【17701】

馬の骨さん

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月20日(日)02時30分48秒
   内田樹の言葉が、やたらタイミングがいいのですが、厳選とまではいかないまでも、よく選んで載せてくださっているのだと思いました。
 「陰の力」とはこういうものなのだとも思いました。


【17702】

新しい掲示板

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月20日(日)16時06分51秒
  以前、ピッコロさんに提案された生徒さん用の掲示板。その後ミキさんからmixiでは海外からつながることができないとお知らせがありました。
根石さんも書かれていますが、生徒さんがレッスンの体験談や、疑問に思ったことなどを書く場が今必要とされていると思いました。
新しい掲示板で書かれた内容で、「大風呂敷」向きだと思った記事は、転載していこうと思います。
今、無料掲示板を物色しています。(大風呂敷と同じteacupでもいいけれど、頻繁に仕様変更があって面倒な時があります)
掲示板の名前はまだ思いつきませんが、掲示板を立ち上げた時には小川さん、協力していただけますか?よろしくお願いします。


【17703】

新しい掲示板

  投稿者:I村  投稿日:2011年 2月20日(日)20時52分29秒
  村田さん

海外からつながる、ということであれば流行の「Facebook」でしょうか。
私は登録だけして使っていませんが。
選択肢の一つとしていかがでしょう。


【17704】

村田君

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月20日(日)22時11分36秒
  掲示板は少しの間、保留にしておいて下さい。
誰かが座長をやってくれるのなら、始めても続くと思いますが、そうじゃなければ一時的に盛り上がるだけです。
私は小川さんが座長の適任者だと考えています。


【17705】

吉さんのことその他

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月20日(日)23時09分47秒
編集済
   今日昼間、『快傑ハリマオ』5号の印刷をしていて、吉さんは調子が悪いのかもしれないと思いました。
 「自立練習」報告の掲示板を再度見ましたが、吉さんとかたさんの「自立練習」は今月の1日が最終の報告になっています。
 今日は20日ですので、3回くらい連続して練習が行われていないことになります。

「先週はわたしの都合で,今週は吉さんのお仕事の関係でレッスンはおやすみになっています。また来週からがんばります!」とかたさんが2月1日に書いていて、それが最後の記事です。

 調子が悪いのでも、仕事が忙しいのであっても、3回も連続で練習をしないのであれば、連絡くらいはして欲しいものだと思っています。こういうことがあると、かたさんも吉さんも素読舎から無縁化していきます。吉さんが調子が悪いのであれば、かたさんに連絡を依頼してもらっても構わないのですが・・・。

 うちの娘がかたさんと吉さんの「自立練習」に加えてもらっていたことがあるので、今日娘に連絡がないことを言ったところ、娘が次のようなことを言いました。

 「吉さんは、ポジティヴじゃなければならないという思いこみがすごく強いんだよ。無理しちゃうんだよ。それで調子を壊しちゃったんじゃないの」

 それを聞いて、心配になりました。

 かたさんと吉さんの「自立練習のみ」というのは、「無料過程」というもののあるべき形をつかみたいということがあって、モデルケースとして始めてもらったものですが、練習をストップする場合に連絡がないことで、うまくいかなかったケースになってしまいました。スカイプやらネットやらを使う練習ですので、連絡が最後の頼みの綱みたいなところがあるのですが、それを放り出されると、単に無縁化していってしまいます。

 内田樹の言う、「人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。共同体を立ち上げる基本の儀礼である。」が、スカイプでレッスンというネット社会ではやれないのです。吉さんと小川さんが我が家を訪ねてくださり、庭でバーベキューをやったりしたことはありますが、普段は「食物」は私の作った教材だけで、車座になれないのです。これが、ネットを通じたおつきあいの最大の欠点です。

------------------------------------------------------

 「無縁化」という言葉を書きつけていて、思い出したことがありました。これは、吉さんとも小川さんともまったく関係のない話なのですが、書いておこうかと思います。

 私の塾を使い、その後アメリカ等の英語圏に渡った塾生は何人もいます。そのうちで、日本に帰ってきてから、顔を合わせたのは3人くらいですが、私が「なんなんだ、それ」と思った共通点があるのです。
 3人が3人とも、「あんたの世話になんかなっていない」という態度を示すのです。この3人が、しゃべりや聞き取りに関してなら、私よりもはるかに優れたスキルを持っているのはわかります。そこまでやるかよってくらいにお見事なのもその中に一人います。
 私は語学論の中で、「磁場だけがもたらす作用が絶対にある」と言っているので、彼らのしゃべりや聞き取りのスキルは私が作ったものではないということは十分承知しています。その一方で、「あんたの世話になんかなっていない」という態度はいったい何なのだとも思うのです。
 「音づくり」をそのままインプットの方法にし、それを継続したこと、つまりは「芽を出させない。種を種のまま持たせる」ことを継続したことが、彼らのしゃべりや聞き取りのスキルにまるで作用しなかったかのような態度は、いったい何なのか。
 全部がそうだというのではありません。今、イギリスにいるやつのお母さんは、「素読舎のおかげです。とても感謝しています」と言ってくれました。
 しかし、日本で会った「磁場帰り」のかつての塾生は、「あんたの世話になんかなっていない」という態度をとったのでした。私はおべんちゃらを言ってもらいたいわけではない。しかし、その態度は何なのだと思わざるを得ませんでした。

 英語磁場は、もしかしたら日本人にとっての大事な何かを駄目にしてしまうものではないかという疑いを私は持つようになりました。

 「あんたの世話になんかなっていない」というのなら、それもよかろう。そういう態度を示す者に対しては、「さよならだけが人生だ」という井伏鱒二の言葉を噛みしめて、静かに無縁化していくしかないのだ。

 英語という言語は、というか、「英語磁場」は、というべきか、これは私に、近代になって朝鮮を馬鹿にした日本というものを思い出させました。朝鮮経由で日本が学んだものがどれほどあるか知れない。恩のある国をマネごとの近代意識から馬鹿にする日本人。礼儀知らずにも程がある。

 日本の近代以後は、とても貧しい。
 心が。


【17706】

I村さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月20日(日)23時26分50秒
編集済
  facebookは個人のブログみたいなものだと思いますので、やはり掲示板がいいと思っています。
少なくともteacupにはミキさんが書き込みができていますので。

Facebookはおもしろそうですね。チョムスキーも参加しているようです。

…今見てみたら、2月4日付のエジプトのデモについてのインタビューがありました。
http://chomsky.info/interviews/20110204.htm


【17707】

根石さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月20日(日)23時32分36秒
  掲示板のこと、承知しました。
小川さんの返事を待ちます。


【17708】

内田樹の言葉から 2

  投稿者:馬の骨  投稿日:2011年 2月21日(月)00時11分5秒
  ●「どうせオレなんか・・・」というような自虐の言葉はまっすぐにその人を「どうせ」的状況に繋縛してしまうのである。自分の状況を否定的に記述することは「自分に呪いをかける」ことである。自分にかけた呪いを祓うことはむずかしい。

●「スキャン」というのはつねづね申し上げているように、「自分を含む風景を上空から俯瞰する想像的視座」に立つ能力である。

●人生はミスマッチである。私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。それでもけっこう幸福に生きることができる。

●倫理は合理性の前にあるわけではない。むしろ、倫理にかなった生き方のことを「合理的」と呼ぶのである。ことの順序を間違えないようにしよう。

●「自分のオリジナルにしてユニークな適性」や、「その適正にジャストフィットした仕事」の探求に時間とエネルギーをすり減らす暇があったら、「どんな仕事でも楽しくこなせて、どんな相手とでも楽しく暮らせる」汎用性の高い能力の開発に資源を投入する方がはるかに有益であると私は思う。

●多くの人の羨望の対象であるということは、あなたの「替え」はいくらでもいる、ということである。誰でも自分と「代替可能」であるという自己認識がひとを幸福にすることはありえない。

●誰もが「自分の仕事」だと思わない仕事は「自分の仕事」であるというのが「労働」の基本ルールである。

●「結婚」することで「私」がどのような快楽や利便を得るか、というふうに問題を立てるからいつまでも結婚できないのである。「私」が参与することで、「結婚体」のパフォーマンスはどのように向上するか、ということを考えればよいのである。

●「面白そうだったから」とか「暇だったから」とか「頼まれたから」とか「人生意気に感じたから」というような、どうでもいいような理由で仕事をする人間、ふつうこういう人たちがいちばん「質のよい仕事」をする。

●逃げ場を見つけられず、そのまま不愉快な人間関係の中にとどまっているうちに、やがて「耐える」ということが自己目的化し、「耐える」ことのうちに自己の存在証明が凝縮されてしまったような人間が出来上がります。

●自分の手持ちの度量衡では、その意味も有用性も考量しがたい「知」への欲望が学びを起動させる。

●「不快な入力」が多い環境にいると、人間は鈍感になる。鈍感になる以外に選択肢がないのだからしかたがない。けれども、それによって危機対応能力は劇的に劣化する。子どもは、できるだけ快適な感覚入力だけしかない、低刺激環境で育てる方がいい、というのは私の経験則である。

●その人が愉快に生きてゆくためにどれくらい多くの他者の存在を必要としているかが、その人の社会的成熟度の数値的な指標になるということである。

●自分自身の足下が崩れるようなシステム・クラッシュの可能性をつねに勘定に入れる習慣を失った生物は、パニックに際会したときに生き延びることができない。


【17709】

根石さん、村田さん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月21日(月)05時22分48秒
編集済
  整理しておかなければならないこと、考えなければならないことがいろいろありますので、少しお時間下さい。  


【17710】

馬の骨さん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月21日(月)06時34分56秒
  >「私」が参与することで、「結婚体」のパフォーマンスはどのように向上するか、ということを考えればよいのである。

なるほど! 肝に銘じます。
仕事も同じかも知れませんね。


【17711】

2月21日1時頃までの内田樹のツイッタ―より

  投稿者:馬の骨  投稿日:2011年 2月21日(月)14時00分43秒
  それにしても北アフリカの政変は怒涛のようですね。1年前にこの変化を予測できた人は各国政府部内にはいたのでしょうか。いてもたぶんごく少数だったと思います。少なくとも日本のメディアで「北アフリカに激動」を予測した記事を読んだ覚えがありません

この取材力の低さについて新聞はどう総括しているのか、最初の紙面審議委員会で訊ねてみることにしますね。別に取材力がないことは恥ずかしいことではありません。でも、「ある」と思っていたら「なかった」のか、「要らない」と思っていたので、「なかった」のか、その点は明らかにしないと。

地殻変動的な変化はいつも「まさかそんなところから始まるとは思わなかったところ」から始まる、というのは歴史のたいせつな教訓です。そして、「まさかそんなところから始まるとは思わなかった変化」の前に「盤石と思われた体制」はきわめてもろいということも。

東アジアでも、いくつかの「盤石と思われた体制」も北アフリカの「怒涛」の余波を食らって思いがけない脆さを露呈することになるでしょう。ソリッドなシステムほど予測不能の変化に弱い。だから「日本は大丈夫らしい」という推理もできるかもしれません。民主党のみなさんに明後日聴いてみますね。

菅内閣の支持率が20%を切りました。余命にあと数週間というところでしょうか。でも、これに代わる統治者が見当たりません。失政をすべて統治者個人の属人的無能によって説明してきたため、首のすげ替え以外の解を誰も思いつけない。政党システムそのものが制度疲労を来している。

政治家は公人である、という意識の希薄化が政党政治を堀崩している。公人というのは、「自分の反対者を含めて全体を代表する義務」を優先的に配慮できる人間のことです。

私の政治的意見は正しい。反対者には屈服か沈黙以外の選択肢を許さないという政治家はどれほど強大な組織を率いていても、「強大な私人」に過ぎません。

今の日本に欠けているのは公人です。


【17712】

根石さん

  投稿者:馬の骨  投稿日:2011年 2月21日(月)16時02分46秒
  >日本で会った「磁場帰り」のかつての塾生は、「あんたの世話になんかなっていない」という態度をとったのでした。私はおべんちゃらを言ってもらいたいわけではない。しかし、その態度は何なのだと思わざるを得ませんでした。

根石さん、内田樹ふうに言うと
「世話になっているのに、世話になっていないって言うのは、事実を隠蔽することだ。事実の隠蔽は、かれらの行く末に、大きな不調をもたらす。あらゆる人間関係で」
さて、この呪いは解けないでしょう。根石さんに感謝の言葉を言わないかぎり。


【17713】

Facebook

  投稿者:I村  投稿日:2011年 2月21日(月)19時55分17秒
  村田さん

「海外とつながる」ってそういう意味だったのですね。
私は全然違うことを想像していました。てっきり、海外在住の方に営業をするものだとばかり。失礼しました。

エジプト情勢ですか。エルバラダイ氏が拘束されたというニュースを知ったのはテレビでも新聞でもなく、twitterでした(日本人が現地のニュースをリツイートしたもの)。英語ができれば、そういった情報ももっと身近にかつ早く手に入るのでしょうが、私は未だに英語を読むのが苦痛です。

それはそうと、素読や音読は英語のリーディングにも効果があるかもしれませんね。昨年Toeicを受けた最、あまりリーディングの勉強をしていなかったのですが、リスニングの点数はもちろん、リーディングの点数も伸びておりましたので。何で効果があるかはわかりませんが。
 


【17714】

落とし前をつけていない身分でなんですが、一言。

  投稿者:Jackie  投稿日:2011年 2月21日(月)20時33分45秒
編集済
  掲示板がモノを言いにくい雰囲気になっているなあと外野からみて感じました。
小川さんの投稿に「私も意見を書いてみよう」となってきてよかったですけど。


>よく考えて下さい。生徒紹介について、「どうせ私にはできない」と考える人は、(短期であれ)日本を飛び出して、英語の磁場に交わることに対してだって「どうせ私にはできない」としてしまうのです


生徒紹介をしないような人は、磁場にいくことも躊躇してあきらめる?
そんなことはないと思いますけどぉ。勝手に決め付けないでください。

「この洗剤、鍋とってもいいのよ、いいものってわかってるのなら勧められるでしょ、
え?勧めないの?なんで?できないの?
そんなことだから、何事もだめなのよ」

とはどこぞのマルチや、宗教でよくある会話。


>「どうせ私にはできない」というような最初からあきらめたような気持ちを変えてもらいたいもんだと願っているんです。これ、蓋を開けてみると、すごく簡単なものが出てきます。「できない」んじゃなくて、「やらない」んだという簡単なものが。


それを勧めるもすすめないも個人の自由意志。


>●「どうせオレなんか・・・」というような自虐の言葉はまっすぐにその人を「どうせ」的状況に繋縛してしまうのである。自分の状況を否定的に記述することは「自分に呪いをかける」ことである。自分にかけた呪いを祓うことはむずかしい。

他人に勧めることが苦手な生徒さんは、自分で自分にあしかせをしているわけでなく、
馬の骨さんのこの言葉はあてはまらない。

どちらかというと、根石さんのほうが「いいものだったらすすめられるだろ。どーせなんてかんがえるやつは・・だ。」とのろいの言葉をはいている。

私が生徒だったら・・・引く。いくら、素読舎がその方法がいいものとわかっていても、
ちがった意見をぶったぎろうとするだけでなく、
時に人格さえもぶったぎろうとする言葉の場所の道場へは
友人知人に勧めようにも勧められない。






毎日の生活で「どーせ自分には」とじぶんで自分に限界をつくったら、もったいないけれどね。
そこは吉さんのHPにある、ダイエットのコラム・・だったかな。あたりみたいに、自分を認めほめておだてて、あ、豚もおだてりゃ木に登る!、って形で、リミットを越えていくことができれば。



【17715】

根石さん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月21日(月)22時46分48秒
編集済
  >かつてやたらな一般化はよくないと言った人のもの言いとも思えません。

一本とられました。

>始めたばかりの頃は敬遠していたけれど、レッスンを継続している間に語学論をよく読んでくれるようになった生徒さんもいるのです。

私はそこが狙いどころだと思ってるのです。その為に間口を広げなければならないです。単純に「英語がしゃべれるようになったらいいなぁ」と思っている程度のレベルの人たちでも、素読舎のレッスンの中で啓蒙(あまりいい表現ではありませんが)することが出来るのではないかと思います。それも素読舎の使命ではないでしょうか。

一本釣り漁法ではなくて地引き網漁法というか... 雑魚やらゴミやらの中に、大物が混ざっているかもしれません... これもあまりいい表現ではないですねぇ...

最初から根石さんの期待するような生徒さんばかりを集めてレッスン枠を埋めるというのは難しいと思います。かといって根石さんや村田さんは地引き網をなさる必要はないんです。広告宣伝費を使うおつもりがないことも了解しましたので。

私の場合のように、TOIECや英検対策講座を自宅で細々とやっていると、その受講者の中から、YoshieさんやTommyさんのように素読舎に興味を示す生徒さんを送り出すことが出来ます。私が素読舎のコーチとして独り立ち出来るようになるまでは、そういう形で無料過程のお返しをしたいと思っています。地引き網なので、素読舎という名前も看板に使わず、素読舎の教材も使わず、自分のやり方で広告宣伝して生徒募集をし、講座の中で「素読舎のメソッド」というものを紹介し、生徒さんを本塾に送り込むという方法です。

かまいませんか?

ところで、ゴーストを終了するのに何年かかるでしょうか。個人差もあるでしょうが、2年とか3年とか、期限を切ってしまってはどうでしょうか。欠席が多い生徒さんや練習量が不足している生徒さんの場合は、1人枠に出すとか、コーチ見習いに預けて自立練習で補習するとか。生徒さんに紹介する場合に、だいたい2年くらいで無料過程に入れますよ、とか伝えることが出来たらいいなと思うんですが。

>生徒が集まろうがどうであろうが、どうでもいいのです。そんなことと本質は関係がない。

だけど、ペア枠が組めるほどの生徒だけは常に確保しておかねばならない、ってことですね....

座長の件やら、コーチ見習いとして空き枠に入ることなど、2月末にきちんとお返事します。煩悩だらけで、義理やら人情やらで関わったサークルやら習い事でにっちもさっちも行かなくなってます。これらを整理してしまいますわ。

こうして大風呂敷に投稿している間に、その内の二つはもう切ってしまったんですよ。他にまだあるのか、と突っ込みが入りそうですが、まだまだ、あるんです。



【17716】

小川さん

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月22日(火)04時17分36秒
  >>始めたばかりの頃は敬遠していたけれど、レッスンを継続している間に語学論をよく読んでくれるようになった生徒さんもいるのです。

>私はそこが狙いどころだと思ってるのです。その為に間口を広げなければならないです。単純に「英語がしゃべれるようになったらいいなぁ」と思っている程度のレベルの人たちでも、素読舎のレッスンの中で啓蒙(あまりいい表現ではありませんが)することが出来るのではないかと思います。それも素読舎の使命ではないでしょうか。

 そういうことはやってきていると思います。
 レッスン開始時に、単純に「英語がしゃべれるようになったらいいなぁ」と思っている程度の人たちも受け入れてやってきています。
 まず変わるのは「音」で、その変化はたいていの生徒さんがはっきり実感すると思いますが、それを書くとなるとなかなか大変なのだろうと思います。生徒さんがその変化を書いて下さることはほとんどありません。
 素読舎のレッスンを継続して下さる方の多くが、なんらかの自分の英語の変化を感じているのだと思いますが、それを言葉にしてもらえることはほとんどありません。
 生徒さんだけが感じることっていうのがあると思うのです。それは私にはわからないのです。そして、それが言葉にならなければ、素読舎は巨大な教材を作りながら空き枠をかかえている塾であり続けなければならないのだと思います。
 口で周りに広めるのでなくても構わない。先日、I村さんが言って下さったように、自分の英語の変化を書いていただくことがいいのではないかと思っています。それを多くの人に読んでもらうためのノウハウはまつさんが持っておられますし、教えて下さると期待しています。そのためには、「人格なんぞでつべこべ言われる筋合いはねえ。職人は仕事の質だ」と考える私のような者ではなく、小川さんのようにやたら喧嘩しない人が座長に必要だと思っています。

>一本釣り漁法ではなくて地引き網漁法というか... 雑魚やらゴミやらの中に、大物が混ざっているかもしれません...

 これはときどきありますね。

>根石さんや村田さんは地引き網をなさる必要はないんです。広告宣伝費を使うおつもりがないことも了解しましたので。

 どういうことでしょうか。なるべく金をかけずに、広告宣伝をやろうとしてパンフレットなどを作る努力はしてきました。村田君は自分の生徒を獲得する段階に入っているのだから、地引き網でもなんでもやる必要があると思っています。

>私の場合のように、TOIECや英検対策講座を自宅で細々とやっていると、その受講者の中から、YoshieさんやTommyさんのように素読舎に興味を示す生徒さんを送り出すことが出来ます。私が素読舎のコーチとして独り立ち出来るようになるまでは、そういう形で無料過程のお返しをしたいと思っています。素読舎という名前も看板に使わず、素読舎の教材も使わず、自分のやり方で広告宣伝して生徒募集をし、講座の中で「素読舎のメソッド」というものを紹介し、生徒さんを本塾に送り込むという方法です。

かまいませんか?

 もちろんかまいません。
 このことを「地引き網」と言っておられるのでしょうか。
 これまで小川さんがやってこられたことに、素読舎との接点を作って下さるということなのですから、そんな有り難いことはありません。
 もう受験生を見ることはやっておられないのでしょうか。大学生になったような人に素読舎を薦めて下さると大変有り難いと思っています。大学受験に受かった程度の英語は、まだヒヨコの大きめのやつです。その先でやることがありますので・・・。

 一時、英語に熱意を失ったというようなことを言われたことがありました。その後、小川さんがコーチをやりたいと言われたのですが、どのくらいのことを言われているのかがつかめずにおりました。具体的には、30分の枠でどのくらいの数の枠がやれるのかということです。
 二つ三つ「スカイプでレッスン」の枠を持ってみたいというのと、20万を越える収入になるほどの数を持ってみたいというのとでは、私の方で考えることが違ってきます。
 新しい掲示板ができたら「座長」をやってもらいたいと言っているのは、二つ三つでなく、もっと持つことを考えてやってみてもらえないかということです。
 私の「空き枠」さえ埋まらないのに、そんなことを言ってみたところで獲らぬ狸のなんとかですが・・・。

 生徒さんが書きやすい掲示板を作ること。そこで、生徒さんの声を引き出すような仕事をしてもらえたらと願っています。「座長」という語にそんな希望を込めています。

>ところで、ゴーストを終了するのに何年かかるでしょうか。個人差もあるでしょうが、2年とか3年とか、期限を切ってしまってはどうでしょうか。欠席が多い生徒さんや練習量が不足している生徒さんの場合は、1人枠に出すとか、コーチ見習いに預けて自立練習で補習するとか。生徒さんに紹介する場合に、だいたい2年くらいで無料過程に入れますよ、とか伝えることが出来たらいいなと思うんですが。

 これは「音読」のことでしょうか、「イメージ核受肉教材」のことでしょうか。
 「音読」では、機械的な計算では106週になります。月4回で計算すると、26.5ヶ月となりますが、年に数回、月5回のことがありますから、もう少し短くなるはずです。だいたい2年あれば終わることになります。生徒さんの休みがあったり、私が休みをいただいたりしますので、3年みておけばいいと思います。この場合、「終わる」と言っても、最終ページまで届くというだけのことです。私が要求している「練習力」のレベルは、12ページをコンスタントに10分以内に読むというレベルです。このレベルに達している人は、現在二人います。つまり、「無料過程」への条件の一つを満たしている人ということです。これが例えば3年で実現するかどうかは、一概に言えません。
 50ページを越えたあたりで、「音読」を中断するケースもあります。その場合は、2,3年は「イメージ核受肉教材」だけでレッスンを進め、その後「音読」を復活させますので時間がかかります。
 「大風呂敷」では鬼のようなことを書いておりますが、私のレッスンは実は生徒にとても優しいもので、そのことを「生徒の繰り返しそのものにつきあう」と言ってきました。そんなことをやっているところはほとんどないだろうと思っています。しかし、最終的には「脱兎のごとく」を私は要求します。それが12ページをコンスタントに10分以内に、という基準です。アプローチを相当長くとってあります。
 欠席や練習量不足も、なかなか責めることができません。ふざけんなよ、こんなことでどうなるもんかというような低レベルの練習を責めることはしますが、忙しい人が生活の時間を割いてレッスンを受けてくれていることがわかっているとなかなか責めることができません。その場合は時間がかかるのは仕方がないと考えてきました。
 そういえば、村田君にも小川さんにも、「ゴースト」の12ページ10分以内という音読のチェックをやってきていないなあと今気づきました。村田君とこのチェックを受けてもらえると、私の空き枠が埋まるのですが、どんなもんでしょうか。本腰を入れてコーチをやることを考えられるのでしたら、このチェックは受けておいていただくのがいいと思っています。
 小学生の枠で「二人一枠」の一人がやめ、「一人一枠」が生じようとしています。この枠でコーチの実習をやってもらうこともご検討願えればと思っています。月曜夜11時から、村田君が同じ実習をやっています。

>だけど、ペア枠が組めるほどの生徒だけは常に確保しておかねばならない、ってことですね....

 ほぼあきらめています。
 あきらめると村田君の手元に生徒が増えないことになりますので、あきらめないのなら村田君があきらめないってことをやって欲しいと思っています。私は疲れてしまいました。

>座長の件やら、コーチ見習いとして空き枠に入ることなど、2月末にきちんとお返事します。煩悩だらけで、義理やら人情やらで関わったサークルやら習い事でにっちもさっちも行かなくなってます。これらを整理してしまいますわ。

 襟を正してお待ちしています。

>こうして大風呂敷に投稿している間に、その内の二つはもう切ってしまったんですよ。他にまだあるのか、と突っ込みが入りそうですが、まだまだ、あるんです。

 アイロンをかけた襟を正してお待ちしています。
 (実は、そういうものを着用したことがないのですが・・・)

 昼間、「基金」を創設することと、「ポイント制」を始めることは、分けることができるなと考えていました。「基金」と「ポイント制」は有機的にからんではいませんので、一方だけでもやれるはずだと思っています。ひとまず「二人一枠維持基金」だけで始めて、1年後なり2年後なりに、どうしても「基金」が底をついてしまうようなら、切り離した「ポイント制」をジョイントするということもできるなあと考えたわけです。

 「ポイント制」はレッスンそのものには何の実害もありません。
 しかし、「心理的な負担」があるとある生徒さんが言いました。
 「二人一枠」を維持しようとすると、私の側には「心理的な負担」だけでなく、実際的な負担があります。その両方をお前一人(根石)が抱え込んでいればいいのだということを言いたいのだろうかと疑わざるをえませんでした。
 一人6千円でか? やだよ。とは言わずに、これまで抱え込むことをやってはきたのです。自分で生徒に薦めたことなんだから仕方がない。しかし、ことわざにありますように「荷に藁一本加えただけで、ロバの膝が折れる」でしたっけ? そういう限界点というものに近づいているのだという感じがします。とにかく、こちらから生徒に「二人一枠」を薦めることを今後はいたしません。生徒が「二人一枠」を希望することはできる、としたいと思います。

 まあ、とにかくちょっと休みたいので、来週、沖縄に行ってきます。
 女房が新しい勤め先で正採用になりましたので、連れていってもらうのです。私は金がありませんので・・・。


【17717】

根石さん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月22日(火)09時45分0秒
  >具体的には、30分の枠でどのくらいの数の枠がやれるのかということです。

将来は根石さんや村田さんと同じ数の枠をやろうと思って、週2回確保するためただいま身辺整理中です。2〜3コマくらいを片手間にやるつもりは毛頭ありません。

絵付け教室は週2回なのですが、週1回にまとめてしまおうと思っています。こちらはすぐというわけには行きませんが。

通訳ガイド協会に所属して仕事を受けられる状態にはしているのですが、もともとガイドを仕事にする気持ちはなかったものですから、これが本業になるとは思えませんし。

受験生を相手にしてもいいんですが、今のところ夜の時間帯を常時あけておくということができません。浪人生なら昼間でもいいでしょうが、たいてい予備校へ行ってますから。今年夏に夫が定年退職するので、その後なら今より時間の融通がきくと思います。夕食の時間なども6時半とか7時とかに決まってくるでしょうし。

>小川さんのようにやたら喧嘩しない人が座長に必要だと思っています。

私もキレそうになることは多々ありますが、喧嘩したら客を逃しますから(爆笑)。根石さんが信濃の職人さんなら、私は浪速の商売人で。振り挙げたくなる手を胸元で摺り合わせながら、へらへらとお愛想笑いすることも出来ますで。

生徒さんの感想を中心にした掲示板の座長というのはどういうものか、見当がつきませんが、私に出来るならさせて頂こうと思います。けれど、こういう掲示板は各分室が持っている方が良くないですか? その方が生徒さんの気が楽だということはないでしょうか。本塾のホームページにリンクさせるというのはだめなんでしょうか。

私が座長を引き受けるかどうかは別にして、コーチ見習い(今のところ私だけですが)が、出来るだけレッスンの見学をして、その後、掲示板で生徒さんに呼びかけるという手もありますね。「きりぴーさん、以前のレッスンとくらべると、ずいぶんつながるようになられましたが、どれくらい練習されましたか? 何か気づきはありましたか」など。

>どういうことでしょうか。なるべく金をかけずに、広告宣伝をやろうとしてパンフレットなどを作る努力はしてきました。村田君は自分の生徒を獲得する段階に入っているのだから、地引き網でもなんでもやる必要があると思っています。

今までも努力をされているのはわかってるんですが、今はスカイプでは全国展開できるんですから、地元周辺だけにチラシを入れているだけでは限度があるってことです。今は遠洋漁業です。遠洋漁業。

そういう私もどれくらいの生徒を集めることが出来るかわかりませんが、とにかく出来るだけのことはやってみます。

>そういえば、村田君にも小川さんにも、「ゴースト」の12ページ10分以内という音読のチェックをやってきていないなあと今気づきました。村田君とこのチェックを受けてもらえると、私の空き枠が埋まるのですが、どんなもんでしょうか。本腰を入れてコーチをやることを考えられるのでしたら、このチェックは受けておいていただくのがいいと思っています。

私はゴーストは最後の数ページを残したままになっていることもあり、きちんとやりなおしておかねばならないと思っていました。村田さんのご都合さえうよければ、3月よりお願いします。夜遅いコマでしょうから、夫の帰宅などでバタバタする日があるかも知れませんが、なるべく欠席しないように段取りしておきます。

ご夫婦仲良く沖縄でゆっくり骨休めなさって下さい。



【17718】

根石さん 小川さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月22日(火)13時44分43秒
  >そういえば、村田君にも小川さんにも、「ゴースト」の12ページ10分以内という音読のチェックをやってきていないなあと今気づきました。村田君とこのチェックを受けてもらえると、私の空き枠が埋まるのですが、どんなもんでしょうか。本腰を入れてコーチをやることを考えられるのでしたら、このチェックは受けておいていただくのがいいと思っています。

10分以内のチェックはやっていませんね。
3月からよろしくお願いします。


【17719】

遅ればせながら・・・

  投稿者:江戸の母  投稿日:2011年 2月22日(火)18時21分16秒
  >語学論が読めないような人が英語をやったところでしょうがないとも思っています。挨拶圏の言葉だけやりたいだけの人は、素読舎には縁がありません。

これは、素読舎HP今月の言葉にセレクトしてほしいなと思いました。これだけ頑固な理念を持った塾は無いですよね。唯一無二の塾の運営に今かかわっているんだろうなと、気持ちのどこかがひりひりしてきました。

>こんなもの、いつつぶれたって不思議はないと思っています。
自分というものが、今ここにいることの不思議と同じくらいに、素読舎というものがつぶれないでまだあることが不思議です。

いろいろ小川さん、根石さんのやりとりを読ませていただきましたが、
ここに感動してしまいました。
そして、村田さんの指を切るだのと比ゆ表現ではありますが、結構びびりまくって
凍り付いてしまっていましたけれども、それが小川さん、根石さんのやりとりを読む中で、
ゆるやかに解けて、また個別に営業をお手伝いしたいな〜と気持ちがわいてきてしまいました。よ。

そして規約(ポイント制)について、もう整理されていらっしゃるようなので、必要ないと思いますが、私が、昨日書いていたものですが掲示板に上げさせていただきます。無視してください。

生徒のみなさん、これまでに友人知人には声をかけてきてると思います。
規約がなくとも、根石さんに頼まれれば、今後もかけ続けるとも思います。

でも、規約ができて、紹介ができなかい状態で、どんどんポイントがマイナスになっていくことに負い目を感じるのではと。せっかくいいものを紹介してやってるのにと、興味を持たない友人知人を責めるわけはないし、紹介した方が気に入ってくれるかどうかの「ご縁」は「運」まかせのところもあると思います。

素読舎に協力できないのに、「無料過程」が延長にある「二人一枠」にいていいんだろうか? 集客できなかったことを自分のせいにせずにはいられなくならなくならないか。I村さんの書かれたように「紹介できなかったから負い目を感じることはない」と気持ちをいつも維持できればよいですけど、何分、人ですんで、紹介してる方のポイント表を掲示されたら、動揺してしまうのではないかと。

また、「負い目を感ぜずに「二人一枠」を続けること」がいつか、「集客しなくても、いいんだ」という惰性を生み出し、ただ怠け根性が育つ可能性もなきにしもあらずという気もしますが、そういう怠惰な精神は、素読舎生徒では「ありえない」と根石さんは生徒を信頼されているのだと思います。

ポイントほしさに、友人知人に「サクラ」になってもらって、いった入ってもらってやめてもらう(+3ポイント−2ポイント=+1ポイント)なんてことを、素読者生徒は「やるはずがない」と性善説にたたれているだろうとも思いました。

こうして文章にして読み返してみると自分のことしか考えてませんね。
馬の骨さんの紹介してくださった文章を読み返してみます。

どんぐり倶楽部と吉さんの件についても、過去ログをあたりながら考えて見ます。
糸山先生のことも、ゆっくり母さんに紹介され、HPを見ただけで、ご本人の著作などもよく読んでませんので。昨日口頭でいただいた説明では理解するまでに至りませんでした。

思えば私が素読舎に入ったのはゆっくり母さんが「楽しいですよ。一緒にやりましょう」と背中を押してくれたからでした。そんなきっかけの入門ですが、そういうのもあるんだと思います。私もピッコロさんには「楽しいんだよね」となにげにぽろっと言ったくらいでした。

私も小川さんの書かれた地引網にひっかかった小魚ですな。
遠洋漁業(^^)思わず吹いてしまいました。さすが関西人ですね!


【17720】

村田さん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月22日(火)22時22分16秒
  私たちが受講するのは月曜日の午後9時〜9時半の枠でですね。よろしくお願いします。


【17721】

小川さん

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月23日(水)02時30分38秒
  >根石さんが信濃の職人さんなら、私は浪速の商売人で。振り挙げたくなる手を胸元で摺り合わせながら、へらへらとお愛想笑いすることも出来ますで。

 大阪の人は、文章の最後の「で」がいいですね。
 関西の言葉は、人の気持ちをほぐす力があります。

 信濃の職人と、浪速の商売人でよろしくお願いします。
 片手間でやる気はないということ、わかりました。


【17722】

I 村さん、江戸の母さん

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月23日(水)02時33分25秒
  改めて、よろしくお願い致します。


【17723】

語学、と論

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月23日(水)03時16分42秒
   うたたねして起きしばらくぼうっとした。「かろうじて今ある」という感覚が生じたのは、松坂義晃『空海の残した道』を読んでいる時だった。四国八十八ヶ所遍路の道中記だが、この本は慶澄さんにもらったのだろうか。覗いた「あとがき」に慶澄さんの名前がある。
 歩いて遍路する人はもう少ないらしい。しばらく人の歩いていない道を、マムシと蜂を恐れながら草をかきわけて行く記述があるが、それを読んでいると「文明以前」の中を行く感覚が遠くでよみがえるような気がした。何か具体的なことがらを思い出すわけではないが、「文明以前」というか「人間界の外」というか、「生活圏外」にいるときの感覚がよみがえってくるのだ。特に喚起的な文体ではない。むしろ坦々としている。しかし、喚起するものがある。

 昼間、姨捨にフキノトウをとりにいった。Jのことを考えていた。あの分散しちらかった文章が、人間の壊れを示しているが、壊れに至った経路は明らかではない。
 『大風呂敷』という掲示板には、以前、Sという男が「荒らし」に入ったことがある。この男も壊れていた。
 JにもSにも共通するのは、「負けずに言い返す」ことを繰り返すことだ。本筋から外れた筋から言い返してくる。これがもたらすものは、こちらの疲労だけだ。
 アメリカだと思い、英語と思う。根がそういうものにあるのだとは思わないが、根が、アメリカに媒介され、英語に媒介され、狂いをもたらしている。JにもSにも共通する媒介項は、アメリカであり、英語なのだ。
 私もそういう者の一人なのだろうと思うが、私にはアメリカ以前、語学以前がある。それは「里と山」の対立だが、日本民俗学がその対立を形成するものにいまだ明確な概念を与えていないので、「里の人」と「山の人」は、ただそう呼び分けることができるだけだ。
 あらかたの民俗学者にとって、「山人」とは、「里」からの視線によるものにすぎない。柳田国男をもっと読んでみなければならないのだろうか。これまでに触れた柳田の憑依は、むろん単なる「里からの視線」などというレベルにあるわけではないが、それでも、「里における山への憑依」であるような気がしてならない。
 鬼がいまだ鬼とならず、自然のかけらでいられる領域。それを文化は、「子供(時代)」として保護するだろう。一方で共同体はそれを「鬼」として外化するだろう。(松岡祥男さんに教えてもらってわかったことだが、『大風呂敷』は「有害ページ」として指定されており、図書館などでは読めないそうである。松岡さんは、「名誉なことだ」と言ってくれた。)
 「子供時代」は保護されるので、子供から見れば、大人は鬼であり、大人から見れば、子供は鬼であるという相互関係が成り立ちうる。しかし、外化されて「鬼」となった者は保護されない。鬼から見て人間が鬼であるということは、絶えずタブーの領域に追いやられ蓋されるだけである。

 鬼とは人間の何が外化されたものなのか。例えば、「負けずに言い返す」という気性。その言論という鎧。解体力が解体している対象が、実は「自分」であり、結果として「壊れ」が現象する。それはもう、「死んだ鬼」だ。

 気がつけば爪が伸びている。爪が伸びるのを見ていることはできない。それはいつも結果としてあるだけだ。「爪が伸びている」という結果として。

 根元に新しい爪ができるから、爪の先に「切られるべき爪」ができている。
 それは「かろうじて今ある」という命のありようとどうつながるのか。

 マムシ、蜂、危険の中を歩くことを読んで、「ひとりであること」の感覚がよみがえり、「かろうじて今ある」感覚がよみがえるが、それが鬼への道を歩くとは限らない。それが命への道を歩くこともありうるだろう。例えば、四国八十八ヶ所遍路は、鬼への道を歩きかねないものを、命への道を歩くこととして「かたどる」。それは一つの文化装置である。

 同じく文化装置として、アメリカはどうなのか、英語はどうなのか、そして、語学はどうなのか。

 「切られるべき爪」の根元にあるのは、命だが、「切られるべき爪」ができていく経過を終始見ていることはできない。「終始見ている」ことを厳密化すれば、まばたきも許されないというレベルが生じる。そこまで厳密でなくていい。人には生活があり用があるから、「終始見ている」ことなどできないという簡単な事情によって、それは「できない」。

 いつの間にか爪が伸びている。
 いつの間にか皮膚が垢になっていると言っても同じことだ。
 新しい爪が切られるべき爪を作る。新しい皮膚が洗い落とされるべき垢を作る。文明以前に、命がそれをしている。

 その命に自分というものを重ねることができない、合体することができない、一体化することができない。「できない」とまで言わないまでも、そこに最大の困難をかかえる動物が人間である。ここに困難を見いださない人々というのは、文化というサンクチュアリ内に飼い慣らされただけのことであり、この人々から文化装置が取り去られれば、ただちに惨憺たるものが現出する場合がある。彼等は、マムシも蜂も崖も、本当は知らないのだ。「遍路」を知らない。

 岸田秀の言葉によれば、「本能が壊れた動物」というものがあるのだ。
 人間は元々壊れているのだ。壊れていなければ人間ではないと逆に言ってもいいくらいに、壊れている。(それが言語の存在を意味している)
 文化とは、その「壊れ」に対するつっかえ棒なのだ。
 文化装置がつっかえ棒なのだということを、人間は「本能的」に知っているから、語学などという変態行為もあるのだと考えていいだろう。
 だが、その「結果」はどうだ。「切られるべき爪」としての現象に過ぎない者たちの群れ。その見えない群れ。結果が、惨憺たるものにならない者がいったいどれだけいるか。「文化装置」によって、逆に、惨憺たるものと化す者たち。
 NHKラジオの語学番組の講師のしゃべりを聞いていて、「ああ」と思ったことがあった。すっかり磨り減った人間の声が聞こえていた。日本語というネイティヴな言語の核がやられているのが直覚された。これが語学の練達者というものなのか。この人には、「主言語」という思想がない。「副言語」という思想がない、と言っても同じことだ。無惨だ。

 Jに相対しても、Sに相対しても、無惨だという感覚はあった。Jはごく短期間、私のレッスンを受けたことがあるが、ある日、いきなり、Neishi san, I'm J....! と言い出したことがあった。Who, you said? という変な英語で私は応じたが、そうしながら、いったい本当にこの人は who なのかと思ったことを思い出す。掲示板上のJであるかどうかというレベルのことを考えたのではない。この人は、who という一単語の本当の意味がわからなくなっていると思ったのだ。それは、私の用語での「磁場」がわからないというのと同じだ。おそらく、こんなもの言いは、JにもSにも通じない。通じないから、「切られるべき爪」となってしまう。

 「芽を出させてはならない。種のままにしておかなければいけない。生きた種のまま持たせなければいけない。」
 これでわからなければ、素読のことなど何もわかっていないのと同じである。Jは、素読舎が、小学3年にまでレッスンの受け入れ年齢を下げようとしたとき、「世間一般の小学生英語」と素読舎を同一視し、「小学3年生に英語をやらせるべきではない」と『大風呂敷』上で主張し続けた。それで、後になってわかったことだが、Jは自分では親類の小学3年生だか4年生の子供に英語をやらせて「先生」をやっていたのだった。
 言うこととやることがまるでさかさまである。私はこの時から、Jの言うことなど何ひとつまともに聞く必要はないと思うようになった。私に謝るだけで済むことではない。『大風呂敷』上で主張を続けたのだから、Jは世間に向けて土下座して当然なのだ。
 まともな言葉は、「小学生に英語をやらせるなら、素読舎の方法以外では駄目だ」である。YもJもそうは言わなかった。二人とも、素読舎の方法だけが安全だというところを見破る力はなかったのである。そのことに関しては、YもJも素読舎を世間一般の英語機関や学校と同一視して、素読舎の商売の邪魔をしたのである。
 何が「素読」か。きいたふうな口をきくんじゃない。

 アメリカにやられ、英語にやられた人々。気をつけて、見てみるがいい。たくさんいるのだ。

 「語学論」とは何なのか。直喩ではなく暗喩で言う。語学論は予防医学だ。

 「音」とイメージを重ねるだけでは駄目だ、それは一体化しなければ駄目だと言うとき、一体化させるのは、やはりやみくもに、マムシや蜂の中で、危険の中でつかまなければならない「技術」であるだろう。それは「歩く技術」だ。
 それは、ご本人が解体力を行使したつもりで、実のご本人が解体されるような「技術」であっては駄目なものなのだ。

 語学がどれほど危険な行為なのかということをほとんどの人はわかっていない。

 だが、一方で、命と自分を重ね、一体化する力と語学は無関係ではない。(これはあてずっぽうだが、空海の力とはそういうものだろうと思っている。私にとっての空海は、まず何よりも語学の大きな才能である。)
 その力こそは、イメージの自在がもたらすものだ。しかし、落とし穴はどこにでもある。who を失ったイメージの「自在」は、自在どころではなく、「狂い」以外のものではないということが。
 JやSに現象したのは狂いだが、やたらに自己開発セミナーなどに出て、ポジティヴでなければならないというオブセッションから抜けられないあの人も、アメリカ在住経験に「やられた」のだ。そしてその自覚はない。そう認識すれば、それはネガティヴなものになってしまうから。(だからこそオブセッションなのだが・・・。)

 語学も「磁場」も恐ろしいものである。
 「予防医学」がなくて済むと思っているのは、気楽な迷妄に過ぎない。

(足立さん。感謝。内田樹は、大学に属し、合気道「道場」に属し、つまり、「共同体」に属する人だな、とは常に感じるところです。一般には、「会社」に属し、でも同じです。私は、そうなると、一匹の「鬼」かなとも思います。「一匹狼」と言った人もいますが、そりゃ劇化なんで、「はじかれた者」くらいなもんです。だけど、この位置は、「語学」に由来するんです。私の十九歳以後は。)

 


【17724】

根石さんへ 書き直しのお願い

  投稿者:Jackie  投稿日:2011年 2月23日(水)09時49分17秒
編集済
  根石さん
>>昼間、姨捨にフキノトウをとりにいった。Jのことを考えていた。あの分散しちらかった文章が、人間の壊れを示しているが、壊れに至った経路は明らかではない。

>Jに相対しても、Sに相対しても、無惨だという感覚はあった。

上記のJとは、私のことですよね。
お願いがあります。Jなんて略語にせずに、jackieと書き直してください。

「語学、と論 投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月23日(水)03時16分42秒」

今回の投稿記事すべての「J」をJackieと書き直してください。
批判?非難?罵倒?どうせ書くのなら堂々とどうぞ。



それと私が叔母に懇願されて週一回1時間5ヶ月ほど、英語と他の宿題もまじえておしえた従弟の子供のレッスンですが、以前もかいたとおり、終わっています。その当時の敬意やりとりの様子は掲示板に投稿していますし、過去ログに収録されてますので、あらためては書きません。

私が商売の邪魔をしている?
素読者に対しての思い入れがなければ、今回「ちょっと待って、Playback! 投稿者:Jackie  投稿日:2011年 2月 3日(木)23時46分55秒」
なんて記事は投稿しなかったでしょう。

久々にきてみたら
村田さんが素読舎と物別れしそうで、生徒さんが掲示板でモノ言えぬ雰囲気もなにやら不穏を感じ
もう書くこともないだろうと思っていたこの掲示板に
思わず投稿してしまった次第です。



自由闊達な意見交換があり、古く以前は柴田さん、浜谷さん、恋人ファンさん、SBさん、近年は吉さん、らくださん、まつさん、そのほか多くの英語関係者が議論参加していたこの大風呂敷、
いまは「素読舎」だけの掲示板になったのですね。
多方面の参加者との対話があってこそ生まれた根石さんの語学論も多くあったと思います。


>JにもSにも共通するのは、「負けずに言い返す」ことを繰り返すことだ。本筋から外れた筋から言い返してくる。これがもたらすものは、こちらの疲労だけだ。
 アメリカだと思い、英語と思う。根がそういうものにあるのだとは思わないが、根が、アメリカに媒介され、英語に媒介され、狂いをもたらしている。JにもSにも共通する媒介項は、アメリカであり、英語なのだ。


私は、誤解されたままにされるのが嫌だから、反論というか、自分の思いを伝えようと書いてきただけで、それは私の性格であり、アメリカという英語磁場に滞在していたこととはなんら関係ありません。
根石さんはなにかと「英語磁場」に関係付けたいようですけど。




根石さん、一度英語Naitive圏の磁場に渡ってみたらいかがでしょうか。
一ヶ月ほど、無理なら2週間でも滞在し
ホームステイなり、ユースホステルなりにとまり、教会にいってみるなり、大学のキャンパスにすわり、学生と対話してみるなり、とにかく磁場の人と会話を交わし、起こる変化。

毎日レッスンに向けての予習、下準備でからっぽの電池を作っている根石さん。
その根石塾長のからっぽの電池がどのように充電され放電されていくのか、
塾長自らの体験記録レポートは、今現在学んでいる生徒さんにとっても励みとなり参考になるのではないでしょうか?
過去にもボストン滞在などされたようですが、かなり以前のことですし、「生」レポートがほしいところ。
きっと生徒さん方も知りたいのではないでしょうか?



根石さんの投稿で、生徒さんにどんどん磁場に交われとおっしゃってます。

>私は「磁場」の作用に無意識な人は駄目だと思っていますが、一方で、日本人はどんどん「英語磁場」に交わるのがいいと思っています。そうすっと、チョー・ドラスティックな場で身を切られるような思いをしますですわね。



経営が大変でお金がない、暇がない?

根石さんの言葉を引用します。

>「どうせ私にはできない」というような最初からあきらめたような気持ちを変えてもらいたいもんだと願っているんです。これ、蓋を開けてみると、すごく簡単なものが出てきます。「できない」んじゃなくて、「やらない」んだという簡単なものが。



【17725】

内田樹の言葉から3

  投稿者:馬の骨  投稿日:2011年 2月23日(水)10時54分35秒
  ●「私は『そんな仕事』のためにここにいるんじゃない」といって腕組みしているような人間は、どんな現場でも使い物にならない。どんな仕事をするのかは自分で決めるのではない。「これやって」というかたちで負託されるものである。

●若いときは「仕事ができる」ということに焦点化して若い人を評価する。個人の能力を見るのである。しかし、長く集団で仕事をしてくると、「個人の能力」というのは単品ではあまり意味がないということがわかってくる。

●私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。それが人間が人間的であるためのルールです。今に始まったことではありません。人類の黎明期に、人類の始祖が「人間性」を基礎づけたそのときに決められたルールです。

●経済成長が止まったらもうおしまいだとか、人口がこれ以上減ったらもうおしまいだとか、国際社会でこれ以上侮られたらもうおしまいだ、とか「もうおしまいだ」的なワーディングで危機を論じる人がいる。たいへんに多い。私はこういう語り口は危険だと思う。

●有権者の知性に信頼を寄せる政治の言葉が北アフリカにはあって、日本にはない。信頼というのは、ある種の実存的な賭けでしょう。ぞれができないのはメディアの知性の欠如というよりは覚悟の不足です。読者の知性を信じないで、メディアは誰に向かって何を語るのでしょう。

●「競争に勝つこと」よりも「生き残る」ことの方がたいせつだということを学び知るのが「成熟」の意味である。

●「俺がリスクを取る」と言った人がそのビジネスに関する決定権を持ち、リーダーになるのです。「リスクは負いたくない」といってリスクを取ることを忌避して、決定権を他人に譲った人間はレイバーを担当するしかありません。

●力の弱い人間が手軽な全能感や達成感を求めると、必ず破壊をめざすようになる。破壊は建設よりずっと容易だからである。

●正直言って、私は日本人がiPadを発明しなくても、YouTubeを発明しなくても、別に構わないし、それをとくに恥じる必要もないと思っている。それより、ふつうの人たちが等身大の自尊感情を持って暮らせる社会を確保することの方が先決ではないかと思うのである。

●「成り上がり貴族」は「自分より下の人間」を探すことに熱中する。「成り上がることを切望しながら、それを達成できなかった人々」こそは、彼らの「恥ずべき自画像」だからである。それから目を背けたい当のものだからである。

●親子や夫婦の関係のほんとうの価値は、「楽しい時代」にどれほどハッピーだったかではなく、「あまりぱっとしない時代」にどう支え合ったかに基づいて考量される。

●「オリジネイターに対する敬意」を持たない社会では、学術的にも芸術的にも、その語の厳密な意味における「イノベーション」は起こらない。

●教育というのは、「眠ってる子どもを起こす」ことではなく、「ぐるぐる走り回っている子どもの背中を軽く押して、ドアの外に押し出してやる」ことに近いのだろうと思う。

●日本社会で家族愛や隣人愛が根づかないのは、「利己心を棄てて支え合う」ことによって回避されるリスクと「利己的にふるまって、他人を蹴落とし/蹴落とされること」のもたらすベネフィットを比べたときに、後者の方が大であるとみなさんがご判断されているからである。

●辺境民は辺境民であることを否定しようとするわずかによけいなみぶりによって、おのれが辺境民であることを露呈する。辺境民は無反省的に辺境的であることによって辺境的であり、辺境的でなくなろうとじたばたするによって辺境的である。



【17726】

(無題)

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月23日(水)12時46分35秒
編集済
  >お願いがあります。Jなんて略語にせずに、jackieと書き直してください。

いやです。
これで、「相対」は最後です。


【17727】

Jackieさん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月23日(水)15時13分37秒
編集済
  jackieさんとはメールでのやりとりをすることもあるので、個人的にお伝えすればいいことなのかもしれませんが...

素読舎の語学論が正論であると認めてはいても、根石さんの個人攻撃にプライドを傷つけられたという理由で離れて行った方も多いのではないでしょうか。名指しで否定された方の中には、正しいか正しくないかより、ご自分の気分が良いか悪いかの方が優先してしまったという方もおられるかもしれませんよ。

また根石さんの個人攻撃は個人攻撃のようでいて、その個人に代表される同類の人々や組織への攻撃だということだと思います。こばたまさんの時のように。敢えて "J" と書かれたのは、そういう含みがあったように思います。

根石さんは語学論を離れれば、Jakieさんには個人的な恨みもつらみもないと思います。こと語学論に関しては相容れないということで、"J" と書かれているのかもしれません。

差し出がましいことでした。すみません。



【17728】

村田さん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月23日(水)17時19分37秒

  Tommyさんはちょうどクライストチャーチの語学学校に通っています。昨日心配で携帯電話にメールしたところ、電気も水道もだめな状態だそうですが、無事でいるとのことで安心しました。


【17729】

小川さん 

  投稿者:たけ  投稿日:2011年 2月23日(水)19時29分29秒
  横入りすみません。
私も昨日Tommyさんにメールをしましたが、返事が無いので心配していました。
携帯のメアドではなくPCのメアドしか知らないので、そちらに送りましたから、
電気が使えない様では見られないんですね。
でも、小川さんが村田さんに宛てた書き込みを拝見して安心しました。
ご無事だとのこと、よかったです。
ありがとうございました。


【17730】

語学論

  投稿者:I村  投稿日:2011年 2月23日(水)20時49分37秒
   以前から質問したいと考えていたことで、
「語学論ってそもそも何ですか」
というものがあります。この掲示板にはよくでる単語ではありますが、辞書には載っておりませんし、とはいえ何となくわかるような言葉ではありましたので、あえてお伺しなかったのですが。そうですか、「予防医学」のことだったのですか。

 私は、今までさぼっていた勉強、つまり、音とイメージを一致させる事を昨年あたりから始めました。しかし、実際にやってみるとこれが非常に困難で、回転読みのスピードを下げようが、切断読みをしようが,その都度私のイメージの中に日本語が押し寄せ、邪魔をするのです。私は、目をつぶり、眉間にしわをよせ、文字通り頭を抱えながらブツブツと音読をしていたのですが、私は職場の昼休みを利用して勉強するので、はたから見れば、完全にアブナイ人だったでしょう。今はだいぶ慣れましたが、実に大変な勉強でした。

 英語の磁場というものが、強制的に日本語を押さえ込む力があるとすれば、英語を学習する上で、この上ない力になるのは容易に想像できます。しかし、私が経験したように、母国語を押さえつけることは、非常に苦痛であり、それが24時間強制的に働くなどということは、私にはおそらく耐えられないかと思います。英語を習得する前に、対人恐怖症になるかノイローゼになるでしょうね。「予防医学」はメタファーじゃないかもしれません。

 もしかしたら、本場の磁場はもっとマイルドなのかもしれまんせんが、私には素読舎の方法が一番です。私の子供達にもすすめたいと考えております(まだ幼いので早くても数年先にはなりますが)。まあ、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすといいますから、子供に英語の磁場を経験させるという方法もあるかもしれませんが、私自身に耐えられないことを、自分の子供に強いるという覚悟は、私にはありません。
 


【17731】

たけさん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月23日(水)20時51分15秒
  ど真ん中ですから、ほんとに心配しました。とにかくご無事でよかったですね。


【17732】

小川さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月23日(水)21時49分20秒
  Tommyさんのこと、お知らせいただきありがとうございました。
ご無事とのことで、よかったです。


【17733】

小川さん

  投稿者:ミキ  投稿日:2011年 2月24日(木)06時21分33秒
  以前は冠詞の件でお世話になりありがとうございました。あれから自分でも勉強し直してみて、「今の所はこれで良し」という状態です。

過去ログなどを見ていて気がついたのですが(何故今まで気がつかなかったのか?)、磁器の上絵付けをやってらっしゃるのですね!私も絵付け師なんです。マヨリカ焼きなのでまた違うタイプの絵付けですが...。陶磁器関係のお話も出来たら嬉しいです。

過去ログを読み始めました。あんなに激しい掲示板だったとは...。もし私が初めてお邪魔した時もあれほど激しかったら、気後れして入舎出来なかったと思います。タイミングが良くて良かった。小川さんが始められた頃もそうだったんですか?母に「あなたは酷く冷たいことを言う事がある。」と言われた事があってからものの言い様に気を使って来た(つもり)なのですが、過去ログを見ていたら私なんて全然大丈夫みたいです。(この間の投稿で、根石さんに対して「おる」を使ってしまって、「謙譲語だ、間違えちゃった!」とちょっと焦ったくらいです。その後で辞典を見たら、最近は「いる」の尊敬語としても認証されている、とあったので、とりあえず良しとしましたが。)言葉の激しさにかなりビックリしてしまいました。

こんな事は語学論と全然関係ないので、大風呂敷に書く内容ではないとはわかっているのですが、(かといって、連絡事項でもないし)絵付けの事でビックリしたので書いてしまいました。すみません。
 


【17734】

ミキさん

  投稿者:小川(Naima です)  投稿日:2011年 2月24日(木)06時45分17秒
編集済
  私は絵付け師というほどのものではなくホビーペインターに毛が生えた程度ですが...

私がNaimaというハンドル名で始めた頃はもっと激しかったです。jackieさんは私の先輩です。私も、素読舎のことも根石さんのこともろくに知らずに、ずいぶん無礼なことを平気で書いてました。今読み返すと、冷や汗が出て穴があったら入りたいような気持ちになります。

大風呂敷は意外にも懐の深い掲示板ですよ。

あらためてどうぞよろしくお願いします。


【17735】

言葉の力

  投稿者:Jackie  投稿日:2011年 2月24日(木)12時30分15秒
編集済
  Naimaさん

>また根石さんの個人攻撃は個人攻撃のようでいて、その個人に代表される同類の人々や組織への攻撃だということだと思います。こばたまさんの時のように。敢えて "J" と書かれたのは、そういう含みがあったように思います。



そうでしょうか。

>>昼間、姨捨にフキノトウをとりにいった。Jのことを考えていた。あの分散しちらかった文章が、人間の壊れを示しているが、壊れに至った経路は明らかではない。


根石さんは昼間ふきのとうをとりにいったときJackieという固体を考えていたのでは_
そして私の文体が「人間の壊れを示している」つまり私が壊れているといっているのです。
ここまで断定される筋合いはありません。

実際に会うと根石さんは優しく穏やかでユーモラスな人だそうですが、大風呂敷の根石さんもまた根石さんそのものです。


Naimaさんも、私が壊れているとお考えですか?
掲示板のカウンターはかなりまわっています。しかし根石さんの私についての言葉に、どなたもなにもかかれないということは、皆さん根石さんと同じく私の人間の壊れを認識しているということですよね。

だったら、私は本当にこわれているのかもしれない・・悲しみと震えがおそってきて、壊れてしまいそうです。



>>「ポイント制」はレッスンそのものには何の実害もありません。
 しかし、「心理的な負担」があるとある生徒さんが言いました。
 「二人一枠」を維持しようとすると、私の側には「心理的な負担」だけでなく、実際的な負担があります。その両方をお前一人(根石)が抱え込んでいればいいのだということを言いたいのだろうかと疑わざるをえませんでした。
 一人6千円でか? やだよ。とは言わずに、これまで抱え込むことをやってはきたのです。自分で生徒に薦めたことなんだから仕方がない。



とある生徒さんが、」ポイント制チャージ性にたいしてもつ、「真理的な負担」を伝えただけなのに、

>、私の側には「心理的な負担」だけでなく、実際的な負担があります。その両方をお前一人(根石)が抱え込んでいればいいのだということを言いたいのだろうかと疑わざるをえませんでした。


と自分の生徒さんの心を憶測し疑う。
生徒さんはそんなことはいっていないのに、意見を伝えただけなのに、彎曲してとらえて、妄想もいいところです。こんなにかかれては、「掲示板に自由に書け」「生徒さんの声を引き出すと」掲示板に願っていますといわれても、
伝えたいこと思いを書くのも躊躇してしまうことでしょう。

>素読舎の語学論が正論であると認めてはいても、根石さんの個人攻撃にプライドを傷つけられたという理由で離れて行った方も多いのではないでしょうか。

プライドを傷つけられたから離れていった。ほんとうにそうなのでしょうか。
そこは去っていかれた皆さんにおききしないことには本当の理由はわかりません。
根石さんだけが正論なのですか?



根石さん、

>「もっとつなげる」という問題に関してですが、まったく的外れなことを言われたことがありました。ああ、わかってないんだな、やっぱり磁場帰りの人にはわからないんだなと思ったことがありました。それに対してはっきり指摘したのですが、吉さんはうやむやにしてしまいました。

ほら、また「磁場帰りの人にはわからないんだ」となんでも磁場に関連付ける。
わかってないのは根石さんのほうでしょう。

>「人格なんぞでつべこべ言われる筋合いはねえ。職人は仕事の質だ」と考える私のような者ではなく、小川さんのようにやたら喧嘩しない人が座長に必要だと思っています。

つべこべというのなら、根石さんが、ここで反論や意見を書く相手につべこべ言ってます。
、言われたみなさんこそ
「そこまで言われる筋合いはねえ」って思ってるはずです。
「自分は教育者ではない、職人だ。」と根石さん。
職人がみんな乱暴なものいいをすると思っていたら、大間違いです。家業仕事柄多くの職人さんを知っていますが弟子を育てようとする職人は
頑固ですが謙虚、自分のポリシーはもちつつ、かつ柔軟に、とつとつと、仕事の質に精進されてる方がおおいです。弟子を、叱咤することもありますが、暴言はしません。見守り、励まし、弟子を育もうとします。


>アメリカにやられ、英語にやられた人々。気をつけて、見てみるがいい。たくさんいるのだ。

>「語学論」とは何なのか。直喩ではなく暗喩で言う。語学論は予防医学だ。
>語学がどれほど危険な行為なのかということをほとんどの人はわかっていない。

>語学も「磁場」も恐ろしいものである。
 「予防医学」がなくて済むと思っているのは、気楽な迷妄に過ぎない。



ここにあるものは、育みではない。俺が唯一無二だ。正しいのだ、従えという姿勢。
以前にも書いたが、去っていったものにかならず、石をなげるような言葉を吐き、意見をいうものに、相手の性格をもあげつらう言葉を多数吐く、こんな言葉の磁場が、うずまく負の感情が、おそろしくなった。
ここに身をおくことこそ、危険な行為だ。

言葉は人の心をこわすことができる。

人間ですから、愚痴もあれば、非難もします。ええ、私もたくさんの嘆き愚痴をここで語ってきました。
しかし、否定語だけでは人は餓えます。よいところを励まし認め、時にほめる、言葉も発して、伝えねば、人は枯れてしまいます。それは忘れてはなりません。教えていたときにも、私はそれには気をつけてきたつもりです。


根石さんは「語学論」をかたるのに、その影響に無自覚だ。
降り注ぐ暴言の矢から身を守るには、去るしかない。


英語以前、種をもたせるだけだから安全だ?
素読以外は危険だ?


語学論のない英語はだめだ?
「英語」「語学論」「日本語」「ことば」以前の問題だ。

怨念の言葉が発する磁場に身をおく行為は、危険な行為だ。
この磁場が心身に与える影響は、恐ろしいものである。



やられる前に去らねばならない。

それがはっきりとわかった。



>馬の骨さんの投稿
>●「不快な入力」が多い環境にいると、人間は鈍感になる。鈍感になる以外に選択肢がないのだからしかたがない。けれども、それによって危機対応能力は劇的に劣化する。子どもは、できるだけ快適な感覚入力だけしかない、低刺激環境で育てる方がいい、というのは私の経験則である。




なにかが私を惹きつけて、長年ここに投稿し、何度か離れ、それでもROMし、また今回、PLAYBACKと投稿し、
今回本当にさよならすることにあいなりました。、


根石さん、コーチの村田さん、時を同じくして掲示板で語り合った小川さん、掲示板でご一緒した、している皆さん
お世話になりました。

ありがとうございました。


【17736】

磁場へ

  投稿者:Jackie  投稿日:2011年 2月24日(木)13時08分17秒
編集済
  根石さん、

>これで、「相対」は最後です。

最後に長年のよしみでひとつ相対してください、

英語Naitive磁場に10日でも一ヶ月でも渡ってください。
根石さんは、「語学論」をもち、しっかりと鍛錬されてるので、「磁場にやられる」ことはないはずです。
どうぞ、磁場にわたって、、自ら、素読の安全性と、英語素読の効果、磁場でおこった変化について、体現してください。
それは、みずからの正当性をあらわすことができるはず。塾長自らの体験は現在の生徒さんにとっても励みとなり、そして素読舎のなによりの宣伝にもなるでしょう。


それとも、「もう相対は最後といったはず、だから返答はしない」と

>本筋から外れた筋から言い返してくる。
>言うこととやることがまるでさかさまである。私はこの時から、Jの言うことなど何ひとつまともに聞く必要はないと思うようになった。私に謝るだけで済むことではない。『大風呂敷』上で主張を続けたのだから、Jは世間に向けて土下座して当然なのだ。


私の言うことはまともにきくことはない、本筋からはずれているからと、言い訳をし、返答せず、
また「磁場での実証」の相対をも避けますか?



I村さん、
せっかく、素読舎でつちかった、英語。
からっぽの電池をつくっているので、根石さん風にいうと、「磁場にやられてしまう」ことはないはずです。
師匠も
> 私は「磁場」の作用に無意識な人は駄目だと思っていますが、一方で、日本人はどんどん「英語磁場」に交わるのがいいと思っています。

とおっしゃっています。

>私がレッスンのよさを掲示板に書いていくという方法もあるので、そうした形で貢献したいと思っております。一

素読舎で培った力、磁場での体験を書くことで、素読舎発展に貢献できることでしょう。


【17737】

内田樹の言葉から4

  投稿者:馬の骨  投稿日:2011年 2月24日(木)17時53分10秒
  ●「成熟した公民」とは、端的に言えば、「不快な隣人の存在に耐えられる人間」のことである。自分と政治的意見が違い、経済的ポジションが違い、宗教が違い、言語が違い、価値観も美意識も違う隣人たちと、それでもにこやかに共生できるだけの度量をもつ人間のことである。

●その苦痛がどういう理由で私たちに与えられ、苦痛の量は私たちのどういう行動と相関しているのかがわからない場合、心的ストレスは耐えられる閾値を超える。

●これから日本が目指すべき目標は「質のよい後退戦」だと思います。年老いて、気力体力が失われてゆくことは個人にとっても別に不幸なことじゃない。それが自然の理なんですから。

●「決断」というのは私たちの前にまっさらな未来が開けているということではない。むしろ、私たちの過去のふるまいが清算されることなのである。


【17738】

Jackieさん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月24日(木)20時02分57秒
編集済

  >Naimaさんも、私が壊れているとお考えですか?

Jackieさんの問いかけに対する答えになっているかどうか、 はたまた、この投稿をご覧になるかどうか...

素読レッスンを受講され始めた頃だと思います。記憶が定かではないんですが、根石さんがJackieさんの音読をハイテンションであるというようなことを言われたことがあります。過去ログをさかのぼれば、どう表現されたのかわかるんですが、今はその時間の余裕がありません。

jackieさんはそれに対して、かなり感情的に反論されていたように思います。根石さんがそれを責めておられたようでもなく、なぜ「ハイテンションなのか」を検証してみようとされてたのではないかと思います。私にはJackieさんが過剰反応されたように見えたんです。それまではずっとユーモアや皮肉を交える余裕を見せながら、筋道をたてて冷静に書いておられたJackieさんだったんですが、これを境にして変わられたなぁという印象は持ちました。

>掲示板のカウンターはかなりまわっています。しかし根石さんの私についての言葉に、どなたもなにもかかれないということは、皆さん根石さんと同じく私の人間の壊れを認識しているということですよね。

コメントされないのは、関心がないのか、思惑があってのことなのか、少し考えを纏めてから後で投稿しようと思われているのか、いづれにせよ、Jackieさんや私の思うようにはならないことです。だから、ご自分の投稿に対して「誰も何も言ってくれない」と嘆いても甲斐のないことです。まして、みな黙っているのは根石さんと同じように思っているのだろうというのも考え過ぎです。少し落ち着いてください。

今回Jackieさんが久しぶりに大風呂敷に投稿されたのは、私の独りよがりかも知れませんが、私を援護射撃して下さる為だったと思っています。私一人で空回りしているように思われて、見るに見かねてのことだったと思います。感謝しています。

なのにそれが仇になったようで、私はなんというか、ただオロオロするばかりです。



【17739】

Jackieさん

  投稿者:I村  投稿日:2011年 2月24日(木)21時02分22秒
  >せっかく、素読舎でつちかった、英語。
>からっぽの電池をつくっているので、根石さん風にいうと、「磁場にやられてしまう」ことはないはずです。

激励の言葉ありがとうございます。そうですね。もう少し先になるかとは思いますが、磁場に挑戦したいとおもいます。実は、10年近く前、アメリカ旅行に行っているのです。4日程度の滞在だったのですが、言葉が全く伝わらないストレス、未だに鮮明に覚えております。今にして思えば、磁場にふれていたんだな、と。いつかリベンジしなくてはな、と考えていたところです。今度は磁場になんか負けませんよ!


ところで、ぜんぜん関係ないんですけど、ミスチルの「終わりなき旅」という曲が私は大好きで、レッスン直前にもよく聞いております。

『とざされたドアの向こうに新しい何かが待っていて きっときっとって僕を動かしてる
 いいことばかりでは無いさ でも次の扉をノックしたい
 もっと大きなはずの自分を探す終わりなき旅』

なんてぐっときますよね。なんとなく語学にも通じますし、私のしょうもない人生を励ましてくれているみたいで。


それで、なんといいますか、自分の思い通りにことが運ばなくてイライラするとか、すごく傷ついたりってことがあると思うんですよ。私は、決して強い人間ではないので、そういうときはすごく落ち込みます。でも、何日かたって、ちょっと冷静になって考えるようにしています。そういう経験って悪くない、と。だって、そういう辛い経験がないと、向上心と言いますか、何かに立ち向かうエネルギーが沸かないじゃないですか。実際、アメリカでの苦い経験が、私に素読舎のドアを叩かせたわけですし。まあ、私の精一杯の強がりなんですけど。

私、Jackieさんの激励がすごくうれしかったので、何か返事をしなくてはと思い、この文章を書きました。今読み返してみると、かなりエラソーな事を書いてしまった気がするのですが、ま、いっか、と考えこのまま投稿しちゃいます。私の気持ちが少しでも伝わって、ほんのちょっとでも元気をだしていただければいいのですが。


【17740】

Jackieさん

  投稿者:Naima  投稿日:2011年 2月24日(木)21時59分22秒
編集済
  今はもう大風呂敷には関わりたくないお気持ちでおられるのだろうと思いますが、またあの気っぷのいいJackie節で投稿される日が来る事を願っています。


【17741】

(無題)

  投稿者:ミキ  投稿日:2011年 2月24日(木)23時46分13秒
  無関心ではないので投稿します。

過去ログを読み出した所なので今までの経過はわかりませんが、最近の一連の記事から思った事は、「デモクラシー下では、発言権とその共同体に対する責任はペアであるべき。(結局は権利と義務。)ということです。ですから、こうして発言させていただくようになった私も、素読舎に対して出来る事はしていく責任があると思っています。今の所は口コミ宣伝くらいしか出来ませんが...。

北アフリカ関連の報道を見ていても思います。デモクラシーって何でしょうか?
 


【17742】

Jackieさん

  投稿者:Piggy  投稿日:2011年 2月25日(金)00時05分3秒
編集済
  2月15日に私はこういうことを書きました。

>途中で、現在の生徒ではないお二人、Jackieさんと気まぐれさんのご意見が読めたことも、とてもうれしいことでした。Jackieさんと気まぐれさんのご意見に背中を押されて、私は自分の不安(後ろめたく思うこと)について、根石さんにお話することができたと思っています。

直接Jackieさんにお礼を申し上げていなかったので、あらためて書きます。どうもありがとうございました。

私は規約に関するやりとりの時は、この不安については根石さんに申し上げることはしませんでしたが、それは言うのがこわかったからではなく、規約案の全体像がみえたところで、と思っていたからです。口幅ったいことを言うと、私が規約案のわからない点について質問を投げかけ、それを根石さんが読んで答えてくださることで、規約案がある程度形を成していくことを願っていました。それで個人としての不安については、その時点ではお話しするつもりはありませんでした。

でもだんだんと、どこでどういうふうに書くか、わからなくなってきていました。そんな時でしたので、お二人の書き込みが、私にはありがたかったのです。言葉にすることが読むひとに与える影響、というものも感じるきっかけの一つにもなりました。それでお礼を直接お伝えしたいと思いました。
 


【17743】

根石さん、村田さん、皆さん

  投稿者:Naima  投稿日:2011年 2月25日(金)08時55分52秒
編集済
  本名を晒しての私の投稿を話の種にされたりするようで、家族が嫌がっています。本名を晒そうがハンドル名を使おうが、私だってことはバレバレなんですが。私の名字なんぞありきたりなものなので、かえってハンドル名の方が私を特定しやすいですのにねぇ。

とはいえ本名で投稿するということは重要なことなので、正直なところ弱っています。

愚痴はこれくらいにして...

座長の件ですが、良く考えてみました。お引き受けすると毎日のように掲示板の管理をしなければならないと思います。3足のワラジを履いている私には到底時間のやりくりが出来そうにありません。気軽にお引き受けして中途半端なことになるのは目に見えていますので、辞退させて下さい。現にMixiの管理もままならない状態でいます。いづれお引き受けせねばならないことになると思いますが、今の状況ではとても無理です。どうかご理解下さい。


【17744】

Naimaさん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月25日(金)13時00分53秒
  mixiの方は、以前のように管理人村田、副管理人Naimaさんでお願いします。


【17745】

村田さん、根石さん

  投稿者:Naima  投稿日:2011年 2月25日(金)13時43分14秒
編集済
  村田さん、Mixiの件、了解しました。愚痴ったりしてご心配おかけしました。もうしわけありません。語学論はやはり本名で書かせて頂こうと思います。

3月からゴースト音読のクラスでお世話になります。村田さんとの自立練習ですが、しばらくは月曜日1:00〜1:45に14万行台ということでもかまいませんでしょうか。8万行台はTommyさんが帰国されてから、彼女のレッスン継続の都合も聞いてから時間調整をさせて頂きますので。


【17746】

「英語 愛憎の二百年」

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月25日(金)14時37分32秒
編集済
  この番組を見た方はおられますか。番組の最終回で鳥飼 玖美子氏が「今必要なのは闇雲にアメリカやイギリスの英語を模倣する事ではない。日本人らしい英語を使いこなして行く事だ」と言っています。

鳥飼氏といえば同時通訳の草分け的存在です。それこそ闇雲に英語の勉強していた頃の私のあこがれの女性でした。氏は番組最後に下記のように付け加えています。録画しておいたものをそのまま書き取りました。

「日本人は様々な試行錯誤を経ながら英語という外国語に取り組んで来ました。特に戦後は、欧米の最新言語理論あるいは最新外国語教授法などを取り入れながら、一生懸命やって来たんですけれども、果たしてそれがうまく言ったかどうかというと、はなはだ疑問のように思います。

そこにはやはり、日本語というこの言語を母語にしているということ、だから欧米の言語をそのまま直輸入しても必ずしも成功しなかったのではないか、そんな反省もあると思います。これからは私達が日本人の特性を生かしたような英語学習法、あるいは英語教授法を日本人自らが作り上げて行くべき、そんな時に来ているのではないでしょうか。

おりしも世界はグローバル世界になっています。英語はもはや単に英米人の言語ではありません。世界中の人が共通語として使う国際共通語なんですね。そうなるともはや英語というのアメリカ人の真似をする、アメリカ人をモデルにする、そんな時代は過ぎ去っています。もっと私たち自身が自分らしい英語を使いこなして世界各国の人と思いをぶつけ合う、意見を交換し合う、そんなように自由自在に使っていかなければならない、そんな時代に入っています。英語教育はこれから大きく変わらなければならないという風に思っています。」

古くて新しい学習法、素読。実は素読舎は時代を先取りしていたのではないでしょうか。素読舎が脚光をあびる時がもうそこまで来ていると思います。

皆さんはどうお考えでしょうか。



【17747】

西脇順三郎のことばから

  投稿者:馬の骨  投稿日:2011年 2月25日(金)21時53分12秒
  >詩は望みなき一つの宗教であってその殉教者のみが詩の永遠の真理を保証する。(ひとりで歩く猫)

いま、わたしは、この言葉のそとにいる。


【17748】

Jackieさん

  投稿者:江戸の母  投稿日:2011年 2月26日(土)00時42分19秒
  まだこの掲示板を見ておられることを祈りつつ。

根石さんとJackieさんの問題(交わされた時間とそれぞれが抱いた思いについても)に、
軽々しく口を出せないと緊張してしまっています。

でも、私からもお礼を述べさせてください。
掲示板で書き込んでくださってありがとうございます。
私も書く勇気がもてました。

時間が経って、お互いの疑問点をもう一度整理し、意見を交わしあえたらと、
期待しています。


【17749】

皆様

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月26日(土)00時47分48秒
   私は、『大風呂敷』の座長をやめたいと思います。
 皆さんで好きに使って下さい。
 


【17750】

Naima さん

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月26日(土)00時49分0秒
  新しい掲示板の座長を引き受けていただけなくて残念です。
私は、これからは後退戦に入りたいと思います。


【17751】

語学論について

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月26日(土)00時50分9秒
  今後、語学論はホームページの記事として書きます。
「お話」のレベルで書きたくありません。


【17752】

みなさん長文すみません。この書き込みの下に根石さんの言葉があります!

  投稿者:江戸の母  投稿日:2011年 2月26日(土)01時13分40秒
編集済
  果たしてどこから書けばよいのかわからなくなってしまいましたが、2月上旬の村田さん批判を展開させているあたりで、私は自分のことではないのに、気分が悪くなってしまい、レッスン中にも涙が出そうになったり、素読舎もやめようかとも考えました。でも、村田さん攻撃(?)は「単なる罵倒ではない」 「素読舎を引き継ぐ師匠から弟子への熱意なんだ」と思えるようになってきました。

かっこいい言葉でまとめてしまっているように見えるかもしれませんがこういう気持ちへ落ち着かせてくれたのは、Naimaさんでした。

「大風呂敷以外で、生徒さん達と素読舎のことを云々している方のが後ろめたいですから、公にしてくださってかまいませんよ。匿名でなくてもかまいません。ハンドル名のNaimaを使ってくだされば、いいです。」とご許可をいただいたいので ちょっと引用しますね。

私は塾生であり、塾を引き継ぐ師弟関係の強さを想像できなかったのかもしれません。もしかしたら、これを公開することでJakieさんはじめ、他の皆さんのお気持ちの中の不快感や違和感なども、一掃できれば(もうしてるよ〜という方もいるでしょうが)とも期待して、余計なことかもしれませんが。
*あくまでも私の個人的メールに返信していただいたものです。
 以下、「>」つき箇所はNaimaさん 無いのは江戸の母です。

> 根石さんの村田さん攻撃の件:村田さんはもう一杯いっぱいだったのかもしれませんね。今回私は村田さんの肩を持ちましたが、根石さんの怒りもわからないではありません。「分室長たる者が、片手間に語学をやってんじゃねぇよ」というお気持ちだったろうと思います。なんと言っても一番弟子ですから期待も大きいでしょうし。大風呂敷の根石さんの言葉だけを見ている者には、村田さんが一方的に責められているという状況ではありましたね。

根石さんはご自身のメソッドと理念にかなり自信があるので、「興味のある人は、自分から質問してくるはずだ」とお思いかとも思います。でも、あの掲示板は根石さんの脳みそそのもののようで、なかなか新参者には書きづらかったり、気持ちを表明しづらい場所かもしれません。

> 根石さんはあのままでいいと思います。孤高の人でいいんです。問題は村田さんやら吉さんやら私やらがどうとりなすかです。根石さんの難解なガチガチ語学論を、やさしいわかりやすい言葉で受講者の立場に立って広めていかないといけないと思っています。橋渡し役です。その為にもMixiをやろうかということになったんですが。

根石さんに抱いていた尊敬の気持ち崩れかけていて、
今の気持ちはもしかしたらその喪失感からかもしれません。

> ここ10年ほどの間、根石さんの舌鋒の鋭さに大風呂敷の常連さん達はほとんど皆離れて行きました。皆さん根石さんを信奉されていた方たちです。でも皆さん、離れてしまっても大風呂敷には注目されている方がほとんどだと思います。

>離れてしまわれた理由は、「根石さんにプライドを傷つけられた」というのが本当のところだと思います。プライドを傷つけられたので議論を止めてしまうって、いったいどういうことよ、と私は思っています。ご自分が正しいと思われるなら、徹底的に根石さんに食い下がらんかい、と。根石さんもそれを期待されているはずです。個人攻撃しているように見えますが、決してそうではありません。こばたまの件もそうです。

> 根石さんは尊敬に値する方です。「人格者」を思い描いている方たちはがっかりされることもあるでしょうが、裏も表もない晴耕雨読の好々爺です。

村田さんも語学論をかけないと決め付けてますが、本当にそうなのでしょうか。

>私も村田さんが語学論が書けない方だとは思いません。分室長として語学論を書けよ、という期待をこめてそうおっしゃったのかもしれません。

今までスカイプで話してきたり、2年前くらいの掲示板ではのびのびした発言をお見受けしています。 部下に書けるようにと場を作り、促すのが、上司の役目なのではないか?とも、生意気に思ってしまいます。

> 語学論についてだけ言えば、根石さんも村田さんも対等の立場だと思います。私も未熟ながらコーチ見習いとしての立場で自戒の念を込めて言いますが、語学論を書くのは村田さんの責任だと思います。塾長がお膳立てしてあげる必要はないと思っています。村田さんが一般の生徒さんならそれでいいと思うんですが、分室長として授業料を頂いている立場ですから。根石さんが怖くて書けないというなら、村田さんの根石さんに対する信頼関係が弱いってことではないでしょうか。語学論を書かないのは村田さんの怠慢だと言われても仕方ないと思います。

>生徒確保についてはいろいろ考えてみたいと思っています。また大風呂敷に書きますね。

以上です。
Naimaさん、ありがとうございました。
 


【17753】

どんぐり倶楽部

  投稿者:江戸の母  投稿日:2011年 2月26日(土)01時56分3秒
  過去ログをあさって、どんぐり倶楽部についてお話されていたあたりを読み返していました。以外に簡単に見つかりました。この時期を経験された方には、もう触れたくないと思われる方もいるかもしれません。すみません。私もゆっくり母さんに紹介されてどんぐり倶楽部の「良質の算数文章問題」というのを、週に1回のペースで子どもたちにやらせています。子どもたちの反応は食いついてくるので、面白いです。(ただ、なかなか答えにたどり着けませんが)

今回、疑問に思った点と発見したことがあるので、書かせてください。

わかるとは「言葉(文字)とイメージが一致した瞬間です。」 ここはお二人に共通のことですよね!!ほっほ〜〜と嬉しくなりました。

でも、「言葉」「イメージ」「繰り返し」のとらえ方の激しい違いがあることがわかりました。

音を聞いて、多様な「イメージ」の中からつかみ取るのが「言葉」と思いましたが、糸山氏には、「音」という概念が抜けているのかもしれないと思いました。

また、糸山氏には「言葉」はなくても「視覚イメージ」で思考を始めるというフレーズがありました。

「言葉を知らなくても「分かる=見える」のです。 」(原文ママ)

これは、最初に根石さんと共通していた「言葉(文字)とイメージが一致」と矛盾するのではないかと思いました。

どうなんでしょう?

それから、よく根石さんが「いいながら、書きながら、思う」と言ってますが、これが今回過去ログを読むうちに、あっと頭の中にひらめきました。

ピッコロさんが「どうしたら英語をしゃべれるようになるのか?」という問いに答えた根石さんの文章を転載します。

>ピッコロさんが今どんどんやるべきことは、「言いながら書きながら思う」です。単語単位でも、語句単位でもいいから、それをやることです。その時に、瞬発力を作るつもりでやるのが大事です。 「言いながら書きながら思う」の言いながらは、音を扱います。「書きながら」は、文字を扱います。「思う」はイメージを扱います。

磁場にいれば、実際に身辺におこった出来事を通じて
言葉とイメージがその環境において結びついていくけれど
磁場以外ではそれが起きないから、強引に自分で言葉にイメージを
付与していくんだと思いました。

これはもしかしたら著作に書かれておられて、何をいまさらと笑われるかもしれませんが、
改めて、磁場以外で勉強する方法としては、これしか無いのではないか?と思いました。

そして、「瞬発力」ですが、私はヒヤリングをしていて、一瞬聞き取れた音に「お、聞けた」と感動する→「その意味を理解する」に時間がかかり、次の言葉を聞き取ることができません。速度が追いついていないのですね。

「言葉」(音・文字)と「イメージ」を結びつける作業は、自分がやらなくていけないんだなと思いました。

今日たまたま読んだ小学生から高校生までの「読書感想画コンクール」という新聞の記事で「本を読んだ感動を言葉で表せないけど、絵で表せるかもしれない」という言葉も、いまだ考えさせられ中です。

どんぐり倶楽部を全否定するわけではありませんが、これだけ人気の教室ですし、「視考力」という造語について、私なりに理解を深めたいなと思いました。皆さんのご意見を聞かせていただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。


【17754】

小川さん

  投稿者:江戸の母  投稿日:2011年 2月26日(土)01時59分40秒
編集済
  「英語 愛憎の二百年」

鵜飼さんは「日本人の特性を生かしたような英語学習法、あるいは英語教授法」をどのようにお考えなのでしょうね。手紙を書いてみたくなりました。また、ツイッターで発言したら、鵜飼さんとつながれるのかなとも考えましたが、私はつぶやき方すらわからないのですが・・・


【17755】

もうどうでもいい事なのかもしれませんが...。

  投稿者:ミキ  投稿日:2011年 2月26日(土)05時31分36秒
  うちの工房の隅に掲げてある文章です。英語版も探したのですが見つからないのでイタリア語版と私の駄訳ですが。

Platone  < La Repubblica >

Quando un popolo, divorato dalla sete della libertà, si trova ad avere a capo dei coppieri che gliene versano quanta ne vuole, fino ad ubriacarlo, accade allora che, se i governanti resistono alle richieste dei sempre più esigenti sudditi, son dichiarati tiranni. E avviene pure che chi si dimostra disciplinato nei confronti dei superiori è definito un uomo senza carattere, servo; che il padre impaurito finisce per trattare il figlio come suo pari, e non è più rispettato, che il maestro non osa rimproverare gli scolari e costoro si fanno beffe di lui, che i giovani pretendono gli stessi diritti, la stessa considerazione dei vecchi, e questi, per non parer troppo severi, danno ragione ai giovani. In questo clima di libertà, nel nome della medesima, non vi è più riguardo né rispetto per nessuno.In mezzo a tanta licenza nasce e si sviluppa una mala pianta: LA TIRANNIA.

(自由への飢えに喘ぐ人民の前に、その自由を酔うほどに浴びせ注ぐものが現れた時、もし統治者がその民の限りなく加速する要求に抵抗するとすれば彼は「暴君」と呼ばれる。そしてその時、長上に礼儀を示すものがいるとすれば彼は「意気地なし」「奴隷」と呼ばれる。奴隷:怯える父は息子を己と同格に扱い、もはや尊敬されず、師は弟子を叱咤する事をあきらめ、弟子達は師を嘲笑する。若輩者は年輩者と同じ権利と敬意を要求し、老人は過酷に思われたくないが為に若者を容認する。この開放感の中では、「自由」という名の下に、もはや何者に対する配慮、いたわりもない。数多くの「権利」のなかに病んだ芽が吹き、蔓延る:暴虐である。)


Jackieさんはもう生徒ではないとは言え、目下の者からの者の言いようとしては、読んでいる私には少々違和感がありました。師弟関係の強い、狭い世界にいる私の感覚のほうがずれているのかもしれませんが。でも、根石さんが引かれてしまった今、もう蒸し返す事ではないかも知れません。すみません。


【17756】

小川さん

  投稿者:ミキ  投稿日:2011年 2月26日(土)05時35分30秒
  鵜飼さんの記事、口コミの宣伝をするのに使わせていただいて良いですか?記事の内容のみです。小川さんのお名前は出しません。  


【17757】

鳥飼 玖美子 さん

  投稿者:I村  投稿日:2011年 2月26日(土)07時41分43秒
  恥を忍んでいいますと、初めて聞くお名前でした。
NHKテレビテキストで「英語 愛憎の二百年」が売られているようなので、読んでみたいと思います。


【17758】

江戸の母さん 小川さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月26日(土)15時37分57秒
編集済
   江戸の母さんと小川さんのメールのやりとりの中の2月上旬の根石さんからわたしへの「攻撃」のことですが、根石さんは本気でわたしを切ろうとしていたと思います。でも、それは掲示板での「攻撃」の時期ではなくて、それよりも前のことだとわたしは思っています。(最初に書いておきますが、わたしもただの「攻撃」とは思っていません)
 根石さんがわたしを切ろうとしていた(だろう)頃、わたしは、根石さんとわたしの空手の先生、Hさんと話をしていました。わたしがmixiの日記で「言葉」についてなぐり書きしたのをHさんは読んでくれていて、話しかけてくれたのでした。話の中でわたしは、根石さんは近すぎて、うまく距離が取れない、と言ったと思います。Hさんはわたしに、「書くことでつきあっていくことを考えてみなさい。」「結論にいたってから書き始めてはただの説明になってしまう。書きながら考えることをしてみなさい。」と言われました。Hさんは、根石さんとわたしがどんな話をしているかは知りません。けれども、根石さんが文章についてわたしにいつも言っていたことと同じことを言われたように思いました。その言葉はすっと腑に落ちたような気がしました。しかしその数日後、根石さんとわたしの関係は悪化してしまいました。
 Hさんの空手教室は、冬の間は、空手ではなく、登山をしています。わたしがHさんと二人で話した翌週は、根石さんとわたしの関係のこじれはすでに表面化していて、わたしは素読舎をやめると言った後だったので、わたしは登山を休みました。Hさんは根石さんとわたしの関係がこじれていることは知りませんでした。登山の帰り道、根石さんがHさんに事情を話した際、Hさんは、村田は変わろうとあがいているようだと、ひとこと言ったそうです。
 その数日後、やめる前提で根石さんと奥さんとわたしとで話し合いを持つ予定でした。話し合いの当日、根石さんから電話があり、自分がその場にいると村田君は何もしゃべれなくなってしまうから、自分は席をはずすので、Hさんと根石さんの奥さんと村田君で話をしてみてくれ、と言われました。実際、わたしはその時期、身体がおかしくなっていて、まともにしゃべれず、まともに判断できない状態でした。しかし、その根石さんのことばで胸が熱くなりました。根石さんは、Hさんから聞いたひとことに、かすかなつながりを見てくれたのだと思いました。逆に言えば、Hさんのひとことがなかったら、つながりがなくなっていたのだと思います。
 わたしはいつの間にか、根石さんと普通にしゃべれなくなっていました。根石さんからすれば、何を考えているかわからないとしか見えない。しゃべらない、書かない自分が、根石さんをいらだたせたのは当然かもしれません。
 江戸の母さんの言う「攻撃」は、ほんとにきつくて、最初は何も考えられなくて、文字なんか全然頭に入ってきませんでした。でも、何回か読んでいると、決して「攻撃」だけではないことがわかってきました。「しっかりしろ」と言っているんだと思うようになりました。はためから見ると、きっとよくわかるのかもしれませんが、当人は、なかなか気づきません。しかし、もしも自分が逆の立場であったらと考えると、はたしてわたしはあそこまでエネルギーを使えるのだろうかと思うのです。

 小川さんが

> 語学論についてだけ言えば、根石さんも村田さんも対等の立場だと思います。私も未熟ながらコーチ見習いとしての立場で自戒の念を込めて言いますが、語学論を書くのは村田さんの責任だと思います。塾長がお膳立てしてあげる必要はないと思っています。村田さんが一般の生徒さんならそれでいいと思うんですが、分室長として授業料を頂いている立場ですから。根石さんが怖くて書けないというなら、村田さんの根石さんに対する信頼関係が弱いってことではないでしょうか。語学論を書かないのは村田さんの怠慢だと言われても仕方ないと思います。

と書かれているのは、わたしもその通りだと思います。お膳立ては、実はされているのでした。「なぜ書かないのか」「生徒がまともな文章を書いているのにコーチが書けないなんて恥ずかしくないのか」。
 わたしは語学論が書けないのか。今の時点ではまともに書けません。今まで、最高にうまく書けたと思えた文章も、自分の感覚・体験の域を出ていないと根石さんに言われてきました。「論」は個人を超えて普遍でなければならない。でも、最初から「論」が書けるわけでもない。「論」が書けるようになるために、自分ができることからやっていきます。


【17759】

小川さん I村さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月26日(土)15時52分28秒
編集済
  「英語 愛憎の二百年」

第四回の最後の数分間だけ録画してあったのを見ました。
ちょうどNaimaさんの引用されたあたりです。

>「日本人は様々な試行錯誤を経ながら英語という外国語に取り組んで来ました。特に戦後は、欧米の最新言語理論あるいは最新外国語教授法などを取り入れながら、一生懸命やって来たんですけれども、果たしてそれがうまく言ったかどうかというと、はなはだ疑問のように思います。

>そこにはやはり、日本語というこの言語を母語にしているということ、だから欧米の言語をそのまま直輸入しても必ずしも成功しなかったのではないか、そんな反省もあると思います。これからは私達が日本人の特性を生かしたような英語学習法、あるいは英語教授法を日本人自らが作り上げて行くべき、そんな時に来ているのではないでしょうか。

根石さんがずっと言ってきたことと同じだと思いました。
自分のことばで考え、実践していかんとだめだとも思いました。

I村さん
テキスト出ているんですね。わたしも入手します。


【17760】

(無題)

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月27日(日)00時21分19秒
   さて、座長はやめたが、それで何が変わるのだろうと一日考えた。常連の一人として書く必要のあることはこれからも書くことになるだろうが、とにかく座長めいたことはもうしたくないということである。
 私に向けて書かれたものがあれば、それにお返事は書かなければならない。しかし、それもなるべく最小限にさせてもらいたいと思っている。できれば、『大風呂敷』とは、週に1回程度のおつきあいでやらせてもらいたいと思う。
 過去ログを読んでもらえば済むようなことにいちいちお返事していると、本当に仕事にならないのである。過去ログを読めと言ったって、あんな整理されてもいないものは読めないという苦情があったとしたら、それはきわめて当然の苦情だが、文句は村田君に言ってもらいたいと思う。村田君による過去ログ整理の放置がもたらした損害は決して小さなものではない。

 6年も7年も前から、過去ログの整理が必要だと、村田君に何度言ったかわからない。そのたびに村田君は「やります」といい、そのたびにやらなかった。精神に異常をきたしたのは、村田君より私が先だったと思っている。何度も何度も裏切られた場合、人によっていろいろな対応をするだろうと思う。私の場合は、激怒になり、ぶちきれたのである。きわめて普通の反応の一つではないのか。
 この馬鹿、娑婆にさらしてやらあと思ったのだ。こんなことが通用すると思って生きているのか。こんなもの、ひっくり返してやらあと思ったのだ。ランボーが書いていたが、「いざとなれば、往来に出てわめきちらしてやる」なのである。

 「やります」と言われれば、やるんだと信じて何か悪いですかね。
 太宰治は「惚れたが悪いか」と書きましたが、私は「信じたが悪いか」と言いたい。
 信頼というものを壊したのは、村田君だと私は思っている。違いますかね。村田君は信頼が弱いのではなく、自分で「壊した」のです。


【17761】

これからの生徒さんに対するお願い

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月27日(日)00時40分4秒
  レッスンが始まったら、なるべく1ヶ月以内のレッスンの様子、3ヶ月目くらいの様子、1年後くらいの様子を録音していただくことをお願いしたいと思います。3年後くらいに、その録音ファイルを私にプレゼントして下さい。

今日、I村さんがレッスン開始後、一ヶ月のものと一年後のものを音声ファイルにしてプレゼントして下さいました。久しぶりのうれしいことでした。

これからの生徒さんには、録音をお願いしたいと思っています。
本名は出しませんので、レッスンの様子を公開させていただきたい。
素読舎が言っている「生徒の繰り返しにつきあう」ということが、何をどう変えるのかは、それらの音声ファイルを公開することで、はっきりするはずです。


【17762】

村田君

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月27日(日)00時55分22秒
  >しゃべらない、書かない自分が、根石さんをいらだたせたのは当然かもしれません。

 「かもしれません」じゃねえっての。
 いらだったのは、俺だけじゃねえんだ。
 俺は村田君と密通する気はねえですから、言いたいことがあれば、浜田さんが言うように書けばいいんだ。

 結論が先にあるような頭だったら、頭が悪いのだと思う。
 「一流高校出」で、大学出の、そこが駄目なところだというのは浜田さんの言葉です。

 


【17763】

規約に関して

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月27日(日)01時02分13秒
   ずっと考えていますが、今日、「無料過程」を使うつもりがあるかないかを、生徒さん一人一人に聞けばいいんだと思いました。
 なんだ。「二人一枠」を希望するかどうかを聞くのと同じように、「無料過程」を使うつもりがあるかどうかを聞けばいいのだ。
 「無料過程」を希望するんなら、ポイントは公開させてもらうということを条件にすればそれで片づくんじゃないのか。
 「無料過程」を希望しない、あるいは、判断を保留するという場合は、ポイント数を公開しなければいいのだ。

 それだけのことではないか。


【17764】

皆様

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月27日(日)01時07分14秒
  「こんなところ」に語学論を書こうとするから、自分で座長のつもりになっていたんだということに気づきました。
私が座長をやろうがやるまいが、『大風呂敷』は建材であり、顕在であり、健在です。

語学論だけ書かなければいいのだとわかりました。

語学論は他でやります。

村田君へ。
この掲示板のサブタイトルの「がちがちの語学論」を外して下さい。
これがこれまで、この掲示板を初めて読む人のための目印だったのですが、もう私はここでやる気がありません。

生徒さんが「がちがち」のものをやる気があるのなら、外さないでおいてもらっても結構です。それは皆さんでお話して決めて下さい。


【17765】

すでに遅いのですが

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月27日(日)01時13分4秒
編集済
  jackieさんはもう読んでないかもしれませんが、自分に対しての落とし前として書きます。


> マムシ、蜂、危険の中を歩くことを読んで、「ひとりであること」の感覚がよみがえり、「かろうじて今ある」感覚がよみがえるが、それが鬼への道
>を歩くとは限らない。それが命への道を歩くこともありうるだろう。例えば、四国八十八ヶ所遍路は、鬼への道を歩きかねないものを、命への道を歩く
>こととして「かたどる」。それは一つの文化装置である。
>
> 同じく文化装置として、アメリカはどうなのか、英語はどうなのか、そして、語学はどうなのか。

根石さんが「J」さんに書かれたことは、わたしにもあてはまることだと思っています。

jackieさんは、根石さんに対して一度でもいいから「磁場」に身をさらしてください、と書いています。
きっとjackieさんは、「磁場」において、きつい体験をしたのだと思います。「磁場」体験をしたことがないわたしには、推測することしかできませんが。
ただ、根石さんはロンドン留学という形で、「磁場」を体験しています。たとえ、旅人としてでも。
jackieさんが「磁場」体験について身にしみていることは、根石さんも「『磁場』でしか得られないものがある」と、認めています。
その上で、根石さんは「磁場」を相対化しています。jackieさんは「磁場」が至上のものと思っていませんか?

根石さんは、jackieさんが広島大学の柳瀬さんの掲示板になぐりこみに行ったことなどから、わたしなんかよりずっとjackieさんのことをかっていたと思います。

2月の上旬、わたしが素読舎をやめるかもしれなかった時のjackieさんの書き込み「プレイバック」以後については、その時おかしくなっていたわたしもちょっとおかしいと思っていました。
>「芽を出させてはならない。種のままにしておかなければいけない。生きた種のまま持たせなければいけない。
> これでわからなければ、素読のことなど何もわかっていないのと同じである。Jは、素読舎が、小学3年にまでレッスンの受け入れ年齢を下げようとしたとき、「世間一般の小学生英語」と素読舎を同一視し、「小学3年生に英語をやらせるべきではない」と『大風呂敷』上で主張し続けた。それで、後になってわかったことだが、Jは自分では親類の小学3年生だか4年生の子供に英語をやらせて「先生」をやっていたのだった。

まずjackieさんはこのことの落とし前をつけてから話すべきだったと思います。
また、規約についても、ちゃんと読めていないんじゃないかと思いました。わたしは、外野だと感じました。
そのことを、わたしがちゃんと言わなかったから、根石さんに引かせるような発言をさせてしまった。
これはすでに実害として出ています。

「大風呂敷」は、無主の掲示板になってしまいました。
根石さんは、座長のいなくなった掲示板など、やがて朽ち果てていくだけだ、と言います。
わたしは根石さんのような書き方はできないけれど、この掲示板が続くようにしたいと思います。


【17766】

根石さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月27日(日)01時19分9秒
  > 信頼というものを壊したのは、村田君だと私は思っている。違いますかね。村田君は信頼が弱いのではなく、自分で「壊した」のです。

その通りだと思います。
過去ログの整理をやってしまうことは、信頼回復のための一歩だと思っています。


【17767】

村田君

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月27日(日)01時27分52秒
  >たとえ、旅人としてでも。

あんたは、だんまりを決め込むかと思えば、余計な一言も書くねえ。
まあ、なんにも隠すことじゃないけどさ。

やっと書けたじゃねえか。


【17768】

「がちがちの語学論」について

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月27日(日)01時55分44秒
  わたしは語学論を書けるようになりたいです。いつかは、根石さんレベルのことを書けるようになりたい。「がちがちの語学論」をはずすのは、くやしい。今まで書いてこないでこう言うのもおかしいですが。

みなさんの意見を聞きたいです。

小川さんはどう思いますか?


【17769】

根石さん、村田さん、皆さん

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月27日(日)02時04分58秒
編集済
  根石さんという後ろ盾がなくなってしまっても、村田さんや小川や生徒さん達でいっぱしの語学論を書けるようになりたいですね。「がちがち」を外されるのは私も悔しいですわ。この機会をいいきっかけにしましょう。

災い転じて福!

根石さん、まあ見ていて下さい。


ミキさん、

鳥飼氏の言葉なので、私の使用許可をとられる必要はないですよ。どうぞ。



【17770】

報告

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月27日(日)02時29分16秒
  火曜日に、戸倉分室の塾生が「ABCD」の1000まで終了しました。
現在小学6年生で、約2年と少しかかりました。早いペースだと思います。分室の人数が少ないというのも理由のひとつだと思いますが、好きなだけやっていいよ、と私が言ったのに応えて練習したのが大きいと思います。時々、泣きながら練習していました。でも練習をやめようとしなかった彼は、えらいです。塾生には教えられることがあります。
現在、ABCDの後の

------------------------------------------------------
★ 以下「ゴースト解析」までおよそ高校2年までのレベル(ジャンプ可)
------------------------------------------------------
How long are you staying in the US?

と続く部分をやっています。
 


【17771】

根石さん 村田さん

  投稿者:ももこ  投稿日:2011年 2月27日(日)02時53分41秒
編集済
  根石さん

・音声ファイルについて
ひとまず、現在のものを録音しようと思っております。半年くらいです。
ぜひご協力したいと思います。どのようなものがよろしいでしょうか?

娘と自主練習しているところでしょうか?
娘一人でpre abcdを読んでいるところでしょうか?
それともレッスン音声でしょうか?

ご意見を伺えるとうれしいです。

レッスンの公開に関しても娘に関してははかまいません(お相手の方にもよりますが・・・)

・規約に関して
無料過程について、「希望する/しない/わからない」で最初に分けてしまえばスッキリしていいなと思いました。

おそらくレッスンが進むまでは「わからない」になる方が多いとは思いますが、それは今レッスンをなさっている方の大半がその時点にいらっしゃるからで、時がたてば(レッスンが進めば)「希望する」になるんじゃないかと感じています。

無料過程に進む前に有料過程卒業とするために(?)音声を録音されるのもいいかなぁって思いました。


・語学論に関して
以前素読舎に遊びに行った際に私がインタビューして根石さんがお答えになる形で語学論を語っていただくという企画。いつか出来たらいいなぁって今でも思っています。
もし、良かったらご検討いただけるとうれしいです。

村田さん
・サブタイトル「がちがちの語学論」について
そうですね。村田さん・小川さんの語学論拝見したいです。
でもしばらくはみんなで「『がちがちの語学論』を目指す」もよかったりして。なんて思いました。(冗談です。)


【17772】

内田樹の言葉から5

  投稿者:馬の骨  投稿日:2011年 2月27日(日)03時45分43秒
  ●自分の固有名を付した意見をもつものだけが、情理を尽くして語る。それは彼が語るのを止めたら誰も彼に代わって語ってくれない言葉だからだ。人々が耳を塞いでしまったら、もう二度と誰にも聞き届けられるチャンスのない言葉だからだ。

●『生き終えた自分』という仮想消失点をリアルに想像し、そこから逆算して現在を見ることのできる人間の目にはすべてのものが移ろいやすく、儚く、そしてかけがえのないものに映る

●私は政治家たちに「社会をよくしてほしい」とは要求しない。「これ以上悪くしないでほしい」と願うだけである。それが果たせれば統治者として歴史に残るほどに十分な功績だと私は思う。

●自分がなぜ学ばなければならないのか、その理由がうっすらとはわかるが完全にはわからないという「グレーゾーン」に子どもを置くのが学校教育の目的である。そうすると、どういうわけだか知らないけれど、子どもの学力は向上することが経験的に知られているからである。

●弟子は、師は私の知らないことを知っているはずだと想定したことによって、何か(しばしば師が教えていないことを)学んでしまいます。そして、何ごとかを学び得た後になってはじめて、その学習を可能にした師の偉大さを思い知るのです。

●すべての人がそれぞれの現場で、ちょっとずつオーバーアチーブする。それによって、社会システム全体の質が少しだけ向上して、僕たちは生活の全局面でそのささやかな成果を享受することができる。そういう意味では、僕たちはすでに贈与と返礼のサイクルのうちに巻き込まれているのです。

●国家は私的幻想にすぎない。しかし、これをあたかも公道であるかのように見立てることが私たちが生き延びるためには必要だ。

●「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。

●「敬する」というのは、別に「自分より力のあるもの」に「何かよいもの」を贈ることではない。自分が傷つかないために「身をよじらせて」攻撃を避けることだ。そのためには、自分より力のある相手とは決して、直接向き合わないことが必要だ。

●服喪儀礼とは、死者に対して礼を尽くすことが目的ではない。死者に対して礼を尽くすことを通じて、「存在しないもの」とかかわる術を学び、人間性を基礎づけることが目的なのである。

●自分の本性であるとか、自分の能力であるとかいうものは自己評価するものではなく、「まわりが決めてくれること」なのであるから、それに任せておけばよろしい。

●自分の潜在的可能性の「限界を超える」ためには、自分の可能性には「限界がある」ということを知らなくてはいけません。それは愛情と同じです。

●私たちは今あまりに安全な社会に住んでいるために、親族が「生き延びるためのセーフティネット」であるという原事実を忘れている。けれども私たちの「安全」はそれほ●ど確かなものではない。

●私たちの生きている時代は「自分を愛すること」がきわめて困難な時代である。自分を愛することができない人間が「自分を愛するように隣人を愛する」ことができるであろうか。私は懐疑的である。


【17773】

根石さん 村田さん

  投稿者:江戸の母  投稿日:2011年 2月27日(日)07時08分4秒
編集済
  村田さん
書くこととしゃべることは違うかもしれませんが、自立レッスン後雑談のとき「語学論といわれてもわかんないんです」というピッコロさんに対し、ピッコロさんのぽろっと言った言葉に「そんなことなんだよ。語学論って」と村田さんが指摘されたのを覚えています。それがなんだったか思い出せず、もやもや中です。たぶん、3人とも覚えていないと思いますが・・・雑談を録音しておけばよかったです。大事なことは雑談に隠れていたりしますよね。

ももこさん
「そうそうそういうことだよ」というレベルでいいから、お話を展開できたらいいですよね。

根石さん
録音の件ですが、明日が息子の相棒のCちゃんの最後のレッスンになります。録音がそちらで可能でしたらお願いします。私のほうでは、パソコンを通すと雑音が入るので、カセットデッキででしたら可能です。

ちなみに、私の習い始めの録音(カセットテープ)もあるので、提供いたします。
テープの音を音声ファイルにしてお渡しできるかどうか挑戦してみます。


【17774】

レッスンの録音

  投稿者:I村  投稿日:2011年 2月27日(日)09時05分46秒
  レッスンの録音は学習用にも最適です。

レッスン中に根石さん(コーチ)が発音したところを繰り返し聞けば、自分だけの音声教材となります。

レッスンの復習のためにも、録音はお勧めです。


【17775】

村田さん

  投稿者:Jackie  投稿日:2011年 2月27日(日)09時55分31秒
編集済
  村田さん、誤解は嫌だったのでひとこと、

>jackieさんは「磁場」が至上のものと思っていませんか?

思ってません。だから長年ここで書いてきました。
過去ここで私がかいてきたことをよんでもらえばわかるはずです。


今回根石さんに磁場渡りについて書いたのは、
根石さんには、遠い過去の磁場で体験したことではなく、それからその後培った、空っぽの電池がどうなるかを、現在の体験として語ることは、みずからの理論を証明することにもなり、また生徒さんにも
参考になるだろうと重い書いたことです。

規約に関しては、これから、入門しようとしている生徒さんにややこしく映るだろう、
また、現生徒さんの中でも、ポイント制に躊躇しているという、空気を感じて投稿したものです。

村田さんが素読者を去る?
そしてなによりもちょっとまってよ・・とかきはじめたPlaybackの記事でした。


皆様へ、
お励ましありがとうございました。

しっかし、どなたも
>Jの人間の壊れを示しているが、

については、意見反論をおっしゃってくださらなかったことが、学校クラスなどでもある、
傍観的賛同と同じことに感じました。

Mikiさん、
掲示板では、
目上目下とは関係なく、上下関係?・・?も関係なく書いてきました。
その言葉遣いに厳しいみきさん、言葉がひとの心を殺すこともある・・ということをお考えになったことはないのでしょうか?



【17776】

反芻

  投稿者:小川  投稿日:2011年 2月27日(日)11時15分1秒
編集済
  馬の骨さん

●弟子は、師は私の知らないことを知っているはずだと想定したことによって、何か(しばしば師が教えていないことを)学んでしまいます。そして、何ごとかを学び得た後になってはじめて、その学習を可能にした師の偉大さを思い知るのです。

弟子道を行く 


【17777】

Jakieさん

  投稿者:Naima  投稿日:2011年 2月27日(日)12時42分23秒
編集済
  ミキさんの肩をもつことになってしまいますが...

>掲示板では、目上目下とは関係なく、上下関係?・・?も関係なく書いてきました。

最近のJackieさんは、歯に衣を着せずに意見を言うことと、礼儀をわきまえない言い方とを履き違えておられたように思います。それが根石さんの怒りに火をつけることになり、こじれにこじれてしまったように思います。あの時、私はJackieさんにミキさんと同じようなことを言ったと記憶しています。

以前のJackieさんのご投稿は、やんちゃではあったけれど気風がよくて好感が持てるものでした。堂々と真正面からぶつかって行かれましたし。あの愛すべきJackieさんはどこへ行っちゃったんですか。

>しっかし、どなたも
>Jの人間の壊れを示しているが、については、意見反論をおっしゃってくださらなかったことが、学校クラスなどでもある、傍観的賛同と同じことに感じました。

私はコメントしましたが、それについては何も言って下さらないんですか?

ともあれ大風呂敷を見ていて下さってよかったです。少し感情の高ぶりが落ち着いたら、どうかどうか、また昔のようなJackie節で英語学習について語って下さい。



【17778】

Jackieさん

  投稿者:ミキ  投稿日:2011年 2月27日(日)18時04分20秒
編集済
  そうですね。言葉の力で傷つける、殺す、という事もあると思います。

しかし、今回の件(規約についてのやり取りに始まる一件)については、Jackieさんの無防備な暴走エネルギーが根石さんに反射してそのまま跳ね返って来た、というようにしかとれません。Jackieさんの素読舎に対する思いも理解出来ますが、規約に関しては今素読舎に実際に関わっている人達が、「あーでもない、こーでもない」と苦心している最中でしたから、あの口調ですと「全く関係の無いヤツに横槍を入れられた」としか捉えられてもらえないのは仕方のない事かと思います。
実際根石さんは、規約に関して採用出来ない様な提案や反対意見が出たときも、Piggyさん、ももこさんを始め他の方には、採用出来ない事を伝えつつもお礼は伝えられているのですし...。

世の中にはJackieさんのように、誰に対しても無防備、OPENである事が人としての魅力になり、ゆえに可愛がられるという方がいるとおもいます。素晴らしい事だと思います。ただ、その魅力の使い方はコントロールされるべきかと思います。

私は素読舎でお世話になっていますが、根石さんとの接点は「書かれたものを読む」という形でしかありません。根石さんのPRACTICEだけでなくTHEORYを学びたいと思うものにとっては、今回の件で根石さんの掲示板への参加が減るのは大きな痛手です。

また、私も職人ですが、上下関係を保つのはマイナスな面ばかりではありません。目上のものに対して言いたい事、言い返したい事、理不尽だと思う事があっても、ぐっと飲み込んで自分の中で反芻してみる事で新しい発見があり、自分が成長出来るからです。(そして、私の経験では、その時は理不尽だと思っても、よく考えてみると本当に理不尽な事は実際にはそんなに多くないものです。原因は自分がつくったのだった、という場合がほとんどです。)

生意気な事ばかりですみません。今、少しずつ過去ログを読んでいる所ですが、Jackieさんの記事で私の興味を引くものは幾つもあります。いつか少しずつお話し出来る機会があれば嬉しいと思います。


【17779】

小学校三年生からの英語

  投稿者:江戸の母  投稿日:2011年 2月27日(日)22時32分11秒
編集済
  ひさしぶりにHPの音声youtubeを開いたところ、小学校3年生のレッスンの様子にありがたくもコメントがついていました。「母国語をしっかり教えることの方が先決では無いでしょうか。」と。

激しく同感です。
私も公立小学校での英語教育が始まるまでは、まったく知識もなく危機感も持ってませんでした。

でも、この書き込みをしてくれた方に伝えたいです。

素読舎の英語レッスンは、英語というよりも、日本語の練習の要素が強いと感じています。そして母語形成課程の子どもたちに母語形成の邪魔をしない、母語を壊されていない。このことが大きく他の英語塾と違うと、思います。

youtube画像に偶然たどりついた方もいるかもしれないので、タイトルに「素読舎」と入れたおくのはどうでしょうか?


【17780】

根石さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月28日(月)15時53分6秒
  > 「無料過程」を希望するんなら、ポイントは公開させてもらうということを条件にすればそれで片づくんじゃないのか。
> 「無料過程」を希望しない、あるいは、判断を保留するという場合は、ポイント数を公開しなければいいのだ。

賛成です。


【17781】

Jackieさん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月28日(月)15時54分35秒
  >今回根石さんに磁場渡りについて書いたのは、
>根石さんには、遠い過去の磁場で体験したことではなく、それからその後培った、空っぽの電池がどうなるかを、現在の体験として語ることは、みずからの理論を証明することにもなり、また生徒さんにも
>参考になるだろうと重い書いたことです。

読み返してみましたが、わたしにはそうは読めませんでした。
わたしもひとのことは言えないでのですが。

Jackieさんは、ご自身でも「まだ落とし前をつけていない」と書かれていましたね。
Jackieさんが思っている以上に「落とし前」は大きいのかもしれませんよ。「落とし前」をつけることを考えると、考え方も変わってくると思います。
それは根石さんにつき従うことではなくて、考えることの前提ですから。
わたしは今「落とし前」をつけている最中ですから、そう思うのですが。


【17782】

江戸の母さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月28日(月)15時56分11秒
  >母国語をしっかり教えることの方が先決では無いでしょうか。

なるほど、youtubeのあのファイルだけを聞けば、そんな感想を持ってしまう人もいるかもしれません。
動画の下の「説明」の欄は、以前はこちらで書いた説明が全部表示されていたので、ホームページの url や「大風呂敷」の url もすべて見ることができたのですが、今は途中が省略されているので url まで見る人がいないかもしれません。
さきほど、各音声ファイルのタイトルに、「素読舎 http://www.sodokusha.com/」と書き加えました。タイトルが長くなりすぎると、youtube の編集画面ではじかれてしまいますので、もとのタイトルが長いものには、「素読舎」とのみ、書き加えました。


【17783】

江戸の母さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 2月28日(月)15時57分15秒
編集済
  >でも、素読舎の英語レッスンは、英語というよりも、日本語の練習の要素が強いと感じています。そして母語形成課程の子どもたちに母語形成の邪魔をしない、母語を壊されていない。このことが大きく他の英語塾と違うと、思います。

つい最近の、ももこさんと根石さんのやりとりを思い出しました。最近流れが早いので、再掲します。

========================================

スミマセン、また流れを切っちゃいますが・・・  投稿者:ももこ  投稿日:2011年 2月 7日(月)07時02分55秒

 ふと思いついて、頭から消えそうになっているので書き込みます。

素読をはじめて、日本語でも英語でもそうですが、子供たちに感じることがあります。それは「分からない文章が書いてある本でも躊躇なく読もうとする」ということです。

これは、素読をしていて自分が理解できない文章(英語なら最初は余計理解できませんよね)を無理やり読ませてしまうというところに意味があるんじゃないかなぁ。とふと思いました。

分からないことを理解するために本を読むということはもちろんあると思うのですが、全く分からないものに手を出して読むということは普段しないと思うんです。でも子供たちは年齢を飛び越えたり「これ読んでいて分かるの?」と思うものでもいろいろと読んでいます。分からないものをそのまま一旦受け入れてからゆっくり咀嚼しているのか発酵させているのか分かりませんが、そんなことをしているのかなぁってぼんやり思いました。

素読舎のお子さんで、英語のレッスンをしているのに国語の成績も伸びたというような記事か書き込みを見た記憶があるのですが、そういうことなのかなぁって感じました。

ピントはずれでしょうか^^;本当は英語の効果について書いたほうがいいのでしょうけれども、私がそういうことにばかり気が向いてしまっている状況です。子供の英語についてはおいおい書いていこうと思います。



ももこさん  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 2月13日(日)01時15分37秒

>「分からない文章が書いてある本でも躊躇なく読もうとする」

 これが子供です。大人のようには自分を「限らない」のです。

>理解できない文章(英語なら最初は余計理解できませんよね)を無理やり読ませてしまうというところに意味があるんじゃないかなぁ。

 子供の文化への「発情」が理解できれば、「無理やり」ということではないと思います。素読は、そういう子供の「自然」を大事にする思想でもあり、人間という「本能が壊れた動物」(岸田秀)の「自然」に則った方法だとも思います。

>分からないものをそのまま一旦受け入れてからゆっくり咀嚼しているのか発酵させているのか分かりませんが、そんなことをしているのかなぁってぼんやり思いました。

 これは子供が意識的にやっていることではないと思います。
 子供の無意識がやっているというのであれば、まったくおっしゃっている通りのことだと思います。
 「わからないこと」が子供には面白いのです。
 本当は大人だってそうなんですが、大人には世知辛い生活がありますので、そういうことには蓋をして生きているしかないのです。その意味では、大人は全員がこの世の奴隷です。

>素読舎のお子さんで、英語のレッスンをしているのに国語の成績も伸びたというような記事か書き込みを見た記憶があるのですが、そういうことなのかなぁって感じました。

 何がどうなってそういうことが起こるのかは、うまく言えませんが、そういうことはよく起こります。



根石さん  投稿者:ももこ  投稿日:2011年 2月14日(月)03時58分49秒

無意識に、楽しんでやっているので不思議におもっていました。そこでそんな書き込みをしてみました。
上の子真ん中の子ともに児童書も読むのですが、私の書棚の本をこっそりとあさって読み出しているんです。(別にこっそり読まなくてもいいのですが^^;)

「分からないこと」を単純に楽しめる子供っていいなぁと思いながら、「いつから分からないことが面白くなくなっちゃうんだろう。それってもったいないなぁ」と根石さんのお返事を拝見して感じました。でも分からないことを楽しめる場ってなかなかないなぁとも感じます。だから素読のレッスンは子供たちが飽きないのでしょうか。上の子も真ん中の子もレッスンがつまらないといったことは一度もないんです。私もつまらないと思ったことはないのですが、シンプルな繰り返しがどうしてこうも飽きずに続くんだろうなぁって不思議に思います。

考えがまとまらないままの書き込みにお返事いただきありがとうございます。


【17784】

ももこさん

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 3月 1日(火)01時23分1秒
  ちょっと体力が足りません。
後ほど書かせて下さい。


【17785】

途中経過報告

  投稿者:小川  投稿日:2011年 3月 1日(火)17時17分21秒
編集済
  根石さんがご不在なので、お帰りになった時にあらためて投稿することにしました。江戸の母さんと村田さんとのやりとりに横入りする形にもなりますので、先の投稿は削除しておきました。


【17786】

いくつかの言葉

  投稿者:馬の骨  投稿日:2011年 3月 2日(水)01時27分31秒
  アルベール・カミュ●道徳のない者は世に放たれた野獣である。●当然ながら、政府には良心
というものがない。時折りポリシーはあるが、それだけだ。●最後の審判を待つなかれー
それは毎日、行われている。●反逆者とは何か? ノーと言う人間である。

マハトマ・ガンディー●文明はマイノリティー達の扱いによって判断される。
(本名はモハンダス・カラムチャンド・ガンディー。マハトマとは、偉大な魂という意味)

アラブの諺●誰が話したのではなく、何が語られたかを検証せよ。


【17787】

「がちがち」について

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 3月 3日(木)02時35分7秒
  「がちがち」について考えていたけれど、自分は根石さんの実践してきた「がちがち」には書けないと思いました。
ももこさんが書かれていた「みんなで『がちがちの語学論』をめざす」は、自分も同じことを思いました。けれども、「がちがちの語学論」と言い切るのと、「がちがちの語学論」をめざす、は、あり方が違うと思います。
気持ちは「めざす」だけれど、いったん「がちがちの語学論」は消す。いつか内実が伴うようになったら、「がちがちの語学論」を復活させる。そう思ったのですが、みなさんどう思いますか?


【17788】

江戸の母さん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 3月 3日(木)02時36分32秒
  >書くこととしゃべることは違うかもしれませんが、自立レッスン後雑談のとき「語学論といわれてもわかんないんです」というピッコロさんに対し、ピッコロさんのぽろっと言った言葉に「そんなことなんだよ。語学論って」と村田さんが指摘されたのを覚えています。それがなんだったか思い出せず、もやもや中です。

 そんなえらそうな言い方はしてないと思いますが…。
 たしか、ピッコロさんが、練習をしている時に自分に起きていることを話していたんだと思います。それを書こうとするのは大変だけれど、文章にできたら、それは語学論じゃないか。そういう流れだったと思います。


>でも、素読舎の英語レッスンは、英語というよりも、日本語の練習の要素が強いと感じています。そして母語形成課程の子どもたちに母語形成の邪魔をしない、母語を壊されていない。このことが大きく他の英語塾と違うと、思います。

「母語を壊されていない」は素読舎で練習している生徒たちは母語を壊されていない、でしょうか?
日本語の練習の要素が強いと書かれていることは、ももこさんと根石さんのやりとりに通じていると思いました。

ももこさん
>>理解できない文章(英語なら最初は余計理解できませんよね)を無理やり読ませてしまうというところに意味があるんじゃないかなぁ。

根石さん
> 子供の文化への「発情」が理解できれば、「無理やり」ということではないと思います。素読は、そういう子供の「自然」を大事にする思想でもあり、人間という「本能が壊れた動物」(岸田秀)の「自然」に則った方法だとも思います。

ももこさん
>>分からないものをそのまま一旦受け入れてからゆっくり咀嚼しているのか発酵させているのか分かりませんが、そんなことをしているのかなぁってぼんやり思いました。

> これは子供が意識的にやっていることではないと思います。
> 子供の無意識がやっているというのであれば、まったくおっしゃっている通りのことだと思います。
> 「わからないこと」が子供には面白いのです。

「わからないこと」が面白い。
高校生の塾生に、日本語の素読として中村雄二郎の「術後集」を読ませたことを以前ここで書いたことがあります。彼は自分で本を読む習慣がなかったので、英語の練習が終わった後に、余力があれば塾で読んでみないかとわたしが持ちかけたのです。
知らない言葉がたくさん出てきて、最初はほんとにちんぷんかんぷんだったようでした。本人は、最初は国語のテストで点を取りたい、という気持ちから始めたことだと思いますが、わかんねえなあ、とか、難しいなあ、と言いながら、とにかく続けていました。わたしは彼が読むのを見ているだけで、何を説明したとかいうことはありません。あれは「わからないこと」が面白かったのかなと思いました。


【17789】

村田さん

  投稿者:ミキ  投稿日:2011年 3月 3日(木)04時47分51秒
編集済
  >高校生の塾生に、日本語の素読として中村雄二郎の「術後集」を読ませたことを以前ここで書いたことがあります。彼は自分で本を読む習慣がなかったので、英語の練習が終わった後に、余力があれば塾で読んでみないかとわたしが持ちかけたのです。

私が小学校6年生のときだったかと思うのですが、母に福音館の西遊記を毎日見開き2ページ(4ページだったかな?)原稿用紙に写書するように言われた事があります。別に嫌でもなかったので「ハイハイ」という感じで始め、とにかく毎日写し書いて、どのくらいの時間がかかったかはもう覚えていませんが、結局全巻終えたのは覚えています。とにかく漢字が多くて、「魑魅魍魎」なんては何度書いた事か。でも嫌だと思った事はなかったと記憶しています。

バリバリ勉強する様な意欲のある子供ではありませんでしたがそれなりな成績は持って帰って来ていたので、母が何故そんな事を言い出したのかいまだ見当もつきません。そしてこの事で何か変わったのかも皆目分りません。

私の素読ではなく、素写?素書?体験について思い出してしまいました。



「がちがちの語学論」を残すか否かについては、コーチ、先輩方の決定に従います。
 


【17790】

(無題)

  投稿者:ミキ  投稿日:2011年 3月 3日(木)17時38分20秒
  あ、でも、西遊記に書かれている事は理解出来ていたのだから素写ではないし、素読との共通点はあまりなさそうですね。


【17791】

「がちがち」について

  投稿者:I村  投稿日:2011年 3月 3日(木)20時33分11秒
  看板から外すのは寂しい気もしますが、村田さんのご判断にお任せいたします。  


【17792】

村田さん

  投稿者:江戸の母  投稿日:2011年 3月 3日(木)22時17分49秒
編集済
  「そんなことなんだよ。語学論って」

そんなえらそうにおっしゃてはいませんでしたと記憶してますが・・・
でも、ピッコロさんも村田さんも覚えていないようでしたので、私の勘違いかもしれません(たまに、ぼーっとしているので。すみません)

ピッコロさんが「語学論に興味ない。ただ外国人と話ができるようになりたい。どうしたらしゃべれるようになるのか?」 というのに対して、「同じイメージを共有しあうことなんだよ」 という回答が出てきて「そっか」「そんなもんなんだよ」というやりとりがあったかと思ったのですが、これはまったくもって私の夢かもしれません。場所よごしをしてしまってすみません〜〜上記のやりとりは「私の見た夢」(妄想?)ということで、皆様の胸に収めてください。村田さん、ごめんなさい!

それでも、この「夢」のおかげで、イメージを持つことは大事なんだというのに、俄然目覚めて、単語収集を一人強化しまくってます!

>でも、素読舎の英語レッスンは、英語というよりも、日本語の練習の要素が強いと感じています。そして母語形成課程の子どもたちに母語形成の邪魔をしない、母語を壊されていない。このことが大きく他の英語塾と違うと、思います。

「母語を壊されていない」は素読舎で練習している生徒たちは母語を壊されていない、でしょうか?

そうですね。
ももこさんと根石さんのやりとり 読ませていただいています。
今後の展開を楽しみにしてます〜〜

「がちがち」は先輩、コーチの皆様にお任せいたします。


【17793】

ミキさん

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 3月 5日(土)01時06分3秒
  わたしが小学生の時は国語の時間に「全文書写」をやりました。わたしはこれがいやでいやでたまらず、こんなの何の役に立つんだろう、と思っていましたが、今になって思うと、身になっているのかもしれないと思いました。
授業中に、教科書のひとつの単元を音読できるようにしてから、新しく出てきた漢字の練習をして、その後、「説明文」だったら内容についてどんなことが書いてあるかを言いあい、物語だったら読んでみてどう思ったかを発表していたと思います。「全文書写」はその後に宿題として出されていたと思います。これ、「言いながら書きながら思う」みたいだな、と思います。わたしは嫌々やっていたのでなかなか進みませんでしたが。
西遊記は一度読んでから書いていたのですか?それにしても小学生の時に「魑魅魍魎」なんてよく書きましたね…。


【17794】

村田さん

  投稿者:ミキ  投稿日:2011年 3月 5日(土)16時28分29秒
  「魑魅魍魎」を何回も書いたんですが、それで覚えた訳ではないのです。その漢字が出てくる度に「あ、またこれだ。」と思い(でも嫌な訳ではないのです)、「え〜と、鬼へんに〜、蓋があって〜、バツがあって〜...」と写しただけ。

物語は読んでしまっていたので、毎回写す部分を読み返したりはしませんでした。何が書いてあるか説明するとか、感想などを聞かれる事もなかったです。本当に写すだけ。疲れのため字が少々汚くなっても、それもOKで(明日はもう少し綺麗にね、くらいは言われたかもしれませんが)、それ故に嫌じゃなかったのかと思います。

考えてみると、母は私が幼い頃から「嫌だと思うから嫌なのよ。」と常に繰り返していたので、「自分が嫌だと思いそうになったら直ぐに心をまっさらに戻す」を書写を通して学ばせたかったのかもしれません。自分の感情を一旦OFFにして客観的に自分を観察するという事でしょうか。冷静な第三者として事を見つめる目を持つ、という事。これはまさしく今素読からも感じている事です。素読をしているときは感情を揺さぶられないので(静の状態と言えば良いのか)とても楽です。日常のなかに感情のリセットタイムがあるのは良いです。

上手く説明出来なくてすみません。自分が感じている事を文章にするって難しいですね。


【17795】

内田樹の言葉から6

  投稿者:馬の骨  投稿日:2011年 3月 7日(月)11時55分20秒
  ●自立の最低限の要件は「異性のパートナー」「党派的同志あるいは〈兄弟盃〉をかわしたパートナー」そして「顧客または弟子または支援者」の三つのカテゴリーの他者に支えられていることである。

●どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。

●ドストエフスキーの『死の家の記録』に究極の拷問という話があります。それは、「無意味な労働」のことです。半日かけて穴を掘って、半日かけてまた埋めていく。その繰り返しというような仕事に人間は耐えられません。

●欠けているのは、「自分の持っている知識」は「どのような知識であり、どのような知識でないか」についての認識、自分自身の「知っていること」と「知らないこと」をざっと一望俯瞰するような視点、ひとことで言えば、「自分の知識についての知識」なのである。

●合気道の難しさは武術的な動きの厳しさと「強弱勝敗を論じない」というマインドが背馳するからです。でも、甲野先生がよくおっしゃるように「あちらが立てばこちらが立たず」という背理的状況こそ武道の常態なのです。

●企業は社会教育のための機関である。学校を出た若者たちを受け容れて、成熟した市民への育て上げることが企業に託された重大な社会的使命である。

●もし、家族のそれぞれが自分以外の家族に対して、外形的・数値的に周囲から容易に評価されるタイプの卓越性を要求し始めたら、家庭は「地獄」に等しいであろう。

●社会成員の全員が、自分でコントロールし、自分でデザインできる範囲の社会システムの断片を持ち寄って、それをとりあえず「ちゃんと機能している」常態に保持すること。私たちが社会をよくするためにできるのは「それだけ」である。

●人は自分が人間的な美質というものを持っていれば、必ず評価されるという、そういうマーケットの現場に身を置くべきです。自分がやったことがちゃんと反応として返ってくる環境です。

●日本人がこの半世紀で失ったいちばん大きな社会的能力は「負ける」作法とたしなみである。学校教育でも家庭教育でも「適切な負け方」については誰も教えない。人々は「勝つ」ことだけを目的にしている。

●共同体が存続するためには、「自己利益の追求と同様の熱意をもって公共の福利を配慮する」存在が一定数存在しなければならない。それが「おとな」である。

●私たちはかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人や障害者になる。そのときの「弱い私」をフルメンバーとして敬意を以て接してくれるような共同体を構築するために、「強い」ときに、持てるリソースの相当部分を彼らのために割くのである。

●本来の教育の目的は勉強すること自体が快楽であること、知識や技能を身に付けること自体が快楽であること、心身の潜在能力が開花すること自体が快楽であることを子どもたちに実感させることである。

●自分の潜在的能力を信じている人間は、信じていない人間に比べて、潜在能力が開花する可能性がきわめて高い。

●キャリア・パスのドアのこちら側には「ノブ」が付いていない。ドアは向こう側からしか開かないのである。ドアの前にぼおっと立って開くのを待っていると、ドアの向こうから「マジックワードは?」と訊いて来る。そう訊かれたら、「知りません。教えてください」と言えばよろしい。そうすればドアは開く

●もし演芸場で国政を議しても、とくに大きな支障がないというような統治システムを私たちが完成させたのだとすれば、それは政治史上に残る達成として久しく言祝がれるべきであろう。いや、ほんとに。

●私たちは「ダウンサイジングして、かつ生き延びた国」の先行事例をいくつも持っている。けれども、その事例からなにごとかを学ぶことができるし、学ぶべきだと言う人に私はまだ会ったことがない。

●非常識妻はどう生きたらよいのでしょう・・・という切なるお問い合わせが相次ぎましたので、お答えいたします。自分のことを「非常識妻」だと思っているあなたはたいへんに常識的な方ですからご安心ください。真に非常識な女性は自分は非常識かしらなんて一瞬たりとも思いませんから。あ、しまった。



●夫が「常識」を代表し、それからの妻の逸脱行為を「非常識」というふうに規定すると、夫婦は壊滅的な不和に陥ります。でも、逆に妻が「常識」を代表し、それからの夫の逸脱行為を「非常識」と規定すると、あらふしぎ、妻は夫の非常識を「困ったものね」と見下し目線で眺めながらもこれを放置。
結果的に夫は逸脱行為を重ねれば重ねるほど妻の常識性を補強することに貢献することとなります。つまり、「夫が好き放題するほど妻の威信は高まる」の法則というものが存在するのですね、これが。ですから歴史上おおきなブレークスルーを果たした男は例外なく恐妻家なのであります
というわけで、志ある男子はすべからく「非常識かつ恐妻家」というものにならねばならぬのであります。おや、そうやって考えると、あの人も、あの人も・・・


 


【17796】

「がちがちの語学論」について

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 3月 8日(火)16時13分43秒
  「がちがちの語学論」は一度はずそうと思います。
わたしも、ももこさんの書かれた「みんなで『がちがちの語学論』をめざす」気持です。が、自分(たち)で「がちがち」に書けたと思えた時に、ふたたび考えた方がいいと思いました。


【17797】

最初の壁

  投稿者:村田晴彦  投稿日:2011年 3月 8日(火)16時15分53秒
  わたしは受験の時に「電圧装置」はやりましたが、「回転読み」はほとんどやりませんでした。
その後、素読舎に入門して英語の練習を本格的に始めたのですが、しばらくたってから壁にぶつかりました。

わたしは中学生や高校生の塾生と一緒に練習しながら、自分が見れる範囲(自分の練習がこなれているところ)で他の塾生の練習を見ていました。
当時のテキスト「ABCD」(中学程度。約70枚)が終わり、「基礎問題集」(中学3年〜高校2年程度)の145枚目にあった例文でつまづいてしまいました。次の例文です。

その列車はちょうど駅に到着した。
The train has just arrived at the station.

当時のテキストは、重要な部分や英文を隠してありました。当時は「技法グラウンド」はまだなく、隠してある部分を瞬時に言っていくやり方でした。
この場合だと、

その列車はちょうど駅に到着した。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

というように、英文が隠してあり、日本語を見た瞬間に、
"The train has just arrived at the station."
と言えなければなりません。ただし、一回言えればいいのです。
(そうなるまでには、自分で何度も何度も繰り返してテキストを読まなければなりませんが)

自分で「言える」と思ったら、コーチのチェックを受けるのですが、その時にわたしは "The train has just arrived at the station." がどうしてもすっと出てきませんでした。それとよく似た、中学あたりでやった覚えのあるもっと短い例文 "The train has arrived." になってしまって、何度もやり直しになりました。学校でやる範囲で言えば、中学2年後半程度のところだったので、その日はかなり落ち込みました。

その5〜6年前に、英検2級を取っていました。ほとんど対策はしていなかったので、大学受験の時の英語力で通ったのだと思います。だからこれは「電圧装置」のおかげです。言いかえると、「電圧装置」だけでも大学受験や英検2級はパスできるけれど、”The train has just arrived at the station." をすらすらと言うことができない。言えないなら聞くことができない。今思うと、聞き取りなんかできてませんでした。(自分ではできていると思っていましたが)
「電圧装置」で知識は持っていたけれども、「回転読み」を欠いていたから、知識が動かなかった。思い返すと、当時はそういう状態だったと思います。

ある程度長い文でもすらすら言えるようになったかなと思えてきたのは、「基礎問題集」を350枚くらいやった頃だったような気がします。
とにかく、たくさん例文を読んでいくことで、新しい例文も早く言えるようになりました。自分でやっている練習は、しらないうちに「回転読み」に近くなっていました。

その後大きな変化があったのは、もっと後になってからです。パラグラフごとの「技法グラウンド」をやるようになってからです。


【17798】

村田さん

  投稿者:Piggy  投稿日:2011年 3月 8日(火)21時25分24秒
  こんにちは。わあ、こういうお話がうかがいたかったのです。

これからお話が展開していくのだと思うのですが、今回のところを読んで思ったことを書かせてください。読みすすむ内にみえてくることもあるでしょうから、お返事いただかなくてもよいです。

当時のテキストは今とは違っていたのですね。前に対談を読んで、「以前は違っていて」ということを話しておられたので想像はしていたのですが、具体的にどんなだったかがわかるのでうれしいです。

レッスンの方法もずいぶん変わったのですね。今回村田さんが書かれたのは、何年くらい前のことなのでしょうか。

日本語を見た瞬間に英文が言えるようにする、ということは今はやっていないですね。これをやめたのはどんな理由からだったか、ご存知ですか。

これはいわば、文章を単位とした電圧装置であるように思いますが、その理解であっているでしょうか。

「技法グラウンド」もまだなかった、というのにも驚きました。それではコーチからチェックを受ける前は、自分での練習のみだったのでしょうか。

その練習の内容についての疑問です。チェックを受けてパスするまでのことを、「そうなるまでには、自分で何度も何度も繰り返してテキストを読まなければなりませんが」と書いていらっしゃいますが、根石さんからは、「回転読みをするように」という指示があったのでしょうか。

これらの質問に答えていただかなくても、読むうちにわかっていくかもしれませんので、あまり気になさらずどうぞ書き進めてください。続きを楽しみにしています。

「がちがち」については村田さんのお気持ちのままになさるのがよいと思います。
 


【17799】

馬の骨さん

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 3月 9日(水)21時50分40秒
  ●非常識妻はどう生きたらよいのでしょう・・・という切なるお問い合わせが相次ぎましたので、お答えいたします。自分のことを「非常識妻」だと思っているあなたはたいへんに常識的な方ですからご安心ください。真に非常識な女性は自分は非常識かしらなんて一瞬たりとも思いませんから。あ、しまった。

これ、おもしろいっすね。
 


【17800】

素読舎の小学生用の練習

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 3月 9日(水)21時54分15秒
編集済
   素読舎の小学生用の練習は、日本語の練習の要素が大きいことについて、江戸の母さんが書いておられますので、これにお答えしておきます。

 素読舎の語学論は、英語の学習法について論じてきたものですが、実は、英語という個別言語、日本語という個別言語を突き抜けています。

 例えば、音とイメージの関連を述べる場合、そのこと自体は、英語にも言えることであり、日本語にも言えることです。ヒンドゥー語にもポリネシア語にもドイツ語にもフランス語にも言えることです。この地上のどこに住んでいる人にも言えることです。
 逆に言えば、学習者にとっての音とイメージの前後関係や相互関連をきちんと把握できれば、そのことは日本語の練習にも英語の練習にもその他の言語の練習にも「同時に使える」ということです。
 そして、そのことこそが日本の小学生の練習にとって必要なことなのではないのでしょうか。音とイメージの間のダイナミクスは、言語の練習だけでなく、学校の他の科目にも使えるのです。根底にあるのは、「音」と「イメージ」という普遍性ですから、あらゆるところに静かに影響していきます。

 しかし、子供の中に音に対応するイメージを作り出すなどということは誰にもできることではありません。
 ある具体的な文における一単語の音がどういうイメージを喚起すべきなのか大人がわかっている場合、そのイメージとまったく「同じもの」を子供の中に喚起する方法は「ありません」。
 この場面で、説明というものはまったく無力です。説明してわからせようとすれば、「そのことによって」イメージが「同じもの」では「ない」ものに変わってしまうからです。

 大人が説明して子供が持つようになるイメージ。これは、テスト用の知識に近いものです。
 子供が誰に説明されたわけでもなく自分でつかんだイメージ。これは、判断力の元になるようなものです。

 この二つはすでに違うものです。根底からして違うものです。

 大人が子供に対してやれることは、子供が自分でイメージをつかみに行く場合に、「邪魔になるものを取り除いてやる」ということだけです。
 素読において「すらすら読めるようにする」ということは、「邪魔になるものを取り除いてやる」をしているのです。

 逆に言うと、「すらすら読めない」ということが「邪魔になるもの」そのものなのだということになります。

 「すらすら読めない」からイメージがつかめないという場合が音とイメージの間には多くあります。非常に多くの場面にこれがあります。算数の文章問題が解けない子供にとって何が問題なのか。蓋をあけてみたら、最大の原因が、「すらすら読める」レベルを獲得してないからだったというような事例はごろごろしているはずです。「すらすら読める」レベルにしてやったら、子供が面白がって文章問題をやるようになったなんてこともいくらでも起こり得ることでしょう。邪魔が取り除かれることで、思考そのものが動き出すのです。
(ついでですので言っておきますが、「どんぐり」とやらの糸山とやらいう人が、このような言葉とイメージの関係とか、読みのレベルを獲得することで「邪魔を取り除く」ことに言及しえていないならば、「視考力」も糞もないのです。文章が読みとれ、抽象すべきものと捨象すべきものがわからなければ、「視考力」はその初動を得られないからです。)

 素読舎で英語の練習をしていたら、他の科目が伸びたというような現象の鍵もこのあたりにあると考えています。

 ある難しい漢字について、「私はこの漢字は読みは知らないけど、どういうことなのかはわかる」という場合があります。それについては、そういう場合があっても構わないというくらいな位置づけが正しい。もしあらゆる漢字が全部「読みは知らないけどわかる」ものであった場合、その人の日本語能力というものは偏ったものになります。例えば、この掲示板に何か書こうとしても、漢字変換ができないというような具合にです。

 漢字変換というような例を出しましたので、これで考えてみれば、漢字変換ができない場合に、「邪魔を取り除く」には、その漢字の読みがわかるようにする。音に応じてひらがなが書けるようにするというだけのことです。

 漢字変換などという局所的なことではなく、広く日本人の子供から「邪魔を取り除く」作用があるものという観点から見れば、もっとも汎用性があるのは、子供にとって難度を含む文を「すらすら読めるようにする」という練習です。

 例えば、学校の音読というものがあります。これは「すらすら読めるようにする」を実際に実現しているかどうかから考えると、実現しているとは言えません。宿題で何回読んだかなどを問題にして、自己申告させ済ませているだけで、「すらすら読めるようにする」まで、子供の「繰り返しにつきあう」ことはしません。何十人もの子供を相手にそんなことができるわけがないというのが言い訳であり、実際にもそれは無理です。

 私がレッスンで、小学生に日本語の文を読ませてみても、学校が子供に必要なことをやらせていないことがはっきりわかります。それが多くの割合を占めます。
 語彙が抽象的になる場合、日本語の(読み書き用の)シンタックスが身体化されていないと読み書きの障害になっていきます。読み書き用のシンタックスの身体化を学校はまともにやっていないのです。これは、生徒の個々に対して、「繰り返しそのものにつきあう」ことでしか養うことができません。「身体化」そのものに自分で面白みを見つけることのできる子供は別ですが、近頃増えている「数学頭」の子供(すぐに近道を探し楽をしたがる頭)は、言葉の身体化を喜ばない傾向があります。日本の子供の学力低下の真の原因は、社会のいろんな場面がコンピュータ化され、システム化され、その反映として子供の頭の動きが「数学頭=コンピュータ頭」になっている傾向のせいではないかと私は疑っています。学校の授業時間数を増やすかどうかなど、本当は何の関係もないことだろうと。

 素読舎のレッスンで、「現在進行形:am(are, is)+ 現在分詞」などという日本語を小学生が読まされた場合、こんなものにイメージを持つことは「最初は」できません。できなくて当たり前であり、それでいいのです。
 しかし、
 I am playing baseball.
 などという具体的な文を「すらすら読める」ようにする練習と、「現在進行形:am(are, is)+ 現在分詞」を「すらすら読める」ようにする練習は、小学生でもできます。最初は口うつしで言えばいいのですから、小学校の低学年にでもできます。(できますが、「スカイプでレッスン」の性質上、回線の品質確保などの問題が生じた時に子供が対処できないのでやりたくないだけです。)そのことによって、子供が自分でイメージをつかもうとするときの「邪魔を取り除く」わけです。
 I am playing baseball.
 には、「am(are, is)+ 現在分詞」という約束事が含まれているだけでなく、他にいくつもの文法事項が含まれています。
 am は主語が I の場合に限るとか、playing は play という原形に ing がついたものだとか、動詞には原形というものがあるとか、どれが主語であり、どれが動詞であり、どれが目的語であるとか。こんな簡単な文にも多数の文法事項が含まれています。
 「すらすら読めるようにする」というのは、そのそれぞれの文法事項についての文を「すらすら読めるようにする」ということです。
 そうすることで、子供が自分でわかろうとする時のために「邪魔を取り除いておく」のです。いつ本気でわかろうとするのかは子供にまかされています。

 日本語の文についても、英語の文についても、「すらすら読めるようにする」という同じ練習が行われます。
 その場合に、英語の音として後で困るようなものを排除するということも伴います。これもまた「邪魔を取り除く」です。(これがやれる塾はほとんどありません。)

 素読舎のレッスンを始めたばかりの子供はひたすら混乱します。何のことやらちっともわからないという状態になります。それでいいのです。この状態を持続していないと、一挙にみんなわかってくるということが起こらないのです。

 抽象レベルを備えたものを理解する場合には、そういうところを必ず通ります。素読舎を使わない場合(多くの場合)、それをやみくもにやるだけです。そして多くの子供が途中で放棄するということが起こります。それが実態です。

 以上書いたところは、果たして日本語の練習なのでしょうか、英語の練習なのでしょうか。日本語の練習でもあり、英語の練習でもあると言うのがより正確なところなのではないでしょうか。
 それよりもむしろ、音とイメージとを連関させるための練習なのだというべきではないでしょうか。しかし、そう言ってしまえば、これは、日本語の練習でもなければ、英語の練習でもないとも言えます。あくまでも、音とイメージの練習なのだと。
 それがもっとも正確な言い方だと思います。

 音とイメージの連関というように、日本語やら英語やらの個別言語のレベルを突き抜けたレベルで考え、そこから方法を組み立てているのは、私が見る限りでは素読舎しかありません。
 英語の練習でも、この「突き抜けた」レベルで行うしかないのです。個別言語にとらわれたあらゆる方法は、駄目だと考えています。
 これは、「やみくもにやって効果をあげる人」の中に起こっていることを言語化しただけのものなのです。しかし、それが言語化されなければ、方法というものにはなりません。言語化される前のものは、もうこの娑婆にいくらでも転がっています。

 素読舎の方法は、時に娑婆的には「とんでもない効果」をもたらすことがあります。
 高校1年からこの方法で始めた生徒が、長野南高校から名古屋大学に合格したということがありました。長野南高校がどういう高校であるかは、長野県の長野市に近いあたりの人にしかイメージできないでしょうが、この生徒が名古屋大学に受かったと友達に言ったとき、「それなに?」という反応しかなかったそうです。ほとんどの生徒が、美容師関係とか調理師関係とかの各種学校に進むので、長野南高校の生徒には、名古屋大学などというのはこの世に「ないも同然」のしろものだったということです。

 通常の進学指導などでこういうことは起こりません。
 日本語を突き抜け、英語を突き抜け、音とイメージの相互作用という抽象のレベルで激しく混乱するということを避けずに練習を続けたから、このことが起こったのです。

 誰もがそんなことをしなければならないのか。
 そんなことはありません。
 しかし、学校はいずれそれを要求してきます。学校は「邪魔を取り除く」ということをやらずに、抽象レベルだけは要求してきます。「落ちこぼれ」というものは、「学校が作り出しているもの」です。ほとんど泥棒行為に等しいものです。

 「邪魔を取り除く」ということをやらないのであれば、学校が本当に作っているのは「落ちこぼれ」だけです。本当の実力をつけた生徒は、学校なんかアテにしなかった人たちだと私は思っています。

 素読舎は学校という「よからぬもの」にどう対処すべきかを提唱しているのだと考えてもらってもかまいません。

 単なる「やみくも」だけやって、中途半端に抽象レベルに「さらわれ」、現実対応能力を失ったような大学出がうじゃうじゃいます。学校(制度)に「してやられた」人達なのです。中間テストや期末テストに「飼われた」人たちです。
 言われたことしかできないとか、自分で仕事を作ることができないとか、同じことをするのでも、「自分の仕事にする」ことができないとか。

 大人が子供に対してしてやれることは、「邪魔を取り除く」ということだけです。
 それをしっかりやらないで、学校制度の中で点をとることなんかに本気になるから、現実対応能力のない大学出なんかの一丁あがりになるのだと考えています。

 私はひそかに疑っています。現実対応能力がない人というのは、言葉とイメージが現実に対応できるまでに一致していない人なのではないか。テストだの受験だのに「さらわれて」、言葉とイメージの一致を「奪われた」人なのではないか。つまり、文学がわからない人なのではないか。
 「正解する」ことに価値を見る人(点に価値を見る人)とは、「仮にそうするだけのこと」であることがわからなくなった人のことではないか。制度がやらせるものに真実性はないということが見えなくなった人のことではないか。「正解」とは制度的なトリックだということが見えなくなった人のことではないか。「正解」が置かれるのは、世界から切れた舞台の上であるにすぎないことがわからなくなっているのではないか。そんな知識は、この世に生きるときの「媒介項の一つ」にすぎないということが見えなくなっているのではないか。

 言葉に制度が与えるイメージしか対応させることができないこと。これは、作ることでも産出することでもない。そのことに一生懸命になって、自分がイメージをつかみ、世界を新しくすることを「奪われた」人達。

 語学論は、大学出のぼんくらどもを照らし出すこともできるのだと書いていて気づいた。キーワードは「イメージ」だろう。

(これは語学論の一種として書きましたが、一応、江戸の母さんへのお答えでもありますので、ここに掲載致します。)