組みになるだけのように思えます。
多読も、もちろん辞書を引き引き、沢山の本を読みすすめるほど「このような言い回し前にも見た、この単語は見たことがある」などの気づきもあるでしょう が、それが身体にしっかり定着するためには、膨大な本に接する経験量が必要であり、身体に英文をしみこませるには、多読はあまりに弱い経験量だと思ってい ます。

また、膨大な本に接することは、英文を十分に理解しない初心者にとって壁に頭をぶつけ続けるだけだと思います。結局、一文ずつ回転読みして素読をしていく方が、確実に一つずつ英語を身につけていくことになるし、結果的には飛躍的な英語の習得につながっていくと思います。



【8247】
【タイトル】謹賀新年
【 日時 】04/01/01 9:34
【 発言者 】パクパク

本年もよろしくお願いします。

素読:荒塗り
多読:中塗り
精読:仕上げ塗り

 荒塗りのベースがないなかで、中塗りをいくらしても、それは定着がわるく
 いずれ剥げ落ちる。
 しかし、荒塗りのベースを土台にしていれば、中塗りが生きてくる。
 もっと言い方をかえれば、荒塗りの過程を省略して、中塗り作業を
 つづけても、それは一瞬の見かけのよさだけだとおもいます。
 また、荒塗りをしていないと、中塗り作業自身が本来は継続できないとおもいます。



【8248】
【タイトル】(無題)
【 日時 】04/01/01 18:48
【 発言者 】ダジャレー夫人の恋人

金蛾新年。



【8249】
【タイトル】新年
【 日時 】04/01/01 18:56
【 発言者 】Naima

明けましておめでとうございます。 皆様、今年もどうぞよろしくお願い致します。



【8250】
【タイトル】あけましておめでとうございます
【 日時 】04/01/01 21:29
【 発言者 】根石吉久

昨年は、秋から冬にかけて体調を崩し、なかなか掲示板に書けませんでした。
なんとか今年から、復帰したいものだと願っております。
年末は酒が多く、やはり書けませんでした。年が改まって、普段なかなか手がつけられないことを
やっておこうと思い、「ゴースト」の文法解析をやっています。5千行ほど書いて、村田君の手を
わずらわせ、一部公開の形で過去ログ倉庫に収めてもらおうと予定しています。現在、4千行を越
えましたので、まもなく公開できるものと思います。5千行を越える部分について、どのように扱
うかは、今後検討していきます。
その後は、Naima さん、Rosey さんの手をわずらわせた「語数別分類」の校正に再度着手する予
定です。また、ある名古屋の女子大でのシンポジウムの発言記事がその大学の先生から届けられて
おりますが、これの整形もやろうやろうと思いながら、手がつけられないままになっています。こ
ちらにも今年は着手しなければなりません。

今やっている文法解析は、現在の「電話でレッスン」の生徒さんの中で、文法をやりなおした方がいいと思われる方
にも使っていただく予定です。

詩の雑誌「ミッドナイトプレス」で、語学をめぐる連載を始めました。こちらもよろしくお願いい
たします。

ひとまず近況報告です。



【8251】
【タイトル】Naima さん
【 日時 】04/01/01 21:37
【 発言者 】根石吉久

「電話でレッスン」を広めていくためのホームページの作成をお願いしてありますが、そこに掲載
するための記事の素案をここに転写したいと思います。ものによっては、文責を根石吉久にした方
がいいものと、文責を Naima さんの本名でやった方がいいものとがあると思います。私が書いた
素案を書き直して、文責 Naima でやってもらわないと、単なる手前味噌になるようなものもあり
ます。
 以下に、仕事始めとして、少し転載してみますので、練り直して下さい。
 正月ついたちから仕事始めなんかやると、誰かに怒られそうな気もしますが、記事は去年のうち
に書いたものであり、仕事の実質はほとんど転写だけですので、勘弁してもらおうと思います。



【8252】
【タイトル】転写(1)
【 日時 】04/01/01 21:39
【 発言者 】根石吉久

どこかに広告用のフレーズを書いたファイルがあったはずだが、みつからないので、当座ここに書いておく。

野鍛冶としての英語職人(電話でレッスン・コーチ) 根石吉久

 野鍛冶は、権力に寄り添う刀鍛冶のようなものとは違う。一流の学校の一流の先生は刀鍛冶のようなものであろう。根石吉久は英語をめぐる一切の権力に「ま つろわぬ者」として生きてきた。その方法の一切を塾から始めたことがそれを物語っている。いまやくたばりぞこないの早稲田の「在野」という理念を、そのま ま地で生きて、女房・子供を苦しませたのが根石吉久だと言っても、女房・子供の観点からまったく正しい。まだ誰も「音読」などと言っていない頃から、「音 読」ひとつを死守し、塾一つを維持するのは血みどろの娑婆との喧嘩だったのである。

 根石吉久は野鍛冶である。だから、ぼろぼろの鍋の修理だって行う。その土地で鉄がとれるなら、その鉄をうち据えて鍛冶をする。電話回線を「野」として、「鍛冶」をする。どんな土地のどんな鉄だって打ち据えるのである。

 日本で英語の原料となる鉄は手にはいるのか。手に入る。それは、「音」でもなく「文法」でもない。「イメージ」である。
 外科手術的に浸入してくる英米標準強制。これに「抗する」ためにこそ英語をやる必用があるのであって、意識を英米化するためにであってはならない。とこ ろが、英語フリークという亡者どもは、意識の英米化をやりたい人たちなのである。そして、日本にいて英語を使う者の90パーセントを越えるほどの圧倒的多 数が英語フリークどもなのである。意識を英米化し、それに同化してしまった方が、語学はよっぽど楽なものになる。英語フリークとは、楽をしたい者どもに過 ぎないと言ってしまってもいいのだ。
 もう、英語をフリークどもの手から奪いかえすときが来ている。英語をフリークや亡者たちに握らせておくべきではない。技術者として研究者として、あるい は商品の取引を行うものとして、ときには親戚として英語をしゃべる人たちと英語でやりとりする場面はこれからも減ることはないだろう。意識を英語に同化さ せた者としてではなく、日本語と英語を両方持つ者として、その分裂の中で狂わずに静かに進む者として、普通の日本人が英語を必用としはじめているのであ る。アメリカ帰りではあるが、語学の方法を持たないフリークが、どうして先生やらコーチやらができるというのか。在来の学校英語に何ができるというのか。

 英語をフリークや亡者の手から奪いかえし、堂々と日本育ちの英語をしゃべるためには、日本だけで英語を作って、語学論を備えた人のコーチによる以外にはない。そして、そんなコーチをみつけるのは、砂の中でゴマ粒を探すほどに難しい。それが現状なのだ。

 野鍛冶としての英語職人・根石吉久は、コーチ作りに着手しようとしている。
 自分が英語がわかるとか使えるということと、生徒が英語がわかるようにするということ、生徒が英語が使えるようにすることとは、まったく別のことである。そこを見据えるならば、日本の英語の先生たちは「巨大なるしろうと集団」にすぎない。
 全国の悩める英語の「先生」たちは、素読舎に問い合わせるのがよろしい。



【8253】
【タイトル】転写(2)
【 日時 】04/01/01 21:52
【 発言者 】根石吉久

これぞ、実用文法!
「ゴースト」文法解析

 この文法書は一部のみ、ネット上に公開します。また、公開部分は、通常の「電話でレッスン」の生徒さんの練習にも組み込み使用します。



【8254】
【タイトル】転写(3)
【 日時 】04/01/01 21:55
【 発言者 】根石吉久

以下は、すでに掲載したものの書き直し。

玉石論1 (2002年4月〜 )



 アメリカに行けば、英語はただの石だ。ごろた石にすぎない。それを飛行機に乗せて日本に持ってくれば、そのまま宝石扱いされる。この落差は、以下の言い 方でも言及されてきた。曰く、アメリカでは子供でも英語をしゃべっている。あるいは、アメリカでは馬鹿でも英語をしゃべっている。
 話はその先へ進むべきだ。アメリカで子供でも馬鹿でもしゃべる英語が、なぜ日本に住んだままではこれほどに難しい課題になるのか、と。

 巨額の税金が無駄づかいされている。日本の学校で雇っているAETたちに払われている金のことである。ごろた石の宝石扱い以外の何だというのか。彼らの ほとんどがしろうとである。語学の何たるかを心得た人たちではない。日本人が働いて得た金を、単なる英語のネイティヴにばらまいているのだ。どぶに捨てて いるのだ。
 ここでも役人どもが馬鹿であることが証明されているに過ぎない。ごろた石に宝石の代価を払っているのだから。

 英語の塾をやってきて見てきたことから断言する。AETが日本の学校に来るようになっても、日本の英語は何も変わっていない。
 原因は語学論の払底にある。文部科学省の英語教育についてのお題目はいつまでたってもお題目にすぎず、何をどうすべきかが提示できたためしがない。欠け ているのは、語学論なのだ。英語のハウツウ本ならあふれかえっている。しかし、語学論をみつけようとしたらまるでみつからない。

 もう断言すべきだろう。
 本当の宝石は、日本在住のままに英語を使えるようになった日本人の英語なのだ、と。
 これは同時に語学論を備えた英語でもあるだろう。
 もしも、英語ネイティヴというごろた石の中に宝石があったとしたら、アメリカ在住のままに日本語をものにしたというような人だろう。こういう人になら金を払って来てもらう価値がある。

 AETの採用基準は以下のものとなるべきだ。
 アメリカ(その他英語圏)在住のままに、日本語をものにした英語ネイティヴ。この一項目が絶対に必要なのである。この条件を満たす者のみが、日本にいて 英語をやることの困難を知るからである。これを知らないアメリカの大学出など、ごろた石にすぎないことを認識すべきである。

----------------------------------------------------



 言語的磁場のことを考え出して、二年ほどになるだろうか。
 磁場の作用をなぜ人々ははっきりと見ようとしないのだろうかと思ってきた。
 人間の子供が言語を獲得する能力として生まれてくるという謎は今は謎のままに置いておくしかない。そんな能力を持った生き物がなぜいるのかという謎はつ いに解けない。なにはともあれ、人間の子供は言語を獲得する能力として生まれてきて、その能力を使うと言うことができるだけだ。この時、その能力を活性化 し、その能力と交流するものを名付けて「磁場」と呼ぶことができる。人間は、言語の磁場の中に生まれてくると言ってもいい。



【8255】
【タイトル】転写(4)
【 日時 】04/01/01 21:57
【 発言者 】根石吉久

 ネイティヴ言語の獲得にとって、言語の磁場の有無は決定的である。狼に育てられた人間の幼児は、人間の言語を持つことがなかった。育てられる過程に言語 の磁場がなかったからである。磁場がなかったら、ネイティヴ言語は決して育たない。ここが語学とネイティヴ言語が決定的に違うところである。
 語学の過程を、ネイティヴ言語の獲得過程と同一視しようとする論をしばしば目にするが、語学とネイティヴ言語獲得の間にはよく似た現象がいくらあっても、その本質がまるで違う。
 ネイティヴ言語の獲得には、磁場が無意識に直接働きかける作用が働く。これは言語を獲得している者にとって、なまの情動を伴うものである。
 なまの情動。これこそが無意識と連動しているものである。言語を無意識まで沈めるものだ。
 これに対して、語学はあくまで架空のものである。仮の感情であり、からっぽの実用だ。
 語学は、ひとまずはとことん架空の仮のからっぽのものだ。
 語学とは意識的に無意識を作る作業であり、無意識的に意識が形成されるネイティヴ言語の獲得過程に対して逆立ちした領域である。
 語学をもっとも厳密に定義してみれば次のようになるだろう。

 「当該の言語の磁場を欠いた場所で行う意識の意識的な激化」

 これが本来の語学の姿である。磁場を欠いてなされる行為こそが語学なのだ。「当該の言語の磁場を欠いた場所」とは、個室のようなところ、あるいは、個人 の机の上のような場所だ。あるいは、もっと厳密に限定するなら、具体的な人間との交流を「欠いた」個人の意識である。貫く性質は、「一人の場所」というも のである。
 たとえアメリカに住んでいても、英語を語学とするならば、その場所は個室、個人の机の上、具体的な人との交流を欠いた個人の意識がその場所になる。この 「語学の場所」で作ったイメージは、そこを離れて、人々と交わることで、すぐに英語の磁場に迎えとられ、生彩を帯びる。しかし、厳密な意味では、人々との 交流はすでに語学ではない。それは、すでに生活過程であるからだ。
 アメリカ(などの英語圏)に住みながら英語を語学とするならば、それがもっとも語学に有利な場所であるということは明らかだ。語学という孤独な行為を、 磁場が取り囲み、語学の場を離れた直後から、その意識を磁場が支えてくれる。語学と生活過程の間にうまくへその緒がつながるのである。しかし、その場所が いくら語学にとって有利であろうとも、その場所で獲得された語学のスキルそのものは、語学としては亜種である。
 語学の本質をスキルだと思わない方がいい。それは、結果だけしか見ないものの見方である。スキルだけを見ていては、語学そのものをとらえることはできないだろう。

 イメージの鍛え込みを外してしまえば、語学論は成立しないだろう。

 厳しい冬のような語学。それが日本人が日本にいて英語をやる場合の語学だ。不利といえば不利な条件が揃っている。しかし、これがもっとも純粋な語学の姿 だ。もっとも純粋な語学を成立させられる場所にいながら、人々は語学を英語病に変えてしまい、語学としてすっきりと洗い出すことをしない。かくして、もっ とも純粋な語学を成立させられる場所にいながら、やたらにみつかるのは語学まがいばかりということになる。英会話学校の繁盛とは語学まがいの繁盛だと言え ばいい。



【8256】
【タイトル】転写(5)
【 日時 】04/01/01 22:00
【 発言者 】根石吉久

 語学の場所とは「一人の場所」だから、英会話学校であろうと、文部科学省管轄下の学校であろうと、教室という場所は本当は語学の場所ではない。
 語学には本当は先生というものは要らない。必要なものはコーチであって、先生ではない。初心者の「音づくり」の場面では、絶対にコーチはいたほうがいい。先生は要らない。
 語学を微分していくと、「イメージする」という端的な行為にぶつかる。これは、知識的に教えて扱える領域ではない。イメージの存在は、一人の人間の意識 においてその当人にだけ明らかになるものであり、教室という場であろうと、生活という場であろうと、あらゆる社会的な広がりのなかでは点として閉じられて いる。
 社会的には非存在に等しいものであろうとも、当人の意識に明らかに存在するもの、それがイメージである。
 だから、イメージの存否を知るためには、「訳」というものを使う以外にない。そして、生徒にあてて訳させるという日本の英語の教室に蔓延した授業方法が ある。イメージの存否を確認するためには、「訳」を使う以外にないのは確かだが、生徒に訳させてこと足れりとする「訳」の扱い方が間違い続けてきたという ことなのだ。
 いるのは要らない先生ばかりである。コーチがまるでいないのだ。
 必要なのは先生ではない。語学論を備えた腕のいいコーチだ。
 学校の「先生」たちは、そのぶあつい着衣を脱いで、ひとまずはコーチとして立たなければ駄目だ。いつまでも「先生」なんかやっているから駄目なのだ。 コーチに必用な技術は大学の教員養成課程ではまるで手に入らない。ごく少数の塾がその鍵を握っている。謙虚に塾に教えを乞うべきである。

 イメージそのものは、イメージしている当人にしかわからない。また、イメージを成り立たせるのは、端的にイメージするという意識の具体的な力の行使以外のものではない。

 「イメージそのもの」を扱える場所は、一人の人間が自分に対する場所だけである。
 教室では、(あるべき)イメージをたどらせることはできても、イメージそのものを扱うことはできない。

(ある程度力をつけた生徒に対して、長大な文を覚えさせ発表させるというような課題は有効である。20語程度までの文なら、ただ音の連続として覚えてしま うことはできるが、100語を越える複数の文からなる論述やストーリーを覚えようとすれば、イメージをたどることを避けられなくなる。そして、この長大な 論述やストーリーを覚える場所は、決して、教室のような場所ではないだろう。それは、個室、机の上、個の意識においてであるだろう。そこに語学の領野が広 がる。そこが語学の場所だ。)



【8257】
【タイトル】転写(6)
【 日時 】04/01/01 22:02
【 発言者 】根石吉久

.葬式

 外人と話すことは語学ではない、というこの単純なこと一つがなかなか通じないのだ。もしも、外人と話すことを語学にするのであれば、これはその外人に対 してきわめて失礼なことをしているのだというあたりまえのこともわからない日本人が多い。生活の場を語学の場にするということは、根底的に失礼きわまりな いことなのだが、英語フリークの皆様は頓着しない。こういう人たちは、言葉というものに関して感度が鈍いのである。人々はもうはっきりと言葉にすべきなの だ。あの人たちは言葉に対して感度が鈍いのだ、と。
 生活の場を語学の場とするというのは、大して用もないのに質問するということである。質問して、質問が通じるかどうかを試すために質問する。質問のための質問だ。
 質問のための質問のような「からっぽ」が許されるのは、語学の場面だけである。日本にいる外人だって、生活しているのだ。生活の場面を勝手に語学の場面 に変えることは、ぶしつけなことである。そして、こういうことをするのは、たいてい語学の場面で、「からっぽ」をきちんと生きるということをしない人たち である。
 まあ、相手になる外人にもよる。大して意味もないことでも、なんだかんだ話しているだけで楽しいという人もいるのだから、そういう人は迷惑だとも思わないかもしれない。
 しかし、そうじゃないやつもいるのだ。
 私の外人の友だちが言っていたことがある。日本人が話しかけてくれば、同じことしか聞かない。「どこの国から来たか」「日本の食べ物は何が好きか」「何 歳か」「納豆は食べられるか」などなど。「納豆は好きかと聞くやつに、納豆はどうやって作るんだと聞き返す」とにやにやしてどこかへ行ってしまう。蝿みた いなやつらだ、と。こいつは、日本にいても日本語が上達しないような頑固なやつなので、特別な例かもしれない。日本にいて英語をやることがどれほどの困難 を秘めたものかなど、気にもかけていない。どっちもどっちだと言えないこともない。
 何が言いたいのか。生活で話す言葉が空っぽであることは許されないが、語学では空っぽが常態なのだということである。
 生きた英語、生きた表現などという言い方があるが、片っ端から嘘だと思うのがいいと思う。私はひとまずは言葉をその通りに受け取るので、生きた英語とい うものは、生きた英語の磁場における英語だとしか考えない。それ以外の英語は、すべて「死んでいる」。単純にそう思っている。
 日本で英語を語学とする場合、ほとんどの場合、複製技術によるものを相手にすることになる。本(テキスト)が印刷技術という複製技術によるものであるの は言うまでもないが、他に、映像複製技術(映画など)、音声複製技術(CD教材など)など、要は複製技術が複製したものを相手に語学をやることになる。こ れは、決して「生きた英語」なんかではない。それどころか、みんな片っ端から「死んだ英語」なのである。
 複製技術が生み出すのは、おびただしい死なのだ。本屋さんから、本を一冊買ってくることは、死を一冊買ってくることなのだ。
 日本で普通に英語をやることは、死をどう扱うかという技術になる。
 複製技術が生み出す死をどう扱うか。つまり、複製技術による死のお弔いであるから、日本で英語をやるということはお葬式をやることである。お別れするこ とである。何にお別れするのかと言えば、複製技術による死にお別れする。普通のお葬式なら、人が死ぬからお別れするのだが、複製技術による死は最初から死 なのだから、こちらが何もしなくてもあらかじめ死んでいる。それが死んでいるからといって、じゃあ、さようならとテキストやCD教材を放り出したのでは、 お別れしたことにはならない。それは、ただ放り出しただけのことだ。



【8258】
【タイトル】転写(6)
【 日時 】04/01/01 22:06
【 発言者 】根石吉久

 普通のお葬式なら「南無阿弥陀仏」を何度も唱えたりするだろう。これは宗教によるお葬式だからそうなるが、私らがやろうとしている語学によるお葬式では、同じ英文を何度も何度も唱える。「繰り返し」という一点だけ同じだ。
 違うのは人のお葬式では、一人の人を「あの世」へ送ればいいのに対して、語学というお葬式では、無数の死を次々に扱い、「この世」で生きるものに変えてしまう点にある。
 私の提唱する「回転読み」は、「南無阿弥陀仏」を唱えることに非常によく似ている。同じことを繰り返し繰り返し言い続けるという点において非常によく似 ている。しかし、はっきりと対立する性質もある。「南無阿弥陀仏」を唱えるコツは、小声であまり明瞭でなくぼそぼそと言うことだが、「回転読み」はここが まるで違う。「もっとはっきり、もっと強く」と語学葬式のコーチである私は生徒さんによく言う。明確なアーティキュレーションを備えろと言う。これは、絶 対に「南無阿弥陀仏」のお葬式ではやってはならない。ただ単に変な人になるだけである。明確なアーティキュレーションを備えた「南無阿弥陀仏」は不気味な ものだ。
 しかし、これは語学のお葬式ではやっていいのだ。やらなければ駄目なのだ。「強く、はっきりと」口を動かし、ひたすら同じ文を繰り返し言い続ける。激烈 にやっていい。なぜ、強くはっきりなのか。なぜ激烈になのか。あらかじめ死んでいるものを生き返らせる逆葬式だからだ。語学は逆葬式だ。死んだものを片っ 端から生き返らせる行為だ。

.繰り返し

 複製技術による「死んだ英語」を、國弘方式であるなら「只管朗読」「只管筆写」で、素読舎方式なら「回転読み」「回転書き」で、身体化し、逆葬式をとりおこなう。死物を激しい身体化によって、生き返らせることを行う。これを貫く原理は、「繰り返し」である。
 この「繰り返し」が初心者にとっては、絶対に不可欠なものなのだが、なかなか人はこれをやらない。やっても、数回の繰り返しで止めたりする。思う存分に 「繰り返す」、英文が自分の中で質的な変化を起こすまで「繰り返す」。こういう作業が必要なのである。國弘正雄さんは、五百回、千回という数字を提示して おられる。これが思う存分に繰り返すときの具体的な数字になるだろう。笹野洋子さんという方は、最低五十回と言っておられる。一方が「思う存分」、一方が 「最低でも」ということであるから、どちらも的を射た数字だと思う。
 私は、「電話でレッスン」というものをやっていて、復習範囲のテストを常時行う。「復習範囲を手放さない」という原理を一つ置いてあり、レッスンによっ て「繰り返し」が生じるようにシステム化してある。生徒が「繰り返し」を繰り返すように、テストを繰り返す。いずれにせよ、原則は「繰り返し」なのであ る。「通じる音」の「音づくり」を兼ねた「繰り返し」なのである。
 「繰り返し」が必要な理由は、日本には英語の磁場がないという一事に尽きる。あるいは英語圏のように英語の磁場においてでも、語学では「繰り返し」が必 要であるのかもしれないが、日本で英語をやる場合に比較すれば、はるかにその必要は少なくて済むのではないだろうか。これは、日本にだけ住んで英語をやっ てきた経歴を身上としている私には、正確なところはわからない。
 いずれにせよ、日本にいて英語をやる場合は、自分が日本語に取り囲まれ、日本語を日々使いながら英語をやるのだという絶対的な条件を自覚する必要があ る。英語の側から見れば、日本語は英語を簡単に錆びさせる強力な酸なのだということを自覚する必要がある。この酸を日々浴びながら英語を作り英語を持ち続 けるのであれば、酸に逆らう作用をもつ何かが必要である。それが「繰り返し」なのだ。それしか、「酸化」に抗する「還元」作用はない。



【8259】
【タイトル】転写(7)
【 日時 】04/01/01 22:09
【 発言者 】根石吉久

 「繰り返し」だ、「繰り返し」だと「繰り返し」書いているから、しつこいやつだと思う人が必ずいるだろうと思うが、「繰り返し」は繰り返し繰り返し必要なのだと、繰り返し言っておこう。しつこさは語学に絶対に必要なものなのだから。
 「繰り返し」は馬鹿くさい。馬鹿くさいので、馬鹿にしやすい。そして、実体は死んでいるもの(複製技術によるコピー)を「生きた英語」であるなどを信じ てしまう。あるいは、英会話学校の英語ネイティヴの英語が「生きた英語」であるなどと信じてしまう。あの英語も個人の英語としては生きているが、英語の磁 場から切れた英語という意味では死なせる力の元にまだ生きている英語に過ぎない。彼らが自分の英語を生かしておくためには、日本語から遮断されたミニ社会 を作って、そこだけで生きる必用がある。本当に日本語の磁場と交わり、日本語が上達してしまうような英語ネイティヴの英語は、徐々に死に続けるのである。 それほどに日本語の磁場は個人の英語に対して異質であり、強力なのである。しかし、そこまで自覚している日本在住の英語ネイティヴがどれほどいるというの か。
 教室というところは、シミレーションしかできない。教室を単なるおしゃべりの会の場所にしてしまう外人教師もいて、これならシミレーションではなくなる が、先生一人に日本人多数なら、まずはそこは英語の磁場ではない。ということになると、英語の磁場ではないところにある英語だから、「生きた英語」ではな い。外人一人だけが、故郷の磁場の磁力を身から放出するだろうが、もうそこは英語の磁場という場ではない。
 教室をおしゃべりの場に変えてしまうようなふとどきな外人教師の教室に通っても、生徒の英語が上達しないのは、そこがもはや磁場ではないからである。

 「繰り返し」問題に戻ろう。
 「繰り返し」は退屈であり、馬鹿くさい。だから、それを馬鹿にする人はたくさんいる。
 私の生徒さんにもそういう人がときどきいる。五百回も千回も繰り返すなんて、宗教じゃあるまいに、と言うのである。英語はもっと生き生きとしたものだ、 と言うのである。そういう人は、「生きた英語」とか「生き生きとした表現」とかを信じてしまっているので、語学は死物を扱う行為であるという私の考えとは まっこうから対立する。
 「生きた英語」とか「生き生きとした表現」というものがないというのではない。それはあるところにはある。それは英語の磁場にだったらあるのである。 「生きた日本語」とか「生き生きした表現」が日本語の磁場にあるのと同じように、英語の磁場には英語のそれがある。それはいつも、その言語の磁場の中にあ り、その磁場の中にしかない。だから、日本語で日常を暮らしている人の場所では、英語の「生き生きとした表現」というものは、たいていは複製技術による複 製物の中にしかない。例外は、英語のよる文学表現というものだけだ。本というものは不思議で、時と場所を越える。それは、文学の力であって、語学そのもの の性質とはひとまず関係はない。

 「繰り返し」を馬鹿にした人の英語はまずとうていものにならない。「繰り返し」を馬鹿にしてしまうということは、日本には英語の磁場がないという厳然たる事実を馬鹿にしてしまうのと同じなのである。
 「繰り返し」を馬鹿くさいように思う人は、「何かいい方法」を探す。そういう人は、何をどう言っても「何かいい方法」を探す。探してさまよう。やらせて おくしかない。一生探していろと言っておけばいいだけだ。しかし、一応の親切を示すために、断言をもうひとつ置いておくくらいはすべきだろうか。
 「何かいい方法」を探して、それをちゃんと見つけられた人は何をみつけるのか。「繰り返し」をみつけるのだ。それが最上の「何かいい方法」なのである。とりわけ日本で英語をやる場合においては、これは絶対的なのである。

 さまよいたい人の前には、断言を置くことしか他にすることはない。縁なき衆生なのであるから。



【8260】
【タイトル】転写(8)
【 日時 】04/01/01 22:13
【 発言者 】根石吉久

 日本で英語をやって、「繰り返し」を排除して、英語をものにした人がいたらお目にかかりたい。そんな人は一人だっていないはずである。だったら、これはもう法則と言っていい。「繰り返し」は、誰にも無視することのできない語学の法則と言っていい。


以下、未掲載

.状況

 言葉の回りには状況があると言えばいいのか、言葉は状況とともにあると言えばいいのか。
 状況といったからといって、何も特別な事態や、政治的な事件やらをさしているわけではない。「腹が痛い」とか、「医者は遠いから車で連れていってやろ う」とか、「ケーキが潰れちゃった」とか、「潰れたケーキでもいいから俺にくれ」とか、「今朝顔を洗うのを忘れちゃった」とか、「ああいいお天気だなあ」 とか何でもいいが、これらの各種の言葉が発せられるところに、いつも何らかの具体的な状況があると言っているにすぎない。それが、現実の状況であろうと、 想像的な状況であろうと・・・。

 例えば、「腹が痛い」である。
 どこで、いつ、誰がなど、具体的な細部がわからないままに、とにかく一人の人が「腹が痛い」と言っているという事態は「想定」できる。
 私は、「腹が痛い」という言葉を、言葉と状況の関連を説明しようとする文の中に、文字として書いた。読者の中に何かの状況が想定されたとしたら、文字と して固定された「腹が痛い」が喚起したものである。実質は書き言葉が読者の意識にもたらした「想定」であるが、「腹が痛い」を取り囲むカッコの存在によっ て、書き言葉を話し言葉として「想定」する人が多いかもしれない。
 これは、具体的な人から面と向かって言われた言葉ではないし、読者が何か実際の状況の中にいるわけでもない。ここにあるのは、「想定」だけである。それがどんなものであれ、それは「想定」にすぎない。状況そのものではなく、状況の「想定」なのである。
 だから、おそらくこの「腹が痛い」には何の切実さもない。
 腹が痛い現実の当人にとって、「腹が痛い」は切実な言葉であるだろうが、状況を想定させるきっかけとしての「腹が痛い」には切実さはともなわない。

 「腹が痛い」がもたらす「想定」に切実さがともなわない事情と似た事情が、あらゆる語学の言葉にある。
 本当に腹が痛い人が「腹が痛い」と言っているとき、それは生活言語である。切実な生活言語である。もしも、腹が痛くない場合に「腹が痛い」と言っているのであれば、それも生活言語であるかぎり、嘘として本物である。嘘という実質がある。
 語学で扱う「腹が痛い」は嘘でも本当でもない。語学の世界には嘘とか本当というものはない。仮のものというものがあるだけだ。いったん語学の世界に入っ てしまえば、英語の音として通用するかどうかとか、イメージ自体として真であるか偽であるかという問題はあっても、現実世界の嘘と本当というものは一切何 も関与しない。嘘であるか本当であるかが一切関与しないということをさして、語学は「からっぽ」なのだと言ってもいい。
 「腹が痛い」が語学の対象になったとたんに、切実さは完全に「からっぽ」になる。すべては想定されたもの、あるいは想像されたものにすぎなくなる。あら ゆる文が、語学の対象となったとたんに、「からっぽ」になるのだ。あらゆる文を「からっぽ」にするのが、語学なのだと言ってもいい。「からっぽ」という性 質こそが、語学における言葉の本質規定となる。



【8261】
【タイトル】転写(9)
【 日時 】04/01/01 22:16
【 発言者 】根石吉久

 (これの唯一の例外が、外国語による「読書」であろう。これは机上の世界におけるものであるし、生活過程そのものではないし、語学力を養うことがあるの で、語学に含めたくなる。厳密には読書は読書であり、語学は語学だが、読書と語学の境界はいつもあいまいである。読んで楽しみながら、言葉を覚えるという ことが成立するからである。)



【8262】
【タイトル】転写(10)
【 日時 】04/01/01 22:22
【 発言者 】根石吉久

 語学の言語が状況を想像させるのは、そこに本当の状況が「ない」からである。「ない」から「想像」「想定」することが必要になるのだ。
 生活言語では、状況は想定するまでもない。状況は、想定するまでもなくすでにある。生活言語において必要なのは、状況自体の想定や想像ではなく、状況に対する判断である。これは決定的な違いである。
 生活言語にだって「想像」や「想定」はあるぞと言う人がいるかもしれない。話の途中で、「だけど、お前、ちょっと考えてみろよ」と言われて、何かを思い 直した人がいたとする。それは、ちょっと考えてみろよと言われて、何かを想像したり、想定したりして、思い直すということをしたのだから、生活言語にも 「想像」や「想定」はある、と。
 しかし、この場合でも、現に話している場の状況自体は想像されたり想定されたりすることはない。それは、想定するまでもなく、想像するまでもなく、現にそこにある。現に自分が生きている場であるから、想定はできないのである。

 生活言語というものはそういうものだ。生活言語においては、ある一つのことは「想定」されることがないのだ。「想定」されないその「一つのこと」とは、生きている場そのもののことである。

 語学がただちに「想定」するものを、生活言語は決して「想定」しない。

 そこを生きることと、そこを想定することはまるでうらはらなものである。これは両立しない。

 逆に言おう。語学には、「想像」や「想定」しかないのだ。とりわけ、最初からその文にまつわる状況そのものを「想像」したり「想定」する必要が生じるのが語学である。あくまでも仮の世界だから、「状況」でさえも「想定」する必要がある。
 ここから何が導かれるか。語学とは、「状況」さえも「想像」「想定」するような、何から何までも、「想像」「想定」だけでできた世界なのだということである。意識の暴力である。

 どしゃぶりに雨が降っているときに、部屋の中で英語を勉強している人が、It's a beautiful day, isn't it? という文を繰り返し言い続けているとする。その人の想像の中では、青空が広がっていたりする。現実はどしゃぶりだが、語学の机上には青空が広がる。まるで うらはらである。これが、生活言語と語学の言語の間にある「うらはら」な関係である。

 生活言語と語学の言語との間には、生きたものと死んだものとの間の距離に等しいほどの距離がある。距離として考えるなら、ひとまず無限大と言うしかない。生と死の間の距離を無限大と言うならばそうなるだろう。
 一方が実であれば、もう一方は虚なのである。どちらが実であり、どちらが虚であるかは、時と場合による。生活言語が実であると言い切るわけにはいかない。それではアメリカ的浅さにしかならない。

 ここから、語学の言語の「からっぽ」という性質が導かれる。
 これが、語学の言語の本質規定なのだということに気づいている人はあまりいない。語学とは死を扱うことであるとか、虚を扱うことなのだということが本当 に認識できているならば、人は決して英会話学校などに通うことはないだろう。「生きた英語」などにだまされることはないだろう。しかし、現実を見るなら ば、だまされる人は後をたたない。語学の言語が「からっぽ」であるとは思っていないのである。語学が死を扱う技術なのだと思っていないからである。



【8263】
【タイトル】転写(11)
【 日時 】04/01/01 22:25
【 発言者 】根石吉久

 どんなに生き生きとしたイメージでも、それはからっぽである。一人の人間の意識という場所では、それがなまなましかったり、生彩を帯びていたりするだろ うが、それがどれほどなまなましかろうと、生彩を帯びていようと、それは一人の人間の意識という場所に閉じられている。単に閉じられているだけでなく、現 実の状況とは何の関係もないままに、なまなましさを増したり、生彩を帯びたりもする。現実の状況と「ひとまず」何の関係もない想定や想像がイメージをもた らすのであるから、語学で強く作り出されるイメージはすべてことごとく「からっぽ」である。ひとまずは、「からっぽ」である。



【8264】
【タイトル】転写(12)
【 日時 】04/01/01 22:28
【 発言者 】根石吉久

塾の塾・学校の塾・素読舎「電話でレッスン」
  英語、音づくり、シンタックス内在化・醸成

 後で、掲示板の記事から引用のこと。(ALTに「音づくり」はできないことについて)
 

・塾の英語の先生たちからのすばやい反応

 素読舎が「電話でレッスン」を始めて満3年がたちました。これは、長距離電話の電話料金が安くなったので始められたことでしたが、その後、素読舎のホー ムページ、根石吉久の掲示板「大風呂敷」http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs などを読んで問い合わせてくださる方が増え、現在では「電話でレッスン」が素読舎の活動の太い柱になっています。
 初めて、受講してくださったのは、名古屋の自宅で塾をやっている主婦の方でした。塾をやっておられる方や塾に勤めて英語を教えておられる方の受講申し込 みはその後も続き、札幌の塾講師の方、奈良の塾経営の方、大阪の塾講師の方など、現在も受講を続けていてくださいます。いずれも、英語を教えている「塾の 先生」たちですが、根石吉久が提唱している「音づくり」を塾の授業の中で活用しておられます。特に札幌の塾講師の方は、「このレッスンのやりかたを、塾の 授業で使っており、非常に役に立てさせてもらっています」とおっしゃってくださいました。

・学校の英語の先生に対するレッスン

 また、学校の先生からの受講申し込みもあり、根石吉久が小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」を出した直後に、この文庫を読まれた京都府立の高 校の英語の先生から「電話でレッスン」の受講の申し込みがありました。この方は発音が非常に上手な方でしたが、「音」と「意味」が一緒に動かないという自 覚をはっきり持っておられ、通常のレッスンの他に、「音」と「意味」を一緒に動かすための練習方法をお伝えしました。レッスンの途中で、「ああ、こういう ことか」と大きな声を出されたことがあり、なにごとかコツをつかまれたはずだと思います。レッスンを始めて1年ほどたった頃に、TOEIC の得点が一挙に100点以上伸びたこともめざましい成果でした。
 長野県立の進学校の英語の先生には、根石吉久の方から受講をお勧めしました。
 掲示板から引用した文にあるような例ばかりでなく、AETがらみの喜悲劇をよく耳にするようになったので、「電話でレッスン」の高校生の生徒に、「あな たの学校に音に問題のある先生はいるかね」と聞いたところ、「○○先生は受講した方がいいと思う」というので、電話番号を聞いて電話をさしあげ、「音づく り」のやり方がわかるレッスンがあるのだがというお話をさせていただきました。「考えさせて下さい」ということでしたが、一週間ほどして、「受講させて下 さい」とご返答くださり、レッスンを開始しました。
 レッスンを開始して1年ほどは苦労されましたが、その後はめざましく「音」が変わり、現在では、学校の教室で「音づくり」を開始されてもいい「音」に なっています。「こんなふうに同じことを何度も何度もやっていて何になるんだろうと思っていましたが、このやり方が効果があるのがようやくわかりました」 とおっしゃっていただいたのは、レッスン開始後、やはり一年以上たってからでした。
 最近、レッスンを開始されたのもやはり高校の英語の先生です。佐賀県立の進学校の先生で、発音は非常に上手で、根石吉久の唱えている「ア系列」の区別の 仕方についていくつかお伝えしただけで、個別の発音に関してはレッスンすることがなくなってしまいました。今後は、教室での「音づくり」のやり方を主体に レッスンしていこうと考えています。また、発音のようにその場で即座にわかるという性質のものではありませんが、「シンタックスの内在化とその醸成」につ いて知っていただく予定です。この方は、私の「音づくり」という考え方をよく理解されている方で、来春から教室で、「技法グラウンド」をベースとして生ま れた「5分間音づくり」も始められる予定です。



【8265】
【タイトル】転写(13)
【 日時 】04/01/01 22:33
【 発言者 】根石吉久

・小学校への英語導入

 小学校に英語が導入されたこととも関連してか、小学校の先生の受講者が二人おられます。一人は根石せいの生徒であり、一人は根石吉久の生徒です。文部科 学省は、小学生の英語では、「発音について細かいことをいわなくてよい」という方針を打ち出していますが、これによって生徒に間違った発音が固定すること の害にはまるで触れていません。小学校の先生が間違った発音で英語を扱うのは絶対にやめて欲しい。その後の生徒の英語にとって、大きな害になります。文部 省の方針が間違っているのです。「電話でレッスン」を受けておられる小学校の先生たちのように、積極的に自分の「音」を変え、その「音」の変化の過程を小 学生たちに提示できるような先生が増えて欲しいものです。こうすればこういう音ができるし、こうすればこういう音になる、というように、「音」のコツとそ のコツによる変化を小学生に提示できるようになってもらわないと先生たちの間違った「音」は害になります。
 「電話でレッスン」を受講してくださっている小学校の先生たちは、今後、もしも小学校への英語の導入が定着した場合に必須項目になるはずの英語の「音」に気付かれた先駆的な方々だと私は考えています。

・本当に必要なのは中学での「音づくり」

 高校の英語の先生が三人、小学校の先生が二人と書いてきて、中学校の先生がいないことに気づきました。中学校の先生は、いわゆる「生活指導」とやらに忙 殺され、自分の英語を鍛えることも、生徒に「音づくり」をさせるような余裕もまったく見つけだすことができないのではないかとも推測しています。しかし、 中学の3年間こそ、本当に大事な時です。この期間にまともな「音づくり」に触れたことのある生徒とそうでない生徒とでは、その後の英語がまったく別ものに なってしまうと言っていいほどに大事な期間です。
 現在の中学では、中間・期末のテストに合わせて授業をするような倒錯が常態化してしまっており、英語でもそうなっていますから、本格的な「音づくり」を 中学3年間の中に設定することは極度に困難なことにもなっています。ですから、実際の中学の英語の授業では、「音づくり」などは行われていません。日本人 の英語が「使いものにならない」ことの根がそこにあります。
 高校の先生は高校の先生で、中学で間違った音が固定してしまうので、高校になってからではなおさらどうしようもないとおっしゃいます。特に進学校では、 大学入試用の知識の量がとてつもないものなので、とても「音づくり」どころではないというのが実際のところなのです。そして、生徒たちは、膨大な知識を 「間違った音」と結びつけていってしまいます。「使えない英語」が再生産されていくのです。
 中学校の先生が、「音づくり」の方法を学んでくれないと、この巨大な無駄は止まる時が来ません。現在の学校では、無駄が強制されています。中学校の先生 で、生徒に対する「音づくり」の方法がわからないという方は、素読舎の「電話でレッスン」を受講なさることをお勧めしたいと思います。他に類のないレッス ンだと自負しています。
 ただ単に生徒の間違った音を指摘するだけでは駄目なのです。先生がまともな「音」が出せるというだけでも駄目なのです。「音づくり」というくらいですか ら、実際に「音」が作れないとならない。自分の口で「音」が作れるだけでなく、実際に「生徒の口の動きとして」実現しないと意味がありません。この一点か ら見るならば、大学の英語科教員養成課程における「音声学」などはほとんど何の役にも立ちません。それが役にたつものであれば、わざわざ素読舎が独自に 「音づくり」の方法などを開発する苦労はなかったのです。
 実際は大学の「音声学」が授業の役にたちませんので、素読舎は長い時間をかけて「音づくり」を追求し、それをそれほど多くはない発音上のポイントとして定式化しました。



【8266】
【タイトル】転写(14)
【 日時 】04/01/01 22:35
【 発言者 】根石吉久

・突破口「5分間音づくり」

 どうしようもないほどの閉塞感が学校の英語にはあります。どこかに小さな突破口が作れないかと考えて、素読舎は、「電話でレッスン」を受講しておられる 学校の先生、塾の先生たちに向けて、「五分間音づくり」を提唱しています。これは、「電話でレッスン」で行う「技法グラウンド」という練習方法を、学校や 塾の教室で一人の生徒に対して行い、「音」を変えるためのコツを言い、クラスの他の生徒たちに、実際に「音」が変わるのを聞かせた後に、一斉練習の時間を 与えるというものです。毎回の授業でわずか5分あれば、連音処理を含む発音のポイントを一つずつ扱っていくことが可能です。5分なら、現在の学校体制の中 ででも、すぐにでも実行できるでしょう。最低でもその程度のことに着手していってもらわないと、日本の「使えない英語」の再生産は止まることがないでしょ う。
 そして、その動きの第一歩として、現場の英語の先生たちに「音づくり」のレッスンを受けていただくことが必用です。素読舎の「電話でレッスン」はその目的のためにも開かれています。

・大学の先生の発音

 これまで学校の先生の発音を扱ってきた経験から推測すれば、大学の先生にも「音」を直す必要のある方は沢山おられると見ています。日本の学校制度の中 に、柴田武史さんのおっしゃる意味での「音作り」、根石吉久の言う意味での「音づくり」というものがどこにも見当たらないので、発音の上手な方も勘に頼っ て自分の発音を作っているだけという方が圧倒的多数だと思われます。
 特に、「ア系列」と名付けている母音の区別については、「狭い音」「あごの下がる明るい音」「金属音(一瞬般若)」という3つを意識的に区別し、いった んは他とまぎれない音とするという練習をしたことがない場合は、それぞれの音の境が意識されていない場合があるでしょう。根石吉久の「音づくり」の特徴 は、「ア系列」の母音をこの3つに大きく大別すること、曖昧母音と逆さVの区別は後回しにすること、連続音の処理(リエゾン、音の消失)を絶えず同時に扱 うことなどにあります。子音の単音などがすべて仕上がっている発音の上手な学校の先生方でも、これらのポイントのいくつかに関してはこれまでのレッスンで 触れる必要がありました。
 英語の歌を英語に入るきっかけにされたような方は、音をまるごとでとらえているので、私などよりはるかに発音の上手な方もおられます。また、中学生くら いの生徒では、私が指摘するポイント(全部で20程度)をすべてクリアしてしまった後、CDなどの複製音声を使って練習し、私より上手になってしまう生徒 もよく出ます。「生徒は私より発音が上手でね」と私が話すと人は笑いますが、私の役目は、15〜20程度のポイントに関して、それをどういうコツとして渡 せば、生徒がその音を自分の口の動きとして実現できるかという守備範囲を徹底的に守ることにあると自覚しています。15〜20程度のポイントをすべてクリ アしてしまった生徒は、どんどん私より上手になって羽ばたいてもらいたいと思っています。
 その15〜20程度のポイントをすべてクリアしてない大学の先生はいるのだろうか。いる、と私は見ています。
 それをすべてクリアしている生徒さんが現れた場合はどうするのか、と私は考えました。それでも、まだお伝えすることはある。15〜20のポイントをどう いうふうにコツとして生徒に渡すのか、その渡し方に関してならレッスンはできます。現に、最近生徒さんになってくださった佐賀県の高校の先生は、1ヶ月も しないうちからその段階に突入されました。
 もう一つ、発音の問題ではなく、シンタックスの内在化・醸成に関して、「復習範囲を手放さない」という原理を一つ置いてありますが、これが何をもたらす のかを知っていただくということもあります。これは、素読という古い方法を根底にしているものであり、学校の教室のような一律授業とは実に相性の悪いもの です。しかし、「学校以前」の方法・「江戸の方法」が持つ豊かさを備えており、「こなれ」を「醸し出す」という作用が個人の練習だけでなく、一対一の 「レッスン」の中に働いています。



【8267】
【タイトル】転写(15)
【 日時 】04/01/01 22:38
【 発言者 】根石吉久

 「音」に大きな問題がある方については、「電話でレッスン」での練習は「音づくり」がしばらくの間主体になりますが、「音」に問題がない方の場合は、 「音づくり」のコツをどう生徒に手渡すか、内在化させたシンタックスをどう醸成し、インプットで使用した回路をアウトプット用にどう変換させるかなどのポ イントがレッスンの内容になります。
 近代以後の「学校」が、「学校以前の素読」をどう受け止めるのか、あるいは排除しつづけるのか、その瀬戸際の水の流れをみつめてみるためにも、大学の先生のレッスンもお受けします。すでに短大の先生のレッスンはお受けしています。

・方法のエッセンスと独学の組み合わせ

 「電話でレッスン」というと、電話で何ができるのか?と思われがちです。週1回、毎回わずか30分のレッスンですから、そう思われてしまうのも無理はな いのですが、このレッスンの方法は長い時間をかけて練り込まれた果てに生まれたものであり、毎回の30分のレッスン時間では、その方法のエッセンスだけを お伝えしていきます。実際に力をつけるのは、生徒さん各自の一週間の間の独学にあります。この独学の間に、レッスンで受け取った方法的エッセンスを駆使し て練習していただきます。次回のレッスンでは、その独学の成果をコーチがチェックし、成果に応じて新しい部分のレッスンを行います。レッスンでエッセンス を伝えることと、独学でそれを駆使していただくこととの組み合わせによって、各自の英語力は大きな変化をみせてくれるようになります。週1回、わずか30 分のレッスンが生徒さんの英語を大きく変えることが可能であり、それはすでに実証されています。
 根石吉久の掲示板「大風呂敷」
http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs
においでになれば、現在の生徒さんの声を耳にすることもできます。

 素読舎の「電話でレッスン」は、とりわけ、学校の先生、塾の先生たちにとって、週1回わずか30分のレッスンで、自分の英語を変えるだけでなく、生徒に対して「音づくり」をするための方法がわかるというのが大きな利点です。

・文部科学省の「音づくり」軽視

 学校の英語に対する批判はずっと続いていますが、学校はなかなか変わりません。特に問題があるのは、文部科学省が「音づくり」を非常に軽視してきたこと です。先に、「小学校の段階では、音を細かく扱う必要はない」という文部科学省の方針について書きましたが、「小学校の段階では」どころの話ではない。文 部科学省が、いつどの「段階」で「音」を大事にしたことがあったというのでしょうか。中学でだって、高校でだって、文部省が英語の「音」をまともに扱った ことなど一度もありません。「音声教育は大事」だと言ったことはあるかもしれませんが、単にお題目を唱えただけであり、何をどうするのかに関して、大学の 教員養成課程を通じて具体化したためしは一度もありません。文部省に一貫してきたのは、英語の「音」に関していいかげんな態度をとりつづけて放置してきた ということだけです。

 掲示板から引用した記事でも明らかですが、この先生はAETから間違った音を指摘されただけではなかったのです。「音づくり」を経験していた素読舎の生 徒も、その先生の「音」が間違っていることははっきりと感知していたのです。日本人の生徒は先生の音の間違いを指摘することはないでしょうが、それでもそ れが間違っていることはきちんと感知していた。今後、AETと生徒の両方から、挟み撃ちにされていく日本の英語の先生の間違った「音」というものは、ます ます逃げ場がなくなっていくはずであろうと思わざるをえません。



【8268】
【タイトル】転写(16)
【 日時 】04/01/01 22:40
【 発言者 】根石吉久

 それはまた、「音づくり」をやらない英語の授業というものが、だんだんごまかしがきかなくなっていくだろうということでもあるだろうと考えています。素読舎に遊びにくるALTたちの言うことを聞いていても、はっきりし始めている傾向です。

・「音づくり」を兼ねて音読をやる塾が増えないと駄目。

 学校がなかなか変わろうとしないことを横目ににらむなら、現在、もっとも可能性があるのは塾です。塾の先生たちに、「音づくり」のやり方を身につけても らうことが早道だと思うのですが、受験用の塾では、既存の学校の授業と同じように、「5分間音づくり」程度のことしか可能ではないかもしれません。いずれ にせよ、学校の先生も塾の先生も「音づくり」に関してはどう手をつけてよいかわからないでいるのが現状です。個人塾で英語の「音」を大事に扱おうと考えて いるところがあれば、そういう塾がこういう現状に対しての突破口になるでしょう。素読舎は、その突破口になろうとしています。
 学校英語や受験英語にまともな「音」を緊密に噛み合わせることを、小さい個人塾をやっておられる方々には真剣に考えていただきたい。生徒の英語の命運に おいて、この「噛み合わせ」が絶対に必要なのです。この条件を整えたうえで、大学以後、英語の磁場(英語圏)でできたら数年暮らすことを組み合わせるな ら、日本人は英語が使えるようになります。
 社会人になってから、英語のために海を渡るというのはなかなか難しいことになりますので、できれば大学生である間に一年程度の海外で生活するというのが現実的かもしれません。

  ◆中学でのまともな「音づくり」(連音処理、イントネーションの自己決定力を含む)
  ◆高校・大学受験での知識量と「音」の緊密な噛み合わせ
  ◆少なくとも1年程度の英語圏での生活

 この3つの条件が備われば、日本人は英語が使えるようになるでしょう。学校がこのうちの『中学でのまともな「音づくり」』をやらないのであれば、民間で 学校を包囲してしまうしかないのではないでしょうか。つまり、大小の塾がまともな「音づくり」をし、生徒が自分で知識と「音」を噛み合わせることを可能に してしまうしかないでしょう。
 しかし、大手の塾のほとんどが「進学塾」「受験塾」であり、入試で点をとることに焦点を合わせています。従って、こういう塾に「音づくり」を導入するこ とは、学校の教室に本格的な「音づくり」を導入するのと同様に困難を極めることになるでしょう。こちらに関しては、「5分間音づくり」の導入がせいぜいと いうところでしょう。
 また小さい塾でも、最初は「5分間音づくり」から入られるのが安心かもしれません。生徒の「音」が「通じる音」としてできてきた場合に、それが知識と緊 密に組み合わされた場合に立ち上がる英語というものが、これまでの受験英語、学校英語とどれほど違うものかはっきりと見定めることができてから、本格的な 「音づくり」に着手されるのでも構わないと思います。学校の教室での本格的な「音づくり」については、柴田武史さんが、「音作りへの道」として、掲示板 「大風呂敷」http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs に連載された記事が、過去ログ倉庫 http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/ で読むことができます。これを参照されて、始められるのがいいでしょう。

・中学の教科書をすらすら読めるようにすること

 特に、「音づくり」を兼ねて、中学生を相手に、教科書の本文のどこを開いてもすらすらと読めるようにしてやることをやることが非常に大事です。塾でこれ を徹底してやるなら、学校の授業での理解は非常に容易になります。あるいは、塾や他のクラスでの知識を扱う授業の理解も容易になります。問題集を解こう が、教科書ガイドなどの解説書を読むのであろうが、理解が早まり、理解したものの消化がよくなります。教科書をまるごとすらすら読めるようにしてやるとい うのは、非常に手間のかかる仕事ですが、それが本当に生徒のための基礎を据えてやることになります。
 この場合、「和訳先渡し」をすべきです。和訳を先に生徒に渡せば、授業時間にかなりの余裕が生じますから、その時間を使ってどの生徒も教科書を全部すらすらと読めるようにしてしまうのです。
 高校の英語をやるにせよ、大学入試を受けるにせよ、TOEIC を受けるにせよ、実際に英語を使って仕事をするにせよ、中学の時に「まともな音」で教科書を全部すらすら読めるようにしておけば、あらゆることの基礎になります。



【8269】
【タイトル】転写(17)
【 日時 】04/01/01 22:42
【 発言者 】根石吉久

 中学の教科書をすらすら読めるようにするといっても、「間違った音」ですらすら読んでしまうと非常に危険です。それをやると「通じない音」が固定してし まい、後で直そうとしてもなかなか直りません。高校の先生が、中学で間違った音が固定してしまっているので、どうしようもないというのは、このことを言っ ています。どれほど中学の3年間の英語の「音づくり」が大事かを、塾をやる方々に考えていただきたいと願っています。
 「音づくり=文構造ごとのインプット」をやらない塾は、文として立ち上がれない断片的な知識を扱うだけになってしまいます。「使える英語」を作るしかな い。それが育つなら、大手塾の広告力に太刀打ちできるはずです。大手進学塾の乱立の中で、小さな英語塾が生き残れる道も、「音づくり=文構造ごとのイン プット」以外にはないでしょう。
 素読舎が大手塾の進出の中でつぶされないできたのも、「使える英語」を作ってきたからに他ならないと考えています。

・塾が学校を包囲するしかない

 特に、小さな塾をやっておられる方々に素読舎の「電話でレッスン」の受講を検討していただきたいと願っています。ご自分のレッスンは映画のシナリオを使 用しますが、このレッスンで「音づくり」の方法自体を身につけていただき、中学生の生徒に対しては、中学の英語の教科書をすらすら読めるようにしていただ きたい。その過程で、「音づくり」を兼ねるのが最適です。「電話でレッスン」はそれをやるための方法をお伝えできます。
 学校が動こうとしない現段階では、塾の先生が「音づくり」ができるようになり、「音づくり」をやる塾が増えて学校を包囲するしかないでしょう。それ以外 に、英語フリークから英語を奪い返し、英語を普通の日本人に開かれたものにするための突破口はないでしょう。いまや、英語を必要としているのは、英語フ リークたちではなく、普通の日本人なのです。それなのに、学校は動こうとしない。
 塾が学校を包囲するしかないと思われます。

 学校の先生を生徒として引き受けることは今後も続けますが、特に塾の先生たちからのお問い合わせを歓迎します。根石吉久の空き枠は現在ほとんどなくなっ ていますが、奈良県で英会話学校の先生をしてこられた方(日本人)に、ひとまず「電話でレッスン」の生徒になっていただき、方法の精髄をお伝えしつつあり ます。根石吉久のレッスン枠に空きがなくなった場合は、この方に生徒をお預けしてレッスンしていただくことになっています。

 この方のご紹介を少ししておきたいと思います。 Naima という名前で素読舎の掲示板「大風呂敷」http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs に書いて下さり、根石の方法を種々に試していてくださっています。
 これまでの記事で特に面白かったのは、Naima さんのドイツ語経験です。Naima さんは、数年ドイツに暮らしてドイツ語の学校に通って練習を続けておられましたが、途中から根石吉久の「英語どんでん返しのやっつけ方」(小学館文庫)を ドイツに持参され、そこに提示された方法のうち、特に「回転読み」をドイツ語の練習に使ってくださいました。ドイツから日本の掲示板に書かれた記事の中 で、「私は今まで何をしていたんだろうと思いました」と書いてくださったのです。「『回転読み』を当該言語の磁場で行うなら、非常に力がつきます」という 主旨のことも書いて下さいました。この記事はまだ、独立したものとして過去ログから抽き出されておりませんが、掲示板「大風呂敷」の貴重な記事のひとつで す。



【8270】
【タイトル】メール転写
【 日時 】04/01/01 22:45
【 発言者 】根石吉久

年末にいただいたメールにうれしいものがあったので、転写します。
----------------------------------------------------
根石さん

来年もよろしくお願いします。
今大学入試の500語程度の長文を1パラグラフ(60語程度)ずつ回転読みをして
います。
10語くらいの分を5分で技法グラウンド連続5回出来るようになったのは700と
ゴーストのさわりをやって電話でレッスンをやったお陰だと感謝しております。特に
自分に関心のある文章なら60語程度のものならまとめて技法グラウンドができるよ
うになりました。しかも根石さんに最後の方のレッスンでアドバイスいただいたゆっ
くり確実に言えるところまで「スピードを落とす」というのが「ミソ」だと実感して
います。ゆっくり確実にはっきりと言えれば言えるほど「イメージ」が「内側」で動
いているのが実感できます。今回転読みの本当の楽しさを味わっています。もう電話
でレッスンを最初に受けたのがいつのことか忘れましたが、当時悩んでいた「音声と
イメージが無機的な感じ」がとれて「イメージと音声の同致」が起こっています。そ
れからやはり広辞苑に載っているかどうかどうでもいいことですね。つまり「一致」
より「同致」のほうが「イメージ」しやすいということです。
今年はNaimaさんにも根石さんのお陰で会えました。今後ともよろしくお願いします。



【8271】
【タイトル】根石吉久、國弘正雄に会う(1)
【 日時 】04/01/05 1:20
【 発言者 】根石吉久

 去年の12月に、年が明けたら長野市のホテル三景苑というところで、学校の英語の先生たちを相手に話をするので出てこないかという葉書を國弘正雄さんか らいただいて、今日その会に出かけてきた。國弘さんは、年寄りがここまで熱くなって大丈夫かと心配するくらいに顔を真っ赤にして、ブッシュのアメリカをこ きおろした。私は、もっと英語教育に即した話を期待していたので、終始、政治の話を聴きながら、まあしょうがねえかと思っていた。國弘さんは、欧米じゃ講 演予定の時間枠の半分は講演で、後の半分は質疑応答や議論になる。今日はそうしたいと話の初めに自分で断っておきながら、政治の話にどんどん興奮され、時 間枠のほとんどを自分の話で埋めてしまわれた。まあ、予定というものは狂うものであるから、それはそれでしょうがない。一応少しだけ質疑の時間があって、 質問があるかと司会者の方が言われたときに、私は手をあげなかった。どういう会か知らないが「新英語教育研究会」という会に呼ばれた國弘さんに最初に質問 するのが、その会と何の関係もない俺じゃまずいだろうと判断したからだった。最初に手をあげた年寄りの先生の質問はまるで要領を得ない。あれでよく國弘さ んは質問の主旨がわかるなと思ったが、國弘さんは質問の主旨がどうであれ、自分の政治思想をしゃべるので、話が噛み合おうが噛み合わなかろうが、どうでも よろしいらしく、とうとうとしゃべられ、また質疑の時間を縮められた。まだ質問があるかと言うので、俺が手をあげ、千曲市というところで素読舎という塾を やってきた者で、根石と言うが、あとどのくらい時間があるのでしょうかと司会者の方にお聞きしたところ、5分だというので、じゃあ、夕食会の時に質問させ ていただくと言い、腰を下ろした。そしたら、別の方が質問され、その質問に噛み合おうが噛み合わなかろうが構わず、國弘さんは再びとうとうと自説を繰り広 げられ、時間は予定をオーバーして終わった。
 夕食会で、韓国の人は日本人よりよっぽど英語ができるとお話の中で言われたが、韓国では英語「で」授業をしていると聞いている。英語「を」授業するので はなく、英語「で」授業をしていると聞いているが、というあたりから切り出して、國弘さんとサシで話し始めたら、まもなく國弘さんが東京に帰る列車の時刻 になって、俺はちょっとからんだだけでほっぽり出され、欲求不満になってしまった。國弘さんに今夜俺んちへ泊まっていけばいいじゃないですかと言ったが、 明日医者と約束があるから東京へ帰ると言われ、とんぼ帰りで帰られた。
 村田君が「大風呂敷」の過去ログから抽出してプリントアウトしてくれた國弘批判の文書は手渡せたからまあいいとする。それから、「只管朗読」と歯車を噛 み合わせなければならんのは、千田潤一のシャドウイングなんかじゃなくて、柴田武史の「音づくり」じゃないか。それは真剣に考えてくれと國弘さんに注文を つける話はできた。國弘さんも歳だから、後で葉書で柴田さんの連絡先を再度送っておくべきだろうと思った。
 で、言いたいことはまだ別にある。
 ホテル三景苑の料理はまずくはないが、量が少なく、一人4千円はねえだろ。ふざけんな、しょぼくれた量を出しやがって。なんで、学校の先生は、あんな程度の料理に4000円も払って文句を言わないのだ。頭へ来た、ホテル三景苑!
 皆さん、ホテル三景苑はとてもボリます。なんであんなところをよりによって選ぶかなあ、幹事さんは。しょぼくれたブルジョアジーはさすがにわしらとは違いますなあ。
 腹いせに、いつも「大風呂敷」に書いている通り、なんで学校は「音づくり」をやらねえんだと残った先生たちにからむ。お前、学校の何を知っているんだ、 知っていて言っているのかと國弘にわけのわからない質問をしていた年寄りがからみ返してきたので、あんた、じゃあ、音読だの「音づくり」だの本当に学校で やっているってのか、やってるんならあんたの授業を俺に見せてみろ、俺は本当に見にいくぞ、と言ったら、一瞬黙り、県名も学校名も自分の名前も言わずに、 学校の教師は苦しんでいるんだぞみたいなことに話を転じた。



【8272】
【タイトル】根石吉久、國弘正雄に会う(2)
【 日時 】04/01/05 1:21
【 発言者 】根石吉久

 やたらつまらない会であった。國弘さんから直接に葉書をもらわなかったら縁もない会だろう。しかし、最後まで部屋に残った二人の妙齢のご婦人の先生は、 興味深そうに俺がくだまくのを聞いてくださった。妙齢のご婦人、好き。それと、長野県の先生で須坂というところの学校の先生たちは、これからも話ができそ うだった。
 多くの男の先生たちは本当に閉じていて、神経質にすぐにビビる。
 村田君が「大風呂敷」のURLを書いた紙をホテルのフロントまで行ってコピーしてくれた紙を夕食会に残っていた先生方には手渡してある。どうか、「大風 呂敷」に出てきてまともに俺と喧嘩してほしいと願っているが、果たして出てきてくれるものかどうか。俺は本当にとことん喧嘩してみたいのだ。國弘を呼ん で、僕たちは自費でちゃんと研修をしているんだという自己満足でないものを、披瀝してみてくれ。
 話を聞いてくれた女の先生は、掲示板を見てみると言ってくれたが、見るだけでなく登場して欲しいものだ。
 國弘は自分のことを少数派だと言っていたが、俺なんざ、孤立派だわ。
 先生たち、喧嘩してくんねえんだもん。
 先生たちは、とても閉じている。
 さびし。
 さびしいまま、ホテル三景苑を出る。

 高校の英語の先生をやめてから、信州大学で留学生に日本語を教えている方と村田君と俺とで、別のホテルの喫茶室で10時過ぎまで話す。この方の話は、しみじみとしたいい話だった。今度、信州大学へお邪魔することをお約束して、ホテルの喫茶室が閉まるのでお別れした。



【8273】
【タイトル】また少し
【 日時 】04/01/05 1:29
【 発言者 】根石吉久

ここへの書き込みをさぼりますので、皆様で議論をお願いします。
私への批判があったら、やりかけの仕事を中断して登場いたします。
「ゴースト」の文法解析をしばらくやりたいと思っております。



【8274】
【タイトル】電話レッスン
【 日時 】04/01/06 8:32
【 発言者 】Naima

お正月休みで自宅におりますので、お手数ですが今日は自宅で呼び出しお願いします。



【8275】
【タイトル】(無題)
【 日時 】04/01/06 11:32
【 発言者 】村田

 あけましておめでとうございます。
 皆様、今年もよろしく。

 ところで根石さんと國弘正雄氏の講演に行きました。
そのことを書こうと思っていたら根石さん先にどっさり
書いてますね。
 でも私も思ったところを私も書いていこうと思います。



【8276】
【タイトル】講演会の前 1
【 日時 】04/01/06 11:34
【 発言者 】村田

講演会の前 1

 根石さんと私は、長野駅に予定よりだいぶ早く着き、会場の場所も予想に反してすぐにわかってしまったので、会場そばのホテルのロビーでコーヒーを飲んでいました。

村田「うちの生徒さんにイーオンの発音クリニックというビデオを借りたんですが、結構よかったですよ」
根石さん「どういう風に説明してる?」
村田「発音の本によくある解剖図みたいなのですけど、動きがあるからわかりやすいです。発音10ポイントを身につけた後ならかなり役に立つと思いました。」
根石さん「そうか。」
村田「音声は全部英語で、ネイティヴが説明しているんですが、聞いているとちょっと嫌な感じがする時がありました。『日本人の間違いやすいところは〜』『正しく発音するためには〜』とか言ってるんですが、なんか違和感があるんです。
 例えば、『日本人は v の発音をバビブベボの b と混同してしまうんだ』と言ってるんです。まあ、これはそうなんだけど、しかしちょっと待て!お前の言ってる『バァ、ビィ、ブゥ、ベェ、ボォ』は日本語の 音じゃねーだろ!とテレビの前でツッコミを入れてしまいました。」
根石さん「ああ、それはな…」

(つづく)



【8277】
【タイトル】今日のレッスンについて
【 日時 】04/01/06 16:33
【 発言者 】もっこり

明けましておめでとうございます。

さて、新年早々申し訳ないのですが、今夜のレッスンをお休みさせてください。
よろしくおねがいします。



【8278】
【タイトル】(無題)
【 日時 】04/01/06 18:03
【 発言者 】根石吉久

もっこりさん、承知しました。
Naima さん、承知しました。

村田君、続けて下さい。



【8279】
【タイトル】定義にもよるが・・
【 日時 】04/01/06 20:29
【 発言者 】パクパク

素読というと、意味のわからないものを、コーチのもとで
1:1で音読というイメージがあります。


 この場合、「和訳先渡し」をすべきです。

和訳を先渡しにすると、素読ではなくなるのではないでしょうか?



【8280】
【タイトル】素読 「的」 方法
【 日時 】04/01/06 23:54
【 発言者 】パクパクさん

 純然たる素読は、語釈など一切なしで行われるものです。漢文を日本語シンタックスに変換して素読していたのが、江戸時代の素読です。テキストは漢文で あっても、シンタックスが日本語ですから、文としては一種の日本語を素読していたのだと考えていいと思います。日本における日本語の素読ですから、この素 読は日本語の磁場を「あてにできる」のです。ですから、語釈、解釈、意味などを扱わなくても、「いずれわかる」と放置できたのです。あてにできる磁場にお ける素読だからそれが可能です。
 日本語の磁場における英語の素読はこれと同列に扱うわけにいきません。
 私が、以前から素読という用語にはあまりこだわらないと言ってきたのも、このあたりに根拠があります。國弘さんの「只管朗読」も素読的方法でしょうし、 私の「回転読み」も素読「的」方法です。素読そのものにとらわれることは、日本語の磁場で英語を扱う場合には、かえって根本を見失うことになると考えてい ます。ですから、私の方法は、素読を源流とする一支流だと考えていただいて結構です。
 そのあたりを、「素読を原理とする」という言い方で言ってきたと思っています。

 「和訳先渡し」は、私の「電話でレッスン」で中学の教科書を扱うときにはやっています。生徒はほとんどが中学生です。

 「ゴースト」などでは、「技法グラウンド」で、私が一回言ったものを生徒さんに五回(以上)繰り返し言ってもらって、音に問題があれば、「音づくり」を 行いながら、文丸ごとのインプットを行っています。「和訳先渡し」はやっていません。「理解」は、私が作った文法解析をメールでお送りして、自習していた だく方式です。

 「ゴースト」でやっている「技法グラウンド」の先頭に、「和訳先渡し」をくっつけたのが、中学の教科書を使った「技法グラウンド」です。



【8281】
【タイトル】投稿者名を間違えました。
【 日時 】04/01/06 23:55
【 発言者 】投稿者:

素読 「的」 方法 のタイトルで投稿したものの投稿者は根石吉久です。



【8282】
【タイトル】素読
【 日時 】04/01/07 0:01
【 発言者 】根石吉久

素読は、解釈は排除するが、意味を排除するものではありません。意味は磁場の力と、
生徒が生きる過程(による思考)によって、自然と備わるとしているのです。磁場の
力があてにできるところでは、純然たる素読が可能になります。



【8283】
【タイトル】(無題)
【 日時 】04/01/07 0:42
【 発言者 】村田

今日は出先なので書く環境に」ありませんので、明日の夜に続きを書きます。



【8284】
【タイトル】村田君
【 日時 】04/01/07 0:50
【 発言者 】根石吉久

内村鑑三や新渡戸稲造の素読をやろうと思うが、俺のために本を買っておいてくれないかな。
今の子供たちが、日本語の髄を奪われているという意味でなら、「声に出して読みたい日本語」
もよろしかろうが、内村や新渡戸や、あれ、酔っ払ったら名前が出てこないや、「茶の本」の
人誰だっけ、まあ、そういう人たちの英文とその翻訳文を、特に高校生あたりに素読させたら
よろしかろうと思う。

 このアイディアを得たことが、國弘さんの講演会に行って来たことの成果かな。

 國弘さんも長生きして、もう一度、政治から語学に戻ってきてもらいたいと願っている
んだわ。ブッシュみたいな小物相手にして、顔、真っ赤にしてもしょうがねえだろうと思
うんだわ。戦後民主主義の輝かしかったものを見た人たちは、どうもトチ狂うみたいだ。
野坂昭如みたいに。



【8285】
【タイトル】再び
【 日時 】04/01/07 0:54
【 発言者 】根石吉久

さぼりに入ります。



【8286】
【タイトル】素読的・・これでは、もはや素読ではないとおもう。
【 日時 】04/01/07 19:37
【 発言者 】パクパク

わたしは、純粋の素読のほうが効果があるのではないかと
おもっています。
素うどんの素:かけうどんではなく、純粋のうどんだけのお湯につけたうどん。
       塩味さえない。釜揚げのうどんをお湯で食べる。

江戸時代の素読を現在実践している人の本をよむと、
2種類の読み方をさせています。
子供が相手です。

 音読み  イシンデンシン
 訓読み  心を以って、心を伝う。

 子供は、意味のわからない音読みのほうをよろこぶとのことです。
 この場合、読みは、まったくの日本語カタカナ発音です。

 つまり、素読は、音作りのまえにおこなってもいいような感じです。
 
素読とは、ひとりでやってはいけない。コーチのもとにおこなう。
このコーチは、一見、インテリジェンスがないようですが、相当あるのが
事実であったとおもいます。

いまの音読、多読一派は、このコーチに関する記述が不足しているようです。



【8287】
【タイトル】思ったこと
【 日時 】04/01/08 1:07
【 発言者 】sb

日本語磁場で英語を素読すること。
それは英語を意味が分かった後で音読することとどのように違うのですか?
素読しているうちに(記号と概念(イメージ)が同致していく過程で)
意味の分かった後の音読ということになりますか?
音読という言葉は不明瞭な感じがします。
徐々にイメージが記号と同致していくという概念が「音読」という言葉でははっきりしない
ところが、そう説明している人々にとって無意識的だということになるような感じがしています。



【8288】
【タイトル】パクパクさん
【 日時 】04/01/09 17:04
【 発言者 】根石吉久

>わたしは、純粋の素読のほうが効果があるのではないかと
 おもっています。

 思うのは結構ですが、実際にやってみていただくことをお勧めします。純然たる素読は、日本語磁場における英語では、うまくいきません。初心者には「和訳 先渡し」でよく、中級以後に、文法の媒介を経て自分で意味をつかむようになることが要求される。日本語の磁場で英語をやる場合に、「和訳先渡し」を行うと ころが、素読「的」なのです。
 何度も書きますが、素読は意味を排除するのではない。「意味」は、「音づくり」の後でいいとする方法だというのが私の素読に対する理解です。その「意 味」さえも、コーチによる「解釈」など与えなくても、当該言語の磁場に育つ子供の中には、当人の思考力によって自然に備わってくるとするのが、主に漢文を 対象とする素読です。
 日本語の磁場における英語の素読では、この「自然に備わってくる」ということが生じません。あてにすべき英語の磁場が「ない」からです。
 やってごらんに、私の「磁場論」が不可欠のものだとわかるはずです。

 私のやっていることが素読そのものではないと言うのなら、それでも結構なのです。私は生徒の力をつけたいだけであり、素読という方法そのものに義理があるわけではないのです。机上の空論をやっている暇はありません。

>子供は、意味のわからない音読みのほうをよろこぶとのことです。

 そういうこともあるでしょう。しかし、素読は子供が喜ぶかどうかを軸にしている方法だとは考えられません。当座子供が喜ぶかどうかなどということを軸にしてきたのが、戦後民主主義の元で、子供におべっかを使ううぞうむぞうのいやらしい方法だったはずです。

>つまり、素読は、音作りのまえにおこなってもいいような感じです。

 素読がせっかく声を駆使する方法であるのに、なぜわざわざ素読することと「音づくり」を二段階にわけなければならないのか、理解できません。

>素読とは、ひとりでやってはいけない。コーチのもとにおこなう。

 これはそうだと思います。一人でやることを想定したのが、國弘さんの「只管朗読」だと思います。しかし、それでも、國弘さんの方法は、素読「的」ではあ るのです。とことん口を動かすことで、英語が育つ畑を耕すというところが、つまり、軸を「口」に据えたところが素読「的」なのです。

>いまの音読、多読一派は、このコーチに関する記述が不足しているようです。

 賛成です。



【8289】
【タイトル】訂正
【 日時 】04/01/09 17:06
【 発言者 】根石吉久

>やってごらんに、私の「磁場論」が不可欠のものだとわかるはずです。

  ↓

やってごらんになると、私の「磁場論」が不可欠のものだとわかるはずです。



【8290】
【タイトル】sb さん
【 日時 】04/01/09 17:23
【 発言者 】根石吉久

>日本語磁場で英語を素読すること。
 それは英語を意味が分かった後で音読することとどのように違うのですか?

 意味がわかった後で音読。これを言っているのが國弘正雄です。私は國弘の言い方はあいまいだと思っています。「意味がわかる」というただそれだけの言い方で、実は二つのまったく異なることが意味されてしまうところがまずいと思っています。
 ある文を前にして、「人の解釈を受けてわかる」ことと、人の助けが一切なしで「自分でわかる」ということは、まったく別の二つの事柄です。國弘の言い方では、これが区別されない。
 私はそこを区別するために、初心者には「和訳先渡し」が必要であり、中級以後では、「文法を媒介にした自分の思考」が必要だと分けています。

>素読しているうちに(記号と概念(イメージ)が同致していく過程で)
 意味の分かった後の音読ということになりますか?

 これが、中級以後の人に生じることです。

>音読という言葉は不明瞭な感じがします。
 徐々にイメージが記号と同致していくという概念が「音読」という言葉でははっきりしない。ところが、そう説明している人々にとって無意識的だということになるような感じがしています。

 「音読」派がくらがりのままに放置しているところがそこです。無意識的というより、いいかげんなのです。
 言葉そのものとしては、素読よりも音読の方がはるかに広い概念だと思います。素読も音読の一つに含めていいはずです。音読は、「黙読」に対する概念で あって、声に出して読みさえすれば、何でも「音読」です。素読は、「音を先立てるか、意味を先立てるか」が重要であって、あくまでも先だてるべきものは 「音」だと考えている方法です。



【8291】
【タイトル】「ゴースト」文法解析
【 日時 】04/01/09 18:11
【 発言者 】根石吉久

「電話でレッスン」の生徒さんに、ゴーストの文法解析をお送りしたら、次のようなメールを
いただいた。転写しておく。
----------------------------------------------------
> 根石せんせい
> 自分一人でできますっ!!!

 先に音を作ってあると、文法なんてものは実にわかりやすいでしょ?
 ただ、世の中の文法書を読む人たちは、そこに例示されている英文を声に出して、繰り返し読んで、こなれた音を作るってことをやらないのです。目で読んでいるだけです。これが、文法をやるときの落とし穴です。
 私の文法書には、「復讐範囲を手放さない」という原理が貫かれていて、文法的に関連がある文(すでにやった文)を何度も何度も提示し音読します。レッス ンでは、だから文法事項には触れません。例示してある文をいつものレッスンのように読んでもらうだけです。文法事項を書いてあるところは、自分で読んで理 解してもらえばいいのです。

 まあ、ひと月くらいやってみてもらえませんか。私のたくらみは深いのです。この教材を使ってもらえば、毎回新しいことをやる時間が5分確保されますから、忙しい方にはかえっていいだろうと思っているのですが・・・。

 少し試してみてもらって、文法は全部自習にしたいということになりましたら、また元のやり方に戻るっていうのでも結構です。



【8292】
【タイトル】「ゴースト」文法解析
【 日時 】04/01/09 18:13
【 発言者 】根石吉久

別の生徒さんにも「わかりやすい」との感想をいただいた。その方に書いたメールに、文法解析
をした教材を使った場合のレッスンの時間配分について書いたので転写する。
----------------------------------------------------
では、今度からこの教材でやってみて下さい。
ちょっと、変わった使い方で、文法事項について触れたところは読まないのです。
例示してある英文のみ、いつものレッスンのように読んでいただきます。
25分を文法教材に使い、毎回5分を新しいところをやるのに確保します。



【8293】
【タイトル】Naima さん
【 日時 】04/01/09 18:18
【 発言者 】根石吉久

書こうと思って忘れていました。
「ゴースト」の文法解析(途中までのもの)、お送りして眺めていただこうと思ったのでした。
Naima さんのレッスンでは必要ないと思いますが、Naima さんが生徒さんをとるときに使って
もらえるだろうと思っているのです。

カラのメールで結構ですので、メールをいただけませんでしょうか。
「返信」でお送りします。メーラーの住所録が使えなくなっておりますので、お手数をわずらわ
せますが・・・。



【8294】
【タイトル】根石さん
【 日時 】04/01/09 19:00
【 発言者 】Naima

空メールを送信しました。 

今、ホームページの改築改装に四苦八苦している所です。 

根石さんが転写された文を掲載するにあたって、一つお聞きしたい事があります。 前々から質問しようと思っていたのです。 考えてみれば殆どの人達が言い習わして来たものなので、今さらって気もしますが。
 
「外人」についてなのですが、日本語のわかる外国人の中には「外人」と言われると「よそもの」と言われている様だとして、この言い方を嫌う人が沢山いま す。 私のアメリカ人の先生によると、「言い方にもよる」との事でした。 彼は、近所のおばあちゃんから「外人さん」と呼ばれても、まったく気にならない との事。  

根石さんは、あえて「外人」と呼ばれているのでしょうか。 

最近、私はなるべく外国人と呼ぶようにしてはいますが、「外人」と呼んでいた時にも差別意識は持っていませんでしたし、外国人と呼んだとて、「他所者」というニュアンスは残るんじゃないかと思ったりするのです。 

しかし、「外人」と呼ばれる事を嫌う外国人も、同じ様な事を他国人に対して言ってるわけで...

英語でも foreigner の foreign に「異物」と言うニュアンスも含まれる様なので、この言い方を嫌う人も沢山いる様です。 私は最近、神経質になって、people from foreign countries などと言う事にしています。 何の事はない、結局同じ事を言ってるわけなんですが、「ちょっとは配慮してるぞ」と仄かに意思表示をする事にしています。 

他に適切な言い方があるのか、と質問しても日本語でも英語でも見当たらず、出身国名がわからない限り、これは難しい事ですね。 そもそも「外人」と言う言葉の中に「他所者」との差別感情が含まれていたもんなんでしょうか? 



【8295】
【タイトル】文法解析
【 日時 】04/01/10 0:48
【 発言者 】Naima

確かに受信しました。
プリントアウトしかけて、あんまり沢山なのでびっくりしました。
ご多忙の中、大変でしたでしょう。



【8296】
【タイトル】Naima さん
【 日時 】04/01/10 1:12
【 発言者 】根石吉久

>今、ホームページの改築改装に四苦八苦している所です。

 よろしくお願いします。

>「外人」についてなのですが、日本語のわかる外国人の中には「外人」と言われると「よそもの」と言われている様だとして、この言い方を嫌う人が沢山います。

 私も近所の外人から抗議を受けたことがあります。その後も、そいつとは悪友みたいな感じでつきあいが続いていますが、そいつとの話の中で gaijin という単語は使います。
 Some English freek in Japan indulge gaijin. なんてことはよく言っています。

>根石さんは、あえて「外人」と呼ばれているのでしょうか。 

 外人に外人と言うなと言われて、はいはいと従っている人たちの半植民地根性が嫌で、外人と言われるのをいやがる外人がいるのを承知で「外人」を使っています。承知の上で使っているのがわかるせいか、私が gaijin を使うと、近所の外人は喜ぶようになっています。

>最近、私はなるべく外国人と呼ぶようにしてはいますが、「外人」と呼んでいた時にも差別意識は持っていませんでしたし、外国人と呼んだとて、「他所者」というニュアンスは残るんじゃないかと思ったりするのです。

 まったくそうだと思います。意識のありようが、言葉を汚していくのであり、その逆ではありません。「外人」を差別用語扱いする外人は、「外人」という言葉を汚しているのだと思っています。何が偉くて日本語を汚すのだこのやろ。「毛唐」呼ばわりしているわけであるまいに。
 「外国人」という言い方が嫌なのは、「国語」という言い方が嫌なのと理由は同じです。「国」の問題ではないと思っているからです。
 問題は、「外人」に対して「内人」という語が成立しないことにあります。
 「内人」とはことあらためて言わずに、「外人」という語だけがあるのは、一種の中華思想ではあると思います。しかし、私は戦後民主主義に毒されたアメリカ追従根性が大嫌いですから、あえてこの中華思想の語を使います。

>そもそも「外人」と言う言葉の中に「他所者」との差別感情が含まれていたもんなんでしょうか?

 「外人」という語の成立に関わるものだと思いますが、私にはわかりません。
 私はこの語を使うのに、「区別」はしてるが「差別」はしていないと思っているので、自分の日本語ヴォキャブラリーから削除しません。差別はしていない が、そいつが日本語を駆使して私と喧嘩ができる程度にならないかぎり、「余所者」は「余所者」だと思います。「余所者」を「余所者」だと思うだけでは差別 は成立しないと思います。
 「余所者」を「余所者」として排除したときに差別が成立するので、おお、「余所者」、よく来たな、というふうにつきあっているのであれば、何の問題もないと思います。
 やたら白人を崇めるような態度を平気でとるやつらこそ、差別意識が強い人たちだと思います。やつらのアジア人への無視の仕方を見ればよくわかります。



【8297】
【タイトル】プリントアウト
【 日時 】04/01/10 1:18
【 発言者 】根石吉久

すれば、わずか十数ページの解析がA4で千枚くらいになっちゃいます。
画面表示で、コンセプトをつかんでいただけば結構です。



【8298】
【タイトル】外人さん
【 日時 】04/01/10 1:28
【 発言者 】Naima

「余所者」を「余所者」として排除したときに差別が成立するので、

まことに、そうですね。



【8299】
【タイトル】訂正
【 日時 】04/01/10 1:54
【 発言者 】根石吉久

freek



freak

----------------------------------------------------
せっかく辞書をひいて正しい綴りを確認しても、酒が入ると、ちゃんと思いこみ通りに書くの
で、年寄りは困る。
皆さんは、(なるべく)間違えないこと。



【8300】
【タイトル】回転読みルポ
【 日時 】04/01/10 2:33
【 発言者 】ミッフィー

タイトルだけは立派ですが、たまたま今日、明日と偶然にもレッスンを続けてしていただくチャンスがあったので回転読みをして体験(というほどでもないが) したことを少し。本日のレッスンが終わって「うわ、明日までにこれだけ覚えなくっちゃ、大変だぞ。」私の練習方法はまず新しい範囲のひとかたまりの英文を 20回ほどはテキストを見ながら読み、30回目からはちらちら、40回目からはなるべく見ないで、最終的には50〜80回読むという(時間がある時は 100回)やり方です。今はゴーストをやっていますが、今の範囲がhold on babyだとか、oh my Godやall rightの連発で覚えにくい。しかし、やっていて気づいたことは、どんなにごちゃごちゃした文でも40回〜50回目に入ったところでやたらすんなり読め るようになる。で、80回くらい読むと後日練習する時も、出だしの言葉さえちらっと本を見れば、皿洗いをしながらでもするする読める。回数は個人差もある ので一概には言えませんが…。この40回〜50回というのは一つの山かな、と思ったのでありました。ところで私は来週実施されるセンター試験にそなえ、生 徒に過去問の演習をさせたり解説したりしていますが、2年後にはそのセンター試験にリスニングが導入されることが決定しています。たぶんどこの学校でも大 丈夫ではないと推測するのだけれど、(しかもどんなレベルか見当もつかない)こんなご時世だからこそ、音読させねば!と強く思います。自分がかつてCNN ENGLISHでリスニングの練習をやってきた経験から言うことですが、知っている単語は聞き取れるし、知らない単語は聞き取れない。しかもその単語を自 分が正しく発音できれば確実に聞き取れるし、正しく発音できない単語は、まず、音で聞こえてきても頭の中でイメージがわかないことが多い。ただ教室で音読 をたくさんさせるのは現状ではかなり厳しいのだけれども、暗唱例文を渡して、生徒にどんどん繰り返し読め、とテストなり、何らかの形でけしかけることはで きないかな、と思っています。誰か高校の先生または塾の先生で、2年後のリスニング導入に向けて、何か動いておられる方、よろしければその手法を紹介して 下さい。
 話は変わりますがおととい韓国の小学生と英語で話す機会がありました。とはいえ、"Where's the bathroom?" "Uh,just right here, on the right side."くらいものですが。英語のbをpと発音しがちな韓国なまりはあったものの、その流暢さにびっくりしてしまった。みんなああなのだろうか。