【11901】【11902】は記事がだぶってしまいましたので、削除しました。


【11903】
30億融資、幻に NOVAの前社長  投稿者:外野。  投稿日:2007年10月28日(日)23時03分36秒
   英会話学校最大手 NOVA(大阪市)が会社更生法の適用を申請した前日、猿橋望前社長 が東京都内の金融業者から30億円の融資を受ける契約をまとめていたことが28日、関係者の話で分かった。

 融資の実行日は26日付だったが、25日深夜、ほかの取締役3人が猿橋氏抜きで取締役会を開き、社長を解任。経営破たんしたため、融資は実現しなかっ た。

 また、「不透明」と指摘され解任理由となった英領バージン諸島の法人から約64億円を調達する計画に、大阪地検特捜部が証券取引法違反(相場操縦)容疑 で摘発した大物仕手筋とされる西田晴夫容疑者(57)らのグループが関与していたことも判明した。

 猿橋氏が独断で進めた計画とされ、30億円の融資も同様に決めたとみられる。融資条件は貸し手に有利な内容で、なりふり構わず金策に奔走する姿がうかが われる。数日前には、社員や外国人講師の遅配給与を「25日ごろに支払う」との文書を送付していた。

(共同通信社)
 

【11904】
吉さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年10月29日(月)05時34分22秒    編集済
   最初にお詫び致し ます。吉さんが作った教材についてコメントしなければならないとずっ と思い続けてきましたが、どうして も時間がとれませんでした。お許し下さい。一言で言えば、とてもシンプルで、中級の中盤以降の人にはいい教材になると思いました。中級序盤の人には対応で きていないと思いました。
 奥様の初段認定についても、早く処理しなければと思っていましたが、薪ストーブの煙突工事にかまけて、手をつけられませんでした。今後、早急にやるつも りです。初段認定の直後に「中断」と書かなければならないことになり、なかなか切ないことですが。
 以上、お詫びです。
 以後、批評になります。

>特にEliotさんの事が辛いです。
実名公開は、ご本人が納得しての事だと考えていました。

 「辛い」ですか。大したもんだと思います。

 柴田さんは、ご自分の実践されたことの成果として、生徒たちが中学を卒業する時に、CDを作られました。そのCDとセットになっているノートには、学校 名も指導者の名前としての柴田武史さんの名前も印刷されていました。柴田さんがそれを私に送って下さったときに、これをテープにダビングして不特定の人に 手渡してもいいかと私は掲示板でだったか電話でだったかお聞きしました。私は是非多くの人に聞いてもらいたかったのです。その際に、柴田さんの名前や勤務 校が書かれたものを一緒に手渡したり郵送したりしたいがと伝え、了解をいただいたと覚えています。
 その後の作業が大変でした。ただのCDプレーヤーとテープレコーダーをつないでダビングしたので、ひとまず送りたい人に送るだけでも大変な手間でした。 柴田さんが匿名でなく大風呂敷に書いてくだされば、つまり連絡先を書いてくだされば生じない手間でしたし、私がやるよりももっと多くの人の手に渡ったこと と思っています。
 この掲示板に書かれた記事から得た情報でしたが、柴田さんはどこかのテレビに家族で出演され、家の中の会話をすべて英語でやっている様子が放映されたそ うです。(私はテレビを観ないせいでこの放送を観ていませんし、長野で放映されたのかどうかも知りません。)(日本人だけの家族で、日本語の磁場に囲まれ た家庭において、普段の生活の言葉を英語に置き換えることの是非はここでは置いておいて、)家族と一緒にメディアに露出することをいとわないような人が、 「大風呂敷」に書かれる時だけ匿名であることの理由が私にはまったくわかりませんでした。「音作りへの道」を書かれたほどの人が匿名で書くんであれば、私 が本名でやっていることが馬鹿みたいだという感じもありました。
 音そのものに関してなら、柴田さんの方が私より完全に上なんですからね。(日本人の「体」から英語の音をどうとらえるかという点でなら、私にも分があり ますが・・・。)
 柴田さんは、ご自分の教えている中・高一貫の学校の外側で、地元の短大で中・高の学校の先生を募って講演会をされたり、「音作り」そのものをコーチした りしておられました。(現在でもやっておられると思います。)この場合の講演会などを知らせるチラシなどがあったとすれば、そこには Eliot ではなく柴田武史という名前が印刷されているはずです。
 柴田さんは柴田武史という名前で、講演、テレビ出演など、メディアに自分の活動や本名を出されている方だということです。それがなんで「大風呂敷」に書 く場合だけ、Eliot なんだろうと私としては思い続けていたのでした。
 「音作りへの道」の連載が完成したときも、柴田さんの名前で公にされるべきだと私ははっきり判断しました。私の掲示板で育った論文だからではありませ ん。どこに掲載されるにせよ、身元を明らかにし、責任の所在を存在させるべき客観的な価値があるものだと判断したからです。

>私の実名を根石さんが明かすとなると、
私の本業どころか、私の家族の人生にまで影響がでる可能性があります。
そんな事をされたら私は根石さんを絶対許せないですよ。

 わかります。これは当然です。吉さんは、柴田さんがやったほどの仕事は英語に関してやっていません。その点に関してだけなら、当然ながら、私は吉さんの 名前を掲示板上に出しておりません。
 それとは別に、Naima さんについては、素読舎のコーチをやられるなら、その責任の所在を明らかにすべきだと考えたので、本名で掲示板に書いていただきたいと考え、そうお願い し、Naima さんはしばらくの間、・・さんという名前で掲示板に書かれました。(現在は、コーチをしていただいていませんので、・・さんという形でしか記述することが できませんが)。
 コーチをやる場合は実名でやる。原則としてはそれでいいのだと思っています。吉さんにコーチをしていただくことになったときも、原則通り実名を明らかに してやって欲しいと思ったのでした。吉さんが事情を書かれ、それはよく納得できるものだったので、私の方で原則を曲げたのでした。

>以前、、根石さんは、素読舎をクビにした方の個人名も出されていましたね。私はその時、根石さんの語学論(哲学)に触れた書き込みと認識しましたが、な ぜ個人名を出す必要があるのかわかりませんでした。

 それは「いくこ」のことでしょうか。彼女は「いくこ」という名前ではありません。音はそうなりますが、表記が異なります。彼女が自分で自分の本名をその まま書いたことがあったような気がしますが、私は彼女の名字も名前もそのままに書いたことはありませんし、住所、メールアドレス、電話番号など書いたこと がありません。以前から、ネット上の名前として「いくこへ」と書いてきましたので、「いくこ」は書きました。
 当時の事情はすでに書いてありますので、ここで「いくこ」がしたことへ私がどう対応したかの説明をする気はありません。実に馬鹿らしいことなのですが、 その馬鹿らしさを書く力が今の私にありません。その徹底的な馬鹿らしさを書く力が私にあれば、「いくこ」を使うかどうかはともかく、いつか書いてみたいと 思いますが、今は書く力がありません。

>ネットという不特定多数の目に触れる場所に、
個人名を出した理由が皆目見当つきませんでした。
根石さん、、相手は公の人ではなく、私人ですよ。

 「いくこ」ではなく、他の人のことでしょうか。そうでしたら、どの方の何というお名前なのか、メールでお教え下さい。
 「いくこ」なのであれば、吉さんは、彼女の個人情報がどれだけわかるのですか。「いくこ」が個人名だというのであれば、吉さんはその「私人」と連絡がと れるはずです。とってください。もしとれたなら、それは「いくこ」本人から吉さんに知らされた情報によるものであり、私から吉さんに知らせた情報はひとつ もないはずです。勘違いしないでいただきたい。「公の人」と「私人」の違いがおわかりにならないのは、吉さんではございませんか。

>根石さん、、、私が宣伝して「生徒さん候補」がこの掲示板をのぞきに来ても、根石さん自身が、こういう発言で素読舎の価値を下げる事に気付いた方が良い と思います。

 申し訳ありません。私は素読舎の価値はもうすでに充分に下げてきた男です。「論」の価値は信じてきましたが、学校制度につきあう素読舎そのものに関して は、さっさとくたばれとさえ思ってきたのです。それが娑婆と素読舎の関係をはっきりさせる、と。素読舎が消え去ることが、娑婆の「学校のいいなり」、「行 政のいいなり」をはっきりさせることなのだ、と。
 吉さんが「大風呂敷」に登場される前から、素読舎は娑婆とまともに喧嘩してすでにぼろぼろになっていたのです。だから、「語学論」の方へ、「電話でレッ スン」の方へ、藁をもつかむようにして、私は手を伸ばしてきたのです。
 日本に住んできただけで英語を話すような者をこの娑婆がどれほど憎むか、吉さんにおわかりになりますか?
 吉さんなら、「ああ、アメリカに行っていた人か」で済むことが、まったくそれでは済まない。それが「アメリカに行っていた人」にはわからないのだと思い ます。
 語学論についても、書いてきたものは全部焼いて捨てたいと思うことがあります。これだけ語学論を書いてきて、月に15万程度、よくて20万程度にしかな らないのですよ! 私がののしるべきものを存分にののしってきたからです。自業自得であり、この自業自得を私は深いところで肯定しています。それは誰にも同意を求める気があ りません。そんなもの、私が英語ひとつでどれほどの気違いになったかを知っている私の家族以外にはわからないことです。

>これを異常事態だと見る人もいると思います。
たぶん、そっちの方が多数です。 私は正直言って驚きました。

 私は異常事態だなどと思ってはおりません。冗談ではない。こんな「別れ」ばかりを繰り返してきたのです。もしそれが異常事態であるなら、私の生きてきた 時間のあらかたが異常事態でした。おわかりでないようですので、どうぞ正常事態の側にとどまって下さい。

 何なのだ、この正義の振りかざし方は、とは思います。「多数」が何だというのですか。

 それでも、こんなことは、私にとっては異常事態ではなく、普通のことです。もし「異常」だとしても、たかが「大風呂敷」上での、「異常」でしかない。そ んな異常より、私は今自分の足元が揺れている(多分地震で)異常の方が気になります。(人が死ななければいい、家が壊れなければいい、温かい家は必要だ、 と思います。)
 吉さん、私と吉さんの間で行き違いがあったことなど、「異常」でもなんでもありませんよ。
 もしそれを「異常」だと見る人がいたなら、その人の信じる「正常」を疑うのがいいと思います。語学論では歩み寄れた人たちが、教育論では無理だったとい うだけのことです。あるいは、「生活言語」を信じる人と、「論」を信じる人が、とことんぶつかった(ぶつかりあえた)ということだと思います。

>・ 根石さんが12歳以下に英語を教える事に文句は言わない
・ その代わり、私は絶対に12歳以下の英語の解説は書きたくない
・ 12歳の線引きは自分の獲得した哲学で、根石さんに押し付けるものではない。

 12歳以下の英語の解説は「書きたくない」ことに対して、私が了解している旨のことを書かなかったかどうか記憶が確かではありません。書いてなかったと したら申し訳ありませんでした。(薪ストーブの煙突工事(突貫工事)を続け、雨漏りと火事を防ぐために、考えがすべてそちらに行っていました。)
 吉さんには(解説を)書いてもらえないものだと思っていたので、すぐにそう書くべきでした。書いてもらえないことは、それはそれでいいのです。書いても らえないことは了解できているのです。
 「12歳」の根拠がいまだにわからないと言っているだけです。
 「書きたくないから書きたくないんだ」というだけの理由でも何でもいいですが、「書きたくない」ことは最初から納得できています。

 どうも行き違いがあったようですね。申し訳ありませんでした。

>私はそのように何度もお願いしていたのに、
根石さんは受け入れてくれませんでした。

 今でも、理論的な根拠が知りたいと思っています。
 何度でも言いますが、書いてもらえないことは、すでに最初に吉さんが「小学生については書かない」と書かれたときに納得しています。私は是非書いてくれ と言っていたのではありません。
 根拠が知りたかったのですが、それについては、吉さんは「受け入れてくれませんでした」。

>根石さんに裏切られたEliotさんの気持ちが想像できますか?

 私が柴田武史さんの名前を公にしたとき、Eliot さんが「根石さん、私の名前を出しましたね。まあいいですけど。」と掲示板に書かれたことを、現在に至るまでの判断の根拠にしています。私がどう考えて柴 田さんの名前を出したのか、柴田さんはわかってくださったのだと思っています。
 「まあいいですけど」は、私がそういうことをやりかねないと柴田さんの方でも勘づいていたからだと思っています。私なりの言い方で言えば、「機が熟して いた」のだと思っています。その時間性には、吉さんはまったく触れ得ていません。吉本隆明の言葉では「対幻想」となりますが、娑婆の言葉では「犬も食わな い」というような、外から見ていても見えない時間性というものはあるのです。吉さんは外から見て正義をふりかざしなさった、と思っています。
 私はあきらめますので、それでいいです。私は私の(これからも)犯す悪を、ネット上でこれ以上弁明したくありません。柴田さんの名前を出したことについ て、私もずっと考えてきましたが、その時間性は、吉さんにはどうでもいいことです。
 どうぞ驚いていて下さい。

>なぜ私のホームページのアクセス数が増えて素読舎の露出度が上がったのか見えてますか?

 見えていません。教えて下さい。糸山なにがしが根石吉久よりビッグネームだからですか?(と、もう書かないと言っている人に言っても無駄ですね。)
 ただ、吉さんの文章については、「浸透性」という語で言ってきました。
 まあ、私自身がやめたいと思っている塾ですので、露出度は上がってもありがたいし、下がってもありがたいのです。私の内心では、日本の英語状況につい て、とうの昔にぶち切れておりますので。

>私が喜んで「今までどおり根石さんの素読舎を宣伝する」とお考えですか?

 考えません。

>根石さん、、私の今の気持ちが想像つきますか?

 かなり傷つけてしまったようです。
 そんなつもりではありませんでしたし、論理を論理のレベルで突き合わせたかっただけでした。申し訳ありません。

>英語学習でグダグダいうヤツがいたら、
根石さんの語学論から学べと言いつづけます。

 私自身がこんな馬鹿みたいなことをやっていても食えないのですから、語学論なんぞ、火の中に放り込めばいいのだと思うことがあるのです。みんな燃えてな くなってしまえばいいのだと思うことがあります。抹殺すべきだと・・・。
 「藁をもつかむ」とはよく言ったものです。
 語学論は、私の小さな小さな希望だったのです。しかし、馬鹿らしくなりました。わかったようなツラをする者が、まるでわかっていないのだと、酔ったアタ マで考え始めてしまいました。

>しかし、、私の価値観は、何度お願いしても認めてくださらなかった。

 12歳という強い線引きの根拠を知りたかっただけでした。
 私は、いまだに吉さんの価値観はよくわかりません。そんなに簡単にわかるものでもないだろうと思っています。よくわからないでいるものを、認めるも認め ないもないだろうと思います。

>根石さん、YESかNOで答えてください。

 何に関してでしょうか。
 今後この掲示板に来られないとわかっている吉さんに対して、YES, NO が何に関してなのかがわからないのがとても困ります。
 吉さんが「磁場帰り」であることについては、何度も書きましたが、「有り難い人」だと思いました。YES でも NO でもありません。「磁場帰り」の人のほとんどが語学論を持とうとしない「おたんこなす」だとは思っており、これについてならいつでも NO を言ってきました。

>根石さんは、自分の価値観を否定する人を応援できますか?

 私は吉さんの価値観を否定した覚えがありません。
 ですが、吉さんがそう受け取られたのであれば、それでもう終わりなのです。私はこじれさせるつもりはなかったのですが、現実にこじれてしまっているので すから、もう終わりです。

>自分の尊敬する人を否定する人間を応援できますか?

 それはできますね。論理ではなく、家族や感情や価値観というようなソフトなものが生きることや、その場所を否定されたのでなく、私が支持する論につべこ べ言われたのであれば、そしてつべこべ言っている人がその人なりの仕事なり論なりをそれに対置しているのであれば・・・。つまり、表の論を裏切ってでも、 生きている体が具体的な仕事なり新たな論を作っているなら・・・、それなら、表も裏もない。カルチャーという銭取り場で、テイよく振る舞うだけの者ではな い・・・。
 お互いに支持する論(尊敬する人)について、何言ってやんでえ、ふざけんじゃねえと臓腑がひっくり返るような喧嘩をしながら、描いた絵を私が買い続けた 絵描きもいます。(ずいぶん絵が高くなったので、今は買えませんが・・・)

>私は根石さんの語学論も価値観も認めますが、
自分を受け入れてくれない他人を応援するほど、
親切ではないですよ。

 それならそれで仕方がありません。これまでのご親切に感謝いたします。
 私は糸山とかいう人の文章そのものをまないたに乗せたのであり、吉さんが糸山とかいう人が好きであることをまないたに乗せたのではありません。私は、 「この糸山とかいう人の書くものを読む気はなくなった」と言っただけです。人々が犯罪に至らずにいる間に、持ち耐えている気持ちのふくらみやしぼみの時間 性に、糸山という人の文章がまるで触れ得ていないと批判しただけです。こんな野郎に犯罪がわかるか、と思っただけでした。

>別にこんなのは、哲学でも何でもありません。
私という感情を持つ人間の言葉です。

 私のも哲学でもなんでもありません。
 哲学だと吉さんが言ってくださっただけのことです。
 とてつもなくくだらないものなのかもしれない。

>家族を否定されたような気分になってどうして悪いのですか?
なんで私のその感情を否定するのですか?

 論が生きる場所と、家族や自分や感情が生きる場所はまるで違うと言っているだけです。おわかりにならないようですから、もうこのことはこれまでにしま しょう。ですから、当初の「論」に戻りましょうと言ったのでしたが、そのこともおわかりいただけなかったようです。

 今夜は、語学論そのものがくだらないという気になってしまっておりますし、自分がやってきたことの全体がくだらないことだという気になっております し・・・。済みませんね、言葉がなげやりで。余力がありません。

 なんで公の場所に、「私の気持ち」なんてものを持ち出すのか、それがわかりませんでした。私は、この掲示板に批評や批判や論理は持ち出したかもしれませ んが、「私の気持ち」なんてものを基調に据えて持ち出したことはなかったと思っています。私がこの掲示板に書いているとき、「私の気持ち」は場外にありま す。「私の気持ち」が養った時間性(迷妄に対して否を叩きつけるための源基)だけ使うだけであり、「私の気持ち」自体は遠くに遠くにあります。
 まあ、しかし、酒のせいにして、今夜は、自分のやってきたことの全体のくだらなさを噛みしめようと思います。(という程度には、「自分の気持ち」で書い てしまいましょう。アサヒスーパードライ4本さん、ありがとうございます。)

>根石さん以外の人にもお聞きしたい、
私は何か間違った事を言っていますでしょうか?

 私も是非皆さんで書いていただきたいとは思いますが、しかし、やはり、酒のせいか、しょうがねえもんだなという感想を持ってしまいました。誰が何を言お うと関係ねえんですよ。自分の考えは自分の考えです。第三者の考えを求めて自分を安定させようなんてことはよろしくないです。ネット上のあてにならない人 々に向けて、「間違った事」かどうかなど聞くことが「間違った事」です。Naima さんでも、ちえさんでも、Mさんでも、村田君でもいいですが、「ネット上の個人名」を特定して書くべきです。吉さんが、そのつもりだったのでしたらお許し 下さい。「つもり」はともかく、「論」に関しては、曖昧なままで放っておくのが私は嫌なのです。

>根石さん、私は辞めさせて頂く事にいたしました。
レッスンも辞めます。 コーチも辞めます。

 わかりました。

>残念で仕方がありません。
でも、、美しいのは作品(語学論)だったという事です。

 私も実に残念です。
 ただ、書かれていることの意味がわかりません。作品とか語学論が美しかったのであり、根石吉久は醜かったということでしょうか。もしそうなら、その通り だなと思います。醜く生きる生身の私に介入しないで下さい。いや、介入してもらってもいいが、英語回りで私が舐めたもの、生きられないと思ったことなど、 吉さんにその時間性をわかってもらえようとは思っていないということです。
 語学論などやっても食えないのです。(スキルを売り物にするおたんこなすは食えるのです。)それをやってきて、この娑婆が嘘で固めたものだということは わかったのです。わかった分だけ醜くなりました。やくざを担当する刑事がやくざに似てくるようなものでしょうか。しろうとさんに言ってもわかってもらえな いことがわかっているので、あんまり口にしないだけであり、私が「やくざに似た刑事」であるのは多分本当のことです。私もいいかげん嫌になりました。「刑 事に似たやくざ」かもしんないもんねえ。わかんねえのです。「英語! 糞くらえ」だけが、わかっている感情です。吉さんのネットずれした言い方にならえば、あはは、ですわ。

 あはは、「英語! 糞くらえ」。これがワタシノキモチです。

 なるべく早く、英語のコーチからも語学論からも教材作りからも足を洗いたいとは、もうずいぶん前からの願いなのですが、いまだ願いがかないません。 (Naima さんがうらやましいです。)(やっている間は手を抜くことはありませんが、願いは願いとしてずっと持続しています。)

>申しわけない気持ちで一杯なのが兵庫のMさんです。

 M さんにも、吉さんと私のやりとりをお読みになって何か書いていただけたらと思いましたが、気持ちに負担をかけるのはいやですので、書きたいと思われた場合 にのみお願いします。

>しかし、その後のレッスンについては、根石氏とご相談してくださいと、
このようにお話しております。 兵庫のMさんには、先に了解を頂きました。
Mさんと根石さんでその後の予定を調整してください。

 塾長の私が知る前に、コーチをやめると生徒から「先に了解を頂」いたことがよくわかりません。M さんから連絡がありましたら、コーチからの塾長あての指示に従うしかありませんね。とほほ、ですかね。

 やはり、どうも素読舎という「塾」は、「娑婆」の人からなめられるようですね。

>根石さんお世話になりました。
多くの事を学ばせて頂きました。

 こちらこそありがとうございました。
 

【11905】
今日のレッスンについて   投稿者:ももこ  投稿日: 2007年10月29日(月)07時31分58秒
  今日のレッスンは、 スカイプでお願いしたいと思っているのですが、ヘッドセット不調の理 由を確定できていなく(おそらくこ れであるかなと思える理由があり、スカイプの通話テストでテストをしてみたのですが、そちらではOKでした。)もし、今日も不調でしたら、お電話でお願い したいと思います。

また、前回教えていただいた電話番号が見当たらなくなってしまったので、携帯電話に一旦かけて固定電話の番号を伺いたいと思います。
よろしくお願いします。
 

【11906】
ももこさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年10月29日(月)07時40分10秒
  おはようございま す。
どうも私のヘッドセットのマイクが壊れていたようです。
一昨夜村田君といろいろ試し、俺のヘッドセットのマイクが壊れているみたいだなあと話し、埼玉県の生徒さんと、昨夜11時頃スカイプで試してみて、こちら のマイクの壊れに間違いないという結論に至りました。
 ひとまず、いつも通りスカイプでやってみませんか。
 それでうまくいけばそれでいいし、うまく行かなかったら私からスカイプで電話番号を言います。スカイプが働かなかった場合は、携帯にお電話下さい。 090−4181−5912です。
 

【11907】
広告   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年10月29日(月)07時51分4秒
   素読舎塾長は、 「英語! 糞くらえ」と思って、英語のコーチを続けています。また、そう思いながら、レッスンで使うための教材を8万8千行(一行半角で70文字)ほど作り続け、こ れからも多分作っていくだろうと思います。
 「英語!糞くらえ」と思っている人がコーチをやっているレッスンだから価値があると考えることのできる方はお問い合わせ下さい。
 これまでに、これを理由に自分の子供を私にあずけて下さった方が一人だけおられます。
 幼児英会話などに目がくらむ程度の人は、あらかじめご遠慮下さい。

 眠い。
 

【11908】
私も・・・   投稿者:ももこ  投稿日: 2007年10月29日(月)20時37分4秒    編集済
  根石さん
本日はレッスンありがとうございました。レッスンの感想はまたゆっくり書き込みしたいとおもうのですが、忘れないうちに忘れそうなことを先に書き込みしま す。

私もどんぐり倶楽部⇒吉さんのページ⇒根石さんのページとたどり着いたのですが、
書き込みを拝見していてふと「12歳ってなんだっけ?」と思ったので自分でもページをみてみました。

※これはあくまで「糸山先生のおっしゃる「12歳の根拠はこういうことなのかな」と私は思っています。」ということです。これが正しいのか正しくないのか もよく分かっていません。

http://homepage.mac.com/donguriclub/introduction.html
糸山先生著「12歳までに『絶対学力』を育てる学習法」草思社2007.9/中旬発行ISBN:9784794216274
まえがき紹介より
(一部引用はじめ)
米国国立精神衛生研究所のデータでも明らかなように、脳の高次機能の進化(思考回路網作成)は、最長でも十二歳(早ければ七、八歳)までで、それまでに使 われなかった(使われることが少なかった)回路は不要だと判断され消滅させられてしまうのです。これは、環境に適応した脳を効率的に働かせる(エネルギー を有効利用する)ための自然な現象(思考回路網の刈り込み現象)と考えられています。
 生物学的にも、個体の完成は性的な成熟年齢(人間は十二歳)までに終わることから、人間は十二歳で思考機能の準備を完了させてしまうと考えるのはじつに 妥当です。
 つまり、思考力の養成には臨界期(機能を稼働させる限界の時期)があり、それが十二歳であること、十二歳までに、人間らしい判断力を含む思考力を育てな ければ、もはや「考える葦」である人間にはなれない、ということです。
 ですから、十二歳までは、脳の進化(多様な思考回路の作成)のじゃまになるような刺激、とくに同一の単純な回路しか使わない徹底反復学習はできるだけや らせないようにして、新しい複雑な思考回路の作成をうながすような環境をととのえてあげる必要があるのです。

 「読み・書き・計算」が得意なのに、算数の文章題ができないのはなぜか?
 国語の読解能力が低い原因は何か?
 ご存じでしょうか。どちらも「視考力」││文字・言葉や数字などの記号から視覚イメージを再現し、それを操作する力││の不足です。
 「視考力」とは、思考はもちろんのこと、運動や芸術も含めた、あらゆる分野で応用力を発揮する、万能の絶対基礎学力なのです。
 ところがいま、多くの子どもたちは、このだれもがもっている「視考力」という絶対基礎学力を存分に活用できるようには育ててもらっていないのです。

 幼稚で残忍な犯罪が後をたちません。
 ヒトから人間に育ててもらえなかった「子ども大人」の特徴は、幼稚で残忍なことです。
 十二歳までの教育の失敗なのではないでしょうか。
(引用終わり)

http://homepage.mac.com/donguriclub/period-omake.html
糸山先生著書「思考の臨界期」(e-books)紹介ページより
(一部引用はじめ)
人間の性成熟年齢(何才で子孫を残せるようになるのか)は12歳です。驚きに値しますが、1999年8月に英国イングランド北部のローザハムで12歳の少 女が男の赤ちゃんを産んでいます。性成熟年齢にはもう一つ重要な意味があります。子孫を残せるということは進化の証である最も発達した(最終的に獲得し た)適応能力部分にあたる機能の発達が終わる年齢だということです。人間で言うと「人間的な判断力を含む思考する機能・思考力」の発達(組み立て)が終 わってしまう時期だということです。つまり、人間では12歳が機能的な思考力養成の臨界期だと言うことです。
料理の下ごしらえと調理が異なるように、頭の機能的な発達が完了する12歳の前と後では、教育方法は異なって当然ですし、異なっていなければ不自然です。 赤ちゃんにミルクではなく御飯をそのまま与える人を見て喜ぶ人がいるとは思えませんが、教育界ではお金と時間をかけて御飯を与えているような人がいます。 また、どんなに優れたスーパーコンピューターでも初期設定を間違えると電卓にも及ばないことは周知の事実です。
 無事に12歳までに、人間としての証である「人間的な判断力を含む思考する機能・思考力」を始動させる(十分に機能するように設定する)ことができれ ば、後は多少乱暴な教育でも大丈夫です。準備が整っていれば中学はスパルタでもいいということです。丁度、高校受験前の3年間となりますので絶好の知育期 間となります。知識とスピードはこの期間に付けるのです。「鉄は熱いうちに打て」といいますが、早すぎては砕け散ってしまいます。知育教育の最適期は中学 の3年間なのです。反対に、12歳までの教育では、どんなに素晴らしい目標を掲げていても、過程を重視しない学習指導のような、手法そのものが間違ってい ては悪影響が大きく考えられない頭を育ててしまいますので要注意です。
(引用終わり)

この部分から、私は「12歳まで」ということなのかなぁと思っていました。

もし吉さんが戻ってきてくださるようでしたらご意見伺えるとうれしいです。

余談ですが、初期の頃の著書には「9歳の壁」というような文字を拝見したような気が・・・(うろおぼえです。)この図をみて思い出しました。

http://homepage.mac.com/donguriclub/scammon-1.gif
http://homepage.mac.com/donguriclub/scammon-2.gif
http://homepage.mac.com/donguriclub/scam-kaiseki.pdf

余談2
残忍な事件についてどこにかいてあったかなぁと思ったら
http://homepage.mac.com/donguriclub/column-01.html
http://homepage.mac.com/donguriclub/reason.html
このあたりにありました。
自分でも読み直してみようと思います。
(でも私家庭環境がとっても複雑でとても「いい環境でそだった」とはいえないので自分を振り返ると少し落ち込みます・・・。)
ながながとスミマセンでした。
 

【11909】
感想   投稿者:matsu  投稿日: 2007年10月29日(月)22時28分54秒
  このところ大風呂敷 を楽しみに読んでいる者として、一言いわせてください。

吉さんが持ち出した匿名、実名ということについて。
ネットのマナーとか個人情報保護とかいう理屈はひとまず置いときます。
「私の本業どころか、私の家族の人生にまで影響がでる可能性」どころか、実際にその影響をもろにかぶりながら、実生活でもネット上でも実名で踏ん張ってき たのが、根石さんなんじゃないですか。
実名で責任をとっている人間に対して、ネット上の匿名の人間が、理屈を振り回して批判するという光景は、あんまり見てて気持ちのいいものじゃありません。
僕にも、特別支援学級(昔の特殊学級です)の3年に通う次男がいるのでいうのですが、その場合に「家族」を切り札のように使うのも、僕は嫌です。吉さんに その気はなくとも、そういう効果を実際にもってしまいます。

この間のやりとりを読んできて、吉さんがいうように、根石さんが小学生の英語の解説を無理に書かせようとしている、とは読めませんでした。
吉さんの本音は、これだけ「応援」して「親切」にしてきた根石さんが、なぜ自分が敬愛して師と仰いでいるとわかっているはずの「糸山先生」をあしざまに言 うのか、その場合に相手(吉さん)の気持ちを思いやる程度の当然の配慮がなぜできないのか、ということのような気がします。

これはもっともな批判です。
吉さんと同じ立場なら、僕も同じような非難をするかもしれません。

しかし、そんな場合に世間並みの配慮をせずに、「論」に突き進むのが根石さんの真骨頂ではないのですか。そんな根石さんだから、様々な犠牲(吉さんとのト ラブルもその一つかもしれません)の上に、底光りするような哲学(語学論)を鍛え上げることができたのだろうと思います。

もっとも、そんな事情は、通りがかりの僕などより、吉さんの方がずっとよくわかっているはずです。感情というのは難しいですよね。ただ、少なくとも前回の メールまでは、百戦錬磨の根石さんに対して、吉さんは(他人や正義の力など借りずに)徒手空拳、十分いい勝負をしていました。その意味では、吉さんの退場 は残念です。

最後に根石さんへ。
一知半解の妄言、失礼しました。
 

【11910】
感じたこと   投稿者:外野2  投稿日: 2007年10月30日(火)13時16分20秒
  この掲示板を愛読し ている一読者です。

このたびの根石さんと吉さんの一連のやりとりの結果、お二人が断絶ということになりそうで残念でなりません。

12歳に対する見解の違い、吉さんの尊敬する方への根石さんの批判等は決裂の大きな原因ではないと思います。見解の相違はあって当然だと思います。何もか も同じ考えならかえって気持ち悪いです。

吉さんのもっとも危惧されたのは、Eliot さんに対して了解を得ずに根石さんがEliotさんの実名を公開したということで、吉さんの実名も公開されてしまうのではないかという懸念だったのではな いでしょうか。吉さんにとっては、そこが根石さんに対する不信の出発点ではないかと思えるのです。

根石さんも書かれているように、Eliotさんについては、表向きEliotさんは大風呂敷での実名の公表に同意はされなかったものの、公表されても「か まいませんよ」というようなニュアンスのやり取りがあったものと推察いたします。

吉さんに関しては、よく覚えていますが、根石さんが「そろそろ実名を公開していただけないか?」という問いかけに「諸事情もあり、それは困ります」という ようなご返答でした。それに対して、根石さんは全面的に了解され「公開しない」旨をはっきり表明されていたと思います。

ですから、吉さんの実名を根石さんが公表するなどとおいうことはあり得ないと確信しました。その前提で吉さんも以後も投稿されていたと思います。しかし、 今回のEliotさんの実名公開の件で心配になられてのではないかと思います。「投稿し続けたらいつ公表されるかもしれない。」「そんなことになったら大 変だ。」等々いろんな思いがよぎり、意見の対立も気になり始めたのではないかと思うのです。

吉さんは冷静な方だとお見受けするのですが、「Eloitさん本人の了解を得ずに実名公開」という字面に少し冷静さを失われたのではないかと感じました。

お二人の投稿を楽しみにしていた一読者として、残念に思い書いてしまいました。的外れ、気分を害されるようなことを書いたかもしれません。お許しくださ い。

外野2

外野さんとは何ら関係はありません。外野さんになにかとばっちりでもあるといけませんので念のため。掲示板を読むのは好きですが、投稿はあまりしたくあり ませんので今後はいたしません。
 

【11911】
実名公開について   投稿者:Naima  投稿日: 2007年10月30日(火)23時52分24秒    編集済
  コーチや講師として 教室を開設して生徒募集している限り、実名どころか連絡先まで公表す るのは、まぁ、当たり前というか、 常識というか... 私も絵付け教室のホームページには実名・住所・電話番号を記載しています。吉さんと根石さんの最近のやりとりをきちんと読んでいないので、余計な口出しは すべきでないとは思うんですが...

コーチの代講をお引き受けした時点から、お預かりした生徒さんとの間では実名でやりとりしています。当然ですよね。電話しないといけませんから。吉さんと の自習レッスンでも当然実名を明かしています。

ただ掲示板で実名を明かす明かさないは自由だと思いますし、根石さんも吉さんの要望を尊重されて実名を公表しないことを了承されているようです。いったい 何が問題で決裂してしまったのかな、と考えているところです。

吉さんは、根石さんは怒りに任せて実名を暴露してしまわれるんじゃないかと恐れて退散されたと?

根石さんが吉さんの尊敬されている糸山氏を批判されたからと言って、根石さんと決別する理由にはならないような気がします。そこからまた議論が始まればい いわけで。吉さんは糸山氏を擁護されたら良いわけで。ご自分の尊敬する先生を、ご自分の尊敬する根石さんに批判されたことが心情的におつらいからと言うこ とが、根石さんと決別する理由になるんでしょうか。吉さんはそんな了見の狭い方ではないように思います。吉さんがこの掲示板をご覧になっているかどうかわ からないんですけど。

いったい、何が問題で決裂なんてことになってしまうんですか。私にはわかりません。

なぁなぁの議論でお茶を濁さないのが「大風呂敷」の売りということは吉さんも承知のはず。問題はどこかほかにあるようだと思うんですが。

とにかく残念です。吉さん、どうしても戻って来られないんですか?

いくこさんといい、Eliotさんといい、吉さんといい、高速回転する根石さんの遠心力にぶっとばされてネットの彼方に飛び出して行ってしまいはりました ね...

根石さんのお話だけを聞いていると、いくこさんが一方的に悪者になってしまってますが、いくこさんが大好きな私としてはいくこさんの事情もおありだったん だろうと思いますが、これも余計な口出しで。

皆さん、ここに踏みとどまって、束になって根石さんにかかって行かんかいっ、と思うんですけど。
 

【11912】
関連会社の全株売却 NOVA破たん前後に前社長  投稿者:外野。  投稿日:2007年10月31日(水)01時39分41秒
   経営破たんした英 会話学校大手NOVA(統括本部・大阪市)の猿橋望前社長(56) が、同社が会社更生法の適用を申請する前後に、自身が実質的に支配する関連会社2社の保有株すべてを売却していたことが30日、分かった。

 うち1社は、NOVAへの機材販売をめぐり不透明な資金の流れがあることも判明した。保全管理人の東畠敏明弁護士が記者会見して明らかにした。特別背任 容疑などに当たる可能性もあるとみて今後も調査を進め、猿橋氏の刑事責任追及も含めて検討する方針。

 また、東畠弁護士は支援を名乗り出ている複数の企業と交渉を始めたことを明らかにした。遅くとも来週中に決断したいとしている。

(共同通信社)
 

【11913】
糸山さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年10月31日(水)02時16分45秒    編集済
  >米国国立精神衛生 研究所のデータでも明らかなように、脳の高次機能の進化(思考回路網 作成)は、最長でも十二歳(早ければ七、八歳)までで、それまでに使われなかった(使われることが少なかった)回路は不要だと判断され消滅させられてしま うのです。

 ももこさん有り難うございました。
 吉さんの根拠も、糸山という人の根拠も「米国国立精神衛生研究所のデータ」とやらにあったということだとわかりました。
 糸山という人の文章は、実に雑であると確認できました。
 「・・・のデータでも明らかなように」というのは、自分で確認したものでなく、借り物だということだと私は読みました。またしてもアメリカからの借り物 かい。何が「明らか」なんだ。そんなもの一つの仮説にすぎない。
 (思考回路網作成)と言う言葉を使いたければ、(体による思考回路網作成)と書くがいい。何が「作成」だね? こいつ、ちゃんと返事してみろよ。
 アメリカからの借り物をふりかざしやがって、主語一つ明確にできない文章じゃねえか。文句があれば、糸山なんとかはこの掲示板で出てくるがいい。いつで も相手してやる。

 いちばん気にくわないのは、「消滅させられてしまう」です。
 それがいけないことのように、「させられてしまう」と書いている。
 思考回路がいっぱいある方が上等なのだという「価値観」なんだ、こいつのは。
 サンプルとして単純化して言いますが、思考回路が三つしかないとして、A,B,Cという三つの思考回路のうち、Aだけが発達し、B,Cは使われなかった ことが原因で、仮に「12歳」で消滅したとして、それのどこがマイナスであり、上等でなく、劣るというのか。返事しろよ、このやろ。

 思考回路などいくつも持つより、一つだけでもそれが相手の気持ちを汲み取れるかどうかが肝心じゃないのかよ。

 何が、「良質の文章問題」か。
 てめえの文章と思考をもちっとしっかりさせたらどうだ。

>つまり、思考力の養成には臨界期(機能を稼働させる限界の時期)があり、それが十二歳であること、十二歳までに、人間らしい判断力を含む思考力を育てな ければ、もはや「考える葦」である人間にはなれない、ということです。

 これは脅しです。
 脅しだと思ったので、私自身でホームページを読みに行きました。キーワードに一つに「視覚的イメージ」というのがありました。
 何が「視覚的イメージ」だと思いました。ちゃんちゃらおかしいのです。言いたいことは、「視覚による残像イメージ」ではないか。夢の繊維は、「視覚によ る残像イメージ」でできているのであり、「視覚的」でできているのではない。糸山という野郎は、考えが粗雑です。

 これから吉さんが、「良質の文章問題」を買うためにいくらの金をつぎ込むのかは私にはわかりません。吉さんは、とにかく私に月額1万2千円をくださらな いことにしました。語学論は日本一だと言いながら、そういうことです。語学論なんかやっていても、食えないのだということに力を与えて下さいました。何が 日本一か。馬鹿らしい。

 糸山が月額何百万とるのか知りませんが、私は15万程度です。
 馬鹿らしくてやってられるかと思うのも仕方ありません。

 Jackie さんが何度も書かれたことですが、教育なんぞやった日には食えない。教育まがいをやるとでかく銭になる。

 糸山はだましがうまいですね。
 脅しもうまいですね。
 正論と愚論を混ぜるバランスが抜群ですね。具体的には、公文にしてやられた人々を不安にするのが実に上手です。この男は、言うなれば、公文のコバンザメ だ。公文がメジャーになり、テレビで広告するほどにならなければ、糸山の論も迫力半減というものです。これは私のいつに変わらぬ愚論の展開です。

 商法上で Nova がどういう犯罪を犯したか以前に、こんなものにだまされた奴らが駄目なんだと少し前に書きましたが、糸山の論を見ても同じ感想を持ちました。
 だまされた程度のことで、「哲学」なんぞと言って欲しくありません。

 何が「視考力」か。馬鹿らしい。ダジャレとしてもまるで出来が悪い。
 何が「視覚的イメージ」か。あほくさい。単純に「イメージ」とか「イメージする力」と言えばいいものを、糞ダジャレを発明して人をだましてけつかる。

 そもそも、イメージを絵図にできるとしていることが、イメージに対して不遜なのだ。絵図にできることが、一切の思考の基盤であるなどととんでもない迷信 である。そんなことで済むなら、俺も今頃、こんなふうに言葉数を費やさずに、絵図だけ描いていらあ。

 絵図なんてものは、考えを整理するとか、対象を分類するとか、範囲を限るとかいう思考のごく一部に都合がいいものにすぎないのに、絵図を描くことによっ て、上等な思考ができるようになると思ってけつかるのだ、このチンピラは。

まあいいや、疲れてしまっているので、今夜はこの程度にしておきます。
 

【11914】
吉さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年10月31日(水)02時23分23秒
  多分、吉さんも私も 疲れていたのが、こじれの本当の原因ですよ。  

【11915】
吉さんからのメールへのお返事  投稿者:根石吉久  投稿日:2007年10月31日(水)02時43分30秒
  > 家内が「お世話になりました」と言っておりました。

 よろしくお伝え下さい。持続期に入っておられたので、とても残念です。
 家事、育児などで、どうにも英語を続けられないとなった場合は、旦那様の
付き添いなしで、再度私のレッスンをご検討下さい、ともお伝え下さい。

> 根石さんの英語指導は日本で一番です。

 このばからしさについては、掲示板の方に書かせていただきました。

> 私がそう考える限り、私に素読舎の宣伝をさせて頂きたい。

 私が食えるようになりましたら、宣伝に感謝いたします。

> 元吉本興業の女プロデューサーです。

 横山やすしのプロデュースをされていた人はものすごい人だと思っていいと
思いました。

> 私のホームページの露出度があがれば、
> 根石さんや糸山先生に繋がります。

 よろしくお願い致します。

> 根石さんの語学論を、私より深く読める人は絶対にいます。
> そういう人に届いて欲しいです。

 ありがとうございます。

> 根石さんがくたばる前か、、
> 私がなんかの拍子にくたばる前に、
> もう一度、語学論で根石さんと語りたい。

 遊びに来てください。お互いの顔がわからないので、こういうこじれにな
ったということもあると思いますので。
 語学論は、書き言葉でやるのが私の原則なので、もし本当に「語りたい」
のであれば、心配して下さった皆さんにご挨拶して、掲示板に戻っていただ
きたいと願っています。
 この点については、Naima さんが考えて下さったことと同じです。
 遊びに来て下さったときは、語学論なんかなるべくやりたくありません。
千曲川の河原で火を焚いたりとか、魚をつかまえたりとか、そんなことをや
りたいです。

> 私は英語の勉強を辞めません。

 そうです。ここは英語の磁場ではありませんから。維持するためにだけで
も、「勉強」は必要です。私の場合は、「勉強」というより、「喧嘩」です
けど。「英語!糞くらえ」と思いながら、英語と喧嘩しています。

> 私は、根石さんのテキスト作りの続きをやらせてもらう事を夢みました。

 私は今でもやって欲しいと思っていますよ。

> あのテキストそのものと、根石さんのレッスンそのもが合わさって、
> 一つの完成された語学論だった事に気付きました。

 うん。だから娑婆の人たちはわかってくれないのだとも思います。
 書き言葉の語学論だけだと、なんじゃい、ちんぷんかんぷんだ、というふ
うに思われてしまうのです。書き言葉による論者の宿命ですかね。引き受け
るしかありません。
 

【11916】
皆様   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年10月31日(水)02時44分52秒
  ご心配いただきあり がとうございます。  

【11917】
今日思い出したこと   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年10月31日(水)03時16分22秒    編集済
   matsu さんの書かれたものを読んで、思い出したことがありましたので、書いておきます。
 私が柴田さんの名前をこの掲示板に書いた後、本名で書いたものとして「音作りへの道」を「大風呂敷」の過去ログに掲載するのであれば一部書き直したい、 と柴田さんから申し出があり、書き直していただきました。書き直したものをメールで受け取り、掲載する作業は村田君にやってもらいました。私の記憶が間 違っていないかどうか、村田君に確認してもらえると有り難いです。

 柴田さんがこの掲示板に来られなくなった理由で思い当たるものをもう一つ思い出しました。白樺湖池の平ホテルにsbさんと一緒に柴田さんを訪ねたとき、 英語がわかっているかどうか、使えるかどうかは、音はもちろん、イントネーションや感情まで含めて、録音音声の通りに言えるかどうかで決まるという意味の ことを柴田さんが言われたので、まあ、話し言葉でのやりとりでしたから、「それをやるのがとてつもなく恥ずかしいことに感じられてどうしてもできないや つっているんですがね」ということを私は言いました。
 柴田さんも「磁場帰り」の方ですが、わかっておられないのは、「語学的標準形」ということだと思いながらそう言いました。イントネーションなど、まった く「語学的標準形」に照準を合わせればいいのであって、英語の磁場で使われた通りのものなどに合わせる必要はない。また、感情に関してはからっぽでもい い。なんで日本人の英語を作っているのに、アメリカ人の感情などにならう必要があるのか。いくら語学が机上のものであり、生活の場面のものではないにせ よ、なぜ感情まで、芝居としてやらなければならないのか。そういう異和を口で言ったつもりでした。
 感情は語学の場面でなく、実際に英語という言語を使う場面で自分のものを込めればいい。それを込めることができるだけの器を作っておくことが肝心なので あり、イントネーションや感情をネイティヴと同じにすることが肝心なことではないということを言いたかったのでした。
 その後、柴田さんが掲示板に、感情やイントネーションまで含めて、アメリカ人(の録音音声)と同じにするのがいいのだと書かれたので、「あっしら語学を やっているんであって、芝居をやっているんじゃない」という意味のことを書きました。馬鹿言うんじゃないというくらいに強い調子で書いたと覚えています。
 柴田さんが、掲示板に書かれなくなったのは、その直後からだったなと思い出しました。こちらが原因だったかもしれません。

 村田君の労により過去ログが残っていますので、その当時の関連の記事を引用して下さる労をとって下さる方がおられたら幸いです。

 村田君。私がツインタワー崩落時、快哉を叫んだことなども含めて、過去ログをとっておくことは大事ですね。反省するためにもいいし、身の証を立てるため にもいい。
 

【11918】
根石さんへ   投稿者:ひきこもり暦22年   投稿日:2007年10月31日(水)03時28分37秒
  >>「良質の文章問 題」を買うためにいくらの金をつぎ込むのかは私にはわかりません。
ここだけ読んでも明らかですが根石さんはどんぐり倶楽部のホームページをしっかり読んでませんよね?読みにくいホームページだけどしっかり読んでください よ。

根石さんは「米国国立精神衛生研究所のデータ」が信用できないんですか?それともデーターから導き出された「理論」が信用できないんですか?
 

【11919】
うぅ、疲れたんだが、持病だから書くか  投稿者:根石吉久  投稿日:2007年10月31日(水)03時37分4秒
  ひきこもり歴22年 様

>>「良質の文章問題」を買うためにいくらの金をつぎ込むのかは私にはわかりません。
>ここだけ読んでも明らかですが根石さんはどんぐり倶楽部のホームページをしっかり読んでませんよね?読みにくいホームページだけどしっかり読んでくださ いよ。

 そうですか。私も忙しいので、そんなに多くの時間を使って読んだわけではありませんでした。「良質の文章問題」と書いてあったかどうか正確ではありませ んし、また読みに行こうという気がありませんので、間違っていたらお許しいただくしかありませんが、「良質の文章問題」だか、「良質の練習問題」だかを手 に入れるのに金は要らないのですか?お教え下さい。

>根石さんは「米国国立精神衛生研究所のデータ」が信用できないんですか?それともデーターから導き出された「理論」が信用できないんですか?

 「米国国立精神衛生研究所のデータ」については私は現物を読んでいるわけではありませんので、そういうものがあるんだなという程度の判断をしており、信 用することも信用しないこともしておりません。

 糸山がそこから導いた「理論」は信用しておりません。
 

【11920】
ひきこもり歴22年さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年10月31日(水)03時41分29秒
  読まなければいけな いものがあるので、それを読んでから、ちょっと寝ます。
話の続きは後日。
 

【11921】
根石さんへ   投稿者:ひきこもり暦22年   投稿日:2007年10月31日(水)05時08分0秒
  夜遅くに持病を刺激 してしまって申し訳ないです。今夜まとめていろいろ書き込ませていた だきます。 では  

【11922】
「音作りの道」過去ログ掲載時の経緯  投稿者:村田  投稿日:2007年10月31日(水)06時23分51秒
  >私が柴田さ んの名前をこの掲示板に書いた後、本名で書いたものとして
>「音作りへの道」を「大風呂敷」の過去ログに掲載するのであれば一部
>書き直したい、と柴田さんから申し出があり、書き直していただきました。
>書き直したものをメールで受け取り、掲載する作業は村田君にやってもら
>いました。私の記憶が間違っていないかどうか、村田君に確認してもらえ
>ると有り難いです。

根石さんの記憶通りです。
(過去ログhttp://nagano.cool.ne.jp/ha98000/log/6401-6500.htmlの 【6462】・【6485】・【6487】─【6495】・【6497】─【6498】)
このときは何度も柴田さんに推敲してもらって、過去ログの中でも特に慎重に作業を進めていきました。
 

【11923】
根石さん   投稿者:村田  投稿日: 2007年10月31日(水)06時34分28秒
  >その後、柴 田さんが掲示板に、感情やイントネーションまで含めて、
>アメリカ人(の録音音声)と同じにするのがいいのだと書かれたので、
>「あっしら語学をやっているんであって、芝居をやっているんじゃない」
>という意味のことを書きました。馬鹿言うんじゃないというくらいに
>強い調子で書いたと覚えています。

これはEliotさんが実名で書かれ始めた時点よりもっと前のような気がしますが、今はもう時間がないので後でまた追ってみます。
 

【11924】
吉さんからのメール   投稿者:ちえ  投稿日: 2007年10月31日(水)14時44分21秒
  こんにちは、ちえで す。
この度の事で、先日、今までのお礼の意味を込めて吉さんへメールを送りました。
吉さんから返信がありましたので、吉さんの了解を得、掲載します。
以下、吉さんからのメールです。

> 吉さんのお陰で素読舎と出会えたことに感謝しています。

ちえさん、、私の哲学ですから、これはハッキリ申し上げます。

ちえさんが受けているのは、日本で一番の英語の指導です。
最高の指導を受けているのだと誇りをもってください。

これを私が信じている限り、私のホームページを通じて、
そのように発信していきます。

これは、、この事だけは、、誰にも譲りません。

もしできたら、ちえさんの言葉で、
どんどん掲示板で発信してください。

(ちえさんが無理なら、私がそう言っていたと言ってもいいです)

根石さんの語学論が、ネットのブラックホールに沈んで良いわけがありません。
今までも、、これからも、、私は根石さんを応援します。

ちえさんも語学に励んでください。
私も英語の勉強をやめません。

根石さんの語学論は、完璧なまでに美しいのです。
そして、、彼の生き方は、彼の人生哲学そのものだと思っています。

彼の掲示板の発言は、彼の哲学そのものだと思っています。

レッスンとの優しい声の印象とはギャップがありますし、
掲示板の発言は、たまに取り返しのつかない程ダメージの大きい場合もありますが、、(苦笑)。

お互いに絶対譲れないものを確認できました。

それでも、私は根石さんの生き方を応援します。

私には「12歳の境界線」という守りたい理論があります。
私の立脚点です。

これを守り抜かなければ、素読舎をこのようなかたちで去った自分を、
ダメにしてしまいます。

そして、、根石さんの語学論も守ります。
私の立脚点ですから、、。

掲示板には、ああ書いちゃいましたし、
まあ、、まだまだ許せない部分はありますが、
でも、、根石さんが頑張る限り、応援します。

ちえさんが学び続ける努力も応援します。

ありがとうございました。
今回はこんな事になってゴメンなさい。



ちえさん以外にも心配されている方がいらっしゃると思います。

そういう皆様に申し訳ないと思っています。

ちえさんの言葉で、私がこんな感じの事をメールで言っていたと伝えてあげてください。

では、、

 

【11925】
さよなら??ちょっと待ったあああ  投稿者:Jackie  投稿日:2007年10月31日(水)20時50分43秒    編集済
  ちょっとご無沙汰し ていて、
バックアップとよみかえしているのですが・・

何があったのでしょう???
わけわかめですわ。

根石さんがどんぐりの糸山さんを批判したのを吉さんがうけいれることができなかったということでしょうか・・。

根石さんが信頼する吉さんが「よい」と言っている糸山さんの本を
根石さんには一読して欲しい。いや糸山さんについて語るには一読すべきかと。
吉さんが書き出した一部で論じて談じることはよくないと思いますよ。
吉さんは根石さんの著書も読み語学論やその他のことを受け止め、考え、論じてきた。
吉さんは本はかいていませんが、
その吉さんが「根石さんと共通するものがあります」といってらっしゃる糸山さんのことを
もうすこし知るために、一歩さがって、著書を読んでそこからモノをいってほしいです。

その上で意見の相違はぶつけあえばよいわけですし、
今の段階で勝手にジャッジして糸山さん食わず嫌いをしてしまうことは

もったいない。
頑固親父、ちょっと丸くなりましょう。一歩はゆずってみましょうよ。

とかいたのですが、ただいま編集してつけたし書きをしています。
いや、せっかちなものでさかのぼり読みをしながらおもったことをかいていまして(汗)
今かかないとかけなくなるとめちゃめチャ書きになっています。お許しを。

根石さんはHPにはいかれたのですね、そしてそれから書いてらっしゃいますね。
しかしもうちょっと読んでみましょう。著書を読んでみるのが一番系統だって糸山さんの考えかたがわかるかと思います。

糸山さんの著書は吉さんにおしえてもらったので
私も買いましたが、あまり深く考えて読んでなかったので
もう一度読み直してみようと思います。

そうでなきゃ糸山さんについても吉さんと根石さんの議論についてもはいっていくことはできません、わけわかめで。

吉さん、
信頼する人に同じものを好きになってほしいとか、同じことを信じて欲しいとか
そういうもんですが、そうならないことも多々あります。
それは個人の考え方や好みの相違。
それがいかに真理であっても、ある人にとっては違うことが真理とは思えない、または
そこまで深く受け止めないだけのこともあります。

すべて一致してしまったらそれこそ面白くも糞もなく、
そこには議論が生まれません。

意見の相違をぶつけあうことがら議論がはじまる。
戦わせることから、何かが生まれていく。


ま、たとえ夫婦でも意見はちがうことがあるかと。


とざざーと流しよみで書いている次第。

お前こそよく読んでからモノを書け!・・というわけですが、
また書きます。

ここのところ時間がとれないので、、おいおい。


吉さん、
残念!!
私は外野さんではありません〜
でも外野さんとおなじ投稿をしたいとおもってました

ノバ離れ。英会話幻想から解き放たれる人がふえたか??

大手英会話学校はどこも顧客離れが起こっている模様。
しかし大人の英会話幻想→やっぱり英語は子供からと

早期英語教育英語幻想へうつっていってるだけですね。
文部省が小学校からの英語教育と言ってますし、
親御さんが子供に習わせたい習い事のナンバー3にはいってますね、英会話。


んなもん無理無理!

というところで
対談
「根石、糸山、語学を語る〜。早期英語教育は必要か否か。」とか
この際いかがでしょうか????

素読者村田さん、児童英語教室をやられていたNaimaさんも加えて、吉さん進行役で。
で・・。ついでにEliotさんにも参加をお願いして。


私?私は外野観戦をw
 

【11926】
大風呂敷投稿の皆様   投稿者:Jackie  投稿 日:2007年10月31日(水)21時10分39秒    編集済
  まずは吉さんへ

外野2さんやNaimaさんがかいてらっしゃいましたが
根石さんは「吉さんの実名公表はしない」と書いていらしたと記憶しています。
その点は心配なさらなくても大丈夫かと。

またEliotさんの実名公表について
Eliotさんがとつぜんこちらにこられなくなったのでどうしたのかと思っていました。
そういう理由だったのでしょうかどうでしょうか?

これはエリオットさんしかわかりませんね。
根石さんが強引に実名を明かしてしまったのなら
それはやはりよくないと私も思います。

でも柴田さんも実名には半同意なさっていたし、
その後、自分から実名を名まえ欄にかいてらっしたこともあったかと。


重ねて、吉さんの場合は、「絶対実名はダメだ」とおっしゃってる。
だから実名公表を根石さんがすることはないと思います。
もしそれをやっちゃあおしめいよ。です。
まー私ことジャッキーも実名は公表してないチキンです♪。

>私には「12歳の境界線」という守りたい理論があります。
私の立脚点です。

守るものがある。守るもののために戦いましょう。
言葉で論じていきましょう。わかりあえるまで語りましょう。

分かり合えない可能性のほうが高い。

つかれたときにははぐらかして一服しましょう。

余所見も大事。

いや、一杯飲みましょう。




●●大風呂敷投稿&ROMの皆様へ。●●

Naimaさんの
>皆さん、ここに踏みとどまって、束になって根石さんにかかって行かんかいっ、と思うんですけど。

思わず噴出しました。姉さん元気ですねえ。

ひとりじゃかなわないから束になってかかっていきましょー。

というわけで子供英語教育論はつづくのでありました。

今は英語に携わっていない身ですが
それでよろしければこちらに参加討論いたしますので

皆様よろしうに。

吉さん、SBさん、エリオットさん、浜谷さん
、それから恋人ファンさん、もっこりさん、ミッフィーさん、
その他過去ログに登場の皆々様

「子供英語教育討論」&語学論の時間ですよー。

起きてくださいー。

ROM専の皆様もはじめの一歩を。

大丈夫、こわくありませんって。

ところで今チラッと過去ログにいってみて発見




【8067】
【タイトル】わからんじん
【 日時 】03/10/31 7:22
【 発言者 】Jackie

英語まわりは わからんじんだらけ。 私も含めて。
わからん人同士が わかりあうことは不可能なのかもしれない。


われながら名言。


だからこそ
大風呂敷ひろげ、ぼちぼちと、がちがちワイワイいきましょや。

養命酒でも飲みながら。

わたしゃ日本酒をいただきますが。
 

【11927】
吉さんへ   投稿者:matsu  投稿日: 2007年10月31日(水)23時27分34秒
  前回は、素読舎にも 大風呂敷にも、さらには英語にすら全くの部外者にもかかわらず、げす のかんぐりのようなコメントを書いてしまい、失礼しました。
おっちょこちょいついでに、もう少しだけ言わせてください。常連の方には、申し訳ありません。どうかそっくり読みとばしてください。

その後のコメントやメールで、吉さんと根石さんの真情がある程度わかった気がします。
一方、糸山さんへの根石さんの口撃は激しさを増して、どんぐり倶楽部との全面対決前夜という様相ですよね。このままでは、吉さんがいっそううんざりして、 思いを残しながら、根石さんと決別の気持ちを固める、という展開が見えています。

そうならない前に(もうそうなっているのかもしれませんが)、吉さんに呼びかけたいポイントがあります。
前に、根石さんが糸山さんをなじったことについて、論理優先の根石さんの無神経(失礼!)によるものと勝手におもっていました。ただ、根石さんの真情を知 ると、それだけではなくて、信頼する吉さんに「ほんもの」を示したい、という熱意によるものという気がしてきました。
そんな風にいうと、糸山さんが「にせもの」みたいで、吉さんの逆鱗にふれそうですが、そうではありません。
子育ての方法論を提供するのが「教育論」ならば、糸山さんはその分野で優れていて、成果をあげている方なのかもしれません。しかし、そういう教育論は、教 育成果をあげるという目的のための手段なのであって、たとえば、教育とは何か、子どもとは何か、人間とは何か、という問いをつきつめるものではありませ ん。
根石さんのように「ほんもの」を求める人にとって、そういう問題をやり過ごしていること自体が、わかっちゃいねえ、にせものだ、ということになるのだと思 います。それは、糸山さんがすぐれた教育方法論を持っているか、ということとは別次元の、いわば思想の問題だと思います。

吉さんは、教育論を確立したい、守りたい、それを譲れない、ということをよく言われますよね。吉さんには、それを急ぎたい気持ちがあるのでしょう。ただそ んな切迫した気持ちの求めるものが、教育方法論(たとえば、12歳の境界線論)であるとは、とても思えません。たとえて言えば、自分と家族のいる場所に根 拠を与えるような「ほんもの」をめぐる思想が、それなんじゃないでしょうか。

吉さんは英語の達人だから、根石さんの「語学論」のエッセンスを吸収して、自分で語学を継続することは十分可能なのでしょう。しかし、根石さんのすごさ は、日本で語学をやり続けることを通じて、その娑婆との格闘を通じてつかみとってきた「思想」にあります。根石さんにとって、語学と思想(哲学とも、文学 ともいえるかもしれません)は、車の両輪であるような気がします。

具体的にいいましょう。少し前にこの掲示板で、大人が観光地で景色に興じているときに、子どもがテレビゲームに夢中になっていることが話題になりました。 普通の感覚で言えば、子どもの「異常な」振る舞いを問題にしたくなるところですよね。そのとき根石さんが、さりげなく、大人も子どもと同じように観光で自 然を楽しむというゲームをしているにすぎない、と指摘したのには驚きました。
考えてみれば、大人も自分の日常を取り囲む自然のあり様には目をふさぎ、観光名所の自然のみに感嘆しているなら、それは自然の断片を取り込んだ自閉的な ゲームをしているにすぎないことになります。確かにこのような認識は、哲学や批評のお勉強の場所では語られることですが、この娑婆のやりとりの中でピタリ と言い当てるところに、根石さんの比類のない眼力があると思います。

英語は風邪じゃないからうつらない、とは根石さんの名言ですが、思想(考えること)も風邪じゃないからうつらない、というのが、『英語どんでん』を読んで の僕の感想でした。思想もまた、絶えざるインプットの努力と、生活の現場での鋳なおしを通じて形作られるものでしょう。短時間で手に入ったり確立できたり するものではないはずです。

吉さんが、根石さんの語学論をあれほど高く評価するのも、語学の問題を通じて、根石さんの思想に強くひかれているからだろうと想像します。英語のコーチと してと同様、いやそれ以上に思想(考えること)の師匠として、根石さんは本当に得がたい人だと思います。この掲示板で根石さんと議論を戦わせることの効用 を、吉さんは以前書いていましたが、根石さんといっしょに喧々諤々考え続けることの向こうにこそ、吉さんが求めるものがあるような気がします。そんな環境 をもっている吉さんを、遠くから(どんぐり倶楽部があるという福岡から)僕は指をくわえてうらやましく眺めています。根石さんとの関係を手放すのは、もっ たいないですよ。

糸山さんの教育論が子育てに有効だと思うなら、根石さんのくだくだは適当に聞き流して、信奉して有効に使われたらいいのじゃないでしょうか。とにかく全共 闘世代のオヤジというのは、頑固でくちうるさいというのは相場がきまっているのですから・・・

最後に根石さんへ。重ね重ねの妄言のオンパレード、お許しを。
 

【11928】
根石さんへ   投稿者:ひきこもり暦22年   投稿日:2007年10月31日(水)23時44分57秒
  すみません今夜いろ いろ書くといいましたが、明日にさせてください。今夜は目が霞んで (持病)長い文章は無理そうだからです。では  

【11929】
ひきこもり歴22年さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 1日(木)01時00分5秒
  はい。ゆっくりで結 構です。お待ちしています。  

【11930】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 1日(木)05時35分54秒    編集済
  >一方、糸山さんへ の根石さんの口撃は激しさを増して、どんぐり倶楽部との全面対決前夜 という様相ですよね。このままでは、吉さんがいっそううんざりして、思いを残しながら、根石さんと決別の気持ちを固める、という展開が見えています。

 全面対決はないだろうと思います。あちら様は「おとな」でしょうから。

 乗りかけた船なのかと思い、今日再び、どんぐり倶楽部の別のページを読んだら、なかなかいいじゃねえかというところを見つけました。それは、一言で言え ば、「ゆっくりでいいんだ」「結果じゃなく過程が大事なんだ」というだけのことでした。それだけなら、私も同意できます。文部省の元における小学校批判 も、(名指ししていない)公文批判も、うんうん、それでいいでしょう、と思いました。

 私の生徒さんのももこさんが、「ゆっくりやればいいんだというようなところは、糸山さんのいいところだと思うんですが、12歳に強い線引きをするところ はどうなのかなあと思ってしまう」とレッスンの時に言われたのですが、ようやく「糸山さんのいいところ」というのが何を言っておられるのかがわかりまし た。
 高速計算なんか駄目だ、公文なんか駄目だ、というような点については、私に糸山に対する異論はありません。しかし、反復練習が駄目だという点にはまった く同意できません。私の孫は、まさに日本語の基本的な構造を体に備えつつある段階(4歳)ですが、知らない言葉に出会うと、面白がって、ときどき自分で勝 手に「回転読み」みたいなことをやります。(字を使わないし、教室で学習するのでもないし、遊びみたいに独り言を言っているだけですが。)言葉を獲得する 途中では、「反復」というのが必要だから、孫は勝手に「反復」をやっているのでしょう。自分に向けて確認しているのでしょう。私も他の家族も、孫に反復の 必要性など一言も言ったことがありませんが、遊びみたいにして勝手にやっているのをたまに目にすることがあります。
 言葉の習得には「反復」は必要です。必要だから、面白がって遊びみたいにして、私の孫はやっているのです。算数方面から、言葉方面で生じることの「絵 図」を描いても、そんなもの、まったく見当違いだよ、ということです。「良質の算数問題」からできる言葉の力なんかなんぼのもんじゃいとしか思えません。
 そんなことじゃ、戦後日本の貧しさをさらに貧しくするだけじゃないか、とも。
 糸山は、論はできる人ですが、言葉にろくに血が通っていない。それがあの、何というか、事項だけ次々と繰り出すだけの文体です。糸山に言いたいのは、 「足元を見ろ」です。文章に(言葉に)血を通わせることをしないで、何が「豊かな心」かよ。この点では、吉さんの方がよっぽどいい。異なる論の間で、引き 裂かれた生身の言葉を公開するだけ、ずっといい。吉さんが糸山を師にするなどは、もったいないのです。糸山が吉さんの引き裂かれ方を師にするがいいので す。

 そんなことを書こうかと思って掲示板を開き、matsu さんが書いて下さっているのをみつけました。

 一読、ありがたく思いました。

>子育ての方法論を提供するのが「教育論」ならば、糸山さんはその分野で優れていて、成果をあげている方なのかもしれません。しかし、そういう教育論は、 教育成果をあげるという目的のための手段なのであって、たとえば、教育とは何か、子どもとは何か、人間とは何か、という問いをつきつめるものではありませ ん。

 糸山の論では、無差別殺人をやった永山則夫が、刑務所で字を覚え、言葉を覚え、人の気持ちがわかるようになっていった過程にはまるで触れることができな いと思いました。糸山の論では、永山則夫は無差別殺人をやった時点で、「幼児期に育てるべき判断力を育てられていない状態で12歳をすぎてしまっている子 供大人」説を補強する格好の例にはなるでしょう。しかし、心というものが「12歳」という線引きなどで決定されるものではないということ、20代でも30 代でも40代でも、人間が生きている間、ボケルまでの間、あるいは死ぬまでの間、心は成長するということが無視されるだろうと思います。
 永山が刑務所で自分の心を育てた過程は、「12歳」という線引きを完膚無きまでに否定するはずです。
 「12歳」という強い線引きに対しては、私はこれにどうしても脅迫めいた臭いをかぐのです。アメリカから論拠を借りてきて、時代の荒れを自説の補強に 使って、これを売れば売れるわなとも思うのです。
 そりゃ、幼児から子供時代を経て作られる「思考能力の祖型」ができあがる時期はどこかにはあるだろうと思います。しかし、それができていくのは「12 歳」で終わりであり、以後は別過程だとされるなら、60に近くなってきた年齢で、「子供大人」の一人をやって公開している私としては、ふざけんじゃねえぞ この野郎、としか言いようがありません。「思考能力の祖型」ができるのは、7,8歳の場合もあるだろうし、12,3歳の場合もあるだろうし、16,7歳の 場合もあるだろうし、いずれどこかにあるだろう。しかし、それ以後にだって、それまでに存在しなかった思考回路に新たな血管が形成され、そこに血が通い始 めることはある。そうでなければ永山則夫が人の気持ちがわかるようになったということはどういうことになるのか、まったく説明がつかないではないか、と。

 糸山はいいことをいっぱい言っている。駄目なのは、「12歳」論です。借り物だからです。

 糸山の論は、アメリカの調査のデータを借り物にした決定論ですが、この決定論であるところがどうにも気に入りません。借り物である「12歳」論がアホく さくて、鼻が曲がります。

 吉本隆明は、「思考能力の祖型」ではなく、「心の祖型」という意味あいで、3歳くらいまでに決まるというようなことを言っています。それは幼児と母親の 関係で決まるとも言っています。「心の祖型」=「三つ児の魂」という意味で、これならよくわかります。糸山の論の「12歳」というのは、「心」ではなく 「思考」に関してだというふうに糸山は逃げることができるのでしょうが、糸山は「心」の形成と「思考」の形成を(わざとなのかどうか)混同させています。 こんな混同も決定論も両方とも要らないものです。
 妊娠可能な年齢を、思考回路形成の、ええとなんだっけ、臨界期だっけか、それに同致させることにも何の根拠があるのかと思い、けっ、と思ってしまいま す。

 永山を持ち出さなくても、私自身が中学二年頃から19歳頃まで落ちこぼれだったことを持ち出すのでもいいのです。私が実質的に英語をやり始めたのが19 歳だったのですが、それまではただの落ちこぼれでした。19歳でそれまでの落ちこぼれの歴史をひっくり返すように急に激しく英語の「勉強=喧嘩」をやった のでしたが、それは糸山の言う「豊かな心」なんぞというものより、はるかに永山則夫の無差別殺人に似ていました。相手が生身の人間ではなく、英単語や英語 の構造だっただけで、「勉強」などと呼ぶより「殺し」と呼ぶ方がはるかに実質に近いのです。そして、この「嵐としての一年間」の後に、私は日本語の詩が読 めるようになったし、批評が読めるようになり始めたのでした。それまでの生涯では味わったことのない味でした。つまり、(糸山からすれば)「こんな遅い年 齢」になってさえ、思考も心も変わるのです。人が心を駆使して考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞もない。
 糸山は、私の19歳という年齢で生じたことをどう説明するのか。刑務所で永山則夫に生じたことをどう説明するのか。刑務所の中を無視するのと同じように 無視するのか。
 「心の祖型」ができるのは三歳までだということには、何の違和も感じないのに、「思考回路形成臨界期=12歳」にどうして強い違和を感じるのかと言え ば、私において、「思考の祖型」ができるのが、19歳頃まで続いたと思っているからです。それほど私はトロイ子供だったのです。
 私の親は、3歳までの私の「心の祖型」を決定したかもしれません。しかし、「12歳まで」というところにはまったく無策で、意識的に何かをした形跡はま るでありません。私はただ、見守られ、放っておかれただけです。「見守られた」ことも、「放っておかれた」ことも今は有り難く思っています。
 糸山の言う「絶対学力」なんか、私の19歳に何の関係もなく、むしろ、この社会の成り立ちに対する怒りが大いに関係がある。そして、19歳で暴発するま での思考を育ててくれたのは、「言葉」が最大のものです。「言葉さえ奪われなければ」という思いが今も私には強くあります。「学力」だの「視考力」など は、「心」とは関係がありません。どちらかがどちらかを「媒介」にするという関係があるだけです。糸山はここを混ぜこぜにしています。混ぜこぜにして、直 線で結んでいます。
 「学力」だの「視考力」だのと、「心」との間には、ねじれた複雑な相互関係があるのですが、糸山は直線で結んでいます。

 糸山が単純に「心が育ちにくい時代だ」と言うだけのことなら私は同意できるのですが、「絶対学力」だの「12歳」だの言い出すと、脅迫じゃねえかと思 い、蹴散らしてやりたくなるのです。

 今でも子供に本当に必要なことは、見守ることと放っておくことです。
 有害なものを「見せない教育」ではなく、有害なものに対する抵抗素が育つかどうかです。テレビをつけておけば、子供は(幼児でも)(作られた)残忍な場 面を見るでしょうし、子供が勝手にテレビのスイッチを入れることを止める方法はありません。テレビを持たなければ、テレビ一つは解決するでしょうが、他か らもいくらでも有害な視覚刺激は届くでしょう。
 それに対する抵抗素を育てるのは、学力形成などと何の関係もない。「良質の文章問題」などと何の関係もない。大切なのは「親の背中」のようなものです。 これだけはごまかしがきかないところです。自分に見えないところを子供に見られているのですから、ごまかしがきくはずがない。

 吉さんは、それをも「見せない」などと考えるからいけないのです。「見せない」といくら固く決意しても、どうしようもなく子供は見ているのです。ぶち切 れて「大風呂敷」に来ないなどということをやっていると、子供の抵抗素が育たなくなりませんか。

 糸山の論が、戦後日本の市民社会の「学力をめぐる神経症」に乗じたものであり、学校という枠の中での「思考」を思考だとしていることが、私の中に激怒の ような反応を生じさせるゆえんかと思います。あちら様はいまだ受験のプロであり、私はそこから降りた者であるということかもしれません。

>ただそんな切迫した気持ちの求めるものが、教育方法論(たとえば、12歳の境界線論)であるとは、とても思えません。たとえて言えば、自分と家族のいる 場所に根拠を与えるような「ほんもの」をめぐる思想が、それなんじゃないでしょうか。

 同感です。吉さんは「哲学」という語を使われますが、必要なのは「思想」だと思います。例えば、語学論がらみで言えば、「磁場帰り」の人として、「磁 場」において生じたこと、内心にどんな血が流れたかということを、自分の言葉で語ってくれることだと思っています。それをやらなきゃ、まともな論にならね えぞと、國弘正雄について考えたことがありますが、吉さんについても同様のことを考えました。(そういうことを考える場所としては、「大風呂敷」が最適な 場所なんじゃないですかね、吉さん。)

>根石さんにとって、語学と思想(哲学とも、文学ともいえるかもしれません)は、車の両輪であるような気がします。

 先にも書きましたが、語学の「嵐の一年」の後に、詩や批評が(日本語で)読めるようになりました。語学には恩があります。糸山から語だけ借りれば、その ための「絶対学力」は19歳の一年で結実したのであり、「12歳まで」にできていたものではありません。12歳を過ぎてからも、この世の成り立ちにとまど い、迷子になっていたことが形成したものです。
 詩や批評が読めるようになったのは、語学における、語のイメージ核を射抜く一年間の修練によるものであり、修練を面白がった意志によるものであり、その 前提としての(日本語から得た)イメージ形成能力は、19歳までの長い時間にゆっくりと形成されたものです。いまだに「12歳まで」に何の根拠も見いだせ ません。
 思考までアメリカの(データの)「家来の家来」になったんじゃどうしようもない。
 もっとずっとゆっくりやればいいんだとも思います。正直なところを言いますが、私は吉さんの「磁場帰り」のリハビリをやっていたような気もするのです。 別に誰に頼まれたわけでもないのですが。

>普通の感覚で言えば、子どもの「異常な」振る舞いを問題にしたくなるところですよね。そのとき根石さんが、さりげなく、大人も子どもと同じように観光で 自然を楽しむというゲームをしているにすぎない、と指摘したのには驚きました。

 ここをポイントとして読んでくださったのは有り難かった。うれしかったです。

>この掲示板で根石さんと議論を戦わせることの効用を、吉さんは以前書いていましたが、根石さんといっしょに喧々諤々考え続けることの向こうにこそ、吉さ んが求めるものがあるような気がします。

 私も吉さんも、一日が終わった「25時間目から」この掲示板に書いていたので、お互いに疲れがあったかと思っています。私の言葉が投げやりになりかけた ところもあったし、吉さんが糸山という人の論にかたくなに固執するようなところもあったのですが、いきなり吉さんの方から断ちきられた時にはびっくりしま した。信仰をめぐる論争じゃあるめえに。

 吉さんの引用では糸山を読む気がなくなった私ですが、今日、糸山を読んだのは、この掲示板に書かれた何人もの人の記事のおかげでした。いまだ、吉さんが 私を許せないと同じように、私が糸山を許せないという問題は残っているにせよ、です。

 ネット上のつき合いでは、疲れていても疲れたまま書きますし、書き直すとか考え直すとか見直すということをする前に、相手からお返事が来てしまうので、 書き直したり考え直したりする前に、相手からのお返事に応じてさらに書くことになくなります。そんなところからも行き違いが生じやすいのは、こりゃ、しょ うがねえんだと思います。
 ここがそういう場所だということをよく踏まえてちゃんとやってきたという気は私にないのすが、かえってそれがこの掲示板の「なまな感触」になっているか と思います。「哲学や批評のお勉強の場所」(主に大学周りですかね)よりも、私は娑婆の方が好きなんだとも思います。Eliot さんにせよ、吉さんにせよ、私が学校の勉強ができた人となかなかソリが合わないということとも関係があると思います。まして糸山なんかと合わないのは、至 極当然だとも思っています。matsu さんならわかってもらえるかもしれませんが、近いものほど憎み合うのです。近いが違う、からです。

 「喧々諤々考え続けることの向こう」を、Eliot さんにも吉さんにも信じて欲しかったと思います。matsu さんが書いてくださった通りだと思います。

>とにかく全共闘世代のオヤジというのは、頑固でくちうるさいというのは相場がきまっているのですから・・・

 思わず、にやりとしてしまいました。一本とられました。
 

【11931】
疲れたので、   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 1日(木)06時06分57秒
  長く書いたものを書 き直したいのですが、書き直せません。
明日以降やります。
 

【11932】
横から失礼します。   投稿者:兵庫のM  投稿日: 2007年11月 1日(木)08時28分7秒
  すみません。私個人 の感じていることなので、読み飛ばしてくださって結構です。
最近、どんぐり倶楽部にオンライン教室などできて、お金を払って講義を聴いたり、、なんだかお金を払うことが多くなったような気がします。糸山さんのおっ しゃることはもっともだし、文章題もとてもよく出来ていると思いますが、その辺のところちょっと疑問を持つようになりました。わたしの単なる感覚でしかあ りませんが・・・どうなんでしょうか?
ある人が、「言っている事より、やっていることを見なさい」と言っていました。それを、考えると、どんぐり倶楽部はネット上なので、彼の言っていることを 素晴らしいと思うのであれば、実際に会い、直にお話を聞いたり、質問したりして確認すべきなんだろうなと思います。横から一言失礼しました。
 

【11933】
追記   投稿者:兵庫のM  投稿日: 2007年11月 1日(木)09時14分13秒
  すいません、文章で 表現するのはとても苦手なので、書くつもりはなかったのですが、 ちょっと気になっていたもので、つい書いてしまいました。単にそれだけですので、読み込まないで下さい。  

【11934】
ちえさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 1日(木)23時26分35秒
  吉さんの気持ちはよ く伝わってきました。
ありがとうございました。
 

【11935】
M さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 1日(木)23時29分24秒
  じわじわとお金がか かるようになってきた!
なるほど。
知りたいことを知ることができました。
ありがとうございます。
 

【11936】
Jackie さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 1日(木)23時31分4秒
  日本酒ですか。
銘柄を教えてくれませんか。
なかなかいい日本酒に巡り会わないです。
 

【11937】
Mさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 1日(木)23時35分15秒
  >彼の言っているこ とを素晴らしいと思うのであれば、実際に会い、直にお話を聞いたり、 質問したりして確認すべきなんだろうなと思います。横から一言失礼しました。

 実際に会っても、くろうとは、「やっていること」を見せず、「言っていること」しか与えないことが多いです。
 実際に会うよりも、文章が「言っていること」でなく、「やっていること」を読むのが一番いいと思います。
 横やりですが。
 

【11938】
文章   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 1日(木)23時37分10秒
  文章を書くのはとて も苦手という人の方が、実際はいい文章を書く。  

【11939】
根石さんへ   投稿者:ひきこもり暦22年   投稿日:2007年11月 2日(金)02時08分13秒
  >良質の文章問題」 だか、「良質の練習問題」だかを手に入れるのに金は要らないのです か?お教え下さい。

良質の文章問題は年長〜小6まであって1学年1000円です。ちなみにこの問題集は無料配布を条件に塾・学校での利用が許可されています。また、現在どん ぐり倶楽部で売っているすべてのテキスト・問題集・添削例etcを買っても3万円です(期間限定だが今は1万円で買える)。そして子どもの学習相談や生活 相談は掲示板で行っています(もちろん無料)
つまりどんぐり倶楽部に惚れ込んでもそんなに金はかからないということです。

>「米国国立精神衛生研究所のデータ」
http://homepage.mac.com/donguriclub/nature-vol440.html  ぜひこれを読んでいただきたいです。

>私の孫は、まさに日本語の基本的な構造を体に備えつつある段階(4歳)ですが、知らない言葉に出会うと、面白がって、ときどき自分で勝手に「回転読み」 みたいなことをやります。(字を使わないし、教室で学習するのでもないし、遊びみたいに独り言を言っているだけですが。)言葉を獲得する途中では、「反 復」というのが必要だから、孫は勝手に「反復」をやっているのでしょう。自分に向けて確認しているのでしょう。私も他の家族も、孫に反復の必要性など一言 も言ったことがありませんが、遊びみたいにして勝手にやっているのをたまに目にすることがあります。

(引用)
「学力とは何か〜理解力・思考力・判断力の育て方〜」
1.「学力」とは何か
・「分かる」と「解る」
・「分かる」から「考える」へ
・指導者の根本的な誤り:思考停止状態を「深く考えている」という保護者
※「悩んでいる」状態と「考えている」状態は全く違う
・考え方を教えなければ学力は育たない(子供任せになってしまう)
※教育の大誤算1:知識を与えて考え方を教えない先生は
「知識が増えれば考える力は自然に育つ」という根本的な間違いを平気で言う。
※肝心なのは考えるとはどうすることかを具体的に教えることである。
「全世界の言葉を全て知っていても考え方を知らなければ何も考えられない」
「一言も言葉を知らなくても考えることは出来る」

2.判断力の素は幼児期の安定した感情である。
・「分かる」から「判断する」まで
 「分かる:理解するということ」→「考える:思考するということ」→「判断する:結論を出すということ」
 「イメージ再現」→「イメージ操作(移動・変形・連想・比較:予測・類推)」→「イメージの選択・抽出」
・選択したものを信じる力はどこから生まれるのか
・教育の大誤算2:比較できれば選択できると思っている。
※選択はどれを抽出するかの決断である。決断するには自分を信じる力がいる。
 自信(自分を信じる力)は自分の感情を信じることが出来る確かな体感イメージを必要とする。幼児期の安定した(十分に繰り返された納得できる)体感イ メージが判断力を育てる。幼児にとって「遊び・友達」が重要な理由である。

3.長期教育が失敗するとき(学力を育てられない教育)
<幼児期の失敗:知的系統的学習の失敗:知識が思考に繋がるという根本的な勘違い>
・安定した感情をもたせないと異常な判断をしたり、判断できなかったりする。
→安定した感情の養成は幼児期の安定した(十分に繰り返された納得できる)体感イメージを必要とするので本当の学力を育てたいのであれば幼児期に感情が不 安定になることはさせない方がいい。
→幼児期の知的系統的学習は最も害になる(感情の不安定を招く)ストレスを増加させる。
<児童期の失敗:速さが頭の回転を良くする「頭が良くなる」という根本的な勘違い>
・「考える」とは「どうすること」かを具体的に説明して考える練習(イメージ操作練習)をしないとどんなに「読み・書き・計算」を強化しても思考力は育て られない。
・イメージ再現しかしていない「分かる」までなら数をこなせば条件反射的にできるようになるが、肝心なイメージ操作は練習をしないと自然にはできない。様 々な体験の中から子供自身が考え方を発見して学力を自分で育てているのが現状である。全ての子供に学力を与えたのであれば学力そのものである考える力(イ メージ操作力)を育てなければならない。
(引用終わり)
糸山さんは幼児期と児童期を分けて考えています。幼児期の自発的な反復は重要と言っています。
ちまちまで申し訳ないですがまた明日書きます(枝葉の部分の議論が主になってしまって申し訳ない)
 

【11940】
根石さん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月 2日(金)03時54分15秒
  ていねいなコメン ト、ありがとうございます。
「思考の上級者」との言葉のやりとりは、実に気持ちのいいものだと久しぶりに感じました。

『英語どんでん』で紹介された塾生(岡田君)の事例の背後に、根石さん自身の「嵐の一年」というような経験があったとは、驚きでした。もっとも重要な経験 についてはあえて触れないというのも、批評の極意でしょうか。

全面対決か、などと無責任にあおってしまいましたが、ひきこもり22年さんのシンプルなコメントには好感がもてます。ただ、あげあしとりかもしれません が、「一言も言葉を知らなくても考えることが出来る」というのが糸山さんの言葉であるとしたら、糸山さんの考えが教育の技術論、マニュアルであって、「思 想」ではないことの証左だと思います。それが、いいとか悪いとか言うわけではありませんが。

それでは、これからも時々はお手合わせください。ちなみに、根石さんの詩の中で一番好きなのは、「書店で礼服にくるまれて銀色に」です。
 

【11941】
債務超過、1千億円 NOVAの資産大幅目減り  投稿者:外野。  投稿日:2007年11月 2日(金)04時51分34秒
   会社更生法の適用 を申請した英会話学校最大手、NOVAが会社清算した場合の実質的な 債務超過額が、1000億円近くに 上ることが1日、分かった。資産価値が帳簿上の評価の10分の1程度にとどまるためで、支援企業が見つからずNOVAが破産すれば、30万人を超える受講 生への授業料返還は極めて困難になりそうだ。

 NOVAが先月26日、大阪地裁に提出した会社更生手続き開始申立書などによると、7月末時点の帳簿上の資産は423億円で負債は439億円。負債が資 産を上回り、帳簿上の債務超過額は約16億円となっている。

 しかし、会社清算して教科書や物品などを処分する際の価格は大幅に目減りし、事実上の資産総額は約42億円にとどまる。さらに、これまで帳簿外に多く分 類されてきた受講生の授業料や解約者への未払い返戻金などが約700億円で、NOVAの負債は金融機関への借入金などを含め実質的に約985億円になる。

 このため、資産から負債を差し引いた実質的な債務超過額が少なくとも約940億円となっている。8月以降も講師や社員への給与、家賃の支払いが滞ってお り、債務超過額はさらに膨らみ1000億円程度にも上る可能性がある。

(共同通信社)
 

【11942】
どんぐり倶楽部   投稿者:そらまめ  投稿日: 2007年11月 2日(金)07時44分26秒
  根石さん、掲示板参 加のみなさん、はじめまして。
どんぐり倶楽部に出会って一年半、自他共に認めるどんぐり大好き人間です。
小二と4歳の息子がおります。

どんぐり倶楽部について、少しだけ書かせてください。

まず教材ですが、一万円のCDですが、内容的にはかなり濃いものです。
良質の文章題全学年分、これだけ算数計算編(数えたことはありませんがプリントアウトすると2cmくらいの厚みがあります。これらはワード形式ともう一つ 形式が入ってます(すみません、パソコン音痴で)。
それから漢字塗り字一年分+漢字読本。
思考の臨界期という書籍。
講義録など、盛りだくさんです。
そして一度CDを買うと、次からは一万円引きで買うことができます。
1万円のCDの場合は千円になります。

漢字の塗り字帳というのは1年生のものしかないのですが、会員のお母さんたちが自分の子供のために作られたものを提供され、無料でダウンロードできるよう になっています。
他にも会員の工夫が取り入れられたり、「草の根活動」のような感じです。

オンライン教室のほうはもともとのどんぐりファンのためというよりは新規層(生活レベルの高いお受験層や、たくさんの資料を読むのが苦手な方向け)の開拓 のためかな、という感じもあります。HPを読み込めばオンラインを無理に利用しなくてもお釣りが来る感じです。お金がかかるのは運営上の経費が必要だから でしょうが、それ以前に糸山先生が無料でなさってきた活動はものすごい作業量だと思います。

で、私も友達に文章題をプリントアウトして配りまくり、本をプレゼントし…ある意味お金を使っていますが、これは私の趣味みたいなものです。
実は働いている塾でも文章題をとりいれてやっているのですが、「お母さんが理解されたら家で使われるほうがはるかにいいです」と言っちゃって、プリント渡 しちゃって…塾長からにらまれていますし、「できること」に意味はない、と言うような主張をしてしまうため、しょっちゅう塾長からダメだしをされていま す。早晩首になりそうです。。。
それでも好きですので、やめさせられたら寺子屋やろうと思っています。

もう一つ、根石さんに申し上げたいことがあります。
糸山先生の「12歳が思考の臨界期」という理論は、アメリカの何チャラというデータに基づいているのではありません。
糸山先生ご自身が目の前のお子さんを見て・感じた結果たどり着かれたものです。
根拠は「目の前の子供」です。
データはその理論を裏付けする資料でしかありません。
私たちも「何かをさせなくては」という「させること」の誘惑に満ちた世の中にあって、目の前の子供の反応だけを見つめ・感じて、子供の「自然」を邪魔せぬ ように修行中です。
決してアメリカの何チャラと言うデータを信じているのではありません。実際いくら見てもよくわからない私です。。。
だから他のお母さんに薦めても反応がいまいちだったりするんですよね。。。

またどんぐりは学校秀才を作るものではなく、うちの息子はテストは軒並み50点以下ですし、学校のテンポに全く着いていっていません。しっかり落ちこぼれ ております(笑)。
漢字等、面白いくらい覚えません。

知り合いのうちの可愛がっていたワンちゃんが亡くなっても、友達が神妙に拝んでいる横でに「足が痛いなどと」愚図りまくる。。。「大人好み」の表現はして くれませんね。

長くなり、すみませんでした。

今回、吉さんを通じてこの掲示板に出会うことができ、大変感動しました。
根石さんの言葉一つ一つが感動の塊だな、と。
ありがとうございました。
 

【11943】
学力と学ぶ力   投稿者:Jackie  投稿 日:2007年11月 2日(金)08時58分20秒    編集済
  根石さんは学力をそ だてようとはしていない。
でも学ぶ力を育てようとはしている。
生きる力というと大げさすぎ〜!だが英語を通してその種のものをはぐくもうとしている。


ところで私は根石さんを信奉もしていなければ、信仰もしていない。
だからお布施もしていなければ、布教活動もしていない。
根石さんのレッスンをいつかは取りたいとおもいながらも、
一歩も踏み出してはいない。自分では時に真似事はやりつつもそれはあくまで真似事であり。
踏み出していないから、根石さんの語学のよいところも、体験していないから理解していないのであろう。

根石さんが真理だとはおもわないし、いいところは取り入れていこうとは思う。
「このおっさん頑固だなあ」とか「哲学だか思想だがしらないが、自分には理解不能」と思うこともままある。

それは根石さんの言葉が一般には難しすぎることもあるし、
私の知識不足理解力不足から来るものだったり両方だろう。
だから体験がひつようなのだろうが。




吉さんは、磁場帰りなのに机上を忘れない人だ。
根石さんの語学論をよく理解した。
だからHPでもその語学論を皆に広めようとした。
言葉の使い方が論理的ながら一般的にわかりやすく、いわば根石さんと娑婆の通訳もしていたこととなる。


返ってきて欲しいなと思う。
なぜ、吉さんが急にここを去ることをきめてしまったのか、
私は解せない。
その上、コーチングを実践している吉さんだ。

何故?

信奉するものを傷つけられたからか?

根石さんが理解しようとしなかったからあきらめたのか?

時に恋は盲目になるが、信仰も盲目となる。


寛容、そして話し合い、理解・・・その前に討論という名の、一種の喧嘩。

乗り越えてこそ生まれるものがある。

遮断からは何も生まれない。





ところで、「王禄」がうまいです。めったに飲めませんが。
 

【11944】
反復   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月 2日(金)10時22分18秒
  初めて書き込みま す。
糸山さんは反復は否定していませんよね。彼はシュタイナーの影響を受けており、シュタイナーは反復を重視しています。なのに、糸山さんの文面から反復を否 定しているようなニュアンスを受け、矛盾しているのではないかな、と質問したことがあります。彼の回答は、体験の反復は良いと。彼の文章題において絵図を 描くことは実体験なんだと認識しています。そして、どんぐりの文章題では何回も同種の問題が反復されますね。これが私の息子には合いませんでした。切れ ちゃうんですよね。またおんなじかよー、めんどくせー!オヤジの方も根気よく続けさせる気力体力無し。で、止めました。どんな方法論でも、つまるところ学 習者と、そのサポーターに合うか合わないかで決まってしまいます。今は、とにかく、毎日一定時間、何事か学習を継続させること。このことのみ考えていま す。やっているのは小説の音読と書写のみ。これだけはやれ!最低限だから。最低限やるべきことをやらない者には、やりたいことをやる権利はない!と、なか ば強制です。音読の習慣さえつけておけば、中学に上がって英語が入ってきてもつながるかなと思っています。今の親は本当に子育てに神経質ですよね。私もご 他聞にもれません。でも、それは仕方がないと思っています。時代状況ですので。めいっぱい神経質に楽観主義でいく、という感じでしょうか。
 

【11945】
NOVA株が大量流出 コンサルから投資会社に  投稿者:外野。  投稿日:2007年11月 2日(金)21時25分51秒
   経営破たんした英 会話学校最大手NOVA(大阪市)の猿橋望前社長(56)らが資金調 達のため東京都内の経営コンサルティング会社に渡した大量の同社株が、返還されないまま投資会社や一般の投資家に流出していることが2日、分かった。

 猿橋氏代理人の弁護士は「預けただけなのに、約束だった10月末の期限が過ぎても返還されない」として詐欺容疑などでの刑事告訴も検討している。これに 対し、コンサル会社は「貸株契約書もあり、どういう根拠で法的措置を取れるのか」と反論している。

 流出したのは、猿橋氏が7月末に渡した2200万株のうち800万株。発行済み株式の約12%に当たる。コンサル会社は運用のため一部を投資会社に譲渡 し、残りを市場で売却した。ところが9月に入り、猿橋氏が株の返還を請求、“消えた800万株”としてトラブルになった。

(共同通信社)
 

【11946】
根石さんへ   投稿者:ひきこもり暦22年   投稿日:2007年11月 3日(土)01時53分22秒
  糸山さんは思考の臨 界期以降の思考回路作成についてこう言っています。
(引用)
臨界期後の回路作成(実はコレは組み合わせによる回路作成なので基本回路の作成とは
本質的に異なります)は臨界期までに作られた(意識して作っていない場合は遊びや趣味などで偶然に作られた回路)を組み合わせて作る回路のことです。
※ですから、この根本的な仕組みが分かっていないと「大人だった考えられるようになるぞ」とか「思考回路は増えるジャン」とか「大人の方が入り入り考える よ」という根本的な思考回路の認識のズレが生じたままの議論が生まれます。これは不毛な議論です。
(引用終わり)

また、こういう文もあります。僕はこの文のうまい位置づけができていませんがあえて書きます。
(引用)
子供のころ、算数の文章問題が苦手だった人は少なくないと思います。そして、それが原因で数学嫌いになった人も多いでしょう。ところが、あれほど手を焼い た算数の文章問題も、大人になってからやってみると、意外にスラスラと解けてしまいます。なぜでしょうか?いつの間にか数学の力が身についたのでしょう か。そんなわけはありません。私達はさまざまな経験を積み、いろんなものを見てきたために、子供のころにはできなかった文字の映像化(頭の中で文字を視覚 イメージとして再現すること)ができるようになったのです。長い文章もイメージ化すると単純に表せますから全体像が見えてきます。それで何を答えとして求 められているのかが分かってしまうのです。見えると分かるんです。子供のころは文章問題の字面を追っていただけですが、大人になると文章問題の全体像が見 えるようになるのは視覚イメージを使って考えることができるようになるからなのです。このように、視覚イメージを使って考える力を、私は「視考力」と呼ん でいます。
(引用終わり)
また、そらまめさんの言うとおり糸山さんはこう言っています。
(引用)
私はできあいの理論を信じません。私は目の前の子供たちの反応だけを信じることにしているからです。
(引用終わり)
具体的に「思考の臨界期」の存在に気づくキッカケとなった子どもの反応とはどのようなものだったんでしょうか?との質問に糸山さんはこう答えています。
(引用)
●全く同じ時間、全く同じ説明をしても、全然反応が違う、吸収力が違う。そして、それは、学校での成績とは全く関係ない。しかも、それは小4-6で決定的 になる。こんなことは塾の先生なら誰もが経験します。ですが、どうしてなのかを深く考えないし、検証しようともしない。つまり、本当の意味では気付かな い。それだけです。
●子供が奇蹟の塊だと気付かないことと同じです。●人間は二足歩行ロボットを作るのに莫大な時間と労力を掛けましたが、人は何の訓練もせずに出来ます。こ れは奇蹟に値します。でも、気付いている人は少ないですね。
(引用終わり)

・「心の祖型」=「三つ児の魂」
・人が心を駆使して考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞もない。
根石さんこの二つの事柄をできるだけわかりやすく説明していただけませんか?
 

【11947】
ひきこもり暦22年 さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 3日(土)03時21分46秒
  >つまりどんぐり倶 楽部に惚れ込んでもそんなに金はかからないということです。

 わかりました。私のレッスンの方がお金がかかりますね。データだけ売るのでないので、ごかんべんを。

>「米国国立精神衛生研究所のデータ」
http://homepage.mac.com/donguriclub/nature-vol440.html  ぜひこれを読んでいただきたいです。

 レッスンの後に、風呂に入り休んでから、どんぐり倶楽部をざっと読んだと同じ程度にざっと読みました。
 これは、脳のどの部分がどの年齢に急激に(あるいはゆっくりと)発達するか、あるいは急激に(あるいはゆっくりと)下向きになるかとということと、IQ との相関関係を研究したものだと思います。
 仮説として、なかなか魅力のあるいい論文です。
 しかし、しょせんIQ周りの研究であり、「豊かな心」とか「抵抗素」とか「思考の暴発」とは何の関係もないものでした。
 そして、一応読んでみたところでは、「12歳=臨界期」などというものはこの論文にはありません。
 糸山はこの論文を援用して、「12歳=臨界期」を言っています。真っ赤な嘘です。
 グラフのいくつかに「12歳」のところに注意すべきだとしたのか、それが調査した年齢(7歳から18歳だったか?)の中央にあたるという意味なのか、年 齢を示す「12」という数字が赤い文字になっています。(丁寧に読む時間があり、赤い文字になっている理由がおわかりになった方は私にお教え下さい。)
 提示されているグラフと論文の私の流し読み(私の辞書に載っていない脳科学や生理学の単語がいくつもあり、流し読みしかできませんでした)によると、 12歳のあたりに見当たる現象として、IQ的に超優秀な子供は、優秀児・普通児よりも、脳の発達が悪くなる=脳の特定の部位の濃さの(増加)において追い 越されるという現象は読み取れました。
 つまり、糸山が言っている「12歳」は、超優秀児(アメリカの論文の言葉では、superior intelligence)が、優秀児や普通児に追い越される年齢のことでした。

 superior intelligence は中原中也やランボウのことを思えばわかるし、high intelligence は小林秀雄あたりかもしれませんね。normal は私であり、low はうちの女房だと言えば、さしさわりがあるので、途中でやめときますが。

 中原の詩にあったと思います。「下手な(わかっていない)大人に早く手を入れられたかなしさよ」というような意味の詩句が。
 そういうと、糸山が言っていることと同じように聞こえるかもしれませんが、まるで違うと思います。糸山は「12歳」が臨界期だから、12歳になる前に (早く)手を入れろと言っているのです。

 中也の詩集を持っている方が引用して下さればありがたく思います。私も持っているのですが、引っ越し後7、8年経つのに、出てきません。日記だけ出てき ました。

 いやあ、糸山は実にずるいと思いましたね。
 12歳の赤い字を、「赤信号」だとしているのです。

 そりゃ、そのあたりで「優秀児」や「普通児」に(脳の発達において)「超優秀児」は追い越されるのですから、「超優秀児」にとってのみ、「赤信号」かも しれません。「超優秀児」という一種のかたわにのみ当てはまることを、糸山は日本の子供のすべてに当てはまるかのように「12歳」を設定し、「臨界期」だ などと嘘を言っています。詐欺です。

 何が臨界期かよ。グラフはどれもゆるやかな弧を描いていらあ。「超優秀児」のグラフだけが、急激に下降線を描いているが・・・。

 この研究が示しているのは、マザーグースの(歳をとればとるほど)「おいらますます馬鹿になる」(谷川俊太郎訳)ということでした。
 このことは普遍的で、「超優秀児」も「優秀児」も「普通児」もみんなそろって馬鹿になるのです。(脳の部位のなんとかの濃度だけ見れば)
 その場合、とりわけ「超優秀児」が馬鹿になるスピードは早いというだけのことでした。
 これはまた、「子供の頃は天才。大人になればただの人」と娑婆が言っている現象と同致します。
 この研究の欠点は、low intelligence の子供を対象にしていないことです。superior intelligence と high intelligence と normal (だっけかな) intelligence だけが研究の対象です。まるで low intelligence の子供はこの世にいないかのような研究です。抹殺するかのようです。
 さすがに、中東の「子供」を、「生活」を平気で殺し潰す国の研究です。

>(引用)
「学力とは何か〜理解力・思考力・判断力の育て方〜」
1.「学力」とは何か
・「分かる」と「解る」
・「分かる」から「考える」へ
・指導者の根本的な誤り:思考停止状態を「深く考えている」という保護者
※「悩んでいる」状態と「考えている」状態は全く違う
・考え方を教えなければ学力は育たない(子供任せになってしまう)
※教育の大誤算1:知識を与えて考え方を教えない先生は
「知識が増えれば考える力は自然に育つ」という根本的な間違いを平気で言う。
※肝心なのは考えるとはどうすることかを具体的に教えることである。
「全世界の言葉を全て知っていても考え方を知らなければ何も考えられない」
「一言も言葉を知らなくても考えることは出来る」

2.判断力の素は幼児期の安定した感情である。
・「分かる」から「判断する」まで
 「分かる:理解するということ」→「考える:思考するということ」→「判断する:結論を出すということ」
 「イメージ再現」→「イメージ操作(移動・変形・連想・比較:予測・類推)」→「イメージの選択・抽出」
・選択したものを信じる力はどこから生まれるのか
・教育の大誤算2:比較できれば選択できると思っている。
※選択はどれを抽出するかの決断である。決断するには自分を信じる力がいる。
 自信(自分を信じる力)は自分の感情を信じることが出来る確かな体感イメージを必要とする。幼児期の安定した(十分に繰り返された納得できる)体感イ メージが判断力を育てる。幼児にとって「遊び・友達」が重要な理由である。

3.長期教育が失敗するとき(学力を育てられない教育)
<幼児期の失敗:知的系統的学習の失敗:知識が思考に繋がるという根本的な勘違い>
・安定した感情をもたせないと異常な判断をしたり、判断できなかったりする。
→安定した感情の養成は幼児期の安定した(十分に繰り返された納得できる)体感イメージを必要とするので本当の学力を育てたいのであれば幼児期に感情が不 安定になることはさせない方がいい。
→幼児期の知的系統的学習は最も害になる(感情の不安定を招く)ストレスを増加させる。
<児童期の失敗:速さが頭の回転を良くする「頭が良くなる」という根本的な勘違い>
・「考える」とは「どうすること」かを具体的に説明して考える練習(イメージ操作練習)をしないとどんなに「読み・書き・計算」を強化しても思考力は育て られない。
・イメージ再現しかしていない「分かる」までなら数をこなせば条件反射的にできるようになるが、肝心なイメージ操作は練習をしないと自然にはできない。様 々な体験の中から子供自身が考え方を発見して学力を自分で育てているのが現状である。全ての子供に学力を与えたのであれば学力そのものである考える力(イ メージ操作力)を育てなければならない。
(引用終わり)

 こういうふうにずらずらと並べられると、脅迫だと感じないですか?
 私はむかむかしてきます。

>糸山さんは幼児期と児童期を分けて考えています。幼児期の自発的な反復は重要と言っています。

 私は今までのところ読むことができていませんが、そう言っているのなら結構です。
 児童期に本当に必要なのは、私は素読だと思っています。それを無視し続けているから、日本はこれほどにもとち狂ってきたのだとも思っています。
 明治時代の優秀な頭脳は、ほとんど例外なく江戸の末期に素読をほどこされています。それが現在に至るていたらくに導いたのは、大正デモクラシーに圧迫さ れて、ルサンチマンを抱え込んだ農本主義や軍部であり、明治の優秀な頭脳ではありません。暴発したのは、竹下夢二と百姓的感覚の関係ですかね。
 強制するのはいけませんが、子供が受け入れるなら、素読を施してあげるのが一番だと今も考えています。
 「イメージの操作」なんかではない。
 じんわりとイメージを持つことです。

 じんわりとという意味では、「音読」(斎藤孝史)では駄目です。「素読」でなければ駄目だと思っています。
 素読はいずれ大人になったときに触れざるを得ないものを、冷凍し、種とし、さなぎとするのです。だから、「抵抗素」を作れるのです。
 

【11948】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 3日(土)03時58分17秒
  >『英語どんでん』 で紹介された塾生(岡田君)の事例の背後に、根石さん自身の「嵐の一 年」というような経験があったとは、驚きでした。もっとも重要な経験についてはあえて触れないというのも、批評の極意でしょうか。

 岡田ねえ。岡田は東京にいるんだろうか。ちっとも遊びにきやしねえ。どうしているんだろう。サチコに聞けばわかるかなあ。
 岡田について書いたところは、私は割と好きなので、そのうちに引用したいですが、なるべくなら村田君にやってもらいたい。(負担かけてばかりですまねえ がやってくれませんか、村田君〜)

>ただ、あげあしとりかもしれませんが、「一言も言葉を知らなくても考えることが出来る」というのが糸山さんの言葉であるとしたら、糸山さんの考えが教育 の技術論、マニュアルであって、「思想」ではないことの証左だと思います。それが、いいとか悪いとか言うわけではありませんが。

 matsu さんは、私とまったく同じところにひっかかるのだと知り、これまたうれしくなりました。「一言も言葉を知らなくても考えることが出来る」というのは、どう いう考えを考えることができるのか。
 糸山がなかなかいいなと思うのは、人間は言葉で考えるのではなく、イメージで考えるのだというところです。しかし、そのイメージ自体、言葉なしでありう るのだと考えているところがとても馬鹿です。糸山が、「思考」というレベルで想定しているイメージは言葉なしでありうるはずがないのです。
 私は糸山について、いいとか悪いとか言うわけですが、もし本当に「一言も言葉を知らなくても考えることが出来る」というのが糸山の言葉なのであれば、実 に悪いものだと思っています。
 生まれたばかりの赤ん坊も、うんちやおしっこをして腰回りが不快だと泣きます。気持ちがいいとにこにこします。ウチの猫も、外で喧嘩をしてきた時など、 夢を見てうなされたり、うなったりします。しかし、これは糸山が言う意味での「思考」する時のイメージが動いているのではありません。
 身体に基づいた直線的な「感覚」(の神経や苦痛の残像)が動いているだけです。
 糸山がわかっていないものこそ、「イメージ」というものです。
 それが言葉をきっかけとして生じる面しか見ることができず、それを言葉が育て養うのだという面を見ることができていない。そうでなければ、「一言も言葉 を知らなくても考えることが出来る」などというような馬鹿なことを言うはずはないのです。

>それでは、これからも時々はお手合わせください。

 よろしくお願いします。

>ちなみに、根石さんの詩の中で一番好きなのは、「書店で礼服にくるまれて銀色に」です。

 私は自分の詩集(というか一度書いたもの)はまず読まないので、matsu さん、ひとつこの掲示板に引用していただけませんでしょうか。
 「嵐の一年」の10年後くらいに書いたものだったか。
 うろ覚えです。
 

【11949】
そらまめさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 3日(土)04時51分3秒
  >実は働いている塾 でも文章題をとりいれてやっているのですが、「お母さんが理解された ら家で使われるほうがはるかにいい です」と言っちゃって、プリント渡しちゃって…塾長からにらまれていますし、「できること」に意味はない、と言うような主張をしてしまうため、しょっちゅ う塾長からダメだしをされています。早晩首になりそうです。。。
それでも好きですので、やめさせられたら寺子屋やろうと思っています。

 塾が首になりましたら、「寺子屋」の様子をお知らせいただきたくお願いします。私が原理に据えている素読というものは、まさに寺子屋の時代のものです。
 「自分の塾」と書かれるのでなく、「寺子屋」と書かれたところに反応してしまう私です。

>もう一つ、根石さんに申し上げたいことがあります。
糸山先生の「12歳が思考の臨界期」という理論は、アメリカの何チャラというデータに基づいているのではありません。
糸山先生ご自身が目の前のお子さんを見て・感じた結果たどり着かれたものです。
根拠は「目の前の子供」です。
データはその理論を裏付けする資料でしかありません。

 データの現物を読んでみましたが、とうていそうは思えないのです。
 糸山が、「目の前の子供」だと受けのいいことを「言っている」だけです。
 私も12歳を過ぎた直後の子供を見ていると、「こいつら、一生のうちで一番気違いの時期を生き始めたな」とは思うのです。
 そこらに何か節目があるのは確かです。人間の成長の結節点のひとつがあるのだろうと思っています。あくまでも、結節点の「ひとつ」が、です。しかし、そ のことで、「12歳」までに思考の回路を整えなければとんでもないことになる(犯罪に至る)などと考えたことはありません。

 これを脅迫だと読めない人は鈍いとも思っています。

>子供の「自然」を邪魔せぬように修行中です。

 子供の「自然」は、食物(に含まれる防腐剤など)で汚され、溶融炉から出るガス(プラスチック類を有機物と一緒に焼却・溶融するときに出るガス)で汚さ れています。「良質の文章問題」よりも、親は自分たちが捨てているごみの問題をもっとちゃんと問題にすべきじゃないのかと思ってしまいます。産業廃棄物 は、産業廃棄物処理業者に渡った後は、その実際の処理方法は「闇の中」です。
 「自然」という言葉から、そう思ってしまいました。
 子供の体の自然が犯され、そのうえ、その子なりのペースを否定され急かされるなら、その子が犯罪に至った場合に、なんでその子だけ責めることができま しょう。なんで親だけを責めることができましょう。

 国というものがあることになっています。そんなものが幻想だとは、終戦時の闇市をうろついた人の感覚には残っているはずですが、私が生まれたのはその数 年後でした。

 糸山が、現場の先生達にアドバイスをすることは悪いことだとは思いませんが、国家を、文部科学省を、正面から斬りつけることができないことが、糸山の本 質なのです。
 「思考」を教えるだの、「良質の文章問題」を与えるだのでどうにかなる問題ではとうていありえません。

>学校のテンポに全く着いていっていません。しっかり落ちこぼれております(笑)。漢字等、面白いくらい覚えません。

 ゆっくりでいいんです。親が学校の評価や、学校(制度)の中を貫く「階級制」を相対化(馬鹿にすること)ができていればいいんです。知性は学校で育つの ではありません。「面白いくらい覚えません」というように、面白がっていることが大事です。
 今日書いたことですが、小学生でしたら、素読がお勧めです。一度はすらすら読めるようになるまで、ある難度を含んだ文を繰り返し読ませること。あとは、 「書き取り」ではなく、その文に含まれている漢字を「漢字練習」させればいいと思います。(無機的に)(糞文部科学省が決めた)学年相当の漢字をやらせる のではなく、すらすら読めるようにした文に含まれる漢字を(有機的に)練習させるのがいいと思います。反復の回数は、子供が決める回数の二倍程度ですか ね。

>知り合いのうちの可愛がっていたワンちゃんが亡くなっても、友達が神妙に拝んでいる横でに「足が痛いなどと」愚図りまくる。。。「大人好み」の表現はし てくれませんね。

 神妙に拝んでいる友達というのが不気味ですね。その子、学校の勉強はよくできる子じゃないですか?
 心に架空の血が通っているだけの子じゃないですか?
 (もし、その子がそのワンちゃんと遊んだことのある子だったら、暴言となりますので、その場合はお許し下さい。)

 これからもご登場下さい。
 塾というものの可能性を一緒にさぐっていくのにご協力いただきたく思います。
 

【11950】
Jackieさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 3日(土)05時45分38秒
  >ところで私は根石 さんを信奉もしていなければ、信仰もしていない。
だからお布施もしていなければ、布教活動もしていない。

 お布施は要りませんが、「不況活動」(字の打ち間違いではありません)はして下さい。素読舎は今、不況の風が吹き荒れているというか、風も吹かないとい うか、風前の灯火というか、そんな状況です。嵐の前でしょうか。

>根石さんのレッスンをいつかは取りたいとおもいながらも、一歩も踏み出してはいない。自分では時に真似事はやりつつもそれはあくまで真似事であり。踏み 出していないから、根石さんの語学のよいところも、体験していないから理解していないのであろう。

 軽い文章ばかり書かれるJackie さんにしては、「理解していないのであろう」は、実に重たい感じです。誤字が少なくなったことは歓迎です。掲示板に登場して下さった当時は、本当に日本語 を粗末にしておられて、やはり「磁場帰り」の方は、何か大事なものをやられてしまうんだなと思ったことを覚えております。酒が入っておりますので(今夜は ジョニクロです)、言っちゃいますが、それともなんですかね、男に「大事なものをやられてしまうんだな」ということだったのですかね。
 「根石さんのレッスンをいつかは取りたい」についてですが、うちは総合大学ではありませんので、選択の余地はありません。いくつもあるものから、「取 る・取らない」を決めることはできません。
 うちは、近頃、百姓ばかりやっています。どん百姓コースをとれなどと言うならば、選択の余地もあるのですが、いまんところ、Jackie さんは不合格です。
 お金はもったいですからね。使わないほうがいいと思います。
 と言いながら、無駄づかいが止まらないわたくしです。
 と言いながら、金なんかとりたくもないし、使いたくもないと、くだくだと、くだくだと、ああ、くだくだと。じゃ俳句にならんか。

>根石さんが真理だとはおもわないし、いいところは取り入れていこうとは思う。

 生身の人間や、生身の人間が酒を食らって書くことには、心理も糞もあるが、真理や糞はない。いいところを取り入れていこうで、取り入れることができるも のなら、取り入れて下さい。あっしは、どこがいいところでどこがいいところでなくて、どこが悪いところなのか、わかんねえのです。わかるやつは勝手にして くれえ。

>「このおっさん頑固だなあ」とか「哲学だか思想だがしらないが、自分には理解不能」と思うこともままある。

 頑固だなあはその通りです。理解不能は、理解が届かないのでしょう。自分を標準化してもらいたくないです。理解不能と言う人は、その「水準」にいるだけ のことであり、そんなものが「標準」ではありません。というか、アメリカ帰りのくせに、そんな標準(以下)にいつまでいるつもりなのでしょうか。英語を媒 介にしたことのある人の発言とは思えない。惰眠をむさぼるという言葉もあります。別に非難してるわけではありませんが。

>吉さんは、磁場帰りなのに机上を忘れない人だ。

 そうです。それが吉さんの価値です。だから、語学論に目をつけてくれたのだと思っています。

>言葉の使い方が論理的ながら一般的にわかりやすく、いわば根石さんと娑婆の通訳もしていたこととなる。

 まさにその通りです。ほとんど誤訳はありませんでした。大したもんだと思いました。

>返ってきて欲しいなと思う。

 その通りです。

>乗り越えてこそ生まれるものがある。

 それでなければ、「にせもの」だと思います。

>遮断からは何も生まれない。

 うちの女房によく言ってやって下さい。

>ところで、「王禄」がうまいです。めったに飲めませんが。

 これは、メモに書き、レッスンの机の目の前に貼り付けました。
 今夜はウイスキーです。ウイスキーはよく効きます。明日の昼は腹が痛くて、下痢しています。
 

【11951】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 3日(土)07時02分2秒
  >糸山さんの文面か ら反復を否定しているようなニュアンスを受け、矛盾しているのではな いかな、と質問したことがあります。彼の回答は、体験の反復は良いと。彼の文章題において絵図を描くことは実体験なんだと認識しています。

 「認識しています」の主語は、糸山さんなんでしょうか、らくださんなんでしょうか。
 文章題において絵図を書くことが実体験であるなら、どんな文章に触発されたのであれ、自分で文章を書くことも全部、実体験です。私は、そんなふうに考え ることにとてもエネルギーを必要とします。
 書き言葉を介在させて一人でやることは、すべて架空の体験です。
 詩を書く段になると、色即是空という虚実の互換性が生じますが(言葉を置くことが実体験になりますが)、まあ、たいていの人がこれを実行すると滅びます ね。
 糸山方式で良質の文章題をいくつ扱おうが、そんな危険はない代わり、それが実体験になることもありえません。

 糸山方式で子供が文章題を読み、絵図を描くことも架空の体験であり、私が根石方式で「大風呂敷」に書くことも架空の体験です。そういう区別を失えば、生 きている人間のすることなすこと、100パーセント、ぴったり全部「実体験!」しかありません。夢を見ることまで「実体験」です。
 そんな論理は、ただ「実体験」だけして生きている無知で無学な(例えば私の親みたいな)人々に対して失礼だとは思わないでしょうか。もし、糸山が本当に 「体験の反復は良い」とか、「絵図を描くことは実体験」だと言ったのだとしたら、いよいよもって私が殺意を抱くことになる雲行きなのでしょうか。

 「体験の反復」?
 体験など、やたら反復できるものだとは思えないのです。なめてんじゃねえのかと・・・。
 例えばですが、初めて自転車に乗れるようになった体験を、どうやって反復するのですか。反復できるものなら、「初めて・・した体験」にならないという か、「初めて・・した」が反復することで壊れてしまう・・。
 そして、体験には「初めて・・した」ものが多いのです。
 ふつうそういうものを「体験」と言っていると思います。
 反復していいものは、「体験」ではありません。
 糸山が本当にそんなことを言ったのなら、何もわかっていない野郎だと改めて思いました。
 なぜだか、急に広島大学の柳瀬という野郎を思い出しました。

>そして、どんぐりの文章題では何回も同種の問題が反復されますね。これが私の息子には合いませんでした。切れちゃうんですよね。またおんなじかよー、め んどくせー!オヤジの方も根気よく続けさせる気力体力無し。で、止めました。どんな方法論でも、つまるところ学習者と、そのサポーターに合うか合わないか で決まってしまいます。今は、とにかく、毎日一定時間、何事か学習を継続させること。このことのみ考えています。やっているのは小説の音読と書写のみ。こ れだけはやれ!最低限だから。最低限やるべきことをやらない者には、やりたいことをやる権利はない!と、なかば強制です。音読の習慣さえつけておけば、中 学に上がって英語が入ってきてもつながるかなと思っています。今の親は本当に子育てに神経質ですよね。私もご他聞にもれません。でも、それは仕方がないと 思っています。時代状況ですので。めいっぱい神経質に楽観主義でいく、という感じでしょうか。

 音読の習慣とおっしゃいますが、「なかば強制」の「なかば」をとった「強制の習慣」とならないことを願っています。
 なんで小説なんか音読の対象に選ばれたんでしょうか。「音読」をやるのなら、エッセイがいいと思います。
 英語をやらせるなら、どうぞご自分でやらないでいただきたく思いました。ご自分でやられるとお金はかかりませんが、多分英語が嫌いになりますから、たい てい取り返しはつきません、と「脅迫」しときます。
 親はコーチとしては、非常に多くの場合に不適です。
 言わなくてもいいことを言い、子供が傷つき、そのために親が傷つくケースが多いです。日本の多くの家庭で、非常に危険です。日本語が、「傷」を防ぐため の論理性(感情に左右されない論理性)を備えにくい言語なのに、ひたひたとドラスティックにアメリカが押し寄せてきているからです。
 医者の家の息子が親を刺しただったか、去年だったから一昨年だったか、ニュースで見たような覚えがありますが、まず間違いなく、言わなくてもいいことを 言い、子供が傷つき、親が傷ついた(刺された)のだと思っています。刺されて怪我したのだったか、刺されて死んだのだったか、それも忘れてしまいました が、どっちでも同じです。(怪我したご本人、死んだご本人、あるいはまた、刺したご本人にはまったく違うことになるのですが・・・)

 もちろん、この危険を免れるだけの実力を備えた家庭もあります。
 それは、思想家がいる家庭です。もちろん、この場合の思想家は、文章を書けるとか、娑婆が思想家と呼ぶかどうかとはまったく無関係です。
 感じることと考えることを両方とも手放さないこと、手放さないことを持続しうること、くらいの意味です。
 

【11952】
ひきこもり歴22年さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 3日(土)07時10分29秒
  >・「心の祖型」= 「三つ児の魂」
・人が心を駆使して考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞もない。
根石さんこの二つの事柄をできるだけわかりやすく説明していただけませんか?

 やってみたいと思いますが、明日以降にさせて下さい。
 アタマん中にボウフラが泳いでいますので。
 

【11953】
根石さん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月 3日(土)09時55分7秒
  もう睡眠中でしょう か。
九州では、さわやかな青空が広がっていますよ。

中也の詩は、「つみびとの歌」でしょうか。冒頭に
  わが生は、下手な植木師らに
  あまりにはやく、手をいれられた悲しさよ!
とあります。根石さんの詩の引用の方は、あまりに(性的な)刺激が強いので、女性読者がひいてしまうといけないので・・・ まあ、冗談です。じっくりやら せてください。

糸山さんの、言葉なしに思考できる、という主張への批判は、まったくその通りだと思います。さらに言うと、「全世界の言葉を全て知っていても考え方を知ら なければ何も考えられない」というのも、たとえ比喩としても、ちょっとひどい比喩ですね。
人間は、自分の理解しがたい制度(言語がその最たるものでしょうが)にぶちあたること(根石さん流にいうと、ぶち殺す)を通じてしか、考え始めることはで きない存在だと思います。逆に言えば、複数の言語にひきさかれる経験のなかで、何も考えないということはありえない、ということです。根石さんが、「アメ リカ帰り」のJackieさんに対して厳しく言うのも、その意味での期待があるからかもしれません。
僕も語学は素人ですが、娑婆の世界(保険屋、ピンサロの店員、塾講師を経て、今は根石さんの忌み嫌う教育委員会の事務屋をしています)と自分の言葉との ギャップを絶えず意識せざるを得ませんでした。たとえほそぼそとでも考え続けることができたのだとしたら、その落差のおかげだったと思っています。

ところで、どんぐり倶楽部から来られた方たちは、みなさん穏やかですね。根石さんの暴言(暴力的な言葉、という意味です)にも、いきりたつことなく自分の 言葉を話されている。これは、みなさんが自分の子育てという目的のための方法論・技術論として、糸山さんの考えを実用的に使っているからだと思います。
この点でも、吉さんの糸山さんへのかかわり方というのは、ちょっと異質だなという印象があります。ないものねだり、といったら失礼でしょうが、何かを希求 するという意味では、それが吉さんの美質なんだろうと思います。

僕の長男はすでに12歳!(次男は、人よりずいぶん遅れたところを、とことこ歩いています)学習方法や問題集のことまで、親が口出しするなんて思いつきも しませんでした。みなさんのコメントをよんで、正直なところ、少し反省しています。
 

【11954】
素読と音読   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月 3日(土)10時17分34秒
  >「認識して います」の主語は、糸山さんなんでしょうか、らくださんなんでしょう か。

失礼しました。主語は「私は」です。私は数年前にシュタイナーの人智学およびその人間観・教育観と、糸山さんの「算数文章問題」との関係について質問しま した。その時の糸山さんの回答から、そのように認識しました。糸山さんは「算数文章問題」を体験そのものとは言っておらず、体験に<似ている>と表現して いますが。その時の糸山さんの回答の主旨は以下の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
・シュタイナーは体験の積み重ね(体で納得すること)を主軸に考えている。その点が教育に関する自分との共通理念。人間は体験で深く納得するから。
・シュタイナーのいう反復や暗唱の重要性は単に反復するということではなく体験を積み重ねることで深めるということ。単なる繰り返しを意味してはいない。
・「とことん考える」ために「算数文章問題」をするのではない。これは「目で考える」練習。
・「目で考える」ことと「体験の反復」は似ている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

> 親はコーチとしては、非常に多くの場合に不適です。

それはおっしゃる通りだと思います。文科省がゆとり教育を打ち出し、今度はそれを否定する方向で右往左往していますが、ゆとりなど生ぬるいことを言わず に、学校教育を1/3ぐらいに縮小し、その分、税金を返してくれるとよいのですが。そうなれば、

>英語をやらせるなら、どうぞご自分でやらないでいただきたく思いました。

英語は素読舎で、運動はサッカーのクラブチームで、音楽は地元の合唱団で...とでき、親が無理してコーチングなどする必要はなくなります。

> なんで小説なんか音読の対象に選ばれたんでしょうか。「音読」をやるのなら、エッセイがいいと思います。

アドバイスありがとうございます。そのあたりは深く考えませんでしたし、考えても適切な判断は無理だったと思います。総ルビ付きが良いと思い、市販で手頃 と思った教材を選びました。小説よりエッセイが良い理由を教えていただけますでしょうか。また、息子は小6なのですが、読ませると良いエッセイをいくつか 推薦していただけるとありがたいのですが。

それともう一点、素読は意味の分からない文章を読む、音読は意味の分かっている文章を読む、という区別でよいのでしょうか?

> じんわりとという意味では、「音読」(斎藤孝史)では駄目です。「素読」でなければ駄目だと思っています。
 素読はいずれ大人になったときに触れざるを得ないものを、冷凍し、種とし、さなぎとするのです。だから、「抵抗素」を作れるのです。

音読はダメで素読が有効ということであれば、意味の分からない漢文とか古文とかの方が良い、のではないかと思ってしまうのですが。

>「なかば強制」の「なかば」をとった「強制の習慣」とならないことを願っています。

「なかば」を付けた理由は、最低限の自覚は持っている意思表示のつもりです。「強制」と言えば、「素読舎っていう面白い英語塾があるんだけど、レッスン受 けてみるか?」も「え?根石先生が厳しいから、もう嫌だって?おまえ、そんな簡単に辞めていいのかよ。もう少し考えてみろよ」も強制と考えています。

全くの放任はあり得ない、という意味での「強制」です。ニュースになった医師一家の話は痛ましい事件ですが、あの家庭は極端な例だ、という気持ちと、全く の他人事と切り捨てることはできないぞ、という気持ちとがあります。
 

【11955】
磁場   投稿者:Naima  投稿日: 2007年11月 3日(土)10時56分41秒    編集済
  根石さん

回転読みは本気でやると他のことは何も出来なくなるくらい大変です。そうでないと使える英語にならないということですね。私は他のことに興味が移ってしま い、英語の仕事も辞めてしまったあたりから電話レッスンに身が入らなくなってしまいました。回転読み仲間と定期的に集まって、一緒に宿題を出来たらいいん やけど...と何度思ったか知れません。それでも自分を見限ることが出来ず何度も頑張ってみようとしたんですが、とうとう何のお役にも立てないまま自分の レッスンも中断してしまうことになり、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

磁場のないところで外国語を使えるようになるのは並大抵のことではありません。それこそ血尿が出るくらいの勉強をしなければなりません。そこまでやっても 自在に使えるようにはなりません。語学留学したとか磁場に居たという人たちのほとんどが、たいしたことのない英語を得々として喋っているのを見ると胸が悪 くなり、それを聞いている周囲の人たちが「やっぱり本場仕込みよね」と絶賛するのを耳にすると「ぺっ」とツバを吐きたい気持ちにすらなります。そう褒めら れた英語の使い手が「英語はまず不自由ないです」というのを聞くと、喧嘩を売りたくなります。母国語でさえ意のままに使えないのに、英語に不自由しないな んてなこと、あるわけがないです。

そんな気持ちにさせる英語って何なんでしょうかねぇ。精神病の一種なんだわ、きっと。磁場持ちでないという劣等感と、磁場持ちでなくても磁場持ち以上の英 語力は身に付くんだという優越感がグチャグチャになって、なのにそれが認めてもらえず語学留学組がもてはやされたりすると、もう英語なんかやりたくない わっ、と何度やけっぱちを起こしたか数知れません。

それでも勉強を続けたのは、あんなに苦労したんやもの辞めてしまったらもったいない、その気持ちだけのような気がします。見苦しい未練です。もったいない ほどの英語力なのか、と問われると、ゴミみたいな英語力でしかないんですが。使う機会もないくせに。

しかし磁場のない所で英語を身につけた(どういえばいいんでしょう。修得? 習得? ものにする?)人は、外国語習得の厳しさと勉強法を知っています。そ ういう人に英語を教わるのがいいんです。NOVAなんかで働いているネイティブ・スピーカーに何が教えられるかと思います。英会話学校は教えてもらうとこ ろではない。練習試合の場を与えてくれるところです。机上の練習が大事です。つくづくそう思います。それを知っていることが貴重だと、自分でも思います。 それで勉強法だけでも知りたいという人には伝えたいと思ったり。辞めるんだったらスッパリ辞めてしまえばいいのに、この踏ん切りの悪さ。これも英語が病気 の一種だからでしょうかね。

ドイツに住んで磁場のすごさを経験した今、ますます磁場持ち英語を羨望と嫉妬の目で見る様になった私です。私に英語磁場をくれ〜、と。今私に英語の磁場を くれたらもっと飛躍できるのに!と。あんな人に磁場をあげても猫に小判だ、豚に真珠だ、今の私に磁場をくれっ! それが本音です。もう熱望というか渇望と いうか、絶叫モードです。

英語を始めてからずっと磁場持ち英語に過剰反応していたなぁと思います。うらやましくて、うらやましくて、そして卑屈になってました。

今でもそう。
 

【11956】
誤字脱字   投稿者:Jackie  投稿 日:2007年11月 3日(土)20時08分39秒
  > 軽い文章ばかり 書かれるJackie さんにしては、「理解していないのであろう」は、実に重たい感じです。誤字が少なくなったことは歓迎です。掲示板に登場して下さった当時は、本当に日本語 を粗末にしておられて、やはり「磁場帰り」の方は、何か大事なものをやられてしまうんだなと思ったことを覚えております。

誤字脱字の多さ。多いですよね。(汗)過去ログを読み返してみると、不自然にスペースがあいているし、改行もうまくできていない。今でもそうですが。
これは磁場とはまったく関係はないでしょう。
吉さんのように磁場帰りでもきちんと日本語を使いこなす人はたくさんいます。
そのほうが多いでしょう。


私の場合は発達障害の一つADDという注意欠陥障害があるものと思います。診断は受けていませんが、多々ある症状から推測できます。

>>「このおっさん頑固だなあ」とか「哲学だか思想だがしらないが、自分には理解不能」と思うこともままある。

 >頑固だなあはその通りです。理解不能は、理解が届かないのでしょう。自分を標準化してもらいたくないです。理解不能と言う人は、その「水準」にいるだ けのことであり、そんなものが「標準」ではありません

理解が届かない。そうです。その通りだと思います。私は私の理解を標準にしているかもしれないが、でも根石さんも自分の理解を標準にしてませんか。
だいたいなにをもって標準というのか?

これでも回りからは物事を深く考えるほうだといわれています。 \(^ ^)/。

根石さんの思考と論理、言葉の使い方を標準とするならば、
その言葉は到底一般の人々には届かない。

素読舎が風前の灯というのなら、少しは娑婆に歩み寄ることもひつようなのではないでしょうか?

まー、譲れないものもありますけどね。私自身、英会話幻想と自分自身のゆずれないものの間で苦しみ、結果譲れない、歩み寄れなかったので、風前の灯のとも し火も消してしまったわけですが。

しかし以前くすぶってます〜。

英語の病なんでしょうかね?なんなんでしょうね、ほんとに。
 

【11957】
岡田くんのエピソードの引用 1  投稿者:村田  投稿日:2007年11月 4日(日)00時37分23秒    編集済
  英語どんでんがえし のやっつけ方p 260
===================

塾長
立教に受かって、報告にきてくれて、いろんな話を聞いたんだけど、岡田が言うには、英語をやって国語がわかるようになったと言うんだ。

弟子
国語のできる人は、英語にも有利ですが、国語から英語へ、っていう経路ではなくて、英語から国語へっていう経路なわけですね。

塾長
うん。あいつが言うには、中学の頃は割とよくできたんだけど、国語だけが駄目だったっていうんだよ。国語だけ駄目っていうタイプの子って、ときどきいるけ ど、ほとんどいいやつだよな(笑)。

弟子
ああ、なるほど。あんまりいいやつは国語って科目で点がとれないかもしれませんね。

塾長
あれはさ、自分の思ったことを正直に書いたって点にならない。出題者が何を書かせたがっているのかを読みとらないと駄目だよ。もちろん、出題されてる文章 を読みとるっていうことは前提だけど、それを読みとった上で、出題者が書かせたがっているってことも読みとるようなことをするわけだろう。なんか、複雑な 不潔な感じのもんだ。単に読解力ってところにとどまらないところがある。腹を読むという別種の読解が要求されてる。

弟子
いいやつって、人の腹を読むっていうことが苦手なやつですからね。国語では点になりませんね。逆に、国語の点がよくとれるやつって、いやなやつが多い気が しますが、おじさんは国語はどうでしたか。

塾長
俺は点がよくとれた(笑)。まあ、それでさ、岡田はうんといいやつなんだ。それで、国語だけは点がとれなかった(笑)。そいつが高校一年から俺の塾を使っ たんだけど、割とよく練習したやつなんだ。英語をどんどんやったら、言葉ってのは面白いもんなんだなと思ったっていうんだ。そしたら、日本語で本を読むの も面白いのがわかっったって、彼が言うわけ。

弟子
日本語の文章を読むのが面白くて、そこで読解力を身につけて、英語を語学としてやるときに、その読解力を使うっていうのが普通のたどり方だと思うんです が、岡田君はまるで逆だったっていうことですね。

塾長
言葉を読むことが面白いことを英語で知ったっていう日本人(笑)。要するに、中学のときは字を読むのが嫌いだったんだな。字を読むなんて面倒くさいことを どうして人間はするんだろうっていうくらいに思っていた子供だったんだと思う(笑)。そいつが英語をやって、言葉ってものが面白いと思って、高校生の頃は 自分で本屋へ行って本を買うようになった。日本語の本もどんどん面白がって読むようになって、それで国語ができるようになっちゃった。人の腹が読めるよう になっちゃった(笑)。

弟子
英語を通して言葉の面白さを知ったというのは、珍しいかもしれないですね。

塾長
俺も日本語で培われたイメージ形成力を英語で使ってきたと思うけれど、そこが岡田はまるきり逆なんだ。

弟子
それ、イメージは英語にもなるし、日本語にもなれるっていうおじさんのテーゼを証明したようなことですね。

塾長
岡田にしてみれば、とにかく国語ばっかりはまったくわけがわからん、と。だけど、英語はうんとやってみたということだろう。そしたら、高校の後半で、国語 が得意科目になっていたっていうんだ。その間にあったことは、要するに言葉ってものが面白くなっったってことだけだ。俺はこの岡田のケースがすごく面白い んだ。英語から言葉の力を逆輸入したケースだと言っていいと思う。英語から言葉の力を輸入して、日本語の力に変えたっていうことだ。岡田はうちへ来たとき に、そこのところははっきり言っていたな。「僕は、言葉の力は英語で作った。中学のときはそれがなかったんだ」と言ってた。

弟子
面白いですね。

塾長
こういうタイプのやつだとさ、普通理系へ行っちゃうんだけど、岡田は文系へ行った。素読舎は一応英語塾ってことになってるけど、元のところにあるのは、言 葉ってのは面白いよって思ってるやつが、まあ、おまんまのために(笑)、英語塾をやってるってだけのことなんだよね。岡田は俺の塾で言葉が面白いってこと を知ってくれたけど、そこいらの進学塾の英語なんて、点数を追っかけさせるだけで、言葉の面白さなんて二の次だ。岡田が進学塾の英語をやっちゃったら、受 験が終わった時点で英語は死んでたかもしれない。あいつは別に英語フリークじゃないから、ああいうタイプのやつは、鈴木孝夫のエリート選抜思想からは落と されるだろう。だけど、俺の日本英語っていう理念からは最良の素質の一人だ。ああいうタイプのやつに英語ってものを継続してやってほしいと思ってる。
 

【11958】
岡田くんのエピソードの引用 2  投稿者:村田  投稿日:2007年11月 4日(日)00時39分36秒
  英語どんでんがえし のやっつけ方 p263
===================
●奪われた言葉を奪いかえす
塾長
それで、俺もしばらく考えたよ。岡田のケースってのは特殊なケースなんだろうか、例外的なケースなんだろうかって考えて、案外今の子供には、こういうたど り方をする子供っているのかもしれないと思った。

弟子
英語から日本語へたどる子供が大勢いるかもしれない、と。

塾長
いや、大勢いるとは思わないけど、言葉を奪われた子供が言葉に至る経路として、英語ってものが使えるんじゃないか。その可能性を考えたんだ。

弟子
言葉が奪われているっていうのは、どんな…。

塾長
今の子供って、しゃべらせるとすごく達者に口が動いて、しゃべることはすごくしゃべったりするのがいるけど、なんかテレビみたいにしゃべってるなあと思う ことがあるわけだよ。

弟子
ああ、テレビみたいに…。

塾長
自分の中から言葉をつかみだしてくるっていうんじゃなくて、テレビから拝借してしゃべってる。これ、カルチャーババアなんかでもそうだけどね。戦後市民社 会が形成してる文脈にのっかると、まあよくしゃべるねっていうくらいに、カルチャーババアもしゃべるよね。うるせえよ、この糞ババアってくらいにしゃべる (笑)。

弟子
それは言葉が奪われているんだということですか。

塾長
うん。言葉はあふれかえっている。あふれかえっているけど、自分で考えて、自分の中から言葉をつかみだしてくる力は奪われている。自分で考える人っていう のはなかなかいないよ。戦後市民社会の最大のメディアはテレビだと思うけど、これは言葉を与えることによって、言葉を奪うってことをやってるような気がす る。

弟子
ああ、なんとなくわかります。

塾長
そういう中へ岡田を置くとさ、すごく岡田のやったことってあざやかだなと思うんだ。

弟子
英語から国語へ、ですね。

塾長
奪われていた言葉の力を自分で奪いかえしたっていうことだと言っていいんじゃないか。その場合に、言葉の面白さってのを教えてくれたのが英語だったってい うことだ。これは、案外、今の十代の子供たちにお勧めできることじゃないのかなあと思ったんだ。テレビで育っちゃった日本語は、一度英語をくぐれ、と。

(中略)

塾長
英語の効用もいろいろだなあと思ったね。岡田みたいなたどり方っていうのは、今の子供たちには割りとありうるかもしれない。言葉の力が、普段どういう場面 で出てくるかっていうとさ、一人で考えるときじゃないか。

弟子
考える力っていうことですか。

塾長
考える力ってさ、言葉の力と切り離せないよ。そういう力ってのは、言葉があふれかえっている現代では、むしろ奪われやすいんだと思う。みじめな自分が一人 いる、っていう思いはこの時代の中にいっぱいある。そういう場面で、言葉の力ってのは必要なんだけど。
 

【11959】
Jackie さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 4日(日)01時06分24秒
   どうも。酔っぱ らってから書いたので、やたらに私、からんでますね。ごめんなさい。古 くからの常連さんだと思って甘え ちゃったわけですが、ごかんべんを。今日は、酔いがまわらないうちに書いておきます。この後、教材づくりもやる予定ですが、その間に酔いが回ってしまうで しょう。
 (あ、これでバレてしまいましたが、私の作る英語の教材はアルコールに漬けてあります。)

 書いていて新しい場所へ踏み出そうとするとき、新たに得た考えを言うのに、どうにも易しい言い回しで言えないということがよくあるのです。そういう場 合、ひとまず、現代批評用語というか、文芸批評用語を媒介にして書きますと、その時に言いたかったことのイメージがひとまず私の中に保存されます。それか ら時間がたって、とぎれとぎれに百姓仕事や大工仕事をやりながら考えていると、ある時にひょいと、易しい言い回しで(保存しておいた)イメージを言えるよ うになる時が来たりします。その間、イメージが発酵を続けて酵素を作り、その酵素が易しい言葉を呼ぶのかというような感じがしています。
 ていねいに私の記事を読まれる方は、イメージが現代批評用語や文芸批評用語から日常語・易しい語に着替える場面を読むこともできるはずだがなあと思いま す。Jackie さんが最初から易しい語でどうどうめぐりをやっているのとはちょいと違うのです。

 考えが易しい言葉で言えるようになるまで、結構時間をかけて仕込んでいるんです。辺境のその先に出たいという気持ちがありますので。英語圏なんぞへ行く より、抽象のレベルの辺境をまたいで、その先へ行きたいというのが、そこらの英語病と違うところです。それをやらなければ、語学論などと言ったところで、 「論」にはならないのです。(あ、またやってるわ。)
 考えているものが、やまたのおろちで多岐にわたることが避けられないので、考えに濁りが生じたり、生硬なままの言葉でぶちまけただけになったりするもの も多々あります。吉さんとのごたごたも、そのせいで生じたものの一つだと思っています。

 できた料理だけでなく、仕込みの段階から料理まで見ていただいているのだと思っているのですが、どんなもんでしょう。
 料理だけ出せと言われると、掲示板というものをやっている意味が半減すると思っています。それをやるのなら、ホームページでいいわけです。言いっぱなし で、読んだ人がつべこべ言えない形でいいわけです。読んだ人がつべこべ言える双方向性を保つのであれば、仕込みの段階から、生のものの動きもそのまま読め るようにしたいと考えて掲示板にしています。
 ホームページだけにしようかなともときどき思います。私の「電話でレッスン」の初期の生徒さんたちは、ホームページに言いっぱなしの記事を読んで申し込 まれた方がほとんどです。その方が商売にはなるのです。それはわかっているのですが、わざわざ損なことをやるのが割と好きです。
 掲示板なんぞやっていても、誰も「不況活動」はやってくれないですからね、やめましょうか、この掲示板?
 ご意見をいただきたく思います。

>根石さんの思考と論理、言葉の使い方を標準とするならば、
その言葉は到底一般の人々には届かない。
素読舎が風前の灯というのなら、少しは娑婆に歩み寄ることもひつようなのではないでしょうか?

 うん。力強いアドバイスだと勝手に受け取ります。
 しかし、あのねえ、英語回りの人だって、現代批評用語なんかを媒介にできるようになるべきだと思いますよ。それができるようになるまでにも、一つの語学 をやるくらいに労力は必要なんです。
 Jackie さんは「届かない」と断定されておられますが、いやあ、結構届くんだなあと自分でびっくりしていることがよくあるのですが・・・。

 今日は酔いが回るのが早く、これを書いているうちに目がうるうるしてきてしまいました。なんとか間に合うか?
 

【11960】
村田君   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 4日(日)01時14分58秒
  thanks  

【11961】
Naima さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 4日(日)01時25分1秒
  すごく可愛い。
論は後で書きます。ちょっと教材作ります。
 

【11962】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 4日(日)01時30分53秒
  済みません。
ちょっとお時間を下さい。
 

【11963】
生成文法は人生の最初に一度だけ…でしたね  投稿者:村田  投稿日:2007年11月 4日(日)01時33分14秒
  > 「体験の 反復」?
> 体験など、やたら反復できるものだとは思えないのです。なめてんじゃねえのかと・・・。
> 例えばですが、初めて自転車に乗れるようになった体験を、どうやって反復するのですか。反復できるものなら、「初めて・・した体験」にならない というか、「初めて・・した」が反復することで壊れてしまう・・。
> そして、体験には「初めて・・した」ものが多いのです。
> ふつうそういうものを「体験」と言っていると思います。
> 反復していいものは、「体験」ではありません。

「体験の反復」…これ、ひっかからずに読んでました。
私のことばの感覚は鈍感だなと思います。
根石さんの書いたこの部分は、新鮮でした。
反復するのは「練習」ですね。
同じ例文を反復するごとに、それは練習するものにとっては常に新しい。
けれども、それは「体験」ではない。

…というようなことを考えていたら、「私は赤ちゃんが言葉を覚えるように外国語を覚える」と言った人がいて(それは本であったり、塾を見学に来た大人だっ たり、と、複数)根石さんは「赤ん坊をなめるな。」と言っていたことを思い出しました。
根石さんが、柳瀬さんのことを思い出したっていうのは、この文脈と同じようなことですよね。
 

【11964】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 4日(日)01時35分8秒
  >みなさんが自分の 子育てという目的のための方法論・技術論として、糸山さんの考えを実 用的に使っているからだと思います。

 これはいいですね。そんなにお金がかからないようですから、どんどんやってもらっていいことです。糸山を「実用的」に使うのが一番いいと思います。
 あの野郎のイデオロギーにアタマをやられさえしなければいいわけです。
 

【11965】
村田さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 4日(日)01時37分15秒
  ちょっとお時間を下 さい。  

【11966】
大風呂敷   投稿者:Naima  投稿日: 2007年11月 4日(日)01時40分29秒
  >掲示板なんぞやっ ていても、誰も「不況活動」はやってくれないですからね、やめましょ うか、この掲示板?
 ご意見をいただきたく思います。

Jackieさん、横入りご免なさい。

根石さん、この掲示板のアクセス数、88000件になろうとしてますよ。この数字、どういうことなんでしょうね。
 

【11967】
もしかして、22年さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 4日(日)02時06分24秒
   ええと、どなたへ のお答えなのかわからなくなってしまい、それを確認する時間もないの ですが、ひきこもり歴22年さんでしたか?
 ていねいにお答えできませんが、お許し下さい。
 これだけはやってから教材作りに入らなければ、と私の心が言いましたので、私の心に従います。

・「心の祖型」=「三つ児の魂」

 3歳という年齢で、「心の」祖形は決まるということです。
 「思考の」祖形は「12歳で」というような脅しではありません。
 事実そのままその通りだと思っています。

・人が心を駆使して考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞もない。

 私がこの掲示板開設当初から言ってきたことは、一言で言ってわかってもらえるかどうかわかりませんが、「媒介論ということになります。
 人は、言葉もイメージも磁場中生活も中也の詩も家族の怒りも酔った言葉もなんでもかんでも、「媒介」にできる生き物です。
 外国語習得過程では、「心」までも媒介にするのです。
 ご当人は自覚がありませんが、多くの場合、非常に罪深いことをやります。
 なおさらわからなくなりましたか?
 それとも、小さくてもいいから、何かわかったことがありましたか?
 Jackie さんのために、お応えいただけたらと思います。

 私はでかいつらをして生きることに決めました。
 

【11968】
Naima さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 4日(日)02時14分11秒
  >根石さん、この掲 示板のアクセス数、88000件になろうとしてますよ。この数字、ど ういうことなんでしょうね。

 その前に、無料でティーカップを使っていた頃に、6万件くらいあったのではなかったかと記憶しています。ざっと9万と6万で、15万件ですか。
 硬派の掲示板にしては多い方だと思います。
 私は硬派なんだるうかと思っていますが、歳のせいか、なかなか硬くならないものが一つあって困っています。これからは軟派をやるのがいいのか。なにし ろ、体が軟派だ軟派だ、軟派でいけと言っています。
 どうしましょう?
 

【11969】
matsuさんへ   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月 4日(日)18時13分7秒
  >ところで、 どんぐり倶楽部から来られた方たちは、みなさん穏やかですね。

強烈な皮肉ですね(笑)。私も含みますか?

糸山さんについての発言で書き込みを始めましたが、私は「どんぐり倶楽部から来た方」ではありません。時系列で言えば、素読舎を知ったのが先であり、その 後、どんぐり、どちらも見ていない期間が長く続き、最近あるきっかけで吉さんのブログを知りました。そこで吉さんが根石さんと糸山さんのお二人を師と思わ れている、ということを知ったという順序です。結果は吉さんが根石さんの元を去られるということになるわけですが。

>みなさんが自分の子育てという目的のための方法論・技術論として、糸山さんの考えを実用的に使っているからだと思います。

「思想」に対して「方法論・技術論」、「何かを希求する」に対して「実用的に使う」という二項対立の捉え方は有効でしょうか?「実用的に使っている」方達 も、その多くが糸山さんの「思想」に共感を持ったからこそ、「使ってみよう」と思ったのではないでしょうか。であるからこそ、糸山さんの「思想」を思想と 呼べる代物ではない、ないし、間違った思想だと考える根石さんが糸山さんを断罪するのだと思いますが、いかがでしょうか。違いがあるとすれば「思想」に対 する共感の質と深さの問題ではないかと思います。

>この点でも、吉さんの糸山さんへのかかわり方というのは、ちょっと異質だなという印象があります。

それだけに、この点に同感です。糸山さんの「思想」に対する吉さんの共感がとても深いので、根石さんと決別することになってしまったのでしょう。実名公開 云々という別の問題があったかどうかについては分かりませんが。残念なことは、これは根石さんがコメントされていましたが、「辛い」とか「気持ち」とか、 吉さんの、それこそお気持ちは分かりますが、もう少し論を交えてほしかった、ということです。
 

【11970】
らくださんへ   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月 4日(日)20時44分15秒
  ご指摘、ありがとう ございます。

もし皮肉があったとしたら、自分の気持ちとしては、根石さんに対するものの方が強かった気がします。そんなに激昂しないでほしい、と。

広い意味で「思想」という言葉を使うなら、らくださんのおっしゃるとおりだと思います。
ただ、僕が根石さんに対して使った「思想」とは、いいかえれば、本質論みたいなもののことです。根石さんの糸山さんに対する批判のポイントは、ここに言語 の本質論、ひいては人間の本質論が欠けている、ということだと思いました。
(僕自身は、本質論を欠いたすぐれた実用思想というものはあるし、それへの深い共感も当然ありうると考えます。)
あえて「本質論」対「方法論」という二項対立を持ち出して問題を整理しようとしたのは、吉さんが、根石さんの激昂の理由を了解して、根石さんの語学論と糸 山さんの教育論を自分のなかですみわけてもてるような理屈を、示唆できるかもしれないと思ったからです。そうすることで、根石さんの信頼厚いパートナーに 早く戻ってもらいたい、と。

なんともおせっかいで軽はずみなことですが、そんなことをしようと思ったのは、僕が根石吉久の文学のファンだからだと思います。村上春樹ファンにしろ、吉 本隆明ファンにしろ、ファン心理というものは身勝手でおっちょこちょいなものですから。
 

【11971】
村田君   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 4日(日)23時25分31秒    編集済
  >「体験の反復」… これ、ひっかからずに読んでました。

 私もアタマがはっきりしないまま書いていたなと思い直したところです。
 「体験の反復」はありうる(多くの職人が「体験」を反復している)のですが、「体験」という語を無限定に使えば、なんでもかんでも「体験」になってしま うではないかというのが言いたかったことでした。
 自転車に初めて乗れるようになった体験、糸山作成の良質の問題集の問題を解く体験というように、「体験」という同じ語が使えてしまいます。で、どっちも 「体験」だとしてしまえるのが、この語が日本語としていまだ熟していないということだと思います。本当に熟した語を「・・」とすれば、「・・」という語 は、自転車に乗れるようになったことには使えるが、良質の問題を解くことに使ったら変だという具合に人々の間ですぐに了解が成り立つはずです。それを成り 立たたせるうまい語が日本語にない。ぴったりくる語がないことに糸山は乗じており、だからあんなあやふやなもの言いがまっとうなもの言いとして人々に受け 取られてしまうのだというのが、私の「激昂」の理由なのではないかと思っています。

 そこからもう一つ言えるのが、本当に人々が「言葉ではなくイメージで考える」なら、糸山なんかにアタマをやられることは起こらないはずだということで す。みんな詐術を含む「言葉」にやられてしまっているのです。

 らくださんがシュタイナーのことを書いて下さっていますが、私はシュタイナーはまるで読んだことがなく、糸山がそれをどう援用しているのかよくわかりま せん。もしとんちんかんなことを言っていたら指摘していただきたいとお断りしたうえで書くのですが、シュタイナーに「体感」を通じた教育のすすめというも のがあるのかなと推察しています。それは簡単な例で言えば、手で使うドライバーについて、「時計の針が動くのと同じ方向に回せばネジが締まる」という言葉 として(知識として)教えるのではなく、実際にドライバーを子供に持たせてネジを締めさせたり緩めさせたりするのがいいのだということなら、私はこれに何 の異論もありません。ネジの成形によって、まったくその逆のことが起こることを知るにも、「逆になるネジもある」という知識の言葉ではなく、実際にそのネ ジとドライバーを使って、右に左に回させる(体感させる)のが大事である、とか。それに異論はありません。どんどんやっていいことだと思います。
 その場合にも、素読を元に据えている私から言わせれば、「ドライバーを時計回りに回せばネジが締まる」という言葉をすらすら言えるようになった子供に、 実際にドライバーを持たせて回させるというのがいいということです。ドライバーを使ってネジを回させてから、「ドライバーを時計回りに回せばネジが締ま る」という言葉を素読させるという順序でもいいが、言葉による知識と「体感」を通じた「体験」の両方を子供に与えるのがいいということになります。「体 感」と「知識」がつながらないというのが、現代の教育の最大の問題点だということには異論がないし、私のようなものにでも、それへの処方箋の一枚や二枚は あるのだということです。
 こういう実用に役立つ方面では、「ドライバーを時計回りに回せばネジが締まる」というような言葉はすぐに不要になります。子供は「だって、体で覚えてる もん」と言うはずです。「言葉なんかなくたって、間違えない」というはずです。実用方面の知識では、すぐにそうなるが、実用するために非実用をくぐる必要 がある算数数学、語学などでは、「言葉」はそんなにすぐに不要にはならない。

 また、「体感」を欠いているのが、現在の学校の授業であるとか、「体感」欠如をさらに決定的なレベルに持ち込んでしまうのが、テレビゲームであるとかい うことにも私はまるで異論はありません。
 残酷なシーンがあるからテレビゲームをやらせたくないというよりも(それもありますが)、素朴なレベルでの「体感」を子供から奪うからやらせたくないと 思うのです。映像とイメージと刺激によって、素朴なレベルの「体感」が奪われるからであり、それが残酷なシーンを含むからではない。ぎりぎりの基底を求め るなら、そういうことになります。
 そこから、再度、今の学校の授業なんてものは、本質的にはテレビゲームみたいなもんじゃないかという批判が立ち上がるべきなのです。それを言わない。親 も言わないし、現場の教師も言わない。それが駄目なんだ。だから、糸山が医者づらをして登場するんだということです。

 「体感」を通じたものを「体験」と言うのなら、糸山の文章問題を解くことを、それと同じレベルで「体験」ということはできるはずがありません。糸山は、 糸山作成の文章問題を解くことのどこに「体感」があるというのでしょうか。
 らくださんが書かれていましたが、糸山が糸山作成の文章問題を解くことを、「体験に似たもの」と本当に言ったとしたら、これは実にたちの悪いもの言いだ と思います。似て非なるもの、というより、本質的に違うものについて、「似たもの」などと言っているのです。米国国立精神衛生研究所でしたか、正確な名前 を忘れましたが、そこが出した論文を自説への援用に使う使い方がまったくの詐術であるのと同様の詐術がここにあるのです。
 糸山が使う「体験」という語一つについて、これだけのことを考える人間がいるのだということについて、糸山はなめてかかっているのです。
 それがどれほどよくできたものであれ、算数の文章問題を解くことが「体験」であるはずがない。それが体験であるとすれば、「問題を解くという体験」でし かない。それなら、他の問題集の問題を解くことと何の違いもない。
 糸山作成の文章問題を糸山が自分で「これはとても質のいい問題なんだ」と言っている分には別に目くじら立てることはないのですが、「体感」を通じた「体 験」と同じだとか、似たものだと言い出すから、そこから詐欺が始まるのです。
 糸山は、多分、いい問題を作れる塾のセンセイなのです。だから、親は「実用」すればいいのです。それだけのことなのに、調子に乗って、「イメージ」だの 「体験」だのと、上等そうなことを言い、アメリカの論文なんかを自分の説の箔付けに使い、学力回りの神経症に脅しをかけるあたりから、私の「激昂」になっ ていくのです。
 

【11972】
絵図   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 5日(月)00時08分58秒    編集済
   糸山は「絵図」が あるから、自分のやつは他の方法とは違うと言うでしょう。そんなも の、私の「電話でレッスン」には「音づくり」の方法があるから他の方法とは違うというのと何の違いもありません。
 絵図は、考えをはっきりさせたり、整理したり、範囲を限ったりするために有効な補助手段ではあるでしょうが、それが「体感」を通じた「体験」と「似たも の」だなどと言い出すと詐術になるのです。

 私の方法には「音づくり」だけではなく、「電圧装置」も「回転読み」も「切断読み」もあります。これらは、糸山の「絵図」と同じように、アタマの中で泥 みたいな考えをこねくり回すのを回避し、思考をより具体的にする方法だという意味でなら、ひとつひとつみんな具体化の方法です。

 それを無限定に「体験」だとか、「体験に似たもの」だとかいうことを言ったことは私にはありません。そんな嘘はいやなのです。
 

【11973】
根石さんへ   投稿者:ひきこもり暦22年   投稿日:2007年11月 5日(月)00時32分25秒
  >・人が心を駆使し て考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞もな い。

 私がこの掲示板開設当初から言ってきたことは、一言で言ってわかってもらえるかどうかわかりませんが、「媒介論ということになります。
 人は、言葉もイメージも磁場中生活も中也の詩も家族の怒りも酔った言葉もなんでもかんでも、「媒介」にできる生き物です。
 外国語習得過程では、「心」までも媒介にするのです。
 ご当人は自覚がありませんが、多くの場合、非常に罪深いことをやります。
 なおさらわからなくなりましたか?
 それとも、小さくてもいいから、何かわかったことがありましたか?

心=1.自らの意識や行動から1部分を推測することはできるが、全体を意識化することはできない。また意識(理性)が直接及ばない部分。2.意識(思考) と相互に影響しあうもの。意識よりも複雑で変化し続ける。っていう定義でいいですか?

で、A→Cの関係にBを媒介するとA→B→Cですね。最初のAとBからでたAは違うものである。最初のAはBが複雑であればあるほど変化する。が、人間は 何かを媒介することが常なので最初のAとBからでたAを同じものだと思っている。
「人が心を駆使して考える」は、意識を思考錯誤する→心と相互に影響しあう(心を媒介とする)→新しい思考ってことですか?
しかし、「外国語習得過程では、「心」までも媒介にするのです。」は、よくわかりません。心は常に媒介されるものではないのですか? 人間はイメージや感 情を母国語を媒介にして表現することに慣れているから(最初のAとBからでたAを同じものだと思っているから)外国後習得過程で強く心を意識するというこ とではないんですか?
[結論]
全然わかりません(笑)
 

【11974】
根石さんへ   投稿者:ちえ  投稿日: 2007年11月 5日(月)00時53分57秒
  こんばんは、掲示板 がとっても熱くなっているところに連絡事項を書き込むのは
なんだか書きにくいのですが。。。
失礼します。
只今、義両親が来越中です。夜までバタバタしていて、レッスンが出来そうに
ありませんので、明日のレッスンはお休みさせて下さい。
今、気づきましたが、11月に入ってしまいましたが、10月分のレッスン代まだです。
大変失礼していますm(_ _)m近いうちに必ず振り込ませて頂きます。

子供達は、おじいちゃん、おばあちゃんに久々に会えて大喜びです。
子供達の嬉しそうな顔を見ると、私達夫婦も嬉しくなります。
子供の幸せが一番ですね!!
 

【11975】
Naima さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 5日(月)03時19分17秒    編集済
  >回転読みは本気で やると他のことは何も出来なくなるくらい大変です。そうでないと使え る英語にならないということですね。私は他のことに興味が移ってしまい、英語の仕事も辞めてしまったあたりから電話レッスンに身が入らなくなってしまいま した。

 「・・・あたりから」について一言。レッスンの当初から、「音に先に行かせる」という点について、理屈ではわかってもらえているのに、実践してもらえな いという悩みが私にありました。これは、知識として大量のものを持っておられ(英検一級保持がそれを裏付けています)、「ゴースト」あたりの文だと即座に 楽にその場で意味になるということがわざわいしていたと思っています。楽な文でも、「音に先に行かせる」ことで、それまでに持っておられた知識とスキルが 徐々に変わるはずなんだと思っていましたが・・。
 逆に考えれば、「音に先に行かせる」のでなければ、自分における既存の知識とスキルの範囲にとどまってしまうのではないでしょうか。「今だって使えば使 えるからいいもん」ということになってしまうのではないか、と。
 Naima さんにとっては、「大河型レッスン」の知識は楽すぎたという意味では、私の教材づくりが Naima さんに使ってもらえるところまで届いていなかったのです。それがくやしいです。
 「どしゃぶり型」レッスンで、レッスンが要求しているレベルの練習をやられれば、たとえ「ゴースト」のような楽な教材を使ってでも、英語力の維持は可能 ですが、ここでも、「音に先に行かせる」につまずかれたと思っています。このタイプの生徒さんには、難度の高い文を多量に含む「大河型」がいいのですが、 教材作りがまったくそこに届かないのでした。
 どうも年内に「英文法・語法問題1000」に「ゴースト」の文をからみつかせる分の教材作りが終わりそうにありませんが、それが終わって「七年目の浮 気」の解析に入っても、まだ Naima さんには食い足りないものでしょう。私が生きている間に、これなら使ってもらえますよというところまで、教材作りが進むかどうかはわかりません。
 Naima さんには、どうにも教材作りが追いつかないという時点でレッスンを使ってもらったことになり、申し訳なかったと思っています。「大河型」の教材が、チョム スキーを扱う程度になれば、Naima さんも食いついてきてくれただろうと思ったことがありましたが・・・。

>回転読み仲間と定期的に集まって、一緒に宿題を出来たらいいんやけど...と何度思ったか知れません。それでも自分を見限ることが出来ず何度も頑張って みようとしたんですが、とうとう何のお役にも立てないまま自分のレッスンも中断してしまうことになり、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 忙しい方ほど、「電話でレッスン」が有効なんですけどね。(Naima さん用の教材がないという点を棚に上げて言えば、です。「音に先に行かせる」で何が起こるかはまだわかってもらえないままだとも思っています。)

>磁場のないところで外国語を使えるようになるのは並大抵のことではありません。それこそ血尿が出るくらいの勉強をしなければなりません。そこまでやって も自在に使えるようにはなりません。

 まったくこの通りです。

>語学留学したとか磁場に居たという人たちのほとんどが、たいしたことのない英語を得々として喋っているのを見ると胸が悪くなり、それを聞いている周囲の 人たちが「やっぱり本場仕込みよね」と絶賛するのを耳にすると「ぺっ」とツバを吐きたい気持ちにすらなります。そう褒められた英語の使い手が「英語はまず 不自由ないです」というのを聞くと、喧嘩を売りたくなります。母国語でさえ意のままに使えないのに、英語に不自由しないなんてなこと、あるわけがないで す。

 どこかの掲示板の決まり文句で書きますが、「激しく同意!」です。

>そんな気持ちにさせる英語って何なんでしょうかねぇ。精神病の一種なんだわ、きっと。磁場持ちでないという劣等感と、磁場持ちでなくても磁場持ち以上の 英語力は身に付くんだという優越感がグチャグチャになって、なのにそれが認めてもらえず語学留学組がもてはやされたりすると、もう英語なんかやりたくない わっ、と何度やけっぱちを起こしたか数知れません。

 だからこそ、「語学論」が必要なんだと思って私はやってきました。特にこの場合は、語学論の中の「磁場論」が必要なんだと思います。「磁場帰り」の人も 「磁場無し」の人も、「磁場論」を追求していけば、ぐちゃぐちゃや余計な劣等感や優越感は要らなくなるんだと思っています。一円の金にもならないのに、な んで「語学論」なんか立ち上げたかと言えば、余計な劣等感・優越感という「病気」を退治したかったから、という理由も一つあるのです。
 「留学」を別として、後は全部、「生活の要請」です。Naima さんがドイツにおられたことがそうであるように、生活が要請したものです。余計な劣等感も優越感も関係がない。
 問題は「留学」です。これは、時代とか金とかの問題なのではないでしょうか。スキルの優劣の問題にはなりますが、語学力の優劣の問題にはならないし、方 法論の優劣の問題にはまるでならない。
 方法論や語学論を持たないで、スキルだけ振り回している人たちも、仕事で使ってメシの種にしているだけなら文句はないのですが、えてして上等そうなツラ をするんですね。これが気にくわないのは、私も Naima さんとまったく同様です。ここで、Naima さんは顔に出さずに「激昂」されるわけです。私は何度か顔に出して激昂していますので、「磁場帰り」の者どもの間では、私を遠ざける気配があります。
 スキルを持っているだけで、方法論や語学論を持たないのなら、そしてその状態で何か語学について言えるなどと思ったら、そのとたんに、おたんこなすにな るだけのことです。
 私はこの辺がはっきりしているせいか、「磁場帰り」の人に劣等感も優越感もありません。「このおたんこなす」と思うことはしばしばあります。それだけで す。それは批評であり、優越感でも劣等感でもないと思っています。

>それでも勉強を続けたのは、あんなに苦労したんやもの辞めてしまったらもったいない、その気持ちだけのような気がします。見苦しい未練です。もったいな いほどの英語力なのか、と問われると、ゴミみたいな英語力でしかないんですが。使う機会もないくせに。

 見苦しい未練だなどと思いません。本当に滅びたらもったいないものです。「ゴミみたいな」などと書き言葉で書かれると、本当にそう思う人がたくさんいま すから、やめて下さい。Naima さんの力はそんじょそこらにやたらみつかるものではありません。

>しかし磁場のない所で英語を身につけた(どういえばいいんでしょう。修得? 習得? ものにする?)人は、外国語習得の厳しさと勉強法を知っています。 そういう人に英語を教わるのがいいんです。

 そういう人も、語学論を持っていないことが多いです。自分じゃよくできるのに、生徒に力をつけられないという人も多いです。「勉強法」を知っていても、 いつぞやの浜谷さんのように、自分が大きく伸びた時点の勉強法一つに固執してしまい、誰かれ構わず奨めてしまう方もいます。その点では、「磁場帰り」の学 校の先生なんかとそんなに違いはない。ポイントはやはり、「語学論」を持っているかどうかになると思っています。磁場のないところで英語を身につけたとし ても、その人が生徒に力をつけられるかどうかは別問題なのだと思わざるをえません。
 その意味で、私はいつも塾をやっておられる方を生徒にしたいと思ってきました。英語が下手なほどいいのです。それを私が直してしまいますから、そして、 直される過程が全部意識化できますから・・。最初から上手な人は、その過程を意識化するのが難しいです。直すところが少なかったり、まるでなかったりする ので、自分の音がどう変わるかを意識化する機会がないということになりがちです。
 英語が下手だけど、塾で扱う必要があるという人が私のレッスンを受けてくれると、いい塾がひとつ誕生するのです。ひとまずは、塾で英語を扱うスキルが手 に入れられます。その後はやはり、自分で語学論を書くかどうかだと思います。方法を展開させていくにはそれがどうしても必要です。
 そういうところに本当の問題が横たわっていると考えることのできる人が少なすぎます。
 それでも、可能性としては、学校よりも塾ですね。

>NOVAなんかで働いているネイティブ・スピーカーに何が教えられるかと思います。

 まったくその通りです。娑婆にはだまされることが好きな人が多く、これはもうお手上げですね。一人や二人が吠えてみたところでどうにもならない。おめえ らはだまされていろ!と悪態をついて気晴らしをするくらいしかありませんが、最近、長野から東京まで、新幹線を使って英会話学校に通っていた人が、私の生 徒になってくれました。もっと早く気づいてくれれば、私の貧乏も多少緩和されたのにと思う一方、その人が「今は英語をやるのが楽しいんです。このやり方な ら劣等感なんか持たなくていいし」と言ってくれたのでなぐさめとしています。この人は、近い将来、留学を予定しています。

>ドイツに住んで磁場のすごさを経験した今、ますます磁場持ち英語を羨望と嫉妬の目で見る様になった私です。私に英語磁場をくれ〜、と。今私に英語の磁場 をくれたらもっと飛躍できるのに!と。あんな人に磁場をあげても猫に小判だ、豚に真珠だ、今の私に磁場をくれっ! それが本音です。もう熱望というか渇望 といくか、絶叫モードです。

 よくわかります。私自身は、日本在住のまま語学をやるというのを、まあ、アイデンティティにしておりますので、磁場に出ることをやるつもりがありません が、絶叫モードになっちゃったなら、旦那様にお願いして、留学させてもらったらどうでしょう。いろいろと生活の事情はおありだと思いますが、行かれたらど うでしょう。

>英語を始めてからずっと磁場持ち英語に過剰反応していたなぁと思います。うらやましくて、うらやましくて、そして卑屈になってました。

 今はただの卑屈ではないと思いますよ。そのことを記述できているんですから。過剰反応を表に出せるようになっているんですから。「大風呂敷」という語学 論の場がなかったら、過剰反応を隠したまま過剰反応を続けていたんじゃないでしょうか。
 

【11976】
ちえさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 5日(月)03時48分38秒
  連絡して下さるのに 遠慮は要りません。
お休み、承知しました。
振り替えにしてください。
金曜夜11時20分の通常の振り替え枠でなく、例のごとく、30分枠を1時間枠でやるということで処理させていただけたらうれしいです。
近頃物忘れが激しいため、次回のレッスン時、今日は1時間やる日ですと言っていただけたらありがたい。
よろしくお願いします。

お子さんたちが喜んでいる様子が伝わってきました。
うちの孫は、風邪をひいて腹が痛く、夜中に目をさまして泣いています。
気が気ではありません。
 

【11977】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 5日(月)06時31分14秒
  >私は数年前にシュ タイナーの人智学およびその人間観・教育観と、糸山さんの「算数文章 問題」との関係について質問しました。

 <似ている>については、村田君宛の記事で書かせていただきました。考えが動いている最中のものは、本来書くべき人に向けてでなくて、他の人に向けても 書いてしまいます。失礼しました。

>・シュタイナーのいう反復や暗唱の重要性は単に反復するということではなく体験を積み重ねることで深めるということ。単なる繰り返しを意味してはいな い。

 シュタイナーだろうが、糸山だろうが、根石だろうが、コーチ側からは、そんな区別は成り立たないと思います。「体験を積み重ねること」と「単なる繰り返 し」の区別を成り立たせるのは、生徒側にあります。
 シュタイナーの反復はそんじょそこらの反復ではないなどということはない。反復は反復であり、シュタイナーだから特別な反復になるわけがない。あくまで も生徒の興味がそれに向かうかどうかで決まるのだと思います。
 コーチ側が、生徒に興味を持たせるように努力することは成り立ちますが、それでも興味が生じるかどうかは、あくまでも生徒側で決まります。興味があるな ら、反復のたびに、微細な読みの違いを同じテキストに対して付加するようなことが生じます。
 シュタイナーの反復だから特別な反復だなどということではなく、生徒が興味をもってやっていることだから、機械的な反復でなくなるわけです。百歩譲れ ば、それが「体験を積み重ねること」だと思います。私はそんなふうに「体験」という語は使いませんが・・。
 微細な読みの違いを重ねていくことで深まるものがあるはずです。それを名付けようもありませんが・・。国弘正雄の「只管朗読」の回数が、数十回やそこら でなく、500回、1000回であることを指して、馬鹿げていると言った人が私の生徒にいましたが、馬鹿げているのはこの生徒の考えだと思います。
 私が実験したところによれば、300回の反復には300回なりの習熟度があり、500回の反復にはやはりそれを上回る習熟度があります。機械には生じる はずのない習熟が生じます。このあたりは、柳宗悦の民芸論がうまく説明できています。文章のタイトルをとっさに思い出せません。益子の土瓶絵を描くおばあ さんについて書いた文章です。思い出しましたら、書きますが、(掲示板の読者の中で)すぐにおわかりになる方は書いていただくとありがたく思います。
 そのおばあさんは、500回1000回どころではなく、同じ土瓶絵を何十万回も描いたのです。そこに、いかなる意図をも越えた美が生じているということ に柳は着目しました。この美には、才能とか個性なんか何の関係もない、と。無心だけが生む美がある、と。
 単なる反復は駄目だなどというのは、貧乏くさい考えです。機械ではないのだから、人間は単なる反復などやることはありません。無理にやらせるから、単な る反復をやるようになるだけです。あるいは、50回だの100回だの、けちくさい回数だから単なる反復をやるのです。益子のおばあさんのように、数十万回 やるなら、単なる反復を続けられるものではありません。どうしたって、習熟し、洗練されて、美に至ります。
 私は貧乏ですが、考えが貧乏くさいのがとても嫌いです。
 糸山は貧乏くさいと思います。

 「単なる反復」が、多くの人に意味があります。
 「単なる反復」が本当に単なる繰り返しになった生徒が、私のかつての数百人の生徒の中に一人だけいました。からっぽのドラムカンをひっぱたいているよう に、音自体がからっぽでした。非常に不気味な思いを持ちました。そのことは忘れられません。反復という方法にではなく、その子のそれまでの家庭での生活に 原因があるのだろうと思いましたが、それが何なのか今でもわかりません。

>・「とことん考える」ために「算数文章問題」をするのではない。これは「目で考える」練習。
・「目で考える」ことと「体験の反復」は似ている。

 この辺のことがおわかりでしたら、ご説明願いたいのですが。「視考力」だの「目で考える」だのが、何のことかいまだまるでわかりません。それが絵図が描 ける能力のことを言っているのだとすれば、考えが転倒していると思います。イメージによって、ある論理がつかまるから、それが絵図に描けるようになるので あり、目に見えるものになるのです。いきなり最初から目で考えているのではない。元になっているイメージの力は、目だけあっても動きはしません。言葉がそ れを養うから動くようになるのです。初源は、言葉なのです。
 不定形のイメージは犬や猫や生まれたばかりの赤ん坊の中にも動くでしょう。しかし、それが意識における一瞬の意味になり、絵図にしうるまでになるまで に、言葉が無数のイメージを養う過程があります。具体的なイメージはその無数のイメージから養分を得ていますが、どこかで必ず言葉を媒介にしているはずで す。
 「視考力」などという言い方そのものが、「過程」をすっとばした言い方なのです。だから、その他の糸山の言葉がすべて空疎なものに響くのです。

>> 親はコーチとしては、非常に多くの場合に不適です。

>それはおっしゃる通りだと思います。文科省がゆとり教育を打ち出し、今度はそれを否定する方向で右往左往していますが、ゆとりなど生ぬるいことを言わず に、学校教育を1/3ぐらいに縮小し、その分、税金を返してくれるとよいのですが。そうなれば、英語は素読舎で、運動はサッカーのクラブチームで、音楽は 地元の合唱団で...とでき、親が無理してコーチングなどする必要はなくなります。

 まったく賛成です。空回りの無駄なところ(学校の「体感」を欠いた授業)に国民の税金が使われ、糸山の「絵図」や、根石の「音づくり」に金が回ってきま せん。(糸山には回っているのかもしれませんが、要するにまともに方法を追求した塾に回ってこないということです)。
 本論から外れますが、私は糸山の「絵図」を使う方法を否定するものではありません。糸山の「言葉」や「イメージ」や「繰り返し」に関する考えが偽物だと 言っているだけです。

>>なんで小説なんか音読の対象に選ばれたんでしょうか。「音読」をやるのなら、エッセイがいいと思います。

>小説よりエッセイが良い理由を教えていただけますでしょうか。また、息子は小6なのですが、読ませると良いエッセイをいくつか推薦していただけるとあり がたいのですが。

 うまく言えるかどうかわかりません。書き言葉で書いたものは、自分にも向けられており、相手にだけ向けられている話し言葉よりも、「作り物」です。書き 言葉であるだけで、話し言葉の一重が壊れ、二重になっています。(この二重性は、話し言葉では、「独り言」に現れます。自分に向けてというベクトルと誰か 特定(不特定)の人に向けてというベクトルの両方が現れます。話し言葉が二重性を持つので、「芝居」っぽくなります。)
 小説は書き言葉という二重の言語を使って、さらに「彼」だとか「彼女」を動かし、構造体を作るわけで、二重のものがさらに二重化されるジャンルです。
 エッセイは、二重の言語(書き言葉)を使って、言説、感想などを、「書いている者のもの」として、一重にとどめるジャンルだろうと思います。そこが、構 造として「素朴」です。
 小説では、書いている人がどこにどんな思いをして生きている人かは、作品の世界とは直接の関係がありません。エッセイは、そこが直接的で、子供に入りや すいと思います。(おしゃまな物語り・小説大好き少女なんかは、このあたりの構造を苦もなく越えてしまうでしょうが・・。)
 で、人間は全員がおしゃまな少女なわけじゃないので、構造として「素朴」なものを手始めとするのがいいのでは、と思ったわけでした。
 ふう。勢いにまかせて書いちゃうと、後で説明するのに、えらく苦労しますね。
 具体的に何がいいのか。ちょっと思いついたのは、内田百間(間のモンガマエの中を、日ではなく月にするべきなのですが、パソコンが漢字変換しませんので お許しを)でした。
 昔、塾で「ノラや」を素読の素材にしたことがありました。
 文章が、子供にとって難度を含むものがいいと思います。
 難しすぎず易しすぎないのなら、何でもいいと思います。
 テキストの選択は、親が好きなエッセイということでいいのじゃないでしょうか。

>それともう一点、素読は意味の分からない文章を読む、音読は意味の分かっている文章を読む、という区別でよいのでしょうか?

 原則的にそう考えています。「意味の分かっているもの」というより、読めば(その子が)、すぐに意味が「わかるもの」が音読用のテキストなんだという区 別です。

>> じんわりとという意味では、「音読」(斎藤孝史)では駄目です。「素読」でなければ駄目だと思っています。
>音読はダメで素読が有効ということであれば、意味の分からない漢文とか古文とかの方が良い、のではないかと思ってしまうのですが。

 漢文(の日本語化した読み)を子供に読ませるというのが江戸時代の素読の多くを占めていたと思いますが、現代の素読というか、私が考えている素読は、 「難度を含むもの」をテキストにするということです。もちろん、漢文や古文も難度を含むというか、難度ばかりでできているものですから、それをやっていけ ないこともないのですが、最初にやるのは、「難しすぎず易しすぎず」がいいと思います。現代のものでもいいし、明治大正のものでもいいと思います。親が好 きなものがいいと思います。
 どうして難度を含むものがいいかといいますと、例えば、わかる部分半分、わからない部分半分のテキストで考えますと、子供はわかる部分を使って、わから ない部分をわかろうとするからです。「こういうことだろう」と思っていたものが、「反復」するうちに、「いや、ちがうみたいだな、こういうことなんじゃな いか」と読みが重複化されるからです。それがイメージ形成力を作ります。
 これは、素読のテキストではありませんが、「夕焼け小焼けの赤とんぼ、おわれてみたのはいつの日か」という歌の文句の「おわれてみた」というのを私は大 人になるまで、「追われてみた」と考えていました。大人になってから、ああ、そうじゃねえんだ、子守の背に「負われて見た」のだと気づきました。「追われ てみた」じゃ、えらく余裕のある赤とんぼになるな、「おい、追いかけてきてみな、追われてみてやろうじゃないか」というこにくらしい赤とんぼという か・・。そういうんじゃないんだ!
 で、この歌が文語の作詞でできているのだということがわかり、その言葉の古さを味わうことに導かれたわけです。
 私の友達は、「・・・、ああ、女学生」というような歌詞の、「女学生」が、「じょがぁくせー」と発音されるせいで、「じょ、っていったいなんだろう。ど うして臭えんだろう。どんなに臭えんだろう。じょ、っていうのはとにかく臭えわけだな」と真剣に悩んだと言います。「じょが臭え」だと思っちゃったわけで す。
 素読でも、テキストが難度を含むため、子供が勝手な解釈を施すことがあります。放っておけばいいのです。要するに子供の意識を???でいっぱいにすれば いい。そうすると、むむっ?と思って、読みの重複が往来します。正解なんか与える必要はない。そんなものはいずれ訪れてくる。(一生訪れて来ないなら来な いでもいい!!!)
 それよりも、子供の意識を???だらけにすると、イメージの誕生を促すことになるというところに注目すべきだと思います。それが、「難度を含む」ことの 功徳です。
 すぐに正解に導きたがる学力回りの神経症の貧乏くささに比べたら、これはとても豊かなゆるやかな、たおやかと言ってもいいくらいの方法だと思います。

>>「なかば強制」の「なかば」をとった「強制の習慣」とならないことを願っています。

>「なかば」を付けた理由は、最低限の自覚は持っている意思表示のつもりです。「強制」と言えば、「素読舎っていう面白い英語塾があるんだけど、レッスン 受けてみるか?」も「え?根石先生が厳しいから、もう嫌だって?おまえ、そんな簡単に辞めていいのかよ。もう少し考えてみろよ」も強制と考えています。
全くの放任はあり得ない、という意味での「強制」です。

 釈迦に説法でした。

>ニュースになった医師一家の話は痛ましい事件ですが、あの家庭は極端な例だ、という気持ちと、全くの他人事と切り捨てることはできないぞ、という気持ち とがあります。

 ほんとうにそうですね。現代に子供を持った人たちが持つ不安を正確に言い当ててくださったと思います。
 

【11978】
ひきこもり歴22年さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 5日(月)06時34分50秒
  済みません。
お時間を下さい。
 

【11979】
考えてみます   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月 5日(月)12時14分1秒
  > 考えが動いてい る最中のものは、本来書くべき人に向けてでなくて、他の人に向けても 書いてしまいます。失礼しました。

お気になさらないで下さい。複数の人間の書き込みを行ったり来たりしながら話が進むところが掲示板の良さでもありますので。

村田さんと私への書き込み、少し時間をいただいて読み込んでみたいと思います。私の読解力でどこまで深い理解が可能か、自信がありませんが。
 

【11980】
ももこさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 5日(月)19時41分40秒
  時間になりましたの で、スカイプで呼び出してみましたが、つながりませんでした。
携帯電話の方にお電話しましたが、電源が切られているというメッセージでした。
ご連絡をお願いします。
 

【11981】
すみませんでした   投稿者:ももこ  投稿日: 2007年11月 6日(火)01時59分7秒    編集済
  娘の幼稚園PTAの ことやそのほか仕事関連のことで毎日徹夜していたら、今日の午後から 貧血で意識が遠のき、横になったのですが、気がついたら寝過ごしてしまいました。

ご連絡いただいたようで本当に申し訳ございません。携帯は充電が切れてしまったようです。キチント寝て体調を戻します。ご心配をおかけしました。今後はこ のようなことのないようにいたします。
 

【11982】
ももこさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 6日(火)02時27分22秒
   事情、わかりまし た。
 貧血で意識が遠のくのは、私もときどきあります。浅蜊、しじみのみそ汁などがいいと人に言われたことがあります。と言いながら、私もしばらく食べていま せん。
 あまり無理をなさらないことを願っています。

 私も、レッスンの後、じきに倒れ込むように寝てしまいましたが、習慣のせいか、この時間に目がさめてしまいました。

 通常、連絡をいただかないで休まれた場合、振り替え処理をしておりませんが、事情よくわかりましたので、今日の分を振りかえておきます。
 

【11983】
根石さんへ   投稿者:ひきこもり暦22年   投稿日:2007年11月 6日(火)03時03分48秒
  はい。 ゆっくりお願いしますm(_ _)m  

【11984】
ひきこもり暦22年さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 6日(火)06時55分55秒    編集済
  >>・人が心を駆使 して考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞も ない。

>> 私がこの掲示板開設当初から言ってきたことは、一言で言ってわかってもらえるかどうかわかりませんが、「媒介論」ということになります。
 外国語習得過程では、「心」までも媒介にするのです。

 「語学論」の名のもとに、「磁場論」と「媒介論」をやってきたと思っています。「論」というほどのもんかとつっこまれるときついですが、まあ一応、論だ ろうと思っています。
 「磁場論」の中に、純粋な語学は「磁場」を欠いて行う行為だという定義があります。この言い方をすると、(「磁場」で)生活語として使いながら修得した 言語のスキルは、語学によるものか、語学以外のもの(「磁場」そのものが持つ力)によるものか、その境が非常にわかりにくいものとして取り出すことができ るようになります。
 例えば、そういう英語を、「磁場帰りの英語」と呼ぶことができますが、語学本来の位置から見ると、不純物を多量に含む英語です。あるいは、現代日本で語 学力とされているものを「磁場」で密輸入した英語となります。これが、日本人における机上の英語の腰をくだくような悪い作用を及ぼしています。
 戦後日本の学力をめぐる神経症というような言い方を私はしますが、受験回りだけでなく、英語回りにも神経症めいた症状が多発します。それに対する解毒剤 を用意しようとすると、「磁場」というような観点がないとどうにもなりません。
 私は「磁場だけがもたらすものが絶対にある」とも言い続けてきましたが、それは単純化して言えば「スキル」と言ってきたものと重なります。ここから、 「スキル」そのものは語学力ではないと言うこともできますが、現代日本では、むしろ逆に、スキルこそが語学力だと考えられています。何かが根底から転倒さ れてしまっています。
 さらに、ここから、例えば人に向かって、「あなたは語学力が欲しいんですか、スキルが欲しいんですか」と一緒くたにされているものを腑分けして言うよう な言い方が成り立ちます。あるいは、「語学力は心を養うことができるが、スキルが心を養うとは限らない」、「スキルは心を滅ぼすこともある」というような 言い方も成り立ちます。
 「日本人の英語」では、語学が作る英語と「磁場帰り」の英語とをしっかり区別しないと駄目だと考えていますが、「英検」とか「TOEIC」のような試験 はそこを区別しません。私がこの種の試験を受ける気にならないのは、私の「磁場論」から来るものです。生徒さんには、レッスンでどれくらい力がついたか測 るには有効ですから受けてみて下さいと言いながら、自分ではその種の試験を受けないのです。「磁場論」を持ってしまうと、受けることができません。
 純粋に机上で作った英語の力を語学力だとするなら、(「生活語」として使うことから得た)しゃべる・聞くのスキル、などを「点数化」して評価するという のは、語学的な密輸入を語学力として「点数化」する犯罪だと言わざるを得ません。逆に、語学的犯罪だという自覚を失わないかぎりにおいて、アメリカに暮ら している人に「日本に帰ってきたらすぐに TOEIC を受けてみて下さい」とアドバイスしたりすることすらあります。

 勢力のある言語には「・・語圏」という言い方があります。英語なら英語圏、フランス語ならフランス語圏という言い方がありますが、「磁場」という考え方 をしないと、言語や語学について普遍的なもの言いが成立しにくくなりますので、あえて耳慣れない「磁場」という言い方をしています。
 わずか数十の人がしゃべるだけの小さな言語だと、「・・語圏」という言い方から外されてしまうのですが、「磁場」という言い方なら、どんな小さな言語で も、人々がそこで生活を営む場である限り、「磁場」としての条件に欠けるものはありません。これもまた、「磁場」という語を使う理由の一つです。
 また、(a) foreign language が「身に付く」という場合の「身に付き方」が、「磁場」でその言語を身に付けた場合と、「磁場」でないところで(机上で)身につけた場合で違ってくるとい うことがあります。それによって、先日 Naima さんが書かれたような「優越感」だとか「劣等感」が生じたりします。
 「磁場」という観点があると、そういう問題を言うのに、その言語の言語的な「磁力」が・・・という具合に、ものごとを少し微細に見ることができるように なります。
 というようなのが、「磁場論」ということになります。

 「語学論」におけるもう一つの「媒介論」ですが、これは、Eliot さんが掲示板上で、「語学において、ネイティヴスピーカーのイントネーションや感情までそのままそっくりに言えることが大事だ」という考えを書かれたとき に、冗談じゃないと私が反発したことを例にできると思います。
 「語学的標準型」を立てずに、ネイティヴの言い方をイントネーション、感情までそっくりそのままに真似るというのは、「媒介」という考えをすっとばして しまうから生じている考え方です。イントネーションは「語学的標準型」で作り、それにネイティヴのイントネーションを突き合わせて「媒介」にし、「語学的 標準型」を少しずつ変容させていくんでいいんだという「ゆっくりした過程」を立てておかないと、やはりここでも「英語病」が出てきます。
 今日、こうして書いていて気づきましたが、「磁場論」というもの「媒介論」というのも、一種の精神衛生学かもしれません。

 以上、長くなりましたが、前置きです。
 これを少し変容させることで、お答えできるかどうか。

>>・人が心を駆使して考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞もない。

 この言い方では、「考えること」を「媒介」にするということになりますが、その後、私は「心まで媒介にする」とも言っています。アタマが疲れていていた ので、混乱したまま書いたものです。お許し下さい。
 いや、まてよ。「考えること」を媒介にするのと、「考えるということ」を媒介にするのとでは、違うか。上の文では、「考えるということ」と書いている。
 「考えることを媒介にする」という言い方だと、考えることを媒介にして、行動の指針を決めるとか行動するとか、「生活という磁場」に直接しているものご とについて言う言い方になる気がします。「考えること」と「生活という磁場」の関係で使うべき言い方である気がします。

 「語学論」で、日本の机上における「語学」と英語の「磁場」との関係を考えてきたのですが、そこで考えてきたものを、日本人の日本語による生活に適応 し、「考えること」(脳・意識)におけるものと、「生活という磁場」・「生活」との関係にも使えないか、試みようとしているところですが、またしても混乱 してきています。

 「考えるということ」を媒介にするだと、どうなるんでしょうね。「考えるということ」を媒介にしているのは、学校とか受験産業なんかそうではないでしょ うか。「考えることそのもの」を媒介にしているんじゃないと思うんです。「考えるということ」を媒介にするから、糸山なら糸山の論が成立しているのです。
 学校の勉強ができる(できない)とか、難関大学入試で点がとれる(とれない)とかいうのは、「考えること」ではなく、「考えるということ」において優秀 な(優秀でない)人なのではないでしょうか。「生活」という磁場から切れた場所で、「考えるこということ」をめぐって優劣をつべこべ言っている世界だと思 います。
 「考えること」そのものとは世界が違います。
 「考えること」の直接性を壊し、「考えるということ」というふうに仮の舞台を大きく広げ、劣等感や優越感を持たせることによって、戦後市民社会の学力を めぐる神経症が作られてきた、というふうに言うことはできるような気がします。

 「考えること」は、悩むとか、困るとか、生活上の問題をどう解決するかとか、そういうことと隣接したり、連動したりします。
 それが「考えること」だとすれば、数学の問題を解くとか、糸山の良質の文章問題を解くとか、算数・数学の分野でなくても、英語の長文を読んで設問に答え るとか、国語の解釈問題に答えるとかいうことは、「生活という磁場」の問題とは直接の関係がありません。人工的に時代的に社会的に作られた(仮の)舞台に おける芝居みたいなことですので、「考えるということ」をやっているのだと考えています。

 「考えること」は、「考えること」が「生活」に直接関係を持ち、「生活」を変えますが、「考えるということ」は「生活」に直接的な変化を与えません。だ から、これは生活とはひとまず切れたところで行われる芝居です。直接的には、むしろ受験産業に金を流し込ませるような作用、人々を神経症にし、生活に亀裂 を入れたりする作用を持つと思います。この作用を行使するだけでなく、糸山はその作用を激化しています。しかも、それは非常に巧みです。

 で、「12歳」ですが、私はいまだにこの「12歳臨界期」の根拠がわからないのです。根拠はわからないが、これはやはり「考えること」についてのもので はなく、「考えるということ」についてのイデオロギーだと思います。
 「考えるということ」をやるのであれば、糸山の言う「臨界期」はどこかにはあるだろうとは思っています。それは体が子供の柔らかさを失う時期、若者の骨 格を備え始める時期と重なるかもしれません。それは単に「臨界期」があるというだけのことであり、ただそれだけのことなら「臨界期」はあるでしょう。思考 においてでも、感覚によく浸された「子供の柔らかさ」を失うかわり、疑うことを繰り込んで複雑化された思考を持つようになっていく時期があるというだけの ことです。それ自体は何の「赤信号」でもない。心が不安定になりがちな時期だという意味で「赤信号」がともる時期ではあるでしょうが、「思考回路の消滅」 などという意味の「赤信号」には何の意味もない。新しいものを得るときに、失うものがあるというだけのごく自然なことについて、糸山は「赤信号」だ「赤信 号」だと言い、人々に神経症をもたらしているのです。
 新しいものを得る段階で、必ず失わなければならないものがあるというのなら、失うことが自然なのです。脳の部位のなんとかいうものの数が減るというよう な生理は、自然に従っているだけのことです。それを、「臨界期」だ「臨界期」だと騒ぎ立て、「赤信号」だと言い立てているのが糸山です。
 何を騒ぐことがあるのでしょう。
 それが、体感や生活や感情から切れた思考、「考えるということ」(芝居としての思考)だけを本当の問題にしているから、こういうことになるのです。
 「考えること」そのもので言うなら、芝居としての思考(考えるということをやること)なんかほったらかした人で、しっかり考える人がたくさんいます。
 逆に、「考えるということ」=芝居としての思考をたくさんやったおかげで、「考えること」ができなくなるような人が量産されている時代が現代という時代 だと言うこともできます。

>>・人が心を駆使して考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞もない。

 「考えるということ」(舞台上の思考=教科というような枠に限られた範囲内での思考)は、媒介にされるべきもの(媒介物)にすぎません。
 媒介にする能力があるのは、心であり、脳ではありません。脳は舞台上の思考=限られた範囲内の思考に向いているのですが、それを心が媒介にしなければ、 本当には「考えること」は成立しないと思っています。(脳が心を媒介にしなければ、でもいいです。これは人のタイプによって違ってきます。)

 ねぼけまなこで書いた一つの文をめぐって、考えてみましたが、ますますわけがわからなくなってきたでしょうか。もしそうなら、私が言葉(の組み合わせ) を考えながら(発明しながら)でないと、よく考えられないせいです。私の言葉の組み合わせ方がなじみのないものであるせいだと思います。

>心=1.自らの意識や行動から1部分を推測することはできるが、全体を意識化することはできない。また意識(理性)が直接及ばない部分。2.意識(思 考)と相互に影響しあうもの。意識よりも複雑で変化し続ける。っていう定義でいいですか?

 今度は私がわからなくなってしまいました。
 心の全体を意識化することができないのはその通りだと思います。
 「意識(理性)」と書かれていますが、意識というものは、私は「場」だと思っています。その「場」に顕在するものもあれば顕在しないものもある。そうい う「場」だ、と。
 「理性」というものは、頭脳的な判断を司るもので、意識を「場」だという意味の「場」ではない。人間に働く作用そのものの名だとしています。
 「思考と相互に影響しあう」というときの、「相互に影響しあう」ということは、いろんなものについて言えるのではないでしょうか。
 理性的・感情的と対照されるときの「感情」もそうだと思います。
 頭脳的な思考、理性、感情、意識に顕在するものしないもの、あらゆる精神現象が媒介にされてできるエッセンスのようなもの、日本語で「精華」と言った方 がいいようなものとして、心があると思います。いろんな精神現象が作るエッセンスのみでできている総合的なものという気がします。

 糸山が脅しているようなことが、実際に起こったって何の不都合もありません。一つの脳の回路が滅びても、別の回路によって補強され、心の総合性は崩れま せん。むしろ、さらに別の第三の回路の誕生に不可欠だから、一つの脳の回路が滅びる必然(必要)があるのです。
 米国精神衛生研究所の論文において、超優秀児の脳の部位の一部が、加齢とともに急激に衰えることを示すグラフもそのことを示しているのだと見ています。 脳の一部だけ見ていれば、「おいらますます馬鹿になる」はごく自然なことです。そして、あの研究は脳のごく一部の部位に関しての研究であることを見落とし ては駄目だと思います。
 ああいう研究を、糸山がイデオロギーのために援用するというのは、犯罪的です。「12歳までに・・しなければ」という神経症を作り出すのに使われていい ような研究ではありません。あれはまともな研究です。

 「12歳までに機械的反復はよくない」とかも、糸山のよくないイデオロギーです。
 らくださんに向けた記事にもありますが、小学生時代でも、「反復」はどんどんやるべきです。文を素読するのであれば、すらすら読めるようになるまで「反 復」するのはいいことです。すらすら読めるようになっているのに、それ以上「反復」するのは、ネイティヴ言語の練習では害になりますので、要するにこれ は、「やりすぎはよくない」という娑婆の言い方で解決するようなことです。セックスでも算数の問題でも同じです。
 外国語学習に素読を使う場合は、すらすら読めるようになっても、なおもすらすら言い続ける「反復」が必要になります。こちらは、「磁場」を欠いているこ とに根拠があります。

>で、A→Cの関係にBを媒介するとA→B→Cですね。最初のAとBからでたAは違うものである。最初のAはBが複雑であればあるほど変化する。が、人間 は何かを媒介することが常なので最初のAとBからでたAを同じものだと思っている。

 「A→Cの関係にBを媒介するとA→B→C」であるなら、「最初のAとBからでたA」は「最初のAとBからでたC」ではないでしょうか。C なのに A だと錯覚しているというようなことはよくあると思います。
 「AはBが複雑であればあるほど変化する」かどうかはわかりません。「異質」であるほど変化するかもしれませんし。

>「人が心を駆使して考える」は、意識を思考錯誤する→心と相互に影響しあう(心を媒介とする)→新しい思考ってことですか?

 心がさまざまな精神現象のエッセンスでできていると考えていることは書きましたが、考えることがある強度を超えると、総体であり同時にエッセンスでもあ る心までも駆使してしまうのじゃないでしょうか。私は本当に考えるというのはそういうことだと思っています。新しい思考という言い方で言えば、新しい思考 はいつもそうだと思います。

>「外国語習得過程では、「心」までも媒介にするのです。」は、よくわかりません。

 「磁場」を欠いてやるのが「語学」なのだと最初の方で書きました。「磁場」を欠いてやる場合、「心」を動かさないと(媒介にしないと)語学が成立しない と思います。「磁場」においてなら、場と状況が決定するものも、語学においては、自分で想像することによって自分で決めるわけです。その時、心が「媒介」 にされています。

>心は常に媒介されるものではないのですか?

 私の言った意味での心というものは、多くの人の精神活動の中ではあまり媒介にされていないと思います。状況がそれを強いる場合以外では、心は媒介にせ ず、遊ばせておくのが、心に無理な力がかからない「いい生活」だと思います。私は職業柄、そいういう「いい生活」ができません。もっと、自然がすることに 従って、百姓仕事だけやっていたいのですが、今は小規模の百姓は食えませんから、英語のコーチから足が洗えません。

>人間はイメージや感情を母国語を媒介にして表現することに慣れているから(最初のAとBからでたAを同じものだと思っているから)外国後習得過程で強く 心を意識するということではないんですか?

 外国語学習では、心を意識するというより、心を駆使して想像するというのが正確だと思います。

>[結論]
全然わかりません(笑)

 依然同じでしょうか。
 

【11985】
matsuさん   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月 6日(火)08時42分21秒
  >もし皮肉があった としたら、自分の気持ちとしては、根石さんに対するものの方が強かっ た気がします。そんなに激昂しないでほしい、と。

私の読み違いだったようです。失礼しました。

「どんぐり倶楽部から来た方」の「穏やかさ」に私自身がいくぶん違和感を持っているのでしょう、そのように読み取ってしまいました。

matsuさんは詩人・根石吉久のファンなのですね。私は文学とか詩とかが分からぬ不勉強な人間です。matsuさんが根石さんを初めて読まれたのは「同 時代批評」とのこと。なつかしい。私も一時期「同時代批評」は読んでいました。尤も、もっぱら興味の中心は政治向きの話でしたが。岡庭さんが主催されてい た「同時代シンポ」はよく聞きに行っていました。すみません、思い出話になってしまいました。
 

【11986】
中也の詩   投稿者:足立和夫  投稿日: 2007年11月 6日(火)14時39分57秒
  つみびとの歌            中原中也
   阿部六郎に

わが生は、下手な植木師らに
あまりにハヤく、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界に索(もと)めんとする。
その行ひは愚かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、

ランダにして、とぎれとぎれの仕草をもち、
人にむかつては心弱く、諂(へつら)ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出来(しでか)してしまふ。


中原中也詩集『山羊の歌』より。

河上徹太郎編「中原中也詩集」(角川文庫)から
カタカナは漢字が出ないため。
 

【11987】
らくださん   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月 6日(火)19時21分27秒
  同時代シンポです か。なつかしいです。実は僕もよく行きました。飯田橋が多かったですよ ね。人気作家になる前の梁石日や野崎六助が常連で、根石さんの友人の高橋敏夫の報告を聞いたこともあります。
吉本隆明からはゴミのように言われていましたが、70年代の岡庭昇の批評は僕は好きでした。しかし、らくださん、不思議なご縁ですね。
 

【11988】
目で考える   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月 7日(水)21時21分32秒
  詳細なご説明ありが とうございます。何度も読み返して、なお理解不足の所が多いのです が、あまり「糸山問題」を引きずるのもよくないと思いますので、ひとまず区切りの書き込みをさせていただきます。

まずシュタイナーについてです。糸山氏は、小学生はシュタイナーで、中学生になったらスパルタで。名付けて「シュパルタ教育」。これが日本には合ってい る、という主旨のことをおっしゃっています。つまり、糸山理論の核にシュタイナーがあることは間違いないと思います。私は、シュタイナー教育を日本風にア レンジして実践する取り組みと糸山方式を肯定的に捉えました。しかし、この考えは間もなく修正されることになります。たまたま私の知人がシュタイナーを深 く探求していることを知り、話を聞くほどに、シュタイナー思想の数あるつまみ食いの一つにすぎない、と思うに到りました。

では、シュタイナーは横に置いておくとして、実用面でどうかということですが、これは前に書きましたが、子供に合わなかった、ということになります。合う 子供もいるでしょうが、私の息子には合いませんでした。

まず、文章題の文を読みます。「わかんない!」。文の意味がわからないので、絵図を描くところまで行きません。文の意味が取れるように、あれこれ口を出し て導きますと、「わかった」と言います。でも、絵図は描けません。しかし、これは、読み取った文の意味を絵図にするコツみたいなものがわからないだけだっ たと思います。一度コツをつかむと、同種の問題の「反復」においては、文の意味を取りスラスラと絵図を描きました。ただし「また同じかよ!描けるっツー の!」になります。

>生徒が興味をもってやっていることだから、機械的な反復でなくなるわけです。

興味が持てなかった、ということになります。単なる退屈なお絵書き。それで「文章題」からは離れることになりました。一つだけ後を引いていたのが、「目で 考える」ということ。これがどういうことなのか、わからずじまいで棚上げにしていたことです。

問題文の意味がわかって、コツがつかめれば絵図は描ける。考えてみれば、私が小学生の時も「わかりにくかったら数直線にしてみなさい」といったことは先生 に言われたものです。それとどう違うのか。

糸山氏は、読むのは1回だけ、「何度も読みなさい」は最低の指導、絵図を描いたら問題文は見ないで絵図だけで考えるといいます。要は絵図を見て適切な式が 立てられるかということでしょう。

しかし、1回読んで絵図が描けるのは1回で意味がわかるから、それだけ日本語に習熟しているからではないのか。そして、描かれた絵図を見て考える段階にお いても、考える過程で言葉を排除することが可能なのか?これが私の疑問でした。


>「視考力」だの「目で考える」だのが、何のことかいまだまるでわかりません。それが絵図が描ける能力のことを言っているのだとすれば、考えが転倒してい ると思います。イメージによって、ある論理がつかまるから、それが絵図に描けるようになるのであり、目に見えるものになるのです。いきなり最初から目で考 えているのではない。元になっているイメージの力は、目だけあっても動きはしません。言葉がそれを養うから動くようになるのです。初源は、言葉なのです。


>実用するために非実用をくぐる必要がある算数数学、語学などでは、「言葉」はそんなにすぐに不要にはならない。


腑に落ちました。

次の問題は、どうすれば「言葉」の力がつくのかですが、多くの方が「本を読ませておけばいい」と言い、多くの方が「どうすれば子供は本を読むようになるん だろう」と言います。読む子は読むし、読まない子は読まない。我が息子は読まない。

いずれ必要になれば読むようになるだろう、と放っておいて良いのかもしれませんが、後々財産になるようなことを、何かしら与えてやりたいという気持ちもあ ります。

そこで、古から連綿と行われていることなら、何がしか良いことがあるのだろうとの考えで音読を始めたわけです。音読より素読、小説よりエッセイ。ご説明良 く分かりました。

他にも「じょがぁくせー」で大笑いさせていただいたこと含め、折に触れて読み返してみようと思う言葉がたくさんありました。

>素読を元に据えている私から言わせれば、「ドライバーを時計回りに回せばネジが締まる」という言葉をすらすら言えるようになった子供に、実際にドライ バーを持たせて回させるというのがいいということです。

ここは、知識と体感との関係について、月並みですが目から鱗が落ちました。


>要するに子供の意識を???でいっぱいにすればいい。

わからないことをわからないまま抱え続けることに耐えられるようになることも大切なことなのだと思います。「ゆっくりでいい」と言いながら、そのゆっくり さ加減が「貧乏臭い」のはよろしくありませんね。

それから、『英語どんでんがえしのやっつけ方』を引用して下さった村田さん、ありがとうございます。ご著書は昔、拝読いたしましたが、どうやら読みが足り なかったようです。

本箱から引っ張り出して、再読始めました。分からないことが出てきましたら、質問させていただくかもしれません。よろしくお願いいたします。
 

【11989】
らくださんへ   投稿者:しまりす  投稿日: 2007年11月 8日(木)00時25分7秒
  こんばんは。はじめ まして。吉さんのHPから来ました、しまりすと申します。小4生の母 親です。先日から読ませていただい ていたのですが、らくださんにどうしてもひとこと申し上げたく書かせていただこうと思いました。(根石さんに御迷惑をおかけするつもりはありません。)こ ちらは語学論の掲示板ですので、どんぐり倶楽部のことをこちらで論ずるのは、私の本意ではありません。以降の私との議論は、私のブログでしていただければ と存じます。掲示板をお使いください。
http://plaza.rakuten.co.jp/clematis1010/

まず、お聞きしたいことは、らくださんは、どんぐり文章題を始められるにあたって、著書や過去ログをお読みになったのでしょうか?ということです。

>合う子供もいるでしょうが、私の息子には合いませんでした。
>まず、文章題の文を読みます。「わかんない!」。文の意味がわからないので、
>絵図を描くところまで行きません。文の意味が取れるように、あれこれ口を出して導きますと、
>「わかった」と言います。でも、絵図は描けません。

このようなことは、どんぐり文章題を初めてやったほとんどの子どもと親が経験することです。
合う合わないとは関係ないと思います。

>一度コツをつかむと、同種の問題の「反復」においては、
>文の意味を取りスラスラと絵図を描きました。
>ただし「また同じかよ!描けるっツーの!」になります。

どんぐり文章題、親が誘導してしまっては何の意味もありません。
正直申しまして、あの700問を本当に自分の力で描けるのであれば、
きちんと思考力の育ったお子さんですから、何も問題ないと思います。
書写や音読なども、必要ないのではないでしょうか。

>一つだけ後を引いていたのが、「目で考える」ということ。
>これがどういうことなのか、わからずじまいで棚上げにしていたことです。

目で考えることが、この文章題の核だと思うのですが、
これがわからなくても、文章題は描けると書かれているのがとても不思議です。

>問題文の意味がわかって、コツがつかめれば絵図は描ける。

らくださんは、どんぐり文章題を一緒に描かれたことがありますか?簡単でしたか?

>「わかりにくかったら数直線にしてみなさい」といったことは先生に言われたものです。
>それとどう違うのか。

数直線は、絵図のうちで一番最低な形だと思っています。

>糸山氏は、読むのは1回だけ、「何度も読みなさい」は最低の指導、
>絵図を描いたら問題文は見ないで絵図だけで考えるといいます。

ここが、目で考えるということです。

>要は絵図を見て適切な式が立てられるかということでしょう。

これは違います。絵図を自分で描くことが最大のポイントで、一番時間をかけるべきことです。
その絵図から立式するのは、最後の段階でできればいいことです。

>1回読んで絵図が描けるのは1回で意味がわかるから、

ではありません。全部を通し読みするのではなく、1文ずつ絵に変換していきます。
それが、言葉をイメージにかえて記録するということです。

>描かれた絵図を見て考える段階においても、考える過程で言葉を排除することが可能なのか?

言葉から絵図に変換してしまえば、あとは言葉なしで考えることができます。
くらげの問題、らくださんは御自分で描いて、してみられましたか?
あれをされていれば、言葉がいらないということがおわかりのはずなのですが。

>次の問題は、どうすれば「言葉」の力がつくのかですが、
>多くの方が「本を読ませておけばいい」と言い、
>多くの方が「どうすれば子供は本を読むようになるんだろう」と言います。

本を読みさえすれば読解力がつくというものではありません。
どんぐり文章題での言葉からイメージへの変換は、緻密な読解力養成になります。
0M(年長)の問題でも、言葉が難しくてできない子が多いのです。

中途半端な聞きかじりで、批判するのはやめてください。

初めにも書きましたが、私はここ(本来は語学論を議論されるべき場所)で、
どんぐりの議論はしたくありません。
ブログに来ていただければ、幸いです。

http://plaza.rakuten.co.jp/clematis1010/

 

【11990】
根石さんへ   投稿者:ひきこもり暦22年   投稿日:2007年11月 8日(木)00時33分15秒
  丁寧な説明ありがと うございます。すみません頭の中を整理したいので考える時間をくださ い。  

【11991】
NOVA、清算へ 名古屋企業に一部営業譲渡  投稿者:外野。  投稿日:2007年11月 8日(木)07時11分4秒
   会社更生法の適用 を申請していた英会話学校最大手NOVA(統括本部・大阪市)の保全 管理人は6日、同社の事業の一部を、外食事業などを展開するジー・コミュニケーション(名古屋市)グループに営業譲渡し、残る事業は清算すると発表した。

 同グループは当初、NOVAの約670ある教室のうち30を譲り受けて授業を再開し、その後、200教室規模を目指すという。前払い授業料は返還しない 方針。

 保全管理人は、更生法申請後も外国人講師や日本人社員の離職が続くなどNOVAの企業価値の劣化が激しいとして、早期決着を目指していた。

 ジー・コミュニケーショングループは、NOVAの受講生が通常の料金の25%で授業が受けられるようにするなど、支援にも努める。外国人講師らの雇用に も最大限配慮し、NOVAの商標は継続して使用する。

(共同通信社)
 

【11992】
茶の本   投稿者:らくだ  投稿日: 2007年11月 8日(木)11時22分33秒
  全く話題が変わりま す。

根石さんに英語学習について一つ質問があります。私は英語は全くできないのですが(30年ほど前の受験勉強の記憶がかすかに残っている程度)、そのような 初学者が岡倉天心の「茶の本」を再入門のテキストとして選ぶことは無謀なことでしょうか?

英文のレベルや古い著作である点などでです。古い英語という点に関しましては、『英語どんでん』の村田さんとの対話で受験英語に触れられ、古くても可と おっしゃっていますが、それは新しい英語素材との併用学習を前提とされているかと思います。ここではメインテキストとすることの妥当性についておききした いと思います。

実のところ、吉さんのブログに行き当たったのは、「茶の本」絡みの検索です。ここのところ岡倉を読んでいるのですが(日本語で)、吉さんが「茶の本」の英 語素読をブログにアップされているのを聞き、おもしろいことされてるなー、と感心したのです。

そして、その発信元が「素読舎」の根石さんと知り、二度ビックリでした。根石さんは英検1級レベルの方には「茶の本」を推奨されていますが、初学者ではや はり無理無駄が多すぎるでしょうか?イメージ構築のハードルが高すぎるとかです。

なぜ「茶の本」かと申しますと、思い出話になってしまいます。ご容赦を。私が高校時代に第二外国語がありまして、英語が好きな者と、できるだけ労力を軽減 したいサボリ魔が英語を履修していました。

その授業で担当の先生がテキストに使用したのが「茶の本」でした。私を含めたサボリ魔たちの間では、このテキストはさんざんでした。「なんだよ、コリャ。 なんでこんなに難しいんだよ」「なんで茶なんだよ。茶だぜ、茶!」

まともに英語を読むなど、とんでもない。和訳を当てられる授業は岩波文庫の音読会と化しました。先生はふてぶてしく岩波を音読するサボリ魔どもに呆れてい たと思いますが、何もおっしゃらず、捨て置かれました。

愚かだったのですね。岡倉がどのような人物であったか、先生がなぜ岡倉を選んだのか。そんなことは生意気で愚かな18歳の理解の外でありました。

吉さんのブログを見ながら、英語をもう一度やるなら「茶の本」でやってみたい。そんなことを、ふと考えました。尤も、英語を始めるのであれば、そのこと自 体にそれなりの覚悟が必要ですので、「茶の本」が適当かどうか以前の問題ではあるのですが。
 

【11993】
仙台、福岡など再開検討 NOVA支援のジー社  投稿者:外野。  投稿日:2007年11月 8日(木)15時35分32秒
   経営破たんした英 会話学校最大手NOVA(大阪市)から子会社を通じて一部事業の譲渡 を受けるジー・コミュニケーション(名古屋市)が、再開する教室の場所について、仙台、名古屋、福岡など地方の都市圏を有力な候補と考えていることが8日 分かった。

 ジー社は現在、月内にも再開する方針の30教室について、教室の賃貸料、利便性などで具体的な選定作業を進めている。早ければ来週初めにも数校を明らか にし、週内にも授業を再開したいという。同社関係者は「候補を現在、約150教室に絞っている」と話しているが、決定には至っていないとしている。

 ジー社の稲吉正樹社長はインタビューで、再開する教室について「経営合理性を考えると必ずしも都心部に集中することにはならない」と述べており、東京や 大阪だけに必ずしも集中しないという考えを示していた。

(共同通信社)
 

【11994】
受講生引き受け一斉表明へ 英会話大手、8000人規模  投稿者:外野。  投稿日:2007年11月 8日(木)15時38分18秒
   会社更生法適用を 申請した英会話学校NOVA(統括本部・大阪市)の受講生を支援する ため、ジオスや英会話イーオンなど 英会話大手各社が、入学金免除などの優遇条件で受講生を引き受ける方針を、近く一斉表明することが8日分かった。合計の受け入れ人数は8000人規模で、 さらに拡大する可能性もある。

 受講生受け入れは、経済産業省から協力要請を受けた2つの業界団体が中心となって進める。66社が加盟する全国外国語教育振興協会(東京)は、ECC外 語学院、ベルリッツ・ジャパン、イーオン、シェーン英会話、アメリカンランゲージスクールの大手5社を中心に5000人前後、21社加盟の民間語学教育事 業者協議会(同)はジオスを中心に3000人程度を引き受ける方向。業界団体が月内にも各社の受け入れ人数をまとめて公表する見通しだ。

(共同通信社)
 

【11995】
根石さんの詩   投稿者:matsu  投稿日: 2007年11月 8日(木)20時07分2秒
  書店で礼服にくるま れて銀色に    根石吉久


レヂの横からひびが走りはじめている
店の呼吸が静かになる
雑誌に目をもどしたが目のすみでその人は三十センチ上下して
ぐにゃぐにゃ上下してぐにゃぐにゃ上下して
来て
私の右に立つ
すると私がぐにゃぐにゃと上下しそうだ
すると私が差別するのだ
右半身は黒いケロイド
毛がはえてくるのだ

私は詩の雑誌を開いていた
活字は黒いコロイド
もう読めない
隣の人の雑誌が見えた
銀色の赤の原色の薔薇の花か極彩の星か黒い文字「SMコレクター」

ここはどこか
女体が見える
縄がくいこんでくびれた女体
私は「現代詩手帖」のペーヂを変える
そこに開く深紅の女陰
毛がはえてきてぼろぼろこぼれる

奪われているんだ
ボードレエルの兄貴よ
「性交は民衆の抒情」であって
しかもなお奪われているんだ
もぬけのからなんだ
おお美しいおもちゃ
だから正確に「にせ絵」を買いにくるんだ
やわらかい女体
「幸福」がひきつるのをくいこむ縄に読みたいんだ
馬鹿やろう
心をぎらぎらにしてしまうんだ
(復讐のように)

私は雑誌を棚へもどす
背が痛みだす
「芸術生活」
「大学への数学」
「浮世絵」
「医学部進学」

あと三十分で友人の結婚式が始まる
(また
 たかさごや
 また
 つるとかめ)
行こうと思ったときびっこの人も歩き出した
握られている雑誌もぐにゃぐにゃと上下した
早く行きたいのだろう
ひとりになりたいのだろう
呉服屋をひっくりかえしたような色彩の氾濫の中で苦痛に歪む女の顔に目をこらす
惨めな写真のカラーでそれだけのことはやれる

レヂを離れていちどぐにゃぐにゃと大きく沈み
転んだ
砂のあるコンクリートに雑誌が飛んだ
ひるがえるひるがえる数々の女体
転んでいた
立ち上がろうと必死で
コンクリートの床を転んでいた

笑った
私は 笑った
助け起こしたのは私だが 口を閉じていると
肋骨の中で何度も笑いが暴発するのだ

ひとりの部屋に
ペーヂをめくる独裁が
その 私 が
今日はみじめであるだろう
それゆえに
銀色に銀色に
さらに銀色に光り出すもの

礼服を着て町を歩いた



 根石吉久詩集「人形のつめ」より
 

【11996】
matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 9日(金)22時09分31秒
  昔書いたきりで放り つけておいたものを、今になって読むと気恥ずかしいものです。
ああ、そうか、そうだ、そういうふうに書いたとは思い出します。

>口を閉じていると
肋骨の中で何度も笑いが暴発するのだ

 これと同様の経験は、その後、ボストンでしました。1週間の短い旅行のうち2日だったか、ボストンにいたのでしたが、道ばたのベンチに腰を降ろして道往 く人を見ているうちに、もうなんだかやたら笑いがこみあげてきて苦しかったのを覚えています。
 アングロサクソンの人たちが、男も女も立派に闊歩するのです。堂々として、胸を張って闊歩するその立派な姿が、もうなんだかわけもなくおかしくてたまら ず、口を開かずに、胸の中で笑いが暴発するにまかせました。
 奇妙な体験でした。
 おさえようもないのでした。
 

【11997】
皆様   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月 9日(金)22時14分15秒
  matsu さんが私の昔の詩を引用して下さったのは、ブログ「なにぬねの?」で、私が足立さんに引用をお願いしたところ、足立さんの部屋がごみ屋敷状態で詩集が出て こないとご返答いただき、それを matsu さんが読まれて、そういうことなら私が引用しますと言われてやって下さったものです。  

【11998】
らくださん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月10日(土)01時43分12秒
  >私は英語は全くで きないのですが(30年ほど前の受験勉強の記憶がかすかに残っている 程度)、そのような初学者が岡倉天心の「茶の本」を再入門のテキストとして選ぶことは無謀なことでしょうか?

 日本人の言う「英語はまったくできない」という言葉には、私はいつもまともに反応しないことにしています。語彙レベルではかなりなものを持っている人で も、単に話せないというだけで「まったくできない」と言われるし、中学レベルの文法を終えているくらいの方でも、「まったくできない」と言われます。中級 序盤レベルの練習ができる場合、「まったくできない」は事実と違います。
 このあたりで私は困ってしまうことがあるのです。と言いますのは、小学生のような本当の初心者には、「語数別分類」のテキストを使い、中学生にはその中 学生が使っている学校の教科書を使い、大人でも本当に基礎からやる必要のある人には、中学の教科書を使います。中学の文法がほぼできている方には、自作の 長大な教材を使ってレッスンを始めてもらいます。
 (教材が長大なのは、初級レベルを抜けるのに要する時間・労力と比べて、中級レベルを抜けるまでの道のりは非常に長いものになるからです。一年生、二年 生の樹木なら、毎年幹が太るのが目に見えるのに、数十年たつと、一年でどのくらい太ったかがわからなくなります。大木になると4,5年の変化も注意しなけ ればわからなくなります。人間は樹木ほど長生きしないのですが、それでも語学力において、中級・上級になるほど、大量の練習による語学力の変化がわからな くなってくるのは同じです。変化しているのですが、それが目に見えなくなります。)
 話を戻します。いろんなレベルの人が「まったくできない」と言われるので、私は教材の選択に困るのです。それで、私はひとまず私の自作教材で始めても らっています。私の自作教材で始めてもらって、どうにも無理なら中学の教科書に変えるというようにするつもりなのですが、今までのところ「まったくできな い」と言われたにもかかわらず、中学の教科書に変更した生徒さんはいません。

 「茶の本」は私のレッスンでは、上級者向けです。
 しかし、この本をどう扱うかによります。素読と「電圧装置」を両方使えば、中級者の人でも扱えると思います。中級者の場合は、「回転読み」を経た素読と 共に、「電圧装置」で、出てくる単語を片っ端からやっつけていくということが必要になります。ただ、この掲示板の過去ログを読んでいただけばおわかりにな ると思いますが、「音づくり」をやらないと、英語力そのものが大きく欠けたところのあるものになってしまいますので、非常に損な結果になります。
 岡倉天心が同じ「茶の本」を、日本語でどう書き、英語でどう書いたかを知るため「だけ」でしたら、つまり、岡倉天心研究のためであり、英語力をまともな ものにするという意図はないのであれば、「音づくり」をやらないでも結構かも知れません。
 「茶の本」再入門なのか、英語学習「再入門」なのか、どちらとも読めるので、お答えしにくいところです。

>英文のレベルや古い著作である点などでです。古い英語という点に関しましては、『英語どんでん』の村田さんとの対話で受験英語に触れられ、古くても可と おっしゃっていますが、それは新しい英語素材との併用学習を前提とされているかと思います。ここではメインテキストとすることの妥当性についておききした いと思います。

 やはり一般的な英語力を養うことも考えておられるのかと、この部分を読んで思いました。岡倉の文は古い著作で、いかにも文語文語した文章です。それが味 になっていると思います。
 「英語どんでん」の村田君との対話で、古い言い回しばかりじゃ困るが、古いのが少しくらい混在していたって気にすることはない。その後も英語をやり続け ていけば、今の「普通の英語」がどんなものなのかはわかってくるはずだからということを言ったと思いますが、おっしゃる通り、大学入試以後現代英語に触れ 続けていくことを前提にしたもの言いです。
 柴田さんのように、古色蒼然とした英語を平気で入試問題にする大学の先生達を批判することもいいのですが、実際に入試を受ける人には、入試以後、英語を やり続け、現代英語に触れ続けることがいいと言うのが、ひとまず現実的なアドバイスになると思います。もし、生徒が大学に行って、英語の古典を読みたいの だというのであれば、古色蒼然とした英文が必要になりますので、古色蒼然としたものが一部混じっているくらいのことに目くじらをたてることもないとも思い ます。
 「茶の本」をメインテキストにされた場合で、それ以外には何も英語をやらないというのであれば、「新しい英語」「現代の英語」に触れないことになってし まうので、一種独特の英語力ができるでしょう。(それでも、「茶の本」の英語は非常に古いというわけではありません。むしろ、非常に文語的なのだと言うべ きです。)

 私の自作教材を使ってレッスンを受けてくれる中級者の人によく言うことに次のようなものがあります。
 当初は私のレッスンの練習だけでもやることが多いので、私のレッスンに集中してほしい。その後、力がついてきて余力が生じた場合は、NHKの語学放送を 聞くのでもいいし、多読をやるのでもいいし、TOEICや英検を受験するための勉強をするのでも何でもいいが、レッスンで使っている方法を踏まえて(応用 して)レッスンで作った英語力という幹から枝を生やして欲しい(何か自分でやる練習を始めて欲しい)。そんなことを言います。
 一人でやられる場合、道は紆余曲折すると思います。その前に、最初のペース作りで急がれて失敗する確率が高いです。最初のペース作りはプロにまかせてい ただく方が失敗は少なくなります。また、「音づくり」が欠落するおそれがあります。お金の問題がありますので、言いにくいですが、私としては、岡倉天心を やられるのであれば、私のレッスンで私が道をつけますので、ひとまずその道を歩いていただきたいと願っています。
 「英語どんでん」を読んで「電圧装置」を併用していただけば、「余力」が生じる時がきます。その時から、レッスンで獲得した方法を使って、現代英語をご 自分でやられるのが最上かと思います。
 「音づくり」と「電圧装置」の併用に慣れ、直す音がなくなった頃には、辞書、良質のCDなど使って、独習でやっていっていただけばいいと思います。 (「茶の本」を吹き込んだ市販のCDがあるかどうか知りません。あったら、どなたでも結構ですのでお教え下さい。)

 早ければ1年くらい、時間がかかる人でも3年くらいで一応私が手離してもいいくらいの音になります。

 とにかく1年と決めておいて、その一年で私のレッスンの質をよく吟味していただき、その後はご自身は独学に入られ、レッスン枠を息子さんに譲っていただ くことが私が最も望むところです。私がもっとも手がけたい年齢の生徒さんに出会えるわけですから。質をよく吟味していただいて駄目だとなれば、いつでも即 刻やめていただけます。(レッスンのお代は前払いではありません。)

 1ヶ月間(レッスン4〜5回分)を無料で試していただくこともできます。1ヶ月でも、「音づくり」の外科手術的な部分はわかっていただけます。だんだん 「音づくり」で直した音を熟成させる過程に移っていきますが、熟成過程を一ヶ月でわかっていただくことはできません。

 吉さんと「茶の本」をやったのは、吉さんがまず読まれていないと思われる分野のものをやってみたいと思い開始したのだったか、吉さんがこの掲示板を読ま れて勝手に始められたのだったか。ああ、思い出しました。Naima さんと生徒同士で自習を始められたのでした。つまり、まあ、勝手に始められたのでした。
 吉さんの奥様のレッスンが主体で、そのレッスンのオブザーバーとして吉さんに一緒に生徒さんをやっていただきましたが、Naima さんとの自習を中断されて以後は、奥様が体調が悪く休まれたときなど、吉さんに「茶の本」の素読をやっていただきました。

>根石さんは英検1級レベルの方には「茶の本」を推奨されていますが、初学者ではやはり無理無駄が多すぎるでしょうか?イメージ構築のハードルが高すぎる とかです。

 お書きになる日本語の文章から判断して、多少ハードルは高いでしょうが、可能だと思っています。ただし、「電圧装置」併用と、少なくて1年のコーチ付き で、です。

>まともに英語を読むなど、とんでもない。和訳を当てられる授業は岩波文庫の音読会と化しました。先生はふてぶてしく岩波を音読するサボリ魔どもに呆れて いたと思いますが、何もおっしゃらず、捨て置かれました。

 多分、いわゆる一流高校での出来事だと思います。高校生向けに「茶の本」を選んだのは、ちょっと無「茶」だと思います。しかも、「和」訳を当てるという 日本の悪しき「英」語教育をやっていたのも、大いに問題ありです。(私も中学生相手のレッスンでは「和訳」を使いますが、使い方がまるで違います。)
 もしやるなら、素読をかませるべきです。しかし、大学で英語教育課程を履修しただけの先生にも、英語の「磁場」帰りの先生にも、高校の英語の授業で素読 はやりようがないでしょう。学校の授業という形態の中に素読そのものは置けないとしても、「素読的」な方法を置くことなら、私に腹案がひとつあります。 やってみせろと言うならどこかの学校に出向いてやってみることもできます。しかし、大学受験の予備校と化した高校ばかりになってしまっているようですか ら、この腹案も墓場に持っていくことになるでしょう。
 「何もおっしゃらず、捨て置かれました」というところから、その先生に対する敬意を失っておられないと読みましたが、つまり、英語教育にはなっていない が、文学教育にはなっていたということではないでしょうか。

>吉さんのブログを見ながら、英語をもう一度やるなら「茶の本」でやってみたい。そんなことを、ふと考えました。尤も、英語を始めるのであれば、そのこと 自体にそれなりの覚悟が必要ですので、「茶の本」が適当かどうか以前の問題ではあるのですが。

 やってみられるのはいいことだと思います。子供の勉強につきあって嫌われるのでなく、親が自分で何か一つ勉強を続けていくことがいいことです。子供に勉 強させたいなら、それが一番いい方法です。子供は「親の背を見て育つ」という意味で。
 勉強を続ける親の背中を見て育った子供は、たとえ学校の勉強を放り出した場合でも、どこかで必ず勉強してくれると思います。
 私の生徒にもそういう子供がいます。パン屋さんの息子で、中学生のくせに隣のじいちゃんと盆栽の話ばかりしていた変わった子供でした。高校の時に、学校 の勉強は放り出して専門学校に行き、ケーキ作りの職人になりましたが、ケーキの勉強をするのに英語を読む必要が生じ、素読舎に行ってたとき、まともにやっ ときゃよかった、後悔してる、と言ってると、親御さんが伝えてくれました。ケーキ作りのかたわら、大人になってから英語学習に「再入門」したわけでした。 パン屋さんの親がパン作りの勉強を続けていたのだろう、その背中を見て育ったのだろうと推測しています。
 

【11999】
外野さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月10日(土)02時09分53秒    編集済
  いつも、記事の引用 をありがとうございます。

>会社更生法適用を申請した英会話学校NOVA(統括本部・大阪市)の受講生を支援するため、ジオスや英会話イーオンなど英会話大手各社が、入学金免除な どの優遇条件で受講生を引き受ける方針を、近く一斉表明することが8日分かった。

 ジオス、イーオンも本質は NOVA と変わりはない。「磁場」のないところで、教室を「磁場めいたところ」として偽り、金もうけをするのがその正体である。これらは、NOVAというハイエナ の死体に群がるハイエナどもに過ぎない。

 教室は「磁場」にもならないし、「磁場めいたところ」にもならない。
 「磁場」はネイティヴ話者が最低二人いなければ駄目だし、日本人がその場に加わる場合は、「生徒(お客様)」としてではなく、ネイティヴ話者と直接に渡 り合う「当事者」にならなければ「磁場めいたところ」にすらならない。
 先生一人が「磁場」で育った人間の「磁力」を発しても、そこは「磁場」ではない。残りの生徒全員が、日本語で育った日本語による思考を伏在させている 「場」は、英語磁場にみせかけた「疑似日本語磁場」なのである。
 なぜ英会話学校を頼りにしても英語をしゃべるようにならないかは、「磁場論」で解けるのである。

 何が「入学金免除などの優遇条件」かよ。
 素読舎の「電話でレッスン」は、最初から「入学金」なんかない。
 ただし、8000人の世迷い人のうちから2,3人素読舎に申し込まれたら、それでもう満杯だ。
 レッスン日を一日削って、百姓をする日としたので。
 

【12000】
ひきこもり暦22年さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 2007年11月10日(土)02時17分26秒
  承知しました。