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詩の雑誌・季刊「midnight press」 掲載



自然な畑


 畑へ行くのが恐ろしかった。長いこと畑に行っていなかった。草がはびこっているのを目撃するのが恐い。近寄らないでいた。思い出さないように自分の気のそらし方を調合する。思い出しても手がまわらないのがわかりきっているからだ。慣れてしまうと、そんなに畑のことを思い出さなくなる。しかし、油断するとまたちらっと思い出す。どうせどうにもならん。見たくない。作物は草に覆われてひよわに黄ばんでいるに決まっている。
 今日、畑へ行った。現実を直視しなければならない。だから直視した。何度見ても草ぼうぼうだ。トマトもナスも草に埋もれた。
 草を退治しようとした。疲れて草を眺めた。作物を作るということは、それだけでとても不自然で人工的なことなのだとわかってくる。しばらく放置すれば、自然はこの人工をいとも軽々と小馬鹿にしてくれる。自然を守れなどという言いぐさはおこがましいことだ。自然は人間に守られなければやっていけないようなものではない。自然は人間なんかいなくたって、いつだって勝手にやっていく。ちゃんと形容語句を使ってほしい。
 「僕たちに都合のいい自然を守れ」、と。
 地球から自然を引き算することはできない。しかし、地球から人間を引き算することはできる。人間が絶滅した後の地球とか、人間がひとりもいない地球というものは十分に考えられる。
 そこに風が吹く。そこに雨が降る。そこに芽吹くものがある。裸の土を覆っていく緑がある。何が起こるのか。草ぼうぼうだ。作物はない。草ぼうぼうだけだ。純然たる自然だ。どこがどう狂ったのか。何がいなくなったのか。何が狂ったのでも、何がいなくなったのでも、自然は絶対にそこにある。
 そのように自然を想像した後で、他人の畑を見回すと、やはりどうにも不自然な何かに見える。よくもまあ、こんなふうに草のない畑が作れるものだ。だけど不思議なことに、俺の畑のわきを通る人は俺の畑をながめてあきれるらしい。俺の畑はとても自然なのに。
 そうはいうものの腹が立つ。草め、と思う。蒸れる空気の中で、草に対する憎しみがはっきりと形になる。外から眺めないで、草と交わると草を憎むことができる。
 これは地球限定版の憎しみだ。土星とか火星とかいう星がどんな石ころか知らないし、硫黄とかマグマとかいうものがくすぶっているのかいないのか知らないし、知らないことだらけだが、わけのわからないそれらの総体が自然だ。その総体全部を相手に、草め、と言ってもしょうがない。しょうがないのだ。
 そういえば、月火水木金土日。一週に宇宙がある。ひとつずつでかい石ころの名前だ。月火水木金土日。ああ、急に気持ちが忙しくなってきた。星の名前を見ていて、なぜ用事を思い出したりするのか。
 これらのでかい石ころも、ひっぱりあったり反発したり、マグマでニキビを作ったり、自然だから絶えず活動している(だろう)。なにがなんだか、とにかくものごとは石ころだらけだったり、マグマだらけだったりするのだ。それが宇宙標準だし、自然だ。しかしまた、それを基準に、俺が畑の草を憎んだわけではない。手がまわらないだけだ。これを書いている間にも草の背は高くなっただろう。世の中は梅雨だ。


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