12月28日
4時30分 インターナショナルゲストハウス着。タバコを吸う者同士ということで浜田さんと同室になる。
空港からここへ来るまでの、車の走り方をなんと言えばいいのか。大通りに信号がない。センターラインもない。やたらにクラクションを鳴らし、猛スピードの蛇行運転。あきれかえって車の中で小山さんと大笑いした。車はこれでよく走ると思うほど古いものばかり。排気ガスの紫の煙が臭い。神経質なクラクションの音をたてて走る比較的新しい車がすぐ前を走る。あれは軍隊か警察か、と小山さんが運転手に聞くと、警察だと言う。大臣が乗っているのだという。大臣の乗る車があんなクラクションを鳴らして蛇行するのか。
想像していたものと違う。あきれかえっているばかりだ。小山さんが言う。「何度来てもよくわからないんだよねぇ」
ホテルの部屋の窓のすぐ下は、PAPAGAIN(ペイパゲインと読むのだろう)という紙の再生をやる場所で、やたらに紙屑がちらかっている。新聞や雑多な紙が野晒しに濡れたまま積んである場所があり、波板の鉄板の屋根の上には再生して作った紙が天日干しにしてある。板の上に紙を張りつけて、干してあるだけ。夕方になり乾いた紙が板から剥がれているが、そのまま重石もしないまま放置してある。風のない町だからだろう。強い風が吹けば、紙が飛んでいってしまうだろうと思うが、強い風は吹かない。近藤さんと久保田先生が窓から顔を出して値段を交渉し紙を買いに行った。新聞紙大の紙3枚で米ドルで1ドルだったそうだ。
部屋でザックに入っているものを全部出す。夕方になって小山さん、浜田さん、久保田先生、西沢さん、村松さんとでタメールの町を歩く。浜田さんにねらいをつけた男が土産用の楽器を持って、買え買えと何百メートルもついてくる。カトマンズでは、これを避けることはできない。日本人にねらいをつけると、このしつこさは何だと思うほどしつこく歩いてついてくる。浜田さんはていねいに応対して相当まいっていた。俺は、こういうしつこさを切るのは平気なので、比較的早めに向こうがあきらめるが、浜田さんはどうも丁寧につきあってしまうようだ。だから余計に腹がたつだろう。
なんとかスクエアというところでトッカンを作って売っているのを買う。ビニール袋一つで5ルピーだから10円。途中、子供にたかられて掌にトッカンをわけてやったら、3人ほど集まってきた。みんなに分けたが、もっとよこせというから強くバイバイと言う。OKと言って散っていった。全部やったっていいのだが、たかったりせびったりすることに慣れきっているのが不快だ。しかし、この不快さはその時だけだ。後になると俺が悪かったような気がしてくる。厳然する空腹。倫理は無効なのだ。だから、俺が悪かったのか、悪くなかったのか、全然わからなくなってくる。
タメールは、上野のアメ横に似たような活気がある。
夜食用にパンを二つ買う。50ルピー、100円。
近藤さんが子供の声がいいと言う。確かに日本では聞かれなくなったような子供の強い遊び声が響いている。
いい酒がないと聞いていたので、モトキクでホワイトホースをひと瓶買ってきたが必要なかった。関西国際空港の免税店で買えばそれで済んだ。他の人達はジョニ黒など3本ほど買っていた。もっとも免税店が安いわけではない。カメラやウォークマンなどまるで安くない。ラオックスや山田電機の安売りの方がはるかに安い。
小山さんはもう何度もカトマンズに来ているし、久保田先生は2度目。ひどく変わってしまったと二人とも言う。声に驚きと失望がある。
ホテルでの夕飯。米がぱさぱさしていると聞いていたが、日本人向けに割りとしっとりした感じに炊いてある。チキンカレー、ライス、トッカン。チキンカレーは辛味より塩味を感じる。数年前、小山さん、久保田先生が来たときは、もっとネパールまるだしの料理だったらしく、久保田先生は一度もおいしいと思ったことはなかったそうだ。今回はおいしいと言う。ホテルが日本人向けに味を整えたのだろう。
町にはカラオケ屋が一軒あった。売り込みも日本語で話しかけてくるのが結構多い。店の看板にも日本語をよく見かける。
サンミゲールという銘柄だったか、ネパール産のビールがけっこううまい。味覚だけでなく、ホテルの作りなども日本人向けにしてあるようなところがある。強烈な異国感は、町を歩いているときの喧騒、ごみの山、動物の糞、汚れた煉瓦の建物、異臭、人々の表情などにあるが、ホテルの部屋に入ってしまえばネパールはどこにもない。ホテルの部屋の作りというものは相当インターナショナルなもので、基本はヨーロッパかアメリカと考えていいだろう。インターナショナルゲストハウスは改築したそうだ。ホテルには、蚤、シラミ、ナンキンムシなどがいると聞いていたが、このホテルにそういうものはいない。町を歩いていたとき、たまたまドアが開いていて中の見えるアパートがあった。まるで小さな小さな部屋。数人の家族。寝ている老人。あそこには蚤もシラミもいるだろうと思う。
(後日わかったが、ネパールではホテルとゲストハウスは違うものだという。ホテルが最高のグレードで、ゲストハウスは中位のものだと聞いた。)
29日
朝暗いうちに目をさました。町はまったく静か。クラクションの音や人の声は聞こえない。犬が吠える声がするだけ。たばこを一本飲み、ウイスキーを水割りにして飲み、また寝る。明るくなった頃、浜田さんが町を見にでかけるのに気づいたが、そのまま眠る。8時過ぎ起床、脱糞。少しごわごわするが、朱に近い赤に染色したトイレットペーパーがあり、問題なし。ベッドに戻る。浜田さんは、まだ町を歩いているらしい。少し酒を飲む。旅に出たときだけに感じる「ひとりであること」の感覚が来る。鳥のさまざまな声がする。野鳥とにわとりの声。久保田先生が
写真をとりに部屋に来る。窓の外に烏がいる。烏は首の回りが灰色っぽく、日本の烏より細身。
小山さんがいいお湯が出るというから、再度バスタブに湯を入れる。やはり体を温めるほどの温度にはならない。バスタブの中で急いで体を洗い、水を流してしまう。小学館の文庫本の仕事を持ってきたが、全然やる気にならない。
10時から車で外に見物に出ることになっている。他の人達は朝食中。部屋で一人で夜食用に買っておいたパンを食べる。ここの小麦がいいのだろうか。焼き味はよくないが、小麦粉そのものの味がいい。うまいものはないと聞いていたが、小麦粉がうまい。
ほとんどが煉瓦の建物。鉄筋を入れてコンクリートの柱を建て、柱と柱の間を煉瓦で埋める方式で作ったものは比較的新しいものだろう。煉瓦だけで作った古いものも多い。町の中で工事中のものをいくつも見る。モルタルがばさばさした黒っぽい感じで、セメントの量はかなり少ないと思われる。
塀などの古いものの煉瓦の積み方を見ても、以前はモルタルやコンクリートではなく、土をこねたものをモルタル代わりに使っていたのがわかる。古い塀の煉瓦と煉瓦の間にある土を指で強くこすると土は剥がれてとれる。素焼き煉瓦の間に土をはさんで積み上げるだけでも、地震さえなければ2階程度までなら建てられたのかもしれない。
建物の屋上に洗濯物を干している。洗濯挟みのようなものは使わず、煉瓦の上に洗ったものを並べるだけ。風がないからそれでいいのだろう。屋上は人がゆっくり過ごす場所でもあるらしい。ストールに老人がすわっていたりする。ホテルの部屋が三階と四階だったので、人々の住居の屋上の様子が見えた。
比較的新しい建物は柱にコンクリートを使っているが、太さは4寸角くらい。それで3階から4階の建物を建てている。床は煉瓦にかませた固い木の根太を使っている家もあり、コンクリートのスラブで作っている家もある。
ネパーリはひとなつこい。自分の友達の店に俺を連れて案内するために、隣を歩いてずっと英語で話しかけていた若い男がいた。友達の店にすぐに行こうとは決して言わない。こちらの観光に歩いてついてくるだけだから、邪魔にはならない。タンカ(ネパールの伝統的な絵)だけを売る店に連れていきたかったらしい。30分位ずっと隣を歩いてついてきた。日本人7人はレストランで1時間くらい食事をした。食事が終わったとき、小山さんが、彼は絶対待ってるぜと言う。そんなことがあるもんかと思った。しかし、レストランを出たら正面にいた。日本人観光客たちが食事を終えるまでの間ずっと近くにいたらしい。その後も30分くらい一緒について歩いてきた。俺は他の店で絵はがきを買った。その男の友達の店ではない。車を待たせてある近くまで来て、お前の友達の店はいったいどこなんだと聞いたら、笑いながら歩いてきた方角を指さしている。にやにやわらっている。どういうことかわからない。SORRYと言って、俺は車の方へ歩くしかない。少し歩いて振り返ったら、広場の真ん中につったって、なんだか遠い山の方を見ていた。これで日本人の信用はがた落ちだと小山さんと近藤さんに言われる。名前の知らない古都でのことだった。
古都を見に行く前に、モンキーテンプルに行った。小高い山の上にある。この寺へ登る途中で木の面をひとつ買った。連れの6人の日本人が一人も見えなくなる。買った面は250ルピー、500円。最初、買いたくなったのは、猿の頭蓋骨。まだ少し生乾きで、骨に毛がついていた。木彫りの面を買ったら、頭蓋骨は欲しくなくなった。一つ面を買うと、店を出してる連中が三人も四人も寄ってきてうるさい。銭が欲しいが、人なつこい銭の欲しさ。NOとはっきり言ってもついて来る。ずっとついて来て、途中で帰っていく。モンキーテンプルから別の寺へ。名前はわからない。久保田先生が決めたルートの寺。この寺には明らかなヒンドゥの伝統がある。死んだ人間が焼かれていた。人体が分離できる程度に焼いたら、川へ流すらしい。川の中へ膝くらいまで入って、流れずにひっかかっているものを川の流れに押し出している男がいた。
その少し上流から赤い華と緑の葉が流れてくる。死んだ人の命日の供養。ヒンディしか入れない寺が今日行ったところに2つあった。最初のヒンディ・オンリーの寺まで行く途中に足の親指の腐った男がいて、乞食をやっていた。指から新しい膿が出て濡れている。冬なのに蠅が人の回りに飛んでたかる。
子供が遊んでいるのを写真に撮ったら、子供がノウポト(no
photo)と言う。金を出せということだ。写真をとるなら金を出せと言われる場合もあればまったくそうでない場合もある。
古都を見た帰りに露地に入ったら、木の臼で大根の葉っぱのようなものを突いていた。写真を撮るとにこにこして嬉しそうにする。もっと撮れと言う。大根の葉っぱのようなものは、突いた後は繊維状になって別の容器に入れられている。何に使うのかと英語で聞く。ネパール語でやたらに詳しく説明してくれる。わからない。指で食物を口に運ぶ仕種をしたら、そうだそうだとうなづく。夕飯のおかずの下準備をしていたのだろう。
今朝、何かの大きい木の葉っぱを枝ごと象の背中に積んで運んでいるのを見た。普段はやたらにクラクションを鳴らす車も、象の後ろを走っているときはあきらめてクラクションを鳴らさない。2間ほどの幅の道路に象が一頭歩けば、車は象の後ろについていくしかない。昔の時間が流れ始める。ここの交通はルールがあるようなないような、不思議な流れを作っている。日本の車道の交通ルールから見ればでたらめのようだが、不定型のルールは働いている。ぶつからないということが唯一のルールだ。車も人もそれだけだ。やたらにクラクションが鳴るが、誰も急いで体を動かしはしない。クラクションは、運転する者に自分が見えているという証拠であって、だから急いで体を動かす必要はない。ここの交通は、蛇行しながらいつになってもゆっくり流れている南アジアの川を思わせる。町に信号はほとんどない。センターラインのある広い道がわずかにあるが、狭い露地にも車やバイクがどんどん入ってくる。その交通の中を、頭に竹(?)でできたざるを乗せて、チャイと強く言いながら物を売って歩く人がいた。
朝、インターナショナルゲストハウスの玄関を出た角に子供の靴磨きがいて、久保田先生は靴を磨かせた。10歳前後の子供が20分くらいかけて丁寧に磨いた。地べたのビニールシート一枚の上に座っていた。ものを言わない。
日本語の「ねぇ」が町に流通している。グッドプライスねぇ。安いねぇ。あなた買うねぇ。上山田にいるようだ。
30日
何時か。浜田さんのいびきで目をさます。外では犬の吠え声がとぎれることがない。血が滞っているのがわかるので、足の裏、膝の裏、足の三里、手の三里、二の腕など、足は足、手は手を使って押し、血を通す。本を読むしかないか。
昼間のことを思う。カトマンズは臭う。ガソリンや軽油の品質が規制されていないのではないか。あるいはマフラーに規制がないのだろう。空気が極端に汚れている。狭い道路の両側に3階から4階建ての煉瓦の建物があり、建物で深い谷ができているが、その谷の中を低速で走る自動車がどれもほとんどはっきり目に見える排気ガスを出している。町の通りの空気は東京なんてものではない。とりわけディーゼルエンジンのバスやトラックが出す煙は猛烈に臭う。日本で坂道を走るディーゼル車が出すような真っ黒の煙を、平地を走る車がまき散らす。幅4メートルもないような通りが一方通行でなく、車がすれ違うのも楽ではないところに、うじゃうじゃと人がいて歩いたり横切ったりする。車はやたらにクラクションを鳴らし、低速で走る以外に走りようがない。排気ガスの臭いに香の臭いが混ざり、町は異様な臭いに満ちている。
カトマンズはすごい勢いで車社会になりつつある。規制のないところで、中古の車がひどい排気ガスをたてて走っている。これはカトマンズだけでなく、南米も同じような状態だそうだ。ガソリンエンジンやディーゼルエンジンという先進地帯ですでに枯れた技術がここでは猛烈なスピードで取り入れられつつある。この勢いを止めることが誰にできようか。四日市で起こったようなことが必ず起こるだろう。それも遅からず起こるだろう。
ヒマラヤの麓の澄んだ空気を期待してカトマンズに降り立つ者は、自分がイメージしたものとの極端な落差に愕然とするだろう。俺は愕然とした。どうしてここまで来て、ガソリンや軽油の排気ガスをしこたま吸い込まなければならないのか。しかし、これも先進地域の技術の不完全さを立証しているだけのことなのだ。終端処理の方法が確立していないモノを量産してきたのが、アメリカや日本を首領とする先進技術だった。これらの技術が実は野蛮きわまりないものだということを、ネパールが立証しつつある。そして、損なわれむしばまれるのはネパールの人なつこい人々の体なのだ。これだけ車やバイクが走るようになったのは、ほんの2、3年の間のことらしい。何がどうなればいいのか。アジアは先進技術(だったもの)を大量に迎えて、混迷に入るに違いない。悲惨な事態がすぐそこにある。町をちょっと歩いただけで、のどがひりつくような感じになる。人命の安い国で、終端処理が確立していない近代技術が野蛮な猛威をふるい始めている。野蛮は、文明の遅れにない。それは先端技術にこそ隠れているのだと、ここに来てわかる。一晩中鳴き止まない犬の吠え声が何かの暗示のように思われてくる。
トヨタ、ニッサン、ホンダなど。これらの会社は、後は野となれ山となれを原理とする会社なのだ。石油化学系の会社と共に。終端処理について考えずにこれらの会社が作ったものが、猛悪な気体でカトマンドゥをかすませている。
酒を飲んで本を読んでいるうちに眠る。途中で目をさますと、浜田さんは今朝もカメラをかついで河原に行ったらしくベッドが空だった。また少し眠り、次に目がさめて隣の部屋をノックするが誰もいない。一階の食堂に行ってみると、皆さんが朝食を終えたところ。今朝の朝食は頼んでなかったが、急遽注文して食べる。
ヒマラヤを飛行機の中から見るマウンテン・フライトというのに乗る予定だった。9時にタクシーが来ることになっているはずだが、フロントにそれを確かめると誰も知らない。フロントがこれから呼ぶと言う。ダブルブッキングになっても俺は知らないと小山さんが言う。フロントがどこかに電話している。以前はネパールにタクシー会社がなかったが、タクシー会社が出来たのかと小山さんは思ったそうだ。
そうではなかった。フロントは門番に電話し、門番が、タクシー?、でかい車?と大仰な身振りをして外に飛びだして行ったのを小山さんは見たという。フロントは同じホテルの庭先に電話していただけだったのだ。9時ちょうどに門番が助手席に乗ってタクシーを連れてきた。小山さんはその話をするとき、何かいとしいもののことを話すような口調だった。
タクシーは26年前のコロナ。やはり排気ガスが猛烈に臭い。空港まで行く途中、ドライバーにこの車は自分で持っているのかと聞いたが、そうじゃないと言う。誰か他にオウナーがいるのかと聞くがそれ以上の英語は通じない。空港まで200ルピー。空港で腹が痛くなり、便所に行く。便所が汚いので、チンコをパンツから出さず、尻だけ半分出して座る。チンコの棒を遡る菌にはかつて痛い目にあっている。下痢。昨夜、寝るためにウイスキーを余計に飲んだのかいけなかったのだろう。便所から出て、皆のところまで戻ると、ヒマラヤを見るために飛ぶ飛行機は雲が厚いため欠航だとのこと。NECON・AIRの窓口で1月3日にフライトの変更をする。1月3日、9時半離陸、8時半までに受付を済ませることと決まる。
タメールまで歩いて帰ろうと誰かが言いだす。予定がペシャった開放感があり、みんなでそうしようということになる。露地に入ると人々の普通の生活が剥き出しのままにそこにある。露地がいちばん面白い。母親が女の子の頭のシラミをつぶしてやっている光景。家の前の道路で服を着たまま髪を洗っている光景。茣蓙を持ち出し、家族でひなたぼっこしながら話している光景。ネパールの人たちはとにかく話しているのが好きだ。何を話しているのかわからないが、いつまでも時間を忘れて話している。話すこと自体が楽しいというふうに話している。日本の若い連中にそういう傾向が出てきているが、ここでは老若男女全部がそれをやっている。
途中メコンビジネスホテルというところでコーヒー。30分ほど休む。ここへ来るまでに数度道を聞いたが、ネパーリは歩いてあとどのくらいかかるかを5分刻みくらいの正確さで教えてくれる。正確さが人によってまちまちなだけだ。
ホテルに着き、庭でジャスミン・ティ。その後、7人全員で近くのレストランに昼食に出掛ける。小山さんがカトマンズの友達に教わったレストラン。ビールとラム肉のステーキを頼む。固いがうまい。カレーを頼んだ人もうまいと言って食べている。食事の後、両替屋で50ドルをルピーに替える。パスポートを要求され、小山さんが青くなる。パスポートがないと言う。他の荷物の中を調べるために小山さんは急いでホテルに戻っていった。絨毯屋に行き、小山さんに頼まれた分と自分の分の小さい織物2枚を買う。ホテルに戻る。小山さんのパスポートは部屋にあった。
荷物を全部部屋に置いて、浜田さんと貸し自転車を借り、カトマンズの露地を走る。道を覚えるには自転車がいい。
町の西の方に丘がある。自転車で丘に登る。ヒマラヤが見える。カトマンズから見えるヒマラヤは、善光寺盆地から見る北アルプスのように小さい。きわめて大雑把な把握だが、カトマンズでは金持ちが西の岡の中腹に住み、貧民が川沿いに住んでいる。岡をくだり、ふたたび大通りを自転車で行く。ひどい排気ガス。喉ががらがらに痛くなる。
31日
朝8時、目をさましすぐに朝食。なんでそんなことを書かなくてはならないのか。めんどくせえ、すべてがめんどくせえ。ネパーリが道路脇で何もしないで、ただそこにいるためにそこにいて、日向ぼっこをしている。それを毎日見るせいか。なんだかやたらにめんどくせえという感じがする。俺にはあのネパーリ達がやっているのと同じことをやる素質がある。すでにしっかりと感染したのかもしれない。
しかし、そこがやはり日本人。飯を食ってすぐ、みんなで車に乗る。ポカラで新年を迎えるために空港へ行く。空港に着いたら、飛行機がいない。どっかへ飛んで行ってしまって、9時40分のポカラ行きは後回しになっていた。
空港で2時間待つ。退屈だから新聞を買って読む。ザ・カトマンズ・ポスト。カトマンズの石油の不足量が去年の今と比べて30パーセント増えているという記事を読んだ。この50日間を去年の同じ頃の50日間と比べると50パーセントの増加だと書いてある。とてつもない数字だ。その数字が実感できる空気の汚さがカトマンズに現れてきている。
空港でチェックイン。小山さんがそわそわし始める。要するに、どのゲートから出ればいいのか、何時に飛行機が出るのかがわからないのだ。掲示がひとつもない。電光掲示板でなくていい。黒板へチョークで書くのでいいから書いてほしい。俺も外を見る。買った航空券の会社のバスが走って行ってしまう。チェックインを調べる男に飛行機の情報を知りたいから外へ出ていいかと言うと、まるでノープロブレム。なんだかんだで4回、チェックインのゲートを通った。3回目にそこを通って、飛行機会社へ行き、今出ていったバスはポカラ行きの飛行機へ客を運んだバスかと言ったら、ネパーリが破顔一笑した。お前たちを置いてはいかないと言い、俺の肩を叩く。目がにやにやしているから安心した。ネパーリがにやにやしている時の情報はたいてい安心できる。放送はあるが、ボロのスピーカーだからアナウンスの音がぼやけてわからねえんだと俺は言う。飛行機が帰ってきたら知らせに行くから安心しろとネパーリが言う。やはりにやにやしている。日本で消えかけているにやにや笑いがここにはいっぱいある。このにやにや笑いは欧米の人にはわからないかもしれない。俺にはなんだかよくわかる。わかって、頼むぜというつもりのOKを俺は言った。それからまた新聞を読む。国内便の飛行機はマッチやライターにうるさいと久保田先生が言っていた。確かに、ナイフやライターのチェックがうるさい。しかし、マッチやライターを見せられて、ノウと言えばほとんど通る。マッチやライターを見せるのは、マッチやライターを持っているかという意味だ。目はこちらの挙動をよく見ている。
飛行機が来た。タイヤのへこんだ飛行機に乗り込む。不安。
ここまでで書くのを中断した。
もういっぱい忘れた。
カトマンズからポカラへ行く飛行機は20人程度しか乗れない小さなプロペラ機。鋭角に上を向いて飛び立った。がんがん上がる。空に昇ってすぐ、下に数えきれない段々畑が見える。どこもかしこも段々畑。高い山は中腹までの段々畑。低いところは麓からてっぺんまで小さい段々畑。ぱらぱらと木が生えているだけで、ほこりっぽい色の段々畑。
ヒマラヤが見えるがヒマラヤにほとんど興味はない。段々畑に目を奪われていた。あそこに人がいると思った。
ポカラ着。飛行場を出るとヒマラヤが近くに見える。マチャプチャ、アンナプルナなどと後で知る。ミスター・コヤマ?と小山さんが聞かれた。ホテルの人が迎えに来ていた。すべて小山さんの手配のおかげで今回の旅は楽なものになっている。小山さんはほとんどツアー・コンダクターだ。小山さんにストレスがたまっている。小山さんはあんまりものごとをきちんとやりすぎるから、ストレスになる。
タクシーでホテル・モナリザまで。ロビーで休む。水槽にタナゴみたいな鮒みたいな魚が泳いでいた。子鰺みたいな魚もいた。部屋に荷物を置きに行く。窓の外がすぐ湖。湖の右にでかいヒマラヤの山。マチャプチャ(魚の尻尾)は目立つ。槍ヶ岳よりも鋭い尖り方。でも、アンナプルナの方がいい。どっしりしている。重くてでかい山。厚い。こっちの方が好きだ。俺には日本にいるあの女房でよかったのだろう。人によっては根石さんにはもったいない奥さんだと言う。重いか重くないか、でかいかでかくないか、厚いか厚くないか、山も女もそれが問題なのだ
みんなで宿を出る。ポカラはぽかぽか暖かい。20分くらい歩いてレストランに入る。トマトスープがうまかった。
言語が少し移行して来た。
夜。大晦日ね。にほんじん、新年のお祝いするね。皆でフロントの隣の炬燵のある部屋で、飲み食いね。日本の人形が部屋の隅にある。そっちを見てるとネパールにいる気がしないね、わたし。「鰐る」の座談会を久保田先生がやると言い出したね。いやだったけど、やったね、わたし。何しゃべったか。レンズとシャッターが違うという話したね、私。わたしと私、違うね。小山さん、レンズをのぞく目玉の不遜さを問いつめたね、わたしのこと。でも、私が言ったのははシャッターのことね。つまり切ることね。決意のことね。日本時間の12時。7人でおめでとう言ったね。ネパールの新年ないねえ、ニポンの新年ねえ。それから3時間たって、またネパールの新年のお祝いしたね、ニポン人たち7人。久保田センセー、皆からいじめられたね。だけどこれセンセーの退職のお祝いね。
1月1日。
もうここからは、カトマンズ空港から関西国際空港へ向かう全日空の機内で書いている。その日のことを思い出してその日のうちに書いたのは、カトマンズ到着してからの三、四日だけ。めんどくさくなったのだ。
1月1日、ご来光を拝もうということで全然名前の知らない峠へ行った。名前は久保田先生が知っているだろう。名前のことはおまかせしておく。ゆるやかな坂を車がのぼっていくと、町がだんだん村になっていく。マチャプチャと、アンナプルナを見る。ここは亜熱帯なので、村のあちこちで木にオレンジがなっている。円筒形に藁が積んである。牛の餌になるのだろう。田んぼの中に降り立って、稲の切り株を見る。小さな株。善光寺盆地の稲の株の半分もない稲の株。
久保田先生がポラロイドカメラを取り出し、子供の写真をとり、できた写真を子供にあげたら、たちまちに村人(子供、青年、大人、老人)の黒山ができ取り囲まれる。私はその光景が面白かった。しかし、嫌だった。旅人が機械や技術を持ち込むのはしょうがない。しかし、それはそっと使っている方がいい。驚かすようなことが嫌だ。
再び、車に乗り峠に行く。峠の車道から10分ほど歩き、岡の頂上に出る。その間、子供がまとわりつき、物を買えとうるさい。浜田さんが、いいかげん腹をたて、うんざりした顔をしていた。カトマンズだけでなく、こんな辺鄙な山の中の子供までものを買えとか金をくれとか言う。都会の子供は、正面きって金をくれと言うが、山の子供は耳元で小声で言う。金をくれなどと言うものではないという判断が働きながら言っている感じだ。まるで媚びるように囁くように言う。不思議な近しい感情と嫌悪が同時にある。
Don't say money. と俺は言った。
小山さんによると、5年前に来たときは山の中に舗装された道はほとんどなかったそうだ。道が車道になったとたんに、カトマンズの子供のやることが山の子供に伝わる。それは必然だ。
日本へ帰る飛行機の中で映画が始まり、窓のシェイドを降ろすようにというアナウンスに全員が従ったため、機内が暗くなりワープロが打てない。全日空ぅ。
ここからの部分はすでに帰宅して、一眠りした後の記述。もはや時系列に従って書いても記憶が混濁していて駄目。
書くべきものから書いておく。澱のように胸につかえているものがあるが、まもなく忘れていくだろう。今書いておくべきだ。
カトマンズの冬はほとんど毎朝霧が出る。10時から11時頃になると晴れる。最初にマウンテン・フライト(飛行機でヒマラヤの山群を見せるフライト)に空港まで行き、霧のため飛行がキャンセルされたので、ホテルへ戻ったときの小山さんの顔が印象深い。悲しそうな顔。以前のカトマンズを知っていて、今のカトマンズとの落差を悲しむ顔に見えた。五年前のカトマンズは今回のメンバーでは久保田先生と小山さんが知っている。小山さんは山男だから、それ以前のカトマンズも知っている。久保田先生は、カメラを首からぶらさげて、朝早くから町の中を歩き回っていたが、小山さんは対照的だった。沈んだ顔をして、ホテルで本を読んでいた。
その悲しみが少しずつ怒りに変わっていったのだろう。自分で抑えているのだが、抑えきれないものがときどき小さく噴出するような気配があった。俺が知っているのはこんなカトマンズじゃない、と小山さんは言いたげだった。
31日、ポカラに着いた時は、心底うれしかった。カトマンズの排気ガスから逃れたのがうれしかったのだ。夜、浜田さんは、カトマンズには二度と来たい気がしないと言った。俺もそうだと思った。しかし、日本に帰ってきて強く思い出すのはカトマンズのことだ。埃っぽい町。灰色の赤茶色のくすんだ町。排気ガスのためにぼやけている町。
狭い道では自動車は人の歩く速度に規制されるから、やたらにクラクションを鳴らす。ひっきりなしにクラクションの音がする。低速でしょっちゅう止まりながら車が走っているので余計に排気ガスが出る。車の排気の臭気と動物の糞の異臭と香を焚く臭いが混ざって風のない町が臭う。町を長く歩いていると頭が痛くなった。喉がいがらっぽくなり、痛くなる。現地の人でマスクをしながらバイクに乗っている人も見た。浜田さんと自転車で走り回ったり一緒に歩いたりしたが、歩いている途中から浜田さんはマフラーをマスクにした。俺は、ジャンパーの袖口の布を鼻に押し当てて歩いた。途中で苦しくなって口で息をしてしまう。口で息をすれば臭いは減るが、排気ガスがもろに肺にどんと入る。
ポカラの思い出は釣りだ。半日、ヒマラヤに向けて竿を振った。竿先のアタリを見るのに、千曲川なら橋や山の端の線と竿の先端との距離を見ているが、竿先をヒマラヤの雪の白に置いて、魚が餌をくわえるのをさぐった。生涯でこんなぜいたくな釣りは二度出来るかどうか。アタリらしいアタリはなく、ボウズ。ボウズでいい。
31日。ホテルが勘定を間違えた。やたらに安い。食事込みで、3泊29ドル。一泊30ドルから40ドルと言われていたのだが、安すぎる。フロントにやたらにOKを発する男がいて、この男が勘定した。「オウケイ」と発音するのでなく、「オッケ」とすがすがしく発音する。小山さんが何か言うたびに、「オッケ」と言う。ミスター・オッケとあだ名をつけた。勘定を払う途中で、小山さんがミスター・オッケの「オッケ」の発音を真似しはじめた。向こうが「オッケ」というと、小山さんも「オッケ」と言っている。「オッケ」の応酬になった。フロントの女の子がくすくす笑っているが、声に出して笑うわけにいかず、必死に声を殺している。途中、女の子が勘定の間違いを横から書類を指さして指摘したが、ミスター・オッケは、女の子の手を強く振り払い、オッケを連発。最後に小山さんが、「オール オッケ」と言うと、ミスターが「オール オッケ」と言って二人で笑い出した。それで支払いは終了した。
これだから俺、ネパール好きなんだよなと小山さんは言った。日本人のいいかげんさと桁が違う。
浜田さんと1月3日朝、河原へ行った。まだ暗いうちに川に着く。川の岸で牛を解体しているのに出会う。男が6、7人で、骨から肉を切り分けたり、骨を叩き折ったりしていた。写真をとっていいかと聞くと、作業を中断しておおげさなポーズをとってしまう。他の男を撮しているとまた作業を始めるからそれを撮る。ここで2枚撮り、12本持ってきたフィルムが終わった。後は、女たちと腰を下ろして、牛を解体しているのを見る。骨を叩き切っているのに使っているのは斧。10回ほど振り下ろして卵の太さほどの骨を叩き折る。まだ骨に肉がついているところは、包丁みたいなでかいナイフで肉を骨から外す。肉を大きく切るのはククリのようなもの。目の前で作業している男は背中をこちらにむけていたが、背中に斑点がおびただしい。多分、牛を殺したときに噴き出した血だろう。誰かが冗談を言う。全員が手を休めて大笑いする。女が乳児に乳を含ませながら一緒に笑った。話がとぎれる間がない。大笑いしているときだけ作業の手が休む。大きく切り分けた肉を自転車にくくりつけて帰り始める男がいた。そこまで見て、サンキューを言い、川にかかった細い木の橋を渡った。岸沿いに下流に向かって歩くと、寺院があり、朝のお祈りに三々五々人が来る。
汚れた水を口に含んで口をすすぐ老人がいた。水に関して、衛生観念のようなものを持った者には決して口に入れる気にならない水。水質に即して言うなら、その水はドブだ。衛生観念の代わりに、聖なる水の観念がなかったら、口に入れられるわけがない。骨肉となった宗教的観念がどんなものなのかわからない。しかし、何かある。この水を口に含ませている宗教的観念は、それを観念と自覚しない人の中にだけ実在する。情動として・・・。自分にないものを相対化することはできない。言えば必ず一方的な言いぐさになるだろう。
再び、木の橋を渡る。橋は並んで二つあり、行きと帰りで使い分けているらしい。まだすこし薄暗く、霧がある。ここらは昼間来ると、川の流れの中は屍骸だらけだと浜田さんが言う。浜田さんの足を止めて、少し河原にいた。烏がつついている屍骸は牛のものか。流れの中に小さな島になっている。いくつもある。あばらだけになったものもあり、あばらに烏が止まって休んでいる。烏がつついている固まりを浜田さんが指さして、あれはこの前来たときはまだ骨が見えていなかったと言う。
冬だからまだしもだ。これが夏だったらどんな臭いがするだろう。どれほどの蝿だろう。どれほどの蛆だろう。
放し飼いの豚がいる。豚も屍骸を食うのか。放し飼いの犬がいる。犬は屍骸を食うだろう。さっき牛の解体を見たときも、犬が肉をかすめとろうとして、人間にどやしつけられていた。やっと明けた朝の中を町の方へ行く。
数日前、洗濯している洗濯屋の娘にカメラを向けて、撮っていいかと浜田さんは聞いたそうだ。駄目だと言って恥ずかしがる様子がたまらなくかわいいのだと浜田さんはホテルの部屋で俺に語った。その娘にもう一度写真を撮らせてくれと頼むのだと、今朝、浜田さんは同じ娘を探すのだが見当たらなかった。思い出は美しいままに、と浜田さんは言った。
山羊を解体したものを、一頭分、首、足、肉すべてを店の棚に置いて売っている。一軒の店の商品が、解体した山羊一頭。他に何もない。毎朝、山羊一頭を売るのだろうか。よく洗われて、脚が大開きのまま上を向いている。山羊のチンコも上を向いている。俺のチンコより少し小さい。きれいに洗われて死んでいる山羊のチンコ。
放し飼いの牛がごみ捨て場のビニールやプラスチックを鼻で分けている。何を食うのか立ち止まって見ていた。料理するときに出た固い野菜屑を探し出して食っているのだとわかる。屍骸は犬や豚が食うだろう。野菜屑や料理の屑は豚や牛が食うのだろう。
着いて何日目かに、浜田さんが、この町は日本の社会がひた隠しにして目に見えないところに置いてあるものを全部表通りに出してあるみたいだと言った。なるほどと思った。しかし、そうではないのかもしれない。町の通りにごみをどんどん放っていると見えるものは、牛や豚に餌をやろうとする昔の意識なのではないか。ここでも昔の自然な意識が奇妙なことをやる結果になっているのではないか。千曲川の河原にビニールやプラスチックなど、腐らないものを平気で捨てている更埴市の老人たちがやっているのと同じことではないのか。
豚は川のまわりにしかいない。牛はどこにでもいる。町の中をゆっくり歩く。犬もやたらにいる。これらの放し飼いの動物たちは、昔は町の掃除係だったのだろう。それらのごみであり同時に餌であったものに、ビニールが混じりプラスチックが混じり、合成化学物質が混ざり始めて、町はやたらに汚くなったのではないか。
金を求める人が増加している。それがカトマンズの人口を急激に増大させている。それにつべこべ言うことは何もない。自分のしてきたことをふりかえるなら、何を言うことがあるか。
しかし、人口の増加と合成化学物質の流入によって、動物が餌として片づけられない量のごみと、餌になりえないごみが道路に残るようになった。ごみが同時に餌であり、餌として動物がすべて片づけてしまった時代には、この町は存外きれいな町だったのではないか。
ごみを通りに放り出すという行為が、同時に動物に餌をやる行為でもあった時代は急速に終わりつつある。プラスチックやビニールは何の餌にもならない。
カトマンズでは、人の良さ、善良さ、気楽さをたくさん見る。日本人が失ったもの、あるいは失いつつあるものがカトマンズにはある。それを見るのはなぜか切ない。麻薬を売りつけようとして隣を歩く少年の首を小山さんが腕で抱え込み、ふざけながら「働け、ちゃんと働け」と言ったときの少年の困った顔を見た。麻薬を売ることが、確信において行われているのではない。働くことが嫌いなだけだ。仕事が嫌いな人間が働こうと決意したとき仕事がなかったりするだけだ。悪事は人の良さや善良さと何の矛盾もしない。
カトマンズにある人の良さを見て、俺に何ができるのか。日本にいて何ができるのか。どうしてそう考えるとき悲しみが俺を襲うのか。俺には帰りつきえないアジアの無垢ななまけごころ。カトマンズで壊されつつあるのはそのなまけごころなのだ。日本ではとうに壊されてしまったなまけごころ。ネパールから帰って、ごろんと転がり出したのはそれだ。
論理の必然は自動的に形成されるような何かだ。言語の中で育ち、言語を駆使するようになることが必然的にそれを形成する。書くことにおいて、論理の必然をでなく、情動の必然をたどるようなこと。細く薄く危険な道。これほど壊れやすいものはないほどのかすかな道。そこをたどるような愛しか俺にはない。
風土や文化が自然にかもした愛。自然に備わった愛というものがカトマンズで急激に壊されていること。愛を見るのではなかった。愛が壊されていく途中を見たのだった。それが俺を見ることだった。それがこの悲しみの正体だ。
排気ガスが悲しい。
ネパールの大きなホテルを経営しているのは日本人だと聞いたとき、俺の中に生じた気持ちの落差は何だったか。愕然とした。カトマンズの空気を汚して、日本円が日本に環流して何になるというのか。くだらない。
ささやかな事実だけを置いておきたい。俺の餓鬼が育った過程において、俺の餓鬼はネパールの餓鬼にごく近いものだったということ。叛逆や批判を余所に、どこにどんなネパールがありうるだろう。叛逆や批判こそ、実はもっとも普通のものではないのか。ここにこの現実があり、あそこにあの現実がある限り。
解体をさらすこと以外に何があるのか。文において、細い糸のような愛をたどることと、解体をさらにさらす批評行為とがどこでどう出会うことがありうるのか、ありえないのか。出会えないこと自体がさらしている壊れ。その壊れた身体性。ほんとうはそれ以外の身体性を俺は持っていない。
呼びかける。何度か呼びかけた。俺のカトマンドゥよ、と。