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詩の雑誌・季刊「midnight press」No.3 掲載


人格者の鈍さ

 林郁夫という人の「オウムと私」という本を読み終えたばかりだ。読んでいく途中で、何度も繰り返し思ったことは、無惨だ、ということだった。本の最後のところまで来たとき、眼に涙が出てくるのを止められなかった。この本には、林郁夫という人の「人間の良さ」がよくあらわれている。おだやかで、真摯で、責任感があり、忍耐づよい。一般に人格として言われることの多くを備えている人だ。例えば、学校という場所に林郁夫を置くならば、林は学校的な価値に非常になじみやすい人だろう。一時代前の学校がつくりえた最上の人間が林郁夫だと言ってもおかしくはない。林自身が結婚して形成した家庭も、オウム入信までは、今の日本の多くの子育てをする親たちが理想とするような家庭だ。学歴が高く、夫も妻も医者であり、読書によって心がよく耕されていて、教養の厚みもある。倫理感の高さにおいても、私はこの人の足下にも及ばないと思った。
 ほとんどないことだが、たまにこのような立派な人と話をしなければならないようなことがあると、私はいつも萎縮する自分を感じたものだった。相手はおだやかな人なのだが、私は勝手に萎縮してしまう。それは、社会的な地位の高さとか育ちの良さとか、教養の厚みとかのせいでもあるだろう。とにかく、苦手だなと思ってしまう。それは麻原の低さに通じる低さだ。人間としての低さだ。麻原はその低さを先鋭化させ、教義の高さとしてサマナたちに信じさせ、国家転覆を実行しようとしたところが私と違うだけで、人間としての低さは私と同じくらいだろうという直感がある。麻原が人間として低く、宗教家として高いのかどうか、それはオウムにいたことのない私にわからない。
 麻原は自分に人格はないと言っていたことが本の中にある。それは、私が自分で自分を検証するときにみつけるものと同じだ。私の人格は壊れていて統一できない。林郁夫に私は人格を感じる。理想的に形成された人格というものをみつける。オウムに入信して以後、すべてがその良さのままで変質し、うらがえっていくのであっても、働いているものは世の中で人格と呼ばれているものと同じものだ。
 親の社会的地位や金銭的余裕やらが整わなければ、こういう上質の人格は形成されないにしても、一点の核が能動的に動かなければ、やはりそれが形成されないことも確かだろう。そうでなければ、人格はこのように上質なものにはならない。その核とは次のようなものだ。

 自分の力では解決できず、またとらえどころのない問
 題も含めて、世の中のすべてを包括的にかつ総合的
 に説明できて解決に導くような法則はないものだろう
 か、そしていつの日かそのような法則を理解し、身に
 つけて、世界のすべての人々に説いてまわることが
 できたら、・・・ (第一章・医師になるまで)

 そのために、「解脱」が必要だと考え、高校生のとき、林郁夫はそれを自分の「人生のテーマ」とした。ここまでの林のありように、文句のつけようがあるだろうか。俺は高校生のとき、こんな立派な人間じゃなかったと、自分の低さがまた顔を出すにしても、だからといって文句をつけなければならないようなものはない。
 「人生のテーマ」というような言葉が好きになれないだけだ。学校で書かされる作文の題のようなにおいがあるのがいやだ。そんなテーマを、自分で自分に与えるということが、恥ずかしいという感覚は私にある。私の自分においては、四十七歳の今だって、「どうやって生きていけば?」という疑問形しかない。「解脱」という観念にすっと行けるというのは、やはり相当ぶあつい庇護があってのことではないかという疑いはある。
 上流家庭のぶあつい庇護が、悪意や邪悪さに対する鈍さをつくったのだろう。今は上流でなくても子供を庇護する。オウムも恐ろしいが庇護も恐ろしい。林は親をののしるような反抗はしたことがないだろう。

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