みたび、長野B達人さんのお世話になり、USB認識、モデム認識、COM認識などの難関を突破。
なんとか、私のコンピュータが復活しました。
ハードディスクがぶっこわれてくれたおかげで、新品を買い、6ギガの容量が30ギガに増えまし
た。
ようやく、普段の仕事に戻れます。
「電話でレッスン」の生徒さんたちには、データ紛失寸前でごたごたし、ご迷惑をおかけしました。
今後は、あんまり油断しないで、コンピュータをいじろうと思います。
ハードディスクは高速で回転してますので、壊れる可能性は小さくありません。
大事なデータはCD−Rなどの外部媒体に時々退避されることをお勧めします。
ただし、これは結構面倒なので、ハードディスクを2台買い、こまめにファイルを別のハードディスクにコピーするのも手です。一番確実なのは2台のパソコンをLANで結ぶことでしょう。ただし、地震や火事になるとお手あげですが。その場合、使用している本人も危ないので、パソコンなどほって逃げましょう。
mailto:genkisaito@hotmail.com
アドバイスありがとうございます。
ノートパソコンのハードディスクが壊れたのでした。SCSI接続などすると出費がかさみます
ので、IDEの新品を買って、壊れたのと取り替えました。
CD−Rも買いました。
本当は、システム込みでハードディスクの中身まるごとをバックアップできるようにしたかった
のですが、コンピュータいじりに時間がかかりすぎますので、CD−Rにデータだけバックアッ
プしていくことにしました。
今回は、コンピュータにフレッツISDNがつながっていることを認識させるのに手間取りまし
た。結局、達人に助けてもらってようやくつながりました。
今日のレッスンは、どうなさいましたか。
メールのデータをごっそり失いましたので、こちらからメールが書けません。
仕方がないので、この掲示板で連絡させていただきます。
一度こちらにメールをいただきたくお願いいたします。
今日は、コンピュータが復活して少し気が晴れましたので、飲みに行きます。
書くぞ。
アメリカの魅力で英語をやったやつらは非国民だ。
(と、私は思う)
かつて、アメリカが良い時代がありました。
アメリカが乙姫様の時代がありました。
茶色い戦争ありました。(中也)
今はもう、世界の人々が竜宮から帰った浦島太郎の時代です。
どのくらい、お飲みになられたのでしょうか?
私は、缶ビール2本、ビール小瓶2本、チューハイ4本、IWハーパーのロック2杯、
生ビール2本、ジントニック2本、シャンペンの小瓶1本程度でしょうか。
まだあったかも知れません。最近、酒に強くなったみたいです。自慢にもなりませんが。
mailto:genkisaito@hotmail.com
生ビール2本、ジントニック2本と書いたところなど、酔ってます。
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斉藤さんも酔っぱらって書くのですか。
村田君も最近それをやっているみたいです。
弱ったな。
俺は、まじめな掲示板をやりたいのに。
俺がやたら酔っぱらって書いたのが伝染病になっているのか?
皆様
どうか、酔っぱらわずに書いてください。
私はどうせ酔っぱらいですが。
酔っぱらって書いては「ならんぞ」という意味ではありません。
酔っぱらって書いてもいいさ。
だけどさ、俺が酔っぱらっているのに、人々も酔っぱらっているとは、なんということだ。
と、思ってしまう、僕たら。
>アメリカの魅力で英語をやったやつらは非国民だ。
ふうむ。わけがわからない。まったく酔っぱらいがわめく言葉にはどう対応したらいいのか。いくら掲示板の名前が「大風呂敷」だからといって、この「大風呂敷ぶり」には困ったものである。
この酔っぱらいは、何か物議をかもしたかったのだろうか。この酔っぱらいは何かにいらだっていたのだろうか。
昨夜、根石吉久はウドの店に行き、生ビール大ジョッキ3杯飲んでごきげんになって帰ってきたはずなのだが、そのままコンピュータに電源を入れて、上のものを書いたのである。
アメリカの魅力で英語をやって何が悪い! と酔いからさめてみれば、根石吉久だって思うのでしある。しらふの人間に、酔っぱらいのわめきが解析できるのかという疑問は残るが、この酔っぱらいはいったい何を思って、こんなことをわめいていたのかを少し考えてみないわけにはいかない。
アメリカの魅力といったって、千差万別であり、酔っぱらいは「アメリカの魅力」という言葉で何を言っていたのか。魅力あるものに惹かれることは当然のことではないか。
この酔っぱらいは、「アメリカの魅力」の背後には、「アメリカの武力」があるとわめいたのか。つまり、戦後の「アメリカの正しさ」のうさんくささを言っていたのか。
根石吉久には、以前から「アメリカ的正しさ」に対するいらだちを隠さないところがある。どこが正しいんだ、先住民(ネイティヴ・アメリカン)を殺して建国しやがったホワイト・アングロサクソンども。それのどこが正しいというのだ、というようなことを書いたことは何度もあっただろう。
映画そのものの魅力、歌そのものの力に魅了されることはまったく何も問題ではない。アメリカの歌が好きであること、好きであったこと、そこにノスタルジアがあること、それらは問題ではない。南アジアの歌が好きであろうと、ロシア民謡が好きであろうと、イギリスのロックが好きであろうと、都々逸が好きであろうと、それらは個人的な好みの問題なのだからまったく問題ではない。
じゃあ、何なのだ。
今日の毎日新聞の一面の記事に小泉がアメリカでした発言に対する言及がある。
米大統領、イラク攻撃を明言 2月の日米首脳会談で 米「日本は了解」と理解
これらの字が大きく印刷されている。そして、小泉のアメリカ追従について報道されている。
小泉首相は大統領に「テロとの戦いで日本は常に米国とともにある」と伝えており、米国はこの会談で将来のイラク攻撃に対する日本の了解を取り付けたと受け止めている。
という一文が記事にある。「アメリカの正しさ」がいまも武力と表裏一体のものであること、それに対する何の批判も出すこともできない日本の首相というものが「猿に回される猿」であることを明らかにしている記事である。冗談じゃない。明言すべきことは、アメリカに荷担した戦争なんか絶対にできないということだ。日本の憲法はアメリカがよこしたものではないか。日本がすべきことは、アメリカが寄越した憲法の理念によって、アメリカを批判することではないのか。それが可能になるためには、その手前に、あの憲法の理念が果たして日本人の血肉になりうるのかという問いがあるはずだ。中国伝来の漢字が日本人の血肉となったと同じレベルまで、あの憲法の理念が血肉になるのでなければ、あの憲法の理念によってアメリカを撃つということはできない。文部省の英語に対する扱いが、いつも空題目であるのと同じように、憲法が空題目になっているのだ。
人々は、こう考えているのかもしれない。「憲法なんか空題目だっていい。俺たちの暮らしが明日も同じように続くのであるなら・・・」。「俺たちの暮らし」を根底にして考えることは間違っていない。しかし、憲法を空題目にするラディカリズムが、国家をも空題目とするところまで行かないならば・・・。あらゆる地上の国家を空題目にする人々の思考の連帯に、あの憲法は必要なものではないのか。
そんな日頃の考えが背後にあって、あのような不可解な言葉が昨夜の酔っぱらいから飛び出したのだろうか。それにしても、「非国民」という語が何の諧謔にもなっていないところが、最大の問題ではあるだろう。
何の魅力によって英語を始めたのであれ、「言葉そのものの魅力」を抱きしめることができない
ならば、語学としては一人前ではない、と考えます。
> 私は、缶ビール2本、ビール小瓶2本、チューハイ4本、IWハーパーのロック2杯、
生ビール2本、ジントニック2本、シャンペンの小瓶1本程度でしょうか。
まだあったかも知れません。
よくもまあ、腹をくだしませんね。
私は今日はひどい下痢です。
もう起きて書いてるんですか?
私は、まだ気分が悪いです。
>よくもまあ、腹をくだしませんね。
少し、吐き気がします。
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もしかして 有事法制を 今国会で成立させたがってるのって
イラクがらみなのでしょうか?
小泉さん 冗談じゃないよ。
精神的支柱を靖国神社などに求め、アメリカのリアルパワーには唯々諾々とする。
これは猿です。
小泉がこわいのは、「人々の日々の暮らし」に価値の根底を置いていないところです。
「人々の日々の暮らし」こそが、いわば世界の共通語です。世界のどこに行っても必ずあるもの
はそれです。
靖国などという特殊は、世界にとってだけでなく、日本人の「人々の日々の暮らし」にとっても
特殊なものです。
あいつが間違うときは、間違いはでかいものになると思う。
日本は猿を首相にしてしまったのではないか。
根石さん、斎藤さん
いつも酔っぱらって書いているのですか?
何だかお二人とも二日酔いがひどそうで、心配です。
もう、体調は落ち着きましたか?
大丈夫です。ご心配なく。いつも酔っているわけでは、ありません。
たまに週末に、ちょっと破目をはずすだけです。
mailto:genkisaito@hotmail.com
このVOA(Voice of America)のサイトはいいです。
英語のニュースの音声とテキストがあるので、音声で聞いて、分からないところは、文字で確かめられます。音声のスピードも普通より遅いので分かりやすいです。
http://www.voanews.com/index.cfm
mailto:genkisaito@hotmail.com
大丈夫です。
すでにもう飲んでいます。
1996年8月30日初版の晶文社「最後のタヌキ・・英語で考え、日本語で考える」(C・ダグラス・ラミス)という本には異様なことが書いてある。最初、妻が読んでびっくりし、次に私が読んだ。暗い気持ちになった。以下に引用する。
----------------------------------------------------
(略)
ニュージーランドが、核を搭載している可能性のあるアメリカの艦艇すべてに港湾を閉ざし、アメリカ政府に衝撃を与えた。新聞報道によれば、アメリカ政府当局は、ニュージーランドの「核アレルギー」が、ベルギー、オランダ、英国、西独、カナダ、ギリシャ、そして日本など、他の国々にも広がってゆくことを懸念しているという。
(略)
日本政府によれば、日本はすでに非核地帯になっている。「非核三原則」はそういう意味であるはずだ。アメリカ政府筋はなぜ、その考えが日本からニュージーランドへ広がったと、という言い方をしないだろう?
答えはこうだ。ニュージーランド政府は核兵器を本当に排斥する決意を固めているのに対し、日本はそのフリをしているに過ぎないから。エドウィン・O・ライシャワー元駐日大使が数年前に明らかにしたように、アメリカは数十年にわたって核兵器を日本に持ち込み続けてきた。非核三原則は人々をあざむく以外、何の効果もあげていない。
----------------------------------------------------
1985年3月8日付けの記事である。
その後、どうなったのか。日本を馬鹿にするアメリカの原則は変わったのか。人々をあざむく日本政府の原則は変わったのか。「アメリカの正しさ」という馬鹿どもの信仰は変わったのか。「馬鹿くさ三原則」はそのままではないのか。
その後もアメリカが核兵器を日本に持ち込み続けてきたのであり、日本政府がそれを見て見ぬふりをしてきたのであれば、「非核三原則」を堅持するなどという、福田や小泉の言葉に何の意味があるのか。
日本の国会は猿芝居にすぎない。
馬鹿にするんじゃねえ。猿芝居の猿どもが。
松岡さんから許可をいただいていませんが、ただいま引用したい松岡さんの言葉がありますので、ここに引用いたします。
詩の雑誌・midnight press (現在発売中)、105ページからの引用です。
----------------------------------------------------
(以下、松岡さんの江藤淳からの引用)「国家」は日本に帰って来てからどんどん遠くに行ってしまうように思われるのだ。だがこの逃げて行く「国家」が、帰ってから一度だけ姿をあらわして私をつつみこんでしまったことがある。オリンピックの開会式のときだ。(中略)テレビに映っていたのは、九十四カ国を代表する運動選手たちが、自分の国の国旗をおし立てて国立競技場の貴賓席の前を行進する光景にすぎない。しかしその貴賓席には日本の君主がおられた。その人の前で、世界がそれぞれの旗を垂れて敬礼して行く。(以上、江藤の文)
----------------------------------------------------
(以下、松岡さんの文)
----------------------------------------------------
この思いこみと擦り替えはいったい何だ。天皇を神と崇めようと、哀れな晒し者と見倣そうと、個人的には勝手だ。しかし、天皇は「国家」の元首でも、「日本」の君主でもない。これははっきりしたことだ。天皇は現行の憲法の規定によれば「日本国民の統合の象徴」ということになっている。ここに江藤淳の錯誤がある。そして、この転倒と作為の認識は保守派に共通のものだ。この列島の歴史を掘れば、天皇(家)は「日本人」を象徴するに足りないし、また、私の実存にとって空の一片の雲ほどにも気を惹きはしない。それがほんとうだ。だから私の考えでは、天皇が現行の内閣の承認などの国事行為から全て退くなら、格別不服はない。江藤淳は私的な奮戦にどうして歴史の虚像を密輸入するのか、それがわからない。もちろん、外国の脅威などという虚構によって「有事法案」を作り、戦時体制を構築する反動政府の意図もわからないのだ。そうやって国家意志を捏造し<主権在民>を侵害して何をやるというのだ。それほど戦争がしたいのか? それほどまでして国威を拡張したいのか?
----------------------------------------------------
(以下、根石の文)
----------------------------------------------------
松岡祥男が提示し続けてきた理念を、私は抱きしめて生きてきた者です。
ただいま現在、私は
「英語の扱い方」
を教えて生きている者です。
「英語を教えて」ではありません。
生徒さんたち(皆様)、生徒をご紹介ください。
この批判は、そのまま、石原慎太郎につきつけるべきものだと思っています。
この、チンポコ障子紙破り野郎も、頭の中がぐちゃぐちゃです。
戦後の日本の「さっぱりしたいい男」はまるで信用できない。
私は、小泉も石原も政治家としてはくたばるがいいと思っています。
こいつらこそ、筋を曲げて、アメリカと一体化して、日本で日々を暮らす人々をあざむく野郎どもです。
石原に首相をやらた日には何が起こるか。
小泉と同じことをやるだろう。
猿ども。
石原がこれまでの「アメリカ批判」を貫き、Noと言うべきときにそれをきちんと言うのであればよろしかろうが、それでも問題は残る。
石原も小泉同様、現行の憲法を反故にしたいのだ。
江藤淳も石原も、おぼっちゃまであるがゆえに、とち狂ってけつかるのだ。
スポーツ大好きの石原が、体育大好きの続きで徴兵制を作らないという保証はどこにもない。
冗談じゃねえ。馬鹿やろうが。これまで、日本人がどういう我慢を続けてきたと思っているのだ。おめえら、おぼっちゃまどもがどういう我慢をしてきたというのだ。
日本の首相は、たけしにやらせるか、さんまにやらせるのがいいんじゃねえのか。
何がスポーツか。何がワールドカップか。
人々よ、浮かれているんじゃねえ。
石原に首相をやらた日には
→
石原に首相をやらせた日には
話は替わりますが、ホームーページでへんに凝ったもの(音楽とか入ったやつ)がありますが、
あれは表示し終わるのが長くてイライラします。作った本人は自慢なのでしょうが、見る方はしらけます。それに較べてここは、実質本位でいいです。
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ホームーページ −> ホームページ
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どんな国であっても警察はあります。
警察というのは、簡単にいうと国家権力による暴力組織です。
話あいで解決できないときの最終手段が暴力なのです。
この警察のおかげでその国の秩序が保たれているのです。
警察のない国、または、あっても役に立たない国を考えてください。これほど怖い国はありません。現にアフリカの一部の国はそうなっています。
現在のところ世界警察というようなものはありません。
無法国家が他国を攻撃した場合、その国を罰することの出来る合法的な組織というものはないのです。国連がありますが、その力は弱いです。
したがって、各国は、自国を守るため軍隊を持っているのです。
スイスのような永世中立の国でも軍隊は持っています。
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>現在のところ世界警察というようなものはありません。
インターポールがありますが、あれは、各国の警察が国際犯逮捕のため協力した組織で、
私がここでいう無法国家を取り締まるという意味の世界警察ではありません。
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昨日、VOAの紹介をありがとうございました。
これはなかなか私には役にたちます。
日本のことをよくわかっていて(民俗学などの知識がある)、英語に堪能な人たちで、VOJ
(Voice of Japan)というようなネット上の同じようなページができればいいのに、と思いまし
た。
日本人が個を押し出すことをしないのは、一昔前は農耕が主な産業の一つで、その中でも、水田
耕作が大事で、水田耕作では、水の配分が最重要事で、だから、個を押し出していたんじゃ、水
がうまく田に回らない。そんなところから、個を殺す術が日本では発達したんだ、というくらい
のことが言えないと、日本人は、いつもあいまいなことばかり言っていて、煮え切らないやつら
だというような、欧米基準に対して言い返す言葉が持てない。
日本で英語をやる人たちにとって重要な学問は、民俗学だと思っているのですが、なかなかこれ
は常識にならず、英語をやる人たちと民俗学をやる人たちは、水と油のように分離しています。
そのあたりについてはどんなふうに思われますか。
警察というものは、人間性悪説を根拠にしている組織だと考えています。
あくまで比喩ですが、アメリカが世界の警察をやっているのは、アングロサクソンどもの思考に、人間性悪説が根を深く張っているからだと思います。
この野郎どもがずたずたにした、あの大陸のネイティブたちに、果たしてヨーロッパ流の人間性悪説があっただろうか。人間の原罪というものをキリストは言い出しましたが、その原罪を拡大再生産したのが、アメリカ大陸におけるアングロサクソンどもです。
どうにも好きになれない。アングロサクソンの野郎どものことは。
日本における警察組織の成立は、冷たい思考の所産だとは思います。
警察のおかげでその国の秩序が保たれるような国は、あまりいい国だとは思いません。
私の子供の頃、私が育った村では、どの家も廊下や茶の間の障子を開け放して、蚊帳を吊って、人々は寝ていました。まだ、現在ほど警察は必要とされていなかっただけでなく、警察的思考をいつだって跳ね返してやろうという農民の感覚は生きていました。
アフリカの一部の国が無法状態になっているのは、警察がないからではありません。
ヨーロッパのビッチ国家どもが、好き勝手にアフリカを蹂躙した結果です。
罪深いのは、絶対にヨーロッパ的貧乏根性です。
この貧乏根性こそ、ヨーロッパ貴族の根性だと私は思ってきました。
国連をどうやったら強くすることができるのか。これは課題です。
国連はアメリカの首根っこを押さえるだけのものにならなければ嘘です。
イギリスはビッチだと思う。
アメリカは son of bitch だと思う。
それとは別に、俺は、アメリカにいる俺の友達は好きなのだ。
個々のアメリカ人を見れば、心の柔らかい人々がたくさんいる。
アメリカの政治的保守派。あいつらが世界の癌である。
自分たちの正しさと誇りを信じて、姿勢よく歩くアングロサクソンたちを、ボストンの道ばたの
ベンチに腰をおろして眺めて、俺は俺の胸の中で笑いが暴発するのにまかせていた。
2年前だったか、3年前だったか。
それで困っています。
すでにビールを3つ飲みました。
英語屋の「趣味の部屋」になりつつあり、一応、困ってはおるのです。
日本語の磁場における英語。
これは、本当は現在の世界の難題につながっていると思ってはいるのですが・・・。
僕だって英語がしゃべれる、みたいな小泉の英語は、実に実に危ない。
やめてほしい。
ブリヂストンのアメリカの子会社が作ったタイヤが高速走行で破裂したときにも思ったことでし
たが、下手な英語で説明をすべきではない。
普段から英語を鍛えながら、重要な話をするときは通訳を使うべきだ。
馬鹿なパフォーマンスをやってんじゃねえ、猿小泉。
おめえは、大事な話をアメリカでするように国民から委託されたのだ。
It should be swift. というブッシュの言葉を、オウム返しに繰り返したそうだな。
それのどこが大事な話なのか。
このオウム返しは、猿真似以外のものではない。
政治のきつい場所で、オウム返しをやり、猿真似をやる日本の首相。
これこそが、世界の恥であり、日本人の恥である。
なかなか、語学の話に戻れませんね。
ようやく完全にお日様が沈没しました....朝は3:30頃には白み始めます。
寝不足ですわ...
> どんな国であっても警察はあります。
> 警察というのは、簡単にいうと国家権力による暴力組織です。
> したがって、各国は、自国を守るため軍隊を持っているのです。
警察と軍隊は同じですか?日本は、軍は持っていませんが、警察は持っています。
軍が守るのは人々の暮らしですか?違うと思います。
多くの人が軍によって殺され、しかも、自国の軍によって殺されている人もいるのですよ。
斎藤様、ぜひ、この点を考えてください。
軍があるために、もっとつらい状況がうみだされているのですよ。
mailto:tkfm@da2.so-net.ne.jp
根石様のご厚意により、今までつまらないおしゃべりをさせて頂き、
ありがとうございました。
無事PCも復活された由。
どうぞ、本論である語学論にお戻し下さい。
よろしくお願いします。
>警察と軍隊は同じですか?日本は、軍は持っていませんが、警察は持っています。
警察と軍隊は同じではありません。しかし、暴力を問題解決の手段として持っていることは共通しています。
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軍が守るのは人々の暮らしですか?違うと思います。
多くの人が軍によって殺され、しかも、自国の軍によって殺されている人もいるのですよ。
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前にも書いたように、逆説的ですが、あなたのような考えは非常に危険です。非戦主義は、かえって逆に戦争を招く場合があるのです。
よくお考えになって下さい。それでも分からなければ、私に言ってください。理由を、ご説明します。
mailto:genkisaito@hotmail.com
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日本で英語をやる人たちにとって重要な学問は、民俗学だと思っているのですが、なかなかこれ
は常識にならず、英語をやる人たちと民俗学をやる人たちは、水と油のように分離しています。
そのあたりについてはどんなふうに思われますか。
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そもそも、日本人一般が英語が苦手ですから、水と油のように分離している
以前の話だと思います。
下のリンクは私が(Samurai名義で)、ある日本贔屓の外人のサイトに投稿したものです。
何人かの外人が興味を持ってくれました。この中のOscarと言う人は日本人ですが、完璧な英語を使います。
http://www.network54.com/Hide/Forum/message?forumid=65908&messageid=1022852575
mailto:genkisaito@hotmail.com
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国連をどうやったら強くすることができるのか。これは課題です。
国連はアメリカの首根っこを押さえるだけのものにならなければ嘘です。
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国連の常任理事国(つまり、大事な議題に対して拒否権を持つ国)は、
第2次大戦の連合国で構成されています。日本とドイツは戦後の世界に対する貢献度は、中国はもとよりロシア、フランスなどよりも大きいのに、なれないのです。国連もアメリカ・イギリスに牛耳られているみたいです。
mailto:genkisaito@hotmail.com
>英語屋の「趣味の部屋」になりつつあり、一応、困ってはおるのです。
英語屋とは、私のことでしょうか?
私の職業は、英語とは直接関係ありません。
「趣味の部屋」というのは、私とジェーンさんの会話のことだと思いますが、確か、根石さんがジェーンさんに、パソコンが直るまで自由に話していいと言うお墨付きをお与えになったと記憶しているのですが。
「趣味の部屋」といっても、英語の歌と映画の話ですから、英語を学ぶ上で
重要なことだと思っています。とかく日本人のいや人々一般の欠点は、勉強というものを堅苦しく考えることだと思います。
mailto:genkisaito@hotmail.com
>警察のおかげでその国の秩序が保たれるような国は、あまりいい国だとは思いません。
とすると、いい国なんて、今にも昔にも、どこにもないのでは?
いつの時代にも、どこにも悪いことをする人間はいると思います。
殺人などは、カインとアベルの昔からありました。
泥棒など、もちろんです。
世に悪人は尽きないのです。
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>私の職業は、英語とは直接関係ありません。
>「趣味の部屋」というのは、私とジェーンさんの会話のことだと思いますが、確か、根石さんがジェーンさんに、パソコンが直るまで自由に話していいと言うお墨付きをお与えになったと記憶しているのですが。
英語屋ではない、とおっしゃいますが、英語に言及する立場にいれば、それは50歩100歩のように見受けられます。
楽しんで英語をやろうというのもいいですが、そういう甘い汁をばらまいて、英語学習者に媚をうって金儲けをする人があふれれていることを、忘れてはならないと思います。英語の死屍累々がうじゃうじゃと生まれるだけです。
>「趣味の部屋」といっても、英語の歌と映画の話ですから、英語を学ぶ上で重要なことだと思っています。とかく日本人のいや人々一般の欠点は、勉強というものを堅苦しく考えることだと思います。
趣味の歌と、映画の話題について語るようすを見ていて、嬉々として語られている様子を見ましたが、「英語に関係する」につながるのは、三段論法でもくるしいかな、と思ってなりませんでした。
といっても、がちがちの英語論だけでは、苦しいなあ、ということは分かりますが。
>英語屋ではない、とおっしゃいますが、英語に言及する立場にいれば、それは50歩100歩のように見受けられます。
それは、当然でしょう。
どんな言明もその立脚する立場によります。
そんなことを言えば、英語屋もそうでない人も同じ人間です。
mailto:genkisaito@hotmail.com
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趣味の歌と、映画の話題について語るようすを見ていて、嬉々として語られている様子を見ましたが、「英語に関係する」につながるのは、三段論法でもくるしいかな、と思ってなりませんでした。
といっても、がちがちの英語論だけでは、苦しいなあ、ということは分かりますが。
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英語の歌を覚えるのは、英語の勉強には、絶対おすすめです、と書きました。
映画を見るのもそうでしょう。
言語と文化は密接に関係しています。
あなたは、これらのことをまったく理解されていないとみました。
mailto:genkisaito@hotmail.com
また、おすすめのサイトです。
英語のオンライン辞書は一杯ありますが、この辞書は発音が聞けるのがいいです。
http://dictionary.msn.com/
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>趣味の歌と、映画の話題について語るようすを見ていて、嬉々として語られている様子を見ましたが
嬉々として話すのがいけないみたいですね。
mailto:genkisaito@hotmail.com
「英語屋」うんぬんは、根石さんご自身のことではないでしょうか。
また、映画や音楽の話をされるのを、さえぎる意図もないと思われます。
私の感じ、でですが。
英語屋というのは、私のことをさして言ったものです。
英語屋は星の数ほどおりますが、語学論を持っている人の数はわずかなものではないかと思います。語学というものが虚であることの本質を言い当てるのでなければ、日本語の磁場に置かれた英語の特殊な質を言うことができませんし、日本で作った英語のごつごつした性質が、余計な劣等感から抜け出ることはないと見定めていますので、私の仕事は日本の英語から劣等感を洗い流すための語学論だろうなと思っています。しかし、これをやっていてもお金にならず、従って生活は成り立ちませんから、「電話でレッスン」等のレッスンをやって生きております。
このレッスンをやっていることで、新しい語学の局面を発見したりすることはよくあり、レッスンと語学論は私にとっては、車の両輪みたいなものになっています。この両輪を転がしていくのが、私がやるべきことだと思っているのですが、突然、何の脈絡からか警察のことを斉藤さんが書かれたので、私も警察に関する考察などをやらかしました。
本来やるべきことをやらずに、警察論だの猿ブッシュ・猿小泉論だのをやってしまっているのは、国家主権論の台頭を目の前に見ているためです。国家を実体と見る見方ばかりが増殖しており、国家は虚体なのだと見る視力がどんどん衰えていることに実に危ないものを見ています。
虚体を実体視するブッシュの先制攻撃論が、空即是色の構造をしているなら、日本が色即是空を言うことは絶対に必要だと思っています。私一人の身のことを言うなら、アメリカのリアルパワーの虚ろさと、見えない敵に対する猿踊りを言えないならば、掲示板という場で、言葉になど関わるべきではないと思っています。
難渋してはいますものの、語学=虚体という私の根本的な語学への見定めから、これらの枝は出ていると自覚しています。「語学=虚体」論そのものをやらず、警察論だのアングロサクソンへの嫌悪だのに話の枝を生やしてしまっている自分の行為をさして、「語学屋の趣味」と言ったものです。
斉藤さんとジェーンさんのアメリカの歌の話は、生き生きとしていていいなあと思っていました。国家主権論をやりだすと、とたんに斉藤さんには硬直したものが生じるなと思っております。斉藤さんの論は、どこまで行っても国家=実体論であろうと思います。
国家を実体と見る見方は、実をえぐり、虚を光らせる言葉の力に対して、最初からお手上げであり、実体としての権力にバンザイしてしまっています。
斉藤さんの考えによると、縄文時代に警察はどのように機能しておったのでしょうか。
国家も警察も後代のものであり、そんなものがなくても、その昔、人間は生きていたのです。
お笑い外務省、お笑い防衛庁こそは、日本という国の赤ちゃん大王であり、大人としては恥ずかしいが、赤ちゃんとしてはまともです。日本はよだれかけをかけた国なのですから、このよだれかけ国家の魅力というものをちゃんとしなければいけません。
昨今では、名作が古本屋で安く売られておりますので、お求めになられるといいと思うのは「ドクタースランプ アラレちゃん」であります。赤ちゃん大王の国家がよく描かれていると思います。
お笑い外務省、お笑い防衛庁と出たら、お笑い猿ブッシュ、お笑い小猿小泉と出るべきであり、その元締めに、お笑いヨーロッパがあることも出なければなりません。ヨーロッパのお笑い貧乏根性こそは、今も問題です。
貧乏は恥じる必要はない。貧乏根性は恥じるがいい。
糞ヨーロッパ、糞アメリカ。
警察的思考が悪や暴発を生むことはあります。
また、国家や警察を背後に持った人間が、国家も警察も持たない人間に対して行使した暴力というものは、日本政府のアイヌへの暴力に例をとってもいいですが、明らかに「人々の生活」に対する犯罪です。アメリカの建国がネイティヴの人々に対して行った犯罪、あるいは、現在アメリカ的標準思考をはみだすものに対してふるっている暴力と同一のものです。あるいは、ヨーロッパのビッチ国家どもの植民地主義がアジア・アフリカに対して行った犯罪とも同一のものです。すべては、「人々の日々の暮らし」に対する明らかな犯罪です。
この世界には、ヨーロッパあるいはアメリカの「標準思考」による犯罪が明らかに存在します。また、この「標準思考」を猿まねする日本の近代(以降)の犯罪も明らかに存在します。
警察や軍や国家に対するミーハーは要りません。
O嬢に対してむかついたことを少し前に書きましたが、警察や軍や国家に対するミーハーは、涼しい顔した戦後の民主主義紳士どもの「アメリカの正しさ」に対するミーハーと同列なのです。この世でもっとも価値のあるものは、場所場所における「人々の日々の暮らし」です。それ以上に価値のあるものは何もありません。
ところが、ひょっとすると、ヨーロッパの上層部などでは、ヨーロッパに散在する宝石類をかきあつめれば、世界の最高の価値が生じると思っている馬鹿がたくさんいるかもしれません。もともと、アジア・アフリカから泥棒した宝石でも、です。アジア・アフリカから平気で泥棒するような貧乏根性の者たちですから、そんなふうにとちくるっていることはありうることだと思います。
酔っぱらいの話でわかりにくかったところはお許しください。
皆様が暑くるしく議論しているとき、私はイタリア・メキシコ戦を観ていました。
サッカーというスポーチュに働くグウジェンは選手の技能・精神力というヒツジェンに対してど
のくらいのパーセンテージェを持っているのでグジュグジュ,バッカボフンフランス語のトルシェ
で、シュビドゥバア。
Naimaさん。
地球の裏側からこんばんわ。
そちらでは、もう午前ですかね。ああ、違った、まだ午前ですかね。そろそろ午後ですか。
そちらでは、梅雨はありませんか。
この掲示板をよく読んでいただいています。
ありがとうございます。
プールへ行ってるか?
しなやか、しなやか、ナイスバディでいけ。
そんなことをおっしゃらずに。
本論である、アメリカンポップスにお戻しください。
私は、体力が回復しましたら、勝手に語学論に戻りますゆえ。
近頃、体力を消耗することが続いております。
ビールで腹が出ているので、ビール腹を消耗するのならいいのに、背中の筋肉を使うことがまだ
まだあり、苦戦しています。
歌の話、映画の話、どんどんやってください。
私は歌が好きですし、私の女房は映画フリークです。
私の女房のことをどんどん言いますと、コンピュータ音痴で、キーボードを操ることができず、
仕方なくわたくしのチン★☆を操る日々です。ここに登場しないことは、お許し願うとして、本
当にあやつは、映画フリークです、あやつが昔の塾生と映画の話を始めた日には、あたしゃ、な
にがなにやら、さっぱりわからない。
午後9時。 気温13度。 さぶ〜
語学論をよみかえして
>ちょっと英語をやれば、すぐに英語がしゃべれるようになりますよというような嘘八百を言うところが金をかせぎ、ちゃんとやれ、毎日やれ、音を作れ、というようなしんどいことを言い、実際にやらせるところ(私の塾のようなところ)は、生徒が散り、生活費も出なくなることにおびえさせられるという厳然たる現状があります。
根石さんの塾だったら 実際に 一般がもとめている 良い成績をとる生徒が出ているのだし
生徒で あふれかえってもよさそうなものですが・・・・
いかがですか?
>厳しい塾だからいい塾だと言ってくれる人はほんとうに少数であって、多くの人は厳しくすればやめてしまうのです。それで、10年後にその人がどうなっているかといえば、使い物にならない英語をつかまされ、英語がすっかり死んでいます。やってらんねえや、という気持ちを何度噛み殺したことか。何度口に出さずに我慢したことかしれません。
もうこれは 同じ気持ちで理解してくれるのは少数。
英会話にあこがれる体験入学の人や
途中で やめてしまった人を思いながら なんど やってられないや と思ったことか。
地道をもとめると去っていく。
基礎の音読をないがしろにする 宿題〔音読)やってこないでそれでちゃっかり上達を望み
できないと こちらの指導力不足となり 外人英会話学校に夢をいだきさっていく
さようなら。
1音読?これなら自分一人うちでもできるだろうと思うらしい。
自分でできる人はとっくにやっているだろうし 多くは独学だと根気が続かない。
2 からっぽの電池が 絶対に必要なのだが わからないみたいだ。
素読 音読という シンプルな 素振りをおろそかにして グラウンドにでたがる。
グラウンドに出ることは 必要だけれども 練習せずに ヒットは打てないし ましてやホームラン
基礎練習をばかにして 去っていって 外人のレッスンを受け
上達した人を 私はしらない。 〔私が知らないだけかな?)
体験レッスンでレベルチェックとして
中学一年の 日→英語作文をやってもらうのですがもできない人のおおいこと
なのに 英会話はできると思うところが不思議
英会話は口でつくる 英作文だよ。
4月半ばからレッスンをはじめた生徒さんが 2ヶ月 13回余りのレッスンを終え ホライズン1が終わったところです。いまのところ音読等宿題も完璧にこなして故に 上達も早い。
音読と共に 基礎文を 現在過去未来 進行形 であらわせるようになりました。
まったくもって 中1の英語をばかにできない。
ちょっとなれてきたところで 週2回のレッスンだったはずが 都合?で一回しかこれなくなったそうで釘。格安1時間半3000円のレッスン 月240000円がもったいなくなったみたいだ。
英会話学校に色気もでてきた。 少なくとも 中2が終わるまでは 無駄だから
体験入学して 比べてみろ。と助言
今はまだこちらの体の都合にあわしてもらうこともあり どこよりも格安
あちらは 4人ぐらいのレッスンで50分5000円だよ。 目をさませ。
それにしても 営業の口車はすごく たくさんの人が 2時間の説明のうちに 30万以上のクレジットを結ぶのを みてきました。英会話幻想を 買うのですね かれらは。外人と楽しんで会話しているうちに 上達すると本気で思っているらしい。 後に幻想としっても 払ってしまったお金は あまり気にならないらしい。(いいな 私もクレジットで先取りしたいな)
テレビ広告 雑誌での広告の力は大きいですね。その点は学ぶところも多いか。私はだますつもりはないが マーケティングというやつを。広告のしかたというやつを
彼女が 英会話幻想におぼれてしまうのか 地に足をつけてふんばって音読するか。
続く。
>英語屋というのは、私のことをさして言ったものです。
いやー、そうでしたか。これは、失礼しました。言い忘れましたが、私は、オッチョコチョイです。
しかし、誤解していたのは、私だけでなかったのは、なんとなくほっとします。(笑)
mailto:genkisaito@hotmail.com
>斉藤さんの考えによると、縄文時代に警察はどのように機能しておったのでしょうか。
縄文時代といえども、何らかの警察らしきものはあったと思います。
今も昔も、人間性に変わりは、無いと考えます。
従って、殺人、泥棒、強姦など、当然あったと思います。
そして、それらの犯罪を取り締まる機構があったと考えるのが自然だと思います。
mailto:genkisaito@hotmail.com
多くの失敗・経験して理解出来ればいいよね。好きですカレーは。胚芽米も大好きですよ。
mailto:yutanpo009@yahoo.co.jp
>多くの失敗・経験して理解出来ればいいよね。好きですカレーは。胚芽米も大好きですよ。
失礼ですが、何を言いたいのか、さっぱり分かりません。
mailto:genkisaito@hotmail.com
>縄文時代といえども、何らかの警察らしきものはあったと思います。
いや、とてもそうは思えません。
縄文時代にも掟はあったでしょう。そして、それを破る者を、村人たちが「自分たち」で処罰していたのではないかと思います。
警察は、犯罪に対して住人たちが「自分たち」で処理することをやめ、機構や組織が「代理」でやるようになった時点から生じているのではないでしょうか。江戸時代の岡っ引きが所属した組織を「警察らしきもの」と言うことはできると思いますが、縄文時代の「自分たちで処罰」する能力を警察呼ばわりするのは、縄文人に対して失礼だと思います。
縄文時代に関しては、何の証拠もないので、誰が何を言っても真偽は明らかになりませんが、私の想像裡においては、縄文人と警察組織は水と油のように相容れません。
いい風呂でしたよ。ああ、さっぱりした。
mailto:yutanpo009@yahoo.co.jp
>根石さんの塾だったら 実際に 一般がもとめている 良い成績をとる生徒が出ているのだし生徒で あふれかえってもよさそうなものですが・・・・
あふれかえってもよさそうなものだと私も思うのですが、現実はそうではありません。
いくつかの原因があります。
その最大のものは、私の塾が「音づくり」をやるためです。
「英語発音10のポイント」
http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis/gogaku/p10point.htm
ここにあげた程度のものに、連音処理を加えたくらいのわずかなポイントを身体化するだけでも、実に時間がかかります。知識としては、10余りの知識ですが、これっぱかしのものでもまともに身体化しようとすれば、時間が必要になります。
英語ネイティヴが、英語として受け取る音を生徒に持たせようとするだけで、「音づくり」に1年や2年はかかります。
で、私の塾は、「時間がかかる塾」だと言われ、敬遠されます。
時間がかかる時期に時間をかけないでどうするんだというような説得は繰り返してきましたが、高校入試というものの性質に邪魔をされ、説得はほとんどの場合、無駄になります。ですから、近頃は説得する気力も失せて、時間がかかるから塾をやめたいと言い出すやつがいれば、「ああ、はいはい」と返事をします。
高校入試やら大学入試やらにおつきあいするのはほとほと嫌になりました。
それでも、日本人が英語をものにするための最短距離は、大学入試に「音づくり」を堅く結びつけることなのです。大学入試レベルの英語に「音づくり」を堅く結びつけるなら、生き残れる英語の基礎はできます。どうせ入試をくぐるのなら、その時に「音づくり」もやってしまうのが一番得をするのですが、人々はよっぽど損をするのが好きなのか、点数ばかりを追いかけて「音づくり」をやりません。
入試の英語の配点の半分が「音読」になれば、事態は打開できると思いますが、それをやるには入試そのものに「時間がかかりすぎる」ので、大学はやらないでしょう。しかし、一部の大学ででもいいから、「音読」自体を入試の試験方法に取り入れるなら、その効果ははっきりするはずです。「音読」でたいていの力はわかってしまいます。音が「通じる音」であるかどうか、意味がとれているかどうかはすぐにわかります。意味がとれていなければ、イントネーションは決定できないし、文の区切り目もわからないわけですから、下手な長文読解問題をやらせるより、「音読」させてみれば、読解力もすぐにわかります。何よりも、英語の語順のままに読めるかどうかがわかります。
一発で読めというのでなくていい。二度読み、三度読みを許して、その間にまともなイントネーションが立ち上がるかどうかで、使える英語の基礎があるかないかはわかります。
入試の科目に「音読」というものがあってもいいとさえ思います。
現代文、古文、漢文、英文など、各種の文を「音読」させ、それを採点するのです。
余計な知識を試すより、よほど正確にいい学生を集められると思います。
話が横に延びました。
20数年前に「素読(音読)」を言い出し、ずっとそれを方法としてきた塾ですが、昨今の「音読」ばやりのご時世にもかかわらず、素読舎は閑古鳥が鳴いています。地元との間で感情がこじれたわけです。
そんなわけで、塾は女房にまかせています。
私は、「電話でレッスン」というものを始め、ようやく生き延びています。
親類のお子さんなどで、いい英語の練習法を探しているような人がおられたときは、素読舎の「電話でレッスン」をお勧めください。
> 英会話にあこがれる体験入学の人や、途中で やめてしまった人を思いながら なんど やってられないや と思ったことか。地道をもとめると去っていく。
まったくその通りです。英語回りでは、「点取り虫養成所(受験塾)」と「英会話学校」が日本の馬鹿の原産地です。点がとれることが頭がよいことだと思っている馬鹿が「点取り虫養成所」に通いますし、英会話という幻想に頭をやられてしまっているアホが「英会話学校」に通うわけですから、馬鹿は養成するまでもなく最初からうじゃうじゃといるのです。受験塾を英会話学校は、馬鹿がいくらでもいるので、いくらでも食い物にできるのです。そして、この馬鹿たちには説得は無力です。私はあきらめています。あきらめたから、地元から足を洗い、「電話でレッスン」を始め、少数の目の見える人たちを相手にし始めたのです。
大学受験の英語に「音づくり」を溶接することも、私は「電話でレッスン」上で実現しようと考えています。
>外人英会話学校に夢をいだきさっていく。さようなら。
切ない仕事をなさっているのですね。
外人には「音づくり」ができない。
すでに日本語の音を持っている口の筋肉が英語の音を獲得する道筋は、外人には見えないのです。連中はほとんどが、英語の音しか持っていない一枚岩ですから・・・。
だから、特に初心者、中級者の英語の教師としては、外人はまるで不適です。
外人が適するのは、上級者の教師としてだけです。上級者は、英語しか話せないような外人をうまく教材として使い切るからです。
初心者や中級者が外人英会話学校に通う図は、単なるお笑いでしかありません。
>1音読?これなら自分一人うちでもできるだろうと思うらしい。
これがとんでもないのです。はじめのうちはコーチが必要だということがなかなか人は理解しません。語学のセンスが優れている人はコーチなしでも、音読で英語の音を作ることができると思いますが、大多数の人にはコーチが必要です。
しかし、コーチ自体が日本にろくにいません。
Jackie さんは、コーチができる人だとお見受けしていますが、日本人が「音づくり」や「音読」のコーチを大事にしないことは、私はよく承知しています。
「音づくり」や「音読」のコーチを日本人が大事にする日が来なければ、日本の英語は現在のていたらくをずっと続けるでしょう。断言できます。
受験塾を英会話学校は、
→
受験塾と英会話学校は、
>縄文時代にも掟はあったでしょう。そして、それを破る者を、村人たちが「自分たち」で処罰していたのではないかと思います。
犯人を捕まえるには、やはり組織だった力が必要でしょう。
「自分たち」で捕獲し、処罰する。これは、警察および司法行為とほとんど同じです。
ある程度、集団の構成人数が大きくなれば、犯罪取締り専用の機関(すなわち警察)が必要になるのは、ほとんど自明ではないでしょうか?
mailto:genkisaito@hotmail.com
いい天気とお風呂と、どういう関連があるのでしょうか?
それに、書かれた時刻は夜の10時過ぎですから、いい天気というのもよくわかりません。
mailto:genkisaito@hotmail.com
斉藤さんがお考えになるほど頻繁に、殺人、強盗、強姦などが縄文時代にあったかどうかですが、そんなことはめったになかったことなのだと考えています。日本の「近代において」でさえ、欧米が生活水準というものに食い込んでくるまでは、犯罪率は極めて低かったのです。
友達とネパールに一週間ほど遊びに行く前に、ネパールをよく知っている友達は、「決してネパールでは喧嘩をするな」と私に言いました。当時、ネパールは世界でもっとも平和な国とされていましたが、人の基底に触って本当に怒らせたとき、ネパールの人は人を殺すことに躊躇はないからというようなことを言われました。この言葉を聞いて、私は私の中にあるある性質と遠く呼応するものを感じ、深くうなずくものがありました。
そして、ネパールは、当時、犯罪率が世界一低かったのです。
仏教とヒンドゥー教が入り交じっている社会においてでも、です。
地理的な水平軸をとってみれば、現代においてもそういうことがあります。
時間的な縦軸に戻ります。
縄文時代の掟とは、吉本隆明の言う意味での「共同幻想」だったはずで、法の内在化の深さで「縛り」のきつさを言うなら、この共同幻想の縛りは、近代・現代の法の縛りなどよりはるかにきついものだったはずだと思います。法として外在化(成文化)されておらず、感覚(幻想)を微細に動かす「物語・神話」として完全に内在化されていたからです。構成員全員に内在化されている「物語・神話」。これ以上にきつい法はありません。
「物語・神話」を通じて村の構成員全員の共通感覚となっていた論理。それがあっただけでしょう。ヨーロッパ近代における法のようなものは、どこを探してもなかったと考えられます。
見てきたようなことを言うなと言われればそれまでですが、私はこれらを長野県在住という条件下で見てきたことを素材に考えてきました。私の母親は「山の人」であり、この親族のものの見方や考え方には、「里の人」とは異質なものがあります。さっさと近代の波に洗われてしまったのが「里の人」であるとすれば、「山の人」には感覚の古層がそのまま生活感覚だったのです。今では、「山の人」の感覚も、テレビ、電話、舗装道路、冷蔵庫、洗濯機で古層をむき出され、剥がされ、洗い流されてしまっているかもしれませんが、私が育った時代においては、「山の人」はきちんと古層を保存していました。
山の生活の技術は、明らかに弥生以後のものだったでしょうが、しかし、弥生時代とそれほどの距離はないようなものだったのです。農具ひとつ見ても、弥生時代のものとほとんど何も違わなかったのです。
弥生、縄文を区別すれば区別できますが、そういうことより、私には感覚の古層の生き死にが問題です。
日本人の感覚の古層は、近代ヨーロッパの「普遍性」によってはほぐせないものがあると考えてきました。近代の「普遍性」によって、分析することはできるでしょうが、それは欧米基準からの勝手な分析であり、それでほぐせるものではない。
ヨーロッパ近代の「普遍性」に対するこの異質さは、アジア、アフリカ、アメリカンネイティヴなどに広く分布していると思っています。アラブ世界のことはわかりませんが・・・。
この異質さは、「声をあげない文化」なのか、欧文脈に乗らない声なのか、いずれにせよ、私の中に呼応する「声なき声」はあるのです。平板な感覚をした欧米人たちは、おとなしい「声をあげない」文化だから、これをなきものに、あるいはないがしろにできたのです。ごく少数の欧米人たちが、アジアやアフリカにじかに触れることによって、この「声なき声」を聞いただけです。
今や、平均的な日本人の耳にも聞こえなくなっている声だと思われます。
たとえば、ネパールの人のおとなしさとして、あるいは、縄文という古層として、私の中にはまだ生きているものです。
斉藤さんが考えられるほど、世界は均質ではありません。
御意に。
mailto:yutanpo009@yahoo.co.jp
何を了解されたのでしょうか?
mailto:genkisaito@hotmail.com
「日本人はなぜ英語ができないか」(鈴木孝夫・岩波新書)という本はよく売れた本でした。確かベストセラーになった本だったと思います。当時、私は人から教えられて、これを読みましたが、本のタイトルとなっている疑問文・「日本人はなぜ英語ができないか」については、何も書かれていないも同然だと思い、強い反感を持ったことを覚えています。語学そのものについて、その構造を明らかにするような本ではなく、日本という土地に置かれた英語というものが持つ社会的な意味ばかりに注目していることが、不満だったのです。しかし、タイトルなどは商業出版の世界においては惹句にすぎないのだからと思いなおして、タイトルの疑問にまともに答えていないということを強く問題にしないならば、現状指摘という点では優れた視点を提出している本です。
この本の中に引用されていた英文学者の言葉というのが印象に残りました。
今、本棚から抜き出して開いてみたら、中野好夫の言葉です。
引用してみます。
「語学が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。実際は語学ができるほどだんだん馬鹿になる人間の方がむしろ多いくらいである。」
「語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の胆を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい。よくよく警戒してもらいたい。」
語学の危険を承知した上で、なおも危地に遊ぶことが語学なのだという複層構造を踏まえている人はきわめて少ないと思っています。中野は、語学が危地なのだという指摘はしていますが、語学の構造にもぐりこんで、なぜ語学が危険なのかというところまで言葉を届かせることはしていません。鈴木孝夫が「日本人はなぜ英語ができないか」といいながら、その「なぜ」に何一つ答えていないのと同じで、学者たちは語学の構造に立ち入ることは苦手らしい。
私は、この二つの「なぜ」に言葉を届かせてみたいとずっと思っているのですが、なかなかそこまで言葉が届きません。
日本人は「なぜ」英語ができないか。
「なぜ」語学は人間を馬鹿にしてしまうのか。
>日本人は「なぜ」英語ができないか。
>「なぜ」語学は人間を馬鹿にしてしまうのか。
この二つの「なぜ」を解くには、「磁場」という語と、「虚体」という語が必要だと考えています。「磁場」に関しては、少し前に、この掲示板でかなり書きましたので、いずれ過去ログが整備されればお読みいただくことができると思います。
今後は、「虚体」に関して書いてみたいが、なかなか難渋しています。
縄文時代では、議論の確かめようがないので、ずっと遡って平安時代となりますと、検非違使といって警察のようなものがありました。
江戸時代には、皆さんご存知の町奉行などの警察機構がありました。
mailto:genkisaito@hotmail.com
斉藤さん −−> 根石さん
mailto:genkisaito@hotmail.com
-------------------
語学の危険を承知した上で、なおも危地に遊ぶことが語学なのだという複層構造を踏まえている人はきわめて少ないと思っています。中野は、語学が危地なのだという指摘はしていますが、語学の構造にもぐりこんで、なぜ語学が危険なのかというところまで言葉を届かせることはしていません。
-------------------
何故危険かということの理由らしきものは、よく知られています。
簡単にいうと、日本人かアメリカ人か分からない人間になるということだと思います。
つまり、英語を学ぶことで、日本語があやしくなったり、日本人であることの独自性を失うというようなことだと思います。しかし、これは、俗論だと思います。
日本に在住して、どんなに英語を勉強しても、日本人であることの独自性は、消えないと思います。つまり、幼児体験というのは、それほど強固なものだということです。
mailto:genkisaito@hotmail.com
大学受験に受かる為の英語学習と本当の英語力をつける為の学習とは両立するのでしょうか?
mailto:genkisaito@hotmail.com
>「語学が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。
実際 は語学ができるほどだんだん馬鹿になる人間の方がむしろ多いくらいである。」
これは意外です。私は語学「ばかり」をやるのは自分がアタマが良くないからだと思ってきました。
大学のときも、周りでは、アタマがいいのは哲学や思想をやり、語学は時間さえ掛ければできる
ものだからと、下に見られていました(かなり当たっている)
私も、(部長ではありませんでしたが)Eliotさんと同じESSだったのですが、仲間も
英語が話せることが偉いと思っている風はなく、逆に深いことが分かる他の学生に
「自分たちは英語しか分からないから」とコンプレックスを持っていたような気がします。
(今は分からないが、当時はEESのことを「えっさっさ」とその軽薄さを馬鹿にする風潮もあった。
しかし、その内部では南北問題などを討論するディベーター達は、英会話派やドラマ組を「サロン派」
と呼んで、結構蔑視していたという、もう一つの「差別の構造」があったのは今は懐かしい。。)
社会に出てからは、私の周りには殆ど英語ができる人がいないこともあって、語学ができるのが偉いと
思っている人には会ったことがないこともあるかも知れません。
一時努めていた会社も、英語で仕事をするところだったので、英語なんか使えて当たり前で
誰も他人の英語の評論などするヒマは有りませんでした。
教えていたときも、まあ、時間を掛けている英語は大丈夫なのですが、数学になると頭の良い生徒には
高2の二学期あたりで抜かれます。(その後は英語や現国を中心に教えて勘弁して貰う。。(^^;;)
思想とか哲学も、どうも数学的な天性の頭の良さがいるような気がします。私も漱石とか小林秀雄とか
江藤淳あたりは大丈夫でしたが、吉本流隆明になると共同幻想論はなんとか分かった気がしましたが、
あとは難しすぎてダメでした。サルトルとかはお手上げ。でも、読書量だけは結構ありましたが。
そういうことで、その後はもっぱら分厚いアメリカの大衆文学やノンフィクションなど通俗的なもの
を中心に大量の英書を読むことで、英語の感覚だけは人に負けないようにしたのだと思います。
それで感じたことは、読書を中心に英語をやっていると複眼的なものの見方をするようになるという
ことです。私が英語の使い手と感じるのは、漱石や國弘さんのような人で、漢学の素養まである人です。
ですから、外来語好きの役人ではありませんが、日本語文中に必要もないのに英語由来の
カタカナ語が頻繁に使われているのをを見ると、「英語の出来ない人/言葉の感覚の鈍い人」
の日本語と感じてしまいます。
そういうものを書く人たちは、受験のテクニックに長けてキャリア官僚になったかもしれません。
しかし専門書などを除く、一般的な「日本語の」読書の絶対量は非常に少ない人のように思われます。
結局、言葉に鋭い人は、日本語環境で育った以上、二十歳までにはかなり日本語の読書をしているので、
それから先にいくら外国語をやっても日本語は鈍くならないと思います。むしろ、その外国語の捉え方も
鋭いので、日本語をより複眼的な視点から読んだり書いたり出来るのではないでしょうか。
ついでですが、子牛さんの「100%」発言は完全に日本語的な発想です。彼が日本語での読書を
十分した後に英語を、読書を含めてしたなら、ああいう「誇張表現」は英語が最も嫌うものです
から、日本語の文中でも使わないようになると思います。
そういう日英の発想法の差に気付かなかったのは、彼の日本語の感覚が読書を中心に
磨かれていなかったために、英語の学習課程でその差が意識されなかったためでしょう。
(彼の英語が会話中心だということも影響していると思われる)
そういう意味では、私自身も「情緒に訴えるために誇張だとは分かっていても大袈裟な言葉遣い」を
したり、「分かる人には分かるのでそんなに長々と書かない」という特徴を持つ日本語が、もっと
厳密な英語の発想法に「浸食され」てこうやってくどくなっているのですが、詩などと違って、
こういう理屈っぽい日本語の文章を書くのには、別に問題はないと思いますがいかがでしょう。
火曜日の電話でレッスンですが、都合が悪いので、もし空いていれば金曜日に振り替えて頂けないでしょうか。
もし、空きがないようであれば、欠席とさせてください。
また、まだわからないのですがもしかしたら来週も火曜日が駄目かもしれないので、空いてる日があれば教えてください。
>「語学が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。
実際 は語学ができるほどだんだん馬鹿になる人間の方がむしろ多いくらいである。」
これは意外です。私は語学「ばかり」をやるのは自分がアタマが良くないからだと思ってきました。
大学のときも、周りでは、アタマがいいのは哲学や思想をやり、語学は時間さえ掛ければできる
ものだからと、下に見られていました(かなり当たっている)
私も、(部長ではありませんでしたが)Eliotさんと同じESSだったのですが、仲間も
英語が話せることが偉いと思っている風はなく、逆に深いことが分かる他の学生に
「自分たちは英語しか分からないから」とコンプレックスを持っていたような気がします。
(今は分からないが、当時はEESのことを「えっさっさ」とその軽薄さを馬鹿にする風潮もあった。
しかし、その内部では南北問題などを討論するディベーター達は、英会話派やドラマ組を「サロン派」
と呼んで、結構蔑視していたという、もう一つの「差別の構造」があったのは今は懐かしい。。)
社会に出てからは、私の周りには殆ど英語ができる人がいないこともあって、語学ができるのが偉いと
思っている人には会ったことがないこともあるかも知れません。
一時努めていた会社も、英語で仕事をするところだったので、英語なんか使えて当たり前で
誰も他人の英語の評論などするヒマは有りませんでした。
教えていたときも、まあ、時間を掛けている英語は大丈夫なのですが、数学になると頭の良い生徒には
高2の二学期あたりで抜かれます。(その後は英語や現国を中心に教えて勘弁して貰う。。(^^;;)
思想とか哲学も、どうも数学的な天性の頭の良さがいるような気がします。私も漱石とか小林秀雄とか
江藤淳あたりは大丈夫でしたが、吉本流隆明になると共同幻想論はなんとか分かった気がしましたが、
あとは難しすぎてダメでした。サルトルとかはお手上げ。でも、読書量だけは結構ありましたが。
そういうことで、その後はもっぱら分厚いアメリカの大衆文学やノンフィクションなど通俗的なもの
を中心に大量の英書を読むことで、英語の感覚だけは人に負けないようにしたのだと思います。
それで感じたことは、読書を中心に英語をやっていると複眼的なものの見方をするようになるという
ことです。私が英語の使い手と感じるのは、漱石や國弘さんのような人で、漢学の素養まである人です。
ですから、外来語好きの役人ではありませんが、日本語文中に必要もないのに英語由来の
カタカナ語が頻繁に使われているのをを見ると、「英語の出来ない人/言葉の感覚の鈍い人」
の日本語と感じてしまいます。
そういうものを書く人たちは、受験のテクニックに長けてキャリア官僚になったかもしれません。
しかし専門書などを除く、一般的な「日本語の」読書の絶対量は非常に少ない人のように思われます。
結局、言葉に鋭い人は、日本語環境で育った以上、二十歳までにはかなり日本語の読書をしているので、
それから先にいくら外国語をやっても日本語は鈍くならないと思います。むしろ、その外国語の捉え方も
鋭いので、日本語をより複眼的な視点から読んだり書いたり出来るのではないでしょうか。
ついでですが、子牛さんの「100%」発言は完全に日本語的な発想です。彼が日本語での読書を
十分した後に英語を、読書を含めてしたなら、ああいう「誇張表現」は英語が最も嫌うものです
から、日本語の文中でも使わないようになると思います。
そういう日英の発想法の差に気付かなかったのは、彼の日本語の感覚が読書を中心に
磨かれていなかったために、英語の学習課程でその差が意識されなかったためでしょう。
(彼の英語が会話中心だということも影響していると思われる)
そういう意味では、私自身も「情緒に訴えるために誇張だとは分かっていても大袈裟な言葉遣い」を
したり、「分かる人には分かるのでそんなに長々と書かない」という特徴を持つ日本語が、もっと
厳密な英語の発想法に「浸食され」てこうやってくどくなっているのですが、詩などと違って、
こういう理屈っぽい日本語の文章を書くのには、別に問題はないと思いますがいかがでしょう。
>英語回りでは、「点取り虫養成所(受験塾)」と「英会話学校」が日本の馬鹿の原産地です。点がとれることが頭がよいことだと思っている馬鹿が「点取り虫養成所」に通いますし、英会話という幻想に頭をやられてしまっているアホが「英会話学校」に通うわけですから、馬鹿は養成するまでもなく最初からうじゃうじゃといるのです
うーん いますね いすぎるほど。
進学高校にかよって 英語の成績もよい高校2年生が 体験できたことがあります。
中2教科書とテープをつかい 発音 聞き取り リピート 音読 入れ替え 活用など 2時間みっちり 訓練しました。中2の教科書でさえ 煮て焼いていろんな方向からいけば これだけ 広がる。会話にも使えると示したつもりです。
本人の言うには学校では ほとんどテープはきかないし 音読もしないとのこと
わりと 目からウロコ状態で かえっていきました。彼女には 訓練の大切さがわかってもらえたみたいなのですが、、、
それも私の勘違いだったのか
後日親御さんから 丁寧におことわりがありました。
「Jackie〔私)の 授業もよかったけど 受験塾もあるし英語はそっちでやるので 外人の先生の授業があったらホームステイに行く予定なのでそれをうけさせて。」
がっかりしましたね。英会話は外人ということか。
ホームステイにいけば すぐに 外人がいっぱいなんだから 外人慣れはするでしょう。
旅行英会話だって 外人に習うより私のほうが 困りそうなこととかいろんなアドバイスがあげれるのに。英会話を習いたいときた。
根石さん
英語に受験英語も 会話もへったくれもないと思うのです。
英語は英語です。
>大学受験の英語に「音づくり」を溶接することも、私は「電話でレッスン」上で実現しようと考えています。
そう 音作り 音読に 適切なコーチがつけば 実力がつく。
受験塾 文法を細切れにして テクニックを習う。 一見手っ取り早いけど実はペーパー上での力しかみにつかない
会話学校 会話は簡単だ幻想 楽して身につく幻想。
ネイティブ幻想。
ネイティブ発音幻想 〔ネイティブだって すごいなまりのあるひとがいて
〔良き悪しきは別として 私には ニュージー オージー英語が聞き取りにくい)
音作りのコツに関しては日本人のほうが説明できる (根石さん Eliotさん 30音,参照)のにネイティブといるだけで 発音が身につくと勘違いする親
学校の英語だって 音と連携して 英語の感覚を身につけていけば
効果が見た目にあらわれるまで ちょっと時間がかかるけど
結局それが一番の早道
なのに 皆さん待てない。
>受験塾を英会話学校は、馬鹿がいくらでもいるので、いくらでも食い物にできるのです。そして、この馬鹿たちには説得は無力です。私はあきらめています。
ずーと前の掲示板に書いたのですが 友人が白人の旦那とはじめた英語学校
大盛況です。 子供英会話ブームに乗り 生徒あつめに苦労はみられません。どうさかだちしても ただのネイティブの彼より 私のほうが(すみません) 、、なんておもっちゃうのですが 負け犬のとうぼえみたいになっちゃうので それを隠して
彼らに エールをおくってますが。
納得いかない。
ネイティブとのレッスンで国際感覚やマナーをみにつけようなどといってる。のも
なんだか。それに 国際感覚って何?マナーって何?
英会話幻想を売り出した友人に おこっています。
ん? 儲かっていて うらやましいだけか。
根石さん どうか 電話でレッスンと連結したおとづくりで どんでん返ししてください。
私も 中学生で成績の悪い英語嫌いな子をあつめて どんでんがえししてみたいとおもいます。
ま もっと元気になってからの話しですが。
ああ なんだか この業界にまた逆戻りしそう。 なぜだろう。
今まで所用でネットから離れていたので、書き込みが遅くなり、失礼致しました。
根石様、御身大切になさって下さい。
>斉藤さんとジェーンさんのアメリカの歌の話は、生き生きとしていていいなあと思っていました。
ありがとうございます。
私も、斎藤さんがいきいきと映画や歌を語る様子が嬉しくて、ご厚意に甘えさせて頂きました。
英語論のおじゃまにならない程度に、登場したいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
>大学受験に受かる為の英語学習と本当の英語力をつける為の学習とは両立するのでしょうか?
両立するであろうし、また両立を目指しているのが素読舎です。
受験生が、受験にに向けて大量の英単語・英文に触れることを無にせず、「身体化」していくことが、日本人が英語をものにする絶好のチャンスではないかと思います。
先にあげた「身体化」ですが、一度目に触れる英文だけでなく、復習範囲をもくりかえしくりかえし声を出して読む「素読」という方法が、有効であると思います。
日本人の英語力は、ことリーディングに関しては、比較的高い水準にあると言われています。これを無駄にせず、通じる音づくりと英文の身体化を図っていくことで、使える英語を培えるのではないかと思っています。
通じる音づくりについては、おっしゃんとEliotさん、sbさんなどの方々が、発音10か条をつくっています。これは、日本人が通じる英語を喋るための、最低限の規則が盛り込まれています。
素読舎は、在野で英語学習にとりくむ塾ですが、Eliotさん、sbさんらは、学校において大学受験に受かる為の英語学習と本当の英語力をつける為の学習との両立に取り組んでらっしゃいます。
語学を「虚」の累乗の行為だと見ることから何がもたらされるか。
生活言語の磁場における生活言語の習得(ネイティヴ言語の習得)と、机上での外国語の習得(語学)との区別。
事物の動きを「実」と見て、あらゆる言語の動きを「虚」と見れば、当然、生活言語そのものが「虚」である。そして、その「虚」である生活言語から見て、さらに「虚」であるものが語学の対象となった言語である。
「虚」が累乗化される。
あるいは、「実に対する虚」ではなく、「実に対する虚」に対する「さらなる虚」。
語学が「虚」の累乗であるからこそ、同じ文を繰り返し読むなどということがおかしなことでなくなる。こんなことは、ひととおりの「虚」である生活言語では許されないことだ。
からっぽの洞の中では音が反響する。「回転読み」の「回転」がもたらすものも、この反響である。反響がなければ、音は無意識に沈むことがない。無意識に沈んでいない音が、必要な場面で反射的に口の動きとなることはない。
「回転読み」の「回転」がはっきりさせるのは、語学の「虚に対する虚」という性質である。また逆に、語学が「虚に対する虚」であるからこそ、「回転読み」などというチイチイパッパを激化できる。
私が言い出すまでは、「回転読み」などというものはなかった。しかし、それは名付けられていなかっただけである。語学をものにした人々が、「繰り返し」という行為を避けていたはずはない。「繰り返し」こそは語学の大元だと言っていい。この「繰り返し」を激化すれば、「回転」になるだけのことであり、「繰り返し」という行為自体は語学とともにいつでもあったものだ。
素読舎では中学・高校生用に単語帳の素読というのがオプションであります。
先日、年長の塾生から、こんな質問がありました。
「leiure の [3](発音記号で3みたいなかっこしたの)ってどう発音するの?」
私はこの発音はあんまり気にかけていなかったので、塾生に発音してみせて、
これは、「長いs」で喉をふるわせるのだぞ、と説明しました。
しかし、私は、[3]はいつも[3d]とセットになってるもの、程度の認識しかなかっ
たので、あらためて聞かれると、気になってしまいました。
[3]だけの発音記号を使った単語ってどんなのがあるのかな…?と調べてみると、
こんなのがありました。
rouge beige measure azure vision
何かちょっと気取った感じの言葉ばかりだなあ、もしかしてフランス語由来の言葉か?
と思い、語源を調べてみました(といっても中辞典で調べただけですけど)。
rouge:L -> Old French / leisure:L -> Anglo-French / beige:F
measure:L -> F / azure:Persian / vision:L -> F
おお、azure 以外はラテン語起源でフランス語経由じゃん、俺の仮説は結構的を射
ているじゃん、と思いました。
これだけだと間違いもあるかもしれん、と思い、では[3d]の発音を含む単語の来歴
はどうか?と調べてみました。
gem:L->F / adjective:L->F / judge:L->F / June:L->F / soldier:Old French
edge:Old English / just:L->F
ああ、いきなり俺仮説は崩壊…。まあ、ローマはヨーロッパの源流だから、当然と
いえば当然か…。
でも、[3]だけの場合、第一アクセントの前には来ないんだなあ。
そこで、こんなことを妄想してみました。
[3d]と発音する単語は、ラテン・フランス経由ではあるが、英語の中ではこなれてい
る=輸入した時期がかなり早い。
[3]だけの単語は英語の中では歴史が浅い。
で、イギリスはフランスにとっても憧れていた時期があったらしいので、[3]はイギ
リス人の文化コンプレックスを表す音ではないかなぁ、と。
みなさん、どう思います?
mailto:murataya@avis.ne.jp
私は「電話でレッスン」というものをやっており、生徒さんを電話で呼び出す前に、「仕込み」をやります。その時、常用している練習は極めて単純なもので、次のようなことをやります。
1.一つの文を、字を見ながら繰り返し10回言う。
2.同じ文を、字を見ないで繰り返し10回言う。
外から眺めれば単にそれだけです。しかし、この間、意味(イデア)の動きと音の動きを一致させようとする意識の努力があります。原理となっているものは、小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」で書いた「回転読み」と同じものです。
短いものや、よくなじんであり、すぐに字が不要になるものに関しては、1の過程の回数は2,3回程度になるものもあります。
この練習が成り立つための基礎は、「イントネーションの自己決定力」です。(より良質の音を求めての「音づくり」は伴うにせよ)。この基礎さえあれば、この練習は、誰にでもできます。
「電話でレッスン」によって生徒さんに持ってもらおうとねらっているものも、ひとまずは「イントネーションの自己決定力」に他なりません。これが備われば、次に、「自分の音」と、「ネイティヴの音」の中間地点ににじり寄ることをねらいます。さらに、この中間地点が確保されるなら、ヒアリングの上達は確実なものになります。
これまで、英語フリークたちの「ネイティヴ音への同化」ばかりが声高に言われてきていますが、日本語によって口の筋肉の動きをいったん決定された人にとっては、本当に必要なのは、現在の「自分の音」と「ネイティヴ音」との「中間地点」です。
なかなか通じない話で困るのですが、「同化」は「偽物化」なのです。「同化」は、崇拝とか憧れを原理としており、これはそのまま「語学的主体」の放棄です。
「同化」などまっぴらごめんであると言明し、語学に踏みとどまること。言葉にしてみれば、それだけのことですが、語学に踏みとどまることを放棄する「浮かれポンチ」の英語好きの数は数えきれません。
生徒さんの「イントネーションの自己決定力」が強化されれば、「電話でレッスン」のコーチをしていただくことは可能だとも考えています。コーチができるレベルは、英検や、TOEIC
などの得点は何の関係もなく、「10・10・10」の復習範囲テストを30分以内に毎回クリアするくらいのレベルだろうと見当をつけています。そのレベルが確保できれば、確実にコーチがやれるレベルになっているはずです。なぜなら、現在コーチをやっている私が、生徒の側に回れば、この「10・10・10」のレベルはひいひい言うに違いないレベルだからです。
「電話でレッスン」のコーチをやり、生活費になるほどのお金を獲得するのはなかなか困難な道ですが、ひとまず、プラスマイナスゼロ、お金がかからず実質的な練習を継続する方途として、私のレッスンを受けながら、人様のレッスンを引き受けるということを、現在の生徒さんたちにはめざしてほしいと願っています。
>私も 中学生で成績の悪い英語嫌いな子をあつめて どんでんがえししてみたいとおもいます。
どんどんどんでんがえしましょうよ!
去年、私のところに、英語のテストはいつも1けた台の中学3年生が来ました。
俺「おまえ、今までほんとにやってなかったな?」
彼「はい!全然やってません!」(と、元気一杯答えたですよ。でも、なんか、
頼もしかった)
こいつはとにかく、いつも5時間くらい練習してました。ほんっとに英語が嫌い
でしたけどね。それが、いつのまにか、実力テストで40点プラスしてました。
「俺、今までこんな点数取ったことなかったよ」といってました。
そのころには読み方が全然違いました。まだ英語は大っ嫌いらしいですけど。
こういうケースってすごくうれしいですよね。
世間の風は冷たいですが、「自らの声で読む」を武器にして、どんどんどんでん
がえしちゃいましょう!
記事ありがとう。
少し補足してみます。
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>大学受験に受かる為の英語学習と本当の英語力をつける為の学習とは両立するのでしょうか?
これが斉藤さんの疑問でした。
これに対して、いくこが「両立するであろうし、また両立を目指しているのが素読舎です」と書いてくれました。この場合、「両立するであろう」ことの根拠は、「音づくり」です。
斉藤さんが言われている「大量インプット」ですが、これに「音づくり」をかませると、「音づくりによる大量インプット」というものができます。
「音づくりによる大量インプット」が大学受験の邪魔をするはずはありません。それどころか、受験以後の英語が「使える」ものとして生き残るためには、この「音づくりによる大量インプット」を欠かすわけにはいきません。ところが、欠かすわけにいかないものを、まず95パーセント以上の受験生が欠かしてしまいます。
だから、大学受験の英語と本当の英語力とが肉離れを起こしているだけなので、大学受験英語に「音づくり」を溶接するなら、大学受験もエエカイワも糞もない、素のままの英語力が手に入ります。
何度もあちこちに書いてきたことですが、繰り返します。
日本在住のまま、使える英語の基礎を作るための最短距離は、大学受験の英語に「音づくり」を溶接することである。
>先にあげた「身体化」ですが、一度目に触れる英文だけでなく、復習範囲をもくりかえしくりかえし声を出して読む「素読」という方法が、有効であると思います。
素読っていうのは、単に「字を見ながら、はっきりと声を出して読む」というだけのことなので、私は「音読」という言葉との間にそれほど厳密な区別を置いていません。しいて言うなら、素読は、一読で意味がとれない文を扱う扱い方であり、音読は、その場で読みながら意味がとれるものを扱う扱い方だという自己流の区別はありますが・・・。
いくこが言っているのは、「復習範囲を手放さない」という別の原理です。しかし、この原理は、素読が胚胎しているものかもしれません。はっきりと声に出して読むという素読という方法が、ひとまずめざすことは、「すらすら読める」という質だからです。この質を得るまでの間、「復習範囲を手放さない」という原理は働いています。素読という原理と「復習範囲を手放さない」という原理は、二卵性双生児のようなものかもしれません。
>日本人の英語力は、ことリーディングに関しては、比較的高い水準にあると言われています。
これを私は疑っています。読書という意味での「読む」スキルが高い水準にあるならば、話せば話せるはずだと思っているのです。英語の語順のままに読むことの水準が高い人が、話せないはずはない。ごつごつした英語でなら、すぐにでも話せるはずだと思っています。自分で「読める」と言っている人が話せないのは、英語の語順で読んでいないせいだと思います。
なんか…ファンになってしまいました。
mailto:murataya@avis.ne.jp
初心者・中級者前半の段階で、ネイティヴ信仰によってエエ会話ガッコに通う人たちが嫌っているものこそは、「繰り返し」である。
この人たちは、赤ん坊の能力を喪失したのちにおいてでも、一回こっきりガイジンがしゃべる言葉が自分の中に定着するものと信仰しているのである。
バーカ。
これが、あの人たちに対するもっとも親切な呼び名であろう。
私もファンです。
英語は大っ嫌いって奴、俺は割と好きだ。
>英語論のおじゃまにならない程度に、登場したいと思います。
いえいえ。いくらやっていただいてもおじゃまにはなりません。
私はやりたいときは、勝手に一人で語学論をやりますので。
どんでんがえしの本をまた手に取った。
たくさんの英語学習本 学習の仕方本を読んだり買ったりもしたが
何回も読み返すほどの本はそうありません。
また読むたびに うなずいてしまう そして 新しい発見がある本も
そうありません。
根石さんの本は 噛みごたえのある本です。
Jackie さん
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進学高校にかよって 英語の成績もよい高校2年生が 体験できたことがあります。
中2教科書とテープをつかい 発音 聞き取り リピート 音読 入れ替え 活用など 2時間みっちり 訓練しました。中2の教科書でさえ 煮て焼いていろんな方向からいけば これだけ 広がる。会話にも使えると示したつもりです。
本人の言うには学校では ほとんどテープはきかないし 音読もしないとのこと わりと 目からウロコ状態で かえっていきました。彼女には 訓練の大切さがわかってもらえたみたいなのですが、、
それも私の勘違いだったのか
後日親御さんから 丁寧におことわりがありました。
「Jackie〔私)の 授業もよかったけど 受験塾もあるし英語はそっちでやるので 外人の先生の授業があったらホームステイに行く予定なのでそれをうけさせて。」
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これ、親がバーカなのです。
アメリカ帰りの方にそう言っていただけるとうれしいです。
>英会話を習いたいときた。
英会話というものは、習うことはできないものだ。
英会話というものは、勝手にやればいいものだ。
バーカやのらくら者が絶えることはありません。
>負け犬のとうぼえみたいになっちゃうので それを隠して彼らに エールをおくってますが。
そんなエールはおくる必要はないと思います。
しょせん馬鹿を喰いものにしているだけのことです。
愚かしい行いです。
私はESSに対して偏見を持っていたので、ESS内部にいた方の記事を読んで、
もやもやが少し解けたような気がします。(Eliotさんは別格でした)
私にとってのESSに対する偏見っていうのは、「英語をしゃべれるというだ
けで、アメリカ・イギリス人になった気分になって、日本人・日本の文化
を下に見る人たち」というものです。日本で英語をやってる学生の総本山
なんだから、そりゃもうすごい「バナナ」ぶりだろうなぁ、と思ってました。
だから、恋人ファンさんの書き込みを読んで、正直、今までごめんなさい、
と思いました。
mailto:murataya@avis.ne.jp
>英語に受験英語も 会話もへったくれもないと思うのです。
激しく同意します。
>初心者・中級者前半の段階で、ネイティヴ信仰によってエエ会話ガッコに通う人たちが嫌っているものこそは、「繰り返し」である。
この人たちは、赤ん坊の能力を喪失したのちにおいてでも、一回こっきりガイジンがしゃべる言葉が自分の中に定着するものと信仰しているのである
赤ん坊でさえ何百何千時間も言葉をきき
また 覚えたての同じ言葉を何百回とくりかえす。
2年間毎日 2歳をすぎてやっと話し始めるというのに。
これが自然。何百回の音読が 本当は自然なのかもしれない。
楽して楽しくおしゃべりして英語が身につくはずが、あああ ない。
>この人たちは、赤ん坊の能力を喪失したのちにおいてでも、一回こっきりガイジンがしゃべる言葉が自分の中に定着するも
>のと信仰しているのである。
>バーカ。
> これが、あの人たちに対するもっとも親切な呼び名であろう。
またまた過激なことを…(笑)
でも、ほんとに赤ん坊と同じに獲得できると思ってる人、いるんです
よね。赤ん坊をなめてますよねえ。(といっても某天才作り教室には
まったく賛同する者ではありません)
ほんっとに、信仰してる人、いますね。私も言っちゃおう。
バーカ!
mailto:murataya@avis.ne.jp
ESSから、ごくたまにおもしろいやつが穫れます。
国弘さんの弟子で、深見東州という男がいます。
この人は、まったくもっておもしろい。
ESS所属には圧倒的にバーカが多いにせよ、世間は広い。
深見は、「下手な英語の話し方」という本を書いています。
国弘さんの「英語の話し方」のもじりです。
実に日本人です。
先日、国弘さんからお手紙をいただいたので、俺の本(「根石吉久の暮らしの手帳」「英語どん
でん返しのやっつけ方」)を各二冊ずつ同封してお返事し、国弘さんから深見さんに一部ずつ手
渡していただくことをお願いしました。
再度、国弘さんからお手紙をいただき、現在海外にいる深見さんが戻られたら、手渡していただ
けることをうけたまわりました。