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掲示板「大風呂敷」に最初の頃、Eliot さんが書いてくださった記事へのお返事です。掲示板の倉庫でも読めますが、独立した記事にしておいた方が読みやすいだろうと思い、ここに掲載いたします。 (根石吉久記・2001年8月23日)
本当にびっくりしました。
ありがとうございます。私の書くものを読んでくださり、すでに学校という場所で「音づくり」をされている方がいるなどとは思ってもみませんでした。
世の中は私が思っているよりも広いのだと思うことができました。
サイトに書いたもの、小学館文庫に書いたものをお読みいただきありがとうございました。重ねてお礼申し上げます。
Eliot>エッセイのいくつかはプリントアウトして、勤務校の若い
英語教員に読ませたりもしています。
感謝しています。あんなサイトを作りつづけるのでも、結構孤独なもので、反応らしい反応がないままに続けていくしかないのだと思ってやってきました。
「若い英語教員に読ませたりも」ということは、Eliot
さんは、「若い英語教員」ではないということでしょうか。さしつかえなければ、だいたいのところで結構ですのでお歳をお聞かせ下さるとありがたく思います。日本の英語の状況がどんな状態の時に、何歳だったはず、などと余計な想像をする楽しみができます。
若かろうが年をとっていようが、保身を先だてる先生は、中間・期末のテストに間に合わせるための授業をします。中間・期末に間に合わせる授業をしているだけで、保身ができて、食いっぱぐれがないのが、現在の学校の教師という職業です。とりわけ、公立の学校は税金泥棒の巣です。点数をはじきだして、順位づけなどやってるが、そんなことで生徒に力がつくわけではない。しかし、そんな仕事でも忙しくやっていれば、めでたくも麻痺できて、なにか実質のある仕事だと思いこむことができるのかもしれません。「学校」などというものの外側に位置していたおかげで、私は「そんなものに実質はねえよ」と言い続けることができましたが、しかしまあ、放言を続けるのも疲れる。
保身をやる者が先生の多数であるというような事情は、国家資格のあるなしの違いだけで、塾の世界も同じです。塾のほとんどが受験制度・成績主義にたかる蛆虫です。学校の内でも外でも、受験制度と成績主義にたかっていれば、蛆虫としてなら生きていかれます。決まり事の「処理」をやり、肝心なことは生徒の「家庭学習」に押しつけるのが、蛆虫たちの特徴です。この根本にあるのは、個々の生徒の能力はあらかじめ決まっているという許し難い思想です。そんなことは絶対にありません。こちらがやること次第で同じ生徒がまるで違う展開をみせたりみせなかったりします。
いまや世界的に有名になりつつある日本の駄目な英語教育の中で、Eliot
さんが逆風に向かって歩かれ、成果をあげられたことに私は驚きの目を見張ったのでした。学校はまだ死んでいない。そう思っていいのではないでしょうか。
教育なんぞ殺してやる。むしろ、私はそう思って生きてきたのでした。
「教育は死なず」という本を、昔、私の居住するところに近い篠ノ井旭高校の校長が書きました。その時、友達が、「おめえのやってるのは、『教育は死なす』だもんな」と言いました。うまいことを言うものだと思いました。Eliot
さんのような方が多くなってくれるなら、私は私のケレン味やエクセントリックな物言いをひっこめることができるのですが、Eliot
さんのような方は「絶対多数」ならぬ「絶対少数」です。
しばらくは、ケレンやエクセントリックをやっているしかありません。おそらく、私の一生はそれで終わるでしょう。
Eliot>実際、英語の教員の多くにとって英語の発音は、できれば避けて通りたい弱点です。自分自身が通じるレベルの音が出せない教員
がたくさんいますし、そこそこ通じる音を出せる教員もその多くが英
語の音作りに必要な知識を体系的にルール化して生徒に教えることが
できません。(後略)
日本の学校の英語の先生の多くは、日本の学校英語の犠牲者だと思います。学校を出てそのまま学校へ入ってしまうような方がほとんどですから、この方々は学校英語に取り囲まれてしまって、多分、その外へ出ることがどういうことかわからなくなっているのだと思います。
「囲い込み」というものが、学校制度にはあると思っています。
それが無効であるということが一番見えやすいのが、英語という教科なのですが。
例えばの話、更埴市というところに何人の英語の先生がいるのか知らないのですが、私の友人のウドが経営する酒場で、学校の先生に会うということがない。たむろしているのは外人が多く、先生に会うとすれば、アシスタント・イングリッシュ・ティーチャーという人たちばかり、つまり外人さんばかりです。千円ちょっとあれば、酔って、ぺらぺら英語ならぬ、べろんべろん英語が使える場所なのに学校の先生が来ない。なんで出てこないのだ、と思うのです。ウドの店もあまたある私的な酒場の一つにすぎず、英語の先生だからって是非顔を出さなきゃならんということはないのですが、英語をやっている人にはおすすめの場所だと思うのです。しかし、本当に学校の先生には会うことがない。(この場をお借りして、)更埴市、戸倉町、上山田町、長野市、上田市の学校の英語の先生たちに告ぐ。ウドの店はおすすめだよ。一応、生の英語の磁場が成立している場所だといっていいのではないだろうか。英語が通用する酒場で英語の先生が酒を飲んではいけないなんていう法律はない。(笑)
文部省(文部科学省)がこれまでやってきた学校英語という囲い込みは、そのありもしないくだらない法律に匹敵すると思うけど、そんな「ありもしない法律」が機能する学校(英語)の外がもう実在してるよ。
学校の先生たちには、自分が学校英語の犠牲者であることの自覚をまず持っていただきたい。その犠牲を作り出してきたのが、文部省(現在文部科学省)と、その御用英語学者どもであることを認識していただきたい。
これらの御用学者どもをこそぶち倒さなければいけないのです。
本当に骨の髄から駄目なのは、文部省(文部科学省)というものです。そして、英語の先生たちが、自分の英語が文部省作成の学校英語の犠牲になっていることを自覚してくれる動きが感じらない。学校現場から文部省の方針がただのお題目にすぎないこと、具体的な方策がいつまでも示されることがないこと、「音読(音づくり)」の場所として学校が機能しないこと、中間・期末テスト(果ては大学入試というテスト)などに間に合わせるテスト用の授業が生徒の英語を駄目にしていることなどの現場からの批判が声になっていかない。
私はむしろ、生徒(若者)にじかに自分の声を届かせようとしてきました。大学で教員免許に必要な単位はすべてとりましたが、塾をやってきたのはそういう理由です。学校がどれほどのていたらくであろうと、あるいは、ほとんどすべての塾が受験制度にたかる蛆であろうと、一人の若者が語学の方法を自覚してくれれば、語学としての英語は芽を吹く。それだけを信じて、英語塾という仕事をしてきました。
それしかないだろうと思っていたところに、Eliot
さんが、学校という場所を「音づくり」の場所にされていたことを書かれたので、目の前が明るく開けるような感じがしました。びっくりし、また、心強く思いました。
発音やイントネーションに自信がない先生がおられましたら、私の映画のシナリオを使う「電話でレッスン」を薦めていただけたらと思います。一人の先生にレッスンするだけで、数十人の生徒の英語の音に影響が出ます。いや、百人を越える生徒に影響が出るでしょう。私は自宅を自作していますので、なかなかレッスン枠を増やすことができませんが、申し込みがあれば、受けられるだけは受けます。
以前、地元の高校の英語の先生のレッスンをしました。現在も英語の先生のレッスンをさせてもらっています。(もっとも、現在の生徒さんは、発音には何の問題もない方で、発音は私よりもはるかに上手です。)
もしも、学校の英語の先生からレッスンの申し込みが続くようなことがあれば、現在の私の生徒さんからレッスンを受けていただくしかなくなりますが、実際のところは、まだ現在の生徒さんで、先生を相手にレッスンできる人は少ない・・・。
ともかく、大学の教育学部あたりの英語科教員養成過程がまるで役立たずであることは歴史的にはっきりしていることです。学校英語の根腐れの原因の一つは、大学の英語科教員養成過程にあります。日本は「英語が作る磁場」が欠如している場所であること、日本語は英語とまるでシンタックスの違う言語であること、そして、欧米人向けの英語教育法が無効になる場所であること。日本の大学は、これらの事実を無視して、英語教育法をアメリカから天下りさせてきただけです。実に怠惰です。そこが大学の英語科教員養成がとことん駄目なところです。
私の生徒さんで、学校の先生のレッスンをするとなれば、山口のMちゃんのお母さんはできるな、大阪のTさんもできるな、ううむ、などと考えました。そういう動きが生じたなら、別の掲示板で話をさせてもらっている浜谷さんという方もすぐにでも仕事ができると思います。浜谷さんに時間がとれればですが。(浜谷さんは、高校卒業という学歴で、独学で英語のガイド資格をとられた方です。これがどれほどの難事であり、浜谷さんがどんな英語の使い手であるか、英語の先生たちなら想像できるはずです。)鵜田さんという英語の「音づくり」に関して非常に優れた方ともメールのやりとりがありますが、鵜田さんがこういう土方仕事をしてくれるかどうか・・・。
文部科学省が馬鹿であることをやめて、私に外人を鍛え込むことをやらせてくれねえかと考えることもあります。
外人に私の「技法グラウンド」という技法を持たせることができるなら、日本の英語はまったく変わると思います。その場合、外人教師の資格としては、「歯と歯の間に舌を入れて、ひっこめてこすりながら出す、あ、そんなに舌を外にいっぱい出さなくてもいいよ」というくらいの日本語が使えることが絶対に必要な条件です。(実は高度な日本語です。)
俺にわずかな国家予算でいいから使わせてくれねえかと思うことがあります。
外人を鍛え込むためのプロセスに関してモデルなら今でも作れます。
外人を鍛えることなく、フレンドリーにへいこらする日本人がいるばかりじゃしょうがないのです。
例えば次のようなものです。
「英語の磁場の中で=日本語の磁場を欠いた場所で、日本語の基礎を作ったことがある」ということが望ましい。それでようやく日本の生徒(日本語の磁場の中で=英語の磁場を欠いた場所で、英語の基礎を作っている)という立場とイーヴンになります。まったくシンタックスが異質である言語を「語学として」扱うことの困難を知っている外人教師が必要です。
だから、文部科学省がいますぐにでも着手しなければいけないのは、英語圏の国に出先機関を作り、そこで日本で英語を教えたい英語ネイティヴに日本語を教えることです。そこで日本語の基礎を持ったものだけを雇うべきです。現在の外人の雇い方は、税金の無駄遣い以外のものではありません。
英語圏で日本語を身につけた教師を雇うこと。これが実現すれば、本当の意味で語学的にイーヴンな者同士が向かい合うことができるので、交流というものもただのお題目ではなくなるはずです。
こういう外人に、日本人の「音づくり」をさせるのが一番いい。その場合に、日本の音読法の精華としての素読などもきちんと評価されるべきです。(江戸時代の素読は、例えば現在のニューヨークで日本語を習っているアメリカ人に施しても、絶対に使えると思っています。)
いずれにせよ、外人に日本語を習得させるような文部科学省の出先機関を英語圏につくるべきだということです。
そうでなければ、日本人が欧米型の言語を「磁場を欠いたままに」修得しようとする場合に生じる困難を外人が理解することの糸口すら与えることができない。
しかし、これが実現すれば、読み書きだけはできる伝統的な(?)教師の能力だって活きてきます。話せないけど「本当に読める」ような性質の教師は本当は大事にされなくてはいけない。日本にしかいない非常に珍しい種類の教師であり、もしも「本当に読める」ならば、絶対に大事にされなければいけない。日本が大事にしなければならないのは、文化の厚みです。この厚みがなければ、乞食も、「読めるだけ」の英語教師も、人の気持ちがわかりすぎるほどわかって人とうまくつきあえないために生活能力が損なわれるような人間も、生きてはいかれません。こういう人間はみんな「制度の外=文化の厚み」の中を生きていくわけです。そして、実はこれらの人たちこそが、文化の基底を形作る人たちです。つげ義春の「無能の人」という作品が、受験校に「音読」を導入するような行為と匹敵する。そんな言い方がしかしなかなか通用しない。
「本当に読める」教師も、語学教師に徹する教師も必要です。本当は一人の語学教師の中に統一されて両立されるべきです。
おそらく、受験校に「音読」を導入するに際し、Eliot
さんはまわりから無謀だと言われ、自分でも無謀だと思われたのではないでしょうか。そこを敢えて踏み出してくださったことに敬意を捧げます。
Eliot>私は学校というところで、将来滅びない英語を生徒の中に
根付かせる取り組みをやってきました。私は2年前に初めて中学1年生の担当になったとき、周りがどう言おうと、この生徒たちに
英語の音を教えようと決心し、中1の最初から「英語の音作り」を
私なりにやってきました。
これを決心されたとき、私のホームページはすでにお読みいただいていたのでしょうか。もしも万が一そうであるなら、私はとても勇気づけられます。
片田舎の一英語塾(私塾)の主張が、学校のいくつかの教室での実践の中に水路を見いだし、活かされたという意味は、私にはとても大きなものです。とにかく、地元から私に向けられたものは無視に継ぐ無視、無理解に継ぐ無理解でしたから・・・。
私ら家族が生き延びるのも、まったく地獄のような闘いでした。
Eliot>本校はいわゆる「進学校」であり、中学生のときから中
高一貫校用の模試などを受けさせては、他校や本校の過去の成績と比較して、あーだこーだと言われるところで、いきおい、授業
はハイスピードの詰め込み教育が当たり前です。中2までに中学校の教科書+文法問題集を終わらせ、中3では高校の教科書をやります。もちろんその過程で英語の音作りはほぼ無視されます。
私の現在の「電話でレッスン」の生徒さんにも、この種の進学校の生徒さんがいます。そして、結構大きなパーセンテージの生徒が、この「詰め込み教育」に従っているらしいのです。こんなに一挙に詰め込んだら、消化不良を起こして、いやになって、ほったらかして、馬鹿くせえと言い出すやつっていっぱいいるだろう? ってレッスンの時に訊いてみたのですが、そうでもないようです。みんな一生懸命やっていますよ、ということでした。暗い気持ちになりました。学校の勉強のよく出来たやつに感覚が不全なやつが多いのは無理もないと思いました。
進学校の中での「音づくり」の実践は非常に勇気ある行為です。
本当に頭が下がります。
Eliot>つづりを見れば英語の音が出せる、例えば、hat
hut hot hurt hard の中の母音を発音しわけることができるようになるよう練習させました。また、これらの単語を聞いてつ
づりを書くという練習もさせました。
これが授業というものです。私がもしも中学のときに、こういう授業に出会っていれば、素読舎が今のようなしみったれたものであることは考えられないとも思いました。
英語の綴りは、そのまま発音を表している場合が非常に多く、例外を覚えた方がはるかに早いと思います。私は、これらの区別を生徒にさせるとき、手短かに言葉で説明します。
hat 子音と子音に挟まれた a は口の両端を横(か斜め上)にひっぱる
hut u を「ア系列」で言うときは、口を狭くして弱めに言う
hot 特に注意しません
hurt 「ur, ir, ear」の「ア系列」は口を狭めて、喉から息を送り出す(こもった音)
hard の ar は赤ちゃんが上手に出す音。歯と歯を離す感覚
というような、手短かな説明の「決まり文句」があり、常時使用します。
自分の口の動きを意識して言葉にしてみたのですが、もしも違っているものがありましたらご教示ください。手伝っていただき、練り込めればと願っています。練り込んだものは公開し、学校だろうが塾だろうが英会話学校だろうが、場所を問わずどんどん使ってもらいたいと願っています。
以上のものの他、th, l, r, など日本語に存在しない音に関する「決まり文句」を追加するだけで、少なくともネイティヴから「英語」として受け取られるだけの音は確保できます。
これらを学校の教室で採用し、生徒が発音する「その場」で常時指摘できるなら、それだけで日本人の英語は今よりもずっと通じるものになります。(「音読」という「場」が確保されないと駄目ですが・・・。)通じれば自信になり、練習する気にもなります。最大の難題は、一つの教室あたりの人数です。10人以下にならないと質のいい練習はさせられません。理想的には5、6人です。
Eliot>その後は教科書の勉強に入ったのですが、音作りはこれ
からが本番と思い、授業時間の多くを音読に使いました。
限られた時間の中で、多くの生徒を相手にどんな「音読」の指導をなされたのかに非常に興味があります。さしつかえなければお教え下さい。私は、一人ずつ「音読」を見る場合は、5人か6人がいいと思っています。どんな技を駆使して、現在の学校制度の中の教室という場所で「音読」を実現されたのか。私には???です。
必ず何らかの技があるぞ、とにらんでいます。
Eliot>授業で英文和訳はまったくしません。文法の説明も
最小限にして、生徒には教科書ガイドと教科書のワークブッ
クを買わせて、各自が自分で読み、問題を解いて内容や文法を勉強するよう指導しました。授業では教科書の英文に音のつながりや変化が起こるところに印をつけたプリントを配って、それを使った音読練習を繰り返し、最終的には、課文の和訳プリントを見ながら、まるで英文を読んでいるように英語が言えるまで練習させました。言えるようになったら、和訳を見ながら英語が書けるようにさせました。
教科書は何でしょうか。私は最近、「ニューホライズン」という教科書の「教科書ガイド」を詳しく読むことがあったのですが、説明が本質的でなくて困っています。まるで質がよくない。大量に流通してるものがこんな程度のものかとがっかりしました。文法というものが、外在的に現象的に記述されるだけで、抽象するという行為がない。
学校の現場についてですが、読めるようになったもの(口がどんどん動くようになったもの)を書けるようにするという、語学的には絶対的な順序でさえ、多くの学校の教師は無視しており、まだ読めもしないものを、宿題にして何ページ書いてこいなどと無益なことをやらせたりしています。まったく何の意味もありません。記号を写すように、生徒は「音をともなわない字」を大量に書いて宿題として提出したりします。生徒は奴隷じゃないんですが、読めないものを書かされるのですから、奴隷として扱われているのと同じです。語学の練習として評価するならば、まったく無駄なことです。文部科学省に忠実な者どもの保身のために、奴隷でもない多くの少年・少女が奴隷にされています。(多分、更埴市近辺の学校だけのことではないと思います・・・)
こんなことがまかり通るような学校なら、行かない方がいい。
公立の学校のほとんどが、英語から見れば、「行かない方がいい」ようなところです。
学校の隠し持つ暴力は、何も生徒が暴れるとか先生が生徒を殴るとかいうような目に見えるものだけでなく、絶対であるべき練習の順序を平気でひっくり返すようなところにあると思います。いや、こちらの方こそ、目に見える暴力の発生装置ではないかと考えています。
「音読(音づくり)としての読み」と「スペリング修得としての書き」は、あるべき練習の前後関係は絶対的ですが、それさえ無視する教師がいます。
この順序のひっくり返しを平気でやるところが学校であり、テスト体制を使ってそれをやらせている総元締めの文部科学省こそが暴力の根元です。学校がターゲットにされる事件、酒鬼薔薇から、大阪の小学校での、学校関係者による小学生無差別殺害という最近の事件に至るまで、根元は学校が隠し持つ暴力にあります。その元締めとしての文部省、それを牛耳る実業界の貧乏根性にあります。
「言えるようになったら書かせるようにした」ということ、ここにある順序は絶対的なものです。これをひっくり返すようなことを平気でやる語学教師がいますが、語学教師としては追放されるべきです。そんなことをやって生きていけるような世の中であってはいけない。
問題は、実際に生徒にどんな英語を持たせることができるかだけです。
この観点から見て、Eliot さんが表に出てきてくれたことを、私は深く感謝しています。 もっともっと、陽の当たる場所で(つまり、この掲示板のような公開の場所で)、学校の先生たちが論議に加わってくれることを願っています。
Eliot さんの授業は、学校の授業という制限のなかでは、ほとんど理想的なものだと思っています。
Eliot>今させているのは500語を超える話ですが、6分の制限時間のうちに暗唱せねばなりません。忘れたり、制限時間を超えたら不合格で、放課後私の前で音読し、発音指導を受けることになります。
「放課後の指導」。これがやれるのが私立の学校の強みです。今の公立の学校では見ることのできない風景ではないでしょうか。
私は、長野県の事情を少し知っている程度ですが、公立の学校の先生というのは本当にかわいそうだと思っています。かわいそうだと思うが同情もしません。公立信仰の強い土地ですから、彼らは塾を見下すことが容易にできます。ふざけんじゃねえ、蛆どもがと思っても、私は日本人特有の能面のような顔をして生きています。
この土地では、生徒が奴隷である前に、先生が奴隷です。くだらない会議の連続で自分で考える時間さえ奪われる。やたらにろくでもない用事だらけで多忙このうえない。平均的なサラリーマンよりずっと忙しいのではないでしょうか。
学校英語の馬鹿げたていたらくは、市立、県立などの公立の学校が強く体現しています。そして、長野県更埴市というところは、これらの駄目な公立の学校しかないところです。素読舎という「私立」は、腐臭をかきわけかきわけ生き延びてきたと思っています。それでも、収入の半分が「電話でレッスン」で、市外、県外からのもので、それでようやく生き延びているのですから、ののしってもののしってもののしりきれないほどの恨みを更埴市という土地には持っています。
素読舎という「私立」が公立崇拝の土地と取り結んだ関係もまた絶対的です。
ともあれ、私立の学校運営、授業運営の自由度は決して奪われてはならない貴重なものだと思いました。これは同時に真摯な塾の試みが生き延びる場所が奪われてはならないということをも意味すると思います。
「私立」の根は塾にあると思います。塾が持つ「私立」という可能性を理解せず、制度の蛆をやっている塾を私は憎んでいます。
Eliot>それがどんな価値があるかは別にして、英検3級の試験を中2の3学期に受けさせたところ、2次試験までほぼ全員が合格しました。私にとっては、2次の面接試験のパッセージの音読の評価が5(最高点)と4がとても多かったことが収穫でした。
あきらかに「価値」の所在を示すデータです。
Eliot>現在中3の1学期ですが、高校の教科書を同じやり方でやっています。生徒たちは2年以上同じやり方でやってきており、
塾にも行きません(勤務校は全寮制です)から、英語の勉強はこんなものと思っており、特に特別なやり方だとは思っていないようです。
うらやましいです。私の「音読」はこれまでに大きな効果をあげてきたのですが、いまだに地元からは「変なやりかた」だと思われており、黒板式授業や、「正解を言うやつがいるまで当てる」というような学校が作った「授業」というモデルがまともだとされています。ぶあつい迷信でできた娑婆にまみれて生きてきたので、私はとてもアクの強い人間になってしまい、このアクをあたりかまわずまき散らすので、ますます地元から見放されていきます。それで、「電話でレッスン」を考えたわけです。
公立やら国立崇拝の強い土地で、「私立」を貫こうとすると、無視という手段でつぶしにかかる風土病が蔓延していまっているのが長野県更埴市というところです。
いいかげん疲れましたが、まだくたばるわけにもいかないと思い、今夜もまた大量に書いたりしているわけです。
Eliot>生徒たちが中1の頃、ある模試を受けさせられまして、フォニックスの勉強の三ヶ月のせいで進度が遅れていたため、英語の平均偏差値が30いくつかということがありました。その成績の検討会議で私は管理職たちから相当非難さ
れました。
Eliot さんがすごいのはここです。この逆風に吹き流されることがなかったというところです。そして、現実的に成果をあげられたことです。
学校も先生次第だと思いました。どんな先生がいるかによっては、捨てたもんじゃないと思わせられたところでした。
Eliot>偶然見つけた素読舎のサイトから私はずいぶんたくさ
んのことを教えていただき、大きな励ましもいただきました。
ありがとうございます。どうぞ、根石さん、これからもご活躍ください。私も学校での英語の音作りに頑張ります。
こちらこそ大きく力づけていただきました。ありがとうございます。
この先は、全国の学校の先生たちに向けて、「音づくり」「音読」の効果を知らせていかれてはどうでしょうか。「音づくり(音読)によるインプット=基礎づくり」です。私もそういう仕事をしていきますが、Eliot さんにも、是非この掲示板を使っていただきたいと考えています。
まだ見ぬ英語の先生方に向けて、この場をお借りします。
これまでの学校英語、受験英語のていたらくをどうにかしようと考えておられる先生は、この掲示板で「音読」「音づくり」について論議をしてくださることをお願いします。
あるいは論議以前、質疑応答になるかもしれませんが、それでもまったくかまいません。
どうぞ書いて下さい。
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