【17401】

語 学論のおさらい

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月 3日(日)23時47分41秒
編集済
   ハリマオ5号用 に、語学論のおさらいをしようと思って書きかけているものがあります。
 5号は、田中エリスさん、松岡祥男さん、根石吉久の原稿で発行する予定です。
 田中さんと松岡さんの原稿はすでにいただいてあります。
 根石吉久がひとりぐずぐずしています。

 ハリマオ5号用の原稿は、根石吉久の分に限って、印刷する前にこの掲示板に掲載し、皆さんに読んでいただこうかと思っています。
 もう少し書いたら、掲載いたします。


【17402】

大 人のための素読の会用データ

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年10月 4日(月)22時47分25秒
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吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p82-83,20101004, 村田晴彦,

 動物身体の運動性は人間を除いてすべて反射的なものだ。意志と行動のあいだに分割や間隙がない。人間は意思することと身体運動を起こすこととのあいだに 時間差があり、そのあいだにあらぬ空想を混じえたり、想像にふけったり、妄想や思い込みにとらわれたりする。これは身体運動を鈍く遅くするが、思考や想像 力を豊かに発達させ、言葉を生みだすことに寄与してきた。
 老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、大いなる誤解である。老齢者は意思し、身体の行動を 起こすことのあいだの「背離」が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は「超人間」なのだ。これを洞察できないと老齢者と若者との差異は ひどくなるばかりだ。老齢者は若者を人間というものを外側からしか見られない愚か者だとおもい、若者は老齢者をよぼよぼの老衰者だとおもってあなどる。両 方とも大いなる誤解である。一般社会の常識はそれですませているが、精神の「有事」になると取り返しのつかない相互不信になる。感性が鈍化するのではな く、あまりに意志力と身体の運動性との背離が大きくなるので、他人に告げるのも億劫になり、そのくせ想像力、空想力、妄想、思い入れなどは一層活発にな る。これが老齢の大きな特徴である。


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吉本隆明, ,中学生のための社会科(吉本隆明・市井文学 2005年4月10日 第2刷)p86-87,20101004, 村田晴彦,

 考えを集中するとき、無意識に呼吸を詰めていることは、誰でも知っているし、体験している。「思索する」専門家はこれを老齢まで何十年もやっている。呼 吸を詰めると脳の働き以外の「運動性」にとってはことごとく障害になる。これを指摘して文章にしてみせたのは人の身体の生態を述べた三木成夫氏だった。歩 行をはじめとする身体内外の人間の運動性にとってすべて障害になる。なぜ障害になることを人間は好んでやるかのようにやるのだろうか。それは人間だからで あるというほかない。
 反対にスポーツは人間の身体の運動性を動物に近づけるほど上達するはずである。だが優れた運動選手はそこで止めないで、意識的にもっと上達しようとして 競い合って障害を克服してもっと修練する。実際には身体がぼろぼろになってもなお修練しなければ国際的に通用する選手までいかない。そんなにならずにいい から止めておけばいいとおもうのだがやってしまう。なぜだろうか。これまた人間だからというほかない。


【17403】

根 石さんへ

  投稿者:ゆっ くり母  投稿日:2010年10月 7日(木)22時00分50秒
  すみません、メール をいたしました。
よろしくお願いします。


【17404】

語 学論の生い立ちについて(1)

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月 8日(金)18時27分37秒
  語学論の生い立ちに ついて

              根石吉久


 何かが座礁している感じがずっとある。何かがでなく、何もかもがなのかもしれない。
 インターネット上に掲示板「大風呂敷」を設置して、十年ほど語学論と称していろいろ書いた。この間、生活エッセイのようなものはほとんど書かなかった。 詩はもうとうにやめたと思っていた。なるべくブンガクっぽいことはやらないようにしていたのだと言ってもいい。
 今も、詩はもうとうにやめたもののままだし、生活エッセイのようなものを書く気になってもネット上のブログのようなものになるだろう。書くことは、ネッ ト上にというのがほぼ基本になった。
 詩を読むことにも熱心さはなくなった。面白い詩にほとんど出会わないというのも理由ではあるだろう。熱心に探さないから、面白い詩に出会うことがないの だと言っても同じことだ。
 拡散してしまったのだという方がいいのかもしれない。座礁している感じというのは、なにもかも拡散してしまったことの感じかもしれない。それは、自業自 得というものなのかもしれない。
 家を自作し、畑を作り、薪ストーブ用の薪を集め、薪割りをするなど、体を動かして汗をかくことは継続してきた。そうすると、もうまるで異質なものが自分 の中にただ混在するようになった。異質なものが鋭く対立するというのではなく、ただ単に混在するようになったのだ。異質なものが異質なままに混在し、その 状態が放置されている。

 それでも、とぎれとぎれになお持続してみようと思うものの一つに語学論がある。なぜ語学論なのか。

 大学を出て、無職のまま田舎に帰り、市営住宅に入って、毎日ひなたぼっこをしていたら、友達が家庭教師の口を持ってきてくれた。やれると思ったのは英語 だけだったので、英語の家庭教師をやった。生徒がやたらにいい点をとるというので、回る家が増え、回りきれなくなり塾を開いた。ここまではほぼ「自然発生 的」だった。
 点をとらせるのは楽なことだ。しかし、生徒の中に作りかけた語学の力を生き延びさせるのはまったく困難なことだ。ほとんどが死ぬ。

 私を家庭教師として雇う人たちは、家庭教師が作るものを「語学力」というふうにはとらえなかった。「英語の点」というふうにしかとらえないのだ。
 学校は「語学力」なんか作っていない。だけど、「英語の点」ははじき出す。家庭教師としての仕事は、「英語の点」というものと「語学力」というものを両 立させることだと自分で決めたことがあった。そうでなければ面白くない。これは本来両立していていいはずのものだが、日本の学校(制度)の中では両立して いない。両立させるためには、構想力のようなものが必要である。
 点だけとらせるのは楽なことだが、「そのことを通じて」、その後に語学力として生き延びることのできるものを作ること。これはやってみると大変な仕事 だった。

 点さえとってくれば、ほとんどすべての親は満足なのだ。高校入試に受かったり大学入試に受かったりすれば満足なのだ。その意識は子供にもあり、大学に受 かってしまえば、英語の練習などやめてしまう場合が多かった。受験用の塾の英語なら、そう扱ってもらっていい。受験用の塾の英語は、学校が「英語力」とし ているものをなぞっているだけだから、滅びても大したことはない。もともとそれは芽を出さないと決まっている「英語力」だからだ。実はあらかじめ死んでい るものだから、中断してもしなくても同じだ。

 なぜあらかじめ死んでいるのか。日本人がやる英語を「英語の点」というものを軸に考えてしまえば、イメージと音の間に絶縁体があることを放置してしま う。それに関して、学校はまったくの無策だ。
 素読舎で作った語学力の元になるものを放置するな。それはとんでもなくもったいないのだ。イメージと音の間の絶縁体を、通電する質に変えてある。そのこ と一つを言うためにでも、語学論が必要だった。

 イメージと音というときの「音」は、単語の発音のことではない。あるいは個々の「音」(音素)のことではない。文まるごとの「音」のことである。だか ら、イントネーションも音と音のぶつかりあいの処理もすべて含んでいる。この分野がまったく手つかずのままだと言っていい。この部分が手つかずのままだか ら、日本人は「組み立てる」必要のないところで文を組み立ててしまう。「組み立てる」ことを否定する方法がなければならない。つまりは、文を丸飲みする方 法がなければならない。丸飲みしてから、それを壊し、組み立てるというのが順序であるべきだ。
 語学には絶対的な順序というものがある。丸飲みしてから壊し組み立てるという基本を外さなければ、少しくらい発音が悪かろうが、語学力は生き延びること ができるが、この基本を外してしまうと、何かを最初から全部やりなおさなければならないことになる。私の現在の生徒が、小中高の生徒ではなく、社会人が多 いのはそのことを意味している。「音」というものを文まるごとの音と考えれば、私の生徒に社会人が多いのも、イメージと音の間に絶縁体があるからなのだと いうことで説明がつく。

 あの人たちのあれが文学というものであるなら、俺がやっているのは文学なんかじゃないというようなことを松岡祥男さんが言ったことがある。あんなものが 文学なもんか。俺がやっているのが文学だと、松岡さんはそういう言葉で書いたのではないが、私はそう読んだ。それ以外の読み方はできない。譲れない一線と いうものはある。そういう関係は、私の場合は、学校の英語や受験用の塾の英語との間に避けようもなく生じた。それが避けようもなかったということが、語学 論が必要だと言い出したことの根なのである。

 掲示板「大風呂敷」に書いた量は少ないものではない。しかし、きれぎれであり、まるで整理はされていない。書いたものは「過去ログ」として保存されてい るので、読み返せば読み返すことができる。それを読み返して、書いた当時のことを思い出し、現在からコメントを付けるような作業をしてみようかと考えたこ ともあったが、いつも何かおっくうで新しく書いてしまえばいいと思ってしまう。
 それにしても、語学論というものは、決まりきったことを書くようなことなので、内心の消耗はけっこう激しいものがある。(そんなことはどうでもいいか ら、始めてしまえばいい。)
 


【17405】

(2)

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月 8日(金)18時29分12秒
  (2)

 言葉を使うとき、イメージと音、あるいは、イメージと文字はくっついていると思っている人が多い。現象的には、確かにイメージと音(文字)はくっついて いるように見える。だけど、それはある一定量の体力(気力)がある場合に、人の意識に自然に起こるだけのことではないのか。それは体力(気力)が自然に くっつけているだけで、イメージそのもの、音そのもの、文字そのものからすれば、実はくっついてはいないのではないか。だが、普通、「イメージそのものか らすれば」などというふうには考えない。普通は意識に感じられるものを自然だとするのだから、それは人の日常的な「意識にとってのもの」であり、「そのも のにとってのもの」ではない。
 本を読むとき、ただ字だけ見ているだけでヨミススメてしまうことがある。だいぶヨミススメてから、何も読んでいなかったことに気づくことがある。これ は、字をたどっていただけで、その間、イメージは動かなかったということである。イメージが動いたとしても、ヨミススメているものとは「直接しないイメー ジ」が動いていたことである。字の上を視線がただ滑っていただけだという状態である。
 人の話を聞いているときにも、そういう状態になることがある。確かに相手が話し続けていることはわかっているのだが、確かに耳は音を聞いているのだが、 (つまり、意識が「声」を「音」にしてしまっているのだが、)相手が何のことをしゃべっていたのであるか、すっぽり抜け落ちていて、「ええと、すみませ ん、もう一度言ってもらえませんか」などと、まるでエーカイワのフレーズのような日本語を言うことがある。そこでは、言葉は単なる音になってしまってい て、私の中にイメージの動きを作ることがないのだ。イメージが欠落してしまうのだ。
 これは私に特に発現する病気のような現象なのだろうか。私には、イメージと音、イメージと文字が分離しやすい傾向がある。これが一種の病気だというなら 病気でもいい。しかし、この病状がはっきりさせてくれることが一つある。それは、イメージと音、あるいはイメージと文字はくっついているように見えるだけ で、体力がなかったり、あまり疲れていたりすると、あるいはあまりにもどうでもいい話であると、それらは簡単に分離するということだ。イメージと音が元々 は分離しているから、仮にくっついているだけだから、そういうことが起こるのではないかと疑うことができるということである。
 イメージと音、イメージと文字は一体化している「ように見える」だけで、もともとは一体ではないのだろうと考えたのである。くっついているように見える ものが、簡単に離れるのはもともとはくっついていないからだろう。体力や気力、あるいは話への興味という接着剤が弱い場合、イメージと音、イメージと文字 は離れてしまう。少なくとも私にはそれが起こる。
 例えば、本を読むとき、うまく読めているときというのは、一度(ならず何度も)どこかでくっついた(くっつけた)イメージと文字の一体が再生産されてい るときなのである。微細に見れば、意識が過去にくっつけたものを、現在の読書において「くっつけ直している」のである。そのようにして、さまざまな文脈 で、イメージと語の一体化は強化され、語のイメージは純化されていくのだろう。あるいはイメージが抽象レベルを高めていくのだろう。人の話がうまく自分の 中に入ってくるというのも、私の意識が音にイメージをくっつけ直して、音を声に変え、そのことで変位した(昇華されたあるいは降位した)イメージを取り出 すようなことなのである。そういう過程があまりにも自動的に、かつ瞬間的に生じるので、イメージと音(イメージと文字)があらかじめくっついている「よう に見える」のだ。

 生活言語においてすら、このことが起こる。生活言語において「すら」というときの、「すら」が大事なのだ。まして、語学においては、というのが、私の語 学論の基底にあるものである。

 生活言語において、イメージと音、イメージと文字がくっついている「ように見える」のが、なぜそんなにも「普通」であり「自然」なのか。
 生活言語には、強制力が働いているからである。その強制力は外から来ることもあれば、内から来ることもある。本を読んでいる場合は、生身の相手を相手に しているのではないからひとまず脇に置いて、人の話を音だけとして受け取り続け、声や話として受け取っていない状態を考えてみればわかりやすい。これは相 手に対して非常に失礼なことなのである。そういうことをしていることがわかれば、相手は非常に気を悪くする。だから、私は自分で自分に対して、音をイメー ジとくっつけて声に変換することを強制することがある。そこに働いているのは、「〜してはならない」「〜しなければならない」という強制力である。この場 を生きなければならないという強制力である。
 ほんとうにつまらない話だと思っていても、相手に気を悪くさせては「ならない」から、それは単なる音ではなく人の声だと自分に「強制する」。無理にでも 音をイメージに変換させて声にする。そこでは、意識的に意識を励起状態に仕立てる作業が「強制される」。

 最初に世界から切り離されていること。それは生活言語の領域で「病気」として発現する。しかし、語学という領域では、それは最初から当たり前のことであ る。生活言語では「病気」であるものが、語学では病気でもなんでもないのだということ。それは十代の終わりにいた私にはひとつの救済であったのかもしれな い。語学は「世界から切り離されている」ということ。

 語学論の一部で、「磁場の磁力」ということを言い続けたことがあるが、「磁場の磁力」とは、強制力と言い換えることもできるだろう。そこで強制されてい るのは、当事者というものである。生活言語では、つまり言語磁場の磁力の内では、誰も当事者性というものをまぬかれる者はいない。
 どんな馬鹿話でも、その馬鹿話の当事者はいるし、どんな嘘を言うのでも、その嘘を言う当事者がいる。
 確かに病者として認定されるまでは、あるいは確かに病者として隔離されるまでは、誰も当事者性はまぬかれない。その強制力が「磁場の磁力」だ。

 という、このような話は、私が英語フリークと呼んでいる人々には本当に通じないのである。「磁場の磁力だけがもたらすものが絶対的にある」と私が言っ て、ただそのひとつをめぐって、半年も一年もとんちんかんな「磁場」という語の使用が掲示板上に踊るようなことがあった。「磁場」というのは、物理学かな んかの用語を語学論に借用しているので、比喩として使っているのには違いないが、それにしてもそれはそんなに難しい比喩ではない。掲示板上で「馬の骨」と いう名前で書いている人は詩人で、どこの誰だかバラしても本人は怒らないと思うのでバラすが、足立和夫さんである。足立さんは、「なんでわからないのかね え。不思議だねえ。」とあきれて言ったことがある。「わからないんだよ。フリークってのはそういうもんだよ」と私は言ったことがある。掲示板「大風呂敷」 のサブタイトルは、「反英語フリーク」となっている。タイトルもサブタイトルも、英語でおまんまを食っていく場合にはあんまりいいものではない。


【17406】

(3)

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月 8日(金)18時30分26秒
  (3)

 私において、イメージと語(音あるいは文字)が分離しやすいということについては、「そりゃ、お前だけのことだ。単なる病気だよ」と言われるなら、「そ うかもしれない」と言うとして、その時に私は、「では、語学ではどうなんだ?」と言いたくなるのである。
 語学では、イメージと語(音あるいは文字)は「あらかじめ」分離している。あらかじめ分離していることは誰の目にもはっきりしている。だけど「見れども 見えず」というか、だれもそのことを見ようとしないのである。「あらかじめ」分離していることこそが、語学という方法を組み立てるときの基底になるものな のだが。

 語学においては、イメージと音は分離している。分離しやすいのではなく、初めから分離している。いや、分離しているどころの話ではなく、イメージが「存 在しない」!

 「りんご、アップル」とか「アップル、りんご」と言い続けているまったくの初心者を想定してみればいい。これは、林檎は apple だと知った初心者が、「林檎」という日本語がもたらすイメージを apple という音に「くっつけ」ている場面である。
 いや、まだイメージとも言えないかもしれない。まったくの初心者は、apple という英「単語」を林檎という日本語「単語」とくっつけているのかもしれない。それは肯定されるべきことだが、放置しておいてはいけないことがらである が、その話は別にすることにする。
 初心者は、apple は林檎だと「知ったから」、くっつけようとしているわけで、それを知るまでは、apple という見慣れない綴り、あるいは apple という耳慣れない音があっただけである。当初、文字あるいは音だけがあり、(イメージどころか、)それに対応する日本語の単語すら存在しなかっのだ。この 条件が語学の条件である。どんな上級者にも、「知らない単語」というものはあるから、この条件は初心者から上級者まで誰にでもあてはまる。つまり、語学で は誰でも、くっついていないものを「くっつける」のだ。磁場の磁力(強制力)の接着力をあてにせず、自分で「くっつける」しかない。

 語学とは「くっつける」ことだ。だから、語学論は「くっつけ方」を言うことだ。ちまたでは、「くっつけ方」がでたらめなのだ。というか、「くっつけ方」 を云々することをなぜか誰もしないのだ。(素読舎では、これを「言いながら書きながら思う」と言っている。)

 語学の場面では、音とイメージが一体化していないということは、病気でもなんでもない。初心者にはあてはまるが上級者にはあてはまらないというようなも のでもない。語学をやる者はどんな人もこの条件を生きることを避けられないという普遍的なことがらである。

 ネイティヴ言語とか生活言語に働いているのは当事者性であり、その強制力だ。強制力は多くの場合、「場の状況」から来る。つきつめれば、ネイティヴ言語 や生活言語の「磁場の磁力」というものは、当事者であることを強制する強制力である。この強制力は、言葉の地平では、語とイメージが「あらかじめくっつい ていること」を強制する強制力である。誰もこの強制力をまぬかれない。それがネイティヴ言語や生活言語の普遍性である。

 それが、語学における言語と生活言語がまったく違うところなのだ。語学をやっていながら、ここが区別できていない人はやたらに多い。

 ネイティヴ言語や生活言語においては、当事者性が強力な接着剤として働くから、イメージと語(音あるいは文字)が一体のものとして見えるのだ。あるいは 実質的には、一体のものとして扱ってさしつかえないほどに接着させられているのだ。一体である(ように見える)ことが「普通」であり、「自然」であるの は、いつかどこかで、意識が場の状況を媒介にして(強制力に従って?)イメージと語を接着したからである。意識が、場の状況を媒介にして、語と一体化させ るべきイメージを誕生させたからである。このとき、それをやっているのは「意識」なのか、「場の状況」なのか。

 生活言語、あるいはネイティヴ言語におけるイメージの誕生。これは、場の状況が意識に「させた」ことだとも言える。状況が意識に「させた」のであれば、 意識は状況にイメージを誕生「させられた」のである。
 しかし、生き生きとした赤ん坊の「意識」というものを見ると、意識が活発に「している」ことがある。「場の状況」を繰り込んで、「している」ものがい る。鶏と卵の関係なのか。謎だ。

 語学の場面には、当事者であることを強制する強制力などというものはない。語学の場面にあるのは、自分が「当事者ではない」文ばかりである。すべては仮 のものである。音も練習用の音であり、当事者が発する声とは本質が違う。文字も練習用の文字であり、読書するものが読む言葉とは本質が違う。そもそも、イ メージが存在しないから、「アップル、林檎」でわかる通り、イメージは「林檎」という日本語の単語からの借り物である。音も仮のもの、文字も仮のもの、さ らに借り物のイメージも仮のものである。それらを「くっつけて」最終的に apple そのもののイメージが「まともな音」や「まともな綴り」とくっついて一体化するかどうか。そこに語学の成否がある。うまくできたかどうかは、生活言語の場 面で使ってみればわかる。あるいは読書してみればわかる。音や文字としてではなく、apple なら apple という「語(全体)」として使ってみればわかる。「声」にしてみれば、あるいは「言葉」にしてみればわかる。

 語学は生活言語の領域で検証されるのか。そうだ。しかし、語学という領域はその検証以前の領域のことだ。つまり、すべてが仮のものである領域のことだ。 ここでの当事者性は、生活言語における当事者性とはまったく違う。語学における当事者とは、「くっつける」ことの当事者に過ぎない。もし、くっつけるべき イメージが存在しないなら、それを「存在させる」当事者だ。存在しないものを存在させる当事者?
 それはつまり、「仮に思う」ことの当事者である。

 二歳、三歳くらいの幼児(の生活言語)に起こっていることはどんなことなのか。幼児は語学をやっているのではないし、文字を相手にすることはないから、 イメージと音の関係だけを考えればいい。
 場の状況(お母さんの笑顔も怒った顔もそれぞれの状況を作る)の中に響く音は音ではなく、「声」であり、「表情」であり、「気持ち」であり、「こころ」 だ。赤ん坊ほどに、「声」や「表情」に敏感な人間はいない。それらが赤ん坊にとっての全世界を構成するからだ。
 イメージと音の関係だけを考えればいいと言ったそばから、そんなことは不可能なことだとわかる。言語学者にとっては可能なことだが、赤ん坊にはとんでも ないことなのである。赤ん坊には言語の「音」などというものは存在しない。言語学者が「音」だととらえるもののことごとくが、赤ん坊には「声」なのであ る。

 「声」を「音」に変えられるほど、生活言語(ネイティヴ言語)において残酷なことはない。「声」は生きているが、「音」は死んでいる。「声」の生きられ る場所が生活言語(ネイティヴ言語)という場所である。
 「声」を「声」でなくしてしまいがちな私の状態は、つまり、「声」を「音」にしてしまいがちな私の状態は、私の幼児期と関係があるのだろうか。私は、 「声」を「音」にし、さらにイメージを喪失しがちな人間なのである。
 



【17407】

(4)

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月 8日(金)18時32分34秒
  (4)

 語学では、最初にあるのが「音」であり「声」ではない。
 語学において、「音」と「イメージ」が分離している、あるいは、当初「イメージ」が存在しないというということは、そこに「死」があるということであ る。語学は「死」に関わることなのだ。「音」は死体であり、「文字」は死体である。当初、語学の対象としての言語は、総体として、あらかじめびっしりと死 んでいる。

 語学の対象は「言葉の死体」である。あるいは、人々の個々の命があってもなくても存在する言語である。個々の命の一つである私がその「死体」を処理す る。だから、語学とは「逆葬式」なのだと人に言ったことがあったが、気持ち悪がられただけだった。
 「逆葬式」。死体をいじり生き返らせること。それが語学だ。語学をやる者は、「逆葬式」を執り行う者なのである。神主でも僧侶でも牧師でもないが、当初 から「死」に関わる者なのである。言葉の「死体」を処理する者であり、イタコとかミコなんかと一番近いのではないか。神主や僧侶はやらないが、イタコとか ミコは「死んだ者の声」を「生き返らせる」。

 そこを見ないで、「生きた英語」だの「生き生きとした表現」だのと言っている者ばかりがうようよしている。
 「生きた英語」が欲しければ、「逆葬式」をくぐれ。その後で、「死んだ者の声」をたよりに、「磁場」でそれを手に入れればいい。「生きた英語」は文字通 りのもので、生きている。それは「逆葬式」なんか不要のままに生きている。そして、それは「磁場」にしかない。「磁場」に渡ったばかりの人にとって、最初 それは「死んだ者の声」のようなものではないか。「逆葬式」という手続きがなければ、それはわけがわからない。
 「逆葬式」を執り行え。なるべく日本にいるうちに。そう言ってきた。

 「死んだ者の声」を無数に生き返らせるのが語学である。
 日本で普通に得られる「生きた英語」は英語で読書する形以外にはない。つまり、書き言葉の形しかない。そして、英語フリークが欲しがっている「生きた英 語」というのは書き言葉の形のものではない。生きた人間の口から出てくるしゃべり言葉の形のものだ。その場合でも、「逆葬式」が、死体をまっとうに処理す ることが必要なのだと私は言い続けてきたのだった。なぜなら、「磁場」が違うから、と。英語の「磁場」は日本にはないから、と。

 日本語という酸性雨をかぶりながら「逆葬式」をやるべきなのである。それをやらないで、「磁場」でしか手に入らないものを指をくわえて見る者たち。「生 きた英語」だとかいう空念仏を唱える者たち。それをさして私は「英語フリーク」と言ってきたのだった。
 日本にいてやれることは語学だけだ。つまり、「逆葬式」だけだ。それが、「磁場の磁力だけがもたらすものが絶対的にある」「日本にないものを日本で求め てもしょうがない」ということなのだ。可能なのは語学だけだ。

 語学は「磁場」をあてにしない。人々は「磁場」をあてにする。あてにしたっていいのだ。いいも悪いもなく、飛行機を降りればそこは「磁場」だ。しかし、 そこから始まるのは「語学」ではない。その場を切り抜けることであり、要求を通すことであり、通せないことであり、要求に従ったり従わなかったりすること であり、生活であり、仕事であり、遊びだ。その他さまざまであるが、それら一切は「語学」ではない。「語学」は、それら一切以外のものだ。だから、「磁 場」にいて「語学」をする場合は、「自分の部屋」とか「図書館の一室」とかいうものが必要であり、「一人になること」が必要である。日本にいて日本人が文 学をやるときに、「部屋」とか「一室」とか「一人になること」が必要であるのと変わりはない。
 アメリカで英語を勉強する。大いに結構である。「自分の部屋」で、あるいは「図書館の一室」で、「一人になって」やればいい。わざわざ「磁場から切れ て」打ち込めばいい。あるいは「つっかえ棒」が必要ならば、スカイプで日本の根石につないで、レッスンを受ければいい。
 ところが日本の英語フリークたちがアコガレているのは、「自分の部屋」で、あるいは「図書館の一室」で、「一人になって」得るものではない。そうして得 るものは、日本にいても得ることができるが、フリークたちがアコガレるのはそうしたものではない。だから、フリークたちは、英会話学校というおかしなとこ ろに行くのだ。
 フリークがあこがれるのは、自分の部屋の外で、図書館の一室の外で、一人ではなく他の人と交流して得るものである。「一人」で獲得したものが、二人、あ るいは三人以上の人々の場で合金となるのだということにはまったく無自覚なまま、だから、「一人」になってやらなければならないことをやらないまま、金を ふんだくられ、ふんだくられても蛙のつらに小便のまま、いつまでたっても元の木阿弥のままである。英会話学校に通って英語が話せるようになった人に会った ことはない。無知が栄えたためしがないとはこのことである。欠けているのは「語学論」だ。

 日本に生まれた赤ん坊が日本語を獲得していくのでも、「他の人と交流して」獲得していくのでは「ない」。他の人と交流もするのだが、実はイメージとこそ 交流する。イメージと交流することが、人と交流することの通路を作っていく。
 「人」をしか見ないで、「イメージ」を見ない人たち。英語フリークの人たち。その生態の周辺を少し抜粋して、フリークの話はひとまず切り上げ、次号から 「くっつける」ことの話に戻ろうと思う。


【17408】

(5)

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月 8日(金)18時36分21秒
  (5)

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素読舎ホームページから(一部削除、訂正)

英会話学校はハイエナだ

 学校では、そのままにしておいたら使えない英語になってしまう音にOKを出す。一人一人の子供に「通じる音の音づくり」をやっていたら、中間テストも期 末テストもできなくなるのは目に見えている。だから、通じるようにならない音にOKを出し続けるのだ。そもそも「音づくり」をやれる教員がほとんどいな い。

 学校がやっていることは語学には毒でしかない。語学という独自の領域を他から分離させて確定することさえできれば、この領域では生活言語から見てどれほ ど倒錯的なことも倒錯ではない。逆に、語学という意識の場を本当に確定してからでないと、実は語学は非常に危ないものなのだ。そんな危険に対しても、学校 は無知のままだ。
 学校は英語をまともに語学として扱うことができていないのだ。だから往生できない英語ばかりが、さまようのだ。

 語学という領域で必要なことは、「からっぽ」を大きく肯定すること。小学生や中学生の段階では、意味と音が「ずれる」ことを肯定すること。最後に、意味 と音を一致させようとしたときに、ごつごつした、不自由なしゃべり心地が生じることを全面的に肯定することだ。これらが、基本的な認識として多くの人に共 有されるまでは、日本の英語は往生できずにさまよい続けるしかないだろう。
 机の上では、なめらかに速く、実際に使うときは、ごつごつと不自由に。これがきわめて自然な日本育ちの英語なのだが、それを自然な性質だと言う人がほと んどいない。

 ごつごつした英語をおとしめ、ぺらぺら英語をあがめるのは、卑屈な植民地根性でしかない。

 語学の言語と生活の言語を地続きだと思っているのは、途方もない迷信である。語学の言語と生活の言語はまるで別のものであり、語学の言語に熟達すること で、生活の場面で英語をしゃべるようになる人は、途中で語学から生活の地平に向けて大きくジャンプするのだ。語学の言語と生活の言語は決して地続きではな く、その間には大きな断層がある。ジャンプするのでなければ越えられない断層がある。

 アジア諸国に英語でしゃべっている国がいっぱいあるのに、日本人は英語でしゃべれないと世界から馬鹿にされて、何をへこたれているのであろう。アジア諸 国で、英語が使われている現象は、ヨーロッパの貴族どもの都合(やくざどもの都合)によって、ハードな植民地化が行われた結果以外のものではない。それは まがいもなく悲惨な言語状況なのに、欧米寄りのものの見方しかできない日本人は、それをまるで「いいこと」であるかのように語る。無知が発する腐臭という ものもあるのだ。

 英語をやるのであれば、日本人がやるべきことは、日本語と英語を両方とも持つことだろう。その場合、日本人がしゃべる英語はごつごつした、無骨な、なめ らかでない、不自由な英語で「あるべき」なのだということが、馬鹿どもにはわからない。アメリカ人のようにぺらぺらとしゃべる英語が日本でも上等なのだと 信仰している。馬鹿は死ななきゃなおらないということは本当のことなのだ。

 英語が作る磁場がない場所で作られる英語は、直に土から生えている植物ではない。日本で作られる英語力というものは、どこまでいっても鉢植えの植物なの だ。土から切り離された植物。根を張る範囲を鉢に限られた植物。絶えず水をやり世話をしていなければ枯れてしまう植物、それが日本の英語なのだ。

 英語が作る磁場があるということは、親や友達が英語をしゃべっているから、語学などやらなくても、ネイティブな言語として英語が自然に身に付く場所であ るということだ。日本はそういう場所ではない。日本は日本語の磁場でできた場所だ。

 うろおぼえだが、脳の生理のことを鵜田さんという人のホームページで読んだことがある。夏の終わりごろから鳴く虫の鳴き声、つまり「虫の音」を、日本人 の場合は、言語を担当する脳が聞いているのだそうだ。これは、虫の鳴き声を、「音」として聞いているのではなく、「声」として聞いているということであ る。虫の鳴き声を、ある種の言語として聞くというのは、アジアの人々の自然への親和性を語っている。
 これに対して、西洋の文化的シンタックス、言語的シンタックスで育った人たちは、虫の声を、あくまで客体化された「音」として聞いており、言語脳では聞 いていないということだ。虫の声は単なる音や雑音として聞こえるらしい。だから、虫の声をうるさいものとして聞くということになる。

 言語のシンタックスは文化的シンタックスを規定し、文化的シンタックスは人間の生理にまで食い込むのだ。人々は言葉の構造の違いが、文化全体を規定する ほどの要因になり、人間の生理の働きまでも別のものにするものだとは思っていない。たかが言葉の違いだと思っている。

 まるで異質なシンタックスから成る英語と日本語が、相互に鉄に対する酸として働くのは当然だ。

 政治的な暴力(言語政策)によって、英語を強制されるような事態になるなら、日本人は英語をしゃべるようになるだろう。それは、日本語を引き裂いた後、 あるいは日本語を引き裂きつつ、それをやることになるだろう。あるいは、日本語を引き「裂かれ」つつ・・・。

 日本はヨーロッパのハードな植民地になることはまぬがれたが、アメリカのソフトな植民地だ。文化的な植民地という泥に沈んでいくことに無自覚な国だ。 能、歌舞伎、禅、生け花、そんなものが文化的植民地化を食い止める力になるだろうか。最期の防波堤は、言語のシンタックスだけではないのか。

 元はイギリス語であり、それがアメリカ方言としてのアメリカ語になった英語を、世界語としてさらにもう一度対象化することが日本の英語に課せられている のだと考えている人は少なくて、アメリカ人が英語を話すようにぺらぺらとしゃべることが上等だと考えている人が多い。日本のごつごつした英語を劣ったもの のように感じる植民地根性がある。この根性が見ないものこそ、「磁場」というものである。
 



【17409】

(6)

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月 8日(金)18時37分30秒
  (6)

 英語を世界語とするとは、日本人が日本で作った英語によって、標準化された英語のアメリカ方言に変形を加えることを意味する。どの国も、どの人も、自分 のネイティヴな言語によって英語に変形を加えていいのだ。それが英語が世界語になるということなのだ。変形後の各種英語を摺り合わせ、標準英語を媒介にし て、世界語を作っていけばいい。
 卑屈な根性によって、ごつごつした英語の価値をかえりみないこと、そして「本物のアメリカ英語」のぺらぺらをあがめていることが、これまでの日本の英語 のもっとも駄目なところなのだ。

 私は机の上の練習では(語学という場所では)、徹底的にアメリカ語やイギリス語を媒介にし、真似しようとする。とことん媒介にしようと思って練習する し、なめらかさも作る。しかし、実際に使う場面では、その机の上のなめらかさでしゃべることを内心がはっきり拒絶するのを感じている。ぶっきらぼうで、不 器用でごつごつしたしゃべり方になる。異質な二つの文化的シンタックスの「間にある」言語が、私にとっての英語なので、それがごつごつしたものになるのは 当たり前だと思っている。それがなめらかな英語になるときは、私の英語がアメリカ語に食われた時だ。それはごめんこうむると思っている。標準を媒介にする のは、こちらが主体としてやることだ。食われてたまるかと思っている。

 日本人が全員習う教科である英語が、言語としていつまでたっても植民地語になれないでいることは面白い現象だ。アメリカにしてみれば、とても不本意な言 語現象であるはずだが、日本語は英語の骨を溶かしてしまい、世界ででかいつらができるはずの英語は、日本ではなかなか育つことがない。

 これはとても面白い現象なのだ。これは単に学校の無能力のせいだけではない。これは日本語の酸の強さの証なのだ。

 日本語は英語という鉄にとって強力な酸であり、英語は日本語という鉄にとって強力な酸だ。この関係には絶対的なものがある。アメリカに渡って日本語を使 わないで四、五年たって帰ってきた昔の塾生がいたが、半年ほどの間、日本語がしゃべれなかった。日本語の骨が英語によって溶かされていたのだ。英語に囲ま れれば、日本語で育った人の日本語の骨も溶かされる。逆に、日本語に囲まれた英語は、中途半端な練習では骨さえできてこない。

 日本語が鉄であるならば、英語は酸であり、英語が鉄であるならば、日本語が酸である。お互いにお互いのシンタックスを溶かす。

 日本語そのものが英語に対して against の位置を譲らないことにきちんと注目すべきなのに、その観点はいまだ弱いままだ。これは、ナショナリズムのようなものとは何の関係もない。言語の構造を虚 心に見れば、英語と日本語の間には、はっきりと against の関係を形成する根本的な違いがある。これはあくまで言語的な観点から成立する関係であり、しかもその関係は絶対的なのだ。

 日本の学校の英語が役立たずだということは、いまや世界的に有名であり、それだから、言語に対する認識を欠いていても、日本に行けば英語を教えるだけで いい金になるというふざけた言いぐさがアメリカやカナダあたりで囁かれる。私は、アメリカでそれが囁かれる現場にいたことがある。あんなもの(英会話学校 の教師)はだれだってできると囁かれていた。日本の英会話学校に通うお馬鹿さんたちのことを思い浮かべ、なんで私が屈辱を噛みしめなくてはならないかがわ からないままに、屈辱を噛みしめていたことがある。

 英会話学校で英語を教えている連中は、アメリカやカナダに帰れば、ただのあんちゃんやねえちゃんにすぎない。アメリカやカナダに育ったのだから、英語は 根っからの言語だが、彼らのほとんどが言語に対する認識などは持ち合わせていない。単に語学的な技法の点においても、日本人の口をどう動かせば英語の音が 作れるのか、あるいは英語という言語に備わっている構造を日本人はどうすれば身体化できるのか、そんな認識は何も持っていない連中がほとんどだ。日本では 英語をしゃべる人間だというだけで金がかせげる。そんな囁きによって、日本に来る英語ネイティブのあんちゃんやねえちゃんたち。彼らを正確に呼ぶならば、 ハイエナである。じかに税金を使ってAETというハイエナを呼んでいる馬鹿な役所もある。

 日本の学校の英語が「死体」であるから、ハイエナが群がるのだ。
 因果関係ははっきりしている。
 この事態の根本の責任は、英語に対する日本語の抵抗素を勘定に入れて語学の方法論を作れなかった文部省とその御用学者たちにある。英語と日本語が、相互 に against な関係をはらむ言語同士だという認識を踏まえない語学の方法は、植民地根性やむやみな英語に対する反発みたいなものしか生み出さない。

 日本の英語教育産業に動く金は世界一の規模だということだが、この根本には、文部省やその御用学者の語学に対する認識力の貧困がある。

 学校英語のあらかたが死ぬので、学校英語の犠牲者を食い物にして、今日もハイエナ(外人)が群がる。

 英会話学校に通えば、死んだ英語が生き返るというのなら文句はない。ところが実際は、英会話学校に通っても、ガイジンの個人指導を受けても、死んだ英語 は死んだままだ。ただ金をふんだくられて終わるのが、日本の英会話学校に通うオヒトヨシ達だ。

 日本では英語はやるべきことをやらなければ絶対に身に付かない。そして、その「やるべきこと」が学校で点がとれるとか、高校入試や大学入試に合格するこ ととはまるで別の場所にあることに多くの人が気づかない。その眼目が「音づくり」であり、語や語法の「イメージ化」であり、それを煮詰める「イデア化」で あることを、学校はまるで提示できていない。現時点では、生徒が自分で気がつく以外にない。(小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」を参照のこ と)

 腐肉に群がるハイエナがでかいつらをしている場所が、日本の英会話学校である。
 何度でも言うしかないだろう。
 「英語は風邪じゃないからウツラナイ」

 英語学校なら世界中にある。
 英会話学校なんていう馬鹿なものは日本にしかない。


【17410】

(7)

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月 8日(金)18時38分58秒
  (7)

 文化的シンタックスを支える言語のシンタックスが、生理の動きの違いまでを決めていること。それをふまえるなら、日本の英語はごつごつした、不自由な、 苦しいものとしてとどまるのが正常なのだ。ごつごつした不自由な英語は、決して否定されてはならない。それが日本における英語の自然な性質だ。日本人が日 本に暮らしてアメリカ人のようにふるまうこと、ぺらぺら英語をあやつる猿芝居は馬鹿にやらせておけばいい。この認識はもっと一般的な常識になるべきだ。

 私は日本人は英語をやらなくていいと言っているのではない。
 それどころか、こんな甘っちょろいことをやっていてどうなるものかと思っている者だ。
 どんどんやって、ごつごつした、不自由な英語をおかまいなしにしゃべるのがいいと思っている。日本の英語に、雑であること、無骨であることの価値が回復 されなければならない。

 日本に育った英語というものは、その本来の性質からして、不自然で不自由なものなのだから、それを恥じることは要らない。それを恥じることは自分で自分 をおとしめること以外のものではない。それを恥じることが植民地根性への第一歩なのだ。

 むしろ、不自由で不自然だということこそが、日本の英語のアイデンティティなのだ。

 本場アメリカの英語の正しい語法はこうだと教えを垂れる類のおためごかし本ばかりが氾濫している。日本で使う英語なんだから、本場アメリカの英語をその まま使うのはおかしなことだという認識がない。言語は言語の磁場を作り、それはその社会や文化とシームレスに連続している。本場アメリカの英語は、本場ア メリカの英語として参照し媒介にすべきだが、それをそのままに日本でしゃべることはとてつもなくおかしなことなのだ。それなのにそれが上等なことであるか のような幻想が蔓延している。この幻想は毒にしかならない。

 本場アメリカの英語は、日本やその文化にシームレスに連続するようなものでは決してない。
 根本的に異質な文化の「間で」使われる英語が、ごつごつしていなかったり、無骨なものでなかったりしたら、それこそが、おかしな事態なのだ。

 ごつごつしていること、不自由であること、それでもなお自分を開くために英語をしゃべること。日本語でしか言えないことは日本語で言うが、英語でしか言 えないことは英語で言うこと。日本の英語に、この位置を確定しなければ何も始まりはしない。そうでない間は、馬鹿が利口そうな顔をしているという英語状況 は変わりはしない。

 例えば、アメリカで英語をしゃべる能力を獲得したというだけの日本人がなんで上等そうな利口そうな顔ができるのか。この人たちの英語が、「アメリカで」 獲得した言語能力であるという一点において、本当には日本だけに住んで英語を獲得することの労苦を知らない。その労苦を知らない者が利口そうな顔ができる 場所、それが日本の戦後という時空だ。
 この利口そうな顔の成立を支えているのが、実際は学校英語の死体が発する死臭なのだということに誰も気がつこうともしない。

 この国には英語をまともに語学として対象化する視線が欠けている。この視線が獲得されるまでは、植民地根性の英語フリークの跋扈はやまないだろう。

 この国では語学という独自のフィールドがまだ確定されていない。

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【17411】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月 9日(土)04時32分31秒
   内田樹が書くの は、統一権力以後ばっかりだという前言を撤回します。統一権力以後ばっかりを書いたのは「日本辺境論」であり、今日読んでいる「こんな日本でよかったね」 (文春文庫)には、人間の起源に触れる面白いことが書いてありました。

 「穢れ」は貨幣よりも階級よりも交換よりも古い。
 「穢れ」という概念をほかの動物は持たない。
 ならば、「穢れ」という概念をもつことによって人類は他の霊長類と分岐したのだと考える方が論理的だろう。
 (略)
 死体を埋葬する習慣をもつ生物は人間だけである。
 なぜ、死体を埋葬するのか?
 汚いから?
 そんなことはありえない。
 生物の死骸なんか、それこそ「枯葉」から「バクテリアの死体」まで、地上にごろごろしているのに、どうして人間の死体だけが「汚い」とされるのか?
 それはあえて逆説を弄するならば「人間の死体は生きている」からである。
 人間は葬礼という習慣をもつことによって他の霊長類と分かれた。
 なぜ葬礼を行うのか?
 理由はひとつしかない。
 それは葬礼をしないと死者が「死なない」からだ。
               (ひとはなぜ葬礼を行うか)

 まあ、すごいスピードですね。内田樹はものすごく速い。なんでこんなに速いのかわかりませんが、多分、考えていることの凝縮度の一方で、現実の処理がや たら忙しいのだろうかと推測しています。観念の舞踏としては、大変に美しい残像を残しています。

 だけど、葬礼には、死体が腐って臭くなるからという形而下的な理由もあるのだろうと思います。「枯葉」や「バクテリアの死体」なんか気にならないが、人 間の死体が腐って臭くなるのは困る。それがついこの間まで話しをしていた人の死体だったら、まったく困る。自分が生きるに生きられない。なんとか、なんら かの形でケリをつけなければならない。いったんはそうしなければならない。そうでなければ、ついこの間までのあの人はどうなってしまうのか、と困る。
 人間に限らず、犬でも馬でも、ある程度の大きさ以上の動物の死体は、葬礼をするかしないにかかわらず、腐るので困るのです。鼻がひん曲がるほど臭いので 困るのです。観念の舞踏の速い人はそこをすっとばすので困る。
 内田は「人間の死体は生きている」と言い、『死者が「死なない」』と言っています。死体は腐るが死者は腐るわけではない。言っていることは、死体につい てなのか、死者についてなのかはっきりしてほしい。いつのまにか語っていることのオブジェクトが違ってしまうのは困る。

 なぜ葬礼を行うのか?
 葬礼をしないと死者が「死なない」からだ。

 これだけでいいんじゃないのか。

 奥村さんは、私において、なかなか死にません。私は奥村さんの死体を見たわけではないし、葬礼に加わったわけではありません。(先日、ちょうど死後一年 目くらいの時、青梅にお線香をあげにはいきましたが・・・)
 奥村さんが死なないのは、奥村さんが「書いた人」だったからだと考えています。「猩々蠅」を読むと、生前の奥村さんが彷彿とされ、「死なない」。死体は もうないので腐ることはないが、奥村さんの言葉は、書き言葉として残存し、その物質性によって、奥村さんを彷彿とさせ、私において、『死者が「死なな い」』。この場合の要は、「言葉」なんだと思うのです。有史以前から、笑顔や声や表情はあり、それらも死者の「言葉」なんだと思うのです。

 昼間、語学における言語は「死体」だなどと書いて、夜、内田を読んでいたら、また「死体」について書いてあったので、一度落としたコンピュータの電源を 入れ、内田樹を紹介して下さった馬の骨さんにご挨拶申し上げた次第です。

 ハリマオ用の原稿としてひとまず書いたものの、明日読んで気に入らなければ、書き直す予定でいます。
 そろそろ、またハリマオ用に詩をいただけませんでしょうか。


【17412】

根 石さん

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年10月 9日(土)23時11分20秒
  内田樹の本をだいぶ 読み進んでるようですね。
そのうち小田島隆は天才だ、という言葉にも出会うでしょう。

>人間の起源に触れる面白いことが書いてありました。
当然です(笑)。内田樹とって文化人類学(構造人類学)の影響は、とても大きいのです。
とくにレビ・ストロースについては、よく言及しています。熱帯で研究生活を送った人で、
「家族の祖型は遡れず、それは謎である」といっている、と内田は、よく語りますね。

>死体の腐臭から埋葬する
なるほど、そうかもしれませんが、そういうことをするのは、やはり人間だけだとおもいますが。。死者の言葉が残る、というのも重要ですね。
内田は、よく呪いということを語ります。「他者の言葉に縛られる」という意味でしょうか。そのことと関係があるのでしょうね。。

そっか、奥村さんが亡くなって一年たちましたか。
奥村さんの語った言葉も、よく思い出します。その声とともに。。
 



【17413】

生 徒さんへのお願い

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年10月10日(日) 16時34分57秒
   「スカイプでレッ スン」は上の方に「自立練習のみ=無料」の過程があるレッスンです。ある程度先へ進んだ生徒さんは、「自立練習のみ=無料」の過程へ入ってもらうことがで きます。(「何万行になったから無料過程へ入れる」のではなく、「自立練習」の進み具合や、練習の質などから判断して「自立練習のみ=無料」の過程へ入っ てもらいます。)
 ただ、生徒さんがせっかく「自立練習のみ=無料」の過程の候補になっても、レッスンに空き枠がある時は「自立練習のみ=無料」の過程へは入れません。 レッスン枠が全部埋まっていて、新しい生徒さんが入ってきた時に、候補の生徒さんは「下の方から」押し上げられる形で「自立練習のみ=無料」の過程へ入っ てもらうことができます。ですから、生徒さんが少ないと、なかなか「自立練習のみ=無料」の過程へ入ってもらうことができません。
 そこで生徒のみなさんにお願いします。継続して周りに声をかけてください。自分が声をかけた人が新しい生徒になることで、先へ進んでいる誰かが「自立練 習のみ=無料」の過程へ入れます。また、自分が「自立練習のみ=無料」の過程の候補になった時、他の人が紹介してくれた人が新しい生徒としてレッスンに入 ることで、「自立練習のみ=無料」の過程へ入る場合もあります。自分が「自立練習のみ=無料」の過程へ入る時のためにも、継続的に周りの人に声をかけてく ださい。よろしくお願いします。


【17414】

(無 題)

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月10日(日) 23時33分16秒
編集済
  修正

 「スカイプでレッスン」は最終的には、「自立練習のみ=無料過程」に入っていただくためのレッスンです。先へ進んだ生徒さんは、コーチが注意することが なくなってくると「自立練習のみ=無料過程」への候補になります。(「何万行進んだから無料過程へ入れる」という基準はおおまかなものです。現在は、6万 行、7万行台を目安にしていますが、「自立練習」の進み具合や、レッスンにおける練習の質などから判断して「自立練習のみ=無料過程」へ進んでいただきま す。)

 生徒さんがせっかく「自立練習のみ=無料過程」の候補になっても、レッスンに空き枠がある期間は、「自立練習のみ=無料過程」に進んでいただくことがで きません。レッスン枠が全部埋まっていて、新しい生徒さんで新しい「二人一枠」ができたときに、無料過程へ進む候補の生徒さんは(「下の方から」押し上げ られる形で)「自立練習のみ=無料過程」へ入っていただくことになります。

 枠の数が少ないと、「三人一枠」など変則的な構成の枠ができた場合に、調整が非常に難しくなるなどの問題もありますので、現在のコーチ(村田)の手元に 枠を増やす必要を感じています。根石は現在の枠の数を増やす予定はありません。いろんなレベルの練習が揃っていると、「三人一枠」の変則を修正することが やりやすくなります。

 生徒さんに、継続して周りに声をかけてくださることをお願いします。自分が声をかけた人が新しい生徒になることで、先端部分を練習している生徒が「自立 練習のみ=無料過程」へ入ることができるようになります。また、自分が「自立練習のみ=無料過程」の候補になった時、他の人が紹介してくれた人が新しい練 習枠を作ってくれることで、自分が「自立練習のみ=無料過程」へ進むようにしてくれる可能性は大いにありうることです。自分が「自立練習のみ=無料過程」 へ入る時のためにも、継続的に周りの人に声をかけてくださるようお願いします。


【17415】

「自 立練習のみ=無料過程」に関する規約

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月11日(月) 00時06分56秒
  1.(根石、村田 の)枠の総数が一つ以上増えているときに、もっとも練習力のある生徒から「自立練習のみ=無料過程」へ進む。

2.「自立練習のみ=無料過程」へ進む候補者が複数いる場合、それまでに生徒を紹介してある生徒が優先される。

3.「自立練習のみ=無料過程」へ進む候補者が複数いて、どの人も新しい生徒を紹介してある場合、新しい生徒の紹介数が多い者から、「自立練習のみ=無料 過程」へ進む。

4.新しくレッスンを受講する生徒が、「スカイプでレッスン」の生徒、あるいは素読舎の通塾の生徒が書いたどの記事を読んでレッスンを始める決意をしたか をコーチは確認する。記事が特定できる場合は、その記事を書いた生徒を紹介者とする。

5.根石、あるいは、村田が書いた記事を読んでレッスンを始める決意をした場合については、生徒各位は紹介者とならない。
 



【17416】

男 女雇用機会均等法に関する内田樹の見解

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月11日(月) 00時53分32秒
編集済
   妙に世知に長けた 野郎がなれなれしく肩に手を回して「な、ウチダ、そういうもんなんだよ。世の中、所詮、色と金だよ」というようなことを言われたときのような、「べたっ」 とした気持ちの悪さを感じるのである。
 (略)
 均等法に私はそれと似たものを感じたのである。
 「要するにみなさん、ぶっちゃけた話が、いい服着て、いい家住んで、美味い物喰って、いい車乗りたいんでしょ。ねえ、本音で行きましょうよ、ウチダさ〜 ん」というようなことを耳元で言われたようなべたっとした不快感を覚えるのである。
 たしかにそのような言明は大多数の人間にとっては自明の真理であろう。けれども、「いや、世の中そういうことばかりじゃないでしょう」という人々が少数 なりとはいえこの世にはいるし、いないと困る。そして、人類史上、世の中をこれまでより少しでも住み易くする方向に貢献した人々のほとんどはこの「そう じゃないでしょう派」に属する。

                    (女子大の「実学志向」は自滅への道)
                    「こんな日本でよかったね」(文春文庫)P.191


【17417】

根 石さん

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年10月15日(金) 15時45分39秒
  >そろそろ、またハ リマオ用に詩をいただけませんでしょうか。

いま一篇あります。どちらに張り付ければいいのでしょう?


【17418】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月15日(金) 22時03分26秒
  メールで下さるので もいいですし、「ホームページ作成編集室」へ貼り付けていただくのでも結構です。


【17419】

根 石さん

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年10月15日(金) 22時11分46秒
  詩を「ホームページ 作成編集室」へ貼り付けておきました。


【17420】

今 週のできごと

  投稿者:Piggy  投稿日:2010年10月16日(土)08時04分36秒
編集済
  今週、イギリス人と 半日一緒にいる、という私にとっては驚くべき体験をしましたので、書きたくなりました。学校でネイティブ・スピーカーと日常的に接している今の若い学生さ んや、英語上級者は、何のこと?と思うかもしれませんが、私にとっては初めての体験だったのです。さらに先ほど、生まれてはじめて、ある共通の趣味を持つ 人たちがつどうフォーラムにおいて、英語でチャット(ネットにどんどん書き込むことで、その場で文字でおしゃべりすること)をしました。

根石さんのレッスンをうけるようになって、1年半とちょっとです。最近急に、自分の中で英語が動き始めるのを感じていました。英語でメールを書いたり、掲 示板やブログのコメント欄に書き込んだり。でも話したり、チャットをするところまで行くとは思いませんでした。

今までのことを簡単にお話すると、中学高校では英語は得意科目で、辞書をひいてパズルをとくようにして英語の意味がわかっていくのが好きでした。でもネイ ティブ・スピーカーに授業を受けることは皆無でしたし、LL教室もありませんでした。大学にはいってサークルで、あるアメリカ人をまねいておしゃべりする 機会がありましたが、私は何一つわからず、何一つ話せませんでした。数人、ちゃんと彼女と話ができる学生がいて、どうしてそんなことができるのか私にはわ かりませんでした。卒業後の専門は理系分野です。専門の文書なら、だれでも卒業後数年経てば、辞書なしで情報を得ることができるようになります。専門用語 さえわかっていれば、情報を得るのに不自由はないのです。でもあいかわらず私は話せませんでした。専門のことさえ話せないのです。専門用語を羅列するだけ では、話す時には何も伝わりませんから。専門分野で書く機会もときどきありますが、これは何とかなるのです。でもパズルであることにはかわりはなく、単語 をあっちこっちからとってきて、くみあわせていました。

話す機会からは逃げ回っていました。逃げるのに疲れて英会話教室でプライベートレッスンを6年くらい前に半年くらい受けましたが、何かが身に付いたという 実感はまったくなく、敗北感だけでした。

そういう私が、挨拶と自己紹介以外は実際の場面では英語で話したことがなかった私が、今週イギリス人と半日すごして、文章を頭の中でくみたてずに、しゃべ りたいことをまず英語で話しだしていたのです。先ほどはとにかく思いつくままに文章を頭から書いては、ネット上でおしゃべりをしていたのです。

もちろん、今週イギリス人と話していたときは、とつとつとしゃべり、山ほどの間違いをしました。でも、時々文章まるごとがするっと口から出て来たり、ある いは文章はとぎれても、文章中の固まりは固まりとして出て来たりするのです。適切にとっさに返答できたりするのです。チャットになると、さらに文章は短く 単純になりますが、単語をあっちへやりこっちへやりしていては会話に追いつかないし、実際に目の前にいれば文章が終わるのを待ってくれるけれども、チャッ トではこちらがキーボードを打っているのは相手にはみえませんから、時間勝負です(私への質問の時は、私の答えを待ってくれますが)。それがちゃんと文章 として頭から打てるのです。

何がこういう変化をもたらしたのか。一つは英語の「型」が発音ごとからだにしみこんだこと。もう一つは、英語のイメージが自分に身近になったこと。英語の 文章が持つイメージ、ということでしょうか。これは「型」と同じことかもしれません。「型」が持つイメージ。根石さんがおっしゃる「語法」とはこのことで しょうか。そして、ここ数ヶ月の「つなげて」「もう一段とつなげて」が、ものすごく効いているように思うのです。もちろんそれまでのことがあったからこそ の効果でしょうが。「つなげて」がはじまってから、自分の中で英語の「型」が、自分のものとして動き出した、という実感があるのです。以前何度もきいてい た映画の音声の意味がすっと入って来て、驚いたりしました。きくことに関しては、解像度があがった、という感じです。

最後にひとつだけ、困ったことを書くと(半分冗談です)、Yesでなく、Yeahと言ってしまうことです。ゴーストではYeahというあいづちのほうが、 Yesよりもずっと多く出てきますから。今回はそうではありませんでしたが、フォーマルな場所では気をつけます。


【17421】

Piggy さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月18日(月) 18時06分8秒
  お書きいただきあり がとうございました。
後ほど、こちらから感想など書きます。
 



【17422】

Piggy さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月19日(火) 23時38分12秒
編集済
  >えーと、これは読 みながらくすくすと笑ってしまったのですが、こんなことは申し上げた覚えはありません。話す機会からは逃げ回っている、という表現は最初にレッスンをお願 いするときの投稿で書きましたが、私はええ格好しいですから具体的なことは書きませんし、レッスンをはじめて少しして、こういうことをお話したこともあり ません。

 私が「逃げ回っていた」という言葉から、実際に行為として逃げ回ることを想像したのだということがわかりました。逃げ回るというのは、心の中でのこと だったということと了解しました。
 それから、お話を聞いたのではなく、書いてくださっていたのだということを教えていただきありがとうございます。探して、村田君に一連の記事としてホー ムページで読めるようにしてもらうつもりです。

>最近英語が自分の中で動き出したのを感じていたので、実際の場面で「話すこと」をためしてみたくなった、ということです。

 英語が「動き出した」のを感じれば、しゃべることを試したくなる。そういう自然のなりゆきだったと読ませていただきました。多くの場合、私のレッスンで 一年半少しでは「動き出した」ということは起こりませんので、やはり下地の厚みが効いていると思います。
 異言語で話すというのはどんな感じのことなのかを知りたいというのが、レッスンを受けて下さった動機だとは、以前からわかっておりましたが、実際に英語 でしゃべってみて、どんな感じだったでしょうか。なんだ、どうってことないじゃないかという感じでしょうか。

>実は自分でも、なぜ「つなげて」「もう一段とつなげて」がこんなに効いたのか、よくわかっていないのです。

 「もう一段とつなげて」という指示に従っていただけば、つながった一連の音が、それで一つの意味を形成するようになります。意識の中に数語から10語程 度までのつながった音を一つととらえるような位置が形成されるのではないかと思います。10語程度が形成する意味を一つととらえるくらいになれば、いわゆ る日常会話は問題なくできるようになるはずだと考えています。7語くらいを一つとしてとらえるくらいで、話し始めることはできると思います。話し始めるこ とができるようになり、「7語で一つ」から「8語で一つ」レベルに行くのに、私の作った教材で1万行から2万行くらいやる必要があるだろうという勘を持っ ています。その間、ずっと「一段とつなげる」という意思を持ち続けて、ということです。

>ホームページおよびパンフレットに、どうぞお使い下さい。大学と職位については、申し訳ないのですが伏せさせてください。というのは私の場合はかなり特 殊な経歴と立場なのです。大学の研究者の中で最も英語が必要で、英語圏への留学が必須とさえ言えるのは、文系の研究者ではなく理系の研究者です。理系の領 域では日本語の原著論文はほとんど価値を認められない、と言ってもよいほどです。私は日本語の原著論文を書くことも読むこともまったくありません(総説は あります)。そのなかで私は事情により留学経験がなく、あまりに特殊であり、特殊な自分をさらしたいとは思いませんし、理系の研究者への誤解を招きたくも ありません(ここでさらしているのも、居心地悪いのです)。ですから理系を専門とする社会人、とのみお書き下さい。

 承知しました。
 私はいまだに Piggy さんが何という大学の先生なのか知らないままですので、このまま知らないままに致します。
 食えるか食えないかの線上を歩き続けた素読舎のレッスンを長年見てきたにもかかわらず、自分でもやろうとしている村田君のために、「・・大学教授(助教 授)」みたいな文字を使わせてもらえれば有り難いと思ったのでした。
 素読舎は、自前の語学論を持つことで他の英語教育機関とは違うし、自前の語学論で得たものを実際のレッスンに活用する点ではどこにもひけはとるまいと思 う一方、経営的にはほとんど泡沫に等しく、絶えず食えるか食えないかの問題がリアルなものになります。そのために心に浮かんだものでした。申し訳ありませ ん。

 理系の論文についてですが、日本語で最初に書き、それを雑に翻訳するというのがいいのではないかと思います。日本語の論文が非常にすぐれたものである場 合、それを雑に翻訳したもの(英語)を読んだ人たちは、日本語を読みたくなるのではないかと、門外漢の気楽さで考えています。それが通用するようになれ ば、Piggy さんは「あまりに特殊」ではなくなるはずです。
 いつの日のことになるやらわかりませんが、そういう日が来るといいと思っています。政治力学上では、今は圧倒的に英語でしょうが、メジャーな英語もアフ リカで数十人しか話していない言語も、本来は、等位にあると思っています。
 人間の命も、ミミズの命も等位にあるというような意味で。言語だって、本来はそうだ、と。


【17423】

根 石さん

  投稿者:Piggy  投稿日:2010年10月20日(水)00時39分43秒
  >私が「逃げ回って いた」という言葉から、実際に行為として逃げ回ることを想像したのだということがわかりました。逃げ回るというのは、心の中でのことだったということと了 解しました。

いえ、心の中だけだった、ということでもありません。構内を歩く時に逃げないだけで、たとえば外国からの客人とはできるだけ関わらないようにするとか、挨 拶が終わったらさっさと立ち去るとか、そういう実際の行為はありました。それで、「構内を歩く時のことは実際の私とは違いますが、『話す機会から逃げ回っ ていた』ということの中身は、細かいことはともかく、そうかけ離れたものでもないのかもしれません」と書いたのです。

>異言語で話すというのはどんな感じのことなのかを知りたいというのが、レッスンを受けて下さった動機だとは、以前からわかっておりましたが、実際に英語 でしゃべってみて、どんな感じだったでしょうか。なんだ、どうってことないじゃないかという感じでしょうか。

とても不思議だった、というのが今の感じです。文章を頭の中でくみたてて、確認してから口にするのではなく、イメージが先にあって口を開くと(つっかえな がらでも)文章が出てくる、というのがとても不思議でした。日本語ならあたり前のことですが。そしてたとえばGood morning. という二語からなる挨拶であれば、苦もなくやっていることですが。だから、今までは挨拶二語が単位だったけど、二語から拡張できるのだな、不思議だな、と いう感じです。


【17424】

「反 日」の意味について

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年10月20日(水) 10時55分56秒
  内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/10/18_1550.php


【17425】

Piggy さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月20日(水) 23時54分10秒
  ありがとうございま した。
これからも、ご自分の英語が変わった節目に、お書き下さるようお願い致します。



【17426】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月20日(水) 23時56分26秒
編集済
  やはり、内田樹、面 白い。
「政治と文学(問題)」は、内田によって止揚されたと思います。
これは状況への大きな貢献だと思います。


【17427】

根 石さん

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年10月21日(木) 14時40分4秒
  止揚ということが、 政治と文学について同じ通路で語ることができる、ということなら、そのとうりだと思いますね。

では何故できたのか。内田樹が影響を受けたレヴィ=ストロースの「構造人類学」
に拠るところが大きいのではないでしょうか。

「親族の存在理由は何か?
 親族の再生産である」・・・何はともあれ親族が再生産されないと
「社会」そのものが 遠からず消失してしまう」
内田樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」文藝春秋(1400円+税)から引用。

内田は、生き延びられるかどうかという判断基準を、よく使うのは、上記の事を言ってるのでしょうね。
そして、政治と文学を通底するものが、上の言葉ではないでしょうか。


【17428】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月21日(木) 22時19分31秒
  >止揚ということ が、政治と文学について同じ通路で語ることができる、ということなら、そのとうりだと思いますね。

 高橋源一郎が、こういう人の出現を「ずっとずっと待っていた」とどこかに書いていました。高橋の言ってることが、わかるような気がしました。

>では何故できたのか。内田樹が影響を受けたレヴィ=ストロースの「構造人類学」に拠るところが大きいのではないでしょうか。

 「構造人類学」については何も知りません。レヴィ=ストロースはもうずいぶん前から翻訳書が出ていますが、「読める」ようなものでしょうか。翻訳書の多 くが「読めない」しろものだと、以前、馬の骨さんが言っていました。「読める」ものがありましたら、教えて下さい。

>「親族の存在理由は何か?
 親族の再生産である」・・・何はともあれ親族が再生産されないと
「社会」そのものが 遠からず消失してしまう」
内田樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」文藝春秋(1400円+税)から引用。

 先日は、「家族」という語で、「その起源はわからない」というような話でしたが、今回は、「親族」ということで、頭が混乱しています。
 「家族」の起源なんか簡単じゃねえか。子供を産んだら、その親が育てることにしたっていうのが起源じゃねえかと思っていました。レヴィ=ストロースが考 えたことってのは、そんな簡単なことじゃないんでしょうか。
 今回は、親族が再生産されないと「社会」そのものが遠からず消失してしまうという時の「社会」というのがよくわかりません。私は、「社会」は必要な物の 「交換」があれば消失しないと思いますが。


【17429】

「ガ セネッタ&シモネッタ」からの引用

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月22日(金) 00時33分7秒
編集済
   米原万里「ガセ ネッタ&シモネッタ」(文春文庫)を読んでいたら、語学をやる人に参考になるなと思ったところがありました。以下に引用します。
------------------------------------------------------
米原 アナトール・フランスが辞書のことを「アルファベット順に置かれた宇宙」と言ってます。ところが、電子辞書ができたらアルファベット順じゃなくて、 人間の脳味噌に近くなったんですね。
柳瀬 (略)たしかに電子辞書は、これは革命ですよ。
(略)
米原 露和・和露辞典の電子化はまだ夢の夢です。英露・露英は電子化が進んでいますが。露和・和露については、電子辞書どころか、専門分野ごとの辞書が一 切ありません。わたしたちが雇われるのは、金融とかコンピュータとか放射線医学とか、そういうところで雇われますでしょ。ところが、それについて辞書がな いんですね。もう一つ、言葉の意味っていうのは、実際には辞書にカバーされきれないほど、いろんな使い方をするんですよ。私たち通訳の場合、まだ文字にさ れていない言葉の意味に出会う場面がすごく多いんです。(略)
 だから、みんな自分で辞書というか、用語集を作るしかないんです。(略)それで、時々そうした用語集を持ち寄って、学習会で発表するわけです。(略)そ れで手持ちの用語集、「軍事用語集」とか「医学用語集」、辞書ではまだカバーされていない言葉の意味とか、新しい言葉をどんどん集めていったんです。
(略)
 それで、その分野の仕事で出かけるとき、豆単語集をパッと頭に入れておくだけでぜんぜん違うんですね。人間の脳味噌って、わからないものが多すぎると全 部入ってこない。情報としてわからないものが二割くらいだと印象に残って入ってくるんだけど、もう五割以上わからないと、ほとんどそれ全部灰色で、何もわ からない。なかったことと同じになっちゃいます。
       (柳瀬尚紀との対談「翻訳と通訳と辞書」から)

<根石・註>
 とりわけ、最期の段落で言ってることが役立つだろうと思います。わからなくても、我慢して多読を続けていれば力がつくと言う人がいますが、米原が最期の 段落で言っていることは、それを覆しています。
 通訳する人は、「わかる」ものを通訳するわけですが、読書でも「わかる」ものを読んでいるわけです。情報としてわからないもの二割くらいまでならいい、 五割以上わからないと何もわからないというあたりが、同時通訳をやる人だけでなく、語学の途中で読書をやろうとする人に役に立つはずです。
 「何もわからない」状態で、いくら多読を続けても無駄なのだと読み替えることができます。


【17430】

根 石さん

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年10月22日(金) 22時33分44秒
  混乱させてしまい申 し訳ない。
明らかに「家族」ではなく「親族」です。間違いです。

わたしは内田樹の語る「構造主義」に傾いているのであって、フランスの構造主義を
学んだわけではありません。
内田樹「寝ながら学べる構造主義」文春新書(690円+税)を読んでみただけの人なんです。
読後感は「寝ながらは学べません」ということが解りました。
また、この本は内田樹の勘所だなと思いました。

もうひとつお薦めします。
内田樹「態度が悪くてすみません」角川ONEテーマ21(724円+税)
短文をまとめたもので、読みやすいかと思いますが、内容は濃く深いですね。


【17431】

「自 立練習のみ=無料過程」を育てて下さい。

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月23日(土) 01時17分41秒
   現在、「自立練習 のみ=無料過程」の生徒は一人だけいます。小学生の頃から素読舎に通塾、高校に入って「電話でレッスン」(現在は「スカイプでレッスン」)を継続、さらに 大学に入って2年ほどレッスンを継続した時点で、「自立練習のみ=無料過程」に移行しました。吉さんが一緒にこの過程で練習しています。
 また、「自立練習のみ=無料過程」の候補は現在二人いますが、これまでレッスンのみで「自立練習」をやってきていませんので、「自立練習」を開始して下 さるようお願いしています。
 候補の二人は、「二人一枠」でレッスンを継続してきて下さっていますが、一人の方は忙しいので「自立練習」を形成することができないとのこと。もう一人 の方は、TOEIC受験にしばらく専念したいとのことで、やはり「自立練習」を形成できないとのことで、現在の二人の候補に「自立練習のみ=無料過程」に 移っていただくのは少し先のことになりそうです。

 現在、多くの生徒さんが「ゴースト」の「音読」をやっています。この「音読」の質によって「自立練習のみ=無料過程」への候補になるならないが決まりま す。
 多くの生徒さんが、新しいページ1ページ分、復習4頁分を2箇所という組み合わせで「音読」を進めていますが、「ゴースト」が一冊終わると、新しいペー ジがなくなりますので、復習4ページ分3箇所で音読のチェックをします。このチェックが普段10分以内で終わるようになったら、二冊目のテキスト「七年目 の浮気」の音読を開始します。構成は、新しいページ1ページ分、復習4ページ分3箇所です。これを12分以内に終わらせれば合格です。「七年目の浮気」が 片づき、新しいページがなくなったら、「ゴースト」と「七年目の浮気」の二冊を、復習4ページ分4箇所でしばらくチェックします。15分以内で、合格です が、12分以内でできる回数が増えてきたら、「自立練習のみ=無料過程」の候補になります。

 候補者のうち、生徒さんを紹介してある人と紹介してない人がいる場合、紹介してある人が先に「自立練習のみ=無料過程」に入るなど、規約を作ります。現 在、暫定的なものができていますので、月に二度ほどこの掲示板に掲載します。

 「自立練習のみ=無料過程」の生徒数が、現在の有料過程の生徒数と同じくらいになるのが夢です。
 「自立練習のみ=無料過程」は、日本在住のまま、いったん作った英語力を錆びつかせないための有力な「装置」になるはずです。
 こういうものが、これまでの日本にはありませんでした。
 「自立練習のみ=無料過程」がうまく立ち上がるよう、皆様のご協力をお願い致します。


【17432】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月23日(土) 01時26分43秒
  「親族」でしたか。
親族の起源というのは、難しいですね。この問題に関して、内田以前に強い関心を持続していたのは吉本隆明です。吉本の沖縄への関心の持続はこの問題と関係 があると思います。私には難しくてわからない。

お薦め下さった本、「寝ながら学べる構造主義」を今日ネットで注文しました。
私は、寝ながら読むつもりですが、「寝ながらは学べません」ということになるんだろうなと思っています。


【17433】

現 在の生徒さんが、「自立練習のみ=無料過程」をどう育てるか

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月23日(土) 20時00分7秒
  1.自分の練習を しっかりやる。
 (「自立練習のみ」でやっていけるだけの地力を作る)
2.新しい生徒さんを紹介していただく。
 (「無料過程」の候補は、新しい枠が埋まることで、押し出し式に無料過程に進みます。)
3.掲示板に自分の英語の変化を書いていただく。
 (素読舎の広報活動を助けていただくことになります。新しくレッスンを始める人に、どの記事を読んで始めることを決めたかを確認します。該当の記事を書 いた生徒さんが、新しい生徒の「紹介者」になります。)


【17434】

教 育の受益者は本人ではない

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年10月23日(土) 23時38分11秒
  内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/10/22_1013.php
 



【17435】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月24日(日) 01時35分18秒
  「内田樹の研究室」 の記事読みました。
いつも有益な記事の紹介をしていただき、感謝。

素読舎にどこかが金を出すべきだと私は思いました。
そうすれば、素読舎はやる気のある生徒を選び、これまでよりはるかに実績を作れると思っています。だけど、どこも出しっこありません。
アメリカ的「小乗」が跋扈しているのだから、どうしようもありません。

明日も百姓をやります。


【17436】

吉 さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月24日(日) 01時41分21秒
  掲示板、読んで下 さっているでしょうか。

吉さんが、かたさんのコーチをしているのでなく、「一緒に練習している」というふうに規定すれば、吉さんも私の「生徒」であることになります。

そうすると、「自立練習のみ=無料過程」の生徒が二人いることになります。

吉さんを私の「生徒」としてもよろしいでしょうか。
お読みになっていたら、ご返事いただけると幸い。


【17437】

ジャ ンプに関する規約(暫定案)

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月24日(日) 03時00分38秒
  小乗根性を克服する ために

 現在、「ゴースト・文法解析」に、およそ高校生向けの文法問題を混ぜ込んで教材づくりをしています。
 この版が完成すると、高校2年から大学受験レベルの基礎を、文法・語法問題によって作ることができるようになります。
 高校以降は、途中からシナリオ「ゴースト」を音読することを始めますが、それと並行して、高校生向けの文法問題の系をたどることで、そのまま「文法・語 法問題1000」を扱えるようになります。「ゴースト・文法解析」を扱わず、「高校生向け文法問題」の系をたどる使い方ができるようになります。

 つまり、大学受験のための知識をよりぶあつくすることができます。

 その過程に至るまでに、教材「abcd」の500番までは必須です。
 教材「abcd」は、550番くらいから、一枠分が巨大になりますが、このあたりをジャンプできるように暫定案を考えています。

<ジャンプ・暫定案>

・「ゴースト・文法解析」(イメージ核受肉教材)を使っている人が、教材の5万行近くまでジャンプするのは、「イントネーションの自己決定力」によりま す。

・「abcd」教材の650番から1000番までのジャンプは、新しい塾生紹介があった場合によります。「abcd」は全部で3万行ほどありますが、 650から1000へジャンプする350の枠で占めているのは、1万3千行ほどです。塾生の紹介があることにより、「abcd」のおよそ半分近いものを ジャンプできるように致します。

 現在作成中の「高校生向け文法問題」は、無理なくこのジャンプを可能にするものです。
 この教材を作成する間、16万行台の教材作りを停止します。

 塾生紹介をご勘案下さい。


【17438】

根 石さんへ

  投稿者:  投稿日:2010年10月24日(日)21時01分4秒
  お世話になっており ます。
すみません、、、掲示板から離れておりましたが、
家内が教えてくれました。

> 吉さんが、かたさんのコーチをしているのでなく、
> 「一緒に練習している」というふうに規定すれば、
> 吉さんも私の「生徒」であることになります。

はい、、かたさんには、よい練習相手になってもらっています。
根石さんのおかげで、よい練習パートナーに巡り合ったと感謝しております。

> 「自立練習のみ=無料過程」の生徒が二人いることになります。
> 吉さんを私の「生徒」としてもよろしいでしょうか。

もちろんです。 ありがとうございます。

現在、掲示板をお休みさせて頂いております。
言葉とエネルギーが上手くシンクロしない状態です。
英語の音読は止めませんので、しばらくこのままの状態で
やらせていただけますようお願いいたします。


【17439】

こ れまでの紹介者数

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年10月26日(火) 02時31分27秒
編集済
  生徒さんそれぞれの これまでの紹介者数を発表します。
紹介の有無、紹介人数によって、無料過程に進む優先順位が決まります(『「自立練習の
み=無料過程」に関する規約』をお読みください)。
無料過程の候補になった時に、生徒さんを紹介していただいた人数が生きてきます。
たくさん紹介していただいた方は、より有利になります。継続して周りに声をかけてくだ
さい。

========================================

江戸の母 さん: ピッコロ さん、 A.D.(月曜6時10分)、 H.C.(月曜6時10分)
ヒロ さん: O.M.(月曜6時50分)
たけ さん: T.K.(月曜6時50分)
H.M.(月曜7時30分): 0人
K.T.(月曜7時30分): 0人
まつ さん: 0人
OZ さん: O.K.(土曜8時10分)、 Y.T.(土曜8時10分)
N さん: 0人
きり さん: 0人
ピッコロ さん: 0人
S さん: 0人
I.S.(土曜9時30分): I.C.(金曜8時)
K.M.(金曜8時): 0人
Piggy さん: 0人
H.S.(金曜8時40分): 0人
T息 さん: 0人
ノンノン母 さん: ノンノン父 さん、 K.N.(土曜9時30分)
ノンノン父 さん: 0人
K.N.(土曜9時30分): 0人
そよ さん: 0人
Y.T.(土曜8時10分): 0人
O.K.(土曜8時10分): 0人
F さん: 0人
I.C.(金曜8時): 0人
巴里子 さん: 0人
ジュリアン さん: 0人
I村 さん: 0人
O.M.(月曜6時50分): 0人
T.K.(月曜6時50分): 0人
A.D.(月曜6時10分): 0人
H.C.(月曜6時10分): 0人

小川 さん: Yoshie さん、 Tommy さん
ミキ さん: 0人
U さん: 0人

========================================

「自立練習のみ=無料過程」に関する規約

1.(根石、村田の)枠の総数が一つ以上増えているときに、もっとも練習力のある生徒
 から「自立練習のみ=無料過程」へ進む。

2.「自立練習のみ=無料過程」へ進む候補者が複数いる場合、それまでに生徒を紹介し
 てある生徒が優先される。

3.「自立練習のみ=無料過程」へ進む候補者が複数いて、どの人も新しい生徒を紹介し
 てある場合、新しい生徒の紹介数が多い者から、「自立練習のみ=無料過程」へ進む。

4.新しくレッスンを受講する生徒が、「スカイプでレッスン」の生徒、あるいは素読舎
 の通塾の生徒が書いたどの記事を読んでレッスンを始める決意をしたかをコーチは確認
 する。記事が特定できる場合は、その記事を書いた生徒を紹介者とする。

5.根石、あるいは、村田が書いた記事を読んでレッスンを始める決意をした場合につい
 ては、生徒各位は紹介者とならない。

6.レッスンに空き枠ができたまま新しい生徒で埋まらない場合、いったん「自立練習の
 み=無料過程」に進んだ生徒が、「レッスン+自立練習=有料過程」に戻る。その場合、
 生徒紹介がないまま「無料過程」に進んだ生徒、あるいはもっとも紹介者数の少ない生
 徒から戻ることとする。


【17440】

メ ディアの病

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年10月27日(水) 00時27分40秒
  内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/10/26_1116.php


【17441】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月28日(木) 03時31分10秒
   内田樹を読みに行 き、ふうむ、というようなためいきが出ました。
 私は早稲田の2年生3年生4年生の頃、まったく就職活動をしませんでした。
 何年生の時かも忘れましたが落第をしましたので、5年生の終わりの3月に、エロ本出版社、中央大学出身者の名簿作成管理会社、編み物のムック作成会社な どに出向き、俺を雇う気はないですかねという就職活動をしました。どこへ行っても蹴られました。編集業界は渡り鳥の世界で、すぐに使えるような人しか雇っ てくれない。新卒を教育して使えるようにするなどという余裕は、小学館、講談社なんかという大手にしかないのです。こういう大手は、落第したような気骨の ある人間を雇ってはくれないだろうとは、私の方でメボシをつけていたのです。

 荻窪駅のキオスクで買った新聞で就職先を探していたのですが、大学に何か情報があるんじゃないかと思い、大学の就職課というところに行ったら、「今頃、 なにしに来たんだ。今頃、職を探しに来るようなやつはいない。初めてだ」と言われました。
 なんなんだ。大学にいる間は、大いに勉強し(大学で勉強したんではありません。大学なんかまるで駄目なので、古本屋から本を買ってきて勉強しました。) 大学卒業間際になって、急遽就職活動をすることの何が変なのか。

 就職課の人があきれたような顔をして、問題外だという扱いをしたことを今でも思い出します。

 素読舎はなんだかんだ言ったところで、よくぞまあ、存立し続けたものだと感心してしまいます。早稲田卒業? そんなもの、あらかたはクズですがね。長野 でも、信越放送のパーソナリティとか、長野市長とか、クズです。
 


【17442】

吉 さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年10月28日(木) 03時48分33秒
   生徒になっていた だきありがとうございます。
 今後、「無料過程」の生徒が二人いることを公表できます。
 優秀な人はこき使われますので、ゆっくりと英語を養って下さい。
 吉さんの、生徒紹介はかなりな数になると思っていますが、まだ調査が終わりませんので、終わりましたら村田君の方から公表します。
 生徒紹介数においては、吉さんはダントツです。
 しかし、日本在住を継続したまま英語をものにするということが、本当にわかってくださっているという感触はいまだありません。
 


【17443】

根 石さん

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年11月 2日(火)15時27分37秒
  就職活動という事が わからなかったし、自尊感情の腰が砕けていた。その頃のわたしは。
法政卒業も、あらかたクズです。大学の勉強もダメで、神保町の古本屋街をうろうろしてました。

たしか大学の就職課は、学生にアナウンスしてなかったと思います。したからどうだという事はないのですが。わたしも卒業間際になって就職課に顔を出しまし た。親切さの欠けた態度だけは覚えています。ああ、この時期は終わってんだな、と判った。そう「問題外」だったんですね。

いま思えば、親父のコネがあった。一流企業がいくつか。
そのコネの時期も逸していたんです。もっとも行こうという意思は、まるでなかった。「社会の仕組み」ってやつが判ってなかった。自分の意思は大事なことで すけど。後悔はないですね。転職を繰り返し、さまざまな業界を知り、はじめて「社会の仕組み」の一部を垣間見ることができたようにおもいましたが。だから どうなんだ、と訊かれれば、別にとしか言いようもないことですが。。

結局、新聞で見た小さな会社に拾われました。
ある時、その会社の社長が言ってました。「文学部はダメだな。やはり法律か経済を勉強した奴でないと役に立たん」と。なるほどと思い、黙ってました。わた しは社会学部だったのです。自分なりに文学方面を齧ってたつもりですけど(笑)。。


【17444】

内 田樹の武道論

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月 3日(水)02時13分18秒
編集済
   最初のうちは、形 そのものができませんから、もともとの意味が失われて形骸化した、ただの無意味な身ぶりなんじゃないかなという疑念が湧いてきます。これが最初のハードル です。この段階で「降りてしまう」人間がいます。だから形なんか無意味だ、という安直な結論に飛びついて、形稽古を止めてしまうか、自分がやりやすいよう に形を変えてしまう人間がいます。
 この最初のハードルを跳び越えることができるのは、「武道の形」には「何か今の自分程度の術技では理解が届かない深い意味があるに違いない」と思える人 間だけです。
 自分に分かること、自分にできることだけをやる人間と、自分に分からないこと、自分にできないことだからこそやりたいと思う人間を「スクリーニング」す るこれが最初のハードルです。武道が求めているのは、そういう小さな自我の殻を破ることのできる人間です。
 その次は、ある種の形がある種の身体部位の微妙な使い方を要求することに気づく段階です。
 なるほど、これが「武術的身体運用」というものかと、はじめて「腑に落ちる」経験をするのがこのときです。こういう身体運用が自動的にできるようになれ ばよいのだな、と納得がゆくのです。
 でも形というものの奥深さは、おそらくそれにはとどまらないものだと思います。ぼくは今はまだその段階にとどまっていますけれど、「この先がある」とい うことについて確信が出てきました。うまく言えませんが、それはこの「形を捨てる」という段階が次に来るはずだ、ということです。
 形という人間の身体の動きをわざと不自由にさせるようなネガティヴな条件づけをするのは、そのような条件づけを「ぜんぜん気にしない」ような心身の状態 を作り出すための教育的な布石ではないかと思うのです。
 どの芸道でも「守破離」ということが言われます。
 規範に従う段階、それを破る段階、そしてそれから離れる段階。
 こういうことばの教育的意味が最近になってようやく少し分かってきました。
   (「疲れすぎて眠れぬ夜のために」内田樹・角川文庫,p.151)

 内田樹の専門はフランス現代思想ですが、大学で合気道も教えているということがこの文庫本でわかりました。まだ読んでいませんが、内田には武道論がある とのことです。まとまった一冊があるのかどうかわかりませんが、ここに引用したものによって、内田の武道論の一端に触れることができます。
 この引用文の中の、「守破離」という語に私の目は引きつけられました。初めて目にする語で、私は知りませんでした。「規範に従う段階、それを破る段階、 そしてそれから離れる段階。」という言葉を読んで、すぐに脳裏に浮かんだのは、「回転読み」「切断読み」「言葉として使うこと」の三つでした。
 空手や合気道の形のような定型ではないのですが、「回転読み」は形の思想から生まれているものです。形(かた)ではないが、形(かたち)です。武道の形 (かた)というのは、複数の形(かたち)の連続でできている定型です。
 私はまだ形(かた)を作れていませんが、形(かた)の思想はうすぼんやりとながら、体内に持続して持ち続けてきたと思っています。本来の形(かた)では ありませんが、英文ひとつの形(かたち)を形(かた)にしてしまったらどうなるんだと考えて編み出したのが「回転読み」だと言えば言えると思っています。
 武道の形は、一つの流派が持つ数としてはそんなに多くはありません。多くある必要がないからです。「守破離」のそれぞれの段階を歩き通させることさえで きればいいので、多くある必要はありません。
 語学には武道が持つ形(かたち)の複合としての形(かた)はありませんので、ひとまずは一つの文を一つの形(かた)として扱ってしまうしかありません。 そうすると、語学には無数の形(かた)があるということになります。形(かた)そのものより、語学は武道以上に「形(かた)の思想」が要になると考えてい ます。
 武道でも、私がここで言っている意味での形(かたち)の練習はあります。空手の突きでも、同じ突きを何十回も何百回も繰り返す練習はあります。これは形 (かたち)の練習で、形(かた)ではありません。形(かた)ではありませんが、この何十回も何百回も繰り返すことは、形(かた)の思想がもたらすもので す。繰り返しにより、感覚が深化することを喜ぶことが形(かた)の思想のエッセンスです。同じ文を繰り返し言い続けることで、自分の中で感覚が深化するこ とを感じることのできる人、それを喜ぶことのできる人は語学の才能があるのだと思ってもらって間違いないと思います。
 語学では、一つの文を一つの形(かた)として扱ってしまう。言葉は簡単ですが、これは非常にわかりにくいことなのかもしれません。しかし、今のところ、 この言い方しか思いつきません。
 武道は喧嘩でも闘いでもありません。それはやはり、「道」なのだと思います。人の「道」というような道徳にとどまらない。身体を通じて、命が生きている ことを感じとれれば、それで武道であると言えると思います。中国のタオが言っていることにそれは通じているものであり、日本の武道は中国のタオの優れた一 分派であると言えばいいのだと考えています。
 語学もやはり、「身体を通じて」でなければ駄目なのです。「頭脳を通じて」では駄目です。はんちくなゴガクというものがあります。それは、英語なら英語 の「磁場」に渡って、いきなり当事者として「磁場」で生活してしまうようなものです。これは、いきなり喧嘩をするようなものです。およそ、「道」などとい うものではありません。はんちくなゴガクというものなら、「頭脳を通じて」だけでやれます。なぜなら、「身体を通じて」というものは、生活過程そのものが ほぼ受け持ってくれるからです。「身体を通じて」ということを、微細に感じとれなくても、「磁場」が「身体を通じ『させて』」しまうのです。だから、身体 論としても、語学論としても、はんちくなものしか持てなくなってしまいます。
 同じ英語をやったのでも、「日本在住」の語学と、「磁場帰り」(「磁場」だのみ)の達者なスキルとは、まるで本質が違うものです。男が女の気持ちがわか らず、女が男の気持ちがわからないというのと同じくらいに、お互いのことがわからないものだと思います。

 内田樹に戻ります。
 内田のこの本を読んでうれしく思ったのは、「守破離」という言葉を私が知らなかったにもかかわらず、「規範に従う段階、それを破る段階、そしてそれから 離れる段階」が、「回転読み」「切断読み」「言葉として使うこと」の三つとして、私の考えの中にすでにあったことでした。

 私は、「道」を歩くのであれば、「守破離」の後もあると考えています。
 それは、剣道家の「素振り」のように、毎日続けるようなことです。あるいは、寺の毎朝のお勤めとしての読経のようなものです。このようなものを続けるこ とで、形(かた)にとらわれるか、本当に形(かた)を破れるのかが決まるのだと考えています。形(かた)の思想は、人の一生をかけて吟味するに値するもの だと思っています。
 


【17445】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月 3日(水)02時28分22秒
編集済
   なんだか、読ん で、にこにこしてしまいました。
 まあ、娑婆からすれば、俺たちこそ、クズなんですが。そんなことは、言われなくてもわかってらあ、ってなもんですね。「問題外」なのです。

 「親父のコネ」なんて使わなかったほうがよかったのだと思います。
 そんなもの使うと、まあ、人によりますが、たいがい人間がネジクレますぜ。

>転職を繰り返し、さまざまな業界を知り、はじめて「社会の仕組み」の一部を垣間見ることができたようにおもいましたが。だからどうなんだ、と訊かれれ ば、別にとしか言いようもないことですが。。

 そうですね。「別に」ですね。

>結局、新聞で見た小さな会社に拾われました。

 俺は、拾われなかった。馬の骨以下だったんです。
 実は私は、ひそかに学校の教員になる単位は全部集めたのです。それで、自分が出た高校で教育実習というのをやり、後は東京都に教員免許を要請すればいい だけにしたのです。それで、それをやりませんでした。
 高校の職員室にいたときに、ああ、これは俺の生きる場所ではないと思ったのでした。何の論理もなかったのです。ただ体の中で感覚が私に教えていたと思い ます。
 教育実習を終えて、東京に戻ってからは、編集者かなと思って、編集者募集の新聞広告で職を探しました。どこへ行っても蹴られたのは、前回書いた通りで す。よく覚えていませんが、10箇所くらい出向きました。
 「ハリマオ」なんか発行しているのは、編集者になりたくてなれなかった偏執者なのかもしれません。
 あれら弱小出版社は、俺を雇っていたらもうかっていたかもしれないのにと思うことがありますが、俺を雇っていたら内輪もめでつぶれていたかもしれないと も思うこともあります。

 私にも後悔はないです。


【17446】

内 田樹の武道といえば。。

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年11月 3日(水)05時32分28秒
  「私の身体は頭がい い」 (文春文庫)600円+税
「身体を通して時代を読むー武術的立場」(文春文庫) 648縁+税

最新刊
「武道的思考」(筑摩選書) [単行本] 1680円+税
など、たくさんあるようです。

合気道六段、居合道三段、杖道三段の武道家。
 


【17447】

内 田樹を調べると。。

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年11月 3日(水)05時37分24秒
  内田樹ーヴィキペ ディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9


【17448】

「守 破離」

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月 6日(土)23時21分52秒
  根石さんが内田樹に 触発されて書かれた文章は、たくさん考えるところがあるのだけれど、最初に読んだ時、「守破離」から、文法のことを思いました。
まずすらすら読めることが先ですが、外国語を身につけるには文法についても知らなければならない。文法のこともこれでもかというくらいにやって、最後には 文法を意識しなくても読めたり話したりできるところまで行く。掲示板での以前の議論で、根石さんが「文法は忘れるもの」と言っているのを思い出しました。 文法の「破」が何になるか今ちょっと見当がつかないですが。
「守破離」はもっといろいろなことに言えることなんだと思いました。
また書きます。


【17449】

お 久しぶりです

  投稿者:福 岡Mです  投稿日:2010年11月 8日(月)23時42分53秒
  根石さん、お久しぶ りです。お元気ですか?数年前にお世話になった、福岡Mです。覚えていらっしゃいますか。中津先生のコーナー、いいですね。私も96年に1年間、中津先生 の発音訓練を月に一度のペースで受けていましたので(一度もOKになったことがありませんでしたが)、大変貴重なコーナーだな、と思い拝見しました。ここ を見ながら、また一から練習します。また、内田樹氏の著書も、ここ数年はまって読んでいまして、いろいろ考えるきっかけをいただいています。村田さんが書 かれている、文法もそうですし、発音もまたそうなのでしょう。私はまだまだ守の段階ですけども、いつか離れてみたいものです。英語でも武道でもありません が、茶道のお手前も形をまず守ることが大切で、そのお手前も覚えるのが面倒くさくて投げ出したくなっていたのですが、ある日突然、そのお手前の順番が如何 に無駄のない流れになっているのかというのを発見し、いたく納得したのを覚えています。守ってみて初めて見えるもの、色んな場面であるのでしょう。さて、 久々にお邪魔して、厚かましいのですが、今度スカイプ練習見学させていただけると嬉しいです。では、また書き込みしに来ます。


【17450】

連 絡専用掲示板から転載

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月 8日(月)23時45分53秒
編集済
  連絡専用掲示板の中 の「大風呂敷」向けの記事を、転載させていただきます。

====================================

お久しぶりです。  投稿者:ももこ  投稿日:2010年11月 3日(水)06時17分54秒 編集済

おひさしぶりです。ももこです。つわりが終わったかとおもったら、血圧が高く「もっと休みなさい。そうじゃないと入院になっちゃうわよ」と指導をされてし まう日々を過ごしています。(原因は疲労とストレスによるものが大きいから安静にするようにとのことです^^;)

そんななか(?)、娘が根石さんのレッスンに移り初回のレッスンをうけました。
途中娘自身が、風邪気味だったのため、ダラダラしていたので「やる気がないならやめなさい」と私に怒られグレる場面もありスミマセンでした。

今日は、私の感想を書きます。

村田さんのレッスンと違って、1レッスンの間に結構直すんだなぁというのが印象に残りました。といっても沢山のポイントを直すのではなくて、1つのポイン ト「口の両端斜め上」であればそのポイントを集中的にかなり手をいれるんだなぁという感じでしょうか。(末娘がヘッドホン音量を最大にしていたため、私も 聞くことができました。)
「あっここも両端斜め上なんだ」とひっそり私も練習してました^^;

村田さんのレッスンではのびのびしていましたが、根石さんのレッスンでは喝を入れられたというか「こりゃまずいぞ」と思っているように見えます。
(いい意味で)コーチによってやはりカラーが出るのかなとちょっと感じています。

これからの娘が楽しみです。


<<レッスン枠移動に関して>>
我が家の意向をお伝えする必要がもしかしたらあるのかと思い、あわせて書き込みします。

レッスン日時ですが、ご一緒してくださる生徒さんのご家庭の都合がよければどの枠に移っても構いません。

支払い以外のレッスン受講に関わることは、すべて娘に任せていますので、変更があるようでしたら、娘に直接お伝えいただければと思います。交渉も娘として いただいて結構です。よろしくおねがいします。


【17451】

連 絡専用掲示板から転載

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月 8日(月)23時50分47秒
  息子は   投稿者:N  投稿日:2010年11月 8日(月)22時17分8秒

今日は、もう一人参加していただいて、2人でさせていただきました。
2人になって、余裕ができたのか、ずいぶん調子よく、生意気を言っておりました(^^;)

村田さん、急な申し出に対応していただいて、ありがとうございました。お世話様でした。
ゆっくり母さんにも、ずいぶん手助けしていただいて、かたじけない!といった感じでした。ありがとうございます!!
恐る恐る、お試しを始めさせた息子ですが、一年前と比べると、ずいぶん成長したのでしょうか。前はかなり無関心だったのですが、なんとなく「食いつき」が 違う気がします。
根石さんも、5年生は、始めるのに最適とおっしゃってましたが、「時期」というものがあるのでしょうね。
良いきっかけになってくれればいいのになあ。。と心で祈っています。


【17452】

も もこさん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月 8日(月)23時58分52秒
  >おひさしぶりで す。ももこです。つわりが終わったかとおもったら、血圧が高く「もっと休みなさい。そうじゃないと入院になっちゃうわよ」と指導をされてしまう日々を過ご しています。(原因は疲労とストレスによるものが大きいから安静にするようにとのことです^^;)

 大事な時ですから、お医者さんの言いつけを守って休んでいただくようお願いします。レッスンの方も休んでいただいているのですから。
 掲示板の方もぼちぼちにして下さい。赤ちゃんが生まれて、レッスンに復活できるようになりましたら、どんどん書いていただきたいと願っておりますので。

>そんななか(?)、娘が根石さんのレッスンに移り初回のレッスンをうけました。
途中娘自身が、風邪気味だったのため、ダラダラしていたので「やる気がないならやめなさい」と私に怒られグレる場面もありスミマセンでした。

 レッスンを聞いていていただくのは結構ですが、レッスン中は娘さんに声をかけないようにしていただきたくお願い致します。

>村田さんのレッスンと違って、1レッスンの間に結構直すんだなぁというのが印象に残りました。といっても沢山のポイントを直すのではなくて、1つのポイ ント「口の両端斜め上」であればそのポイントを集中的にかなり手をいれるんだなぁという感じでしょうか。(末娘がヘッドホン音量を最大にしていたため、私 も聞くことができました。)
「あっここも両端斜め上なんだ」とひっそり私も練習してました^^;

 始めたばかりの頃は、そんなに直しは多く入れない方がいいと考えています。今日のレッスンより、先週のレッスンの方が生徒たちの口の動きに元気があった ので、先週は多めに直しを入れたのだろうと思っています。直しの多い・少ないというのは、普段はあまり意識しておりません。今日は、意識してやりました が、直しは多くなかったと思います。

>村田さんのレッスンではのびのびしていましたが、根石さんのレッスンでは喝を入れられたというか「こりゃまずいぞ」と思っているように見えます。
(いい意味で)コーチによってやはりカラーが出るのかなとちょっと感じています。

 直しを入れるのは、直しを入れてもいいくらいまでの読みの連続性ができてきているからです。これは、村田君のレッスンの間にできてきたものです。
 「喝を入れられた」というほどのものではないんじゃないかと思っていますが。

 読みの連続性さえできていない段階では、直しはほとんど入れません。
 連続性は個々の文にもよります。一般に語数が多くなるほど、連続性が作りにくくなります。

>これからの娘が楽しみです。

 私も楽しみにしています。


<<レッスン枠移動に関して>>

>支払い以外のレッスン受講に関わることは、すべて娘に任せていますので、変更があるようでしたら、娘に直接お伝えいただければと思います。交渉も娘とし ていただいて結構です。よろしくおねがいします。

 枠の移動については、全員の承諾が得られましたので、来月から可能になりました。ありがとうございました。


【17453】

福 岡Mさん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月 9日(火)00時27分37秒
編集済
  >根石さん、お久し ぶりです。お元気ですか?数年前にお世話になった、福岡Mです。覚えていらっしゃいますか。

 お久しぶりです。これまで、福岡の生徒さんはイニシャルがMの方が三人おられます。文章から察するに、久留米市のMさんだと思いますが、当たりでしょう か。テキストは何を使っていたのでしたっけ。
 あの頃とはずいぶんとレッスンの様子が変わり、今は私が自作した巨大な教材を使っています。コーチの数も三人に増えています。
 レッスンは「二人一枠」が標準になり、一人月額6千円で受講していただけるようにもなりました。

 この巨大な教材は、「自立練習のみ=無料課程」につながっています。
 私がレッスンで注意することがほぼなくなった段階の生徒さんは、「自立練習のみ=無料過程」へ進む候補になっていただき、新しい生徒さんが始めてくれる ことで枠数が増えると、「押し出し式」に「無料課程」に進んでいただくようになります。現在、二人の「無料課程」の生徒がおります。
 私のレッスンは、いずれはお金がかからなくなるものになりました。
 「自立練習のみ」になると、巨大な教材が無料で開放されます。

>中津先生のコーナー、いいですね。私も96年に1年間、中津先生の発音訓練を月に一度のペースで受けていましたので(一度もOKになったことがありませ んでしたが)、大変貴重なコーナーだな、と思い拝見しました。ここを見ながら、また一から練習します。

 中津さんの方法は、文の連続性ができてから(イントネーションの決定力がある程度できてから)やるといいと考えています。中津さんには「中間音」という 考えがなく、初心者は脱落する人が多いのではないだろうかという老婆心を持っています。

>また、内田樹氏の著書も、ここ数年はまって読んでいまして、いろいろ考えるきっかけをいただいています。村田さんが書かれている、文法もそうですし、発 音もまたそうなのでしょう。私はまだまだ守の段階ですけども、いつか離れてみたいものです。英語でも武道でもありませんが、茶道のお手前も形をまず守るこ とが大切で、そのお手前も覚えるのが面倒くさくて投げ出したくなっていたのですが、ある日突然、そのお手前の順番が如何に無駄のない流れになっているのか というのを発見し、いたく納得したのを覚えています。守ってみて初めて見えるもの、色んな場面であるのでしょう。さて、久々にお邪魔して、厚かましいので すが、今度スカイプ練習見学させていただけると嬉しいです。では、また書き込みしに来ます。

 内田樹は面白いですね。今後、もっと広く読まれるようになるだろうと思っています。馬の骨さんがこの掲示板で紹介して下さったのです。武道論としてまと まったものが出ているようなので、読んでみようと思っています。
 茶道のお手前については私は何も知りませんが、書いてくださったようなことはよく納得できるものです。
 スカイプを使ったレッスンをスカイプで見学していただくこと、歓迎いたします。スカイプ名を教えておいていただき、曜日、時間帯等打ち合わせておく必要 がありますので、素読舎連絡専用掲示板の方に書いて下さるとありがたく思います。


【17454】

N さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月 9日(火)00時33分57秒
  >恐る恐る、お試し を始めさせた息子ですが、一年前と比べると、ずいぶん成長したのでしょうか。前はかなり無関心だったのですが、なんとなく「食いつき」が違う気がします。

 時期というものがあると思います。5年生で始めるのは、ベストだと思います。それと、お母さんがレッスンに食らいついて継続しているのを見てきたこと も、大きく作用していると思っています。

 ゆっくり母さんが働いて下さったとのこと、感謝しています。
 よろしくお伝え下さい。


【17455】

N さん

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月 9日(火)01時01分54秒
  >恐る恐る、 お試しを始めさせた息子ですが、一年前と比べると、ずいぶん成長したのでしょうか。前はかなり無関心だったのですが、なんとなく「食いつき」が違う気がし ます。

1年前の様子はわかりませんが、今は熱心ですね。時機があるのかもしれません。小学5年生という時期はやはり一番いいのかもしれませんね。
先週は初めてで、しかも一人だったので、相当疲れたと思いますが、くらいついてくる姿勢が感じられました。このまま続いてほしいと思います。
 


【17456】

(無 題)

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月 9日(火)01時09分41秒
  掲示板をリロードし ないで投稿したら根石さんと投稿がだぶってしまいました。


【17457】

根 石さん

  投稿者:も もこ  投稿日:2010年11月 9日(火)08時18分49秒
  コメントありがとう ございます。なるほど、連続性ができるまでの初期は、直しが多く入らないんですね。

次のステップに娘は進んだんですね。
直しが入ったあとから読みがぎこちなくなり、娘もそのことは感じているみたいです。そのぎこちなさを脱ぎ去りたいような様子で、レッスン後自主練習をして いるような様子が今日は見られました。「何か再構築されているんだろうなぁ」とは感じます。

最近テキストの語数が増えたのでしょうか、注意する部分がふえたのでしょうか、cameraなどに苦戦していますね。マイクを通さないと明らかに娘の発音 がcanonになっているのですが、cameraが娘にはcanonになるんですね。ちょっと面白いです。(私には何度発音してみてもcameraが canonには聞こえないんですが・・・。^^;)

これからもよろしくお願いします。


【17458】

も もこさん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月 9日(火)13時24分49秒
  >最近テキストの語 数が増えたのでしょうか、注意する部分がふえたのでしょうか、cameraなどに苦戦していますね。マイクを通さないと明らかに娘の発音がcanonに なっているのですが、cameraが娘にはcanonになるんですね。ちょっと面白いです。(私には何度発音してみてもcameraがcanonには聞こ えないんですが・・・。^^;)

 camera は「きゃめろん」という子供がけっこういます。

 m と n がはっきり区別されていない子供もけっこう多く、区別されるまでに2年くらいかかる子供もいます。できる人からすれば、唇を閉じるのか少し開いたままでい るのかにすぎませんし、日本語でも「マ行」の m 音系は存在するのですから、そんなに難しいはずはなかろうと思うかもしれませんが、小学5年、6年くらいになるまでは、本当は日本人の日本語の音も「固 まってはいない」のです。(子供のしゃべりが可愛いのは、日本語の「中間音」が多く含まれている時期だからです。)

 日本語の「ん」は実は m 音系であることがままある、ということが影響しているのではないかと思っています。「さんま」の「ん」のように、「ん」の次に m 音系が続くと、日本語では「ん」は n ではなく m になります。(唇が閉じています。)日本語の「ん」は実は、n でも m でもあるわけです。

 camera の ra のところを「ろん」と言う子供がけっこう多いのはどういうわけなのかはわかりません。日本語の音の体系と、英語の音の体系とがぶつかりあっているのだとい うことがわかるだけです。r音が日本語に「存在しない」から起こる現象だろうとは思います。子供は「ろん」に代置した方が気持ちが落ち着くのではないだろ うかと思います。
 また、r 音は、日本人の英語の音の練習では、最後に根付く単音だと思ってもらっていい音です。いきなりは出ません。日本語でできかけている口の動きのどこにもそれ は「存在しない」からです。
 中津遼子のように、「これはこうなんだ」と説明し、自分で言ってみせても駄目なんです。まずは、口をどんどん動かさせ、動きの「自由度」というものを作 り(このときに、口の筋肉もわずかずつ形成されます)、その後に「説明」を置くのでないと駄目です。中津が自分でいくら正しい音を出せても、子供(生徒) がそれを実現しないのでは意味がありません。この意味のなさは、Repeat after me.方式のすべてに言えることです。「中間音」で、どんどん動かさせるということが最初に置かれるべきものです。娘さんが今出している音は、「上等の中 間音」だと考えていただいていいと思います。

 r のときは、「舌はどこにも触らない」ということを言う適期が来たら私はそれを言います。今は、まだ「準備体操をよくやって体をあたためておく」(口の筋肉 の動く範囲を少しずつ広げておく)というくらいの時期だと思って下さい。この時に、子供の声に元気があるというのが非常に大事です。レッスンの最中に横か ら何か言わないでいただくことを重ねてお願い致します。

 各単音について手順が決まっていてレッスンしているわけではありません。言ってみたがまだ早かったかと思えば、またしばらく言わないでいるというような こともやります。勘で判断することが非常に多くあります。この勘の働きは、村田君と私とではかなり違うかもしれません。

 私の教材は、波状的に復習が行われるようになっています。今、canon と言っている音も、半年、一年後には直っていますから注目していて下さい。直れば、つまり、camera として固定されれば、以後は canon に戻ることはありません。

 素読舎の「音づくり」には、「中間音」という概念があります。福岡Mさんに書いたことも関連しますが、「中間音」を肯定しなければいけない時期に、強引 に「ネイティヴ音でやれ」というようなことを言うと、多くの子供が英語が嫌いになります。
 厳密には、「ネイティヴ音」というのは、英語ネイティヴだけが出す音のことです。それは普通、「英語しか話さない(話せない)人の出す音」です。地域性 や個人的な癖にも浸されている音です。そんなものと、日本人が同一化する必要はありません。また、同一化はできません。日本在住のまま英語をやり、日本語 と英語を二つ話す人の場合(幼児期から成立したバイリンガル以外は)、その英語音は、「英語の音として通用する音」であり、決して「ネイティヴ音」などで はありません。上手な音、下手な音というのはありますが、いくら上手な音でも、日本語が第一言語である人の音は、決して英語の「ネイティヴ音」ではありま せん。ネイティヴ音だと思っている人がいたとしたら、耳が悪いのか、何か勘違いしているのかのどちらかです。勘違いしている人は、「ネイティヴ」という語 がわかっていないのです。

 今、娘さんが出している「中間音」は多分、canon ではなく、camon (きゃmぉん)に近いのではないかと思っています。私にはそう聞こえていました。
 スカイプの場合、マイクによって音質がかなり違ってきます。
 しかし、音がかなり小さくても、マイクがどんなマイクであっても、半年、一年後には camera に直っているはずです。是非注目していて下さい。

 この推移の中に素読舎の「音づくり」というものの実質があります。


【17459】

根 石さん

  投稿者:も もこ  投稿日:2010年11月 9日(火)13時53分4秒
編集済
  閲覧したらちょうど 書き込みがあったので、そのまま書き込みます。
解説ありがとうございます。たしかに、きゃのん/きゃめろんを行ったり来たりしてました。

「日本語の音が固まらない」そういった時期に娘はあるんですね。そういったことを今知っておいてよかったと思います。(逆に知らずに来春からの新カリキュ ラムで英語に触れさせていたらと思うと・・・。)子供って面白いですね。

日本語が固まるというところから言うと、やはりお相手の6年生の男の子とは段階が違うんですね。でも一緒にレッスンができるところがスゴイというか面白い なと感じます。

前回は風邪、今回は寝坊なので、次からは元気な本来の娘に戻ると思います。(今学芸会の練習中なんです。)
と同時に私も娘にかまっていられないので^^;レッスンはほぼ参観できなくなると思います。(ただ、仕事の都合、PCのそばに電話があるので、電話が掛 かってくると話し声が入るかもしれません。昨日は夫からの電話があったので「レッスン中なんですけど」と電話を切らせる場面がありました。)

でも、cameraについては面白いので、すこし記憶に留めておこうと思います。半年後といえばお腹の子が生まれる頃ですから、その頃の娘の音、どうなっ てるんだろうなぁ〜とちょっとワクワクします。


質問です。
おそらく愚問だと思うのですが、先程のきゃのん・きゃめおんに限らず、「?」と思う発音でも本人が練習したい場合は練習させていていいのでしょうか?(と いってもhaveがヘブでも勝手にさせていたのですが^^;)


何はともあれ、娘には初心にもどって(?)「間違えてもいいから元気に堂々と」とアドバイスしようと思います。


【17460】

酔 余、camera 再説

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月10日(水) 01時04分38秒
   典型的なのは、 her だと考えていますが、こんな簡単な(中学1年生で出てくる)単語でも、実は間違って発音している人がたくさんいます。
 これは、私が作った「あいうえお・フォニックス」が扱う er の音が出せていないということです。もっとも簡単に言うと、綴りで、a, i, u, e, o に r をくっつけた ar(アクセントのある ar は別格), ir, ur, er, or は、「狭いアー」であるという規定から、日本語の「ハー」が大きくずれているからです。

 coffee が通じないのは、f 音が出ていないのが原因だと考える人がいるかもしれませんが、実際はアクセントがフラットである場合が多いだろうと私は思っています。 coffee の co を際だたせて強く言えば通じるだろうと思います。これはアクセントがフラットすぎると通じない典型例です。coffee の co の部分を ffee より「倍くらい強く」言えば通じるだろうと思います。(これはしかし、ダークテクニックに類することで、f 音の練習をしなくていいと言っているのではありません。)

 アクセントのある位置の音が「間違っている」と、英語音としてはまず通じません。coffee の場合は、co のところで日本語の「こ」の音を強く言うと通じます。「か」を強く言うのでも通じます。

 通じないことの原因がアクセントである場合(coffeeなど)というのは、カタカナ表記として英単語が日本語単語になっているものに多く見られます。
 camera も英単語が日本語単語になったものですが、これはアクセントではなく、単音が難しい例になります。

レッスンで、camera を私が発音すると、生徒が日本語音で「カメラ」ということはまずありません。ほとんどすべての人が「キャメラ」と言います。K 音と一体化する「一瞬般若」は比較的簡単に出します。この段階では、口の両端が動いていませんので、実は音は違っているのですが、日本語の「キャ」を口の 両端の動きによって出すことは、日本人には難しいことではありません。
で、「キヤメラ」の「メ」と「ラ」の方が難しい。日本人は、「メ」と「ラ」をくっきりと言ってしまうのです。camera の me と ra は、相当に「いいかげんに」言わないといけない。「キャ」の時に、口の両端がビシッと動きさえすれば、全体を「キャムオ」というくらいの感じで言えば通じ ると思います。

 で、なぜ「キャムオ」の「ム」で通じ、「オ」で通じるのかが問題です。

 camera は ca のところにアクセントがあります。
 アクセントがあるところの直後の母音はまず間違いなく、弱音化します。
「狭く弱い音」になります。これは英語の音の体系における非常に強い癖として注目すべきものです。
 camera の ca のアクセントの後で、me は「ぼけ」ます。ぼけて、「狭く弱い」音になります。日本語の「メ」を狭く弱い音で出せれば、それでOKですが、この「弱い音」というのが、日本人には けっこう難しいのです。
「キャムオ」で通じるのは、日本語の「ム」の音に含まれる「ゥ」の音が「狭い」からです。日本語の「あ・い・う・え・お」の音の中では、「ウ」と「オ」の 音が狭い(唇の開きが狭い)のです。「エ」もけっこう狭いですから、「キャメオ」ももちろん通じます。
 日本語の「ウ」が「狭い」ので、「キャメウ」でも通じます。
 これら全部を使うとどういう組み合わせができるのか、頭が混乱してきていますが、「キャ」を強くドンと出せれば、「キャメウ」でも「キャムオ」でも 「キャメオ」でも「キャムウ」でも通じるということです。

 私と柴田さんが別れた原因は、「通じる」という語の解釈によります。
 今になって柴田さんが書いてくださったことを読むと、「練習の場面」と「実際に使う場面」をはっきりと区別して下さっていることに気づきます。そのこと については申し訳なかったと思います。
 柴田さんが、あまりにも細部にわたって日本人の口の動きを「直す」ことに私が反感を抱いたことが原因でした。こんなにもよく知っているのなら、発音教則 本を書くべきだ。(書くなら、私が印刷する手間は惜しまない、うちには印刷機がある!)それをやらないで、一つの学校の一つの教室の中だけで通用させてい るのはまずいんじゃないかという批判が私の側にあったのです。

 私が最大の学恩をいただいたのは、柴田武史さんから、です。そして、恩人と早期に別れてしまいました。羊と山羊の違いのせいだと言えば、中原中也の読者 なら面白がってくれるかもしれません。
 柴田さんの生徒たちは、羊なのです。本当によく飼い慣らされている羊なのです。東大に60人も合格させる中高一貫校の羊たちなのです。
 私の生徒たちは、山羊ですね。荒っぽい。でたらめな文部科学省の犠牲者たちであるだけでなく、語学論を読めるというレベルの人が多いので、文化的植民地 下における「英語の教室」の羊生徒たちと比べると、明らかに批評意識が強く、そのために、荒っぽい。山羊です。私は、山羊である生徒を持てたことを、本当 に幸運なことだと思っています。

 しかし、論理レベルでは、私が間違っていました。
 柴田さんは、「練習の場面」と「実際に使う場面」をはっきりと区別して下さっていた。柴田さんは学者になれるが、私は学者にはなれない。私は、職人が好 きですし、自分でも語学職人になりたい人間です。
 細部にわたる「直し」は必要ないという考えは今も変わりません。
 日本の在来の家だってそうです。構造的に本当に屋根や壁の重さを支える柱や土台は荒削りの材です。見せる柱というのは、ぴかぴかに鉋をかけてあります。 ぴかぴかに鉋がかかった「部屋の中から見る柱」というのが本当に構造を支えているのではない。(大黒柱を使っていた頃の日本の家はそうです。)柴田さん、 それ、袋小路だよ、というのが、今になっての私の批判なのです。「職人による先生批判」だったのです。職人というのは論理レベルではよく間違えるもので す。論理レベルで間違うくせに仕事はいいというのは、職人にはよくいます。

 で、話が跳びました。

  camera で「キャ」を強くドンと出せれば、「キャメウ」でも「キャムオ」でも「キャメオ」でも「キャムウ」でも通じるというのは、実は、ここにおける「ム」や 「メ」や「ウ」や「オ」は、発音記号では「逆さe」を含むというのが眼目です。

 日本人の英語は、「逆さe」が出せるようになれば相当に通じるというのが私の持説です。「逆さe」が最大の眼目だと考えています。

 私は半ば冗談で、「俺は三つの音で、おまんま食ってんだ」と人に言うことがあります。三つの音というのは、「顎の下がる明るいアー(歯医者)」と「口の 両端の動きで出すア(一瞬般若)」と「狭いア(逆さe,逆さv)」です。

 もちろん、私が生徒に出す指示は他に無数にありますが、眼目はこの三つです。聴き取りに使えるだけの「連続性=速度」を備えて、「自立練習のみ=無料課 程」に進む生徒は、連続性や速度はもちろんですが、その連続性や速度に「三つの音」が「区別されて備わっている」はずです。

 そのレベルになれば、日本人としては英語の音はひとまずいい。
 その先をやりたければ、各自勝手に興味の赴くままにやればいい。
 私がやっているレッスンは日本人に「基礎」を持たせるだけのことだ。

 どこまでいっても、私の使う比喩は建築用語が多いのは、自宅自作をした人間なのでしょうがないと勘弁してもらおうと思います。


【17461】

も もこさん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月10日(水) 01時31分30秒
  >日本語が固まると いうところから言うと、やはりお相手の6年生の男の子とは段階が違うんですね。

 そうです。しかし、これは、一挙に変わるというほど段階が違うのではないのです。3年生や4年生と5年生6年生との間にあるのもグラデーションです。
 このグラデーションが、5年生くらいで急に「大人がしゃべる日本語音」が濃くなってきます。多分、体ができてくることと並行しているのだと思います。

 もし、コンピュータの基底にあるように0と1くらいに全く違うのであれば、私は小学3年生からレッスンを受けつけるということはやりません。


【17462】

根 石さん

  投稿者:も もこ  投稿日:2010年11月10日(水) 12時20分23秒
  くわしくありがとう ございます。
グラデーションですか。年齢も個人差もきっとその中には微妙にあるんでしょうね。それがあるからこそ3年生まで開始学年を下げるまでにゆっくり時間をかけ てこられたのかなと感じました。(他にも理由があるとおもいますが)

娘のレッスンをきっかけに子供の音について、小学生の英語レッスンについて知ることができ感謝しております。ありがとうございます。


【17463】

階 層化する社会について

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年11月14日(日) 18時43分46秒
  内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php

抜粋
「月本洋さんによると、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」。
その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。
言い換えるならば、他者との身体的な「同期」が「理解」ということの本質なのである。」


【17464】

立 国の道すじについて

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年11月14日(日) 18時58分8秒
  内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/11/09_0945.php



抜粋
[「英語ができる日本人」のプログラムを起案したとき、文科省はそのHPに堂々と「経済競争を勝ち抜くため」と書いた。
英語ができないと金儲けができない。
それが教育行政のトップが英語教育の必要性を基礎づけるために使ったロジックである。
爾来、日本の生徒たちの英語学力は底なしの低下を続けている。
こんな「下品」な教育目的で活性化するほど人間の知性は「下品」に作られていないからである。]


【17465】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月14日(日) 23時28分49秒
編集済
  どちらの記事もいい ですね。
内田樹、相変わらずの快進撃。
「大風呂敷」の読者の皆さんにも是非読んでもらいたい。
 


【17466】

村 田君

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月14日(日) 23時31分40秒
  「大風呂敷」から、 内田樹さんのホームページにリンクを張るのがいいと思います。


【17467】

根 石さん

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月15日(月) 06時34分40秒
  どちらの記事も根石 さんが言っていることを別の角度から言っているように思えました。
リンクの件、了解です。


【17468】

根 石さん

  投稿者:ミ キ  投稿日:2010年11月16日(火) 23時13分38秒
  馬の骨さんの紹介し てくださる内田樹氏の記事、面白く読ませていただいています。

世界のジュネーブ、ヨーロッパのブルクセルに習うアジアの東京という案は面白いですね。もし、常設アジア議会というものが実現し、会議言語が英語という事 になると、英語の新たな分岐点になるのではないかと...。

俗にいうアメリカ英語、イギリス英語、国際英語(?)国際英語は、スタンダード英語とでも言えば良いのでしょうか?皆が対等に使えるもの。あ、内田氏はリ ングア フランカと言っていましたか...。私達が素読を通して学ぼうと思っている英語はこれだ、と解釈しているのですが、間違っていますか?

これらに加えて,アジアの国々のものの考え方、アジア言語の音の特色を反映したアジア英語みたいなものもうまれるのではないかと想像します。

私も21世紀の世界の中心はアジアになっていくと思います。個人的には、日本の将来は対中国で(特にネガティブな意味ばかりではなく)、どれだけ他のアジ ア各国(特にインド)とタッグを組んでいけるかにかかっていると思います。


【17469】

連 絡専用掲示板から転載

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月19日(金) 10時12分20秒
  質問です   投稿者:江戸の母  投稿日:2010年11月19日(金)00時31分24秒

wheneverのアクセントの場所なのですが、レッスンではneverの最初のほうのeにあったと記憶しているのですが、辞書で調べたところ、紙の辞書 ではneverの最初のe、発音が聞ける電子辞書ではWhenのeにあるように聞こえました。どちらが正しいのでしょうか?


【17470】

江 戸の母さん

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月19日(金) 10時13分26秒
  >whenever のアクセントの場所なのですが、レッスンではneverの最初のほうのeにあったと記憶しているのですが、辞書で調べたところ、紙の辞書ではneverの 最初のe、発音が聞ける電子辞書ではWhenのeにあるように聞こえました。どちらが正しいのでしょうか?

whenever は when+ever です。n と e がつながって /ne/ となります。
私の手もとにある辞書ではすべて ever の最初の e にアクセント記号があります。
(研究社英和中辞典、ジーニアス、リーダース、OALD、COD、Cobuild すべて同じ)

うちの辞書で発音が聞けるのは、研究社英和中辞典と Cobuild なので、聞いてみました。
中辞典の方は発音記号通りに聞こえます。Cobuild では when の方にアクセントがあるかのように聞こえました。ただ、Cobuild で wherever 、whoever など他の単語を引いて発音を聞いてみると、発音記号通りに聞こえます。吹き込んだ人の声質などの影響があるのかどうか。ちょっとわかりません。
ともかく、whenever に関しては、レッスンでやったアクセント位置で間違いありません。
 


【17471】

メー ル、その他転載

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月20日(土) 20時08分29秒
  A さんからメールをいただきましたので、転載させていただきます。

------------------------------------------------------
根石さん

いつもお世話になります。
今日息子が、学校で英語授業があったというので話を聞いてみると、ネイティブ講師と担任によるお買い物会話で担任が言うには「英語はちゃんとやらなくても いい」「できればちゃんとやったほうがいい」と言ったそうです。
なにをもってして「ちゃんと」なのかわからないですけど、おそらく今まで私ら世代が受けてきたがちがちの文法から入るのではなくて、会話中心で「買い物が できればオッケー」ということなのではないかと思います。(How much の後ろの is it は省略されてると思います)

また、「ほかの子は”サーティーン”といってたけど、俺は”thirteen”(アの狭い音)を言ったよ」とのこと。

「英語という異文化に楽しく触れさせ、英語に興味を持たせる」が学校の第一目標のようですので、楽しくやっているようです。そんな中、重箱の隅をつつくよ うなことはしたくないですけど、担任の「ちゃんとやらなくていい」という言葉を、英語植民地化から逃れる手段としては、いいセンスかなとも思うのですが、 語学を扱う人、教育者という見かたで見たらどうも、許せないものを感じてしまいます。
「ちゃんとやらなくていい語学」なんて、存在するんでしょうか?
子どもを預けている都合上、担任にかみつく気はありませんが。息子も「一体どっちなんだろう?」という反応でした。

悪い影響を受けないためには、学校にはなにも期待しないでおきます。
英語を専門としてきていない先生なので”thirteen”の音を、出せるかどうかも気にならないでしょうし、先生も発音できないかもしれません。(先生 には英語以外では感謝してるので、こんなこと公言できませんけどね)

とにかく小学校英語授業は、とんでもない時間だなと思います。ここに、ものすごい教育委員会の労力とお金が費やされています。しかも大真面目にです。

それでいて、生徒の側としては、”まともに身につけないこと””楽しくやり過ごすこと”が処方箋なのですよね。

以上、愚痴でした。
読んでいただいてありがとうございます。

ところで、これは楽しくなる話です。
先日 T ちゃんのお母さんに「なんで、素読を始めようと思ったのか」「これからも、続けますか?」と聞いてみました。
動機は、音読には興味があって声に出して読むのはいいと思っていた。(今でも思ってる。)面白そうだなと思ったから。で、T ちゃんに習い事、たくさんやりたくなってくる年頃なので、なにか止めたらという話をしたところ、幼稚園から習っているバレエをやめてもいいから、英語はや りたい。というのでびっくりしたそうです。お母さんが「ほかにも英語教室(会話)があるよ」といっても、「根石さんのがいい」とのこと。

「それは、D くんのうちにいけるから?」ときいたら、「それもあるけど、根石さんの英語がいい」といったそうです。
お母さんも、何故、そんなに素読舎がいいというのか、わからないんだよね〜〜と不思議がってました。

D が続けていられるのも、T ちゃんがいてくれたからで、本当にこの偶然に感謝しています。

今後ともよろしくお願いします。
それでは
A
------------------------------------------------------
以上、いただいたメールです。一部削除させていただいた部分があります。
以下、差し上げた返信です。
------------------------------------------------------
A様

 メールありがとうございました。
 「大風呂敷」に転写させて下さい。
 メールにとどめておくなら、井戸端会議の域を出ません。
 転写に際して、個人が推定できるような要素は外して掲載
しますので、ご許可下さい。

 T ちゃんの話はうれしいものでした。
 何を感じとってくれているのか、私にもわからないところがあ
りますが、要するに手応えがあるということなのではないかと推
測しています。

根石吉久
------------------------------------------------------

 掲示板に掲載するに際し、気になったところがありましたので、以下、追記します。
 A さんのメールにある、『担任の「ちゃんとやらなくていい」という言葉を、英語植民地化から逃れる手段としては、いいセンスかなとも思うのですが、』につい てですが、私は「いいセンス」だとはとうてい思えません。
 「ちゃんとやらなくていい」という扱いこそ、日本の戦後がアメリカの文化的植民地であることを証しています。子供の興味を、エーカイワやアイサツやカイ モノの決まり文句に「とどまらせる」ことは、子供を馬鹿にしていると同時に、英語教育行政の植民地根性を証し立てています。
 語学として「ちゃんとやる」ところに、英語を(知的)対象とする主体性がはぐくまれるのです。アイサツやカイモノの決まり文句を覚えさせるだけという扱 い方では、異文化に出会うことはできません。ここにあるのは、アメリカ文化につき従う植民地根性です。つき従っている限りは、英語も英語話者も、「絶対的 上位」にあり、異文化としてこちらを振り向き相互に向き合うことは起こりません。つき従うことで、むしろ主体性は滅ぼされます。
 小学校に英語を導入することによって、日本人の大多数はますます英語から遠ざけられるだろうと私は予想しています。
 心ある親であれば、「芽を出させてはいけない。種として持たせるだけ」という素読舎の方法に注目してくれるはずなのですが・・・。
 小学校英語を見て、「あれじゃどうにもならない」と思われた方は、是非素読舎に連絡をいただきたいものです。「芽を出させてはいけない」というところが 理解しにくいかもしれませんが、これは非常に大事なポイントです。

 小学校英語は、単なる遊びに過ぎない。それも、悪い癖をつける質のよくない遊びだと考えるのがいいと思います。

thirteen の ir を 「逆さ e」で発音した D 君にくじけないように伝えて下さい。

 小学校への英語導入は必ず失敗します。子供を馬鹿にし、言葉を馬鹿にしている計画が成功するはずはありません。
 


【17472】

ミ キさん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月21日(日) 01時23分15秒
   遅くなりまして済 みません。

>世界のジュネーブ、ヨーロッパのブルクセルに習うアジアの東京という案は面白いですね。もし、常設アジア議会というものが実現し、会議言語が英語という 事になると、英語の新たな分岐点になるのではないかと...。

 日本は、憲法で武力を放棄した国なんですから、国際会議やアジア会議を常時開くような国になってもらいたいもんです。「ことば」の国になってもらいた い。

>俗にいうアメリカ英語、イギリス英語、国際英語(?)国際英語は、スタンダード英語とでも言えば良いのでしょうか?皆が対等に使えるもの。あ、内田氏は リングア フランカと言っていましたか...。私達が素読を通して学ぼうと思っている英語はこれだ、と解釈しているのですが、間違っていますか?

 アメリカ英語、イギリス英語はイメージ可能なんですが、国際英語っていうものは、ボディのないようなあいまいなものだと思います。実態は、まちまちな英 語の集合ってものになるしかないのではないでしょうか。各種さまざま種々雑多な英語の集合体は、しばらくはスタンダードになれないような気もします。集合 体の中で擦れ合って熱が生まれてくれば、スタンダードとなる核の部分ができてくるのかもしれません。
 私は、アメリカ英語なりイギリス英語をスタンダードとするのでいいという考えです。ただし、それ以外の英語は、このスタンダードを「媒介」にすべきであ り、同一化すべきではないと考えています。
 日本人は、スタンダード英語を媒介にして、そのスタンダードな英語に変形を加え、日本の英語というものを作っていいんだという考えも、ずいぶん前に書い たことがあります。その場合に、スタンダード英語に変形を加えるのは「語学的主体」です。悲しいことですが、私は日本で、「語学的主体」というものを目に することはめったにありません。スタンダード追随派ばっかりです。
 内田樹のリングア・フランカっていうのは、どんなものなんでしょうか。これまでに読んだ範囲では、この言葉に出会っていないと思いますので、教えていた だけたら幸いです。

>これらに加えて,アジアの国々のものの考え方、アジア言語の音の特色を反映したアジア英語みたいなものもうまれるのではないかと想像します。

 アジアの国々で英語がよく通じるところは、無惨な歴史(ハードな植民地化を伴った言語政策)を持っています。植民地化によってではなく、アジアの人々が 主体として、スタンダードを「媒介」にすることでアジアの英語を作っていけばいいのだと考えています。
 日本には、日本の英語を作ることが課せられているはずですが、文部科学省というところは、子供を馬鹿にして、小学生英語みたいなとんちんかんなものしか 考えつかないのです。

>私も21世紀の世界の中心はアジアになっていくと思います。個人的には、日本の将来は対中国で(特にネガティブな意味ばかりではなく)、どれだけ他のア ジア各国(特にインド)とタッグを組んでいけるかにかかっていると思います。

 アジアの人々とは仲良くしていきたいものだと思います。
 インドとタッグを組む時の言語はやはり英語になるのだろうと思います。


【17473】

A さん

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月21日(日) 01時54分44秒
編集済
  >また、「ほ かの子は”サーティーン”といってたけど、俺は”thirteen”(アの狭い音)を言ったよ」とのこと。

これは結構きついことなんで、息子さんには、負けるな!と思います。

私は塾では、特に小6の塾生や中1の塾生には「中学ではおまえらの発音は、もしかしたら変に思われるかもしれない。でもおまえらの発音は確実に通じる音 だ。おまえらを馬鹿にするやつらの音は決して通用しない。だから自信を持って発音しろ」と言っています。

>英語植民地化から逃れる手段としては、いいセンスかなとも思うのですが、
私もこれはセンスがいいとは思わなくて、学校の先生の怠慢だと思います。


【17474】

江 戸の母さん

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月21日(日) 02時11分43秒
  今、通塾の塾生同士 でスカイプを使った「自立練習」をしようしています。
先日、そのうちの一人の塾生と通話テストをしようとしたのですが、どうもファイアウォールが邪魔をしてスカイプがネットと通信できないようです。

以前、江戸の母さんが同じような状況になった時、ももこさんのアドバイスで、スカイプをバージョン「ダウン」したら使えるようになったことがあったと思い ます。
そこでお聞きしたいのですが、バージョンダウンして使えるようになったスカイプのバージョンはいくつでしょうか。教えてください。

何かの役に立つかもしれないので塾生の環境を書いておきます。
OS:Windows Vista
ウイルス対策ソフト&ファイアウォール:ウィルスセキュリティ
スカイプバージョン:4.0.0.216
 


【17475】

村 田さん

  投稿者:た け  投稿日:2010年11月21日(日) 09時45分12秒
  お世話になっており ます。
先日はお忙しいところ、掲示板の件ではありがとうございました。

さて、ファイアーウォールが邪魔をしてスカイプの通信が出来ないとおっしゃっていたので、横から失礼します。PCヲタクの息子に聞いてみたところ、ファイ アーウォールの設定がきつく(高く)なっているかも知れないので、一時的に弱く(低く)するか、切るかすると出来ると言っていました。例外を選択する手段 もあるけれど、たいがいはじかれてしまうそうです。

ファイアーウォールはコントロールパネルから設定出来るそうなのですが、PCをご家族でご使用の場合は、親御さんに設定して頂いた方がいいかもしれないで す。

以上、横から失礼致しました。
何かのお役に立てば…f(^^;)


【17476】

た けさん

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月21日(日) 16時35分58秒
  情報ありがとうござ います。
ウイルス対策ソフト(ウィルスセキュリティ)のファイアウォールを使っています。
そのソフトではスカイプを通すように設定されているのを確認しました。
でも、もしかしたらウィンドウズ内蔵のも使っているかもしれないので確認してみます。


【17477】

村 田さん

  投稿者:た け  投稿日:2010年11月21日(日) 21時47分36秒
  息子が言っていたの は、ウインドウズ内蔵のファイアーウォールの事だそうです。  


【17478】

江 戸の母さん たけさん

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年11月21日(日) 23時18分31秒
  自分で書いておいて なんですが、「大風呂敷」は語学論のための掲示板なので、スカイプ関係の話は「連絡専用掲示板」の方でやりましょう。江戸の母さん、よろしくお願いしま す。


【17479】

根 石さん

  投稿者:ミ キ  投稿日:2010年11月22日(月) 00時39分32秒
編集済
  LINGUA FRANCA については、馬の骨さんの紹介してくださる内田樹氏の「内田樹の研究室 みんなまとめて、面倒みよう」のなかで、『リンガ フランカ論』 『リンガ フランカのすすめ』と言うタイトルで記事が書かれています。内田氏が作った言葉ではありませんが、彼が言いたかっただろう(と私が想像する)も のの代名詞としてぴったりしていると感心しました。

学習してく上ではアメリカ、イギリス英語をお手本にする事で良いんですね。(でも、その中でどれがスタンダードなのか、自分の中でちょっと混乱してしまう 時があるのですが...。)頑張ります。
 


【17480】

「七 人の侍」の組織論

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年11月22日(月) 21時30分2秒
  内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2010/11/22_1626.php

一部抜粋
「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は「攻めの経営」というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿 らないものである。
けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難 であり、高い人間的能力を要求するということである。
そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。


【17481】

ミ キさん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月23日(火) 00時58分18秒
   教えていただき、 内田樹のブログで、「リンガ フランカ」で検索し、読むことができました。ありがとうございます。

 これ、私が、「ごつごつした英語」って言ってきたものとそんなに違わないと思いました。

 これは、しかし、英語フリークばっかりがでかいつらをしたがる日本国では、なかなか通用しない考えです。
 つくづく馬鹿らしくなるところを、内田は(文体上では)陽気に突き抜けていく。
 それがすごいと思います。


【17482】

馬 の骨さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月23日(火) 01時06分15秒
   いやあ、組織論で すか。
 そこいらはまったく苦手です。
 私は「イエスマン」の一人も持たないで生きてきました。
 「イエスマン」のふりをするだけの者には出会ってきました。

 私の器が小さいのです。
 組織で生きたくないのです。
 多分、そこが内田樹と私が違うところだろうと思います。

 だから、内田は私には大事なモノカキです。


【17483】

「音 づくり」と「音作り」

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月24日(水) 03時19分15秒
   「大風呂敷」が設 置されて間もなく、柴田武史さんが登場して下さり、「音作り」という用語を使われた。私は、それ以前から「音づくり」と書いてきたような覚えがあったが、 そのあたりから「づくり」の部分を意識的にひらがなで書いてきた。
 漢字で書いたりひらがなで書いたりすることで、柴田さんの「音作り」と私の「音づくり」を区別できるわけではないし、当時はとりわけ区別しようとも思わ なかった。

 柴田さんの「音づくり」はネイティヴ音に従順で、主に「個々の音」を直し、「音と音のぶつかり合いの処理」をするものである。
 「個々の音」を扱うことなら、いろいろな人がやっているだろう。しかし、「音と音のぶつかりあいの処理」をやっている英語機関はほとんどない。

 ニューヨークのツインタワービルに飛行機が突っ込んだ9.11事件の後、柴田さんの勤務する学校のイギリスへの修学旅行がとりやめになり、長野の白樺湖 でのスキー合宿に変更になったということがあった。そのとき、柴田さんから誘われて、一泊の部屋を予約していただき、池ノ平ホテルに会いに行ったことがあ る。

 掲示板で、柴田さんが「音作り」と書き、私が「音づくり」と書いているものに共通するのは、柴田さんの言い方では「音と音のぶつかり合いの処理」であ り、私の言い方では「連音処理」だが、これは同じものを言っている。
 私と柴田さんの方法に共通するものがこれである。

 池の平ホテルで、私は柴田さんにお聞きした。
「長野県は私立の学校が少ないんですが、私らが言うような意味での『オトヅクリ」は長野県の公立の中学高校ではやっているところはない。少なくとも私は知 らない。他の県でも同じようなものだと思う。私立はどうなんでしょう。柴田さんは、私立の中高一貫校なんですが、私立の中高の英語の先生たちの集まりみた いなものがあれば、話に出るんじゃないかと思うんですが、私立だったら『オトヅクリ』をやっているところがあるんじゃないでしょうか」
 私はそうたずねた。
 柴田さんは言下に否定した。
「ありません。『オトヅクリ』をやっているのは、私の教室と、根石さんの素読舎だけです」

 それを聞いて、びっくりしたのを今も覚えている。
 そうなのか。私は英語教育関係の専門誌みたいなものを購読するようなことはしたことがないし、学校の個々の教室の様子をいろいろな事例として知っている わけでもない。
 私が「学校の英語の扱い方は駄目だ」と言ってきたことの根拠になっているのは、私が受けた中学、高校、大学の英語の授業というものだけである。それは、 英語教育というもののほんの「一部分」にすぎないはずだ。世間はもっと広いはずだから、と思って、「私立ならどうか」と私は柴田さんに聞いたのだったが、 柴田さんの口から飛び出したのははっきりした否定だった。

 「一部分」は「全部」だったのである。柴田さんは非常に目配りの広い方なので、「連音処理」や「音と音のぶつかりあいの処理」をやっているところがあれ ば知らないはずはないと思い、「そうなのか」と思い、内心非常に驚いていた。

 連音処理をやらないということは、私の言い方での「生徒の繰り返しにつきあう」ということをやらないということと同じなのである。
 何度も読む、繰り返し読むということにつきあっていては、学校の授業は成り立たないとほとんどの学校の先生は考えるだろう。しかし、柴田さんはそれを やった。公立・私立を問わず、それをやった最初の先生ではないだろうか。
 (その貴重な実践は、「大風呂敷」の過去ログに収録されている。)

 私のレッスンでは、私(コーチ)が一度読んだものを、生徒が5回(以上)繰り返し読む。こうすることで、その文の中から、どれを直すべきかをコーチは選 択する。直すべきものが3つも4つもあっても、最初のうちは1つかせいぜい2つしか扱わない。これは、私に「中間音」という考えがあるためである。
 直すべきものが3つも4つもあるが、そのうちの1つにねらいを定めて直した場合、直っていない音は2つも3つも残る。それでいいとするのが、「中間音」 の考え方である。

 私が作った教材では、同じ文が繰り返し繰り返し出てくる。波状的に「復習」が行われるようになっているが、これはしかし、本当のところは「復習」をする ためではない。
 3つ直すべきものがあり、最初はそのうちの1つだけを直したとする。それで「ひとまずはよし」とする。次にまた同じ文が出てきたときに、最初に直したも のの定着度を確認したうえで、2つ目を直す。2つ直してもまだ1つ直すべきものが残るが、「ひとまずはよし」とする。次にまた同じ文が出てきたら、3つ目 を直す。これで、荒削りながら、直すべきものがなくなる。ここまでは、「復習」のように見えて、実は「復習」ではないのである。いつも「新しいこと」を やっているのだから。
 こうして「つくった」音は、CDなどの複製音声を「媒介」にするための基ができたレベルであると考えることができる。
 直すべきものがなくなった読みの音も「中間音」である。CDなどの複製音声を「媒介」にさせてみれば、こういう練習をしてある者としてない者とでは、ネ イティヴ音を「取り込む」様子にはっきりとした違いが生じるが、「まだ」ネイティヴ音を「媒介」にし「取り込む」レベルにあるのだから、やはり「中間音」 である。
 話がめんどうになるが、では、ネイティヴ音を「媒介」にした「後」の音は「中間音」ではなくなるのかと言えば、やはりそこにあるものも「中間音」であ る。

 ここまでの練習では、音の立体性のようなものは問題にされていない。
 いくら表面的な口の筋肉の使い方であっても、「個々の音」に問題がなく、「連音処理」ができていれば、CD音を「媒介」にすることはできるし、してもい い。しかし、この段階では、音はまだ非常にフラットである。とりわけ、日本語という言語で育った者の口の筋肉はフラットな音を作る。口の筋肉の動きが立体 的ではない。

 柴田さんが中学を卒業する生徒たちの読みを録音したCDを送って下さったことがあった。概して非常に「うまい」。それを聞いた人たちは、「すごい」と口 を揃えて言った。私には一抹の懸念があった。端的な印象だが、「音が薄い」と思ったのだった。フラットな音のままで「うまい」のである。
 柴田さんにおいてさえ、音の「立体性」は生徒の自主練習にまかせる他はないのだろうとその時に思った。学校の教室という制限の中では、音の「立体性」ま で扱うことは不可能だろう、と。

 私のレッスンを数年続けてくれた生徒ならどなたにもわかってもらえるだろうと思うが、私のレッスンは音の「立体性」を作ることまでレッスンの中に組み込 んである。
 「もっとつなげて」という指示、「もっと口の動きそのものに力を入れて」という指示は、音の「立体性」を作るためのものである。

 昨日のレッスンである枠の生徒さんに話したことの概要を書いておきたいと思う。

「英語ネイティヴの人というのは、英語で育った人ということです。こういう人たちは、四六時中、のべつまくなしに英語を耳にし、英語を口にする。夢をみて いるときでも、夢の中に出てくるのは英語ですから、四六時中、のべつまくなしにという言い方は大げさでもなんでもない。その通りなんです。
 日本に住んで、日本語で暮らしながら英語を練習するということには、こういう「四六時中」や「のべつまくなし」というものはありません。本当に文字通り それをやったら生活が成り立たなくなる。
 私の生徒さんには、非常に仕事が忙しい方もいます。下手をすると、一週間の間に英語の音に触れるのが、このレッスンの30分だけということになりかねな いような方もいます。
 日本語でも英語でも同じですが、子供のしゃべり方を聞いていると可愛いと思いますが、あの可愛らしさというのは、「大人の音」がまだ口の筋肉に根を張っ ていないことからくる可愛らしさなんです。筋肉の動きの非常に浅いところにしか「大人の音」の根は張っていない。だけど、日本語ネイティヴは日本語に「四 六時中」「のべつまくなし」に触れて育つので、「大人の音」がだんだん根を張っていく。日本人の口には日本語の音が、英語ネイティヴの口の筋肉には英語の 音が根付いていく。これは、生活過程そのものに、「四六時中」「のべつまくなし」があるから、「自然に」そうなる。放っておいてもそうなる。
 語学では「自然にそうなる」なんてことは起こりません。どこかで、人工的に強引にやるということが必要です。
 私の「音づくり」も、個々の音を直したり、連音処理をしたりすることから始まりますが、だいたい教材の1万行を越えたあたりから、「つなげろ」「もっと 口の動きそのものに力を入れろ」ということを指示するようになります。これは、日本語の音がフラットだからということの他に、そうしないと、「大人の音= その言語の標準音」が筋肉に根を張ることが起こらないということが一番の理由です。意識的に「つなげる」ということ、「口の動きそのものに力を入れる」と いうことをやらないと駄目なんです。」

 そういうことを生徒さんにしゃべっていて、「個々の音」の扱いや、「連音処理」は、私の「音づくり」においては、「前段」とすればいいことに気づいた。
 「前段」に対して「後段」があり、それが、「つなげろ」であり、「口の動きそのものに力を入れろ」の指示になる。

 「前段」は、自作教材でほぼ1万行を使って扱う。それ以降が「後段」になる。もちろん、最初の1万行を扱う間にも「つなげろ」と言うことはあるし、「口 の動きに力を入れろ」ということもある。数万行扱った生徒にも、個々の音で直すべきものがあれば、直すこともする。だから、1万行というのは非常におお ざっぱなものだが、おおざっぱに言えばそうなるということである。

 「前段」で1万行なら、「後段」は何万行扱うのかという疑問が生じるかもしれない。これは、非常におおざっぱにさえ、何万行と言うことができない。

 私のレッスンには、「自立練習のみ=無料課程」というものがある。
 個々の音、連音処理、読みの連続性、音の立体性のすべてにわたって注意することがなくなったレベルになれば、生徒さんは「自立練習のみ=無料課程」に 移っていただく。ここからは、巨大な教材をいくら使ってもらっても、お金がかからない。(村田コーチの元にレッスン枠が増えていることなどの他の条件もあ るが・・・)

 「前段」というのも「後段」というのも、「レッスン期間」における「前段」であり「後段」である。
 「前段」はおおざっぱに1万行という目安がある。
 「後段」は数万行あるいは十数万行というくらいにしか言えない。時間で言えば、何年かかるかは生徒にまかされる。よく練習すれば短くなるし、チンタラや れば長くなるとしか言えない。

 「自立練習のみ=無料課程」までも射程に入れれば、「レッスン期間=前段」、「無料課程=後段」と考えることもできるだろうが、今日書いたものは、レッ スン期間中での「前段」「後段」のことである。

 柴田さんが言われたように、「連音処理・音と音のぶつかりあいの処理」をやるところが、柴田さんの教室と素読舎の他にはないのだとして、では音の立体性 を扱うところはどこにあるのか。
 これは、日本全国くまなく探してもらっても、素読舎以外にはどこにもないのではないか。

 実はある。機関にではなく、「個体」として「ある」だろうと思う。
 学校にも塾にもその他あらゆる教育機関にも頼らず、「一人でやる練習」でそれをやる人はいるのだろうと思う。
 私も大学の受験英語でそれをやった。他にもいるだろうと思う。砂の中にゴマ粒を落として、それを探そうとしたら大変だ、というより、まずみつからないと あきらめるのがいいだろう。しかし、みつからないからと言って、砂の中に確かにゴマ粒が混ざっていることは間違いはない。砂を蒔いても芽は出さないが、ゴ マ粒は生きた種なら芽を出すだろう。しかし、砂の中のゴマ粒はまずみつからないだろう。

 私が言いたいのは、教育機関でそれを持ったものがあるのかということだ。
 教育機関がそれを持てば、英語は英語フリークの専有物ではなくなる。
 つまり、内田樹の言う「リンガ フランカ」が現実のものとして立ち上がることが可能になる。
 内田は、「リンガ フランカ」を言うが、現実にそれがどう立ち上がるのかについては言えていない。扱う語彙を使用頻度の高いものに限るというようなこと しか言えていない。問題はそんなところにあるのではない。
 内田が武道論で展開すべきものと同等のものが、語学論として展開されなければ、道というものはつかないのである。

 柴田さんのように、私も言いきってしまおう。

 意識的に「音の立体性」を作っているところは、素読舎以外にはない。
 ここで「音の立体性」と言っているものは、ひとまず実体として読んでもらっていいが、実は「方法の立体性」として読んでもらいたいとも思っている。

 私の語学のレッスンにおいては、ひとまず、そしていきなり、生徒の体を動かさせる。頭ではない。内田樹の合気道とその点では何の変わりもないだろうと思 う。
 内田は武道論を書くのでわかっているものと思う。内田は、師と弟子という関係でものを考えることができ、先生と数十人の生徒の関係(教室での関係)では ないものを持っている。
 そういう人になら、「教室」では駄目なんだということがわかってもらえるのではないかと思うが、いまだ内田の書くものにその観点はない。


【17484】

ミ キさん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月25日(木) 02時39分47秒
  >学習してく上では アメリカ、イギリス英語をお手本にする事で良いんですね。(でも、その中でどれがスタンダードなのか、自分の中でちょっと混乱してしまう時があるのです が...。)頑張ります。

 アメリカ、イギリス英語を「お手本」と考えてもかまいませんが、私は、「お手本」を「媒介にする」と考えています。日本語で育った日本人の体を元に、 「自分の体から」考えていきます。

>でも、その中でどれがスタンダードなのか、

 アメリカ英語でも、イギリス英語でも、テレビ英語とか放送英語みたいな、どの地域に住んでいても理解可能な英語を「スタンダード」とするのでいいと思い ます。実は、味のあんまりない英語ですが・・・。
 それとも、スタンダードはアメリカ英語なのかイギリス英語なのか、という問題意識なんでしょうか。
 その場合は、誰と商売をするのかとか、誰とつきあい続けるのかということで決定するのでいいと思います。当面、そんな相手がないというのなら、自分の好 みでいいとも思います。

 アジアの人たちとつきあうのなら、インドはイギリス英語、タイ、ベトナムはアメリカ英語でしょうか。
 スタンダードをどっちにするかよりも、どちらのスタンダードであれ、それを「媒介」にできるかどうかが大事だと考えています。

 「お手本」にすれば、「媒介」にできるとは限らないと思っています。
 「お手本」という考えは、概して主体性を殺してしまうとも思っています。
 「お手本」ではなく、「お手本にしてもいいブツ」だと私は考えます。

 アメリカやイギリスに行けば、英語はただの「石ころ」です。
 近代の日本にいれば、英語が「宝石」扱いされているのを見させられます。

 「お手本にしていいブツ」というのは、英語も「石ころ」なんだと認識することになります。その点では、私は唯ブツ論者です。


【17485】

メ モ

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月26日(金) 15時44分41秒
   植民地化と連動す る言語政策から、磁場論を無視した小学校への英語導入に至るまで、施政側から出てくるものはすべて、「ことば」と「言語」を区別していない。あるいは、区 別することができない。
 「ことば」に対置される「言語」とは何であり、「言語」に対置される「ことば」とは何なのか。共によく流通している語であるが、ここに改めて「ことば」 を定義し、「言語」を定義する必要が生じる。
 私の定義では、「ことば」は「生」に根を持ち、「言語」は「死」に根を持つものである。それが語学から見た「ことば」であり、「言語」である。語学だけ が「言葉=生」・「言語=死」の構造を明らかにすると言ってもよい。


【17486】

連 絡用掲示板から転写

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年11月29日(月) 03時18分7秒
  皆様 投稿者:根石吉久  投稿日:2010年11月29日(月)03時12分52秒
    今後もパンフレットを作るようなことがありましたら、その途中経過を、「ホームページ作成編集室」という掲示板ですべて公開していきたいと思います。
 印刷し製本屋に製本を依頼してしまってからでは、変更ができませんので、作成経過を公表し、その過程で変更すべきものを変更したいと思います。
 作成中に「これはこのままではまずい」というようなことがありましたら、「ホームページ作成編集室」にお書きいただけば、「作成編集室」における記事そ のものも削除いたします。

 Piggy さん宛てにも書きましたが、私の「スカイプでレッスン」は食うや食わずで継続してきたものです。私のすべての枠が埋まっている場合に、なんとか生活ができ ます。
 「無料過程」の人しか使わない部分の教材づくり(現在、十数万行台)を継続するためには、現在の生徒さんたちに、継続的に積極的に、周りに広めていただ く必要がありますが、なかなかやっていただけません。
 現在は二つの空き枠が生じています。これだけで非常にきついのです。私は私の語学の方法をまともなものだと考えていますが、この種のまともなものには、 世の中の多くの人々は目を向けてくれません。
 ですので、もしパンフレットを作れば、あからさまな「宣伝・広告」をやるしかありません。本当は、パンフレットなんか作りたくないのです。私は、教材づ くりと語学論に専念したいのですが、今回は、それらを中断して、パンフレットづくりをせざるを得ませんでした。

 今後、パンフレットを作る場合は、この掲示板に告知し、「ホームページ作成編集室」に途中経過をすべて公開いたします。


【17487】

連 絡用掲示板から転写

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年12月 4日(土)03時08分8秒
編集済
  根石さん 投稿者:ノンノン母  投稿日:2010年12月 3日(金)23時52分26秒

   根石さん。パンフレット、ハリマオ届きました。連絡が遅くなりました。どうもありがとうございます。パンフレットですが、知り合いに興味をもってくれてる 人がいるのですが、
レッスンの時間が何時になるのかしりたいそうです。今二つの枠があるとのことですが、
何時があいているのか教えていただけますでしょうか。
それから、私事ですが、先日英検準2級に合格しました。二十?三十?数年ぶりに受けた試験でしたのですっかり緊張してしまったのですが、一次、二次試験と 無事に合格をすることができました。とてもうれしいです。リスニングで点を稼ぐことができていたのでレッスンでの効果であることを実感しました。本当にあ りがたくおもっています。
それから、娘ですが、3級に合格しました。こちらは私とは違い、満点に近い点数での合格でした。来年1月には準2級を受けるそうです。合格したら又自慢? させてください。
よろしくお願いいたします。




ノンノン母さん 投稿者:根石吉久  投稿日:2010年12月 4日(土)02時55分35秒

   >パンフレットですが、知り合いに興味をもってくれてる人がいるのですが、
レッスンの時間が何時になるのかしりたいそうです。今二つの枠があるとのことですが、何時があいているのか教えていただけますでしょうか。

 ありがとうございます。このところ気が滅入ることが多く、何をやってもうまくいかないなあと思う日もありました。力づけられました。本当にありがとうご ざいます。

 私の空き枠は、金曜夜9時20分からと、月曜夜9時からの枠です。
 お知り合いの方の都合と合えばいいのですが・・・。
 交渉すれば、月曜9時の枠は、同じ曜日の9時40分からの枠と交換することができるかもしれませんが、12月からこの枠のメンバーが入れ替わったばかり ですので、お使いいただけるとしても、来年1月以降になります。
 金曜の空き枠の時間帯は、その前の8時40分からの枠と交換していただける可能性もあります。こちらも、来年1月以降になります。
 どちらにせよ、交渉の結果次第です。
 お知り合いの使いたい曜日時間帯をお知らせいただけると有り難く存じます。

>それから、私事ですが、先日英検準2級に合格しました。二十?三十?数年ぶりに受けた試験でしたのですっかり緊張してしまったのですが、一次、二次試験 と無事に合格をすることができました。とてもうれしいです。リスニングで点を稼ぐことができていたのでレッスンでの効果であることを実感しました。本当に ありがたくおもっています。

 私もうれしいです。英語の錆を落としただけでなく、新しい力をつけて下さっていると思います。英語はつくづく嫌気がさすことがありますが、その時に踏ん 張っていただけることを願っています。今は登り調子ですから心配していませんが、なかなか壁が破れないという時がいずれ来ます。その時に踏ん張っていただ くことを期待しています。今は、いけいけどんどんでいいと思います。

>それから、娘ですが、3級に合格しました。こちらは私とは違い、満点に近い点数での合格でした。来年1月には準2級を受けるそうです。合格したら又自 慢?させてください。
よろしくお願いいたします。

 娘さんはとても着実です。私は期待しています。
 以前にも書きましたが、日本人は匿名(ネット名)で書く時でさえ、我が子自慢をなかなかしてくれません。英語の力がついているとか、学校でクラスで何番 になったとか、学年で何番になったとか、どしどし自慢していただくと、私が元気になりますので、どしどし自慢して下さい。

 学校名などを伏せて、自慢をお寄せ下さい。
 この掲示板を「連絡・自慢専用掲示板」と呼んで下さっても結構ですので。


【17488】

子 音の連続(f, v, b, p)

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年12月 4日(土)06時36分21秒
編集済
  私は月曜日に、根石 さんの監修のもとでコーチしている枠があります。

I don't feel his vibration. という文で、生徒さんが、vibration の b の後に、どうしても母音 u が入ってしまうので、vi の i の方を大きく発音してください、と言ったことがありました。vi は第2アクセントだけれど、そこを大きめに発音することで、相対的に b の後の母音は小さく聞こえるととっさに思ったのです。(今これを書いているとわかりますが、だめな指示だと思います。口の動き自体は変わらないのですか ら)
この時、根石さんから、生徒さんに対して「b は唇を閉じるだけにして、すぐに r を発音するつもりで発音してください」という指示がありました。私に対しては、これは子音の連続の問題だから、具体的な指示を出せなければ駄目だとアドバ イスされました。
生徒さんは、根石さんの指示に従って I don't feel his vibration. と繰り返しているうちに、b の後ろの母音は消えていきました。


この後、子音の連続について考えていました。
v も、子音の連続の中においてみると、唇を閉じると言っていいのかもしれない。Give me. は Gimme. と発音している時もあるし。
じゃあほぼ同じ発音の f にも同じことが言えるかもしれない。
p もそうかもしれない。

p もそうかもしれないと考えたのは、私の p の音が弱いことに関係があります。
例えば、ゴーストには You wanna help me lift this up? という文が出てきますが、ここでは p が2回出てきます。p は破裂させる音なので、意識的に破裂させようとすると、すごくむずかしい。
私にとって、なんで p の音が難しいのか考えてみると、唇だけで破裂させる音だからかと思います。v, f は上の歯に下唇がくっつくので、コントロールしやすい。v, f で終わる単語も、下唇を上の歯につけ、息をせきとめるようにするといい。けれど、p は唇だけで破裂させるので、とっかかりがない気がする。下手をすると p の後に母音がはっきりついてしまう。
私が You wanna help me lift this up? をつなげて言っている時は、help の p 、lift の f 、up の p を唇を閉じて言っているだけの時があります。
先日、小川さんと自立練習をやっている時に、この文が出てきたので、あえて唇を閉じるだけで発音して、意見を聞いてみました。小川さんは、ちゃんと You wanna help me lift this up? と聞こえるとおっしゃいました。

ならば、 v, f, b, p は子音の連続の中では唇を閉じる音と言ってもいいのではないかと思いました。
これも、「練習の中で出てくる中間音」かと思っています。

小川さんは、フォニックスだと b, p は同じ系列の音だと言っていました。
私は、日本人としては、まずは「閉じる」音としてとらえていいのではないかと思います。すらすら言えるようになった後、やりたければ b, p についても細かな違いを出すようにすればいいのではないでしょうか。


【17489】

メ モ

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年12月 4日(土)17時59分50秒
編集済
   なぜお経はわけの わからない音の連続として日本で現象したのか。
 インドの仏典を翻訳した中国語をそのまま載せるシンタックスが日本になかったからである。

 身体において言語のシンタックス自体が相互に against である経験は、日本人にとって、明治の開国から始まった経験ではない。日本語と中国語との関係においてはるか昔に生じたものである。

 日本語はシンタックスごと中国語を載せることができない。(英文法的観点から見れば)日本語は「SOV」シンタックスであり、中国語は「SVO」シン タックスであるから、相互のシンタックスはなじまない。というより against の関係にある。
 相互のシンタックスがなじむものなら(欧米語同士の相互関係のようになじむものなら)、そこには「激突」はない。例えば、ラテン語で表される観念や概念 が変形して、各国語(各個別言語)の中にちらばるというような現象は、各国語(各個別言語)のシンタックスが相互になじむもの(共通の祖先を持つもの)で あるという相互親和性による。シンタックスの相互親和性がありさえすれば、極端に言えば、新奇な語や極端に古い外国語を自分のネイティヴ言語のシンタック スで使い続けさえすれば、新奇な語がしだいになじみの「日常語」に近づくか、「日常語」に同化していく道がある。

 それが中国語と日本語の間になかった。
 だから、お経はわけのわからない音の連続のままだったのだ。
 今も、英語と日本語の間にそれがない。
 だから、日本のテレビでいくら英語の音が鳴っても、日本人にはわけのわからない音の連続のままである。

 (スエーデン人と(日本で)英語で話した時に知ったのだが、スエーデン人はテレビで英語の映画など観ているだけで、英語を覚えてしまうと言っていた。英 語とスエーデン語のシンタックスが共通の祖先を持つということの証だろう。それがあれば、各個別言語の音の違いは、比較的容易に乗り越えられるということ なのだ。日本で例えば、秋田弁と土佐弁で話をする程度の違いなのだ。)

 「わけのわからない音の連続」のほうがありがたみがある、というようなことはありうることである。しかし、もし中国語をそのまま載せるシンタックスが日 本にあれば、日本人の知的興味が中国語の語彙を音だけ変形させて日本語にそのまま載せた成果というものもあるはずである。「わけのわからない音の連続」を ありがたがるというだけで済ませておいたはずはない。
 「中国語の語彙を音だけ変形させて日本語のシンタックスにそのまま載せた成果」というものは、実はある。それが江戸時代の漢籍の扱い方だ。論語を親分と した封建制度イデオロギーの書物たちをどう読むか、だっただろう。
 漢籍の扱いの基本は素読である。中国語の語彙は日本語音化された読みで読まれ、返り点や「てにをは」や「一、二、三」などが使われた。シンタックスは日 本語のまま無傷であり、日本語音化されたが語彙の表記は明らかに中国語(漢字)のままである。「てにをは」やわずかな記号だけを使って、観念や概念はなる べく中国語のまま受容しなじむ方法が、当時の素読だったはずだ。およそ、「同化した」というレベルではないが、それゆえにこそ、この方法によってシンタッ クスの「激突」は回避され、語学は回避された。
 日本語に「てにをは」がなかったら、これは不可能だった。逆に言えば、「てにをは」があったせいで、中国語のテキストが生のまま扱われることが一般化し なかったと言ってもいい。

 「激突」を回避する方法は、いかにも「鎖国」と釣り合っている。それは、「太平の夢を見る方法」だと言ってもいい。それは中国語のテキストを、日本語の シンタックスで読むという奇天烈な方法なのである。

 こういうテキストの読み方が庶民にまで開放されていたということはないのではないか。つまり、藩校では素読を使ったが、寺子屋では素読は使われなかった というようなことなのではないか。このあたりが、いつまでも私にはくらがりのままである。

 シンタックスそのものは、はるかに古いものであるが、表記としての現代の日本語(激しい漢字仮名交じり状態)の原型を「江戸の素読」のテキストに見るこ とはできないのか。そんなものが原型なわけがない、それ以前にも漢字とかなが混じり、素直に日本語のシンタックスに従った表記はあったと例を挙げることは できるかもしれない。しかし、なじみのない概念、難解な概念を「てにをは」で元テキストとは順不同につなげて、「かなり無理な日本語」ながら、シンタック ス自体はれっきとした日本語としてテキスト化し、それになじみ、侍なら侍の共同観念とする、あるいはその共同観念に参加する、あるいはその共同観念を媒介 にした「ことば」の分派同士が争い殺し合う、というような「観念のなじみ」の共有化、その共有を元にした争いは、江戸末期頃に始まったのではないか。これ は文化の爛熟と関係がある。「観念の共有化と共有を元にした争い」は爛熟なしには起こらない。
 それ以前は、「観念のなじみ」の共有というものは、寺の中にあったくらいのものではないか。あるいは、講の中に。(講というものもよくわからないもので ある。)

 「わけのわからない音の連続」の成立は、「江戸の素読」以前のものである。一部の僧侶(語学の才能たち)を除いて、お経というテキストを「わけのわから ない音の連続」のまま受容するしかなかった時期というものが、「江戸の素読」以前には、相当長い期間にわたって存在している。「わけのわからない音の連 続」のままにしておけば、そこには「激突」もないし、「観念のなじみ」とその共有化、そのことによる争いというものも生じない。わけがわからないゆえにあ りがたい、ということの他に、位階が作る制度にとって「安全」だということもあったはずだ。

 「江戸の素読」というものは、いや、こんなものもこうすればわけがわかるものになる、という一大発明だったと言える。「わけのわからない音の連続」のま まに放置しておくことはない。こうすれば、わけがわからないゆえにありがたいという盲目性から抜けることはできるという方法だったのではないか。いずれ、 「太平の夢を見る」方法に堕するとしても。

 その素読の方法は、仏典に向けることもできたはずだ。しかし、おおざっぱに言って、それは仏典には使われず、儒教的新興イデオロギーに主に使われた。こ れは江戸幕府の政治的な理由によるものだろう。

 しかし、方法自体は「政治的な理由」から抜け出る。
 それが、現代においても素読が息を吹き返すということなのである。

 素読舎では、素読をそのままに使っているのではない。
 方法的原理を素読から得ているだけだ。それはそうだが、素読が息を吹き返した地点の名を素読舎と呼ぶのだとは言える。

 素読舎が扱ってきたのは英語だが、英語のシンタックスそのものを身体内に立ち上げることがめざされた。「日本在住のまま」という条件下で、それがどう可 能かが素読舎の課題の一つだった。
 異質シンタックスを身体内に立ち上げる点において、素読舎の素読は「江戸の素読」とは違う。「江戸の素読」は日本語のシンタックスをそのまま使ってい た。(それが多数派だっただろう。)それは、近代の学校の「漢文」の授業に流れ込んでいる。
 素読舎は、「江戸の素読」を養分として、明治時代に開花した英語使いたちにあった「激突」からの流れを汲むものだ。とりわけ、岡倉天心。「激突」を経 て、岡倉が見いだしたものは、儒教を過去の方へ越えたところに息づいているタオだった。

 「江戸の素読」が回避し緩和することのできた「激突」が、再び回避できなくなった時代、それが坂本龍馬以後なのである。その意味では、太平洋戦争後の 「えいかいわぶーむ」には、敗戦以前、開戦以前からの流れを汲むところがあったのかもしれない。
 しかし、なおもよく見てみるなら、龍馬の「激突」、あるいは龍馬以後の「激突」はすでに滅びているのが見える。現在の小学校への英語導入につながる戦後 の「えいかいわぶーむ」に、「激突」はない。それがないことが、敗戦以後の心的植民地の証なのである。

 「激突」を回避して、語学が成就することはない。
 「江戸の素読」や「えいかいわぶーむ」を、語学の方に奪い返すこと。
 異質シンタックスとの間に交通を開くこと。

 「龍馬以後」は続いているのに、「激突」は滅びてしまった。
 戦争という「激突」によって滅ぼされてしまったということか。

 語学「内」の「激突」を見る者はきわめて少ない。
 空海の頃から、それはずっと続いていたはずだ。「太平の夢」を見ていられた人が多数を占めていたときにも、「激突」は寺に属したりしながら、個の中に持 続したり、息を吹き返したりしていたはずなのだ。それを、「語学的才能たち」と呼べばいいのではないか。


【17490】

村 田君

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年12月 4日(土)18時01分38秒
  >ならば、 v, f, b, p は子音の連続の中では唇を閉じる音と言ってもいいのではないかと思いました。

 これは特にその後ろに「唇を閉じる音」(m音など)が続く場合だと思います。
 You wanna help me lift this up? の up にある p は、「唇を閉じて息で開く」音だと思います。


【17491】

村 田君

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年12月 4日(土)23時01分13秒
編集済
  補足

>ならば、 v, f, b, p は子音の連続の中では唇を閉じる音と言ってもいいのではないかと思いました。

 これは特にその後ろに「唇を閉じる音」(m音など)が続く場合だと思います。
 v,f,b,p が v,f,b,p とぶつかり合う場合も、(前の音が)「閉じて息で開く音」の前半=「閉じた状態」としていいと思います。
 vb とか、fp とか、 pb とかのぶつかりあいで、前の音が「閉じた」状態になり、後ろの音が(前の音の)「閉じた」状態をひきついで、その後「開く」ということになります。一瞬の 間にそうなるのですが、スローモーションで見ればそうなると思います。
 ですが、こんなふうに解析的にしなくても、該当の音を言うつもりで「閉じていていい」という感覚がつかめれば、それで解決することもあります。解決して いる場合は、こちらから何も言う必要はないことは言うまでもありません。レッスンでアドバイスするときは、解析的に言う必要があります。その際、「子音の 連続の中では」ではあいまいな言い方になります。「v, f, b, p に子音が続く場合に」というように、音の「前後関係」がはっきりする言い方がいい。

 蛇足ですが、You wanna help me lift this up? の up にある p は、「唇を閉じて息で開く」ことになります。これは、文末にあるので、音がぶつかりあうことがないからです。


【17492】

根 石さん

  投稿者:Julian  投稿日:2010年12月 4日(土)23時40分2秒
  レッスンを無断で休 んでしまい、申し訳ありません。うっかりご連絡するのを失念してしまいました。今後このようなことのないよう気を付けます。


【17493】

Julian  さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年12月 5日(日)00時02分8秒
  承知しました。
息子さんが電話に出られて、お仕事がお忙しい旨、伝えてくれました。

この掲示板は、主に語学論やそれに関するものに使っていくことになりました。
今後は、欠席などの連絡は、以下の「連絡用掲示板」にお願い致します。

http://9310.teacup.com/sodokusharenraku/bbs
 


【17494】

根 石さん

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年12月 5日(日)00時55分18秒
  コメントありがとう ございます。
すっきりしました。

>レッスンでアドバイスするときは、解析的に言う必要があります。その際、「子音の連続の中では」ではあいまいな言い方になります。「v, f, b, p に子音が続く場合に」というように、音の「前後関係」がはっきりする言い方がいい。

「子音の連続の中では」は違う受けとられ方をしてしまうかもしれませんね。
「v, f, b, p に子音が続く場合、v, f, b, p は唇を閉じていい」と言うようにします。

>蛇足ですが、You wanna help me lift this up? の up にある p は、「唇を閉じて息で開く」ことになります。
自分で意識してやってみると、確かに up の p は唇が軽く開いてました。up の p も破裂していないと感じていたので、「閉じる」と書いていました。
根石さんの「唇を閉じて息で開く」はとても正確な言い方だと思います。


【17495】

本 日の子供のレッスン

  投稿者:ヒ ロ  投稿日:2010年12月 6日(月)19時56分36秒
  すみません。本日子 供のレッスンですが、今電話がありパソコンが調子悪くネットに繋がらないようです。本日お休みさせて下さい。レッスンの場所の連絡をお願いします。


【17496】

ヒ ロさん

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年12月 6日(月)22時35分20秒
  こちらは語学論の掲 示板です。
レッスンの連絡事項は、素読舎連絡専用掲示板 http://9310.teacup.com/sodokusharenraku/bbsに 書いていただくようお願い致します。

 


【17497】

根 石さん

  投稿者:tiny sand  投稿日:2010年12月 9日(木)00時15分29秒
  お久しぶりです。ご 無沙汰しています。孫の子守で留守をしていたので、返事が遅くなりました。
申し訳ありません。「ハリマオ」とパンフレットを送っていただき、ありがとうございました。
「幼児英会話=遊郭」論は、興味深く読みました。パンフレットは中学生がいる知人に、持って行こうと思っています。

この頃、随分久しぶりに中学時代の教科書を読んでみました。
タイトルは「Spring Has Come Again」で
"Ring! Ring! Ring! Wake up! Wake up!" the clock cries out.
It is just half past six. という書き出しで始まるのですが
中学生の時は、リング、リングといわゆるカタカナ発音で読んでいたので、英語を学んでいても
英語ではないような変な感覚が、私にはありました。でも根石さんに教えていただいた音で
今読んでみると、英単語の一つ一つが教科書から飛び出してくるような、不思議な気持ちになりました。それと同時に、情景も立体的に浮かんできます。改めて 「音づくり」は大事だなと思いました。
根石さんに本当に感謝しています。



【17498】

桐 田真輔さんのサイト「キキハウス」から引用。

  投稿者:馬 の骨  投稿日:2010年12月14日(火) 22時02分58秒
  吉本隆明『ひとり』 (2010年10月18日発行・講談社 1000)は講話録。カバーに「15歳への寺子屋授業その実録」とあり、文芸評論家の吉本隆明氏が、15歳の男女 4人を相手に1年かけて行ったという寺子屋授業。全6章(1時間目から6時間目まで)にわけられていて、4時間目の芥川、太宰、賢治の作品を紹介解説した 創作世界への誘いのような特別授業をのぞいて、それぞれ冒頭に参加した男女の思っていることや質問事項がしめされ、その問いに答える形で吉本氏の講話が収 録されている。自分がひとりきりだと思う、将来のことがよくわからない、片思いってどう思うか、大人になるとはどういうことか、など、孤独感や恋愛感情、 将来への不安など、15歳(中学三年生)という年齢前後に誰もがはじめて遭遇するような素朴ながら普遍的な問いに、1924年生まれの著者は自らの体験を くみあげるようにしながら丁寧にこたえている。思うところを答えようとすると自然に(作為なく)自ら考えぬいてきた原理的な思考の骨格につながっていくと ころが、いつもながら味わい深いところ。


【17499】

tiny sand さん

  投稿者:根 石吉久  投稿日:2010年12月16日(木) 00時59分36秒
編集済
  お久しぶりです。
お元気そうな声が聞けてうれしいです。

 昔の生徒さんのうちから、「ハリマオ」やパンフレットを読んでいただけそうな方をこちらでピックアップして、送らせていただきました。

>パンフレットは中学生がいる知人に、持って行こうと思っています。

 ありがとうございます。よろしくお願い致します。

>この頃、随分久しぶりに中学時代の教科書を読んでみました。
タイトルは「Spring Has Come Again」で
"Ring! Ring! Ring! Wake up! Wake up!" the clock cries out.
It is just half past six. という書き出しで始まるのですが
中学生の時は、リング、リングといわゆるカタカナ発音で読んでいたので、英語を学んでいても
英語ではないような変な感覚が、私にはありました。でも根石さんに教えていただいた音で
今読んでみると、英単語の一つ一つが教科書から飛び出してくるような、不思議な気持ちになりました。それと同時に、情景も立体的に浮かんできます。改めて 「音づくり」は大事だなと思いました。
根石さんに本当に感謝しています。

 こちらもうれしく読みました。
 私のレッスンには、「無料過程」というものができました。
 音読のレベルで判断し、これなら大丈夫というレベルに達した生徒さんから、「生徒同士での練習」だけに移行してもらい、教材と方法を無料で使っていただ くものです。現在二人の「無料過程」の生徒さんがいます。
 興味がおありでしたら、お問い合わせ下さい。スカイプを使われているといいのですが・・・。
 


【17500】

連 絡専用掲示板から転載

  投稿者:村 田晴彦  投稿日:2010年12月16日(木) 08時03分45秒
  日本人の脳   投稿者:東風平恵典  投稿日:2010年12月14日(火)12時02分3秒

根石さんはひよっとしたら僕を覚えているかも知れません。僕も早くから素読法で英語は勉強してきました。
今年で辞めるつもりでいます。理由は単純です。表現が出来ない。語学に身を入れすぎると、思想表現ができません。「塾はどこまでいくか」を読んで誤解を受 けそうな投稿がありましたので、少し書かせてください。
角田忠信さんの「日本人の脳」ってありますね。この本は現在は知りませんがロングセラーだったのです。
最初の本なくしてしまい、再度購入したのが確か1996年の暮れです。この本を読んで寄稿なさったとおもいますが、どうも正確でありません。日本人の脳っ て欧米人だけでなく、近隣諸国の人たちとも違います。韓国中国、台湾の人たちは自然音を言語脳では聞きません。右脳で反応するのです。虫の鳴き声は単なる 雑音です。素読舎は優れています。是非頑張ってください。根石さんのfax番号を教えて頂ければ幸いです。
恐らくrecessionもあって英会話学校はつぶれるととおもいます。根石さんが執筆なさっているのがその根拠となっています。「怪傑ハリマオ」を拝読 してもそんな気ががしております。頑張って頂きたいと存じます。



東風平さん  投稿者:根石吉久  投稿日:2010年12月16日(木)00時10分18秒 編集済

 記憶が薄れておりますが、私の以前の借家へドイツ人二人の方達と見えて泊まっていかれた方でしょうか。
 どのような経緯で見えられたのか思い出せずにおります。詩の雑誌とかで、知って訪ねて来られたのでしょうか。

>今年で辞めるつもりでいます。理由は単純です。表現が出来ない。語学に身を入れすぎると、思想表現ができません。

 あるいはそうかもしれません。日本在住という条件下では、激しい語学を一生続けることはできません。日常の中にどう語学を組み込むかは、非常に難しいも のがあります。そこを考えて作ったのが、素読舎の「ひとつの巨大な教材」というものです。
 私は日本在住のまま行うべきものは、語学の「達成」ではなく、「維持」だと考えています。「磁場」に交わったときに、反応を起こしうるだけの質の「維 持」です。剣道の素振りみたいなものとしてイメージしています。「真剣」を忘れずに「維持する練習」です。

>角田忠信さんの「日本人の脳」ってありますね。この本は現在は知りませんがロングセラーだったのです。

 パンフレットに書いたものは、鵜田さんという方のホームページで読んだ「ような記憶」があるだけで、どこで読んだのかはっきりしません。
 角田さんの「日本人の脳」は読んだ記憶がありません。

>韓国中国、台湾の人たちは自然音を言語脳では聞きません。

 中国語は英文法的観点からは、「SVO」タイプですから、ヨーロッパ系の言語とシンタックスが同じになります。「台湾の人たち」というのが、中国系の人 たちを言うのか、高砂族など地付きの民族の人たちを言うのかわかりませんが、中国系の人たちなら、これもヨーロッパ系となります。地付きの民族がどういう 言語を持っていた(いる?)のか私に知識がありません。
 韓国語は「SOV」タイプであり、日本語と同じです。「虫の声」などに日本人と同じように反応する可能性は高いと思っています。

 いずれにせよ、私は言語のシンタックスが文化のシンタックスを基礎づけ、人間の生理的な反応のレベルにまで食い込むことがあるのだと言いたかったので す。言語というものは、文化総体の基底になるほどのものなのだ、と。
 「虫の声」に対する反応については、「生理的な反応のレベル」で起こることの一例として提示できればそれでよかったのです。
 脳科学そのものには、ほとんど関心がありません。

 英語は、いまいましいことながら、今後、欧米諸国だけでなく、アジア、アフリカの人々との交流にも使われていく言語となるだろうと考えています。日本人 として英語をどうとらえるべきかという観点は、以前に増して大事なものになっているのですが、そこに急務があるとは誰も考えていないように私には思えま す。多くの人がとんちんかんなことをやっていますし、語学論にもほとんどまともなものはありません。

 私にとっての英語は、そもそもは大学受験での受験科目の一つに過ぎませんでした。受験勉強でやったことで、その当時は意識していなかったものを、後年塾 をやりながら少しずつ意識化してきました。英語をやるということの中に、「語学」の方法として普遍化できるものがあるはずだという勘はありました。今も、 「語学」の方法として普遍化することは可能だと考えています。
 それが可能であれば、私の提示している方法が対象とするものは、「英語」に限らない。他の言語に対しても、それぞれの方法を組み立てる場合の基礎的な理 論として使えると思っています。

 私は英語以外の言語のコーチや講師をやれるのではありませんが、どんな教材を作り、それをどういうふうに使うべきかということなら、どんな言語について でもアドバイスはできるとも思っています。

>恐らくrecessionもあって英会話学校はつぶれるととおもいます。

 英会話学校がばたばたとつぶれても、日本の小学校への英語導入という新たな迷妄が登場しています。なぜ英会話学校は無能なくせにのさばれたのかについて は誰も明らかにしようとしません。英会話学校がのさばったことと小学校への英語導入は同根のものです。この国には、語学論が成立していないのです。「そ れっぽい」ことをやってごまかすことだけを続けています。

>根石さんが執筆なさっているのがその根拠となっています。「怪傑ハリマオ」を拝読してもそんな気ががしております。頑張って頂きたいと存じます。

 ありがとうございます。体力がなくなってきましたが、少しずつ手作りで教材を作っています。語学論は道遠しです。体力と相談しながらやっていくつもりで す。

 FAX番号は、メールでお送りします。よろしくお願い致します。
 車の中に、携帯電話を放置して、さきほど留守電に東風平さんが吹き込んで下さったものを聞いたところです。すぐにお返事できず申し訳ありませんでした。
 宮古島の方だと聞き取れたのですが、間違いないでしょうか。電話番号がわからなかったので、この掲示板にお返事させていただきました。
 住所をお知らせ下されば、パンフレットをお送りしたいと思いました。お知り合いの方に手渡して読んでいただければうれしく思います。

 ひとまず、以上書きましたものを、メールに転写してお送りします。