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【根
石さん10】
>もうどうにかしてくれという感じです。そうやって、若者を惑わし、人生を誤らせ、無駄なことに一回限りの貴重な人生の時間を浪費させる様な真似は、もう
やめてくれ、というそういう気持ちでおります。
その場合、「概念」という語をもう一度考え直していただく必要があると思います。私は「概ね」の「想念」というしばりはどうしても入るものであると、散
文的に考えています。
【岩田10】
概念という概念は、これは、どうも、今わたしには、他に言いようがないのです、根石さん。まあ、これで亀の歩みで参ります。
【根石さん11】
>さて、このanですが、この意味形態は、「物体の表面に接触してなされる動作」です。物体の表面に接触してなされる動作」にはすべて、このanという前
置詞が使われるのです。
英語でも同様だと思いますが、いかがでしょうか。ここが、英語とドイツ語の間の翻訳や通訳が実に容易な理由なのです。日本語の世界から眺めていると、もう
いやになっちゃう、という感じなのですよ。
ドイツ語の an は英語の on とほぼ同じです。
「もういやになっちゃう、という感じ」もわかると思います。翻訳の体験で実感したのではないのですが、ドイツ語で育ってアメリカに渡って十年ほど生活し
た友達がいるのです。その友達は原発事故で日本を抜け出し、今はオーストリアにいますが、日本にも十年以上いました。アメリカで英語に取り囲まれて生きた
のと同様に、日本では日本語に取り囲まれて生きたのですが、はっきり言って、日本語は上達しませんでした。仕方がないので、私は英語でつきあいました。そ
ういうことから類推することができるのです。
【岩田11】
オーストリアの方は当然ドイツ語ができるわけですから、英語も実に楽だったろうと思います。
本当に言葉を英語に置き換えれば、英語の文になるというものですから。
【根石さん12】
>Man zieht die Schnur:man draws the string.あるいは、man pulls the string.
とは言わないで、
Man zieht an der Schnur: man draws on the string、あるいは、man pulls on the
string.
というのです。
即ち、ベルを鳴らすために、紐をくいくいと繰り返して、一寸づつ引くというあの感じ、日本人ならば、神社にお参りに行って、じゃらじゃらと紐をひいて音を
出す、あの綱を繰り返し、ちょっちょっとひく感じが、このan、英語でonを入れると出るのです。
とても面白いです。こういう「感じ」を感じることが、語学の醍醐味の一つなのだと思っています。
【岩田12】
本当に、この感じは、大切ですね。わたしも、このような感じを掴んだ時に、やはり、率直によろこびを感じます。
【根石さん13】
>このanは、幾つも変化、変態して、様々に現れます。
例えば、「部分的処理完成のan」と命名されたanの意味あるいは意味形態のひとつがあります。(こう説明をしてい参りますと、何故関口さんというひと
が、形態という言葉を命名し、意味の形態、即ち意味形態と呼んだかが、だんだんとお解り戴けるのではないかと思います。)
Er arbeitet an seinem Gemälde: he works on his picture.
となると、その意味形態は、「少しづつコチコチと働きかける」、「即ち、物体の方を主にして考えると、動作が一時にその物体の全部に向かってなされるので
はなく、時と共に段々と完成して行く様な或る種の目的に向かってなされる動作、或は部分的にのみ働き掛けるような動作にはan支配が好んで用いられるとい
うことになります。」
という説明の後に文例の一覧があって、例えば、女性が靴下を編むとか、少年が模型のプラモデルのプロペラをつくるとか、原稿にまだ少しばかり手を加えなけ
ればならないとか、同種の例が列挙してあります。
これが、意味形態という考え方の具体的な例です。
ふむ。英語には「接触」の on の他に、 Hold on!
というような「継続・持続」を表す用法があります。私はこれを、「接触・接続・継続」というように「接」と「続」という漢字を継起させて関連づけます。そ
れから、電気回路の on, off の on がありますが、これは、「接触・接続」で用が足ります。
ドイツ語の an支配に相当するものは英語にあるんだろうかと思っています。ちょっと思いつきません。
「部分的にのみ働き掛ける」ことを表す語法としての、an ですか。面白いですね。
【岩田13】
英語のonも、確かに、接触、接続、継続の意味ですね。電気回路のon, offの説明も、よく解ります。
【根石さん14】
>根石さんの「概念→イメージ→イデア」は、正鵠を射た、人間がその言葉の意義と意味を知る学習と理解のプロセスですが、それに対して関口さんの意味形態
は、一度そのように理解したanならanの概念とイメージをイデアにして、そのイデアの変容、変形、変態を、意味形態として形態論として論じているので
す。とても、わかりやすい。
変容、変形、変態を、私のように漢字の意味に頼らず、説明しているのであれば、それはすごいことです。それは、「ドイツ語の歴史」を知っていることだか
らです。
【岩田15】
ええ、関口さんという方は、確かにドイツ語の歴史を知っていましたね。この方は、大変な方でした。
前回回答した後、ネットで調べてみましたが、この方の文法を次ぐ先生達は、今はばらばらになっているようです。
ドイツ語の出版社に三修社という出版社があり、関口さんの文法書はみなここから出ているのですが、この方の創刊したドイツ語の月刊誌も休刊となっておりま
した。ドイツ語屋としては、一寸寂しい感じが致します。
しかし、東京の新宿の紀伊国屋の外国語の階へいっても、ドイツ語の棚は遂に消滅してしまっておりますので、むべなるかなという思いも致します。
しかし、このよな事態になったについては、環境や時代のせいにするのではなく、ドイツ語の教師も、わたしは怠惰だなという思いがしております。
【根石さん16】
この用法から転じてこの用法が派生したというように言うためには、前後関係がわからなければできません。それとも、関口さんは前後関係には言及しないの
でしょうか。「変容」というからには、これが変容してこれになったというように、どうしても前後関係を言う必要が生じてくるはずだがと思っています。
「形態論」ということ、半ばわかったように思います。
【岩田16】
関口さんは、前後関係を必ずいいいます。
それを上のどこかで、わたしはコンテクストといいました。根石さんの言葉では、「場」や「状況」ということになります。
何故ならば、言葉の意味は、使い方にあるからです。この単純な言葉の事実を知ることが大切だと思います。
これが、言語は機能だという考え方ですし、意味形態論とは、そのような考え方です。
前回、根石さんがゲームのルールに従うということで理解をされた、その通りのことです。
【根石さん17】
すでに初めのほうに書きましたが、「概念→イメージ→イデア」というとらえ方と関口存男の形態論は違いますね。今からドイツ語をやろうとは思いません
が、関口存男の文法書が手に入りやすいものであれば、読みたくなりました。ご案内をお願い致します。
【岩田17】
アマゾンで、古本で結構ですので、関口存男と検索すると、色々と文法書が出て参ります。
その中でも、初等ドイツ語講座というのは、おすすめです。全くドイツ語を知らないひとに向かって、ドイツ語の音をどうやって発音させ、どのような日本語の
音として、初心の語学者に伝えるのか、実にたくさんの工夫と配慮がしてあって、学ぶ事の多い文法書です。
今、手元にある副詞論を読みますと、
Günter las zuerst den Brief.
英語でいいますと、
Günter read the letter at first (or first of all).
という例文を挙げて、これだけだと文の意味は不明であるといい、その解釈の可能性(場、状況、コンテクスト)を挙げて、日本語に訳し分けてみせてくれてお
ります。面白いのは、その場、状況、コンテクストの説明の仕方なのですが、その一例を挙げますと、
。。。してみると、zuerst(at first, first of
all)とい副詞は、原則として、その文章内に存するかぎりの全ての要素と結合することができる。要するにまるでパンパンみたいな女で同じ家の中に三人男
が居れば三人とも関係のある男だ。。。ということになります。
この場合は、可能な亭主が三人であるから、子供も従って三種類生ずるというわけで、四人あったら四種類、五人あったら五種類ですか。。。大変な女ですね、
このzuerst(at first, first of all)というやつは!
他にもこんな女が居るでしょうか?います。銀座の裏通りなんか歩いていると、ウヨウヨいる。曰く、auch (too, also)、曰く、nur
(only)、曰くbesonders(especially)、曰く、zuletzt(at last)、曰く、wenigstens (at
least)、曰く、gerade(just)、曰く、ausgerechnet(わざわざ、物もあろうに、人もあろうに、事もあろうに)、nun
gar vollends(。。。に至っては)、その他、いわゆる”助詞”というのはすべてこれで、遂には、nicht
(not)という否定詞までが此の部類にはいってしますのです。nicht(英語のnot)が何を打ち消すか、などというむつかしい問題の依って生ずる所
以のものは、すべてこれ、これらの副詞(というのは本当は誤りで、何かもっと別な言葉がなくてはいけないところですーーー習慣では助詞ということになって
います。。。)の持っている、誰とでもくっつきたがるパンパン性にあるのです。
というような一節をひきますと、根石さんに、この関口さんの神髄の一旦が伝わるのではないかと思います。
【根石さん18】
>これは、あっさり言ってしまえば、言葉の意味は使い方によって定まるということです。
はい。それは、言葉を発するときに人が言語を媒介にするということと同じです。媒介にするのに、いろんな媒介の仕方をするということです。このことは、
万人に開かれています。お送りいただいた「tab」で読んだ「Hart Crane
を読む。」に書かれている男色者の詩の解析も、「言葉の使い方」は万人に開かれているということを言っているのだと読みました。
(別の話ですが、今度の「tab」でも、福島敦子さんの詩に強く惹かれました。お送りいただきありがとうございました。)
【岩田18】
もう、すっかりご理解の通りです。Hart Craneについても、然り。
福島さんの詩は、本当にいいですね。福島さんもFacebookにおりますので、一言感想をお伝え下されば、よろこぶことと思います。
【根石さん19】
>世の中の学者達が翻訳学問の世界に拘泥していて、物事の本質を見失い、何か言語をとてつもなく難しいものに見せているだけです。これは、一言でいえば、
虚妄です。大切なことは、自分の頭で考えることです。一体だれが知るのか?その主語は何か?誰か?と問えばいいのです。答えは、おのづと明らかです。
ここに書かれたことは、語学の要諦でもあります。「一体だれが知るのか」を考えることなく、親鳥がどうせ餌を運んできてくれるわと決め込んで、ただ口を
あけてる雛みたいな人が多いです。鳥の雛がそれをするのは当然のことですが、語学をやる人がいつまでもそんなことをやっていてどうなるというんだと言いた
くなる時があります。自分の目で見て、自分の嘴でつっついてみろよと言わなければならない段階というものがあります。「時至ったらドカンと」と私が言って
いることもこれを言っているのですが、翻訳学問の世界を世界だと思っている学者たちも、ドカンとやれない人たちなのかと思います。欧米が親鳥だからなので
しょう。
関口存男が日本語の sense
を活用したことは、つまり日本人の体を元にしてすべてを組み立てたということだと思います。その前提に語学があったにしても、自分の日本人の体に立ち戻っ
て、読者のために再出発したということだと思います。そこが凡百の翻訳学問の雛鳥たちと違うところだという理解をしています。これは、岩田さんが書かれる
関口存男の像に頼っての理解に過ぎませんが・・・。
【岩田19】
関口存男についての理解は、おっしゃる通りです。上の【岩田17】でお伝えした通りですし、それは根石さんのご理解と違うものではありません。
【根石さん20】
>言葉を言語で表すことは、様式化すること、形式化することですから、確かにおっしゃるように、一度死んでから、相手に意味が伝わるように、即ち媒体、媒
介者、メディアとして生まれ変わるといってもいいと思います。
わたしも言葉は、あるいは言語は、メディアだと考えております。
これは、このままこの先を続けますと、メディア論になりますね。
私は「言葉あるいは言語は」とは考えません。吉本ではありませんが、「言葉」と「言語」は相互に逆立ちしていると思っています。言葉と言語はまるで違う
ものだという理解です。
「様式化すること、形式化すること」と岩田さんがおっしゃっているところを、私は「物質化すること」と考えています。だから、文字で記述することも、
「声」を録音し「音」とすることも、言葉の言語化であり、死体化することです。
印刷物、録音したもの、放送、判例集、古典、辞書の説明、文法の説明などを、「死」としています。人が人に直接に語りかけるもの、それを「生」の基本形
としています。今書いている最中の文で言えば、「書かれたもの」は「死」であり、「生」は書いて固定しようとするときに、私の中でもがき動くものです。
「生」は、「概念」の段階にあるのではなく、「イメージ」あるいは「イデア」の段階にあると思っています。
「概念→イメージ」という図式の中に実際にあるのは、「媒介」ということだと考えています。「概念」という死を媒介にして、イメージ(という生)は誕生
するのだということです。
厳密なことを言えば、言葉とは、言葉になろうとして言語を媒介にしている最中の、生きた人間の意識(だけ)に動くものです。だから、「言葉として」発せ
られてしまえば、発したご本人がどう思おうと、言葉だったはずのものはすでに音声という物質ですから、ただちに死ぬわけです。というか、すでに死んでいる
わけです。ただ、話し言葉が複雑なのは、半分死に、半分生きているという状態で使われるところにあります。言葉だったはずのものが、言葉としては死んでい
るのに、「感情による響き」は響く。半分はまだ生きているわけです。
吉本隆明の考えを私流に言い換えて書くと、「言葉は沈黙に根を生やしている」というような考えになります。吉本も、言語と言葉を峻別するようなことをし
ていませんので、私流に言い換えてみるしかありません。私に言わせれば、文学表現というものは、言語ではなく、あくまでも言葉の問題です。だから、「言語
にとって美とはなにか」という本のタイトル自体に対して、違うんじゃねえのと思うのです。
【岩田20】
ここは、根石さんの言語と言葉に対する考えを、その通りに受け取る以外にはありません。
そうして、そのように考えることができる以上、言語と言葉は、その通りの意味なのです。
「言葉は沈黙に根を生やしている」という考えは、根石さんが褒めて下さったわたしの寒山拾得という詩に歌った考え方と同じです。全く、その通りだと思いま
す。
吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」、ひとが読んでいたので、50台になってから読みました。しかし、ここに書いてあるのは、言語とは何かという問い
に対する答えではなく、言語による表現とは何かについて書いてある本だというだけでした。
その冒頭で、吉本隆明は、言語とは何かを正面から問うと難しいので、その問いには答えないで、この本を書くと書いてあったのを読んで、わたしは幻滅してし
まいました。
【根石さん20.1】
言語は物質化されて固定されたもののことで、言葉は常にもがき動く意識と共にある。いや、もがき動く「動きそのもの」のことだ、と考えています。それが
沈黙(無音=無言)に根を生やしているのだというところは、吉本隆明の言うとおりだと思っています。
私はメディア論をしようとしたのではなく、「言語」と「言葉」とはまるで違うものだと言おうとしたのです。言語と言葉は、死と生が違う程度に違うと考え
ています。
【岩田20.1】
所論、よくわかりました。わたしも連想がメディアに働いて、ついメディアということに言及しましたが、一寸軽卒であったかと思います。
【根石さん20.2】
「一度死んでから、相手に意味が伝わる」と岩田さんがお書きになったところが、ポイントだと思います。言葉が死んで物質化(言語化)するから、人間はそ
の物質を媒介にして新たな「イメージ」を、あくまでも「意識という場」に産出する。読書という行為を考えると、この図式はわかりやすいです。同じ古典のテ
キストを読んでも、幾通りものイメージ(解釈)が産出される。その中の優れたものが、ふたたび物質化され、ひょっとすると古典化されます。
人々が普通に「言葉」だとしているものは、ほとんどすべてが「言語(化されたもの)」なのです。こう考えると、人間という動物は、日々毎日、死体処理
(死体を媒介物に使う)をしている動物です。言葉は言語を媒介にして生まれるのだということが真であるならば、そうなります。死体処理の仕方で、千差万別
の言葉が生まれるのです。
ここまで考えたとき、人間の意識というものも、自然界と同じように循環を繰り返しているのだとイメージすることができます。自然界では、物質を微生物や
菌が別の物質に変え、熱なども作用し、さらに別の菌や微生物が別の物質を作り出すというように、微生物の交代が物質の交代として継起し、各段階で新たな命
を養いますが、人間の意識は、口が空気をふるわせる波動(=力)をも新たな命(=言葉)を誕生させる媒介物にしてしまうというところがあります。媒介物は
主に「死体=物質」(=印刷物、録音物、など)です。
【岩田20.2】
もう、話がここに至れば、何もいうことのない世界です。
わたしも、その通りだと思います。
【根石さん21】
>言語、言葉が、死とともにあることは、間違いありません。何故ならば、それはエロティックであるから。エロティックであるとは、言葉が開かれているとい
うことです。即ち、常に、外がある、外部、外側があるということです。
ここのところは、別の機会にもっと伺いたいところです。いまのところは、理解できていません。
【岩田21】
【根石さん20.2】でお書きになったことです。言葉が、言語の死とともにあれば、それは、言葉は死をくぐり抜けて、おもてに出て来ます。
言葉で意思疎通ができるとということが、開かれていることだと考えると、開かれているということは、いつも死とともにあるということ、そうして、生きて言
葉を発するという人間の行為が、いつも死と裏腹の関係にあるということ、この在り方そのものが、わたしには限りなくエロティックな在り方に感ぜられるので
す。わたしの生理的な感覚に通じております。
【根石さん22】
>わたしも宇宙の生成のその源に常に、忘れる事なく、ありたいと思って生きて来ました。
そうですね。宇宙の生成も人間の意識に言葉が生じることも、同じくらい不思議なことだと思っています。
>世の中の混乱の原因の大本をいえば、人間は死ぬものであるということを忘れて、慾にかられて何かをするから、そうなるのです。
死ぬことを忘れるから、というのはその通りなのかもしれませんが、もうひとつ、日々、死を媒介にしない生はありはしないのだということもあると思ってい
ます。そちらの死はもっと忘れられていると思います。こちらの死は、生が生として成り立つための基底だと思います。私にとって「死を思え」というのは、死
後を思えという意味ではなく、生を成り立たせている基底を思えということになります。
【岩田22】
もうここまで来ますと、根石さんのおっしゃる通りだと、わたしは思います。本当にそう。生を生足らしめている根底を見よ、と、わたしも言いたい。
【根石さん23】
>ちなみに、この関口さんは、戦時中に疎開を信州にしていました。今手元にその本がない(真田町の陶芸家の友人に貸している)ので、どこの何と言う村で
あったか、いうことができないのは残念です。後日またお知らせ致します。
お願いします。
【岩田23】
昭和20年ゾンダン先生が疎開したのは、長野県妻籠(つまごい)、正確には西筑摩郡吾妻村字妻籠でした。
【根石さん24】
>関口さんという人は、役者を志して舞台にもたったひとなので、その文法書は、凡百の文法書の比較にならぬほど、ユニークで面白いものです。
役者、素読み、舞台、生活というような語で、語学を語れるのではないかと思ったことがあります。いずれ書いてみたいと考えています。
【岩田24】
ええ、是非お願いを致します。このことは、根石さんが対話篇をお書きになる能力と全く同じです。わたしには、なかなかできません。
わたしは、どちらかというと、対話型ではなく、独白型の人間なのです。
【根石さん25】
>何しろ、ドイツ語の大先生と小先生の対話などというものがあって、対話を、すなわち演劇の脚本を書くように文法を説く事のできるひとなのです。
快傑ハリマオに書いていらっしゃる松岡さんの対話も大したものですが、つまり対話篇にするというのは猛烈なある能力を必要とするのだと思っています。
このあたりもまた詳しくうかがいたいと思っています。私は松岡さんの対話篇は大変に好きです。
【岩田25】
【岩田17】に引きました副詞論の一端の文章をご覧になっても、その語り口に実に魅力のあることは、お解り戴いたのではないかと思います。
【根石さん26】
>「英語どんでん」の根石さんと村田さんの対話も、同様の性格のものだと思って、拝読致しました。
これは種あかしをしますと、対話の形式をとっていますが、7割がた私が勝手に書いたものです。村田君と実際に話はしたのですが、その録音テープを使っ
て、村田君の発言を媒介にし、ずいぶん違うものに書き換えてしまいました。でも、村田君の発言がなかったらできなかったものです。
【根石さん26】
そうでしたか、それならば、尚一層納得です。
【根石さん27】
>回転をドイツ語に直してみると、wenden、ヴェンデン。これを名詞にすると、Wendung、これを更に日本語に訳し直すと、慣用句という意味にな
ることに、今気がつきました。
それは面白いです。慣用句の生成は、「回転」によるのだと考えると、私にはとてもわかりやすい脈絡です。単体としての「回転」だけでなく、「回転」の伝
播によるのだろうと思います。
>英語でいうと回転は、turnでしょうか。そうすると、わたしは今オリンピックの水泳選手達のターンを、折り返しを思いました。このターンは、やはり距
離に対して、均等に割り振られた点においてなされる人間の一瞬の行為、それも方向を全く反対方向にして向かう行為ということになりますね。
私のイメージでは、「回転」は revolve です。
仏教の念仏とかお題目とかいうものが、「同じ型の繰り返し」であるのと通じると思います。武道の稽古において、「型」を繰り返すことにも通じると思いま
す。辞書の素読の定義は、有声であることを言うものばかりですが、実際に素読の訓練をするときは、「繰り返し」をいくらでもやります。一定の音の質とリズ
ムで「すらすら」読めるまで、「有声で」繰り返すのです。
私の方法では、これが基礎訓練になり、音の質とリズムが熟してきたら、ドカンとやれ、となります。そこは、turn であるかもしれません。ひとつの
turning point であることは間違いありません。
【岩田27】
回転はrevolveだというのは、確かによく伝わりました。
根石さんの強い思いも入っていて、本当にrevolutionaryな方法だと思います。
【根石さん28】
>根石さんの「英語どんでん」、余りに面白かったので、読後すぐに上記真田町の陶芸家の友人に読ませようと思って、送ってしまったので、今手元にないので
す。(この友人も英語塾、やまびこ塾というのをやっているのです。)
切断読み、またお教え下さい。
友達の方も、英語塾をやっているのですか。
Facebook はやっておられますか。近いので遊びに来てくれるといいと思っています。
【岩田28】
その友人に根石さんの英語どんでんを送り、その後電話で話を致しましたところ、驚くなかれ、友人はよく根石さんの家の前の道を軽トラに乗って通っていると
のことでした。
この友人は本来陶芸家なのですが、副業で樵(フォーレスターというようです)をしております。長野森林組合が更埴市にあって、そこへ行く途中で、いつも根
石さんの家の前を通るそうです。
素読者の看板がかかっているのですね。その看板が気になっていたといっておりました。
なんともまあ、世間は狭いとは、このことでした。友人も驚きましたが、わたしも驚きました。
【根石さん29】
>以上、色々書きましたが、こうして根石さんの事に対して、それぞれの項目について答えようとすると、随分と思い出すこともあり、また新しい発見もあり、
実に面白いと思いました。
私も触発されるものがあり、ついついまた長いものを書いてしまいました。書くことで、初めて考えたものもあります。岩田さんがおつきあいくださっている
おかげです。
数日、間があいてしまいましたが、日本語の言葉のやりとりにおいても、私は亀であり、即応能力に欠けています。こんなふうな、間があくペースでやらせて
いただけると有り難く存じます。歳と百姓仕事の疲れには勝てません。百姓仕事はやたら面白いので、余計勝てません。ついやり過ぎるのを、私の脳の梗塞とい
うところから警戒しています。
語学屋が口が動きにくくなると、ほんとに切ないです。
【岩田29】
いや、わたしも時間が空いて、2週間を戴きました。やはり、根石さんとこのような話をするときには、十分な時間がないと駄目で、細切れの時間の中では、な
かなな書く事ができません。
今日は3連休の最終日ということで、午後の時間をとって、このような文章を書いて参りました。
根石さん、無理をせずに、亀の速度で、書き継いで参りましょう。
語学から、他の話題になっても、いいかとも思います。
では、また。
http://facebook.com/eiya.iwata
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