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四月二三日 小学館文庫の根石吉久『英語どんでんがえしのやっつけ方』がついに出た。画期的な本だ。なにが画期的なのかといえば、まずなによりも、徹頭徹尾実践的であるということだ。これで英語をやっつけることができなければ、逆立ちして長野の更埴から東京まで歩いて行ってもいいとは根石吉久は言ってはいないが、それくらいの気概と自負にあふれている。掛け値なしに元気が出る本だ。語学も格闘技に等しいというのが、この本を貫く精神である。
第T部が「実践編」で、これに中学生の時に出会っていれば、おれの人生も少しは変わっていたかもしれないと思えるくらいに、方法論的に英語の攻め方が示されている。それはとりもなおさず、学校や勉強に対する苦手意識や逃避の克服につながるものだ。なにを隠そう私は、英語文盲なのだ。自分がどこで躓き、なにが嫌で逃げ出したかを、まざまざと呼び覚まされた。私は年間五〇日以上もサボっていた。そんな私でも、中学一年になると環境が変わり、めずらしく意欲が出た。義務教育九年間でこの年だけが欠席が五〇日を下回ったことが、それを物語っている。しかし、そのにわかやる気も英語と音楽ですぐに挫折した。音楽は音痴となに一つとして楽器をこなせないので始めから放棄していたが、英語はそうではない。一応その気はあったのだ。まず単語を覚えるのに、小学校で習ったローマ字が障害になった。英語のスペルはローマ字読みできない。ここでとまどってまごまごしているうちに、授業は進み、当てられて立って読めということになっていた。単語もまともにこなせない段階でどうやって英文が読めるというのだ。こうなると、もうアウトだ。私のようなひきこもりの資質でなくても、この年頃は自意識過剰だ。当てられて、ろくに読めないと恥ずかしい。教室のさらし者だ。自分は英語はできないという劣等意識がそこに生れる。そうなると、逃げの一手である。英語の授業といえば、寝たふりをしているか、サボって学校を抜けだすかだった。それで、私は発音記号を覚えることもなく、英語文盲のまま現在に至ってしまった。しかし、英語は日本の社会に恐ろしく波及し、いたるところに氾濫している。こうなってくれば、まったく英語が駄目だと、ものすごく不便だ。私みたいにならないためにも、英語をやっつけることは必要である。そのための有効な攻略法が明示されたといえるだろう。やりもしない私が、なぜそういうかといえば、私の不毛な挫折感がかなり慰撫されたからにほかならない。根石吉久はそんなことよりも、「電圧装置」から、とにかくやることだよ、というだろうが。
これは余談だが、以前Uという同年代の優等生崩れとつきあっていて、外国語はからっきしなんだよ、と打ち明けたら、後日電話をかけてきたときに、Uは英語をやたらとまじえて喋りはじめた。私はあきれた。そして、憐れな奴と思うしかなかった。そんなこと、どうってことはないということもわからないのかよ。
第U部は「理論編」だ。元塾生の村田晴彦との対談なのだが、「英語の周囲の不快な湯気」が圧倒的におもしろい。「まえがき」と、ここに根石吉久の個性と思想がよく現れている。私は個性に結びつかない思想を尊重しない。根石吉久のイギリス娘とのケンカには、いいぞ、もっと云ってやれ、と声援を送りたくなるし、井上一馬や鈴木孝夫への評価と批判はちゃんと筋が通っているし、学校のインチキ性や英会話教室のサギを痛撃したところは痛快だ。根石吉久はここでは実践語学と言語論のはざまに立っているといえるだろう。それが彼の日常に開かれた足場なのだ。言語の発生の根ということでいえば、さらなる格闘が不可避に違いない。<ことば>という謎は、まだ誰によっても、完全には解明されていないのだから。
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