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昨夜、酒を飲んで「構想」を書いたが、こんなもんじゃ人々に
何も伝わりはしないだろうと思い返している。
(例えば)キリピーがコーチ法を練習するあいだ、私は「ふんだくる」が、こういう言い方がよろしくない。こういう言い方には、微生物に対する殺菌剤のよ
うな働きがある。だからといって、砂糖にまぶしたような言い方をやっていく気もない。困ったものだ。
もう一つ別なものを例示してみることにする。
pre-ABCD, ABCD に発音指示も書き込む。(教材の作り直し)
今のものよりも、乱反射(波状的インプット)の重複の層を厚くする。
この教材を使用する「無料レッスン」は、半年間の期限付きで行う。
生徒がレッスンを継続したい場合は、有料のレッスンになる。
「スカイプ(電話)でレッスン」のコーチをやりたい人は、一年間(半年間×2)、無料レッスンのインターン生となる。インターン生は、語学論を書き継い
でいる人がときどき supervise し、アドバイスする。
こうすることで何が生じるのか。
私には、生活を犠牲にしてヴォランティアをやる気はないが、これまでやってきたことには、どこかにヴォランティアめいた要素があった。例えば、私は一枠
1万2千円というお金をいただいてレッスンをしてきたが、この1万2千円は、一枠分の時間の中にあるレッスン自体に対して支払われるものなのか、それ以外
の労働に対しても支払われているものなのかどうか。掲示板で語学論を継続することに対しては支払われているのかいないのか。教材作りの労働に対しては支払
われているのかいないのか。(「ABCD」
という教材を使っている生徒には、「イメージ核受肉教材」の13万行台を作成する行為に対して支払っている自覚はとうてい持てないだろう・・・)こういう
点をあえて不明確にしてきたことによって、活動の全体にはどこかにヴォランティアめいた要素が含まれていたと考えることもできる。レッスンから得られる収
入は、いつもかろうじて生活が成り立つ程度であった。
インターンの期間をひとまず「半年間×2回」設けることによって、素読舎に「無料レッスン」という部門ができる。インターン生に対する
superviser
は、「語学論が書ける人」であり、私が全部やる必要はない。私もこれまでのヴォランティアの要素を少し濃くすることでやれないことはない。つまり、「ふん
だくる」ことをやらないで supervise することはできるのではないか。
「無料レッスン」という部門ができ、その門が開くなら、この門から素読舎の方法の普及が始まるのではないか。素読が現代の日本に根付く可能性が芽を吹く
のではないか。
これとは別に、「自習室」を設置するのもいい。
インターンを終了し、コーチを始めた人を中心に、(有料コースの)「もっとやりたい生徒」が集まって、教材を先に進めるという枠を設置すればいい。こう
いう枠の設置は、コーチ達による完全なヴォランティアによるものとする。(これまで、吉さんがこういう線で動いてくれたことがあったが、その可能性を再度
探ってみること。)
ほとんどすべての政治「運動」に、あるいは戦後民主主義じみたほとんどすべての市民「運動」に対し、ずっと嫌悪を噛みしめてきた。手足の運動も、学生運
動も、運動はみんな嫌いだとにくまれ口を叩いてきた。しかし、柳宗悦の民芸「運動」みたいなものも「運動」であるなら、「運動」を一概に嫌うこともない。
勢力のある幻想や妄想を否定して、前に向かって歩くことが人々の力を集めることができるなら、そこに否定すべきものは何もない。理念がリードすることが可
能であり、人々から内発する動きが時代の先端へ越え出るものであるならば、「運動」もいい。
これは、「日本在住のまま英語を持ち続けるための装置」を一つ作るための「運動」になりうるかもしれない。まだほんの小さな芽であるとしても。
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