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素読舎名物否定広告
「からっぽ」論
「からっぽ」に二種類あり
素読舎を使った場合
@ 「理解がからっぽ」
素読・音読
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「まともな音
で」 ・素読舎 「まともな
音ですらすら」
「音づくり」 →
すらすら読める
・学校・進学塾「間違った音ですらすら」
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↓
意味・文法(理解)が
↓
・教材を継続すれば、「理解」のための準備が
ともなわない
よく整う
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・わかるときは一挙に全部わかってくる
↓
(教材の威力)
ひとまずOK!
(あくまでも「ひとまず」) ↓
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↓
↓
↓
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→→→→→ A
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A 「当事者性がからっぽ」
素読継続
→ 文法理解、意味がともない、イメージが強化され、瞬間化される
それでもなお
「当事者性」はからっぽ
・当事者性が「からっぽ」であることは語学の本質。
・当事者性が「からっぽ」であることは、素読舎を使う使わないにかかわらず起こる。
・日本語を主言語とする限り、いくら激しく多量に練習しても英語の当事者性は「からっぽ」。
・わかりやすい例。外がどしゃぶりの日に It's a fine day, today.
(今日はよく晴れたいい天気だ)という文を机の上で練習していても何もおかしなことではない。机を離れて、外に出てそれを言えば、気違い扱いされる。ある
いは嘘つきになる。
・どんな英語の上級者でも、机の上でどんなに高度な英語を扱っていても、それが語学であり練習である
限り、扱っている言葉に当事者性はない。(仮の言語=練習のための言語=語学の言語)
・当事者性の欠如=「からっぽ」は大きく肯定されなければならない。
(「ぺらぺらしゃべれない」などという余計な劣等感を持つ必要はない)
↓
↓
↓
B
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B 「からっぽ」が状況(的意味)で充電される。→ 磁場での当事者=生活(仕事)の言語
・このBの段階は、もはやすでに語学ではない。語学の外側(生活や仕事)。
・普通に日本語を主言語にしている生活では、この「状況による充電」は起こらない。
・「状況による充電」が起こるのは、「磁場」(言葉の当事者になる場)に渡った場合。
・英会話学校には、「練習用の状況」しかない。本当の「状況」はない。だから、充電は起こらない。
・この段階はすでに語学でもなければ練習でもないから、「充電」をやるもやらないも各自にまかせる。
・肝心なことは、@Aの段階で、「磁場」に渡りさえすれば「充電」が起こる質の英語力にすること。
・@Aの段階で、「当事者性」が欠如するのは当たり前だが、「まともな音」が欠如したら、「磁場」に渡っても「充電」が起こらない。(「充電」が起こるた
めには、電導性の音=まともな音でなければ駄目)
・結論。学校英語、進学塾英語じゃ駄目。「まともな音ですらすら」でなければ駄目。
だから、素読舎でなければ駄目。と、駄目押しするから、「否定広告」なわけだ。
つまり、日本語磁場における、「状況」における、「これぞまともな言葉!」なわけだ。
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