山と渓谷社『ウッディライフ』No62掲載
おっとどっこいのストーブ
石油ストーブ全盛の現代に、薪ストーブを焚くのは、お洒落であったり贅沢であったりする。石油より薪を焚いた方がずっと高くついたりすることがあるらしい。私には、とてつもないことだ。石油よりも薪を焚く方が高いのだったら、私は決して薪ストーブを使わないだろう。
私の薪ストーブはお洒落のためでも、贅沢のためでもない。お金をかけないで、善光寺盆地の厳しい冷え込みをしのぐための、あくまで現実的な道具なのだ。私は素読舎という塾をやっているが、長く塾を使ってくれた女の子が20代になって遊びに来て、おじさんの塾はお洒落だよね、と言ったことがある。どこがお洒落だよと聞くと、英語の練習して、ふっと顔を上げると、薪の炎が見えるんだもん、と言った。お洒落な塾だと思ってもらえるのはうれしいが、それでもやはり、私はお洒落のために薪ストーブを焚いているのではないのだ。
最初に買った薪ストーブは、北欧製のものだった。内部に厚く耐火れんがを抱いていて、蓄熱性は抜群だったが、現在は物置にしまってある。実用上の問題として、焚き口が小さくて薪割りが大変になるので焚くのをやめた。今、焚いているのは、台湾製のものである。6、7年前に3万5000円で買ったものだ。北欧製のストーブを私に売った代理店の人は、台湾製のストーブなんか1年で駄目になると言った。バナナの穫れるような温かい所で作られたストーブが、まともな性能を備えているはずがないと言うのだった。
しかし、このストーブは正解だった。鋳物で出来ていて気密性はしっかりしている。耐火ガラスの固定に鉄を使っていたりするが、6、7年使ってもガラスが動くようなことはない。直径で20p程度の丸太がそのまま燃せるのがいい。
おっとどっこいのストーブだった。
塾の暖房の主力がこの安価な台湾製薪ストーブなので、2年で元は取れただろう。冷え込みが厳しくて、このストーブだけでは不足する時は、補助的に石油ストーブを焚くこともある。
薪はお金がいらない。古い家を壊している現場から柱や梁を抜き出したり、山に伐り倒されて放置されている木をもらってきたりして、チェーンソーで輪切りにして薪割りをする。自分で木を切り倒すこともする。車で町を抜けて、10分ほど運転すれば薪が手に入る山だ。山に囲まれた盆地なので、毎年、薪は確実にタダで手に入る。汗だくになったり、チェーンソーのノコくずだらけになったりすることさえ嫌がらなければいい。作業着に泥を付けて汗をかくのが、私は好きなので、薪ストーブはいよいよやめられない。
薪ストーブを設置してから、部屋のあちこちを細工した。ゴム粘土を買ってきて壁と柱の間にできているすき間に詰め込んでふさぎ、天井に断熱材を施工した。天井際の暖気を塾生が座っている所へ下ろすための天井ファンを買い、天井裏にもぐり、梁にステンレスの針金を回して、ファンを吊った。塾に使う6畳、8畳へ暖気を送り込むために、放置してあった換気扇を4畳半と6畳の間にぶら下げた。これだけのことをやったら、善光寺盆地の冷え込みとの闘いに連戦連勝である。
暖気をまんべんなく部屋に回すことは、今の借家にいる間は、あくまで塾の暖房のためだが、実はこれで実験もしている。現在自作中の家を、薪ストーブで床暖房してやろうという計画があり、風量の実験を兼ねているのだ。天井など、電気の配線や断熱材がむきだしになっているから、まるでどこかの工場みたいだ。見栄えはオウム真理教並みだが、実はウウム真理教なのだ。ウウムと言ってうなり、腕組みして考えている。今のところ教祖ひとり、信者ひとりである。両方とも私だ。ウウム。
余談をしちゃうのだが、去年からやたらに植物に興味がある。雑草が好きで、そこらにいくらでも生えているものを鉢に乗せて喜んでいる。自分のこの状態を花狂いと名付け、タンポポ、オオジシバリ、ヘラオオバコなど、山野草を育てる人が決して鉢に乗せようとしないものを手塩にかけている。切り花も育ててみようかと、おやじの畑を借りてビニールハウスを作りかけてある。ウウムの第一サティアンである。
えっと、薪ストーブのことだった。未来の床暖房は、水平ペチカと名付けているが、このあいだ、信濃毎日新聞に、同じ床暖房方式が記事になっていた。同じことを考える人がいると思い、うれしかった。