【12001】
しまりすさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月10日(土)02時23分34秒
   質問したいこと が、ひとつふたつあるのですが、いずれこちらに書かせていただきます。
おたくの掲示板を読ませていただきましたが、ああいう女の人ばかりのサロンみたいなところに出入りするガラではありませんので、こちらで質問に答えていた だけたら幸いです。ここは「大風呂敷」ですので、別に糸山の話になっても一向に構いません。
 もし、私がおたくの掲示板に行くなら、土足で踏み込むことになってしまいますので、一時的にながら、掲示板の雰囲気はぶちこわしになるでしょう。

 で、ひとつふたつある質問は、明日以降にさせて下さい。
 疲れていますので、マンガでも読みたく思います。
 

【12002】
しまりすさんへ   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月10日(土)13時15分30秒
  しまりすさんからの お誘い、どうしたものかと思案していたのですが、根石さんのお許しが 出ましたので、ここで続けさせていただきます。しまりすさんの掲示板にお邪魔するのは、どうも気が進まないのです。場の雰囲気というものがありますので。

ですので、いただいたご質問にできる範囲でお答えしたいと思います。

まず、前提として申し上げたいのは、私はできれば子供の教育からは手を引きたいと思っているということです。手を引くというと語弊があるかもしれません が、自分自身が教えることはもちろん、伴走者としてのコーチングもできる限り避けたいと思っています。適切な指導者を見つけ、お金は出すけど口は出さず見 守る、が良いと思っています。

しかし、前にも書きましたが、使える教育費の多くの部分を税金という形で学校に徴収されていますので、どうしても他に回せる部分が限られてしまいます。

そして、息子にとっては勉強は二の次三の次ですので、スポーツの方にまずは回ります。そこで予算編成終了!、となっています。それはそれで良いとは思って います。スポーツのコーチから多くのものを得ていると思いますので。一番大事なのは「コーチってすごいなあ」この感覚と思っています。根石さんが「親の 背」とお書きになっていますが、親よりコーチの背中と思っています。

では、予算不足だから勉強については全く放っておけるかどうか、というのが問題です。放っておいたら、暗くなるまで遊んで帰ってきて、あとはゲーム、カー ドゲーム、テレビ、以上、本日終了!

それでは、プロのコーチ無しで、(害を最小にして)何ができるかということになります。「どんぐり」に関しては、そういう点で糸山さんのFAX指導を受け おられるしまりすさんと私とでは状況が異なるとは思います。

>まず、お聞きしたいことは、らくださんは、どんぐり文章題を始められるにあたって、著書や過去ログをお読みになったのでしょうか?ということです。

私が「どんぐり」を知ったのは、たしか2002年でした。その当時は過去ログは今ほど膨大ではなかったと記憶していますが全て読みました。その後、『絶対 学力』[文春ネスコ (2003/03)]、『三角計算練習ドリル』[宝島社 (2003/09)]、『新・絶対学力』[文春ネスコ (2004/03)]を読みましたが、それ以降発行されたものは読んでおりません。

>らくださんは、どんぐり文章題を一緒に描かれたことがありますか?簡単でしたか?

たくさんではありませんが、もちろんあります。確かに大人でも手強いものはあると思います。でも、だからといって「どんぐり文章題」に子供の読解力養成を 託そうとは思いませんでした。なぜかは後述します。

>このようなことは、どんぐり文章題を初めてやったほとんどの子どもと親が経験することです。

多くの子どもがそういう状態になることは想像できます。

>合う合わないとは関係ないと思います。

要は「やりたくない」と子どもが口にするとか、端から見ていて気持ちが入っていないとか、そういう事はあると思います。そういう場合に、どの程度の期間、 (子供が切れる)頻度で親が見切りをつけるか、ということですね。それを結果として「合わなかった」と表現しました。お子さんの場合は、幸いなことに「直 訴」できる相手がいますので煮詰まることが無いのだと思います。

>どんぐり文章題、親が誘導してしまっては何の意味もありません。
正直申しまして、あの700問を本当に自分の力で描けるのであれば、
きちんと思考力の育ったお子さんですから、何も問題ないと思います。
書写や音読なども、必要ないのではないでしょうか。

設問の日本語の意味がわかっているかどうかを「誘導尋問」で確認したという感じでしょうか。どれが主語でどれが述語で修飾関係はどうなっているのか。最初 の文と次の文の関係がわかっているか、など。いくら日本語でも、さらっと読んで意味が掴めないとうことがあると思うのです。それは大人でもありますよね。

「どんぐり」を止めた直接の理由は「子供に合わない」と判断したからですが、同時に、やはり、まずは言葉の訓練が必要ではないかと感じたことです。こうい う言い方を糸山さんは否定されると思いますが、よくある「算数の文章題が解けないのは、国語力の問題だな」というやつです。

ですので、その後やったことと言えば、小学生2〜6年生用の国文法のドリルと、読む練習のための国語の文章題ドリルです。国語文章題ドリルは、設問に答え させることが目的ではなく、題材とされている文章を読むことが目的ですので、あるきっかけでそれは終わりました。ドリルの中に宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」 が出てきたことです(一話まるまる入っています)。勉強の最後に「よし、俺が久しぶりに読みきかせしてやるよ」と言って音読してやったのですが、私がほと んど号泣してしまって、まともに読めなくなってしまいました。「お、お父さん、大丈夫?」状態です。これは今年の話ですが、そこで夏休みの宿題の自由研究 を宮沢賢治にする事にし、息子はずいぶん賢治の童話を読みました。ある程度、文章を読むことに対する抵抗感が弱まったと思います。そして、家族で岩手に旅 しました。岩手山麓のキャンプ村で強い風が吹いてきたとき、風上に向って息子は気持ち良さそうに「どっどど どどうど どどうど どどう」と言っていまし た。

>本を読みさえすれば読解力がつくというものではありません。
どんぐり文章題での言葉からイメージへの変換は、緻密な読解力養成になります。

へのお答えになっていますかどうか。

>目で考えることが、この文章題の核だと思うのですが、
これがわからなくても、文章題は描けると書かれているのがとても不思議です。

「どんぐり」を止めた後も、この「目で考える」ということが気になってはいたのです。そして、吉さんを通して、以前から存じ上げていた根石さんと糸山さん がつながったというわけです。

糸山さんは

> ■読解力(分かる)とは言葉を視覚イメージとして頭の中で再現することです。「見える=分かる」なのです。思考(考える)とは視覚イメージを操作すること です。ですから、「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」を使って絵図を描く(言葉を視覚イメージに変換する)ことで、→国語(読解力と表現力)も算 数(算数の読解力)も総合力(思考力)も養成できる(思考のプラットホーム理論)←のです。

と書かれていますが、やはり絵図を描くまでの段階で、「言葉がわかる」ことが必要ということですね。「わかる」ということがイメージを作り上げるというこ とだと定義することとしても、そのイメージを「視覚イメージ」と言い切ってしまっていいのかが大いに疑問です。算数・数学とのつながりで言えば、それで良 いのかもしれません。そしてその「視覚イメージ」は、数や量、空間の感覚とつながっているということになるかと思います。

しかし、イメージというものを視覚とのつながりだけに限定して「読解力とは、とか、わかるとは」と言われますと、やはり違和感を感じざるを得ないのです。 それは、あくまで算数の文章問題に正解する、という目的に限定された話ではないか?

たとえば臭覚はどうでしょう。ある文を読んで、遠い昔に嗅いだことのある匂いがよみがえってきて、なんとも言えない郷愁を感じる、ということは無いでしょ うか。そして、そういう読解力は不要でしょうか?

また、糸山さんは絵図を描いた後の手順として

> 4.描いたら文章は見ないで絵図だけで考える。
※絵図を使って頭で考えるのではなく絵図そのもので(目で)考える:分かるようにする
5.答えが見えるように絵図を描き直す。

とも書かれていますが、この過程で設問の文章を排除する(読まない、文章を思い出しもしない)ということが可能なのだろうか、ということも私の疑問でし た。

以上、お答えしきれていないところもあるかもしれませんが、ひとまずこんなところで。
 

【12003】
根石さんへ   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月10日(土)14時08分11秒
  ありがとうございま す。

> やってみられるのはいいことだと思います。子供の勉強につきあって嫌われるのでなく、親が自分で何か一つ勉強を続けていくことがいいことです。

実を言いますと、できるだけ英語とはお近づきになりたくない、というのが本音です。しかし、多くの会社で同様の状況が起きていると思われますが、私の職場 でも「英語ができないんじゃねー」という雰囲気がジワジワと強まりつつあります。ある意味、それは仕方のない面もありまして、といいますのも、私が所属す る会社が、いわば「英語で食ってる」会社だからです。

私のかつての同僚の中には、その「肩身のせまさ」から「もう英語から解放されたい」「英語ができないし、やりたくもない自分がこの会社にいてもこの先ね」 と辞めていった者も複数おります。

英語を始めるかどうするか。もう少し考えてみたいと思います。

>「茶の本」をメインテキストにされた場合で、それ以外には何も英語をやらないというのであれば、「新しい英語」「現代の英語」に触れないことになってし まうので、一種独特の英語力ができるでしょう。

「茶の本」が現段階でメインテキストとするには良い選択ではないことは分かりました。

>「音づくり」をやらないと、英語力そのものが大きく欠けたところのあるものになってしまいますので、非常に損な結果になります。

そして、独習では音づくりが難しいということですね。オヤジはともかく、息子もあと半年足らずで英語との付き合いが始まります。教科書準拠のCDを買い与 えておくだけでは難しそうですね。こちらも、どうするか考えることにします。

>「茶の本」を吹き込んだ市販のCDがあるかどうか知りません。あったら、どなたでも結構ですのでお教え下さい。

につきましては、『英語達人読本 CD付き』(斎藤兆史・上岡伸雄/中央公論新社)の中に少し(利休最期の一節。朗読はピーター・バラカン)収録されてい ます。

それと、おそらく全編モノとして、ことのは出版というところで

http://www.kotonoha.co.jp/

オーディオブックを出しているようです。
 

【12004】
根石さん、らくださんへ   投稿者:しまりす  投稿日: 2007年11月10日(土)16時36分57秒
  根石さんへ

私は、ここでどんぐりの議論を続けることはしたくありません。根石さんをおもんばかってという訳ではなく、これは私の気持ちです。これから先、ここにはあ まり出入りしないと思います。私のブログの掲示板は、ほとんど使っておりませんので、雰囲気も何も特にはありません。どうぞいらっしゃってください。


らくださんへ

根石さんにお書きした通り、これから先、ここにはあまり出入りしないと思います。

私は娘が中学に入れば、自分の意思で学習ができる子どもにしたいと思っています。今はその土台作りです。中学からは、私は手を放します。でも、今は(そ う、12歳までは)、親が育ててやらねばならないと思っています。これは、私の教育方針です。

ブログに書いている通り、娘は始めた当初から今まで、煮詰まりっぱなしです。ほんとうに大変です。でも、あと2年ちょっとしかないんだから、つきあってや ろうと思っています。うちは今、添削を受けていますが、家庭での学習なので、導いてやるのは親の仕事です。チャレンジなど一般の通信教育のように、子ども に勝手に問題をやらせておいて、郵送して、親はオワリ!という添削とは違います。また、スポーツクラブなどでつきっきりでコーチを受けるのとも状況は大き く異なります。

お金のことがよく話題になっているので、書いておきます。添削は週2題まで、添削料は5カ月で15000円です。月あたり3000円。この添削、糸山先生 は今期でやめると書いておられます。

問題などが入っているCDは7年分で10000円です。小3から始めた我が家でも4年間使って、年間2500円、月で割ると200円強。コーヒー一杯にも 満たない額です。大半の御家庭では、これだけで、やっておられます。私は9月から、(自分の治療も一区切りついたので)、CDから印刷した問題を使って、 娘の同級生も交えた寺子屋をしていますが、無償です。1枚のCDを、娘以外に4人の子どもが使っていることになりますが、初めに出した10000円以外は 何も支払わずに使っています。

どんぐり文章題は小学生用の問題なので、普通の大人なら、できて当り前です。私は“文章題を解かれたことがありますか?”ではなく“文章題を描かれたこと がありますか?”とお聞きしました。これは、きちんと絵に描いてされたことのある方なら、『目で考える』という意味が、くだくだしい説明なしにおわかりに なるはずだからです。絵を描かずに、一般の算数の文章題を解くようなやり方では、おわかりにならないと思います。

「算数の文章題が解けないのは、国語力の問題だな」というのは、一般的にみんなが抱く『感想』です。では、どうやったら国語力がつくのか?ーーーほとんど の方は答えを持っておられません。このことについて、糸山先生の本2冊と過去ログをお読みになって、文章題もされた上で、おわかりになっておられないので あれば、私がここで何を書いても無駄なので、これ以上は書きません。

失礼いたしました。

http://burogu

 

【12005】
根石さん、らくださんへ   投稿者:しまりす  投稿日: 2007年11月10日(土)16時39分9秒
  根石さんへ

私は、ここでどんぐりの議論を続けることはしたくありません。根石さんをおもんばかってという訳ではなく、これは私の気持ちです。これから先、ここにはあ まり出入りしないと思います。私のブログの掲示板は、ほとんど使っておりませんので、雰囲気も何も特にはありません。どうぞいらっしゃってください。


らくださんへ

根石さんにお書きした通り、これから先、ここにはあまり出入りしないと思います。

私は娘が中学に入れば、自分の意思で学習ができる子どもにしたいと思っています。今はその土台作りです。中学からは、私は手を放します。でも、今は(そ う、12歳までは)、親が育ててやらねばならないと思っています。これは、私の教育方針です。

ブログに書いている通り、娘は始めた当初から今まで、煮詰まりっぱなしです。ほんとうに大変です。でも、あと2年ちょっとしかないんだから、つきあってや ろうと思っています。うちは今、添削を受けていますが、家庭での学習なので、導いてやるのは親の仕事です。チャレンジなど一般の通信教育のように、子ども に勝手に問題をやらせておいて、郵送して、親はオワリ!という添削とは違います。また、スポーツクラブなどでつきっきりでコーチを受けるのとも状況は大き く異なります。

お金のことがよく話題になっているので、書いておきます。添削は週2題まで、添削料は5カ月で15000円です。月あたり3000円。この添削、糸山先生 は今期でやめると書いておられます。

問題などが入っているCDは7年分で10000円です。小3から始めた我が家でも4年間使って、年間2500円、月で割ると200円強。コーヒー一杯にも 満たない額です。大半の御家庭では、これだけで、やっておられます。私は9月から、(自分の治療も一区切りついたので)、CDから印刷した問題を使って、 娘の同級生も交えた寺子屋をしていますが、無償です。1枚のCDを、娘以外に4人の子どもが使っていることになりますが、初めに出した10000円以外は 何も支払わずに使っています。

どんぐり文章題は小学生用の問題なので、普通の大人なら、できて当り前です。私は“文章題を解かれたことがありますか?”ではなく“文章題を描かれたこと がありますか?”とお聞きしました。これは、きちんと絵に描いてされたことのある方なら、『目で考える』という意味が、くだくだしい説明なしにおわかりに なるはずだからです。絵を描かずに、一般の算数の文章題を解くようなやり方では、おわかりにならないと思います。

「算数の文章題が解けないのは、国語力の問題だな」というのは、一般的にみんなが抱く『感想』です。では、どうやったら国語力がつくのか?ーーーほとんど の方は答えを持っておられません。このことについて、糸山先生の本2冊と過去ログをお読みになって、文章題もされた上で、おわかりになっておられないので あれば、私がここで何を書いても無駄なので、これ以上は書きません。

失礼いたしました。

http://plaza.rakuten.co.jp/clematis1010/

 

【12006】
絵図   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月10日(土)20時54分50秒    編集済
  少し前に、糸山さん の言葉だという「一言も言葉を知らなくても考えることが出来る」に ギョッとして、これはないだろう、というやりとりを根石さんとしたことがありました。
今回、しまりすさんのコメント等で、その発言が、具体的には、算数の文章問題を解くときに問題文をいったん絵図に置きかえれば、問題文の言葉に戻ることな く絵図の操作のみで問題を解くことができる、というような場面を背景にしているということがわかり、なるほどと妙な納得をしているところです。

糸山さんの立場を考えればしごく当然なことなのでしょうが、そこまで学校内(学習内)的な環境に骨がらみとなった言葉とは、うかつにも気づきませんでし た。
ただ、算数の文章題を解くという特殊な環境に限定にしても、らくださんがおっしゃるように、言葉と絵図を対立させて考えるのは無理があります。どう考えて も、絵図に変換し、絵図で考えることそのもののうちに言葉が介在します。「問題文」と「絵図」の区別が必要なのは、学習指導という「実用」場面においてな のでしょう。

実生活でぶち当たる問題を考える際にも、ある種の絵図を描く必要にせまられることがあります。しかしこの場合に大切なのは、言葉を絵図に置き換えること自 体にはなくて、現場に散乱する言葉を、自分の言葉に置き換えて了解することであり、その補助手段として絵図や思考イメージが有用である、ということだろう と体験的には思えます。絵図とは、もう一つの言葉なのです。(視覚的イメージの操作に思考を限定するなら、いわゆる全盲の人はどう思考するのかというちゃ ちゃを入れたくなるところです。)

たとえば、根石さんの糸山さんの思考にたいする批判、激昂をどんな風に理解したらいいのか、という問題があります。(当事者でない僕には擬似問題にすぎま せんが。)二人の膨大な文章にあたることは難しいでしょうし、根石さんが次々に繰り出す論点についていくだけでも頭が痛くなります。
僕自身は、何回か書いてきたように、この対立を「根石さんは言葉の本質論であり、糸山さんは言葉の方法論・技術論である」というように要約し、イメージす ることで了解しやすくしています。これはシンプルな理解なので、図にする必要はないのですが、一つの絵図といっていいと思います。

しかしもっと複雑で重要な問題、たとえば根石吉久の思想をどう理解するか、という問題を考えるためには、少なくとも僕には、ある種の絵図(概念図)の手助 けが必要です。
すぐれた詩人にして、破天荒な文学者、筋金入りの英語職人、自宅を自作し、百姓仕事をしながら「社会問題」にも首をつっこみ、夜中飲んだくれて時に大風呂 敷で吼え、何万行にもわたる英語テキストの作成に没頭する・・・
このような複雑な人格にして、思考の「極北」を歩むような人間を常人が理解するためには、確かにテクスト(問題文)の字面をおうだけではなく、それを自分 なりの絵図へと変換する努力が必要だろうと思います。
 

【12007】
過去ログ係   投稿者:村田  投稿日: 2007年11月10日(土)23時19分59秒
  過去ログ倉庫を更新 しました。

◆過去ログ11900番まで収録
◆語数別テキスト現行版

http://nagano.cool.ne.jp/ha98000/

 

【12008】
根石さんへ 音声ファイルについて  投稿者:村田  投稿日:2007年11月11日(日)01時27分22秒
  wav形式は音質が 良く、Windowsでもマックでも再生できるようですが、1分間の 音声に10MB必要だそうなので、ファイルサイズがやたら大きくなります。
フリーな圧縮ファイルとしてはOgg, FLAC, AIFF, AU などがありますが、それぞれ何かを新たにインストールする必要があります。私はOggとFLACを扱ったことがありましたが、導入するまでがわりとめんど くさかったです。
mp3形式は音楽ファイルとしては最も一般的でwindowsでもマックでも使えるようです。圧縮するためファイルサイズもwav形式の1/10程度との こと。
mp3形式がいいんじゃないかと思います。
 

【12009】
根石さんへ   投稿者:ひきこもり暦22年   投稿日:2007年11月12日(月)01時23分51秒
  今夜こそは書くつも りだったんですが邪魔が入りました。イライラする。あhうぃえらhw
頭が整理されたわけではありませんが明日には書きます。申し訳ない。
 

【12010】
しまりすさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月12日(月)05時35分2秒
   ひとまず「大風呂 敷」に書いて、おたくのブログに貼り付けるということでやらせていた だきます。貼り付けの作業は村田君がやってくれることになっています。
 この掲示板をお読み下さっている読者の方々が読みやすい形でやっていきたいと思います。この場合、しまりすさんのブログで私にお答えいただいた記事は、 こちらにコピーさせていただきます。私の記事だけだと、議論の流れが見えなくなってしまいますし、私は自分がどれほど醜態をさらした議論であっても、すべ て過去ログに記録する方針でおりますので、過去ログを備えておられないおたくのブログに書いただけだと、書いたものが闇に葬られる可能性があるとも考えて います。

>私は“文章題を解かれたことがありますか?”ではなく“文章題を描かれたことがありますか?”とお聞きしました。これは、きちんと絵に描いてされたこと のある方なら、『目で考える』という意味が、くだくだしい説明なしにおわかりになるはずだからです。

 「文章題を描かれたことがありますか?」という文が、日本語として奇妙なものであることにお気づきですか。
 もし「描く」という語で言いたければ、文章題が要求している答に至るための理路が判然とするように、「絵図を描かれたことがありますか?」でしょう。あ くまでも「描く」のは絵図であり、「文章題を描く」では、理路もへちまもありません。「文章題を描かれたことがありますか?」などという言い方は、理路が 成り立つ根底をみずから崩しているのと同じです。これを揚げ足取りだなどと思わないでいただきたい。お書きになった文は、「正確を期する」ために書かれた 部分なのです。「正確を期する」ために書かれるのなら、正確に書いてもらわないと読む方が迷惑するのです。

 『目で考える』というのは、その前に理路が成立しているから成立するのではありませんか。理路が成立しているから、絵図に「描く」ことができるのであ り、だからこそ『目で考える』が成立するので、その逆ではありません。そして、「思考」は、理路が成立する以前に動いているのであり、絵図とは「回答直前 の理路」が形を得たものにすぎません。だから、実質部分は、『目で考える』ではないのです。実質部分は、「それ以前」にあるのです。

 正答することが大事なのではない、絵図が理路の形として描けるかどうかが大事なので、一番時間をかけていいのはそこだというのには異論はありません。し かし、それが本当であるならば、『目で考える』などというもの言いそのものが、(絵図以前の)思考から夾雑物が抜け、理路が成立するまでの過程を抜かして しまう「まぬけなもの言い」だというのが私の批判点です。 『目で考える』だの『視考力』などという言い方そのものが、糸山の「過程が大事」という言い方 を裏切っているのです。
 この点で、糸山が言っていることは、理論としてまったくの出来損ないです。

 思考とともに動いているのは、言葉を脱いだイメージであるという論に対しては、私は糸山に異論はありません。
 言葉を読み取り、その場に必要なイメージが動くから、理路が成立するのだという意味で言っているのであれば、その通りだと思います。言葉そのものにとら われていたら、イメージが一人歩きすることもなく、理路も成立しません。

 しかし、イメージは心が観るのであり、目が見るのではありません。こんな簡単なことが糸山にはわからないのでしょうか。そうとは思われません。これは 「だまし」なのです。こんな簡単なことがわからないのは、むしろ、糸山の信者たちなのでしょう。
 糸山については、算数病とでも名付けておきましょうか。算数病患者がイメージの生態を語れるなどと思ったらとんでもないのです。

 吉さんが、糸山と根石が同じことを言っていると何度か「大風呂敷」に書かれたことがありますが、数学でも語学でもイメージが動くかどうかが最重要なポイ ントだという点だけなら、私は糸山と同じことを言ってきました。

 ところが、なぜイメージが動くようになるのかということに関して、「言葉なんか知らなくてもイメージだけでやれる」というようなことを本当に糸山が言っ ているのでしたら、このおたんこなすとしか言いようがありません。
 そもそもいったい、言葉を知らなくて、どうやって「良質の文章問題」を読むというのですか。
 イメージは言葉を媒介にして育つのです。あるいは、イメージを媒介にして言葉が育つと言っても同じです。しっかりとイメージが媒介にされていると、その 人にとって言葉が深くなるからです。
 いずれにせよ、言葉とイメージというものの間に絶えざる「往来」=「相互作用」があるということです。言葉を覚える前の子供にも、不定形のイメージの流 れはあるでしょう。大人があいまいな形にならない夢を観ることがあるのと同じように。しかし、そのイメージの流れは、糸山が言う意味での「思考」に使える ようなものではありません。「言葉」が媒介にされない限り、「思考」が立ち上がることなどあり得ないのです。「思考」が立ち上がることがいいことかどうか は別として・・・。(それこそが人間の原罪なのかもしれないのだから・・・)
 子供は自分が初めて出会う言葉に興味があり、その場の空気や状況、その言葉が置かれた文脈や、人の意図などさまざまなものを媒介にして、ひとまず自分な りのイメージを持ちます。違う場面で同じ言葉に出会うことを繰り返すうちに、イメージに厚みができ、その語の「イメージの核」とでも言うべきものが形成さ れます。その頃に、初めは知らなかった言葉が、よく慣れた(慣れきった)言葉になります。
 一度形成された「イメージの核」が、具体的な言葉(慣れきった言葉)を脱いで、一人歩きすることが、イメージが動くということです。元の言葉がなくて も、イメージだけが動くようになるということです。

 私は語学をやってきた者ですが、イメージが言葉を脱ぐことができるかどうかが、語学に上達するかどうかを決める要因として最大のものだと考えています。 語学をやる場合、イメージは元の言葉(日本語の言葉)を抜け出して、外国語の言葉に棲みつくようになり、そこで変容します。元の言葉を抜けて別の言葉に棲 みつきさらに変容し続けるということは、イメージの生態として、ネイティヴ言語(私たちにとっての日本語と言われているもの)でも生じます。
 私の教材づくりもこの点から目をそらさずに作り続けてきたと思っています。

 「易しすぎず難しすぎない」日本語のエッセイなどを小学生に素読させるのがいいと私が言ってきたのは、上の考えに基づいています。素読には読解力を準備 する方法があります。読解力を養成する方法など誰にもわからないなどと早合点していただく必要はありません。そんなものは身勝手な独断というものです。
 むしろ、いくら私が小学生に素読がいいと言ったところで、日本語にお金を払う日本人など誰もいないというだけのことなのです。戦後日本の「お勉強」まわ りの神経症が、どんな貧しい考えによってできているかを物語るものだと思っています。

 また、糸山の「算数の文章題を解くことで読解力がつく」ということに関しては、我田引水めいたことを言うんじゃねえよという批判があります。算数の文章 題を解くことで育つのは、理路を成立させるための「読解力」だけです。情感までも含めた読解力から見れば、上澄みをすくうだけの貧しいしろものに過ぎませ ん。それは理路を成立させる訓練にはなるかもしれませんが、しょせん「お勉強」における理路(舞台上の芝居)であり、生きていくために必要な思考力とは別 の世界のものです。生きていくための思考力というものは、情感を備えていなければ役立たずです。その区別が、戦後の市民社会の思考貧乏人たちにわからなく なってしまっただけのことです。南無阿弥陀仏。

 理路を成立させるための読解力というものは、読解力のうちのごく一部に過ぎません。これを読解力そのものとするのは、これまた糸山お得意の詐欺なので す。信者には詐欺が見えなくなるだけのことです。

 お聞きしたいことは他にもありますが、ひとまずこれだけにしておきます。
 

【12011】
ひきこもり暦22年さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月12日(月)05時36分33秒
  承知しました。
ゆっくりやって下さい。
 

【12012】
村田君   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月12日(月)06時00分40秒
  ありがとう。
mp3でキリピーが作ってくれることになりました。
 

【12013】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月12日(月)06時08分31秒    編集済
   一部、matsu さんが書かれたことに応じるものを、しまりすさん宛ての中に込めさせていただきました。

>すぐれた詩人にして、破天荒な文学者、筋金入りの英語職人、自宅を自作し、百姓仕事をしながら「社会問題」にも首をつっこみ、夜中飲んだくれて時に大風 呂敷で吼え、何万行にもわたる英語テキストの作成に没頭する・・・

 いやいや。「すぐれた」とか「破天荒な」とか「筋金入りの」とかの形容語句は私にはもったいないものです。とんでもございません。

 しかし、それにしても、この私の極度のたこ足配線状態はわけのわからないものです。
 どなたかに解説していただきたい。

 英語のテキストはもうじき9万行に達します。(一行半角70文字)
 

【12014】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月12日(月)06時35分21秒
  >実を言いますと、 できるだけ英語とはお近づきになりたくない、というのが本音です。

 お気持ちはよくわかります。

>オヤジはともかく、息子もあと半年足らずで英語との付き合いが始まります。教科書準拠のCDを買い与えておくだけでは難しそうですね。こちらも、どうす るか考えることにします。

 「オヤジはともかく」が、実は私の考えでもあります。(怒らないで下さい。怒るなら文部省を怒って下さい。)
 CDを買い与えるだけでは、日本人の英語の「音」は何の解決にもなりません。これは、柴田さんも言明されています。「音づくり」をやってきた者だけが 知っている「過程」というものがあります。
 私はよく、「俺よりも生徒の方が発音がいいんだ」と公言しますが、そうするとたいていの人が笑います。しかし、これは事実なのです。「俺」が「俺よりも 生徒の方が発音がいいんだ」という状態にしたのだから、音に関しては俺は腕のいい職人なんだぞ、と言っているつもりなんですが、まあ、たいてい笑われてし まいますね。
 私は最初からCDを使えとは言いません。2,3年、レッスンを受けてもらってから、「もうCDをどんどん使っていいよ」と言います。そうすると、あっと いう間に、生徒の発音が私より良くなってしまうのです。中学生くらいの年齢だと、本当にあっという間に良くなってしまい、ほうっ、とあっけにとられること があります。
 CDの音(ネイティヴ音)を「媒介」にできるだけの(元になる)「音」を作るのが仕事の大きな部分なのです。

>それと、おそらく全編モノとして、ことのは出版というところで
http://www.kotonoha.co.jp/

 ありがとうございました。クレジットカードで買えたので買いました。
 iTune とかいうソフトでダウンロードしただけでした。
 昨夜聴きましたが、吹き込みはどうやらイギリス人ですね。
 アメリカ英語よりはいいかもしれない。
 decent って言うんでしょうか。
 「茶の本」に合う英語だと思いました。
 

【12015】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月12日(月)07時00分54秒
  >「よし、俺が久し ぶりに読みきかせしてやるよ」と言って音読してやったのですが、私が ほとんど号泣してしまって、まとも に読めなくなってしまいました。「お、お父さん、大丈夫?」状態です。これは今年の話ですが、そこで夏休みの宿題の自由研究を宮沢賢治にする事にし、息子 はずいぶん賢治の童話を読みました。ある程度、文章を読むことに対する抵抗感が弱まったと思います。そして、家族で岩手に旅しました。岩手山麓のキャンプ 村で強い風が吹いてきたとき、風上に向って息子は気持ち良さそうに「どっどど どどうど どどうど どどう」と言っていました。

 いい話です。いいおやじだと思います。つい、私も泣き出しそうになり、やっと踏みとどまりました。

<3MX90>
蟻塚(ありづか)小学校では毎朝、1時間30分かけて蟻探しをします。
茜(あかね)組は35人、椿(つばき)組は42人、向日葵組は38人です。
茜組は全員6秒で1匹、椿組は9秒で1匹、向日葵組は8秒で1匹の蟻を
探すことができます。蟻50匹につき角砂糖7個と交換できるとすると、
みんなで何個の角砂糖を手に入れることができますか。

 こんなもの読むことと、賢治を読むことを較べることは、不遜で不潔なことに思われますが、今の小学生はこんなものを何百も読まされて苦しめられて、「思 考力」だなどと化かされて、生きる力を奪われていくのです。
 馬鹿らしきこと限りなし、です。

>しかし、イメージというものを視覚とのつながりだけに限定して「読解力とは、とか、わかるとは」と言われますと、やはり違和感を感じざるを得ないので す。それは、あくまで算数の文章問題に正解する、という目的に限定された話ではないか?

 matsu さんが言われていることも、今日私がしまりすさんに向けて書いたものも同じものを批判していると思います。私の場合は、「違和感を感じる」程度のもの言い にとどまらず、「糸山、嘘つけ、このやろ」となるのですが・・・。
 

【12016】
(無題)   投稿者:しまりす  投稿日: 2007年11月12日(月)11時11分52秒
  こんにちは。先日 は、うちの掲示板に来てくださいと書きましたが、気が変わりました。そ んな手間をかけていらっしゃってい ただく必要はありませんし、私もこちらには二度と来ません。そもそも私は、最初の投稿をらくださん宛に書いたのであって、根石さん宛には何も書いておりま せん。根石さんが横から見ていろいろ言っておられるだけです。ですので、根石さんの御質問に私がお答えする義務はないはずです。“文章題を描く ”という表現を使ったのは、(どんぐりをある程度御存知のはずの)らくださんに対してだからです。この掲示板でよく使われている“回転読み”と同様、こう いう言葉は共通の認識のある人同士でしか通じないので、根石さん宛に書くのであれば、こういう表現はいたしません。何も知らない人に対して“文章題を描 く”が奇妙な日本語であることはわかっています。

『目で考える』は、算数の文章題に限った話ではありませんが、私がこの掲示板で、言葉だけを使って、説明しきれるものではありません。全盲の人のことにつ いては、どんぐりのHPと糸山先生の著作で触れられています。言葉とイメージとの関係についても、根石さんは大きく誤解されていますが、この場で説明しつ くせるものではありませんし、私自身、根石さんに説明しようという気もありません。不毛な議論に使う時間があれば、英語の練習をしたいと思っています。ど うも、お騒がせいたしました。
 

【12017】
オヤジはともかく   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月12日(月)12時27分1秒
  >「オヤジはともか く」が、実は私の考えでもあります。

はい。まったくです。考えてみます。まずは我が家の財務大臣との交渉ですね。恥ずかしながら私も色々手を出してきたクチでして「あんた、また?今度は何」 からスタートです。
 

【12018】
しまりすさん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月12日(月)12時37分37秒
  お返事を考えている 間に「終結宣言」されたので、もうお読みになっていないかもしれませ んが、書いておきます。

>お金のことがよく話題になっているので、

「どんぐり」にあまりお金がかからないことは、以前のそらまめさんの書き込みで、皆さんの了解事項だと思いますよ。今回のしまりすさんの書き込みで、 FAX指導の料金が高くないこともわかりました。

私が教育費のことを書くのは、もちろん我が家の台所事情という生臭い話もありますが(そういったことが、教育格差問題といって取り沙汰されるわけです)、 税金を取ることばっかり考えて、まともな事をやらない行政に対する皮肉、と考えて下さい。

ただ、私は文科省批判はしますが、いわゆる「ゆとり教育」の方向性は間違っていなかったと思いますし、推進役だった寺脇研さん(クビになっちゃいましたけ ど)の考え方には共感するところはあります。なんか、薄っぺらな方達に「教育再生」していただけるということで、それすら巻き返されちゃいましたけど。

>文章題を描かれたことがありますか?”とお聞きしました

根石さんみたいな突っ込みはしませんが、事実を申しますと「絵図は描きました」。描いてみたからこそ疑問が生まれたのです。

>どうやったら国語力がつくのか?ーーーほとんどの方は答えを持っておられません

根石さんは

>読解力を養成する方法など誰にもわからないなどと早合点していただく必要はありません。そんなものは身勝手な独断というもの

とおっしゃいますが、私はしまりすさんのお嘆きもわかります。国語の良い先生はあまりいませんよね。というか、表に出てこない。なぜかといえば、

>日本語にお金を払う日本人など誰もいないというだけのこと

という根石さんのご指摘通りですし、どうしてそうなったかと言えば、たぶん占領軍(アメリカ)が、日本の言語教育を骨抜きにしたからでしょう。これは「陰 謀史観」なんかではないと思います。

でも、その状況も変わりつつあるような気がします。国語教育が大切であることを多くの親達が感じ始めていると思いますし、以前よりお金を払うようになって きてもいると思います。

さらに、「ただし」を重ねるなら、その状況にも一定の注意が必要と思います。国語が重要だという背景には、第一に企業側からの「コミュニケーション能力重 視主義」が、また国家権力側(ものものしい言い方ですが)からは、ナショナリズムへの動員が要請されている可能性があるからです。

尤も、私にはナイーブに反国家を言い立てる気はなく、企業も国家も私達が生きていくために現時点では必要な器であると思っていますので、根石さんが言われ るように「素読をお上が言い出したら要注意」、という意識を持っておけば良いと思っています。「愛国心?ウンウン、必要だね。でも、君にそれを言われたか ないよ、安倍くん(もうずっこけちゃいましたが)」という感じですね。

ここから先は、matsuさんへのコメントとして書きたいと思います。
 

【12019】
しまりすさん   投稿者:Jackie  投稿 日:2007年11月12日(月)16時47分7秒
  穏やかを装いなが ら、キツイ言い方でさようなら宣言。

どんぐり教の教徒さん?まるで宗教を信じてる人に反論したときに
返ってくるような拒絶というか噛み付きというか。
信仰しすぎでちょっと怖い。



私はやおろず信仰、いいところはどこからも取り入れていきたい。
どんぐりの本も読みましたし、HPのの文章題も姪にやらせてみました。

・・指導者がいないとむずかしいわ。

素読にもコーチがいるように、どんぐり指導もはじめはプロの直接指導を受けてからでなければどんぐりも難しいと思いました。
 

【12020】
根石さん   投稿者:村田  投稿日: 2007年11月12日(月)19時09分43秒
  しまりすさんのとこ ろに根石さんの記事を貼り付けにいこうとしたら気が変わられてしまっ た。まだ貼り付けてないです。どうしたもんだか。
どんぐりさん関係の記事は独立で抜き出しておきます。
 

【12021】
議論   投稿者:Naima  投稿日: 2007年11月12日(月)20時35分51秒    編集済
  なんでこう皆さん議 論が出来ないんでしょうか。どうしてけんか腰になってしまうの か...

要は、根石はだまってろ、何もしらないくせにごちゃごちゃぬかすなっ、てことをしまりすさんはおっしゃってるんですね。まあ、根石さんは歯に衣を着せない 言い方をされる方ですから、しまりすさんが腹を立てられる気持ちもわからないではないです。

でもらくださんは冷静に言葉を選んで議論されてると思いますよ。らくださん相手の議論が不毛だとは思いませんが。うちの掲示板に来て議論しろと言い、もう 来てもらわなくても良いといい、私は二度とここには来ないといい、でまた来て怒りをぶちまけられる。

いったい議論って何なんですか....自分が良いと信ずるところを人に伝えるってどういうことなんですか...

英語の勉強なんかやってる場合ではありません。糸山説に対するらくださんの「誤解」「曲解」を解けないことの方が重大だと思うんですが。

らくだは話す価値もないアホだ、とでも?

ところで...

らくださんは確かにいい親父さんなんでしょうけど、しまりすさんだっていいおふくろさんなんじゃないでしょうか。息子の勉強ひとつ見てやった事がなく、家 事と仕事でいっぱいいっぱいで本の読み聞かせをしようと思うと自分が居眠りしてしまうような母親だった私からみると、まぶしいくらいのお母さんです。爪の 垢でも頂きたいくらい。

もう手遅れですけど。
 

【12022】
根石思想のイメージ   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月12日(月)21時22分33秒
  根石吉久の思想のイ メージとして、僕が現時点で抱いているものを、できるだけ簡潔に描い てみようと思います。
そのために、とりあえずキイワードとして、「磁場」「語学」「批評」「娑婆」の四つの言葉を取りあげてみます。前の二つについては、多くの人に異論はない でしょう。
「批評」は、「詩」や「思想」と言い換えられるものです。
「娑婆」は、日本語の磁場のことであり、僕の理解する限り若き日の詩人根石吉久のキイワードであった「生活」のことです。

では、この四語をどのように組み合わせるのか。本当はフリーハンドで図を描きたいところですが、なんとか記号でそれを再現してみます。

  < 磁    場 >
         ↓

    批評 ・ 語学

    ↑
  < 娑    婆 >

「磁場」と「娑婆」は、横長の楕円形であらわすのがよいのですが、その英語と日本語の磁場の領域が上下に離れてむきあうことになります。
その中間の場所に、「磁場」からたたき出されてそれに対立する「語学」と、「娑婆」からたたき出されてそれに対立する「批評」が、並んで存在します。
上下の磁場が、直接的、具体的なものの領域だとしたら、その中間にある「批評」と「語学」は、間接的、抽象的な「媒介」の領域となるでしょう。

ひどく簡単な概念図のようですが、眼目は、語学と批評を軸として、磁場と娑婆との関係が、合わせ鏡のように折り重なるという部分です。(ジバとシャバと韻 を踏ませたのは、ちょっとした遊び心ですが。)語学論として、表面に見えているのは、上半分でしかありません。

なぜ根石さんが「嵐の一年」で、語学の獲得とともに詩や批評が読めるようになったのか、
なぜ根石さんが「媒介」を重んじて、磁場の直接性を二次的なものとするのか、
等々の疑問についても、この概念図が考える手がかりを与えてくれるように思います。

「こんな血の通ってねえ絵図で、俺のことがわかってたまるか。ばかやろ。」と根石さんなら言うかもしれません。ただ、このイメージを得たときに、自分なり に根石さんを読めるかもしれないと感じたのは事実です。
 

【12023】
管理人より   投稿者:村田  投稿日: 2007年11月13日(火)00時19分27秒    編集済
  ウィリアムさんへ

ウィリアムさんの投稿された記事は、画像は削除した上で以下に再掲載させていただきます。
当掲示板は、議論のための掲示板です。基本的に投稿記事の削除はいたしませんが、スローガンの言いっぱなしや、当掲示板にそぐわないと判断したものは削除 させていただきます。
今回はグレーゾーンと判断しましたが、今後、同じような投稿が続いた場合は、削除させていただきます。
================================================

【タイトル】=☆(日本が,ミサイル核武装していたら,米中露大国が、礼儀正しくなる!!!)☆=  投稿者:ウイリアム   投稿日:2007年11月12日(月)14時28分23秒
   =☆(日本が,ミサイル核武装していたら,米中露大国が、礼儀正しくなる!!!)☆=

1)相手国が、ふざけた物の言い方、でかい態度が、なくなる。

2)近隣諸国の”歴史教科書問題”、”永遠に続く戦争謝罪問題”、
       ”靖国神社参拝問題”が、なくなる。

3)ロシアの”サハリン2略奪事件”が、解決。

4)北方領土、南樺太、南北全千島列島の日本領土復帰が、できる。

5)韓国の竹島略奪の返還が、解決できる。

6)中国の日本領海内での海底油田、天然ガス油田の泥棒略奪が、解決できる。

7)”アラビア石油接収略奪事件”、サウジアラビアの裏切り略奪が、解決する。

8)豚将軍=北朝鮮も、おとなしくなり、拉致家族被害者約300人も、一気に、
  帰国できる。そもそも、こんな事件など、起こっていないし、起こらなくなる。

そのほか、枚挙に、イトマがないほどだ!!!。いいコトずくめだ!!!。

平和ボケ、国防軽視が、いけなかったのだ!!!!!!!!。

北朝鮮は、"""ミサイル、核の技術が、革新していく前に"叩き潰す事が、重要です!今が、北朝鮮を、滅亡させる絶好のチャン ス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!.
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写真を、クリックすれば、拡大するタイプ有り。
(無料掲示板)http://8914.teacup.com/yamatotakerunomikoto/bbs
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【12024】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月13日(火)05時37分40秒
  >たぶん占領 軍(アメリカ)が、日本の言語教育を骨抜きにしたからでしょう。

 これに関して、何か公開されている資料で読めるものはありますでしょうか。
 

【12025】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月13日(火)05時40分27秒
   「茶の本」の朗読 で、タダで聞けるものがあります。
 以前、Naima さんに教えていただいたURLです。
 ここの翻訳はとても良質なものだと思います。




http://www.linkclub.or.jp/~flmbwys/reading_E/E_top.html
 

【12026】
しまりすさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月13日(火)05時46分53秒
  心の狭さをまるだし にしていただき、ありがとうございました。
南無阿弥陀仏。
 

【12027】
村田君   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月13日(火)05時49分19秒
  「お池にはまって、 さあ大変」さんは放置して下さい。  

【12028】
根石さん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月13日(火)10時01分11秒
  >「茶の本」の朗読 で、タダで聞けるものがあります

この朗読は、人間の肉声ではないと思うのですが、いかがでしょうか。テキストを流し込んで読み上げるソフトを使用しているのではないかと感じました。

昔に比べ、この手のソフトも出来が良くなって、リスニングやシャドーイングの練習で実用に耐えるという人もいますが、そのあたりのご意見をお聞かせ願えれ ばと思います。

占領軍の件ですが、すみません、確たる証拠はありません。状況からしてたぶん、という域を出ません。独立前にも仮検定教科書というものがあり、いわゆる国 語教育には『言語』と『文学』という2つがあった。しかし『言語』は消えた。消えた背景に冷戦の激化があったのではないか、という内容をどこかで読みまし た。仮にそうだとしても、証拠は無いですね。何か資料が見つかったらお知らせいたします。

最近でも、アメリカによる「年次要望書」の存在と日本の数々の規制緩和との関係も、関岡英之さんが『拒否できない日本』で書かなければ表に出てこなかった と思いますし。
 

【12029】
matsuさん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月13日(火)10時57分23秒
  >そこまで学校内 (学習内)的な環境に骨がらみとなった言葉とは、うかつにも気づきませ んでした。

この「骨がらみ」を抜け出すのは容易なことではないと思うんです。抜け出した、と思ったら「本当の学力」「生きる力」の獲得競争に骨がらみになっていたり して。

「学校」や「受験」から安直に抜け出そうと思わないで、「学力」について徹底的に詰めて考えれば良いのではないかという気がします。徹底的に詰めていった ら突き抜けていた、ということがあるのだと思います。根石さんの場合は受験英語から語学論に突き抜けて行かれたわけですよね。

今回、『英語どんでん』を再読して唸ったところがあります。7年前に初めて読んだ時には完璧に読み飛ばしていました。神戸の酒鬼薔薇事件とオウム事件に触 れていらっしゃるんです。「学校」どころか「社会」まで突き抜けてしまった彼ら。

根石さんはそんな彼らに対する処方箋を提示しています。語学をやれ、と。語学というとことん空しい作業を通して、現実に帰還する、あるいは現実と往来する 技術を持ってほしいと。

泥臭いですねえ。この泥臭さの何分の一かでも持つことができれば、「学力」や「教育」をめぐって、お互いの議論がすれ違いになることはないのではないかと 思うのですが。
 

【12030】
根石さんへ   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月13日(火)17時36分9秒
  レッスンを受ける場 合の方法について一つお聞きしたいのですが、電話を使うことになりま すか?それとも、今はSkypeやWindows Messengerなどのインターネットツールを使用することになるでしょうか?あるいは選択することもできるのでしょうか?  

【12031】
らくださん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月13日(火)20時21分7秒
  僕の場合、「読解 力」や「思考力」を、どうしても自分の問題として考えこんでしまうとこ ろがあって、この掲示板を読みながら、自分には別の誰かの(例えば自分の子どもの)学力を育てる、という発想がほとんどないことに気づかされました。
たとえば、「教育」や「子育て」という名目において、別の誰かの存在を操作しうると考えるときに、その人間のうちに生じる裂け目の方が気になります。仮に 文科省に欺瞞や退廃があらわであったとしても、それは扱う対象が膨大であることに応じて拡大されただけであって、「教育」を信じ込んだ一人の人間のうちに 生じる欺瞞や退廃と質的には変わらない気がするのです。
もっともこれは、自分が仕事で教育行政の片棒を担いでいることの言い訳にすぎないかもしれません。

人は方法によって思考するのではない、という誰かの言葉があったような気がします。その後の言葉は忘れましたが、おそらく何らかの動機、根石さんの言葉で いえば「意志」で思考するのだろうと思います。その時がくれば、自分のなかに埋め込まれた様々な媒介物、「否定性」を使って(きっと、糸山さんが忌み嫌う コンピューターゲームで培われた何かをさえ駆使して)考え始めるのだろうと思います。

宵の口から酔っ払ったような、かみ合わないコメントで申し訳ありません。

らくださんがおっしゃるように、『英語どんでん』は、不思議なことがいっぱい書いてある実に魅力的な書物ですよね。英語学習書の体裁をとった、オリジナル な思想書といっていいと思います。
Naimaさんが以前書かれていましたが、根石さんに束になってかかっていけたらいいですね。根石さんの思想を「守る」のではなく、ぶち当たって(あわよ くば、ぶち殺すことで実をとって)息長く考え続けることができたらと思います。
 

【12032】
茶の本   投稿者:Naima  投稿日: 2007年11月13日(火)22時36分25秒
  らくださん、

横入り、ごめんなさい。音声は肉声ではありませんね。
 

【12033】
Naima さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月15日(木)03時05分20秒
   このおっさん、気 が入ってないなと感じるのは、肉声ではないせいだったのですね。
 どこの人なんだろうとも思いました。私は、英語を聴いて、オーストラリアだなとか、アメリカ東海岸だなとか、南部だなとか判定するのが下手ですが、それ にしてもどこの人なんだろうとも思いました。何より、イントネーションがローラーをかけたように同じものが繰り返されるのが変で、おっさん、勉強しすぎた んかあとも思ったのでした。勉強しすぎたにしては、田舎くささが強烈で、その田舎がどこかまるでわからないのでした。
 

【12034】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月15日(木)04時24分14秒
  >僕の場合、「読解 力」や「思考力」を、どうしても自分の問題として考えこんでしまうと ころがあって、この掲示板を読みながら、自分には別の誰かの(例えば自分の子どもの)学力を育てる、という発想がほとんどないことに気づかされました。

 「読解力」、「思考力」、「学力」という語に学校臭が強いことに対する異和が(抵抗素)が matsu さんにはあるのだと思います。この抵抗素が、ええと、誰でしたっけ、しまりすさんでしたね、あの人にはない。抵抗素がないくせに、拒絶力の行使は大したも んです。こういうのが、「絶対学力」なんて言葉にころっとやられているのです。
 学校的な(どんぐり的な)「読解力」では、読む力が見抜く力になっていかない、「思考力」も、微細な(あるいは巨大な)現実を繰り込んで考える力になっ ていかない。しつらえられた舞台上の演技としての、読解や思考にしかならない。そういう抽象レベルでの「現実」にとことん鈍いのが、「学力」回りの戦後の 母親たちです。「あんた、学校の勉強やったくらいで、こんなこともわからんようなってもうたんか」という Naima さん的嘆きが戦後の「学力」回りの母親たちに希薄です。抽象レベルでは、アメリカにおまんこをやられているのです。

>たとえば、「教育」や「子育て」という名目において、別の誰かの存在を操作しうると考えるときに、その人間のうちに生じる裂け目の方が気になります。仮 に文科省に欺瞞や退廃があらわであったとしても、それは扱う対象が膨大であることに応じて拡大されただけであって、「教育」を信じ込んだ一人の人間のうち に生じる欺瞞や退廃と質的には変わらない気がするのです。

 吉本喜劇の方でなく、悲劇の方の吉本による「吉本的」になりますが、一人の人間に生じる欺瞞や退廃と、文部科学省に生じている欺瞞や退廃はまったく違う ものだと思います。文部科学省には、最初の方に欺瞞や退廃があり、それが、新聞的言論に追いつめられて「裂け目」になっていくのに対し、戦前にせよ戦中に せよ戦後にせよ、おかあちゃんたちには、なにはともあれ我が子が可愛いというという原点があります。(この原点は全的に肯定されるべきです。)その原点を 娑婆の空気で薄められ、次におかあちゃんたちは「社会」とまぶしてしまいます。そこに「裂け目」が生じるのです。しまりすさんちのように。「学力信仰」が 生じて裂け目が生じるのであり、この「裂け目」に無自覚になれば、欺瞞となり退廃になっていくという方向があります。国家とは方角というか方向が正反対で す。
 おかあちゃんたちに生じている「裂け目」からは、古い古い言葉ながら、「民衆」の痛い血が流れています。しまりすさんちのどんぐりちゃんの煮詰まりよう においても。らくださんちの、号泣においても。この場合の「おかあちゃん」は性別は関係ないですね。子を見て育てと願う力の別名です。
 文部科学省には、最初から国家体制維持という欺瞞退廃が備わっていると思います。わたしら、国家なんかなくたってやっていける、そんなもんないほうが、 よっぽど楽にやっていけるというのが、戦後直後の闇市のおかあちゃんだったろうし、馬鹿娘のパンパンたちだっただろうと想像するのです。おかあちゃんたち が国家にやられたていたらくがのべたらに広がっている現在ではあるものの、おかあちゃんたちの意志と日本国家の意志は区別は必要だと思います。根底が違う ものだと思います。
 「裂け目」に敏感なのは、むしろ男の方なんかもしれませんね。エロ的意味でなく。

>らくださんがおっしゃるように、『英語どんでん』は、不思議なことがいっぱい書いてある実に魅力的な書物ですよね。英語学習書の体裁をとった、オリジナ ルな思想書といっていいと思います。

 またしても褒めすぎ(です)。これをけなす方向に使っていただくと、いい議論が生まれるかもしれません。少しという量が大事です。大量にけなすと、また 私が激昂し、寿命が短くなりますから。

>Naimaさんが以前書かれていましたが、根石さんに束になってかかっていけたらいいですね。根石さんの思想を「守る」のではなく、ぶち当たって(あわ よくば、ぶち殺すことで実をとって)息長く考え続けることができたらと思います。

 こちらくたくたですが、お待ちしています。そしたらいい話ができると思っています。
 

【12035】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月15日(木)04時41分46秒
  >レッスンを受ける 場合の方法について一つお聞きしたいのですが、電話を使うことになり ますか?それとも、今はSkypeやWindows Messengerなどのインターネットツールを使用することになるでしょうか?あるいは選択することもできるのでしょうか?

 電話でも、skype でもやっています。
 電話はお金がかかるが、話していることが何秒かなくなってしまうということがありません。IP電話や光電話なら、レッスンに必要な額は、月額で500円 以下ではないかと思います。
 skype は不安定です。いいときと悪いときの落差がきつく、それが何の原因なのかつきとめるのに手間がかかります。先日も、私が安物のヘッドセットを買ったせい で、一ヶ月でヘッドセットが壊れ、生徒さんに迷惑をかけてしまいました。
 skype の最大の利点は、「会議電話」ができることです。これによって、二人でレッスンを受けることができ、代金を半額にすることができます。(これが一番のおす すめです)。生徒三人で使い、代金を3分の1にするところまでお受けできます。四人以上は無理だと思います。(なにしろ、週に一回30分ですので)
 

【12036】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月15日(木)04時56分10秒
  >「学校」や「受 験」から安直に抜け出そうと思わないで、「学力」について徹底的に詰め て考えれば良いのではないかという 気がします。徹底的に詰めていったら突き抜けていた、ということがあるのだと思います。根石さんの場合は受験英語から語学論に突き抜けて行かれたわけです よね。

 「突き抜けていた」を子供にまかせるのが難しい時代ですが、それをやらないといけないのだと思います。そう自戒しています。
 

【12037】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月15日(木)05時08分43秒    編集済
  >昔に比べ、この手 のソフトも出来が良くなって、リスニングやシャドーイングの練習で実 用に耐えるという人もいますが、そのあたりのご意見をお聞かせ願えればと思います。

 子供は飽きると思います。
 

【12038】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月15日(木)05時23分41秒
  >「こんな血の通っ てねえ絵図で、俺のことがわかってたまるか。ばかやろ。」と根石さん なら言うかもしれません。

 今は昔、sbさんという方がおられまして、図式をいくつも描いてくださったのですが、血が通っていないなと思ったことを思い出しました。
 matsu さんの絵図は、お受けできます。

 私の若き日のキーワードが「生活」だったのだと教えていただき、思い出した詩がありました。ちょっと探してみます。

 出てきません。

 「根石吉久贋詩・1」と「2」という私家版の詩集があるのですが、紛失してしまいました。でも、この屋根の下にあるとは思います。

 確か、金魚を見ながら生活を思考した詩だったような気がします。
 

【12039】
先をこされました   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月15日(木)06時56分42秒
  根石さん

次の根石さんの詩の紹介は、議論の流れ上「ガラスの極楽」(金魚と生活の詩です)にしようと思っていたところでした。
足立さんもブログのコメントで書かれていたと思いますが、根石さんの詩の本領は、思い切って下世話に「エロ的な」ものだと思うのですが、これは少しかわい らしい感じの叙情的な小品ですよね。
次の根石論の書き込みは、根石思想と吉本隆明というテーマでいこう思っていたところでした。負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、いい突込みをいれてい ただいたので、具体的に話に入っていけそうで、うれしいです。
 

【12040】
根石さんへ   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月15日(木)09時50分23秒
  通信環境の情報、あ りがとうございます。

skypeが不安定であれば、光電話が一番手堅いのかもしれません。調べてみたいと思います。
 

【12041】
根石さんの詩A   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月15日(木)19時55分55秒
  ガラスの極楽     根石吉久

私の涙は塩気がないので
妻はあきれた
ちゃんとした涙を流してみたら
と忠告した
ありがとう妻よ
私の最愛の虚体よ
金魚でも見よう
金魚は胴ぶるいしてうんこしている
それが何になろ
気がついてみれば
金魚は裸であった
ひきずっているうんこも
穴から出たのだ
と思えばつらい
妻よごらん
このガラスの箱の中
金魚は丸い腹をよじっている
金魚の口がまんまるくなる
何に驚いたわけでもない
うちわのような尾を垂れて
いくら急いでも進まない
これが生活だ


 『人形のつめ』より
 

【12042】
吉本的   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月15日(木)22時55分44秒    編集済
  >吉本喜劇の方でな く、悲劇の方の吉本による「吉本的」になりますが、一人の人間に生じ る欺瞞や退廃と、文部科学省に生じている欺瞞や退廃はまったく違うものだと思います。

根石さんの書いたものを読んでいると、やはり吉本隆明の影を大きく感じます。ただここでも「吉本的」と注釈をいれるような微妙な距離感が、僕には好ましく 思えます。(以前、溶融炉の問題でも、科学技術礼賛に傾きがちな吉本の意見に釘をさしている発言もありましたよね。)
僕自身は、根石さんより10歳ばかり下ということもあって、吉本の熱心な読者だったり、特別好きだったりしたことはありません。しかし、すぐれた思想が書 物を離れても人の心をとらえるように、吉本の思想のイメージの痕跡は今の僕の中にも生きている気がします。
ただ、根石さんがここで援用している論理、いわゆる自己幻想や対幻想と共同幻想の「逆立」ということは、正直なところ、僕には腑に落ちない部分でした。も ちろん、日々体験することからも、それが何を意味しているかは理解できます。ただし、吉本が、個人や対の関係の心におきる出来事を、集団や社会の関係へつ なげて理解する試みを峻拒することに、さほど説得力を感じなかったのです。

あるとき、共同幻想論の文庫版前書きだったと思いますが、吉本が、戦中、戦後の体験を語りながら、個人の心の動かし方からどうしても理解が及ばない集団の 奇怪な振舞いを「共同幻想」と呼ぶほかなかった、ということを書いているのを読んで、初めてある納得を得た気がしました。昨年死んだ僕の父親が同い年とい うこともあって、そのためにも愛憎半ばするところがあるのですが、吉本があの時代に何を見てきたのかはおおよそ想像がつきます。
「逆立」は客観的な原理などではなく、吉本が自分の生きたその場所で、そのように見、そのように理解せざるを得なかった何かである、というのが、僕のなけ なしの吉本理解のポイントです。略画で言えば、吉本に見えたのは、素朴で理解可能な民衆のかなたに、奇怪な国家の共同幻想が立ちあがるイメージだろうと思 います。

一方、自分自身に即すると、吉本のようなイメージを抱くことはできません。むしろ個々人の心性の奇怪さが前面に伸び上がり、その隊列の向こうに社会や国家 の姿がかすんで見えるというのが、リアルな心象風景です。(そのために、根石さんのいう「おかあちゃん」と「文部科学省」との間の断絶よりも、連続性が気 になる、という言い方になりました。)
それが吉本の見出した国家本質をないがしろにする平和ボケ、市民社会ボケしたタワ言だというふうには考えません。僕の中で、最も強く生き残っている吉本 は、やはり、あの、戦争の時代の戦場における死も、平和な時代の畳の上の死も、まったく「等価」であると言い切った吉本ですから。お前の生きているその場 所で、そこから見える可能な限り正確な世界のイメージを描け、という励ましが僕にとって(おそらく多くの人にとってもそうでしょうが)吉本の批評の核心で す。

吉本だけに、少しかたくなりすぎました。吉本読みのベテランには、不十分すぎる走り書きでしょうが、意を汲んでいただけたら助かります。次には、根石さん と吉本との距離について、あてずっぽうながら書いてみたいと思います。
 

【12043】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月17日(土)01時20分13秒
   多分、私より matsu さんの方が吉本をたくさん読んでおられると思いました。
 私はまったくつまみ食いをしてきたような読者で、本もあんまり持っていません。持っている本も、他の本と同じで、ダンボールに詰めたままになっており、 どこに何があるのかわかりません。今度の冬の間には、なんとか本にアクセスできるようにしたいと思っています。
 昔、松岡祥男さんと一度喧嘩をして仲良くなりました。ご存知かどうか知りませんが、松岡さんは、吉本から「今の若い人の中で、理念的にもっともいいもの を持っている」と評価されたことがあります。その評価があって後だったように覚えていますが、松岡さんが詩の雑誌の時評で、私の書いたものに異論を書か れ、私がそれに反論したことがあり、その後、急に仲良くなったことがありました。今では私の大事な友達の一人です。

 現在、松岡さんは、吉本の著作から漏れているものや、改稿される前の雑誌初出のものなどを集め、吉本の許可を得た上で、冊子にして刊行する仕事をしてお られます。私は熱心に吉本を追いかけた読者ではなく、松岡さんの仕事を見ていたくて、発行される冊子を購読しています。そして、ときどき、松岡さんが「吉 本さんからもらったけど、先に買ってあったから、一冊あげます」と言って、私に吉本の新しい本をプレゼントしてくれたりすることがあるので、それを読んだ りしてきました。松岡さんには4,5回会いましたが、吉本隆明には一度も会ったことがありません。

 若い頃は、雑誌などめくってみて、なんでこんな七面倒くさい言い方で書くのかという反感が先立ち、吉本隆明はほとんど読みませんでした。(その頃の私が よく読んだのは吉岡実でした。)
 友達が吉本をめぐって激しく論争している脇で、「俺、吉本なんてまとめて読んだのは一冊もねえや」と言って議論に水をさしたこともあったくらいです。友 達の議論はそれで中断され、友達は私に「お前みたいなのも珍しいから、いっそこれからも読まないがいい」と言ったくらいでした。
 しかし、その後、「生活」が始まり、自分の理解が及ぶ範囲でですが、ぽつぽつと読んだのでした。そして、松岡さんと知り合って、購読している冊子やプレ ゼントしてもらったものなどを、やはりぽつぽつと読んできたという程度です。

 文庫版「共同幻想論」の前書きには興味がひかれました。まだ読んでいません。気にして探してみるつもりです。

>ただ、根石さんがここで援用している論理、いわゆる自己幻想や対幻想と共同幻想の「逆立」ということは、正直なところ、僕には腑に落ちない部分でした。 もちろん、日々体験することからも、それが何を意味しているかは理解できます。ただし、吉本が、個人や対の関係の心におきる出来事を、集団や社会の関係へ つなげて理解する試みを峻拒することに、さほど説得力を感じなかったのです。

 吉本は確かに「逆立する」と言っていますが、「本質が違う」と言っているのだと考えてもいいのではないかと思います。もし「本質が違う」という言い方で いいのなら、私は「磁場論」で、磁場における言語と語学の机上における言語は「本質が違う」ということを言ってきたので、そういう言い方をするというとこ ろで、私に吉本の影を感じられるというのならよく納得できます。まるで違うものを一緒くたにするな、というのは、語学という小さな領域ではありますが、確 かに執拗に言い続けてきました。

 吉本は「自己幻想」ではなく「個人幻想」と言っていたかと思いますが、これはやはり、その原形というもので考えた方がいいのではないかと思います。いま だ、「共同幻想」という「人さらいがさらう前の形」を「個人幻想」と言えばいいのだという理解です。子供が病気になって熱を出しているときに、「治れ、育 て」と願う気持ちのようなものに、いかなる共同性もないと思います。世間のどこにでも無数にあるものですが、その一つ一つの願いは一つ一つとして具体的な のであり、そこにいかなる共同性もないと思います。(戦場の死も、畳の上の死も、交通事故による死でも、一つ一つ絶対的な一個の死であり、その重量にまっ たく違いはないというのも、一つ一つとして切実であり、具体的であり、一つ一つとして扱われるべきだという吉本の思想だと思います。)

 「対幻想」という場合に共同性があるとすれば、ただ当事者の二人の間に(対の関係において)共同性が生じるかもしれないが、集団や社会や国家がもつ共同 性を帯びていないものを言っていると考えれば、やはりこれも「共同幻想」から切れた独自の領域(原形)として、集団や社会の共同性から分離できる。分離で きる形のものを「対幻想」と言っているのだろうというのが私の理解です。

 吉本の「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」という言い方は、そのそれぞれの原形の方へ引き絞って出てきた言い方だと考えています。それぞれの原形の方へ 引き絞ったものだと考えれば、そのそれぞれがそのそれぞれとして成立すると納得できます。

>あるとき、共同幻想論の文庫版前書きだったと思いますが、吉本が、戦中、戦後の体験を語りながら、個人の心の動かし方からどうしても理解が及ばない集団 の奇怪な振舞いを「共同幻想」と呼ぶほかなかった、ということを書いているのを読んで、初めてある納得を得た気がしました。

 「共同幻想」は、集団の振る舞いという場面もあり、言論という面で見れば、集会所や議会での決議なんかの他に、個人の言い分の形になっているものもあり ます。最後のものは、個人が発言しているように見えるので、外見的には「個人幻想」に見えるかもしれません。
 しかし、それはすでに「共同幻想」という虫に食われた後、と言えばいいのか、「共同幻想」という「人さらいにさらわれた後の形」だと言えばいいのか。す でに、「共同幻想」の側が、「個人幻想」を「媒介」にしてしまった後の形だと言えばいいのか。いずれにせよ、「さらわれた」とか「食われた」とか「媒介に された」いうイメージが私にあります。
 病気の子供を前にして「治れ、育て」と願うような「原形」(いかなる共同性も帯びていないもの)に対置すれば判然とすると思いますが、個人の発言であろ うとなかろうと、すでに「原形」からさまよい出て、「原形」から切れている何か、変質した後の何か、「個人幻想」としての魂を売った後の何か、はありま す。小声で言うべきか、大声で言うべきか、日常的に目にするものです。(ただの笑い話ですが、千曲市議会などというものを傍聴したことがあります。確かに そこでは、議員「個人の発言」として発言があるのでしたが、ことごとく「共同幻想」に食われた後の残骸が散らばっていただけでした。)

 個人が「共同幻想」を「媒介にする」ということで言えば、それは微細に見るなら、言語を使用する限り、いつでも個人は「共同幻想」を「媒介にする」しか ありません。(これは、いつでも「共同幻想」によって個人が「媒介にされる」、「共同幻想」によって個人が食われる=さらわれる契機になっていると思いま す。)

 言語を使用するだけで、個人が「共同幻想」を「媒介にする」ことは成立するのですが、これと逆のベクトルがあります。「共同幻想」の側が、個人(の思 考・幻想)を「媒介」にするという場面が別にあります。うまくいくかどうかは別として、広告宣伝、スローガンなどはいつもそれをやろうとしていると思いま す。この掲示板回りの最近の卑近な例で言えば、「駅前留学」だの、「良質の文章問題」だの、「絶対学力」だのという言葉があり、それにころっとやられた人 たちがおり、これらは「共同幻想」の側が、個人を媒介にし終えた例だと言っていいと思います。戦後市民社会の学力回りの神経症と私が言っているのも、「共 同幻想」が「個人幻想」を「媒介」にしちゃった後のものだと理解しています。個人の考えなのに、「個人幻想」の原形からさまよい出て、「共同幻想」にとら えられてしまっている例だと思います。

 「共同幻想」に対して抵抗素のない者たち、あるいは抵抗素を手放した者たちに罪がないのであれば、吉本の戦争責任論で、個人としての戦争迎合詩人たちが やり玉にあげられる必要もないはずです。その必要があると吉本は考えたし、私もその必要はあると思っています。
 吉本も共同幻想に食われたし、迎合詩人たちも食われた。食われたこと自体を開示しろと吉本は言っている。そこからしか戦後は始まらないのだ、と。吉本は それを開示したが、迎合詩人は開示しないばかりか、戦後、抵抗詩人だったふりをした。それを吉本は許せなかった。

>略画で言えば、吉本に見えたのは、素朴で理解可能な民衆のかなたに、奇怪な国家の共同幻想が立ちあがるイメージだろうと思います。

 「奇怪な国家の共同幻想」という言い方はよく理解できますが、「素朴で理解可能な民衆」というのは、ほとんど理解できません。「共同幻想」が個人を食っ た後に個人が発する幻想は、いつでも奇怪なものだと思っています。私たちが日常目にするのは、そういう奇怪な民衆の一人一人だと思っています。私も自分と いうものに気を許せば、ただちにそういう一人になります。そして、実際に手をゆるめたことがあります。(「激昂」なんかもそれの一つなのかどうか。私の自 覚では、私の「激昂」は、「共同幻想」から身をひき剥がすときの動作なんじゃないかと思っていますが・・・。一応、「掲示板」という舞台上の演技なんだと いう自覚はあります。「演技だから」、気は入れてあります。)

>一方、自分自身に即すると、吉本のようなイメージを抱くことはできません。むしろ個々人の心性の奇怪さが前面に伸び上がり、その隊列の向こうに社会や国 家の姿がかすんで見えるというのが、リアルな心象風景です。

 日常の中にいる限り、それは私にとっても同じで、個々人の幻想の奇怪さがすぐ近くに見えます。あるいは、自分の幻想の奇怪さがもっとも私に近いという か・・・。
 社会や国家は、その外側にかすんで見えるというのが、私にとってもリアルな日常です。
 そのことと、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」のそれぞれを、それぞれの原形として取り出し、分離(対立・逆立)させようとする吉本の思考とは別だと 思います。個々人のあるいは自分の幻想の奇怪さがいくらリアルであっても、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」のそれぞれが、他と「本質が違う」というこ とは成立しますし、これは吉本によって見いだされた戦後という時間の貴重な果実だと思っています。

 自戒を込めて言うのですが、吉本はもっと読まれなければならないのではないでしょうか。
 

【12044】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月17日(土)02時23分34秒
  大蔵大臣様の説得も 継続してお願い致します。  

【12045】
根石さん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月17日(土)09時24分7秒
  いえいえ。僕も吉本 は、たいして読んでいません。
ただ、自分の言葉で考えて納得したことは、わかったような顔をして堂々とモノをいっていいのだ、という変な自信の奥をずっとさぐっていくと、そこには吉本 から受け取ったものがひかえているような気もします。(もちろん、その裏側には、自前の言葉でない受け売りで利いた風なことはいうな、という厳しさはある わけですが。)

僕はこれから、根石さんの思想の方が、吉本の思想より大きい、ということを考えようとしている人間です。そのくらいずさんな吉本理解なわけですから(と書 くと根石さんにも失礼か?!ごめんなさい)、吉本のよい読者から見れば、まったく見当違いのことをいっているということになるだろうと思います。吉本につ いて、何が正しいか、ということは、僕にはさほど興味はありません。

では、なぜ吉本にふれたのかというと、根石さんたちの世代と意思疎通する上で、吉本の考えがツールとして貴重であることを、なんとなく体験的に知っている からです。今回も根石さんの発言をいろいろ引き出せて(一点、とても重要な言葉を釣り上げることができました)、よかったと思っています。ただ、こういう 場合いつものことなのですが、ここ大風呂敷でも、吉本を知らないもっと若い世代にとっては、ぽかん、ということかもしれません。そういう世代にも、吉本を 読んだほうがいいとすすめることには、ためらいがあります。『英語どんでん』のように、ずっと読みやすくて、考える栄養になる本が他に多くあるからです。

吉本の思想のなかで、共同幻想論の考え方というものは、前にも書いたとおり僕はあまり評価できない部分です。
根石さんのコメントを読むと、共同幻想論を血肉化して思考していることがわかりますので、この点では、すぐには議論はかみあわないかもしれません。
共同幻想論の考え方は、テーゼとしてわかりやすいので、根石さんのように血肉化して現実との関係で鍛え上げなくとも、受け売りで振り回しやすいところがあ りますよね。批判主義的な左翼の心情にも受けがいいでしょうし。これも体験的には、という話なのですが、上の世代が、共同幻想についての吉本の理解を不変 の真理のように持ち出すときに、それをテコにして考えていくという姿勢ではなく、むしろ議論の拒絶を感じてうんざりした記憶があります。(吉本自身も80 年代以降、この考え方を前面に出すことは少なくなったような気がします。)

僕が吉本の考え方の中で好きなものは、初期吉本の「関係の絶対性」の方です。
人間が動かしがたい関係の中にとらわれて生きているからこそ、各人が自分の場所で生き死にし考えることは、本質的に同じ価値をもつ、という考え方(全く自 己流の要約かもしれませんが)は、僕には自分の背筋をしゃんとさせ、他者とまっすぐに向き合う気持ちを与えてくれるように思います。
根石さんは、この点でも、共同性から分離した個や対の問題として、共同幻想論の枠組みの中で考えておられるようですね。
僕はむしろ、共同幻想論自体が吉本の「関係の絶対性」の産物であり、そこを離れた本質論や「原形」論は成立しないのではないか、という疑いをもっていま す。

根石さんの体質がしみこんだ共同幻想論は、吉本のそれとはまた違ったものだろうと思います。じっくり味読したいと思います。
 

【12046】
根石さん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月17日(土)15時35分6秒
  >大蔵大臣様 の説得も継続してお願い致します。

「オヤジはともかく」と言いましたが、オヤジから始める方向で考えています。息子のことは、中学に上がってから改めて考えるつもりです。

大臣に打診したところ、思ったより感触が良く、現在、光電話への切り換え準備を始めているところです。

準備に少し時間がかかるかもしれませんが、整い次第メールを差し上げようと思っています。
 

【12047】
らくださん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月17日(土)19時37分50秒
  僕も中一の息子の分 で、「電話でレッスン」に申し込みました。
オヤジの方の語学は、なんとか自分でやっていこうと思っています。
息子の勉強に目を向けるきっかけは、らくださんのコメントだったような気がしますので、感謝しています。
素読舎にも行列ができるくらいになればいいですね。
 

【12048】
今日のレッスン   投稿者:F  投稿日:2007 年11月17日(土)19時42分56秒
  昨夜は途中で続行不 可能となり、失礼しました。
回復に努めたいと思います。今夜の子どものレッスンですが、帰宅が遅くなりますので
休ませてください。急で申し訳ありません。
 

【12049】
Fさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月17日(土)20時08分55秒
  承知しました。
振り替えはどうしましょうか。

とりいそぎ。
 

【12050】
I 村さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月18日(日)00時28分41秒
   スカイプで教材を お送りしようとしたのですが、そちらでスカイプを立ち上げてないと駄 目なようです。
 明日にでも、お電話します。
 

【12051】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月18日(日)00時56分47秒
   お電話いただき、 うれしく思いました。
 お申し込みありがとうございます。
 ご自分でも英語をやり始めたとの言葉が私の中に残り、その後考えてみました。
 息子さんが中学の間は、学校の教科書を使ってやりますが、高校生になると私が自作した教材(イメージ核受肉教材)を使ってやります。教材が切り替わる時 に、レッスンに参加されて、息子さんと一緒にイメージ核受肉教材を使われたらどうでしょうか。

 我が家の一階と二階にある二台のコンピュータと、同じ市内の別の家のコンピュータ、合計三台をスカイプでつないで、娘と娘の友達を相手にレッスンを始め ましたが、今のところ順調にできています。我が家ではBフレッツとかいう回線を引いていますが、この回線に二台のコンピュータがぶらさがってもスカイプで 使えています。我が家の二台のうち一台(娘が使う方)は無線で回線につながっていますが、今のところ問題ありません。
 もっと簡単なのは、電話工事をして家の中の電話回線を分岐させることだと思います。これが光電話の場合どう配線されるのか、ちょっと見当がつきません。 電話工事屋さんに相談すればできると思います。少し先の話ですが・・・。

 いずれ、息子さんと二人でレッスンを受けるというのを、予定されたらどうかというおすすめです。

 お電話番号は、今日いただいた電話で、携帯の方に番号が残りました。
 レッスンの呼び出しに使う電話番号も同じもの(094で始まる番号)でよろしいでしょうか。
 

【12052】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月18日(日)02時06分46秒
  >「オヤジはともか く」と言いましたが、オヤジから始める方向で考えています。息子のこ とは、中学に上がってから改めて考えるつもりです。

 これまでの経験では、小学校6年の間に私の方法で「音づくり」をやっておくのと、中学へ入ってから始めた場合とでは、中一の後半の最初の山場で子供に生 じるストレスが違います。
 定期テストで平均点がガタ落ちする時期が、中一の後半から終盤にあります。べつに気にしなければいいのですが、多くの場合、これを気にして苦手意識を植 え付けられ始めるのがこの時期です。中2になると、けっこうな数の子が苦手意識を持たされています。
 本当は小学6年の一年間を使って、「音づくり」をやっておくと、中学に入ってから、文法や意味に意識を集中させることができますので、それがもっともお すすめなのです。今後、4ヶ月ほどしかありませんが、それでもこの間に「音づくり」を手がけておくと、息子さんのためにいいと思います。

 「音づくり」は割と時間がかかります。そして、大事なことなのに、学校のテストの点にはなりません。ですから、一年ずらして、小6からやってもらうのが 私には有り難い。テストの点なんか気にするなというのは、私の基本にありますが、それでも子供はどうしても気にしてしまいます。半年一年の開始時期の違い で、苦手意識を持たせられるかどうかに影響が出た例は多く見てきました。

 息子さんに小学校の残りの時間と中学の3年をやってもらって、その後、私の自作教材を息子さんが使われる時が来たら、お父さんもレッスンに参加されるの はいかがでしょうか。親子でレッスンを受けるというのは、結構楽しいんじゃないかと思います。共通の話題という接点が作れますし。それまで、「英語どんで ん」その他を参考にされて自習され、なるべく長く息子さんにレッスン枠を譲られるのをお奨めしたいです。これは matsu さんにもお奨めしました。

 4ヶ月でも、「音づくり」をやっておくと中学に入ってから、違ってくると思います。

 もっとも、息子さんがやってみたがっているかどうかが一番の問題です。
 嫌がっているようでしたら、お父さんが先にやって試してみられるのがいいと思います。息子さん次第です。
 どんぐりの後で、息子さんが「またかよぅ」と思っているのでしたら、息子さんの「嫌がり」を尊重して下さい。私はどんぐりからの被害を被るしかありませ ん。「嫌がり」というのが、子供(生徒)にとっても、私にとっても最大の被害となります。

Naima さんにお預けした生徒さんに、東京のTさんという大人の生徒さんがおられましたが、レッスン開始当初、英語に対する苦手意識があると言われました。私の自 作教材で2年ほどやられた頃、電話でお話して、「苦手意識だけはなくなりました」と言われました。一度、苦手意識を持たされると、それを払拭するのに二年 三年はかかります。この二年三年につきあうと、本当に学校はろくでもないものだと思います。

 学校が振りかざすテストの点というものを気にしないでいられるなら、英語なんざ、いつからでもゴリ押しが効きます。大人になってからでも、ゴリ押しをや る腹さえ決まれば、ゴリ押しが効きます。
 テストの点というものが、今どき強力な「共同幻想」として猛威を振るっていて、これとどう向き合うかということがやはり問題です。おやじが気にしなくて も、子供が気にしてしまう。あるいは、おやじが気にしても、子供は気にしない(ふりをする)。気にするのが「普通」だという空気が作られ、ろくでもない時 代になってしまっています。そんなものが「普通」でもなんでもないんですけど・・・。

 私はよく中学生に「点なんか気にしなくていいから」と言っていますが、それを言うだけでも、子供は多少気が晴れるらしく、レッスンの時に声に力が入った りします。そうすると、その数ヶ月後くらいに、急に伸びたりします。
 それとは逆に、小学生からレッスンを始めて力があるくせに、テストなんか馬鹿にして、全然テスト勉強をしない子もいました。お母さんが心配して、「テス トで点がとれない」と言われるので、子供に聞いてみたら、60点くらいの点をとっていたのでした。「全然テスト勉強をしないのか。ううむ、なかなかいい態 度だと思う。基本はそれでいいんだ。だけど、お母さんがお金を出してくれなくなると、レッスンができなくなっちゃうんだ。今度のテストで、テスト勉強って のをやったらどうなるか、一度試してみてくれないか」と言ったら、テスト勉強をやってくれたらしく、99点だったか、98点だかとりました。そういう子も います。世間は広い。私は、一度だけテスト勉強をしてみることを頼んだだけですが、その後、その子がどうしているか知りません。その後、テストの点も聞い たことがありません。

 まあ、ゲスノカングリになるといけませんので、基本的な考えだけ申しあげておきます。ご判断下さい。
 

【12053】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月18日(日)03時16分57秒
  >僕はこれから、根 石さんの思想の方が、吉本の思想より大きい、ということを考えようと している人間です。そのくらいずさ んな吉本理解なわけですから(と書くと根石さんにも失礼か?!ごめんなさい)、吉本のよい読者から見れば、まったく見当違いのことをいっているということ になるだろうと思います。吉本について、何が正しいか、ということは、僕にはさほど興味はありません。

 いやあ、とんでもないことになってきていますね。
 俺が吉本と比較されるなんてメに会うとは、これまでの生涯に、一度も思いませんでした。
 (と書くと根石さんにも失礼か?!ごめんなさい)で、笑わせてもらえました。久しぶりに笑いました。「久しぶり」は、私がろくでもない生活をしているせ いです。
 私も、吉本について、何が正しいかというような数式めいた思考はしてきていないつもりです。吉本が何を生きたのかがいつでも問題です。

 今日のお電話でも言った通り、私は「共同幻想論」を読み通して「いない」ろくでもない(ずさんな)読者です。吉本の座談や対談が好きで、それを読んで、 「ああ、そういうことなんか」と納得したりしてきました。
 座談、対談の他には、(理論ではなく)エッセイのレベルで書いたものが特に好きです。タイトルを忘れましたが、追悼集があったと思います。それなんかと りわけ好きです。中上健次(健次で、表記よかったんでしたっけ?)を追悼した文は、読むたびに泣きます。この本も、引っ越し以後に買ったのに、行方不明で す。なさけねえ。
 吉本が、対談や座談を多く残したのは、大正解だと思います。
 このおやじは、やっぱり日本の近代の言葉の限界をよく知っているのだと思います。がちがちの理論と、対談、座談は両方なくちゃ駄目なんだと、そりゃしょ うがないんだと、個人の力業でどうにもなりゃしねえんだ、と。
 対談、座談がなかったらと思うと、私はぞっとします。そういう論理を吉本は行使したと思います。その有り難味は、今後の世代に咲くはずだろうと思いま す。しかし、本筋の書き言葉で吉本がやったことは、言葉があんまりがちがちに固く、やはり受け入れることのできる層は非常に薄い。薄いからといっても、そ の薄い層に期待するしかなかろうと思います。酒が入って書いていますので、ちょいといいかげんな書き方で書いていますが、誰にというんでなく、今後の世代 に期待していたいです。そうじゃねえと、やってらんねえってところがあります。

>今回も根石さんの発言をいろいろ引き出せて(一点、とても重要な言葉を釣り上げることができました)、よかったと思っています。

 何だったんでしょう? 気になります。

>上の世代が、共同幻想についての吉本の理解を不変の真理のように持ち出すときに、それをテコにして考えていくという姿勢ではなく、むしろ議論の拒絶を感 じてうんざりした記憶があります。

 私は吉本の話をしても、話が全然通じない人たちばかりを相手にして生きてきたので、そういう「うんざり」は経験がありません。ああ、千曲市に一人だけい たか、吉本をめぐって、喧嘩になった人が。この人は、今、56だか57歳の私よりまた一回り上の世代です。多分、66歳くらいだと思います。この人とはよ く喧嘩しました。10年くらい口をきかないでいて、最近また口をきくようになりました。版画家をやっています。こちらに遊びに来られたら、遊びに行って、 一緒に版画を彫るのを邪魔しましょう。面白い人です。日常的につきあうと腹がたちますので、「水の交わり」がよろしい人です。

>僕が吉本の考え方の中で好きなものは、初期吉本の「関係の絶対性」の方です。

 「マチウ書試論」だったような気がしますが、イエスが故郷で説教をしたら、「あれはなんであんなに偉いことを言うんだ」「あいつの父親は、・・だし、あ いつの兄弟は・・じゃないか」という具合で、イエスも故郷ではケチョンケチョンだったという話があったような・・・。
 これを水で薄めたような経験は私にあり、それが私の「関係の絶対性」という言葉の理解なんです。どうにもこのフルサトというやつは。
 「語学論」なんかいくら書いても駄目なんです。現在は千曲市と呼ばれる地域の中の「中区」という村とその回りの村では、もう私はケチョンケチョンなわけ です。私のおやじは「礼吉」という名前ですが、村では「れいきっちゃん」と呼ばれていて、まあ、百姓をやらせても下手、俳句をやらせても二流、川柳をやら せるとたまにいい、女が惚れる顔をしてるが、女がまるで扱えない、貧乏であり、結構それが平気である、など、「れいきっちゃん」は軽侮とともに「れいきっ ちゃん」と呼ばれるわけです。
 溶融炉建設に反対するビラを配って、地主根性の校長あがりを批判したりすると、おふくろは「こんなもの書くから村の中を歩けない」とかおろおろするので すが、おやじはケッコウヘーキという顔をして飄々としています。なんかうかがい知れないところがある。
 そういう「れいきっちゃん」の息子が、東京の大学なんか出て、できちゃったで子供と女を連れて帰ってきたところで、「なんだ、れいきっちゃんの息子か」 で話は終わり、俺はけっこういい語学論を持ってるんだぞとか、語学に関するまともな考えがあるんだぞとか、だから、子供の英語は俺にまかせるといいぞ、と か言ったところで、「あはあ、れいきっちゃんの息子だろ、おめえ」で終わり。ケチョンケチョン。
 これが、私には「関係の絶対性」なんです。

>僕はむしろ、共同幻想論自体が吉本の「関係の絶対性」の産物であり、そこを離れた本質論や「原形」論は成立しないのではないか、という疑いをもっていま す。

 この辺がよくわかりませんでした。「関係の絶対性」の産物というなら、まともな文学作品や批評は全部「関係の絶対性」の産物ではないでしょうか。
 本質論とか、原形のほうに引き絞るということが成立するのは、文学を「論」とか「科学」の方に引っ張って引きずり寄せる時に成立すると思います。文学 は、その程度のことをやっても耐えるしろものなので、やっていいのだと思います。松岡祥男さんの言葉で言えば、「文学はなんでもあり」だと思います。
 この辺、なんかすれ違っている気がしますが、ゆっくりやりましょう。
 

【12054】
批評の場所   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月18日(日)12時28分55秒    編集済
  はい。こちらこそ、 ゆっくりお願いします。
最後の部分、少し性急にかっこつけて書きすぎました。さすがに根石さんは、相手の言葉の中の「空虚な」部分は見逃しませんね。やはり根石さんは、言葉のプ ロ、批評のプロなんだと思います。

たとえば糸山さん相手の激論にしても、糸山さんファンにとっては、吉さんの引用やどんぐりのホームページの走り読みくらいで、糸山思想の根っこを否定する ような発言をしたことについて不満をもっていると思います。
語学の例の方がわかりやすいと思いますが、語学のプロならば、相手のほんの数行話すのを聞いただけで、相手の語学力をたやすく見切ってしまうのではないで しょうか。少なくとも相手の根本的欠陥についての診断を誤ることはないだろうと思います。日本語の磁場の中で読み書きされる日本語の文章は、見かけはどれ も充実した姿をとっていますが、批評という観点から見るとき、穴ぼこだらけで空虚を多く抱え込んだものとなります。
根石さんが、糸山さんに読み込んだ「空虚」は間違いのないものであると僕も思います。(根石さんが「掲示板上の演技」という激昂の是非は、また別の問題と して。)

さて息子の新しい先生へのオマージュはこのくらいにして、自分の説明不足を少し補ってみます。
吉本が、戦中、戦後の体験という固有な場所で、共同幻想なるものを見出し、自己幻想(瑣末なことですが、吉本はこちらも使っています)とののっぴきならな い関係について認識した場面がまずあったのだろうと思います。
そのなかから、共同幻想が、自己幻想や対幻想と本質を異にし、むしろ逆立していること等を本質論として引きしぼっていった過程というものがあったのだろう と思います。そこに一種の倫理的判断(共同幻想が「悪」であって、廃絶すべきだという)をかぶせたことも理解できます。
僕が問題にしたかったのは、吉本がそこで出した結論を、いかなる時代、いかなる場所においても通用する真理として受け取れるか、ということです。

僕はむしろ、吉本の理論もその生誕の場所とコミで受け取るべきなんだろうと考えます。それは吉本の批評の瑕疵ではなくて、むしろ批評というのは、科学的な 真理なんかとは違い、それが生まれ育った場所とどれだけ徹底的に切り結んでいるのか、その刻印を全身に帯びつつ思考しているか、が勝負の分かれ目となるの だと思います。
僕が根石さんの批評を(ある点で吉本よりも)すぐれていると考える根拠もそこにあります。

80年代、僕が一番吉本をよく読んでいた時期に、講演等でよくいっていて、耳に残っている言葉があります。
人間は、自分にとって決定的な体験をもつと、すぐにそこに立ち戻って考え勝ちである。自分の場合はもちろん戦争(敗戦)体験である。しかし日本社会という ものを考えた場合に、オイルショックの前後に大きな転換が起こっている。自分はこの転換点を自分の批評に繰り込みたい、というような内容でした。
吉本自身に、それまでに培った批評の言葉が、時代の転換のなかでそのままでは通用しないという危機感があったのだと思います。

確かに80年代以降、吉本の批評は、消費資本主義の成立を前提にして、消費にまつわる共同幻想を準肯定的にとらえるようなスタンスに舵取りを変えたように 思えます。(そのことで以前からの読者に大きな戸惑いを与えたと記憶しています。)
そのことのいい悪いは措くとしても、吉本自身が、批評の生誕する場所にきわめて意識的な思想家であることは確かだろうと思います。
 

【12055】
根石さん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月18日(日)12時56分17秒
  電話番号は、携帯に 残ったものでお願いします。
学校の成績はまったく振るいませんが、田舎の素朴な子どもなので、やりかたを説明すると、楽しみだとへらへら笑っています。
どうかよろしくお願いします。
 

【12056】
根石さん   投稿者:I村  投稿日: 2007年11月18日(日)15時39分55秒
  今からスカイプにロ グインしますので、お気づきでしたらご連絡ください  

【12057】
根石吉久さんへ   投稿者:聞いてみようそうしよう   投稿日:2007年11月18日(日)21時08分50秒
  私は数学ができない んですが、数学はこうやって訓練しろというのはわかるんです。数学が できないくせに、それを言うから、人は不信を表情に浮かべます。でも、私の塾には、私の言うとおりに数学をやって、数学の高得点で東大に入っちゃったよう なやつもいます。

どんな指導をしたんですか?細かく教えてください。かなり興味あります。
 

【12058】
やばい   投稿者:聞いてみようそうしよう   投稿日:2007年11月18日(日)21時12分32秒
  バレルかも  

【12059】
matsuさん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月19日(月)10時27分3秒
  >息子の勉強 に目を向けるきっかけは、らくださんのコメントだったような気がしま すので、感謝しています。

感謝などとんでもありません。matsuさんのところと同じパターンを根石さんから勧められていますが、果たして息子がどう反応するやら、です。
 

【12060】
根石さん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月19日(月)11時05分37秒
  >どんぐりの 後で、息子さんが「またかよぅ」と思っているのでしたら、

どんぐりを試したのはだいぶ前の事ですし期間も短かったので、その影響はないと思います。

むしろ息子の場合、学校もスポーツも、未だすべてが遊びのようなもので、それ以上の世界は未知の領域です。英語のレッスンというものに、「これはお遊び じゃないな」と、しり込みする可能性の方が高いかもしれません。

話をしてみます。
 

【12061】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月19日(月)11時23分26秒
   小学生のレッスン では、「訳先渡し」をやります。
 「訳先渡し」と「音づくり」の組み合わせは、楽になじんでもらうためです。
 ひとまずは、目をなじませ、口の動きをなじませるという順序を踏んでいるところは、方法的には素読直伝だと思います。

「お遊びじゃないな」という尻込みは、むしろ、レッスンを始める前に持たれてしまうのかもしれません。
 語学論の「がちがち」さ加減と、実際のレッスンの様子とはまるで違います。
 この落差は私にはどうにも埋められません。
 現在の生徒さんが、語学論の固さとレッスンの使いやすさは別物だともっと書いてくれればいいんですが・・・。

「落差」があるから「楽さ」、なんですが。
 

【12062】
聞いてみようそうしよう さん  投稿者:根石吉久  投稿日:2007年11月19日(月)11時27分44秒
  ちょっとお待ち下さ い。  

【12063】
根石さん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月19日(月)11時52分4秒
  >現在の生徒 さんが、語学論の固さとレッスンの使いやすさは別物だともっと書いて くれればいいんですが・・・。

激しく同意!それは大いに言えていると思います。私などはガチガチの語学論に魅かれてしまう方ですが、少数派でしょうね。

どこかのページで、レッスンの模様の音声をチラリと聞いた気がします。

そういったプレゼンの充実もキボンヌであります。
 

【12064】
根石さん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月19日(月)20時35分33秒
  初回のレッスンの予 定日に、家を空ける用事が入ってしまいました。
12月は野暮用で金曜日はほとんどいませんが、さすがに初回の時には、子どもだけというのは不安なので、よかったら今月の23日(金)に初回のレッスンを お願いできたらと思います。30日(金)も不在なのですが、2回目なら大丈夫かと思います。
その場合、レッスン料については、電話でお聞きしたとおり処理します。
 

【12065】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月20日(火)00時36分52秒
   今月23日に初回 のレッスンの件、承知しました。  

【12066】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月20日(火)00時47分36秒
   レッスンの様子を 録音してネット上に公開する準備をしていますが、なかなか進みませ ん。3人分ほど録音したのを、うちの 庭で雑貨屋をやっているキリピーという女の子に渡してあります。キリピーが後の作業をやってくれることになっているんですが、今月は近所の公園にチュー リップの球根を植える作業があり、中断しています。農家(というか私のおやじ)から球根を大量にもらったので、キリピーが無断で公園に植えています。私は 私でストーブ用の薪づくりが間に合わず、じたばたしています。溶融炉建設反対のビラ配りなどもやっているので、今月はじたばたが激しいです。長野のせい で、冬支度がけっこうたくさんあります。

 レッスンの様子がネット上に公開されましたら、ここでお知らせします。
 

【12067】
聞いてみようそうしようさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月20日(火)00時53分19秒    編集済
  >バレルかも

 どういう意味でしょうか。もしかして、東大へ行ったご本人てことでしょうか。
 そうだといいんですがね。
 そうだったら、おい、お前、俺にそろそろご恩返しをしろと強要することができます。
 

【12068】
聞いてみようそうしようさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月20日(火)01時13分14秒
   ご本人だったら、 ご本人に書いてもらえばいいのですが、ご本人かどうかわからないので 私が書きます。他の読者の方にも役にたつかもしれないので・・・。

 数学の問題を、3種類に分けます。これは小学生にも、トーダイセーにも適用できます。
 3種類とは、「楽ちんな問題」「苦労したが解けた問題」「どうにも手に負えない問題」の3種類です。この分け方なら、どの人にも適用できるのです。

 「楽ちんな問題」は放置してよい。
 「どうにも手に負えない問題」は放置してよい。

 「苦労したが解けた問題」を番号をつけてノートに集める。
 集まった問題を繰り返し解き、「英語どんでん・・・」の「重ね方・はずし方」の要領で問題と解法に慣れてしまう。

 それをやっているうちに、「どうにも手に負えない問題」が少しずつ、「苦労したが解けた問題」の仲間入りしてくる。

 疲れています。「重ね方・はずし方」の要領がおわかりにならない場合は、また後日書きます。おわかりにならない場合は、その旨お書き下さい。
 

【12069】
見当がつかない   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月20日(火)01時20分47秒
  聞いてみようそうし ようさんは、もしかして、京都大学の大学院まで行ったあの大将か?
それならそれで、この掲示板に登場して、俺にご恩返ししろと、やはり強要できる。
 

【12070】
根石さん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月20日(火)09時35分6秒
  音声アップの件、急 ぐことではありませんので楽しみに待つことにいたします。

レッスンのことは息子に話しました。意外にあっさり、やってみようかな、と。このあっさりがあてにならんのですが、お願いする方向で準備いたします。

オヤジは『英語どんでん』をメインテキストに、一人寂しく励むことにします。そのうち状況が変わることがあれば、お願いいたします。
 

【12071】
聞いてみようそうしよう さん  投稿者:らくだ  投稿日:2007年11月20日(火)10時00分18秒
  横入りしますが、

>私は数学ができないんですが、数学はこうやって訓練しろというのはわかるんです。数学ができないくせに、それを言うから、人は不信を表情に浮かべ ます。でも、私の塾には、私の言うとおりに数学をやって、数学の高得点で東大に入っちゃったようなやつもいます。

の部分は、根石さんがこの掲示板に書かれた内容でしょうか?引用符がついていなかったため、繋がりが良く分かりませんでした。

それと、よろしければ、数学について書き込まれた意図についても教えていただければと思います。といいますのは、この問題に興味があります。機会があれ ば、算数・数学について根石さんにお聞きしたいと思っていたからです。

子供の学力についての論争は、多くの場合、算数・数学を舞台にしています。糸山問題の中核にも算数・数学問題があると思っておりますので。
 

【12072】
根石吉久さん・らくださんへ   投稿者:聞いてみようそうしよう   投稿日:2007年11月21日(水)00時22分25秒
  >>根石吉久さん
いえまったく根石さんとは関係ない者です。たんなる誤爆です。ごめんなさい。
吉さんのHPからどんぐり倶楽部と素読舎を知って書き込んだだけです。根石さんだったら
算数・数学をどう指導するのかな?って思ったから書きました。おいらはまだ、英語どんでん読んでないので読んだ上で要領がつかめなかったまた相談させてく ださい。ありがとうございました。

>>らくださん
>>私は数学ができないんですが、数学はこうやって訓練しろというのはわかるんです。数学ができないくせに、それを言うから、人は不信を表情に浮かべま す。でも、私の塾には、私の言うとおりに数学をやって、数学の高得点で東大に入っちゃったようなやつもいます。
の部分は、根石さんがこの掲示板に書かれた内容でしょうか?引用符がついていなかったため、繋がりが良く分かりませんでした。

引用符つけるの忘れました。ごめんなさい。その部分は根石さんの文の引用です。

>>それと、よろしければ、数学について書き込まれた意図についても教えていただければと思います。

意図はありません。おいらは考えることが苦手なので下の文を読んだらなんとなく聞きたくなっただけです。あと吉さんのHPで根石吉久さんと糸山泰造さんが 同じこと言ってるって書いてあったけど全然同じじゃなくね?と思ったからってのもあります。

根石吉久さん・糸山泰造さん・アインシュタインさん
<引用>
[生理学]
○糸山泰造
1.私の考えの基本には哲学は生理学の一部である。という確信があります。そして、この生理学(人の反応の仕方)は私自身と目の前の子供から教えられたも のです。

2.アインシュタインはこう言いました。「一番よく分かるのは自分自身で体験することだ」と。私もそう思います。なぜならば、人の基本的な反応は誰もが同 じだからです。


○根石吉久
脳の左右はよく知りませんが、論理を分担している脳の部分と感覚を分担している部分が違うということは十分に信じられることです。しかし、それは脳にまか せておけばいいので、私が脳さんに言いたいことは、「じゃあ、まかせたからね」ということだけです。右脳さんがやってくれるんでも、左脳さんがやってくれ るんでもいいや、だけど、俺は英語を聞き取って、その場でわかりたいんだからね、よろしくってことです。実質は脳さんがやってくれるんでも、実感レベルで は私の心がやってると思うことに何の差し支えもないと考えています。生理学的根拠は参考にしかならない。私の心に何が起こるかと思っていた方が実質的だと 思っています。


[数学]
○糸山泰造
1.せっかく文章問題を解いているのに絵図で考えることをしないで文章から式を考えている人がいますがこれも大きな勘違いです。視覚イメージを意識せずに 解く文章問題はえる力を育てる材料にはなりません。しないよりはマシですが、非常に効率の悪い方法です。なぜなら、非常に大くの問題を解けば中にはイメー ジ操作をする子も偶然に出てくるので、その子は考える力を得ることが出来ます。しかし、これは偶然です。最初から、キチンと考えるとはどういうことかを教 えれば子供達は100%考えることができるようになります。偶然に頼って教育をすべきではありません。
……………………………………………………………………………………………
■読解力(分かる)とは言葉を視覚イメージとして頭の中で再現することです。「見える=分かる」なのです。思考(考える)とは視覚イメージを操作すること です。ですから、「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」を使って絵図を描く(言葉を視覚イメージに変換する)ことで、→国語(読解力と表現力)も算 数(算数の読解力)も総合力(思考力)も養成できる(思考のプラットホーム理論)←のです。ところが、算数(計算)は得意だけれど国語が弱いから文章問題 ができないと勘違いしている人が大勢います。読解力がないから算数の文章問題が解けないのではありません。分かる・考えるということがどういうことなのか を根本的に分かっていないのです。教えてもらっていないのです。これは欠陥教育です。文字(文章)とは音声を記号化したものです。音声とはイメージ(殆ど が視覚イメージ)を再現するためのキッカケです。「読解力がない」とは「文字(→音声)から視覚イメージを明確に再現できない」ということです。ですか ら、どんなにたくさん文章を読んでも視覚イメージ化の練習をしなければ読解力も思考力も育ちません。基本の基本です!!視覚イメージ化がなければ「何度読 んでも分かる」ことはない
……………………………………………………………………………………………
■絵図を描くことの本当の意味:頭の中で視覚イメージを持続するのは無用のエネルギーを大量に浪費するので手を使い目を通して必要な視覚イメージを瞬時に 利用することで頭のエネルギーを最も効率的に「考えること」にだけ使うのです。だから、楽に考えられるのです。大人でも絵を描かなければ解けないのは、そ れだけ視覚イメージを頭の中で維持するのにはエネルギーを浪費するからなのです
思考のプラットホーム理論
<国語も算数も使う力は同じ視考力(視覚イメージの再現と操作)です>
●思考力の使い方(意識の仕方:注意するポイント)を少し変えるだけで良いんです。
※このことを知らずに違う力だと思っていると無駄な時間を浪費します。
……………………………………………………………………………………………
●国語的内容の理解方法とは「視覚イメージの流れ:複数の視覚イメージを細部に注意することなく流している」を意識することです。
 すると、細部に注意しないことで流れを意識しやすくなるのです。「内容」と呼ばれているのは「流れ」のことです。ですから、国語の読解力とは視覚イメー ジを操作ではなく再現とその移り変わり(流れ)に重点を置くことなのです。
……………………………………………………………………………………………
●算数的内容の理解方法とは「視覚イメージの細部:単数の視覚イメージを細部に注意して見ている」を意識することです。そして、イメージ操作を加えます。 イメージの移動・変形・連想・比較ですね。このイメージ操作を算数の言葉にしたのが計算式です。文章→計算式ではすぐに行き詰まってしまいます。文章→絵 図(絵図の変形)→計算式は何にでも応用が利きます。
……………………………………………………………………………………………
●使う能力(視覚イメージの再現と操作)は同じですが注意すべきポイントが違うのにポイントのシフトをしていないからです。ギアチェンジをしないで山道と 高速道路を走ろうとしているから効果が現れないのです。
●楽しい「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」という中間形(プラットホーム)を知っていると修飾の少ないの数学にも修飾の多い文学にもどちらにも 簡単に移行できる。
●視覚イメージは思考のプラットホームなのです。
……………………………………………………………………………………………
<表現力も全く同じ力:視考力を使います>
視覚イメージの言葉などでの説明が表現力です。ですから、要約する場合なら視覚イメージを簡略化してその簡略化した視覚イメージの説明をすればいいのです し、長文ならば視覚イメージを細部まで表現すればいい。感情なら人物の視覚イメージを良く見て説明すればいいのです。変化させるのは言葉ではなく視覚イ メージなのです。言葉は視覚イメージの説明に過ぎません。説明する対象を変えれば説明の仕方は当然変わるのです。それなのにイメージをそのままにして表現 だけいじってもそれは言葉の言い換えであるだけです。

2.▼「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」が
 国語力(読解力)も養成できる理由は、シーン展開を含んでいるからです。
算数と国語の違いは1シーンの細部描写(再現)か多数シーンの曖昧描写(再現)かの違いです。算数も国語も本質的には、視覚イメージ再現という点において は全く同じなのです。
違いは細部描写には根気と緻密さが必要ですし、複数シーンの流れをつかむには大まかな理解(再現)で数多くのシーン理解(再現)をする、あるいは完全に理 解しなくても次に行く大雑把さ(拘りすぎないこと)が必要になるということなのです。ここで大事なことは精細(緻密なこと)から大雑把になることは比較的 に簡単ですが、逆は難しいということです。整理整頓を出来る人が乱雑にするのは簡単ですが、日頃から乱雑にしている人が
整理整頓するのは難しいということです。「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」は
算数の文章問題ですから緻密さを要求されます。しかもかなり高度な緻密さです。さらに、ストーリー性を加えてありますから解きながらの遊びがあります。実 は、この遊びが国語の複数シーンの把握につながるのです。算数の文章問題が楽しくなければいけないのは「飽きないように」ではなく、国語力もつけるために 必要だからなのです。ですから、「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」はこれだけで国語力も算数力も付くのです。
プラトンが創立した哲学学校の門に「幾何学を解さざる者入るべからず」と刻んだのは
「哲学には精緻な思考が必要である」ということです。計算とは全く関係ないのです。また、曖昧な流れの方が日常的であるが故に訓練が必要なのは緻密な描写 の方なのです。映画を楽しめない人はいませんが絵画を楽しめない人は多いのもこのことが原因です。楽しい「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」とい う中間形(プラットホーム)を知っていると修飾の少ない数学にも修飾の多い文学にもどちらにも簡単に移行することが出来るようになります。さらに、独創的 な考えもヒラメキでさえも養成することが出来ます。なぜなら、これらは全て視覚イメージの操作から生まれるものだからです。

○根石吉久
1.数式が作る論理と、言語が作る論理は違います。 数式の論理は、実に清潔ですが、やせた論理です。言語が作る論理は、ごみやばい菌だらけ、夾雑物だらけです。 しかし、言語が数学を育てたのであって、その逆ではありません。 私はいまだ、夾雑物だらけの言語が作る論理が好きですね。 確かにこの世には、数式化できない論理があります。
2.数学はその抽象性の清潔さのおかげで、抽象の高みから生活に直接に戻る経路が閉ざされてしまうのが大きな違いでしょうか。

[考える]
○糸山泰造
全世界の言葉を全て知っていても考え方を知らなければ何も考えられない。
一言も言葉を知らなくても考えることは出来る。

○アインシュタイン
1.アインシュタインの「自伝ノート」Paul Arthur Schilpp, Albert Einstein als Philosoph und Naturforscherシュテゥットガルト・1955年「多くの場合、記号(言葉)がなくても思考は進められるもので無意識のうちにさえもかなりの程 度までそれがやれるということは、自分にとっていまや疑いないことである」

[教育]
○アインシュタイン
教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、自 ら考え行動できる人間をつくること、それが教育の目的といえよう。by アインシュタイン

[全盲の人の視覚イメージ]
○糸山泰造
私はできあいの理論を信じません。私は目の前の子供たちの反応だけを信じることにしているからです。しかしながら、今回だけは小山田さんという全盲の方に お話を伺いました。イメージ思考についての最終確認をしたかったからです。視覚のない方にも私の考えが通じるのかどうかを確かめたかったのです。イメージ (特に視覚イメージ)で理解したり考えたりしていることが全盲の方にもあてはまるのだろうかと思ったからです。
小山田さんは、「言葉はきっかけにすぎないですね」「イメージで考えているというのは、まったくその通りだと思います」と言われました。

<引用終わり> []はおいらが適当につけた。

>>子供の学力についての論争は、多くの場合、算数・数学を舞台にしています。糸山問題の中核にも算数・数学問題があると思っておりますので。

そうそうおれもそう思う。でもおいらは考える力がないから根石さんと議論はできないので
らくださんにそのことを議論してほしいです。たまに横入りさせてください。
そろそろ刺身パックにたんぽぽをのせる作業に戻ります。
 

【12073】
聞いてみようそうしよう さん  投稿者:らくだ  投稿日:2007年11月21日(水)09時28分3秒
  >おいらは考える力 がないから根石さんと議論はできないので

ご謙遜を。これだけ引用と整理をされているのですから。
私こそ、『英語どんでん』も3回目に突入したばかりで、過去ログも未だつまみ食い程度にしか読んでいませんので、ボチボチ行きたいと思います。
 

【12074】
根石さんと吉本   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月21日(水)22時14分48秒    編集済
    < 磁     場 >    ・・・英語の磁場
        ↑↓

     批評 / 語学

      ↑↓
  < 娑    婆 >    ・・・日本語の磁場、生活

 この根石さんの思想の模型は、イメージを膨らませれば、娑婆の領域を底面とし、批評を頂点とする円錐形と、磁場の領域を底面とし、語学を頂点とする逆向 きの円錐形との組み合わせとして理解することができます。
 この思想モデルの独自性をみるためには、吉本隆明の思想を参照することが有効です。
 吉本の膨大な仕事も、その思想の骨格を取り出すときには、このモデルの下半分の円錐形の図式に収まるものであることが見て取れます。

        批評                 ・・・ 知(知識人)/ 自己幻想

       ↑↓
  < 娑    婆 >    ・・・ 大衆の原像 / 共同幻想

 例えば、吉本の知識人論で考えられるのは、娑婆=「大衆の原像」から上昇する批評=「知」のありようです。芥川論や転向論では、そのような知の必然的な 挫折を描き、知識人の課題として、大衆の原像を知の内部に繰り込むことが提唱されます。親鸞論では、上りつめた知の高みから非知=娑婆に還ることが知の最 後の課題とされます。
 あるいは、共同幻想論における自己幻想と共同幻想の逆立というテーゼも、娑婆=共同幻想に対抗する批評=自己幻想というこの枠組みで理解することができ ます。この構図においても、消費資本主義を肯定する80年代以降の吉本によって、いわば批評の娑婆への漸次的接近が図られることになります。
 このように見ると、吉本の関心が図の下半分の円錐に限られており、その円錐の高さ(垂線)を押し縮める方向で動いているということは、最低限確認できる だろうと思います。

 吉本の思考と比べると、根石さんがいかに独自で、異様ともいえるような場所で考えているかが、はっきりします。英語と日本語の磁場とに引き裂かれ、語学 と固く結びついた批評は、吉本のように娑婆へのホンケガエリを目指すことはできなくなります。
 また、根石さんのいう語学と磁場との峻別は、単に日本在住のままで英語をやるということでなく、学問共同体や企業共同体における「役立ち」からまったく 切れたところで純粋に語学をやるという立場によって初めて見出されるもののように思われます。
 いまはまだ全くのあてずっぽうでしかありませんが、根石さんの使う「空っぽの電池」という言葉が、根石さんの批評的な位置をよく示す重要な比喩であるよ うな気がしてなりません。
 「空っぽの電池」としての知。
 徹底して空っぽであることによって、複数の磁場へと自在にわたって行くような知こそ、吉本を超える根石さんの批評のイメージだと思います。
 

【12075】
根石さんへ   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月21日(水)22時29分54秒    編集済
  資料の送付、ありが とうございます。
クロネコメール便の表書き、まさに詩人の書、ですね。

月例の小さな勉強会で、明後日、根石さんのことを報告することにしました。
そのため、やや荒削りですが、この根石論を書きました。
コメントをいただけたら助かります。
 

【12076】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月23日(金)00時02分51秒    編集済
  >この根石さんの思 想の模型は、イメージを膨らませれば、娑婆の領域を底面とし、批評を 頂点とする円錐形と、磁場の領域を底面とし、語学を頂点とする逆向きの円錐形との組み合わせとして理解することができます。

 「磁場の領域を底面とし」というときの「磁場」は、「ネイティブ言語の磁場」を想定されたのでしょうか、異言語(外国語)の「磁場」を想定されたので しょうか。
 語学は、どちらの「磁場」をも底面とすることができますが、私は日本語の「磁場」(ネイティヴ言語の「磁場」)としか接触しませんので、そちらが「底 面」となります。たまに外国に行っても、異言語の「磁場」の中を点のように移動するだけで、日本にいるときのように、「磁場」と交わる感触がありません。 (つまり、円錐形であれ何であれ、立体になっていかないという感触があります。)やはり、そこで生活しなければ、そのことは生じないのだろうと思っていま す。
 「娑婆」と「批評」の間に立体が立ち上がるとは思いますが、同時にねじれが生じていると思います。ねじれてもつながっているのは、「娑婆」の言語と「批 評」の言語が抽象レベルの違いはあっても、私にとっては同じネイティヴ言語から派生しているものだからです。
 異言語の「磁場」にせよ、ネイティヴ言語(日本語)の「磁場」にせよ、「磁場」と「語学」の間には、私の場合(日本で例えば「英語」をやる多くの日本人 の場合も)、「ねじれ」でなく、「切断」があると思っています。
 「語学」の対象が英語である場合、日本でそれをやっていることによって、対象言語の「磁場」から切れています。また、対象としている言語がネイティブ言 語(日本語)ではないので、日本語の「磁場」からも切れています。このように、どちらの磁場からも切れているものを「語学」だと考えています。
 これが、例えばアメリカに住んで、英語を日々使いながら語学をやるという人の場合は、英語の「磁場」にある言語と自分の語学の対象が同じ言語になります から、「切断」ではなく、「ねじれ」としてつながるわけです。その場合に、matsu さんが描かれる円錐形が、「娑婆・批評」と同型のものとして扱えるようになると思います。

 吉本には、私にはない「運動」というものがあります。80年代以降の吉本に、「運動」という感じはありませんが、勤めてはやめる(やめさせられる)こと を繰り返していた時期の吉本には、「娑婆」とも違う、(労働組合を組織しようとするなどの)「運動」の領域があり、これがまた、独自の領域になっているの ではないでしょうか。
 吉本の「対幻想」の原形は男女間(あるいは三角関係)における幻想かと思いますが、「運動」なんかに関わりようがなかった私などから見ると、吉本の「運 動」も、「対幻想」の領域にかなりの部分が含まれていくのではないだろうかと思います。あるセクトにコミットする時点では、そのセクトの「共同幻想」にコ ミットしていくわけでしょうが、労働組合を作ろうとして人と一人一人話している時点では、幻想は「対幻想」の内側にあるだろう、と。
 この吉本の「運動」まで考えに入れると、matsu さんが描かれた私についての図式は、単に複雑な形をしているだけで、しょせん「対幻想」の領域の希薄なものです。私がいまだ、吉本を本当に読めていないと いうのは、その辺も考えてそう思っているのです。
 吉本が「対幻想」を独自な領域として取り出すに至るまでの労働としての思想に、私の「語学論」などとうてい及ぶものではありません。

 語学という行為は「磁場・娑婆」の血を浴びはしないのです。吉本の「対幻想」は、「磁場・娑婆」の血を浴びています。

 ただ、80年代以降の時代の空気には、「からっぽ」という言葉の方が照応するかもしれません。

>また、根石さんのいう語学と磁場との峻別は、単に日本在住のままで英語をやるということでなく、学問共同体や企業共同体における「役立ち」からまったく 切れたところで純粋に語学をやるという立場によって初めて見出されるもののように思われます。

 これはありがたい把握でした。語学は目に見える形で役に立たなくてもいいんだというのが、私の考えの基にあります。私にとって、語学がもっとも役に立っ たのは、日本語の文章を読んだり書いたりする場合の栄養素を養ってくれたという点にあります。この点で、実は「英語どんでん・・・」の岡田と同じことを私 もやっていたのかもしれません。「通訳」「翻訳」を始め、「役立ち」「実用」から、私の語学は切れています。
 日本語の文章を読んだり書いたりするときの養分などは、まったく語学の「対象言語」使用から「切断」されて見えるはずです。というか、それは目に見えな いところで、「切れてからつながる」。あるいは、ある言語から生じたイメージが異質な言語を媒介にするところから見れば、「つながってから切れる」。
 「磁場」と「語学」の間にある「切断」と、イメージを強化する(独在させる)ことによる具体的言語からの「切断」(イメージによる具体的言語の脱皮)、 この二つの「切断」がどういう姻戚関係にあるのか、いまだうまく言えません。
 イメージに言語を脱皮させること。あるいは、イメージに異言語をつなげさせること。つなげられたものの間に生じる「ねじれ」を持ち続けること。こういう 行為もある種の血は浴びるのですが、しょせん、机上という抽象的な場所に飛ぶ光のような色のない血です。

 またしても吉本に戻りますが、吉本の思想はじかに現実と擦れて、現実からの返り血を浴びています。それは血の色をした血だと思います。それが変わったの は、matsu さんが言われる通り、80年代以降ということになると思います。吉本も色のない血を浴び始めたのか。
 80年代以降の吉本に関しては、私はよくわかっていなくて、何から読んだらいいかご教示願えたらと思っています。
 

【12077】
聞いてみようそうしよう さん  投稿者:根石吉久  投稿日:2007年11月23日(金)00時04分26秒
  風邪っぽく、体調が よくありません。
少しお待ち下さい。
 

【12078】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月23日(金)00時36分16秒
  3回目を読んで下 さっているのですか。
ありがとうございます。
ぼつぼつで結構ですので、新たなご感想がありましたらお聞かせ下さい。
 

【12079】
らくださんへ   投稿者:聞いてみようそうしよう   投稿日:2007年11月23日(金)04時52分21秒
  謙遜でもなんでもな くておいらの頭の悪さはガチですよw大雑把なことを言って頭の良い人 にいろいろ考えてもらうのがおいらの手法です。だから、らくださんに期待してます。
とりあえずおいらの意見。
[仮説1]
○目で解くことについて
<6MX00>
ムササビ商店とモモンガ商店では、毎年恒例のマント祭りを開催しました。
今年の売り上げはムササビ商店がモモンガ商店の15/12(12分の15)で154320円
でした。ではムササビ商店とモモンガ商店の売り上げの差額は幾らだったので
しょうか。
<解答の流れ>
154320×12/15(15分の12)=123456
154320-123456=30864
<6MX00>30864円

・解法のポイント
モモンガ商店の売り上げ×15/12=ムササビ商店の売り上げ(154320円)
だから
モモンガ商店の売り上げ=ムササビ商店の売り上げ(154320円)×12/15

・子どもの思考
問題文読む→モモンガ商店の売り上げ×15/12=ムササビ商店の売り上げ(154320円)を読みとる→ムササビ商店の売り上げ(154320円)−モ モンガ商店の売り上げ(差額)が求められていることを読みとる→モモンガ商店の売り上げっていくらだろう→分からない
つまり、子どもにはモモンガ商店の売り上げ×15/12=ムササビ商店の売り上げ(154320円)
だから
モモンガ商店の売り上げ=ムササビ商店の売り上げ(154320円)×12/15の「だから」のつながりが見えにくいんだと思うんです。

・目で解く
この問題を絵にすると(絵が書けないないので言葉を交えて説明しますが)、モモンガ商店の売り上げ「□」(金貨の塊の絵)を均等に12分割+その12分割 した1つ分の大きさ×3つ分(3/12)した「□」=ムササビ商店の売り上げ(154320円)になります。
つまり、この時点でムササビ商店の売り上げ「□」(154320円)を15分割した絵が欠けているはずです。<ここまでが問題文イメージを絵にした状態>

そうするとムササビ商店の売り上げ「□」(154320円)の15分割したうちの12個分がモモンガ商店の売り上げだっていうことが目で見てわかるじゃな いですか。<モモンガ商店の売り上げ発見>
これを数式にすると、モモンガの売り上げ=154320×12/15になります。これが目で解くってことじゃないでしょうか。

[仮説2]
○良質の算数文章問題について

・類題が多い(らくださん情報)
ここから少し養老さんを引用します(生理学として正しいかどうかは分からないけどおいらの実感レベルとして納得できる話)
<引用>
繰り返しで、人は学ぶ

で、脳の活動は、ずっと一生その繰り返しなんです。だから根本的には脳は、このくり返しでつくられます。しかも、毎回くり返しているようでいて、少しずつ らせん状に上っていくみたいに、そのくり返しから、いつの間にか脳は変わらない規則を学習していくんです。一回ごとのくり返しをすべておぼえていたら、頭 は破裂しちゃいますから、そういうことは脳は関知しないんです。脳がやるのは、くり返しやってもいつも変わらない、ということの規則を、いつの間にか学習 しているとううことなんです。
この学習が積み重なると、どうなるか。
たとえば、比例するふたつの三角形。ひとつは遠くにあって、ひとつが近くにあるとするでしょ。それをしょっちゅう、いろんなところから見ていると、最終的 に脳ミソが何をおぼえこむかというと、比例関係なんです。そんなふうに、脳は、あっちからもこっちからも、いろんな距離から見ているあいだに、変わらない こと、変わらない性質だけを、おぼえていくんです。
で、算数で比例を習うと、ふつうはキミたち、外側に「比例」という規則があって、その、外側にある規則を自分が学んでいるんだ、なんて思ってるでしょう。
ぼくが言いたいのは、キミの頭の中に、くり返し学んだすえにすでにわかっている「比例関係」がじつは最初からあるんだっていうことです。むずかしく言う と、外部的に外側から説明してもらうと、頭の中にあるから、わかる、ということ。それが脳の働きというものなんです。ふつう考えるのと、ちょうど逆で しょ。
それと同じことで、キミたちは学校で、外からいろいろ教えられるもんだと思っているでしょう?でも、そうじゃない。わかるというのは、もともと自分の中に わかるだけのものが、ループのくり返しによりでき上がっていて、それを外から説明されるから、わかるんだ。
<引用終わり>

おいらは算数を究極的に突き詰めていくと「比」の概念が理解できているかどうかが分かれ道になると思ってるんです。「比」の概念が理解できていれば割合、 相似の概念も軽く理解できます。比の概念を理解していることが中学・高校数学をしっかり消化できる前提条件になっていると思います。
で、良質の算数文章問題に類題が多いのは意図的に「比」の概念を分からせようとしているからじゃないでしょうか?(脳は変わらない規則を学習していく)。 そして小学生の内に「比」の概念を理解した子どもは後で伸びると思います(数学を消化できるだけの力があるから)。しかし、ただそれだけのことだと思うん です。「比」の概念は大人になってからでも習得できます。だから思考の臨界期なんてのは馬鹿げています。小学生の時に計算ばっかりやってないで文字、数字 から具体的なイメージを導き出して操作すること(考えること)やその考えることを通して高度な概念の基礎(比など)を獲得していこうってことなら納得でき ます。
「比」の概念を身につけて使いこなすにはそれなりの時間がかかるので小学生の内に身につける(使う)機会が少なかった子どもが数学の落ちこぼれになるとい うことは多いと思います。そして、単純な計算と漢字練習ばっかりやってた子どもはそうなりやすいかもしれないし、理解力も低いように見えるかもしれない。 でも、それを思考の臨界期いう脳の機能
と結びつけちゃいかんと思います。
 

【12080】
根石吉久さんへ   投稿者:聞いてみようそうしよう   投稿日:2007年11月23日(金)05時02分10秒
  お大事にしてくださ い。  

【12081】
根石吉久さんへ   投稿者:聞いてみようそうしよう   投稿日:2007年11月23日(金)05時18分13秒
  お大事にしてくださ い。
らくださんmatsuさんと根石さん、matsuさんとらくださんの議論を少し読みましたが難しくておいらには分からないことがいっぱいありました。根石 さんとおいらだと噛み合わないかもしれないけど精一杯がんばるのでよろしくお願いします。
 

【12082】
根石さん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月23日(金)08時29分36秒
  風邪の中、コメント を強要してしまって申し訳ありませんでした。

あの図の二つの円錐でいえば、批評−娑婆関係は「ねじれ」であり、語学−磁場関係は「切断」であるということはよくわかりました。だから、後者は、実感と して立体をなしていないということも。

しょせん、考える手がかりとしての模型なので、それ自体にこだわるわけでないのですが、自分なりにある程度使えるのではないかと考えているのは、批評−娑 婆の正立に対して、語学−磁場が倒立像として描けるところです。
根石さんの言うような、ネイティブ語とは全く異質の関係を、倒立ということであらわすことができるかもしれません。

にもかかわらず、この「ねじれ」と「切断」の間には、何らかの対応関係、「姻戚関係」があるだろうと思います。またしても手前味噌ですが、そこに考えるポ イントがあるということを、全く同じ形の二つの円錐で示すことができるのかもしれません。

だいぶ頭を整理することができました。今日はなんとかレポートできそうです。

吉本についてはまた後日。
根石さんは謙遜されますが、根石さんは思想の現場で、吉本以上の返り血を浴びていると思います。

今晩の初回のレッスン、よろしくお願いします。
 

【12083】
根石さん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月23日(金)18時42分12秒
  レッスンの件、ご連 絡ができずにいます。住んでいるマンションの光電話回線が足りなく なっており、増設工事を予定しているとのことで工事日程を確認中です。ラチがあかないようであれば、別の手も考えようと思っています。

>新たなご感想がありましたらお聞かせ下さい

感想ですか...。実のところ読むほどに口が重くなって、少し黙っていたいなと思っていたところなのですが。

この本についてまともな感想を語るためには、自分自身が「回転読み」「電圧装置」等を使って語学を深く実践してみなければ難しいと感じています。とんでも ない本を読み始めてしまったな、というのが正直なところです。
 

【12084】
書評『日本人と英語』   投稿者:外野。  投稿日: 2007年11月24日(土)16時39分27秒
  書評
『日本人と英語』
斎藤兆史
出版社:研究社
発行:2007年10月
ISBN:9784327377205
価格:¥2100 (本体¥2000+税)

国民必読の「愛憎劇」
 「駅前留学」NOVAの経営破綻(はたん)をめぐる連日の報道をながめながら不思議だった。これほど大量な人々がなぜ英会話学校に通うのか。本当に必要 なのか。そもそも役に立つのか。

 その答えは、すべて本書にある。敢(あ)えて国民必読といいたい。英語教育史をベースに日本人の英語愛憎劇が活写されている。開国期の「文明語」熱、日 英同盟の英学ブームを経て、学力選別手段としての「受験英語」成立、大正期の「外国語」高等小学校導入と英語廃止論、戦時下の敵国語教育、敗戦後の人気ラ ジオ講座、英米の言語戦略とコミュニケーション中心主義、そして第二公用語化をめざす「平成の英語」。

 あくまで抑制的な著述だが、小学校の「英会話ごっこ」やセンター試験のリスニング導入など愚劣極まる近年の教育政策に、私も義憤がこみあげてきた。百年 を超える英語教育史を振り返れば、日常生活で英語を使わない日本人が英語を習得することが、どれほど困難かは自明である。明治期のエリートは、国家存亡の 危機にのぞんで死に物狂いで英語漬けになって学んだが、その学習動機が消えた日露戦争以後、日本人の英語力は一貫して低下している。つまり、国際的地位の 向上と英語力低下は連動していた。

 著者の指摘どおり、いかなる英語教育法も一日一時間の授業でめざましい成果を挙げることは不可能である。この「厳然たる事実」から目を背け、文法・訳読 を受験英語として否定することから教育改革の迷走は始まった。「読解」が受験、教養という暗いイメージで退けられ、「コミュニケーション」には自己表現、 国際理解など明るい意味付けが行われている。だが、英語の母語話者との対等なコミュニケーションを可能にするのは、個性的な文化を創造する日本語能力だけ である。脱「ゆとり教育」の今も、国語教育の充実より貧弱な英語で自己紹介できることに価値が置かれている。奴隷根性の実用感覚というべきだろう。

 ◇さいとう・よしふみ=1958年生まれ。東京大学准教授。専門は英語教育・学習論。

研究社 2000円

評・佐藤卓己(京都大学准教授)

(2007年11月19日  読売新聞)
 

【12085】
気をとり直して   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月24日(土)17時47分44秒
  「まともな感想」を 書こうなどと欲張ったことを考えていたのですが、やめることにしま す。生煮えご免で感じたことを書くことにいたします。

matsuさんは根石さんの立場を

>学問共同体や企業共同体における「役立ち」からまったく切れたところで純粋に語学をやるという立場

と評し、根石さんは

> これはありがたい把握でした。語学は目に見える形で役に立たなくてもいいんだというのが、私の考えの基にあります

と応えておられますが、私は「役立ち」に少しこだわってみたいと思います。高度に抽象化された批評の世界に参加できない負け惜しみもあるのですが...。

以前、私が「英語で食っている」会社に属していると書きました。ハンドルネームを使っている意味がなくなりかねないため、あまり詳しいことはご容赦いただ きますが、「英語教育機関」に所属していると言い換えます。仕事柄、英語学習の指南書の類を数多く読んできました。これまで、國弘正雄さんの『國弘流英語 の話し方』が類書としては最良のものと思ってきたのですが、この認識は改めなければならない、というのが第一の感想です。

『英語どんでん』は7年ほど前に一度読んでいるのですが、その時は「回転読み」という手法のインパクトだけが印象に残り、ほとんどまともに読めていませ ん。情けない話です。

今、読み返して、7年間も本棚の奥に眠らせてしまったことに愕然としている、そんなところであります。國弘さんの本と比べて、どこが優れているかという点 につきましては、根石さんご自身が過去ログで述べられているかと思います。

それは、「磁場論」の有無ということなります。生活言語と語学とを厳しく峻別することの重要性をここまで明確に述べている本は、他に無いのではないかと思 います。あればどなたかご教示下さい。

この峻別こそが、非常に「役立つ」考え方だと思います。すでに高い英語力をお持ちの方が、日本に暮らしつつ英語力の維持、向上に取り組む場合にはもちろん でしょうが、ある種の英語難民にとって、「生活言語と語学との峻別」は福音と言える考え方です。望むと望まざるとにかかわらず、英語を勉強せざるをえない 膨大な中学・高校生にとっても福音となる「ハズ」です。伝道師がいれば、ですが。生活言語と語学との混同が、どれだけ多くの犠牲者を出してきたかを考えれ ば、福音という言葉は適切な表現だと思っています。

しかし同時に、独習書としての限界を合わせ持っていることは否定できないと思います。「回転読み」や「電圧装置」といった方法を伝授してくれているだけ で、充分に実用的な本だと思いますが、「音作り」については、やはり独習は無理ということになりますので。しかし、それは本の限界というより、独習の限界 と言えますので、無い物ねだりをしても仕方ありません。そのあたりも根石さんは過去ログで触れておられます。國弘さんの中学時代の音作りの謎について書か れているところです。非常に読みごたえのある文章でした。
 

【12086】
皆様   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月25日(日)01時06分42秒
  もう少し休ませて下 さい。
昼間寝たので、少し回復したかと思ったのでしたが、咳込んだり、鼻水じゅるじゅる状態でレッスンしたら、また底をついてしまいました。
 

【12087】
聞いてみようそうしよう さん  投稿者:らくだ  投稿日:2007年11月25日(日)09時51分33秒
  ・単純な高速計算の 反復は有害である
・文章題を使って考える習慣をつけるのが良い

というのが糸山さんの考え方の基本にあり、それは正しいのではないか。また、数学のキモになる項目に習熟するように文章題が構成されている点も評価でき る。以上が聞いてみようそうしようさんのご意見と考えてよろしいですね。

少なくとも、

・単純な高速計算の反復は有害である

については根石さんも同様のことをおっしゃっていると思います。子供を計算ロボットにするような教育を批判されています。また、泥臭く、粘り強く考えるこ とに価値を置くべきともおっしゃっています(『英語どんでん』249ページ)。

そのために文章題を使うのが良いのか、文章題を解く過程で絵図を用いる習慣をつけさせると良いのか、という点についてどうお考えかは分かりません。

さて、ここで私から根石さんに質問を投げかけてみるならば、こういうことになります。

・単純な計算の反復は本当に有害か
・それを高速でさせること(ストップウォッチでタイムを計ること)は有害か
・それを大量にさせることは有害か

です。なぜそんな問いを立てるかと言いますと、教育に関しては昔から以下の対立点で語られることが多かったと考えるからです。

「できる」から「わかる」へ
    vs
「わかる」から「できる」へ

あるいは

「読み書きそろばん」
   vs
「考える力」

素読というのは、上段に属する(と一般的にはみなされる)と思います。また、語学における基礎練習と計算の反復練習が、一見、似ているような感じを持たせ ます。

以上が、第一の質問です。

第二の質問は、

・算数・数学教育において、素読はどの程度有効か

ということです。『英語どんでん』の書評ページに小池隆さんが

>語学に限らず学問は全て独学でしたが、法学も文学も哲学も、その他私が学んだものは全てが素読か写本だったのです

と書かれています。文科系の科目についてはイメージがわくのですが、理数系の科目についてはどうなのか、とりわけ算数・数学の場合は。

・算数・数学教科書べらべら読み
・文章題の問題文べらべら読み

これらは有効か、ということになります。特に

・文章題の問題文べらべら読み

は、文を一度読んだら絵図に転換し、あとは絵図で考える、という糸山さんの考え方と対立することになります。
 

【12088】
根石さん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月26日(月)01時33分45秒
  >この吉本の「運 動」まで考えに入れると、matsu さんが描かれた私についての図式は、単に複雑な形をしているだけで、しょせん「対幻想」の領域の希薄なものです。
>吉本が「対幻想」を独自な領域として取り出すに至るまでの労働としての思想に、私の「語学論」などとうてい及ぶものではありません。

風邪のところ申し訳ありませんが、一点だけ、忘れないうちに書かせてください。
この引用の部分が、実は僕にはイメージのしづらいところでした。

僕には吉本に発想の根本は、かなり常識的で、それゆえにまともであるという印象があります。一人の人間の心の動きや振舞いと、人間同士が直に向き合ったと きのそれ、および人間が集団をなしたときのそれを区分けしようとした発想自体は、それほど特別なものではないような気がします。
また、対幻想の位置づけも、自己幻想と共同幻想との関連の中で語られる以上、以前のモデルでいえば、批評−娑婆の関係の内側にあるものと考えます。

ただ、根石さんが自分の語学論を対幻想の領域にあるものと考えていることには興味をひかれました。

「英語! 糞くらえ」と腹の底から思いながら、延々とかかわっていく(かかわらざるをえない)姿勢は、他なるものに対する関係の、一種の極限といっていいのかもしれ ません。この意味では、語学をやらなかった吉本が思いも及ばなかった対幻想の核心を、根石さんがつかんでいるとさえ言えるだろうと思います。
英語回りで流した血のことを根石さんはこの掲示板でも書いていたと思いますが、それを「希薄」と形容したのは、おそらく語学の空虚さ(からっぽ)を踏まえ てのことでしょう。しかし、その希薄は、吉本の充実に対して認識上劣位にあるものではないと思います。
他者の領域と向き合う対幻想の只中に徹底して空虚な媒介を見出す、というのが根石さんの批評の独創だと考えるからです。
 

【12089】
「共同幻想論」と語学   投稿者:村田  投稿日: 2007年11月27日(火)00時22分20秒
  今日、塾の広告の話 をしているときに根石さんが話していたことがとても面白かったので記 録しておきます。記録、と言っても、あくまでも私というフィルタを通したものですが…。
以下、メモ書き。
===============
・語学において、吉本隆明の「共同幻想論」は有効である。
・自己幻想は一人称。
 (村田の理解)「語学」は自己幻想に属するものである。
・対幻想は二人称。
・共同幻想は、一人称、二人称をとりまく三人称の世界。
・「対幻想」は、最小の「磁場」である。
 (以下、村田の理解)
 英語圏で生活して、日本に帰ってきた日本人の英語は、日本に帰ってきた途端に錆付きはじめる。ただし、ダンナが英語ネイティヴ、あるいはヨメが英語ネイ ティヴである場合は、この限りではない。日常生活の中で英語を使い、英語の感覚がお互いの共通感覚として通用するからである。
・英会話学校には、「磁場」がない。英会話学校のネイティヴ講師は磁力は発するが、それは点にすぎない。
 (以下、村田の理解)
 英会話学校の講師が、例えネイティヴだとしても、彼・彼女は「磁力」を発してはいるけれども、そこには「磁場」はない。もしもそこに「磁場」があるとす れば、講師と生徒以上の深い関係があるはずである。
・「あいさつ」は「共同幻想」である。
 (以下、村田の理解)
 1対1で話していたとしても、「薄い」関係は「対幻想」ではない。たとえば「あいさつ」は「共同幻想」を媒介とした会話である。
・「話す」ことは「対幻想」である。
 (以下、村田の理解)
 真剣で、実のある話は、いつも「対幻想」である。夫婦、同棲相手、同性同士でも気心の知れた者同士の話は「対幻想」である。
・「磁場」は、「共同幻想」込みのものである。
・「教室」では「語学」は成り立たない。
 (以下、村田の理解)
 「語学」は、生活言語とは切り離されたものであり、「個」でやるものである。また、「個」でしかできないものである。だから、教室では本来語学は成り立 たない。もしも成り立つというのなら、それは洗脳である。
 

【12090】
過去ログでの「共同幻想論」への言及  投稿者:村田  投稿日:2007年11月27日(火)00時23分48秒    編集済
  【5798】
【タイトル】吉本隆明資料集25から
【 日時 】02/09/28 2:26
【 発言者 】根石吉久

吉本 (略)ほんとはわからないけれど、たぶん自分が敗戦直後にやろうと
   思ったことを、三島さんの行動に感じたんじゃないかという気がしま
   す。だから、三島さんに気持ちが同化していかれたと思います。
山折 あの頃から村上さんはエネルギーというか、バイタリティーが薄れて
   いくというような感じがしましたね。
吉本 そうですね。そういう言い方をすればそうなんですし、べつな言い方
   をすれば、村上さんはその時を契機にして、ある意味で戦争体験に帰
   ったということも言えましょう。またそこから命がかかってない思想
   はみんなだめなんだという感じを蘇らせていきました。(略)だから、
   ある意味では、村上さんは、あいつが言っていることは命がけじゃな
   いという意味で、左翼思想からマルクス主義からみんな含めて、馬鹿
   に見えてきたということがあるんじゃないでしょうか。村上さんはそ
   れを契機に凝縮し始めたという感じがぼくはしたんです。開かなけれ
   ばだめだ、と戦後ぼくらは考えてきたと思うんですが、逆に村上さん
   の方から見れば、命をかけていない思想なんかだめだと、見えていっ
   たのではないかという気がします。

根石註 「村上さん」は村上一郎です。
この吉本資料集は、単行本未収録の対談、座談を集めたものです。
高知の松岡祥男さんが、一人で尽力されて集められました。

個人出版ですから、100ページに満たない冊子が一冊千円します。
しかし、これは価値ある集成です。
最新の25号では、「菊屋まつり」フリートークが強力です。吉本の骨太の
思想が実にはっきりと見える発言があります。

「一人の机上」と「対での話」また、その双方に対して、「共同の場での発
言」、その相互の間に莫大な距離があるという考えは、私は吉本に負ってい
るかもしれない。吉本は読み切れたという感じがいつまでたってもしない思
想家ですが、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の間に逆立の構造がある
ことを言ったことは、私は受け止めたと思っています。

ESSを横目に見ていた若い頃には、それは受け止めていませんでした。
私が吉本をぽつぽつ読んだのは、学生を終えてからでした。
生活しながら、松岡さんに薦められたりして読んできました。
吉本の考えはリアルです。

松岡さんへの連絡先

780−0921
高知県高知市井口町45 松岡祥男
電話 088−873−2479

=============================================
【6848】
【タイトル】「磁場」について
【 日時 】03/01/06 18:31
【 発言者 】根石吉久

 今年から、「個的磁場」という用語と「共有磁場」という用語を使い分けようとさっき思いついた。
 「個的磁場」は個人の意識を場とする場合の磁場であり、「共有磁場」は二人の人間が形成する磁場である。そうなれば、社会的な広がりを成している磁場 (言語圏)を「共同磁場」と言おうかとも思う。
 基本的な区分けは、吉本の「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の区分けに大きく負っている。
 語学の場は、ひとまずは「個的磁場」である。語学が上達してその言語を使えるようになった場合は、「個的磁場」が「共有磁場」や「共同磁場」と相互作用 を起こすようになったのだととらえれば、ものごとはすっきりするのではないかと考えたのである。

 あっちを囓り、こっちを囓りして「言語の脳科学」という本をほぼ読み終えようとしているが、どうも気持ちがすっきりしない。いや、むしゃくしゃする。言 語の実際の生態と科学的根拠の間のあまりにも莫大な距離というものはわかるし、それを埋めようとする努力が科学の努力であるとはわかるが、ほとんどなにほ ども言語に迫れていないではないかと思うからむしゃくしゃする。まして、「共同磁場」における「言語」が「個的磁場」で咀嚼され、一人の人間の「言葉」と なる過程になど指先一つ触れ得ていない。

 「個的磁場」は、言葉の運動域である。「言語」が「言葉」となる場である。
 「共有磁場」は、「言語」が「言葉」になり、「言葉」が「言語」になる場である。
 「共有磁場」は、「言葉」が「言語」化される場である。

 言葉そのものの生態を明らかにしようという態度は、酒井にはあまりない。
 「言語」と「言葉」では、その性質がプラスとマイナスほどに違うことすら無視されている。しかし、いくつかの言語学の成果の紹介はあり、その部分は面白 かった。現状紹介の本であると思えば、まあそれほど腹も立たないが。

=============================================
【10309】
【タイトル】賛成だが反対だ
【 日時 】06/02/08 1:50
【 発言者 】根石吉久

------------------------------------------------------
遠藤尚雄「英語は独学に限る」から引用
------------------------------------------------------

日本語から英語への言語的なギャップが大きいことは確かですが、真の理由は別にあります。学習方法が間違っていたり、効果がない方法を平気で続けていたり する人が多いからです。これでは努力と時間をドブにすてるようなもの。(略)

@何を言っているのかよくわからないのに、ラジオのFENやテレビ
のCNNニュースをやたらに聞いたり、英語だけの映画を見たりす
る。
Aいつかわかるようになると信じて、英語のテイプだけを浴びるよう
に聞きまくっている。
B漫然と英語学校に通っている。
C海外に住みさえすれば英語が上手になると思い込んで、海外留学や
ホーム・ステイを計画している。

(略)よく聞いてもわからないものをいくら浴びるようにたくさん聞いてもわかるようにはなりません。
(略)海外に何年住んでも、ショッピング程度の英語しか身に付かないということは珍しくありません。

------以下、根石------------------------------------------------

学習法として間違っている例として遠藤が挙げている四つの項目に関して、異存はない。すべて、戦後の日本に現象した英語回りの「信仰」に過ぎないからだ。 そして、これらの「信仰」や「信心」をバネに荒稼ぎしたテープ販売会社などは大新聞に全面広告を打ち続けるほど儲けてきた。まともな英語学習法によって儲 けてきたのではなく、「信仰」や「信心」によって儲けてきたのである。遠藤さん、あなたの育った家も「信仰」や「信心」によっていたのですが、まあ、それ はここでは棚にあげておきましょう。
遠藤が「間違っていたり」とか「効果がない方法」「わかるようにはなりません」「身に付かない」というふうに否定をしている間は、遠藤の言説に何の問題も ない。すべてその通りである。否定している時の遠藤はいい。
遠藤が間違っているのは、BとCの間に区別を設けることがないところにある。
B、Cについては遠藤は以下のように言っている。

英語学校も何人かのグループで授業をするような場合は、受け身の授
業だけで終わってしまい、学習の進行度も他の人のペースに合わさな
くてはならないので効率が悪い。英語学校でも、ネイティヴと一対一
の完全個人授業だと効果はあるでしょうが、費用がかかる。Cのよう
に海外へ行って勉強することはそれ以上に費用がかかるが、海外に何
年住んでもショッピング程度の英語しか身に付かないということは珍
しくありません。

「海外」すなわち「英語が通用する場所」のような、「海外」という用語にはあまり深入りしないでおこうかと思う。世界には英語なんか通じない場所はいくら でもあるし、その場所も日本の外なら「海外」なんだが、と言うにとどめ、こんな用語が自分に対して野放しになっているのは、英語なんか通じない場所の人々 の「生活」なんかには主たる関心はなく、この男が主に「儲け話」や「会社」の実業の人を、英語で話す相手として想定しているからだ、と言うにとどめ、いく らかエコノミック・アニマルと英語帝国主義の臭いがする、と言うにとどめておけばいい。
まともな独学の方が、どんな「学校」の授業より効率がいいというのは、別に英会話学校や英語学校や文部科学省の元の英語の授業に限ったことではなく、あら ゆる「学校」というものを刺し貫く原理のようなものだ。私が「学校」が駄目だと考える理由は、どんな授業でもイメージを直かに扱うことが不可能だからだ が、遠藤のように知識獲得の速度や効率の点だけで考えても、「学校」より「独学」の方がまともである。ここに関しては、遠藤の主張の大枠には何の異存もな く、その通りだと思う。
しかし、「ネイティヴとの一対一の完全個人授業だと効果はあるでしょうが」のようなところに現れている化けの皮がとことん駄目なのである。「一対一の完全 個人授業」であろうがなかろうが、この「ネイティヴ」に語学の「方法」がなければ、「授業」なんかで効果があるわけがない。ここにあるのは、古い古い遠藤 の信仰なのである。「完全個人授業」に馬鹿な思い込みなんか持つ必要はない。問題はどこまで行っても「方法」である。「方法」を持たないネイティヴなんか に語学的な意味はまったくない。「一対一」だろうが、「磁場」だろうが、そこで得られるスキルなんぞは、すべて語学の方法とは何の関係もない。
「一対一」が恋人関係とか肉体関係とか夫婦関係とか、吉本隆明の用語で言えばもろな「対幻想」の関係にあるのであれば、「一対一」に意味はあるだろう。外 国語のスキルだけに目をつけてものを言うなら、その「一対一」に意味はあるだろう。それは戦後すぐにぱんぱんたちが証明したことだ。だいたいが、日本の女 で英語ぺらぺらをやっているようなのには、「恋人関係」「肉体関係」「夫婦関係」からスキルの養分を得たようなのが多いのである。別に構うことはないが、 そんなものは「語学」でもなんでもないとだけははっきりさせておかなければならないことだ。
「対幻想」を持つのは、恋人であり、夫婦であり、友達でありというように、「一対一」の関係を取り結ぶ人だが、これは本質的に組織に属する人間ではない。 一人の人間として一人の人間を求めている人間である。「会社員」が会社員として行動するときに持っている幻想はこれとは違う。私の誤解でなければ、これを 吉本隆明は「共同幻想」と呼んでいる。「売り」や「買い」や「利益」や「損失」に関する幻想は、すべて元締めとして「会社」が要請しているものだし、相手 の会社員もその種の幻想を強いられている。いくら「一対一」で交渉しているのでも、元締めに「会社」があり、「資本」があり、「国家」があるのであれば、 それは「共同幻想」だ。組織の人間が持つのは「共同幻想」である。遠藤の英語の主戦場はこっちに属している。「規則」や「法」に縛られた幻想である。これ はやはり「寺」のせいでしょうかね。
個人の英語が「対幻想」に属していようが、「共同幻想」に属していようが、すべて個人の英語であることに変わりはない。しかし、この「個人の英語」という ものを、原理的に取り出すなら、吉本の用語で「個人幻想」になるだろうし、私の用語で「机上の意識」となるだろう。語学とは本質的に「個人幻想」や「机上 の意識」以外のものではないのである。
遠藤が駄目なのは、ファナックを大きくしたような仕事をした半面で、思想的にまるで幼児にすぎないところである。「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」を相 互に峻別する吉本の仕事が戦後最大の思想の仕事だったのだが、日本の思想のこの方面にはまったく音痴のまま、遠藤は(多くの遠藤たちは)世界に羽ばたいて いるのである。「金儲け」にはそれでよろしかろう。金儲けは金儲けに過ぎず、語学ではない。
語学の方法を考えることは、狭い範囲でだが、時に思想たりうる。それが私の土俵だ。
世界を股にかけ、「金儲け」をするためでなく、「個人幻想」を「対幻想」に渡らせるために、そして、「共同幻想」を相対化するために、とりわけ「引き籠も り」や「登校拒否」をやっている若い人たちに語学をやれと言い続けているのはそのためだ。
遠藤よ、あんたの功績は認める。多くの遠藤たちの功績がなかったら、ぱんぱんはぱんぱんのままであっただろう。「肉体関係」は成立しても、日本の若い女た ちの「恋人関係」「夫婦関係」はちゃんと成立することはなかっただろう。あんたたちの功績はある。日本の若い女たちがまるで気づいていないにしてもそれは ある。あんたたちに流れた血も涙もあった。
しかし、語学論は別だ。それが「論」としてまともになれば、それは必ず思想に触れないわけにはいかない。吉本に触れなければならないだろうし、民俗学のま ともな仕事に触れないわけにはいかない。

だいたいが、日本の女で英語ぺらぺらをやっているようなのには、
「恋人関係」「肉体関係」「夫婦関係」からスキルの養分を得たよ
うなのが多いのである。

私は今夜こう書いた。ついでに言っておこう。

だいたいが、日本の男で英語ぺらぺらをやっているようなのには、
民俗学がわからないようなのが多いのである。おつむの中身が近代
主義にやられ、アメリカのリベラルにやられ、アメリカ直輸入の技
術・学説にやられ、果ては日本の戦後民主主義なんぞにやられて、
ナイスミドルなんぞやっていたのが多いのである。

駄目なものは駄目なんだ。あほらしい。
 

【12091】
村田君   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月27日(火)01時25分6秒
  記録ありがとう。
書き直してみたいところが散見されるので、書き直しておきます。
------------------------------------------------------

・「語学論」において、吉本隆明の「共同幻想論」は有効である。

・自己幻想は一人称の世界。
 (村田の理解)「語学」は自己幻想に属するものである。

・対幻想は一人称と二人称の世界。

・共同幻想は、一人称、二人称をとりまく三人称の世界。

・「対幻想」は、「最小の磁場」である。
 (以下、村田の理解)
 英語圏で生活して、日本に帰ってきた日本人の英語は、日本に帰ってきた途端に錆付きはじめる。ただし、ダンナが英語ネイティヴ、あるいはヨメが英語ネイ ティヴである場合は、この限りではない。日常生活の中で英語を使い、英語の感覚がお互いの共通感覚として通用するからである。

・英会話学校には、「磁場」がない。英会話学校のネイティヴ講師は磁力は発するが、それは点にすぎない。「場」を形成することはない。
 (以下、村田の理解)
 英会話学校の講師が、例えネイティヴだとしても、彼・彼女は「磁力」を発してはいるけれども、そこには「磁場」はない。もしもそこに「磁場」があるとす れば、講師と生徒以上の深い関係があるはずである。

根石註。ううむ。「深い関係」か。いつもながら村田解釈には「濃い」ものがある。「深い」か「濃い」かはともかく、喧嘩用語で言えば、「サシでやる」= 「対等にやりあう」ということが生じなければ、「場」にはならない。(教育関係者たちの立派な理屈はともかく)先生は生徒より上位にあるのであり、この関 係が固定されている「場」は、言語の「場」ではなく、政治の「場」である。

・「あいさつ」の範囲を出ないつき合いに生じるのは、「共同幻想」に取り込まれた範囲でのつき合いであり、それが一対一の間に生じているものでも、「対幻 想」としては独立できない。
 (以下、村田の理解)
 1対1で話していたとしても、「薄い」関係は「対幻想」ではない。たとえば「あいさつ」は「共同幻想」を媒介とした会話である。

・「話す」ことは「対幻想」である。
 (以下、村田の理解)
 真剣で、実のある話は、いつも「対幻想」である。夫婦、同棲相手、同性同士でも気心の知れた者同士の話は「対幻想」である。

・「磁場」は、「共同幻想」込みのものである。

・「教室」では「語学」は成り立たない。
 (以下、村田の理解)
 「語学」は、生活言語とは切り離されたものであり、「個」でやるものである。また、「個」でしかできないものである。だから、教室では本来語学は成り立 たない。もしも成り立つというのなら、それは洗脳である。

 根石註。「もしも成り立つというのなら、それは洗脳である」というのは、「教室で語学が成り立つという洗脳」のように読めます。そういう洗脳も存在しま すが、私が言ったのは、「教室では(教師は)直かにイメージを扱うことができない。イメージを直かに扱うことができるのはいつでも、「個」(一人一人の生 徒が自分に対して行う行為)でしかない。この原理を壊せば、オウムがやったように「マインドコントロール」をすることにまっすぐつながる、ということでし た。
 

【12092】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月27日(火)02時46分18秒    編集済
   起きて少し調子が いいなと思っていると、午後になって変な汗をかくことが続き、夜にな るとへたばっていました。今日も、汗は出たのですが、底をついた感じがしないので、書いてみようかと思っています。

>>この吉本の「運動」まで考えに入れると、matsu さんが描かれた私についての図式は、単に複雑な形をしているだけで、しょせん「対幻想」の領域の希薄なものです。

>ただ、根石さんが自分の語学論を対幻想の領域にあるものと考えていることには興味をひかれました。

 「対幻想」の領域の希薄なもの、といういう言い方が誤解を招いてしまったのかと思います。これは、「対幻想」の領域における、希薄なもの、ということで はなく、「対幻想」という領域を欠きがちなものというつもりで書いたものです。

>僕には吉本に発想の根本は、かなり常識的で、それゆえにまともであるという印象があります。一人の人間の心の動きや振舞いと、人間同士が直に向き合った ときのそれ、および人間が集団をなしたときのそれを区分けしようとした発想自体は、それほど特別なものではないような気がします。

 私には、吉本の発想がよくわかるところと、わからないところがあります。わかるところは、「共同幻想」にやられた吉本のくやしさです。わからないところ は、多分吉本が都会育ちであるために、田舎育ちの者にはわからないのだと思っています。田舎育ちというより、村育ちと言った方が正確かもしれません。村の 中の我が家は、「山」と「里」が対立する場所でした。おふくろが山育ちで、おやじが里育ちで、何かどうにも相容れないものがあったらしく思われます。私が 「非常識的」なのは、この「山」と「里」の対立に根があるのではないかと考えています。この点において、吉本は「常識的」であり、「まとも」なのだと思い ます。
 「それほど特別なものではない」とおっしゃいますが、私は、「自己(個人)幻想」「対幻想」「共同幻想」を区分けした思想を他に知りません。

>また、対幻想の位置づけも、自己幻想と共同幻想との関連の中で語られる以上、以前のモデルでいえば、批評−娑婆の関係の内側にあるものと考えます。

 「批評−娑婆の関係」の中から、批評が言葉として立ち上がるとき、「対幻想」も「共同幻想」も「媒介」にはされますが、動いているものは「個人幻想」の みだと思います。「批評−娑婆の関係の内側にある」というところがよくわかりませんでした。

>「英語! 糞くらえ」と腹の底から思いながら、延々とかかわっていく(かかわらざるをえない)姿勢は、他なるものに対する関係の、一種の極限といっていいのかもしれ ません。この意味では、語学をやらなかった吉本が思いも及ばなかった対幻想の核心を、根石さんがつかんでいるとさえ言えるだろうと思います。

 「対幻想」というのは、あくまでも、人間と人間が一対一の関係にあるときに生じている幻想を言っているのだと思います。英語とどれほど極限の形で切り結 ぼうが、それが語学である限り、そこにあるのは「個人幻想」です。

 余談です。文学作品を読むことで生じるイメージの流れも、語学によって生じるイメージの流れも、「個人幻想」であることでは同じです。語学そのものには 恩があり、私に無関係ではありませんが、語学という行為によって言葉から生じるイメージは、ひとまず私とは無関係です。私が生きてもがくこととは無関係な イメージを、語学という行為は私の中に流します。そこが、文学作品を読むような行為とまったく異なるところです。私は、文学の言葉を自分が生きることと無 関係に読むことはしませんが、語学の言葉は、ひとまず、まったく私と無関係であることが普通です。語学によるイメージは、確かに私という個のエネルギーを 消費して生じているのですが、イメージそのものは私とは関係がないのです。いくらリアルなイメージが成立しても、それは仮のものであり、干物であり、ミイ ラであり、生きてもがく私と関係がありません。

>しかし、その希薄は、吉本の充実に対して認識上劣位にあるものではないと思います。

 「語学論」が「空虚」をきちんととらえきることができれば、もちろん劣位にあるものではないと思います。ただ、私の「語学論」は、吉本が「運動」の領域 で浴びた血のようなものを浴びているのではない。掲示板で議論が成立すれば、「対幻想」の世界に入るのでしょうが、書き言葉による議論で浴びる血は、とて も「抽象的な血」です。空虚な血というべきか。

>他者の領域と向き合う対幻想の只中に徹底して空虚な媒介を見出す、というのが根石さんの批評の独創だと考えるからです。

 あれ、私が今日書いたばかりのことを、matsu さんが先に書かれていたのかと今気づきました。「空虚な血」を「空虚な媒介」と読めば、matsu さんが先に書いてくださっていたのでした。「空虚な媒介」を見いだすのは、紙上での論争でもまともな論争なら同じだと思いますが、インターネットのせい で、なまじな交換度数ではなくなっています。
 ネットを、自分の批評的な言葉の主戦場にしたという点で、私は吉本と違うということかもしれません。本当に紙には書かなくなりました。
 

【12093】
らくださん、聞いてみようさん  投稿者:根石吉久  投稿日:2007年11月27日(火)02時54分12秒
  また底をついてしま いました。
腰が痛くて椅子に座っていられません。
明日以降に書かせて下さい。
 

【12094】
ゆっくりと   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月27日(火)10時00分51秒
  根石さん、お大事に なさってください。私は少しずつですが過去ログを読んでいます。既に この場では議論が尽くされた事をほじくり返している感もあります。吉本隆明まで出てきて、ますます一筋縄ではいかなくなってきました。ゆっくりいきたいと 思います。  

【12095】
らくださんへ   投稿者:聞いてみよう  投稿 日:2007年11月27日(火)20時56分35秒
  どうも。聞いてみよ うそうしよう改め聞いてみようです。

>>・単純な高速計算の反復は有害である
・文章題を使って考える習慣をつけるのが良い

というのが糸山さんの考え方の基本にあり、それは正しいのではないか。また、数学のキモになる項目に習熟するように文章題が構成されている点も評価でき る。以上が聞いてみようそうしようさんのご意見と考えてよろしいですね。

そうです。分かりやすくまとめていただきありがとうございます。
少し訂正するなら、>>・単純な高速計算の反復は有害である。

有害であるというよりは無駄が多いなくらいの認識です(もちろん尋常ではない量の計算の反復をやらせるのは有害だと思っています)。
 

【12096】
根石吉久さんへ   投稿者:聞いてみよう  投稿 日:2007年11月27日(火)20時58分55秒
  お大事にしてくださ い。  

【12097】
根石さん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月27日(火)23時21分48秒
  やや議論が錯綜して しまって、いったい何を問題にしているのか、自分にも(まして他の人 には)見えにくくなってしまった気がしますので、ざっくばらんな調子で、議論の経過を振り返ることを許してください。

はじめに、僕が根石さんの言葉の力に驚いた、という事情があります。
僕は、かつて根石さんの詩のファンだったのですが、そのことと関係なく、現在の根石さんの批評の力にひきつけられました。批評や思想は、自分の中では長く こだわってきたものなので、そこでの自分の感覚、勘のようなものには、それなりに自信があります。

語学の実践的な知識や技法についてのやりとりが、この掲示板の主目的だとは思ったのですが、根石さんの語学論の「論」の部分をとりだして、そこに集中する ような議論があってもいいだろうと考えて、根石論の投稿を始めたわけです。
その場合、根石さん(の世代)に影響の大きい吉本隆明の用語法を使えば、根石さんと議論の連絡がとりやすいんじゃないか、僕が根石さんの思想から何をうけ とっているのかが伝わるのではないか、と考えました。
それは、今のところ半分成功して、半分失敗だったような気がします。

成功の部分は、やはり吉本の名前を出すと議論が盛り上がる、ということです。
吉本の信奉者の中には、吉本の批判をするのも許さないというような極端な反応もありますが、根石さんはきちっと距離をとりながら、やはり吉本に対して、譲 れない思い入れがあるようですね。
しかし、根石さんの語学論の骨格は、実際のところ、吉本の思想とはほとんど無関係に成立しているというのが本当だろうと思います。本来、無関係のものを関 係づけて論じたために、根石さんからの反応を複雑にしてしまった、というのが、半分失敗と感じている部分です。

根石さんが敬意を表する吉本と比較して、根石さんがすぐれているという議論にしてしまったために、かえって根石さんが(謙譲の気持ちから)自分の語学論を 吉本の言葉で語り、吉本の影響を強調する方向に誘導してしまった気がします。

たしかに根石さんはある意味では、吉本の言葉遣いに影響を受けているし、共同幻想論の用語で、根石さんの語学論の様々なテーマを分類整理することはできる でしょう。しかし、それはさほど有効ではない、と思います。吉本批評の「磁場」を超えて、他者の胸倉をつかむような言葉にはなりえないという意味で、で す。

もともと、僕は根石さんの言葉に、吉本とは全く異質な響きを聞いていました。
根石さんの批評のもっとも強いメッセージは、語学のすすめ、です。
しかし、これほど一見わかりやすそうで、納得するのが非常に難しい言葉はないだろうと思います。
外国語を勉強して、海外の思想や文物に触れ、島国根性を抜け出して視野を広めろいうのではない。外国語を通じて、異質な文化に生きる人たちと交流し、豊か な関係を取り結べというのでもない。
ただひたすら「からっぽの電池」を作り続けるような空虚さに向き合いつづけろ、というわけです。
根石さんは、広い視野や豊かな関係をもつことではなく、その手前にある圧倒的に空虚な体験こそ、人間にとって本質的で大切なものである、とまっすぐに指差 しています。

不思議なことに、この言葉は、人を深いところで励ます響きをもっている、というのが僕の感想です。それがなぜなのかはよくわかりません。
ただ、わが身を振り返るとき、自分の人生のエネルギーのほとんどを、空虚な労働というものに費やしてきてしまったこと、今も、そして今後ともそうであろう こと、という動かしがたい事実とどこかでつながっているのかもしれません。

この点でいうと、吉本は広い視野という「知」と、豊かな関係という「大衆の原像」の人にすぎない、という気がします。根石さんとは、まったく資質が違いま す。
根石さんが指し示す語学という経験を、吉本の用語で分類することが有効でないと考えるゆえんです。
(たとえば根石さんが書いているように、個人幻想という用語は、語学と文学との決定的違いをしめすことができません。一人で行う、という事実をいうためだ けなら、大仰に過ぎる言葉だと思います。)

僕自身の希望は、吉本よりも、もっと根石さんと近い場所で考えている批評や思想を参照して、もう少し正確な根石論を考えてみたい、というものです。
幸い、息子のレッスンという関係もできたので、少し(かなり)減速して、少しずつ考えていきたいと思います。
 

【12098】
根石さん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月28日(水)09時19分52秒
  自分で質問しておい て恐縮ですが、質問を取り下げさせていただきたいと思います。既にご 回答を用意されていらっしゃいましたら申し訳ありません。

9月末(吉さんとの行き違いが始まる直前あたり)からの過去ログを読み返し、私の質問の答えのほとんどは、これまでの根石さんのご発言の中に含まれている ようです。

私の頭の中が整理されていないだけでした。自分の質問に自分で答えることをまずしてみたいと思います。

聞いてみようさん。すみません、そんなわけです。
 

【12099】
聞いてみようさん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月28日(水)09時47分6秒
  聞いてみようさん、 そんなわけで失礼します。

比のことを含め、算数の重要項目は何か、といった問題についてですが、自分の関心の中心からはやや外れるように思っています。全く関心が無いわけではない のですが。

たぶん糸山さんはそのあたりの選別や、問題の作り方については長けていらっしゃるのだと思いますし、そういう意味で文章題をうまく使うことは選択肢の一つ だとは思います。
 

【12100】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月29日(木)00時19分30秒
  >しかし、根石さん の語学論の骨格は、実際のところ、吉本の思想とはほとんど無関係に成 立しているというのが本当だろうと思います。

 語学論の骨格は吉本と無関係に作り始めたのですが、書いているうちに、吉本の幻想論の3つの区分けが有効だろうと思い始めたのでした。
 掲示板を始めた当初、「言語の磁場」という言い方がなかなか理解してもらえなくて苦労した覚えがあります。
 「磁場」という場を考えていると、例えば、机上は「場」たりうるのかというような疑問が生じます。村田君が引用してくれた過去ログによって、「個人磁 場」「個的磁場」というような語をかつて私が考えていたことがわかりました。「個人幻想」として机上の意識に生じるものも、意識という「場」に生じるのだ から「磁場」の一つと考えてもよかろうと思っていたのでしたが、最近はそう思わなくなりました。
 「場」(空間としての広がり)を形成するのは、「対幻想」(夫婦・恋人・友人などの一対一の関係に生じる幻想)と「共同幻想」であり、「個人幻想」は空 間を要しない。点として位置だけがある。なぜなら、意識は時間としての「場」だから、他の二つの場とは質的に違う、というようなことを最近は考えていま す。
 私は自分を吉本教信者だとは思いませんが、吉本の考えたことというのは、私の語学論から参照すると、いいヒントを与えてくれることが多いのです。
 吉本思想があって、その後に私の語学論が成立したということではありません。語学論を作ってみたら、吉本を参照すると面白いということです。

>吉本批評の「磁場」を超えて、他者の胸倉をつかむような言葉にはなりえないという意味で、です。

 わかりました。ただ、自分の考えを吉本のものと突き合わせると、考えが進む感じがあるのです。吉本思想の枠組みの中に自分が考えることを置こうというの ではないのです。吉本の考えたことを「媒介」にすると、何かが活性化されるような感じを覚えるのです。

>根石さんは、広い視野や豊かな関係をもつことではなく、その手前にある圧倒的に空虚な体験こそ、人間にとって本質的で大切なものである、とまっすぐに指 差しています。

 これは、あらゆる生物の中で、人間が一番空虚な生き物だと私が考えているからかもしれません。人間の中には、思考だとかイメージだとかいう空虚があるわ けです。その空虚こそ、人間に特有のものであり、本質的なものだと考えるわけです。有効性と連動するイメージや思考は、普通、空虚だとは意識されません が、語学という行為によって私の中に流れるイメージが、私が生きてもがくこと(生きること)と無関係である時、その「無関係」が、人間がどれほど空虚な生 き物かを一番はっきりさせるという意味で、語学は思想の契機たりうると考えています。生きることや有効性と無関係なイメージをリアルなものとして激化する という行為こそ、人間という生き物の空虚さをはっきりと照らし出す行為なのだという考えが、「語学論」の根の方にあるのだろうと思っています。

>不思議なことに、この言葉は、人を深いところで励ます響きをもっている、というのが僕の感想です。それがなぜなのかはよくわかりません

 昔、「一応、文学として書いたもの」を読んで下さった方が、心が元気になるとか、励まされると言って下さったことがありました。「エロ」なんぞを書くの が好きな私が人を励ますことがあるのかと驚き、謎につつまれた経験があります。
 もし、「語学論」が人を励ますことがあり得たなら、それは松岡祥男さんが言う「文学はなんでもあり」という意味で、ある種の文学なのかもしれません。私 が文学をやろうとしていないにもかかわらず、です。

>ただ、わが身を振り返るとき、自分の人生のエネルギーのほとんどを、空虚な労働というものに費やしてきてしまったこと、今も、そして今後ともそうであろ うこと、という動かしがたい事実とどこかでつながっているのかもしれません。

 まさにその通りだというのが、我が身を振り返ったとき、私にも生じる思いです。教材づくりなどやっているとき、我が身は「空虚」という祭壇に捧げられた 生け贄みたいなもんだなと思うのです。「空虚」とか「無益」とかいう祭壇に自分を捧げるのでなければ、やってらんねえよと思います。
 そこに何かあるはずなんです。いまだ言葉にできない何かがあるのだと思ってやっています。私が民衆につながることのできる何かがあるのだ、と。人々の声 にならない声につながることのできる何かがある、と。

>この点でいうと、吉本は広い視野という「知」と、豊かな関係という「大衆の原像」の人にすぎない、という気がします。根石さんとは、まったく資質が違い ます。

 ああ、広い視野。それに対して、私はコンプレックスがあります。しかし、吉本だって、6畳の部屋にいても、とことん他人が書いたものを読めば、そこから 世界は見えるというようなことを言っています。狭いところを生ききれるなら、もっとも広いところにつながるということを言っているのかと思います。このダ イナミズムがある限り、「・・の人にすぎない」というのはいかがなものか。

 吉本と私が資質が違うことは、私にも自覚があります。
 私はどうしても百姓仕事とか大工仕事というものから、自分を切り離すことができません。吉本の父親は舟大工だったそうですが、吉本は完全に自分を切り離 しました。私にはそれができません。資質の違いだと思います。

 余談ですが、私は吉本そのものより、松岡祥男さんに惚れているんです。
 松岡さんほど吉本を「媒介」にした人はなかろうとも思っています。
 ほぼ吉本の口調を丸写しにしたような文章を書く時期を経て、松岡さんの言葉は、まったく気持ちのいい、歯切れのいいものになりました。松岡さんの文章を 読むと、他の何を読むのと較べても、いちばん気持ちが晴れ晴れとします。

>僕自身の希望は、吉本よりも、もっと根石さんと近い場所で考えている批評や思想を参照して、もう少し正確な根石論を考えてみたい、というものです。

 ありがたいことです。よろしくお願いいたします。

>幸い、息子のレッスンという関係もできたので、少し(かなり)減速して、少しずつ考えていきたいと思います。

 私も、少しずつやっていこうと思いますのでよろしくお願い致します。
 息子さんのレッスンについては、もう少したったら書かせて下さい。