松とは何か
悪辣な大家
友達の松本さんという女の人が、やっかいな問題を抱え込んでいる。やっかいなものを簡単に言うと、借家人である松本さんと、大家とのもめごとである。
松本さんが、借りている家の庭の松の枝を2本切った。そのことによって、大家から賠償金で100万円近い金を請求されている。1本50万円もする枝かと人は思うかもしれないが、そんな大した木ではない。この100万円には、松を掘り起こす代金やら、新しい同等品を買うための代金やら、新しい松に植え替えるためのクレーンを頼むための代金やら、そのオペレーター代金やら、新しい松が根付くまで庭師が数年管理するための代金やら、なんだかうぞうむぞうの代金が、まことにしっかりと項目分けされて、まことにしっかりとてんこ盛りに請求されているのである。その総額が100万円に近い額になっている。松が根付かなければ、この100万円が200万円にも300万円にもなる寸法だが、今のところ大家はこれは匂わしていない。
とんでもない腐れ根性である。松本さんは、こんなものの策にはまっては絶対にいけない。
借りている庭の松の枝を勝手に切ったのだから、切った松本さんが悪いと誰でもひとまずはそう思うだろう。しかし、ひとまずそう思った人も、松本さんから話を聞けば、ひとまず思ったことは全部ひっくり返っていくのだ。私の中では全部ひっくり返った。私に起こったことが、他の人にも起こると思う。
大家とはいうものの、大家の側で采配を振るっているのは、大家の奥さんである。これが、土建屋の娘で、自分でも宅地建物なんとかという免許を持っていて、土建や土地や不動産やらのくろうとなのである。その知識を悪知恵に変えて、しろうとから大金をふんだくろうという魂胆がはっきり見えるのが気に入らないのである。アメリカのブッシュに対して人が思うように、こんなものは殺してしまってもかまわないと思う人が現れないとも限らない。
私は大家から話を聞いているわけではない。友達の松本さんから聞いた話だけを元にこれを書いているのである。私は松本さんの友達であるし、話は松本さんから聞いた話である。私が松本さんの友達だから、松本さん寄りの考えにどうしてもなりがちだろう。それにしてもふざけた話だという思いは消えないのだ。大家が悪辣なたちの悪い大家なのだ。
だから、あくまでも松本さん寄りの考えだということをお断りしたうえで、これを読む第三者が客観的に見て、どう思うだろうかということを知りたくて、なるべく客観的にもめごとを端から見ていた印象を書くのである。
松本さんが、東京での会社勤めをやめて、田舎暮らしを始めたことの動機は私は知らない。人には話したいことも話したくないこともあるだろうから、私は松本さんが何で東京暮らしをやめて長野に住み始めたのか聞いたことはない。松本さんにいつどこで最初に出会ったのかも覚えていない。多分、喫茶店で会って話をするようになったのだろう。東京暮らしをやめて、更埴市の森に住みつき始めた人だということしか最初は知らなかった。
松本さんは、織物が好きで、自分でも織る。最近は織物教室をやっていて、生徒が数人できていた。田舎で織物をやり、年に何度かは個展をやる。地元の喫茶店でやって、売れ残ったものを、東京のアジア雑貨の店の中に置かせてもらうと、田舎では売れなかったものがたちまちに売れていくというような話を聞いたことがある。どうもなあ、松本さんの織るものは、田舎の人間が買って、日常生活で着るにはためらうものがあるなあ、東京で着るんなら普段着にもなるんだろうけどな、というような長野の人たちの意見は何度か耳にした。
手仕事で織物を織るには時間がかかる。手仕事に必要な時間と品物が売れて入ってくる金額とを突き合わせると、今のところ、とても織物や織物教室の収入では生活が成り立たない。それで、松本さんは月に数回、高速バスに乗り、東京にアルバイトに行き、かつかつの生活を紡いできた。
私のように貧乏をしてきた人間から見ても、松本さんは筋金入りの貧乏人である。
そして、美意識は強い。
その人が、大家の松の枝を二本切った。
そして、100万円近い金額の賠償金を請求されている。
まず最初に端的に言ってしまおう。これはあくまでも私の意見に過ぎないが、松はちんけな松である。五葉松だから、成長が遅いのだという話だが、単に背丈が低いという意味でちんけな松だと言っているのではない。背丈がなかなか伸びないという五葉松に特有の性質を考慮しようがしまいが、ちんけな松であるという印象は私はこの松を最初見たときから持っていた。松本さんちには何度も遊びに行っているので、この松は何度も見ている。ちんけであほくさい松である。
意匠があからさまに見えるいやらしい松の形なのである。なんと言えばいいのか、この松はまっすぐに立っている。幹はまっすぐに立っていて、そこから出ている枝を途中で切り落としてあり、枝先が伸びないようにしてある。枝の相当太いところからぶった切るように切ってある。荒らしておいて、後からぶった切ったのがわかる太さである。だから自然に、この松の全体の姿は比較的すっきりとまっすぐである。私は五葉松の手入れの仕方なんかなんにも知らないのであるが、こういうまっすぐな仕立て方もあるだろう。私の家の窓から見える五葉松も比較的まっすぐに仕立ててある。太い枝を途中からぶった切ってないだけ、隣の家の松は自然でやさしい姿をしている。まあ、しかし、松の姿に関しては、私は無知だ。そして、いくら私が無知であっても、松本さんが借りていた家の庭の松を縁側の方からみたとき、左側の一番下の枝が、まことに変であることは一目でわかった。
左側の一番下の枝だけが、妙に長くて、池の水の上に張り出していたのだった。他の枝は太いところでぶった切ってあるのに、左側の土に近いところの枝だけが変にいじめられて、池の上に張り出しているのである。馬鹿みたいだと思った。
庭木の枝が池の水の上に張り出していることに風情が生じることはよくわかるのだが、この松に関してはとことんおかしな感じがした。全体がぶっきらぼうにまっすぐにすっきりと立っているのに、左の一番下の枝だけが、妙な具合に長く、いやらしく、謹厳実直な紳士が直立不動で、隣の女のスカートの下に手を入れているようないやらしさなのである。この枝一本だけが、木の全体の姿を離れて、馬鹿なボンサイをやっている具合なのだ。要するに、ちんけなのである。
しゃらくさいのである。すっきりまっすぐの仕立てと、池に枝垂れる仕立てとに一本の、五葉松が分裂している。
しゃらくさいとこの松を見るたびに思ったものだった。この松をこのように仕立てた者の性根がしゃらくさいのである。まっすぐに仕立てるなら仕立てるでいい。それならそれで見られるだろう。池に枝垂れるように仕立てるなら仕立てるでいい。それならそれで風情になるだろう。しかし、一本の松にすっきりまっすぐぶっきらぼうに上に伸びさせながら、一番下の枝の一本だけに枝垂れをやらせるのは実に醜い。なあにが、「入船」か。馬鹿らしい。この松は、仕立てる者の性根の貧しさをまず感じさせるものだった。
最初にこの松を見たときに、あの左の下の枝がみっともないと思ったのだが、そんなことは言う必要のないことだからもちろん口に出して言ったことはない。
他の木も芸もなくただつったっているような庭である。五葉松もただつったっている。このつったっている木の縦の線を生かして、すっきりした庭にすればましな庭になるのだが、五葉松の変に伸びすぎた一番下の枝だけが、馬鹿ボンサイ(以下、バカボン)をやっていて、全体をぶちこわしにしていた。やるんなら、どれだけ金がかかるか知らないが、他の木を使って枝垂れにするべきであり、すっきりした松の一本だけの枝にボンサイぶりをやらせるのは、実にけちくさい根性である。チンケであり、人を不安な気持ちにさせるものがあった。私だったら、あんなチンケなものがある庭を見るのはいやだ。庭の方を見るときは、絶対に目をつむる。見たくない。醜いから。
今回、この左の一番下の邪魔な枝がなくなった姿を見たら、全体とのバランスがとれて、実にすっきりしたいい感じになった。右側にミヤコワスレくらいの低い植栽があれば、実にいい。松の全体の姿としての、ぶっきらぼうなまっすぐな線が見事に活きた。
こんなことはしかし、お前の口出しすべきことじゃないと言われればそれまでのものだ。いくら変態的で、おかしな具合のものであっても、この庭の持ち主がそれが好きなら、好きにさせておくしかない。それは大家の勝手な変態趣味に過ぎないから、勝手にやればいい。
その松の姿のみょうちくりんな形を大事に思うなら思うでいいから、大家は自分の責任で自分で全部管理するがいいのだ。庭師に大金を払ってでも、自分で管理するのが当然だ。それが、マニアというものである。
そんなみょうちくりんな形のどこに価値があるのかは、木をこんなみょうちくりんな形にした者にしかわからないのであるが、おそらく大家の意見を取り入れて、どこかの三流庭師がやらかしたものに違いない。実際の木の姿は、一流、二流、三流の埒外のものだ。。四流以下、どのあたりでブレーキがかかるのか知らないが、一桁違うあたりにならないとブレーキは効かないだろう。
ようやくいやらしい手が切除されて、二流か三流くらいの仲間入りができる程度にはなった。
あれは、途中で相当放置した木だ。放置したから、枝の太いところで切らなくてはならなくなり、全体としてすっきりまっすぐ系の木になってしまったのだろう。
それでもしかし、再度、お前の口出しすべきことじゃないと言われればその通りだし、口出しも手出しもできるものではない。それは松本さんにとってもその通りだろう。だから、こんなちんけな松の木は、大家は最初から自分で管理するしかないしろものなのだ。それなのに、このごうつくばりの大家は、松本さんが家を借りて以後、庭の手入れをすべて松本さんにやらせてきたのである。庭師を入れるなどの金は、ビタ一文も使っていない。松本さんが、庭師に二万近い金を払ったことは一度ある。
しろうとに日本庭園(のつもりの庭)を手入れさせて、雑巾を20センチも擦ればまっくろになって洗わなくてはならないような荒れ果てた家に、最初5万という金をとって貸したのだ。雨漏りがし、すきま風がすうすうする家である。雨が降れば、北側の壁全面が濡れて水がじみるような家、しかも更埴市森という交通不便な場所で、月々5万の金をふんだくっていたというから、虫のいいごうつくばりというしかない。
北側の壁に沿った雨漏りは、あんまりひどいので、松本さんは手の入れようがなかったそうだ。南側の玄関にもぼたぼたと雨漏りがするので、松本さんは屋根に登り、瓦三枚が割れているのを発見し、瓦にコーキングして雨漏りを止めたそうだ。
松本さんは、平成10年の7月の終わり頃に入居したそうだが、大家は4月まで人が住んでいた家だと言ったそうだ。掃除しようとして、すぐに雑巾が真っ黒になることから考えて、松本さんは人が長いこと住んでいない家だと判断したという。4月まで「居住」というのは嘘で、家を建て替えるために、一時荷物を入れておくために、人が借りていたことはありうるだろう。それほど荒れ果てた家だったのである。松本さんは、半年くらいづつ借りたという人を二人知っている。調べればわかることだが、多分荷物の置き場に使っていただけなのだろう。
大家は、こんなぼろ家を貸しておいて、修理は全部松本さんの出費でやれと言ったそうである。松本さんは、北側の雨漏りをどうにかするために、大工に頼んで、屋根構造の傷みを調べてもらったそうだ。非常に危ない状態で、屋根が落ちてくることも考えられると大工は言ったそうだ。それほどひどい家なのである。下手をすれば、この家に住むことで死ぬことだって考えられるくらいに傷んだ家なのだ。
松本さんは、まず蜘蛛の巣を払うことから始めたらしい。ゴミはほんの一部を大家が自分で、自転車小屋に出してあったそうである。しかし、片づけなければならないゴミは大家が出したゴミの何倍もあったという。およそ、森くんだりで5万の金を月々とれるような家ではないのである。これに関しては、東京暮らしの長い松本さんは、5万なら安いと思ったという。家賃の感覚に関しての東京者の甘さにごうつくばりは見事につけ入ったのである。
さて、庭の問題に戻る。
庭の植木は、ちょっと手を入れた形跡があったそうだ。敷地を区切るブロック塀に沿って、非常にふるいボクボクした木の枝がうずたかく積まれていたそうだ。大家も家を貸す前に庭の草刈り(草とりではない)をやったそうである。とても草とりのできる状態ではなく、草刈りしかできないほどに庭は草ぼうぼうだったそうだ。60センチからの背の草が一面にびっしり生えていたという。
このごうつくばりの大家(以下ごうつく大家)は、何をたくらんだか。
そこまで庭を荒らしておいて、5万からのべらぼうな家賃をとって、このごうつく大家は、松本さんに庭を手入れさせようと考えたのである。
高値の家賃を毎月ふんだくりながら、松本さんに日本庭園(のつもり)の庭を丁寧に手入れするように言ったのだ。その条件を契約書にも書いたのだ。どこからどこまでも抜け目のない契約書の一部を引用する。
第6条(使用上の注意義務)
3.乙(松本)は建物及び庭について愛着をもって使用し、特に夏期には庭木の散水等、日常の管理を誠実に行うこと。
これである。松本さんは、あの庭に愛着をもって使用していた。庭はどんどんよくなった。ということを人にわかってもらうためには、最初、この庭がどんなひどい状態だったかを書かなければわかってもらえないだろう。
この庭は家の南にあり、家の縁側から全体が見える。縁側から数メートルのところに池があり、縁側と池の間は芝生である。池の縁は、自然石をコンクリートで固めたものであり、池の底はコンクリートである。どこかでコンクリートがひび割れているものらしく、池の水は深さ10センチ程度しかない。この池の向こうに庭木がある。この庭木部分が、松本さんがこの家を最初に借りたときどんなふうだったかを松本さんに聞いた。
鬱蒼としていたそうだ。木の枝は乱れ、間に蔓草が這い上がり、地面は非常に暗かったという。木の幹が鬱蒼としていても、横から差す陽光があれば、地面近くに多少の光はあるだろうが、この庭の庭木の向こうはブロックの塀になっており、庭の植木部分の地面に光りはまったく差すことはなかったという。つまり、まったく放置され、野放しになったニホンテーエンだったのである。大家はこの鬱蒼とした状態をちゃんとわきまえていたはずだ。というのは、松本さんは大家から庭木の奥の方に雀蜂の巣があるから、冬になるまで庭木の奥には足を踏み入れないようにと言われたのである。大家がこの乱れ放題の庭を乱れ放題だと認識していなかったはずはない。乱れ放題の庭だからこそ、雀蜂の巣は縁側の方から見てもまったく見えなかったのである。
松本さんの記憶に頼ると、平成9年7月31日に入居したという。
11月頃、松本さんが庭木の間に足を踏み入れて、奥のほうを見たら、雀蜂の巣は土の上に落ちていたという。秋の台風で落ちたのだろうと松本さんは思ったそうだ。
この庭木のある庭を縁側から見て、左側に杏などの植わった土地がある。松本さんは、雀蜂のせいで庭木の手入れはできないから、入居後、この杏のある土地の方を手入れした。大家が刈っただけで済ませた草を根から堀りあげ、草取りをした。一ヶ月くらい、朝から晩までやっていたという。それが、夏の8月だという。さぞかし汗が出たことだろう。
草と格闘しつづけて11月、雀蜂の巣が地面に落ちていることを確認してから、松本さんは庭木に手を入れ始めたそうだ。松本さんは、庭木の手入れに関してはまったくのしろうとなので、まず本屋に行って、植木の手入れの仕方の本を2冊買ったそうだ。松本さんは本によって、松本さんなりの理解を得て、少しずつ庭木に手を加えた。
蔓草を払い、女だてらに木に登り、枯れた枝を落とした。
その様子を見ていた近所の人たちは、あきれ、感心したそうである。近所の人たちは、口々に木の枝が茂り過ぎていると言ったそうだ。
この家は、昔、医者をやっていた家であるそうで、その頃を覚えている人たちは、お医者さんがいた頃は、いつも庭は手入れされていたんだがなあ、と言ったそうだ。その庭を覚えている近所の人たちであるから、松本さんが手を入れ始めた庭について、「それにしてもひどいもんだ」と言ったそうである。
とにかく木の枝が隣の木の枝とからみ合い、重なりあっているのである。地面に近いところは、枯れ枝だらけであり、低く腰をかがめてやっと庭の奥に入っていけるくらいに藪藪なのである。奥の方には、へとへとに疲れたような椿や芍薬があったそうだが、それは縁側の方から一切みえなかったそうだ。松本さんが庭を手入れして、冬になって、ようやくそれらがあるとわかったのだそうである。
陽が足りない庭なので、檜葉などの木は、ひょろひょろと上に上に伸びようとして、松本さんが上の方の枯れ枝を落とそうとして、脚立の最上部に乗って背を伸ばしても、とうてい届かない高さになっていたという。だから、手が届かないところの手入れは、ひとまずあきらめたそうだ。しかし、手が届く限りのところは全部、松本さんは葉の上に積み重なっている枯れ葉を落とし、枯れ枝を落とした。荒れ放題なので、とてつもない量の枯れ枝を落としたという。枝が重なりあい、からみあって陽がささないために枯れた枝だろうという。
昨年4月には、木の梢が電線に触っているのを目撃し、危ないからと判断して、松本さんは、毎度のことながら、女だてらに鋸を体にゆわえて木に登り、電線に触っている枝を切り落としたという。近所の人が、危ないから気をつけろと下から声をかけたそうだ。近所の人は、「よくやるねえ」と感嘆する声をあげた。この「よくやるねえ」は、女だてらによくそんなぐらぐらする木に登るねえ、という意味も、他人の庭なのによく手入れするねえという意味も重なっていたのだろう。
(続く)
大家からの請求額が、100万から200万になったそうである。
こんなものは馬鹿なのだから、適当に遊ぶ相手にしかならない。
一度、形式だけでいいから「夜逃げ」してしまえばいいと俺は思う。
住所不定にしてしまえばいいのだ。
こういう悪辣な不動産知識人にはそれでいい。
あくまでも軽蔑しつづけるべきであることなど、松本さんは承知しているが、実際に住所不定に
するためのネットを作るのがいい。
みんなでしらばくれればいいのだ。
そして、Nさんを除けば、しらばくれるのはいくらでもやれる人たちばかりじゃないか。
俺も荷担するぜ。