>ちなみに ほとんどの文が活用できるので 教科書も音読したあとに
質問形読みをして否定形で受け答えをしたりとして 使っています。
学校の教科書にたりないのは 例文の反復練習。ドリルですね。
そうだと思います。これさえみっちりやっておけば、磁場無しでもSpeakingが何とかなると思えるのですが。磁場の効果の最大のものは、否応無く何度も同じ表現を使わされるという事ではないでしょうか?ちょっと工夫して、生徒に少し考えさせて文章を変形させることができればほぼ完璧ではないでしょうか?
柳瀬さんとの間で生じたことは解決しました。
Jackie さんが書いてくれた掲示板のURLと「中庭」の記事とを併せて読む
と、解決したことがわかります。
なんで俺が「いくこへ」を書いているかというと、ちょっとまた頼みたいこと
があるのです。
俺が、「落とし前がついていない」と書いた記事以後の、「中庭」及びその関
連の掲示板に書かれた記事をここへ転写してくんねえかなあ、というのが頼み
たいことです。
柳瀬さんの掲示板の基本方針は、「転写を許可する」ですので、やって欲しい
のです。俺はなにしろ、毎晩、1時過ぎると酔っぱらいでやんすから、やって
くれたら、うれしいぞ。
俺は結構くたびれた。
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ありがとうございました。
Jackie さん、惚れ直しましたぜ。
あんたのこと、好き。
俺は幸せ者だとも思いました。
人が好きになれるのだから。
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ありがとう。
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「酔っ払いながら」の「ながら」は、昔流行った「ながら族」の「ながら」で
はなく、「酔っ払いではございますが」の意味です。昼間、天気がいいのにカ
ーテンを閉めきって書いた記事があるので、転写しておきます。明日になれば、
どこかへ置き忘れてしまうかもしれないフロッピーですので。私は今でもフロ
ッピーを使っているのです。5インチのフロッピーが3.5インチになったと
きの感動を忘れないように、3.5インチのフロッピーを今でも愛用していま
す。
なんだっけな。
そうだ。「カーテンを閉めきって」について一言申し添えたい。
私の近所に、美術の先生で、小学校の校長をやって退職した人がいます。この
人と私は妙にウマが合うのです。私のことは、「ネイッシャン」と呼んでくれ
て、可愛がってくれます。
で、「カーテンを閉めきって」ですが、この元校長はエロビデオが好きで好き
で、奥さんを勤めに出して、真っ昼間からカーテンを閉めきって、エロビデオ
を見ているのです。弱った元校長です。私はこの人が小学生を前にして、校長
先生のお話をしていたのかと思うと、愉快でたまりません。
で、この人とある喫茶店でよく隣に座るのですが、この「カーテン閉めきり」
について、喫茶店のマスターが「先生、いい歳してそんなことしてるの?」と
言ったら、元校長が、「うるせえ、俺の人生だ!」と吠えたのでした。わかっ
た!と思いました。この元校長の淋しい人生は、私にはよくわかります。
ちょっと長くなったので、次の記事で、昼間書いたものを掲載します。
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語学における「音と意味の二律背反」の元には、「音と意味の分離」がある。これを、私は言語の孤児性と呼びたいと思っています。
日本語にはうまい具合に、「言語」という語と「言葉」という語がある。私はこれを使い分けて、語学における言語とネイティヴ言語の獲得過程における言葉との本質的な違いを照らし出せないかと考えています。
幼児の意識において、音は意味であり、意味は音であるように一体化して現象しているもの、「自然な」一体化の結果として動くものを、「言葉」と呼びたい。一方、「言語」は、その要素を個々に別々に分断し、取り出して別々に扱えるものです。音だけを取り出して音だけを練習することができる。文法だけを取り出して文法だけを考えることができる。意味だけを取り出して、意味だけを同定することができる。すでにそこには、一体化はありません。
どうもうまく書けないのですが、「言葉」においては、「音と意味」「音とイメージ」「音と感情」が一体化していく「自然」な動きがあるということです。これが、「言語」を扱う語学にはない。つまり、語学の言語は最初は「言葉」になることができない。語学の対象は「言語」でしかありえず、音は音、文法は文法、意味は意味として別々に扱うしかない。語学の当初というものは、「自然」から完全に見放されているのです。
仕方がないのです。「音とその他の雑多なもの」との「一体化」(言葉)から離れて、辞書を作ったり文法を考えたりした結果を、「言語」として突き放し、客観的に見るようなことをするのもまた人間だからです。
語学では、こうして客体化されたものを、個の意識で孤独に激しく運動させ、別々のものを一つに溶解させるしかない。
「孤独に激しく」やる語学の運動にも、「自然に」備わるものはあるでしょう。つまり、意識の力を自己対象的に行使することの後に訪れる「自然」はあるでしょう。孤児性においても、自己対象的に意識の力を行使するならば、「自然」はそれを後押しし、「自然性」は自然に備わる。しかし、この「自然性」はいまだ個人の意識という磁場(個的磁場)にあるだけで、開かれているわけではない。語学(の言語)と同じ言語の「共有磁場」や「共同磁場」に入るのでなければ、語学の孤児性は最後まで解消しない。
「感情を伴って自分に直接に話しかけてくるもの」の存在こそが、語学の孤児性を解消するものであり、いくら語学教材としての複製音声を自分の身の回りに敷き詰めて、「英語漬け」などになったところで、そこには「感情を伴って自分に直接に話しかけてくるもの」などありません。「英語漬け」などで孤児性が解消することはないのです。
アメリカ帰りの人達が、この人工的「英語漬け」を有効だとするのには原因があります。彼らは「感情を伴って自分に直接に話しかけてくるもの」を得た後に、つまり「共有磁場」や「共同磁場」から得るものを得た後に、それを保存する方法として、それらを有効だと言っているに過ぎないのです。「英語漬け」によって英語力を作る場面と、「英語漬け」によって、得たものを保存する場面とはまるで違うものです。一方にあって一方にないものがある。「磁場」だけがもたらす相互性です。自分に直接に話しかけてくれる生きた人間です。(このことを言い切っていないことが、国弘正雄に対する私の批判点です。国弘の同時通訳能力というものは、明らかに「共同磁場」や「共有磁場」と交わることで得られたものであることを言い切っていない。)
意識の力を自己対象的に行使することは、ネイティヴ言語獲得過程にいる幼児が持つ「自然」な音と意味の一体化とはまったく別ものです。幼児は、「自己対象的に」意識の力を行使するなどということはまったくしていない。自己対象的に意識の力を行使することが、「まったくない」という点が、ネイティヴ言語と語学の対象としての言語と画然と区別されるところです。
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boysome228 さんが書かれたことで、非常に重要なことだと思ったことがありました。ネットにつながらない昔のコンピュータで書いており、boysome
さんの言を引用できませんので、記憶に頼って私なりに要約しますので、違っていたら
boysome228 さんに指摘して欲しいと思っています。
boysome さんが指摘したのは、「音と意味の二律背反」という言い方で要約できるだろうと思いました。これは、語学にのみ見られる現象で、ネイティヴ言語の習得には見られないものです。
私は boysome さんが「二律背反」という語を使ったとき、なるほどと思ったのでした。「二律背反」と言った方がいい。boysome
さんが「二律背反」と言うまで、私は「音と意味の分離」と言っていたと思います。そして、ほとんどの人に何を言っているのか理解されず、そのたびに記事は流れました。boysome
さんが「音と意味の二律背反」を言ったときも、そうだ、それこそが重要な問題なのだと私の中でうなづくものがありましたが、boysome
さんの記事も流れてしまいました。私の側で、すぐにそれに応じることができず、その後も時間に余裕がなく、今日になりました。お許しください。
なぜ「音と意味の二律背反」が起こるのか。語学の練習の中に生じてくる「音と意味の二律背反」の原因は、やはり「音と意味の分離」だと考えていいだろうと思います。ただ、「分離」と言うより、「二律背反」ととらえた方が、語学をやる人にわかりやすい。これは
boysome さんの手柄です。この人はまともに考えているんだなと思ったところでした。
これに関しては、柴田さんが Eliot という名前で書き込まれて間もなく、この掲示板で議論したことがありました。これは相互にけっこうシャカリキになってやった議論で実りがありました。過去ログにあると思いますので、ご参照下さい。どなたか、過去ログから引用してくだされば助かります。(いくこに期待!)
一応要約しますが、ポイントは「音と意味」というより、「音と感情」という対照だったと覚えています。しかし、本質的には同じ問題の議論です。
ネイティヴ言語では、音と意味が「自然に」一体化していきます。ネイティヴ言語を獲得しつつある幼児にとって、音と意味は別のものではありません。音と意味は常に「自然に」一体化したものとして幼児の意識に現象していくでしょう。この「自然に」起こる一体化という一点をとりだせば、このことは、「音と感情」という対照においてもまったく同じように言えます。音は感情であり、感情は音であるという一体化の現象。音は意味であり、意味は音であるという一体化の現象。だから、「音と意味」の問題は、「音と感情」の問題と同じ問題です。
Eliot さんと私の議論は、Eliot さんが語学の上達の過程を照らし出すのに、幼児のネイティヴ言語獲得過程に見られるものを想像的に参照して、語学だって同じだとされたことから端を発した議論だったように覚えています。両者はまるで、逆ベクトルの過程だと私は反論しました。この二つはまるで違うのだというのが、私の語学論の根底にあります。
この両者を同じ過程だと見る迷妄は現在も巨大なお化けとして、語学を論じる人達の中を歩き回っています。例えば、チョムスキーの言う「生成文法」が、学校の教室という場でも人工的に作りうるかのような飛躍を平気で書いてしまう柳瀬さんなどの説も、お化けです。
現在、私の頭は非常に混乱しています。boysome さんが語学の過程にみつけた「音と意味の二律背反」の問題の根をさぐっていくと、チョムスキーや柳瀬さんにぶつかるのです。混乱を整理して書くための時間的余裕がないので、混乱のままに書いておいて、後で整理して読みやすくするしかありませんので、お約束はできないながら、そうしたいと思います。話が前後しますが、読者の皆様にはご容赦を願います。柳瀬さんの迷妄に関しては、もうしばらく考え続けたいと思っています。「日本語に主語はいらない」(講談社・・・・・)ではっきり指摘されているチョムスキー批判のことも考えていきたいと思っています。チョムスキーの功績がコンピュータ言語の基底を据えただけに終わるのでは、チョムスキーも成仏できないでしょうが、金谷さんの指摘はしごくまっとうなものです。英語的にしか考えることのできないチョムスキーの限界をきちんと明らかにしています。
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さて、いよいよ私の頭は混乱してきました。「音と意味の二律背反」の元には、「音と意味の分離」がある。さらにその元に何があるのか。しかし、私はこの混乱の中でみつけたと思っています。「感情を伴って自分に直接に話しかけてくるもの」がない。言語のそして語学の、磁場以外によっては解消されない孤児性です。
私の「磁場」という観点を不要なものとしている恋人ファンさんなどは、この文脈をまるで読めていないのです。私に言わせれば、いわゆる「多読」などに恋人ファンさんが見ている「磁場」は、「磁場」の直接的な力などではなく、「磁場」の反響のような弱い磁力です。「磁場」と言って言えないことはないが、これを「共有磁場」とすら呼ぶことはできない。そこに相互性はない。こちらの読みによって、対象となるテキストがどんどんその場で勝手に変わっていくならば、「共有磁場」たりうるでしょうが、読書においてテキストは固定されており、読みは「個的磁場」によって深めることができるだけです。
「語学」の過程そのものが「個的磁場」のものでしかありえない。
ディベートなどは、あたかもそこに「共同磁場」が成立しているかのように装う、仮の、まがいです。人間が芝居をする生き物であることを根拠にしているだけの、しかし、芝居としては見る価値もないまがいです。柳瀬さんが高く評価している中島さんの授業というものもこれの一種だと私は考えています。
「共有磁場」の典型例は夫婦喧嘩のようなものです。
語学に上達するには、勉強なんかしているよりガイジンを恋人にすればいいという俗説には根拠がある。それは、「共有磁場」というものの存在を指し示している。
しかし、語学という自己対称的な行為からするなら、これは「密輸入」に過ぎない。
しゃべり言葉に上達さえすればいいのだと考えるなら、飛行機に乗ってさっさと「磁場」に渡れと言う私の言をとらえて、恋人ファンさんは「禁句」だなどと言っていますが、禁句でもなんでもない。「しゃべり言葉に上達さえすればいいのだと考えるなら」という前提が確かなものなら、わざわざ語学的に苦労なんかすることはない。最初から、「感情を伴って、自分に直接に話しかけてくるもの」を手に入れ、そこに語学を混ぜ込むのだって、あり、です。「密輸入」は、あくまでも語学から見た生活言語の一位相を言うに過ぎません。
語学から生活言語に渡るという、本来の語学のたどるべき道からすれば、「密輸入」行為になるというだけのことです。この「密輸入」によって、疑似ネイティヴ言語と語学の言語とのあいのこ(混ざりもの)が手に入る。この混ざりものがよく混ざると、非常に闊達に英語をしゃべるようになります。長期留学をして、向こうで向こうの人を恋人にして、子供を作って結婚した女で、実に闊達に英語をしゃべる人が私の身の回りに一人います。昔の私の塾生です。この闊達さを見ていると、「密輸入」モデルの考察には事欠かない。
この人の特徴も、またしても日本語の弱さです。アメリカに渡る前、日本にいたときの日本語の弱さを現在も維持している。日本語がなっちゃいないのです。英語フリークで日本語が弱ければ、渡米さえすれば、しゃべり言葉の獲得は非常にうまくいく。ちょっとの努力でうまくいく。その典型的な事例です。また、非常なる恩知らずでもあります。素読舎から、自分の英語の基幹となる方法を得たくせに、素読舎など使った覚えはないというようなしらばくれた顔をする。厚顔無恥とも言える。英語フリークに対しては、これまでのところ、私の絶望は深まることしかありませんでした。
「その程度のものが、でかいつらをさらすんじゃねえ」というのが私の立場です。その程度のものが英語教室を開いている。日本語で育って日本語の中にいる日本の初心者が、お前の手におえるしろものかとはまだ言っていませんが、いずれ私ははっきりと言うでしょう。
「根石さん、どうやって英語を教えればいいのか教えてよ」とこの女が私に言ったことがありました。馬鹿か。お前が素読舎を見くびったことが、それがわからなくなったことの根本なのだ。俺はお前に対してだって、根本は示したのだ。めくらか、この糞女。さっさとみくびりやがったくせに、今になって、「教えてよ」かよ。お前には俺の方法を全部見せてあるのだ。馬鹿か。
話が逸れました。「音と意味の二律背反」には再度立ち返って考えてみたいと思っています。
今日、考えたことだけをひとまず掲載します。
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詩の雑誌「midnight press」に記事を書きました。
今日、社主兼編集人の岡田さんからメールをいただき、お褒めの言葉をいただ
きました。「文学の香りがする」文章だと、私に似合わない言葉をいただいて
しまったのです。でも、うれしかった。
midnight press が発行されましたら、この掲示板にご案内いたしますので、
「文学の香りがする」私の文章をお読みいただきたく思います。
いろんな人が俺を支えてくれる。
ボルテージの低い文章を何回も書いたので、もう捨てられるかとその度に思
っていたが、岡田さんはまだ俺に書かせてくれる。
申し訳なくて、少し涙が流れた。
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generative grammar の generative は「生成させる」であり、「生成する」ではないのだから、私は誤解していたことになる。「生成文法」という言葉を最初目にしたとき、「生成する文法」のことだろうと思ったのだった。
個別言語では、文法は「生成する」ように見える。誰も文法など習わないのに、文法にかなった文を話すようになるのだから、そこに何か「生成する」ものがある、と。
しかし、そうではなく、チョムスキーが言っているのは、「生成させる文法」だったのである。
生成するもの(個別言語の個別文法)を生成「させ」ているものがあるのであれば、それはあらゆる具体的な個別言語においてそれぞれの文法を生成させている。どの言語においてでも、それを生成「させ」ているものがあるはずだ。生成「させ」ているものは、地上のあらゆる場所に共通するはずだ。
新しく生まれてくる赤ん坊において・・・。
それは人間という生き物の奇妙奇天烈さの根拠だ。
それを「普遍文法」とチョムスキーは呼んだのだろう。
ここまでの私のチョムスキー理解が間違っていなければ、このチョムスキーの考え方は実に面白い。言語や民族や国境や紛争を超えて、言語のシンタックスの違いを超えて、人間の普遍的な根拠にまっすぐに通じるものがはっきりと取り出されているからだ。
しかし、それを「普遍文法」と呼ぶとき、私の中に疑問が頭をもたげるのを無視することはできない。それは、本当に「文法」なのかという疑問である。チョムスキーが言っているのは、generative
grammar という grammar のことであり、それは日本語の「文法」という語が言うこととは違うのだろうか。私は
grammar という語の生い立ちを知らないが、grammar が「文法」以外の含みを持っているのであれば、私たちは「普遍文法」と訳された「文法」の部分を隠喩として読むしかないだろう。その読み方においては、「文法」は具体的な文があっての文法ではなくなるだろう。
しかし、「言語の脳科学」(酒井邦嘉)によれば、チョムスキーは「普遍文法」自体を記述しようとしたそうである。それが本当だとすれば、generative
grammar の grammar は隠喩などではなく、チョムスキーは日本語の「文法」という語が言うものと同じものとして考えていたということになる。そうでなければ、記述しようなどとは思わないはずだ。
金谷武洋「日本語に主語はいらない」(講談社選書メチエ)にはチョムスキー批判があり、チョムスキーの「普遍文法」というものは、英語を元にしたものであると書いてある。それがどの程度まで英語を元にしたものか、私にはわからないが、「普遍文法」が英語による思考を元にして書けるものかとは思ったのである。「普遍文法」を、個別言語を元に書く! 無理なこった。そんな馬鹿な、と思ったのだ。
思考というものは、個のものであると同時に個のものではない。どんな思考も個によって個別に担われるが、それはいつもネイティヴな言語がもたらす思考の原形を踏まえたものだ。
無媒介な普遍思考などというものはない。もし、それを志向するものがありうるとするなら、それは詩の素、詩の詩、のようなものであるはずだ。数学的論理の抽象のレベルが詩の素たりうるかどうか、それがチョムスキーの難問である。
赤ん坊がおしめが汚れて泣くとき、赤ん坊の中にある「不快」、おしめを取り替えてもらって微笑するときの「快」というものがあるが、これは人間以外の動物にもある。「快」「不快」は、普遍的ではあるが、誰もそれを思考とは呼ばないだろう。普遍思考というとき、しかし、このレベルの「快」「不快」以外の何を「普遍」として言うことができるか。今のところ、この世界には何もないのではないか。何もそれ以外には明らかにされていないのではないか。
欧米的虚構の芝居は、どこまでも芝居に過ぎまい。
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確実にあるのは、文まるごとを真似することで世界に全身で交わることを始める人間の幼児の本能だけだ。イメージ発生プログラムの自働解凍の本能だけだ。およそ、文法とは言えないし、思考とも言えない。そこにあるのは、「スステム=本能」だけだ。文法も思考も、この自働解凍の後に備わるものに過ぎないではないか。
普遍文法を記述するのであれば、普遍思考によって記述しなければならないだろうが、そんなものは生身の人間には持ちようがない、と思う。普遍思考! それは、日本語に主語がないのと同じように、「ない」のである。
チョムスキーの普遍文法の記述は第一行目から、英語によって営まれてきたチョムスキーという個の思考によってその基底を与えられたはずである。それを普遍文法と呼ぼうというのであれば、その第一行目を不可能という文字の暗喩と読まなければ正しく読むことはできないだろう。英語という一言語によって育った思考によって記述されるものに「普遍」いう語を冠することは、アメリカ的傲慢以外のものにはならないのである。
アメリカ的傲慢。これはチョムスキーがもっとも嫌ったものであるはずだ。だからチョムスキーは分裂そのもの、矛盾そのものなのだ。
その自己異和の美しさをこそ見よ!
チョムスキーは一度は人間の普遍的な根拠を取り出したのだ。分裂そのものの美しさの根は、こちらの普遍性の方にある。それがあるがゆえに、チョムスキーは、それにそむいていく現在のアメリカ政治を根底から批判しえているのである。WASP的堕落を。
「普遍」「文法」! 悩ましきかぎりの仮説に過ぎないのではないか。
私はチョムスキーや酒井邦嘉を越えて、金谷武洋と歩きたいと思っている。
日本人が立ち返るべき場所を、金谷はカナダのモントリオールからまっすぐに指し示しているのだ。
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実を言うと、私はチョムスキーを直に読んだことがあるわけではない。翻訳本や雑誌インタビュー(日本語)の他は、人の話に出てくるものや、日本語で書かれた本の論評に登場する紹介記事を読んできただけである。
柳瀬さんが、チョムスキーのことをよくご存じであるならば、私のチョムスキー理解の問題点を指摘していただくことをお願いしておきます。
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間違いです。
「システム=本能」
と読んで下さい。この方が、ちょっと、いい。
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山岡大基様 投稿者:根石吉久 投稿日: 2月 5日(水)01時54分55秒
授業の実践の記事を読ませていただきました。
実に実に面白いと思いました。
こんな授業をしている人がいたのかと驚きました。
柴田さんの授業に次いで、私が発見できたまともな授業の第二弾です。
ご迷惑かもしれなくても、強く連帯を表明いたします。
一度も会ったこともない人同士の連帯というものを私は信じておりますので。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
以下の、山岡大基さんの記事は非常に興味深いものです。
現場の先生がたが参考にすべきもの、採用すべき方法を多く含んでいる貴重な
記事です。
是非お読み下さい。
http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/LAKE2001.htm
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
お薦めします 投稿者:根石吉久 投稿日: 2月 5日(水)02時44分18秒
金谷武洋「日本語に主語はいらない」(講談社)
私の些末な望みを言えば、タイトルを「日本語に主語はない」として欲しかった。
これからの日本語を考える人にも、英語を考える人にも、これは必読書だと思います。
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しょうがねえ、村田君に頼むか。
早くしてくんねえと、リニューアルとかで、「中庭」の記事と、柳瀬さんの
謝罪文はなくなってしまうかもしれないのだよ。
俺にやれって、無理言うな。
俺は、今日だって、これから柳瀬さんとお話がある。
村田君、これ読んでたら、いくこのおさぼりを補佐しておくんなさい。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
私は金谷武洋さんと、ネット上でお話したいと願っている。
金谷さんを私に紹介してくださるのでも、私を金谷さんに紹介してくださるの
でもいいが、どなたかそれができる人がおられた場合は、是非お願いしたいと
願っています。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
「中庭」http://141.teacup.com/nakaniwa/bbs
の他、
http://400.teacup.com/comment/bbs
も参照して下さい。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
柳瀬さん
>根石さんは、「中庭」の投稿(「高見さん、有藤さん(1)
投稿者:根石吉久 投稿日: 2月 2日(日)03時02分01秒」)で
「柳瀬さんによる Jackie さんの記事の削除に関して、この小心者が、と
書いた私の発言も削除されました。」
と書かれていますが、正直そのような削除は記憶にありません。私の記憶違い
でしたら失礼を重ねることになってしまいますが、その削除について
もっと具体的にお述べいただきませんでしょうか。そうすれば私も
記憶がよみがえると思います。決して「記憶にございません」式で逃げよう
としているのではないことは、ご理解ください。
----------------以上、柳瀬さんの文、以下、根石。-----------------
申しわけありません。おそらく私の記憶違いだと思います。
柳瀬さんに指摘していただいて、私の記憶がよみがえってきました。
「この小心者が」と書いた私の発言は、「中庭」に残ったと思います。
(現在確かめている時間がとれません。そういう投稿者及び読者側の事情を勘案し、過去ログを残すことが大事だと思い、「大風呂敷」では過去ログを残しています。)
削除されたのは、「大風呂敷」のURLを書いた記事だったと思います。
URLと短い案内文、段平振り回しが「中等教育教員」と同一人物であることを示す証拠、共に他の記事の流れを邪魔するような長さのものではありませんでした。
しかし、ともに「いきなり削除」されました。
私は「商業的意図」によって、「大風呂敷」のURLを書いたつもりはないのですが、柳瀬さんによって、「宣伝・広告」だと一方的に受け取られたという記憶がよみがえってきました。Jackie
さんの記事にせよ、私の記事にせよ、一方的な決めつけによる削除だったという一点に関して謝罪してくださるお気持ちがあるのであれば、私は
Jackie さんに従って、すべてを水に流します。
この一点に関して、ご面倒でもお答え下さい。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
しみじみ納得...
根石さんの記事(いつのだったのか忘れました。すみません)
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これ以後の記事は、「音づくり」ができる人に対してだけ意味を成します。
語学では、音と意味が分離している。
では、音と意味を別々に扱っていいのか。私は別々に扱っていいと考えています。というより、一人の人が他の人の中に語学力を作ろうとする場面では、当初、この二つは別々のままに扱うべきだと考えています。
音づくりでは、ひたすら音にだけ生徒の注意がいくようにして、ただただ音づくりだけをやればいい。ここに、コーチ付きの練習の最大の利点があります。
音づくりが終わった時点では、生徒は、いちいち音を意識しないでも、その文をいくらでも言い続けることができるようになっています。その時から、生徒がやるべきことは、文法や語法の理解を媒介にして、音と意味を合体させる作業です。これは、生徒が自分でやらなければなりません。これは誰を頼るわけにもいかない。自分で合体させないと音と意味はいつまでたっても一体化することはありません。とりわけ、英語の磁場が払底している日本という場所では、これは念じるように、強く呪性を効かせて、意識的にやる必要があります。
このことをお上品な英語関係者たちはまるで言いませんが、音と意味の意識的な合体に関してほど重要なことは他にあるのかと言いたいくらいに大事なことです。
初心者を相手のコーチでは、当初はひたすら音の訓練でいい。それだけでいい。そして、音ができたら、自分で理解を媒介にして、音と意味を合体させる必要があることを、コーチはきちんと言葉で生徒に説明できなければならない。語学論が要らないどころの話ではない。語学論を持たないような教師やコーチは、いつまでたっても、音と意味の関係を生徒に説明することができないのだから、いつまでたっても、二流・三流のままなのです。
日本では、語学論を持たないような教師は駄目なのだということです。
基礎研究としての語学論をやらないような教師は駄目なのだということです。
たまに、論としては大したことを言えないが、実践は実に見事だという人がいます。実に日本人的な現象だと思います。発明はしないが、すでにあるものの利用や再生産は見事であるという事例です。この種の人の生徒は幸運です。しかし、この種の人は、理論が言えないので、自分の見事な実践を他の場へ広げることができない。ここをこうしたとは言えても、それがなぜ必要なのか(原理論)を言えないなら、広がりを持つことはないでしょう。
つまり、理論化することができないという点において、実践はその人のいる場所だけで有効であるという形で閉じてしまうのです。これは、英語状況に対しては大きな損失です。
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
【6002】
【タイトル】音と意味の分離について。原理論の必要性について。(1)
【 日時 】02/10/19 1:39
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://8246.teacup.com/nessy/bbs
原理論をやります。
外国語においては、単語レベルにおいても、語群レベルにおいても、文レベルにおいても、当初、音と意味は分離しています。このことは、ことさらに言葉にして認識しないだけで、本当は誰もが経験している分離です。
初心の頃を思い出すなら、「書くは write, write は書く、書くは write,
write は書く」というように、日本語と英語を自分の中で付き合わせて、念じるようなことをした覚えは誰にでもあるだろうと思います。この念じるようなことをなぜするのか。音と意味が分離しているからです。念じるように思うということは、語学の根元に呪性があることをも意味します。呪性の根元にあるものは、分離あるいは乖離ではないかと考えています。日本の英語教育があるべき姿から「ほど遠い」から私の呪いも生じているわけです。分離、あるいは乖離がそこにあります。
しかし、語学のフィールドにいったん入れば、分離というものは当初から当然のごとくに経験せざるをえない。これは誰のせいでもない。日本の英語教育の姿があるべきものからほど遠いものであるのは、文部官僚どもがぼんくらでわけのわからないやつらだからという理由がありますが、語学において、音と意味が「ほど遠い」、つまり分離しているのは、これは誰のせいでもない。あえていえば、それが外国語であるせいです。
音と意味の分離が、語学の対象となった言語ほどに明瞭に姿を現す領域は他にないでしょう。ネイティヴ言語でも、子供の意識にとって、当初、音と意味は分離している場合がありますが、それを真似て使っているうちに、言語的・文化的磁場の磁力のよって、音と意味は自然に混ざり、自然に一体化していきます。子供が知恵熱を出す現象に見られるように、「自然に」とは言うものの、子供の意識は大きなエネルギーを使っているのですが、しかし、どのような意味においても、音と意味を意識的に合体させようというような努力はありません。あくまでも人間的自然という意味でですが、それは「自然に」合体していきます。
語学では、意識的にあるいは呪的にあるいは念じるように、音と意味を合体させる必要があります。それをやらない限り、英語の磁場にいる場合を除いて、音と意味が合体することはありません。磁場の磁力とは、音と意味が合体する時に、それを後押しする力のことだとも言えるはずです。
語学で、音と意味が、当初分離しているという事実を踏まえて、語学の方法は編まれなければ駄目だと考えています。ところが、この事実はこれまでのところしっかりと踏まえられているとは思われません。
まず、音ですが、これの扱いがこれまでの日本の英語教育ではでたらめがまかり通ってきています。教師たちの音ができていないケースが非常に多い。だから、当然のことながら、子供の音を作ることができない。これに関しては、Eliot
さんも私も、強く批判を繰り返してきましたが、ここに焦点を当てた方策はいまだ何ひとつ出現していないと言っていいでしょう。
語学には、音と意味の分離があるのは当然のことですが、日本の英語教育においては、音というものひとつに関してさえ、あるべき音と現場に流通する音(カタカナ発音)との間に分離があるのです。本来、音と意味という二つの項目の間の分離であるべきものが、日本では、意味と真音と偽音との三つに分裂してしまっています。これを非常に長い間、日本の文部官僚どもと大学の英語教育関係の教授どもが放置してきました。
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
ただいまいくこさんを「補佐」しています。
記事自体は私がすべて取ってありますので、
柳瀬さんの掲示板が新装開店しても、大丈
夫です。
大風呂敷の12月〜1月の記事については
もうすぐ
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
に掲載する予定です。
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
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2065 Jackie 様 投稿者:根石吉久 投稿日: 3月 9日(土)14時37分04秒
> 少なくとも音読や筆写の課題をきちんとしていれば 確実に上達するはずなのに。
まさに、「音読」と「筆写」が、「身体化」の具体的なメソッドだと思います。日本語の磁場の中で作る英語は、どこまで行っても「もどき」なのだということを踏まえた方法が、「音読」と「筆写」です。
「もどき」の過程を存分にやることです。その後に、「もどき」としての英語を英語の磁場に置くならば、それは英語として息をし始めます。日本にいて英語をやるということは、どれだけの質の「もどき」を作れるかに尽きていると思います。
基礎的な身体化の過程をすっとばして、「リピーティング」や「シャドウイング」を薦めるような方法には私は断固反対しようと思っています。これを薦めるような人がバイリンガルであったり、アメリカ帰りであったり、ESSの部長なんかであったりして、後光がさしているように人は思うのかもしれませんが、イメージの根付きを無視したやり方です。これは、基礎的な身体化がすでに実現している人がやるにはよろしいでしょうが、それを欠いてやったら、人間がコピーマシンのようなものになります。語学をよくやった人間には味のないような人が多いですが、基礎段階で「リピーティング」や「シャドウイング」などをやると、えてしてそういう味のしない人間ができるでしょう。
そのあたりのことを、私は「語学的主体」という語で考えようと思っています。そして、「語学的主体」を形成する基礎的な身体化の練習は、「音読」と「筆写」だと思っています。このたどたどしさが大事なのです。このたどたどしいスピードが、イメージが共に動くことを可能にします。イメージが共に動く状態のままに高速化することはいずれ必要になりますが、最初からネイティヴの高速をコピーせよというような方法は間違ったものだと思っています。
最初から、「リピーティング」や「シャドウイング」をやるのは、日本人には実に危険なものだと思っています。
音法を何ひとつ持たず、「リピーティング」などやらせた場合でも、小学生などは非常に上手に音をコピーすることがあります。この場合、磁場を欠いていることがほとんどですから、イメージが音とともに動くということがありません。また、シンタックスの内在化は、イメージが動かないと実現されませんから、音のコピーというあだ花が咲くだけに終わるだろうと思います。國弘式の「繰り返し」の回数というものが、シンタックスの内在化には不可欠ですが、このあたりのことが単純で利口な人たちにはわからないのです。
>SVOの内在化 国広さんの本に 誰が どうした 何を さえ わかれば英語はわかるとありましたね。
それを意識しつつ 中学の教科書のような 系統だてて文法がわかるものを 音読または 素読みする 無意識か 内在化するまで。 いろんな本に浮気せず。これが できてから はじめて 多読 多リスニングが役に立つ。
まったくこの通りだと思います。順序というものが非常に大切だと思います。
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2064 Jackie 様(1) 投稿者:根石吉久 投稿日: 3月 9日(土)14時36分17秒
お返事が遅くなりました。
>根石さん これは 二通りを意味しています。
まず 日本人講師の方が細かい間違いを訂正する、 外人は いちいち直すのが面倒なのか Good!の一言で かたづけてしまう人が割と多い。まずは コミュニケーション 話そうとする姿勢が第一だと。
間違うことを嫌う日本人には 恐れずに話すことも確かに必用ですが これで いつまでたっても片言英語 ということを助長してしまうこともいなめません
いわゆる英会話学校での講師たちのことをおっしゃっているのだと読みました。英会話学校にせよ、一般の公教育の学校にせよ、英語の扱いはほとんどの場合で間違っています。「身体化」の過程をすっとばしているものがほとんどだからです。
この間違いの巨大さに比するなら、生徒の英語の語法の間違いなどは小さなものに思われてなりません。
日本人がやろうが、外人講師がやろうが、日本人の生徒の間違いを正すことで、日本人の生徒の間違いが直るとは思えないのです。ひとつ直っても、またすぐに似たような間違いを再生産するのが、日本人の
thinking way だからです。
これらの間違い訂正は頭脳的な過程ですが、その前段階として「身体化」の過程があるかどうかが眼目ではないでしょうか。「身体化」の過程で自然に直ってしまう間違いの数は非常に多いと思いますし、「身体化」を経て、頭脳的に間違いを直すのであれば、その間違いへの「気づき」は新鮮なものになります。生徒の興味の知的レベルが違っているはずです。
間違い訂正が不要だと言っているのではありません。それは必要です。しかし、それよりもはるかに必要なのは、「身体化」を先立てること。つまり、順序です。
順序だてるどころか、「身体化」の過程そのものがまるごとすっとばされているのが日本の英語の授業の現状です。
欠如しているものは、「身体化」の一語で言えると思います。
コミュニケーションを信奉しても話せるようになるとはとうてい思えません。そんなものは信仰の問題であり、語学の問題ではない。
>第二の意味は 親御 生徒ともに 外人講師には甘く 日本人には成果をきびしく求めます。通って上達しないと 「やっぱり外国人講師じゃないから うまくならないのかしら」っていう あれです。まったくもう自分の努力をたなにあげて よくいってくれます
ほんとに、これに関しては絶望的です。馬鹿は死ななければなおらないと言いますから、しょうがありません。馬鹿は無駄な金をふんだくられて死んでいくようになっているのでしょうか。
英会話学校の繁盛とは、日本人に馬鹿が多いということを証明しているだけのものです。
私もつくづく、疲れはてました。今後はなるべく馬鹿は相手にしないでやっていきたいと思っています。
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
一週間ほど、タイに行ってきますので、この間、掲示板への書き込みをお休み
させていただきます。
皆さんで議論を継続して下さるよう、お願いします。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
ttp://www.aeonnetcampus.com/selfstudy/speaking1/index.htm
オーラルリーディング(音読法、英語を声に出し練習する方法)
リピーティング(CDから流れる英語を忠実にリピートする練習法)
シャドーイング(CDから流れる英語の後に続いてすぐに復唱する練習法)
ロールプレイ(CDを相手に会話の片方の役割を行い英語を練習する練習法
英会話学校の自宅復習教材。
コンセプトはよい。 英会話学校も進化している。
これを 単なる機械化のプラクティスにおわらせずに
意識化して イメージし 血肉化できるか。
2798 繰り返し(1) 投稿者:根石吉久 投稿日: 5月 2日(木)04時10分13秒
私は、「電話でレッスン」というものをやっていて、復習範囲のテストを常時行う。「復習範囲を手放さない」という原理を一つ置いてあり、レッスンによって「繰り返し」が生じるようにシステム化してある。生徒が「繰り返し」を繰り返すように、テストを繰り返す。いずれにせよ、原則は「繰り返し」なのである。
「繰り返し」が必要な理由は、日本には英語の磁場がないという一事に尽きる。あるいは英語圏のように英語の磁場においてでも、語学では「繰り返し」が必要であるのかもしれないが、日本で英語をやる場合に比較すれば、はるかにその必要は少なくて済むのではないだろうか。これは、日本にだけ住んで英語をやってきた経歴を身上としている私には、正確なところはわからない。
いずれにせよ、日本にいて英語をやる場合は、自分が日本語に取り囲まれ、日本語を日々使いながら英語をやるのだという絶対的な条件を自覚する必要がある。英語の側から見れば、日本語は英語を簡単に錆びさせる強力な酸なのだということを自覚する必要がある。この酸を日々浴びながら英語を作り英語を持ち続けるのであれば、酸に逆らう作用をもつ何かが必要である。それが「繰り返し」なのだ。
「繰り返し」だ、「繰り返し」だと「繰り返し」書いているから、しつこいやつだと思う人が必ずいるだろうと思うが、「繰り返し」は繰り返し繰り返し必要なのだと、繰り返し言っておこう。しつこさは語学に必要なものなのである。
「繰り返し」は馬鹿くさい。馬鹿くさいので、馬鹿にしやすい。そして、実体は死んでいるもの(複製技術によるコピー)を「生きた英語」であるなどを信じてしまう。あるいは、英会話学校の英語ネイティヴの英語が「生きた英語」であるなどと信じてしまう。教室というところは、シミレーションしかできない。教室を単なるおしゃべりの会の場所にしてしまう外人教師もいて、これならシミレーションではなくなるが、先生一人に日本人多数なら、まずはそこは英語の磁場ではない。ということになると、英語の磁場ではないところにある英語だから、「生きた英語」ではない。外人一人だけが、故郷の磁場の磁力を身から放出するだろうが、そこは英語の磁場という場ではない。
教室をおしゃべりの場に変えてしまうようなふとどきな外人教師の教室に通っても、生徒の英語が上達しないのは、そこが磁場たりえないからである。
2799 繰り返し(2) 投稿者:根石吉久 投稿日: 5月 2日(木)04時11分12秒
「繰り返し」問題に戻ろう。
「繰り返し」は退屈であり、馬鹿くさい。だから、それを馬鹿にする人はたくさんいる。
私の生徒さんにもそういう人がときどきいる。五百回も千回も繰り返すなんて、宗教じゃあるまいに、と言うのである。英語はもっと生き生きとしたものだ、と言うのである。そういう人は、「生きた英語」とか「生き生きとした表現」とかを信じてしまっているので、語学は死物を扱う行為であるという私の考えとはまっこうから対立する。
「生きた英語」とか「生き生きとした表現」というものがないというのではない。それはあるところにはある。それは英語の磁場にだったらあるのである。「生きた日本語」とか「生き生きした表現」が日本語の磁場にあるのと同じように、英語の磁場には英語のそれがある。それはいつも、その言語の磁場の中にあり、その磁場の中にしかない。だから、日本語で日常を暮らしている人の場所では、英語の「生き生きとした表現」というものは、たいていは複製技術による複製物の中にしかない。
そして、「生きた英語」も「生き生きとした表現」も、複製技術によって、あらかじめすべては死物である。この、死物というものをちゃんと死物として見ないから間違うのである。
「繰り返し」を馬鹿にした人の英語はまずとうていものにならない。「繰り返し」を馬鹿にしてしまうということは、日本には英語の磁場がないという厳然たる事実を馬鹿にしたことと同じなのである。
「繰り返し」を馬鹿くさいように思う人は、「何かいい方法」を探す。そういう人は、何をどう言っても「何かいい方法」を探す。探してさまよう。やらせておくしかない。しかし、一応の親切を示すために、断言をもうひとつ、どんと置いておくくらいはすべきだろうか。
「何かいい方法」を探して、それをちゃんと見つけられた人は何をみつけるのか。「繰り返し」をみつけるのだ。それが最上の「何かいい方法」なのである。とりわけ日本で英語をやる場合においては、これは絶対的なのである。
さまよいたい人の前には、断言を置くことしか他にすることはない。
日本で英語をやって、「繰り返し」を排除して、英語をものにした人がいたらお目にかかりたい。そんな人は一人だっていないはずである。だったら、これはもう法則と言っていい。「繰り返し」は、誰にも無視することのできない語学の法則と言っていい。
【5138】
【タイトル】英語を英語で教える
【 日時 】02/08/28 13:58
【 発言者 】eliot
Jackieさん
>一つ目のほうは 体を動かしたり リズムをとったり
>割と生徒も楽しそうでした。教師はもっと楽しそうでした。
>先生方からも 絶賛の評価をうけていました。
そういう授業で一体何を学んでいるのかが問題ですよね。
確かに楽しいことは大切ですが、それだけで終わっているのでは
ないかと心配です。週に三回の授業を一年間やって確保できる
時間は、3×30=90がせいぜいでしょう。90×50分は
4500分ですから、75時間です。三年間では225時間に
なります。
起きている時間を一日16時間だとすると、225時間は
14日に過ぎません。三年間で与えられている時間はわずか
二週間なのです。もっと正確に言えば「教室で教師に与えられた
時間」は二週間しかないのです。生徒は教室以外でも勉強する
ことができますが、教師はこの二週間を使って教室で生徒に
英語を教えることしかできません。
貴重な二週間を遊びのような作業で埋め尽くしていいのか
どうか、英語教員は真剣に考える必要があります。私は
英語を英語で教えるということに全面的に反対という立場
ではありませんが、わずか二週間しか時間がないうえ、
一クラスの人数は40名という状況で、教員の自己満足に
終わるかもしれないような授業をやっているひまはないはず
でしょう。
>入門期は音声(それも英語)だけで 指導をすることが
>いまは あたり前となっているのでしょうか?
必ずしもそうではないでしょう。やりたくてもできない
英語力の教員も多いのではないでしょうか。
私は、入門期に音声を教えることを重要視する者ですが、
英語だけを使って、音声だけで指導するということには
反対です。それはあまりに効率が悪いと思います。いくらでも
時間があるという状況であるとか、教室自体が英語国にあり、
教室を出ても英語に取り囲まれているというのであれば、
話は別ですが。
>英語を英語で教えるということが 私は無駄におもえるのです。
>それも週3時間余りの公立で。生徒はわかったようなわからないような
>むずがゆいのではないでしょうか。
おっしゃる通りです。
>英会話を 基礎ナシで習うのは 砂の上に家を建てるようなものです。
>英語ができなくても 英会話ならできるという 不思議なことですね。
英語の音声を無視して、英語を学ぼうとすることも、砂の上に家を
立てるようなものです。日本の中高英語教師の大半がこの当たり前の
ことを無視しています。そのせいで、日本の英語学習者(中学生から
大人にいたるまで)のほとんどの英語は根元がぐらぐらです。
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
>文法の理解と血肉化(口答英作文)
浜谷さんの掲示板に行って、Jackieさんのご投稿を読み、「うまい表現をしはるな」と思いました。 「口答英作文」の事です。
あ、休場中やったのに、また口出ししてしもた...
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
大風呂敷の過去ログ135番「教科書儀ガイドを全員に購入させる」
をぜひ、読んでみてください。
筆者は英語教員でTOEIC950点以上、
かつ日本の英語教育について常に真剣に考えておられる方です。
たいへん参考になります。
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/oldlog/101-200.HTML
135. 音作りへの道(8) 投稿者:Eliot 投稿日: 7月 3日(火)20時52分25秒
音作りへの道(6)の最初の行の「テストにも和訳の宿題」という部分を「テストにも和訳の問題」に訂正します。
(6)教科書ガイドを全員に購入させる。
公立中学校の生徒の英語の勉強の相談に乗ったことがあります。その男子生徒は中学二年生を終了したところでしたので、二年生の教科書の最後の課を音読させてみたのですが、ほとんどまともに読むことができませんでした。英語の音がまったくできていない上、読めない単語の続出で、何度も立ち往生するというありさまでした。そこで、彼の教科書を取り上げ、その課のあちこちの文や語句を私が日本語で言って、英語で言ってみろと命じたところ、これも何一つまともに言えません。彼の英語の成績は4だというし、予習もちゃんとしている、塾にも通っているとのことでしたが、さっぱり英語の力がない。
予習は何をするのかと聞くと、「教科書の課文をノートに書き写し、教科書の最後にある単語欄を見ながら和訳をノートに書く」との答えでした。そして、授業では先生に当てられた生徒が和訳を言い、先生が説明を加えがら和訳を言い直すので、それを聞いて自分の和訳を訂正する、これが授業の時間の大半を費やす作業だと言うのです。録音を聞いて読むことも少しするが、みんなあまり声を出していない、塾では文法問題をやっていて、発音練習はまったくない。そして復習は全然しないとのこと。
和訳を作らせるだけに時間の大半を費やす授業を英語の授業と言えるはずがありません。教員は、二千円で買える教科書ガイドに載っていることを授業と称して生徒のノートに移しかえることの愚かさに気付かないのでしょうか。いや、和訳だけではないのだ、生徒がよくわかるように説明もしてやっているのだと言うかもしれませんが、いかに授業中に教員が色々な説明を加えながら和訳をしても、生徒がそのありがたい説明を全部理解したり、即座に記憶できるはずがないのだから、そんな授業は結局は教員の自己満足に終わります。
私は自分の生徒たち全員に教科書ガイドを購入させ、課文の和訳と説明は原則として各自が教科書ガイドを読んで理解するよう努めよ、と指示しています。教科書ガイドの説明や和訳が素晴らしいとはとても言えませんが、他の文法参考書や一般的な教室での教員による説明と大差はないと思います。授業中にできるだけ録音を聞き、音読をする時間を確保するためです。
(8)教科書の課文を覚えさせる。
(9)必ず読めるようにしてから書かせる。
各課の授業はまず「読み方プリント」の練習から入ります。単語の一覧と教科書の課文のプリントですが、単語の一部には発音をフォニックスのルールを利用したつづりで示しており、課文には音と音がぶつかって変化が生じる箇所に+サインと下線が付けてあります。脱落することが多い音は( )に入っています。生徒たちはこれを見ながら私の後を付けて一斉読みで練習をします。ほとんどの生徒たちが大きな声で読みます。
I told+(h)im that+Mary had+a dog.
授業中に聞かせる録音は今やっている課のものだけではなく、その課を含む前後いくつかを一緒に聞かせていますから、生徒は新しい課の読み練習に入るときにはすでにその課の録音は何度も聞いたことがあります。頭の中におぼろげながらもその新課の音読の残像がある状態から読み練習に入るわけです。(その9に続く)
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
【6539】
【タイトル】「よい」コミュニケーションてなんだ?
【 日時 】02/11/29 15:08
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://8246.teacup.com/nessy/bbs
>せっかくいい発音を根石さんから学んだ生徒さんが海外で人目を気にせず
に失礼な発言をしたとすると、よいコミュニケーションが生まれるでしょう
か。正しい振る舞いを意識させる教育のほうが音作りよりも重要だと私は考
えています。
ご立派な考えだと思いますが、私のレッスンを受けて、発音はよくなった
が行儀が悪くなったなどという人は一人だっておりませんから、ご心配はご
無用です。
人の行儀をよくするのが、教育者であるならば、私は教育者をやるような
気は芥子粒ほども持っていません。
私は語学における職人です。教育者などという気色の悪いものではありま
せん。
よいコミュニケーションも糞もない。コミュニケーションというものがあ
るだけだ。教育者は「よい」コミュニケーションなどというものを信じてい
るがいい。必要なら、ちゃんと喧嘩ができることがコミュニケーションでは
ないのか。
英語を学ぶことで 学べること。
「行きます」「買います」 主語抜きで話しても通じてしまう ツーカーの世界の日本語。宴会文化。
英語は「私が行く」「あなたが買う」 誰をはっきり言う 主張する。パーティー文化。
違いが面白い。
他言語を学ぶことで 違った角度から物をみることができるようになるのも
語学のご褒美。どちらが悪い 劣るということではなく 違ったものがこの世に存在すると言うことを認めること。違った視点があることを知り 意見を交換できる。意見が違うことを恐れずに Openに。そこから成長や改革がうまれる。
また内へ向うほど回転することで
外へ開く。何かを突き破る。
実用のためだけに英語を習う? もったいない。
第一 日本の田舎で生活していく上で英語はいらない。一年に何度も海外旅行できる金があれば別だが。
将来なりたい職業のため。 どうぞ結構 存分に勉強しよう。
義務教育だからやる、受験のためにやる。それだけなら もったいない。
今の学校教育では 受験語に英語が死んでしまうのだから。
生きる英語(生きた英語じゃない)を獲得するのだ。 その火種を作るのだ。
まあ プロの教師や講師や教授たちでも 閉じてしまっている人もいる。
開放しているつもりでも。
その人がいかなる英語の使い手であろうとも
なんだかなあ もう、、と思う。何で英語やるの?
飯の種? 失礼しました。
店主のいない 居酒屋でひとり酒場の与太話。
根拠を教えてくれそうなところは入場制限がある。
格調高い文体が必要で 品がない人はお断り。
品って何? 上品な下品って知ってる?
門前で服装チェックもはいるらしい?!イギリス紳士の倶楽部のようだ。
脱線も禁止よ。たくさんのお約束があるの。ルールや指示にに従わないと 処分よ。きまりをまもってこそ自由が生まれるんですって。入場するとき念書を書くのよ。
そこから健全さがうまれるかしら?統制下に言論の自由があるのだろうか?
悲しいなあ とっても。お手手をつなげそうではない。
向き合ってくれそうもない。
ちなみに今日は ノンアルコールです。
とびきりな ほんまもんのジンジャーエールをのんでおります。
お客もいないな、、帰ろうっと。
>脱線も禁止よ。たくさんのお約束があるの。ルールや指示にに従わないと 処分よ。きまりをまもってこそ自由が生まれるんですって。入場するとき念書を書くのよ。
>そこから健全さがうまれるかしら?統制下に言論の自由があるのだろうか?
>悲しいなあ とっても。お手手をつなげそうではない。
向き合ってくれそうもない。
>ちなみに今日は ノンアルコールです。
とびきりな ほんまもんのジンジャーエールをのんでおります。
>お客もいないな、、帰ろうっと。
Jackieさんのお気持ちよく分かります。はっきり言うと柳瀬氏の「広場」掲示板のことですね。先日「リニューアルする」と言っていたのでどんなリニューアルかと思っていたら、案の定、書き込み制限をかけて来ましたね。SSS学習法のサイトでも3ヶ月ほど前にSSS学習者以外の人のためのゲスト用掲示板に書き込み制限がつきました。下記に引用したのは、SSS学習法指導者の古川さんという方が同掲示板のリニューアルに当たって、私の質問に答えて示された掲示板管理方針だそうです。それ以降私は全く書き込んでいません。SSS学習法の1ファンであり同じ多読学習法の推奨者の一人である私にとって悲しい限りです。 わが国の英語教育の世界はClosed Circleの世界ですね。島国根性の精でしょうか?
<SSS式学習法ゲスト用掲示板より引用>
新掲示板は議論の場ではありません。あくまで、ゲストの方の感想を書く場と
お考え下さい。
これだけ学習者が増えた今、「多読法の是非」を議論するのは
正直時間の無駄と私達は思っています。 これからは、
実際の学習者同士で、「どうSSS多読法を発展させるか」
「どうすると学習の効率が良いか」「こんなことで悩まない方が良い」
といった具体的な議論を、「学習者の広場」および「入門者の広場」
でおこなっていきたいと思っています。
しかし、SSS学習法が唯一英語学習法というわけではありません。
また、SSS方式以外でも多読をされている方もたくさんいますので、
そういう方々が、たまたま、SSSを訪れたとき、私達や
SSS方式の学習者に何らかのアドバイスや励ましの言葉を
いただける場として、この「ゲストの広場」を開設しました。
mailto:toshiohamaya2002@yahoo.co.jp
http://toshiohamaya2002.hp.infoseek.co.jp
中庭の取決め、ものすごい内容ですね。 裃つけて行かねばならん.... 行けへんけど
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
「大風呂敷から」
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
==================================
・過去の記事 6601〜7000 を掲載。
・「永劫回帰」
・「語学論」へ「鬼」でのJackieさん・Naimaさん・Sageさんの議論を掲載。
・「大風呂敷」転載の依頼のあった「中庭」「広場」の議論は
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/ron/nakaniwa/sakujo.html
に掲載しました。
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫)から引用。
「第一に申し上げたいのは、
文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法に囚われるな。
と云うことであります。
全体、日本語には、西洋語にあるようなむずかしい文法と云うものはありません。
・・・いろいろ日本語に特有な規則はありますけれども、専門の国学者ででもない
限り、文法的に誤りのない文章を書いている人は、一人もないでありましょう。・
・・われわれの国の言葉にもテンスの規則などがないことはありませんけれども、
誰も正確には使っていません・・・日本語のセンテンスは必ずしも主格のあること
を必要としない。・・・「暑い。」「寒い。」「淋しかった。」でも、立派に一つ
のセンテンスになり得る。どんな句でも、たった一つの単語でも、随時随所に独立
したセンテンスになり得るのでありますから、われわれは特にセンテンスなどと云
うものを考えるまでもない。・・・少し極端かも知れませんが、日本語の文法と云
うものは、・・・その大部分が西洋の模倣でありまして、習っても実際には役に立
たないものか、習わずとも自然に覚えられるものか、・・・であります。
しかしながら、左様に日本語には明確な文法がありませんから、従ってそれを習得
するのが甚だ困難なわけであります。」
三島由紀夫『文章読本』(中公文庫)から引用。
「日本語は人称をはぶくことの容易な文章でありまして、『源氏物語』の如きは、ど
れが主語であるか、曖昧になってしまうような箇所がいくらもあるので、私小説の
場合は、一度私というものが定着されれば、ほとんど無限に人称をはぶいても読者
にはよくわかります。それは「彼」であっても同様であって、第三人称まで人称を
どんどんはぶいて行く簡潔な文章技法は、暗黙のうちに彼を私と混同させ、社会関
係や人間関係の犠牲において、小説を読者の精神世界に密着させる働きをします。」
>中庭の取決め、ものすごい内容ですね。 裃つけて行かねばならん.... 行けへんけど
確かにちょっとやり過ぎの感は否めませんね。掲示版の自殺行為にならなければよいのですが。どうも先生の茶話会のようなお話ばかりになってしまっていますね。
>中庭の取決め、ものすごい内容ですね。 裃つけて行かねばならん.... 行けへんけど
何か、落ち度のない契約書を作成しているYさんのギラギラした血走った目玉が
浮かびましたね。完全武装の鎧をつくっているつもりかもね。どんどん掲示板の敷居
が高くなっていくようです。これって、人に対して自分を閉ざしていくのだと思いま
した。オープンな掲示板ではないことは確かです。彼には人を見下す視線がある。今
回の「取り決め」は人を選別していますね。多様な人間への愛はかけらもありません。 すべての言葉は多様な人間とのやり取りから産まれている。彼には、その発想があり
ません。
英語嫌い人さん、今晩は
初めて大風呂敷にアクセスした時、「そこまで言うか」と思った事も度々なのですが、土足で踏み込んでもとことん付合ってくれそうで目が話せませんでした。
実は、私は「びびり」なので丸虫と言うあだ名です。 やばいとか鬱陶しいと思うとすぐ掲示板を閉めてしまったりするのですが、大風呂敷の懐の深さを見習いたいものだと思っています。
陳腐な例えですが、地面って排泄物も樹木や野菜の種も無差別に受け入れて肥えて行き、実りを助けますよね。 私も、雑多なものを受け入れてこそ収穫があるのに、と思いました。
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
こんばんわ、
大阪には、具のまぜ方、焼き方、まで指図するお好み焼き屋がありますが、そんなんみたいです。 焼き上がりを待ちかねてヘラ(大阪ではテコと言う)でパンパンと叩いたりすると
おっちゃんが「まだ触ったらあかん!」と飛んで来ます。 あんな感じの掲示板です。
お好み焼き、長い事食べてないな...
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
>陳腐な例えですが、地面って排泄物も樹木や野菜の種も無差別に受け入れて肥えて行き、実りを助けますよね。 私も、雑多なものを受け入れてこそ収穫があるのに、と思いました。
陳腐ではありません。秀逸な比喩ですね。お見事。。。
題名が抜けました。すいません。
↓
3月末までレッスン休みます。
なんだか、柳瀬さんの根性の狭さがただよって湯気をあげているような記事が
この掲示板に書かれていますね。
その規約は読む気にもなれませんので、いまだ読んでおりません。
大学の糞教師どもの根性は、よく承知しておるつもりですので、後でゆっくり
読めばいい。
村田君。
その珍しいガチガチ規約を、大風呂敷に転写しておいて下さい。
俺達が世界に帰っていくときの、おみやげになる。
こういう狭い狭い狭い馬鹿がかつていたのだが、この甘い羊羹食べてみな、吐
きたくなるから、と言葉を添えて、世界に差し出せばいい。
あれは、「恥」です。
まだ読んでないのに、わかるのです。
あれは、「恥」です。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
広島大学の恥さらし。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
タイから帰ってきて翌日掲示板を読みましたら、同時に二人の方が3月をまる
まるお休みするとわかりました。sbさんは掲示板で。埼玉Saitさんは、
メールで連絡をくださいました。
今日、この一月あるいは二月まるまるお休みをどう扱うべきかを考えて、ひと
まずの結論を出しました。
SAITさんに宛てたメールにその考えを述べておりますので、ここに転写さ
せていただきます。
----------------------------------------------------
レッスン休みの件、承知しました。
なるべく、京都で練習なさり、埼玉に帰られた週末はレッスンを受け
てくださることを願っていますが、ひとまず、3月末までお休みという
ことで、予定表に記録いたします。
3月は、申しわけありませんが、レッスン代金を半額収めていただけ
ないでしょうか。これによって、継続の意志を明示していただくととも
に、4月以降のレッスン枠の確保をしていただきたく願っております。
お休みの間のレッスン代金に関しては、今後どなたにもこの方針でやら
せていただくことにしようと思っています。
また、お休みいただいている間のレッスン枠は、「お試しレッスン」
を受けられる枠として、通常の半額で1ヶ月に期間を限り、一般の方か
ら「お試し」の生徒さんを募集し、使用する場合がありますことをご承
知ください。SAITさんが、レッスンに復帰される場合には支障のな
いようにいたしますので、その点はご安心ください。
"M> (先日大学時代の友人に会いました。レッスンのこと
"M> 検討するように勧めてきました。)
ありがとうございます。
「お試しレッスン」を受けてみられることをお話しいただければうれ
しく存じます。
今後ともよろしくお願いいたします。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
4月から「電話でレッスン」は、一ヶ月1万2千円に値上げさせていただきま
す。
なお、3月末までに予約をいただいている方のレッスンは、現行通り、1万
円でやらせていただきます。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
現在、1万5千円でやらせていただいております。
昨秋以前からやらせていただいている先生には、一般の生徒さんと同じく、
1万円で継続しています。
今後は、免許をお持ちの方には1万5千円でやりますので、ご承知おきくださ
い。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
谷崎と三島の引用をありがとうございました。
金谷さんの「日本語に主語は要らない」は是非お読みください。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
私がタイでタイ式伝統マッサージを受けている間も、この掲示板には記事がた
くさん書かれておりました。
うれしいです。
タイダンスは、熟れた杏の酸っぱさと甘さ。
欲情しましたが、清廉潔白のまま、日本に帰ってしまいました。
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根石吉久の「電話でレッスン」は、生徒さんがまるまる一ト月お休みされる枠
ができた時に限り、半額で「お試しレッスン」をいたします。
期限は一ヶ月です。3月まで5千円、4月以降、6千円です。
一ヶ月以上の「お試し」はできません。
私の「電話でレッスン」は、主な機能が二つあります。
1.「音づくりによるインプット」
2.「復習範囲を手離さない」という原理による「熟成・醸し・発酵」
このうち、「1.」については、1ヶ月の「お試し」でわかっていただけると
思っています。「2.」については、1ヶ月ではわかっていただけないと思い
ます。
以上の条件でよろしければ、興味を持たれた方は、
090−3316−4180
にお電話をお願いいたします。
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でかいつらするんじゃねえわ。
日本の糞女ども。
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女は苦労してるんだと言われりゃ、男が苦労するしかねえ。
男が苦労してるんだと言ったら、ちゃんとお目個を開かないと駄目ねえ。
切ないんだわ。男も。
民主主義。
山や谷を無視して、最初から平地を主張するWASPどもの迷信。
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私は壊れたようです。
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一切の制度の庇護を持たない俺の語学論の dignity を保持するために。
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柳瀬陽介批判
柳瀬様々は、以前、私の「中庭」の書き込みに対して、「学習者の身がわからない」と現代思想用語を使って、反省なさったことがある。その時は、正直な吐露だと思った。そして、「学習者の身がわからない」ことに対して、自分に対して、何をどうするのかを考え始めてくれるのかと思っていたが、ただ「学習者の身がわからない」と告白しただけで、その後なんにもしやせんのだ。
最初、正直な人だとあざむかれたので、批判しないでおいたが、「身がわからない」と言う貴重な発見の後に、それでどうしようという言葉は何ひとつない。
柳瀬様々は、自分で何を言ったのかわかっていない。
「学習者の身がわからない」とは、柳瀬様々に教授法などを云々する資格がないことを自分から言明したのと同じなのだということがわからない。その基本がわからないということは、勉強のできる馬鹿であると言ったと同じなのだとわからない。
告白なんかされたって、こちとら困るだけだ。
柳瀬は俺が提出した証拠を隠滅した。(過去ログ参照)
それで何をしたのか自分でわかっていないのと同じように、「学習者の身がわからない」で自分が何を言ったのか、わかっていない。
「学習者の身がわからない」のであれば、英語教育法だか教授法だかの教授だか助教授だか講師だか助手だかをやめるべきだ。娑婆に降りて、中学生、高校生に教えてから、戻りたければ大学に戻れ。それをやらなきゃ、あんた、なんとかは死ぬまで直らんぜ。
掲示板に活気が生じて、議論の芽が出てきたと思えば、すぐにその芽を摘んでしまう。
本質的な議論よりも、この男は「お行儀」が大事なのである。保身が大事なのである。
こんな程度の者が、大学の教師をやっているのである。日本の大学に魅力がないと言われるのも、こんな程度の者が教師をやっていられる現体制が腐っているからに他ならない。
本質的な議論の芽を摘むようなことを平気でやるような者は大学なんかにいるべきではない。「お行儀」よく述べる言説以外は議論とは認めないような狭量は、勉強のできる馬鹿という現代学生気質とよく釣り合って、大学を腐らせることに協力しあっているのであることがこの男には見えないのだ。
おまえらは滅びるしかない。
おまえらの仕事はそれしかない。
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>戦後日本の市民社会(エセ民主主義)。
>山や谷を無視して、最初から平地を主張するWASPどもの迷信にだまされ
>たやつら。
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埼玉、Sait さんから、一ト月まるまるレッスンを休むに際し、半額ではなく
全額納めるつもりでいたとメールをいただきました。
合掌し、いただかなくてもいい分を、カンパとしていただきます。
ナマステ。
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荒れておりまして、考え続けられません。
少し、休ませてください。
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「先生」と呼ばれている連中は、本当に糞ったれだと思う。
だから、俺を「先生」と呼ばないでくれ。
お願いだ。
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英語教育関係で威勢の良い掲示板があると聞いて
きたんだけど、こりゃなんだい。悪態のつき放題。
それも仲間内での愚痴ばかり。根石さんとやら、
大学や大学教師によっぽど劣等感があるんやなあ。
おれは教育者は世間知らずが多いから嫌いなんやが、
これでもう英語教育とやらには愛想がつきた。
なにが「先生」と呼ばないでくれだ!ことばだけ、
そんなこと言っていても行動がまったく反対。
とりまきも、とりまきだ。裸の大様にしてしまって。
柳瀬っていう名前が何度も出てくるので、その掲示板も
見にいった。なるほど、すごい取り決めが書いてあった。
俺の趣味じゃないけど、それは開設者の自由。それを
なんだかんだ言ったって始まらない。ついでだが、書きこみ
の内容はあちらのほうが数段おもしろかった。俺にはな。
ともかく、もうここには書き込まないが、一刻も早く、
目覚ろ!音作りだかなんだから知らんが、己の人間作りを
まずしっかりとやれ。
はじめまして。
>英語教育関係で威勢の良い掲示板があると聞いて
きたんだけど、
どちらからおききになったのでしょうか?
ここは威勢もいいがとてもよい掲示板です。
議論が活発に行われています。
言葉も歯に衣をきせぬため 荒いときもあります。
英語教育に関する本音がぼろぼろとでてくるので
今の英語教育で よいのだ もしくは変えたくないと
いう方には 耳がいたいかもしれません。
>こりゃなんだい。悪態のつき放題。
それも仲間内での愚痴ばかり。根石さんとやら、
大学や大学教師によっぽど劣等感があるんやなあ。
すみません。 このところ 罵言がとびかっていますが
そりゃ いいたいところが 取り決めで その議論をシャットアウトしているからなのです。管理 建前 ここに 英語教育がかわらない理由の一つがかんじられるから これは 本当は議論を重ねていくことが必要なことなのです。
>とりまきも、とりまきだ。裸の大様にしてしまって。
根石さんを教祖にもしていませんし ハダカの大様にもしていません。
英語回りをなんとかしたいと思っていますが 残念ながら仲間でもありません。
皆さん いいたいことははっきりと主張して議論をしているのは ここの過去ログをごらんになれば おわかりになっていただけると思います。
一度 たずねてみてください。矢部さんが 広場のほうが面白かったとおっしゃっていますが 「先生の茶話会のようなお話ばかり」
ここの過去ログは 読み応えがありますよ。
「大風呂敷から」
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
下の記事間違って送信ボタンをおしてしまいましたので
途中より 訂正いたします。
>とりまきも、とりまきだ。裸の大様にしてしまって。
根石さんを教祖にもしていませんし ハダカの大様にもしていません。
英語回りをなんとかしたいと思っていますが 残念ながら仲間ではありません。
皆さん いいたいことははっきりと主張して議論をしているのは ここの過去ログをごらんになれば おわかりになっていただけると思います。
一度 たずねてみてください。矢部さんが 広場のほうが面白かったとおっしゃっていますが 私には「先生の茶話会のようなお話ばかり」(boysome228さんの例えに座布団!)に思えます。
ここの過去ログは 数段おもしろい。 読み応えがありますよ。
オススメします。
「大風呂敷から」
http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/
>ともかく、もうここには書き込まないが、一刻も早く、
目覚ろ!音作りだかなんだから知らんが、己の人間作りを
まずしっかりとやれ。
書きこんでください。 疑問 怒り 同意 賛意 なんでも。
>これでもう英語教育とやらには愛想がつきた。
大風呂敷の過去ログも読まず ここで 議論もせずに
ちょっと掲示板をみただけで 愛想がつきるには 早すぎる!
もったいない。
矢部さんが 英語教育に愛想がつきた(大風呂敷だけじゃないはず)はもっとあるのでしょう? お聞かせください。
私は知りたい。英語に関して 英語教育に関して思っていることを。
根石さんへ
あ それから ここ数日の根石さんの下ネタ発言
はじめてくる方はびっくりしてお帰りになるかもしれないので
控えてもらえたらと思います。
広場の取決より
広場ではお互いを「○○さん」で呼び合うことが適切だそうだ。できればお互いを「○○さん」で呼び合いたいそうだ。 「できれば、、」
掲示板上でお互いを○○さんとさんづけでよぶのは普通だ。
○○様とよぶこともはじめのうちにはある。
わざわざ掲示板上で○○さんと呼びましょうとことわるほどのことだろうか?
いくら大学の先生だって高校の先生だって 掲示板上ではただの人。
自分がその先生におそわったり 子供が教わっていれば
その人は私にとって「先生」だ。
でも教わってなければ 普通「○○さん」だと思うけど。
先生って関係ない人に○○さんと呼ばれたら気分を害するんですか?掲示板上で「○○様」や「○○先生」ではなく、「○○さん」と呼ばれたとしたら怒るのか?むっとするのか?
だとしたらなにさまと おもってらっしゃるのか?
わざわざ参加者の対等性を強調しなくても本来掲示板上では対等であるはずでしょう?
お医者さんであろうと弁護士であろうと 実際に世話になってない人を先生とは 私は呼ばない。皆さんは?
※広場の取決に「取決」のあり方に関する議論は「広場」では一切しないと書いてある。「取決」に納得・同意できない方は「広場」ではなく、どこか他の掲示板をご利用ください。とある。
議論をつづけるために この条例をどうにかして受け入れようとしているが
今のところ この禁止令いっぱいの取決に納得できていない。従え従えってこれは貴方がいっている対等性に反していないか?「指示」つまりは「さしず」に従わなければ「処分」。
お代官様でもあるまいし。
掲示板に ある種の投稿規程をもうけるのは その確かに「開設者の自由」主人の勝手といえば勝手だが「自由な議論の空間」を歌っているのに
このおふれは ひどすぎる。健全な自由など育つはずがない。
自由を履き違えているのは どっちだ?
こちらに意見をかくのは卑怯かなとも思ったが
これに関して話すことを 断っているのは そちらです。
私は柳瀬さんの取決にしたがって そちらに書かず この掲示板にその意見をかく。あしからず。
矢部さんが 英語教育に愛想がつきた(大風呂敷だけじゃないはず)はもっとあるのでしょう? お聞かせください
→英語教育に愛想が尽きたとおっしゃる理由はもっと他にもあるのでしょう?お聞かせください。
酒に酔って放言し、翌日、あちゃあこんなこと書いちまってるよ、と背中に汗みたいなものが流れるのは毎度のことだが、お説教をくらってしまったので、書くしかない。
酔酒放言は、これ、楽しみなんだか義務なんだかわかんなくなっているのですね、近頃は。体によくないことだけが確かなものです。しばらく休むか。
矢部さんが、「こりゃなんだい」と思われるのは無理はない。「悪態のつき放題」と思われるのも無理はない。悪態以外のものを向けようがないと見たので、悪態をつくのであり、大学や大学教師に劣等感があるのではない。とびとびで読みにくいが、この掲示板の過去ログで、私の大学のていたらくに対する発言を読んで、どの部分がどう劣等感であるのか引用してくれたら、もうちょっとあなたのゲスな推測に根拠というものが生じると思う。二度と書かないなどと言わずに是非それを書いて下さい。と、この辺まではなんとかおとなしく書けるんだが、この先、自信がないなあ。
なあにが劣等感か。国が人々からまきあげた税金とやらの金で飯を食っているくせに、掲示板やホームページに国立大学(広島大学)の教師であると明示し、掲示板を作ったら作ったで、偉そうにお高くとまって、これしちゃいけない、あれしちゃいけない、と茶話会以外はできないような規約を作り、俺の発言は商業発言だと決めつけてさっさと削除し、自分たちの学校教師相手の有料セミナーの宣伝はしまくり、自分はその中に鎮座ましますのが柳瀬陽介だ。国立大学の教師が有料セミナーを組織して宣伝してるんだ。
どうせ、柳瀬は講師たちへのお礼等の実費ですと言うだろう。まあ実費に毛が生えたようなもんだろうよ。柳瀬がこれでもうけてるとは言わないが、俺みたいな一匹狼が俺の掲示板の紹介記事を書いただけですぐにその記事を削除したことは、忘れようにも忘れることはできない。組織的根性が一匹狼を殺そうとした時には、どんな手を使ってもいいんだというのが俺の原則だ。
組織的根性が一匹狼を殺そうとする。
これこそ、日本の学校がやってきたことだ。
柳瀬は骨の髄から「学校」的なのだ。
俺にあるのは腹立ちであり、劣等感なんぞでございやせん。馬鹿くせえ。
おさぼりを続けてきたのは、あいつら大学教師どもなのだ。一刻も早く目覚めろ。
音づくりだかなんだか知らんようだったら、知るがいい。無知は恥じることはないが、誇らしげに言うようなことじゃない。なあにが、「知らんが」だ。
俺は、みんなで手を取り合って、英語教育を良くしましょうなんて気は実はない。保身と惰性と方法的めくらの巣窟が制度の元に腐ってひでえ腐臭を発しているから、くせえっ! とでかい声ではっきり言っているだけだ。だって、くせえんだもん。だって、鼻が曲がるんだもん。英語教育なんぞ良くする前に、その腐った部位を切除するのが先だ。切除するためには、どこが腐っているかを指摘する者が必要だ。別にやりたくてやってるわけじゃない。必要だからやってるんだ。
>おれは教育者は世間知らずが多いから嫌いなんやが、これでもう英語教育とやらには愛想がつきた。
正しいと思う。この愛想がつきた場所からようやく何かが始まるのだと思う。あんたもようやく一つ目覚めたじゃねえか。俺の行儀の悪さに胸くそが悪くなってる程度だとどうしようもねえぜ。過去ログを読んでおくれ。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
>なにが「先生」と呼ばないでくれだ!ことばだけ、そんなこと言っていても行動がまったく反対。
そうか。せっかく「お目小」とか、酔っ払ってわめいても、「先生」とされてしまうのか。そりゃ、何の先生だ。言っとくが、俺はセックスは下手だぞ。
そういえば、俺の人生では、この「先生」呼称から逃げ回ることに相当大きなエネルギーが費やされているなあ。悲しい人生だ。俺、「先生」と呼ばれると本当に寒気がすることがあるのだ。比喩じゃなくて、鳥肌がたつとか、身体的な変化として、寒気がすることがあるんだわ。いちいち「ほら」とか言って、人に鳥肌を見せることをしないだけだ。
「行動がまったく反対」ってのは、どのあたりをさして言っているのかわかんねえ。教えてくんねえかなあ。
俺が「先生」? へっ?
語学論をやるから? これは、英語でおまんまを食っているかぎり、やらねえと娑婆への義理が果たせないと思うからやっているのであって、その途中の議論で、誤解している人がいると、そうじゃなくてこう、みたいなことを言う必要が出てくる。それで、「先生」になってしまうのか。
いやあ、まだまだ。おっとどっこい、逃げ回ってやる。
やってられるか、「先生」なんか。馬鹿くせえ。
>己の人間作りをまずしっかりとやれ。
あのう、お聞きしますが、人間が壊れてしまっている場合はどうすればいいんでしょうか。接着剤でくっつければいいんでしょうか。まあ、二度と書かないと明言してる奴にお聞きしてもしょうがないんだが・・・。
「二度と書かない」なんて、根性が狭いね。何よ、偉そうに。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
いつもいつもごめんね。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
>>とりまきも、とりまきだ。裸の大様にしてしまって。
一昨年だったか、初めてこの掲示板を読む様になった頃の事です。 私も同じ印象をもち同じ様に「とりまき連中」と言う言葉を吐いています。 英語が100%聞き取れると豪語した投稿者に対する根石さんはじめ常連の人達の批判も、一方的な「袋叩き」状態だと思ったりもしたものです。 けれど、激しい反論の応酬にも徹底的に向かって行く投稿者を皆さんは大切にされている様に思いました。 議論を掘り下げるのには、とてもいい掲示板です。
Jackieさんや根石さんが英語塾経営の困難さに弱音を吐かれた時も、まったく事情をわきまえないまま傷口に塩と唐辛子を塗り込める様な批判を繰返した事もあります。 Eliotさんに「言い過ぎです」とたしなめられたりしました。 それでも素のまま受け入れて来てもらっています。 いつも真正面から返事を頂いて来ています。 Bitchyと言われた事もありますが、それでも排斥される事は一度もなかったな...
しばらくはこんな風に私は喧嘩腰でこの掲示板に顔出していましたが、どうしてもご本人とその授業風景をこの目で確かめたくて、御盆休みにドイツから帰国している合間を縫って、奈良から長野まで押掛けたくらいです。 私はそれまで自分から計画して一人旅などしたことがなく、「長野に行って根石を見て来る!」(すみません。その頃は時々呼捨てにしてました)と本当に押掛けてしまった私に夫は絶句していました。 結局、根石さん宅で2泊3日してしまいました。
投稿者の恥じも根石さんに対する激しい非難の言葉も、そっくりそのまま丸ごと一緒に過去ログに残されているのにもびっくりしました。 投稿者の発言を尊重しているからであろうと思えました。
根石さんや大風呂敷を敢えて弁護はしませんが、ここはそういうとこです。
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
>私も同じ印象をもち同じ様に「とりまき連中」と言う言葉を吐いています。
初めて訪れる人達には「根石さんとそのとりまき」と見える部分もあります。 根石さんに対して初めての投稿者が見当はずれな事を言ったりすると、複数の常連達が弁護したりする事もありますから、「一見さん」にはそう見えます。 でもそれは別に根石さんを持ち上げ奉りしてるわけでもないです。 そんな事しても根石さんから庇護も特権も得られるわけでないですから。 篠ノ井のおっちゃんにスリスリしたって何の得もないです。 そんなしょ〜もない権威なんぞ持ってはれへんし。 卑語は飛ばしてくれはるけど。
この掲示板は玉石混交 あるいは味噌も糞も一緒、酔どれの腸から出た本音もあれば弱音もあり、触れる場所で印象もガラッと変ります。 泥臭い掲示板だしアカデミックな事が書いてある訳でもないけど、口先だけの掲示板とは違います。 べつに人を面白がらせ様と意図してやってる掲示板ではないから、柳瀬さんの掲示板の方が面白いと言う感想には、あ、そうですか、と思うだけです。
私の友達が、たまたま中学生の下校時の会話を聞いて腹をかかえて笑った、とその内容を教えてくれた事があります。 「おまえな〜、糞味のカレーとカレー味の糞とやったらどっち喰う?」 その中学生は「マジ」で友達にアドバイスしていた様です。 私も涙が出る程笑いましたが、その後で妙に感心してしまいました。
これ投稿した後で、また後悔するねんやろな.... と思いつつ投稿ボタンをエ〜イッと押す..
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
目に明らかな物は、あんまり信じられない
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
物腰穏やか、だとか、節度のある、とか、人当りの良い、だとかの「洗練」の下に何があるんだか、
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
先日、夫に中庭の話をしてたら「あ、お手盛り掲示板なのか」と言ってました。 「うん、そうそう」と答えつつ、お手盛りの意味があやふやだったので辞典で調べたら「自分の好きな様に料理を盛り付ける事」が語源だと書いてありました。
大風呂敷は、握飯を投げ付けてくる奴がいるわ、勝手に風呂敷の上で弁当広げて食べ残して行くやつがいるわ、味噌汁をぶっちゃけるやつがいるわ、お得意料理を勧めてくる人もいるわ、
話かわりますが、試験の為に英語を勉強するのが何故いけないんだろう? ある掲示板でTOEICの得点を上げる為のアドバイスを求めている方がいたので、「この際、受験勉強に絞ったらいいんじゃないですか」と書いたら、あの斉藤さんが反論して来てた。
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
Hi, guys! Going back to the issue of learning vs aquisition. How do
you think we aquire language (or generative grammar as Chomsky calls it)
if we cannot learn it? I don't think reading or listning alone may not
be good enough to expand your speaking or writing vocabulary. I guess it
is necessary to use the language to really aquire them. How do you think?
Any comment?
私はChomskyの著書なんか読んだ事ないですので、議論に参加する資格はありませんが、boysome228さんの問題提起は、「インプットだけでは語彙の活用化は期待出来ない。 認識語彙を活用語彙にするには、自分で使ってみないとだめなんじゃないか」と言う事ですね? 議論は英語でやらないとだめですか? 日本語でもいいんじゃないですか?
What do you think?
http://8430.teacup.com/pillbugtwins/bbs
ここはね、英語嫌い人さんも来るような掲示板です。
英語嫌い人さんは、古くからの私の友達なので、よく知っているのですが、
本当に英語が嫌いなのです。多分、私が「先生」と呼ばれるのが嫌いなく
らい嫌いです。
で、俺としては、boy ちゃんがアメリカの掲示板に書き込むのなら、今の
書き方でいいと思うけど、あるいは、単に遊びでやるんならこれでいいと
思うけど、この掲示板は日本語がよろしい掲示板です。
なんで、馬鹿みたいに、日本にいて日本の掲示板に英語書かなきゃならん?
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
aquisition の才能がもっとも豊かなのは赤ん坊と子供であって、15歳程度
を越したら、learning しかないんじゃないの。
で、チョムスキーが問題にしてるのは、aquisition だけで、チョムスキーの
問題意識に learning のことはないんじゃないの。
aquisition は、learning という意識性を映す鏡でしかなくて、この二つは
まるで違うのだが、ガイジンと一緒にいれば aquisition が手に入ると思っ
ているお馬鹿さんて多いんじゃないの。
英語を「使う」って、学校や英会話学校じゃ、「使う」なんてできっこない。
ああいう場所では、「使う」ってことじゃなくて、「使う真似」しかできな
い。
で、boy ちゃんは、日本のどこでどういうふうに「使う」わけ?
おせえて。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
正午頃、起きる。おやじが来る。葡萄の木を切って、背丈以上のものは処理したが、幹が残っているからチェーンソーで切ってくれとのこと。おふくろを病院に連れて行ったが、小一時間で迎えに行く、おふくろを家に置いたら、その後で俺を車で迎えにくるとのこと。雑貨屋・子子子(こねこ)の看板に脚をつけて風で倒れないようなものを作ろうと思っていたが、あきらめておやじにつきあうことにする。便所を使う前に、チェーンソーは試し切りしておいた。看板の脚にするつもりの鉄道の枕木を切って切れたので、刃は研がないでおいた。便所を使っていたら、おやじが家に入ってきて、どこにいるんだと呼ぶから、糞をしながら、ここだあ、と叫ぶ。葡萄(巨峰)の幹は、直径15センチくらい。わけなく切れる。3本切って終わる。寒風が吹くので、軽トラックの中で風をよけながら、農協の職員が剪定をやりに来てくれるのを待つ。花の出荷の話。個人で市場を相手にするやり方はもう駄目だとのこと。農協が個人の生産者を管理し、その農協の信用で先物取引をするのだそうだ。つまり、ある花を何本と市場から農協に注文が来る。それを農協が個人の生産者から集めて送る。その時点で値段も決まっているそうだ。「モノを見ないで値段が決まるのか」とおやじに聞くと、「各農協の信用を市場が見ている」のだとのこと。市場は統合され、ばかでかいものになっているとのこと。
それで、個人の生産者のもうけはどうなっているんだ。個人が小さい市場を相手にしていた時より、個人の手元に金は増えるのか減るのかと聞いたら、減っているとのこと。システム化し、省力化し、生産原点のもうけは減っているのだ。
反逆は直売以外にないと今日も思う。
市場なんかにものを渡すべきではない。小さい百姓ほど直売をやるべきだ。しかし、店がない。売り方も知らない。雑貨屋で、野菜や果物や花も扱うかと考える。委託販売でやって、俺の手元に値の一割も残らなくていい。5分でいいや。百姓のおやじさんたちが、自分で帳簿をつけていってくれればいい。帳簿の数字とモノの数字が合っているか確認するだけは誰かがやらなければ駄目だが、いくこをあてにするか。
農協の職員来る。木を見る眼にあきれるほど感心した。まだ若い大将だが、よく知っている。しゃがんで木を見上げ、すたんすたんと枝を落としていく。見事だと思った。受精させてから枝を落とす「だまし」を教わる。
植物は面白い。
百姓をやりたくなった。
いくこが安く働いてくれれば、俺はいくこに店をまかせて百姓がやれるのだが、どんなもんだや、いくこ。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
>私はChomskyの著書なんか読んだ事ないですので、議論に参加する資格はあ
りませんが、
姉御が何をおっしゃるやら。
チョムスキーなんか知らなくても、議論は火花が散ればそれでいいんだ。
それを封じたのが、柳瀬なのだ。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
素読舎では、あなたの英語力を直売いたしております。
あなたが自分で、植えたり剪定したりしてください。
植え方や剪定の仕方は、私がお教えしますが、木を育て、実を生らせることは
ご自分でやってください。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
早稲田で安い金で講師をやっていた柳瀬さんとはえらい違いだ。
早稲田の柳瀬さんは、誰だっけ、ほら、柳瀬尚キさん。キにどんな漢字があて
はまるのか忘れてしまったが、尚紀だったかな。忘れちゃった、なんしろ、俺、
薄情もんなもんで。
この人は大したもんだぜ。
この人の30代、40代の仕事は大したもんだと思う。
絶対に翻訳できねえもんを翻訳していた。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
お行儀を盾にとって、封じるような柳瀬がチョムスキーの何がわかるというの
だ。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
日本語にも文法はあるんだと思う。
しかし、それは西洋的視線では取り出せないのだと思う。
まだ、日本語の文法はできていない。
萌芽はある。
それがモントリオールの金谷さんが言っていることだと思う。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
文法学者をやればよかったのに。
なまじ文学がわかると、一生損するわな。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
30台、40台かな。わかんなくなっちゃった。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
>また山岡さん以外の同僚の先生方のクラスでどのくらい音の指導や教室や
自宅での音読指導はなされているのでしょうか?
Jackie さんの「中庭」での質問ですが、私も知りたいです。
「中庭」は、私どもが『「荒らし」』をしたせいで閉鎖されましたので、現在
書き込みができません。
新しい掲示板などには、出来る前から縁を切っておりますので、柳瀬はこれで
安心だろう。あいつらは、その程度で安心するだろう。
いや、話が逸れました。
音読って、学校の教室でどの程度のことがやられているのでしょうか。
やっても、とんちんかんなことばかりやっているのではないかとかんぐって
おるのですが。
こちらをお読みいただけたら、こちらでお教えくださると助かります。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
読む。
もう書いてやるほどの親切はない。
読んで、この掲示板で書いてやる。
URLを常に併記する程度の親切はしてやる。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
って、さ。
あほか。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
>I don't think reading or listning alone may not be good enough
to expand your speaking or writing vocabulary.
昨晩は放っておいたのだが、don't か may not の not のどっちかは要らな
いんじゃないか。
論理が逆じゃないか。
英語は上手だが、論理が駄目みたいだな。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
語りあっていろ。
そういえば、暴走族っていうのか走り屋っていうのか、このあたりでは、聖峠
とかの山道を、夜中に車で走ったり降りたりする若者がいるのです。この連中
の中にもいくつかそれぞれの流儀があって、代表的なのが、「走り屋」と「語
り屋」なのですね。
走り屋は走る。語り屋は語る。
語り屋は何をするかというと、峠のてっぺんのジュースの自動販売機の前で
「語る」ということをするのです。僕たちは、走らない(走れない)から、語
るんだよね、と言いながら語るのです。言ってみれば、走り文化の添加物みた
いな連中です。
で、柳瀬ちゃんの掲示板は、大風呂敷の添加物みたいなものですね。
語るのだそうだ。
現実を変えることはしないっていう意味か。
わっとどよみーん かたる?
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
>語り合う文化は、ある一定の取決、約束、そして作法を守ることによっての
みはじめて健全に育ちます。とくに掲示板のように不特定多数の人が見るにも
かかわらず、投稿者が自由に書き込みのできる媒体においては、取決、約束、
作法といったことは重視しなければならないと考えます。ルールなしの無法状
態は語り合う文化を破壊してしまうと管理人は考えています。
「中庭」から。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
>またご自分が感情的になっている時、酒で酩酊している時など、自分の言葉に責任がもてない時の書き込みは止めてください。この掲示板は感情を爆発させる所でも、特定の人達のための酒場でもありません。「あの時は感情的だったから、つい・・・」「私は今、酔っ払っていますので・・・」といった言い訳はお認めしませんので、投稿は冷静で落ち着いた状態の時にのみ行ってください。この掲示板は不特定多数の人のための開かれた場であり、特定の人のための鬱憤晴らしの場でも馴れ合いの場でもありません。
以上は、「中庭」の取り決めです。
以下は、「大風呂敷」の取り決めです。絶対に守ってください。
ご自分が感情的になっている時、酒で酩酊している時など、自分の言葉に責任がもてない時の書き込みはどんどんしてください。この掲示板は感情を爆発させる所でも、特定の人達のための酒場でもあります。「あの時は感情的だったから、つい・・・」「私は今、酔っ払っていますので・・・」といった言い訳は全面的に認めますが、この種のいいわけをする予定の方は、本当に酒を飲み、酔っ払っている状態の時にのみ行ってください。この掲示板は不特定多数の人のための開かれた場でもあり、特定の人のための鬱憤晴らしの場でもあります。馴れ合いの場ではありません。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
って、柳瀬のやるせなさ。
冗談を言っているのが自分でわかってねえ。
世の中には冗談がわからねえやつがいっぱいいるが、自分で冗談を言って、
冗談がわからねえのだからどうしようもねえ。
http://8246.teacup.com/nessy/bbs
>新聞の投書欄のような言葉遣いでは表現できない内容は、「広場」以外の他
の掲示板あるいはご自分のホームページでご発表ください(ですが、そういっ
た内容をもった掲示板やホームページへのリンクや案内を「広場」に掲載する
ことはお断りします)。
以上、「中庭」から。
これ、PTAの糞ばばどもの根性と同じだ。
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