>ですから、赤ん坊の時にただ寝転んでるだけで日本語を学習したのではありません。
名言です。しかし、大人の目から見ると、赤ん坊は学習していますが、赤ん坊自体は全然学習
している自覚がありません。この自覚がないことが、ネイティヴ言語の特質です。
くそう。絶対寝てやる。
STさんに持っていっていただいた本、「根石吉久の暮らしの手帳」は、
誠実な詩の出版社、midnight press から出してもらったエッセイ集で
す。
詩に関わる出版社の常として、midnight press は、「音づくり」に関
わる塾同様、もうかっていません。ほとんど、持ち出しじゃねえのか、
と、私は心配しておりますが、社長も専務もそのことは一言もしゃべり
ません。
皆さん、どうかご贔屓にお願いいたします。
寝る
おやすみなさい
この、たちばな出版の本は、復刻版だとおもいます。
つまり、長い間、絶版だったわけです。
はじめは、TBSブリタニカから出ていたはずです。
この復刻版で気になったのは、「音の化学変化」の
ところが、スッポと落ちていることです。
英語の音づくりの観点からすると、気になるところです。
お返事ありがとうございます。下の文は正しいかどうかチェックしてください。
Regardless of the result of the placement test I took, I was placed in a lower level class probably because someone was mistaken in deciding my class.
訂正すべき個所はありますか?
result を「(成績の)結果」の意味で使うときは必ず複数にしなければいけませんか?
「クラスを決める」は decide one's class でいいですか?
decide + 名詞
decide on + 名詞
この2つの違いは何ですか?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
前回の質問についてです。下の文が英英辞典に載っている例文です。
They were found guilty on all counts.
She appeared in court on three counts of fraud.
1) 訂正すべき個所はありますか?
まず、大前提としてお答えする私が外野(英語教育を専門とする人間自身でない)以上、
ネット上の責任は負いかねますので、この英文が文法的に完璧かどうかについては、
もっと他に和文英訳に関する知識の豊富な方が答えてくれると思います。
それをお許しいただくとして、思いつくことのみ記します。
2)result を「(成績の)結果」の意味で使うときは必ず複数にしなければいけま
せんか?
語学と言うのは、生きているものだと思っていただきたい。
ここで、必ず複数です、と言ったら
何が何でも複数だと覚え込んでしまうでしょう、
でも考えて下さい、
この文章に出てくるテストって、何種類かあるんですかね、
それなら、結果も複数の場合はあり得るでしょう。
でも、そのテスト全体の結果として考えれば、単数もあり、でしょう。
書かれたシチュエーションが決めることなので、
ここでは、これだけでは、何とも言えません。
3)decide + 名詞 decide on + 名詞
この2つの違いは何ですか?
これについても上記2)と似たようなことが言えます。
〜を決める
〜について決める
の二者についてのニュアンスの差は日本語でも
それぞれ、固有の例文があれば、判るかと思います。
例:日程を決める
将来について決める
明日の日程、と言ったな単純なものは目的語で結構ですが、
会社の将来、のような影響の及ぶ範囲の大きい、重要事項の場合は、
日本語でもやはり、〜について、とするのではないですか。
「クラスを決める」は decide one's class でいいですか?
良いとも言えますし、しかしながら、他にも単語はあるでしょう。
(categorize なんて単語も、場合によっては可でしょうか。)
それが語彙が豊富かどうか、と言うことで、
貧弱だから間違いとか、伝わらない、と言うことでもない。
それはこの英語を書くあなたの目的が決めることです。
但し、この文章、後半部分で、
クラスを決める人が誰なのか、主語が明確でない。
someone was mistaken in deciding my class
someone = 責任の所在もわからない誰か、が
自分のクラスを決めてしまう、なんて
そんな、それこそ無責任な話は英語では成立しません。
それにmistaken の部分も非常に不自然で
(なぜ過去分詞なんでしょう?
思い込みだった、とか言ったニュアンスなのかもしれない、と
推測しますが)何が言いたいか、よくわからない部分です。
書きたいことの意味が
今の英語だけでは判断できないところがあるので、
これ以上はコメントできません。
4) 上記のdecide on でも触れたように
on 〜について
on all counts 全ての点について
=詐欺罪を構成する要件3つ、
その全部について、と言う意味であって、
明らかに guilty on と続いている訳ではありません。 以上
>この、たちばな出版の本は、復刻版だとおもいます。
>つまり、長い間、絶版だったわけです。
そうでしょうか? 私の持っているのには「平成11年12月25日初版第一刷」と書いて
ありますよ。それに内容を見ても、英語第二公用語化論とかインターネットの利用とか
(「ここに記されたウェッブページとアドレスは1999年11月22日時点のもの」とp.304
に出ています)についても書かれていますから、「長い間絶版だった」本だとは思われ
ませんが・・・。
確かに國弘先生は30年前に「英語の話し方」という本をサイマル出版から出しましたが、
それは今回の本とは別物です。
Fianさん
英語についての質問、特に「この英文は正しいですか」という質問なら、アメリカ人の
英語の先生に尋ねましょう。↓
http://cctc2.commnet.edu/forms/grammar_request.htm
このページの書式に簡単な必要事項(メールアドレス必須)を記入して質問を
書きましょう。例えば、今回の文ならこのように書いたらどうでしょうか。
Hello, Professor Darling.
Is this sentence correct?
Regardless of the result of the placement test I took, I was placed in a lower level class probably because someone was mistaken in deciding my class.
One more thing. Can you replace "deciding my class" in the sentence with
"deciding on my class"?
Thank you very much for your help.
質問の答えは非常に簡潔なものしか期待できませんが、たいてい2、3日以内に
メールが届きますよ。
こういうのもありますよ↓
http://www.eslcafe.com/help/index.cgi
ここでも質問できますが、必ず答えがもらえるとは限らないのが玉にきずです。
先回、投稿した国広さんの本は、復刻版ではなく、新版でした。
出版社もサイマルでした。訂正しておきます。
海外勤務も海外留学もせず、日本にいても
そばにネィティブがいない状況が大半の
日本人だとおもいます。
その場合、英語を学ぶ目的は、戦略性の
構築能力を第1義におくという考えは
独創的です。
いままで、誰も指摘しなかったこととおもいます。
>
(あるサイトより引用)
最近、東北大学教授、脳科学者、川島隆太氏の実験により、黙読以上に音読している時の脳
が、活発に働くことが立証されました。
また英文を読んでいる時のほうが、母語である日本語を読んでいる時より、脳の活動部分が幅
広いこともわかりました。
英語のほうが、言葉の意味や文のしくみを考えながら読むため、その分脳をたくさん使うことに
なるのだと思います。
>その場合、英語を学ぶ目的は、戦略性の構築能力を第1義に
おくという考えは独創的です。いままで、誰も指摘しなかった
こととおもいます。
第一義に置くというわけではなく、英語をやる目的はあくまでも英語の能力を獲得することだと思いますが、「日本にいて」英語をやる、というふうに、「日本にいて」というところにアクセントを置いて考えると、例えばアメリカでやるのより、はるかに方法的にやることになると思います。方法的になるということは副産物ではありますが、副産物にしておくにはもったいないほどのものだと考えています。
評価していただいてうれしいです。
>SAIさんの名言>ですから、赤ん坊の時にただ寝転んでるだけで日本語を学習したのではありません。
根石先生>名言です。しかし、大人の目から見ると、赤ん坊は学習していますが、赤ん坊自体は全然学習している自覚がありません。この自覚がないことが、ネイティヴ言語の特質です。
SAIさんは「しばらく休止します。私の実力ではHPの管理者はまだ早かった。修行して、大きくなって帰ってきます。実力が伴ったら再開します。」 とのお言葉を残してHPを閉じられましたが、根石先生の理論と合い通じるところがあり且つ私にもびんびん共鳴するところがあっただけに残念です。早く「大きくなって」帰ってこられるのをお待ちしたいと思います。ところで、上記名言の続きは下記ようなものでした。HP閉鎖される前にコピーさせていただいたものですが、上記名言だけでは分かりづらいと思いますので引用させて頂きたいと思います。SAIさん、ご覧になっておられたらご私の掲示板へでもご連絡下さい。そして勝手に引用させて頂いたことをお許し下さい。
「引用文」
・・・赤ん坊の時にただ寝転んでるだけで日本語を学習したのではありません。積極的に外との関わって、『何度も間違えながら』日本語を覚えたのです。この学習なしには語学の習得はありえません。
・・・ 話を英語学習の話に戻しますと、英語学習でも音の学習が必要になります。英語と日本語では音が大きく異なるからです(具体的には周波数、強弱、リズム等が異なる)。そのために、日本人が英語を学ぶ時には、新しい音を学習する事が必要になります。これまでの話から、分からない英語を聞きつづけても効果が少ないことが分かると思います。もちろん英語を聞くだけでも、背景知識や語彙・文法等から音を推測して聞き取れないところを補えるので、学習効果はゼロだとは思いません。しかし、学習効率が下がります。
これは英語のスクリプトで音を確認することによって解決できます。スクリプトを見ることによって、どの音が聞き取れないかが分かり、音と文字の対応が取れるようになってきます。このようにTry & Errorで、音を聞き取っては文字で確認して、聞き取れない音を学習するのです。英語を聞くだけではなかなか音の学習は出来ません。何年経っても洋画が聞き取れないというのは、間違った音の学習方法を取っているからです。
これまで、「電話でレッスン」で、映画のシナリオを選択する場合、生徒さんにいくつかのテキストの中から好きなものを選んでいただいてやってきましたが、今後は、こちらで決めたテキストで始めていただくことにします。
一冊目「ゴースト」。
二冊目「七年目の浮気」。
この二冊を終了したら、映画のシナリオを使った「電話でレッスン」はひとまず完了します。これだけのレッスンを終えられた方には、修了証として國弘さんの「英語の話しかた」(たちばな出版)をお渡しします。この後の生徒さんの練習方法は、國弘正雄さんの「只管朗読」であるべきであり、これを三年ほど、ご自分の独学でやっていただきます。
この「只管朗読」の期間、同時に、映画の音を使って、「ゴースト」「七年目の浮気」のリスニングの訓練をご自分で続けていただきたく思います。レッスンで、私(妻)が一回言ったものを、生徒さんが5〜7回繰り返す練習を「技法グラウンド」と名付けていますが、映画の音をMDに録音し、MDから再生される10〜20語程度の文を使って、「技法グラウンド」を続けていていただきます。つまり、レッスンの私(妻)の音声を、映画俳優、女優の音声に置き換えて、「復習範囲を手放さない」を継続していただくことになります。口の動きに関して言えば、レッスンよりもかなり高い「圧縮度」が必要になると思います。
20語を越える文については、途中の意味の切れ目で切って練習していただいてもかまいませんし、30語40語の文を一挙に扱ってもかまいません。練習が進んだら、一挙に扱って下さい。
この独学の期間は非常に重要であり、リスニングの練習で映画俳優、映画女優の声を使った「技法グラウンド」を手放さないことが、そのまま「復習範囲」を手放さないことになります。また、この「復習範囲」を使って、國弘さんの「只管筆写」をやっていただくことも必要です。MDで、同じ文を繰り返し再生させながら、やっていただくのがいいと思います。この場合は、音声のヴォリュームは絞り気味でいいと思います。
「復習範囲を手放さない」で、「只管朗読」をしていただくことでねらうことは、「イントネーションの自己決定力」です。
「イントネーションの自己決定力」を養うためには、文法も語法理解も構文把握もすべて必要です。意味のとれない文のイントネーションを自分で決めることはできないからです。この局面において、ようやく学校英語的なものが活きてきます。また、私の方でも、ホームページ上で「七年目の浮気」の文法解析を充実させ、「音に文法・イメージを溶解させる」ためのお手伝いをいたします。「七年目の浮気」の文法は、大学入試をカバーする程度のもので、「使うための文法」としてはこれで十分です。「ゴースト」の文法、イメージについては、「七年目の浮気」で扱うもので照射できます。ここを通れば、一挙に広い範囲のものの理解が深まるということが生じます。
以上のものは、「日本で英語でやる」場合に、たどるべき理想型の一部です。この理想型の雛形はほぼできているので、この後、公表します。
>國弘正雄さんの「只管朗読」であるべきであり、これを三年ほど、ご自分の独学
もう少し定量的に言った方がいいとおもいます。
ひとくちに3年といっても、一日どのくらいの時間やるかによって
トータル学習量がことなります。
文法解説、WEB案内、ありがとうございました。
量を言っても、質は規定できません。
その両方を言っている言葉として、國弘さんの「只管」があります。
長く続けるためには、極端なことをやっても駄目ですから、一日一時間程度は必要だと思います。
量は1時間で扱える限りのもの、となります。
しかし、これでも練習の質はまったく規定できません。
質に関しては、心構えというものが必要で、「絶えず質のいい練習を求めよ」ということができ
るだけです。
日本語の首尾がおかしいので訂正します。
長く続けるためには、極端なことをやっても駄目ですから、一日一時間程度は必要だと思います。
→
長く続けるためには、極端なことをやっても駄目です。一日一時間程度が必要だと思います。
先に書いた、「音づくり」の基本10項目ですが、
ir, or, ear, er の「あいまい母音+r」
が抜けています。
これを、「逆さv,逆さe」のところに差し替えようかと思います。
私としては、基本のコンセプトとして「10」という数におさめたいのです。これで十分という意味ではなく、やりたい人はこの後もどんどん細分化させた練習が可能ですが、「ひとまず」のものとしては「10」程度が適当でしょう。これだけで、「ひとまず」通じる音は成立すると思っています。
以前、議論がありました「通じる音」というのは、私においては、この10項目をクリアした程度の音のことです。状況や文脈に頼りすぎたり、話し相手に過剰な負担をかける音は、いくらたまたま通じたところで「通じる音」と呼ぶわけにはいくまいと考えています。
以上の私の考えを踏まえていただいた上で、10項目に関して、特に、「コツを伝えるための決まり文句」の記述にチェックを入れていただけたらと願っています。
よろしくお願いいたします。
わざわざ「日本での」とするのは、日本という場所が、英語をやるのに、特別な困難をもたらす場所であるという認識が私にあるためです。
また、「英語攻略法」ではなく、「英語攻略の順序」であるのは、日本で英語をやっている人達は、攻略の順序を間違えている場合が多々あるためです。とりわけ馬鹿な大間違いをやっているのが学校です。
「すらすら読めるようにする」 → 「語法・文法の説明をする」
この順序は絶対的なものです。これを学校という馬鹿な大間違いの巣窟では平気でひっくり返してしまう。ひっくりかえしてしまうというより、いつまでたっても、「すらすら読めるようにする」ということに手をつけない。
この標準的学校英語というものは、くたばる以外にないものです。
日本的標準的学校的英語をいくらののしっても、馬の耳に念仏というか、たぬき腹の管理職に念仏というか、悪の枢軸・文部科学省に念仏なので、ひとまず現時点で私が考えている、英語攻略の「順序」をまとめてみます。今後、さらに練り込んんで、各局面での練習のディテールを述べることは可能ですが、現時点では、おおざっぱに「順序」を記しておく必要があると考えています。
1. 技法グラウンド(コーチ付き)
2. 「回転読み」
3. 技法グラウンド(ネイティヴの複製音)
4. 只管朗読・只管筆写
5. 音のこなれた文の文法・構文の解析・総合
6. 多読
7. シャドウイング
8. リスニング(努力の伴う聴解)
9. ヒアリング(流し聞き)
10. 英語使用
この10の順序の1.2.3を併行してやることはできます。4は独立させて専念する価値のある練習です。5.6.7あたりも併行させられます。8と9は混同されていますが、性質の違う練習ですので、意識的にそれぞれの期間を設けた方がいいでしょう。10はすでに語学ではありませんが、順序としてはここに来るという性質のものです。
また、「音がこなれる」→「文法・構文理解」の順序は絶対的であり、崩すことはできませんが、それ以外のものは、かなり自由に順番を入れ替えることができます。すでに通ってきた過程のものを、各自の現段階に併行させることは勧められる方法です。例えば、7のシャドウイングをやっている人が、1〜6までの練習を同時に取り入れることはどんどんやるべきです。
10の段階に至った人が、日本在住のまま英語の練習をやめることは考えられません。10の段階にいる人は、日本に住み続けているかぎり、練習を止めることはできないということをよく承知している人であると思います。
ですから、2〜9の練習は、いつでも絶えず必要に応じて立ち戻るべき練習項目です。
私どもの「電話でレッスン」による「技法グラウンド」は、この10の段階に「初動を与える」ためのものです。
國弘さんは、只管朗読をやっただけで、進駐軍の兵士に話しかけたらそのまま英語が通じたと本に書かれています。このことは、只管朗読の「音読の質」にかかわることです。ここに大きく作用するのは、個人の音のセンスです。國弘さんは、この音のセンスがずば抜けた人だと思っています。このセンスがある人は、最初から只管朗読に突入しても大丈夫だが、多くの人達には、1〜3の「地固め」は必要だと考えています。ここに、私の仕事があるのだと考えているわけです。
最初の導入部分以外は、ほとんどが独学となります。学生の場合は、1〜4の過程で使うテキストに学校の教科書を使うと、学校の授業や受験を5の練習とすることができます。このことによっても、学校の授業や受験というものがごくごく部分的なものにすぎないことがおわかりいただけるでしょう。
この10段階(10項目の順序)について、皆さんのご意見をお聞きしたいと願っています。
自分で書いたものを眺めてみて、7の位置を変えたいと思いました。
7. シャドウイング
8. リスニング(努力の伴う聴解)
9. ヒアリング(流し聞き)
これを以下のように変えます。
7. リスニング(努力の伴う聴解)
8. ヒアリング(流し聞き)
9. シャドウイング
1. 技法グラウンド(コーチ付き)
2. 「回転読み」
3. 技法グラウンド(ネイティヴの複製音)
4. 只管朗読・只管筆写
5. 音のこなれた文の文法・構文の解析・総合
6. 多読
7. リスニング(努力の伴う聴解)
8. ヒアリング(流し聞き)
9. シャドウイング
10. 英語使用
1. 技法グラウンド(コーチ付き)
2. 「回転読み」
3. 技法グラウンド(ネイティヴの複製音)
このうち、1を学校の授業で行い、2,3を家庭学習で行うようにすれば、学校の授業に応用することができます。教師が音読の「コーチ」をやるわけです。
これの理想型はすでに日本に成立しています。「回転読み」や「技法グラウンド」という名前で呼ばれていないだけで、Eliot さんの「音作りへの道」で書かれたものは、まさにこれからの学校の授業のあるべき姿を提示しています。
このあるべき授業の成立を妨げているのが、入試制度と、中間・期末のテストというものです。これが今のままでかいつらをさらしている限り、教師が音読の「コーチ」をやることを邪魔し続けるでしょう。
可能性としては、小学校に英語を導入する場面です。意味や構文解析などを扱わず、まともに「音づくり」だけをやることが、もっとも安全で確実な道です。
「コミュニケーション」などは、お題目にすぎず、おもちゃにすぎません。
正道は「音読」にあります。
「電話でレッスン」へ、小学校の先生をお招きしたいと考えています。
文部科学省は、「電話でレッスン」の費用を負担せよ。馬鹿たれが。
SAIさんに、「大風呂敷」に書くように勧めていただけませんでしょうか。私は井戸端会議はやるつもりがないので、この掲示板では議論が激しくなることもありえます。それは構わない。日本の英語のていたらくを切開するためには避けて通れない道だと思っています。そのことを承知していて下さるなら、是非ご登場願いたいものだと思います。
>・・・赤ん坊の時にただ寝転んでるだけで日本語を学習したのではありません。積極的に外との関わって、『何度も間違えながら』日本語を覚えたのです。この学習なしには語学の習得はありえません。
私は、ネイティヴ言語の修得過程と、語学としての言語の修得過程を重ねる考えはとりません。これはまったく質の違うものだと考えています。
「積極的に外と関わって」ではないと思います。赤ん坊がやっているのは、事物を通じて、言葉を通じて、その両者の境界のあいまいさを通じて、無自覚的に、しかし全的に外(世界)と「交わっている」ということだと思います。
「学習」というより、「直接的な交わり」です。
この直接性が語学にはありません。
「間違えること」自体も、机上のことがらではなく、赤ん坊にとっては、直接的な言葉との交わりを通じて、世界と交わり、「間違え、直す」過程があります。これに対して、語学はとことん机上の世界です。間接的な世界です。語学の間接性に関して、多くの英語論は無自覚です。
SAIさんが、音の学習の重要性を説かれるところはすべて賛成です。
一点、聞き取れなかったらスクリプトを見て確認するという方法にはちょっと異議があります。このやり方では、スクリプトを見て確認し、再び聞き取る練習に戻ってしまうのだと思うのですが、これではあまりにももったいないと思うのです。
聞き取れなかった文があったら、とことん自分の口を「回し切る」ということをするのがいいと思います。この時点で、「音の10のポイント」をしっかりクリアします。
リスニング → 自分の口を回しきる → リスニング → 自分の口を回し切る
というように、交互にやるのがいいと思います。この過程に自然に導入するのが、私の「電話でレッスン」であり、ネイティヴ音「天下り」ではなく、日本人の日本語に慣れた口の動きによる、英語音の「媒介」です。
天下り理論は駄目、媒介理論でなくちゃ、と思っています。
私の「10の順序」で、シャドウイングを練習の最後に持っていったのもこの「媒介理論」のためです。シャドウイングという媒介の仕方は、最後の最後にやるのがいいと考えたのです。
以前、この掲示板に体の器官名を使って、英語学習の順序を書かれた方がおられました。「耳 → 口 → 目 → 手」という順序です。つまり、聴く、リピーティング → 読書 → 書く というような順序だと思います。大枠で正しいと思いますが、最初の導入部分が問題です。ここでも、
聴く → 口を回す → 聴く → 口を回す → 聴く ・・・
というような、交互性が不可欠だと思ったことを覚えています。
私は受験英語育ちの人間であり、その後の塾の仕事は東大や早稲田に塾生を合格させるような仕事でした。しかし、大学生になった連中が英語をほったらかすのを見て、急激にこの塾の仕事がいやになり、現在は社会人になっても英語を続けている人を主体にした「電話でレッスン」に移行しつつあります。この移行が失敗したら、私は英語の仕事はやめます。
この過程で、私がリスニングの成立を真剣に考え始めたのは、四十七歳くらいの頃ではなかったかと思います。現在五十歳ですから、三年前くらいです。自分で考案した、「技法グラウンド」と「回転読み」で、映画のシナリオを扱い、車を運転するときにいつでも映画の音を録音したものを聴くということを交互にやっています。
車の中で映画を聴くことを始めてからは、まだ1年半くらいしかたっていません。そして、この1年半で、急激に英語を聞き取るのが楽になりました。それ以前に長く英語塾をやってきたという前提がありますので、これはどなたにもあてはめることができる図式だとは思いませんが、
聴く → 口を回す → 聴く → 口を回す → 聴く ・・・
の交互練習がはっきりと効果があるのは確かです。いわゆる「耳が立つ」ということを実感しています。
SAIさんがこの記事を読んでいて下さるといいのですが・・・。
プロ、セミプロ相手の私の「電話でレッスン」では、わざと下手に発音してもらうということをやろうと思っています。
私より発音がうまい人というのはいくらでもいるわけです。
特に、英語圏に長く住んだ人などは、私より当然発音がうまかったりします。
この人たちが、「日本語の音しか持っていない」人たちに、どう英語の音を持たせるか。その技術がまるで日本には成立していません。実にもったいない話です。
これに対処するには、私より発音がうまい人に、一般的な日本人の英語音の癖を知ってもらう必要があるので、「わざと下手に読め」と言おうと思っているのです。
私がレッスンするのは、英語音そのものではなく、英語音を「自分以外の人に持たせる方法」なので、「わざと下手に」読んでもらい、それを私が直すことで、レッスンのやり方自体を習ってもらうことになります。
今UPしたものは、浜谷さんに宛てたものです。
SAIさんは、「映画の聞き取り100%」を目指す人ですね。(UDAさんのホームページより)
(浜谷さんの掲示板に書いたものの転載です)
突然の呼びかけをお許しください。
浜谷さんが私の掲示板「大風呂敷」に書いてくださったことを読み、その後、浜谷さんの掲示板でSAIさんの書かれたものを読んで、いくつか気になっていることがあるので、ここに書かせていただきます。
私は、言語の磁場だけがもたらしうる言語能力は厳然とあると考えています。
この掲示板で、鵜田さんの方法でやってみたが中断されたことを読みました。
SAIさんほどの人が、鵜田さんの方法を中断されたことが、鵜田さんの方法のほころびのありかを示していると私は考えています。鵜田さんの方法は、私の方法と同じく、学習の入り口に置かれるべきものです。入り口に置かれ、その後も、「絶えずベストの音を求める」ことで、練習の全体に貫かれるべきものです。その意味で非常に大事なものですが、「音」というものは、語学的には「意味」に媒介されて初めて意味を持ちます。何を当たり前のことを言っているかとおっしゃられるかもしれませんが、この「意味」というやつほどやっかいなものはないと私は考えています。
意味はシンタックスの上に載って初めて意味になる。
こう言う場合の、シンタックスですが、私は非常に広い意味でとらえています。単に文構造としてのシンタックスだけでなく、その文構造を載せている状況もシンタックスであり、その状況を載せているのも、文化的シンタックスという総体だろうととらえています。この文化的シンタックス総体のことを私は「磁場」という語でとらえてきました。
この「磁場の有無」の問題を外して、「発音さえよくなれば・・・」と考えた場合、音だけが「きれい」であり、「上手」であるが、「音」と一緒に「イメージ」が動かないという事態がもたらされます。私の「電話でレッスン」の生徒さんには、むしろそういう人が多い。実は、英語好きの人たちの中に非常に多いのではないか。そう思っています。
私自身の英語の力を問われると忸怩たるものがあり、齢50にして練習途上にある者です。体力のことを考えると、今後どれほどのこともできまいと思いますが、問題の在処を見破る目だけは失うまいと思っています。
「映画の英語を100パーセント」聞き取るということは、磁場だけがもたらしうる言語能力を磁場なしで獲得しようとすることではないでしょうか。私もその険しい道を歩き始めてはいるのですが、「不可能性」というものを胸に一つ置いたうえで、この道を歩いています。
「お前はどのくらい聞き取れるのだ」と言われると、「さあてね、映画によるが、50パーセントから80パーセントの間を行ったり来たりだな」とでも言うしかありません。10パーセント20パーセント程度から、ここまでの数値の間を私はほぼ1年半で歩いたと思います。
しかし、たとえ行ったり来たりだとしても、その平均値というものは想定できます。この平均値を1パーセント上げるだけでも、なまじな練習ではないと思います。特に、平均値80パーセント以上の人にとっては、道はもはや道とも言えない崖のようなものになり、90パーセント以上の数字を求めると、厳冬のヒマラヤ登山に匹敵すると思っています。
「なぜ山に登るのか」
「そこに山があるからだ」
「なぜ磁場だけがもたらしうるものを、磁場を欠いて実現しようとするのか」
「そこに磁場がないからだ」
もしも、そこに磁場がないからだ、とお考えであって、「映画を100パーセント聞き取る」ことをめざされるのであれば、私は強く応援します。これが語学の極北の姿だと思う者です。アメリカ帰りのアメリカ英語がまったく知ることのできないものです。
それ以外の理由でやられることは、やめた方がいいと思っています。
神経症になります。「磁場がないからこそ」という自覚的な理由がないのであれば、磁場を求める方がいい。語学から見れば、単なる移住の問題にすぎないのです。
(浜谷さんの掲示板への投稿の転載です)
初めまして。
K/Hシステムというのは、教室の名前ではなく(教室もあるようですが)、本に書かれている
方法です。
「究極の英語学習法(入門編)」というのが私の手元にあります。
これは、中級も半ばを過ぎて、上級を目指す人にはいいかもしれません。
しかし、これは語学的主体を育てるような種類のものではありません。
アメリカ感覚天下り本の一種です。
「英語は絶対勉強するな」も読んでみましたが、あまりピンとくるものがありませんでした。
この掲示板では、國弘正雄さんの「英語の話しかた」(たちばな出版)があまり話題になりません
が、こちらの方がはるかに優れた書物だと思います。
根石さんへ
>
鵜田さんの方法でやってみたが中断されたこと
浜谷さんの掲示板で探してみましたが、SAIさんの何月何日の発言ですか?
ちょっと見当たらなかったものですから。
根石さんの10の順序に関して
音読するとき、意味をわからずとも音読するやり方。 音は先、意味は後。
意味をわかって、それから、音読する。意味は先、音は後。
2つの順序があるとおもいます。
この辺は、明確に順序にこだわりますか?
根石先生、
SAIさんの名言>ですから、赤ん坊の時にただ寝転んでるだけで日本語を学習したのではありません。
根石先生(以下同じ)>名言です。しかし、大人の目から見ると、赤ん坊は学習していますが、赤ん坊自体は全然学習している自覚がありません。この自覚がないことが、ネイティヴ言語の特質です。
根石先生>私は、ネイティヴ言語の修得過程と、語学としての言語の修得過程を重ねる考えはとりません。これはまったく質の違うものだと考えています。
「積極的に外と関わって」ではないと思います。赤ん坊がやっているのは、事物を通じて、言葉を通じて、その両者の境界のあいまいさを通じて、無自覚的に、しかし全的に外(世界)と「交わっている」ということだと思います。
「学習」というより、「直接的な交わり」です。
この直接性が語学にはありません。
先生は以前「学ぶ」というのは「真似ぶ」が語源だと仰ったことがあると思うのですが・・・。そうすると「直接的な交わり」であろうと「学習」であろうと「真似ぶ」ことに変わりはないと思いますがいかがでしょう? 私は世の中の習い事=学問はすべて真似ることから始まると思います。言い換えれば、「ネイティブ言語の修得過程」にこそ「真似る」すなわち「学ぶ」鍵が潜んでいると思われるのです。すなわち「学ぶ」際の要諦は限りなく「ネイティブ言語の修得過程」に近づけることこそ必要だと思いますがいかがでしょうか?
>先生の書き込みの一部
1. 技法グラウンド(コーチ付き)
2. 「回転読み」
3. 技法グラウンド(ネイティヴの複製音)
4. 只管朗読・只管筆写
5. 音のこなれた文の文法・構文の解析・総合
6. 多読
7. リスニング(努力の伴う聴解)
8. ヒアリング(流し聞き)
9. シャドウイング
10. 英語使用
その意味で先生のこの「10の順序」は「ネイティブ言語の修得過程」に最も近づいたものと思っています。赤ん坊が寝っころがって「無自覚に」やっているのは1−3ではないでしょうか?幼児期にやっているのが4、小学校以上でやっているのが5−8だと思います。
>先生の書き込みの一部
1. 技法グラウンド(コーチ付き)
2. 「回転読み」
3. 技法グラウンド(ネイティヴの複製音)
>このうち、1を学校の授業で行い、2,3を家庭学習で行うようにすれば、学校の授業に応用することができます。教師が音読の「コーチ」をやるわけです。
これの理想型はすでに日本に成立しています。「回転読み」や「技法グラウンド」という名前で呼ばれていないだけで、Eliot さんの「音作りへの道」で書かれたものは、まさにこれからの学校の授業のあるべき姿を提示しています。
これを実行に移す素地は現在の学校や家庭にはないと思います。やはりこの際、誰かが又はどこかの団体が立ち上がって草の根的に実行に移し徐々に広げて行くしかないと思います。それをやれるのは素読舎しかないように思います。柳沢さんはそのような活動が商業的に出来る手法の素案の一部を内々に先生に提示されたとお聴きしております。私自身残念ながら近くでやっていた英会話サークルを当分の間休止しSAIさん同様上記7−9までに没頭し、私自身のレベルアップを図っておりますが、もしこのような活動が動きだせば、手を上げて、私が住んでいる地域でその1支部として参加したいと思っています。 勿論そのような資格が私にあればの話です。
根石先生、
>プロ、セミプロ相手の私の「電話でレッスン」では、わざと下手に発音してもらうということをやろうと思っています。
私より発音がうまい人というのはいくらでもいるわけです。
特に、英語圏に長く住んだ人などは、私より当然発音がうまかったりします。
この人たちが、「日本語の音しか持っていない」人たちに、どう英語の音を持たせるか。その技術がまるで日本には成立していません。実にもったいない話です。
本当にもったいない話です。このような方は現在日本に沢山いらっしゃると思います。帰国子女の方々の中特に女性の方々で堪能な英語力を持ちながら使う場のない方がわんさかおられるのではないかと推察しています。前述の「活動」の一環として「10の順序」の1−3のコーチをやってもらえばどうでしょうか? 商業的に可能であるとすれば、それらの女性達、あるいは私を含めある程度英語力はあるが宝の持ち腐れ的な老齢者の社会貢献への朗報になるとも思っていますが・・・。ところで、『プロ、セミプロ相手の私の「電話でレッスン」では、わざと下手に発音してもらうということをやろうと思っています。』とのことですが、それ程にこのコーチの仕事を理解して貰うのが大変だということだろうと思います。 それはそのやり方でもいいですが、コーチを委嘱する際に書類審査(インターネット上での審査)のうえ、どこか(素読舎でも可)に集まって貰い先生から直にコーチ法を伝授して頂くということでどうでしょうか?
いろいろ僭越且つ差し出がましいことを申し上げましたが、大胆な英語教育の構造改革は誰かがいつか先陣を切って始めなければとの強い思いから敢えて書き込みさせていただきました。私は素読舎とは現在無関係ですから、本当に余計で、ご迷惑な書き込みだった惧れがあります。もしそうであればお許し下さい。他意はありませんので。
(浜谷さんの掲示板からの転載)
お返事いただけてうれしく思っています。
私が使っている「磁場」という語は、物理学で使う意味の喩であると受け取っていただいてかまいません。「磁場」には「磁力」が働いています。言うところの「英語圏」には、英語という言語の「磁力」が働いている。だから、「磁場」と言っているのであって、あてずっぽうな比喩としてこの語を用いているのではありません。
「文化的背景」という語では、私が言いたいことは言えないと思っています。「文化的背景」であるなら、それは知識を増やせば増やすほど接近可能なものではないでしょうか。学問的なアプローチでかなりな部分が処理できるものではないでしょうか。語学はいくら知識を増やしたところで、センスとして血肉にならないならしょうがないのですが、この血肉になる場面で、生な磁力を浴びるのと浴びないのとでは、まるで違う英語ができると思っているのです。
私は、磁力を浴びていないのにそこそこ使えるだけになっている日本の英語を非常に愛しています。生な磁力を浴びてぺらぺらと使える英語よりすごい英語だと思っています。比べものにならないほど、日本で作った英語の方が偉いと思うので、日本のごつごつした、あるいは木訥な、あるいは不器用な英語に軍配をあげます。本当に本当に比べものにならないほど、日本で作った英語は苦労しているのです。
このあたりの認識がESSなどに属していた方々は弱いと思いつづけてきました。
鵜田さんの方法を中断されたわけではないということについて、誤解しておりましたことはお許し下さい。私は鵜田さんはすごい人だと思っているのですが、鵜田さんの掲示板を読んで辟易したことがあります。そんなふうに「音」を扱ってことが済むと思っているんなら、そんなもの「床の間にでも飾っとけ」と思ったことがあるのです。鵜田さんの周りに集まっている人々は、本当に鵜田さんの独創を理解しているのかと疑ったことがあるのです。その有象無象の「音派」たちの「床の間主義」を斬れないことが、あえて言うならば私の鵜田さんへの不満です。
斬っていいものは斬ると決めている私は、だんだんこの娑婆で食えなくなってきており、ただいま転職を考えているところです。余計な話ではありますが・・・。
意味がわからなくて困るのではなく、音が聞き取れなくて困るとおっしゃいますが、音が聞き取れなければ意味はわからないのではないのでしょうか。私には理解のできないことなので、考え込んでいます。
SAIさんが鵜田さんの方法を中断したというのは、私の誤解であると、浜谷さんの掲示板でSAIさ
んから指摘されました。
ごめんなさい。
素読は、音が先、意味が後です。
國弘さんの只管朗読は、意味が先、音が後です。
この順序にはこだわりません。
それよりも、只管朗読よりも、「技法グラウンド」や「回転読み」が先だというふうに現在は
「明確にこだわ」っています。
「音」をちゃんと作るから、「意味」の通り道ができる。通り道に意味が通ったら、すぐに「音」に
もどって、意味のともなった「音」とする。
國弘さんの言うように、他人の解釈でもいいから、意味がわかった上で朗読せよ、でもいいと思い
ます。どっちを先にしても、「同一の文」を扱って、
音 → 意味 → 音 → 意味 → 音 ・・・
の往復過程が成立しさえすれば、融合という同じ場所に出ると思っています。
只管朗読よりも、「技法グラウンド」や「回転読み」が先だというのは、音のセンスの問題だと
思います。音のセンスのいい人は、只管朗読から始めて何の問題もない。多くの盆踊り英語をや
ってしまう人たちは、語学的な意味に限れば、音のセンスが少し鈍い。この少し鈍いところがそ
の人たちの最大の長所です。こういう人たちは、語学をやらせれば、まごまごしながら、長くや
ってくれます。そして、兎と亀の亀のように、はしこい人たちや、単に音のセンスのいい人を抜
いていきます。名指しするのは気がひけますが、私の生徒の中では、もっこりさんや長野のBさ
んはそういう人です。私はこの人たちを信頼しています。
音のセンスがいいだけで、じきにへばる人は本当は語学には向いていません。
こういう人も生徒の中にはいますが、じきにへばるので、長続きしません。
これらを全部考えた後で思うことは、つくづく國弘さんという人はすごいということです。
音のセンスもよく、達人の域に達して、なお初心者のことがよくわかっている人というのはすご
い人です。
今日は疲れました。
明日お返事することでお許し下さい。
Tさん
お返事が遅くなり申し訳ありません。
メール読ませていただきました。
とても残念です。
お仕事がお忙しいのに、レッスンを続けていかれる姿勢に感動のようなものを覚えており、妻とすごい人だとよく話しておりました。発音上は妻から習うようなものはほとんどなく、何のためにこんなレッスンを続けなければならないのかと思われたかも知れません。
正直なことを申し上げますと、世の中には発音の上手な人はたくさんおりますが、音とイメージが同時に動く人はあまりいないと思っております。私の直接の生徒さんにも、「イメージ」と「音」の同致をねらうべき方は何人もおられます。だから、この方々に学んでいただくことは発音ではありません。15語から20語の文で同致に慣れていただき、20語を越える文に関して、イメージが音と一緒に「動き続ける」ことを狙っていただくことです。これは、妻のような下手なコーチでも、「復習範囲を手放さない」という原理によって可能になります。
もちろん、独学で「復習範囲を手放さない」ということがやれるなら何も問題はないのですが、お仕事のお忙しい方は、むしろ私どものレッスンを継続される方が現実的ではないかとも考えています。軽自動車を一台維持する程度のお金はかかってしまいますが・・・。
「復習範囲を手放さない」ことは、言葉の発酵を維持させるためのものです。
実は人々はランダムにこれをやっているだけのことであり、めきめき力がついた人というのは、新しい文そのものでさえ、「復習範囲」にしてしまう人です。新しい文の新しい要素以外は、全部復習範囲としてこと新たに強く復習をやってしまう人です。
レッスンを中断されても、「掲示板」の方にはときどき登場していただき、その後の英語の進展や停滞をお話いただければうれしく思います。どうも、私にはアメリカ感覚天下りの日本人の英語の感覚を受け付けない体質があるようで、ときに、きつい記事の載る掲示板になっておりますが、Tさんのようなほんわかしてて芯のある方に来ていただくと、やらなくてもいい喧嘩はやらないですませることができるかもしれません。
書きにくい掲示板ですが、よろしくお願いいたします。
レッスンを始める前と中断された時点とを比べてみて、何か気づかれたことがありましたら、是非掲示板の方によろしくお願いいたします。
また、私どものレッスンが必要だと再び考えることがありましたら、いつでもメールで声をかけていただきたく思っております。
長いこと、ありがとうございました。
音ーー>意味ーー>音ーー>意味のサイクルで、意味の
注入は、誰が、どの時点で行なうのがベストなのでしょうか?
(ex)
I can't help but laugh. この文の音は、繰り返せば身につくと
思うのですが、この文の意味はどうやればわかるのでしょうか?
100回読んでいるうちに、自然にわかってくるとは思えません。
スクリーン、サウンド、ストレッチ
日本のなかで、3重苦(ゼロ留学、ゼロ勤務、ゼロ外人)のなかで、スルメをかじりながら、
生身のイカと同等品質の味わいをするには?
映画は、長いので、アメリカのCMサイトがあります。
ここをインターネットで見れば、動画音声がわかります。
そして、このCMに対するコメントを書き込むことも
できますし、他のコメントを聞くこともできます。
コーチは、このCMのディクテーション結果を
生徒にしらせます。
ぱくぱくさん
私の方法は素読そのものではなく、「素読的」なものです。
現在は漢文を扱っていませんが、もし、漢文の素読を扱うならば、意味が自分でわかるまで意味を扱いません。いわゆる漢文の素読というものは、「音」と「シンタックス」が日本語ですので、待っていれば自然にわかってくるということが起こるからです。
「読書百遍、意おのずから通ず」が起こるわけです。
これは、「音」と「シンタックス」が日本語であるからです。
語法や語彙は繰り返しの過程で「なじみ」が生じます。難しいのは、解釈的意味でなく、人生的意味です。
今、仮に解釈的意味と人生的意味としましたが、一口に意味と言っても、この両者はまったく違うものです。解釈的意味は、机上で頭脳的に「わかる」ということで成立しますが、人生的意味は「生きて知る」種類のものです。語学の言語と生活言語がもつのと同じような質の違いがあります。「読書百遍」がもたらすものが、このどちらなのか私には決めかねますが、「たてつづけに百遍」読んでその場でわかったというのなら解釈的意味だろうし、何年にもわたって、時をおいて「百遍」読み、何かの経験がきっかけになって、意味がわかったというのであれば、人生的意味が生まれているだろうと思います。
語学はどこまでも「机上の世界」です。ここでは、「ひとまず」解釈的意味を成立させます。
英語は、日本語の「音」も「シンタックス」もあてにできない。語法、語彙も別物です。こうなると、「読書百遍、意おのずから通ず」は無理です。
語学においての、「音」と「意味」の間には、「鶏が先か卵が先か」ということとまったく同じ問題があります。
「音」ができているから、文全体の意味が、瞬間的につかまるということは言えます。これは、「音」ができていない学校英語や受験英語では生じません。「音」ができていない英語では、個々の要素(単語、熟語等)の意味を「組み立て」て、全体の意味に至ろうとするだけで、全体のわしづかみが瞬間化されません。
語学的標準形としての「音」ができているということが、全体の意味をわしづかみするための基盤となります。この場合は、「音が先」です。
しかし、意味がわかるからこそイントネーションが決定できる、ということも間違いありません。意味がわからなければ、語学的標準形としてのイントネーションは成立しません。この場合では、「意味が先」になります。
ここにも、初心者の問題があります。まったくの初心者を前にした場合は、コーチが意味を与えてしまうことは構わないと考えています。「技法グラウンド」の場面でも、初心者を相手にする場合は、コーチが意味を先に言ってしまうのでいいのだと思います。意味を先に言うか言わないかよりも、繰り返しの回数の方がはるかに大事なことだということです。
ぱくぱくさん
意味の「注入」については、小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」で、私は「電圧装置」というものを提唱しています。
小学館文庫の種本は大学受験生を念頭に置いて書いたものでしたので、まったくの初心者向けではありません。学校英語や受験英語に風穴をあけるための方法で、すでにかなり学校英語・受験英語に触ってしまっている人たちに向けて書いたものです。やりなおし英語の人にも向いていると思っています。
「電圧装置」を使う上での眼目はイメージです。二つ折りにしたレポート用紙だけで練習するわけではなく、別の紙の上で、國弘さんの言われる「只管筆写」と同じ作業が行われます。イメージを発生させ、強化し、スペリングや音と融け合わす作業です。ここで、イメージがしなやかに軽く速く動くレベルを獲得すれば、瞬間的に「イメージが音を呼び出す」ということも、「音がイメージを呼び出す」ということもできるようになる。「音」と「イメージ」の「同致」あるいは「瞬間化」が、双方向で可能になります。単語や熟語レベルで、これを成立させておくことが、文全体の意味をわしづかみし、文全体の意味をも瞬間化してしまうために必要だと考えています。この瞬間化を成立させるのは、イメージを求める意識の強度です。
誰がやるか、ですが、本当の初級レベル以後は自分がやるべきです。人に考えてもらっても、イメージは自分のものになりません。
サウンドのストレッチをしながら、口がほぐれてきたら
それに応じて、意味(日本語)をアバウトに注入して
いく方がいいとおもいます。
いまの、7年目の浮気 のように、解析的な説明ではなく
もっと、おおまかな、意味。それは、絵や動作で表す。
たとえば、
I can't help but laugh.と口に回るようになったら、
面白い絵を見せて、実際に笑い、I can't help but laugh.と
言ってみる。
こうすると、絵と、気持ちと、ジェスチャー(笑いの表情)が
フュージョンするとおもいます。
つまり、右脳だけが、活性化し、左脳が、介在しない。
映画やCMの利用は、右脳だけですむ世界が多いです。
電圧装置だと、文字ベース(日本語、英語)になると
おもいます。これだと、左脳が活性化されるとおもいます。
スルメをかじりながら、生身のイカ刺しの味を想起するのは
至難の技というより、無理です。
つまり、インターネット時代の素読というものがあり、
それが、実は、英語の酸に、有効に対抗できるのではないでしょうか?
素読:コーチがそばにいる。文を読む。一つのテーマが20分。(論語、大学)
音をストレッチして、身につける。
この時間は、長い(1ヶ月から3ヶ月)ので、コーチが必ず、そばにいる。
意味は、音がスラスラ言えるようになるまで、注入しない。
しかし、20分全体のテーマについては、アバウトにはじめに日本語で言っておく。
20分というのがひとつの区切り。
これは、インターネットで、映像、音をつけて提供できる。
>映画やCMの利用は、右脳だけですむ世界が多いです。
とうていそうは思えません。
そんなものは「聞き取れている」ことだと考えない方がいいと思います。
右脳・左脳のことはよく知りませんが、「音」と「イメージ」の同致と私が言っているものは、多分、右脳と左脳が同時に動く事態ではないかと思います。理知と感覚の同時性です。
多くの人が、「只管朗読」の「朗読」の重要性ばかり言いますが、國弘さんが「只管」という語に込めてあるものをあまり考えてみることがないと思っています。うまい方法ばかり追い求めている利口な人には英語は無理です。
意味の注入時期に関しては、すでに私の考えは書きました。
「注入」という語は好きにはなれませんが・・・。
「意味をアバウトに注入」でことが済むのは、英語の磁場においてだけです。英語の磁場を欠いた日本で、コーチがやれることは、「訳」を与えるということであり、本当は「意味」は誰にも与えることはできません。「意味」は磁場の中の言葉が与えることができるだけです。「注入」という語は人間の意識に対して実に不遜な言い方だと思っています。本当にそんなことができると思っておいでですか。人間は、他人からヒントをもらって、「自分で気づく・自分でわかる」ことしかできないのです。そうでなければ、そこにあるのは教祖と信者の関係であって、語学という意識の動態とは何の関係もありません。
>I can't help but laugh.と口に回るようになったら、
面白い絵を見せて、実際に笑い、I can't help but laugh.と
言ってみる。
日本語が変だと思います。「面白い絵を見せて、実際に笑い」というからには、「見せる」人も「笑う」人も同一人物です。それだったら、生徒は、「先生は自分が絵を見せたことがおかしくて笑ったんだ」と思うかもしれないですね。そういうことを言っておられるのですか。
この場面では、生徒の意識に I can't help but laugh. という文が持つ一般的な意味を気づかせるためなのだから、「絵を見せて、実際に笑わせる」でなくてはおかしいと思います。そして、そう書いてみればはっきりしてくるのですが、そんな絵なんか見ても、生徒が面白いともなんとも思わなければどうなんでしょうか。生徒というものは、先生の顔色一つで、同じ絵を見ても笑ったり笑わなかったりするのです。
あるいは、笑おうと思わないのに、笑うことを「避けられない」という肝心なことは、こんな「アバウトさ」でどうなるのでしょうか。それが、理解されないならば、「アバウト」どころの話ではない。 I can't help but laugh. なんか持ち出す必然は何もなく、単に I laugh. でいいではないですか。
だけど、こういう馬鹿げたことは幼児英語教室なんかではすでにやっているんだろうと思います。幼児というのは、この場面で大人が自分に笑って欲しいんだなと思えば笑います。幼児というのは実に義理がたいのです。それを手玉にとって金もうけをしているやつらに金を出す馬鹿母がいっぱいいるのが、日本の末期症状のひとつです。その全体がポンチ絵でしかありません。
I can't help but laugh. というのは「絵を見て笑う」どころか、絶望の表現にでも使えるのです。それを規定するのは感情であり、声の調子です。
I can't help but laugh.
考えています。
もう少しお待ち下さい。
(浜谷さんの掲示板からコピー)
私も JIJIRO さんと呼ばせていただきましたが、その時々で、「様」をつけたくなったり、「さん」で呼びかけたくなったりして、使い分けがまだら模様になる可能性があります。今後、まだらになりましたらご容赦下さい。
>ぼくの言っていた教室は marinezumi さんの発音に関してでした。
今度この本を読んでみたいと思っています。ありがとうございました。
投稿者の欄と署名の欄を間違えるような粗忽ものですので、JIJIRO さんに向けて書いたものにも勘違いで書いたものがあったようです。ごめんなさい。K/Hシステムは、やるなら最後の最後でいいのではないでしょうか。手元にはありますが、私はまだ手をつける気がありません。
「どこに住んで何をするのか」ということによって、必要になったりならなかったりする本だろうと思います。この本によって、「向こう岸」へ行けるかもしれないにしても、私がやるとねぼけ浦島太郎みたいになる可能性があると思っています。気がついたら、やっぱり「こちら岸」だったという事態です。やっぱり、仕事などで、本当に「向こう岸」(英語圏)に行く必要のある方に向く本だと思っています。
私は英語を扱って生活を成り立たせてもらっていますが、「向こう岸」に行くことはないだろうと考えています。「向こう岸」の人たちがわからないこと、あるいはわからなくなることは、「こちら岸」にいて英語をやることの困難です。私はこれを見失いたくないのです。英語をやるのに、「世界で一番きつい場所」にいること。それが、私が日本で英語をやり続ける人たちと共に持ち続けるべき条件です。
「こちら岸」にいて、必要な時はこちらから向こうへ橋がかけられればいいと願っています。それが、たとえぐらぐらするような弱い橋であっても仕方がないと思っています。
>あの先生が、本当ならもっと「ぶって」難しそうなことを吐露されても、それはそれ
でありがたがる人たちもたくさんいるだろうに、愚直なまでに一番基本的な音読を
薦めておられる姿勢に、ぼくはうたれるのです。
同感です。しかし、私は不思議でしょうがないのです。なぜ、國弘さんは只管朗読が持続できたのだろうと思っているのです。國弘さんが中学生だった時は、周りが英語を敵性言語として扱っていた時代でした。強い思想性を感じるのです。しかも、只管朗読というツボのツボとでも言うべき方法をなぜ持続できたのか。学校の先生に薦められたというのですが、薦められたのは國弘さんだけではない。なぜ國弘さんは、ご本人の言葉で言えば、「愚直に」それができたのか。ここにあるのは、単なる言語的センスというものではなく、強い思想性だろうと思っています。
國弘さんの中学生時代に、CDだのMDだのという教材はありませんでした。リピーティングなどやらずに、只管朗読だけやって、進駐軍の兵士を相手に突然英語が通じたし、相手の言っていることも聞き取れたということは、「繰り返し」ということの中に、英語の音を作り、日本語の余計な音を飛ばす作用があることを証明しています。
私は、英語の活字としての文の中には、イントネーションも潜んでいるという仮説を立てています。意味がわかっている文であれば、「繰り返し」という作業で、イントネーションは掘り起こせるものだと思っています。英語のネイティヴ音の複製教材があふれている時代にはかえってそれが見えにくくなっているのではないのかと考えています。
すみません。また「ぶって」しまいました。
車の中で練習されているのですか。私もやっています。ヒアリングとかリスニングというのは、なかなか机に向かってやる気になれないタチですので、車のエンジンをかければMDが鳴り出すようにしています。車を語学の道具に使うのは、事故さえやらかさなければなかなかいいと思っています。JIJIRO さんもやっとるぞと思って、これからも継続します。
> あの本の中に、音読を続けて得られるものは、自分にしかわからない感覚の変化で
あって、とりあえずの褒美はそれだけである、という意味のことが書いてあります
が、漂流者にとってこれほど力強い応援があるでしょうか。
本当にこの通りだと思います。
>電圧装置だと、文字ベース(日本語、英語)になると
おもいます。これだと、左脳が活性化されるとおもいます。
スルメをかじりながら、生身のイカ刺しの味を想起するのは
至難の技というより、無理です。
やはり、イメージというものがおわかりになっていないと思います。
スルメも生身のイカもない場所で、生起するのがイメージです。
単なる言葉の切れっ端をきっかけにでも、イメージは生起します。
そうでなくて、なんで読書なんぞができるでしょうか。
(浜谷さんの掲示板から)
>上記のまま解釈すれば、言語は電子からなり、その電子が動くことによって磁力が発生すると解されると思います。
「私が使っている「磁場」という語は、物理学で使う意味の喩であると受け取っていただいてかまいません。」と書きました。「喩である」ということはおわかりにならないでしょうか。「上記のまま解釈」していただけなかったと思います。
>ただ訪れるだけで問題意識がなければ、読書派に負けてしまうかもしれませんけど。
これはまったくその通りだと思います。
この「問題意識」が、「日本にいて」英語をやることの最大の副産物だと考えています。副産物ではあるが、副産物にしておくにはもったいないほどのものだと思います。私がぺらぺら英語より、日本で育ったごつごつした英語に軍配をあげるのは、英語の磁場の磁力をあびて日本に帰ってきてぺらぺらやってる英語には、「方法意識」や「問題意識」などの持ち合わせがないものが多いことによります。もちろんすべての人がそうではないが、薄っぺらなことをぺらぺら言ってるだけの「アメリカ帰りのアメリカ英語」は多いと思っています。そして、こちらにあがる軍配の多さに辟易しています。日本人民のジャッジは間違っておるという判断です。
「ぺらぺら度」の勝ち負けでは、日本で作った英語は初めから負けるに決まっています。(どの世界にも怪物はいて、松本道弘みたいな人はいますが・・)
>私はESSに属していましたが、ESSでは英語はほとんど勉強しません。何をやるのかというと、社会問題について本を読んで議論します。
知りませんでした。
>UDAさんには直接会っていますので、誤解されているところが多いと思いました。UDAさんが音だけを扱っているのは、読者に合わせているからで、本当は英語学習全般について独自の方法論を持っています。
鵜田さん自身は、アメリカに渡ってアメリカ語の音を身につけて来られた方です。私が鵜田さんについて関心があるのは、そのアメリカ語の音ではなく、日本在住のままの人たちに、どのようにシンタックスの齟齬を克服させるつもりなのかという点です。
これは、鵜田さんにおうかがいすべきことかと思いますので、最大の疑問点を書くだけにとどめたいと思います。
>音が聞き取れなくても意味は分かることがあります。それは推測によって可能となります。英語が100%聞けなくても推測によって意味が分かります。例えば、日本語では「おはようございま」まで聞けば、次は聞き取れなくても「す」であろうと推測できます。しかし、音が100%聞けたときと違って、誤解も当然ながら多くなります。
ありがとうございます。疑問が氷解しました。
日本語でも普通は、こういう推測を働かせて話をしているのだから、英語を使う時も原則的にそれでいいんじゃないでしょうか。
映画の「聞き取り100パーセント」を「めざす」のは、上級者にはいい練習だと思いますが、これは「めざす」ことに意味があるのであって、「100パーセント聞き取れる」は実現しないものだと思っています。昨日、日本映画を見ながら、俺は何パーセント聞き取れているんだろうと意識してみましたが、自覚ではせいぜい80〜90パーセントでした。日本語でも意識して聞いてみればそんなものではないでしょうか。それとも、うちのテレビがおんぼろのせいでしょうか。(それとも機械音を聞き取るときの俺の耳がおかしいのか?)
私は「映画の英語」に関しては、実に簡単な原則を持っています。「知らないものは聞き取れない」です。「単語」にしても、「語法」にしても、「知らないものは聞き取れない」と思っています。ですから、知らなかったら、それを「回転読み」というやつで、自分の口を「回し切る」ことをやって、英語音の近似値を作り、知らなかったことを知っておきますと、突然、全体がすっきりと聞こえてきます。そうやって「しらみつぶし」をしていく他になかろうと思っています。この「しらみつぶし」にはきりがない。なぜなら、「しらみ」は今でも発生しているからです。
お返事ありがとうございます。
>イメージが似ているということでよろしいですね。
私が「磁場」という語を持ち出したのは、「磁力が働く場」というような言い方で、英語圏にいる人に起こることをより正確に言えるという利点があるからですが、その他に、日本の「ごつごつ英語」の「ごつごつ」は「磁場」を欠いて作った英語だから当然なのだというように、「ごつごつ」に根拠を与えられるからでもあります。
「ぺらぺら」には根拠がある。「ごつごつ」にも根拠がある。それは、生の磁力を浴びているかいないかの違いだ、というように、「ぺらぺら」や「ごつごつ」にきちんと根拠を与えることがないかぎり、「ごつごつ」側から「ぺらぺら」側を見た場合の、「いじいじ」は往生しない。「ぺらぺら」側から「ごつごつ」を見た場合の余計な「えっへん」も往生しない。どっちも要らねえや、余計なもんだというのが私が考えてきたことです。
ちょっと他の言語学習には見られないような、「余計なもの」にまみれているのが日本の英語というものだという観点があるのです。
「ごつごつでも構わない」どころではない。「ごつごつで当然だ」です。それをはっきり言わないと、語学に余計な邪魔が入る。あるいは、日本育ちの「ごつごつ英語」が浮かばれない。私は日本育ちの「ごつごつ英語」を救い出してやりたいと思って、「磁場」という語を使っています。
>問題意識は日本にいようが海外にいようがほとんど関係がないと思います。海外に留学する人は問題意識があって学問を修めに行くのでしょうし、問題意識がなくただ漠然と英語を日本で学習している人もたくさんいます。
SAIさんが、問題意識という語を用いられたので、私もその語で考えてみたのですが、私が言いたいのは、語学の方法論が、磁場を欠いた日本で英語をやる場合の方が、英語の磁力を浴びる場(英語圏)でやる場合よりも鍛えられるだろうということです。磁場を欠いた場でやる方が、方法意識は強くなると思っています。英語の磁場の中で英語を身につける人は、「磁場がない場所で、どう知識レベルを感覚レベルに持ち込むか」などという問題意識は必要ない。磁場があるんですから、語学の言語と生活言語の境界があいまいなままやってられます。日本じゃそれはそうはいかない。
私が言いたかったのは、問題意識があるから外国に学問しにいくというような意味での問題意識ではなく、語学の方法意識という意味です。「問題意識がなくただ漠然と英語を日本で学習している人もたくさんいます」とSAIさんがおっしゃる通りで、そういう人たちに向けて、英語の磁場を欠いて英語をやるという語学の場所は、強い問題意識(方法意識)を育てられる場所なんだぞと言いたいわけです。その意味では、非常に有利な場所です。
>私は仕事で英語を使っていますが、仕事においては、役に立つかそうでないかが最重要です。いくら崇高な哲学を掲げて英語を学んでいても、仕事で全く使えない英語は無力です。
ここまでは、まったく賛成です。
>まずは仕事に生かせる英語を最優先すべきだと思います。これは声を大にして主張したいです。
これはSAIさんが、ご自分に言い聞かせる分にはそれで結構ですが、一般化するわけにはいかないと思います。外資系の企業に勤めていて、会社内は英語の磁場と化しているというような場合は、「仕事に生かせる英語」を最優先することをやられるのも無理はない。しかし、それが日本の英語全体の最優先課題だとはとても思えない。私なんぞは、「うまい酒が飲める英語」を最優先しています。金は出ていくので、何の仕事でもないし、何の仕事にしたくもない。ただ悪友になったオーストリア生まれのアメリカ英語くっちゃべり野郎(ドイツ語ネイティヴ)が、いつまでたっても日本語が上達しないので、しょうがねえから英語でしゃべってやるときに、妙に気が合うところもあって、酒がうまくなることがあるんです。「仕事に生かせる英語か、ああ、やりたくねえな」という感じです。
(先ほどのものもこれも、浜谷さんの掲示板からの転写です)
>私も同様に考えていますが、最初からできないとは考えていない
点で少し異なります。万策が尽きるまでは最善を尽くします。
私は「最初からできないと考えている」というわけではなく、「不可能性というものを胸に一つ置いた上でとことんやってやる」と思っているのです。SAIさんと非常に近い場所にいると思っています。英語が必要な場面で、なるべく相手に過大な負担が生じないようにするためのヒアリング力をつけてやろうというのと、一発で相手の言っていることがわかるというのは一種の快感であることとが、これをやる理由ですが、「磁場だけがもたらしうるものを磁場を欠いて手に入れる」ということが、どういうことかを知ってやろうという気もあるのです。日本では英語学習が英語道になっちまう。その根拠はいったい何なんだと思っているのです。だけど、私はもうじいさんなので、ゆっくりやろうと思っています。上達の前に死んでしまえば、まあ、そりゃそれでしょうがねえやとするしかありません。
>この原則は恐らく誤りだと思います。なぜならば、知らないものも聞き取れるからです。もし知らないものが聞き取れないのであれば、耳学問というものは存在せず、ただ文字による学問だけが役立つということになります。文字が使われたのは人間の歴史から言えば、つい最近のことです。それまで長い間人間は音を使って意思疎通し、新しい知識を口伝してきました。現在でも、文字がある言語の数よりも、音だけの言語の数の方が多いです。 音が略100%聞き取れれば、知らないことも聞き取れ、それは何だろうと人に聞いたり、調べたりして新しい知識が身に付けられると思います。端的には、名前があります。初めて聞く名前でも聞き取れて、○○さんとは変わった名前ですね、という会話が成り立ちます。
このあたりが一番お話したかったところです。おそらく「聞き取れる」という語に込めているものが、私とSAIさんとで違っているのです。私は「聞き取れる」というのは、相手の言っていることがわかるということだと思っているのですが、SAIさんは、音の細部がわかり把握できることだと考えておられるのです。
私の悪友の英語くっちゃべり野郎は、行儀が悪く、私が何か聞くと、口にいっぱいものを入れて食べながら、「ん、ん、ん」と言いますが、私はこれが聞き取れるのです。野郎は I don't know. と言ってるなというのが、どんぶりに顔をつっこんで上目づかいで私を見ている顔でわかるのです。ところが、このどんぶりから上目づかいの野郎の「ん、ん、ん」をテープレコーダーに録音してSAIさんに聞かせても、おそらく「聞き取れない」だろうと思います。ここんところは、修行してもしょうがねえなと思うところです。
「ん、ん、ん」が I don't know. だとわかるのは、私があらかじめ I don't know. という言い回しを知っているからです。
まあ、こういう行儀の悪い野郎はほっといて、映画俳優や映画女優の上等な顔や上等な声を媒介にして英語をやる場合は、SAIさんの「音の微細な部分に感応できる耳を作る」というのは正道だと思います。私もこれはやろうと思っていますが、あくまでも自分の英語の一部分にしておこうと思っています。
こんにちは。
>根石さんの文章を読ませていただいていると、根石さんには失礼かもわかりませんが、ぼくには「宮本武蔵」に代表される求道者か修行僧の姿が想像されてきます。
今日から、俺のことを「武蔵と呼べ」と女房に言ったところ、「なに馬鹿言ってんだか」とのことでした。そんなことを言ってくれるのは、JIJIRO さんだけです。
>ぼくは以前に浜谷さんから、根石さんのホームページを紹介されて感想を聞かれた際に、ずいぶんと無礼なことを書いてしまいました。どうかお許し下さい。
いや、無礼なことなんか、私なんか、しょっちゅう書いちゃうので、そのことを言われると、穴があったら入りたくなり、ついきょろきょろしてしまいます。粗忽者はなかなか直りそうもないので、その点をお含み置きの上、よろしくおつきあいをお願いいたします。
>ぼく自身一応は外国語で有名なJ大の外国語学部に4年間在籍していて、中退後(学園紛争最盛期でした)もそれなりに英語だけはやってたつもりなんですが、それでもアメリカの子供たちのアニメやドラマがさっぱり聴き取れないという事実に心底情け無さを感じています。
アニメ、ドラマ、歌詞、映画っていうものは、本当に馬鹿にできないです。日本に住んで英語をやる場合に技法的に攻め込むべき最後の場所がそういうものだろうなと思っています。真底情けねえのは、私も同じですが、この巨大な落差は面白いなとも思っています。英語でおまんまを食ってる人間が、アニメが聞き取れないってんですから面白い。おう、やったろうじゃねえか、っていうのが一つあるだけですが、それにしても手強い。ときどきへこたれたくなります。
>(自分自身の名誉のために言っておきますと、最近の特訓によって以前とは桁違い
に聴き取りや音読はできるようになってきてはいます。もとが低かったと言われれば
それまでなんだけど(^_^;)。ただ、それでもアメリカ人同士の地の会話にはついて
いけません)
地の会話っていうのは、日本語でもなかなかついていけません。話している人たち同士の「仲良し度」っていうのがあると、第三者として話の輪の中にいても、何を言っているのかちっともわからないということもあります。英語の場合は、私の語学力不足に、連中の「仲良し度」が輪をかけて難しくしていると思います。
>というわけで、根石さんのおっしゃる「向こう岸」や「こちら岸」や、根石さんは
書いておられませんがその間の「三途の川」の有り様も、普通の人よりは理解でき
るつもりでおります。
三途の川!この看破力には脱帽しました。すばらしいです。私がうろついていたのは、三途の川であったのか。三途の川を渡ると閻魔様がいるんでしたっけ。私は、よろよろの橋でも橋をかけて渡ろうかと思っていたのですが、それでも閻魔様に会ってしまうでしょうか。閻魔様に舌を抜かれたら語学ができない。それが心配です。
>そんなぼくが自分の体験を通じて感じるのは、言語の習得には方法論や教材よりも、
圧倒的にその言語に対する飢餓感の方が重要であるということです。
ふうむ。私は飢餓感より、危機感が強いです。「電話でレッスン」なんかやってると、私より発音の上手な生徒が現れて、「やべえよ、こりゃ」って感じになります。肝心なのは「音」じゃねえよとは思うものの、自分の音のレベルを放っておくわけにはいかない。じいさんになってから、こんな危機感を持たされるとは思いませんでした。でも、レッスンをやって、自分が若い頃考えた「回転読み」という技法を若い人が使ってくれるのを見ているのは楽しいです。
私は最近、この自分の掲示板に飽きちゃって、近頃、人様の掲示板にあがりこんで、ごたくを言っ
てます。
しろうと衆がちゃんとものを言わないのがいけないと思っています。くろうとなんぞのしちめんど
うな理屈におじけづいちゃ駄目だし、理屈を馬鹿にするのも駄目です。どっちかをやっちゃうのが
しろうと衆だけれども、「書きにくい場所に書く」というのは、大事なことだと思います。
あたしゃ、くろうとの割に、銭がもうからん。
どうしてだ?
とにかく、書いてにぎやかにしてくれや。
わしゃ、ね、英語という言語には本当に冷たい心を持っているけど、英語が好きな人たちの心の温
度が、わしの香辛料じゃけん。
頼むわ。
http://6415.teacup.com/toshiohamaya/bbs
また酔っちゃいました。
作戦のことは考えていますので、もう少しお待ち下さい。
昨日、昔の塾生からうれしいメールがありました。掲示板に転載していいかと聞いたら、いいよということでしたので、転載させていただきます。
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根石吉久様
十何年と御無沙汰しております。
高校の頃、大変お世話になりました、Kです。
昨年から実はもう一度お世話になろうかと考えていたのですが、Webの英語解析を拝見させて戴いて、語学の苦手な私にとっては、これほどまでの優良テキストがあるならばと思い、続けられるかどうか、ためらいながら迷いつつ、でもこれからは嫌でも英語と関わっていかなければならない必要性から、メールを送信することに決めました。
実はお嬢さんには昨年、自動車学校で思いがけずお目にかかり、お声かけさせていただきました。そのときに話したことは既に伺っているかもしれませんけれど、私は高校2年の冬に塾をやめてしまったのですが、あれから十何年たった今でも、当時培わせて戴きました英語力が落ちていないことは驚くべき事実で、素読舎の底力を痛感しております。途中で苦しくても続けていれば、もっと人生が変わったことでしょう。もったいなかったです。
当時の若い年代の記憶力や暗記力は全く持ち合わせておりませんのと、仕事中心になってしまいますので、どこまで出来得るのかわかりませんが、何卒御指導を仰ぎたいと思います。
よろしくお願い致します。
現在は度々実家の会社に来ております。
アパートは東京です。
K
うれしいメールでした。
ここんとこ、ろくなことが続かなかったので、久しぶりにうれしい思いをしました。
Kさんは、西沢書店で、黄色くて薄い「英語のやっつけ方」を買って塾を使ってくれ
た人として強く記憶に残っています。あの本は、2,3年前に、小学館文庫「英語どん
でんがえしのやっつけ方」として出た本の種本となりましたが、お読みになっておられ
るでしょうか。是非読んでみて欲しいと願っています。
ときどき、実家に帰っておられるとのことで電話してみましたが、帰っていないとの
ことでしたので、メールで返事を書いています。
私は、自分で自宅を自作し、現在は小島にいません。
更埴市鋳物師屋642−3
が現住所です。実家に帰られたら、寄って下さい。
現在は、映画のシナリオを使った「電話でレッスン」というのをやっています。最初
に「ゴースト」を扱い、イントネーションの語学的標準形に慣れてもらい、二冊目に「
七年目の浮気」を扱うあたりから、ホームページ上にあるような文法解析を媒介にして、
音と一体化することで、イントネーションの自己決定力をつけてもらうというものです。
最終的には映画の英語の聞き取りに迫るものです。
私の英語の音もずいぶん変わりました。
これを是非検討してみて下さい。
レッスンは毎週1回30分です。月額で1万円が必要になります。
メールをもらってあまりにもうれしかったもので、掲示板「大風呂敷」にご披露した
くなりました。名前、メールなど個人情報を一切削除した上で、是非引用させてもらい
たいと願っています。お返事をお待ちしています。
書き落としましたので、追記します。
小学館の「サピオ」という雑誌に、最近売れた英語本を9冊取り上げ、好きなよう
に批評してくれと頼まれ、記事を書きました。27日に発売だそうです。こちらも読
んで下さい。
大変、お叱りを戴いた塾生でしたので、恐縮です。
でも、本当に、おそらくたぶん皆様がそう思っていらっしゃるのではないでしょうか。
少なくとも、自分の英語はそこで終わったのですが、現在も当時のレベルを読むこと
は可能です。数学英語は一度伸びたらなかなか落ちないという話は本当かもしれませ
ん。
当時はもっと難易度の高いもの700選とかその他ありましたが、私には難しかった
です。
> あの本は、2,3年前に、小学館文庫「英語どんでんがえしのやっつけ方」として
出た本の種本となりましたが、お読みになっておられるでしょうか。是非読んでみて
欲しいと願っています。
早速、東京八重洲ブックセンターで買わせていただきました。
友人知人にも「面白いページだよ/でもほんとに力ついたよ/近くにあったからよかっ
たんだよね」などと話しており、色濃いHPには2人ほど大笑いしたようで、そのうち
1人は本を購入されたようです。 他の英語攻略本にも同じ内容が書かれてあったと
も話していました。(どの本かまでは聞いておりませんが。。。)
> 実家に帰られたら、寄って下さい。
こちらこそよろしくお願いします。
でもできるかどうかが一番心配です。。。
> 現在は、映画のシナリオを使った「電話でレッスン」というのをやっています。最初
> に「ゴースト」を扱い、イントネーションの語学的標準形に慣れてもらい、二冊目に「
> 七年目の浮気」を扱うあたりから、ホームページ上にあるような文法解析を媒介にして、
> 音と一体化することで、イントネーションの自己決定力をつけてもらうというものです
。
> 最終的には映画の英語の聞き取りに迫るものです。
> 私の英語の音もずいぶん変わりました。
> これを是非検討してみて下さい。
> レッスンは毎週1回30分です。月額で1万円が必要になります。
すごいですね。 ストーリーの楽しみと両方できてしまうのですね。
福島瑞穂さんが高校の頃に源氏物語の英訳を読まれたそうで、それが自分にもサポートを
戴きながら生の英語を理解させてもらえるのですね。
。。。って、私にできるかどうか。。。ですが、、。
時間と月謝は大丈夫です。 お願い致します。
> メールをもらってあまりにもうれしかったもので、掲示板「大風呂敷」にご披露した
> くなりました。名前、メールなど個人情報を一切削除した上で、是非引用させてもらい
> たいと願っています。お返事をお待ちしています。
どうぞ、そのまま御活用ください。
正真正銘の事実ですし、私のような理系人間は語学も分解されたほうが理解しやすく、
特に詳しい解析ものはすごく頭に残るような気がします。 このままテキストが世に
埋もれてしまうのがもったいないくらいです。
本当は名前を出すほうが説得力があるのですが、今は少し事情がありますので
それは後々公表しても良い段階になるまでお待ちください。
小学館の「サピオ」という雑誌は英語コーナーでしょうか?
27日以降、探してみてみます。
メールのタイトルが「タイトルを入れるのを忘れてしまいました。申し訳ありませんでした、とい
うようなタイトルでした。(根石吉久記)
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タイトルなんざどうでもいいです。
根石さん、好きです、ってタイトルだったらどうでもいいこたぁなく、目を点にし
て読みますが・・・。
俺、酔ってます。酒を飲みながら人様の掲示板にやたら書いていたら、いつの間に
か酒がすすみ、不覚にも酔ってしまいました。
"T> 大変、お叱りを戴いた塾生でしたので、恐縮です。
そうでした。昔は、私も短気でした。ほんの少し気が長くなりました。これからは、
少しずつ日も長くなるので、頑張りましょう。何のことかわからぬにせよ。
"T> 。。。って、私にできるかどうか。。。ですが、、。
"T> 時間と月謝は大丈夫です。 お願い致します。
よかったぜ。時間は大丈夫だけど、月謝が払えないのでよろしくと言われるのがと
ても怖かったが、よかった。なにはともあれ、よかった。東京で、元気でやっている
ということだ。よかった、よかった。
"T> どうぞ、そのまま御活用ください。
"T> 正真正銘の事実ですし、私のような理系人間は語学も分解されたほうが理解しやすく、特に詳しい解析ものはすごく頭に残るような気がします。 このままテキストが世に埋もれてしまうのがもったいないくらいです。
ありがとう。明日、やろうと思います。
ちょっと待ってくれ。このままテキストが世に埋もれてしまうのがもったいないくらい
ってのは、読みようによっては、もう埋もれてしまう運命が決まってるみたいにも読める。
そんな切ないことを言わんでおくれな。たとえ、そういうことになる可能性が高いにせよ
だ。
"T> 小学館の「サピオ」という雑誌は英語コーナーでしょうか?
英語コーナーでなく、雑誌コーナーだと思うのでよろしくお願いします。
乱文、失礼。酔漢、失礼。
追伸。
今度、俺の家へ遊びにきたら、俺の悪友のオーストリア人が始めたワイズアウルっ
ていう店に連れていってあげるから、楽しみにしていて下さい。俺の塾を使ったくせ
に、俺に何の恩義も感じてないトミコって女が、アメリカで結婚して連れてきた、も
のすごく頑固なガイジンがやってる店です。この店のアイリッシュコーヒーとやらが
気に入っています。
さっきのメールを酔っぱらったまま出したんだけど、Kさんから返事が来ねえんだよ。
あーあ、酔っぱらってメールとか書くとろくなことない。
掲示板も酔っぱらって書くとろくなことない。
どうしよう。
隣町の若奥さんが私の月曜「インプット教室」を使ってくれていて、この人はとても熱心な人で、
英語をやって、やりすぎて、くたびれて、熱を出して寝込んだりします。この人がくれたメール
も、私にはとてもうれしいものでした。内緒にしといてね、とメールにありましたが、そんなの
内緒にすることじゃねえから、公開させろよ、と強く迫り、公開してもいいという許諾を得まし
た。公開します。ジャジャン(若いやつらにはわかんねえだろうな、このジャジャンの響きは。
ただ昔はやったってだけのことだけんど。。。)
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根石先生
こんにちは久しぶりにメールしてみました。
というのも、ここの所、私にとっていい事があって、是非先生に聞いてもらいたかったのです。
私は先生の所へ通う前から、英語クラブに所属していると話したと思いますが、そこのおじさん達が、「最近とっても進歩した。」と行ってくれたのです。特にリスニングだと言ってくれました。
今まで、「いつになったら本気でやるんだ?」なんてからかわれていた私達だったのです。
顔は笑ってましたがいつも心では「本気でやりたいけどどうやったらいいのか、わからない。」とくやしい思いをしてました。
しかも先生の所で、私と少しやっていたMさんも「私は3ヶ月で辞めてしまったけど、その間に、天と地の差が出来てしまった。」と嘆いていました。
私は本当にうれしいくて、家に帰って旦那だけに話しちゃいました。
それと、先生にもこの喜びを知ってほしかったのです。
誰かが気づいてくれたりすると、うれしいものですね。
先生の生徒の中では劣等生ですが、私の中では何かが変って来たような気がします。
あ、そうそう、くれぐれもHPには載せないようにお願いしますよ。
真面目臭くなりましたごめんなさい。(;゜ー゜)
また、月曜日よろしくおねがいします。
Y
どうしたらいいんでしょうね。素読舎は。
全然金にならねえ。
女房と二人で仕事してて、まともな会社員の給料一人分にしかならねえんだ。
どうしたらいいんでしょうね。
寝るわ。
誰も書きませんね。
不気味ですね。
俺だけが書いてますね。俺の掲示板に。
俺の掲示板だから、俺だけ書いていてもいいんだけど。
不気味です。
寝る。
明日あたり、過去ログのUPをやりたいと思います。
さようなら、じゃなかった、
おやすみなさい、皆様。
ごきげんよう。
おじさん(のほうがいいのかしら?)
当時は皆でそう呼ばせていただいてました。
「先生」と呼ばれるのが大変嫌だったとのことでしたので。。。
びっくりしました。
全文と思ってなかったのと、メール出さないでいたら、しょげられてしまって。。。
すみませんでした、、、。
ちがうんですよ、、すごく面白かったです! 大笑いしてしまったほどで。
なんて返事を書こうか、、、特に書くことが思い付かなかったので、今度御会いするときにでも、と思ってました。
おじさん、ごめんなさい、、、
意外と気が小さく気にされてたとは、驚いてしまいまいした。
繊細だったのですね、、、、
でも、おじさんって面白いですね。 すごく変わっていて怒ってばかりでしたけど。。。
(すごいこと書いてます、、、自分でもわかってるのですが、、、、
削除してくださって構いません、、、)
今日大阪へ向かう電車の中でゴーストを少しだけやりました。
それから家に帰り、ゴーストのノンスーパー版を見て前半だけはいつもと違うと感じました。
英語が分かる。
当たり前か。。。
でもその当たり前が実はとてもすごいことなのだということも感じました。
すでにやったところでも「復習範囲」をきちんと練習していかなければならいことも感じました。
何度やっても「イメージ」の一致がなされていない個所はききとれない。
それからやはり私には8語あたりを越えた時点から急に雲にまかれたみたいに英語が頭が真っ白になって入ってこないところがあることにも改めて気が付きました。
これが根石さんがおっしゃっている語数別文のコレクションなんだということを思ったのです。
そういえば、最近の大風呂敷に15語〜20語?とも書かれていましたっけ。。。
「かたまり(=チャンク)」というのは以外にポイントですね。
「どんでん」20分の2を、いつかであった神戸の会社員の方に今日発送します。
もともと1つだけの約束しかも、レポート提出義務付きだったのですが。。。
こんちわ 投稿者:根石吉久 投稿日: 2月25日(月)12時10分52秒
あっ、どうも。
確かハンブルグでしたね。お天気はどうですか。その後、ツインタワー事件以後のアメリカに動きに対するチョムスキーの本が日本語に翻訳されて出版されました。確保はしてありますが、時間がなくて読んでありません。
また、ひっかきまわしに来てくれませんか。
書いてるの俺ばっかし、みたいになっています。
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SAIさん 投稿者:根石吉久 投稿日: 2月25日(月)12時13分16秒
>音が略100%聞き取れれば、AFN、洋画と耳から英語を吸収できるので、殊更勉強が必要でなくなります。音が略100%聞き取れれば、根石様の「表現を覚える」というのも耳から行うことができるようになります。聞き取って覚えたものは即使えます。そういう効能がありますので、まずば音を略100%聞き取る事が先決だと思っています。
このあたりのことについて、考えています。
しばらくお待ち下さい。
Kさん
うん。おじさんにしといてくれ。今も塾生は、私のことをおじさんと呼びます。入塾したばかりの様子のわからない子供は、最初「先生」と呼びますが、呼んでいるうちに、どうも様子が変だとわかってきて、周りの人と同じように「おじさん」になります。「足短かおじさん」とは言わせません。単に、シンプルな「おじさん」です。「おじいさん」とも言わせません。
> おじさん、ごめんなさい、、、
意外と気が小さく気にされてたとは、驚いてしまいまいした。
繊細だったのですね、、、、
意外と、って、知らなかったのか。俺は気が小さいんだよ。
森首相という人がいて、「蚤の心臓、鮫の脳味噌」とか言われていました。
「蚤の心臓」を持っている人は多くて、私の妻は「蚤の心臓、カバの尻」ですし、私は「蚤の心臓、鬼の顔」です。
>でも、おじさんって面白いですね。 すごく変わっていて怒ってばかりでしたけど。。。
そう。怒ると近頃の子供はすぐに塾をやめてしまうので、今は塾は女房と村田君にやってもらっています。私は「電話でレッスン」の係長です。一昔前は、怒られると「なにくそ」ってやつがいてよかったんだが、近頃のニッポンは戦後市民社会の腑抜け根性が蔓延してしまって、私も張り合いがありません。
ここの掲示板の常連になってくれねえかな。ようやく、昔の塾生(昔々、って書いてごめんなさい)が書いてくれたよと思って喜んでいるんです。
どうも。
メールからの転載ありがとうございました。
>そういえば、最近の大風呂敷に15語〜20語?とも書かれていましたっけ。。。
「かたまり(=チャンク)」というのは意外にポイントですね。
「以外に」を「意外に」に直しておきました。
意外にというより、私は、最大のポイントじゃないかと思っています。外科手術が可能な部分にばかり目がいってしまう「音派」の方々に、これからなぐり込みをかけようと思っているのですが、私は明らかに「シンタックス派」です。
難しいのは「音」じゃない。いや、「音」も難しいですが、それよりも「シンタックス」の内在化が難しい。これは磁場を欠いて一挙にやろうとすると、人間が壊れてしまうような何かです。
ピアノのレッスンの場合 もし生徒が一年通ってぜんぜん上達しないとしても
それはめったに 先生のせいにはなりません。 毎日の練習をしなかったからいけないということになるのです。 それにレッスンは週一回 30分=2000円が 初心舎クラスの相場です。
英語のプライベート 一時間4000円とると(日本人講師) 高いといわれますね、きっと。ピアノ講師と英語コーチどっちが体力つかうかは明白。(外人になら不埒な奴でも これくらい払う?)
ピアノと同じで英語も自分での練習がかかせない。でも皆楽して 話せるようになりたい。
通っているだけで上達する幻想を いだかせたのは 大手英会話学校のCMも大きいとおもいます。むかし某校で 講師をしていましたが 営業の口車にのせられて
かなりの人が 週2回45分 6ヶ月の小人数クラスと 半年のぐるーぷレッスンに40万ぐらいのクレジット契約をむすぶのをみました。それだけ私に払ってくれれば 中学英語のテキストを基礎に 週三日 プライベート30分のコーチで 一年で特訓してあげるのになあ。
前にも かきましたが その後自分で教えはじめて 金にならないので やめてしまいました。
知り合いの外人は 来日してすぐ 英語を教えはじめ 白人青い目ハンサム で 生徒がわんさかあつまってます。 親も 外人に教わっているということで 満足、また あまり上達しなくても
日本人講師のように 厳しく追及しません。 上達よりも雰囲気ということですか。
やめてよかった。 でも 辞めたくありませんでした。
だって まじめにトレーニングすれば 確実に 効果がでるのですから。英語をあたまから読み下し ブッシュのスピーチに怒りを覚えたり するレベルの生徒が何人か生まれたのが 救いです。
>難しいのは「音」じゃない。いや、「音」も難しいですが、それよりも「シンタックス」の内在化が難しい
これは、見物です。てっきりいままで、音づくりということで音がまず優先される
とおもっていました。しかし、さらに、シンタックスが優先となると、この
シンタックスの内在化を行うための具体的手段とは何かになります。
もっと、結論を急いで言えば、素読とは、音づくりに目的があったのではなく、
シンタックスの内在化に最大の狙いがあった。だから、外科的なパーフェクトな
音でなくても、通じる音であれば、いいということになる。
3つめ、お渡ししました。今日も2時間話をしました。いつのまにか日本語になっていました。もちろんコーチは日本人です。電話でレッスンのことも話しました。どんなレスが聞けるか楽しみです。
>知り合いの外人は 来日してすぐ 英語を教えはじめ 白人青い目ハンサム で 生徒がわんさかあつまってます。 親も 外人に教わっているということで 満足、また あまり上達しなくても日本人講師のように 厳しく追及しません。 上達よりも雰囲気ということですか。
だって まじめにトレーニングすれば 確実に 効果がでるのですから。英語をあたまから読み下し ブッシュのスピーチに怒りを覚えたり するレベルの生徒が何人か生まれたのが 救いです。
私も英会話学校に通ってましたが,あまり意味がなく根石先生の勧めもあり,すぐやめました。
確かに彼らはこっちの上達度とかは関係なくテキストに沿って,あるいは雑談をゆっくり
こちらにわかるようにゆっくり話して時間が過ぎるのを待っているような感じでした。また発音やこちらの話した内容がおかしくてもほとんど注意しません。アメリカ人は外国人のそういう間違いに鷹揚であるからという理由でした。何が良くて何が悪いのかさっぱりわからず無意味な時間となります。
今,私は映画のレッスンをやってます。最初は読むのに夢中で,根石先生の文章の発音(外人講師がゆっく〜り話す言葉しか聞いてなかったので聞き取るのが結構難しい)や言われる注意の内容をよく聞く余裕がなかったんですが,最近,少し余裕が出てきてレッスン内容がかみくだけるようになりおもしろくなってきました。かなりばくぜんとしてますが,今,シンタックスをつかむという意味がなんとなくわかるような気がします。仕事をしながらの英語の勉強はこれだけでも結構,大変なので,ほかのものに手を出すことなくやってみようかと思います。
素読が「音作り」よりも「シンタックス内在化」に最大の狙いがあったというのは、そのとおりだと思います。正しい順序で学習した時、「音のみ」より「音とイメージの一致」の方がはるかに難しいのは明らかだと思います。
「通じる音」で十分だと思います。「通じる音」さえもかなりのコーチ自身が身に付けていないことが問題だと思います。また、最低限の発音を仮にコーチが押さえている場合でも、学習者にわかりやすく説明できるに十分な理論はもある程度は押さえておくべきだと思います。
さらに大切なのは「音とイメージの一致」だと思います。これはとても時間のかかることではあるとは思いますし、キリのないことかもしれませんが、やりつづけた人しか分からない世界があると私は信じて「電話でレッスン」を受けています。
> い子供は、最初「先生」と呼びますが、呼んでいるうちに、どうも様子が変だとわかってきて、周りの人と同じよう
そうなんですか?? 昔は、必ず「訂正」が入っていたのですが・・・。
素読舎の様子が変わったことなのでしょうか・・・?
> に「おじさん」になります。「足短かおじさん」とは言わせません。単に、シンプルな「おじさん」です。「おじい
> さん」とも言わせません。
わははは。
でも考えてみれば30代前半で「おじさん」と呼ばせていらしてたのですから、
すごいことです。 「お兄さん」でなかったわけで・・・。
> 森首相という人がいて、「蚤の心臓、鮫の脳味噌」とか言われていました。
> 「蚤の心臓」を持っている人は多くて、私の妻は「蚤の心臓、カバの尻」ですし、私は「蚤の心臓、鬼の顔」で
> す。
森さんって、正直で好きでしたよ。
皆さんが「嫌っ」って思ってることも、なにか憎めなかったです。
それまでの首相が不透明だったので、なにかボロを出すところが良かったのかも。
小泉さんも私は好きです。 今は非難されてる感じが強いんですけど・・。
私もおじさんと同じで、蚤の心臓の割に強気で言いたいことを言うような人間になってしまいました・・・。
奥さんは当時から美人だと思ってました。
> そう。怒ると近頃の子供はすぐに塾をやめてしまうので、今は塾は女房と村田君にやってもらっています。私は
じゃあ、きっと、塾生が増えて評判になってくるかも?!
私たちの年代より少し上の世代が親の年齢になるんですね・・・。
私の場合は、塾で吸収させてもらえる良さもすごくわかっていたのですが、
あ、そうだ。「化けの皮がはがれた」とか、なんとか、いろんな事言われて苦痛になっちゃったからだったなぁ。(笑)
その前から遅刻欠席が非常に多くて、月謝が高くなっておじさんを困らせていました。
(当時は休むとペナルティーでした)
なんだか変でしたね。 お金はいると嬉しいはずなのに困らせてしまっていたなんて。
でもね、おじさんにwhatの意味でものすごく怒られて、私も「こと」としか判らなくて答えが
見えなくて、後で思い悩んで近所に実家のあるTさんに聞いたら「もの」って教えて貰ったんですよ。
そしたら、それがおじさんの求める答えだったんです。
国語が苦手な自分には、その違いとは何か、わからなかったです。
今でも・・・怪しいかなぁ・・。
だけど、そこまで徹底して怒って下さったから、よく覚えてるんですよね。
本当に、怒られないようにNGを出さないように、ただそれだけに必死でやっただけだったんですけど、
塾を辞めて、英語から足を洗うぐらいなほど離れてるのに、十何年になっても生きてる・・・・・・。
スパルタ式だったけれど、一生の財産です。 ほんと良かったです。
辞めなければよかった。(笑)
> 「電話でレッスン」の係長です。一昔前は、怒られると「なにくそ」ってやつがいてよかったんだが、近頃のニッポ
> ンは戦後市民社会の腑抜け根性が蔓延してしまって、私も張り合いがありません。
私のときには居ましたっけ?
皆さんがおとなしかったような・・・
> ここの掲示板の常連になってくれねえかな。ようやく、昔の塾生(昔々、って書いてごめんなさい)が書いてくれ
> たよと思って喜んでいるんです。
えええ(笑) いいんですか??
ウーン。 怒らせちゃいそう〜、、、怖いような面白いような。
それともう「昔々」なんですね。(笑) ほんとそうかもしれません。
面白いですから、「昔々」で構いませんよ。(笑)
なんかおじさんの書いたものって、見ず知らずの人にも面白いみたい。>私は知り合い。
埋もれることを心配してる良質解析テキストにおじさん色をまぜたら、ヒットしそう。(笑)
>
大切なのは「音とイメージの一致」だと思います。これはとても時間のかかる
どの程度の時間がかかるものでしょうか?
やはり、コーチがいないと、効果がでていることがわからないので、
一人では途中であきらめるとおもいます。
ですから、一応の目安が必要ではないでしょうか?
とりあえず、単語10個の英文1つで、最低1000回読みではないでしょうか?
これは、相当時間がかかるので、受験体制のなかでは受け入れられにくいとおもいます。
物事の情報伝達には、
1)ホルモン系
2)神経系
というのがある。
ホルモン系=右脳=潜在脳=勘、血肉=容易に忘れない
神経系=左脳=顕在脳=知識=すぐ忘れる
素読とは、ただひたすら読むので、知識操作の暇がない。
また、読むだけだから、英語の語順をひっくりかえさないで
語順のまま、眼が動くことになる。
素読が廃れたのは、即時効果がないことと、封建的なイメージ。
ブロードバンドインターネットが、素読を復活させるとおもう。
神経系=左脳=顕在脳=知識
なんだか疲れてしまって、昨日は戸倉町の国民温泉へ行きました。
そしたら、やたら眠くなって、ひたすらぐうぐう寝ました。
今日は寝過ぎて調子が悪く、なんだかだるい。
腑抜けでございます。
なんだか、何もやる気になれない。
今日の昼は、NHKの食道で昼定食を食べました。常連です^_^;
これが、600円でかなり家庭的な味。かなり家庭的な味という表現がよくわからないけど・・・そんな感じ。
私は、とにかく食べ歩きが好き!この掲示板に「居酒屋万歳」とかいう記事でも載せようかな。
英語とは関係ないけど・・・
minimal pairs でトレーニングする。
例)climb と crimbの聞き分け実験
それぞれを100回ぐらい聞いても、違いがわからない。
自分で発音したところで違いはわからない。
しかし、これも、それぞれを1000回近く聞くと
わかるようになる。聞くだけでわかるようになる。
しかし、応用は聞かない。
blew と brewの違いはわからない。
語学とは、暗記ではなく、根気だ。
週1時間の練習量では、どうにもならない。
知識を詰め込む場合には、暗記法があって
短縮できるが、音の修得には、一定の時間、
それも途方もないくらいの練習量がいるとおもう。
練習時間を不問にして、音の修得を議論しても
無意味だろう。
居酒屋放浪記もいいが、ちゃんと英語のことを書け。
まだほとんど書けてないぢゃないか。
>ブロードバンドインターネットが、素読を復活させるとおもう。
私は金がないので、技術はいつも枯れたものを使います。
パクパクさんの人脈で、私の技術を「まうけ」につなげられる人はいらっしゃいませんでしょうか。
かつて、I忠商事の社員の方が、iモードがはやる寸前に、私の技法グラウンドをiモードに載せ
られないか調べるために、素読舎を使われました。結局、生身のコーチが必要であるということを
認識され、諦められたようです。
うまい企画があれば、協力はできますが、私には商才がないため、自分ではやる気がありません。
金も出せません。
インターネット電話が実用化して、国内でも海外でも同一の料金で電話が使えるようにならんもの
かと思っています。例えば、アメリカ在住の日本人の方が、私の「電話でレッスン」をやれば、日
本でやっているより、何倍も上達が早いと思っています。
ブロードバンドよ、早く枯れてくれ、と思っていますが、枯れた頃には、私も枯れてしまっていて
使い物にならなくなっているかもしれません。
■□■ メールマガジン「 裸の学校 」 ■□■
親も知らない今どきの学校、行政の被害者としての教師、
教育改革の朗報などについて報告します。
投稿も歓迎です。
第40号〈 子どもからの叫び 〉 (H.14.2.26)
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文部省が反省
(99年度版「わが国の文教政策」、副題「進む教育改革」より)
「思考力や豊かな人間性を育む教育や活動がおろそかになってきている」
「子どもたち一人ひとりの個性や能力に応じた教育を行うという点が
配慮されてこなかった」
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中3の男子です。
僕の学年の生徒たちは皆教師の家畜です。
見せしめや動物的なやり方で精神を画一化し、
全体主義に合わないものは、狂人扱いです。
憲法なんて全く無視です。
僕はどうしても、その中にはいり、教師に服従することはできません。
親までもぼくのことをわかってくれません。
助けてください。
発行者てらもと:今号は、私からの報告は後回しにします。
当会に送られてきたメール原文です。HPトップにも掲載しました。
個性を殺し、感性をつぶし、人格を破壊する日本の学校教育という
目前の大量殺人を、我々は決して見逃すことはできません。
ホームページ: ≪ 緊急!子どもが学校につぶされる ≫
URL: http://www.gld.mmtr.or.jp/~school/
> そうなんですか?? 昔は、必ず「訂正」が入っていたのですが・・・。
素読舎の様子が変わったことなのでしょうか・・・?
昔は、「先生」と言われるたびに、何と呼んでも構わないが「先生」だけはよしとくれと「訂正」を入れていたものです。近頃は、訂正の必要がなくなったのです。放っておいても、直るようになりました。
>でも考えてみれば30代前半で「おじさん」と呼ばせていらしてたのですから、すごいことです。 「お兄さん」でなかったわけで・・・。
あなたのいた頃は30台前半だったのか。若かったね、俺も。だけど、俺は20代後半から、塾生に「おじさん」と呼ばれていたよ。
>小泉さんも私は好きです。 今は非難されてる感じが強いんですけど・・。
小泉は最近、顔がよくなったなと思っています。みんなが支持しているときの顔はまぬけづらでよくなかったな。
>私もおじさんと同じで、蚤の心臓の割に強気で言いたいことを言うような人間になってしまいました・・・。
いいことだ。
>あ、そうだ。「化けの皮がはがれた」とか、なんとか、いろんな事言われて苦痛になっちゃったからだったなぁ。(笑)その前から遅刻欠席が非常に多くて、月謝が高くなっておじさんを困らせていました。(当時は休むとペナルティーでした)なんだか変でしたね。 お金はいると嬉しいはずなのに困らせてしまっていたなんて。
なんか、思い出した。あんたも相当強情だったんじゃねえの?
>でもね、おじさんにwhatの意味でものすごく怒られて、私も「こと」としか判らなくて答えが見えなくて、後で思い悩んで近所に実家のあるTさんに聞いたら「もの」って教えて貰ったんですよ。そしたら、それがおじさんの求める答えだったんです。
これは覚えてねえな。すまんね、苦労させて。でも、苦労させるのが俺の仕事だってのは、昔も今も変わらないな。いやな仕事だぜ。
>塾を辞めて、英語から足を洗うぐらいなほど離れてるのに、十何年になっても生きてる・・・・・・。スパルタ式だったけれど、一生の財産です。ほんと良かったです。辞めなければよかった。(笑)
今からもう一度やってみようとしてるんだから、昔やったことはあらかた息をふきかえすと思う。1時間でいいから10年続けられたら天才だ。俺は仕事だから、天才でなくても続けられたが、英語は続けなけりゃどうにもならん。だから、仕事で使うというのが一番いい。そうでもなけりゃ、なかなか続けられるもんじゃない。
ところで、聞き忘れたが、仕事で必要って、どんな仕事してるんですか。さしつかえなければ教えてください。
> 私のときには居ましたっけ?
皆さんがおとなしかったような・・・
いや、おとなしいやつで、絶対に口には出さんが、「なにくそ」って思っていたやつは何人かいたんだよ。文庫「どんでん・・・」で名前を出しちゃっているが、岡田ってやつ。英語をやって、言葉そのものが面白くなっちゃって、全然点がとれなかった国語の点の取り方がわかっちゃったやつ。こいつは面白いたどり方をしたやつで、忘れられない。こいつは、でもあんたより、後の世代のやつかもしれない。今、26くらいかな。
>今,私は映画のレッスンをやってます。最初は読むのに夢中で,根石先生の文章の発音(外人講師がゆっく〜り話す言葉しか聞いてなかったので聞き取るのが結構難しい)や言われる注意の内容をよく聞く余裕がなかったんですが,最近,少し余裕が出てきてレッスン内容がかみくだけるようになりおもしろくなってきました。かなりばくぜんとしてますが,今,シンタックスをつかむという意味がなんとなくわかるような気がします。仕事をしながらの英語の勉強はこれだけでも結構,大変なので,ほかのものに手を出すことなくやってみようかと思います。
ご報告ありがとうございます。
YASU さんと、札幌のOさんの変化にはびっくりしています。レッスンの時に注意したことが、一週間の間の練習によって、血肉化されていて、同じ注意をすることがきわめて少ないのが、このお二人の特徴です。非常に短い間に音が大きく変わりました。YASU さんは、アメリカ行きが決まっていることもあるのでしょうか。気迫を感じます。
私は、以前から、英語の磁場の中にいる人にレッスンしてみたいと思ってきました。日本でやっているのとまったく違う結果が出ると思っています。インプットしたものを、外から引っぱり出してくれる磁力が働いている場所なので、レッスンが非常に活きると考えています。
アメリカからこちらに電話する場合の電話料金は、安いものを選んで、どのくらいかかるものなのでしょうか。週1,毎回30分、電話料金の月額が、5000円以下くらいの経路はないもんでしょうかねえ。是非、アメリカに行かれても、レッスンを継続して欲しいと思っているのですが、やたら電話料金がかかるようだと難しくなります。
もう一人、今年アメリカに留学される生徒がいますが、この人のレッスンを今日やりました。その時にも同じ話をしたんですが、電話料金がどの程度なのかわからないのです。
皆様
アメリカから日本に電話して、一回30分、月4,5回でいくらくらいかかるかご存知の方がおられましたら、お教え下さい。
今日も、過去ログの整理ができませんでした。
夜になってようやく腑抜け状態から抜け出しましたが、ウドの店で飲んでしまいました。
ようやく酔いが抜けましたが、気力がありません。
>3つめ、お渡ししました。今日も2時間話をしました。いつのまにか日本語になっていました。もちろんコーチは日本人です。電話でレッスンのことも話しました。どんなレスが聞けるか楽しみです。
ありがとうございます。
こちらの掲示板や、私のホームページの在処なども京都を中心に広めていただければうれしく思います。
今日、「サピオ」が出ますので、こちらもよろしくお願いいたします。
本当にお手数をおかけして申し訳ないです。
パクパクさん
>これは、見物です。てっきりいままで、音づくりということで音がまず優先されるとおもっていました。しかし、さらに、シンタックスが優先となると、このシンタックスの内在化を行うための具体的手段とは何かになります。もっと、結論を急いで言えば、素読とは、音づくりに目的があったのではなく、シンタックスの内在化に最大の狙いがあった。だから、外科的なパーフェクトな音でなくても、通じる音であれば、いいということになる。
順序としては、「音づくり」が優先されます。國弘さんの言葉で言う「許容範囲」の音ができれば、重要性という意味では、「シンタックス」の内在化がその後の重要課題だと思います。これはまた、「音とイメージの同致」と併行するものです。
「音」を気にして、口の動きをいちいち意識していたら、「意味」はとれない。「意味」が伴わなければ、シンタックスは内在化されない。だから、「音」の問題を解決する(「許容範囲」におさめる)ことは、意味を考え、意味が伴う「音」を繰り返し、シンタックスを内在化させるために必要なのです。音も意味もシンタックスも練習の中では一体化していきます。これは、只管朗読(國弘正雄)の、「只管」という概念が暗示しているものだと考えています。
>前にも かきましたが その後自分で教えはじめて 金にならないので やめてしまいました。
知り合いの外人は 来日してすぐ 英語を教えはじめ 白人青い目ハンサム で 生徒がわんさかあつまってます。
親も 外人に教わっているということで 満足、また あまり上達しなくても
日本人講師のように 厳しく追及しません。 上達よりも雰囲気ということですか。
「厳しく追及しません」というのは、生徒が上達しなくても、そのガイジン教師を追求しないという意味ですね。
もうはっきり言っていい時期だと思います。
日本人のコーチは、ガイジンじゃ駄目なんです。
日本人は「日本語で」口の動きが出来てしまっています。この口をどう動かせばどういう英語の音になるかを知っているのは、鍛え込んだ音を持つ日本人であり、子供の頃からその音だけでしゃべってきたガイジンではありません。
ガイジンが役にたつのは、日本人が音を「許容範囲」のものとして確立し、ある程度英語のシンタックスを内在化させた後です。シンタックスを内在化させた人は、英会話学校になんか行かなくても、ガイジンの友だちができてしまうので、結局、英会話学校というのは、最初から最後まで役に立たないものです。根拠のあるメソッドを開発している個人や学校は別ですが、これはすでに英会話学校ではなく、英語学校です。
日本中の公立の学校の英語教師たちは、「巨大なるしろうと集団」なのですが、英会話学校のガイジンたちは、それよりももっと「しろうと」です。日本にいる日本人はほとんどが日本語を話していますが、この人たちが日本人以外の人を相手に誰もが日本語を教えることができるわけではない。何らかのメソッドがなければ、教えられないはずです。英会話学校のガイジン教師だって同じことです。ところが、英語という言語の回りにはお馬鹿さんが多いのか、何のメソッドも持たない英語圏育ちの人間をセンセイ扱いしているのです。国に帰れば、ただのあんちゃんやねえちゃんが、日本じゃすぐにセンセイだ。やはり、英語回りの日本人には馬鹿が多いのだろうと思わざるをえません。
「音づくり」もシンタックスの内在化も行わず、ガイジンのいる英会話学校に通うのは、金をドブに捨てる行為と何も変わりません。
初心者は、まずは日本人で「音づくり」のできるコーチを求めるべきです。その方がよっぽど実質的です。これが常識化するのはまだまだ遠い未来のことなのでしょうか。しかし、私どもはもうそれを言葉にしていかなくてはいけないと思っています。
今、ちょっと、おたくのホームページ見てきました。すごくかっこいいですね。自分で作ったんですか。ひゃああ、かっこいい、と思わず内心で叫んでおりました。黒の使い方がすごくいい。まいった。
http://www19.u-page.so-net.ne.jp/kd6/naima/
今の記事は、Naima さんという方に向けて書いたものです。
もう一度URLを書いておきます。皆さんも見に行って下さい。
まだ中身をよく読んでないけど、かっこいいページです。
http://www19.u-page.so-net.ne.jp/kd6/naima/
この四者の相互関係は?
同じようでもあるし、ちがうとも言える。
ただこういうことを考えずに、ひたすら、素読する。
コーチが、発音のきづきや意味(日本語)を徐々に注入する。
1000回も読めば、音とイメージが一致し、意味もわかり
シンタックスが内在化する。
しかし、この内在化したシンタックスは、その英文一個限りと
おもわれる。
1000回聞き、1000回しゃべる。
1000回が、ひとつの臨界、クリティカルポイント。
たしかに、10回、20回ぐらいでは、身につかない。
>しかし、この内在化したシンタックスは、その英文一個限りとおもわれる。
そんなことはありません。もしそうだったら、とてもじゃないが、私は英語はやりません。シンタックスに関するセンスみたいなものが育てば、それはどこへでも使えます。文型という意識は、あくまで分析にとどまる意識ですが、シンタックスに関するセンスは生きて動きます。読んだり話したりするときに、自分の中に動いているものを名付けるなら、シンタックスのセンスとでも言うしかないのですが、この言い方で人にうまく伝わるものかどうかは不安です。
シンタックスの内在化は、このセンスが生きて動くようにするまでの過程です。