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>日本語を母語とする私たちはこの現実と向かい合って英語と対面しなくちゃいけないんだなっと。言語構造が違う語学を習得するといのはまるで「逆立ちしながらしゃべる」ようなことで(さらに「逆立ち」しながら片手を離すのかも?)と思いました。
このコメントを読んで,「そうだよね〜。そうすると,日本語環境に生まれ育つってハンディキャップでしかないのかな〜?」と思い,「いや,そんな不公平な!!」と憤慨しつつ(鼻息荒らく)、「しかし,なにかしらの意義があるはず。少数派 minority である事の意義って何だろう?」と考えてみました。
で、考えたのが、、、
少数民族、少数派文化(例えば,アメリカインディアンとかアボリジニとか,アフリカのナントカ族とか,南米のナントカ文化とか,いっぱいありますよね。)、これらが保護されていく理由って,「彼らも同じ人間,同じ権利がある」みたいな良く言えば他愛的、悪く言えば「上から目線」(<この言葉は、こうつかうのですかね)ではなくて、「人間種の将来の為の保険」だと思うんです。
将来、地球の環境がどう変わるかわからないから,例えば、肌の色の濃い人も薄い人も居たほうがいい。そのほうが人間が生き残っていく確率が高い。同じ理由で,毛の濃い人も薄い人も,肉を食べる人も魚を食べる人もヘビを食べる人も巨大イモ虫を食べる人もいたほうがいい。
思想も同じ事で,ある事柄をすべての人間が X と考えるよりは、Y , n , n+1 ,,,といろいろな選択肢があったほうが,人類の益であろう、と。(その益に対する犠牲,例えば宗教戦争とか,はあるとしても、「人類種」というマクロな視点で見ると,ピラミッドの裾野は広いほうが安定するのは否めない。)
そして、「言語と思考の間には密接な関係がある。」(まずイメージがありそれが言葉によって蓄積されていくのか,言葉が鍵となってイメージが展開されるのか,それらが相互に働くのかは,私にはわかりませんけれども)が本当なら、日本語で考えるからこそ発生しうる思考もあるはず。そう考えるなら、日本語も ”人類のために” 継承されるべき言語の一つ,という事になるのではないでしょうか。
私が日本語を勉強し続け,使いつつ,日本語で考えていく事は,ひいては人類の為なのだナァ、、、(だから,あんまりバカげた事ばかり考えていてはいけないナァ、、、)な〜んて考えると少し自己評価も上がると言うか,生きるmotivationの一つになる気がします。
で,ここで出てきてしまう問題が、「じゃぁ,何故英語を勉強し始めたの?(これほど絶対多数な英語を!)」ということで、英語を使う必要もなし,目的もなし、な私ですが、「いつかはこの理由も見つけたいな」と思いつつ、とりあえずは「道があるから歩く」的に足元だけに集中しつつ勉強していこうと思います。
江戸の母さんが英語を勉強する理由,良かったら教えていただけませんか?
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