みなさん、お久しぶりです。次のサイトは英会話を勉強するのに大変役に立つと思います。一度ご覧になってみてはいかがですか?
http://www.internetenglish.org/ie.htm
http://toshiohamaya2002.hp.infoseek.co.jp
mailto:toshiohamaya2002@yahoo.co.jp
みなさん、
次の2つのサイトで本場の英語ニュース、ニュース解説が聞けたりその解説の文章が閲覧できたりします。最近の英語学習は便利になりましたね。そのようなヒヤリング学習に便利なサイトがあったり、ここのホームページを含めいろいろ英語学習のノウハウを教えてくれるサイトがあったりします。私が英語を勉強し始めた40年前とはえらい違いです。
http://www.geocities.com/foxdream2000angel/english/index.html
(こうじさんお奨めのサイト)
http://www.pbs.org/newshour/newshour_index.html
(解説の英語の文章が閲覧できます。聴く時はvideoというボタンを押してください。realaudioというボタンでは聴けません
http://toshiohamaya2002.hp.infoseek.co.jp
mailto:toshiohamaya2002@yahoo.co.jp
こんばんは
「鰐る(わにる)」のホームページができてきました。
「鰐る」とは、根石さんのほか、村田君、いくこなどなど素読舎の地元の生徒も参加している、善光寺平の同人で発行している同人誌です。
ホームページもこれから順次盛りだくさんにしていきますので、よろしくお願いいたしますね。
お知らせでした。
http://members.tripod.co.jp/waniru/
いくこへ
「鰐る」はあれで一応商業誌なのであり、同人誌ではないと思います。
同人誌というのは、参加する人たちがお金を出し合って出す雑誌です。
「鰐る」は、広告をとり、それで出ていますから同人誌とは言えないだろうと思う。
いくこへ
行ってみましたが、バックナンバーの表紙が見れただけで、他の読み物はほとんど何も読めま
せんでした。これ、俺のコンピュータのせいじゃないと思っているんだけど、つまり、まだほ
とんどコンテンツが載ってない状態なんだと思っているけど、それでいいのか?
「鰐る」は、商業誌ですね!(すみません)
HPは、まだコンテンツがでそろっていませんが、「最新号立ち読み」と「バックナンバー」の6号以降の目次は見れるようになっています。
ちょっとフライングぎみでHPの紹介ではありましたが、「鰐る」、以後ご愛顧のほどよろしくおねがいいたします。
村田君が再掲してくれている過去ログに浜谷さんとの「多読」をめぐる議論の一端が現れたので、少し現在からのコメントをすることにした。
結局、この議論はうやむやになった。「多読万能主義」とでもいうべきものの盲点は明らかにしたと思っているが、浜谷さんの側で、私の言い分が腹におさまったのかどうかがわからなかったので、うやむやになったという印象が残ったのである。
簡単に要約すれば以下のような議論だったと思う。
浜谷:自分の英語がブレイクスルーしたときの方法がペーパ
ーバックスの多読である。これは誰にでも薦められる
方法である。
根石:浜谷さんは、中学・高校を通じて英語の優等生だった。
その人に「高校以後」有効であった方法が、初心者に
薦められるというのは間違っている。初心者に必要な
のは、「音づくり」を兼ねた「音読」である。
「多読」は多くの場合、「黙読」になると思う。その場合、「音」の問題はどうなるのかという私の指摘に対して、浜谷さんは初心者の人にはテキストを自分で吹き込んだものをテープに収めて手渡していると言われた。
現在からもう一度、この場面、浜谷さんがテープを初心者に手渡す場面を見てみたい。
テープを手渡したからといって、それで「音づくり」の問題は何も解決しないという問題がここにある。
複製音声教材があれば、生徒はネイティヴ音(モデル音)を自分の口で複製できるという盲信がそこにあるだけなのだ。これは、複製音声教材の使い方の間違いである。基本が間違っているのだ。この間違いの元にあるのは、語学とネイティヴ言語獲得過程の同一視である。
学校の教室みたいなところで、テープやCDの複製ネイティヴ音を聞かされ、同じように言ってみろと言われたことのある人は多いだろう。それがその場で成立すれば結構であるが、生徒たちは日本語の音の体系を身体化した後の人間なのだ。「英語しかしゃべれない」人たちの音が、「聴けば作れる」ということは『ない』。
NHKの語学放送だってそうである。基本的に、「聴けば作れる」という盲信によって多数の番組が作られているのである。「聴けば作れる」が元になっている限り、いくら番組内容が多様化したところで、しょせんは英語フリーク向けでしかない。
CD付きの英語本がちまたには溢れているが、これも「聴けば作れる」という盲信が元になっている。「聴けば作れる」が嘘であるのは、これほどにCD付きの本が溢れてもなお、日本人にとっての英語が、(「音」の問題だけをとりあげても)相変わらず難物のままであるのを見ればわかるはずである。
浜谷さんがテープを手渡す行為にも、「聴けば作れる」が元にある。
そんなことはない。「そこは、もっと顎を下げてください」というような、具体的なコーチが必要なのだ。コーチによる「音づくり」と並行させて、あるいは、「音づくり」を経てから、複製音声教材によって「調音」を行えば、CD付きの英語本だろうが、NHKの語学放送だろうが、みんな活きて来るだろう。
基本が間違っている、というより、基本的な順序が間違っている。
・コーチによる「音づくり」 → 複製音声教材による「調音」
この順序を、のべたらな複製音声教材の模倣にしてしまっているのである。まずこの国の90パーセント以上の複製音声教材の「使い方」がそうだろう。お手本にして崇めてしまい、「媒介」にする方法を知らない。
もしも、コーチが手に入らない場合は、「只管朗読」なり「回転読み」なりで、自分の口の筋肉を使った「ひたすらな読み込み」「同じものを繰り返し音読」を継続すべきだろう。それを基本にして、口の動きの柔らかさをまず作り、その柔らかさに「複製音声教材」を「媒介」にすべきだろう。
・コーチによる「音づくり」 → 複製音声教材による「調音」
・自分の口をひたすら動かし「柔らかさ」を作る → 複製音声を「媒介」
この二つがコーチのある無しを別とすれば、同じ原理によるものであることがわかるだろう。どちらも、「自分の口を動かす」ことが最初にあり、次に、その「動き」に「媒介」すべきものとして、複製音声がある。
最初に複製音声を聴き、次に真似ようとするという行為と、これらの二つは遠くから見れば似ている。しかし、近づいてよく見るなら、これは原理的にまったく別の行為なのである。「媒介」という行為があるかないか、そこが決定的に違う。「媒介」として使うという語学的主体の有無がかかっているのだ。
ここに横たわっている一事は、「初心者にはコーチが必要である」という原則であるはずだ。本当はそれが原則なのである。この国が貧しい国だということは、この原則が原則として通用しないことでもわかる。本当は柴田さんのやってこれらたような授業が全国的に行われていて当然なのだが、公立の学校は、文部科学省の親玉の元で、授業と称するスカンピンをやってきただけだ。
私の「電話でレッスン」は、「音づくり」だけでなく、「音と意味の合体」をも視野に入れている。学校が「音づくり」をちゃんとやれるなら、私は「音と意味の合体」の方だけに力を注ぐことができるのだが、今は夢の夢でしかない。レッスンはいつも「音づくり」から始めている。
複製音声教材があれば、生徒がネイティヴ音を自分の口で複製できるのは、生徒が英語フリークである場合だけである。多くの非フリーク(普通の人々)は、複製音声教材をそっくりに真似て言うような行為に嫌悪を感じる。
この嫌悪は当然なのだ。これは、発語が声と音とに分離することに対する嫌悪なのであり、言葉に対して鈍い人でなければ、当然感じるはずの嫌悪だろう。
生活過程では、言葉の音声現象は決して単なる音ではない。音声現象はいつも、音と意味が一体化した「声」であって、もしも生活過程で、声と音が完全に分離するようなことが起これば、それは病気である。
生活過程で生じないことが、語学では、最初に生じるという問題がここにあるものである。「音と意味が分離している」という問題である。
生活過程では決して起こらないことが、語学を考える場合には、大前提なのである。
人々はここをすっかり無視している。
私は語学屋ではあるが、複製音声をそっくり真似て言うことに非英語フリークの嫌悪の味方でもある。語学では、「原理的に」音と意味は別々のものなのだが、非英語フリークは、語学の対象物をあくまでも「言葉」として受け止めようとするのである。語学の最終過程においてようやく実現することを、最初に簡単にやってしまうのである。
これはきわめて自然なことであると思う。人々にとって、言葉はいつも総体であり、音だけであったり、文字だけであったり、意味だけであったりすることは「ない」からだ。
上級者には初心者のことがわからないと私は何度か浜谷さんとのやりとりで繰り返したと思う。これは、フリークには非フリークのことがわからないと言い直してもいいのかと思い直している。しかし、それがわからなければ、「教室」などやれたものではないはずだとも思っている。
ことは、一英語教室の問題ではない。広島大学の柳瀬という方は、私とのやりとりで、「自分には学習者の身がわからない」と現代哲学用語で言われた。私は、非常にびっくりしたのを覚えている。それがわからなくて、どうして「現場の先生の指導」なんかやっていられるのか。現場の先生たちが右往左往しているのは確かだが、そのまた元には、「生徒の身」があるのだ。生徒という学習者の「身」がある。それがわからなくて、チョムスキーも糞もあるか、と思ったのだった。
難解な言語理論で武装できたつもりなのであるのかどうか知らないが、なあに、尻隠さずじゃないか。柳瀬さんのいいところは、正直に反省するところだけである。この程度の人に指導なんかされていたら、「現場の先生」たちの右往左往がやむ時はないだろう。
浜谷さんとのやりとり、広島大学・柳瀬さんとのやりとりのどちらをも、私の「音と意味の分離」は貫いている。
分離している音と意味の音に焦点を当て、「意味と合体させるに足る質の音」を実現した方は、私の素読舎の回りを除いては、柴田さん一人いるだけである。
その柴田さんにおいてでも、「音と意味の合体」の問題は、数百語から成るテキストの暗唱発表ということで対処できているだけである。しかし、これでいいのではないか。学校の教室がやれることのベストの形ではないか。それ以上の「音と意味の合体」の方法は、学校の教室では不可能であるだろう。
柴田さんは、柴田さんの「場」でベストを尽くした。それは「音作りへの道」にはっきりと形になっている。
言ってみれば、柴田さんは「音づくり」という外科手術における名医だ。縫合術は実に見事だしていねいな仕事だ。それは、柴田さんが作ったCDで生徒たちの朗読を聴いてみれば一目瞭然である。
それに比するなら、私の「音づくり」は実に荒っぽい。切った後がわかるような手術であり、音の見栄えはよろしくない。しかし、基本はきっちりと押さえてある。丁寧な縫合よりも、私はその外科手術を成立させる「原理」の方に力を注ぎたいと思っている。
浜谷さんとのやりとりの話が、柴田さんのことになってしまったが、私は「音づくり」という一事に関してなら、柴田さんの授業が、この国の最高峰だと思っている。本当は、柳瀬一派ではなく、國弘一派が着目すべきなのだと思っている。
複製音声をそっくり真似て言うことに非英語フリークの嫌悪
→
複製音声をそっくり真似て言うことで生じる非英語フリークの嫌悪
根石さんご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。
さて、しばらくこちらにお邪魔していませんが、それは私の使える英語(英会話)学習理論と根石さんの英語学習理論の間にかなりの溝があることに気がついたからです。私は外国語の学習は喋れてなんぼのものと思っております。ですから音読の重要性は十分認識していますが、それはインプットの一環としての音読だと思っています。確かに発音の矯正に効果が大きいということもあり、初心者の方には私も音読を薦めています。実際この4月から再開した私の主宰する英会話サークルでは最初の30分間一心不乱に音読をしていただいています。その教材は「英絶」初級編のC/Dです。
しかしながら私は使える英語(英会話)の在日のままでの学習にはインプットが最も重要だと思っています。発音の大切さは英語学習者はよく知っていますが、インプットの大切さを知らない人、また、知っていてもなおざりにしている人が多いように思います。在日のままで使える英語(英会話)をものにしようと思えば沢山英字書を読むこと、沢山英語音声を聴くことだと思いますが、音声を聴くには学習者のレベルが大きなファクターになると思います。そのレベルに合わせた音声を聴こうとしてもそのような便利な教材を沢山見つけることは困難です。その点英字書は易しいもの(graded reader)からさまざまなレベルのものがあります。どんな英字書でもいいですが、各自に興味のあるものがいいに決まっています。多くの方にはペーパーバックが適当でしょう。便利なことにgraded readerは7等級ぐらいのレベルに分けて出版されています。いずれにせよペーパーバックを沢山読むのが最も良いインプット方法だと思っています。
それから根石さんの理論は素晴らしいと思っています。柴田さんの学校での音読を主体とした英語授業も素晴らしいと思っています。また、私は学校での英語授業がなるべく柴田さん方式に変っていって欲しいと願っています。 しかし、おそらくそれはかなり遠い将来の話になると思います。だとすれば、学校で使えない英語しか教わっていない社会人に使える英語を教える私たちの役目は大きいと思っています。ネット上ではそういう方達、具体的には、近くではこの掲示板によく見えられていた恋人ファンさん、boysome228さん、など遠くではSSS方式で指導されている方達、その他、各地で英会話サークルを主宰して使える英語(英会話)を指導している方達とも共に手を携えてその役目を果たして行きたいものだと思っています。
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mailto:toshiohamaya2002@yahoo.co.jp
お久しぶりです。
>さて、しばらくこちらにお邪魔していませんが、それは私の使える英語(英会話)学習理論と根石さんの英語学習理論の間にかなりの溝があることに気がついたからです。
私は浜谷さんの理論(?)と私のそれとの間には巨大な溝があると思っておりました。優等生だった人と、一度だって優等生であったことのない者との間の溝だと思っております。現在は、この溝を埋める気は失せております。しかし、浜谷さん一人が妄説の中におられることは構わないとしても、この掲示板を読んで下さる未知の読者に向けては書いておかなければならないと思っています。語学の原理論というものはありうるはずだと考えている私の義務だと心得ます。
>私は外国語の学習は喋れてなんぼのものと思っております。
喋れてなんぼのもんであると同時に、喋れたからってなんぼのもんだとも思います。
喋れるか喋れないかに大別するなら、私は喋れるのですが、それがなんぼのもんなのでしょう。そんなもの語学を「まともに」やれば、途中で自然に手に入るものでしかない。語学は、人間のイメージの力を強めてくれる。そっちの方がはるかに人間の質に資するものが大きい。うすっぺらなアメリカ帰りがぺらぺらと喋っているではありませんか。アメリカ製のイメージでぺらぺら喋れることがなんぼのもんなのか。
語学に対する思いにおいて、確実に浜谷さんと私の間に巨大な溝があるのです。
もっとも大きな違和は、浜谷さんが英語の読書を語学の手段としてしまうところにあります。読書は読書であり、絶対に語学の手段なんかではないと思っています。英語での読書は語学をやった人に対する大きなご褒美だとは思っていますし、本来の意味で大きな楽しみであるとも思っています。楽しみであるということにおいて、日本語による読書と英語による読書の間に私は何の区別も設ける気がありません。そして、読書をいかなる意味でも語学の手段として使う気はありません。
楽しみで読むことにも、忘れてしまいがちな語彙・語法等をリフレッシュさせる作用はあるでしょう。つまり、読書が語学に資するものはあるでしょう。しかし、それは読書の副作用みたいなものです。副作用が生じることに何の文句もない。しかし、副作用をめがけて読書をするなどということはやりたくもないというだけの潔癖が私にあります。
私は実際に貧乏ではあるものの、副作用をめがけて読書するなどということは貧乏くさくていけません。貧乏であることと貧乏くさいということは別のことであり、貧乏くさいのはいけません。楽しみは楽しみでいい。それ意外のものは要らない。そう考えております。
語学のために読書する? 冗談じゃないのです。
>確かに発音の矯正に効果が大きいということもあり、初心者の方には私も音読を薦めています。実際この4月から再開した私の主宰する英会話サークルでは最初の30分間一心不乱に音読をしていただいています。その教材は「英絶」初級編のC/Dです。
いいことだと思います。もし、浜谷さんの教室から英語が喋れる人が出てきたなら、浜谷さんの理論(?)によるものではなく、このひたすらな音読のおかげだと思います。もしも、語学の過程に自覚的な生徒が、喋れるようになったのは、多読のせいではなく音読のせいだと明言するようなことがあれば、浜谷理論(?)による効果ではなく根石理論による効果だということになります。その生徒さんと私が一度も言葉を交わしたことがなくても、そうなります。
理論というものは、ハウツウの優劣を言うようなものであるはずがない。何もかも貫き通すことができるのでなければ、理論などと言えないはずです。
>しかしながら私は使える英語(英会話)の在日のままでの学習にはインプットが最も重要だと思っています。
インプットは必須であるのであり、最も重要なわけではない。
だいたいが、間違った音でインプットする人は間違った音でアウトプットするはずですが、「喋れてなんぼ」主義の浜谷さんは、間違った音で喋って通じない現象はどう理解なさるのですか。通じるかどうかなんぞはどうでもよくて、何でもいいから何か喋ってさえいればそれでいいのですか。だったら人を相手にする必要もない。独り言を言っていればそれでいいのです。
インプットは必須です。飯も食わずにうんこができるか、と私が言ってきた通りであり、アウトプットのためにはインプットは必須です。
しかし、音の問題よりもインプットの方が重要だなどというのはまったくの妄説です。
この点に関しては、「意味と合体させる価値のある音」「意味と合体させるに足るだけの質を備えた音」という私の言い方で解決していると思っています。
インプット、インプットとおっしゃいますが、インプットは「音と意味の合体」抜きにできるわけのものではない。むしろ、「音と意味の合体」こそが、インプットの実質ではないでしょうか。その合体がないなら、「音のインプット」「意味のインプット」と限定すべきであり、いつもながら浜谷さんのもの言いは無限定に過ぎるのです。
そして、「多読」によっては、意味のインプットしかできないのではないでしょうか。「合体」があるとすれば、具体的には、綴り(文字)と意味の合体です。多読によって、音と意味を合体させることができる人は、音の問題をすでに解決してある人だけです。黙読の途中で音読に切り替えれば、そのまま通じる音で読める人だけです。
再度言います。音の問題よりもインプットの方が重要だなどとは妄説です。インプットは絶対に必要なだけです。そして、インプットするなら少量よりも多量の方がいい。
浜谷さんが言っているのは、この「多量」のことです。だから、「多読」なのです。それが必要であることは、まったくその通りですが、私が言っているのは、インプットの「質」のことです。通じない音でインプットしたってしょうがねえだろ、というのは「質」の問題です。
「量」をやるのであれば、どかどかやるがいい。しかし、「質」をちゃんと確保しろと私は言っているに過ぎません。正当なもの言いだと思っております。そして、「質」の問題を外して、「量」のことを言うのは、不当なもの言いだとも思っております。
音の問題をすっとばして、意味と綴り(文字)の合体を学校英語や受験英語はやってきたはずです。つまり、音の問題を外したインプットです。これと浜谷さんの理論(?)は相似形なのです。学校のやり方に欠点があると言いながら、理論(?)としては、浜谷さんは文部科学省と似たりよったりなのです。「質」をすっとばして、「量」を問題にする点において、相似形です。
>在日のままで使える英語(英会話)をものにしようと思えば沢山英字書を読むこと、沢山英語音声を聴くことだと思いますが、
文法の問題はどうなさるのですか。
文法の理解を外して、いくら易しいものから始めたところで、ちゃんと読めるとは思えません。ここにも、浜谷さんの「無自覚優等生」問題があるのです。
SSS なんかが理論的に駄目なのもここです。「磁場」という問題をすっとばしている。
英語の磁場のない場所では、文法は必要なのです。
これも何度も書きますが、浜谷さんは優等生として、文法はちゃんとマスターしておいてから、「多読」をやったのです。学年で一番できた人のブレイクスルーの方法が、万人向きであるわけがない。これに較べれば、國弘の「只管朗読」は万人向きです。しかし、実際に「只管朗読」の「只管」をやる人が余りにも少ないだけのことです。
浜谷さんと根石さんの議論を久々に読ませて頂いて、やはり初心者の定義が違う事が堂々めぐりの原因だと言う思いを新たにしています。
これは随分前に決着した様なしなかった様な、なんだかモヤモヤした所で終わってしまったんですが、浜谷さんは学校の英語の基礎くらいはある人達を対象にした英語サークルを主催しておられると私は理解しています。 しかも、赤尾の豆単程度の語彙はある程度、認識しておられる方を対象にしていらっしゃる、と言う理解なんですが、それでよろしいでしょうか?
数年前に英語学習をグループでいた方をお手伝いした事があります。 最近になってその方が、「もう一度英語をやりたい」とおっしゃいました。 「自分の勉強の為にお金をかけたくはない」ともおっしゃったもので、浜谷さんのサークルと音読マラソンと言うサークルをご紹介しました。
その方の浜谷さんのサークルでの体験レッスンの印象は「初級のグループでもそこそこ英語がしゃべれる方達が中心の様でついて行けるかどうか不安」と言うものでした。 かなり謙遜されているとは思います。 初級者とご自分ではおっしゃっていますが、発音もよく高校で習った基礎は充分に身につけておられます。 いわゆる”旅行英会話”くらいはこなせる方です。 勉強法も自分なりのやり方をいろいろ試して来られて、何が自分に不足なのかがある程度わかってもおられます。 こういうレベルの方ならば、浜谷さんのサークルで充分効果が上がるだろうと思います。
そういう意味で、「自分の持っている英語力をなんとか活用して、英会話力をつけよう」とされている浜谷さんのサークルは貴重だとは思っています。 一回たかだか300円の参加費で、労力のいる準備をされてサークルに臨んでおられる姿勢には頭が下がる思いもしております。
それに対して、根石さんの言われる「初心者」は、掛け値なしの初心者です。 私も英語教室を長年やっていたので、「初心者」と言うのは アルファベットの読み書きから始めなければならない人達と思っています。 高校生であっても 単語の発音、綴り、意味、文法、なにもかもがはっきりとした形にならないまま雑炊の様にグジャグジャになっている子達は沢山います。 英語が苦手なまま社会人になり、会社で経理畑にいるにもかかわらず、TOEICのスコア 500点とらなければ課長昇進は出来ない、とのお達しで、四苦八苦しておられる方も沢山おられます。
このようなレベルの方達には graded readers の最下レベルのものでも、何が何だかわからないのです。 しかも勉強するにも、どこからどう手をつければいいのかわからないレベルです。
これもさんざん議論して来た所であると思いますが、「多読」の「多」はどのくらいの量か、と言う点です。 月に1〜2冊で、しかもgraded readers 程度の語数のものを1〜2冊で、多読と言えるのか、と言う点です。 浜谷さんが多読によって英会話をものにされ、通訳ガイド試験に合格されたと言う事実を認めるにしても、付合いを断って読書だけに集中する数年が必要だったと言う現実もあるわけです。 それが出来ない人がほとんどであり、付合いを断ってまで英語をやらねばならないと言う必然性を感じない人も大勢おられると思います。
ならば、浜谷さんがこなされて来た様な量を読破するには、一般的な学習者は何年を費やせば良いのか? と言う疑問も残ります。
それとgraded readers はあくまで副教材として編集されていると思います。 コースブックや文法テキストやフォニックスによる発音指導が基本にあって、それで余力のある子達がどんどん好きなものを好きなだけ読み進んでいけば、相乗効果が得られると思います。
しかし、 This is apple. と言う間違いくらいで済むレベルなら良いけれども、This
も is も apple もわからないレベルでは、無理なのではないでしょうか?
インプットの質が大切だ、と根石さんがおっしゃっていますが、同感です。
リスニング力をつける為には、ただ漫然と「シャワー」の様に英語を聞いていてもあまり効果はありません。 中級者あたりでもまずは量より質を目指す方が学習効率が良いだろうと思います。 「まったくの初級者」では、絶対に発音指導が必要です。 非常に音感のある人や耳の良い人でなければ、聞けない音はいつまでたっても聞けません。
ただ、浜谷さんがサークルで発音指導をされてない理由についても理解出来る様な気がします。 発音指導にはある程度熟練も必要で忍耐づよい指導が必要ですが、ほとんどボランティア状態でされているのです。 サークルに集まる人達もそこまで切実には望んではおられないに違いないと思うのです。 浜谷さんも「伴走読み」のレッスンでは、音づくり指導をされているのではないだろうか、と想像しています。
浜谷さんは、これも多読のみで、フランス語やスペイン語もかなりのレベルに達せられたとうかがっています。 英語の基礎がおありになったにせよ、まったくの文法的知識もなく、読書だけでものにされましたか? 厳密に言うと、単語を辞書で引けば文法説明が必ず出て来ます。 大学でフランス語を第2外国語としてとられた、と言う事もなかったでしょうか?
根石さんの浜谷さんの多読論に対する執拗な喰い下がり様は、浜谷さんの語学学習の出発点はどうであったか、をあいまいにされている為だと思います。 中学一年生で初めて英語を習われた時の事を思い出して見て下さい。 どんな風に勉強してこられたのでしょうか?
私は、その辺の事がはっきりすればこういう議論は簡単に決着がつく様に思うんですが...
根石さん、Naimaさん、いろいろアドバイスありがとうございます。
まあ、英語学習及び英語教育にはいろいろの方法があると思います。頑固なようですが、私は私のやり方で行くしかないと思っています。それでついて来ていただける方が一人でもいたらいいと思っています。ですからサークルという形をとっています。それも会費は1回づついただいていますので、駄目だと思われた方は参加されないでいいだけです。実際1回〜数回来られて、来られなくなる方が多いです。私のホームページも、カウンターをつけていませんのでどれだけの人が来られているか分かりませんが、気長に改良しながら、自分の主張(理論?)を分かってもらえるよう努力していきたいと思っています。
私は現在の使える英語(英会話)の学習方法が大手英会話学校や新聞の巨大広告の学習テープに汚染されている現状をなんとか打破したいと思っています。そのための捨石になる覚悟です。ただそれだけです。
>もし、浜谷さんの教室から英語が喋れる人が出てきたなら、浜谷さんの理論(?)によるものではなく、このひたすらな音読のおかげだと思います。もしも、語学の過程に自覚的な生徒が、喋れるようになったのは、多読のせいではなく音読のせいだと明言するようなことがあれば、浜谷理論(?)による効果ではなく根石理論による効果だということになります。その生徒さんと私が一度も言葉を交わしたことがなくても、そうなります。
結構だと思います。サークルのみなさんには毎回素読舎やその他有益と思われるサイトのコピーを持っていって展示し、折のふれて素読舎の手法の素晴らしさを伝えています。音読も素読舎を見学させていただいた経験を生かすようにしています。
大風呂敷は今後も拝見させていただきますが、おそらく私の主張(理論?)を展開することはないでしょう。それが出来るのは私のホームページと主宰する英会話サークルが確固とした基盤固めが出来た時です。
http://toshiohamaya2002.hp.infoseek.co.jp
mailto:toshiohamaya2002@yahoo.co.jp
たいへん、ご無沙汰しております。
なにかわかりきったことを、蒸し返しの議論がなされている感があります。
英語学習の前に、音作りが必要というのは、きわめて、当たり前とおもいます。
そばに外人がいたところで、外人の肉声音声を聞いたところで、
あるいは、CD複製音声を聞いたところで、音づくりはできないと
おもいます。
1:1の個人的指導でのみしか、音づくりは、できないでしょう。
これが、原則でしょう。
音作りのコーチの有無が、山のようにある英語学習法の区別のポイントとおもいます。
しかし、いまの日本に、音作りを教えている人は、少数です。
だから、多くの英語学習者は、仕方がない方法で、次善の策として、音読をせざるを得ない。
ひとり学習です。
これは、犬かき泳法のようなもので、かろうじて、水にうかべられるのがオチです。
それよりも、英語学習原則に戻って、音作りの師を求めることが、戦略的に勝ちと
おもいます。
ネットの時代だから、そういう先生が探せばいるし、値段もそんなに高くないと
おもいます。
ちなみに法外に値段の高い発音矯正教室がありますが、そういうところは行かないほうが
いいとおもいます。
つまり、英語の音づくり自体は、そんなに時間のかかるものでもなく、
価格の高いものではないということです。
大風呂敷における議論のご先祖様が何人か帰ってこられて、うれしく思います。
チャーチルの手紙
昭和16(1941)年4月12日、松岡外相に宛てたチャーチル英首相(外相代理)の手紙には、八項目の疑問文が書いてある。その第(八)は、 1941年には米國の鉄鋼生産は7500万トンである。英國では、約1250万トンであるから、合計すると大体9000万トンになるのは本当のことであるか。ドイツが敗北すれば、日本の鉄鋼生産700万トンは、日本単独の戰爭の爲には足りないのではないか、である。当時わが国の鉄の生産は、アメリカの10分の1もなかった。それでも、戦争した。それで、鉄の嵐が吹きすさんだ。弾丸を節約するばかりでは、戦には勝てなかった。日本人は、苦労のための苦労をした。
日本語には、未来形がない。だから、未来構文の内容は成り立たず、未来に関する筋書きの精査は不可能である。日本人の未来に関する発言は、小言、片言、独り言のようなものになる。意味もなければ、誤りもない。日本人は、英米との戦いで、気合負けはしていなかった。だが、戦いには敗れた。
420文字
You can read more at http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
精神論
英米人は、理性判断により、この世界を支配した。日本人は、この理性判断の強みを信じることができない。ことの成否は、気合の有無
(精神論) によると考えている。その例は英語の勉強の中にも見られる。’Where
there’s a will, there’s a way.”は、私の解説では、「意思 (will) のあるところに方法がある」となる。日本人の考え方では、「精神一到何事かならざらんや」である。明らかに、後者は気合の重要性に着眼している。
意思 (will) は、未来構文の内容である。日本語には、未来構文がない。未来構文の内容は、意味の理解も可能であるし、誤りも発見できる。だがしかし、構文がなく、ばらばらな単語ばかりでは、意味もなければ誤りもない。日本人には意思がない。そこで、「やる気・気力・精神力がなくては駄目だ」ということになる。気合・掛け声とともに行動に踏み切る。為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけりと信じてのことである。現在の地球は、英米の世である。現実を何よりも重視する日本人に、現実支配ができないことは、至極残念なことである。474文字
You can read more at http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
mailto:terasima@gold.ocn.ne.jp
以前、一度ここに書かれたことがありましたが、独自の用語法によるものでよくわかりませんでした。今回、ご案内のホームページを読ませていただき、ようやくなんとなくですが、おっしゃりたいことがわかりました。
何度も繰り返し繰り返し書かれているのは、「日本語には未来構文がない」という一事でした。この一事を基底として、日本人はヴィジョンを持つことができないという現象が現れている、とおっしゃっていると読みましたが、それでよろしいでしょうか。とりわけ、政治家たちにヴィジョンがないことを繰り返し批判されていて、この食い下がりの粘り強さは、政治人事にほとんど興味が持てない私にも、はっきり伝わってきました。
自分の意見をはっきりさせない日本人のふるまいの背後に日本語の特質があると見る見方は非常に面白いと思います。
寺嶋さんは、「未来構文」ばかりを問題にされていますが、日本語には「構文」という構造自体がないのではないでしょうか。日本語を書いていても、構造物だとか構築物だとかいう感じが持てません。そこに構文というものがあるならば、書きながら、構造物や構築物の感じがするはずだと思うのですが、私はそれをほとんど感じません。
流動物みたいな感じがします。つまり、日本語は構築されるのではなく、流れるのだと思います。半ばは言語自体の性行に主体をゆだねないとうまく日本語として流れないというような感じがいつもあります。自分の意思で構築するという感じがどうもしません。英語を書けば、構築している感じはいつもはっきりあります。
英米流の考え方を日本人が持つべきだという意見には賛成ですが、これは実にあやうい道でして、私は分裂に耐えきるだけの力を持たない人々がそれをやっても、神経症の多発として結果するだろうと思っています。その激突をやわらげ、時至らば、一挙に獲得するためには素読という一方法あるのみだとも思っております。
日本人が英米流の考え方を持つことは、英米流の考え方に同化することではないはずです。日本人として、
super flat な日本人の考え方をよく理解しながら、構築的な英米流をも理解するという分裂になると思います。胆力があれば、この分裂は積極的なプラス価値になりますが、そうでなければ神経症の多発となるでしょう。しかし、この分裂に耐えきる人が今後の日本に必要であるのだとも考えています。
私は基本的には、日本語でなければ言えないことがあり、英語でなければ言えないことがあると考えています。日本語でなければ言えないことは、日本語で言うしかないし、英語でなければ言えないことは、英語で言うしかない。
日本語でなければ言えないことを日本語で言っても、日本語を知らない英米人がそれを理解しなかった場合、彼らがアルタイ語系の考え方がわからないのであるから、彼らには世界の半分がわからないのだと言うことができるはずだと思っています。その逆もまた真であり、英語でなければ言えないことを英米人が言い、英語を知らない日本人がそれをわからない場合は、やはりこの日本人も世界の半分がわからないままであると言えると思います。この点で、私は日本語と英語をまったく
even にとらえており、寺嶋さんのように日本語が構築的でないことを欠点や欠如としてとらえることはありません。それを欠如とするならば、英語には流動性が欠如しているとも言えるはずです。いつでもがちがちと主語を明確にしたがり、その主体のありかをはっきりさせたうえで、その意思や意思が向かう対象物を客体化したがる言語の性行は、人間の意識に陰影として生じ、綾として浮かぶものをとらえるのは苦手でしょう。そういうものは、「流れ」としての言語がよくとらえるものです。
英語が科学・哲学に向いているというご指摘には賛成です。これはがちがちの世界ですから、構築的な言語の方が向いている。
また、現在が英米の世の中であるというのもその通りだと思います。
構築的な言語は、鉄砲を作り出す。
それに対して、super flat な言語は、弓くらいしか作り出さない。
現在が英米の世の中であることの元には、そういう事情もあると思います。
英米が、弓くらいしか作らない人々をどれほど殺してきたか。日本の近代の猿まねの狂気どころではない。あやつらは、一神教の神の名において、自覚的に自信をもって、堂々と殺してきた。家畜を殺すように殺してきたのです。
現実のパワーにおいて、つまり、政治や軍事力において、英米の世の中であるからといって、英語が日本語よりすぐれているというように考えることはまったくできません。日本人が英語的思考を理解することは必要だと思っておりますが、もしそうであるならば、実際的な力を持つ英米人たちは、super flat な流動物としての日本語による思考法も備えるべきなのです。現実的な力を持つ人間は、弱くやわらかいものを理解しなければいけません。深い深い溝がその間にあるにせよ。
それを冗談めかして言うと、ブッシュは日本語をやれ、となります。
言うなれば、それがヴィジョンというものだと思います。構築的なものの方から flat なものの方へ、flat なものの方から構築的なものの方へ。その二つがともに動きとなるなら、ようやくそれをグローバルな動きと呼べると思います。アメリカが振りかざすグローバリズムなど、それがいくら現実的なパワーを備えていようと、私は信じるつもりはありません。無視することをしないだけです。
一神教の神は砂漠生まれだと理解しておりますが、これは略奪や強盗が日常的である土地で生まれた神でもあり、絶えず論理・正邪をはっきりさせたがる西洋シンタックス(言語)はそういう風土が産んだものとは言えないでしょうか。ヨーロッパの土地は、砂漠ほどひどくはないにせよ、アジアの肥沃に較べれば、痩せた土地だとも聞いております。こういうところで、will
をはっきり述べる言語が発達するのは理由のあることだと思います。
アメリカに即せば、世界史上の途中で、WASPどものご先祖は、西部開拓とやらをやらかし、ネイティヴたちの住んでいる場所を略奪し強盗しました。はっきり言って、泥棒行為です。この行為を正当化したのは、砂漠生まれの神であろうと思っています。
これに対して、日本の神は八百万の神なので、中心や基準があるようでない、ないようでなんとなくある、というような世界観になるのであろうと思っております。日本はまた、大陸を伝わってきたものが吹き溜まる場所でもあったであろうと思っています。時代時代に伝わってきたものが、層を成して積み重なった場所が日本だったのではないか、と。
大陸から伝わってきたものは、日本に吹き溜まり、ハワイまでは伝わらなかった。
これが、日本人が新しいものを受け入れてすぐにそれを消化する能力を発達させたのではないかと考えています。鉄砲が伝わってきた時も、すぐに同じようなものを作ってしまったそうです。これは、寺嶋さんによれば、科学ではなく、技術にすぎないとなります。確かにそうですが、作物がとれる土地にいて、待っていれば大陸から次々と新しいものが伝わってくる土地にいれば、待つ姿勢、来たものを消化する姿勢ばかりが育つのも無理はないと思います。わざわざ鉄砲などというものを「設計」し、効率よく人を殺すことをヴィジョンに描くなどという必要はなかったのでしょう。
英米の世の中であり、論理をはっきり言い、ヴィジョンをはっきり言い、正邪を一方的に言い立てるものどもを相手だからこそ、日本人のあいまいさはむしろ貴重だとも言えます。日本が技術力でもいいし、経済力でもいいですが、何かの力を持ち続けるかぎり、日本人の意志明示的でない性質は、英米のものどもの喉にひっかかった魚の骨であり続けるでしょう。
寺嶋さんははっきりと書かれませんが、日本語より英語の方が言語として優れているとおっしゃりたいかのような印象を持ちました。そうであるならば、これには、まったく賛成することができません。英米にとって、非英米世界は世界の半分です。
>ネットの時代だから、そういう先生が探せばいるし、値段もそんなに高くないと
おもいます。
ちなみに法外に値段の高い発音矯正教室がありますが、そういうところは行かないほうが
いいとおもいます。
発音矯正教室というのは例えばどんなところがありますか。教えていただけませんか。
おひさしぶりです。
発音矯正を専門とした教室はやまのようにあります。
京都では、T英会話(四条)が有名です。
全国から、生徒を募集しているようです。
そのため、短期集中講座のスタイルです。
でも、sbさん、お金が安くないです。
もちろん、本当に効果があれば、安い金額です。
わたしは、発音や文法を個別にバラバラにならうより
同時にからめてならったほうがいいとおもいます。
イントネーションの自己決定能力と
シンタックスのわしづかみは、相互に
からみあい、関連しているとおもうからです。
そういうコーチに1:1で教えてもらったほうが
いいとおもいます。
京都河原町三条でした。
過去ログ倉庫「大風呂敷から」はcool onlineというところを使って
いるのですが、8月下旬までサーバのメンテナンスのためアップロー
ドができません。
過去ログがそれぞれ100発言前後ありますが、すぐに参照したい、
という方は、村田にメールを下さい。未アップ分のhtmlファイルを
メールで返信いたします。
根石さん
過去ログ貼り付け分の感想ありがとうございます。また順次貼り付け
ていきます。
初代「大風呂敷」の件、了解です。大家の話や検察の話など、項目に
わけておこうと思います。
mailto:murataya@avis.ne.jp
の記事を「夕焼け小焼け」に書きましたのでよろしければお読み下さい。
英語のことを書くのと、それ以外のものを書くのとでは、私は人が違ってしまうらしい。
英語のことを書くと、文部科学省のアホぶりと、英語フリークのへいこらがどうしても目に入り、
私はいい人になることができない。
http://6829.teacup.com/nessy/bbs
http://www.eiken.or.jp/eikentimes/tokusyu/main.html
英語を習いはじめの頃に 発音をしっかりやるのはよいことだ。
先生頑張ってらっしゃる。
>受験英語と使える英語のギャップに揺れる教育現場。
>受験英語とコミュニケーションできる英語のギャップには日々悩んでいます。その二つを両立できる方法が見いだせればと模索しているところです。
生徒は「英会話」よりは受験英語を習いたいという進学校の現場。
生徒は 文法より 「英会話」を習いたいと思い英会話学校に来る。こちらは高校生も含め大学生やら社会人。文法は学校でやったからだそうで。その割には 中学程度の英作でぼろぼろ間違う
いや はっきりいってまったく出来ないのはなぜだろう。君はいったじゃないか。学校で文法はならってきたと。
受験英語と 使える英語にぎゃっぷなぞはありわしない。先生が悩んでどうする。
音から始めて 基礎を固めていけば それは受験にも英会話にも通用する使える英語となる。
あっ 先生が悩むのは 英語の時間が少ないからか?一クラスの人数がおおいからなのだろうか?
>リスニング スピーキング リーディング ライティング
>読む・書く・聞く・話す」のバランスがとれていないと英語の力は向上しないということです。どれかひとつに集中しても英語力は上がらないんです。
そうですね。 バランス。もっというなら 聞く 話す 読む 書くと まんべんなくやることが大事。 それごとにテキストをわけるのではなくて 一つのテキストをしゃぶりつくしながら。
本文を読んで「文の構造や論理の立て方が英語の発想を教えながら話したり聞いたり書いたり。
英語(英会話)を教えていて悩むのは 「英会話」や「旅行会話」を習いたい生徒が多いということ。中学レベルの英作文もできないのに なにをほざく。
学校では英会話もいいけど やはり受験に役立つ英語を習いたい生徒達。
みんな近道とおりたいもんねえ。それはわかる、私もそうだ。楽したい。
でも ♪この際地道に基礎からスタディ!それが結局上達の早道。
なぜわからないのだろう 英語は一つ。使える英語も受験英語も英会話もありはしない。
あるのは「英語」という言語。
しかし根石さんの言うように 日本で学ぶ英語と 磁場で使う「生活言語としての英語」は違うものだ。それも日本で学ぶ英語が身についていない場合(あ、忘れていた。現在の学校の教え方では基礎がみにつけられないのだった。) 生活言語を体得するのは困難よ。
>文科省の構想については、英語がどういう人に、またどれだけの数の人に、どの程度必要なのかを根本的に考える必要があると思います。そういったものを具体的にすべきではないでしょうか。英語でコミュニケーションできる子どもたちを育成すると、雰囲気で考えているところがあるように感じます。具体的な目標や目的がないまま、護送船団方式で英語教育のためだけに膨大な時間とお金をつぎこんでみたところで、そのリターンがどれだけあるのか非常に疑問です。
そうだそうだ!先生のおっしゃる通りです。文部省が英語でコミュニケーションをなんて雰囲気でものをおっしゃるので 学校の生徒は受験の雰囲気で英語を勉強し 英会話学校には外人とペラペラ話す私 ビジネスで英語を使う俺を想像して 雰囲気に浸りに来る。いや英語を身につけたい戸思ってくるのだったか。
文部省!しっかりしてくれ!
しかし今だって高校では英語を週に5時間か それ以上ぐらい費やし学習しているのは同じ。
その割にリターンがあるのかはなはだ疑問です、先生。
有益な記事、ありがとうございます。
私はなかなか他の掲示板を読みに行けませんが、「英語教師座談会」の方々にも、この掲示板を
紹介していただけたらうれしく思います。
上級者に属する私の生徒さんから、メールで質問をいただきました。
お返事をご本人にさしあげるとともに、ここに掲載いたします。
掲示板「大風呂敷」は、何者かによって削除されてしまいましたので、現在、teacup の有料掲示板を利用しています。URLが変更になったのをお知らせしないで、掲示板に書いて欲しいと言ってしまいました。すみません。現在の「大風呂敷」のURLは以下の通りです。
http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs
>英語勉強暦の中でひとつの学校(?)で1年続いたのは史上最長です。
ありがとうございます。
こちらこそ、Jさんのような生徒を持てたことを有り難く思っています。
>「回転読み」の主旨は
>読み込む→読み込む→読み込む
>覚えてしまうくらい読み込む→その結果口になじむ(すなわち覚えてしまう)
>という理解でよろしかったでしょうか?
それでよろしいです。
>だとすると練習時間が不十分な私は主旨に反して勉強していることになります。
>暗記しながら覚えているからです。
>特に数行まとめて出されるようになってからは
>その傾向にあります。
メールをいただいてすぐにお返事が書けなかったのは、考えていたからでした。
レッスンをやらせていただいて、Jさんの練習時間は他の方より少ないことはないだろうと思っておりました。また、練習の密度は、かなり高いとも思っておりました。
「回転読み」の主旨に反しているとは、私は考えておりません。レッスン時では、「技法グラウンド」によって、ゆるやかではありますが、「回転読み」をやっていただいており、その仕上がりの質は、私の生徒の中でピカ一です。その方が「回転読み」の主旨に反しているとは考えられないのです。
この点も、メールをいただいて以後、考えていて、他の方の事例と違っていると思ったことでした。「回転読み」の質の仕上がりがピカ一である生徒が、ご自分で主旨に反していると考えられたことが私にはとてもわかりにくいことでした。
暗記しながら覚えているとおっしゃっておられますが、自宅での練習で、声を出して(「音読」して)練習されていますでしょうか。もし、そうであれば、何も問題はないと思います。
「音読」や「回転読み」には一つ、落とし穴があります。「音読」が音だけにとどまり、いつまでも意味やイメージが動かないということが生じる可能性があるのです。音がなめらかになり、口が動かしやすくなった時から、読むスピードをゆるめて、意味やイメージが意識に動くことを確認しながら練習し、意味やイメージを伴ったまま、再び徐々に読みのスピードをあげていく必要があるのですが、ごく少数の生徒の場合、音だけにとどまってしまい、意味やイメージを自分の中で動かそうとしない場合があります。
机上の練習ですから、状況や磁場が意味を強制し、外から意味を注入してくれるということは生じません。自分で、強引に意味をとらえ、イメージをはっきりさせるという意識性が必要なのですが、たまにそれをやらないで、音だけにとどまってしまう生徒さんがいます。この場合、音がなんだかカラッポの感じがします。極端な言い方をすると、カラッポのドラム缶を叩いているような感じの音読をします。Jさんにはまったくそれを感じておりませんので、その点では問題がありません。
で、「回転読み」で、読み込み続ける場合ですが、文まるごとの音さえきちんと作れたら、以後は文法を考えたり、文全体の構造をひとつかみにしたり、個々の単語のイメージをよりはっきりさせるなどの意識の作業はいくらやってもらってもいい。スピードをゆるめたりしながら、文法、シンタックス、個々の単語に丁寧につきあい、最終的に、読むスピードで意味(速く動くものをイデアと呼んでいます)が動けばいいのです。
ひたすら無心に音だけの読みに専念しつづけなければならないかのように考えられていませんでしょうか。そんなことはないのです。いったんきちんと音ができたら、いくら文法を考えてもいいし、意味をとろうとして、スピードを殺してもいいし、意識の逆流を引き起こすために、読みを中断したって構わない。
初心者の場合は、文法的意識や意味、構造、イメージ(速く動くイデア)をどんどん動かせるに至るまでの「音づくり」に非常に時間がかかります。Jさんは、「音づくり」にほとんど時間がかかりません。だから、早めに文に対して意識的になることができる。そのことを、「暗記しながら覚えている」というふうに考えられておられるのではないかと愚考したのでした。それでしたら、まったく主旨に反しているということはありません。むしろ、音ができて以後、必ず必要なことです。
私がひたすらな音づくり(音読)をくどく言うのは、初心者や中級者の中に、まだ文法や意味や構造どころではなく、まだ音ができていない、という段階で、音づくりをおろそかにし、意味や構造を考えることを始めてしまう人があまりにも多いからです。この点は上級者にはわかりにくいことかもしれませんが、音ができておらず、しょっちゅうつっかかってしか読めないのに、意味や構造を考える人は実に実に多いのです。
この点で、Jさんは問題のない方です。いつも音はきちんと完成させてあることがレッスンしていてわかります。だから、意味や構造をいくら考えていただいても構いません。
声に出して練習されておられるなら問題はまったくありません。
目で文をにらむだけで、まったく頭脳的に「暗記」しているのでないかぎり、Jさんの場合には、ご本人が「暗記」と意識されていても問題はありません。「暗記しながら覚えている」というのは、声を出さず、頭脳的に「暗記」しているという意味では「ない」と読んだのですが、それでいいですよね。
Jさんの場合、ご本人が「暗記」と意識されるような練習をしていても、問題が生じていないのは、外資系の会社に勤めておられ、英語を日常的に実用されているからだとも考えています。先日のレッスンで、「英語圏に住んでいたことがあるんでしょうか」とお聞きしましたが、日頃のレッスンでの練習の進め具合は、まるで英語圏に住んでいたことがある人のようなので、そうお聞きしたのでした。
英語圏に住んだことはないとのことでした。それで考えたのは、やはり外資系の会社で英語を仕事に使っておられるという条件が大きいのだろうということです。私は、英語圏という一般的な言い方でなく、もっと言語や語学に即して考えておりますので、「磁場」という用語を使用しています。日本の外資系の会社の中は、その伝でいくと、「準磁場」と言えると思っています。日々、「準磁場」に身を置かれていることが、私の他の生徒さんたちと条件が異なるところです。
この条件によって、ご本人は練習にあまり時間を割いていないとおっしゃるにもかかわらず(実は他の生徒さんよりいっぱいやっていますが)、非常に質のいいレッスンが成り立っているのだと思います。
これまでの練習方法でまったく問題はありません。要は持続して下さることだと思っています。私としても、レッスンで新たな語法に少しずつ触れていかれて、「準磁場」に日々身を置かれて、新しい語法を使われるようにしていかれるなら、薄皮をはぐように少しずつではありますが、英語を使うのが楽になっていくものと確信しています。
持続して欲しいというのを、喩え話で言うと、日本語の磁場における英語の練習というものは車を維持するようなものだととらえていただきたいということになります。車は車検だの、保険料だの、ガソリン代だの、壊れたときの修理代だのいろいろとお金がかかります。私のレッスンを使わないで英語の練習を続けることは、Jさんのように力のある方にはできますが、それは車検を自分で通すようなことになります。壊れたものも自分で修理するようなことです。時間に余裕があり、車に詳しい少数の人は、そういうこともできます。
それに対して、車検を車屋さん経由でやってもらったり、壊れた場合も車屋さんで修理してもらったり、定期点検をやってもらったり、オイルの交換時期に声をかけてもらったりというのが、一般の車のユーザーです。お金はかかりますが、維持していくのがぐっと楽になる。私のレッスンも、車に喩えれば、車屋さんを使うようなものだととらえていただくのがいいかと思います。
初心者や中級者には、私がやっているようなレッスンは必須のものだと思っております。何年英語をやっても、初心者や中級者にとどまってしまう人は、車の構造を知らないまま、勝手に修理して、かえって壊してしまう人と同じなのだと考えています。また、上級者にとっても、維持しつづけるということを考えれば、私のレッスンの「復習範囲を手放さない」という原理が、徐々に英語力の発酵を促していると考えています。
どうも、話に枝が生えて恐縮ですが、ポイントとしては、実際に声に出して、練習されているならこれまでの練習方法で何も問題はないということです。
>現在の私の勉強の仕方としては
>今レッスンが火曜なので通常ですと木曜あたりから新しいところの練習に入ります。
>金曜土曜と時間を取るべく努力し、新しいところを30分から1時間やります。
>テープを併用します。
>土曜日曜月曜はテストの範囲も混ぜます。時間があればテープを併用、なければ
>テキストにそって範囲を読みます。
現在、生徒が20数人おりますが、このくらいの練習をしてくれる人は、4人くらいしかおりません。火曜のレッスンの後、木曜あたりから練習を開始してくださっているのですから、ほぼ毎日練習なさっているということです。他の生徒さんにも、これを見習って欲しいと思うくらいです。
>初期のころワンセンテンスくらいずつ出題されるのはわかります。が、数行に及ぶものはどうしても暗記が先行してしまいます。
暗記の性質を弱めるために、テスト中にメモをとることを始められるのも一法かと思います。Jさんの場合は、ご本人が「暗記」とおっしゃるにもかかわらず、私は心配はしておりませんが、センテンスごとの(意味的な)内容を代表させて、一つの文につき、一つの単語だけメモするとか、文の最初の単語だけメモするとか、間違えがちな単語の頭文字だけメモするとか、なるべく少ないメモを補助材として使うことを是非試してみて下さい。
極端に短い文が4つも5つもつながる場合とか、似たような感嘆詞ばかりが連続する場合、私はレッスン中に「メモをとって下さい」と言うことがあります。なるべく少ないメモをきっかけや補助として使うことを練習なさってください。これは練習する価値があると思います。そのことで、丸暗記の性質はかなり弱めることができます。
>今の私のやり方で進めていって効果は期待できるのでしょうか?
>というかこれで正しいのでしょうか?
私のレッスンは、初心者や中級者の初期を除いては、劇的な効果は自覚されることはないと思います。私のレッスンは、初級・中級の人には劇的な効果があります。特に、「音づくり」で、リスニングのきっかけをつかんだという報告が一番多いです。Jさんは、上級前半あたりにおられると思っていますが、このレベルになると、初心者が味わう劇的な効果というものは、あらかじめ奪われてしまっています。大量の練習で少量の前進があるということにしかなりません。切ない話ですが、上級者の宿命です。目に見えませんが、そして少しずつですが、効果はあると考えています。
何度も書きますが、これまでの練習で問題ありません。正しいですから、胸を張っていただいて結構です。
コーチとして、私の方は「復習範囲を手放さない」というたくらみを手放しません。
これの本当の効果というものは、レッスンでやったものがそのまま直接使えるというような効果ではなく、何度も浮き上がってきてしまう英語のシンタックスに錘をつけて、少しずつ無意識に沈めるというようなものです。上級者や、英語磁場帰りの人(英語圏に在住した経験があるが、日本語の磁場による英語の錆び付きの早さに自覚のある人)にとっては、前述のとおり、「維持」に主眼があります。
切ないことですが、大量の練習で少量の進展という上級者特有の宿命はどうにもなりません。宿命ですので。
以上ですが、不明の点は再度おたずねくださるようお願い致します。
を書きかけています。掲示板に載せるものとしては、非常に長文になる予定です。
これを書き終わったら、國弘さんに送って感想をお聞きする予定です。
國弘さんは、ネットをやっていないようなので、プリントアウトして郵送する予定です。
非常にぶしつけな文章なので無視されるかもしれない。
無視されても構わない。読むだけは読んでいただくつもりです。
の根性が、まるで直っていないのがはっきりわかったので、喧嘩をこきました。
お読み下さい。
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
寝ようと思って、以前に村田君が東京へ行ったとき買ってきてもらった Charles
Bukowski の
The Captain Is Out To Lunch And The Sailors Have Taken Over The Ship
を読み始めた
ら、いきなり最初のページでぎゃはははと笑えた。
面白い。実に面白い。ゲルマン語のエッセンスが満載である。
英語の勉強に役に立つことも多く書かれているので、いつも拝見させて頂いて
ます。次回は國弘さんのことを書くということで、こちらも期待して待って
おります。
ところで、以前根石さんがSAPIOに寄稿した記事を、もう一度直されて大風呂敷に
掲載したい、とおっしゃっていたのを思い出しました。こちらも期待しております
ので、いずれ投稿して頂けたらと思います。
自分のストックの量は、錆落としが日常に出来る範囲にとどめる事が大切であるように思われます。私は700選にゴーストそれに高校基本例文は常にすぐ出てくる状態にしておかないといけない。それをメンテするのに1日せいぜい2〜3時間(ぼーっとクスニングしている時間含めて)です。それをいかに集中してモチベーションを上げやり続けるかが問題です。でも私は短文を技法グランドして散歩していると気持ちが落ち着いてくる変な人なのでこの練習方法は幸いしています。
根石様。ご丁寧に回答いただき、ありがとうございます。
練習はもちろん声を出して練習しています。ぶつぶつ口の中で言っているのでもなく、ちゃんと大きな声をだして繰り返し練習しています。「暗記」しているのは「一文」の中身というよりは台詞の順番といったほうが適切かもしれません。誰かがこういったら次はこの人がこういう、、みたいな。。でもその「暗記」もメモをとることにより防げそうです。音読に関しては今の方法で正しいことがわかりましたので、このまま続けてがんばろうと思います。アドバイスありがとうございます。
1年間勉強させていただいていたにもかかわらず、回転読みの主旨を履き違えていたようで
す。(あまりホームページをじっくり読んだことがありませんでした。スミマセン)私は回転読みをCOMMUNICATIVE
METHODと混同してしまっていたようです。もちろんまったく同じだとは思っていませんでしたが、COMMUNICATIVEの部類に属するものだと勘違いしておりました。とにかく口に出すことで英語を作り上げていくというか、英語の音をつくるというかなんというか。。なので文法などは気にせずどんどん読み込む!という自分勝手な主旨のもとに読み進めていたようです。単語の意味がわからないときはもちろん調べてみたりもしていましたが、あまり細部にとらわれることなく練習していました。意味も細かいところはさておき、一文を全体的にとらえていました。とんだ勘違いだったようです。
私なりに英語は勉強してきました。学校にもいくつか通いました。受験勉強さながら文法構文等叩き込んだこともありますし、ひたすら英文を暗記したこともあります。でも使わなければすぐに忘れてしまいます。せっかく覚えた単語もすぐに忘れてしまったり、考えなければ口からでてこなかったり、肝心の会話の中で応用できなければ意味がありません。そんなこんなの理由をつけていろいろなことを覚える作業を止めてしまいました。
ある程度文法は必要だとは思いますが、そればかりが先行すると話せなくなってしまいます。じっくり考えて答えていたのでは会話は成立しません。現に私は「英語ぺらぺら」の「ぺ」くらいなもので、あんなに勉強したにもかかわらず、かなりの量の単語文法等忘れてしまいました。やり方が甘いのだ!とご指摘をうければそれまでですが、、
今はゴーストの中の会話を繰り返し読みながら、こういうときに使うのか。。くらいの非常にリラックスした感じで単語等流しています。
ついでにうかがう形で申し訳ないですが、文法的なことに関してはやはり少し掘り下げて勉強したほうがよいのでしょうか?今の私のやり方で(単語、文法等細かいことは気にせず読み進める)英語を取得するには、日本にいて、たまに音読をやるくらいでは難しいのでしょうか?
ご質問の件、しばらくお待ち下さい。
ぎっくり腰をやらかしまして、寝ております。
「電話でレッスン」で、やっと椅子に座っています。
長く椅子に座れません。
ごめんなさい。
名古屋の大学の先生からメールをいただきました。そのお返事を転載いたします。
----------------------------------------------------
メール、ありがとうございます。
「英語談義(1)」をお読みいただいたとのこと、うれしく思います。
インターネットが普及したからこそ、私ごときの発言にも、著者本人か
らメールがいただけるのだと思うと、ネットは私にはありがたいメディア
です。
アメリカですか、いいですね。私の夏休みは、お盆をはさんだ一週間で、
なんだか、ぐたっとしたらすぐに終わりました。
シンタックスの違いをどう乗り越えるかについて、いまだ学校その他の
英語教育機関はまるで意識的でないと思っております。
日本語を外国人に教える場合にも、シンタックスの問題が大きいのだと
のご指摘、私もそうだと思っております。
実は、私もイギリス人とスリランカ人に日本語を教えているのですが、
日本人を相手に現在やっている「電話でレッスン(英語)」で開発した
「技法グラウンド」を、イギリス人とスリランカ人を相手に使っています。
「技法グラウンド」というのは、きわめて単純な成り立ちのもので、一度
私(コーチ)が読んだものを、繰り返し生徒が読むという方法です。
これの元には、素読があります。
シンタックスの違いを乗り越えるためだけなら、独学でもかなりなことが
可能であるが、音の問題、イントネーションの自己決定力のためには、コー
チがいたほうが絶対的に有利だとの考えに立ち、私の現在の活動は、「電話
でレッスン」だけとなっています。実質的に、塾は妻に譲り渡しました。
「技法グラウンド」は、小学館文庫で書いた「回転読み」の穏やかなもの
で、コーチ付きのレッスンで使うにはこちらが向いていると考えています。
御著書をお送りいただけるとのこと、楽しみに待っております。
私の「英語どんでんがえしのやっつけ方」をお持ちでなければ、ぶしつけ
ながら交換していだだけるとありがたいのですが。
なお、お読みいただいたホームページを作成して以後、「大風呂敷」とい
う掲示板を作り、現在は主にこちらに書いております。よろしければ、おい
で下さることを願っております。
余計なことを書きすぎましたかもしれません。「技法グラウンド」などと
突然言われても、何のことやらと思われたかもしれません。しかし、私はこ
の方法が語学の柱にしてもいいだけの質を持っていると考えておりますので、
「大風呂敷」においでいただいて、批評願えればと切に望んでおります。
「大風呂敷」http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs
ちゃんと大きな声を出して、繰り返し練習なさっているとのことで、安心しました。
>「暗記」しているのは「一文」の中身というより
は台詞の順番といったほうが適切かもしれません。
誰かがこういったら次はこの人がこういう、、みた
いな。。でもその「暗記」もメモをとることにより
防げそうです。
是非、メモをとることを積極的に採用して下さい。文の最初の単語とか、その頭文字だけとか、ごく簡単なメモをとるのには時間がかかりませんし、台詞の順番に気をとられ、それにエネルギーを使うことにはあまり意味はありませんから、是非やってみて下さい。わずかなメモをきっかけにして、文まるごとが口から飛び出してくることの方がはるかに大事です。
>私は回転読みを COMMUNICATIVE METHODと混同して
しまっていたようです。もちろんまったく同じだとは
思っていませんでしたが、COMMUNICATIVEの部類に属
するものだと勘違いしておりました。
COMMUNICATIVE METHOD と称するものがどんなものかよくわかりません。お教えくださるとありがたく存じます。
>文法などは気にせずどんどん読み込む!という自分
勝手な主旨のもとに読み進めていたようです。単語の
意味がわからないときはもちろん調べてみたりもして
いましたが、あまり細部にとらわれることなく練習し
ていました。意味も細かいところはさておき、一文を
全体的にとらえていました。
どんどん読み込むというのは、まさにその通りですが、文法は必要だと考えています。
最初に細かいところに気をとられずに、一文を全体的にとらえるというのは、そのやり方でいいと思います。だんだんと細かいところに攻め込んでいけばいいと思います。
「復習範囲を手放さない」という原則によって、音のこなれができてきた範囲がたくさんありますから、その範囲については、細かいところに攻め込んでいって下さい。
語法・文法的にピンとこないところは、以前に旦那様がここで質問して下さったように質問して下さるのがいいと思います。場所は、「鬼」
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
が適していると思います。
>そんなこんなの理由をつけていろいろなことを覚える作業を止めてしまいました。
単語増強、英語による読書、その他、いろんな練習はどんどんして下さい。「暗記」ではなく、口で言い、手で書き、耳で聞くことを伴う練習で、つまり体で「覚える」練習でやって下さい。そういういろんな練習の中心に私の「電話でレッスン」を据えておかれると、非常に有効だと思います。
「電話でレッスン」がねらっているのは、「深度」です。つまり、垂直方向の練習です。単語増強等、横にというか面積的に広げる練習、いわば量をかせぐ練習は、週一回30分の練習ではカバーできませんので、生徒さんが各自どんどんやってくれることを期待しています。
「電話でレッスン」は、ひたすら「深度」をねらいますので、水平方向にさまざまな練習を繰り広げる場合の中心の柱になりうるだろうと思っております。
>ある程度文法は必要だとは思いますが、そればかり
が先行すると話せなくなってしまいます。
おっしゃる通りです。文法は必要ですが、文を単位として、音と意味を合体させるための媒介項に過ぎません。文まるごとで、音と意味が合体し、音の流れと共に意味が流れるならば、文法や文法意識は脱ぎ捨てて構わないものです。
>ついでにうかがう形で申し訳ないですが、文法的なことに関してはやはり少し掘り下げて勉強したほうがよいのでしょうか?今の私のやり方で(単語、文法等細かいことは気にせず読み進める)英語を取得するには、日本にいて、たまに音読をやるくらいでは難しいのでしょうか?
先に書きましたように、文法に関しては、音がこなれたものに関して、徐々に細部を攻めるのでいいと思いますが、それにしても、その文に含まれる主要な文法がくらがりのままであると、いつまでももやもやしてはっきりしないということがあると思います。
やはり、「鬼」で質問して下さるのがいいと思います。
文法のありがたいところは、一つはっきりと理解すれば、非常に多くのものに関してはっきりしてくるところです。ある程度自分で煮詰めておいてから、自分はこう考えたのだけど、それでいいのか、という形での質問が最上だと思います。是非、「鬼」をお使いくださるようお願いいたします。「鬼」にはつわものがいらっしゃいますから、私がやらなくても質問に答えて下さる人がいるかもしれませんし、もし、遠慮してどなたも回答しないようなら、私がやります。私の説明が違っていたら、すぐにチェックが入るだろうと思いますが、それこそがネットのありがたいところだと思っています。
語学における文法は、理解するのに十全に役立てばそれでいいので、文法のための文法は必要ありません。こんなことはすでに十分おわかりになっていることと思いますが、念のために書き添えます。
猛烈に眠くなってしまいました。
明日以降、書きますのでお許し下さい。
根石様
MSNが対応してくれてぼくのハングルメールボックスが日本語に戻され、いただいたメールが読めました。それをここに転載していただいて恐縮です。(再度お送り下さいとお願いしたぼくのヤフーのメールは反古にして下さい。でも、これからの御連絡は、ヤフーのアドレスの方にお願いいたします。)
ご著書いただければ幸甚です。「技法グラウンド」のことなど、拝見するのを愉しみにしております。シンタックスについては、これがその言語を使う人の「考えるプロセス」という意味で、英語(あるいは広くインドヨーロッパ語系)と日本語(あるいはウラルアルタイ語系)が真っ向から対立することから、日本語が日本人の英語習得を妨げていること、にもかかわらず、日本の教育では「翻訳の技法」ばかりやってきて、これをやっている限り日本人の英語学習は絶望的に不毛であることに、永い間わたしたちは気がつきませんでした。それは、大昔の日本人が中国文明の偉大さに気付き、早く取り込もうとして始めた返り点送り仮名(つまり中国語の翻訳法)による「学習」のために、中国語を中国語として理解しようとしなかった、永い永い不毛の歴史の延長線上にあります。ですから、ほとんどの日本人が(ぼくも含めて)、中国人と中国文化、あるいは西欧人と西欧文化がごく表層的にしか判っていないという、本当に残念な状況にあります。この不毛から脱脚するためには、ほとんどごまかしのインチキ教育から足を洗うためには、ぼくもお考えのように、「学校なんかやめちゃえ」と本気です。
三島由紀夫が最後の作品を『豊饒の海』と題し、己の文学を「不毛の海」として自己否定して死んだことも、このシンタックスが判っていなかったことと関係があります。彼が理想とした「やまとごころ」をその文学の本質としたいならば、ギリシャ以来の西欧文明を翻訳で理解できたなどと考えてはいけなっかったのです。自衛隊が侍でないと文句をいうまえに、翻訳教育が語学教育でないことに、自分が受けた教育が間違っていたことに抗議して、防衛庁ではなく文部省にこそ殴り込みをかけなければならなかったはずです。彼の(いや、われわれのというべきでしょうが)大きな間違いは、明治以来の「西欧に追いつけ、追い越せ」教育の理念、つまりは日本の近代化の過程で日本語を西欧語と「互換性」があるものとしてきた、その誤解(言語の本質的な無理解)だったと思います。
日本語は西欧語(あるいは中国語)に翻訳不能です。もちろんその逆も真なり。シンタックスの違いはどうにもならないからです。お始めになった草の根(ほんとうは「芝草の根」というべきなのでしょうが、これも「誤解」の一例か)運動に微力ながら協力させていただくことをお約束するための、ぼくなりのマ二フェスト(「大風呂敷」)を書かせていただきました。
mailto:ckumakurac@yahoo.co.jp
こちらにダイレクトにおいでいただいてありがとうございます。
メールを読ませていただいたのが夕方で、「電話でレッスン」の仕事が終わったら、お返事を書こうと思っておりました。レッスンの途中で少し時間がとれたので、ここを読んでみたら、すでに熊倉さんの記事があってうれしく思いました。
さしつかえがあってはまずいので、名古屋の大学の先生へのメールとして転載いたしましたが、実名で記事を書いていただいたことに感謝しています。本気でものごとを論じる気があるのであれば、実名(あるいはペンネーム)で行うべきであるという信条が私にあるので、この点で非常にうれしいです。ネット用ハンドルネームというのは、どうもあやふやで、これを使う人は論じることに対してもあやふやになる傾向があるので、どうもいけません。
「技法グラウンド」というメソッドや、「磁場」という観点などは、小学館文庫「英語どんでん・・・」発行以後に考えたものですが、「英語どんでん・・・」には、一応の基本的な考えというものが書いてあると思いますので、是非お読みいただければと願っております。妻に送付を頼んでおきましたので、アメリカからお帰りの頃にはお宅に届いているものと思います。
>シンタックスについては、これがその言語を使う人の「考えるプロセス」という意味で、英語(あるいは広くインドヨーロッパ語系)と日本語(あるいはウラルアルタイ語系)が真っ向から対立することから、日本語が日本人の英語習得を妨げていること、にもかかわらず、日本の教育では「翻訳の技法」ばかりやってきて、これをやっている限り日本人の英語学習は絶望的に不毛であることに、永い間わたしたちは気がつきませんでした。それは、大昔の日本人が中国文明の偉大さに気付き、早く取り込もうとして始めた返り点送り仮名(つまり中国語の翻訳法)による「学習」のために、中国語を中国語として理解しようとしなかった、永い永い不毛の歴史の延長線上にあります。ですから、ほとんどの日本人が(ぼくも含めて)、中国人と中国文化、あるいは西欧人と西欧文化がごく表層的にしか判っていないという、本当に残念な状況にあります。この不毛から脱脚するためには、ほとんどごまかしのインチキ教育から足を洗うためには、ぼくもお考えのように、「学校なんかやめちゃえ」と本気です。
実はあまり読んでいないのですが、このあたりは竹内好(字が間違っていないことを願う!)あたりの問題意識と重なるところだと読みました。武田百合子の旦那は、武田タイジュンなのですが、「泰淳」でしたっけ。武田百合子は大好きなのですが、旦那の名前の字を忘れてしまっています。
で、竹内と武田たちの問題意識は、中国語を中国語のままで理解しないなら、中国文学を読めたことにならないというものだったと私はとらえています。この私の理解も、竹内や武田の論を直接に読んでのものではなく、何かの批評文で知ったものにすぎないので、大きな誤解を含んでいるかもしれません。
学校の英語の先生達は、竹内や武田を読んで欲しい。私もろくに読んでいないので、でかい口はきけないのですが、英語の先生たちは、戦後のアメリカ天下り民主主義の枠内に生きてのほほんとしており、思想的なレベルとしてはろくでもない。日本国憲法なんぞも、口当たりのいいところを口当たりのいいように語るだけで、あれがアメリカの憲法を批判する根底になるほどの理念を持つところを抱きしめているとは思えない。
ほとんどの日本人が、中国人と中国文化、西欧人と西欧文化が表層的にしかわかっていないというご指摘はその通りだと思いますが、中国人や西欧人が、日本と日本文化をどれほど深層でとらえているのかと考えれば、ものごとは寒々とした広がりでしかありません。
中国語はアルタイ語系の言語ではないので、中国人が日本を理解するのは、日本人が中国人を理解するのが困難であったのと同じ程度に困難であろうという事情は、アメリカ人が日本を理解するのは、同じように困難であろうということと同じだと思います。
で、いつもながら寒々とするのは、日本では不毛であろうとも、英語を学ぼうとする人の数は膨大なものになるにもかかわらず、果たして、アメリカで日本語を学ぼうとする人の数がどの程度のものであるかと考えたときに、どれほどもいるわけじゃないという思いが私の胸中に生じるときです。この辺は、熊倉さんが詳しいことですので、お教えいただければと思います。日本を真剣に受け止めようという気のある人がアメリカにどのくらいいるのかという疑問です。
学校なんぞくたばるがいい、学校の英語の授業なんか何もやれていない、根底で間違っているなど、私はさんざ悪態をついてきましたが、この点においては、同志を得たほどに思っております。不思議なことに、実にこの同志を得るという感覚は希有のものです。日本の皆さんは何を勘違いしているのか、日本の近代以降の学校というものが、どんな悪態をついても足りないほどのしろもの(インチキ)であるということの認識を持っていないらしいのです。日本にしかいたことのない私が、「日本の皆さんは」と言うのも変なものですが、そうとしか呼びようがない。
>三島由紀夫が最後の作品を『豊饒の海』と題し、己の文学を「不毛の海」として自己否定して死んだことも、このシンタックスが判っていなかったことと関係があります。彼が理想とした「やまとごころ」をその文学の本質としたいならば、ギリシャ以来の西欧文明を翻訳で理解できたなどと考えてはいけなっかったのです。自衛隊が侍でないと文句をいうまえに、翻訳教育が語学教育でないことに、自分が受けた教育が間違っていたことに抗議して、防衛庁ではなく文部省にこそ殴り込みをかけなければならなかったはずです。彼の(いや、われわれのというべきでしょうが)大きな間違いは、明治以来の「西欧に追いつけ、追い越せ」教育の理念、つまりは日本の近代化の過程で日本語を西欧語と「互換性」があるものとしてきた、その誤解(言語の本質的な無理解)だったと思います。
有り難いという言葉の本来の意味で、希有な言葉であるという意味で、有り難いと思いました。殴り込みをかけるべきは、まさに文部省です。アメリカがテロの攻撃になるのであるなら、日本の中においては、文部省こそがテロの攻撃の的となっていいようなしろものです。文部省こそ、私ら、底辺を生きるインテリゲンチャを小馬鹿にしつづけてきた馬鹿エリートの巣です。この馬鹿エリートを水で薄めれば、学校の先生であるというのが、現今、実に情けないことです。
三島由紀夫一人に関して言うなら、彼の狂いは当初からのものであり、彼は狂い続けて死んだと思っています。彼が若いころに書いた美文を、若い頃に読んで、どうにもいやはやと思ったことは覚えております。こんな人もいるのかと驚きました。正気が狂気であり、狂気が正気であるところを生きなければならなかったところには、人の宿命をいうものを思うだけです。私も三島の宿命とは別のものながら、私の宿命を生きており、三島の死んだ歳をはるかに越えてなお生きておりますが、宿命自体としては同じだけの重量を生きてやろうと思っております。
小林秀雄は、三島がハラキリをしたときに多くを語らず、ここには実に痛ましいものがあるとだけ言いました。腹切りではなく、ハラキリになってしまったことを言っているのか。三島は欧米的視線を絶えず前提にしていたと思います。だから、腹切りではなくハラキリになっただろうと思います。痛ましいという思いは小林と共有できても、大阪の池田小学校におけるルサンチマンの黒い暴発など、わたしどもは小林が沈黙したものの後を生きています。中也の言葉を借りれば、実に茫洋とする。茫洋とする以外の誠実さというものを、私はいまだみつけられないでいます。
語学や異言語の問題は、思想の問題と直結しているのだとのお考えと読みました。私もそう考えております。この一点を、戦後の日本人は実に実におろそかにしてきたと思います。
現実に足のつかない語学という激しい行為を真剣に考えることこそ、今必要なことだと思っているのですが、これに関して思いを共有できる人は、語学の世界にも文学の世界にもかつていませんでした。
熊倉さんの言葉を有り難いと思うのは、そのゆえだと思っています。
どうぞ、「大風呂敷」で、御著書を発行されて以後の考えを思う存分に展開していただくことを願っております。
追伸。
「芝草の根」という語には、顔の筋肉がゆるみます。
実にそうです。よろしくご協力をお願いいたします。
アメリカがテロの攻撃になるのであるなら、
→
アメリカがテロの攻撃対象になるのであるなら、
もう、九月か。
今夜も雨。
根石さん
掲示板には、ずいぶんなご無沙汰です。
すみません。
ところで、急用ができましたので、
今夜の私のレッスンをお休みさせてください。
よろしくおねがいします。
涼しくなったら、
ぼつぼつ書き込みも再開したいと思っていましたら、
ここ1週間ほど北部九州は真夏の暑さです。
承知しました。
その後、英語に変化が現れていると思っておりますので、掲示板への書き込みをお願いいたし
ます。
ホームページをお読みいただきありがとうございます。
記事が古くなったまま、更新しないでおり、人様に迷惑をかけております。
ホームページビルダーという更新用のソフトを立ち上げるたびに、コンピュ
タがフリーズするため、おっくうになって放置してあるという事情もあります。
「回転読み」「技法グラウンド」のテープをお譲りして、感想を聞きたいと
思って考えた企画でしたが、どうもテープをお譲りしただけでは、「回転読み」
の方法としてのエッセンスは伝わないと考え、現在では、テープ送付は中止し
ております。
小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」は、著者取り分がまた多少
残っておりますので、お譲りしています。600円分を郵便小為替で下記にお
送り下されば、不足分の送料はこちらで負担してお送りいたします。
387−0015
千曲市鋳物師屋642−3
根石吉久
記事の更新をさぼり続けておりましたこと、お許しいただきたく平にお願い
申し上げます。
一度試しに「電話でレッスン」をお受けいただければと願っております。
初心者から中級者のレベルの方には、是非お勧めしたいものです。
また、英語圏に在住された経験をお持ちの方や、日本で英語力を作られた方
で、日本語の磁場に生活することが、どれほど急激に英語を錆び付かせるかの
自覚を十分にお持ちの方にも受けていただきたいレッスンです。
以上、お詫びとお願いです。
根石吉久
中学程度の基礎がかためられつつ かつ 実用的な大人用のテキストを。
前にやるといっていて ずーっとさぼっていた。
中学程度の基礎なくして英会話はできない。
旅行英会話もできない。ましてやコミニュケーションなどとることは不可能だ。
酒を飲んでその場の雰囲気でわいわいするぐらいならちょっとの言葉と心意気とボディーランゲージでじゅうぶんだが。
基礎をすっ飛ばして英会話をやりたい人が大多数だ。すっとばしてやっても ある程度までいくと(ある程度もいかないが)伸びない。
基礎固めは中学のテキストを使って大人もレッスンをしていた。
市販のものや外国出版社のテキストをさがしたが大人用の使えるテキストがあまりない。
今は中学のテキストをつかいつつ 二年教科書の後半からOxfordアメリカンストリームやパスポートなどを併用したりしている。
これらはリスニングがはやいので 中学一年の教科書のテープもききとれないうちはできない。
プライベートで10回ほど教え 中学二年のテキストにはいったところで 仕事の都合でこれなくなった生徒がいた。それから二年、今度アメリカ人と結婚するときいた。いつからつきあいはじめていたのかはわからないが そりゃあネイティブと恋人として会話できれば これに勝るレッスンはないわけだ。 仕事が一段落ついたあと 私のレッスンに戻らずに ネイティブのレッスンをとりはじめたのか。
授業をやめたわけは 果たして本当に仕事が忙しくなったからだったのだろうか?私のレッスンが退屈だったのかもしれない(ほとんどの生徒は90分レッスンをあっという間と感じてくれるが)
基礎練習につまらなくなったからか?中学1年のテキストを復習しなおすのはやはり退屈そして
プライドがきづつけられるのだと思う人がおおいのであれば やはり大人向けの基礎テキストをつくらねばならない。
中学のテキストを煮たり焼いたりいろんな手立てであきさせないようにするコーチつきで
基礎訓練が続かないとすればとすれば
中学のテキストをベースにした「ぜったい音読」をやり遂げられる人は少ないといわざるおえない。
日本語訳がのっていないので訳があやふやになる。
独学の仕方はかいてあるが実行するには 叱咤激励するコーチがいなく続けられる人がどれほどいうるのか。
英語の達人や講師はごまんといるはずだ。巷に英会話書があふれかえっている。
なぜ大人用のよいテキストがないのか?
どなたか よい本がありましたら教えてください。
そうだ。知り合いの娘さんということで 特別価格で教えていたからなおがっくり来たのだ。
あの値段であのレッスンをうけて 不満足?
プランしたレッスンも やはり ”生”会話のインパクトには負けるのか。
どんなに知り合いでももうレッスンを安売りはしない。
いや 恋の力がいちばんか。話したい分かり合いたいという強力な動悸。
彼女は恋人のおかげでかなり英語が話せるようになったのだろうか?
いつか合うのが楽しみだ。
けれど娘さん 基礎ををしっかりやっておかないと 現地にわたって親族や友人との日常生活に苦労するよ。アメリカには片言の花嫁がたくさんいるが離婚も多い。恋が冷めたら言葉が必要なのだ。あめりかでは「あ、うん」は通用しない。
基礎、からっぽの電池を作ってから行くがよい。空っぽの電池は生活言語とは違うが生活言語を使いこなす時に元になるものだ。
記事ありがとうございます。
どしどしお書きくださるよう願っています。
メールありがとうございます。
すぐにお返事が書けず申しわけありません。
柴田さんのご縁で、私のホームページを読んでくださったと
のこと。うれしく思いました。柴田さんの授業は、現在の日本
での最高レベルの授業だと思っています。
私のホームページにあるのは、柴田さんが「大風呂敷」に書
いてくださった初稿です。その後、改稿されたものが、
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
に掲載されています。こちらは、村田君が管理してくれている
過去ログの倉庫です。過去ログには、柴田さんと私の議論も掲
載されておりますが、記事数が膨大なものになっているので、
読みやすいダイジェスト版が欲しいところですが、やたらにい
ろんなことをやっていまして、手が回りません。
面白いと思ったものをピックアップして、「大風呂敷」に再
掲する作業は村田君に依頼してあります。これを持続してやっ
てくれれば、結果として村田版ダイジェストができるのですが、
こちらも進展しておりません。
勤務されているのは、公立の学校でしょうか。中学でしょう
か、高校でしょうか。どちらであっても、公立の学校で柴田さ
んがやられたような授業をする場合は、多々困難があると思っ
ています。
高校ですと、「音づくり」を経ていない生徒が入学してきて、
大学入試向けの授業なんかをした場合には、「意味と合体させ
るだけの質を備えていない音」に意味を合体させていきますの
で、結局、使えない英語の量産となります。
中学で「音づくり」をやるようになることが非常に大事だと
思っていますが、実際にそれがやれている授業はほとんどない
に等しいと言っていいでしょう。
柴田さんの「音作りへの道」はなるべく多くの方に読んでい
ただきたいと願っておりますので、回りの人にURLをお知ら
せ下さるとうれしいのですが。
私と柴田さんとの間に、かつて「完璧な音」という考えをめ
ぐって議論がありましたが、その後、さらに考えてきたところ
を書かせていただくと、私の現在の考えは、中学でやるべきこ
とで決して抜かしてはならないことは、「意味と合体させるに
足るだけの質を備えた音」の「音づくり」だろうと思います。
「完璧な音」という考えには、今も強い違和を持ちます。
しかし、それ以外のところでは、私は柴田さんを全面的に支
持しています。あれ以上の授業はまずみつからないのではない
かとも思っています。
近頃は、柴田さんが「大風呂敷」に書いて下さらないので淋
しく思っています。いよいよ、柴田さんが中学1年生から仕込
んできた生徒たちが、大学受験に向けての急坂を登らなければ
ならない時期にさしかかっているので、お忙しいのだろうと推
察しております。
ところで、「大風呂敷」はご存じでしょうか。柴田さんが、
初稿を書いてくださったのも「大風呂敷」でした。
http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs
私は、日本近代の学校に対して、いいようもない怨みを持っ
ている人間ですので、学校や文部省に対して、その制度の根に
対して、口汚くののしることをはばかりなく行ってきましたが、
実は「大風呂敷」には、学校の先生たちに登場して欲しいとも
思っておりました。文部省の指導などというものがいかにいい
かげんなものであるのかは、現場の先生たちの声が多く響くな
ら、より明らかに照らし出されるだろうと思い、そうなること
を願っています。
ご登場はペンネームで結構ですので、おいで下さることを願
っております。
根石吉久
「鬼」からこっちへ引っ張り出そうと思います。
実は、恥ずかしい話なのかどうかもわからないのですが、「カラマーゾフの兄弟」をまだ
読んでおりません。その程度の人間です、私は。
四十代には井伏鱒二を読み、五十代でドストエフスキーを読んでやろうと三十代の初めに
計画したのでしたが、四十代で井伏を読むことさえできずに、べんべんと生きてきてしま
いました。
マラルメに言ってやりたいです。
何が万巻の書を読み終えたか、くそったれ。
太宰治は読んだのか、井伏鱒二は読んだのか。
江藤淳は読んだだろう。しかし、つげ義春は読んだのか。
ああ、俺も糞ったれだ。
読もうとして憧れたものの一部を囓ってそのまま死んでしまうのだ。
糞ったれ。
三島について。
私は、彼の「やまとごころ」は表記が間違っていると思います。
あれは、カタカナで「ヤマトゴコロ」と書かないといけないと思います。
彼は世間体を必死に生きた人であると思ってもいます。
彼の世間体は西洋的視線にさらされていたところが、私どもの世間体と違うだけです。
世間体の人です。
國弘論、難渋しているというか、放置してあります。同じことです。まだ、もっと考える必要が
あると思うと、手をつけるのがおっくうになります。
しかし、國弘さんが生きている間に読んで欲しいとは思っています。
今日、レッスンの時にお話しましたが、単純に考えても、語学には垂直方向の練習と、水平方向
の練習があります。
水平方向とは、次々と本を買い求めて、浅く広く練習することです。
垂直方向とは、一つの文がどれほど自分にとって馴染みになっているか、つまり「こなれ」の問
題に関することです。
垂直方向を深くする練習は、「質」に関することです。
水平方向を広げる練習は、「量」に関することです。
アメリカという国が馬鹿だけがいる国だとは決して思っておりませんが、日本人が「質」をおろ
そかにして「量」に目を奪われてしまうなら、日本こそが馬鹿に満ち満ちた国になるでしょう。
マッカーサー・ノートによれば、それがマッカーサーが見積もった日本でした。
>マッカーサー・ノートによれば、それがマッカーサーが見積もった日本でした。
昨夜はほぼぐらぐらするまで酒を飲んで(酒に飲まれて)書いたので、今日読んでみるといやはやというような口調の文が書いてある。今日もまた飲み始めてしまったが、ぐらぐらする前に昨夜書いたものの注釈を書いてしまいたい。
現在、江藤淳の「一九四六年憲法 その拘束その他」(文春文庫)を難渋しながら読み進めているところだが、江藤が政治を論じ始めると国家というものから身を剥がしてものが言えないのだとはっきりわかる。社会人として大人ぶりを発揮してしまう人であるところに強い違和を持つものの、日本の戦後という時空を縛っているアメリカの恣意による透明で強力な拘束を客体化した労には、私はきちんと頭を下げたい。
文学者としては実にあやういところを踏んでいる。文学者として書く文体の柔軟さと、社会の大人として書く硬い文章との間にある江藤の分裂。この分裂こそが、江藤の問題であるばかりでなく、日本の戦後という時空に隠されている分裂の問題なのだ。
私の子供の頃、マッカーサーという名前は一種の尊敬の響きを伴って発音されていたような覚えがある。なんとなく尊敬していい人なのかもしれないと私は思っていた。
江藤の本を読み進めているうちに、マッカーサーという名前にさしていた後光のようなものは消えた。この人は、原子爆弾を落とした国から来た司令官であることを重々承知であり、その原子爆弾というものの力を踏まえて、実に高みから日本を見下ろしてものを言っていたのだということがわかる。
ただ単に戦争に勝った国の指令官が戦争に負けた国を見下しているというようなものとは違うと思う。軍人のマッカーサーにおいては、日本は「最初から」劣った国なのである。マッカーサーのこの心の態度は、戦争の勝ち負けという条件を除いても、マッカーサーに、あるいは欧米の白人にある。植民地時代という昔から、彼らがアジアを見る視線にずっと根付いていたものである。マッカーサーに体現された傲慢は、戦争に勝った国の司令官が戦争に負けた占領国に対しての関係においてはっきりと現れるものになったが、戦争の勝ち負け以前に、この傲慢は西欧からアジアを見る視線にいつでも伏在していたものだ。欧米は欧米の思考シンタックスにおいて、「最初から」劣ったものとしてアジアを見ているのである。
マッカーサーは、日本の国民には英雄として、日本の政治家たちには自由の国からきた検閲官としてふるまって去った。自由の国からの検閲官、民主主義の国からの検閲官とはいったいどんなしろものなのか。いったいどんなしろものか言いようもない者が規定した日本国憲法とは何か。それが江藤の問題意識である。(同じものが三島由紀夫の問題である。)
「量」と「質」のことが、マッカーサー・ノートに書かれているというのではない。しかし、「量」にばかり目を奪われ「質」をおろそかにするような現今の日本人の行為にある性根のなさこそは、アメリカが日本にもたらしたものではないか。
アメリカが是非とも日本を骨抜きにしたかったのは、「量」と「質」の問題なのだ。
アメリカ中枢は、「質」において戦争に勝ったとは思っていなかっただろう。なにをしでかすかわからない日本(真珠湾攻撃)というものをアメリカは知っていたからこそ、アメリカ中枢は日本を骨抜きにしようと考えたのだ。アメリカは「物量」によって勝ったのだと知っているはずだ。それは、アメリカのネイティヴたち(アメリカインディアン)に勝った勝ち方と同じだとアメリカ中枢の無意識は知っていたはずだ。
マッカーサーが規定した戦後の日本の時空という枠は、日本製品という「質」をいっとき花開かせた後で、その花の根を枯らすように働いてきたのではないか。
いまや、日本の職人の仕事の質の低下は、目も当てられないようなものになっている。畳屋、大工、板金屋。私がつきあった職人は、みなかつてはいい仕事をした人なんだろうと思えるのに、実にくだらないところで大きな間違いを平気でやったりして恬淡とした。馬鹿野郎ども。同じ社会的クラスから出た者として、悲しい、俺は。
「やる」と言って引き受けたことを、やらないで放置しつづけるような若い日本人の根性というものも、職人達の考えが(技がではない)根腐れしてしまっているように、根腐れしている。(私ははっきりと二人の人間の顔を思い浮かべてこれを書いている。)
あいつらを信じることはできない。
自由の国から来た検閲官と同じように、民主主義に妥協する職人などというものはわけがわからないしろものである。だけど、実際はそんな連中が職人を自称しているのだ。そして、根をぼろぼろにしていってしまう。
語学だって同じなのだ。語学のコーチとしての職人がどれほどもいやしない。英語の先生や英語を教えている人は掃いて捨てるほどいるが、どれもこれも職人と呼べるだけの仕事などしていやしない。(柴田武史さんは、私は見事な職人だと思っている。)
日本の戦後という時空はマッカーサーの見下す視線に実に実に従順であった。
マッカーサーの見下す視線に従順に、日本人は日本人を見下してきた。見下す視線の内在化において、日本人は世界に類がないだろう。(M君のエロトメイニャの出所もそこだろう。)それがしかし、少年達の心を腐食した金属のようにぼろぼろのものにしてしまっているではないか。根をぼろぼろにしてしまった職人がいるのと同じことなのだ。少年たちの心はいまや老人めいている。
そして、この事態こそは、マッカーサーを指示したアメリカ本国の中枢がねらったものだと疑うことは十分に可能なのだ。自由の国だの民主主義の国と呼ばれる国から来た司令官が、自分一人の意志で検閲を実施していたとは考えにくいことだ。アメリカ本国の中枢の意志の反映だと考えることは可能である。
マッカーサーの元で作られた憲法案は、まったく日本を骨抜きにするためのものであるのは江藤の本を読めばはっきりする。日本側は抵抗し、いくつかの条項は変更されたのだが、「交戦権の否定」は残った。
江藤は、「交戦権の否定」に反発して、「交戦権の肯定」を導こうとしている。それが駄目なのだと思う。
文言の字句は正確ではないが、私なりの言葉で書けば、「日本は交戦権を放棄する」というのが、憲法第9条にあるものである。
「交戦権の肯定」など導く必要はない。「交戦権の否定」のままでいい。「日本は交戦権を放棄する」を「日本はみずから交戦権を放棄すると同時に世界のすべての国家に対して交戦権を放棄することを要求する」と書き直せばいいのだ。戦争に負けた国はそれくらいのことを言うがいいのだ。
こうしないと、アメリカに押しつけられた憲法をアメリカの方に向け直すことはできないはずである。「世界のすべての国家」の一つにアメリカはもちろん含まれる。違うのか。アメリカは「国家達の国家」だというのか。認めることはできない。アメリカはインディアンの土地を泥棒して成ったただのひとつの国家にすぎない。違うのか。
アメリカは北朝鮮に原子力を放棄しろと命じたいなら、てめえが最初に放棄しろ。違うのか。朝鮮を分断した力にアメリカが関与しなかったとでも言うのか。
「否定」に対して単純に「肯定」などを持ち出すところが江藤が駄目なところだと思う。
だからといって、江藤が客体化したアメリカ中枢の魂胆に日本人がいつまでもめくらのままでいていいはずがない。英語フリークなどは掃いて捨ててしまいたいのはそのためだ。彼らは端的に言って、英語のできるめくらにすぎない。
まずい。また酒に飲まれ始めた。ぐらぐらする。
江藤は、日本の保守勢力と、日本の革新勢力と、アメリカ中枢との暗黙の了解(蜜月)を
書いている。正確だと思う。
K> メールにお書きくださったURLは「大風呂敷」につながりまし
K> た。ありがとうございます。ただ、ホームページのリンク「大
K> 風呂敷」はリンクしていないようです。
申しわけありません。これは、IBMの「ホームページビルダ」と
いうソフトを動かすと、必ず私のコンピュータがフリーズするので、
ホームページに記事を追加したり、リンクを更新したりするのがお
っくうになり、ホームページをいじるのを現在放置しているためで
す。ウインドウズの出来の悪いのはよくわかっております(自滅型
OS)が、IBMの技術力もマイクロソフト並なのではないかと疑
っています。
通産省がトロン計画をつぶしたのが根元です。
文部省にも通産省にも殴り込みをかけていいと思います。
文部省には、私ら語学屋がなぐり込むのがいい。
通算書には理系の人々、技術屋の人々がなぐり込むのがいい。
で、リンクのこと、申しわけありません。
しばらく、私のホームページは放置いたします。
K> 帰国後溜まっていた雑用に追われ、たくさん書いてくださった
K> ご返事にすぐ反応する余裕がありません。少々時間をください
どうぞお仕事を進めてください。
私や掲示板におつきあいいただくのは、お仕事の後の余力があった
時で結構です。
熊倉>。僕のアメリカの友人たちは、日本文学を大学で教えていますが、
ほとんどその教育は、日本語の原文を英訳することが中心ですから、日
本の英語教育と似たり寄ったりです。
ははあ。英語側にとって日本語は、日本語側からの英語の距離と同
じだけの距離があると考えてきましたが、そんな程度のていたらくです
か。アメリカにおいても。
拙書、お手元に届いておりますでしょうか。
この私のメールも、「大風呂敷」に転載させていただきたくお願いい
たします。
根石吉久
さしつかえが生じるとまずいだろうと思い、熊倉さんからいただいたメールへのお返事だと
いうことを明示せず、メールの相手をKさんとして書いたのですが、酔っ払った脳味噌のせ
いで、熊倉という文字が残ってしまいました。
この掲示板は村田君が管理していてくれますので、私は管理者ではなく、削除して書き直し
再投稿しようとしましたが、できませんでした。
申しわけありません。
寝ます。
鬼胎児。
そこに異端児!
現代スペインを代表する作家フアン・ゴイティソーロのインタビューから引用。(朝日新聞・朝刊 2003年9月10日 水曜日)
「・・・私が平和主義者として思う原則は、いかに高尚な理念を掲げても戦争は結局人を殺すもの、ということだ。理念を掲げて戦う者はやっかいだ。人間同士なら敵とでも妥協や交渉が可能だが、理念を掲げる限り合意に達することは永遠にない。スペイン人詩人ブランコはこの状況を『天に根ざす者は、地に平和をもたらさない』と表現したが、言い得て妙だ」
たとえば、賊に襲われ殺されそうな家族(妻、子供など)をまえにして、緊急反撃で賊を殺してしまった場合、これは正当防衛で「賊を殺害した罪」は刑法では問われない。ただ過剰な正当防衛は罪を問われるようだ。殺さなくても賊の襲撃は防げたと司法が判断した場合などだ。
-----------------------------------------------------------
「日本国憲法」から引用。
第二章 戦争の放棄
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争
と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこ
れを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権
は、これを認めない。 」
-----------------------------------------------------------
憲法第九条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」を、素直に読めば、日本は他国の武力攻撃を受けたとき、反撃することができない。つまり日本人は、殺害されるがままという事態を呆然と見ているだけなのだ。そう虐殺されるままなのだ。そんな馬鹿な話が国民の総意であるわけはない。
すくなくとも、正当防衛としての自衛権の発動は認められるべきであろう。限定つき「交戦権の肯定」は必要であり正当である。憲法は改正されるべきだと思う。
憲法第九条を肯定している人たちに聞きたい。正当防衛は犯罪ですか?
日本が攻撃を受け侵略されたとき、あなたちは何をしていますか?
「日本国憲法」URL。
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1946C.html
「武力攻撃事態法案全文」URL。
http://news.kyodo.co.jp/kyodonews/2002/yuji/news/20020417-38.html
K様
御著書お送りいただき、ありがとうございました。すぐにお
礼を申し上げようか、読んでからにしようか少し迷い、読み始
めましたら、横から次々とやぼ用が出てきますので、時間がか
かってしまいました。家の自作を継続しているためで、英語の
ことを考えていたと思えば、モルタルの配合やら建材選びやら
に迷って、考えることがまったく語学から離れます。
語学屋とはんちく職人の二つの領域を往復するのがときどき、
とてもつらいと思う時があります。
メールでは酒の作用か『インチキ教育から足を洗うためには、
ぼくもお考えのように、「学校なんかやめちゃえ」と本気です。』
というお言葉に興奮したためか、「同志」などという言葉を使
ってしまったと覚えておりますが、ご著書を読ませていただい
ているうちに、まずいなあ、と内心で思っておりました。
私の本は、一種のやっつけ仕事だと思っております。その程
度のものを書いたにすぎないものが、地道に長い時間をかけて
著書を世に問うている方に対して、「同志」などと言ってしま
いました。こりゃとことんまずいなあと思っておりました。
本の背後に、持続する思考の厚みというものを感受して、し
きりにまずいなあと思いました。
年齢的に近い方だろうと勝手に思いこんでいたという事情も
あったかもしれません。御著書の奥付を見たら、十五歳も年上
の方で、勝手になれなれしげなことを申し上げたことに、汗が
出るような思いもしました。
失礼いたしました。
私は日本語の文法というものをちゃんと勉強してみようと思
ったことがありません。ちゃんと勉強してみようと思えないの
は「ちゃんとした文法」がまだ出来ていないからだと勝手に決
めつけておりました。しかし、Kさんのようにアメリカで日
本語を教えるという仕事をするなら、生徒の理解に日本語の文
法を介在させないわけにはいかないので、もし日本語に「ちゃ
んとした文法」ができていないなら、アメリカで日本語を教え
るということは途方もなく困難なことになるだろうと想像しま
した。この方面に関しては、今後「大風呂敷」の方でお話をお
聞きしたいと願っております。
日本語の文法がわからない私にも、「き」「けり」をめぐる
解釈の間違いの指摘などの部分は、胸のすく思いがありました。
日本の国語学界でのいいかげんな文法の扱いでは、アメリカで
日本語を教えることの基礎が得られないので、Kさんは日本
語の文法を考え続けられた。そうしてみたら、国語学界の文法
解説や国文学会の解釈のいいかげんさが逆に照射された、とい
うことだったのだろうと推測しています。
語学のコーチが、国語学界や国文学界の大御所の解釈をひっ
くりかえしているわけで、本居宣長などまでひっくりかえされ
ているわけで、爽快でした。
私はほとんど小説というものを読まないのですが、御著書を
読み進めているうちに、ここで扱われていることは私の小説嫌
いと関係あるなあと思っておりました。
極めて単純化して言ってしまいますが、私は小説に出てくる
「彼」という言葉が嫌いなのです。何が「彼」か、とつい思っ
てしまい、読み進められない。「彼」なんていう言葉は、若い
女の子が(それもあんまり言葉に対する感受のよろしくない子
が)、自分の恋愛を話題にするときに使うくらいで、英語の
he と互換性はない。
御著書の中の <He is sad.> が日本語で言えないという問
題と、私の小説嫌いは同じ根から出てくる問題だろうと思った
のでした。
また、私は文章を書いていて、自分のことを「私」と書いた
り、「俺」と書いたりして、その二つが混ざって困ることがよ
くあります。特に掲示板とのつきあいでは、夜中に一人で酒を
飲みながら吠えていたりするので、「私」と「俺」が混在しま
す。俺はいったい私なのか俺なのか、俺を私と言っている俺
(私)や、私を俺と言っている私(俺)は私なのか俺なのか、
という具合に混乱し、混乱を放置することがよくあります。
これが、日本の近代文学を貫いている問題と関係があるのだと
は御著書によって照らし出していただいたことです。
芥川のこととか、演劇のこととかについては、私には読みきれ
なかったという思いがあります。今後、お教えいただきたいと願
っています。
いくつか質問させていただきたいこともありますが、今後、掲
示板でお教えいただければと思っています。
ただいま、掲示板は憲法をめぐる問題などが出てきておりまし
て、タイトル通り大風呂敷を広げた状態です。書きにくい掲示板
だとよく人に言われますが、話題の混在は避けようもないので、
雑多なまま継続するしかないと考えております。
このメールも、掲示板の方に転載しておきます。メールの内容
をきっかけに使っていただいておいで下さるのも一法かと思いま
す。
ひとまずお礼を申し上げ、手短な感想だけ書かせていただきま
した。
先日いただいたメールにお書きいただいた諸点については、後
日書かせていただきます。
根石吉久
正当防衛に関しては足立さんの考えでいいと思います。
理念に関しては、フアン・ゴイティソーロの言う理念と、私が考えている理念とが違うと思いました。ゴイティソーロの言う理念は、お題目のようなものではないでしょうか。中国やソ連がお得意としたお題目です。これは、現在、ブッシュのもの言いの中に、やはりお題目として唱えられています。言っていることは違うが、お題目である点においては同じです。
私は、理念というものはお題目ではないという考えです。
理念以外に何があるのか、最終的に何があるのかと思っています。
理念以外に何もないじゃないかと思っています。
「無抵抗不服従」という言葉を突然思い出しましたが、記憶違いかもしれません。正確かどうか自信がありませんが、ガンジーの言葉だったと記憶しています。これも、私にとっての理念です。お題目ではありません。
しかし、やはり憲法9条です。
これは実に問題です。憲法は理念をいう法律だと思うので、戦争なんか全部やめちまえでいいはずだと思う。全部の国が戦争を放棄しろ、でいいと思う。そういう言葉として、成文化しないかぎり、私はこの憲法に書いてある文章を抱き取れない。
アメリカが世界史の先端を走っているつもりであるなら、この国が「俺はやめる。だから世界のすべての国がそれをやめろ」と言えばいい。それなのに、この国を牛耳っている猿どもが、「俺はやる。だけど世界のすべての国がそれをやめろ」と言っている。ヤクザな国です。
問題は理念です。
戦争なんかやめちまえ、馬鹿くせえ、でいいと思います。
経済効果も糞もねえ。
経済効果のために、子供が殺されてたまるか。
私はもうじき孫を持ちます。
絶対に国になんかとられたくねえ。そう思っています。
欲ってもんだと思います。
いくら理念を高く掲げたところで、欲はその根のあたりをしっかりとほじくり、理念の高みは
しっかりと崩す。
欲がある限り、戦争は絶えない。
アメリカも「理念」で動いていると見せて、欲で動いてけつかるのです。
欲がある限り、戦争は絶えないとは、実に仏教的なものいいです。
この点で、仏教は実にいい。せちがらくないのがいい。それぞれの成立の事情というものは
あるだろうから、それぞれの根拠はあるのだが、理念の高さにおいて、キリスト教なんぞは
仏教の元に跪いて考え込むがよろしいと思う。
自然は水際だっている。
これは、吉本隆明が誰かの言葉を引用したものだと記憶しています。
好きな言葉の一つです。
上野千鶴子「いつもそばに本が・中」(朝日新聞・朝刊 2003年9月14日 日曜日)から引用。
「社会学者とは、人間の想像より現実のほうがもっと豊かだ、と思うひとびとのことである。現実より想像のほうが豊かだ、と思うひとは、作家に向いている。想像力は、残念ながら、ひとの身の丈を超えない。反対に、まさか、と思うようなことは、きっと事実だろう、と考えることにしている。
わたしは今でもぼうだいな量の本を読むが、ひとに会ったり、現場を踏んだりするのも、それに劣らず好きである。本からはわたしが得たいと思っている情報しか得られないが、経験からは、わたしが予想もしない贈りものが、向こうからやってくるからである。」
たしかに一理ある。だが、現実経験が現実であるのは、人間の想像力の働きが事実を捕捉しているから成立するはずなのだ。また、だれもが固有の感受性をそなえていることから、だれもが同じ現実経験を経ていても、見ている現実は違うと考えられるのではないか。
「問題は欲ってもんだと思います。
いくら理念を高く掲げたところで、欲はその根のあたりをしっかりとほじくり、理念の高みはしっかりと崩す」
そうかもしれません。欲は人間の根元ですね。
>「無抵抗不服従」という言葉を突然思い出しました・・・
わたしは「非暴力不服従運動」と憶えていましたが、訳語がいろいろあるのかもしれません。インドを英国の植民地から解放するため、ガンジーが指導した独立運動ですね。わたしの記憶では、この独立運動の目的は「英国が無抵抗のインド人に暴力の限りを振るっていることを国際世論に知らしめ、英国への非難を喚起させ、よって最終的にインド独立を勝ち取ること」だったと思います。
ただ、何年まえだったか忘れましたが、「ガンジー」という映画を観ていて疑問に思ったことがあります。
ガンジーが「非暴力不服従運動」をインド全土に展開することで、多くのインド人が英国軍に殺害されています。死者の数は知りません。このような結果を考えるとガンジーは、あらかじめインド人に多数の犠牲者が出ることを覚悟していたのだろう、と思いました。これはあらゆる戦争指導者の覚悟と同じものです。戦争の方法が違うだけです。
そう、「非暴力不服従運動」は苛酷な戦争だったのです。「非暴力不服従運動」というと平和主義者が好みそうですが、実態はきれい事ではない死者の出る戦争だったと、私は考えています。
K様
シンポジウムの記録をありがとうございました。
ただいま、腰を傷めており、長く書けませんので、手短にいたしま
す。
非常に面白い内容でした。私の作業として、「大風呂敷」にいくつ
かに分割して掲載したいと思います。(一つの記事に文字数制限があ
るためです。)
また、今日村田君に会いましたので、doc 形式のファイルのまま、
村田君に渡し、改行の乱れなど整序した後に、村田君が管理する記事
の倉庫へひとまとめの記事として収めてもらうことを依頼し、承諾を
得ております。
この倉庫へ入れるべきもので、やり残しているものがいくつかある
ので、少しお時間をいただきたく思います。
K> 日本語の文法を書き換えるためには、やはりシンタックスの問
K> 題から始めなければならないようです。少しずつでも書いたも
K> のを見て頂くことにいたします。
まさにそうだと思います。
最初に、「一文字詞」というものを取り出す必要があると考えてお
りますが、どんなものでしょうか。「一文字詞」というのは、いわゆ
る「てにをは」のことで、「が、は、を、に、の、も、と、で」など
です。
英語のシンタックスは構築物のシンタックスであり、日本語のシン
タックスは流動物のシンタックスであるというような漠然とした考え
があるのですが、日本語において流動するイメージは、これらの「一
文字詞」によって流れを変える。いわば、川の中にある石のようなも
ので、どの石があるかによって、それ以後の流れが変化する。流れの
変化そのものが日本語のシンタックスを形成するという考えです。
名古屋に帰られて、お時間がとれるようになりましたら、「大風呂
敷」をよろしくお願いいたします。
名古屋に帰られると、お母さんが淋しがられるでしょうね。
根石吉久
>想像力は、残念ながら、ひとの身の丈を超えない。反対に、まさか、と思うようなことは、きっと事実だろう、と考えることにしている。
上野千鶴子という人は、平板な言葉を書く人だと思いました。
上野が、現実や現場という語で言っているものから、何か衝撃を受けたとして、その衝撃は何によって成立するのか。その衝撃は、現実や現場そのものから来るのではあろうが、同時に上野の心的な領域からも来る。両方から来るものが、激烈にぶつかり合わないなら、衝撃も何も成立しやしない。そして、心的領域から来るものは、メタレベルの言葉以外のものではない。生で個的なイメージは、現実と心的領域がぶつかって交わるところでしか成立しない。
本や言葉じゃない、現実だ、現場だ、という思考は平板きわまりない。まさに身の丈を超えることのない言葉です。簡単に言えば、つまらない言葉です。ついでにもう一言加えるなら、勝手にほざいてろ、と申し渡すのが、きちんとした礼儀となる程度の低い言葉に過ぎない。身の丈を超えることのない言葉に対する礼儀は、そういうものであろうと承知しておるわけです。
想像力に関して、この程度にしか考えられないような者が書く本は当然読む気を持つ必要はない。従って、上野の本は買わなくていい。これまた簡単な結論となります。
「非暴力不服従」という語を、私が勝手に「無抵抗不服従」と翻訳して覚えていたのか、「無抵抗不服従」という言い方も流布しているのかわかりませんが、いずれにせよ、この背後にイギリスの手前勝手な暴力と殺しがあったに違いありません。それがなければ、ガンジーがそんな言葉を言う必要はないからです。
「無抵抗不服従」という理念が行ったものは、戦争ではありません。人がたくさん死んでも戦争ではありません。明らかな闘いですが、世の中に普及している「戦争」という語で考えると違ってしまうと思います。
ガンジーとガンジーを信じた人たちは、明らかに闘いました。欧米の連中が好きな目に見える闘いではない。「戦争」というような目に見える闘いなど、ガンジーもガンジーを信じた人たちも信じていたとは思えない。これは、理念の地平を信じる闘いです。
人が死ねば戦争だなどとは言えないと思います。人が死ねば「戦争」だと言ったのはブッシュです。9・11の事件をとらえて、ブッシュは「戦争」だと言いました。
足立さんの言い方だと、ブッシュとガンジーを戦争指導者として同列に置いてしまうことになりかねないのではないですか。
これは、欧米の植民地主義という罪悪を見事に見逃すことになりませんか。
ガンジーは、世に言う「戦争」という地平においては、何も「仕掛けていない」。何も「仕掛けない」ということが、「無抵抗不服従」という語となった理念だと思っています。ガンジーに仕掛けたものがあるとすれば、それは理念の地平においてです。人が多く死んだ。それは、戦争の地平において「仕掛けた」イギリスが一方的に責められていいことだと思います。イギリスが bitch なのです。
England is a bitch. という語を繰り返す歌を聞いたことがあります。これは、アイルランドの歌手の歌なのかそうでないのかを知りませんが、私はそれを聞きながら、インドのことを思っておりました。日本の近代の猿まね侵略は、中国や朝鮮から責められていいと思っておりますが、中国や朝鮮は、同時にイギリスやアメリカの侵略根性を撃たなければ嘘だとも思っております。また、日本の戦争放棄の理念は、上野千鶴子や足立さんの「現実」に対してどれほど無力であろうとも、理念としてはこれでいいのだと思っています。それが、アメリカの恣意によって、日本だけの手足をもぐための言葉として成っているのが駄目なだけで、あの憲法を書き直して、アメリカ野蛮、イギリス野蛮を撃てる言葉とするならば、理念としては世界史の突端にあるものだと思っています。
英語をおやりなさいと思いました。
そうでないと、アメリカ野蛮、イギリス野蛮が、アジアやアフリカをヨーロッパのための家畜が住む土地と見ていたその視線の「質」がわからないと思います。
エリート。一流といわれる大学や大学院に留学して
あからさまに人種差別をしない白人エリートに囲まれて勉学すると
アメリカの白人の視点でものをみるようになる。
そして帰国後も日本人についぞもどることはなく
二つの視点で物をみる複眼をもつにいたらず 白人よりのまま。
そんなエリート。
上野さんや竹中さんをみるとそんな臭いがする。
>この背後にイギリスの手前勝手な暴力と殺しがあったに違いありません。それがなければ、ガンジーがそんな言葉を言う必要はないからです。
もちろん、「背後」にあるものは前提として書いたつもりなのです。
>「戦争」というような目に見える闘い・・・
>理念の地平を信じる闘い
この違いが、まだわたしには見えてきません。
「理念の地平を信じる闘い」が具体的になったとき、それは戦争になってしまうのではないのですか?
>足立さんの言い方だと、ブッシュとガンジーを戦争指導者として同列に置いてしまうことになりかねないのではないですか。
言葉が足りなかったようですね。同列ではありません。ガンジーには人類史に残る思想があります。ブッシュはただの鈍い凡人です。
>欧米の植民地主義という罪悪を見事に見逃すことになりませんか。
見逃しているつもりはありません。誤解を招く書き方をしてしまったようです。
深夜の投稿。
竹中さんはブラウン管ごし 上野さんは新聞などのみ お二人の著書など読んだこともない。
それなのに「上野さんや竹中さんをみるとそんな臭いがする。」などと書いてしまい 反省しています。
「日本短足詩人協会」というものを思いつきました。。。。。
「ガンジーのパレスチナ問題に関する見解」という文章の抜粋を、ネットで見つけました。
http://www.onelove-inu.com/peace/0919/4.html
9・11事件は、アメリカに対するテロだということはよく分かった。陰惨な事件だ。多くの罪のない人間が殺された。犠牲になった。
でも、9・11事件以降、日本のマスコミや政治家(特に小泉)が、「国際社会における許し難いテロ行為だ」と激しく同意することには、なにかしっくりとしないものを感じるようになった。
当事国でなかったからかもしれない。
オウムによるサリン事件はテロであったといえるだろうが、日本では、国際テロに対しての現実感が乏しいのも事実だろう。北朝鮮による拉致事件をテロであると言い切れないでいる。テロというものの定義も日本人ははっきりとつかめないでいる。
しかし、9.11事件が、本当に「国際社会」に対する挑戦であると言い切れるのか。とにかく9・11事件以来、アメリカという存在を、国際社会の中で実はあやうい存在だということを思うようになった。
私は、国際社会といえばアメリカが支えていてくれると思っていた。国際社会には共通する理念としての「正義」があると思っていた。もちろん、国際社会で守るべき正義も、全く無いわけでもないのだろう。
だが、「正義」とはなにか。9・11事件以降、国際社会がかかげる「正義」と思っていたものが、実は「ただアメリカにとっての正義」であったのではないかと思うようになった。
そこで、ブッシュである。彼は、戦争の好きな男だ。あの猿のような顔で、アメリカという「警察」が「国際社会の正義を守る」というお題目を背負って、実力行使をもって「平和」を実現させようとする。
イラク戦争がどういういきさつで起こったのか知らない。しかし、彼のイラクにおける平和のための戦争は、戦争が終わってからの方が米兵等の死亡数が高いという現状を生み出している。戦争が終り、これから平和を築いていこうと望むはずのイラク国民の民意を高めることができないでいる。
これは、どういうことなのだろう。
朝鮮半島の有事に対し、日本はアメリカなしには、自国を守ることはできないだろう。また、もし北朝鮮の気持ちを損ねれば、朝鮮半島の平和のために、アメリカとともに朝鮮半島に赴くということも今やまったくの夢物語ではないかもしれない。
日本はアメリカの泥舟に、寄り添うようにして生きていくしかないのか。
私は、アメリカのあやうさを、ブッシュという人に見てしまう。まぬけなあの猿顔を見るたび、国際社会というものの、空虚なばかばかしさを感じてしまう。
怪義室。
お返事が大変遅れまして申しわけありません。
ようやく、椅子に座っていられるようになりましたが、椅子から立ち
上がると、腰が折れたままで、まっすぐになるまでに1分ほど要する状
態です。3日ほど前は、一度曲げた腰がまっすぐにならず、腰を曲げた
まま杖をついて、非常にゆっくりと階段を降りたりしておりました。そ
の前日は、まったく杖に頼りきりで、腕の力で杖に体重の多くをあずけ
て、杖がぶるぶるふるえたりなどしておりました。
まったくなさけないかぎりです。
特に重いものを持ち上げたとかということは覚えがなく、窓をあけた
まま寝て、朝方体をひどく冷やしたということだったと思います。鍼を
打ってもらいに行きましたが、鍼医の言うことでは、体をひどく冷やす
だけで、癖になっている人はぎっくり腰になるとのことでした。
いやはやです。
鍼と温泉で、なんとか快方に向かいつつあります。
K> 鴎外の短編『普請中』は明治日本の近代化の比喩ですが、流動
K> 物を構築物の理念で「普請」しなければならない日本語文法は
K> 、結構手間がかかるということでしょうか。
そうですね。文法自体が流動物じゃ困るので、文法自体は固形でな
ければ困ります。文法を定めるという行為は、流動化じゃなくて、固
形化をめざすというのは、万国共通です。だからといって、日本語文
法を作る際の概念が英文法からの借り物じゃどうにも日本語は解析で
きまいとも思っています。この点で、著者名をド忘れしましたが、
「日本語に主語は要らない」という本に書かれていることに深く頷い
たことがありました。金谷さんといいましたか、ちょっと正確に思い
出せません。モントリオール大学で日本語を教えている方が書かれた
本ですが、手元に見あたりません。Kさんなら、多分ご存知だろう
と思います。この本に関してはどのようにお考えになられますでしょ
うか。
K> 、この「流動物」の拠って来たるところは、日本語の時間処理
K> (常に「現在」)であり、いわゆる膠着語の特質のようです。
日本語以外の膠着語も、そこに流れる基本的な時間は「現在」のみ
なのでしょうか。モンゴル語をやろうとして、やろうと思っただけで
放置してあります。韓国語は日本語とシンタックスがほぼ共通すると
のことですので、そうであれば、逆算して、時間処理の仕方も同じで
はないかと想定できます。モンゴル語なども時間処理が同じものだと
したら、実に面白いと思いますが、日本語で書かれたモンゴル語文法
などは今のところ目にしておりません。
韓国語、モンゴル語に関して、単なる入門書でもなく、かといって
極度に研究に傾いたものでもなく、しっかりした文法意識で書かれた
やさしい文法書を読んでみたいという希望がありますが、何かそれに
近いものをご存知でしたらお教えいただきたくお願いいたします。
K> 助詞がある種の「方向指示」だとして、たとえば「が」によっ
K> てどう流れが変わるか。「君が好き」あたりから始めましょう
K> か。
これは、どなたかがすでに言っていることなのかどうか知らないの
ですが、「は」という助詞と「が」という助詞を考えてみたことがあ
ります。
食堂で注文する時に、俺は野菜炒めにするとか中華丼にするとか仲
間が言っていて、「僕はラーメン」と言った場合、この場合の「僕は」
の「は」は主語を決めるのでもないし、主格でもない。
I am rahmen. の意味ではない。
だから、御著書にある語を使わせていただけば、「提題」の助詞だ
というのでいいと思いますが、私の考えでは、「は」はもっとも広く
範囲を限る。「が」はその限られた範囲の中で、さらに狭く範囲を限
るのだという感じを持っています。
住所の書き方(意識の仕方)でもそうですが、日本語では、「長野
県千曲市鋳物師屋」という具合に、広い方からだんだん狭く範囲を限
っていきます。
「花子は君が好き」だと、まず、花子のことだぜ、話は花子のこと
なんだともっとも広く範囲を限る。それが「花子は」の「は」の役目
だと思います。花子が意識するものは、いろいろあり、いろんな人を
花子は意識したことがあるのだが、その中で、「君」というのがピッ
クアップ(限定)されておる。花子は、「君」と狭く限定した。
花子についての話だ(「花子は」)。その花子においては、「君」
が特別であり、君に限定して(「君が」)、その限定した狭さを「好
き」という語(感情)が染め上げている。
この伝でいくと、「空が青い」も、「君が好き」もシンタックスは
同じではないでしょうか。英文法的に見るのに慣れた目から見ると、
「空が青い」の「が」は主格であり、「君が好き」の「が」は目的格
だと言いだしそうな気がしますが、実は、主格も目的格も、英文法に
まどわされているからそう見えるだけで、「空が青い」も「君が好き」
もまったく日本語に則するなら同じシンタックスではないか、と。
「が」は主格とか目的格とかに関係なく、より狭く限定する作用を
持つ、と。
まったく独断的な考えであり、これまで行われてきた研究などまる
で踏まえておりませんが、ひとまずはそのあたりまで考えました。
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ご予定では名古屋に戻られたかと存じます。
お暇がとれましたら、「大風呂敷」の方へおいでいただくことを願
っております。
このメールは、例によって、「大風呂敷」の方へ転写しておきます。
よろしくお願いいたします。
御著書、二度目を読み始めております。今回は、鉛筆で線をひっぱり
ながら読んでおります。せっかくいただいた本を汚して申しわけありま
せんが、お許しください。
シンポジウムの記録を「大風呂敷」に転写する作業、村田君に doc
ファイルを渡し、村田君の管理するホームページに収めてもらうことな
ど、明日以降にさせていただきますが、ご容赦ください。
根石吉久
英語圏に住む方に対して「電話でレッスン」を行う意向がある旨をメールに書きましたので、
転写いたします。
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ぎっくり腰は快方に向かいつつあり、なんとか椅子に座っていられるくらいに
なりました。ご迷惑をおかけしました。
来週月曜日にアメリカに行かれて、一週間程度滞在の後、日本に戻られるとい
うことかと思いますが、日本にはどのくらいおられるのでしょうか。この期間は
レッスンはお休みになるのか、レッスンを行うのかを知りたいと思っております。
その後、アメリカの試作ラインが動くようになるまで、再びアメリカ滞在、3ヶ
月が予定されているというように受け取りましたが、それでよろしいでしょうか。
>アメリカへ下見に行きます。ですから来週分はお休みさせてい
ただくという形でお願いしたいです。その後に再渡米し本格的
に指導が始まり、試作ラインが動き出すま
こちらは、一週間の下見にかかわることかと思いました。
お休みは来週分だけなのかどうかという一点をおたずねしたいのです。
>それまでレッスンを休止していただきたいのです。もちろん私の時間帯は
別の方に使用していただいて結構です。
こちらは、3ヶ月の滞在期間にかかわることかと思いました。
一週間の下見と、3ヶ月のアメリカ滞在の間がどのくらいあくのかですが、
時間がそれほどなければ、来週から「3ヶ月余り」のお休みの予定と考えてよ
ろしいでしょうか。
>仕事が一段落し帰国した際にまた空き枠があれば、また
再開させていただきたいと考えております。
Mさんには、大いに期待していますので、帰国されましたらまた是非始め
てください。
今回は、3ヶ月余りのアメリカ滞在だとのことですので、非常にお忙しいこ
とになると思いお奨めしませんが、その後、長期に渡る英語圏滞在があった場
合は、英語圏滞在のままで私のレッスンをお受け下さることを是非ご検討くだ
さい。アメリカの語学学校で習うよりも、私の「電話でレッスン」を組み合わ
せた方が、英語の磁場から獲得されるものが大きいという確信を持っています。
磁場の作用を見定めてあるところが、「電話でレッスン」が、他の語学学校
などの授業とは違うところだと自負しております。
また、すでにアメリカに渡ってしまっていて、英語で困っている方とお知り
合いになられました場合も、「電話でレッスン」をご紹介くださるとありがた
く思います。
どんな電話を使えば、電話料金を大きく節約できるかなどは、生徒さん側で
ご検討いただくことになります。パソコン経由の電話などもできるそうですが、
こちらは私の方も実験などして徐々に態勢を作っていこうかとも思っておりま
す。
体に気をつけて行ってこられることを願っています。
パソコンを持って行かれるようでしたら、是非、掲示板「鬼」にそちらでの
生活の様子と英語事情をお書きくださるとありがたく思います。
帰国されて、レッスンが再開できるようになりましたら、ご連絡ください。
お待ち申しております。
根石吉久
古い大風呂敷で見つけたのですが、もしや元塾生の名古屋大にいった田中君の書き込みではないかと思ったので、ここにアップしました。多分そうじゃないかな〜〜〜〜〜。
昔の塾生 投稿者:魁ah 投稿日: 9月 7日(日)17時40分12秒
元塾生で某名古屋の大学に行ったものですが
最近大学院入試を終えて、進路に悩む今日この頃です
皆さん元気にお過ごしでしょうか??
何となく書き込んだものの、この掲示板に書いて良かったのか?!
てか、余り余地は無い模様に見えましたが、強引に書き込んでみました
http://here.is/kabu/
久しぶりに「連絡帳」へ行ってみました。
田中に向けて、こちらのURLを書いてきました。
方々目を通してくれてありがとう。
Naima さんが「電話でレッスン」の宣伝(広告)用のホームページを立ち上げてくれること
になりました。また、詩の雑誌「ミッドナイト・プレス」の今後の私の連載のテーマは、語
学に絞ってやっていくことになりました。
どちらの場合も、「大風呂敷」の過去ログを参照する作業が多くなります。
今、過去ログを読みに行きましたが、最近まるで何もやってくれてないことがわかりました。
1001〜2000の記事は、いまだに移行されていません。
8月は、ホームページを提供してくれている会社の都合(メンテナンス)で更新できないと
の記事は確かに読んでおります。しかし、すでに9月20日を過ぎました。まだ、あのペー
ジは手入れができない状態なのでしょうか。
どうして公になる記事のメンテナンスを引き受けて、やると言ったことをやらないのか、私
にはまるで理解できません。どうして、こちらが黙って我慢している間に手をつけないのか
私には理解できません。あなたを信頼すると馬鹿をみるのだと思い決めてよろしいのでしょ
うか。その場合には、戸倉のドライブインであなたを叱った時に言ったことなど、その前後
を含めて書いて記録したいと思っております。
言ってありますが、私は同じことを何度も言うことは嫌いな人間です。
ミッドナイト・プレスの原稿を書くための準備をしようと思って、過去ログを開こうとした
のですが、1001〜2000のところがいまだに埋まっていないのを見て、気が抜けまし
た。予定したことができません。腹が立ちます。
>
「が」は主格とか目的格とかに関係なく、より狭く限定する作用を
持つ、と。
この例と逆の場合があります。
有名な例。
むかし、むかし、おじいさんとおばぁさんがいました。
おじいさんは、山へ芝刈り、
が で話題提示。 は で詳細記述(より限定)
この考えは、英語業界では、不定冠詞と定冠詞の説明につかわれる
こともあります。
>「空が青い」
空が主格かも知れません。しかし、英語語順表現では、青空になるとおもいます。
同様な、表現は多いです。
みかんがおおい。
髪がながい。
>むかし、むかし、おじいさんとおばぁさんがいました。
おじいさんは、山へ芝刈り、
「むかし、むかし、おじいさんとおばぁさんがいました。」は、「むかし、むかし、ある村(ところ)に、おじいさんとおばぁさんがいました。」としても文法的には正しくなります。抽象的な場を提示する場合は、「〜は」を使い、具体的な場所を提示する場合には、「〜は」でなく、「〜に」で限定するということではないかと思いました。
「〜に〜が」のパターンには、「いる」「行く」「戻る」などが相性がいい。
「〜は〜が」のパターンには、「好き・嫌い」などの状態詞(英文法の形容詞?)が相性がいい。
今日は空が青い(「〜は〜が〜」パターン)(抽象的な場・「今日は」)
野原に花が咲いている(「〜に〜が〜」パターン)(具体的な場・「野原に」)
この伝でいくと、「僕は花子が好き」の「僕は」の「は」は、主格を表すのではなく、抽象的な場を表すと考えられます。
次の例は、( )内が明示されないものです。いずれも、「〜は〜が〜」パターンです。
今日は中華がいい
僕はラーメン(がいい)、僕は中華丼(がいい)、僕は焼きそば(がいい)
昔話の型としては、「むかし、むかし、おじいさんとおばぁさんがいました。」よりも、「むかし、むかし、あるところ(村)に、おじいさんとおばぁさんがいました(住んでいました)。」とする方が座りがいいと感じますし、実際にそう語られる場合が多いのではないでしょうか。例示された文は、具体的な場所を広く限定する「〜に」が省略されているのであり、「〜に〜がいる」の型は伏在していると思います。
「〜は〜が〜」パターンではないし、明示的ではないが、「広く限定」→「より狭く限定」という流れは伏在すると考えています。この文の基本パターンが「〜に〜が〜」だとすれば、ぼけていた焦点がだんだんはっきりとピントを結ぶような、日本語の「ゆるく・ぼんやり」→「きつく・はっきり」、あるいは「広く」→「狭く」という流れが確実に伏在していると感じます。
この考えに対して、反証となる例がありましたら、お手数ながら提示していただきたくお願いいたします。また考え込んでみます。
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>空が主格かも知れません。しかし、英語語順表現では、青空になるとおもいます。
「英語語順表現では、青空になる」という部分の意味がわかりません。お教えください。